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詩篇のデボーション

神の謙虚

あなたは御救いの盾を私に下さいます。
あなたの右の手は私を支え
あなたの謙遜は私を大きくします。(詩篇18:35)

もうすぐクリスマスだからこそ、その言葉が私の心に響いているのでしょう。

「あなたの謙虚は私を大きくします。」

私は取るに足りない者なのに、神様はご自身を低くし、人となり、しもべの姿をとってくださいました。

そして、神であるイエス様は十字架で私の罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:7~8)

だから今や、そのみわざによって、取るに足りない私は神の子とされました。

なんとすばらしいことでしょう。

【主】は生きておられる。
ほむべきかなわが岩。
あがむべきかなわが救いの神。(詩篇18:46)

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詩篇のデボーション

私に良くしてくださる神

私は【主】に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。(詩篇13:6)

今朝、ダビデの言葉は私の目に留まりました。

私の問題をくよくよするとき、神様がどこにおられるかを考えるのは、容易なことです。

けれども、私はいつも神様がどれほど良くしてくださったかを思い起こしたいです。

私がまだ罪人であったとき、キリストは私のために死んでくださいました。

私が神様をまったく求めずに自分の道を歩んだとき、神様は私を追い求めてくださいました。

そのときに神様が私に良くしてくださったのなら、神様は今、ご自分の子にしてくださった私を見捨てられるでしょうか。それはあり得ないでしょう。

だから今日、神様がどれほど私に良くしてくださったかをもっと思い巡らしたいのです。

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サムエル記第一のデボーション

本当に、良しとされるのですか?

主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。(サムエル記第一12:22)

天のお父さん、どうして私が不実で、大失敗し、あなたを裏切るにもかかわらず、あなたは私を捨て去られないのでしょうか。

それどころか、あなたは私をご自身の者、ご自身の子とすることを良しとされるのです。

それは本当に驚くべきことです。あなたはそれを良しとされるとは、なんと不思議なことでしょう。

だからこそ、お父さん、私があなたを恐れ、心を尽くして、誠実に仕えるように導いてください。

あなたがどれほど大いなることをしてくださったかを心に留めておくように助けてください。特に、私がイエス様の十字架の働きを決して当たり前のものだと思わないようにしてください。

私へのあなたのすばらしい恵みといつくしみに、心から感謝します。

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エペソ人への手紙のデボーション

私たちはすでにそのような者だから

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。(エペソ人への手紙5:1)

天のお父さん、その言葉が私の目に止まりました。

恐れのためではなく。

あなたの愛や受け入れを得るためではなく。

むしろ、あなたの愛に根差し、愛を土台として生きる者として、私たちはあなたに倣おうと努めます。

私たちはすでにあなたに愛されている子どもたちです。(1節)

私たちはすでにあなたの聖徒たちです。(3節)

私たちはすでにあなたにあって光です。(8節)

私たちはそのような者になろうと努める必要はありません。

私たちはすでにそのような者となりました。

そのような者として、私たちは毎日、大喜びをもって、あなたを喜ばせたいと願います。

あなたにあって、自分たちのアイデンティティを覚えていられるように助けてください。

私たちはあなたを愛しています。あなたがまず私たちを愛してくださったからです。

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使徒の働きのデボーション

恵みを与える人

興味深いことに、パウロは恵みによる救いの概念のために激しく戦いましたが、マルコに対してはほとんど恵みを示しませんでした。

以前の宣教旅行で、マルコは途中で一行から離れ、パウロとバルナバを失望させました。彼の理由ははっきりしていませんが、いずれにせよ、パウロは彼にセカンドチャンスを与えようとしませんでした。

この話を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれほどパウロのように振る舞うだろうか。人々が私の基準に達せず、私をがっかりさせるとき、どれほど彼らに恵みを与えないことがあるだろうか。」

おそらく、それは数えきれないほどあるでしょう。

しかし、私は恵みを与える人になりたい。特に、キリストにある私の兄弟姉妹に対して恵みを示す者になりたい。

あなたは恵みを与える人でしょうか。

兄弟姉妹が私たちをがっかりさせるとき、心に留めておくべきことがあります。

神様は彼らの心を知っておられます。そして、彼らの弱さや失敗にも関わらず、御霊は私たちのために証されたように、彼らのためにも証し、「あなたは神の子です」と語っておられます。

神様は私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださいました。(使徒の働き15:8-9)

だから、彼らが私たちをがっかりさせるとしても、神様が彼らに、そして私たちにも注がれた恵みを示しましょう。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

神の子の生き方

しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ人への手紙2:19ー20)

私は上の言葉が大好きです。

私はかつて神の律法の下にありました。その時、律法は私の養育係りとして、正しいことを教えてくれたけれど、正しいことを行うために力を与えることはできませんでした。(ガラテヤ3:24)

むしろ、私が失敗したとき、罪を犯したとき、神の律法は私を断罪することしかできませんでした。

でも、私を断罪した神の律法は、私をイエス様に導いてくれました。律法を通して、私にはイエス様が必要なのだと分かりました。そして律法が私をイエスの十字架に導いた途端、私は律法においては死んだ者となりました。

私はもはや律法によって断罪されていません。なぜなら、十字架でイエス様が私の罪と失敗の代価を払ってくださったからです。

そして、イエス様とともに、神様に敵対的だった私、神様を信頼できなかった私も死にました。

そして今は、キリストが私のうちに生きておられます。

私たちは、神の期待に応えられないことを恐れて生きているのではありません。

むしろ、イエス様が私を愛し、私のためにご自分を与えてくださったという確信を持って、生きているのです。

神様に愛され、受け入れられるため、頑張ってルールを守らなくてはならないと思って、生きているのではありません。

むしろ、神様が私をご自分の子供として愛し、受け入れてくださっているという確信を持ち、安心して生きているのです。

また、私は毎朝起きるたびに、神様が私を見て、「あなたは私の愛する子供です。私はあなたを喜ぶ」と言っておられるという確信をもって、生きているのです。

だから、私の最大の願いは、私の天のお父さんのために生き、天のお父さんを喜ばせることです。

それが神の子の生き方です。

それは、あなたの生き方でしょうか。

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クリスマスの12日

クリスマスの1日目

メリークリスマス!

今日から、クリスマスの12日間のために、特別なデボーションを始めます。このデボーションは、私の最近の説教に基づいています。それをこちらで聞くことができます。

その説教では、私はヤコブの12人の息子たちの名前を取り上げました。ラケルとレアの苦悩の中で生まれた名前でしたが、クリスマスと私たちへの神のメッセージに照らして、その意味を再解釈しました。

今日は、ルベンの話を取り上げます。

主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれたが、ラケルは不妊の女であった。

レアは身ごもって男の子を産み、その子をルベンと名づけた。

彼女が、「主は私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するでしょう」と言ったからである。(創世記29:31-32)

ルベンとは、「子を見よ」という意味です。

レアはヤコブに、「見てください。私はあなたに息子を生みました。私を愛してください」と言っていました。

しかし、神様は私たちを見て、こう言われます。「見よ、私の子を与えた。私はあなたを愛している。」

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)


神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。(第一ヨハネ4:9)

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

歩み続けましょう。成長し続けましょう。

最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。。。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。。。

兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで。。。それを実行しているからです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。」(テサロニケ人への手紙第一4:1,3,9ー10)

私は以前にも言いましたが、私たちはクリスチャンとして、この世に生きている限り、終点にたどり着くことがありません。言い換えると、天国に着くまで、私たちは完全な者になれないのです。

でも、パウロは私たちに促します。「歩み続けましょう。成長し続けましょう。」

どうしてでしょうか。

なぜなら、神様の御心は、私たちが聖なる者となることだからです。つまり、私たちがますますイエス様のようになることです。神様が望むのは、私たちの行為において、特に私たちの愛において、私たちがイエス様のようになることです。

あなたは神様と歩んでいるのですか。素晴らしいです。ますます歩みましょう。

あなたは毎日神様を喜ばせているのですか。それは良かったです。ますます神様を喜ばせましょう。

あなたは、毎日神様や周りの人々を愛しているのですか。それを聞いて、嬉しいです。ますます愛しましょう。

でも、それらは、神様の愛を得るためではありません。神様の恵みによって、私たちはもうその愛を受けているのですから。(第一テサロニケ1:4)

だから、神の愛されている子供よ。その確信をもって、歩み続けましょう。成長し続けましょう。

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マタイの福音書 マタイ22章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

ダビデの子。神の子。

多分、イエス様はパリサイ人たちやサドカイ人たちの偽善的な態度に嫌気が差していたので、彼らを黙らせるためにこの質問を投げかけられたのでしょう。

あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。(マタイ22:42a)

パリサイ人たちや律法の専門家にとって、それは非常に簡単な質問でした。そのため、彼は即座に答えました。

ダビデの子です。(マタイ22:42b)

そして、イエス様は彼らの「キリスト」(または「メシア」)に対する考え方に異議を唱えられました。イエス様は次のように尋ねられました。

それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、「主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」」と言っているのですか。

ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:43-45)

その答えは簡単です。イエス様は人の子(つまりダビデの子)であるだけでなく、神の子でもあります。

人間として、イエス様はダビデの子孫でした。しかし、神の子として、イエス様はダビデの主でした。

けれども、パリサイ人たちや律法の専門家はそのことを理解することができませんでした。もしかすると、彼らは心の中でそのことを理解したくないと思っていたのかもしれません。

今なお、多くの人々はパリサイ人たちや律法の専門家のように考えています。彼らはイエス様を人間として認めます。そして、イエス様が良い方であることを認めます。もしかすると、イエス様を素晴らしい先生として認めることもあるかもしれません。

しかし、彼らはどうしてもイエス様が神の子であるとは認めようとしません。

イエス様は人の子だけではなく、神の子でもあります。だからこそ、イエス様は私たちの愛、信頼、そして服従にふさわしい方です。さらに、イエス様だけが天の父への道です。

さて、あなたはイエス様をどのように考えるでしょうか。彼は一体誰だと思いますか。