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詩篇のデボーション

私たちの動機

あなたの恵みは私の目の前にあり
あなたの真理のうちを私は歩み続けました。(詩篇26:3)

今日、いくつかの英訳を読み比べました。最も大きな違いは、「真理」と訳されている語が「忠実」とも訳せるという点です。

そのため、ある英訳では次のように訳されています。

あなたの誠実な愛は私の目にあり、
あなたの忠実さによって、私は歩み続けます。

別の訳では、こう表現されています。

あなたの誠実な愛を心に留め、
あなたの忠実さに頼って歩みます。

しかし、この意訳が私の心に特に響きました。

あなたの誠実さを心に留め、
あなたの忠実さは私の心を動かします。

神様の目が私たちの心を探っておられることは、少し恐ろしく感じられるかもしれません。時には、私たちを精錬する過程は痛みを伴います。

けれども、私の動機は恐れではなく、神の誠実な愛と忠実さです。

だから、私は毎日、喜んで自分の心を神様にさらけ出すことを選びます。

あなたはどうでしょうか。

あなたは神の誠実な愛と忠実さを知っていますか。

あなたの動機は何でしょうか。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

平和の神

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙第一5:23~24)

今日、「平和の神」という言葉を思い巡らしていました。

第4章3節で、パウロはこう語りました。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

そして、今日の箇所では、パウロは神様が私たちの人生にその聖さをもたらしてくださるように祈っています。

ときには、そのプロセスに神の懲らしめが含まれることもあります。そして、その懲らしめが苦しいときもあります。

それでも、神様が私たちをにらんでおられると考える必要はありません。神様は平和の神です。私たちは神様との平和をもっているのです。

だから、神様が私の人生の中で取り組んでおられる課題を考えるとき、私は自分をその真理に染み込ませています。

「神様は私に怒っておられません。私は神様との平和をもっているのです。」

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エペソ人への手紙のデボーション

霊的な記憶喪失

クリスチャンとして、忘れることは容易なことです。

神様がどれほど私たちを恵まれたかを忘れてしまいます。

世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選んでくださったことを忘れてしまいます。

神様が私たちにふんだんに与えてくださった恵みを忘れてしまいます。

神の召しにより与えられる望みを忘れてしまいます。

私たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものであるかを忘れてしまいます。

私たちの中で働いている神の大能の力を忘れてしまいます。

私たちの王の偉大さを忘れてしまいます。イエス様は、「全ての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」(エペソ人への手紙1:21)

だから、エペソ人への手紙では、パウロは神様が私たちの霊的な記憶喪失を癒すように祈ります。パウロは、私たちが上記の真理をしみじみと感じるように祈ります。

この箇所を読むとき、その言葉、その真理は心に響いているでしょうか。

それとも、全然何も感じていないでしょうか。あなたの心の喜びは冷めたでしょうか。

私はあなたのためにパウロの言葉を祈ります。

でも、私のためにも祈ってください。なぜなら、私も霊的な記憶喪失がある時もあるからです。

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士師記のデボーション

神の愛や恵みを忘れると

ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、もろもろのバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。

イスラエルの子らは、周囲のすべての敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を、心に留めなかった。(士師記8:33ー34)

上の言葉は士師記にあるイスラエル人の民の問題を要約しています。つまり、彼らはすぐに自分たちへの神の恵みと愛を忘れてしまったということです。

さらに、彼らは自分たちの祝福がどこから来たのかを理解していなかったようです。彼らは救いをギデオンの手柄にしてしまいました。(22節)

その結果は何でしょうか。彼らを救ってくださった神への愛と感謝は全くありませんでした。

私たちへの神の愛や恵みを忘れ、また神様がしてくださったことへの感謝や喜びを忘れると、初めの愛を失うのは容易なことです。

天のお父さん、私が決してあなたの愛と恵みを忘れず、それらを当たり前のものだと思わないようにしてください。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

神様が真実ですから、そのようにしてくださいます。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙5:23ー24)

「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

この言葉は、私の心に深く響きました。

それを読んだとき、私はローマ人への手紙8章29~30節にあるパウロの言葉を思い出しました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

私たちは、その言葉を本当に信じているでしょうか。

私たちが生まれる前から、神様はその働きを始めておられました。イエス様のようになるために、私たちの霊、魂、身体のすべてが責められるところのないものとなるよう、神様は私たちを選んでくださいました。

そして、神様が始められたことを完成させてくださいます。なぜなら、神様は真実なお方だからです。

鏡に映った自分を見るとき、気に入っているでしょうか。

それとも、自分の失敗や罪の汚れを見て、顔をしかめるでしょうか。

でも、私たちのアバは、私たちを見るとき、顔をしかめることはありません。

私たちのアバは、あなたを最初から知っておられ、選んでくださいました。あなたを召してくださいました。あなたを義と認めてくださいました。あなたの罪の記録を完全に消し去ってくださいました。

そして、あなたがそれを見えるか見えないかにかかわらず、神様はあなたを完全に聖なるものとしてくださる過程におられます。

なぜなら、神様のみこころは、あなたがたが聖なる者となり、イエス様のようになることだからです。(第一テサロニケ4:3)

そして、その過程が完成されるまで、神様はあなたに栄光を与え、あなたがイエス様のようになるまで、働き続けてくださいます。

だから、義の胸当てを着けましょう。自分自身の義ではなく、イエス様を信じる信仰による神様の義を着けましょう。また、あなたに対する神様の愛の確信が、あなたの心を守るようにしましょう。(エペソ6:14;第一テサロニケ5:8)

そして、あなたの救いの希望—いつかあなたがイエス様のようになるという希望—が確かなものであることを覚えていましょう。その希望を、毎日かぶりましょう。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(第一テサロニケ5:9)

また、

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙5:24)」

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

愛され、選ばれている

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。(テサロニケ人への手紙第一1:4)

今朝、私はその言葉を反芻していました。

私は神様に愛されています。

私は神様に選ばれています。

その言葉を考える時、私はいつも驚かされます。

「神様は私を愛することを選ばれたの?どうしてだろうか。」

その答えは出てきません。でも、その真理は心強いものです。

私は神様のご恩を得ようと努める必要はありません。私はそのご恩をすでに得ているのです。

私が神様の愛に値することを証明する必要はありません。神様はすでに私を愛してくださっています。

だから、自分の弱さや失敗を見ても、神様が私を受け入れてくださることを知り、安心することができます。

下記の言葉が、あなたの心に染み渡りますように。

「私は神様に愛されています。」

「私は神様に選ばれています。」

Don’t try so hard
頑張らなくて良い
God gives you grace and you can’t earn it
神様はあなたに恵みを与えてくださいます。その恵みは、自分の努力で得ることはできません。
Don’t think that you’re not worth it
自分には価値がなくて、神様が恵みを与えてくださるはずがないと思わないでください。
Because you are
神様の目には、あなたには価値があります。

He gave you His love and He’s not leaving
神様はあなたに愛を与えてくださいました。そして、あなたを決して見捨てません。
Gave you His Son so you’d believe it
あなたがその真理を信じることができるように、神様は御子を与えてくださいました。
You’re lovely even with your scars
あなたには傷跡があっても、美しさがあります。
Don’t try so hard.
頑張らなくて良い。ーーエイミー・グラント

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出エジプト記のデボーション

インマヌエル

「今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」

主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」

モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。」(出エジプト記33:13ー15)

今朝、私は自問しました。

「私はモーセの心を持っているだろうか。」

私はどれだけ、このように祈っているでしょうか。

「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私の家から出たくもありません。

もしも私がみこころにかなっているのでしたら、私と共に歩んでください。

どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。」

驚くべきことは、神様が私たちにこのように答えてくださるということです。

「あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出した。わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジプト記33:17、14)

それがクリスマスの意味です。

イエス様はインマヌエルです。イエス様にあって、神様は私たちと共におられます。

神様がモーセと共に歩み、モーセと語ってくださったように、神様は私たちと共に歩み、私たちと語ってくださいます。

さらに、イエス様は神様の栄光を私たちに現し、恵みの上にさらに恵みを与えてくださいます。(ヨハネ1:14、16~18)

考えてみれば、それはすごいことですね。

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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出エジプト記のデボーション

神様の忍耐と怒り

私たちの神様は忍耐強い方です。それは確かです。

でも、結局のところ、神様は一つのことに耐えられません。それは、意図的な不従順です。

今日の箇所では、私たちはその真理を二度見ることができます。

神様がモーセにファラオのもとへ行くよう命じられたとき、モーセはいろいろな言い訳をしました。

でも、それらはただの言い訳でした。

神様がその言い訳に応えられた後、最終的にモーセは「私は行きたくない。他の人を遣わしてください」と言いました。

それを聞いて、神様は怒られました。

神様の恵みによって、ある程度までモーセの弱さは赦され、アロンがモーセに代わって民に語ることが許されました。

それでも、神様はモーセがその務めを怠ることを許されませんでした。

そのあと、不思議な出来事がありました。それは、神様がモーセを殺そうとされたということです。

なぜでしょうか。どうやら、神様はモーセに息子の割礼を命じておられたようです。

神様は、アブラハムとその子孫すべてに割礼を命じられました。(創世記17:9~14)

イスラエルのリーダーとして、モーセは良い模範を示すべきでした。

でもなぜか、モーセは息子に割礼を施していなかったようです。

もしかしたら、モーセの妻が息子の割礼。に反対していたのかもしれません。息子に割礼を施したとき、彼女は本当に怒ったようです。

私はもう一度言います。神様は恵み深く、忍耐強い方です。

でも、神様の恵みと忍耐を、罪に対する無関心と勘違いしてはいけません。

神様は、意図的な不従順を軽んじることはありません。

だから、私たちも不従順を軽んじてはいけません。

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マタイの福音書のデボーション

何を求めているのですか

「何を求めているのですか。」

マタイの福音書20章では、その同じ本質的な質問が三回出てきます。

契約交渉のとき、主人は労働者たちにそう尋ねました。(マタイ20:2)

イエス様は、ヤコブ、ヨハネ、そしてそのお母さんにそう尋ねられました。(マタイ20:20ー21)

そして、イエス様は二人の盲人たちにもそう尋ねられました。(マタイ20:31ー33)

最初の二つの場合、彼らは「当然の報い」を求めました。

労働者たちは、1日の労働に対して1デナリを求めました。

ヤコブ、ヨハネ、そしてそのお母さんは、権力の座を求めました。

けれども、盲人たちは「当然の報い」を求めるのではなく、あわれみと恵みを求めました。

たぶん、イエス様が願いを断られたとき、ヤコブとヨハネはがっかりしたでしょう。

(でも、イエス様が十字架につけられたとき、ヤコブとヨハネはイエスの右と左で十字架につけられなかったことに失望しなかったでしょう。彼らは、何を求めているのか本当に分かっていませんでした。)

皮肉なことに、労働者たちは、求めた通りのものを受けたのに、かえって苦々しく思うようになりました。

その一方、盲人たちは、神の恵みとあわれみの喜びを知るようになりました。

神の御国とは、「当然の報い」ではなく、神の恵みとあわれみのことなのです。

「当然の報い」を求めると、あなたは失望したり、怒ったり、苦々しくなったりしてしまいます。

しかし、神様のあわれみと恵みを求めれば、神様がどんなに良い方であるのかを知るようになります。

なぜなら、神様は、いつも恵みとあわれみを豊かに与えてくださるからです。

あなたは、何を求めているのでしょうか。

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マルコの福音書のデボーション

塩気を失う?

今日の箇所を読んで、さまざまなことを考えさせられました。でも、イエス様の最後のことばには、特に心を打たれました。

塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。

あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。(マルコの福音書9:50)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました(マタイ5:13)。

私たちは、神の愛と恵みによって、この世に味をつけるべきです。

けれども、神の民が互いに愛し合うことができなければ、教会は塩気を失ってしまいます。

プライド、苦々しい思い、人を許せない心、自分勝手な態度によって、私たちは塩気を失うことがあります。

今日の箇所、そして関連箇所であるマタイ18章では、弟子たちがそのような問題を抱えていたことが明らかです。

しかし、正直に言うと、私自身もそのような問題を抱えています。

特に、自分勝手な態度とプライドは大きな問題です。昨日を振り返ると、そうした問題がまた現れました。だから、私は悔い改める必要がありました。

あなたはどうですか。人間関係の問題を抱えているでしょうか。特に、兄弟姉妹との関係に問題を抱えているでしょうか。

その関係の中で、あなたは塩気を失いかけているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34ー35)

イエス様の戒めを心に留め、互いに愛し合いましょう。そうすれば、神の教会は塩気を失うことなく、神の恵みと愛によって、この世界、そして日本に味をつけていくのです。

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エペソ人への手紙のデボーション

しかし神は。。。

しかし、あわれみ豊かな神は。。。キリストとともに生かしてくださいました。。。

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。。。

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:4ー6,10)

今朝、神様の恵みに驚嘆していました。

ギリシャ語では、パウロが「私たちは神の作品」と書いたとき、「神の」という言葉を強調しています。

私は、「なぜ『神の』という言葉を強調したのだろうか」と思いました。

でも、4節をもう一度読みました。「しかし、神は。。。」

私の犯した罪によって、私は霊的に死んでいて、神様から遠く離れていました。自分の罪によって、私は御怒りを受けるべき子であり、地獄にふさわしい者でした。

しかし、神は。。。

神様は私を生かしてくださいました。イエス様の血によって、神様は私の罪を赦してくださいました。神様は私をともによみがえらせ、イエス様とともに、天上でご自分のそばに座らせてくださいました。

なぜでしょうか。

私が素晴らしい人だからではありません。私の良い行いのためでもありません。

むしろ、私たちへの神様の愛とあわれみのゆえです。

神様が母の胎の内で私を形づくられたとき、私は神の傑作(英訳)でした。(詩篇139:13〜14)

私の罪によって、その「傑作」は傷つき、壊れてしまいました。でも、恵みによって、神様は私を新しく造り直してくださいました。

私は、神様が二度造られた傑作です。

しかし、神様は人々が私を観賞するためだけに造られたのではありません。私は特別な目的のために造られたのです。それは、神の国のために、人々に触れることです。私は毎日、その良い行いに歩みたいのです。

あなたも神の傑作です。あなたは、神様が二度造られた傑作です。その真理を喜びましょう。そして、毎日、神様が備えてくださった行いに歩みましょう。

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イザヤ書のデボーション

聖なる神、恵み深い神

これは、聖書の中で私が最も好きな箇所のひとつです。この箇所を読むたびに、私はいつも深く感動します。

今日は、神様の聖さと恵みについて思い巡らしていました。

セラフィム(ある種の天使)は叫びました。

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。(イザヤ書6:3)

残念なことですが、ウジヤ王はその生涯の後半において、神様の聖なるさを認めることを拒み、神様の目から見て、ひどい罪を犯してしまいました。(歴代誌第二26:16〜21)

その反面、イザヤは神様の聖なるさを認め、叫びました。

ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。 しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。(5)

でも、それと同時に、私たちは神様の恵みも見ることができます。

皮肉なことに、イスラエルに対する神様の裁きの中に、私たちはその恵みを見ることができます。神様はイザヤに、「この人々の心を肥え鈍らせなさい」と言われました。

では、イザヤはどのようにして彼らの心を肥え鈍らせたのでしょうか。彼らが聞きたくない真理を語り続けることによって、イザヤはそうしたのです。

最終的に、イスラエルはバビロンに倒されました。でも、イザヤの言葉によって「切り株」が残されました。

その「切り株」とは、神様に忠実な人々のことでした。たとえば、ダニエル、エゼキエル、ネヘミヤ、エズラは、ずっと神様に忠実に仕えました。

そして、その「切り株」を通して、イエス様は来て、私たちを救ってくださいました。

幻でイザヤが見た王は、王座から下り、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。(ヨハネ12:23〜41)

それがクリスマスの意味です。王は私たちを救うために、ご自分の王座からくだり、この世に来てくださいました。

だから今、イザヤのように、私たちは自分の恥と咎をもってイエス様のみ前に来るとき、イエス様は恵みをもって、私たちに言われます。「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」

だからこそ、私たちは歌います。

Joy to the world!
世界に喜びを!

The Lord is come!
主がおいでになりました!

Let earth receive her king!
地のすべての民は、その王をお迎えいたしましょう!

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私が実を結ぶことができるように

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(テサロニケ人への手紙第二1:11-12)

天のお父さん、私をあなたの召しにふさわしい者にしてください。私はよく失敗します。善を求め、あなたのために実を結ぼうと思っても、多くの場合、そうできません。

イエス様、あなたはぶどうの木、私は枝です。あなたの力によって、善を求めるあらゆる私の願いを実現してください。

それは、私が周りの人々の称賛を得るためではなく、あなたの御名があがめられ、あなたの父もあがめられるためです。「よくやった。良い忠実なしもべだ」というあなたの言葉を聞きたいのです。

天のお父さん、あなたの恵みに感謝します。私を選び、召してくださったあなたは真実なお方です。(第一テサロニケ5:24)

また、あなたが私のうちに始められた良い働きを完成させてくださると確信しています。(ピリピ1:6)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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列王記第二のデボーション

 神の呪い、神の恵み、再び

エリシャがエリコの水を「癒す」という話を読んだとき、神様は、私が今まで気づかなかったことを示してくださいました。

エリコは呪われた町でした。

イスラエル人たちが約束の地に入ったとき、彼らが最初に征服した町はエリコでした。その時、ヨシュアはエリコを再建しようとする者に対して呪いを宣言しました。(ヨシュア記6:26)

そして、ある愚かな者がエリコを再建したとき、神様の呪いが彼に下されました。(列王記第一16:34)

エリシャの時代においても、ある意味でエリコは依然として呪われた町でした。その町は良い場所に位置していたものの、水が悪く、地は産物を生み出しませんでした。

しかし、エリコの人々がエリシャに助けを求めたとき、エリシャは塩を水の泉に投げ入れ、こう言いました。

主はこう言われる。『わたしはこの水を癒やした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』(2列王記2:21)

エリコは長い間呪われていました。ところが、神の恵みによって、エリコは瞬く間に癒されたのです。

あなたは、自分が神様に呪われていると感じることがあるかもしれません。自分の罪のゆえに、神様から裁かれていると思うことがあるかもしれません。

けれども、神様に向かい、へりくだって悔い改めるなら、神様はあなたの人生を癒してくださるのです。

神様が町に何百年も続いた呪いを取り去ることがおできになるなら、神様はあなたの人生にも同じことをしてくださるのです。

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ルカの福音書のデボーション

恵まれた人

主は今このようにして(別訳:恵みと感心を持って)私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました。(ルカの福音書1:25)

おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。(28節)

恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。(30節)

上の言葉は私の心に打ちました。

神様は関心と恵みを持ってエリサベツに目を留め、子どもがいないという恥を取り除かれました。(その時代、子どもがいないことは、とても恥ずかしいことだったのです。)

また、神様は恵みを持ってマリアに目を留め、御子の母となるように選ばれました。

そして、神様はエリサベツとマリアに恵みを持って目を留められたように、私たちにも恵みを持って目を留めてくださいます。

マリアのように、私たちは恐れずに、むしろ、大胆に神様に近づくことができます。

また、神様はエリサベツの恥を取り除かれたように、イエス様の十字架によって、私たちの恥、つまり私たちの罪の恥を取り除いてくださいました。

だから、その真理に思いを巡らしましょう。

「神様は恵みを持って私に目を留めておられます。神様から恵みを受けたのです。」

「神様は私と共におられます。」

「神様は私の恥を取り除きました。だから、私は大胆に神様に近づくことができます。」

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士師記のデボーション

神様の恵みによって生きる

「マノアは妻に言った。「私たちは必ず死ぬ。神を見たのだから。」

妻は彼に言った。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。

また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」」(士師記12:22-23)

毎日、私たちは神様の恵みによって生かされています。私たちの罪のゆえに、私たちは本来、死に値する者です。

しかし、恵みによって、神様は私たちに語りかけ、聖書を通して私たちのための計画を示し、不完全な私たちの手からの供え物を受け入れてくださいます。

神様の恵みを当たり前のものと思うのは、簡単なことです。けれども、今日、時間を取って、その驚くべき恵みの素晴らしさに心を向けましょう。

主よ、あなたの御名は不思議に満ちています。私たちへの恵みと憐れみは、朝ごとに新しく注がれます。

ですから、あなたの恵みによって、私たちを御霊で満たしてください。私たちを祝福し、あなたの御心に従うように、私たちの心を揺り動かしてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。