私たちが宣言する神様は誰でしょうか。神様はどのような方でしょうか。この箇所でイザヤは教えてくれます。
イザヤはこう言いました。
「見よ。あなたがたの神を。」見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。(イザヤ書40:9ー10)
イザヤは何を言っているのでしょうか。
神様は全能の主です。12節によれば、神様はすべてを造られた方であり、神様と比べると、この宇宙でさえも神様よりはるかに小さいのです。
時々、私は美しい星空を見上げます。その瞬間、宇宙の広大さを感じると同時に、自分がいかに小さい存在であるかを理解します。
しかし、宇宙は神様の手の中に収まるほどの大きさです。造り主は、自らの被造物よりもはるかに大きいに違いありません。
イザヤは続けてこう言います。
目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。
この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(26)
神様は国々とその支配者たちよりもはるかに大きな存在です。イザヤはこう言いました。
見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。
見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。
すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。(15ー17)
王たちが王座に座って、自分の国を広げようとするかもしれませんが、
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。
主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。
君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。(22ー23)
しかし、神様は全能の主であるだけでなく、知恵に富む方でもあります。だからこそ、イザヤはこう書きました。
だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。
主はだれと相談して悟りを得られたのか。
だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。(13ー14)
その答えは明らかです。「誰も。」
神様だけがすべての知恵を持っておられます。神様だけがすべてのことをご存じです。
だからこそ、イザヤは尋ねます。
あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。
鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。
貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。(18ー20)
ここでイザヤは皮肉を述べています。
「主は地をおおう天蓋の上に住んでおられます。地の住民はまるでいなごのようです。(22)
それでも、あなたたちはこの小さな金と銀の偶像を造るのでしょうか。ある人々は貧しいため、金や銀すら使いません。木材から造ります。
それでも、あなたはこのようなものを礼拝するのですか。このようなものを生きている神と比べるのですか。」
神様は全ての力と知恵と栄光を持っておられます。神様は本当に偉大な方です。そのことを心に留めていなくてはなりません。
とはいえ、もう一つ心に留めるべき大切なポイントがあります。それは何でしょうか。その偉大な神様は私たちを愛しておられるということです。
イザヤはこう書きました。
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。(11)
それは本当に最も驚くべきことです。
神様がこれほど偉大であり、私たちがこれほど小さくても、神様はなお私たちを愛しておられます。そして、私たちが神様と和解できるように、神様はご自身の子をこの世に送られました。
どれほどあなたは神様の偉大さについて考えるでしょうか。
どれほどあなたは神様の愛について考えるでしょうか。
そのようにすれば、私たちの問題は小さく見えるようになるでしょう。
たとえどんな問題があったとしても、私たちの神様の方がはるかに大きいです。そして、神様は私たちを愛しておられるので、きっと私たちを助けてくださいます。
ですから、私たちの問題に焦点を当てないようにしましょう。偉大な神様に焦点を当てましょう。私たちを愛しておられる神様に焦点を当てましょう。