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詩篇のデボーション

神の恩寵

まことに、御怒りは束の間、
いのちは恩寵のうちにある。(詩篇30:5)

今朝、その言葉が私の心に深く響きました。

神様が恩寵を与えてくださるとき、私たちはいのちを得ます。

そして2000年前、ベツレヘムで、神様は恵みの手を伸ばしてくださいました。

ヨハネはこのように記しています。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのち得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

神様の愛と恵みによって、私たちは神の御心にかなう者とされます。

それは本当に驚くべきことです。

だから、み使いたちと共に歌いましょう。

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が
みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

メリークリスマス!

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詩篇のデボーション

イエス樣を「主」と呼ぶ喜び

私は【主】に申し上げます。
「あなたこそ私の主。
私の幸いはあなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)

今朝、ダビデの言葉を思いめぐらしました。そして、この考えが心に浮かびました。

「イエス様を『主』と呼ぶことには、喜びがあります。」

けれども、イエス様が良い方であり、私たちを深く愛してくださることを信じないなら、その喜びを知ることはできません。

その確信を持たないなら、イエス様を『主』と呼ぶことは、むしろ恐ろしいことになります。

ダビデは、神様を『主』と呼ぶ喜びを確かに味わいました。この詩篇を読むと、その喜びがはっきりと示されています。

私もその喜びを味わったことがあります。

けれども、私は毎日その喜びを満喫したいと願っています。

あなたはどうでしょうか。

イエス様を『主』と呼ぶ喜びをご存じですか。

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詩篇のデボーション

私に良くしてくださる神

私は【主】に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。(詩篇13:6)

今朝、ダビデの言葉は私の目に留まりました。

私の問題をくよくよするとき、神様がどこにおられるかを考えるのは、容易なことです。

けれども、私はいつも神様がどれほど良くしてくださったかを思い起こしたいです。

私がまだ罪人であったとき、キリストは私のために死んでくださいました。

私が神様をまったく求めずに自分の道を歩んだとき、神様は私を追い求めてくださいました。

そのときに神様が私に良くしてくださったのなら、神様は今、ご自分の子にしてくださった私を見捨てられるでしょうか。それはあり得ないでしょう。

だから今日、神様がどれほど私に良くしてくださったかをもっと思い巡らしたいのです。

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サムエル記第一のデボーション

本当に、良しとされるのですか?

主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。(サムエル記第一12:22)

天のお父さん、どうして私が不実で、大失敗し、あなたを裏切るにもかかわらず、あなたは私を捨て去られないのでしょうか。

それどころか、あなたは私をご自身の者、ご自身の子とすることを良しとされるのです。

それは本当に驚くべきことです。あなたはそれを良しとされるとは、なんと不思議なことでしょう。

だからこそ、お父さん、私があなたを恐れ、心を尽くして、誠実に仕えるように導いてください。

あなたがどれほど大いなることをしてくださったかを心に留めておくように助けてください。特に、私がイエス様の十字架の働きを決して当たり前のものだと思わないようにしてください。

私へのあなたのすばらしい恵みといつくしみに、心から感謝します。

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サムエル記第一のデボーション

あなたが私の人生を治めてくださるために

主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。

なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。(サムエル記第一8:7)

それを言われたとき、神様はどう感じておられたでしょうか。

神様は怒っておられたでしょうか。

そうだったかもしれません。

しかし、イスラエルの民がイエス様を王として拒んだとき、彼は怒っておられたのではなく、悲しんでおられました。

その悲しみは、ご自身が傷ついたからではなく、むしろ、イエス様がイスラエルの民の選択がどの道に導かれるかをよくご存じだったからです(マタイ23:37〜39;ルカ19:41〜45)。

今日、私はこう考えていました。「自分の王がどれほど私を愛しておられるか、本当に理解しているだろうか。」

イスラエルの民はそれを理解していなかったため、神様を王として拒んでしまいました。

私はそれをしたくありません。

けれでも、私はもう一度自問します。

「自分の王がどれほど私を愛しておられるか、本当に理解しているだろうか。」

私の良い王よ、自分に対するあなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるのかを理解するようにしてください。

それは、私が喜んであなたにすべてを明け渡し、あなたが私の人生のすべてにおいて治められるためであるように。

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コロサイ人への手紙のデボーション

イエス様にしっかり結びつく

かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。(コロサイ人への手紙2:19)

「かしらにしっかり結びつくことをしません。」

私はそのことばに心を打たれました。

私はイエス様にしっかりと結びついていたいと願います。

しかし、私は、イエス様に受け入れていただくために、単にルールを守ろうとしているわけではありません。(20~23節)

私はすでに受け入れられています。十字架によって、私の債務証書は無効にされました。(14節)

むしろ、イエス様と結びつくために、私は三つのことを自分に思い起こさせています。それは、

  • イエス様は良いお方です。
  • イエス様はすでに私を愛し、受け入れてくださっています。
  • イエス様は私の最善をご存じで、それを望んでおられます。

だから私は毎日毎日、一瞬一瞬、感謝を込めて、私の主を信頼し、従う道を選び取ります。

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ人へ手紙2:6-7)

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エペソ人への手紙のデボーション

神の愛に根差している

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:17ー19)

最近、教会で私は「初めの愛」についてのメッセージを語りました。特に、イエス様への初めの愛を保つことがどれほど大切かについて話しました。

しかし、初めの愛を保つということは、単に聖書をもっと読み、祈り、神様に仕えるという話ではありません。

むしろ、それは、この基本的な真理に、自分自身を根差すことなのです――「神がまず私たちを愛してくださいました。」

初めの愛を保つために、私たちは毎日、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを、より深く理解するべきです。

けれども、私たちは当たり前だと思っているものに自分自身を根差すことはできません。思い巡らすことのないものに根差すこともできません。

例えば、エペソ人への手紙1ー3章にあるパウロの言葉を軽く読んで、「はい、はい、もう知っている」と言ってしまうのは、とても容易なことです。

けれども今日、私はこの三つの真理を思い巡らし、心の中で把握しようとしています。

世界の基が据えられる前に、神様は私を自分の子どもとするように選んでくださいました。(エペソ1:4ー5)

私は罪の汚れのすべてから清められました。神様は私を聖なる者、傷のない者として見なしてくださいます。(エペソ1:4、7)

私は神様の作品です。神様は、私が御国に仕えるために、良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)

それらを思い巡らすとき、また、自分がそれにどれほどふさわしくないかを思うとき、私は驚きに満たされます。

パウロも、きっとそのように感じたでしょう。(エペソ3:8)

エペソ1章から3章を読むとき、あなたは「もう知っている」と言っていませんでしたか。それとも、その真理を思い巡らし、再び驚いていたでしょうか。

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士師記のデボーション

神の愛や恵みを忘れると

ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、もろもろのバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。

イスラエルの子らは、周囲のすべての敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を、心に留めなかった。(士師記8:33ー34)

上の言葉は士師記にあるイスラエル人の民の問題を要約しています。つまり、彼らはすぐに自分たちへの神の恵みと愛を忘れてしまったということです。

さらに、彼らは自分たちの祝福がどこから来たのかを理解していなかったようです。彼らは救いをギデオンの手柄にしてしまいました。(22節)

その結果は何でしょうか。彼らを救ってくださった神への愛と感謝は全くありませんでした。

私たちへの神の愛や恵みを忘れ、また神様がしてくださったことへの感謝や喜びを忘れると、初めの愛を失うのは容易なことです。

天のお父さん、私が決してあなたの愛と恵みを忘れず、それらを当たり前のものだと思わないようにしてください。

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ヨシュア記のデボーション

それゆえ。。。

それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって。。。主に仕えなさい。(ヨシュア記24:14、口語訳)

「それゆえ、今。。。」

新改訳聖書では単に「今」と訳されていますが、原語には「それゆえ」というニュアンスが含まれている場合もあります。

私が14節を読んだとき、最初に心を留めたのは、「まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕えなさい」という命令のことばでした。その一文が強く印象に残ったのです。

けれども、二度目に読んだとき、「それゆえ」という語に目がとまりました。

この「それゆえ」は、いったい何を指しているのでしょうか。

その直前で、ヨシュアは神様がどれほどイスラエルの民を祝福し、恵みを与えてこられたかを語っていました。

そして、そのすべてを語り終えたとき、ヨシュアはこう命じるのです。

「それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕えなさい。」

それに気づいたとき、私はもうひとつの聖書の箇所を思い出しました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ書12:1)

私たちのすべてを神様に捧げること。偶像や罪を捨て、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして神様を愛すること。これらの命令に目を留めるのは、容易なことです。

もちろん、それらはとても重要です。しかし、私たちは「それゆえ」や「ですから」という語を見落としてはなりません。

だからこそ、まず、この2つの真理に心を向けましょう。

神様は、私たちに、なんと祝福してくださったことでしょう。

神様は、私たちに、なんと恵みとあわれみを与えてくださったことでしょう。

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ヨシュア記のデボーション

御言葉が厳しくても、心強くても

その後、ヨシュアは、みおしえの書に記されているとおりに、律法のすべてのことばを、祝福ものろいも読み上げた。

モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアが。。。読み上げなかったことばは、一つもなかった。(ヨシュア記8:34ー35)

そのことばは、私の心に響きました。

ヨシュアは、自分が気に入った聖書の箇所だけでなく、 厳しい内容の箇所も、すべて読んでいました。

聖書のすべての箇所が、神の愛とあわれみだけを語っているわけではありません。心強いことばばかりで満ちているわけでもないのです。

神のさばきと正義についての、厳しいことばも含まれています。

そして、その真理を忘れてしまうと、アカンのように、私たちは自分の罪や、神様ご自身を軽く見てしまうかもしれません。(ヨシュア記7章)

しかし、より大切なのは、厳しくても励ましに満ちていても、 神のことばのすべては、私たちの益のためであるということです。

だからこそ、気に入った心強いみことばだけでなく、ヨシュアのように、そのすべてを読みましょう。

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使徒の働きのデボーション

熱心に祈り続けている?

こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。(使徒の働き12:5)

今日の箇所を読んだとき、私はクリスチャンたちの姿について考えました。彼らはヤコブのために熱心に祈りましたが、彼はヘロデによって殺されました。

それでも、ヘロデがペテロを拘束したとき、教会はペテロのために祈りました。そしてただ祈っただけでなく、熱心に祈りました。

そのことを考えながら、私は自問しました。 「神様の答えが遅く感じられるとき、私はどれほど熱心に祈り続けているだろうか。

そして、神様が『ノー』と答えられたことを思い出しながらも、それでも私は同じ熱心さで祈り続けているだろうか。」

今、私は二人の友人のことを考えています。彼らのためにずっと祈っていますが、今のところ神様の答えはまだ来ていません。

熱心に祈るときもあれば、あまり熱心に祈らないときもあります。

もちろん、熱心に祈ったからといって、必ず神様がその祈りを聞き届けてくださるとは限りません。

また、祈りの熱心さが、私の信仰の深さを証明するものとは限りません。(15-16節を読んでみてください。)

しかし、祈りの熱心さは、このような態度を表します。

「天のお父さん、私にとってこの問題は非常に重要です。あなたが私の願いを聞いてくださることを信じます。 あなたが私を愛してくださることを信じます。 だからこそ、私はあなたを信じて、すべてをあなたに委ねます。」

今日、そのような態度を持って、私は友人のために祈りたいと思います。

あなたはどうでしょうか。熱心に祈り続けていますか。

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ヨハネの福音書のデボーション

まず神様に愛された

神は、このようにして世を愛された。そのひとり子をお与えになったのです。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16、英訳)

私はその英訳が好きです。多くの翻訳は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と訳されるけど、通常、そのギリシャ語は「ほどに」ではなく、「このように」と訳されます。

ヨハネの手紙では、ヨハネは違う言葉を使うけど、同じ概念を伝えます。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちにいのちを得させてくださいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

パウロは似たようなことを言います。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ書5:8)

驚くべきことは、神様が私たちの悔い改めを待たずに、まずご自身の愛を示してくださったことです。神は裁きではなく、憐れみをもって私たちに目を向けられます。

イエス様が「御子を遣わすことによって神様がこの世に愛を示された」と言ったとき、ニコデモはどう思ったでしょうか。

もしニコデモが、神が御子を遣わされたという概念を持っていたとしたら、それは反逆の世を裁くためだったでしょう(詩篇2篇)。

ニコデモは、詩篇2:12にある幸いな人たちがかつて反逆的な人たちであったことを考えたことがあったでしょうか。ニコデモは、御子を通して示された神の愛のゆえに、彼らが悔い改めたと考えたことがあったでしょうか。その詩篇を書いた詩人はそんなことを考えたことがあったでしょうか。

私にはわかりません。でも、ヨハネ3:16のもっとも驚くべきことを覚えていましょう。それは、神様が悔い改めることのない反逆の世(私たちを含む)をまず愛し、その世を救うために、御子を遣わしてくださったということです。

だから、今日、その言葉に思いを巡らしましょう。ヨハネ3:16、第一ヨハネ4:9−10、ローマ5:8に思いを巡らしましょう。

その真理を浴びましょう。「神様はまず私を愛しててくださいました。」

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちの心を知っておられる方

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。

すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネ2:23ー25)

ペテロは。。。イエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)

イエス様、あなたは私の心を見ておられます。あなたは私の心に何があるのか、誰かに教えてもらう必要はありません。あなたは私のことをよく知っておられるからです。

だから、ぺテロとともに、私は言います。「あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」

あなたは私の愛がどれほど不完全なものであるのかよく知っておられます。私の失敗もよく知っておられます。それでも、あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。

それにしても、自分を騙すのは簡単なことです。だから、私の心の層を剥がしてください。私の心の奥底を明らかにしてください。私の心を癒すために、あなたが見たものを見せてください。

イエス様、私はあなたのようになりたいのです。私をあなたのようにしてください。

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詩篇のデボーション

神様を神様として認める

知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。(詩篇100:3)

最近、私はヨブ記についての説教を準備していました。

多分、そのせいで私は神様と時間を過ごしていて、詩篇100篇を読んだとき、ヨブのことを連想しました。ヨブの試練の後、彼が詩篇100篇のような歌を歌うことを想像できました。

なぜなら、ヨブは上の真理を学んだからです。

神様は神様です。私たちは神様ではありません。

神様は私たちを造られました。私たちは神の民です。私たちは神の羊です。

そして、それは幸いなことです。

なぜでしょうか。

なぜなら、最終的に、神様は良い方で、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るからです。(5節)

この世には、私たちが理解できないことがたくさんあります。ですから、私たちが神様を疑い始めることは簡単なことです。

私たちは、神様が良い方であるかどうか疑い始めます。私たちへの神様の愛も疑い始めます。

でも、試練の中で喜びを知ることができる鍵は、主を神様として認めることです。つまり、神様は賢明な方であり、全能の方であるということです。でも、最も大切なことは、神様は私たちを深く愛してくださっているということです。

だから、確信をもってその真理を信じ、主に向かって喜びの声をあげましょう。(1節)

喜びをもって主に仕え、喜び歌いつつ、御前に行きましょう。(2節)

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入りましょう。主に感謝し、御名をほめたたえましょう。(4節)

なぜなら、主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るからです。(5節)

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私たちが必要な祈り

今日、私はパウロの祈りに深く感動しました。なぜなら、彼がテサロニケ人たちのために祈ったことは、まさに私自身に必要な祈りだからです。実際、それはすべてのクリスチャンにとって必要な祈りです。

パウロはこう言いました。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(第二テサロニケ2:11ー12)

私たちがよく考えるのは、自分自身を良い人にしなければならないということです。自分の力と自制心によって、自分自身を変えなくてはならないと考えがちです。

しかし、パウロが祈っているのは、神様が私たちを召しにふさわしい者としてくださり、神様の力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から生まれる働きを実現してくださるということです。

それによって、イエス様が私たちの間であがめられ、私たちにも主にあって栄光が与えられます。

けれども、その栄光は私たち自身の素晴らしさによるものではなく、私たちの人生に働いている天の父の恵みと御子の恵みによるものです。

そして、パウロはこう祈ります。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(第二テサロニケ2:16ー17)

また、

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケに3:5)

私たちの信仰の根底には、一つの根本的な真理があります。それは、神様が私たちを深く愛してくださるということです。

パウロが祈ったのは、イエス様が日々私たちを天の父の愛へと導き、私たちが必要な励ましと希望を受けることができるようにということです。そして、その励ましと希望によって、私たちはあらゆる良いわざとことばのために、神様によって強められます。

さらに、テサロニケ人たちのように、私たちが試練や苦しみに直面するとき、パウロは、私たちがイエス様を仰ぎ見ることによって、勇気を得るように祈りました。十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださったイエス様の忍耐に目を向けることによってです。

私は前にも言いましたが、私たちはよく、自分の力と自制によってクリスチャン生活を送ろうとしてしまいます。

でも、イエス様が私たちを天の父の愛へと導いてくださるように、イエス様の十字架を覚えていましょう。神様の愛とイエス様の十字架に、心を向けて思いを巡らしましょう。

そして、あなたのあらゆる良いわざと言葉が、神様の愛とイエス様の十字架への感謝から生まれるものでありますように。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

神様が真実ですから、そのようにしてくださいます。

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙5:23ー24)

「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

この言葉は、私の心に深く響きました。

それを読んだとき、私はローマ人への手紙8章29~30節にあるパウロの言葉を思い出しました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。

私たちは、その言葉を本当に信じているでしょうか。

私たちが生まれる前から、神様はその働きを始めておられました。イエス様のようになるために、私たちの霊、魂、身体のすべてが責められるところのないものとなるよう、神様は私たちを選んでくださいました。

そして、神様が始められたことを完成させてくださいます。なぜなら、神様は真実なお方だからです。

鏡に映った自分を見るとき、気に入っているでしょうか。

それとも、自分の失敗や罪の汚れを見て、顔をしかめるでしょうか。

でも、私たちのアバは、私たちを見るとき、顔をしかめることはありません。

私たちのアバは、あなたを最初から知っておられ、選んでくださいました。あなたを召してくださいました。あなたを義と認めてくださいました。あなたの罪の記録を完全に消し去ってくださいました。

そして、あなたがそれを見えるか見えないかにかかわらず、神様はあなたを完全に聖なるものとしてくださる過程におられます。

なぜなら、神様のみこころは、あなたがたが聖なる者となり、イエス様のようになることだからです。(第一テサロニケ4:3)

そして、その過程が完成されるまで、神様はあなたに栄光を与え、あなたがイエス様のようになるまで、働き続けてくださいます。

だから、義の胸当てを着けましょう。自分自身の義ではなく、イエス様を信じる信仰による神様の義を着けましょう。また、あなたに対する神様の愛の確信が、あなたの心を守るようにしましょう。(エペソ6:14;第一テサロニケ5:8)

そして、あなたの救いの希望—いつかあなたがイエス様のようになるという希望—が確かなものであることを覚えていましょう。その希望を、毎日かぶりましょう。

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。(第一テサロニケ5:9)

また、

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙5:24)」

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

愛され、選ばれている

神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。(テサロニケ人への手紙第一1:4)

今朝、私はその言葉を反芻していました。

私は神様に愛されています。

私は神様に選ばれています。

その言葉を考える時、私はいつも驚かされます。

「神様は私を愛することを選ばれたの?どうしてだろうか。」

その答えは出てきません。でも、その真理は心強いものです。

私は神様のご恩を得ようと努める必要はありません。私はそのご恩をすでに得ているのです。

私が神様の愛に値することを証明する必要はありません。神様はすでに私を愛してくださっています。

だから、自分の弱さや失敗を見ても、神様が私を受け入れてくださることを知り、安心することができます。

下記の言葉が、あなたの心に染み渡りますように。

「私は神様に愛されています。」

「私は神様に選ばれています。」

Don’t try so hard
頑張らなくて良い
God gives you grace and you can’t earn it
神様はあなたに恵みを与えてくださいます。その恵みは、自分の努力で得ることはできません。
Don’t think that you’re not worth it
自分には価値がなくて、神様が恵みを与えてくださるはずがないと思わないでください。
Because you are
神様の目には、あなたには価値があります。

He gave you His love and He’s not leaving
神様はあなたに愛を与えてくださいました。そして、あなたを決して見捨てません。
Gave you His Son so you’d believe it
あなたがその真理を信じることができるように、神様は御子を与えてくださいました。
You’re lovely even with your scars
あなたには傷跡があっても、美しさがあります。
Don’t try so hard.
頑張らなくて良い。ーーエイミー・グラント

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出エジプト記のデボーション

私は何者でしょうか

神はモーセに語り、彼に仰せられた。

「わたしは主(原語:ヤハウェ)である。

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(原語:エル・シャダイ)として現れたが、主(原語:ヤハウェ)という名では、彼らにわたしを知らせなかった。(出エジプト記6:3)

天のお父さん、あなたはエル・シャダイ、全能の神です。あなたはヤハウェです。

あなたはアブラハム、イサク、ヤコブとともにおられた神様です。

あなたはモーセとともにおられた神様です。

そして、あなたは私とともにおられる神様です。

私は何者でしょうか。

どうして、あなたは私を愛し、心に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私のうめきを耳に留めてくださるのでしょうか。

どうして、私を救い、購ってくださるのでしょうか。

どうして、私をご自分のものとしてくださるのでしょうか。

どうして、私を御国に導いてくださるのでしょうか。

どうして、私の神となり、あなた自身を私に現してくださるのでしょうか。

イエス様において、あなたはアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセでさえ知らなかった方法で、私にご自身を現してくださいました。

だからこそ、苦しむときにも、私はあなた信頼することを選びます。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセの時代に、あなたは忠実でおられました。今もあなたは忠実であり、そして永遠に、あなたは忠実な神様なのです。

アバ、あなたを愛しています。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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出エジプト記のデボーション

天の父のみ心を持つ

こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。

そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。。。

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。

重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」(出エジプト記2:11、23ー25)

モーセは不完全な人でした。それでも、神様はモーセをご覧になったとき、ご自分と同じような心を持った人をご覧になりました。

モーセは、周りの人々のうめきや苦しみをただ見ていたのではなく、その人を助けたいと思いました。

だから、自分の民の苦しみを見たとき、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

もちろん、モーセのやり方は間違っていましたが、自分の兄弟たちを助けたいと思ったその心は、間違っていませんでした。

そのあと、いじめられていた女性の羊飼いたちを見たとき、先の失敗にも関わらず、モーセはただ黙って見ていることができませんでした。

そのように、神様もご自分の民の苦しみを見たとき、ただ黙って見ておられることはできませんでした。神様は彼らをあわれみ、助けたいと思われました。

だから、神様はご自分と同じような心を持った人を選び、遣わされました。

今なお、神様はそのような人を選び、遣わされます。

私はそのような人になりたいです。あなたはどうですか。

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マタイの福音書のデボーション

許せないのか?許したくないのか?

彼の仲間はひれ伏して、「もう少し待ってください。そうすればお返しします」と嘆願した。

しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。(マタイの福音書18:29ー30)

「しかし、承知しませんでした。」

直訳すると、「彼はそうしたくなかった。」

彼は何をしたくなかったのでしょうか。

彼は、借金の返済を待ちたくなかったのです。

もちろん、彼は、絶対にその借金を許したくなかったのです。

原語では、しもべの仲間は何度もあわれみを願いましたが、しもべは何度も「嫌だ」と言いました。

「私は待ちたくない。我慢したくない。許したくない。」

あなたは、そのような態度を取っているでしょうか。

多くの人々は「許せない」と言います。

でも、「許せない」とは、「許すことができない」という意味でしょうか。それとも、「相手を赦したくない」という意味でしょうか。

神の子どもたちは、そのような態度を取ってはいけません。なぜなら、神様は私たちをたくさん赦してくださったからです。

「許せない、許したくない」という態度は、罪です。

もちろん、許すのが難しいときもあります。許すのが非常に難しいときもあります。神様はそれを理解しておられます。

しかし、頑なに「私は許したくない」と主張する態度と、へりくだってイエス様のもとに来て、「私は許したいけれど、私の傷は深いです。どうやって許すことができるのか、よく分かりません。助けてください」と願う態度は、まったく異なります。

ペテロはこう言います。

みな互いに謙遜を身に着けなさい。

「神は高ぶる者には敵対し、 へりくだった者には恵みを与えられる」 のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(第一ぺテロ5:5~7)

プライドは、自分の傷を手放すことを拒みます。「私は傷ついた。私はもっと優しく扱われるべきだ。あいつは罰せられるべきだ。」

けれども、謙遜な人は、自分が人を傷つけることがあると認めます。

謙遜な人は、自分が神様に対して罪を犯したことがあると認めます。

謙遜な人は、周囲の人々のあわれみ、そして神様のあわれみをどれほど必要としているかを認めます。

だから、謙遜な人は自分の傷を手放し、相手を許すことを選びます。

とはいえ、以前にも言ったように、人を許すのが難しいときもあります。傷が深ければ深いほど、相手を許すのは難しくなります。

しかし、ペテロは、神様が私たちのことを心配してくださることを思い出させてくれます。神様は、私たちの傷を癒したいと願っておられます。

そして神様は、私たちの傷が癒されるためには、まず私たちが相手を許さなくてはならないことをご存じです。

もしあなたがへりくだって、「どうやって相手を許すことができるのか分かりません。でも、許そうとします。助けてください」と祈るなら、神様は喜んで助けてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様は、今あなたに誰かについて語っておられるでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様に伝えなかればならない

なぜか、12節のことばが私の心を打ちました。

それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。(マタイの福音書14:12)

ヨハネを葬ったあと、その弟子たちが最初に考えたのは、「イエス様に伝えなければならない」ということでした。

なぜでしょうか。

もしかすると、彼らはイエス様にヘロデについて警告したかったのかもしれません。(ルカ9:9)

でも、もう一つの理由は、彼らがイエス様がヨハネを本当に愛しておられることを知っていたからではないでしょうか。

しかし、彼らはイエス様が自分たちを愛してくださっていることを知っていたでしょうか。

「イエス様はすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を愛し、私の悲しみをよく知っておられる」ということを、彼らは知っていたでしょうか。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたを愛してくださっていることを、あなたは知っているでしょうか。

「イエス様がすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を本当に愛してくださっている」ということを、あなたは知っているでしょうか。

試練と苦しみを経験するとき、あなたが最初に考えるのは、「私はイエス様に伝えなければならない」ということでしょうか。

I must tell Jesus all of my trials;
イエス様に、私のすべての試練を伝えなければなりません。I cannot bear these burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません

In my distress He kindly will help me;
私の苦しみの中で、イエス様は優しく助けてくださいます。
He ever loves and cares for His own.
イエス様は、いつもご自分のものを愛し、心にかけてくださいます。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
I cannot bear my burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
Jesus can help me, Jesus alone.
私を助けることができるのは、イエス様ただお一人です。ーーエリシャ・ホフマン

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マタイの福音書のデボーション

収穫の主への祈り

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。

そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイの福音書9:36ー38)

収穫の主よ。私の周りで、弱り果てて倒れている人たちは誰でしょうか。希望のない人生を歩んでいる人たちは誰でしょうか。

どうか、私の目を開いてください。あなたがしてくださったように、私も人々のうわべを見抜き、心の深いニーズを見抜くことができるようにしてください。

私に、あなたのあわれみ深い心を与えてください。そして、私を収穫のために送ってください。

私が、希望のない人に希望を届けることができるように。私が彼らに、あなたの赦し、救い、そして愛を宣言することができるように助けてください。(マタイ9:2、22)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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創世記のデボーション

穴にいるとき

今日、私たちは創世記37章を読んでいますが、私はたまたま詩篇118篇も読んで祈りました。

詩篇118篇を読んで、私はこう思いました。「自分の人生のもっとも暗いときを振り返ると、ヨセフはこの歌を歌うことができただろう。」

(この詩篇は、ヨセフの死後何百年も経ってから作られたものですが。)

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は答えて、私を広やかな地へ導かれた。

主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。主は私の味方、私を助ける方。

私は、私を憎む者をものともしない。(詩篇118:5ー7)

おまえは私を激しく押し倒そうとしたが、主が私を助けられた。主は私の力、またほめ歌。主は私の救いとなられた。(13ー14)

興味深いことは、いろんな意味で、ヨセフの物語がイエス様の物語と似ているということです。

つまり、ヨセフは、自分を拒絶し、裏切った兄弟たちを救ったのです。だから、イエス様に関する預言は、ヨセフにも当てはめられるのです。

家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。(詩篇118:22)

振り返ると、ヨセフは喜びをもって、その歌を歌うことができたでしょう。でも、あの穴の中にいたときや、奴隷として売られたときには、そのことばを歌うのは難しかったでしょう。

それでも、ヨセフは自分の信仰にしがみつきました。神様が良い方であり、その恵みがとこしえまで続くことを、信じ続けました。次の数章を読めば、私たちはその姿を見ることができます。

その結果は?ヨセフは、パウロも学んだことを学びました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

私たちの人生がうまくいっているとき、神様が良い方であること、神様の愛を信じるのは簡単です。

でも、あの穴の中にいるとき、私たちはまだそれを言うことができるでしょうか。

ヨセフと一緒に、あの歌を歌えるでしょうか。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇118:1)

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ユダの手紙のデボーション

私たちの大前提:召された、愛されている、守られている

しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。

聖霊によって祈りなさい。

神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(ユダ20~21)

「自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。」

「神の愛のうちに自分自身を保ちなさい。」

今日、これらのことばを反芻していました。

そして、いつものように、私はある詩篇を選び、それを祈りとして捧げ始めました。今日は、詩篇29篇を祈りました。

力ある者の子らよ。主に帰せよ。 栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。 聖なる装いをして主にひれ伏せ。

主の声は水の上にあり、栄光の神は雷鳴をとどろかせる。主は大水の上におられる。

主の声は力強く、主の声は威厳がある。。。

主の宮では、すべてのものが「栄光」と言う。。。

主は、とこしえに王座に着いておられる。(詩篇29:1ー4,9ー10)

そのことばを読んで、黙示録4章を連想しました。

4つの生き物と24人の長老たちは、神の御座の前で礼拝していました。生き物は、神の聖なるさを賛美し、長老たちは、神様が栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方であることを認めていました。(黙示録4:8〜11)

ヨハネは、そのシーンを見て、たぶん震えていたでしょう。でも、イエス様の血によって、ヨハネは天の父に愛され、受け入れられているという確信を持っていました。

そして、私はユダの挨拶を思い起こしました。

父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている(別訳:イエス・キリストのために守られている)、召された方々へ。(1)

それが、ユダの大前提でした。

それが、ヨハネの大前提でした。

それが、私たちの大前提です。

私たちは、天の父に召され、愛され、イエス様によって、またイエス様のために守られているのです。

その大前提を抱いて、私たちは聖書を読んだり、祈ったりします。私たちは、イエス・キリストの恵みと知識において成長し、自分たちの信仰の土台の上に、自分自身を築き上げたいのです。

その大前提を抱いて、私たちは神の愛のうちに自分自身を保ちます。毎日、私たちは神様を信頼し、従います。長老たちとともに、私たちは叫びます。

「あなたは、栄光と誉れを受けるにふさわしい方です。あなたは、私の人生を支配するにふさわしい方です。」

その大前提を抱いて、私たちは聖なる装いをし、賛美のことばだけではなく、私たちの人生を神様に捧げて礼拝します。(黙示録4:10;ローマ12:1)

ユダが、私たちに警告した人々は、まったく違う態度を持っていました。(ユダ8〜19)

しかし、神の子どもたちとして、私たちはユダとヨハネの態度を抱くべきです。

もし、キリストにある自分のアイデンティティーを覚えているなら、私たちは必ずその態度を抱くでしょう。

私たちは、神様に召されました。

私たちは、神様に愛されています。

私たちは、イエス様によって、イエス様のために守られています。

それを覚えて、ユダとともに歌いましょう。

(私)を、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」

(ユダ24ー25、ユダの言葉を個人的なものにするため、「あなたがた」を 「私」に変えました。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

恐れがない

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。こうして、愛が私たちにあって全うされました。

ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(ヨハネの手紙第一4:16~19)

日曜日に、私は黙示録4章によるメッセージをしました。ヨハネの上のことばを読んだとき、その黙示録の箇所を連想しました。

イスラエル人たちとイザヤは、神の栄光を見たら死んでしまうと思いました。(出エジプト記19:16;20:18〜21;イザヤ6:5)

でも、御座の前に立って神の栄光を見たとき、ヨハネは震えたかもしれませんが、「私は滅んでしまう」とは叫びませんでした。

イスラエル人たちとイザヤと同じように、ヨハネも罪深い人間でした。では、なぜヨハネは神様からの罰を恐れなかったのでしょうか。

それは、ヨハネが自分に対する神の愛を知り、信じていたからです。神の愛は、ヨハネにあって全うされていたからです。

あなたはどうですか。ヨハネと同じように、「自分に対する神の愛を知り、信じている」と言えるでしょうか。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

自分の心が私たちを責めるとき:神の子供としての私たちの希望

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。(ヨハネの手紙第一3:18ー20)

「神は…すべてをご存じだ。」

ヨハネのことばを読んで、ヨハネの福音書21章にある、イエス様へのペテロのことばを連想しました。

「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)

イエス様は、確かにペテロの心を知っておられました。実際、ペテロ以上に、イエス様はペテロの心を知っておられました。ペテロが将来、イエス様のために死ぬほどイエス様を愛していることを、知っておられました。(ヨハネ21:18〜19)

イエス様は、ペテロの弱さをよく知っておられました。

イエス様は、ペテロの過去の罪と失敗をよく知っておられました。

イエス様は、ペテロの将来の罪も知っておられました。

でも、ペテロがイエス様を愛し、イエス様のようになりたいと願っていることを、知っておられました。

神の子どもたちは、その態度によって特徴づけられています。彼らは、愛する主のようになりたいのです。

ヨハネは、その真理をこのように表現します。

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。

しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。(ヨハネの手紙第一3:2ー3)

もちろん、今は、私たちは完全にイエス様のようになっているわけではありません。でも、神の子どもとして、私たちはそれを望みます。私たちは、完全になる日を待ちきれません。

だから、その間、イエス様のようになるための一歩を踏み出します。小さい子どものように、私はよちよち歩きかもしれないけれど、一歩一歩、歩き続けます。

イエス様が歩まれたように、私は歩き始めます。(第一ヨハネ2:6)

イエス様が愛されたように、私は愛し始めます。(第一ヨハネ3:16〜18)

そして、私たちが転んで、自分の心が私たちを責める時、私たちの天のお父さんは、私たちを引き上げ、励ましてくださいます。

「大丈夫です。あなたが私を愛していることを、よく知っているよ。歩き続けなさい。」

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

事実、私たちは神の子どもです。(第一ヨハネ3:1)

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マルコの福音書のデボーション

塩気を失う?

今日の箇所を読んで、さまざまなことを考えさせられました。でも、イエス様の最後のことばには、特に心を打たれました。

塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。

あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。(マルコの福音書9:50)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました(マタイ5:13)。

私たちは、神の愛と恵みによって、この世に味をつけるべきです。

けれども、神の民が互いに愛し合うことができなければ、教会は塩気を失ってしまいます。

プライド、苦々しい思い、人を許せない心、自分勝手な態度によって、私たちは塩気を失うことがあります。

今日の箇所、そして関連箇所であるマタイ18章では、弟子たちがそのような問題を抱えていたことが明らかです。

しかし、正直に言うと、私自身もそのような問題を抱えています。

特に、自分勝手な態度とプライドは大きな問題です。昨日を振り返ると、そうした問題がまた現れました。だから、私は悔い改める必要がありました。

あなたはどうですか。人間関係の問題を抱えているでしょうか。特に、兄弟姉妹との関係に問題を抱えているでしょうか。

その関係の中で、あなたは塩気を失いかけているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34ー35)

イエス様の戒めを心に留め、互いに愛し合いましょう。そうすれば、神の教会は塩気を失うことなく、神の恵みと愛によって、この世界、そして日本に味をつけていくのです。

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使徒の働きのデボーション

周りの人々に気づく

ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめ(ました)。(使徒の働き3:4)

上の言葉は私の目に留まりました。

ペテロとヨハネは、その足の不自由な人を無視し、こう言うことができました。「私たちは神様を礼拝するために、宮に行っているところなのだ。しかも、お金を持っていないから、しょうがない。宮に行こう。」

でも、その代わりに、彼らは止まってその人を見つめました。そして、彼らが持っているものをその人に与えました。

私はその点で、まだ成長すべきです。つまり、私は周りの人々にもっと気づくべきです。彼らのニーズに気づくべきです。

そして、すぐに「私は与えられるものを持っていない」と言わずに、できる限りのことをすべきです。神様はその点で私の心の中に働いています。

私が思っている以上に、神様は私を用いたいでしょう。

あなたが思っている以上に、神様はあなたを用いたいでしょう。

天のお父さん、あなたが私の行く手に置いてくださる人々に私が気づくように。そして、あなたが私に惜しみ無く与えてくださったように、私も惜しむなく周りの人々に与え、あなたの愛で彼らに触れるように。

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テトスへの手紙のデボーション

神様の愛といつくしみに応えて

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。(テトスへの手紙3:4-5)

「人に対する愛。」

この言葉が私の目に留まりました。

なぜなら、3章でパウロはこのようなことも語っているからです。

あなたは人々に注意を与えて、その人々が。。。すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。(3:1)

神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。(8)

私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。(14)

なぜ私たちはそうするべきなのでしょうか。

なぜなら、神様はまず私たちに愛といつくしみを与えてくださったからです。

だから、神様が言葉だけではなく、行為でも私たちを愛しておられるように、私たちも周りの人々を行為で愛するべきです。

今日、神様は私に尋ねられました。「私と同じように、周りの人を愛していますか。」

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エペソ人への手紙のデボーション

私たちのうちに働く神の御力

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に。。。(エペソ人への手紙3:20)

今日、「私たちのうちに働く御力」という言葉を考えました。

今まで、それを読むと、神様の力が私を通して働き、周りの人々に触れることを思い浮かべていました。

しかし、今日私が考えたのは、神様の力が私を変えるために、私のうちに働いておられるということです。そして、その過程において、神様は私が願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことができる方です。

問題に直面するとき、私はしばしば、神様が私の問題を取り除いてくださるように祈ります。私の状況を変えてくださるように祈ります。

神様の恵みによって、そうしてくださる時もあります。

しかし、多くの場合、神様は私たちの状況を変えようとはされません。

むしろ、神様は御子のかたちと同じ姿に、私たちを変えたいと願っておられます。(ローマ8:28)

けれども、時には私たちは、それは無理だと思ってしまいます。

最近、私の牧師は、自分の心を導くことについて語っています。(箴言23:19)

しかし、それは時に難しいものです。特に、人に傷つけられて、私たちが許さなければならないときです。

私たちは、相手に謝ってほしいと思います。相手が変わることを望みます。

そして同時に、まず相手が変わらなければ、まず私たちの状況が変わらなければ、自分たちの心が変わるのは無理だと主張します。

しかし、神様は、私たちが願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことのできる方です。

なぜでしょうか。

それは、イエス様を復活させた力が、私たちのうちにも働いているからです。

しかし、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。

天のお父様、あなたの愛に私を根差してください。私がその愛の確信をもって生きることができますように。

私が、あなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、私の心の穴が埋められ、私の傷が癒されますように。

私の状況や周りの人々を変えてくださるようには祈りません。むしろ、私自身を変えてください。

私たちが願うところ、思うところのすべてを、はるかに超えて行うことのできるあなたの力によって、私をイエス様のように変えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

見捨てられたように感じるとき

「おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めてくれない」(第一サムエル22:8)

これは、サウルが自分の家来たちに語った言葉でした。だれもサウルに謀反を企てていないのに、彼はそう思い込んでいました。

同じ頃、洞窟の中で、ダビデも似たようなことを語りました。

ご覧ください。私の右に目を注いでください。私には、顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って、私のいのちを気にかける人もいないのです。(詩篇142:4)

もちろん、サウルはダビデを殺そうとしていました。けれども、ダビデの言葉も正確ではありませんでした。

ヨナタンはダビデをかばい、彼を守ってくれました。

妻ミカルは命がけで、ダビデをサウルから逃がすように助けました。モアブの王も、ダビデの家族の世話をしてくれました。

さらに、四百人の者たちがダビデとともにいました。

それでも、ダビデは逃走中であり、洞窟に隠れていたため、彼の言葉は誇張された反応のように見えます。

しかし、サウルとは違って、ダビデは主に信頼を寄せました。彼は自分の心を神に注ぎ出し、自分の弱さを認めました。それでも、ダビデはこのように言いました。

私の霊がわたしのうちで衰えはてた時にも、あなたは、私の道をよく知っておられます。(詩篇142:3)

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生けるもの地でもの、私の受ける分。」(詩篇142:5)

正しい人たちは私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。(詩篇142:7)

だれもあなたのことを気にかけてくれないと思うでしょうか。ちょっと考え直してみましょう。自分が思っている以上に、人々はあなたを愛しているのです。

さらに、すべての人々があなたを見捨てても、神様は決してそうされません。

神様は私たちの道を知っておられます。神様は私たちの避け所です。神様は私たちに良くしてくださいます。

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マルコの福音書のデボーション

神様は私たちを愛しておられるから

そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。

イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。

すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。

イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。(マルコの福音書1:9-13)

いつも私を驚かせるのは、この個所では、神様がイエス様に「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と言われた直後、聖霊様はイエス様を荒野に追いやられたということです。

時々、私たちはこう思います。「神様は私を愛しているのに、時々私が砂漠を体験することを許される。」

でも、今日、私にこの考えが思い浮かびました。「神様は私を愛しているので、時々、私を砂漠に追いやられます。」

でも、どうして神様はそうされるのでしょうか。

その答えは、へブル12:6-7に書いてあります。

「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。(へブル12:6-7)

イエス様は罪を犯されたことがなかったのに、神様の訓練を受けられました。

今日の個所では、私たちはその一つの例を見ます。でも、どうして罪のないイエス様が訓練を受けなくてはならなかったのでしょうか。

その答えも、へブル書に記されています。

キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり(ました)。(へブル5:8-9)

人間として、イエス様も従順を学ばなくてはなりませんでした。でも、従順は、良い時ではなく、辛い時に試されます。すべてがうまく行くとき、神様に従うのは簡単なことです。でも、砂漠を渡るとき、従順は難しいのです。

砂漠におられるとき、イエス様は従順を学ばれました。その従順は、ゲツセマネでも試されました。(マルコ14:36-40)

でも今、イエス様が従順を学ばれたので、へブル人への手紙の著者はこう言います。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(へブル2:18)

だから、あなたが砂漠を渡っているなら、絶望しないでください。神様があなたを砂漠に追いやられた理由は、あなたを憎んでおられるからではありません。神様はあなたを愛しておられるので、あなたを砂漠に追いやられました。

神様はイエス様を訓練されたように、私たちをも訓練されます。私たちを滅ぼすためではなく、私たちの益のためです。(へブル12:10-11)

もし、あなたが砂漠を渡っているなら、イエス様があなたの苦しみを理解しておられることを心に留めてください。なぜなら、イエス様も、天の父の訓練を受けられたからです。

さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:14-16)

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詩篇

私たちの無限の神、私たちに近い神

ある日、私はA Praying Lifeという本を読みました。残念ながら英語版しかありませんが、英語ができるなら、ぜひ読んでみてください。私は本当にその本をお勧めします。

とにかく、その本では、著者は神様の本質の二つについて話します。

一つ目は、神様が無限の方であることです。

二つ目は、神様が私たちに近い方であることです。

神様について考えるとき、両方のことを覚えていなければなりません。そうしないと、私たちの祈りは影響を受けます。

もし神様が無限の方であることを忘れたら、私たちの心の中で神様の力を制限してしまいます。もちろん、神様は何でもできるのですが、私たちがそう思わないなら、祈ることができません。

その反面、もし私たちが神様が私たちに近く、私たちを本当に愛していることを忘れたら、私たちは祈りません。なぜなら、「神様はこの小さいことに興味がないだろう」と思い始めるからです。

しかし、神様は私たちの人生の細かいことにも興味を持っておられます。そう思わないなら、もう一度詩篇139篇を読んでください。

詩篇145篇では、ダビデが両方のことを覚えていたことが分かります。最初に、彼は神様の偉大さについて歌います。

主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。

代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせるでしょう。

私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。(詩篇145:3-5)

けれども、何度も、彼は私たちに対する神様の愛について歌います。

主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。(8)

また9節です。

主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。(9)

そして13-16節で、彼はこう歌います。

あなたの王国は、永遠にわたる王国。あなたの統治は、代々限りなく続きます。

主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。

すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。

あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。(13-16)

また、18-20節で、彼はこう歌います。

主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。

また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。

すべて主を愛する者は主が守られる。(18-20)

ダビデはそのことをすべて信じたので、この詩篇の最初で、彼はこう叫びました。

私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。

日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。(詩篇145:1ー2)

あなたはどうでしょうか。神様が無限の方であることを信じていますか。神様があなたの人生に立ちはだかる山に取り組むことができると信じていますか。また、神様があなたの敵に向き合うことができると信じていますか。

そして、神様があなたを愛しておられるゆえに、あなたを助けてくださるという確信がありますか。

神様の無限のご性質と深い愛を、決して忘れることのないようにしましょう。

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イザヤ書

神様の偉大さ

私たちが宣言する神様は誰でしょうか。神様はどのような方でしょうか。この箇所でイザヤは教えてくれます。

イザヤはこう言いました。

「見よ。あなたがたの神を。」見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。(イザヤ書40:9ー10)

イザヤは何を言っているのでしょうか。

神様は全能の主です。12節によれば、神様はすべてを造られた方であり、神様と比べると、この宇宙でさえも神様よりはるかに小さいのです。

時々、私は美しい星空を見上げます。その瞬間、宇宙の広大さを感じると同時に、自分がいかに小さい存在であるかを理解します。

しかし、宇宙は神様の手の中に収まるほどの大きさです。造り主は、自らの被造物よりもはるかに大きいに違いありません。

イザヤは続けてこう言います。

目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。

この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。

この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(26)

神様は国々とその支配者たちよりもはるかに大きな存在です。イザヤはこう言いました。

見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。

見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。

すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。(15ー17)

王たちが王座に座って、自分の国を広げようとするかもしれませんが、

主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。

主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。

君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。(22ー23)

しかし、神様は全能の主であるだけでなく、知恵に富む方でもあります。だからこそ、イザヤはこう書きました。

だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。

主はだれと相談して悟りを得られたのか。

だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。(13ー14)

その答えは明らかです。「誰も。」

神様だけがすべての知恵を持っておられます。神様だけがすべてのことをご存じです。

だからこそ、イザヤは尋ねます。

あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。

鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。

貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。(18ー20)

ここでイザヤは皮肉を述べています。

「主は地をおおう天蓋の上に住んでおられます。地の住民はまるでいなごのようです。(22)

それでも、あなたたちはこの小さな金と銀の偶像を造るのでしょうか。ある人々は貧しいため、金や銀すら使いません。木材から造ります。

それでも、あなたはこのようなものを礼拝するのですか。このようなものを生きている神と比べるのですか。」

神様は全ての力と知恵と栄光を持っておられます。神様は本当に偉大な方です。そのことを心に留めていなくてはなりません。

とはいえ、もう一つ心に留めるべき大切なポイントがあります。それは何でしょうか。その偉大な神様は私たちを愛しておられるということです。

イザヤはこう書きました。

主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。(11)

それは本当に最も驚くべきことです。

神様がこれほど偉大であり、私たちがこれほど小さくても、神様はなお私たちを愛しておられます。そして、私たちが神様と和解できるように、神様はご自身の子をこの世に送られました。

どれほどあなたは神様の偉大さについて考えるでしょうか。

どれほどあなたは神様の愛について考えるでしょうか。

そのようにすれば、私たちの問題は小さく見えるようになるでしょう。

たとえどんな問題があったとしても、私たちの神様の方がはるかに大きいです。そして、神様は私たちを愛しておられるので、きっと私たちを助けてくださいます。

ですから、私たちの問題に焦点を当てないようにしましょう。偉大な神様に焦点を当てましょう。私たちを愛しておられる神様に焦点を当てましょう。