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マタイの福音書のデボーション

不思議なこと

それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。

そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。(マタイの福音書17:1ー3)

イエス様、あなたは他の人々を残し、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、その山に登られました。どうしてでしょうか。彼らにご自分を、より完全に現すためです。

あなたは、私にもご自分を現したいと願っておられるのでしょうか。

それは、本当に不思議なことです。

だから、弟子たちのように、私は喜んであなたと時間を過ごします。

エリヤのように、私はあなたのもとに行き、あなたの御顔を求めます。(列王記第一19:8ー9、11)

モーセのように、私は願います。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(出エジプト記33:18)

イエス様、私に、より完全にご自分を現してください。私は、あなたをもっと知りたいのです。

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列王記第二のデボーション

祈るときの私たちの態度

ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。(列王記第二20:3)

この出来事は、アッシリアの王センナケリブがユダに侵略し始めた後、その軍隊がエルサレムを包囲する前に起こったようです。(20:13と18:14ー16を参考してください。)

私が気づいたのは、ヒゼキヤの祈りの根拠と神様の答えの根拠です。

ヒゼキヤは祈るとき、自分の忠実さを指して、「私は良い人だ」と主張しました。

でも、神様がなぜヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救ってくださったのかを説明された時、何と言われたでしょうか。

神様は、「わたしのために、わたしのしもべダビデのため」と言われました。(16節)

簡単に言うと、ヒゼキヤの真実さや善良さではなく、ご自分の栄光のため、また、ご自分のいつくしみ、忠実さ、恵みによって神様はそうしてくださいました。

神様はダビデにいろんな約束をしたので、その約束を忠実に守ってくださいました。

そして、ヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救われたことによって、神様はヒゼキヤだけでなく、ユダの人々にも、周囲の国々にも、ご自分の栄光といつくしみと恵みを現されたのです。

この話を読んで、私はこう考えました。

「何によって、私は神様の前に来て祈るのだろうか。自分の忠実さや良い行為を指すのだろうか。私は神様に『私はあなたの祝福に値する』と主張するだろうか。」

もしかすると、私はこう祈るだろうか。

「神様、私はあなたから何も受けるに値しません。でも、私へのあなたのいつくしみや恵みや忠実さによって、私はあなたの前に来て、祈ります。」

そのような心をもって、祈るだろうか。

もし、私たちが「神様の祝福に値する」と思うなら、ヒゼキヤのように、プライドの罠に陥りやすくなります。(12ー19節;歴代誌第二32:24ー25)

「神様が私の願いをかなえてくださることは当たり前だろう。私はふさわしいものだから。私は神様の祝福に値するのだ。」

その反面、神様が私の祈りに「いいえ」と答えると、私たちは怒ってしまいます。

あなたは、何によって神様の前に来て、祈るでしょうか。

自分の善良さを指すのでしょうか。

それとも、神様の恵み、いつくしみ、忠実さによって祈るでしょうか。

天のお父さん、あなたから私は何の良いものに値しません。

それでも、あなたの恵みによって、あなたが私をご自分の子供と呼んでくださり、私は何でも願うことができます。

だから、私はへりくだってあなたの前に来て祈ります。

私の善良さではなく、あなたのいつくしみ、恵み、真実さによって、私は祈ります。

そして、あなたが「はい」と答えても、「いいえ」と答えても、私は、あなたが良い方であり、あなたの道が最善のものであることを信じることを選びます。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コリント人への手紙第二のデボーション

神様の栄光を見る

モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」

 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」」(出エジプト記33:18ー20)

その出エジプト記の箇所と第二コリント3章には、深い関係があります。

私たち罪深い人間にとって、神様の栄光は恐ろしいものです。神様が聖なる方であり、人間がそうではないため、人は神様の顔を見ると死んでしまいます。

そのため、神様の栄光が通り過ぎるとき、モーセは岩の後ろに隠れなければなりませんでした(出エジプト記33:21–23)。

また、幕屋や神殿の中には、至聖所の前に垂れ幕がありました。なぜなら、神様が至聖所でご自身の栄光を現されたため、通常は祭司たちでさえ入ることができなかったからです(レビ記16:2)。

一年に一度だけ、宥めの日に大祭司は至聖所に入ることができましたが、そのとき、香を主の前の火にくべて「雲」を作りました。それは、神様の栄光が霞むためです(レビ記16:12–13)。

イスラエル人にとって、神様の栄光によって輝いていたモーセの顔を見るのは、恐ろしいことでした。だから、その栄光が消えていったにもかかわらず、モーセは覆いをかけました(出エジプト記34:29–30)。

しかし、十字架でイエス様が死なれたとき、その垂れ幕は裂かれました。そして、私たちは主に立ち返ると、覆いは取り除かれます。イエス様の顔を見るとき、私たちは神様の栄光を見るのです。

その栄光を見ても、私たちは滅びることはありません。むしろ、私たちは主と同じかたちに姿を変えられていきます。

私たちは罪深い者であるにもかかわらず、神様は私たちを少しずつ変えてくださいます。そして、イエス様がもう一度この世に来られると、私たちはたちまちイエス様に似た者とされます(第一ヨハネ3:2)。

そして、最も素晴らしいことは、モーセの場合は神様の栄光が消えていきましたが、私たちの場合は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていくということです(第二コリント3:18)。

だから、パウロのように大胆に振る舞いましょう(第二コリント3:13)。

大胆に神様に近づきましょう(ヘブル10:19–22)。

また、大胆に命を与える福音を伝えましょう(第二コリント4:4–6)。