ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。(列王記第二20:3)
この出来事は、アッシリアの王センナケリブがユダに侵略し始めた後、その軍隊がエルサレムを包囲する前に起こったようです。(20:13と18:14ー16を参考してください。)
私が気づいたのは、ヒゼキヤの祈りの根拠と神様の答えの根拠です。
ヒゼキヤは祈るとき、自分の忠実さを指して、「私は良い人だ」と主張しました。
でも、神様がなぜヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救ってくださったのかを説明された時、何と言われたでしょうか。
神様は、「わたしのために、わたしのしもべダビデのため」と言われました。(16節)
簡単に言うと、ヒゼキヤの真実さや善良さではなく、ご自分の栄光のため、また、ご自分のいつくしみ、忠実さ、恵みによって神様はそうしてくださいました。
神様はダビデにいろんな約束をしたので、その約束を忠実に守ってくださいました。
そして、ヒゼキヤを癒し、ユダをアッシリアから救われたことによって、神様はヒゼキヤだけでなく、ユダの人々にも、周囲の国々にも、ご自分の栄光といつくしみと恵みを現されたのです。
この話を読んで、私はこう考えました。
「何によって、私は神様の前に来て祈るのだろうか。自分の忠実さや良い行為を指すのだろうか。私は神様に『私はあなたの祝福に値する』と主張するだろうか。」
もしかすると、私はこう祈るだろうか。
「神様、私はあなたから何も受けるに値しません。でも、私へのあなたのいつくしみや恵みや忠実さによって、私はあなたの前に来て、祈ります。」
そのような心をもって、祈るだろうか。
もし、私たちが「神様の祝福に値する」と思うなら、ヒゼキヤのように、プライドの罠に陥りやすくなります。(12ー19節;歴代誌第二32:24ー25)
「神様が私の願いをかなえてくださることは当たり前だろう。私はふさわしいものだから。私は神様の祝福に値するのだ。」
その反面、神様が私の祈りに「いいえ」と答えると、私たちは怒ってしまいます。
あなたは、何によって神様の前に来て、祈るでしょうか。
自分の善良さを指すのでしょうか。
それとも、神様の恵み、いつくしみ、忠実さによって祈るでしょうか。
天のお父さん、あなたから私は何の良いものに値しません。
それでも、あなたの恵みによって、あなたが私をご自分の子供と呼んでくださり、私は何でも願うことができます。
だから、私はへりくだってあなたの前に来て祈ります。
私の善良さではなく、あなたのいつくしみ、恵み、真実さによって、私は祈ります。
そして、あなたが「はい」と答えても、「いいえ」と答えても、私は、あなたが良い方であり、あなたの道が最善のものであることを信じることを選びます。
イエス様の御名によって祈ります。アーメン。