私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。
ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。(ピリピ人への手紙3:12-15)
クリスチャンとして、私たちはいつも成長しているはずですが、この世に生きている限り、私たちは終点に辿り着くことはありません。つまり、私たちは完全な人になることはないということです。
パウロも、自分がすでに到達しているとは思っていませんでした。でも毎日、彼はイエス様をもっと知り、イエス様のようになろうと努めていました。
しかし、パウロが前のものに向かって身を伸ばすにつれて、彼は二つのことを覚えていました。
一つ目は、自分の義ではなく、キリストの義によってパウロが神様に受け入れられていることです。パウロがイエス様とその十字架の働きを信じたので、キリストの「義の通知表」は、パウロの「義の通知表」になりました(9)。
だからこそ、パウロの通知表には「5」しか書いてありませんでした。
そういうわけで、パウロは、神様の愛と受け入れを得ようと努めていたわけではありません。彼は神様の愛と受け入れをもう受けていたからです。
むしろ、神様がパウロを捕らえてくださり、良い計画を持っていることを、パウロはとても喜びました。
そして、その喜びによって、パウロは神様が準備してくださった良いものを捕らえようとして追求していました。
二つ目は、自分の努力が無駄なものではないということです。パウロはこの世に生きている限り、完全になることがないと知っていたけれど、必ずある日、自分が愛しているイエス様のようになると知っていました(21)。
パウロは毎日その希望をもって、生活を送りました。
私たちもその希望をもって、生活を送りましょう。毎日、神様の恵みによって生き、イエス様のようになるように成長し、神様の良い計画を追求しましょう。
