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出エジプト記のデボーション

この世が知るように

あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。。。

わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。(出エジプト記7:2,5)

モーセとアロンは、ファラオとエジプト人全員が神様が主であることを知るように、神様の言葉を告げなければなりませんでした。

同じように、私たちの周りの人々が神様が主であることを知るために、私たちも神様の言葉を告げなければなりません。

しかし、モーセとアロンの言葉がほとんど裁きの言葉であったのに対し、私たちの言葉は和解の言葉なのです。

パウロはこう言いました。

これらのことはすべて、神から出ています。

神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。

すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。

私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(第二コリント5:18ー21)

だからこそ、周りの人々が神様が主であることを知り、神様と和解することができるように、神様の言葉を告げましょう。

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マタイの福音書のデボーション

神様の真理に目と耳を閉じること

正直に言うと、神様の真理を聞くのが辛い時もあります。なぜなら、その言葉が私たちの心に深く染みることがあるからです。でも、そのような時、私たちはどうするでしょうか。

イエス様が言われたように、ある人たちは真理に目と耳を閉じてしまいます。

その結果はどうなるでしょうか。彼らの心は鈍くなり、神様の御声が聞こえなくなってしまいます。

それが、真理を無視することの危険性です。真理を無視すれば、あなたの心は鈍くなってしまいます。

あなたはどうでしょうか。最近、神様のみ言葉を聞いたとき、「ちょっと痛いな」と感じたことがあったでしょうか。その時、あなたはどうしましたか。

「主よ。あなたの恵みと力によって、私は従います。でも、どうか私を助けてください」と答えたでしょうか。

もしかすると、あなたは自分の目と耳を神様の真理に閉じてしまったかもしれません。

神様は、あなたの壊れた人生を癒したいと願っておられます。しかし、もしあなたが耳と目を神様のみ言葉に閉ざしてしまうなら、その癒しを知ることはできません。

あなたは、どうするでしょうか。

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ヨハネの福音書のデボーション

弟子のしるし

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。(ヨハネの福音書8:31)

その言葉を読んだとき、イエス様は私の心に語りかけられました。

弟子のしるしの一つは、もちろん愛です。(ヨハネ13:34〜35)

しかし、イエス様によれば、もう一つの弟子のしるしは、私たちがただイエス様を信じることだけではなく、そのことばにとどまることです。つまり、私たちはいつもそのことばに心を開き、受け入れ、従うということです。

37節では、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。

ある英訳には、こう書かれています。

私のことばは、あなたのうちで前進していません。

口語訳も非常に興味深い表現をしています。

わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。

それを読んだとき、神様が私たちにこう問いかけておられるように感じました。「あなたは、私のことばに心を開いているでしょうか。私のことばは、あなたのうちで前進しているでしょうか。」

私たちが神のことばに心を開くと、そのことばによって私たちは変えられます。私たちの考え方も、私たちの行いも変えられます。私たちはイエス様のように考え、生き始めます。神の子どもたちのように考え、生き始めます。

そして、イエス様によれば、私たちが神のことばにとどまり、心を開き、そのことばを信じ、受け入れ、従うなら、その真理は私たちを自由にします。(32節)

あなたはどうでしょうか。あなたは神のことばに心を開いているでしょうか。そのことばは、あなたのうちで前進しているでしょうか。

天のお父さん、あなたのことばは、私のうちでどこまで前進しているでしょうか。時々、私は「どうかなぁ」と思います。

私が、あなたのことばに開かれた心を持つことができますように。

教会のメッセージを聞くとき、聖書を読むとき、兄弟姉妹があなたのことばを分かち合うとき、そのことばが厳しくても、そのことばを聞きたくなくても、私がそのことばを聞き、受け入れ、従うことができますように助けてください。

なぜなら、私はあなたが良い方であることを信じているからです。また、あなたのことばによって、私が自由と喜びを知ることができると信じているからです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

私たちから響き渡る主のことば

主のことばがあなたがたのところから出て。。。響き渡った。。。(テサロニケ人への手紙第一1:8)

天のお父さん、あなたは私を愛し、選んでくださいました。あなたが御霊で私を満たしてくださったので、私に対するあなたの愛に関して、強い確信を持っています。

だから、あなたのことばが私から出て、周りの人々に響き渡るように。

私の言動が、周りの人々に私の信仰を表すように。彼らが、あなたに対する私の愛、また彼らに対する私の愛を見ることができるように。そして、私がどんな苦しみに直面しても、彼らが私の中にあなたの希望が輝いていることを見ることができるように。

私の周りの多くの人々は、あなたを知りません。彼らはこの世に、平安や希望を持っていません。彼らは愛に飢えています。だから、彼らに触れるために私を用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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民数記のデボーション

神が私たちの口に置かれることば

バラムはバラクに言った。

「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は告げなければなりません。」(民数記22:38)

私が教会で聖書を教えているので、その言葉は私の心を打ちました。

私には、単に好きなことを教える自由がありません。神様が私の口に置かれた言葉を告げなければなりません。

しかし、すべてのクリスチャンがその原則に従わなければなりません。

時には、周りの人々が、自分が聞きたいことを言うように、私たちにプレッシャーをかけてきます。

パウロはこう言いました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め(ます)。。。(第二テモテ4:3)

イエス様も、そんなプレッシャーをよく感じられました。けれども、イエス様はいつも天の父の言葉に応じて話されました。(ヨハネ7:16-17)

それに、バラムとは違って、イエス様はいつも天の父の栄誉を求められました。

私たちは、主の模範に従って、恵みとまことをもって人々に語りましょう。