カテゴリー
エペソ人への手紙のデボーション

あらかじめ備えられた道を歩む

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

昨日、私は来日30年の記念日を祝いました。1995年に来たとき、これほど長く日本にいることになるとは思っていませんでした。

しかし、私が気づいてきたのは、神様が私のために日本での働きをあらかじめ備えてくださっていたということです。

そのことを思い起こすたびに、私は深く感動します。

そして神様が私に思い出させてくださったのは、まだまだあらかじめ備えてくださっている働きがあるということです。それがどのようなものであるか、私は知りませんが、その導きに注意を払い、その良い行いに歩みたいと願っています。

あなたもそのように歩むことができるように祈ります。

なぜなら、私だけではなく、私たち皆が神の作品だからです。

私たちは皆、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。

私たち皆が良い行いに歩むように、神様はその良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

そして、私たちは一人でではなく、むしろ共に歩むように呼ばれているのです。

カテゴリー
創世記のデボーション

誰の計画?

今日の箇所を読んだとき、私は考えました。

「イサクは誰の計画に従っていただろうか。神様がヤコブとエサウに関してリベカに何と言われたか知っていただろうか(創世記25:23)。」

きっと、イサクはエサウがヤコブに長子の権利を売っていたことを知っていたでしょう。それでも、イサクはヤコブではなく、エサウの方を祝福しようとしました。

そして、私はもう一つのことを考えました。「ヤコブは誰の計画に従っていただろうか。」

ヤコブは「もちろん、神様の計画に従っているよ。だって、神様はエサウが私に仕えると約束してくださった」と主張することができたでしょう。

でも、私はダビデ王のことを思い出しました。

ダビデも同じようなことを言うことができました。神様はダビデがイスラエルの王になると約束してくださいました。しかし、サウルを殺す機会が二度あったのに、ダビデはそうしませんでした。

むしろ、ダビデは神様とそのタイミングを待ちました。

今日、私はたまたま詩篇25篇を祈っていて、ダビデの態度を見ました。

主よ、あなたをわがたましいは仰ぎ求めます。。。

まことに、あなたを待ち望む者がだれも恥を見ず、ゆえなく裏切る者が恥を見ますように。(詩篇25:1、3)

ヤコブは、神様とそのタイミングを待つのではなく、むしろ、ゆえなくイサクとエサウを裏切りました。その結果、ヤコブは恥を見ました。

エサウがヤコブを殺そうと思っていたので、ヤコブは逃げなくてはなりませんでした。彼は母リベカの顔を見ることは、二度とありませんでした。

エサウは最終的にヤコブを許してくれましたが、ヤコブは何年もの間、恐れと苦しみをもって生きていました。

それでも、神様はヤコブに恵みを与えてくださいました。

ダビデと同じように、ヤコブがこのようなことばを祈る姿を想像できます。

私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ、あなたのいつくしみのゆえに。(詩篇25:7)

神様は、そのような恵みをヤコブに与えてくださいました。

とにかく、私が考えていたのは、「私は誰の計画に従っているだろうか。神の計画だろうか。私の計画だろうか」ということです。

だから、今日、私はダビデのことばを祈りました。

主よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。

あなたの真理に私を導き、教えてください。

あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望みます。(詩篇25:4ー5)

カテゴリー
マタイの福音書のデボーション

イエス様の言うことを聞いていますか?

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。。。

彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」

すると彼らはたいへん悲しんだ。(マタイの福音書17:5,22-23)

私たちは、どれほどイエス様の弟子たちのようにふるまっているでしょうか。

神様は良い計画を持っておられます。その計画は確かに良いものです。しかし、私たちは神様のことばすべてに耳を傾けていないため、その計画を十分に理解することができません。

私たちが聞いているのは、自分の計画や夢や希望が失われるということだけです。だから、私たちは深く悲しんでしまいます。

けれども、私たちは、その計画や夢や希望の灰の中から何がよみがえるのかを知りません。

それは、喜び、平和、そしていのちです。

しかし、最も大切なのは、私たちがイエス様ご自身を見ることになるということです。

ですから、神様の計画が私たち自身の計画に反していて、私たちが悲しみに沈んでいるときこそ、天の父のことばを思い起こしましょう。

「これは、わたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

カテゴリー
ヨハネの福音書のデボーション

イエス様の愛を疑う?

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 しかし(別訳:「そのようなわけで」)、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。(ヨハネの福音書11:5ー6)

ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」

しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか」と言った。(36ー37節)

しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」

このことは、彼が自分から言ったのではなかった。彼はその年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(49ー52節)

イエス様は私たちを愛しておられます。それでも、イエス様が私たちの望むように応えてくださらない時もあります。

そのような時、私たちは苦しみ、「どうして」と問いかけます。また、「イエス様は本当に私を愛しておられるのだろうか」と思うこともあります。

けれども、実のところ、多くの場合、私たちは何も分かっていません。神様はすべてをご存じですが、私たちはまったく考えていない要素が多くあるのです。

最大の例は、十字架です。神様がなさっていたことを、誰も理解していませんでした。祭司たちも、パリサイ人たちも、イエス様の弟子たちも、イエス様の母マリアさえも、神の計画を知りませんでした。

しかし、十字架こそが、神様の愛の最大の表現だったのです。

あなたは今、さまざまな疑問を抱え、苦しんでいるでしょうか。神様に「どうして」と問いかけているでしょうか。

マリアとマルタの模範に従いましょう。彼女たちは深く傷ついていましたが、イエス様に背を向けることはありませんでした。むしろ、彼女たちはイエス様のもとに走り寄り、イエス様を信じ続け、従い続けました。

彼女たちの模範に従うなら、私たちもいつか神様の栄光を見ることができます。

私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。

この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

しかし、このことは、 「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった」 と書いてあるとおりでした。」(第一コリント3:7ー9)

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

神様の計画が見えない時に

クリスチャンとして、私たちはしばしば「どうして」と神に問いかけます。けれども、その答えが与えられることは、ほとんどありません。

ヘロデ王がイエスの弟子であり、ヨハネの兄でもあるヤコブを殺したとき、エルサレムのクリスチャンたちはきっと神様に「どうしてですか」と尋ねたことでしょう。

(ちなみに、このヘロデ王は、ベツレヘムでイエス様を殺そうとしたヘロデの孫です。また、17節に登場するヤコブは、イエス様の弟です。)

彼らがヤコブの死を悲しんでいる最中、ヘロデ王はすぐにペテロを捕らえ、牢に入れ、彼も処刑しようとしました。

しかし、神様は奇跡的にペテロを救い出されました。

では、なぜ神様はペテロを助け、ヤコブを助けられなかったのでしょうか。

ペテロのために祈ったとき、クリスチャンたちはより強い信仰を持っていたからでしょうか。

そうではありません。ペテロが門の前に立っていると告げられたとき、彼らは「あなたは気が変になっている」と言いました。

彼らはペテロのために熱心に祈っていたのに、神様が「はい」と答えられるとは全く信じていなかったようです。

では、なぜでしょうか。

私たちには分かりません。

不思議であり、時に痛みを伴う真理は、神様の計画が私たちの計画とは異なるということです。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

1. どんな試練に直面しても、神様が良い方であることを信じましょう。

私たちは神様の計画を理解できないかもしれませんが、その計画が良いものであるという確信を持つことができます。なぜなら、神様は良い方だからです。

2. 神様が最終的に正義をもたらされることを信じましょう。

神様はその正義を速やかにもたらされますが(ルカ18:7ー8)、私たちの「速やかさ」と神様の「速やかさ」は異なります(黙示録6:9ー11)。

それでも、神様はご自身の時に、正義をもたらしてくださいます。この話では、その正義を見ることができます。結局、神様はヘロデをさばいて殺されました(20~23節)。

3. 祈り続け、神様を求め続けましょう。

イエス様は私たちにそう命じられました(ルカ18:1)。

しかし、祈るときに覚えておくべき大切なことがあります。私たちの目的は、神様を私たちの計画に従わせることではなく、神様の計画を知り、その計画に従うことです。

最近、私の友人が興味深いことを言いました。「神様はいつも私の祈りに答えてくださいます。でも、ほとんどの場合、神様は私の期待通りには答えてくださいません。」

彼がそう言ったとき、苦々しい態度ではありませんでした。また、祈ることを諦めようとしているわけでもありませんでした。むしろ、神様が良い方であるという確信をもって語っていました。

神様は良い方です。神様の計画は良いものです。

けれども、イエス様がこの世に来られ、その計画が成就するとき、私たちはなお信仰をもっているでしょうか(ルカ18:8)。

あなたはどうでしょうか。そのような信仰を持っているでしょうか。

カテゴリー
サムエル記第一のデボーション

私の議題、神の議題

サウルのサムエルとの出会いについて読んだとき、私はこう考えました。「どれだけ、神様に祈るとき、私は自分の課題ばかりを持っているだろうか。」

私はよく、自分にとって大きいと思える問題について祈ります。でも、神様の御前に来ると、神様には、より大きな課題があります。

もちろん、神様は私の問題を心にかけてくださり、喜んで助けてくださいます。

でも、私はしばしば、自分の問題にとらわれて、神様のより大きなご計画を見損なってしまいます。

サウルのように、自分が取るに足りない者だと思っていても、実際には、私は神様のご計画の中で大切な役割を担っています。

つまり、神様は私を用いて、周りの人々に触れたいと願っておられるのです。神様は、ご自分の御国のために、私を用いたいと願っておられます。

主よ。私が自分の小さな世界に集中しすぎないように助けてください。私が自分の問題だけでなく、私の周りであなたが何をなさっているかを見ることができますように。

私は、あなたのご計画に参加したいと願っています。どうか、毎日、あなたが私にしてほしいことを教えてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
ルツ記のデボーション

偶然ではないのです

それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。(ルツ記2:3)

ルツ記の著者は、ちょっと微笑みながら、その言葉を書いたでしょう。

「はからずも」?

それは、きっと神様の導きでした。

ナオミは、神様が自分を見捨てたと思っていました。でも、神様はまだナオミのために計画を持っておられました。上記の「偶然」は、ナオミだけではなく、私たちにも影響を与えました。

(ネタバレですが、興味があれば、マタイの福音書1:5〜6、16を読んでみてください。)

ナオミにそれがわかってきたので、心の中に希望がよみがえりました。

神様には、偶然はありません。神様は、意図的にご自分の目的を達成しておられます。そして、その計画は、神様を愛する私たちの益のためのものです。(ローマ8:28)

私はこれまで、いろんな「偶然」に出会ってきました。でも、振り返ると、それらは偶然ではありませんでした。そして、神様の私のための計画が明らかになるにつれて、私は神様が良い方であることを、もっと深く知るようになりました。

だからこそ、私は希望を持っています。

たしかに、主は御恵みを惜しまない方です。