クリスチャンとして、私たちはしばしば「どうして」と神に問いかけます。けれども、その答えが与えられることは、ほとんどありません。
ヘロデ王がイエスの弟子であり、ヨハネの兄でもあるヤコブを殺したとき、エルサレムのクリスチャンたちはきっと神様に「どうしてですか」と尋ねたことでしょう。
(ちなみに、このヘロデ王は、ベツレヘムでイエス様を殺そうとしたヘロデの孫です。また、17節に登場するヤコブは、イエス様の弟です。)
彼らがヤコブの死を悲しんでいる最中、ヘロデ王はすぐにペテロを捕らえ、牢に入れ、彼も処刑しようとしました。
しかし、神様は奇跡的にペテロを救い出されました。
では、なぜ神様はペテロを助け、ヤコブを助けられなかったのでしょうか。
ペテロのために祈ったとき、クリスチャンたちはより強い信仰を持っていたからでしょうか。
そうではありません。ペテロが門の前に立っていると告げられたとき、彼らは「あなたは気が変になっている」と言いました。
彼らはペテロのために熱心に祈っていたのに、神様が「はい」と答えられるとは全く信じていなかったようです。
では、なぜでしょうか。
私たちには分かりません。
不思議であり、時に痛みを伴う真理は、神様の計画が私たちの計画とは異なるということです。
では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。
1. どんな試練に直面しても、神様が良い方であることを信じましょう。
私たちは神様の計画を理解できないかもしれませんが、その計画が良いものであるという確信を持つことができます。なぜなら、神様は良い方だからです。
2. 神様が最終的に正義をもたらされることを信じましょう。
神様はその正義を速やかにもたらされますが(ルカ18:7ー8)、私たちの「速やかさ」と神様の「速やかさ」は異なります(黙示録6:9ー11)。
それでも、神様はご自身の時に、正義をもたらしてくださいます。この話では、その正義を見ることができます。結局、神様はヘロデをさばいて殺されました(20~23節)。
3. 祈り続け、神様を求め続けましょう。
イエス様は私たちにそう命じられました(ルカ18:1)。
しかし、祈るときに覚えておくべき大切なことがあります。私たちの目的は、神様を私たちの計画に従わせることではなく、神様の計画を知り、その計画に従うことです。
最近、私の友人が興味深いことを言いました。「神様はいつも私の祈りに答えてくださいます。でも、ほとんどの場合、神様は私の期待通りには答えてくださいません。」
彼がそう言ったとき、苦々しい態度ではありませんでした。また、祈ることを諦めようとしているわけでもありませんでした。むしろ、神様が良い方であるという確信をもって語っていました。
神様は良い方です。神様の計画は良いものです。
けれども、イエス様がこの世に来られ、その計画が成就するとき、私たちはなお信仰をもっているでしょうか(ルカ18:8)。
あなたはどうでしょうか。そのような信仰を持っているでしょうか。