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詩篇のデボーション

神に逆らう世界のために祈る

私たちは神様に対して敵対的な世界に生きています。つまり、人々は、自分が神様の支配下にあり、神様に対して説明責任を持っていることを認めたくないのです。

アサフはそのことをよく理解していました。だからこそ、アサフは、イスラエルに対する周辺の国々の憎しみを見たとき、その憎しみの根本的な理由が分かりました。つまり、彼らは先に神様を憎んでいたからです。

イエス様もその真理をよく理解し、それをご自身と弟子たちに当てはめられました(ヨハネ15:18ー25)。

しかし、ある日すべての人々が膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白します(ピリピ2:10ー11)。

ある人々は、愛と感謝をもって告白します。けれども、他の人々は神様に対する憎しみをもって、渋々それを告白します。

今日の詩篇には、その真理が示されています。

ある日、すべての人々は神様の主権を認めるようになります。彼らは、すべての人々が(自分を含めて)神様の支配下にあることを認めるようになります(詩篇83:18節)。

ある人々は、自分の罪のゆえに恥を負い、正当に裁かれて滅びます。ですから、悔い改めようとしない人々に関して、私たちは神様が正義を実行されるように祈ります。なぜなら、正義を決して実行しない神は、良い神ではないからです。

しかし、それ以上に、私たちは人々が自分の恥の中で悔い改め、神様の御顔を求めるように祈ります(16節)。

なぜでしょうか。それは、神様がご自身の恵みによって、私たちを憐れんでくださったからです。神様は、人々が滅びることなく、救われることを望まれます(エゼキエル書33:11;第一テモテ2:3ー4)。

ですから、神様に敵対するこの世界のために祈りましょう。世の人々が神様の御顔を求め、神様の恵みによって神様を見出すように祈りましょう。

こうして彼らが知りますように。その名が主であるあなただけが全地の上におられる、いと高き方であることを。(詩篇83:18)

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エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

神様の選択、私たちの選択

クリスチャンの学者たちは長い間、神様の主権と人間の自由意志について議論を続けています。この箇所では、その二つの要素を見ることができますので、その議論について少し触れます。ただし、そのことに関して、私には特に新しい考えがあるわけではありません。

この箇所では、エホヤキム王がバビロンの王に反抗したため、バビロンはエルサレムを攻撃し、彼を退けてバビロンに囚人として連れて行きました。

その息子エホヤキンは、王としてわずか3か月しかユダを治めませんでした。ネブカデネザルは彼も退け、バビロンに囚人として連れて行きました。ネブカデネザルはエホヤキンだけでなく、エホヤキンの母、妻たち、すべての高官、一万人もの有力者、職人や鍛冶屋たちも捕囚として捕らえ、移しました。

さらに、エホヤキンの代わりにネブカデネザルは、エホヤキンのおじゼデキヤを王としました。(歴代誌によれば、ゼデキヤはエホヤキンの「兄弟」ですが、その意味は「近親者」です。列王記第二24:17によれば、ゼデキヤはエホヤキンのおじでした。)

その時、神様はエレミヤに幻を通して二つのかごのいちじくを見せられました。一つのかごにはとても良いいちじくがあり、もう一つのかごにはとても悪いいちじくがありました。

神様が言われたのは、追放された人々を良いいちじくだと見なされるということです。その一方、エルサレムに残った人々は悪いいちじくでした。そして、神様はエルサレムに残った人々を滅ぼされますが、追放された人々を祝福し、いつの日かイスラエルに帰らせると約束されました。

しかし、どうして神様はあるグループを救われ、他のグループを滅ぼされるのでしょうか。神様は追放された人々についてこのように言われました。

わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。(6-7)

もちろん、追放された人々の中には、預言者ダニエルやエゼキエルのように、比較的良い人々もいました。とはいえ、あまり良くない人々もいました。どうして神様は彼らを救われたのでしょうか。私には分かりません。ただ、神様のあわれみだとしか言えません。

時々、人々はこう答えます。「神様は出来事が起こる前に、全てを知っておられます。だから、神様は彼らが最終的に悔い改めると知っておられたので、彼らを救われたのでしょう。」

しかし、この箇所によれば、どうして彼らは悔い改めたのでしょうか。自分の良い性格によって悔い改めたのでしょうか。それは違います。神様はこう言われました。「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。」

つまり、神様が彼らの心を変えられたので、彼らは悔い改めることができたのです。では、どうして神様はゼデキヤや他のエルサレムに残った人々の心を変えられなかったのでしょうか。

私には分かりません。

では、私が確信していることは何でしょうか。

一つ目は、人々が自分の選択のゆえに裁かれるということです。彼らが神様に従うことを選んでいれば、神様は彼らを救われました。けれども、彼らはその道を選びませんでした。

二つ目は、神様が人々の心に働きかけ、神様を知る心を与えなければ、だれも救われないということです。

追放された人々には、そのようなことが起こりました。そして、私たちにとっても同じです。

ある牧師がこう言いました。「神様が私たちの壊れたアンテナを修理してくださったので、私たちは神様の声を聞けるようになったのです。」

三つ目は、神様の選択はランダムではないということです。神様はサイコロの結果によって選ばれることはありません。神様にはご自身の選択のための常に良い理由があります。

とはいえ、私たちの問題は、その理由を知らないことです。多くの場合、神様はその理由を説明されません。だからこそ、私たちは神様を信頼する以外に何もできないのです。

アブラハムはこのように言いました。

全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。(創世記18:25)

アブラハムはそう信じました。アブラハムは神様がいつも公義を行ってくださることを信じました。私たちもそう信じましょう。

しかし、私たちは自分自身に尋ねなくてはならないのは、「私は何を選択するのでしょうか」ということです。

だれも、神様の前に来て、「私が信じなかったのはあなたのせいです」と言うことはできません。

私たちは自分の選択に対して責任を取るべきです。そして、その選択に対して、私たちは神様の前に申し開きをしなくてはなりません。

神様に従うでしょうか。神様に従わないでしょうか。あなたはどうしますか。