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クリスマスの12日

クリスマスの3日目

彼女はまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくでしょう。私が彼に三人の子を産んだのだから」と言った。

それゆえ、その子の名はレビと呼ばれた。(創世記29:34)

「レビ」は、ヘブライ語で「結ぶ」を意味する言葉に聞こえます。

レアはヤコブの愛を切望し、彼と結ばれることを願っていました。

多くの人々もまた、そのような愛を切望します。

イエス様において、神様は愛を与えてくださり、私たちは神様と結ばれました。

そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。(エペソ2:12-13)

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ヨハネの手紙第一

私たちに対する神様の愛に関する確信を持つなら

この手紙では、ヨハネの話がしばしばあっちこっちに飛んでいるように見えるかもしれません。

特に13節と14節では、そのように感じられるでしょう。ヨハネは私たちの救いの確信について話していたかと思うと、突然、神様が私たちの祈りに答えることについて語り始めます。それはなぜでしょうか。

しかし、この場合、その二つの聖句には深い繋がりがあるように思います。パウロはこう書きました。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)

言い換えると、神様が最も尊いものを私たちに与えるほど私たちを愛しておられるのなら、神様は私たちのすべてのニーズにも備えてくださる、ということです。

おそらくヨハネも同じことを言っているのでしょう。彼はこう言いました。

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。

何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(ヨハネの手紙第一5:13-14)

時々、私たちは神様に何かを願うことをためらうことがあります。それは、自分が自己中心だと思うかもしれないからです。

しかし、神様の子どもとして、どんな願いであっても確信を持って神様に頼むべきです。なぜでしょうか。

それは、私たちが神様を呼び求めたとき、神様が私たちを救ってくださったほどに、神様は私たちを愛しておられるからです。その愛ゆえに、神様は私たちの大きな願いも小さな願いも聞いてくださいます。

さらに、神様が私たちを救ってくださったので、私たちは神様が私たちの最善を望んでおられることを確信できます。だから、神様は私たちを傷つけるものではなく、良い賜物だけを与えてくださるのです。

これが、私たちの願いの条件です。もし私たちが神の御心に従って願うなら、神様はその願いを聞いてくださいます。そして、もしその願いが私たちの益となるなら、神様はその祈りをかなえてくださいます。

けれども、その願いが私たちの益とならないのであれば、神様はその祈りをかなえてくださらないのです。

ですから、神様に願うことをためらわず、どんな願いもお伝えしましょう。

そして、神様に信頼する心を持ちましょう。神様が「はい」と答えるときも、「いいえ」と答えるときも、私たちは神様に信頼する子どもとして、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じましょう。

十字架において、神様は私たちに対する愛と信頼に値するお方であることを証明されたのです。

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ヨハネの手紙第一

私たちに対する神様の愛

前回の記事で私は、4章に戻るとお伝えしました。その聖句は非常に重要で、前回の記事の内容とも深く関係しています。

以前にも述べたように、私たちが神様の愛を受け入れ、それを深く味わえば味わうほど、自分自身に対する視点や周りの人々に対する視点が変わります。

だからこそ、その愛をさらに深く受け入れましょう。

ヨハネは次のように言います。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4:9-10)

その言葉を噛み締めましょう。

神様は私たちが地獄に行くことを許すことができたでしょう。それは神様の権利でした。神様には人を救う義務はありませんでした。

少し考えてみてください。神様は罪を犯した天使たちのためにイエス様を十字架に送ったでしょうか。神様はそうされませんでした。イエス様は人間たちだけのために死なれたのです。

また、神様はこの世を裁くためにイエス様を送ることもできたでしょう。イエス様は私たち全員を反逆者として裁くことができたでしょう。ところが、神様は私たちを裁くためではなく、私たちに命を与えるためにイエス様を送ってくださいました。

驚くべきことは、私たちが救いを求めていなかったという事実です。私たちは「神様、私は罪を犯しました。でも、あなたを愛しています。だから私を救ってください」と願ったわけではありません。

むしろ、私たちは自分の罪に耽り、それに満足していました。私たちには神様に従う意思がまったくありませんでした。

それでも、神様は私たちに目を向けてくださいました。それは私たちを裁くためではなく、私たちを救うためでした。

だから、神様はイエス様を宥めの供え物として送られたのです。

以前にも書きましたが、人々は神様を宥めるために供え物を捧げてきました。

しかし、神様は私たちがそのような供え物を捧げるのを待たれませんでした。私たちはその気がなかったし、たとえその気があったとしても、どんな供え物を捧げても神様を宥めることなどできなかったでしょう。

それでも、神様は私たちの代わりに供え物を捧げてくださったのです。

ヨハネの言葉はパウロの言葉に通じるものがあります。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

神様が私たちのためにしてくださったことを、当たり前のものだと考えるのは簡単です。

しかし、そうしてはいけません。今日の第一ヨハネの聖句とローマ5:8を暗記しましょう。その言葉について思いを巡らせ、その真理を心に刻み込まれるようにしましょう。

そうすることで、あなたの人生は完全に変わるでしょう。

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ヨハネの手紙第一

私たちが本当に神様を知り、愛するなら(2)

今日は4章の聖句を一旦飛ばし、次の記事でその聖句に戻りたいと思います。今日は前回の話を完成させたいと思います。

以前の記事で述べたように、もし私たちが本当に神様を知り、愛しているなら、周りの人々への愛が私たちから自然に流れ出るはずです。だからこそ、ヨハネはこう語りました。

生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。(ヨハネの手紙第一5:1)

また、4章の終わりでヨハネは、「目に見える兄弟を愛していない人が、目に見えない神を愛することを主張することはできない」と言います。(4:20)

それでも、クリスチャンになったからといって、すぐにすべての人々を愛せるわけではありません。愛の実は、他の御霊の実と同じように、成長するのに時間がかかります。けれども、その実は必ず成長していきます。

2節には非常に興味深い言葉があります。ヨハネはこう言います。

このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。(2)

4章で読んだ内容から、ヨハネが反対のことを言うだろうと予想したかもしれません。つまり、「どうして私たちは自分が神様を愛していると知ることができるのでしょうか。それは、私たちが神様の子どもたちを愛するからです」ということです。

しかし、ヨハネが実際に語ったのは、「神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛する」ということです。

この二つの言葉の間には微妙な違いがあります。その違いは、私たちの焦点にあります。

最初の言葉では、自分が神様を愛していることを証明するために、私たちは一生懸命に周りの人々を愛することに焦点を当てています。けれども、人を愛するのが難しいときもあるので、その言葉は重荷になりがちです。

一方で、二つ目の言葉によれば、私たちは人々を愛することに集中せずに、神様を愛することに集中します。人々ではなく、神様が私たちの焦点です。

そして、神様ご自身や、私たちに対する神様の愛、さらには神様に対する私たちの愛に焦点を当てることで、私たちは自然に神様を喜ばせたいと思うようになります。その結果、私たちは神様の命令を守るのです。

最も重要な命令は二つあります。一つ目は、私たちは何よりもまず神様を愛するべきだということです。二つ目は、私たちは周りの人々を愛するべきだということです。これが愛の順序です。

したがって、神様を愛することに集中するならば、私たちは自然に人々を愛し始めます。

さらに、私たちが主に神様を愛することに集中すると、周りの人々を愛するという重荷が軽くなります。それはなぜでしょうか。

神様に焦点を当てると、私たちは神様の愛をもっと深く知るようになります。そして、その愛を受け入れれば受け入れるほど、私たちの視点が変わります。自分自身に対する視点も変わり、周りの人々に対する視点も変わるのです。

もはや、私たちは自分自身や周りの人々を性格や外見の美しさによって判断しません。むしろ、私たちは神様の目を通して自分自身と周りの人々を見るようになります。

神様は、私たちをゆがめる罪を見るのではなく、初めから私たちに与えてくださった神の似姿をご覧になります。その姿を見るとき、私たちが自分自身や周りの人々を愛することが、より簡単になります。

だからこそ、ヨハネは、神様の命令、特に人を愛するという命令に関して次のように語ることができるのです。

神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(3-4)

神から生まれた者は皆、神様の愛をますます深く知るようになります。そして、その自然な反応として、彼らは神様を愛し、周りの人々を愛するようになります。だからこそ、私たちは罪や憎しみ、そしてこの世界からの攻撃を乗り越えることができるのです。

しかし、そのカギを決して忘れないでください。

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(5)

あなたはどうでしょうか。イエス様が神の子であると信じますか。イエス様があなたの罪のために命を捧げたほどに、神様があなたを愛しておられることを信じますか。その真理に深く浸りましょう。そうすれば、あなたの人生は完全に変わるでしょう。

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ペテロの手紙第一

他の人々が生きるために、イエス様のために生きる

この手紙の中で、ペテロは、その読み手たちが苦しむとき、キリストの模範に従うよう促しています。私たちは人々を恐れるのではなく、むしろ、心の中でキリストを主とすべきです。

なぜ、私たちはそうすべきなのでしょうか。それは、私たちの周りの人々が生きるためです。つまり、彼らもまた、私たちが見出したイエス様にある命を見つけることができるようにするためです。

そのために、私たちのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をするべきです。

周りの人々が、私たちが喜んでキリストのために苦しむ姿を見ると、なぜ私たちがそのようにするのか尋ねるでしょう。そのとき、神様は彼らの人生に働きかける機会を与えてくださるのです。

だからペテロは私たちにこう促します。「神のみこころであるなら、善を行って苦しみを受けましょう。そうすれば、周りの人々はそれを見て、魅了され、神の国に入るかもしれません。」

イエス様は、私たちにとって最終的な模範でした。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(ペテロの手紙第一3:18)

言い換えると、「分からないのでしょうか。イエス様の苦しみによって、天国の門はあなたに開かれたのです。だから、周りの人々のために同じように行いましょう。」

そして、苦しみの後に待っている私たちの最終的な勝利について話した後、ペテロはこう言います。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。(4:1)

簡単に言えば、イエス様が私たちの救いのために喜んで苦しみを受けられたように、私たちも同じ態度を取るべきです。私たちの罪を捨て、自分のために生きることをやめなくてはなりません。むしろ、神様のために生きましょう。(4:2)

ペテロは続けます。

「今まで、あなたがたは一生を棒に振るようにして、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけってきました。

そして、あなたの友人たちは、あなたの優先順位が変わり、もはや彼らと一緒にその罪にふけらないことに驚いています。さらに、彼らはあなたを馬鹿にしたり、迫害したりするかもしれません。」(4:3-4)

しかし、ペテロは私たちにこう思い出させます。

彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。(5)

裁きの日は必ず来ます。イエス様を拒絶したがゆえに、人々は裁かれるのです。だからこそ、ペテロは再び私たちにクリスチャンとしてのミッションを思い出させます。

このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。(4:6)

どうして私たちは福音を人々に宣べ伝えるのでしょうか。それは、自分の体が死んでも、彼らが神様との永遠のいのちを得るためです。

その真理を忘れてはなりません。裁きの日は迫っています。私たちは救われているかもしれませんが、まだ多くの人々が救いを受けていません。

私たちはその人々のために何をしているのでしょうか。キリストの愛で彼らに触れ、イエス様の愛を示しているでしょうか。彼らは私たちの人生を見ることで、イエス様に魅了され、私たちの信仰の理由について尋ねるでしょうか。

それとも、もしかしたら、私たちはただ自分勝手に生き、他の人々が地獄に行くかどうかを気にしていないでしょうか。

神様は彼らを愛しておられました。イエス様をこの世に送るほどに、神様は彼らを愛しておられたのです。

私たちは、同じように彼らを愛しているでしょうか。

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詩篇

私を知っておられる神、私を愛しておられる神

詩篇139篇は本当に有名な詩篇です。多くの人々が23篇と139篇が大好きだと思います。

どうして、この二つの詩篇は親しまれるでしょうか。なぜなら、それらは神様の愛をはっきりと表しているからです。

実は、あなたの視点によって、この詩篇は怖いかもしれません。

アメリカでは、たくさんの人々が「お兄さん」について心配しています。「お兄さん」というのは、政府が、衛星やほかのテクノロジーを通して、私たちを見ていることです。

しかし、神様は私たちの政府よりも有能な方です。私たちが出かけても、リビングにいても、神様は私たちを見てくださいます。

神様は私たちのすべての行動を知っておられます。私たちは暗い所でも隠れることができません。そして、私たちがどこに行っても、神様から逃げられません。

それに、神様は私たちの携帯電話の話も知っておられます。私たちが家にいても、職場にいても、神様は私たちのすべての言葉を知っておられます。

もし、私たちが神様ににらまれたら、それは怖いことでしょう。もし神様が私たちを罰するために待っておられるなら、それは怖いことでしょう。

けれども、神様は愛深く憐み深い目で私たちを見てくださいます。私たちが母のお腹の中にいたとき、神様は私たちを見守っておられました。その子宮の中で、神様は私たちを組み立ててくださいました。

そして、私たちを造っておられる間に、神様は私たちのために夢と計画をお持ちでした。神様は私たちについてずっと考えておられました。ダビデはこう言いました。

神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。(詩篇139:17-18)

それに、神様がこの世界を造る前に、神様は私たちが何をするか、私たちの選択も知っておられたので、そのすべてを神様の計画に織り込みました。

神様は決して驚かれることがありません。神様はプランBの必要がありません。プランAだけがあります。そして、神様の計画は初めから決して変わることがありません。

だから、私たちが何をしても、また、どんなに失敗しても、私たちに対する神様の思いは決して変わりません。神様はご自身の計画に私たちの良い行動も悪い行動も織り込みます。

だから、私たちにとっては一つの質問しかありません。私たちは喜んで神様の計画に参加するでしょうか。それとも、私たちは神様と戦うでしょうか。

もし、神様と戦うなら、神様は私たちの行動を神様の計画に織り込みますが、私たちは苦しむことになります。

ダビデはその選択肢を知っており、神様に従うことを選びました。

彼の言葉は厳しいかもしれませんが、神様が罪を憎んでおられることを知っていたので、ダビデも罪を憎みました。だから、ダビデは罪を犯したがらなかったし、罪人と付き合いたがらなかったのです。

むしろ、彼は神様の前に清い心を保ちたがり、神様を喜ばせたがりました。だから、彼はこう祈りました。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(23-24)

主よ。あなたが私を知って、愛してくださり感謝します。

私が母の胎にいるときに、あなたは私をもう知っていて、計画を持っておられました。

あなたの目的のために私を用いてください。私の人生はあなたのものです。私がどこに行っても、私が何をしても、私を導いてください。

私が変わらなくてはならないところを変えてください。私の罪を取り除き、清めてください。そして、とこしえの道に導いてください。アーメン。

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詩篇

高い御位に座る神、身を低くして覧になる神

多分、神様に関して最も驚いたことは、神様は威光ある方でありながら、私たちを愛しておられることです。

詩人は詩篇113篇の最初から私たちを礼拝するように呼びかけます。

ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1-3)

そして、彼は歌います。

主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。

だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し。。。(4-5)

要するに、「神様は偉大な方です。神様を他のものと比べられません。神様が私たちの賛美に値する方だから、ほめたたえましょう。」

けれども、6節で、詩人はこう言います。

「神様は」身を低くして天と地をご覧になる。(6)

そして、詩人は、どうやって神様が弱いもの、貧しいもの、子供のいない女性(その時代、それは本当に恥ずかしいことでした)を引き上げ、祝福してくださることについて話します。(7-9)

神様は私たちを見るために身を低くし、私たちに触れられました。

しかし、それだけではなく、神様は人間として、この世に来られ、私たちと共に住まわれました。パウロはこう書きました。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ[た]。(ピリピ2:6-7)

だから、神様は私たちのことを本当に理解しておられます。

さらに、神様は私たちの最大の必要を見て、十字架で私たちの罪のための罰を受けられました。

イエス様は死に値しなかったのに、私たちを愛し、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。

だから、詩人が歌ったように、

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(3)

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詩篇

私は誰だろう

ハワイに帰る時、私はいつも星を見るのが大好きです。今、西宮市に住んでいるので、星があまり見えません。ここではほんの2、3個しか星を見ることができません。

けれども、星空を見ると、ダビデのように私は驚きます。

私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。(詩篇8:1)

そして、ダビデのように、私は神様がどれほど大きいか、また、私がどれほど小さいかを考えます。そして、私は思います。「どうして、この素晴らしい宇宙を造られた神様が、私を愛してくださるのだろうか。」

あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。

人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。

あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(3-5)

私は、この詩篇に基づく現代の歌が大好きです。

私は誰なのでしょうか。
どうして、あなたは私についていつも考えておられるのでしょうか。

私は誰なのでしょうか。
どうして、私が呼ぶ時、あなたの耳を私に傾けてくださるのでしょうか。

あなたは本当に私について考えてくださっているのでしょうか。
あなたが私をそんなに愛してくださるので、私は驚きます。

主よ。あなたが私を心に留めてくださることを感謝します。私が祈る時、あなたの耳を私に傾けてくださることを感謝します。

あなたよりも、天使よりも私は劣る者です。それでも、あなたは私に栄光と誉の冠を被らせてくださいます。

私は、あなたにも、天使にも劣る者です。それでも、あなたは私に栄光と誉れの冠を被らせてくださいます。

私はそれらに値するものは何ひとつありません。それでも、あなたは私を愛してくださり、そのように祝福してくださいます。

主よ、私が決してあなたの愛を当然のことと考えないように。むしろ、私があなたの愛でいつも驚くことができますように。アーメン。

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マラキ書

神様の愛を疑う

マラキ書は旧約聖書におけるイスラエルの歴史の締めくくりとなる書です。

以前述べたように、マラキ書が正確にいつ書かれたのかは明確ではありません。けれども、主の宮が建て直された後に書かれたものと考えられます。したがって、おそらくマラキ書はエズラとネヘミヤの時代に記されたものでしょう。

エズラ記とネヘミヤ記を通して、私たちはイスラエルの民が直面していた多くの問題を読みました。特に、ネヘミヤ記13章では彼らの抱えていたさまざまな問題が詳しく描かれています。

マラキも、これらの問題についてイスラエルの民を責めました。

その冒頭で、神様は非常に印象的な言葉を語られます。

わたしはあなたがたを愛している。(マラキ書1:2)

私たちの多くは愛を求めています。残念なことに、多くの人々はその愛を決して見つけることができません。

しかし、もし神様を求めるならば、それはただの愛ではなく、永遠に続く絶えることのない愛を見つけることができるでしょう。

わたしはあなたがたを愛している。

あなたがどんな苦しみを抱えていても、どんな罪を犯していても、どんな失敗をしていても、神様の愛は決して変わることはありません。

神様は過去においてもあなたを愛していました。

現在も、神様はあなたを愛しています。

そして、これからも永遠に、神様はあなたを愛し続けられるのです。

けれども、イスラエルの民はそのことを理解していませんでした。そのため、彼らは皮肉っぽく答えたのです。

どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。(2)

どうして、彼らはその質問をしたのでしょうか。それは、神様が彼らをご自身の国に導いたにもかかわらず、彼らの人生はまだ上手くいっていなかったからです。

ペルシャ帝国が依然としてイスラエルを支配しており、イスラエルの地はあまり繁栄していませんでした。彼らの作物の収穫は乏しく、日々の生活は余裕のない厳しいものでした。

私たちもどれほど神様の愛を疑うでしょうか。

「もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私はこんなにも苦しまなければならないのでしょう。もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私の人生はこんなにみじめなのでしょう。」

しかし、神様はご自身の愛を証明するために、イスラエルの民、そして私たちにこう言われます。

エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。(2-3)

「エサウを憎み」というのはどういう意味でしょうか。神様が本当にエサウを憎んだのでしょうか。そうではありません。実際、神様はエサウを祝福されました。(創世記33:9)

とはいえ、神様がイエス様をこの世に送る計画を考えると、神様がエサウの家系ではなく、ヤコブの家系を選び、エサウの家系を断絶したことがわかります。

では、なぜでしょうか。ヤコブがエサウよりも良い人だったからでしょうか。

違います。実は、ヤコブは若い頃、詐欺師のような生き方をしていました。彼は神様の道を歩まず、自分勝手な道を選びました。(創世記25:27)

そして、その結果として悪い決断を重ね、自分の家を追われることになりました。

その時、神様はご自身をヤコブに現されました。それにもかかわらず、ヤコブは神様に自分の人生を捧げることをせず、神様と交渉しようとしたのです。(創世記28:20-22)

ヤコブは長い間、そのような生き方を続けました。それでも神様はヤコブを選び、愛し、彼の人生に働きかけ続けられました。

同じように、神様はイスラエルの民を愛されました。たとえ彼らが神様に不実であり、自分勝手な道を歩んでも、神様は彼らを愛し続けられました。

当然ながら、神様は彼らを懲らしめられました。そのため、彼らはバビロンに追放されました。けれども、彼らが破滅に値していたにもかかわらず、神様は彼らを憐れまれました。

一方、エサウの子孫も罪を犯し、破滅に値していました。しかし、エサウの子孫の場合、神様は彼らに彼らが値するものを与えました。すなわち、荒れ果てた地を与えられました。

神様が言われたのは次のようなことです。

「あなたに対する私の愛の証明を見たいのか。私はエサウの子孫には彼らが値したものを与えた。その一方、あなたには値するものを与えなかった。むしろ、あなたが値しない恵みを与えたのだ。」

私たちが神様の愛を疑う時、神様は同じことを言われます。私たちは神様の愛に値せず、また赦しにも値しません。しかし、神様は私たちが値しないにもかかわらず、イエス様を送り、私たちの罪のために死んでくださいました。

だから今、神様は私たちにこう語られます。「私はあなたを選んだ。私はあなたを救った。私は決してあなたを見捨てない。」

これが恵みです。これこそが神様の愛です。

パウロはこう言いました。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ[た]。(エペソ1:4-8)

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ネヘミヤ記

喜び

ユダヤ人は城壁の修理を完成した後、レビ記23章で神様が命じられたように、ラッパの祭りを祝いました。

その日、祭司エズラはユダヤ人に神様の律法の書を読みました。この箇所を読んだ時、いくつかのことが私の心に響きました。

一つ目は、彼らが神様を恐れ、その言葉を尊重したことです。エズラが律法の書を開いた時、ユダヤ人は皆立ち上がりました。そして、エズラが読み上げている間、彼らは注意深く聞きました。

また、エズラが神様をほめたたえた時、彼らは「手を上げながら、『アーメン、アーメン』と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝しました。」(ネヘミヤ記8:6)

私たちは神様をどれほど深く恐れているでしょうか。私たちは神様の言葉をどれくらい尊重しているでしょうか。

神様の前に来る時、へりくだる心を持っているでしょうか。私たちは注意深く神様の言葉に耳を傾けているでしょうか。それとも、すぐに心が他のことへと逸れてしまうでしょうか。

二つ目は、私たちには聖書を上手に教える人が必要だということです。8節にはこう書かれています。

彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。(ネヘミヤ記8:8)

現代においても、教会にはそのような人が必要です。つまり、聖書をはっきりと読んで、人々が理解できるように説明できる人が必要です。

三つ目は、ユダヤ人の反応です。彼らは神様の言葉を聞くと、すぐに泣きました。なぜなら、彼らは神様の律法を犯したことを知ったからです。また、彼らの苦しみは自分たちのせいであることを悟りました。

神様が私たちの罪を示されたら、私たちはどのように反応するでしょうか。私たちは泣いて、悔い改めるでしょうか。それとも、私たちの心はさらに堅くなるでしょうか。

最後のポイントは、神様が私たちが自分の悲しみに浸ることを望んでおられないということです。むしろ、神様は私たちが神様の喜びによって生きることを望んでおられます。ネヘミヤはユダヤ人にこう言いました。

悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。(10)

9-10章は、彼らが悔い改める時間でした。けれども、8章では、神様は彼らの失敗によって、悲しみに浸ることを望んでおられませんでした。むしろ、神様は彼らが神様の慈しみと忠実さを喜ぶことを望んでおられました。

私たちが罪を犯した時、へりくだって悔い改めるべきです。しかし、私たちの涙と後悔に浸らないようにしましょう。

むしろ、十字架を思い出し、イエス様が私たちの罰を受けてくださったことを思い出しましょう。神様の恵みと私たちの救いを思い出しましょう。そうすれば、私たちは神様の喜びをもう一度知ることができます。

私たちが自分の罪を悲しむだけのために、神様が聖書を与えたのではありません。私たちの喜びを取り去るために、聖書を与えたのでもありません。

神様が望んでおられるのは、私たちが神様と親しい関係を持ち、神様の愛と喜びを知ることです。イエス様はこう言われました。

もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。(ヨハネ15:10-11)

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エレミヤ書

自分自身を騙す

この箇所では、エレミヤはユダの民を批判し続けます。最初に、エレミヤはソドムとゴモラをほのめかしています(創世記18章)。

その時、アブラハムはその都市のために祈りました。つまり、もし10人の正しい者がいたら、神様がその都市の罪を赦すように祈ったのです。

神様はその祈りを聞き入れましたが、結局10人さえもいなかったため、神様はその都市を滅ぼしました。

この箇所で、神様はこう言われました。「もし真実を求める者が一人でもいたら、エルサレムを赦します。」

ところが、そのような人は誰一人いませんでした。

その言葉が大げさかどうか分かりません。もちろん、エレミヤは神様を求めました。また、ナホムやゼパニヤなど他の預言者たちも神様を求めました。けれども、彼らはエルサレムに住んでいなかったのかもしれません。

ヨシヤ王も神様を求めましたが、エレミヤがこの箇所を書いた時、ヨシヤはまだ主を求め始めていなかったのかもしれません。

とにかく、この言葉の意味は、神様を求める人々がほとんどいなかったということです。

どうしてでしょうか。なぜなら、誰も神様を恐れなかったからです。神様についてあまり考えず、自分の好きなようにしました。

エレミヤは彼らについてこう言いました。

彼らは主を否んでこう言った。

「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない。預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。彼らはこのようになる。」(エレミヤ書5:12ー13)

今でも、多くの人々はそのように考えます。彼らはまったく裁きを恐れないので、好きなように生きています。

「神様は愛でしょう?神様は決して私たちを裁かないでしょう?神様の裁きについて話す人々は私たちを怖がらせますが、その言葉を気にしない方が良い。」

そのため、彼らはその言葉を無視して、自分を励ます人々の声だけを聞きます。

だからこそ、エレミヤはこう言いました。

預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。(31)

皆は神様の愛と憐れみについて聞くのが好きです。だれも裁きについて聞きたくはありません。

しかし、その警告を無視するなら、あなた自身を欺いていることになります。なぜなら、裁きは必ず来るからです。

神様はバビロン人を通してユダの民を裁きました。そして、ある日、イエス様はこの世に戻り、生きている人と死んだ人とを裁かれます。皆はイエス様の前で申し開きをすることになります。

あなたはどうでしょうか。自分の道を行き、自分自身を欺き、「裁きは来ない」と思うのでしょうか。

神様は忍耐強い方ですが、最終的には裁きが来ます。もし裁きの警告を無視して悔い改めないなら、その日が来た時、あなたはどうするのでしょうか。

裁きの日のために準備したいなら、悔い改めて、イエス様をあなたの主として受け入れてください。パウロはこう書きました。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ書10:9ー10)

自分自身を欺いてはいけません。裁きは必ず訪れます。手遅れになる前に悔い改めましょう。

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イザヤ書

和解

聖書では、神様はイスラエルを浮気性の妻にたとえることがよくあります。それでも、神様は忠実な夫として、いつもイスラエルを追い求め続けておられました。

それは本当に不思議なことだと思います。もし私の妻が浮気したら、私はどう対応するか自信がありません。もし彼女がいつも他の男性を追い求めていたら、私は何をすれば良いのか分からないでしょう。

それでも、イスラエルの民がいつも他の神々を追い求めたにもかかわらず、神様は彼らを見捨てることなく、追い求め続けておられました。

そして、この箇所で神様は、イスラエルに祝福を与えると約束されています。

つまり、イスラエルの民が追放され、捨てられた妻のような存在であり、さらに子どものいない妻であったにもかかわらず(当時のイスラエル文化では、それは大変な恥とされていました)、神様は彼らと和解されたのです。

神様は彼らにこう語られました。

あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。

主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか」とあなたの神は仰せられる。

「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。

怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う主は仰せられる。(イザヤ書54:5-8)

そして、神様はこう言われました。

たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ主は仰せられる。(10)

この世界では、愛はとても揺れやすいものです。愛はすぐに崩れることがあります。

夫が妻を捨てることもあれば、妻が夫を捨てることもあります。

しかし、神様が約束されるのは、神の愛が決して変わることはないということです。たとえ私たちが何をしても、どんなに失敗しても、神様の愛が私たちから離れることはありません。

それだけではなく、私たちが困難に直面しているとき、神様は私たちを守ってくださいます。

17節で、神様はこのように語られています。

あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。

これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。――主の御告げ――」(17)

神様があなたを捨てたと思いますか。罪や失敗が多すぎるから、神様があなたを諦めたと感じていますか。

いいえ、神様は今もあなたを追い求めています。神様の愛は決して絶えることがありません。永遠に変わらず、あなたを包み込んでいます。

だから、過去のものを忘れましょう。罪の廃墟から歩み出て、新しい道へ進みましょう。

そして、

「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。」(2)

つまり、私たちはイエス・キリストを通して、すでに神様と和解しました。そして、神様は私たちのために良いものを備えておられるのです。

そのため、毎日充実した人生を送りましょう。毎日、神様に信頼し、神様の変わることのない愛の中で安心しましょう。

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イザヤ書

神様が愛する民

「神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」

時々、私たちは自分の状況を見て、そう思います。特に、苦しい時に私たちは神様の愛を疑います。

また、私たちは自分の人生をめちゃくちゃにして、「神様は私をもう諦めてしまわれたのだろうか」と思います。

イスラエルはそう思ったかもしれません。けれども、神様は彼らにこう言われました。

その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。

わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。

わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。

しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。

時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。(イザヤ書27:2-6)

この箇所では、神様はイスラエルを神様が世話するぶどう畑と比べられました。その言葉はイスラエルのためですが、神様は私たちクリスチャンたちにも話されます。

「私はあなたを見守ります。」

私の目はいつもあなたに留まっています。あなたの人生に何が起こっているかよく知っています。私が気づかないことはありません。全ての微笑み、すべての涙を見守ります。

「あなたに水を注ぎます。」

あなたが枯れている時に、私はあなたを潤します。のどが乾いたら、あなたの渇きを癒します。

「私はあなたを守ります。」

あなたの敵が来ると、私はあなたの盾になります。あなたが恐れたら、私はあなたの砦となります。

「私はあなたのために戦います。」

敵の力によってあなたが圧倒されると、私はあなたのために戦い、あなたは勝利を得ます。

「私の力によって、あなたは実を結びます。」

あなたの人生は咲いて、あなたの人生によって、この世界は祝福されます。

あなたは神様の言葉を聞くと、こう尋ねるかもしれません。「でも、私が罪を犯すと?神様は私を拒絶されるでしょうか。」

それでも、神様はあなたを捨てられません。

イザヤはこう記しました。

主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。

あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された。(7-8)

あなたが罪を犯して、神様に背くと、神様はあなたを懲らしめられます。

しかし、神様はイスラエル人を捨てられませんでしたし、あなたをも捨てられません。あなたが悔い改めると、神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

神様はイスラエルにこう言われました。

その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。

イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。

その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。(12-13)

私たちに対する神様の怒りはいつまでも続きません。イエス様にあなたの救いのために信頼すると、私たちの罪のために滅びることはありません。(ヨハネ3:16)

神様は私たちが神様に戻ることを待っておられます。私たちが悔い改めたら、神様は私たちを癒して、もう一度実を結ぶぶどう畑にしてくださいます。

ダビデが書いたように、

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩編30:5)

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ホセア書

神様の忠実な愛

「神様は私を本当に愛しているだろうか。」

多くの人々の心にこの質問は響いています。けれども、もう一つの質問が、さらに深く傷ついている人々の心に響いています。

「神様は私をまだ愛しているだろうか。」

時々、人々が私たちの弱さや欠点を見たときに、彼らの愛がすぐに冷めてしまうことを経験します。そのため、私たちはこう思うことがあります。「もし人間の愛がすぐになくなるのなら、神様も私を見捨てるのではないか。」

この箇所には、その答えがあります。

ここでは、神様がどのようにイスラエル人を愛しておられたかを思い起こさせます。つまり、神様は愛によってイスラエルをエジプトの奴隷生活から救い出し、砂漠で彼らを導き、彼らのすべての必要を満たされました。

しかし、彼らは神様に背を向けて、バアルを礼拝し始めました。神様に従うことなく、神様から逃げる道を選んだのです。

そのため、神様は彼らに将来の裁きについて警告されました。けれども、その警告の中で、神様は自分の心を表されたのです。

エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。。。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。(ホセア書11:8-9)

つまり、私たちがどんなに神様から離れても、神様は私たちのことを諦めることはありません。私たちを懲らしめることがあっても、私たちを捨てることはありません。

神様の愛は人間の愛とは全く違います。神様の愛は変わることがなく、なくなることもありません。神様の愛は忠実で永遠です。神様はいつも私たちに手を差し伸べ、私たちが戻るのを待っておられます。

神様の愛を疑っていますか。神様がもうあなたを愛することができないと思っていますか。

エレミヤの言葉を思い起こしましょう。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」(哀歌3:22-23)

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ルツ記

決して見捨てられていない

士師記にはあまり幸せな話がないので、次がルツ記で良かったです。

それにもかかわらず、この話の冒頭は士師記の結末と同様に、本当に悲しい内容です。その時代、イスラエルには飢饉がありました。ナオミという女性は、夫と2人の息子と共に、モアブという国に移り住みました。

その間にナオミの夫が亡くなります。その後、息子たちは結婚しましたが、10年後、2人の息子たちも亡くなってしまいました。

異国の地で、ナオミは愛する家族をすべて失い、深い悲しみの中で故郷イスラエルに戻ることを決意しました。

故郷に戻ると、村の女性たちはこう言いました。

まあ。ナオミではありませんか。 (ルツ記1:19)

けれども、ナオミは答えました。

「もう私をナオミと呼ばないでください。私の人生は、もう快くも楽しくもありません。(ナオミという名前は「快い」、また「楽しい」という意味です。)私を「苦い人」と呼んでください。(マラは「苦い」という意味です。)」

どうしてそう言ったのでしょうか。ナオミは言いました。

全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。。。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。。。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。(1:20-21)

ナオミは、自分が神様に捨てられたと思いました。それだけではなく、神様がご自身に反対しておられると感じました。

しかし、一番暗い時でも、神様はナオミを決して見捨てられませんでした。神様はナオミに義理の娘であるルツを与えてくださいました。ルツはナオミを深く愛しており、ナオミのためにすべてを喜んで捨てました。

ナオミはルツにモアブに留まるよう説得しようとしましたが、ルツは答えました。

あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。

あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。(1:16-27)

それでも、ナオミはその祝福に気づきませんでした。むしろ、自分の惨めさのために神様を責めました。しかし、ナオミがそうしたとしても、神様はナオミを見捨てられませんでした。

他の貧しい者たちのように、ルツはある畑で落ち穂を拾い集め始めました。ルツは知らなかったけれど、神様はご自身がナオミの夫の親族であるボアズの畑に導いてくださいました。

そしてルツはその畑で働きました。ボアズはルツに気づき、親切にしてくださいました。だから、ルツが家に帰った時、ナオミは予想以上の大麦を見て驚きました。

「どこに行ったのですか」と尋ねました。

ルツの答えを聞いた時、ナオミは気づきました。「主は生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれません」(2:20)

つまり、「神様はやっぱり私を見捨てられませんでした。神様はまだ私を愛しておられます。」

あなたはどうでしょうか。あなたの状況によって、神様に見捨てられたと思われることがありますか。神様があなたに反対しておられると感じることがありますか。あなたの苦しみのために、神様の祝福に気づかないのでしょうか。

神様はあなたを決して見捨てられません。神様はあなたを愛しておられるからです。あなたがどんな状態になっても、神様の御手はあなたの上にあります。

私はこの歌が大好きです。

神様の目は私の上にあります。
神様は私がすることをすべて見ておられます。
神様の御腕は私を抱いてくださいます。
私を守り、私は安全です。

神様は私がどこにいるか知っておられます。
毎時、毎日、 神様は私の思いをすべて知っておられます。
私の言葉をすべて知っておられます。

私が神様の御心に従わない時があったとしても、
私は一度も、神様が私を見捨てられたことはありません。