マラキ書は旧約聖書におけるイスラエルの歴史の締めくくりとなる書です。
以前述べたように、マラキ書が正確にいつ書かれたのかは明確ではありません。けれども、主の宮が建て直された後に書かれたものと考えられます。したがって、おそらくマラキ書はエズラとネヘミヤの時代に記されたものでしょう。
エズラ記とネヘミヤ記を通して、私たちはイスラエルの民が直面していた多くの問題を読みました。特に、ネヘミヤ記13章では彼らの抱えていたさまざまな問題が詳しく描かれています。
マラキも、これらの問題についてイスラエルの民を責めました。
その冒頭で、神様は非常に印象的な言葉を語られます。
わたしはあなたがたを愛している。(マラキ書1:2)
私たちの多くは愛を求めています。残念なことに、多くの人々はその愛を決して見つけることができません。
しかし、もし神様を求めるならば、それはただの愛ではなく、永遠に続く絶えることのない愛を見つけることができるでしょう。
わたしはあなたがたを愛している。
あなたがどんな苦しみを抱えていても、どんな罪を犯していても、どんな失敗をしていても、神様の愛は決して変わることはありません。
神様は過去においてもあなたを愛していました。
現在も、神様はあなたを愛しています。
そして、これからも永遠に、神様はあなたを愛し続けられるのです。
けれども、イスラエルの民はそのことを理解していませんでした。そのため、彼らは皮肉っぽく答えたのです。
どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。(2)
どうして、彼らはその質問をしたのでしょうか。それは、神様が彼らをご自身の国に導いたにもかかわらず、彼らの人生はまだ上手くいっていなかったからです。
ペルシャ帝国が依然としてイスラエルを支配しており、イスラエルの地はあまり繁栄していませんでした。彼らの作物の収穫は乏しく、日々の生活は余裕のない厳しいものでした。
私たちもどれほど神様の愛を疑うでしょうか。
「もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私はこんなにも苦しまなければならないのでしょう。もしあなたが私を愛しておられるなら、なぜ私の人生はこんなにみじめなのでしょう。」
しかし、神様はご自身の愛を証明するために、イスラエルの民、そして私たちにこう言われます。
エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。(2-3)
「エサウを憎み」というのはどういう意味でしょうか。神様が本当にエサウを憎んだのでしょうか。そうではありません。実際、神様はエサウを祝福されました。(創世記33:9)
とはいえ、神様がイエス様をこの世に送る計画を考えると、神様がエサウの家系ではなく、ヤコブの家系を選び、エサウの家系を断絶したことがわかります。
では、なぜでしょうか。ヤコブがエサウよりも良い人だったからでしょうか。
違います。実は、ヤコブは若い頃、詐欺師のような生き方をしていました。彼は神様の道を歩まず、自分勝手な道を選びました。(創世記25:27)
そして、その結果として悪い決断を重ね、自分の家を追われることになりました。
その時、神様はご自身をヤコブに現されました。それにもかかわらず、ヤコブは神様に自分の人生を捧げることをせず、神様と交渉しようとしたのです。(創世記28:20-22)
ヤコブは長い間、そのような生き方を続けました。それでも神様はヤコブを選び、愛し、彼の人生に働きかけ続けられました。
同じように、神様はイスラエルの民を愛されました。たとえ彼らが神様に不実であり、自分勝手な道を歩んでも、神様は彼らを愛し続けられました。
当然ながら、神様は彼らを懲らしめられました。そのため、彼らはバビロンに追放されました。けれども、彼らが破滅に値していたにもかかわらず、神様は彼らを憐れまれました。
一方、エサウの子孫も罪を犯し、破滅に値していました。しかし、エサウの子孫の場合、神様は彼らに彼らが値するものを与えました。すなわち、荒れ果てた地を与えられました。
神様が言われたのは次のようなことです。
「あなたに対する私の愛の証明を見たいのか。私はエサウの子孫には彼らが値したものを与えた。その一方、あなたには値するものを与えなかった。むしろ、あなたが値しない恵みを与えたのだ。」
私たちが神様の愛を疑う時、神様は同じことを言われます。私たちは神様の愛に値せず、また赦しにも値しません。しかし、神様は私たちが値しないにもかかわらず、イエス様を送り、私たちの罪のために死んでくださいました。
だから今、神様は私たちにこう語られます。「私はあなたを選んだ。私はあなたを救った。私は決してあなたを見捨てない。」
これが恵みです。これこそが神様の愛です。
パウロはこう言いました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ[た]。(エペソ1:4-8)