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創世記のデボーション

約束を思い起こされる神

わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。

そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。

虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。(創世記9:14ー16)

神が忘れっぽい神だったら、どうなるでしょうか。

それは恐ろしい考えです。

でも、神様は御自分の約束を忘れません。神様は、御自分の約束を思い起こし、その約束を守られます。

だからこそ、私たちは希望を持つことができます。

私たちが真実でなくても、神様は常に真実でおられます。(第二テモテ2:13)

だから、エレミヤはこの歌を歌いました。

「私は待ち望む。主の恵みを。」

実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は偉大です。(哀歌3:22ー23)

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ペテロの手紙第二

恵みと平安が溢れるように

私は『ナルニア国物語』の『カスピアン王子の角笛』に登場するあるシーンがとても好きです。そのシーンで、ルーシーは久しぶりにアスランに会い、こう言います。「アスラン!あなたは前よりも大きくなった!」

すると、アスランは答えます。「あなたが年を取ったから、そう思うのだろう。」

「では、あなたは本当に大きくなっていないの?」

「私は大きくなっていない。でも、あなたが年を重ねるほど、私にはもっと大きく見えるようになるのだ。」

私たちの神様との関係もこれと同じです。神様はすでに偉大なお方です。将来的に神様がより大きくなるわけではありません。

けれども、私たちが神様を知れば知るほど、私たちにとって神様はますます大きく見えるようになります。なぜなら、私たちはより正確に神様を理解するようになるからです。

だからこそ、ペテロはこう言います。

神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。(ペテロの手紙第二1:2)

3節から4節で、ペテロはその考えをさらに深め、広げています。

私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。

その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

私たちはどのようにして神様の恵みと平安を豊かに知ることができるのでしょうか。そのためには、私たちは神様をさらに深く知るべきです。特に、神様の栄光と栄誉を知れば知るほど、私たちは神様の恵みと平安をますます理解するようになります。

その栄光と栄誉を通して、私たちは神様の子供となるように召されました。また、その栄光と栄誉によって、私たちは尊く、素晴らしい約束を与えられました。

私たちは永遠の命を約束されています。また、聖霊様の臨在も約束されています。聖霊様は私たちの内に住み、私たちに助言を与え、私たちを導き、私たちのためにとりなし、私たちをイエス様のかたちへと変えてくださいます。

これらの約束により、私たちは神様の性質にあずかることができます。それゆえ、人々が私たちを見るとき、私たちの天の父を見ることになるのです。

神様の恵みによって、私たちはこの世の腐敗から逃れました。この腐敗は人々を滅ぼすものです。

さらに、神様の力によって、私たちは精一杯人生を生きることができ、神様のご計画に従って敬虔な子供になることができます。

私たちがそのように毎日を歩むとき、神様の恵みと平安が私たちに満ち溢れます。

あなたはいかがですか。その恵みと平安を知っていますか。その恵みと平安をまだ知らないなら、神様に近づきましょう。「敬虔」という言葉は、神様との親しい関係を持つ人を意味しているのです。

そのため、ペテロは私たちに神様に近づき、親しくなるよう勧めています。毎日、毎瞬、神様の臨在を意識しましょう。そして、その意識が私たちの思い、行動、そして人生のすべてを変えるように。

そうすれば、あなたは神様の恵みと平安を知り、その恵みと平安があなたの人生に溢れるでしょう。

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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは(2)

前回の記事では、律法が何をしないのかについてお話ししました。つまり、律法は神様の約束に取って代わるものではないということです。

神様とアブラハムの契約は、神様の約束による一方的なものでした。その契約は、アブラハムやその子孫の行いに基づくものではありませんでした。したがって、律法がその契約に取って代わることはありません。

パウロはこの真理をさらに説明します。

(律法は)御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。仲介者は、当事者が一人であれば、いりません。しかし約束を与えになった神は唯一の方です。(ガラテヤ人への手紙3:19-20)

モーセが十戒を受けるためにシナイ山を登ったとき、イスラエルの民は神様の偉大さに圧倒され、恐れおののきました。そして、彼らはモーセにこう言いました。

あなたが私たちに語ってください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお語りになりませんように。さもないと、私たちは死んでしまいます。(出エジプト記20:19)

だから、モーセは神様に近づきましたが、イスラエルの民は神様から遠く離れて立っていました。(出エジプト記20:21)

イスラエルの民への神様の言葉は、モーセを通して語られました。神様はモーセに言われました。「イスラエルの民は、これとこれとこれをしなければならない。そうすれば彼らは生きる。けれども、そうしなければ、彼らは死ぬ。」

そして、モーセはその指示をイスラエルの民に伝えました。

でも、少し考えてみてください。なぜ神様は仲介者(つまりモーセ)を必要とされたのでしょうか。

それは、律法が双方向の契約だったからです。

神様には果たさなければならない義務があり、イスラエルの民にも果たさなければならない義務がありました。そして、イスラエルの民が自分の義務を果たさなければ、神様が約束された祝福は無効になってしまいました。

最終的に、それが起こりました。イスラエルの民が何度もその契約を破ったため、神様はその契約を無効にされました。その契約は非常に壊れやすいものでした。

ところが、パウロはこう言いました。「約束を与えになった神は唯一の方です。」

要するに、神様がアブラハムとその子孫と契約を結ばれたとき、義務を果たさなければならないのは神様だけでした。祝福を得るために、アブラハムは何もする必要がありませんでした。

だからこそ、アブラハムとの契約はイスラエルの民との契約とは全く異なっていました。アブラハムとの契約は無効にすることのできないものでした。なぜなら、その契約は私たちの行動ではなく、神様の行動によるものだったからです。

簡単に言えば、壊れやすい契約が、無効にすることのできない契約に取って代わることはできないのです。

それでは、律法とは何でしょうか。(19)

それは論理的な質問ですね。

パウロは答えます。

それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すために付け加えられたもので(す)。。。(19b)

要するに、キリストが来られるまで、律法は一時的に罪を対処する方法でした。モーセの時代からイエス様が来られるまで、何百年もの歳月が流れました。その間、神様は罪を正しく扱わなければなりませんでした。そこで、神様は律法を用いられました。

とはいえ、パウロは重要な質問を投げかけます。

それでは、律法は神の約束に反するのでしょうか。(21)

言い換えると、律法はもう一つの救いの道でしょうか。

答えは?

決してそんなことはありません。もし、いのちを与えることが出来る律法が与えられたのであれば、義は確かに律法によるものだったでしょう。(21b)

要するに、もし律法がもう一つの救いの道だとしたら、イエス様が来られる必要はなかったでしょう。なぜなら、私たちが律法に従えば、救われるからです。

しかし、律法を完全に守ることができる人はいないので、律法にはいのちを与える力がありません。むしろ、律法は私たちを罪から救うことができる方へ導くのです。

次の記事で、そのことをさらに説明します。

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詩篇

私たちの信頼できる神

詩篇88篇は本当に暗い歌だったけど、詩篇89篇はもっと明るく始まります。それでも、この詩篇は、苦しんだ時に書かれました。 詩人は歌います。

私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。

私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる」と。(詩篇89:1-2)

そして詩人は神様の偉大さを思い出します。

主よ。天は、あなたの奇しいわざをほめたたえます。また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。

まことに、雲の上ではだれが主と並びえましょう。力ある者の子らの中でだれが主に似ているでしょう。

主は、聖徒たちのつどいで大いに恐れられている神。主の回りのすべての者にまさって恐れられている方です。

万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。(5-8)

そして、彼は神様に従う人の喜びについて歌い(15-17)、神様のダビデに対する約束を思い出します。つまり、ダビデの子孫はいつまでもイスラエルを王として治めます。(3-4,19-37)

けれども、急にこの詩篇の感情は変わります。なぜなら、その約束はもうだめになったようだからです。

ダビデの子孫の罪のせいで、神様は彼らを拒絶され、彼らに背を向けられました。だから詩人は叫びます。

いつまでですか。主よ。あなたがどこまでも身を隠し、あなたの憤りが火のように燃えるのは。。。

主よ。あなたのさきの恵みはどこにあるのでしょうか。それはあなたが真実をもってダビデに誓われたものです。(46,49)

けれども、イスラエルの状態は暗かったのに、神様は変わりませんでした。神様はイスラエル人を自分の土地に一回だけではなく、二回戻されました。

そして、いつかダビデの子孫イエス様はこの世に戻って、神様が約束通りにこの世を永遠に治めてくださいます。

私たちは時々見えないけれど、神様の愛と忠実さは決して変わらないものです。神様が約束されると、いつもその約束を守ってくださいます。

神様はイスラエル人への約束を守ってくださったし、私たちへの約束も守ってくださいます。だから、詩人のように神様に信頼し続けて、歌いましょう。

ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。(52)

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ダニエル書3

メシヤが来られること、反キリストが来ること

この箇所は、本当に素晴らしい預言です。

以前、私は他のダニエル書の預言について話しました。つまり、バビロン帝国、ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、そしてローマ帝国についての預言です。

多くの人々はその預言を見ても信じません。彼らは、「その預言はきっと本物ではない。その出来事が起こった後に、誰かがダニエルの名前を使ってこの預言を書いたのだろう」と言います。

彼らは超自然的なことを全く信じず、そのようなことを言うのです。

けれども、この9章の箇所はその考えを覆すのではないかと思います。なぜなら、この箇所はイエス様の生涯と働き、さらにはエルサレムの没落を預言しているからです。

旧約聖書全体が紀元前3年から1年の間にギリシャ語に翻訳されたことを考えると、エルサレムの没落の後にダニエル書を編集することは不可能でした。

神様はダニエルにこう言われました。

あなたの民とあなたの聖なる都(つまり、エルサレム)については、七十週が定められている。(ダニエル書9:24)

その「70週」というのは70の7年期間を指します。その間に、

  • 神様はそむきをやめさせます。
  • 神様は罪を終わらせます。
  • 神様は咎を贖います。
  • 神様は永遠の義をもたらします。
  • 神様は幻と預言を確証します。
  • 神様は至聖所(つまり、主の宮)に油を注ぎます。

その最初の7年間がいつ始まるのかについて、聖書学者たちは議論を続けています。おそらく、その始まりはエズラ記7章に記されている出来事だと思われます。

その時、ペルシャの王アルタシャスタが祭司エズラに主の宮を立て直し、飾るよう命じました。その箇所の焦点は宮を立て直すことにありますが、エズラ記9:9によれば、イスラエル人はエルサレムの城壁を立て直す許可も与えられたようです。

その後、ネヘミヤがエルサレムの城壁がまだ崩れていることを聞き、非常に落胆した場面があります。

いずれにしても、この預言によれば、最初の7年期間で苦しみの時代にエルサレムは立て直されると書かれています。(25節)

エズラとネヘミヤの時代、それは確かにその通りでした。彼らは主の宮とエルサレムの城壁を立て直そうとしましたが、数々の反対に直面しました。

それだけでなく、エステルの時代には、誰かが全てのユダヤ人を殺そうと計画したことがありました。(エステル記をぜひお読みください。)

その時から、62の7年期間(つまり、434年間)を数えると、それは紀元27年頃になります。その時、「油そそがれた者」が現れました。

私たちはいつもイエス・キリストと言いますが、「キリスト」は名前ではありません。「キリスト」という言葉は、「油そそがれた者」という意味です。

したがって、この箇所はイエス様について語っています。そして、紀元27年頃にイエス様はご自身のミニストリーを始められました。

その62の7年期間の後、「油そそがれた者」(つまり、イエス・キリスト)は断たれました。直訳すると、キリストは殺されました。また、「彼には何も残らない」と書かれています。

おそらく、その意味は、弟子たちがキリストを捨てたということでしょう。

その時、イエス様は十字架で私たちの罪をあがなわれました。その後、紀元70年にエルサレムと主の宮は滅びました。(26節)

最後の7年期間は将来の出来事です。その時、反キリストが現れるでしょう。彼は多くの者(つまり、ユダヤ人)と契約を結びますが、半週(3年半)の間にその契約を破り、ユダヤ人のいけにえとささげ物をやめさせます。

けれども、最終的に反キリストは倒され、その時、神様は罪を終わらせ、永遠の義をもたらされます。そして、新しい宮に油を注がれます(おそらく、エゼキエル書40-44章に記されている宮でしょう)。この預言はすべて成就されます。

この箇所には数多くの預言が含まれています。しかし、大切なのは、神様が未来を完全に支配しておられるということです。

もし、神様が帝国の興亡、イエス様の来臨、エルサレムの没落を正確に預言されたのであれば、私たちは反キリストや将来の神の国についての預言も信じることができるでしょう。

だから、将来が困難になったとしても、心配しすぎないでください。神様はすべてを支配しており、神様が約束されたすべてのことは必ず成就されるからです。

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ヨシュア記

約束を守ってくださる神

私は、この箇所の最後の部分が特に大好きです。

こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。

主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。

主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。(ヨシュア記21:43-45)

およそ700年から800年前、神様はアブラハム、イサク、ヤコブに、カナンの地を与えると約束されました。

それからの時を経て、アブラハムの子孫は大いなる国民となり、神様は多くの奇跡をもって、イスラエルの民をエジプトから解放してくださいました。

そして、彼らを40年の間、荒野で守り導き、数々の敵との戦いでも勝利を与えてくださいました。

そしてついに、イスラエルの民は、神様が約束された地に住み始めることになったのです。

彼らがすべきことは、ただ一つ――それは、神様の約束を信じて行動することでした。 それが、神様の祝福に与るための条件だったのです。

私たちも、神様の約束が実現するのを見たいと願うなら、その約束を信じて、行動に移さなければなりません。

ヨシュアとカレブを除いて、エジプトから救い出された世代は、この信仰の行動をとりませんでした。 そのため、彼らは皆、荒野で命を終えることになりました。

そしてヨシュア記19章では、ダン族もまた、神様が備えておられた土地を占領しようとしませんでした。

では、あなたはどうでしょうか。

神様は、私たちに永遠のいのちの約束を与えてくださいました。 あなたは、その約束を信じ、そして行動しているでしょうか。

ヨハネの福音書3章16節には、このように書かれています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

永遠のいのちを受け取ることは、決して難しいことではありません。 ただ神様の約束を信じ、その賜物を願い求めるなら、それを受け取ることができるのです。

イエス様は、こう語られました。

そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37)

それだけではありません。神様は、永遠のいのちだけでなく、他にも数えきれないほど多くのことを約束しておられます。 神様は、私たちの必要を満たすと約束されました。 私たちを祝福すると約束されました。

あなたは、それを信じていますか? その約束に信頼し、それに応じた行動をとっていますか?

それとも、かつてのイスラエルの民のように、信じずに立ち止まってはいませんか?