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ヨシュア記のデボーション

神様の思いと調子を合わせる

ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。

これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。(ヨシュア記1:7)

主よ、私が好きな部分だけではなく、あなたの言葉のすべてに従う心を与えてください。私がその言葉から離れて、右にも左にもそれないようにしてください。

また、私が自分の思いをこの世の思いと調子を合わせないようにしてください。この世の考え方は日々堕落しつつあるからです。むしろ、私の心を新たにして、私の思いをあなたの思いと調子を合わせてください。(ローマ12:2)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

没落の理由

この箇所は少し特別です。つまり、同じ出来事が聖書の4つの箇所に記されています。それはエルサレムの没落です。

おそらく、エレミヤは52章を書いたわけではありません。それは別の人が記した付録のようです。エレミヤ書52章と列王記の記述はほとんど同じです。

ゼデキヤ王は神様の御名によって、バビロンのしもべになることを誓いました。けれども、彼がその約束を破ったため、ネブカデネザルが軍隊を送ってエルサレムをおよそ2年にわたり包囲しました。

その結果、エルサレムの食料は徐々になくなり、最終的にエルサレムは陥落しました。

ゼデキヤは逃げようとしましたが、捕らえられました。彼の息子たちは殺され、その後、彼の目がつぶされました。

そしてネブカデネザルは大祭司、次席祭司、そしてユダの長老たちを殺しました。

バビロン人は主の宮から価値のあるものをすべて取り去り、宮、宮殿、エルサレムの家々をすべて焼きました。

なぜ、神様はそのようなことを許されたのでしょうか。

歴代誌第二には、その理由が記されています。

彼「ゼデキヤ」はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。。。

そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。

彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。(歴代誌第二36:12-16)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。なぜエルサレムは滅びたのでしょうか。

一つ目の理由は、ゼデキヤ王とその民が主の目の前で悪を行ったことです。私たちが悪を行えば、私たちの人生にも悪い結果が起こります。

二つ目の理由は、彼らが神様の言葉を聞いたとき、へりくだって悔い改めなかったことです。むしろ、彼らの心はさらに堅くなり、ますます悪化しました。

三つ目の理由は、彼らが周囲の国々の宗教的な忌み嫌われるならわしを真似して、神様の宮を汚したことです。

最後の理由は、彼らが神様の言葉を侮り、神様の預言者たちを嘲笑したことです。その結果、彼らの癒しはもはや不可能なものとなりました。

時に、私たちの心もあまりにも堅くなり、悔い改めることができなくなることがあります。しかし、悔い改めなければ、癒しも得られません。

あなたはどうでしょうか。どの道を進んでいますか。あなたは悔い改めることなく罪を犯し続けていますか。もし神様が聖書や日曜日のメッセージを通してあなたを責められたとき、あなたはその言葉に心を閉ざしてしまうでしょうか。

周りの人々の宗教的な習慣や教えに従って、聖霊の宮、つまりあなたの体を汚してしまっていませんか。(第一コリント6:19)

また、この世の神々、すなわちお金やセックス、持ち物を求めていませんか。それらも聖霊の宮を汚すことがあります。

さらに、あなたは神様の言葉を侮り、神様の使者を嘲笑してはいませんか。

これらのことによってエルサレムは滅びました。そして、これらのことによってあなたも倒れるでしょう。

もしあなたが真のクリスチャンであれば、救いを失うことはありませんが、人生は崩壊してしまいます。

神様はあなたに良い計画を用意されていますが、あなたはその計画を知ることができません。充実した人生ではなく、後悔に満ちた人生を送ることになるでしょう。

私たちはイスラエルのようにならないようにしましょう。むしろ、神様に対して柔らかい心を保ちましょう。そうすることで、真の命を見つけることができます。

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エレミヤ書

誰に聞いた方がいいでしょうか

教会でメッセージを聞く時、だれも違和感を感じたくありません。けれども、良い牧師は慰めと励ましのメッセージだけを伝えるのではなく、私たちが成長できるように、私たちにチャレンジするメッセージも伝えます。

そのようなメッセージを聞くと、私たちはよく違和感を覚えることがあります。

エレミヤの時代、ユダの祭司たち、預言者たち、そして他のリーダーたちは、ユダ人たちにチャレンジするメッセージを全く伝えませんでした。そのリーダーたちがその民をしっかりと世話しなかったので、エレミヤは彼らを責めました。

政治的な意味では、そのリーダーたちはその民のニーズや正義を顧みませんでした。

霊的な意味では、彼らはユダ人たちを偶像礼拝と霊的な姦淫へと導きました。

彼らは民の中の悪を止めなかっただけではなく、その悪を推進しました。そして、ユダ人たちが悪いことをしても、そのリーダーたちは励ましの言葉しか言いませんでした。

神様は彼らについてこのように言われました。

[預言者たち]の走る道は悪で、正しくないものをその力とする。実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見いだした。。。

彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを惑わした。

エルサレムの預言者たちの中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行なう者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。。。

あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたをむなしいものにしようとしている。主の口からではなく、自分の心の幻を語っている。

彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言っており、また、かたくなな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。。。

それゆえ、見よ、――主の御告げ――わたしは、おのおのわたしのことばを盗む預言者たちの敵となる。見よ。――主の御告げ――

わたしは、自分たちの舌を使って御告げを告げる預言者たちの敵となる。見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる。――主の御告げ――

彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に述べて惑わしている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らはこの民にとって、何の役にも立ちはしない。――主の御告げ―― (エレミヤ書23:10-11、13-14、16-17、30-32)

多くの教会はその通りです。彼らは神様が「悪」と呼ばれることを「善」と呼びます。そして、その民のために裁きが来ていても、教会のリーダーたちは神様の平和だけを伝えます。

しかし、その希望は偽物です。

神様はそのようなリーダーたちにこのように言われます。

夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ――

わたしのことばは火のようではないか。また、岩を砕く金槌のようではないか。――主の御告げ――(28-29)

あなたはどのような教会に出ているのでしょうか。

あなたの教会で、神様の言葉は火のように燃え、あなたの罪を取り除いているでしょうか。

神様の言葉は金槌のように、あなたの心の堅い部分を砕いているでしょうか。

その言葉によって、あなたの心が柔らかくなり、神様の実を結んでいるでしょうか。

それがそうでない場合、別の教会に行った方が良いと思います。あなたが成長できる教会に行った方が良いです。

いつの日か、イエス様はこの世に戻られます。「彼は王となって治め、栄え、この国に公義と正義を行われる。」(5)

その日が来るまで、私たちは神様に従いましょう。また、神様に従う教会に出ましょう。

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列王記第二 歴代誌第二

神様の御言葉なしで、生きる

この箇所を読むと、私たちはユダ人の霊的な問題がどれほど深いかが分かります。なぜなら、祭司たちは神様の言葉がどこにあるか全く分からなかったからです。

どうして祭司たちが神様の言葉を失うことができたのか、私には全く理解できません。

彼らが神様の言葉を全く読んでいなかったのなら、どのようにしてユダ人に神様の言葉を教えることができたのでしょうか。

彼らはその父たちの教えを覚えていたかもしれません。けれども、ヒゼキヤ王が亡くなった後、その後の二人の王たちは偶像を礼拝したため、神様の宮は長い間放置されていました。

そのため、祭司たちが覚えていたことがどれほど正確だったのかは分かりません。

結果はどうなったのでしょうか。

おそらくイスラエルの士師の時代と同じように、ユダ人は「それぞれ自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(士師記21:25)

しかし、彼らの基準は神様の基準とは異なっていました。

ヨシヤ王はその事実をすぐに理解するようになりました。

祭司たちが神様の宮を修理している最中に、誰かが神様の律法の書を見つけました。大祭司はその書物をヨシヤの書記であるシャファンに渡しました。ところが、シャファンがその書物の重要性を本当に理解していたかどうかは分かりません。

シャファンはヨシヤのもとに行き、次のように報告しました。

「あなたが命じた通りに、主の宮の修理が進められています。その修理のためのお金も適切に使われています。。。

あ、それから、大祭司が一つの書物を私に渡してくれました。」(列王記第二22:9-10)

シャファンはその書物の重要性を理解していなかったかもしれませんが、ヨシヤはすぐにその意義を理解しました。

シャファンがその律法の書をヨシヤの前で読み上げると、ヨシヤは自分の衣を裂き、こう言いました。

行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。

私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行なわなかったため、私たちに向かって燃え上がった主の憤りは激しいから。(列王記第二22:13)

女預言者フルダからのメッセージは決して良いものではありませんでした。

イスラエルの神、主は、こう仰せられます。

『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に告げよ。主はこう仰せられる。

見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。

ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばを成就する。

彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。

わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることがない。(列王記第二22:15-17)

けれども、彼女は続けてこう言いました。

あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。――主の御告げです――

それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。

それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。(列王記第二22:19-20)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。聖書を読まなければ、私たちの人生は混乱してしまいます。

また、神様の言葉を読まなければ、私たちは神様を喜ばせることができません。

時々、牧師たちが説教するとき、彼らは多くを語り、自分の意見を述べますが、ほとんど聖書に触れません。

彼らは30~40分ほど話し、ようやく「では、聖書を読みましょう」となります。

けれども、5分後には聖書を閉じ、それ以上聖書には触れないのです。

私はそのようなメッセージがあまり好きではありません。

彼らは良いことを語るかもしれません。私たちは良い助言を受けることがあるかもしれません。けれども、それは神様の言葉ではなく、単に牧師たちの意見に過ぎないのです。

また、ある人々は教会で非常に良い聖書的なメッセージを聞くかもしれません。ところが、月曜日から土曜日まで全く聖書を読まなければ、彼らは霊的に飢えてしまいます。

聖書の上に埃が積もり、自分の知恵に頼んで生きるようになり、その結果、彼らの人生は混乱してしまうのです。

あなたはどうですか。あなたの教会では、聖書が失われていないでしょうか。あなたの家では、聖書が忘れ去られていないでしょうか。

もしそのような状態であるならば、あなたの宮、すなわちあなたの人生は混乱してしまうでしょう。

なぜなら、神様の知恵によって生きるのではなく、自分の知恵に頼って生きることになるからです。

ヨシヤのように、私たちの心をへりくだらせ、神様の言葉を受け入れる者となりましょう。

そして、毎日、神様の御言葉に従って生きていきましょう。

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イザヤ書

神様のために私たちの心を準備する

それでは、新約聖書を始めましょう。

もしかすると、今日のタイトルを見て少し混乱したかもしれません。

「イザヤ書は新約聖書ではなく、旧約聖書だよ」と思ったかもしれません。

けれども、ある人々は、イザヤ書が聖書全体の要約であることに気づきました。

聖書には66の書がありますが、イザヤ書にも66の章があります。

そして、聖書は二つの部分に分かれています。旧約聖書(39の書)と新約聖書(27の書)です。

同じように、イザヤ書も二つの部分に分かれています。最初の部分には39章、後半の部分には27章が含まれています。

旧約聖書のように、イザヤ書の最初の部分では、人々の罪と神様からの裁きをよく見ることができます。

しかし、40章からは、メシヤの出現とその救いの働きが描かれています。そして、黙示録のように(聖書の最後の書)、イザヤ書66章では、最後の裁きと新しい地と天を見ることができます。

だから、私が言ったように、「新約聖書」を始めましょう。😊

イザヤ書の第二部の冒頭では、バプテスマのヨハネが引用した言葉を見ることができます。

荒野に呼ばわる者の声がする。

「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。(イザヤ書40:3-5)

イザヤの叫び、またバプテスマのヨハネの叫びは、現代においても適切です。

この霊的な砂漠や、神様がいらっしゃらない荒れ地のような私たちの心に、主のための道を整えなくてはなりません。私たちは自分自身の心にも、この世界にも、主のための道を備える必要があります。

では、どのようにその道を整えるでしょうか。それには、二つのことを思い出さなければなりません。

一つ目は、

すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。(6-7)

つまり、私たちの人生が一時的なものであることを思い出さなくてはなりません。この世界の物のほかに、永遠の何かが存在するのです。また、私たちが得た栄光は、最終的にはすべて消え去ります。

だからこそ、私たちの優先順位を正しく定める必要があります。つまり、私たち自身を一番にするのではなく、神様を一番にしなければなりません。

私たちの計画だけを追い求めるのではなく、まず神様とその御国を第一に求めましょう。

二つ目は、このことを思い出しましょう。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(8)

つまり、神様はいつもご自身の約束を守られます。神様の言葉は決して変わりません。だからこそ、その言葉を私たちの人生の基礎としましょう。

私たちの人生は、常に変化しています。試練は行き来し、良い時もまた、去っては戻ってきます。

しかし、神様は決して変わることがありません。

もし神様の言葉を私たちの基礎とするならば、変わりゆく風が吹いても、私たちの人生は安定します。人生の嵐が押し寄せても、堅く立ち続けることができるのです。

あなたはどうでしょうか。主の帰還に向けて準備をしているでしょうか。

イエス様が帰られるとき、あなたにこう言われるでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」

イエス様の再臨の日まで、私たちが忠実に生き続けることができますように。

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ミカ書

聞きたくない

「それは聞きたくない。」

聖書を読むとき、私たちはどれほどそのような態度を取るでしょうか。つまり、困難に直面しているとき、聖書から何をすべきかが示されているのに、その言葉が好きではないために、すぐに拒絶してしまうのです。

ある友人は、いつも口から悪い言葉を出していました。彼は自分の罪をよく知っていたため、口についての聖書の箇所をいつも避けていました。例えば、箴言やヤコブの手紙を決して読みませんでした。

けれども、ある日、彼が聖書を読んだとき、これまで一度も読んだことのなかった箇所によって、神様がその口の悪さの罪について彼の心を打たれました。幸いなことに、彼は結局悔い改めることができました。

それでも、私たちはしばしば聖書の言葉を避け、その言葉を無視してしまいます。なぜなら、その言葉を聞くことが耳に痛いからです。

イスラエルの民も同じでした。彼らはミカにこう言いました。

たわごとを言うな。(ミカ書2:6)

でもミカは答えました。

そんなたわごとを言ってはならない。恥を避けることはできない。ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。(6b-7a)

つまり、神様の言葉を拒絶してはいけません。「たわごとを言うな」という言葉に神様は我慢できません。そのような態度を取れば、恥を避けることはできないのです。

そしてミカは訊きました。

「これは主のみわざだろうか。」(7b)

3-5節では、神様はいろんな裁きについてイスラエル人に警告しました。そしてイスラエル人たちは訊きました。「その裁きは本当に神様のみわざだろうか。神様は本当に私たちの態度と罪のために私たちを裁くだろうか。」

ミカはその質問に答えませんが、その答えは明白です。「はい。神様は本当にあなたを裁きます。」

もし私たちが罪を犯すと、悪い結果が起こります。悔い改めないと、必ず裁きが来ます。この世では、私たちの罪によって結婚生活が壊れるかもしれません。経済的にも困窮するかもしれません。

とはいえ、この世で何も起こらなくても、私たちが死ぬと神様は私たちを必ず裁きます。その裁きから逃げられません。

しかし、良いニュースもあります。神様は訊かれました。

私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。(7c)

もう一度、神様はその質問に答えませんが、その答えも明白です。「もちろんその通りです。」

つまり、神様の言葉は私たちの人生を惨めにするためのものではありません。

むしろ、神様の言葉は私たちに命を与えるものです。神様の言葉は、私たちの人生がうまくいくために必要なものです。つまり、私たちの結婚生活が良いものになり、良い仕事があり、食べ物があり、寝る場所もしっかり確保できるために、神様の言葉が必要です。

とはいえ、たとえそのようなものがなくても、神様に従うと、満足のいく人生を送ることができます。なぜならば、神様との関係があれば、一番大切なものを持つことになるからです。

時には神様の言葉が痛みを伴うこともあります。しかし最終的に、その言葉は私たちを癒すものなのです。

もしその罪の傷を神様の言葉で治療しないと、あなたの傷はもっと悪くなり、その傷によって私たちは滅びてしまいます。

あなたはどうですか?あなたは神様の言葉から逃げているでしょうか?あなたの耳を閉じているでしょうか?

どうかあなたの心を開いてください。あなたの心を柔らかくしてください。神様の言葉は痛みを伴うかもしれませんが、あなたを癒せるのです。

あなたの人生に癒しが始まりますように。

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列王記第二 歴代誌第二

私たちはどのように神様の言葉に応答するか

プライドによって、ユダの次の二人の王、アマツヤとアザルヤは没落しました。アマツヤの場合、彼の人生はこの一言で要約されます。

彼は主の目にかなうことを行なったが、全き心をもってではなかった。(歴代誌第二25:2)

例えば、アマツヤがエドムという国と戦う準備をしていたとき、北イスラエル王国から勇士を雇いました。けれども、ある預言者がアマツヤにこう言いました。

王よ。イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです。

それでも、あなたが行くと言われるのなら、そうしなさい。雄々しく戦いなさい。神は敵の前にあなたをつまずかせられます。

神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。(歴代誌第二25:7-8)

アマツヤはそれを聞いて非常に怒りました。なぜなら、彼はすでにその勇士たちに多額のお金を支払っていたからです。

しかし、最終的には彼らを引き離し、それぞれの場所に帰しました。

ところが、次に預言者が来たとき、アマツヤの態度はまったく問題がありました。

ユダがエドム人を打ち破った後、アマツヤはエドム人の偶像を取って礼拝し始めたのです。

預言者が来てアマツヤを戒め始めると、アマツヤはこう答えました。

私たちはあなたを王の議官に任じたのか。

身のためを思ってやめなさい。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか。(歴代誌第二25:16)

預言者はそれを聞いて話すのを止めましたが、彼はこう言いました。

私は神があなたを滅ぼそうと計画しておられるのを知りました。あなたがこれを行ない、私の勧めを聞かなかったからです。(歴代誌第二25:16b)

その預言はただちに成就しました。

アマツヤは愚かにも北イスラエル王国を攻撃しようとしましたが、ヨアシュ王は彼にプライドについて警告を与えました。

あなたは、どうだ、自分はエドムを打ち破ったと言った。あなたの心は高ぶり、誇っている。

今は、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。(歴代誌第二25:19)

アマツヤはヨアシュの言葉を無視し、北イスラエル王国を攻撃しました。その愚かな決断によって、彼は命を落としました。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の言葉にどのように応答するでしょうか。

しぶしぶ従いますか。

それとも、無視しますか。

もしくは心から従いますか。

多くの場合、私たちは自分の知恵に頼り、神様の言葉を拒絶します。私たちは高ぶって、自分の知恵で成功できると思い込むことがあります。

しかし、そのプライドは私たちを没落へと導きます。

ソロモンはこう書いています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言16:25)

自分の知恵に頼るのではなく、命へと導く道を歩みましょう。