カテゴリー
ペテロの手紙第二のデボーション

神の恵みと平安を知るため

神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。(ぺテロの手紙第二1:2)

私たち皆、神の恵みと平安を知りたいと願っているでしょう。

今日の箇所で、ペテロは私たちがそれらをどのように得ることができるかを教えてくれます。

その恵みと平安は、天の父との関係、そしてイエス様との関係から生まれるものです。

天の父とイエス様についての知識だけではなく、天の父とイエス様を本当に知っていることによって、私たちは恵みと平安を受けるのです。

その関係によって、私たちはいのちをもたらす力にアクセスできます。

人生の困難や試練に直面するとき、私たちは神様の力と知恵にアクセスできます。

結婚生活がうまくいくように、子育てのために、自分の傷を癒すために、私たちに傷をつけた人たちを許すために、そして私たちを破壊している習慣を克服するために、私たちはその力と知恵にアクセスできるのです。

でも、一番大切なのは、私たちが天の父のようになれるように、その力にアクセスできるということです。そして、私たちは実を結び、神様のためにこの世に触れ始めます。

それを見て経験すると、恵みと平安が私たちにますます豊かに与えられます。

その恵みと平安を望んでいますか。私はそれらがほしいのです。

あなたを知りたいです。
あなたの御声を聞きたいです。
あなたをもっと知りたいです。

あなたに触れたいです。
あなたの御顔を見たいです。
あなたをもっと知りたいです。ーーアンディー・パク

 

 

カテゴリー
ヨハネの手紙第一

私たちが本当に神様を知り、愛するなら

イエス様は偽預言者たちについて、次のように語られました。

あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。(マタイ7:16)

イエス様は特に偽預言者たちについて語られましたが、私たちは自称クリスチャンたちについても同じことを言うことができます。多くの人々はキリストに従っていると主張し、神様を知り、愛していると述べます。しかし、彼らの実は何でしょうか。

もちろん、最も大切な実は愛です。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。(ヨハネの手紙第一4:7-8)

また、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。(11-12)

ヨハネによれば、神が私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされる証拠とは何でしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことです。

さらにヨハネは、この教えを深めていきます。神様がイエス様を世の救い主として送られたことを宣言した後、ヨハネは、その真理を私たちの心の中で受け入れたときの当然の反応を説明します。彼はこう言います。

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(15-16)

ヨハネは、私たちの神様との関係が、私たちが人を愛するかどうかによるものだと言っているのではありません。むしろ、私たちが神様のうちにとどまり、神様も私たちのうちにとどまっておられるからこそ、私たちは人を愛し始めるのです。

では、なぜヨハネはそう語るのでしょうか。

それは、私たちが神様が私たちのために何をしてくださったかを本当に理解するとき、私たちの考え方が完全に変わるからです。

その結果、私たちは自分の自己価値を疑うことがなくなります。私たちは自分の価値が周りの人々の意見に基づいていないことを知るようになります。むしろ、神様が私たちを愛してくださるという確信を持つのです。

その確信こそが、私たちの人生を完全に変えるのです。

そして、裁きの日においても、私たちはその確信を持ち続けます。

ヨハネはこう言います。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(4:17-18)

ヨハネはこの話を次のようにまとめています。

私たちは愛しています。神が私たちを愛してくださったからです。(4:19)

そういうわけで、ヨハネはこう言います。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することは出来ません。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。(4:20-21,5:1)

要するに、私たちが本当に神様を知り、愛しているなら、神様のほかの子どもたちをも愛するはずです。

もし、私たちにとって周りの人々を愛することが難しいとしても、それは私たちがクリスチャンではないということを意味するわけではありません。

愛は神様との関係から生まれる実です。すべての実と同じように、その実は最初は小さいものです。しかし、その実は次第に成長していきます。

私たちの神様との関係が深まれば深まるほど、また、神様の愛をよりよく理解すれば理解するほど、周りの人々に対する私たちの愛も成長していくはずです。

次の記事では、この話をさらに続けたいと思います。

カテゴリー
エペソ人への手紙

本当に分かることができたなら

私たちは、キリストにあってどれほど祝福されているかを理解しているでしょうか。おそらく、私たちはその真理を十分に把握してはいないかもしれません。

もちろん、私たちは神様の愛と恵みについて聞き、それを信じています。けれども、その愛と恵みの深さを本当に理解しているでしょうか。

私は三十年以上クリスチャンとして歩んでいますが、今なお、その愛と恵みという真理の「浅瀬」を歩いているにすぎないと感じています。

もしかすると、だからこそ、パウロはエペソの信徒たちのために、次のように祈ったのではないでしょうか。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ人への手紙1:17-19)

パウロは、エペソのクリスチャンたちが神様を深く知るために、聖霊様を与えられたと語っています。

もちろん、彼らはすでにある程度神様を知っていましたが、聖霊様はさらに神様を知ることができるように、知恵と啓示を与えてくださいました。聖霊様がおられなければ、私たちは神様を知ることにおいて、すぐに限界にぶつかってしまいます。

けれども、パウロは別の手紙で、このようにも記しています。

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(第一コリント2:10-11)

要するに、聖霊様を通して、私たちは本当に神様を知ることができます。私たちは神様についての事実を知るだけでなく、神様ご自身を知ることができるのです。

もちろん、私たちは完全に神様を知り尽くすことはできません。その深さを探るには、永遠の時を要するでしょう。たとえ天国に到達しても、私たちは毎日、神様について新たなことを知ることになるに違いありません。

しかし、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、天の父を私たちに現してくださることによって、私たちは少しずつ神様を知るようになっていくのです。

とはいえ、聖霊様は神様についてだけを教えてくださるわけではありません。パウロはこのように語りました。

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(第一コリント2:12)

神様は私たちに何を与えてくださったのでしょうか。上記のパウロの祈りの中に、その答えが記されています。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:18-19)

私たちは、神様が与えてくださった希望を本当に知っているでしょうか。たとえこの世界が暗く感じられるとしても、「この世界を越えた何かがある」という確かな希望を抱いているでしょうか。

また、イエス様がすべてを治められるという希望を持っているでしょうか。もちろん霊的な領域において、イエス様はすでにすべてを統治しておられます。なぜなら、イエス様は十字架においてサタンに勝利されたからです。

けれども、私たちはある日、すべての人がひざまずき、「イエス様は主である」と告白する時が来ることを望み見ているでしょうか。私たちは、イエス様が最後の敵である死を打ち破ってくださるという希望を持っているでしょうか。

さらに、私たちは神様が豊かに注いでくださるその愛を、どれほど知っているでしょうか。

神様が私たちを「ご自身の栄光に富んだ資産」と呼んでくださっていることを、私たちは知っているでしょうか(※新改訳聖書の18節脚注を参照)。

そして、私たちが罪や病や死から解放され、復活の体を受ける日を神様ご自身が待ち望んでいてくださることを、私たちはどれほど心に留めているでしょうか。

私たちは、神様の力にアクセスできることを本当に知っているでしょうか。

その力こそが、イエス様を死から復活させたのです。その力は、私たちを日々きよめてくださいます。その力によって、私たちは新しい、栄光に満ちた体を受けるのです。その力によって、私たちは目の前の問題や試練を乗り越えることができます。

最後に、私たちは、自分がキリストにあって何者であるかを知っているでしょうか。私たちは、キリストのからだの一部なのです。私たちはこの世に遣わされ、イエス様の臨在を広げるように召されています。私たちは、すべての場所を神様の恵みと愛で満たすように呼ばれているのです。

このすべてのことを、私たちはどれほど理解しているでしょうか。もし本当に理解したならば、私たちの人生はどれほど大きく変えられることでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:惜しげなく良いものを与える天の父

アメリカでは、ある牧師や伝道師がこう教えています。「もし、あなたが何かを欲しがっているなら、あなたがイエス様のみ名によって願うと、神様はその祈りをかなえなくてはならなくなるのです。」

彼らにとって、神様はまるでアラジンの魔人のような存在です。しかし、神様は魔人ではありません。神様には私たちの願いをかなえる必要などありません。

ここで注意すべき言葉の一つは「良いもの」です。つまり、神様は求める者たちに「良いもの」を与えてくださいます。(マタイ7:11)

けれども、時には、私たちが神様に何かを祈っても、その願いが良くないことを神様はご存じです。

例えば、私たちはパンを願っていると思っていても、実際には石を求めているかもしれません。

また、私たちは魚を願っていると思っていても、実際には蛇を求めているかもしれません。

その場合、神様は石を与えてくださるでしょうか?蛇を与えてくださるでしょうか?きっとそのようなものは与えられません。なぜなら、神様は良いお父さんだからです。

そのため、私たちは大胆に神様に祈ることができます。もし私たちが良いものを祈るなら、神様は最も良いタイミングでその祈りをかなえてくださいます。しかし、もし私たちが悪いものを求めるなら、神様はその祈りを断られます。

このようにして、イエス様はこう教えられました。

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

多くの場合、神様から与えられない理由は、私たちが求めないのです。

時々、私たちはこう考えます。「これは自分勝手な祈りではないだろうか。他のものを祈るべきではないか。もっと大切なことを祈るべきではないか。」

このような時に覚えておくべきことが二つあります。

1.私たちの想像以上に、神様は気前の良い方です。神様は私たちを愛しておられ、良いものを私たちに与えてくださいます。

ルカの福音書では、イエス様が少しユーモラスな話をされます。ある人が寝ようとしていたところ、隣人がしつこくその人をたたき起こして「パンをちょうだい」と頼み続けました。最終的に、その人は「しつこいなあ」と思いながらも隣人にパンを与えました。

イエス様は神様がそのようにイライラされると言っているのではありません。むしろ、イエス様はこう言われます。

「その人が疲れて隣人のしつこさにイライラしていても、相手にパンを与えるなら、なおさら、あなたを愛しておられる天の父が喜んであなたの祈りに答えないことがあるでしょうか。」

2.神様は私たちがご自分をもっとよく知ることを望んでおられます。また、私たちが神様をより信頼することを望んでおられます。そして、私たちが神様の良さを体験し、知ることを望んでおられます。

祈りは、この神様を知るプロセスの重要な部分です。私たちは祈れば祈るほど、神様の御心をより深く理解できるようになります。何が「良いもの」であり、何が「悪いもの」であるかを区別できるようになります。

そして、かなえられた祈りと断られた祈りを通して、私たちは神様の判断と知恵を信頼する方法を学びます。

けれども、私たちが求めなければ、そのような学びや成長は決して得ることができません。

だからこそ、求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。そうするなら、あなたが期待する以上に多くのドアが開かれるでしょう。そして、神様のことをもっと知り、その御心を理解することで、神様とのより親しい関係が築かれるでしょう。

カテゴリー
詩篇

すべての人々が神様を知るように祝福された

この詩篇は、申命記6:24-26の祭司の祝福に似ています。

どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。(詩篇67:1)

私が興味深いと思うのは、その詩人の動機です。

それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。(2)

多くのクリスチャンは自己中心的な理由のために「主よ。私を祝福してください」と祈ります。

しかし、詩人はこのように祈ります。

「主よ、私たちをあわれんでください。祝福してください。なぜなら、周りの人々があなたの恵みと慈しみを見るなら、あなたとの関係を求めるから。そして、私たちだけではなく、彼らもあなたの救いを知ります。」

詩人はその日を楽しみにして、歌います。

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。

国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。セラ

神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。(3-5)

詩人は、すべての国民が自分の心を神様に向けることを見るし、もう一つのことを見ます。それは、神様を恐れる人に対する神様の祝福です。

地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。

神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。(6-7)

神様、あなたの恵みを与えてください。主よ、私を引き寄せ、あなたの御顔を私の上に照り輝かせてくださるように。そして、私の周りの人々が私を見る時、彼らはあなたを見て、あなたに近づくように。

あなたの光が私を通して輝くように。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

神様を知る

ユダ王国の最後の4人の王たちは皆悪い王でした。

エホアハズ(エレミヤ書22章では、エホアハズはシャルムと呼ばれました)、エホヤキム、エホヤキン、そしてゼデキヤは、王として大きな失敗をしました。

エレミヤ書22章では、神様はその最初の3人の王について語られました。

彼らには神様とその民に仕える心がありませんでした。むしろ、彼らは自己中心の心を持ち、自分の立場を利用して富を集めることを望んでいました。そのため、彼らは神様を無視し、その民のニーズも無視しました。

だからこそ、神様はその3人の王を裁かれました。その時、神様は彼らをヨシヤ王と比べて、こう語られました。

あなたは杉の木で競って、王になるのか。あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。そのとき、彼は幸福だった。

彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。――主の御告げ――

しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行なうだけだ。(エレミヤ書22:15-17)

彼らは神様について知っていました。神様の過去のわざを知っていました。けれども、彼らは本当に神様を知ってはいませんでした。

神様について知ることと、神様を知ることは異なることです。

神様を知るということは、あなたの行動と人生を通して神様を認めることです。また、神様を知るということは、正しいことを行うことでもあります。

しかし、これらの王たちはそのようなことをしませんでした。

ヤコブはこう言いました。

さらに、こう言う人もあるでしょう。

「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。(ヤコブ2:18-19)

あなたはどうでしょうか。ただ神様について知っているだけでしょうか。神様が存在することを信じるだけでしょうか。

それとも、あなたの行動と人生を通して、神様を知っていることを示しているでしょうか。