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使徒の働きのデボーション

神様にとって本当に重要なこと

うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち。

あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖たちが逆らったように、あなたがたもそうしているのです。(使徒の働き7:51)

ユダヤ人の指導者たちはステパノに対して重大な告発をしました。つまり、ステパノが神殿や神の律法に逆らう言葉を語ったということです(6:13~14)。

しかし、ステパノによれば、その指導者たち自身が神様に逆らっていました。

過去にユダヤ人の先祖たちが、神様の任命された救い主であるヨセフ(創世記37:8、26~28;45:5~7)とモーセ(使徒の働き7:27、39)を拒絶したように、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を拒絶してしまいました。

そして、その指導者たちが律法に従っていると主張したにもかかわらず、彼らは先祖たちと同様に、律法に何度も違反し、ついにはイエス様を十字架につけてしまいました。

さらに、彼らは神殿を大切にしましたが、その理由は誤っていました。

神殿自体は重要なものではありませんでした。なぜなら、人が造った建築物は主を収めることができないからです。むしろ、神殿は神様が人々の間に住まわれることを象徴するものにすぎませんでした(使徒の働き7:47~50)。

ヨハネによれば、イエス様こそが真の神殿です(ヨハネ2:19~21)。

イエス様にあって、神様は人となり、私たちの間に住まわれました。

原語では、ヨハネは文字通り「イエス様にあって、神様は私たちの間に幕屋を建てられた」と述べています(ヨハネ1:14)。

しかし、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を大切にせず、むしろ十字架につけてしまいました。

では、神様にとって本当に重要なことは何でしょうか。それは、私たちが御子を敬い、御子に従うことです。天の父ご自身がこう言われました。

これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。(マルコ9:7)

主よ、あなたこそが律法の指し示す方です。あなたこそが幕屋や神殿の象徴する方です。私が御霊に逆らったとき、どうか赦してください。また、あなたに耳と心を閉ざしたときも、赦してください。

十字架で、あなたは私のためにご自身の命を捧げられました。私の心の中で、もう二度とあなたを十字架につけたくはありません。(へブル6:6)

あなたは私の愛、敬い、従順にふさわしい方です。毎日、それらをあなたに捧げることができるよう、どうか助けてください。

私はあなたを愛しています。あなたがまず私を愛してくださり、ご自身の命を私のために捧げてくださったことは、本当に不思議なことです。心から感謝します。あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

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創世記のデボーション

私たちのはしご、門、神殿、神

すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。

そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。」。。。

 ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

 彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」(創世記28:12ー13、16ー17)

このシーンを想像してみてください。

ヤコブは自分の罪のために、兄エサウから逃げていました。それでも、恵みによって、神様はヤコブに現れてくださいました。それだけではなく、神様はヤコブを祝福してくださいました。

約二千年後、ナタナエルという人がイエス様の前に立ちました。

ヤコブのように、ナタナエルは少し怖がりました。なぜなら、イエス様はナタナエルについて、神様だけが知っておられることを語られたからです。だから、ナタナエルはイエス様をメシアとして認めました。

しかし、ナタナエルはイエス様がただのメシアではないことをまだ理解していませんでした。

イエス様は彼にこう言われました。

それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。。。

まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。(ヨハネ1:50ー51)

ヤコブの話では、神の使いたちは、はしごを上り下りしていました。

でも、ヨハネの福音書では、イエス様は「私ははしごだ」と言われました。

けれども、「頑張ってはしごを登りなさい」と言われたのではなく、イエス様は私たちのところに来てくださいました。

さらに、イエス様は新しい神の家です。つまり、イエス様は新しい神殿です。

イエス様によって、神様の栄光が現れ、イエス様の十字架の働きによって、私たちは神様に近づくことができます。(ヨハネ2:20;12:32)

それだけではなく、イエス様は天国の門です。イエス様によって、私たちは救われます。(ヨハネ10:9)

それがクリスマスの意味です。イエス様は、私たちのはしごや神殿や門です。でも、最も大切なのは、イエス様が私たちの主と神であることです。

そして、私たちが気づいていなくても、イエス様はここにおられます。イエス様はインマヌエルです。「神は私たちと共におられます。」

だから、ヤコブとナタナエルと一緒に、神様のみ前に立ち、畏敬の念を抱きましょう。

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マタイの福音書 マタイ24章 マルコの福音書 マルコ13章 ルカ21章

私たちの神殿が堕落すると

この箇所は、聖書の中でも最も難解な箇所の一つです。

もしかすると、あなたはこの箇所のすべての解釈を求めているかもしれません。正直なところ、私自身もその答えをすべて知りたいと思っています。

ですので残念ながら、このブログにすべての答えが含まれているわけではありません。

そこで、いつものように私は明確な点に焦点を当てたいと思います。また、この箇所が私たちの人生とどのように関係しているかについて考えてみたいと思います。

さて、今日はイエス様がなぜこのような話を始められたのかを見てみましょう。イエス様がパリサイ人たちや律法学者たちと議論された後、イエス様の弟子たちは神殿を見て、こう言いました。

先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。(マルコ13:1)

もちろん、外見を見ると、神殿は非常に美しい建物でした。けれども、イエス様はすぐに彼らの熱意に冷水を浴びせました。

この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。(マルコ13:2)

イエス様が言われた通り、神殿は崩れました。西暦70年に、神殿は攻撃を受け、火事が起こり、屋根から金が溶け出して壁のひびに入り込んでしまいました。そこで、将軍はその金を取り出すために神殿の石を一つずつ崩すように命じました。

どうして神様はそのようなことを許されたのでしょうか。それは、その神殿の外見は美しかったものの、その内部には多くの堕落があったからです。

もちろん、神殿では良いことも起こりましたが、堕落があまりにも多かったため、最終的にその神殿は立ち続けることができませんでした。神殿には貪欲もありました(だからイエス様は業者たちを追い出されました)。

さらに、「私たちは神様に仕える」と言った祭司たちでさえ、神様に出会った時に神様を認識しませんでした。イエス様が彼らの中におられたにもかかわらず、彼らはイエス様を神様として認めず、むしろイエス様を殺そうと考えました。

私たちクリスチャンは神の神殿です。それでも、これまでどれほど多くの有名なクリスチャンや、そのミニストリーが堕落によって崩れるのを見てきたでしょうか。彼らは崩れるだけでなく、そのミニストリーも完全に崩壊してしまいます。

しかし、彼らを裁く前に、私たち自身の神殿を見直さなければなりません。私たちの神殿には、どのようなものがあるでしょうか。

堕落があるでしょうか。貪欲があるでしょうか。偽善があるでしょうか。嫉妬があるでしょうか。プライドがあるでしょうか。

これらはエルサレムの神殿にも存在していました。それらは、あなたの神殿にも入り込んでいるでしょうか。

また、他の要因も私たちの神殿を汚すことがあります。情欲、苦々しい思い、相手を許さない心は私たちの神殿を汚します。

一方で、愛や憐れみといったものが私たちの神殿にあるべきですが、それらはあなたの神殿に存在しているでしょうか。

周囲の人々が私たちの神殿を見たとき、それを素晴らしい神殿だと思うかもしれません。私たちはクリスチャンの模範に見えるかもしれません。

けれども、私たちの神殿に堕落があるなら、最終的にその神殿は崩れ、堕落は露わになります。

あなたの神殿には、何が存在しているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ2章

神殿に対するイエス様の熱心

この箇所では、イエス様が神殿に行かれた時、そこで牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちが営業していた様子が記されています。

神殿には「異邦人の庭」という場所がありました。ユダヤ人ではない人々がそこに来て、神様を礼拝することができました。

ところが、イエス様が異邦人の庭に入られた時、その場所は非常に騒がしい状況でした。羊や牛、鳩が鳴き声をあげている上、これらの動物を売る者たちや両替人、さらにそのお客たちが話していたためです。

そのため、異邦人にとっては神様を礼拝することがほぼ不可能な状況でした。

さらに、神様を礼拝するために来た人々は不当に扱われていました。

宮の納入金を払うため、多くの人々は両替を必要としていましたが、その為替レートは非常に高く設定されていました。

それだけでなく、いけにえとして自分の動物を連れてきた人々が、ふさわしい動物であるにもかかわらず、検査を担当する者たちに「その動物は不適切だ」と言われてしまいました。

その結果、彼らは神殿で売られている動物を非常に高い価格で購入せざるを得ませんでした。

このような不正が行われていたため、イエス様は大いに怒られました。この状況を見て、イエス様はどう行動されたのでしょうか。

[イエスは]細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネの福音書2:15-16)

ユダヤ人のリーダーたちは、この出来事を目にして、イエス様に問いかけました。

あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。(18)

イエス様はこう答えられました。

この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。(19)

ユダヤ人たちは、イエス様がヘロデによって建てられた神殿について話していると思いました。その時点で、すでに46年が経過していましたが、この神殿が完成したのは西暦63年でした。

しかし、イエス様が話していたのは、その神殿ではありませんでした。ヨハネによれば、イエス様はご自身の体について語っていたのです。

つまり、ユダヤ人のリーダーたちがイエス様を十字架につけて殺しても、三日目にイエス様はよみがえられるということです。

ところで、イエス様が幽霊としてよみがえったと考える人もいます。(例えば、エホバの証人はそのように信じています。)けれども、この箇所によれば、イエス様は明確にこう言われました。「私の体はよみがえります。」

イエス様がご自身の体を神殿と呼ばれたように、パウロは私たちの体を「聖霊の神殿」と呼びます。(第一コリント6:19)

さらに、イエス様はエルサレムの神殿に対して情熱を持っておられたように、私たち一人ひとりに対しても情熱を持っておられます。

イエス様はエルサレムの神殿を神様を礼拝するための場所として清めたいと望まれました。同じように、イエス様は私たちの体を神様のために聖別したいと望んでおられます。

けれども、私たちはしばしばその神殿を、罪やその他のものによって汚してしまいます。

数年前、私はコンピュータのトラブルに直面しました。ファイル自体は無事でしたが、Windowsに問題が発生していました。再インストールを試み続けましたが、最終的には成功しませんでした。

そこで、ファイルをバックアップした後、ハードディスクをフォーマットしました。(つまり、そのハードディスクに保存されていたソフトウェアやファイルをすべて消去しました。)

その後、再び再インストールを行うことができましたが、それは非常に大変な作業でした。

このハードディスクには、多くの役立つファイルが保存されていました。また、悪くないソフトウェアもたくさんありました。しかし、破損したファイルのせいで、コンピュータが正常に動作しなくなっていたのです。

あなた自身はどうでしょうか。私のコンピュータのように、あなたの心に悪いものが存在していませんか。どのような罪が潜んでいるでしょうか。羊や牛の騒がしさが異邦人の礼拝を妨げたように、あなたの罪が周りの人々に神様を見えにくくしているでしょうか。

また、悪いものではなくても、神様を礼拝する妨げとなるものが存在していませんか。例えば、趣味自体は悪くないものですが、その趣味のせいで聖書を読む時間や祈る時間が減ってしまってはいませんか。

イエス様は清い神殿を望まれます。ですから、イエス様はあなたの心を清めたいと願っておられます。

あなたの心には何があるのでしょうか。