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ヨハネの福音書のデボーション

私たちの心を知っておられる方

過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。

しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。

すべての人を知っていたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。イエスは、人のうちに何があるかを知っておられたのである。(ヨハネ2:23ー25)

ペテロは。。。イエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」(ヨハネ21:17)

イエス様、あなたは私の心を見ておられます。あなたは私の心に何があるのか、誰かに教えてもらう必要はありません。あなたは私のことをよく知っておられるからです。

だから、ぺテロとともに、私は言います。「あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」

あなたは私の愛がどれほど不完全なものであるのかよく知っておられます。私の失敗もよく知っておられます。それでも、あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。

それにしても、自分を騙すのは簡単なことです。だから、私の心の層を剥がしてください。私の心の奥底を明らかにしてください。私の心を癒すために、あなたが見たものを見せてください。

イエス様、私はあなたのようになりたいのです。私をあなたのようにしてください。

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民数記のデボーション

ただの言葉?

バラムの話を読んだ時、私はパリサイ人たちと律法学者たちへのイエス様の言葉を連想しました。

この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。(マタイ15:8)

時々、バラムは敬虔な人に聞こえました。

私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。(民数記22:18)

しかし、彼は口先で神様を敬っても、その心は神様から遠く離れていたのです。

自分の欲のために、彼は神様の命じられたことを回避する方法を探していたようです。(第二ペテロ2:15~16)

けれども、神様はバラムの心をよく知っておられ、バラムの言葉に騙されていないことをはっきりと告げられました。

神様の警告を聞いて、バラムはイスラエルを呪おうとする計画をやめました。それでも、彼は後にイスラエルを困らせる方法を見つけました。(民数記25:1~5;36:16)

日曜日に「はい、主よ。私はあなたに従います。アーメン」という言葉を歌うのは簡単なことです。

しかし、それはただの言葉でしょうか。

それとも、その言葉は本当に私たちの心の叫びでしょうか。

私たちの心は、日曜日だけではなく、むしろ毎日毎日、一瞬一瞬、神様に捧げられているものでしょうか。

私たちは心を尽くして神様に従っているでしょうか。

もしくは、私たちは神様の命じられたことを回避する方法を探しているのでしょうか。

天のお父さん、私はバラムのようになりたくありません。私の心のすべてが、あなたのものになるように。

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サムエル記第一のデボーション

プレッシャーがかかる時に

サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。

今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」

サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。」(サムエル記第一13:11ー13)

私たちの人生がうまくいく時、神様に従うのは簡単なことです。でも、大変な時はどうでしょうか。

試練によって、私たちの心の状態がよく現れます。

私は本当に神様に信頼しているのでしょうか。神様の道が最も良い道だと思っているでしょうか。大変なときに神様に従うことが、私たちの最初の本能となるほどに、それを信じているでしょうか。

それとも、私たちは愚かにも自分の道を行くのでしょうか。

サウルの試練によって、サウルの心が現れました。

私たちの試練によって、私たちの心には何が現れるでしょうか。

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サムエル記第一のデボーション

私たちの心を知っておられる方

今日の箇所を読んだとき、私が気づいたのは、ハンナの夫はハンナの心、特にハンナの痛みが分からなかったということです。(サムエル記第一1:8〜9)

また、祭司エリも誤解して、ハンナが酔っぱらっていると思いました。(13〜14節)

でも、神様はハンナの心をよく知っておられました。ハンナが声を出さなくても、神様は彼女の心をよく知っておられました。そして、神様はハンナの祈りを聞き、彼女のために行動してくださいました。(19〜20節)

人々は、私たちを誤解するかもしれません。彼らは、私たちのことを全然分かってくれないかもしれません。

でも、神様は私たちの心をよく知っておられます。そして、言葉を使っても、使わなくても、私たちの心を神様に注ぎ出すと、神様は聞き、私たちのために行動してくださいます。

パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ8:26ー27)

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出エジプト記のデボーション

神様が望まれるもの

すべて、進んで献げる心のある人に。。。(出エジプト記35:5)

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな。。。(21節)

心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな。。。(26節)

イスラエルの子らは男も女もみな。。。心から進んで献げた。。。(29節)

「神様は私たちから何を望んでおられるだろうか?」

それを考えたことがありますか。

この言葉が、その答えを明らかにしていると思います。

ほかのどんなものよりも、神様は私たちの心を望んでおられるのです。

献金を捧げることにおいて、主に仕えることにおいて、私たちが行うすべてのことにおいて、神様は私たちの心を望んでおられます。

あなたの心は神様のものですか。

主よ、あなたが私のためにしてくださったことは数えきれません。あなたは何度も私に愛とあわれみを注いでくださいました。あなたは本当に良いお方です。

私のすべての行動が、あなたの愛と喜びに根差したものでありますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マルコの福音書のデボーション

イエス様を微笑ませる

マルコは言わなかったけど、今日の箇所では、たぶん二人の人たちはイエス様を微笑ませたでしょう。

ちょっと驚くべきことですが、一人は律法学者でした。なぜそれは驚くべきでしょうか。なぜなら、多くの律法学者たちは、イエス様に敵対していたからです。

もう一人は、貧しいやもめでした。

どうして、私は、その二人がイエス様を微笑ませたと思うのでしょうか。

その二人には共通点がありました。それは、彼らが、神様が人々にルールを守らせることよりも、人々の心に関心を持っておられると理解したということです。

律法学者が理解したのは、神様がユダヤ人たちに全焼のささげ物やいけにえを捧げるように命じられたけれど、それらよりも、神様が人々に心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛することを望んでおられるということです。

さらに、神様は、人々が神様が大切にされる人々(つまり、すべての人々)を大切にすることを望んでおられます。

やもめが理解したのは、自分の捧げ物が小さいけれど、その捧げ物の大きさよりも、神様が神様への彼女の愛と信頼に関心を持っておられるということです。

その日、たぶん、多くの人々は神様の律法に従い、十一献金を捧げました。彼らはそのやもめよりもたくさんのお金を捧げたでしょう。

でも、そのやもめの心は神様のものでした。イエス様はそれを見抜かれました。

私たち皆が、イエス様を微笑ませる者となりますように。