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申命記のデボーション

導き入られるため、導き出された

私たちをそこから導き出された。それは、私たちの父祖たちに誓われた地に私たちを導き入れ、その地を私たちに与えるためであった。(申命記6:23)

今朝、私は上記の言葉に思いを巡らしていました。

神様がイスラエル人たちをエジプトの奴隷生活から導き出してくださったように、私たちもサタンの国の罪の奴隷生活から導き出してくださいました。

しかし、神様は私たちが自ら放浪することを望んでおられるわけではありません。神様と共に歩み、真の命と平和を知るために、私たちをご自身の御国に導き入れるように望んでおられます。

けれども、私たちがそれを願うなら、エジプトを離れなければなりません。

つまり、私たちの古い考え方や生き方を手放さなければならないということです。

そして、神様の御心を抱き、神様の御考えを受け入れる必要があります。

神の御言葉が私たちの心、頭、手に触れることを願って求めなければなりません。

そのため、私はどのような古い考え方や生き方を捨てなければならないのかを考えていました。また、どのような新しい考え方や生き方を受け入れなければならないのかを考えていました。

神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

神様が私たちを導き出してくださいました。神様が私たちを新しい命へ導いてくださるよう、祈り求めましょう。

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ヨハネの福音書のデボーション

私が天の父が喜ばれることをいつも行えるように

今日の箇所を読んだとき、私は多くの言葉に心を打たれました。特に、29節は私の心に響きました。イエス様は「わたしは、天の父が喜ばれることをいつも行います」と言われました。

私は、「それを言うことができたらいいのになあ」と思いました。

でも、私は他の言葉にも心を打たれました。

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:31ー32)

まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。 奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。

ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。(34ー36)

私のことばはあなたの中で進行していません。(37、英訳)

神から出た者は、神のことばに聞き従います。(47)

わたしの父を敬っているのに、あなたがたはわたしを卑しめています。(49)

だから今日、私はその言葉をまとめて、このように祈りました。

イエス様、あなたのようになりたいです。あなたのように、「私は、天のお父さんが喜ばれることをいつも行います」と言えたいけど、言えません。私は天のお父さんが喜ばれないことをしばしば行うからです。赦してください。

私の言葉と行いによって、天のお父さんとあなたを決して卑しめることがないように。

むしろ、私がいつも心の中に、あなたのみ言葉のための場所を開けるように。

その御言葉が私の心の中で進行するように。私があなたのみ言葉をもっと理解することができるように助けてください。それだけではなく、私がその御言葉に従うことができるように助けてください。

アブラハムのように、私があなたの言葉の真理を聞き、信じ、受け入れ、従うことができるように助けてください。

イエス様、あなたの恵みを感謝します。あなたのおかげで、私はもはや罪の奴隷ではありません。十字架で流されたあなたの血によって、私は自由にされました。私を神の子にしてくださり、本当に感謝します。

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ローマ人への手紙

全く違う関係に導かれた

もしかすると、パウロは、自分が6章で書いた言葉を振り返り、その意味をさらに説明する必要があると感じたのかもしれません。

6章では、パウロは、私たちはかつて罪の奴隷だったが、今は神様の奴隷であると記しました。

「神様の奴隷」という言葉は、少し不思議に聞こえるかもしれません。おそらく、パウロの意図は、私たちが完全に神様のものとなったことを強調することだったのでしょう。

しかし、「奴隷」という言葉を聞くと、「自由がない」とか「罰の恐れ」といったイメージを思い浮かべる人もいるかもしれません。

だから、パウロは、その誤解を解こうと考えたのかもしれません。

そして、パウロはこう語りました。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。

この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(15-17)

つまり、聖霊様は私たちを導かれますが、決して厳しい主人ではありません。

私たちが罪を犯したり、失敗したりしても、聖霊様は鞭で私たちを罰することはありません。また、「あなたは価値のない人だ。天の父は決してあなたを受け入れることはできない」と言われることもありません。

むしろ、私たちが自分の失敗を見て絶望するとき、また、放蕩息子のように神様を「お父さん」と呼ぶ資格がないと思うとき、聖霊様は私たちの心にささやかれます。

「ちょっと待ってください。あなたはまだ神様の子供です。天の父は今もあなたを愛しておられます。神様を『お父さん』と呼んでもよいのです。天の父はそれを聞いて、心から喜ばれます。」

そして、私たちが試練に直面し、苦しむとき、聖霊様は私たちに希望があることを思い出させてくださいます。私たちは神様の相続人だからです。そして、私たちの苦しみは永遠に続くものではありません。

簡単に言うと、私たちは単なる奴隷ではありません。私たちは神様の愛される子供です。そのことを決して忘れないでください。