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ルカの福音書のデボーション

あなたは取るに足りない者ではない

私はこの話を何度も読んだことがあります。でも、今日、この言葉が思い浮かびました。

「神様の目には、取るに足りない人などいません。」

羊飼いはまだ99匹の羊を持っていたのに、彼にとって、いなくなった1匹の羊は取るに足りないものではありませんでした。

女の人はまだ9枚も銀貨を持っていたのに、彼女にとって、なくなった1枚の銀貨は取るに足りないものではありませんでした。

父にはもっと「忠実」な息子がいたのに、次男がその父に「お父さんが死ねば良いのに」と言ったのに、その父にとって、次男は取るに足りないものではありませんでした。

そのように、神様にとって、私たちも取るに足りないものではありません。

神様にはたくさんの子供たちがいるかもしれません。その子供たちは、私たちよりも才能があり、もっと忠実で、もっと素直な人かもしれません。

でも、神様は私たちを見捨てて、死なせたわけではありません。むしろ、私たちがまだ罪人であったとき、イエス様は私たちのために死んでくださいました。(ローマ5:8)

そして、私たちが悔い改めて神様のもとに戻ると、神様は私たちを大歓迎して、天使たちとともに大喜びしてくださいます。

だから、覚えておいてください。あなたは神様にとって取るに足りないものではありません。むしろ、神様にとって、あなたは尊い人です。

その真理に思いを馳せましょう。その真理を喜びましょう。

でも、それだけではなく、私たちが神様から受けた愛と憐れみを、周りの人々に与えましょう。

なぜなら、彼らも神様にとって取るに足りないものではないのです。

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箴言のデボーション

自分の群れを心に留める

あなたの羊の様子をよく知り、 群れを心に留めておけ。(箴言27:23)

その言葉を読んで、私は神様からゆだねられた人々を考えました。私の妻。私の娘。私のスモールグループ。

私は彼らの様子をよく知っているでしょうか。私は彼らのニーズを心に留めているでしょうか。

どうして、それは大切なのでしょうか。

24ー27節で、私たちは一つの理由を読みます。もちろん、その羊は私たちから祝福されます。でも、私たちが彼らから祝福を受ける日が来ます。

しかし、それよりも、私たちの羊飼いの命令を心に留めておかなければなりません。

イエス様はペテロに言われました。「わたしを愛していますか。わたしの子羊を飼いなさい。わたしの羊を牧しなさい。わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15ー17)

イエス様は私たち皆にも同じことを言われます。

私たちは、イエス様への愛と回りの人々への愛を切り離すことができません。特に、私たちがイエス様を愛しているなら、神様からゆだねられている人々を愛さなくてはなりません。

神様は誰をあなたにゆだねたでしょうか。彼らの様子をよく知っているでしょうか。彼らのニーズを心に留めているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ10章

多くの人々はクリスチャンたちにこう尋ねます。「どうしてあなたは、神様への道が一つしかないと信じるのですか。」

簡単に言えば、それはイエス様がそう主張されたからです。

イエス様はこう教えられました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。(ヨハネの福音書10:1)

多くの人々は、どうすれば天国に行けるか教えようとします。

パリサイ人たちは、神様の律法を正確に守らなくてはならないこと、そしてユダヤ人の先祖のルールと伝統を堅く守らなくてはならないと教えました。

現代でも、多くの人々は自分の努力によって天国に入ろうとします。

しかし、イエス様によれば、天国の門を通らずに、ほかの方法で入ろうとする者は強盗です。

自分の努力によって、彼ら自身が天国に入ることはなく、彼らの教えに従うなら、あなたの魂を盗むことになります。つまり、あなたは裁かれ、地獄に行くのです。

イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。(10a)

この箇所では、イエス様はサタンについて語られています。けれども、多くの場合、サタンは人々を用いて私たちを永遠の破壊に導きます。

その人たちは、必ずしも意図的にあなたの魂を滅ぼそうとしているわけではないかもしれません。実際、多くの場合、彼らの意図は善良であるように見えることさえあります。

けれども、彼らはサタンに騙されているので、もし私たちが彼らに従うなら、私たちも同じ落とし穴に落ちてしまいます。

では、天国に至る門とは何なのでしょうか。イエス様はこう言われました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(9)

この描写は本当に興味深いです。

羊飼いが羊を少し遠い場所へ連れて行くとき、羊たちが休むために、一時的な羊小屋に入れました。その羊小屋には一つの入り口しかなかったため、羊飼いは寝るときにその入り口で横になりました。彼自身が門となったのです。

イエス様が言われたのは、もしあなたが天国に入りたいなら、また祝福された人生を望むなら、イエス様に従わなければならないということです。イエス様以外のことを教える者たちは、あなたを破壊へと導きます。

イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(10:10)

あなたは豊かな人生を望んでいますか。一つの道しかありません。一つの門しかありません。あなたはその門を通る決心をしますか。

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詩篇

本当の礼拝

詩篇100篇は礼拝のための歌です。

だから、この詩篇の始めに、詩人は私たちを神様を礼拝するように招きます。

全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。

喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。(詩篇100:1-2)

そして、詩人は私たちの礼拝の理由を教えます。つまり、詩人は神様がだれであるか、私たちがだれであるか、また私たちの神様との関係は何であるかを反省します。

神様は誰でしょうか。神様は「主」です。

この話を進める前に、少し説明した方が良いと思います。

新改訳では、時々「主」は太字で書かれます。時々、「主」は普通のフォントで書かれます。どうしてでしょうか。

「主」が太字で書かれたとき、それは「ヤハウェ」という言葉です。「ヤハウェ」は神様の名前です。

実は、私たちはその名前の子音しか知りません。なぜなら、ユダヤ人は神様の名前を尊重したので、聖書を読むとき、決して「ヤハウェ」と言わなかったからです。その代わりに「主」と言いました。

そして、ヤハウェの名前を書くとき、子音しか書きませんでした。だから、今では誰もヤハウェの本当の発音をよく知りません。誰もヤハウェの母音を知らないからです。

そういうわけで、日本語の聖書と英語の聖書のほとんどは神様の名前のために「主」を使います。

とにかく、太字の「主」を見るなら、その代わりに「ヤハウェ」と入れ替えてみてください。

多分「ヤハウェ」という名前は、出エジプト記3章14節から来ます。そのとき、モーセは神様に尋ねました。「あなたの名前は何ですか。」

神様は「わたしは、『わたしはある』という者です。」と答えられました。

ヘブライ語では、「ヤハウェ」という名前は「ある」という動詞から来ています。

その名前によって、神様が私たちに言われるのは、「私は永遠の方です。私は永遠から存在し、永遠まで存在します。私は決して変わりません。」ということです。

そして、神様は私たちの創造主です。

それでは、私たちは誰でしょうか。そして、私たちの神様との関係は何でしょうか。私たちは神様のものです。私たちは神様に属するものです。なぜでしょうか。

それは神様が私たちを造られたからです。私たちは自分自身を造りませんでした。神様は私たちの創造主ですから、私たちは正当に神様に属します。だから詩人は言います。

私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。(3)

神様の羊として私たちはどうすればいいでしょうか。

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。(4)

以前のブログでは、私はジム・エリオットという人について話しました。「Shadow of the Almighty」という本の一節は本当に私の心を打ちました。エリオットは詩篇100篇4節についてこう書きました。

どうして、羊はその門に入っているのでしょうか。どうして、主の大庭に入っているのでしょうか。歌を歌って、羊の交わりを楽しむためでしょうか。それだけでしょうか。違います。

彼らは祭壇に行っていました。彼らが牧場で食べた目的は、彼らを試し、いけにえの準備をさせられるためです。

だから、神様に感謝しましょう。なぜなら、あなたはその祭壇に値するものとして認められたからです。

賛美しながら、神様の仕事をしなさい。。。

天のお父様、あなたの御心でしたら、私の命、私の血を取って、あなたの火で焼き尽くしてください。

私の人生を救おうとは思いません。なぜなら、この人生は私の物ではないからです。

私の人生のすべてを取って、用いてください。

この世のために私の血を供え物として注いでください。なぜなら、私の血は、あなたの祭壇の前に流れる時だけに価値があるからです。

あなたはその言葉が極端だと思うかもしれませんが、多分エリオットはパウロの言葉をよく理解していました。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

実は、エリオットはアウカ族の救いのために自分の血を注ぎました。

だから、覚えておきましょう。礼拝はただ賛美の歌を歌うことではありません。

礼拝は生きた供え物になることです。

礼拝は、自分の目的のためでなく、神様の目的のために生きることです。

礼拝は主を喜ばせることです。

それらが本当の礼拝です。

時々、礼拝の代価は高いです。しかし、主にすべてを捧げると、あなたは喜びを知ります。どうして私はそう思うでしょうか。

主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(5)

その言葉を信じないなら、主に人生を捧げるのは難しくなります。

けれども、神様が良い方であることを信じたら、また、神様が忠実で、私たちを愛して、私たちの最善を望んでおられることを信じたら、神様にすべてを捧げることは当然なことになります。

あなたはどうですか。そのことを信じるでしょうか。神様を本当に礼拝しているでしょうか。