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使徒の働き

止められない

この箇所を読むとき、「止められない」という言葉が思い浮かびます。使徒の働きではなく、聖霊様の働きは決して止められません。

使徒たちはさまざまな奇跡を行い、福音を述べ伝えました。その結果、神の国に入る人々はますます増えました。

祭司長たちはそれを見て、使徒たちに妬みを抱きました。もしかすると、彼らはこう思っていたかもしれません。

「私たちは祭司長であり、神様の代表者なのに、どうして神様は私たちではなく、イエス様の弟子たちを通して働いておられるのだろうか。」

しかし、おそらく彼らは心の中で、その答えをすでに知っていたでしょう。使徒たちを責めたとき、彼らはこう言いました。

おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人(つまり、イエス様)の血の責任をわれわれに負わせようとしている。(使徒の働き5:28)

彼らはイエス様の死の責任を逃れたいと思いました。なぜでしょうか。

おそらく、復活の後、彼らは「私たちは間違っていたのだろうか?まさかイエス様が本当にメシアだったのだろうか。」と思ったことでしょう。

もちろん、多くの祭司長たちやパリサイ人たちの考えは変わりませんでした。それでも、7節によれば、イエス様がメシアであることを信じるようになった祭司たちもいたのです。

とにかく、最高法院の人々はもう一度使徒たちを逮捕し、彼らを責めました。使徒たちは、すでにイエス様の名によって教えないように命じられていたにもかかわらず、教え続けたからです。

ペテロの答えは驚くべきものでした。

人に従うより、神に従うべきです。

私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。

私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。(29-32)

21世紀のクリスチャンにとって、その言葉は特に不思議なものではありません。

けれども、その言葉に祭司たちとサドカイ人たちは面食らったことでしょう。彼らは宗教的な指導者でありながら、復活を信じていませんでした。

さらに、ペテロは、復活したイエス様を通して、神様がイスラエルに悔い改めを促し、罪の赦しを与えると語りました。

そして彼らは、聖霊様の働きこそが、自分たちの言葉の真実を証明するものだと述べました。

バプテスマのヨハネが現れるまでの400年間、誰も聖霊様の働きを目にすることはありませんでした。しかし、使徒たちによれば、聖霊様は預言者や祭司だけではなく、イエス様を信じるすべての人の上に注がれています。

さらに、使徒たちは、聖霊様に満たされているはずの祭司たちにそのことを告げました。

そのため、祭司たちや最高法院の人々は、その言葉を受け入れることができませんでした。彼らは使徒たちを殺そうと考えましたが、ガマリエルというパリサイ人が立ち上がり、こう言いました。

この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。

しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。(38-39)

私は前にも言いましたが、祭司長たちは自分が間違っていたのかどうか疑い始めていたでしょう。ガマリエルの言葉に対する彼らの反応は、その疑いを示しています。

もし彼らがイエス様を偽のメシアだと確信していたなら、使徒の働きが神様から出た可能性を認めることはできなかったでしょう。

けれども、彼らにはその疑いがあったため、使徒たちを釈放しました。そして使徒たちは、イエス様がメシアであることを教え続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。神様の民が聖霊様に満たされるなら、その働きは決して止められません。

社会の状況を見れば、絶望するかもしれません。迫害を受ければ、私たちは大きな苦しみを味わうかもしれません。しかし、たとえ敵が私たちを苦しめても、私たちが聖霊様に満たされるなら、神様は私たちを用い、神様の国を広げてくださいます。

だからこそ、失望しないでください。むしろ、聖霊様の力によって、大胆に神様からの使命を果たしましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ16章

御霊の働き

聖霊様とは誰でしょうか。今なお、多くのクリスチャンたちは聖霊様について混乱しています。

一つのことを心に留めておきましょう。聖霊様は「物」ではなく、「者」です。

聖霊様は単なる力ではなく、人格を持っておられます。

だからこそ、イエス様が聖霊様について話されるとき、聖霊様を「助け主」と呼ばれました。

このギリシャ語の言葉は翻訳が難しいものですが、ある意味では、聖霊様は弁護士のような存在です。サタンが私たちを責めようとするとき、聖霊様は私たちを弁護し、助言を与え、助けてくださいます。人格のない力には、そんなことはできません。

だからこそ、このことを理解し、心に留めましょう。聖霊様は人格を持つ方なのです。

サタンが私たちを責めるとき、聖霊様はイエス様とともに、天の父のみ前で私たちのためにとりなしてくださいます。

私たちがどう祈ればよいか分からないとき、聖霊様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ 8:26-27,34)

私たちが神様が本当に私たちを愛しておられるのか疑問に思うとき、聖霊様は「あなたは神様の子どもだよ」と思い出させてくださいます。(ローマ 8:15-16;第一ヨハネ 3:24)

そして、今日の箇所では、イエス様はさらに聖霊様の働きについて教えてくださいした。

その方(聖霊様)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。(ヨハネの福音書16:8)

時々、私たちは人々の心を変える責任があると思いがちです。もちろん、私たちは福音の種を蒔き、水を注ぐ責任があります。

しかし、その種を成長させることができるのは、聖霊様だけです。人々の心を変えることができるのも、聖霊様だけです。

人々がイエス様を拒絶するとき、聖霊様は彼らの罪を明らかにされます。(ところで、この箇所における「罪」とは、一般的な悪行を指すのではなく、イエス様を拒絶することを意味します。)

イエス様が天に戻られたため、私たちはイエス様の義の模範を直接見ることができません。だからこそ、聖霊様は私たちに何が良いのかを教え、イエス様こそが救いの道であることを示してくださいます。

また、聖霊様は人々に将来の裁きについて警告されます。サタンが裁かれるのはもちろんですが、キリストを拒絶する者も裁かれます。

最後に、聖霊様は私たちをすべての真理へと導いてくださいます。私たちが聖書を読むとき、聖霊様はその言葉の意味を教えてくださいます。

初めて聖書の言葉を読むとき、その意味が分からないかもしれません。けれども、後になって私たちがその言葉を必要とするとき、聖霊様はそれを思い出させ、その意味を説明してくださいます。

もう一つのことに気づいてください。つまり、天の父とイエス様と聖霊様の交流です。

天の父が知っておられることは、イエス様も知っておられます。そして、イエス様が知っておられることを、聖霊様は正しい時に私たちに現してくださいました。

天の父、イエス様、聖霊様は唯一の神であり、調和して働かれます。

では、この真理が私たちにとってどんな意義を持つのでしょうか。

イエス様が「私たちの益のために天に戻る」と言われたとき、それは本気の言葉でした。なぜなら、聖霊様を通して神様ご自身が、イエス様を信じる者のうちに住んでおられるからです。

聖霊様は私たちを通して、周りの人々をイエス様へと導かれます。聖霊様は私たちの弁護士として働き、私たちのためにとりなし、教え、導いてくださいます。また、聖霊様は私たちを慰めてくださいます。

イエス様、聖霊様を私たちに与えてくださり、感謝します。聖霊様を通して、あなたは真にインマヌエル—「私たちとともにおられる神」です。

聖霊様、どうか毎日私たちを導き、教え、助けてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

救いの水

仮庵の祭りの最後の日に、多分、イエス様は祭司たちがシロアムの池からの水を祭壇に注いだ事を見たでしょう。周りの人々もそれを見て、こう歌いました。

あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ12:3)

でも多分、そのすぐ後、彼らはほかの声を聞いたでしょう。イエス様はこう叫びました。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37-38)

それはさすがイエス様でした。ユダヤ人たちはずっとその祭りをお祝いして、祭司たちはずっと水を祭壇に注いだけど、イエス様は彼らにその儀式の本当の意味を説明しました。

その前、人々がその儀式を見た時、彼らはエジプトからの救いを思い出しました。また、彼らは、その先祖が砂漠を渡ったとき、神様が岩から水を二回備えてくださったことを思い出しました。

だから、その儀式を通して、彼らは救いの喜びを思い出しました。その救いは、自分の努力によるものではなく、神様の備えによるものでした。

でも、彼らは一つのことを見逃していました。その岩を通して、神様は彼らにイエス様のことを描写しました。

パウロはこう書いた。

(イスラエル人の)みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。(第一コリント10-3-4)

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう語られました。

「あなたたちは砂漠を歩いていたイスラエル人のように渇いているでしょうか。霊的な砂漠の中にいるのでしょうか。神様を慕いながらも、どうしても神様を見つけることができないのでしょうか。

それなら、私のもとに来なさい。私を信じなさい。(ヨハネ6:35を覚えているでしょう)。そうすれば、あなたの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。」

では、イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。ヨハネがその意味を説明してくれます。

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(39)

つまり、私たちがイエス様のもとに来て信じるなら、御霊である神は私たちとともに住み、私たちのうちにおられるのです。(ヨハネ14:17)

そのため、私たちの霊的な渇きは満たされます。また、私たちの人生から御霊が流れ出し、周りの人々に触れるのです。だからこそ、毎日私たちが救いの泉から水を汲むことで、私たち自身が祝福されると同時に、周りの人々も祝福されます。

クリスチャンたちは、そのように生きるべきです。毎日、私たちは御霊から力を受けて、次第にキリストと同じかたちに姿を変えられていきます。(第二コリント3:18)

また、私たちは周りの人々に神様の救いを延べ伝えます。そして、その中で喜びを知るのです。