私はこの箇所を読むと、イエス様のたとえ話の一つを思い出します。
その話では、ある金持ちの畑が豊作でした。そして彼は、その作物を蓄えておく場所がないことに気づきました。
彼はどうしたでしょうか。貧しい人々を助けたでしょうか。その祝福が神様から来たことを理解し、感謝の心を持って周りの人々を助けようと思ったでしょうか。
いいえ、違います。むしろ、彼は自分自身のことだけを考えました。そして、彼はこう言いました。
こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。(ルカ12:18-19)
しかし、神様は彼にこう言われました。
愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(ルカ12:20)
そして、イエス様はこう言われました。
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(ルカ12:21)
アモスの時代、イスラエル人はそのような愚か者でした。彼らは自己満足に陥り、金持ちで安心しきっており、たくさんの物を持ち、高慢になっていました。
そのため、彼らは貧しい者のことや、自分たちの罪のことをまったく気に留めませんでした。だからこそ、神様は彼らにこう言われました。
それゆえ、今、彼らは、最初の捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる。(アモス書6:7)
あなたはどうでしょうか。自分の力でいろいろなことができると思い、高慢になってはいませんか。たくさんの物を持って自慢したり、自己満足に陥ってはいませんか。
そのイスラエル人たちや金持ちのたとえ話のようにならないように気を付けてください。
自分自身だけに焦点を当てるのではなく、神様と周りの人々に焦点を当ててください。
もし神様があなたを祝福されたなら、その祝福には理由があります。その理由は自分自身を喜ばせるためではありません。
その理由は、あなたが周りの人々に対して祝福となることです。そして、あなたが周りの人々に良い影響を与えることなのです。
あなたが金持ちであろうと貧しくても、影響力があってもなくても、神様は自己中心な態度やプライド、自己満足な態度を嫌われます。
神様は私たちに、自分自身に焦点を当てるのではなく、周りの人々に焦点を向けるよう招いています。また、神様は私たちが周りの人々に対して、神様の目、口、手、そして足となるように招いているのです。
神様、自己中心になるのは簡単です。どうか赦してください。
私に与えられている物は私のものではありません。それらは本当にあなたのものです。
どうかその真理をいつも心に留められるよう私を助けてください。自分自身に焦点を当てず、あなたに、そして周りの人々に焦点を向けられるよう助けてください。
私が自分自身のためではなく、あなたの御国のために生きることができるよう導いてください。アーメン。