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士師記のデボーション

神中心?自己中心?

数日に渡ってサムソンの人生を考えているとき、二つのことが私の目につきました。

一つ目は、サムソンが自己中心な人生を送っていたということです。彼が敵を打ち倒したとき、イスラエルの民をある程度まで助けましたが、その助けは偶発的なものでした。彼はイスラエルの民を救おうとしていたわけではなく、彼の動機はただ復讐でした。

二つ目は、彼が神様との関係をほとんど持っていなかったということです。彼が神様に祈ったのは、助けを求めるときだけでした。

サムソンは祭壇を建てたこともなく、神様を礼拝したこともありませんでした。勝利を得たときも、それ以外のときも、神様に感謝することはありませんでした。

神様はサムソンを通して、ある程度までイスラエルの民をピリシテ人から救われました。

けれども、サムソンが人々を導くことはありませんでした。彼が自分の民と関わった唯一の場面は、彼らがサムソンをピリシテ人たちに引き渡したときでした。(士師記15:11~13)

彼は、人々を神様に従うように導くことはまったくありませんでした。むしろ、周りの人々と同じように、サムソンは自分の目に良いと見えることを行っていました。(士師記14:17;17:6)

私はそのような人になりたくありません。私の心が神様のものとなることを願います。また、周りの人々が神様に従う心を持つよう導きたいです。

あなたはどうですか。どのような人になりたいですか。

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コリント人への手紙第二

自分のことに焦点を当てないこと

この箇所を読むと、私はパウロがキリストの模範に従っていたことに気づきました。

もし、イエス様がただ快適な生活を送ることに関心があったなら、この世には来られなかったでしょう。

飼葉おけに寝ることもなかったでしょう。貧しい大工の家で成長することもなかったでしょう。枕する所のない日々を経験することもなかったでしょう。そして、十字架へと向かうこともなかったでしょう。

しかし、イエス様はそれらすべてを経験されました。なぜでしょうか。

それは、私たちの慰めと救いのためです。

私たちは罪のゆえに、また、この世の悪のために、惨めな存在でした。さらに、破滅へと向かう道を歩んでいました。イエス様はその状況をご覧になり、天国の安楽な生活を捨てて、私たちのために苦しみを選ばれました。

パウロはイエス様の模範を見て、従いました。

コリントの人々や他の人々のために、彼は遭難や投獄、飢えや迫害を経験しました。なぜでしょうか。それは、彼が自分の楽な人生に焦点を当てず、むしろ周囲の人々の苦しみと必要に目を向けていたからです。

また、パウロが慰めを受けたときも、彼はただ自分自身に焦点を当てることはありませんでした。

彼の願いは、コリントの人々が彼の経験を見ることで励まされることでした。

つまり、彼らがこの世の試練はつらくても、一時的なものであることを理解することです。なぜなら、彼らは、パウロ自身も試練の中で神様の平安と喜びを知ったことを見たからです。

だからこそ、コリントの人々は、自分たちの試練の中で、最終的に慰めを受けるという希望を持つことができたでしょう。そして、その希望が彼らに耐える勇気を与えたのです。

自己中心になることは簡単です。神様の愛をスポンジのように吸収し、ただ楽な人生を望むことは簡単です。

しかし、神様は私たちがそのような態度を取ることを望んでおられません。むしろ、神様は私たちがイエス様の模範に従い、たとえ苦しみが伴うとしても、自分の快適な生活を手放し、周囲の人々の救いのために働くことを望んでおられます。

とはいえ、イエス様の視点を持たなければ、私たちは決してそのように生きることはできないでしょう。

イエス様は周囲の人々の苦しみをご覧になりました。だからこそ、十字架へと進んで行かれたのです。

あなたはイエス様の視点を持っているでしょうか。

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イザヤ書

私たちが誰のものであるか思い出す

「私の人生。私のお金。私の物。私の体。」

どれほど私たちは、このような言葉を口にしているでしょうか。そして、そのような態度を取ることで、私たちはどれほど自分の人生を混乱させてしまうでしょうか。

自己中心的な態度を取ると、私たちは虚しい人生以外にはたどり着けません。

多くの人々は満足を求めて自己中心的になります。けれども、自己中心の生活は私たちを決して満足させません。むしろ、私たちはますます空虚さを感じるだけです。

この聖書の箇所において、その真理が明らかにされています。

イスラエルの民は、長い間自己中心的な態度を取り続けました。その結果、彼らは追放されることになりました。そして、彼らの魂は乾き、涸れてしまいました。

しかし、そのような中で、神様は彼らにこう語られました。

今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。(イザヤ書44:1-3)

イザヤがこれを書いた時、ヨエルの言葉を思い浮かべていたのかもしれません。ヨエルはこう預言しています。「わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(ヨエル書2:28)

この箇所で神様が語っておられるのは、イスラエルの民が神様に背を向けてしまったにもかかわらず、彼らが依然として神様に選ばれた民であるという事実です。

だからこそ、神様は彼らを癒し、助けると約束されました。神様が彼らに聖霊を注がれる時、彼らの乾ききった、涸れた人生に新しい命が吹き込まれます。

その日、彼らの態度は大きく変わります。「私の人生、私の物、私の体だ」とはもう言わなくなるのです。むしろ、

ある者は『私は主のもの』と言い。。。ある者は手に『主のもの』としるし[ます]。(5)

それが、満たされた人生の鍵です。すなわち、聖霊に満たされた人生です。また、聖霊の臨在と力によってよみがえらされた人生です。

そのような人は自信を持ってこう言うでしょう。「私は神様の者です。」

あなたはどうでしょうか。心に空虚さを感じていますか。満たされていないと感じているでしょうか。

自分のためだけに生きていると、決して満足を得ることはできません。持ち物やお金、そしてこの世のものでは、私たちを完全に満たすことはできません。それらは決して人生に真の充実感をもたらしません。

しかし、神様のために生きるならば、また聖霊に満たされるならば、本物の平安と満足を見つけることができます。

あなたは誰の者ですか。そして、誰のために生きていますか。

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イザヤ書

自己中心

あなたは誰のために生きているでしょうか。

多くの人々は「私自身のために生きる」と答えます。

宮廷をつかさどる執事シェブナもそのような人でした。

彼は高ぶって、自分のために岩に墓を掘りました。

どうしてそれはそんなに悪いことだったのでしょうか。その時代では、そのような派手な墓は王の家族のためでした。でもシェブナは王の家族のメンバーではありませんでした。

そして、その時、アッシリヤはエルサレムを囲む準備をしていました。だから、エルサレムの中で苦しんでいる人々はたくさんいました。それなのに、シェブナはその派手な墓を掘りました。

だから主はシェブナを責められました。

あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。

ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。

主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。

主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。(イザヤ書22:16-19)

そして、神様はエルヤキムという人にシェブナの立場を与えられました。神様はエルヤキムについてこう言われました。

彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。。。

わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。(22-24)

ある日、私はハワイの牧師の話を聞きました。彼は罪に落ちて、その教会を失いました。でも神様の恵みによって、彼のミニストリーと家族はだんだん回復しています。

どうして彼は罪に落ちたのでしょうか。彼はこう言いました。「私のミニストリーの中心は私になりました。私の人生の中心は私になりました。」

そして、彼はそのミニストリー、また彼の人生が神様からの賜物であることを忘れていました。

牧師が失敗すると非難されやすいです。もちろん、神様は彼らをもっと厳しくさばかれます。なぜなら、「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」からです。(ルカ12:48)

でも、誰でも倒れてしまう可能性があります。そして、あなたの人生の中心が自分自身になったら、全てを無くす危険があります。私たちの結婚や家族やミニストリーを失うかもしれません。

だから、倒れた人々を責めるよりも、私たちは自分自身を見つめて問いかけるべきです。

「私の人生の中心は誰でしょうか。私でしょうか。神様でしょうか。私は自分のために生きているのでしょうか。それとも神様と私に与えられた人々に仕えているのでしょうか。」

皮肉なことですが、もし謙って主と他の人々に仕えると、エルヤキムのように私たちは栄光をいただきます。

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

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アモス書

自己中心、プライド、自己満足

私はこの箇所を読むと、イエス様のたとえ話の一つを思い出します。

その話では、ある金持ちの畑が豊作でした。そして彼は、その作物を蓄えておく場所がないことに気づきました。

彼はどうしたでしょうか。貧しい人々を助けたでしょうか。その祝福が神様から来たことを理解し、感謝の心を持って周りの人々を助けようと思ったでしょうか。

いいえ、違います。むしろ、彼は自分自身のことだけを考えました。そして、彼はこう言いました。

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。(ルカ12:18-19)

しかし、神様は彼にこう言われました。

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(ルカ12:20)

そして、イエス様はこう言われました。

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(ルカ12:21)

アモスの時代、イスラエル人はそのような愚か者でした。彼らは自己満足に陥り、金持ちで安心しきっており、たくさんの物を持ち、高慢になっていました。

そのため、彼らは貧しい者のことや、自分たちの罪のことをまったく気に留めませんでした。だからこそ、神様は彼らにこう言われました。

それゆえ、今、彼らは、最初の捕らわれ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる。(アモス書6:7)

あなたはどうでしょうか。自分の力でいろいろなことができると思い、高慢になってはいませんか。たくさんの物を持って自慢したり、自己満足に陥ってはいませんか。

そのイスラエル人たちや金持ちのたとえ話のようにならないように気を付けてください。

自分自身だけに焦点を当てるのではなく、神様と周りの人々に焦点を当ててください。

もし神様があなたを祝福されたなら、その祝福には理由があります。その理由は自分自身を喜ばせるためではありません。

その理由は、あなたが周りの人々に対して祝福となることです。そして、あなたが周りの人々に良い影響を与えることなのです。

あなたが金持ちであろうと貧しくても、影響力があってもなくても、神様は自己中心な態度やプライド、自己満足な態度を嫌われます。

神様は私たちに、自分自身に焦点を当てるのではなく、周りの人々に焦点を向けるよう招いています。また、神様は私たちが周りの人々に対して、神様の目、口、手、そして足となるように招いているのです。

神様、自己中心になるのは簡単です。どうか赦してください。

私に与えられている物は私のものではありません。それらは本当にあなたのものです。

どうかその真理をいつも心に留められるよう私を助けてください。自分自身に焦点を当てず、あなたに、そして周りの人々に焦点を向けられるよう助けてください。

私が自分自身のためではなく、あなたの御国のために生きることができるよう導いてください。アーメン。

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列王記第二

自分の動機を見極める

エフーはイスラエルの王としての評判はやや複雑でした。

彼は神様の命令に従い、アハブの家族を皆殺しました。そのため、神様は彼を誉め、約束を与えられました。

あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、私が心に定めたことをことごとく行なったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。(列王記第二10:30)

けれども、ダビデやソロモンに対する約束とは異なり、神様はエフーに永遠の王国を約束されませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、神様はエフーの心を見ておられたからでしょう。

9章を読むと、エフーが預言者にイスラエルの王として油を注がれたにもかかわらず、彼はそのことを真剣に受け止めていなかったように見えます。

しかし、人々が彼を王として認めると、突然、彼は預言者の言葉を信じるようになったようです。

それにもかかわらず、エフーの行動を見ると、彼は神様を恐れることなく、自分の力のために振る舞っていたことが分かります。

また、預言者が彼に油を注いだ出来事とその言葉を利用して、自分の行動を正当化したのです。

9章から10章にかけて、エフーはアハブの家族を殺害した後、ユダの王アハズヤとアハズヤの親族の数人を殺しました。

それだけでなく、エフーはアハブの身分の高い者や親しい者も殺害しました。けれども、神様はそのようなことを命令されたわけではありませんでした。

その行動のためか、預言者ホセアを通して、神様はエフーを裁かれました(ホセア書1:4)。

また、彼は他の罪も犯しました。

彼はイスラエルでバアルの礼拝を止めたものの、ヤロブアム王の二つの子牛の偶像を礼拝し続けました。

もしエフーが本当に神様を愛していたなら、そのようなことを決してしなかったでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの動機は何でしょうか。

あなたは神様を愛しているために神様に仕えているのでしょうか。

それとも、自己中心的な動機のために生きているのでしょうか。

あなたは正しい行動をしているかもしれません。周りの人々はあなたを誉めているかもしれません。

しかし、神様はあなたの心をご覧になります。

もしあなたの動機が悪かったならば、神様からの報いは来ないでしょう。

自己中心的な態度で神様に仕えないようにしましょう。むしろ、神様をあなたの王として迎えましょう。

そして、神様の栄光のために生きましょう。

パウロが言ったように、

あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)