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ローマ人への手紙

私たちの希望の理由(2)

この箇所では、私たちが苦しみの中で希望を持つ理由をもう一つ見いだすことができます。それは、神様が永遠の昔から私たちのために計画を持っておられたことです。

パウロはこう記しました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ人への手紙8:29-30)

多くの人々は、自由意志や予定説(すなわち、神様があらかじめすべてを定めておられること)という概念について考えると混乱します。

他の記事で私はこのテーマについて触れましたし、また9章について書くときに、改めてこのことを論じる予定です。

しかし、まずはクリスチャンにとってのパウロの言葉の意味を考えてみましょう。

あなたが生まれる前から、神様はあなたのことを深く知っておられました。

エペソ人への手紙1章で、パウロはこう述べています。神様はこの世を創造される前から、すでにあなたを知っておられました。

神様はあなたの良い面も、弱さも、すべてをご存じです。神様はあなたの得意なことも不得意なことも理解しておられます。

そして、あなたがどのような善を行い、どのような過ちを犯すかも、すべてをご存じです。

それでも、神様はあなたを選ばれました。そして、あなたのために良い計画を立てておられます。その計画とは、あなたが神様の御子のかたちに変えられることです。

神様は、あなたが罪深く、弱く、反抗的になってしまうことをすべてご存じでした。それでもなお、神様は恵みを与え、あなたを栄光に満ちた存在へと変えることを計画されたのです。

その計画を成就するために、神様はあなたを召されました。あなたが神様を求めていなかったとしても、神様はあなたを召されました。

そして、あなたが信仰を持って神様に向かうと、神様はあなたを義と認められました。イエス様が十字架の上であなたの罪の代価を支払われたので、神様はあなたに関して「無罪」と宣言することがおできになります。

そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。イエス様と同じような栄光の体を授けてくださいます。その体は決して朽ちることなく、罪に汚れることもありません。それは、真に栄光に満ちたものなのです。

それは、神様があなたのために立てられた計画です。そして、その計画は確実なものです。結局のところ、神様の計画を変えられるものは何一つ存在しません。

神様は永遠の昔からすべてを知っておられるので、私たちを見てこう言うことは決してありません。

「あれ?彼を選んだけれど、ダメになってしまった。彼の人生はめちゃくちゃだ。もうどうしようもない。私でさえ彼を救うことができない。」

神様は、決してそんなことを言われることはありません。神様は、そもそもあなたのすべてを知っておられた上で、あなたを選ばれたのです。

そして、パウロは私たちへの神様の賜物について、こう記しています。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(ローマ人への手紙11:29)

あなたは、自分自身を見つめたとき、気が重くなることはありますか。クリスチャンとして思うように成長していないと感じ、失望してしまうことはあるでしょうか。

神様はあなたに失望されることはありません。神様は、はるか昔からあなたを知っておられます。神様はそもそも、あなたがイエス様のかたちに変えられるまでにどれだけの時間がかかるかを完全に理解しておられます。

だからこそ、神様は決してあなたを見放されることはありません。

そして、どんな試練に直面しても、その試練が神様の計画を狂わせることは決してありません。神様が驚かれることはなく、すでにあなたをどのように助けるかを知っておられます。

だから、苦しみの中でも絶望せず、パウロの言葉を心に留めてください。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

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エレミヤ書 列王記第二 歴代誌第二

神様の選択、私たちの選択

クリスチャンの学者たちは長い間、神様の主権と人間の自由意志について議論を続けています。この箇所では、その二つの要素を見ることができますので、その議論について少し触れます。ただし、そのことに関して、私には特に新しい考えがあるわけではありません。

この箇所では、エホヤキム王がバビロンの王に反抗したため、バビロンはエルサレムを攻撃し、彼を退けてバビロンに囚人として連れて行きました。

その息子エホヤキンは、王としてわずか3か月しかユダを治めませんでした。ネブカデネザルは彼も退け、バビロンに囚人として連れて行きました。ネブカデネザルはエホヤキンだけでなく、エホヤキンの母、妻たち、すべての高官、一万人もの有力者、職人や鍛冶屋たちも捕囚として捕らえ、移しました。

さらに、エホヤキンの代わりにネブカデネザルは、エホヤキンのおじゼデキヤを王としました。(歴代誌によれば、ゼデキヤはエホヤキンの「兄弟」ですが、その意味は「近親者」です。列王記第二24:17によれば、ゼデキヤはエホヤキンのおじでした。)

その時、神様はエレミヤに幻を通して二つのかごのいちじくを見せられました。一つのかごにはとても良いいちじくがあり、もう一つのかごにはとても悪いいちじくがありました。

神様が言われたのは、追放された人々を良いいちじくだと見なされるということです。その一方、エルサレムに残った人々は悪いいちじくでした。そして、神様はエルサレムに残った人々を滅ぼされますが、追放された人々を祝福し、いつの日かイスラエルに帰らせると約束されました。

しかし、どうして神様はあるグループを救われ、他のグループを滅ぼされるのでしょうか。神様は追放された人々についてこのように言われました。

わたしは、良くするために彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。(6-7)

もちろん、追放された人々の中には、預言者ダニエルやエゼキエルのように、比較的良い人々もいました。とはいえ、あまり良くない人々もいました。どうして神様は彼らを救われたのでしょうか。私には分かりません。ただ、神様のあわれみだとしか言えません。

時々、人々はこう答えます。「神様は出来事が起こる前に、全てを知っておられます。だから、神様は彼らが最終的に悔い改めると知っておられたので、彼らを救われたのでしょう。」

しかし、この箇所によれば、どうして彼らは悔い改めたのでしょうか。自分の良い性格によって悔い改めたのでしょうか。それは違います。神様はこう言われました。「私は彼らに、私が主であることを知る心を与える。」

つまり、神様が彼らの心を変えられたので、彼らは悔い改めることができたのです。では、どうして神様はゼデキヤや他のエルサレムに残った人々の心を変えられなかったのでしょうか。

私には分かりません。

では、私が確信していることは何でしょうか。

一つ目は、人々が自分の選択のゆえに裁かれるということです。彼らが神様に従うことを選んでいれば、神様は彼らを救われました。けれども、彼らはその道を選びませんでした。

二つ目は、神様が人々の心に働きかけ、神様を知る心を与えなければ、だれも救われないということです。

追放された人々には、そのようなことが起こりました。そして、私たちにとっても同じです。

ある牧師がこう言いました。「神様が私たちの壊れたアンテナを修理してくださったので、私たちは神様の声を聞けるようになったのです。」

三つ目は、神様の選択はランダムではないということです。神様はサイコロの結果によって選ばれることはありません。神様にはご自身の選択のための常に良い理由があります。

とはいえ、私たちの問題は、その理由を知らないことです。多くの場合、神様はその理由を説明されません。だからこそ、私たちは神様を信頼する以外に何もできないのです。

アブラハムはこのように言いました。

全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。(創世記18:25)

アブラハムはそう信じました。アブラハムは神様がいつも公義を行ってくださることを信じました。私たちもそう信じましょう。

しかし、私たちは自分自身に尋ねなくてはならないのは、「私は何を選択するのでしょうか」ということです。

だれも、神様の前に来て、「私が信じなかったのはあなたのせいです」と言うことはできません。

私たちは自分の選択に対して責任を取るべきです。そして、その選択に対して、私たちは神様の前に申し開きをしなくてはなりません。

神様に従うでしょうか。神様に従わないでしょうか。あなたはどうしますか。