振り返ると、私はどのようにしてミニストリーに関わるようになったのか、不思議に思います。自分の歩みを見て、こう問いかけます。「どうやって、私はここまで来たのだろうか。」
ミニストリーに参加する理由は、最初はそれほど深いものではありませんでした。「いつか日本に行って宣教師になりたい」とは、まったく考えていませんでした。
私の兄は高校生と大学生の頃、子供の伝道の組織に参加していました。夏休みになると、彼はバイブルクラブやキャンプで子供たちに聖書を教えていました。
そして私が高校生の時、友人もその組織に参加しようとしていました。ある日、彼は私の人生を変える質問をしました。「この夏、ブルースさんも子供の伝道の働きをするのでしょうか。」
私が「いいえ」と答えると、彼は驚き、がっかりしていました。なぜか彼は、私も兄と同じように子供の伝道に参加するのが当然だと思っていたようです。けれども、私はそのことについてまったく考えたことがありませんでした。
それでも、友人の言葉が私の心にその考えを植えました。そして翌年の夏、私はその組織に入り、子供たちに聖書を教え始めました。それが私の最初のミニストリーでした。
その後、私は子供だけでなく、教会の仲間たちにも教えるようになりました。
大学を卒業した後、私は日本に移り、英語の生徒たちに聖書を教え始めました。その後、あっという間に、私の牧師はある家庭教会で教える機会を与えてくれ、さらに大きな教会での教えるチャンスも与えてくれました。現在、私は教会で年間6〜9回ほど説教をしています。
高校生の頃、私はこうしたミニストリーに携わることをまったく想像していませんでした。
しかし、今こうしてミニストリーに仕えているからこそ、今日の聖書の箇所を読むと、大きな責任を感じます。おそらく、すべての牧師や聖書教師もこの責任を感じることでしょう。
ヤコブはこう言いました。
私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)
なぜ教師たちはより厳しい裁きを受けるのでしょうか。二つの理由があります。
第一の理由は、私たちは注意しなければ、人々をキリストの真理から遠ざけ、誤った方向へ導いてしまう恐れがあるからです。
第二の理由は、私たちが人々の前で神様の御言葉を教えることによって、彼らが私たちの人生に注目することです。彼らは、私たちがその教えに従って生きているかどうかを見極めます。
私たちは神様の群れの模範となるべき存在です。そのため、私たちが失敗すると、その影響は群れに害を及ぼします。
おそらく、ヤコブは特に二つ目の理由を強調しているのでしょう。次の記事では、舌の問題に関する教えをすべてのクリスチャンに適用しますが、今日はこの教えを教師たちに焦点を当てて考えたいと思います。
ヤコブは、私たちがどのように舌で人を傷つけることができるかについて語ります。彼は私たちの舌を、「食い尽くし、滅ぼす火」(6)にたとえます。また、彼は舌を「休むことのない悪」と「死の毒で満ちているもの」(8)に見立てています。
教師にとって、これは非常に皮肉なことです。私たちは言葉によって人々を戒め、励まし、築き上げることができます。けれども、同じ言葉によって、人々を傷つけ、滅ぼしてしまうこともあるのです。
ヤコブは私たちに問いかけます。
泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。(11)
そんなはずはありません。私たちの舌は神様の道具であるべきです。けれども、もし私たちの言葉によって人々を傷つけ、壊してしまうならば、私たちの舌はサタンの道具になってしまいます。本来、私たちの舌はそのようなものではないはずです。
そして、ヤコブは言葉の問題の根本を指摘します。それは、私たちの心です。
あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(13)
要するに、知恵があり、分別のある教師は、自分の説教だけでなく、日常生活の中でもその知恵と分別を示します。本当に知恵のある教師は、謙遜を持ち、神様を愛し、神様が与えてくださった群れを愛することに集中します。
しかし、すべての教師がそうするわけではありません。ある教師たちは常に自分を周りの人々と比較します。特に、彼らはより成功している教師と自分を比べてしまいます。また、ある教師は、神様から与えられた群れを軽んじます。
だからこそ、ヤコブは警告します。
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。
そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。(14-16)
教師たちはどのような知恵を持つべきでしょうか。ヤコブは私たちに教えています。
しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。
義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。(17-18)
教師の皆さん、あなたはどのような収穫を刈り取っているでしょうか。それは乱れや、あらゆる邪悪な行いでしょうか。それとも、義と平和を刈り取っているでしょうか。
もし乱れや邪悪な行いを刈り取っているならば、他者を裁く前に、まず自分自身を見つめる必要があります。
14-16節は、あなたの人生を描写しているでしょうか。
それとも、17-18節があなたの人生を描写しているでしょうか。