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ヤコブの手紙のデボーション

私たちを汚す言葉

舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し(ます)。(ヤコブ3:6)

この言葉を読んだとき、私はイエス様の言葉を思い出しました。

人から出て来るもの、それが人を汚すのです。

内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:20ー23)

今まで、私は自分の言葉を、自分を汚すものとしてあまり考えてきませんでした。自分の言葉によって、主の目に汚れてしまうということを、深く考えてこなかったのです。

しかし、言葉は私の心にあるものを表します。そして、イエス様によれば、裁きの日には、口にするあらゆる無益なことばについて申し開きをしなければなりません(マタイ12:33〜37)。

主よ、預言者イザヤのように、私は唇の汚れた者です。どれほど多くの無益なことばによって、私は自分を汚してしまったことでしょうか。どうか赦してください。

「だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。 それらが私を支配しないようにしてください。 そのとき私は 大きな背きから解き放たれて 全き者となるでしょう。

私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。 主よ わが岩 わが贖い主よ。」(詩篇19:12ー14)

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(5)

私はこの記事に「舌」と名付けることもできました。けれども、それは少し奇妙なタイトルに思えました。

さらに、この箇所がヤコブのより大きな議論の一部であることを、自分自身に思い出させたかったのです。つまり、真の信仰とは、愛と清さ、そして言葉を通して表現されるものなのです。

今日の箇所では、ヤコブは1章26節で述べた話を続けます。その聖句で、ヤコブはこう言いました。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブの手紙1:26)

私は以前にも言いましたが、私たちの言葉は、私たちの心の状態を表します。

時々、人々は誤ったことを口にした後、「失礼しました。つい言ってしまいました」と言います。

しかし、なぜその言葉が出てしまったのでしょうか。それは、その言葉がすでに心の中にあったからです。何の根拠もなく突然出てきたのではありません。その言葉は心に深く根付いており、時が来ると現れるのです。

私たち全員の心の中には罪があるため、ときに思わず悪いことを口にしてしまいます。

だから、ヤコブはこう言いました。

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(2)

私たちは行動するよりも先に、言葉を発してしまうことがよくあります。そのため、もし私たちが成熟し、自制心を持って決して悪いことを言わないようになるならば、おそらく悪い行動をも慎むことができるでしょう。

しかし、この世に生きている限り、私たちの心には罪があるのです。

だから、ヤコブはこう言います。

どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。(7)

私たちの言葉は、自分の人生を形成するだけでなく、周囲の人々の人生にも影響を与えます。くつわによって馬を操るように、また舵によって船の方向を変えるように、私たちの言葉は人の人生を良い方向にも悪い方向にも導くことができるのです。

しかし、残念ながら、私たちはしばしば言葉によって人々を悪い方向へと向かわせてしまいます。ヤコブは、舌を「大きな森を燃やす小さな火」にたとえています。

私たちの言葉は、自分自身の人生を破滅へと向かわせる恐れがありますし、他者の人生をも破壊する可能性があります。だからこそ、ヤコブは「舌はゲヘナ(つまり地獄)の火によって焼かれる」と警告しています。

言葉によって、人は職を失います。言葉によって、夫婦の関係が壊れます。言葉によって、子供は傷つきます。言葉によって、友人関係も壊れてしまいます。それでも、私たちは往々にして不注意のために言葉を発してしまいます。

そのため、ヤコブは舌を「死の毒で満ちているもの」と呼ぶのです。

ヤコブはこう言います。

私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。

私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。(9-10)

言い換えると、私たちは「神様を愛している」と言いながら、どうして神様の似姿に造られた人を侮辱することができるのでしょうか。

ヤコブはこの話を次のようにまとめています。

泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。(11-12)

もちろん、泉は甘い水と苦い水を同時に湧き出させることはありません。しかし、私たちの心に罪があるため、良い言葉も悪い言葉も私たちの口から出てしまいます。

だから、自分の言葉を制御できないと感じるなら、その言葉の源について考えてみてください。あなたの心には何が入っているでしょうか。

苦々しい思いや怒り、見苦しいものが心に宿ってはいないでしょうか。それらをイエス様の手に委ねるまで、自分の言葉を完全に制御することはできません。

だから、ダビデのように祈りましょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ。わが岩、わが贖い主よ。(詩篇19:14)

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ヤコブの手紙

教師になりたいと

振り返ると、私はどのようにしてミニストリーに関わるようになったのか、不思議に思います。自分の歩みを見て、こう問いかけます。「どうやって、私はここまで来たのだろうか。」

ミニストリーに参加する理由は、最初はそれほど深いものではありませんでした。「いつか日本に行って宣教師になりたい」とは、まったく考えていませんでした。

私の兄は高校生と大学生の頃、子供の伝道の組織に参加していました。夏休みになると、彼はバイブルクラブやキャンプで子供たちに聖書を教えていました。

そして私が高校生の時、友人もその組織に参加しようとしていました。ある日、彼は私の人生を変える質問をしました。「この夏、ブルースさんも子供の伝道の働きをするのでしょうか。」

私が「いいえ」と答えると、彼は驚き、がっかりしていました。なぜか彼は、私も兄と同じように子供の伝道に参加するのが当然だと思っていたようです。けれども、私はそのことについてまったく考えたことがありませんでした。

それでも、友人の言葉が私の心にその考えを植えました。そして翌年の夏、私はその組織に入り、子供たちに聖書を教え始めました。それが私の最初のミニストリーでした。

その後、私は子供だけでなく、教会の仲間たちにも教えるようになりました。

大学を卒業した後、私は日本に移り、英語の生徒たちに聖書を教え始めました。その後、あっという間に、私の牧師はある家庭教会で教える機会を与えてくれ、さらに大きな教会での教えるチャンスも与えてくれました。現在、私は教会で年間6〜9回ほど説教をしています。

高校生の頃、私はこうしたミニストリーに携わることをまったく想像していませんでした。

しかし、今こうしてミニストリーに仕えているからこそ、今日の聖書の箇所を読むと、大きな責任を感じます。おそらく、すべての牧師や聖書教師もこの責任を感じることでしょう。

ヤコブはこう言いました。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。(ヤコブの手紙3:1)

なぜ教師たちはより厳しい裁きを受けるのでしょうか。二つの理由があります。

第一の理由は、私たちは注意しなければ、人々をキリストの真理から遠ざけ、誤った方向へ導いてしまう恐れがあるからです。

第二の理由は、私たちが人々の前で神様の御言葉を教えることによって、彼らが私たちの人生に注目することです。彼らは、私たちがその教えに従って生きているかどうかを見極めます。

私たちは神様の群れの模範となるべき存在です。そのため、私たちが失敗すると、その影響は群れに害を及ぼします。

おそらく、ヤコブは特に二つ目の理由を強調しているのでしょう。次の記事では、舌の問題に関する教えをすべてのクリスチャンに適用しますが、今日はこの教えを教師たちに焦点を当てて考えたいと思います。

ヤコブは、私たちがどのように舌で人を傷つけることができるかについて語ります。彼は私たちの舌を、「食い尽くし、滅ぼす火」(6)にたとえます。また、彼は舌を「休むことのない悪」と「死の毒で満ちているもの」(8)に見立てています。

教師にとって、これは非常に皮肉なことです。私たちは言葉によって人々を戒め、励まし、築き上げることができます。けれども、同じ言葉によって、人々を傷つけ、滅ぼしてしまうこともあるのです。

ヤコブは私たちに問いかけます。

泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。(11)

そんなはずはありません。私たちの舌は神様の道具であるべきです。けれども、もし私たちの言葉によって人々を傷つけ、壊してしまうならば、私たちの舌はサタンの道具になってしまいます。本来、私たちの舌はそのようなものではないはずです。

そして、ヤコブは言葉の問題の根本を指摘します。それは、私たちの心です。

あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(13)

要するに、知恵があり、分別のある教師は、自分の説教だけでなく、日常生活の中でもその知恵と分別を示します。本当に知恵のある教師は、謙遜を持ち、神様を愛し、神様が与えてくださった群れを愛することに集中します。

しかし、すべての教師がそうするわけではありません。ある教師たちは常に自分を周りの人々と比較します。特に、彼らはより成功している教師と自分を比べてしまいます。また、ある教師は、神様から与えられた群れを軽んじます。

だからこそ、ヤコブは警告します。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。

そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。(14-16)

教師たちはどのような知恵を持つべきでしょうか。ヤコブは私たちに教えています。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。(17-18)

教師の皆さん、あなたはどのような収穫を刈り取っているでしょうか。それは乱れや、あらゆる邪悪な行いでしょうか。それとも、義と平和を刈り取っているでしょうか。

もし乱れや邪悪な行いを刈り取っているならば、他者を裁く前に、まず自分自身を見つめる必要があります。

14-16節は、あなたの人生を描写しているでしょうか。

それとも、17-18節があなたの人生を描写しているでしょうか。