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サムエル記第一のデボーション

些細なこと?

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記24:5)

サウルの上着の裾を切り取ったことで、ダビデの心がどれほど痛んだかに私は驚きました。

その代わりに、ダビデはサウルを殺すこともできたのです。それと比べると、ダビデがしたことは些細な罪ではないでしょうか。

それでも、その「些細な罪」でさえ、ダビデの心を痛めました。

それを読んで、私は自問しました。

「些細な罪のために自分の良心が痛むとき、私はダビデと同じように反応するだろうか。」

私には、些細な罪のために言い訳をするのは容易なことです。

しかし、神様の心にかなう人とは、大きなことだけではなく、小さなことにおいても神様を喜ばせることを意味します。

私の人生の隅々まですべてを神様の支配下に置き、神様に捧げていないものは何一つあってはなりません。

それが、私の祈りです。

主よ、私の人生にあなたの御国が来ますように。御心が天で行われるように、私の人生の隅々までにも行われますように。

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使徒の働きのデボーション

イエス・キリストに上訴します!

すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのです。。。私はカエサルに上訴します。」(使徒の働き25章)

「法廷」という言葉は、聖書の別の箇所では「さばきの座」と訳されています。特に、「神のさばきの座」(ローマ14:10)と「キリストのさばきの座」(第二コリント5:10)です。

それゆえ、今日の箇所を読んだとき、私の心にはこの思いが浮かびました。

パウロがカエサルのさばきの座の前に立ったように、ある日、私たちも神のさばきの座の前に立たなければなりません。そのとき、サタンは私たちに対して、容赦ない告発を突きつけてくるでしょう。

しかし、パウロへの告発とは異なり、サタンの告発は正当なものであり、私たちは死に値する者です。なぜなら、私たちは確かに多くの罪を持っているからです。

それでも、私たちは神の子として宣言できます。「私はイエス・キリストに上訴します!」

そして、十字架で流されたイエス様の血によって、神様は私たちに対し「無罪」との判決を下してくださるのです。

これは、なんと素晴らしい真理でしょうか。

だからこそ、サタン、または自らの良心さえも容赦なく私たちを責めるとき、大胆に叫びましょう。

「私はイエス・キリストに上訴します!」

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ローマ人への手紙

福音を聞いたことない人は、どうなるの?

多くの人々は、キリスト教のメッセージを聞いたときに、こう尋ねます。「もし、ある人々が聖書のことを聞いたことがないなら、どうして神様は彼らを裁かれるのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

この箇所で、パウロはその疑問に答えます。パウロはこう言います。

「悪を行うすべての人が裁かれます。ユダヤ人たちは先に裁かれますが、その後、異邦人(つまりユダヤ人ではない人々)も裁かれます。

その反面、善を行うすべての人は報いを受けます。ユダヤ人たちは先に報いを受けますが、その後、異邦人たちも報いを受けます。」

では、なぜその順番が決まっているのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神様から直接律法を授かったからです。したがって、彼らの責任はより重いのです。

イエス様はこのことを次のように説明されました。

主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。

しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。

多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。(ルカ12:47-48)

パウロは、その概念をより具体的に説明しています。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。(ローマ2:12)

簡単に言えば、人々は自分が持っている知識に基づいて裁かれます。しかし、持っていない知識によって裁かれることはありません。

もし、ユダヤ人が神様から与えられた律法を知っているなら、その律法によって裁かれます。けれども、その律法を知らない人々は、異なる基準で裁かれることになります。

では、彼らはどのような基準で裁かれるのでしょうか。

自分の律法が神様の律法に適合する限り、彼らはその律法によって裁かれます。パウロはこのことを説明しています。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。

彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。(ローマ人への手紙2:14-15)

つまり、どの国でも、どんな文化でも、すべての国民の律法には、神様の律法と一致する部分があります。

もちろん、それらの律法が神様の律法に完全に一致するわけではありません。しかし、律法が神様の律法と一致する限り、人々はその律法によって裁かれます。

例えば、文化によって盗難の定義は異なるかもしれません。けれども、もしある人がその国の盗難に関する律法を破れば、その人は神様に裁かれます。

さらに、神様はもう一つの基準で人々を裁かれます。それは良心です。

例えば、自分の文化では、結婚前に恋人と肉体的な関係を持つことは許されているかもしれません。それでも、もし誰かが自分の良心に反してその行為をするなら、その人は神様に裁かれます。

なぜでしょうか。それは、罪悪感が心の中で「その行為は悪い」と認識させているからです。

もちろん、私たちの良心は神様の律法を完全に反映するわけではありません。とはいえ、良心が神様の律法と一致する限り、人々は裁かれます。

そして、パウロはさらにこう語ります。

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。(13)

パウロのポイントは、律法を完全に守れる人がいるわけではない、ということです。また、パウロは、律法によって義と認められる人が存在すると言っているわけではありません。

パウロのポイントは、律法を知っているだけでは十分ではない、ということです。もし律法によって義と認められたいなら、あなたは完全にその律法に従わなければなりません。

けれども、問題があります。律法を完全に守れる人は、一人もいません。この厳しい現実については、別の記事で詳しく話します。

それでも、今日の要点は、神様は公平な方だということです。神様は、あなたが持っていない知識によって、あなたを裁くことはありません。むしろ、あなたが持っている知識によって、神様はあなたを裁かれます。

だから、自分自身に問いかけてください。「自分が持っている知識のもとで、私はどのように生きているだろうか。」

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詩篇

人間の悪

時々、ニュースを見る時、あまりにも人が凶悪になるのが信じられないことがあります。どうして、人々は殺人を計画し、その計画を実行するのでしょうか。どうして、人々はレイプしたり、暴力の犯罪を犯したりするのでしょうか。

そんな話を見すぎて、もうニュース番組を見たくないとすら思います。

けれども、それは何も現代に限ったことではありません。何千年も前に、ダビデはこう書いています。

罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。

彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。

彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。

彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。(詩篇36:1-4)

どうして人々はそんなに悪くなるのでしょうか。

なぜなら、私たちが神様を恐れないなら、悪はすぐに出てくるからです。私たちが神様とその権威を認めないと、大抵何をしても良いと思ってしまいます。私たちの悪を抑えるのは、恥の恐れや、罰の恐れや、私たちの良心です。

しかし、私たちが神様から離れると、私たちの良心は曲がってしまいます。ある人の良心は他の人の良心よりも曲がっているかもしれませんが、人は多かれ少なかれ、誰でも良心が曲がっています。だから、私たちは何が良いか、何が悪いか混乱します。

ダビデはそのことがよく分かっていたので、こう言いました。

彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。(3)

つまり、人々は悪いことを愛しているので、誰かがその罪を見ても、彼らは気にしません。それに、彼らは自分の罪を自慢します。

その3節のヘブライ語はちょっと翻訳しにくくて、他の意味があるかもしれません。だから、ある英語の翻訳では、他の読み方があります。

彼は己の目で自分にへつらいすぎるので、自分の罪を見つけ出さないし、その罪を憎まない。

つまり、時々私たちは自分の罪が見えないので、自分たちが良い人だと思いますが、実はそうではありません。悪いことをしても、私たちは自分の行動を正当化します。だから、私たちは自分の罪を見つけ出さないし、その罪を憎むことがありません。

そして、私たちの罪によって、私たちは、「知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。」(3)

ニュースを見た時、酷い犯罪について聞きました。あるプロのアメリカン・フットボールの選手が怒って、誰かを殺しました。彼は金持ちだったし、いい組織で働いていました。だから、彼には本当に良い人生があったし、良い将来もありました。

けれども、彼は恨みを忘れず、相手を許せませんでした。そして、彼にとってその恨みは、他のどんなことよりも重大な問題だったので、その人を殺してしまいました。

だから今、婚約者から離れなくてはならないし、彼の7か月の娘は父親を知らないまま成長することになってしまいました。

それは罪の結果です。私たちが悪を拒絶しないと、自分自身を滅ぼし、愛している人も傷つけてしまいます。

あなたはどうですか。多分、あなたは誰も殺したことはないでしょう。しかし、あなたの心の中で誰かを憎んでいるでしょうか。誰かを赦せないでしょうか。

もしそうなら、イエス様は、あなたが自分の心でその人を殺したも同じだと言われました。(マタイ5:21-22)

あなたには、他の破壊的な習慣があるでしょうか。

あなたは神様を恐れずに、「神様がきっと私を赦してくださるので、私はこの罪を犯してもいい」と言いますか。

あなたの悪い行動を正当化しようとしているでしょうか。あなたは悪い道を行くことを決めているでしょうか。

私たちが賢明になるようにしましょう。神様を恐れて、正しいことをしましょう。この世を移っている罪に負けないように。