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ルツ記のデボーション

神様は良い方なの?

ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミ(「快い」の意味)と呼ばないで、マラ(「苦しむ」の意味)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。

私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。

どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(ルツ記1:20~21)

今、私はナオミのように感じている知り合いのことを考えています。

神様が良い方であることを信じるのが難しいときもあります。

それでも、その知り合いのために祈っていた今朝、別の友人からSMSが届きました。

去年、彼は失業し、今年はさまざまな意味で本当に大変な一年でした。

正直に言うと、彼のために祈る中で、私が失望を感じることもありました。神様の答えが長い間、見えなかったからです。

でも今朝、彼が再雇用されたことを知らせてくれました。

そして神様は、もう一度私に思い起こさせてくださいました。「はい、わたしは良い方です。」

だから私はその真理を握りしめながら、今もなお苦しんでいる知り合いのために祈り続けています。特に、その人が神様がまことに良い方であることを知るようにと祈っています。

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申命記のデボーション

神様はあなたのために戦われる

彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ。(申命記3:22)

「主は、あなたのために戦われる。」

その言葉を読んだとき、私の心にそれが響きました。

私たちの敵と対峙するとき、神様はただ遠くからご覧になるわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様は気づいておられないわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

しかし、神様は私たちも兄弟姉妹のために戦うように呼ばれます。

ルベン人、ガド人、マナセ人のように、私たちは安息しているかもしれませんが、兄弟姉妹が苦しんでいるとき、「私には関係ない」とは言えません。

神様のように、私たちは彼らの隣に立ち、戦わなければなりません。

私たちが受けてくださった神の愛を彼らに与えるべきです。

それが信仰の盾を共に持って立つという意味です。

だから、苦しむときは一緒に立ち戦いましょう。

また、神様も私たちのために戦ってくださるという確信を持ちましょう。

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テサロニケ人への手紙第二のデボーション

私たちが必要な祈り

今日、私はパウロの祈りに深く感動しました。なぜなら、彼がテサロニケ人たちのために祈ったことは、まさに私自身に必要な祈りだからです。実際、それはすべてのクリスチャンにとって必要な祈りです。

パウロはこう言いました。

こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。

それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(第二テサロニケ2:11ー12)

私たちがよく考えるのは、自分自身を良い人にしなければならないということです。自分の力と自制心によって、自分自身を変えなくてはならないと考えがちです。

しかし、パウロが祈っているのは、神様が私たちを召しにふさわしい者としてくださり、神様の力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から生まれる働きを実現してくださるということです。

それによって、イエス様が私たちの間であがめられ、私たちにも主にあって栄光が与えられます。

けれども、その栄光は私たち自身の素晴らしさによるものではなく、私たちの人生に働いている天の父の恵みと御子の恵みによるものです。

そして、パウロはこう祈ります。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(第二テサロニケ2:16ー17)

また、

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケに3:5)

私たちの信仰の根底には、一つの根本的な真理があります。それは、神様が私たちを深く愛してくださるということです。

パウロが祈ったのは、イエス様が日々私たちを天の父の愛へと導き、私たちが必要な励ましと希望を受けることができるようにということです。そして、その励ましと希望によって、私たちはあらゆる良いわざとことばのために、神様によって強められます。

さらに、テサロニケ人たちのように、私たちが試練や苦しみに直面するとき、パウロは、私たちがイエス様を仰ぎ見ることによって、勇気を得るように祈りました。十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださったイエス様の忍耐に目を向けることによってです。

私は前にも言いましたが、私たちはよく、自分の力と自制によってクリスチャン生活を送ろうとしてしまいます。

でも、イエス様が私たちを天の父の愛へと導いてくださるように、イエス様の十字架を覚えていましょう。神様の愛とイエス様の十字架に、心を向けて思いを巡らしましょう。

そして、あなたのあらゆる良いわざと言葉が、神様の愛とイエス様の十字架への感謝から生まれるものでありますように。

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出エジプト記のデボーション

神様に叫ぶ?それとも責める?

それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。

それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。(出エジプト記17:7)

イスラエル人たちは、どのようにその言葉を言っていたでしょうか。どんな態度を持っていたでしょうか。

彼らは苦しみの中で謙遜な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、私たちはどうしてこんなに苦しんでいるのか理解できません。あなたは本当に私たちと共におられるのですか。私たちには水がありません。助けてくださらなければ、私たちは死んでしまいます。どうか助けてください。」

それとも、彼らは反抗的な態度をもって、こう言っていたでしょうか。

「神様、本当に私たちと共におられるのですか。おられないのですか。私たちを死なせるのですか。あなたはどのような神なのですか。あなたは本当に良い方なのですか。」

モーセの反応から察すると、イスラエル人たちは反抗的な態度をもって話していたようです。さらに、モーセは後にイスラエル人たちにそのような態度を取らないように警告しました。(申命記6:16)

試練にあうとき、自分の感情にもまれるのは簡単なことです。

もちろん、苦しみの時には、自分の疑い、痛み、恐れを表現してもいいです。詩篇では、ダビデはしばしばそうしました。

でも、私たちは反抗的な態度に注意するべきです。私たちは神様を裁く立場を取ってはいけません。神様は私たちよりもはるかに多くのことを知っておられるからです。

だから、苦しむ時、理解できない時、神様に対してへりくだる態度を持つべきです。

サタンは私たちに、神様が良い方であることを疑わせようとします。試練を通して、サタンは私たちの神様への信頼を壊そうとします。

その誘惑に負けてはいけません。むしろ、神様が良い方であり、私たちに忠実であり、私たちを愛してくださるという真理にしがみつきましょう。

そして、ぺテロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ぺテロ5:6~10)

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マタイの福音書のデボーション

イエス様に伝えなかればならない

なぜか、12節のことばが私の心を打ちました。

それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。(マタイの福音書14:12)

ヨハネを葬ったあと、その弟子たちが最初に考えたのは、「イエス様に伝えなければならない」ということでした。

なぜでしょうか。

もしかすると、彼らはイエス様にヘロデについて警告したかったのかもしれません。(ルカ9:9)

でも、もう一つの理由は、彼らがイエス様がヨハネを本当に愛しておられることを知っていたからではないでしょうか。

しかし、彼らはイエス様が自分たちを愛してくださっていることを知っていたでしょうか。

「イエス様はすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を愛し、私の悲しみをよく知っておられる」ということを、彼らは知っていたでしょうか。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたを愛してくださっていることを、あなたは知っているでしょうか。

「イエス様がすべての人々を愛してくださっている」ではなく、「イエス様は私自身を本当に愛してくださっている」ということを、あなたは知っているでしょうか。

試練と苦しみを経験するとき、あなたが最初に考えるのは、「私はイエス様に伝えなければならない」ということでしょうか。

I must tell Jesus all of my trials;
イエス様に、私のすべての試練を伝えなければなりません。I cannot bear these burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません

In my distress He kindly will help me;
私の苦しみの中で、イエス様は優しく助けてくださいます。
He ever loves and cares for His own.
イエス様は、いつもご自分のものを愛し、心にかけてくださいます。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
I cannot bear my burdens alone;
私は、一人でその重荷を背負うことができません。

I must tell Jesus! I must tell Jesus!
私はイエス様に伝えなければならない。私はイエス様に伝えなければならない。
Jesus can help me, Jesus alone.
私を助けることができるのは、イエス様ただお一人です。ーーエリシャ・ホフマン

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創世記のデボーション

私たちに笑いをくださる神

主は約束したとおりに、サラを顧みられた。主は告げたとおりに、サラのために行われた。

サラは身ごもり、神がアブラハムに告げられたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。。。

サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」(創世記21:1ー2、6)

この壊れた世界では、私たちが苦しむことがあります。

サラもその苦しみをよく知っていました。彼女は長い間、子どもを望んでいましたが、与えられませんでした。

しかし、神様の時に、神様はサラを顧みられ、子どもを与えてくださいました。その時、サラは再び笑うことができました。

今、私は二人の人のことを思い浮かべています。一人は自分の罪のために苦しんでいます。もう一人は結婚の問題で苦しんでいます。

だから、私は彼らのために祈っています。

「天のお父さん、あなたがサラを顧みられたように、その二人の人をも顧みてください。彼らを癒してください。そして、あなたの時に、彼らが再び笑うことができるようにしてください。」

あなたは、苦しんでいる人を知っているかもしれません。その人のために祈りましょう。そして、できる限り、神様の愛でその人に触れましょう。

もしかすると、あなた自身が今、苦しんでいるかもしれません。

どうか絶望しないでください。神様はあなたを今も愛しておられます。神様はあなたを赦し、癒してくださいます。

そして、神様はいつも、ご自分の約束を守ってくださいます。

だから、神様に従い、待ち望み続けましょう。そうすれば、神様の時に、あなたは再び笑うことができるようになります。

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使徒の働きのデボーション

苦しみを経なければならないのか

二人はこの町で福音を宣べ伝え、多くの人々を弟子としてから、リステラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返して、 弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、

「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。(使徒の働き14:21ー22)

「多くの苦しみを経なければなりません。」

私はこの言葉に思いを巡らしました。

「多くの苦しみを経なければならないのだろうか。なぜ?」

もちろん、パウロは、苦しみを経ることによって私たちが神の国に入る権利を得る、と言っているわけではありません。

しかし、もし神の国に入りたいと願うなら、ある意味で、私たちは苦しみを経なければなりません。なぜなら、この罪によって壊れた世界では、私たちは苦しみを避けることができないからです。

さらに、私たちに反対する敵がいます。つまり、サタンは私たちに敵対しているのです。

それだけではなく、苦しみは神様が私たちを精錬するために用いられるプロセスでもあります。

その苦しみを通して、神様は私たちに何が本当に大切なのかを教えてくださいます。

この世の人々の考え方とは違い、もっとも大切なことは楽な人生を送ることではありません。一番大切なことは、自分の罪にふけり、自分のために生きることではありません。

もっとも大切なことは、神様を信頼し、従うことです。その道は真のいのちに至るからです。

ペテロはこの真理をよく理解していました。彼はこう言いました。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。

肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。

それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。(第一ぺテロ4:1ー2)

パウロもこの真理を理解していました。彼はそれを新しいクリスチャンたちに教えただけでなく、使徒の働き14章では、その真理に従って歩みました。彼自身の人生を通して、新しいクリスチャンたちに模範を示したのです。

ペテロはこうも言いました。

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。

むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。(第一ぺテロ4:12ー13)

それは勇士の心です。

私の教会では、私たちはほとんど(決して?)歌いませんが、私はこの「Amazing Grace」の歌詞が大好きです。

“Through many dangers, toils, and snares, I have already come;
いろんな危険や、苦労や、罠を乗り越え、私はすでにたどり着きました。

‘Tis grace hath brought me safe thus far,
恵みは私をここまで無事に導いてくださいました。

And grace will lead me home.”
そして、恵みは私を主の家に導いてくださいます。

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ヨハネの福音書のデボーション

私たちに神のわざが現れるため

さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(ヨハネの福音書9:1-3)

時に、悪いことが起こると、神様が私たちを罰しておられるのではないかと思うことがあります。しかし、私たちは二つの真理を覚えていなければなりません。

一つ目は、もちろん、自分の罪のために苦しむこともあるということです。けれども、私たちは壊れた世界に生きており、壊れた人々と共に生活しているために、苦しみがあるということも覚えていなければなりません。

その苦しみを通して、私たちは大切なことを思い出します。それは、この世界が私たちの故郷ではないということです。私たちはただ通過している者です。私たちは「もっと良い故郷、すなわち天の故郷」を憧れながら歩んでいるのです(ヘブル11:16)。

二つ目は、神様が私たちの苦しみを許されることがあるのは、ご自身の御業が私たちに現れるためだということです。そして、その御業を見るためには、私たちは盲人の模範に従わなければなりません。つまり、イエス様を信じ、イエス様に従うということです(ヨハネ7:37-38)。

あなたは今、どんな試練や苦しみに直面しているでしょうか。イエス様が良い方であり、あなたを愛し、あなたの最善を望んでおられると信じて、イエス様の前にひれ伏し、礼拝するでしょうか。

それだけではなく、イエス様に従うでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様のようになる

弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。(マタイの福音書10:24ー25)

たぶん、すべてのクリスチャンたちが「私はイエス様のようになりたい」と言うでしょう。

もちろん、イエス様はそれを聞いて、とても嬉しいでしょう。

でも、イエス様のようになることは、いつも楽な人生というわけではありません。

24〜25の前後を読むと、イエス様が私たちに警告しているのは、ある人々が福音を拒絶し、イエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるかもしれないということです。

だから、私たちが自分自身に問いかけなくてはならないのは、それを受け入れられるかということです。良いことも悪いことも受け入れるほどに、私たちはイエス様のようになりたいのでしょうか。

イエス様、あなたのようになりたいのです。でも、そのような人生は、いつも楽しくて、楽ではないということがわかります。

時には、あなたが苦しまれたように、私も苦しまなくてはならないのです。また、あなたが拒絶されたように、私も拒絶されることがあるかもしれません。

でも、私には、あなたが私と共におられることが十分です。もし、私があなたのようになることができるなら、私は満足です。

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ペテロの手紙第一のデボーション

バビロンに寄留者として生きる

 あなたがたとともに選ばれたバビロンの教会。。。あなたがたによろしくと言っています。(ペテロの手紙第一5:13)

私の教会の夏のメッセージ・シリーズで、牧師はダニエル書から教えていました。そして、私が第一ペテロを読んだとき、考えたのは、「ペテロは、この手紙を書いたとき、ダニエルの話を考えていただろうか」ということです。

ペテロは、その読み手を寄留者と呼びました。(1:1、2:11)

同じように、ダニエルはバビロンに寄留者として生活しました。ペテロ自身は、自分がバビロンにいると言いました。

(ちなみに、ペテロの時代、クリスチャンたちはローマをバビロンと呼ぶことがよくありました。)

また、ダニエルは生ける望みを持っていました。つまり、復活の望みを持っていたということです。(ダニエル書12:2、13;第一ペテロ1:3)

ダニエルの友達の信仰は、文字通り火で精錬されました。(ダニエル3章;第一ペテロ1:7)

ダニエルの信仰も試され、文字通り吼えたけるライオンに直面しました。(ダニエル6章;第一ペテロ5:8)

主は、ダニエルとその友たちの祈りを聞かれ、その敵に反対されました。(ダニエル書1~3、6;第一ペテロ3:12)

主は、ダニエルとその友達を高く上げられ、高ぶっている王たちを低くされました。(ダニエル1~5;第一ペテロ5:5~6)

ダニエルとその友達が何も悪いことをしていないのに苦しんだとき、まるでペテロの手紙を読んでいたかのようにふるまいました。(第一ペテロ2:12~20、3:13~17、4:12~19、5:6~10)

最後に、ダニエル書では、この暗い世界においても、神様がなお治めておられるという素晴らしい真理を見ることができます。(ダニエル2:44、4:34、6:26、7:13~14、27;第一ペテロ4:11、5:11)

この世では、私たちはただの寄留者です。私たちはこの世界に属していません。そして、この壊れた世界で私たちは苦しむこともあります。でも、私たちの試練や苦しみの中で、ペテロとダニエルから学びましょう。

つまり、

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。(第一ペテロ5:6-11)

 

 

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詩篇のデボーション

イエス様が苦しんでおられたから

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。」 さあ イスラエルは言え。

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし 彼らは私に勝てなかった。耕す者たちは私の背に鋤をあて、長いあぜを作ったが。」

主は正しくあられ 悪しき者の綱を断ち切られた。」(詩篇129:1ー4)

この詩篇では、詩人は自分の苦しみを嘆きます。でも、最終的に主が自分を救い、自分の敵を呪うという希望を持っていました。

数百年後、イエス様も苦しんでおられました。

イエス様は、見下されることを深くご存じでした。イエス様は、苦しみを深く味わっておられました。ローマの兵隊は鞭でイエス様の背に鋤をあて、長いあぜを作りました。さらに、イエス様は十字架の恥と痛みをよくご存じでした。

しかし、神様はイエス様を復活させて、よみから救い出してくださいました。

でも、最も大切なのは、イエス様の苦しみによって、私たちが神様との平和を持っているということです。(イザヤ書53:4ー5)

そういうわけで、イエス様がお生まれになったとき、天使たちは私たちを呪いませんでした。

むしろ、天使たちは神様を賛美し、私たちに対する神様の祝福を宣言しました。

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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ヨハネの黙示録

直面する試練に心を備えるために

黙示録の中で、最も頻繁に説教される箇所は、2ー3章かもしれません。なぜなら、それらの章は一番わかりやすく、パウロや他の使徒たちの手紙に似ているからです。

けれども、私たちが覚えておかなければならないことがあります。イエス様が七つの教会にメッセージを与えられたのは、最後の日が迫っているからです。

以前にも申し上げましたが、私たちは終わりの時にすでに入っています。実際、使徒たちの時代から、私たちは終わりの時代に生きてきたのです。(使徒の働き2:16-17;へブル書1:2;第一ヨハネ2:18)

使徒ヨハネは自分の手紙の中でこう述べています。やがて、最後の反キリストが現れます。ところが、それ以前にも、多くの反キリストがすでに現れているのです。ヨハネの時代にも、彼らはすでに活動していました。(第一ヨハネ2:18)

そして、反キリストだけではなく、偽預言者や偽教師も現れます。人を欺く者もおり、欺かれる者もいます。さらに、神様の民は迫害を受けるのです。

だからこそ、神様はこの世を裁かれます。ある裁きは人を通して行われます。つまり、戦争や暴力として現れる裁きです。一方で、自然災害や疫病を通して行われる裁きもあります。黙示録には、こうした裁きについて何度も描かれています。

この世を見つめるとき、私たちはそれらの裁きを識別できるでしょうか。教会の長い歴史の中にも、そして今もなお、私たちはその裁きに気づくことができます。

だから、ヨハネの時代の教会に向けられた神様のメッセージは、現代の教会にも当てはまります。神様は、今の教会にも同じことを語っておられるのです。

昔の教会が自らの反キリストに直面したとき、さまざまな問題を抱えました。そして、私たちも自らの反キリストに直面する時、同じような問題に直面します。

ですから、この手紙のことばは平和な時代のための訓戒ではありません。むしろ、私たちが反キリストに立ち向かうために、イエス様はこのことばを与えられました。また、最後の反キリストに直面するその時のためにも、私たちはこのことばを覚えていなくてはなりません。なぜなら、その時、私たちは多くの苦しみを経験するからです。

だから、これから数日間、この七つの手紙に耳を傾けるとき、そのことを心に刻んでおきましょう。

もしかしたら、あなたは、私たちが最後の反キリストと、その苦しみの時代に直面しないと信じているかもしれません。私もそう信じたいと思いますが、その確信はありません。

たとえそう信じていても、忘れないでください。教会はいつの時代も、反キリストや苦しみの時と向き合ってきました。だから、たとえ最後の反キリストが来る前に神様が私たちを天に引き上げられたとしても、その前に、私たちは別の反キリストや苦しみと直面することになるでしょう。その準備のために、ヨハネはこの手紙を書いたのです。

あなたは備えができているでしょうか。備えるためには、私たちはイエス様のことばに耳を傾けなければなりません。

だからこそ、イエス様のことばを心に刻んでおきましょう。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。(黙示録2:7)

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ペテロの手紙第一

教会として苦しみの直面する

この手紙において、ペテロは、イエス様のために迫害や苦しみに直面しているクリスチャンたちに語りかけています。

最初にペテロは、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの教会に対し、一つのキリストのからだとして演説しました。そして、彼らが「生ける石」として神様の霊の家に築き上げられていることを思い起こさせました。

その後、ペテロは個々のクリスチャンたちに語りました。特に、クリスチャンの奴隷たち、妻たち、そして夫たちに向けて具体的に話をしました。

そして、ペテロは再び教会全体に向けて語りかけ、一つのキリストのからだとしての立場を強調しました。

けれども、5章では、おそらくペテロは個々の教会に対して演説したのだと思われます。ペテロは、ある教会が苦しみに直面したとき、それにどう反応すればよいかについて語りました。

リーダーたちには重要な役割があります。彼らは教会の人々の模範だからです。特に試練の時には、彼らは羊飼いとして教会の人々の世話をしなければなりません。(ペテロの手紙第一5:2)

試練の時には、自分のことだけを考えるのは簡単ですが、リーダーたちはそうしてはなりません。また、彼らは傲慢な態度で教会の人々を支配してはいけません。むしろ、リーダーたちは自分の羊とそのニーズを自分よりも優先しなければなりません。(3)

おそらく、ペテロがこの言葉を書いたとき、預言者エゼキエルの言葉を思い浮かべていたのかもしれません。

エゼキエル書34章では、神様がイスラエルのリーダーたちを責められています。それは、神様が彼らにイスラエルの民を導くよう命じられたにもかかわらず、そのリーダーたちは自分のために生きていたからです。

だから、おそらくペテロはそれを覚えていて、クリスチャンのリーダーたちに訓戒を与えていました。

「その羊飼いたちの模範に従ってはいけません。自分の群れを牧しなさい。なぜなら、神様はあなたの責任を問われるからです。」

しかし、ペテロは忠実なリーダーたちを励まし、次のように語りました。

そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。(4)

そしてペテロは若い人々に「長老たちに従いなさい」と命じました。(5)

若い人々にとって、自分がすべてを知っていると思い、リーダーたちを批判するのは簡単なことです。けれども、ペテロはこう語ります。

「あなたのリーダーたちに従いなさい。たとえ彼らの意見がいつも正しいわけではなくても、従いなさい。あなたのプライドが原因で教会を分裂させてはなりません。」

そして、ペテロはこう言いました。

みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(5-7)

試練の時、自分のプライドのために人々が喧嘩するのは容易なことです。けれども、ペテロはこう促しました。

「兄弟たちや姉妹たちと話すとき、謙遜な態度を取りなさい。特に神様の御前で謙遜でありなさい。そうすれば、神様はあなたを試練から救い出し、時が来るとあなたを高く上げてくださいます。」

私たちはすべての問題を自分の力で解決することはできません。そのため、神様の御前で謙遜な態度を取るべきです。そして、私たちのすべての思い煩いを神様に委ねるべきです。なぜなら、神様は私たちを深く愛しておられるからです。

しかし、多くの場合、私たちはそうすることができず、平和を見いだせません。私たちのプライドによって、「この問題を自分で対処できる」と思い込むことで、必要のない負担を背負ってしまうのです。

けれども、神様は私たちにこう語られます。「私に信頼しなさい。へりくだり、その問題を私に委ねなさい。そうすれば、私はその問題を解決します。」

また、ペテロは教会に訓戒します。試練を通してサタンは教会を滅ぼそうとします。

しかし、ペテロはこう語ります。

「堅く信仰に立ちなさい。あなたは苦しんでいるかもしれませんが、それはあなたたちだけではありません。あなたたちの兄弟たちと姉妹たちも共に苦しんでいます。だからこそ、互いに励まし合いなさい。」

そして、ペテロはこう言います。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。(10-11)

その言葉で、ペテロはこの手紙の冒頭の言葉を繰り返して述べています。神様はあなたを召されました。あなたが御子のようになるために、神様は毎日あなたを精錬し、清めておられます。

そのプロセスの一部が、あなたの苦しみなのです。けれども、神様の目的は、あなたがイエス様のために生きることにあります。良い時も、試練の時も、あなたはイエス様のために生きるべきです。

ただし、覚えておいてください。それを自分の力で成し遂げなければならないわけではありません。むしろ、神様の御前でへりくだりましょう。そして、神様に信頼しましょう。

そうすることで、あなたは堅く立ち、強くなり、不動の者となるでしょう。それは、すべて神様の栄光のためです。

キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。(14)

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ペテロの手紙第一

他の人々が生きるために、イエス様のために生きる

この手紙の中で、ペテロは、その読み手たちが苦しむとき、キリストの模範に従うよう促しています。私たちは人々を恐れるのではなく、むしろ、心の中でキリストを主とすべきです。

なぜ、私たちはそうすべきなのでしょうか。それは、私たちの周りの人々が生きるためです。つまり、彼らもまた、私たちが見出したイエス様にある命を見つけることができるようにするためです。

そのために、私たちのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をするべきです。

周りの人々が、私たちが喜んでキリストのために苦しむ姿を見ると、なぜ私たちがそのようにするのか尋ねるでしょう。そのとき、神様は彼らの人生に働きかける機会を与えてくださるのです。

だからペテロは私たちにこう促します。「神のみこころであるなら、善を行って苦しみを受けましょう。そうすれば、周りの人々はそれを見て、魅了され、神の国に入るかもしれません。」

イエス様は、私たちにとって最終的な模範でした。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(ペテロの手紙第一3:18)

言い換えると、「分からないのでしょうか。イエス様の苦しみによって、天国の門はあなたに開かれたのです。だから、周りの人々のために同じように行いましょう。」

そして、苦しみの後に待っている私たちの最終的な勝利について話した後、ペテロはこう言います。

キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。(4:1)

簡単に言えば、イエス様が私たちの救いのために喜んで苦しみを受けられたように、私たちも同じ態度を取るべきです。私たちの罪を捨て、自分のために生きることをやめなくてはなりません。むしろ、神様のために生きましょう。(4:2)

ペテロは続けます。

「今まで、あなたがたは一生を棒に振るようにして、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけってきました。

そして、あなたの友人たちは、あなたの優先順位が変わり、もはや彼らと一緒にその罪にふけらないことに驚いています。さらに、彼らはあなたを馬鹿にしたり、迫害したりするかもしれません。」(4:3-4)

しかし、ペテロは私たちにこう思い出させます。

彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。(5)

裁きの日は必ず来ます。イエス様を拒絶したがゆえに、人々は裁かれるのです。だからこそ、ペテロは再び私たちにクリスチャンとしてのミッションを思い出させます。

このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。(4:6)

どうして私たちは福音を人々に宣べ伝えるのでしょうか。それは、自分の体が死んでも、彼らが神様との永遠のいのちを得るためです。

その真理を忘れてはなりません。裁きの日は迫っています。私たちは救われているかもしれませんが、まだ多くの人々が救いを受けていません。

私たちはその人々のために何をしているのでしょうか。キリストの愛で彼らに触れ、イエス様の愛を示しているでしょうか。彼らは私たちの人生を見ることで、イエス様に魅了され、私たちの信仰の理由について尋ねるでしょうか。

それとも、もしかしたら、私たちはただ自分勝手に生き、他の人々が地獄に行くかどうかを気にしていないでしょうか。

神様は彼らを愛しておられました。イエス様をこの世に送るほどに、神様は彼らを愛しておられたのです。

私たちは、同じように彼らを愛しているでしょうか。

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ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる(4)

ペテロは、夫婦や奴隷たちがどのように神様のしもべとして生きるべきかについて語った後、私たち全員に向けて話を続けます。

まず、ペテロは私たちの人間関係について話します。

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。(ペテロの手紙第一3:8)

その言葉を読むと、イエス様の言葉を思い起こさせます。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

第一ペテロ3:8では、ペテロがイエス様の言葉をさらに深めて膨らませているように思います。

異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(ペテロの手紙第一2:12)

しかし、クリスチャンたちが常に喧嘩しているならば、自分たちの証しを失墜させてしまいます。

その後、ペテロは、クリスチャンたちが神様のしもべとして、苦しみや迫害にどのように反応すべきかというテーマに戻ります。

私たちは、この世の模範に従って苦々しい思いを持ったり、相手に復讐したりしてはいけません。その代わりに、私たちは相手を祝福するべきです。(ペテロの手紙第一3:9)

その言葉もまた、イエス様の言葉に似ています。

あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。(ルカ6:28)

また、ペテロによれば、私たちが相手を祝福すると、私たちは神様の祝福を受け継ぎます。だからこそ、私たちは悪に対して悪を返してはいけません。(ペテロの手紙第一3:9)

さらに、ペテロは詩篇34篇を引用しています。簡単に言えば、私たちは自分の言葉遣いに注意し、悪を避け、平和を追い求めるべきだと教えています。(10-12節)

それは簡単なことではありませんでした。特に、ペテロの時代では、それは非常に困難なことでした。ネロ皇帝は宴席の場でクリスチャンたちに火をつけ、彼らをトーチとして使いました。ペテロ自身もまた、ネロの命令によって十字架にかけられました。

それでもなお、ペテロはこう言いました。

たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。(14節)

そして、ペテロはこの箇所の核心を伝えます。

むしろ、心の中でキリストを主とし(なさい)。(15節)

どうして奴隷たちは悪い主人たちに耐えなくてはならないのでしょうか。

どうして妻たちは自分の夫に従うべきなのでしょうか。

どうして夫は自分の妻を敬うべきなのでしょうか。

どうしてクリスチャンたちは互いに愛し合うべきなのでしょうか。

そして、どうして私たちは迫害されるときに悪に背を向け、相手を祝福するべきなのでしょうか。

それは、イエスが私たちの主だからです。そしてペテロは、私たちがイエス様を主とするように訓戒しています。

私たちは、自分が主のしもべであることを心に留めていなくてはなりません。そして、イエス様のしもべとして、私たちはイエス様の光をこの世に照らすべきです。

けれども、自分勝手に生き、神様の御国のためではなく、自分の目的と計画を果たすために生きるならば、私たちはその光を照らすことはできません。

だからこそ、私たちが苦しみや迫害に直面するとき、ペテロは私たちにこう言います。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。

そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(15b-16節)

私たちがキリストのしもべとして生き続けるならば、最終的に周りの人々は、なぜ私たちがそのように生きるのかを疑問に思うでしょう。たとえ私たちを迫害する者たちであっても、その理由を尋ねてくるかもしれません。

彼らがそう尋ねるとき、私たちには彼らを神様の御国へと導く機会が与えられるのです。

しかし、自分勝手に生きているならば、そのような機会を決して見出すことはできません。だからこそ、ペテロはこう言います。

神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。(17節)

もちろん、苦しみたいと願う人は誰もいません。けれども、自分の罪のためではなく、神様のしもべとして苦しむならば、私たちは神様の御国が広がるのを目の当たりにし、最終的には神様が私たちに報いを与えてくださるのです。

あなたはどうでしょうか。何のために、そして誰のために生きているのでしょうか。

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ヘブル人への手紙

信仰の生活に関する誤解

ある人はこう考えます。「もし信仰を十分持っているなら、私の人生はスムーズに進む。健康や経済の問題などはまったくないはず。むしろ、とても楽な人生を送るだろう。」

どうやら、そのような人々はこの箇所を読んだことがないようです。もちろん、信仰のある人々が勝利を経験することもあります。しかし、ある人々はこうした経験をしました。

嘲られ、むちで打たれ、さらに鎖につながれて牢に入れられる経験をし、また、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、困窮し、圧迫され、虐待されました。

この世は彼らにふさわしくありませんでした。

彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。(へブル人への手紙11:36-39)

そして、この著者によれば、彼らの中で、この世において神様が約束されたものを手に入れた人は誰もいませんでした(39)。

では、この著者は彼らを責めて、「この人たちの信仰は足りなかった」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは貧しかったのでしょうか。どうして彼らは荒野で暮らしていたのでしょうか。神様の計画は彼らが豊かな人生を送ることだったのに。彼らの信仰が足りなかったのでしょうか。」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは牢に入れられ、信仰のゆえに殺されたのでしょうか。もし、彼らがきちんとした信仰を持っていたなら、神様は彼らを救い出してくださったはずでしょうか。」と言ったでしょうか。

「どうして彼らは神様の約束を受け取れなかったのでしょうか。もし、十分な信仰を持っていたなら、神様は報いを与えなければならなかったのでしょうか。」と言ったでしょうか。

違います。この手紙の著者は、そのようなことはまったく言っていません。

むしろ、彼はこう言いました。

これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されました。(39)

彼は、「彼らの信仰が足りなかったから、この世の良いものに値しなかった」とは言いませんでした。むしろ、こう言いました。

この世は彼らにふさわしくありませんでした。(38)

簡単に言えば、神様は「信仰を十分持っていれば、人生はスムーズに進む」とは決して約束されません。むしろ、12章で著者はその逆を語ります。

私たちは誰でも、苦しい時を経験します。信仰を持っていても、苦しみに遭うことはあるのです。

しかし、信仰生活では、私たちは苦しみに目を向けるのではなく、将来に約束された報いに目を留め、希望を持って待ち望みます。だから、この手紙の著者はこう言います。

神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。(40)

イエス様のゆえに、その聖徒たちは私たちと共に罪から解放され、完全な者とされます。そして、すべてが新しくされたとき、私たちの苦しみや悲しみは取り去られます。

信仰を持つ者はその時を待ち望みます。この世の喜びに心を向けるのではありません。(もちろん、この世においても、神様は私たちに喜びを与えてくださいますが。)

むしろ、永遠の喜びを待ち望むのです。それは、私たちが神様と共にいる時だからです。

あなたはどうでしょうか。信仰を十分に持っていれば、楽な人生が約束されていると思いますか。

神様はそのような約束をされていません。神様が約束されたのは、永遠のいのちに心を向けるなら、やがてその報いを受けるということです。

あなたは何を待ち望んでいるでしょうか。

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ローマ人への手紙

私たちの希望の理由(2)

この箇所では、私たちが苦しみの中で希望を持つ理由をもう一つ見いだすことができます。それは、神様が永遠の昔から私たちのために計画を持っておられたことです。

パウロはこう記しました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ人への手紙8:29-30)

多くの人々は、自由意志や予定説(すなわち、神様があらかじめすべてを定めておられること)という概念について考えると混乱します。

他の記事で私はこのテーマについて触れましたし、また9章について書くときに、改めてこのことを論じる予定です。

しかし、まずはクリスチャンにとってのパウロの言葉の意味を考えてみましょう。

あなたが生まれる前から、神様はあなたのことを深く知っておられました。

エペソ人への手紙1章で、パウロはこう述べています。神様はこの世を創造される前から、すでにあなたを知っておられました。

神様はあなたの良い面も、弱さも、すべてをご存じです。神様はあなたの得意なことも不得意なことも理解しておられます。

そして、あなたがどのような善を行い、どのような過ちを犯すかも、すべてをご存じです。

それでも、神様はあなたを選ばれました。そして、あなたのために良い計画を立てておられます。その計画とは、あなたが神様の御子のかたちに変えられることです。

神様は、あなたが罪深く、弱く、反抗的になってしまうことをすべてご存じでした。それでもなお、神様は恵みを与え、あなたを栄光に満ちた存在へと変えることを計画されたのです。

その計画を成就するために、神様はあなたを召されました。あなたが神様を求めていなかったとしても、神様はあなたを召されました。

そして、あなたが信仰を持って神様に向かうと、神様はあなたを義と認められました。イエス様が十字架の上であなたの罪の代価を支払われたので、神様はあなたに関して「無罪」と宣言することがおできになります。

そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。イエス様と同じような栄光の体を授けてくださいます。その体は決して朽ちることなく、罪に汚れることもありません。それは、真に栄光に満ちたものなのです。

それは、神様があなたのために立てられた計画です。そして、その計画は確実なものです。結局のところ、神様の計画を変えられるものは何一つ存在しません。

神様は永遠の昔からすべてを知っておられるので、私たちを見てこう言うことは決してありません。

「あれ?彼を選んだけれど、ダメになってしまった。彼の人生はめちゃくちゃだ。もうどうしようもない。私でさえ彼を救うことができない。」

神様は、決してそんなことを言われることはありません。神様は、そもそもあなたのすべてを知っておられた上で、あなたを選ばれたのです。

そして、パウロは私たちへの神様の賜物について、こう記しています。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(ローマ人への手紙11:29)

あなたは、自分自身を見つめたとき、気が重くなることはありますか。クリスチャンとして思うように成長していないと感じ、失望してしまうことはあるでしょうか。

神様はあなたに失望されることはありません。神様は、はるか昔からあなたを知っておられます。神様はそもそも、あなたがイエス様のかたちに変えられるまでにどれだけの時間がかかるかを完全に理解しておられます。

だからこそ、神様は決してあなたを見放されることはありません。

そして、どんな試練に直面しても、その試練が神様の計画を狂わせることは決してありません。神様が驚かれることはなく、すでにあなたをどのように助けるかを知っておられます。

だから、苦しみの中でも絶望せず、パウロの言葉を心に留めてください。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

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ローマ人への手紙

どうして私は苦しまなくてはならないだろうか

ローマ書8:16-17節の言葉は、本当に心強いものです。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。

すべてのクリスチャンはそれを読み、励まされることでしょう。私たちは神様の愛する子供です。そして、私たちは神様の相続人なのです。

ところが、パウロはさらに語り続けます。

私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(ローマ人への手紙8:17b)

苦難?誰も苦難を望みません。では、パウロはどのような苦難について語っているのでしょうか。

35節で、パウロはいくつかの例を挙げています。「迫害」、「飢え」、「裸」、「危険」、「剣」です。

私たち全員が苦しみを経験することがあります。この世において、苦しみを完全に避けることはできません。

それは、ノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンも同じです。なぜなら、キリストに従うことによって、時にはそのゆえに人々から憎まれることがあるからです。

けれども、なぜ私たちは苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜ神様は単にその苦しみを取り除かないのでしょうか。そもそも、なぜ神様は苦しみを許されるのでしょうか。

それは難しい疑問です。パウロは、その答えの一部を説明しています。

被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。(20-22)

どうして地震や津波、その他の天災が起こるのでしょうか。どうして先天的障害や病気、そして死があるのでしょうか。神様はそれらを取り除くことができるでしょう。

もちろん、神様にはそれが可能です。それなのに、神様はそれらを許されます。なぜでしょうか。

そんなものが存在しない世界を想像してみましょう。確かに、私たちの人生は楽になるでしょう。それでも、人々は罪を犯し続けるでしょう。

彼らは神様のことを考えずに罪を犯し、それを気にしない態度を持つでしょう。自分の罪の悪さに気づかないまま、生きるでしょう。結果として、この世の状態はさらに悪化するかもしれません。

しかし、この世の苦難を通して、人々は自分の死ぬべき運命に向き合わなければなりません。

さらに、彼らは罪の悪さを直視する機会を持つのです。そして、人々は目を覚まし、神様を求め、救いへと導かれます。

だからこそ、神様はこのような苦難を許されるのです。神様の望みは、人々が神様に向き、本当の喜びを知ることです。そして、神様の救いの計画が成就すると、イエス様はこの世に戻り、すべてを新しくされます。

とはいえ、パウロによれば、その日が来るまで、この世は産みの苦しみを経験し続けます。それは死に至る痛みではなく、新しい命へとつながる痛みです。

そして、この世の苦難を通して、多くの人々が神様へと向かい、神様の子供となり、神様の国が広がります。

それでも、この世の産みの苦しみは本当に大変なものです。

クリスチャンたちの苦しみもまた、決して軽いものではありません。

そして、パウロはこう語ります。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(23)

私たちは苦しみのゆえに、うめきます。私たちは自分の罪と戦いながら、うめきます。そして、この世の罪や苦しみから解放される日を待ち望んでいます。

けれども、待ち望む間にも、私たちには希望があります。それは、私たちがキリストとともに苦難を経験しているとしても、やがてイエス様の栄光を受けるということです。

また、その栄光と比べると、今の苦しみは取るに足りないものです。(18)

さらに、私たちには、いつかすべてが新しくされるという希望があります。それは、今は目に見えない希望です。パウロによれば、「目に見える望みは望みではありません。」(24)

そして、パウロはさらにこう語りました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:5)

では、待ち望んでいる間に、私たちはどうすべきでしょうか。

忍耐しながら希望を持ち続けましょう。必ずその希望は現実となるからです。

あなたはどうでしょうか。今、苦しみの中にいるでしょうか。希望を持ち、待ち望んでいるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ19章

自分の苦しみを脇へ置くことができる?

私たちがどれほど自己中心的であるかを知りたいなら、悲しんでいるときの自分の反応を見るべきです。試練に直面し、苦しんでいるとき、私たちは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。

自己憐憫に浸るのは、ごく自然な反応かもしれません。

「どうして私はこんな試練に向き合わなければならないのか。いつまで苦しみ続けるのか。」——そう考えるのは普通のことです。

けれども、私たちが十字架を見るとき、イエス様は自分自身よりも、周りの人々に焦点を当てておられたことに気づきます。イエス様は一人の犯罪人を憐れみ、敵のために祈り、そしてこの場面では、母マリアへの深い愛を示されました。

マリアは十字架のもとで涙を流していました。彼女の長男は、ひどい罰を受け、死のふちに立たされていました。しかし、マリアの他の子どもたちは十字架の近くにはいなかったようです。

もしかすると、彼らはイエス様が狂っている(マルコ3:21)と思い、彼が家族に恥をかかせたと感じたのかもしれません。

だからこそ、他の息子や娘の姿はなく、マリアは十字架のもとで一人涙を流していました。家族からの慰めはありませんでした。

そのとき、イエス様は愛する弟子(おそらくヨハネ)を見て、マリアにこう言われました。

女の方、御覧なさい。あなたの息子です。(ヨハネの福音書19:26)

(当時、「女の方」という表現は、非常に丁寧で敬意を込めた言葉でした。)

そして、イエス様はヨハネにこう言われました。

御覧なさい。あなたの母です。(27)

その後、ヨハネはマリアを自分のもとへ引き取りました。

イエス様は、ご自身の苦しみだけを考える権利があったでしょう。彼は無実でした。この苦しみを受ける理由は何もありませんでした。

それでもイエス様は、自らの苦しみを脇へ置き、周りの人々を見て、愛を示されました。

あなたはどうでしょうか。

かつて、私の牧師の奥様は本当に素晴らしい方でした。私が知り合った人の中でも、彼女は最も愛を示す人の一人でした。彼女は亡くなるその日まで、変わることなく愛を示し続けました。

彼女はがんにかかり、少しずつ健康を失っていきました。最終的には、自分のベッドにずっといる状態となり、周りの人々が彼女を介護する必要がありました。それでも、彼女は自己憐憫に浸ることはありませんでした。

最後まで、彼女は介護してくれる人々にイエス様の愛で触れようとしていました。

もちろん、彼女は完全な人ではありませんでした。きっと、気が沈むこともあったでしょう。それでも、イエス様のように、彼女は自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々に愛を示しました。

あなたはどんな苦しみを経験しているでしょうか。どんな試練に直面しているでしょうか。

あなたは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。それとも、あなたは自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見ることができるでしょうか。

苦しみの中で自分自身に焦点を当てる心は、その苦しみに留まり続けます。しかし、自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見る心は、苦しみを越えて、もう一度喜びを見いだすのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

私たちの苦しみをイエス様に打ち明ける?

私たちの多くは、苦しみの中にあるとき、その苦しみに向き合わず、ただ埋めてしまいます。苦しみを無視しようとします。

もしかしたら、仕事や食べ物、楽しみで気を紛らわせようとするかもしれません。けれども、その苦しみは私たちの魂を蝕み、やがて広がり、私たちを飲み込んでしまいます。

では、どうすればよいのでしょうか。

マリアとマルタもこの苦しみを経験しました。彼女たちの兄は亡くなりました。そして、もしイエス様がもっと早く来ていれば、ラザロは死ななかったことを知っていました。ところが、イエス様はすぐには来られませんでした。

そのため、彼女たちはラザロの死に苦しみ、もしかすると、イエス様に裏切られたと感じたかもしれません。

だから、イエス様がようやく来られたとき、彼女たちはほぼ同じ言葉を口にしました。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:32)

私は前にも言いましたが、もしかしたら、マルタはその言葉を口にしたとき、イエス様を責めるのではなく、「私はあなたをまだ信じています」という意味を込めていたのかもしれません。

けれでも、マリヤの場合はどうでしょうか。おそらく、彼女は苦しみに満ちた声でその言葉を発したのでしょう。だから、ヨハネはイエス様の反応を描写するとき、次のように書きました。

そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ[ました]。(33)

どうしてイエス様はそのように反応されたのでしょうか。おそらく、イエス様はマリヤに深く同情されたのでしょう。しかし、もしかすると、マリヤの不信仰を見て、心を痛められたのかもしれません。

38節では、ほかの人々が「なぜイエス様はもっと早く来られなかったのか」と問いかけたとき、イエス様は同じ反応を示されました。

だから、イエス様はラザロの墓に向かったとき、マルタにこう言われました。

その石を取りのけなさい。(39a)

私はマルタの答えをよく理解できます。

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。(39b)

けれでも、イエス様はこのように答えられました。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

最初、マルタはイエス様の言葉に従うことに気が進みませんでした。すでに手遅れだったからです。ラザロはすでに亡くなっていました。

しかし、最終的に彼女がイエス様の言葉に従ったことで、イエス様はラザロを復活させられました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは、どんな苦しみを心の中に埋めてしまったでしょうか。

その苦しみのせいで、どんな苦々しい思いを抱いているでしょうか。たとえば、ほかの人々に対する苦々しい思い、あるいは神様に対する苦々しい思いです。

イエス様はあなたにこう語られます。

「その石を取り除きなさい。あなたの苦しみと苦々しい思いを私に打ち明けなさい。それらはあなたの心の中で腐っているからだ。だからこそ、その苦しみを打ち明けなさい。もし私を信じるなら、あなたは神様の栄光を見ることになる。」

あなたはどう応じるでしょうか。

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箴言

この世を治めておられる方

この世の現実を目にするとき、私たちはこう考えてしまうことがあります。「神様は本当にすべてを治めておられるのだろうか」。

けれども、ソロモンはこう書きました。

王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(箴言21:21)

多くのアメリカのクリスチャンは、だんだん変わっている国の道徳観念に悩んでいます。

例えば、数年前、アメリカの政府はゲイの結婚を認め始めました。そして、クリスチャンが「ゲイの結婚に同意できない」と言ったら、彼らは迫害されてしまいます。

あるケーキ屋さんは、ゲイの人のためにも、誰のためにもケーキを作りました。ところが、ある日、その店のゲイの常連は「私が結婚するので、ケーキを焼いてください」と頼むと、その店主はクリスチャンなので断りました。

誕生日のケーキであれば、大丈夫でしたが、ゲイの結婚を祝うために焼けませんでした。そのケーキ屋さんは訴えられて、結局その店を畳まなくてはなりませんでした。

アメリカでは、多くの人が聖書の道徳の教えを拒絶するので、たくさんのクリスチャンは心配して、自分の子供たちを公立学校に送りたがりません。なぜなら、学校で、その子供たちは聖書に反対する教えも受けるからです。

最近、日本人には別の心配があります。つまり、今、北朝鮮のリーダーたちは本当に怖いです。彼らはミサイルも持っており、私たちは彼らが何をするか予想できません。

だから、多くのアメリカ人でも、日本人でも、この世を見ると、「神様は、本当にこの世を治めておられるだろうか」と考えます。

けれども、ソロモンはこう書きました。

主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。(30)

しかし、ソロモンが正しかったら、どうして私たちは、こんなトラブルを目にするのでしょうか。

それは、神様が人間に選択する権利を与えてくださるからです。私たちは神様を愛して、神様の道を行くことを選ぶことができます。その反面、神様とその道を拒絶する選択もできます。

私たちはロボットではありません。神様はロボットを望んでおられません。神様は、私たちが愛によって、神様に従うことを望んでおられます。

しかし、もう一つの理由があると思います。

それは、私たちが神様からの使命を実行していないということです。私たちは世界中に行って、弟子を作るべきです。そうすれば、人々は変わります。国々は変わります。

何世紀も前、あるクリスチャンは戦争を通して、クリスチャンの国を造ろうと思いました。もし、クリスチャンの国を造ったら、皆が救われると思いました。けれども、最終的に、彼らは失敗しました。

20-30年前、あるアメリカのクリスチャンたちは、政治を通してアメリカを変えようと思いました。だから、彼らは良い法律のために戦いました。それでも、アメリカはだんだん悪くなっています。

どうしてでしょうか。

私たちは人々の心を政治を通して変えることはできません。戦争や人間の力を通しても、人間の心を変えることはできません。

しかし、私たちがこの世の一人一人に福音を述べ伝えると、神様は彼らの心を変え始めてくださいます。私たちがこの世に変わって欲しいなら、神様だけが私たちの希望です。

では、私たちは自分の権利のために戦ってはいけないのでしょうか。私たちの国を攻撃から守るために準備してはいけないのでしょうか。もちろん、そのために準備するべきです。

とはいえ、それらは私たちの主な戦いではありません。むしろ、人々を奴隷にしているサタンと戦わなくてはなりません。人々を滅ぼしている悪魔と戦わなくてはなりません。それが私たちの主な戦いです。

神様は私たちが決して、迫害や苦しみに直面しないと約束してくださったことはありません。むしろ、神様は私たちが迫害や苦しみに直面することを約束されました。

それでも、心に留めてください。私たちがどんな迫害や苦しみに直面しても、神様はまだこの世を治めておられます。そして、イエス様がこの世に戻られたとき、皆がそれを認めます。

しかし、その日が来るまで、神様に従い、その使命を行いましょう。

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詩篇

主の御業に思いを巡らす

私たちが悪いことについて考え続けるのは簡単なことです。私たちは自分の問題を思い出して、その問題のことしか考えられなくなります。

そして、私たちにその問題を解決する力がないなら、私たちのストレスは増します。私には何度もそんな経験があります。

でも、詩人は私たちが他のことについて考えるように励まします。

ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。

主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。

そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に堅く立つ。(詩篇111:1-3)

この箇所では、詩人は神様がどんな方であるか、また神様が何をしたか考えるように私たちを励まします。

神様はどんな方でしょうか。神様は義の神だし(3)、情け深く、あわれみ深い神です。(4)。また、神様の戒めは確かです。(7)

神様は何をしたでしょうか。イスラエル人を憐れんで、エジプトから彼らを贖い、砂漠で彼らのニーズに備え(5)、彼らに自分の土地を与えて、国として確立しました(6)。

そして、イスラエルの民の罪のゆえに追放された時、神様は彼らをバビロンから贖ってくださいました。(9)

それに、神様は私たちのためにもそうして下さいます。神様は私たちのニーズに備え、私たちを憐れみ、サタンの国から私たちを贖い、私たちを神様の民にし、約束の地に導いてくださいます。

私たちの命は一時的なものです。だから、私たちが天国に行くと、この世の苦しみとトラブルをすぐに忘れます。

それなら、どうして、私たちは心配しているでしょうか。心配すると、私たちはストレスを溜めるだけです。

だから、詩人はこう書きます。

主を恐れることは、知恵の初め。(詩篇111:10)

私たちが神様に畏敬の念を抱くとき、この世の一時的なトラブルは小さく見えるようになります。

私たちが神様がどんな方であるか、また、神様が何をされたか思いを巡らすと、私たちは心配しなくて良いと悟ります。

それこそが知恵ではありませんか。

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詩篇

人々が私たちを憎む時

子供の時、私には友達がいて、いつも一緒に遊びました。けれども、中学生になる頃、私たちはもう一緒に遊びませんでした。それに、彼は私を憎むようになりました。どうしてか、私は分かりません。

私たちはどのようにそんな人々を扱った方が良いでしょうか。

ダビデにもそんな経験がありました。ダビデが悪いことをしていなかったのに、サウル王は彼を憎むようになりました。おそらくダビデはサウルから逃げた時、詩篇35篇を書いたかもしれません。

ダビデは祈りました。

主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。

盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がってください。

槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。(詩篇35:1-3)

ダビデを憎む人を扱う時、彼はいつもその戦いを神様の手に委ねました。彼は言いました。「私のために戦ってください。私の助けになってください。」

それでも、自分で復讐しないことは難しかったかもしれません。だから、彼は祈りました。

私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ」と。(3b)

つまり、「あなたが私の味方であることを思い出させてください。私が自分の手で復讐しないために、あなたが私を救ってくださることを思い出させてください。」

けれども、ダビデを憎む人に対する彼の態度は本当に驚くべきものです。

しかし、私は――、彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは私の胸を行き来していた。

私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。(13-14)

それはただの言葉ではありませんでした。ダビデがサウルの死について聞いた時の態度は、まさにそのようなものでした。彼は友人ヨナタンのために泣いただけでなく、サウルのためにも泣きました。

イエス様も、その態度を取りました。実は、この詩篇で、私はイエス様のことがよく見えます。

ダビデのように、偽りの証人はイエス様を責めました。(11)

また、ダビデのように、人々はイエス様をからかったし、中傷しました。(15-16)

それでも、十字架に掛けられても、イエス様は彼らのために祈ってくださいました。

私たちもそうするべきです。ペテロはこう書きました。

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第一ペテロ2:21)

特に、ペテロは義のために苦しむことについて話しています。イエス様は私たちを救うために苦しんでくださったので、私たちも義のために苦しむ覚悟を持つべきです。

この箇所には、もう一つのことを見ます。相手の憎しみに対して、どうやってイエス様が反応したか見ます。そして、私たちはイエス様の足跡に従うべきです。イエス様はどのように反応したでしょうか。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(第一ペテロ2:22-23)

あなたはどうですか。人々があなたを憎んで傷つける時、イエス様の足跡に従おうとしますか。

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詩篇

私たちの賛美と信頼にふさわしい神

以前も書きましたが、もし、私が詩篇32篇をスキップしてしまったと思うなら、ずっと前にその詩篇について書いています。私はダビデの人生について書いた時、時々、関係のある詩篇についても書きました。

だから、詩篇32篇について読みたいなら、ここをクリックしてください。

詩人がこの歌をどのように始めるか大好きです。彼は歌います。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。(詩篇33:1)

「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい」という言葉は特に好きです。

もし、あなたが主を愛するなら、また、キリストの血によってあなたが神様の目に義と認められるなら、あなたが主を賛美するのはふさわしいことです。

立琴や十弦の琴やギターやピアノを弾いても大丈夫です。アカペラで歌ってもいいです。あなたが音痴なら、喜びの叫びでもいいです。また、あなたが音痴でも、心から歌うなら、神様はその歌を受け入れてくださいます。

どうして、神様を礼拝するのはふさわしい事なのでしょうか。

なぜなら、神様は良い方ですから。神様の言葉のすべては正しいです。また、神様はいつも仰せの通りにされます。神様は嘘つきや、偽善者ではありません。(4)

それに、神様は私たちの創造者です。神様の力によって、全ての物を造られました。(6-8)

そして、私たちは神様の知恵のために賛美します。神様は決して驚かれません。だから、神様の計画と目的は決して変わりません。(10-11)

その最後の事によって、神様は私たちの賛美に値するだけではなく、私たちの信頼に値します。

優柔不断な人に信頼することは難しいです。困る時にすぐにパニックになる人に信頼することは難しいです。また、どうするかよく分からないので、いつも気が変わる人に信頼するのは難しいです。

しかし、神様がすべてを見てくださり、すべてを知っておられ、全てをコントロールしておられるので、神様は私たちが立てられる岩です。

だから、神様が選ばれた人、また神様に属する人は祝福されています。詩人はこう書きました。

幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。(12)

神様は私たちの名前を知っておられます。神様は天から私たちを見てくださり、私たちの行動について考えてくださいます。

けれども、神様は私たちのミスを待って、私たちを滅ぼそうと思っておられません。むしろ、神様は私たちを愛しておられるので、私たちが神様を仰ぐのを待っておられます。

しかし、多くの場合、私たちはそうしません。むしろ、私たちは他のものに信頼します。けれども、そのものによって、私たちはよくがっかりします。だから、詩人は私たちに思い出させます。

王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにならない。(16-17)

しかし、詩人は言います。

見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。(18-19)

その言葉は、私たちが決して苦しまないという約束ではありません。とはいえ、私たちが苦しむ時、神様は私たちのことを忘れておられるわけではありません。神様の目は私たちに注がれているし、神様は私たちを救い出してくださいます。

この世には、トラブルからの救いが来なくても、天国で、私たちはその救いを見つけます。だからパウロはこう書きました。

死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。(第一コリント15:55)

だから、詩人はこの詩篇の終わりに、こう言います。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。

私たちがあなたを待ち望んだときに。(20-22)

アーメン。主イエスよ。すぐに来てください。

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詩篇

神様が私たちを懲らしめると

この詩篇のタイトルによれば、この詩篇は「主の家を捧げる歌」でした。

多分、自分のプライドによってダビデがイスラエルの人口を数えた罪を犯した後、彼はこの詩篇を書きました。(歴代誌第一21章;歴代誌第二3章1節)

神様はその罪のために、ダビデとイスラエルを懲らしめられました。つまり、イスラエルに疫病を下されました。聖書には書かれていませんが、その時、多分ダビデも病気になったと思います。

詩篇30篇では、私たちは神様からの懲らしめに対するダビデの反応を見ます。

ダビデは癒された後、神様を賛美しました。

主よ。私はあなたをあがめます。あなたが私を引き上げ、私の敵を喜ばせることはされなかったからです。

私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。

主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。(詩篇30:1-3)

そして、ダビデは、なぜ神様が彼を打たれたのか説明します。

私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」(6)

その時、ダビデの安心は神様から来ませんでした。むしろダビデは、自分の力と自分の軍隊を信頼しました。だから、彼はその兵隊を数えました。

けれども、ダビデが懲らしめられた後、ダビデは本当の安全がどこから来るか分かるようになりました。

主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。(7)

だから、ダビデは主の前にへりくだりました。彼は振り返る時、こう言いました。

主よ。私はあなたを呼び求めます。私の主にあわれみを請います。

私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。

聞いてください。主よ。私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください。(8-10)

神様はダビデの悔い改めを見られ、ダビデを憐れんで、赦してくださいました。だから、ダビデは神様を賛美しました。

あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。

私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。(11-12)

私たちは何を学ぶことができますか。

まず、何かをはっきりと言いたいです。

もしあなたが病気なら、神様はあなたの罪のために懲らしめておられるかもしれませんが、そうではない時もあります。

例えば、ヨブは本当に苦しんでいましたが、その時、神様は彼を罰しておられませんでした。他の理由のために彼は苦しんでいました。

とはいえ、時々、私たちが悪い道を行き始めると、神様は病気を通して私たちを止めてくださいます。

だから、あなたが病気の時、またあなたにトラブルがある時、「神様、私の心の中には罪があるでしょうか」と祈った方が良いです。

そして、神様があなたの罪を表されたら、ダビデのようにへりくだって悔い改めなければなりません。けれども、神様が何も表さないなら、多分その病気やトラブルには他の原因があります。

なぜ私はそう考えるのでしょうか。なぜなら、神様は私たちが苦しむことを喜ばれないからです。もし、私たちが悔い改めるために苦しみを送られたなら、私たちが悔い改めると、神様はすぐに赦してくださいます。

神様は「もし、自分の罪が分からないなら、私はあなたに伝えない」と全然言われません。

また、神様は「あなたがこの経験から学んで、もうその罪を犯さないためにあなたをもっと苦しませよう」と言われません。

むしろ、ダビデはこう書きました。

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(5)

思い出しましょう。神様は私たちを憎むので懲らしめるわけではなく、私たちを愛しておられるので、懲らしめられます。

だから、懲らしめられる時、へりくだって悔い改めましょう。

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詩篇

苦しむ時、神様に叫ぶ

時々、私たちは祈る時、神様の応えが遅いと思うことがあります。もしくは、神様が私たちを無視しておられると感じることもあります。

詩篇28篇で、ダビデはそう感じました。彼は叫びました。

主よ。私はあなたに呼ばわります。私の岩よ。どうか私に耳を閉じないでください。私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。

私の願いの声を聞いてください。私があなたに助けを叫び求めるとき。私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げるとき。(詩篇28:1-2)

私はダビデのトラブルが何だったか知らないけど、どれほど私たちはダビデのように祈るでしょうか。

「神様、私の言うことを聞いておられるでしょうか。どうして、あなたは沈黙しておられるのでしょうか。私の声を聞いてください。私があなたを呼ぶのを見ておられないのでしょうか。」

そして、ダビデは神様の正義が来るように祈ります。

どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、私をかたづけないでください。彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。

彼らのすることと、彼らの行なう悪にしたがって、彼らに報いてください。その手のしわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください。(3-4)

多くの詩篇で、ダビデは神様が敵を罰するように祈ります。多くの人々はそれを読む時、「でも、私たちは敵を愛するべきではないでしょうか?どうして、ダビデはそのように祈ったのだろう」と思います。

しかし、私たちは二つのことを覚えておかなければなりません。

一つ目は、ダビデはいつも正義を神様の手に委ねたということです。自分の手で復讐しませんでした。むしろ、彼はいつも自分の敵を憐れみました。特に、サウルとアブサロムに対して、ダビデは憐れみの心を持っていました。

二つ目は、神様は私たちの敵に対する怒りの叫びを理解してくださいますが、私たちがその敵のために祈る時、神様の心に触れるということです。

ダビデが祈った後、再び喜びがダビデの心に注がれました。どうしてでしょうか。なぜなら、ダビデは神様がその祈りを聞いて、応えてくださる確信があったからです。

ほむべきかな。主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。

主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。

主は、彼らの力。主は、その油そそがれた者の、救いのとりで。(6-8)

そして、ダビデは自分自身のために祈るだけではなく、彼が愛する人々のためにも祈りました。つまり、自分の民のために祈りました。

どうか、御民を救ってください。あなたのものである民を祝福してください。どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください。(9)

私たちは苦しんでいるかもしれませんが、私たちの周りの多くの人々も苦しんでいることを思い出すべきです。だから、自分自身のために祈るだけではなく、周りの人々のために祈りましょう。

そして、神様があわれみの手で私たちに触れてくださったように、私たちも周りの人々に、あわれみの手で触れましょう。

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詩篇

苦しみを理解しておられる神

苦しみについてのメッセージで、私の牧師はこう言いました。

「神様は私たちの苦しみを取り除いてくださらないかもしれないけど、それは神様がおられない理由ではありません。時々、神様は私たちの望み通りに祈りに応えられないかもしれないけど、それは神様が私たちを愛しておられないわけではないのです。」

詩篇22篇では、その真理を見ることができます。ダビデは叫びました。

わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。(詩篇22:1-2)

神様が遠く離れたようで沈黙しておられた時でも、ダビデはこう言います。

けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。

彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。(3-5)

つまり、「あなたがまだ存在しておられるのを信じます。あなたは私の先祖が信頼した神で、彼らはあなたに信頼すると、結局恥を見ませんでした。だから、私はあなたが見えなくても、あなたが何をされているか見えなくても、私はあなたに信頼し続けます。」

それでも、ダビデは自分のトラブルについて神様に伝え続けました。

しかし、この詩篇で、私たちはもう一つのことを見ます。この詩篇はイエス様の苦しみも預言しています。

この詩篇は、十字架でイエス様の状態を預言しています。(14-17)

また、イエス様がからかわれることを預言しています。(7-8)

また、人々がイエス様の着物をくじ引きにすることを預言しています。(17-18)

そして、イエス様の犠牲からの勝利や、救いや、祝福を預言します。(22-31)

だから、イエス様は十字架にかけられた時、こう叫ばれました。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)

その時、イエス様はこの詩篇を自分の状況に当てはめられました。

私たちは、この箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが苦しむ時、神様が遠く離れたように感じ、また神様が私たちを愛しておられないと思うかもしれませんが、それはただ私たちの感情です。そして、その感情は現実とは異なります。

現実は、神様がまだ私たちと共におられることです。また、神様は私たちをまだ愛しておられます。

だから、ダビデは歌います。

まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。(24)

あなたは苦しむ時、この箇所を思い出しましょう。神様は私たちの悩みを軽く見ておられません。神様は私たちから隠れません。むしろ、神様は私たちの叫びを聞いてくださいます。また、神様は私たちの苦しみをよく理解しておられます。

どうして、私はそんなことが言えるのでしょうか。なぜなら、イエス様は苦しまれたからです。イエス様にも神様に捨てられた感じもありました。イエス様も苦しみをよく経験されました。

しかし、私たちが神様に信頼し続けると、神様はイエス様の苦しみを神様の栄光のために利用されたように、私たちの苦しみも神様の栄光のために利用されます。

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詩篇

あなたの苦しみは長く続くと思う時

ダビデは詩篇第6篇を書きましたが、ヨブもまた、同じような思いを神様にぶつけました。

ヨブと同じように、ダビデも病に苦しみ、その苦しみが永遠に続くかのように感じていました。

さらに、神様はダビデを懲らしめるように思われましたが、ヨブと同じようにダビデもその理由を知りませんでした。(この詩篇で、ダビデは全く罪を告白していません。)

それだけでなく、ダビデの敵はその病気を見て、彼を攻撃する機会と捉えました。

それにもかかわらず、ヨブとは異なり、ダビデは神様の正義を決して疑いませんでした。

彼は、自分が神様から何ももらう価値がないことを理解していました。実際には、彼は神様の怒りに値していました。

だからこそ、自分の義によるのではなく、神様の憐れみと絶え間ない愛によって癒しを求めました。

彼は叫びました。

主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。

主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。私のたましいはただ、恐れおののいています。

主よ。いつまでですか。あなたは。

帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。(詩篇6:2-4)

しかし、ダビデが祈った時、神様の慰めを受けました。

不法を行なう者ども。みな私から離れて行け。

主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。(8-10)

クリスチャンのコメディアン、マーク・ローリーはこう言いました。「私の大好きな聖書の箇所は『And it came to pass…』という箇所です。」

それはちょっとした冗談です。

「It came to pass」という表現は、少し古い英語で、「そのころ」や「ある時期になって」という意味です。

けれども、文字通りに解釈すると、「その時期はすぐに過ぎた」という意味になります。

ローリーのポイントは、「私たちの苦しみは永遠に続きません。いつか、その苦しみの時間は過ぎ去ります」ということです。

そして、彼は自分の詩篇を歌いました。

私の心には、私が一人で泣いた涙がいっぱい隠されています。

それでも、神様が近くにおられることを知っています。
神様が私の声を聞いてくださることを知っています。
この涙がいつまでも続かないことを知っています。

今日の苦しみは一掃されるのです。
なぜなら、この時期も過ぎます。

夜が朝になると、 私たちはその真実を見ます。
皆がトラブルを経験しますが、
そのトラブルは結局消えます。

この時期も過ぎます。
この時期も過ぎます。

雨垂れのように落ちる涙は結局乾きます。

この時期も過ぎます。