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ルカの福音書のデボーション

権威

イエス様、あなたは私の王です。でも、私の人生で、あなたの権威を完全に認めているでしょうか。

百人隊長はあなたの御言葉の権威を認めていました。(ルカの福音書7:7ー8)

私もその権威を認めているでしょうか。

あなたの御言葉は、死人を復活させる力を持っておられます。(ルカ7:14ー15)

そして、いつの日か、あなたの御言葉によってすべての死人が復活し、あなたが彼らを裁かれます。私も裁かれるでしょう。(ヨハネ5:25ー29)

その日、あなたは私に何を語られるでしょうか。私の信仰に驚かれるでしょうか。私が完全にあなたを信頼し、その御言葉に従ったことを喜ばれるでしょうか。

それとも、あなたは「なぜあなたは、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行わなかったのですか。」と尋ねられるでしょうか。(ルカ6:46)

私はあなたを心から信じています。それでも、私たちの信仰を増し加えてください。すべてにおいて、あなたに従うことができるよう導いてください。

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マルコの福音書のデボーション

神様から与えられた仕事に忠実であること

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。

それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて、責任(別訳:権限)を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか。。。分からないからです。(マルコの福音書13:33ー35)

主人は「しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて、権限を持たせました。」

そのことばが、私の目に留まりました。

イエス様は、いつかこの世に帰って来られます。でもその間、イエス様は私たち一人ひとりに仕事を割り当ててくださり、その仕事を果たすための権限も与えてくださいました。

私たちは、神様から与えられた仕事を果たすのに、他人の許可を求める必要はありません。ただ、その仕事に忠実であるべきです。

最近、私は自分自身のことを考えています。できる限り、神様から与えられた仕事を果たそうとしています。でも、自信がなくて、失敗を恐れて、ためらうことがあります。

その恐れを乗り越えなくてはなりません。その点で、私は成長しようとしています。恐れずに、大胆に、神様から委ねられた仕事を果たしたいのです。

あなたはどうでしょうか。神様は、あなたにどんな仕事を割り当てられたでしょうか。神様があなたに触れさせるために与えた人は、誰でしょうか。あなたは忠実に、神様に仕えているでしょうか。

イエス様、あなたが帰って来られる日を待ち望みながら、私があなたから与えられた仕事に忠実であるように。

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コリント人への手紙第一のデボーション

清い良心?

私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。(コリント人への手紙第一4:4)

パウロはきっと、私たちが神様の御前に清い良心を保つべきだと言うはずです。

しかし、パウロが理解していたのは、私たちは自分の心によく欺かれるということです。

つまり、私たちは自分が清いと思っていても、自分の罪を見ることができません。パウロがコリント人たちに4〜5節を書いたとき、預言者エレミヤの言葉を思い浮かべていたことでしょう。

人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。

わたし、主が心を探り、心の奥を試し、 それぞれその生き方により、 行いの実にしたがって報いる。(エレミヤ書17:9ー10)

では、私たちはいつも自分の心が清いかどうか心配するべきでしょうか。「私の心の中に、隠れた罪があるだろうか。私が気づいていない悪い動機があるだろうか。」と、ずっと疑問に思うべきでしょうか。

いいえ、神様は、私たちがいつも罪悪感をもって、恐れによって生きることを望んでおられません。

もちろん、謙遜な心を持つべきです。

毎日、ダビデのように祈ればよいと思います。「私の心を探ってください。悪いものがあれば、教えてください。」(詩篇19:12〜13;139:23〜24)

もし神様が何か罪を現されたなら、ぜひそれを告白し、悔い改めましょう。

しかし、神様が何も現されないなら、私たちが立っている恵みを感謝しましょう。

実際、もし神様が私たちの罪のすべてを一度に現されたなら、私たちは圧倒されてしまうでしょう。

けれども、恵みによって、神様は私たちを最後まで堅く保ち、裁きの日に責められるところがない者としてくださいます。(第一コリント1:8)

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ヨハネの黙示録

教会に愛がなければ

今日の箇所では、私たちはエペソにある教会に宛てて語られたイエス様の最初の訓戒を読みます。

実際、イエス様はその教会について、多くの良いことを語っておられます。彼らは神の国のために忠実に励み、さまざまな苦難にも耐え忍び、疲れ果てることはありませんでした(黙示録2:2-3)。

さらに、彼らは偽教師を見抜き、自らを使徒と名乗る者たちも試して、見分けることができました。この教会は、そうした者たちを退け、偽りの教えを拒絶していました(2,6)。

しかし、彼らには重大な問題がありました。イエス様はこう言われました。

けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。(黙示録2:4-5)

残念ながら、多くの教会も同様の問題を抱えています。彼らは、自分の奉仕において熱心に励みます。迫害が訪れると、彼らは忍耐強く耐え忍びます。彼らは聖書の教えを守り抜き、偽教師たちを見抜き、罪に対しても寛容ではありません。

それでも、彼らは最も大切なことを忘れてしまいました。それは、神様への愛、そして人への愛です。その愛がなければ、教会は空っぽな殻のようになってしまいます。

だから、神様は彼らに訓戒されます。「悔い改めなさい。私は、ただ熱心な奉仕者たちだけを求めているのではありません。ただ忍耐を示す殉教者たちだけを求めているのではありません。ただ用心深い兵士たちだけを求めているのではありません。

むしろ私は、私を愛する者たちを求めています。また、世の人々に私の愛を分かち与える者たちを求めています。」

私たちがそのように生きないなら、いったいどうなるでしょうか。

そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。(5b)

覚えていてください。燭台とは、人の救いではなく、教会を意味します。だから神様がこう語っておられます。

「もし私の教会であるあなたたちは初めの愛に戻らないと、私はあなたを自分の場所を取り除きます。あなたは礼拝は続けるかもしれないけど、私はあなたをこの世の光として用いません。」

私は第一コリント13章を連想します。その言葉をちょっとパラフレーズにします。

教会が聖書を正しく教え、偽教師や偽りの教えを見抜き、そうした者たちを退け、また聖さを語り、罪を拒んだとしても、愛がなければ、その教会は、騒がしいどらやうるさいシンバルと同じです。

教会の人々が熱心に励み、貧しい者たちを助け、教会の内外でさまざまな良い働きをしたとしても、愛がなければ、その教会は無に等しいのです。

教会の人々が迫害を耐え忍んだとしても、愛がなければ、それは何の益にもなりません。

多くの反キリストたちは、すでにこの世に現れています。そして、最後の反キリストが近づいています。その者が現れるとき、私たちはさまざまな苦難に直面することでしょう。しかし、もし私たちに愛がなければ、私たちはまだ備えができているとは言えません。

あなたの教会はどうでしょうか。その教会は備えができているでしょうか。あるいは、教会はその場所から取り除かれる瀬戸際にあるのではないでしょうか。

あなた自身はどうでしょうか。あなたは、初めの愛から離れていないでしょうか。

イエス様はこう語られました。

耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。(7)

この言葉は、あなた自身と、あなたの教会のために語られています。

イエス様と人々への愛を失わずに、反キリストや苦難、迫害を乗り越えるなら、イエス様はあなたにこう語られるでしょう。

わたしはいのちの木から食べることを許す。それは神のパラダイスにある。(7b)

裁きの日に、イエス様は私たちに何を語られるでしょうか。

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ペテロの手紙第二

イエス様を本当に知り、愛するなら

この話を読んだとき、私はイエス様のミナのたとえ話を思い起こしました。(ルカ19:11ー27)

このたとえ話では、ある主人が三人のしもべたちにお金(ミナ:お金の単位)を投資させるために与えました。二人のしもべたちはそのお金をうまく投資し、利益を得たため、主人は彼らに気前よく報酬を与えました。

ところが、三人目のしもべは、そのミナを安全な場所にただ隠してしまいました。そのしもべの言い訳を聞くと、彼が主人の性格を正しく理解していなかったことが分かります。

そのしもべは主人を厳しい方だと考えました。また、彼は主人が何もせずにしもべたちに苦労させ、彼らの労働でお金を得ていると文句を言いました。そのため、このしもべは主人のお金を投資することを拒否したのです。

多くの人々は、このしもべのようです。彼らは自分がクリスチャンだと自称し、教会に通っているにもかかわらず、神様の性格に疑いを抱いています。彼らは神様が厳しく、不公平な方だと考え、神様が私たちの最善を知り、私たちの最善を望んでおられることを疑っています。

要するに、彼らは神様が良い方であることを疑っているのです。その結果、彼らは神様とその目的のために生きることを拒否します。

けれども、神様を知り、神様を愛する人がそのように生きることができるでしょうか。もちろんできません。

とはいえ、若いクリスチャンは神様をまだ十分に知らず、神様に対する愛もまだ未成熟であるかもしれません。しかし、私たちが成長するにつれて、神様に対する考え方は変わり、神様への愛が深まっていくはずです。

ペテロが言ったように、私たちが神様を知れば知るほど、神様の恵みと平安は私たちに豊かに溢れます。それはどうしてでしょうか。それは、神様が良い方であると悟るからです。

例えば、私たちは神様から次のような賜物を与えられます。赦しの賜物、永遠のいのちの賜物、御霊の賜物などです。神様が良い方であることを知るにつれて、私たちはさらに神様を愛し、神様のようになりたいと願うのです。つまり、

  • 私たちは神様の良い性質を見て、神様の性質を自分のものとしたいと願います。
  • 私たちは神様の知恵を目にし、それを学び取りたいと思います。
  • 誘惑の中で示されたイエス様の自制を見ると、私たちもその自制を身につけたいと願います。
  • イエス様が十字架の苦しみにさえ耐え抜かれたので、私たちも試練の時には忍耐と勇気を持つことができます。
  • イエス様が天の父の御声を聞き、それに従う姿を見ると、私たちもその模範に従いたいと願います。
  • 私たちは神様の愛と親切を知り、その愛と親切を周りの人々に示したいと思います。

だからペテロはこう言います。

これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。(ペテロの手紙第二1:8)

そして、イエス様のたとえ話に出てくるしもべたちのように、

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。(11節)

しかし、ペテロは私たちに警告します。

これらを備えていない人は盲目です。自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまって、近視眼的になっているのです。(9節)

三人目のしもべは、そのような人でした。彼は主人の良い性質を忘れてしまい、その結果、彼は盲目的になり、自らの来たる破滅を予測することができませんでした。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様をどのように見ていますか。神様の本当の性質を見ていますか。それとも、もしかすると、神様に対するあなたの考え方は歪んでいるかもしれませんか。

神様に対するあなたの考え方は、あなたの人生全体を形作ります。そして、裁きの日には、あなたの態度が明らかになります。

その日、神様はあなたについて何を言われているでしょうか。

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ヘブル人への手紙

裁きの日に備える信仰

裁きの日。

このトピックが好きな人は、ほとんどいないでしょう。特に、ノンクリスチャンにとっては、裁きの日について語ることを避けたくなるものです。

もちろん、多くの人々は、犯罪者やヒトラーのような人物が裁かれるという概念には賛同するでしょう。

しかし、悪人について考えるとき、自分自身をそこに含める人は多くありません。むしろ、自らの罪を軽く見てしまい、その罪が神様の目にはどれほど深刻かを理解していないのです。

それでも、裁きの日は必ず訪れます。

そしてクリスチャンとして、私たちは信仰を持ち、この真理を認めて、備えを始めなければなりません。

ノアはそのようにしました。この手紙の著者は、こう記しています。

信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。(へブル人への手紙11:7)

神様はノアに、「裁きの日が来る」と警告されました。 それはつまり、大洪水が起こり、すべての人々が滅びるということです。だからこそ、ノアは備えなければなりませんでした。

ノアはそのように行動しました。 彼は砂漠で箱舟を造り、周囲の人々に迫り来る裁きについて警告したため、嘲笑されました。 それでも、ノアは備え続けました。

その結果、大洪水が起こったとき、彼とその家族は救われました。 さらに、彼の行動によって周囲の人々の不信がさらけ出され、裁きのとき、彼らは弁解の余地を持ちませんでした。

私たちは、ノアのような信仰を持っているでしょうか。 裁きの日が本当に来ると信じているでしょうか。

私たちは可能なかぎり、友人や家族に福音を伝えているでしょうか。 たとえ嘲笑され、迫害されるとしても、私たちは警告し続けているでしょうか。

裁きの日、神様は私たちについてこう言われるでしょうか。 「信仰のない世界にあって、あなたの信仰は輝いていた。」

裁きの日、神様はあなたについて何と言われるでしょうか。

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ローマ人への手紙

でも私は、そんなに悪くないでしょう?

多くの人々は次のように疑問を抱きます。

「たとえ善良な人であっても、多くの人がイエス様を信じていない。どうして神様は彼らを拒絶されるのか。

永遠の命を求めるならば、クリスチャンにならなければならないのか。

例えば、ガンジーはとても善良な人だった。殺人や暴行を犯した者が地獄に行くのは理解できるが、なぜガンジーも地獄に行かなければならないのか。」

あるクリスチャンの中にも、このことを疑問に思う人がいるかもしれません。

しかし、この考え方の問題は、私たちの「良い」という概念が歪んでいることにあります。

私たちは自分の都合で「良い」を定義することはできません。

また、「良い」という基準は神様の外にあるものではありません。

神様は「私は『良い』という基準に従わなければならない」と考えられることは決してありません。

神様ご自身が「良い」の基準なのです。

だからこそ、何が本当に良いのかを知りたいと思うならば、私たちは神様を見つめなければなりません。「良い」という定義は、神様の御性格から生じるものだからです。

そして、どのような行いが善であり、悪であるかを知りたいならば、神様が人間をどのように造られたかを見る必要があります。

それこそが神様の律法の目的です。律法を通して、私たちは神様がどのようなお方かを知ることができ、また、私たちがどのように生きるべきかを理解することができるのです。

したがって、私たちの「善」を測る際に、自分自身を周りの人々と比較することは適切ではありません。なぜなら、彼らの人生が「良い」の基準ではないからです。

また、私たちの文化の価値観を基準にすることも適切ではありません。私たちは神様に目を向け、神様の御性格によって自分を測らなければならないのです。

けれども、そのようにすると、「良い」という基準を満たす人は誰もいません。だからこそ、パウロはこう語りました。

私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。

「義人はいない。一人もいない。

悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。

善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ人への手紙3:9-12)

パウロは何を言いたいのでしょうか。

神様の前に、自分の義を誇ることができる人が誰もいないことです。神様は彼らの義を認めません。

なぜでしょうか。彼らは「義」という言葉の意味さえ、正しく理解していないからです。

では、なぜ彼らは「義」ということがわからないのでしょうか。 それは、彼らが神様を求めず、むしろ神様に背を向けているからです。

そして、神様に背を向けることは、一番ひどい罪です。レイプだはなく、殺害ではなく、神様に背を向けるのは一番ひどい罪です。なぜでしょうか。

なぜなら、私が以前言ったように、「良い」という定義は、神様の性格から流れるから。神様は「善」の源です。

人々が善の源に背を向けるとは、「悪」の定義ではないでしょうか。

善の源に背を向けると、どうなるでしょうか。あなたの心から悪が流れて、あなたは悪いことを言ったり、悪いことをしたりします。

あなたは、何回ぐらい嘘をついたでしょうか。あなたは、何回ぐらい人の悪口を言ったでしょうか。何回ぐらい苦い言葉があなたの口から流れたでしょうか。何回ぐらいあなたの言葉で相手を傷つけたでしょうか。

そのような言葉は良い心から流れるでしょうか。

これまでに、自分の誤った決断によって、あなたの人生はどれほど混乱したでしょうか。

これまでに、どれほどあなたは自分の行いによって人々を傷つけたでしょうか。

これまでに、どれほどあなたは「神様のみ言葉を知っていながら、私は自分の道を進む」と言ったでしょうか。

もしあなたが正直であるなら、これまでに挙げたことをすべて自分が行ったと認めるでしょう。

だからこそ、パウロはこう語ったのです。

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(19-20)

ガンジーが神様の前に立ち、神様が彼を裁かれると、ガンジーは何も言えなくなるでしょう。なぜなら、神様がガンジーの罪をすべて明らかにされ、ガンジーはその罪を認めるからです。

それだけでなく、ガンジーは「私はその罪を犯した瞬間に、自分が悪かったと知っていました」と認めるでしょう。

ガンジーは一切の言い訳を持ちません。なぜなら、彼が聖書をすべて知らなかったとしても、彼自身の良心が彼を裁いたからです。

しかし、ガンジーは、きっと少しでも聖書を読んだことがあったでしょう。

(どうしてクリスチャンにならないのかと聞かれた際、ガンジーはこう言いました。 「あなたのキリストは好きです。けれども、クリスチャンのことは好きではありません。なぜなら、クリスチャンたちはキリストとは全然違うからです。」)

とにかく、彼が聖書を読んだとき、彼の責任は増しました。なぜなら、聖書は鏡のようにガンジーに自分の罪を映し出したからです。

同じように、もしあなたがイエス様を拒絶するならば、裁きの日には言い訳を持つことはできません。そして、神様に裁かれることになるのです。

だから、自分自身を欺かないでください。「私はそんなに悪くはない」と主張しないでください。

私たち全員が罪人であり、神様の恵みを必要としています。

裁きの日にそれを認めるよりも、今認めた方がよいのです。

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マタイの福音書 マタイ25章

羊とやぎのたとえ話:どのように兄弟姉妹たちを扱うか

イエス様は、この世の終わりに関する話をこのたとえ話で締めくくられます。

「大きな患難」について話された後、イエス様は最後の裁きについて語られます。その時、神様は国々を裁かれます。そして、飼い主が羊をやぎから分けるように、神様は人々を分けられます。

そのたとえ話の文脈を考えると、たぶんイエス様が意味されたのはこうです。大きな患難の時、多くのクリスチャンが迫害され、苦しみます。

その時、イエス様を信じ、愛する人々はそのクリスチャンたちを助けます。だから、イエス様は彼らを祝福し、神様の国に迎え入れられます。

しかし、クリスチャンを迫害する人々、またはクリスチャンの苦しみに目をつぶる人々は裁かれます。

とはいえ、この話は他の適用があるとも考えられます。大きな患難はまだ来ていませんが、私たちは兄弟姉妹をどのように扱うかによって裁かれるのです。

イエス様はこう言われました。

さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた、御国を受け継ぎなさい。

あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」(マタイの福音書25:34-36)

その人々が「いつ私はそんなことをしたのでしょうか」と尋ねると、王はこう答えられます。

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。(40)

その一方、その兄弟たちを助けない人々に対して、王はこう言われます。

まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。(45)

私たちの兄弟姉妹が苦しむときに、私たちはどうするでしょうか。神様の愛をもって彼らに手を差し伸べるでしょうか。私たちがそうすれば、実は私たちはイエス様に触れていることになります。

しかし、私たちが彼らに目をつぶれば、実はイエス様に目をつぶってしまうのです。だからこそ、私たちは裁かれるのです。

ヨハネはこう言いました。

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

子供たち。私たちは、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(第一ヨハネ3:16-18)

イエス様は私たちにたくさんのものを与えてくださいました。私たちに命を与えるために、自分の命を犠牲にされました。どうして私たちは隣人のために同じことをしないのでしょうか。

イエス様に背を向けないでください。イエス様は私たちの兄弟姉妹のために命を捨てるほど愛してくださいました。だからこそ、彼らに手を差し伸べ、愛を分かち合いましょう。

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真理を語っている?

この話では、私たちは18年間ほど時を飛ばします。イエス様は30歳になり、自分のミニストリーを始められました。けれども、彼が始める前に、イエス様のいとこバプテスマのヨハネは、すでに自分のミニストリーを始めていました。

使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが誰であるかを説明します。

神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)

祭司たちや、パリサイ人、サドカイ人(パリサイ人とサドカイ人はユダヤ人の宗派です)がヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼はこう答えました。

私はキリスト(つまり、メシア、または、救い主)ではありません。。。私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声です。(ヨハネ1:20,23)

彼の人生の目的は、人々の心をイエス様をメシアとして受け入れるために整えることでした。

私たちはイエス様の弟子として、神様から同じ使命を与えられています。私たちは周りの人々の心をイエス様のために整えるべきです。私たち自身には彼らを救う力はありません。ただ、神様の言葉という種を彼らの心にまくことができるだけです。

私たちのメッセージもヨハネのメッセージとほぼ同じです。

主な違いは、ヨハネの時代には神様からの救いがイエス様を通してまだ到来していなかったという点です。しかし、イエス様がすぐに来られるので、彼らは自分の心を準備しなくてはなりませんでした。(ルカ3:6)

一方で、私たちのメッセージは、イエス様を通して神様の救いがすでに到来したということです。

また、ヨハネの言葉を見ると、一つのことが私の心に深く響きます。ヨハネは率直に話しました。

パリサイ人とサドカイ人が来たとき、彼はこう言いました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:7-12)

どうしてヨハネはそんなに厳しく話したのでしょうか。それは、彼らが偽善者だったからです。彼らは神の律法を守ろうと努力しました。つまり、外面的には正しいことを行いましたが、心は堕落していました。

彼らはこう思っていました。「私はユダヤ人だから、神様に受け入れられているだろう。それに、神の律法を知らない多くのユダヤ人と違って、私はよく知っている。」

しかし、彼らの心がプライドに満ちていたため、神様のあわれみを知ることができませんでした。

一方で、ヨハネは他の人々に対してもっと優しく話しました。イスラエル人に嫌われていた人々(取税人やローマの兵士)にも優しく接しながら、「悔い改めなさい」と語りました。裁きの日が来るので、罪深い人生を続けてはいけなかったのです。

私たちも真理を伝えなければなりません。そのメッセージは厳しく感じられるかもしれませんが、伝えることが重要です。

もちろん、イエス様の愛についても語るべきです。そして、イエス様が彼らの罪のために死なれたこと、またその死によって赦され、その心が癒されることを伝えるべきです。

けれども、彼らがプライドや罪、頑固さを持ち続けるなら、私たちは裁きの日について警告すべきです。そうしないと、神様は私たちに責任を負わせるでしょう。(エゼキエル書3:16-21;使徒の働き20:26-27)

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箴言

私たちの裁判官に自分のことを申し開きする

私たちがこの人生を送っている間、私たちが死後に永遠があることを忘れるのは簡単なことです。そして、その日、私たちは自分のことを私たちの裁判官である神様に申し開きをしなくてはなりません。

ソロモンはこう書きました。

人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。(箴言20:5)

もし、英知のある人が私たちの心を読み取れるなら、神様の前に私たちは何も隠すことができません。

ソロモンは続けてこう言います。

多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。(20:6)

たくさんの人々は神様を愛していると言うけれど、その神様に対する愛を示す人は少ないです。だから、ソロモンは私たちに警告します。

さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。(20:8)

もちろん、ソロモンは人間の王について話しているけれど、いつか、王の王は裁きの座に着いて、この世を裁かれます。

人間の王の判断は不完全です。なぜなら、彼らの知識と知恵には限界があるからです。

しかし、すべてのことは神様の前に置かれ、神様が正義の神なので、神様の判断は完全です。

ソロモンはこう言います。

人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。(20:27)

つまり、神様は私たちの最も隠された思いも知っておられます。

ソロモンは続けてこう言います。

人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。(21:2)

私たち皆が、いつか神様の御前に立って裁かれるので、ソロモンは私たちがどのように生きるか教えます。

私たちは正直に話さなくてはなりません。(20:10、16、23)

私たちは復讐を求めずに、裁きを神様の手に委ねなくてはなりません。(20:22)

たまに捧げものを捧げるよりも、毎日正しい生活を送らなくてはなりません。(21:3)

そして、神様の前にへりくだらなくてはなりません。(21:4)

そうしないと、ソロモンは私たちにこう警告します。

正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。(箴言21:12)

多分、この箇所では、「正しい人」というのは、神様です。神様は悪者の家を見抜き、滅ぼしてしまいます。

ソロモンは続けてこう言います。

公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである。

悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。(箴言21:15-16)

けれども、このソロモンの言葉を覚えておきましょう。

だれが、「私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた」と言うことができよう。(20:9)

その答えは当たり前です。誰でもそんなことが言えます。神様の前に立って、「私は罪を犯したことがない」と言える人は、一人もいません。自分の行動のために天国に行く値する人は一人もいません。

私たち皆が失敗したことがあります。私たち皆が罪を犯して、神様からの栄誉を受けることができません。だから、イエス様はこの世に来られました。私たち皆に救い主が必要だからです。

だから、あなたが神様の目に義人になりたがるなら、一番大切な命令に従ってください。

それは何でしょうか。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(第一ヨハネ3:23)

あなたはどうですか。裁きの日のために準備できていますか。

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詩篇

裁判官が裁かれるとき

裁判所で不正義を見るとき、私たちはみなフラストレーションを感じるでしょう。有罪の人は解放され、彼らが傷つけた人はその決断によってさらに傷つけられます。

そんな問題は現代だけのものではありません。聖書の時代にも、同じような問題がありました。だから、詩篇82篇では、神様は裁判官を裁きます。

私が続ける前に、1節を少し説明した方が良いと思います。1節では、こう書いてあります。

神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。(詩篇82:1)

詩人は「神の会衆」と「神々」と言いますが、皮肉っぽく話しています。彼は本当の神々について話しているわけではありません。本当の神は一人しかいないのです。

この「神々」はイスラエルの士師たちのことです。この士師たちが神様の代表であり、人々を裁く力を持っていたので、詩人は彼らを「神」と呼びました。

もし、あなたがモルモン宣教師と話したら、彼らはこの詩篇を指摘して、「ほら、たくさんの神々が存在します。そして、あなたも神になることができます。」と言うでしょう。

けれども、この詩人はそのようなことを教えているのではありません。6節で、詩人は「おまえたちは神々になる」ではなく、「おまえたちは神々だ。」と言っています。モルモンの人でも、今彼らが神であるとは言いません。

さらに、7節で、神様はこの「神々」にこう言います。「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に[ます]」。

この士師たちはただの人間であり、また、堕落している人間なので、彼らは結局死にました。その一方、本当の神は決して死にません。

さて、なぜ神様はこの士師たちを裁くのでしょうか。

2-4節で、その答えを見つけることができます。

いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか。セラ

弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。

弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。(2-4)

神様はこの士師に関してこう言われます。

彼らは、知らない。また、悟らない。彼らは、暗やみの中を歩き回る。(5)

そして、詩人は本当の神に歌います。

神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。(8)

だから、この世の不正義を見るとき失望しないでください。ある日、神様は悪人と彼らを解放した裁判官を裁かれます。

裁判官は正しい人ではないかもしれませんが、神様は公正な方です。だから、最後の日には必ず正義が訪れます。

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詩篇

逃げられない

私は刑事コロンボという番組が大好きです。その番組にはいつも同じパターンがあります。つまり、犯罪者は完全犯罪を犯しますが、コロンボは少しずつ彼らの犯罪を解明します。

詩篇64篇を読むとき、コロンボの話について考えます。ダビデはこう書きました。

彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。

全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。

彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう」と言っています。

彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。(詩篇64:3ー6)

けれども、コロンボのように、神様は彼らの計画を暴露して、彼らを罰されます。

しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。

彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。

こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。(7ー9)

エステル記で、ハマンはそう学びました。ユダヤ人を滅ぼすために完璧な計画を立てましたが、その計画はハマンの目の前で崩れました。

しかし、時々私たちは正義が遅れて来ると感じます。有罪な人が解放されて、私たちは「神様はどこにおられるのか。どうして神様は何もしないのか。」と思うことがあります。

けれども、いつか神様が彼らを裁かれることを忘れないでください。裁きの日には、神様がすべての罪を裁かれます。

だから、不正義を見るときに思い悩まないでください。人間の正義は失敗するかもしれませんが、神様の正義は決して失敗しません。だからダビデはこう言われました。

正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。(10)

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マラキ書

私たちが神様に聞かないと

神様はイスラエル人を責められた後で、彼らに警告されました。

つまり、裁きの日が来ることを警告されます。もし彼らが罪を犯し続けるなら、彼らは裁かれ、救いの希望はなくなります。根も枝も残らない木のように、彼らは滅び尽くされます。

けれども、主を恐れる人には、この世で受けた傷のすべてが癒されます。悪はすべて消え、決して戻りません。だから、彼らの喜びは決して取り去られることはありません。

だから、神様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。(マラキ書4:4)

つまり、「裁きの日が来るので、私が言ったことを覚えていなさい。私の命令に従いなさい。」

もちろん、私たちはもうモーセの律法の下にはおりません。しかし、神様は私たちに命令を与えてくださいました。それは何でしょうか。ヨハネが私たちに教えてくれます。

神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(第一ヨハネ3:23)

そして、マラキはエリヤの到来を預言します。以前言ったように、バプテスマのヨハネはその預言を成就しました。彼はイエス様の道を整えました。そして、神様はヨハネの到来に関して、こう警告されました。

彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。(6)

2章で、私たちはイスラエル人の結婚の決裂を見ました。イスラエルの主人たちは妻を離婚し、この箇所によれば、父子の関係も決裂していました。私たちの社会のように、その二つの問題は関係があると思います。

マラキ書2章で、神様が言われたように、結婚の一つの目的は神様の子孫が生まれることです。つまり、その子どもは神様に従うのです。

けれども、結婚と家族が壊れたので、父子の関係も壊れ、その子どもの神様との関係も壊れました。

だから、その世代では、親も子どもも神様に聞かず、神様に従わないので、神様の呪いが来ていました。

そのように、この社会が悔い改めないと、結局神様の呪いがこの地を打ち滅ぼします。

あなたはどうですか。どんな心を持っているでしょうか。神様の御言葉に向かっている心を持っているでしょうか。それとも、神様の御言葉を無視しているでしょうか。

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マラキ書

正義はどこだろうか

多くの人々は、「もし神様が良いお方なら、どうしてこの世に悪があふれているのだろう。もし神様が正義の神なら、この世の正義はどこにあるのだろう」と問いかけます。

その疑問は決して新しいものではありません。マラキの時代にも、イスラエルの民は同じ質問を神様に投げかけました。そして、神様はこう言われました。

あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」

「悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか」とあなたがたは言っているのだ。(マラキ書2:17)

神様は彼らの文句に、どのように答えられたのでしょうか。

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。

あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。(3:1)

つまり、「あなたたちは、私がどこにいるのかを訊いています。あなたたちは、なぜ私がこの世の不正義を扱わないのかを問うています。けれども、私はすぐに来ます。あなたの宮に、私は現れます。」

イエス様がこの世に来られたとき、その預言が成就しました。また、イエス様の道を整えた使者はバプテスマのヨハネでした。

しかし、神様は心に刺さるような質問をされます。

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。(3:2)

つまり、「あなたは私が来て正義を行うことを待っています。あなたは私が遅いと文句を言っています。けれども、私が来る準備ができているでしょうか。

私が来るとき、銀と金を清める火のように来ます。また、私はすべての罪を清める灰汁のように現れます。

私が来る時、あなたはその前に立つことができるでしょうか。」

そして、神様はご自身に属する祭司たちにこう言われました。(クリスチャンとして、あなたが神様の祭司であることを思い出してください。)

「私はあなたを清め、製錬します。」

けれども、神様はこう言われました。

「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。

わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行なう者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに、向かう。――万軍の主は仰せられる――」(3:5)

つまり、「裁きの日が来ます。罪を犯す者はすべて裁かれます。だから、もう一度私は尋ねます。あなたはその日のために準備ができているでしょうか。」

だから、人が神様の正義を疑う時、こう伝えてください。

「まず、あなたが何を言っているかをよく考えてみてください。あなたは神様がすべての悪を取り除くことを望んでいますか。

もし、あなたの中に小さな悪があったとしても、それも取り除かれるべきです。

あなたは完全な人間ですか。過去に悪いことをしたことがありませんか。あなたは自分自身が裁かれることを本当に望むのでしょうか。」

では、なぜ神様はまだこの世を裁いていないのでしょうか。それは、神様が可能な限り多くの人々が悔い改めることを待っておられるからです。

だから、神様はこう言われます。

主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。(3:6-7)

つまり、「あなたたちは、長い間ずっと私の命令を破り続けてきました。そのため、本来ならあなたたちはすでに裁かれ、滅びていたはずです。

しかし、私は忍耐強く、憐れみ深い神であるがゆえに、あなたたちはまだ滅びていないのです。

ただし、私の忍耐を不正義と混同してはなりません。裁きの日は必ずやって来るのです。」

あなたはその日のための準備ができていますか。