カテゴリー
コリント人への手紙第二

なぜ私たちは決して恥じる必要がないのか

前回の記事でこのトピックに少し触れましたが、今日はもう少し深く考えたいと思います。

モーセがシナイ山から降りて十戒を持ってきたとき、彼の顔は主の栄光に輝いていました。

最初は、イスラエルの民が恐れたため、モーセは自分の顔に覆いをかけました。けれども、その栄光が消え去りつつあっても、モーセは覆いを外しませんでした。

もしかすると、栄光が消え去ることを恥ずかしく感じていたのかもしれません。つまり、その時、自分の罪によって栄光が失われつつあることに気付いたのです。

この出来事を通して、私たちは律法の問題を理解できます。

律法は、神様がどのような方であるか、また私たちに対する神様の御心を示します。けれども、律法には私たちを変える力がありません。私たちはなお罪深く、律法によって裁かれるのです。

しかし、パウロによれば、私たちの状態は変わりました。私たちがイエス様を信じると、モーセの栄光よりもはるかに優れた栄光を見いだします。

どうしてでしょうか。それは、律法が石の板や紙に書き記されているものではないからです。

むしろ、私たちがクリスチャンになると、聖霊様がその律法を私たちの心に書き記し、毎日、私たちをイエス様と同じかたちに変えてくださいます。

私たちは日々、栄光から栄光へと変えられています。私たちの栄光は消え去るものではなく、むしろ、次第に増していくのです。

だから、パウロは私たちにこう語ります。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。(コリント人への手紙第二3:12-13)

神様が私たちに賜った栄光が消え去ることを心配する必要はありません。むしろ、私たちがイエス様の姿へと変えられるまで、神様が私たちの内で働かれることを確信することができます。その時、私たちは神様の栄光に輝くのです。

だから、パウロは私たちが自由を持っていると言います。(17)

神様は私たちを罪悪感から解放してくださいました。 神様は私たちを罰への恐れから自由にしてくださいました。 神様は私たちを律法の力から自由にしてくださいました。私たちにはもはや、自分の力で律法を守る必要はありません。

モーセはそのような自由を知りませんでした。彼は律法の支配下にありました。だから、全焼のいけにえを何度もささげても、罪悪感と恥を感じ続けていたのです。(へブル10:2-4)

彼は裁きの苦しみも経験しました。自分の罪のゆえに、神様がイスラエルの民に約束された土地に入ることができませんでした。だからこそ、モーセの顔に律法の栄光が消え去りつつあるとき、彼は覆いを外しませんでした。

しかし、私たちにはその必要はありません。私たちの覆いを取り去り、周りの人々に私たちの顔を見せましょう。私たちがどのような者であるかを明らかにしましょう。私たちは恵みによって救われた者です。

完全ではありませんが、私たちは日々、イエス様の姿へと変えられています。

だから、ペテロの言葉を心に留めて、生きていきましょう。

「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:6)