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ヤコブの手紙のデボーション

完全な人

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(ヤコブの手紙3:2)

今朝、このことばは私の心を打ちました。「完全な人」の「人」と訳されたことばは、もちろん、男性も女性も指すことができますが、多くの場合、そのことばは特に男性たちを指します。

誤解しないでください。翻訳者たちは、おそらく2節を正しく訳したと思います。でも、男性として、ヤコブのことばは私の心に響きました。

自分があるべき完璧な男であることを妨げているものについて考えるとき、舌を指摘する男性は、あまりいないと思います。

私は、普通そのように考えません。

でも、ヤコブは、私たちの舌を指摘します。

私たちの舌は、私たちがあるべき夫であることを妨げます。

私たちの舌は、私たちがあるべき父であることを妨げます。

シングルの男性の舌は、自分があるべき彼氏であることを妨げます。

自分のことばによって、私たちの妻たち、子どもたち、彼女たちに、どれだけのダメージを与えるでしょうか。

男性たち、どのような男性になりたいですか。私は、イエス様のようになりたいです。私のことばが人々を燃やすのではなく、むしろ、彼らを癒すことを望みます。私のことばが、知恵にふさわしい柔和さで特徴づけられることを望みます。

イエス様、私が舌を制して、完全な男性になることができるようにしてください。イエス様、私があなたのようになることができるようにしてください。

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ヤコブの手紙のデボーション

私たちを汚す言葉

舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し(ます)。(ヤコブ3:6)

この言葉を読んだとき、私はイエス様の言葉を思い出しました。

人から出て来るもの、それが人を汚すのです。

内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:20ー23)

今まで、私は自分の言葉を、自分を汚すものとしてあまり考えてきませんでした。自分の言葉によって、主の目に汚れてしまうということを、深く考えてこなかったのです。

しかし、言葉は私の心にあるものを表します。そして、イエス様によれば、裁きの日には、口にするあらゆる無益なことばについて申し開きをしなければなりません(マタイ12:33〜37)。

主よ、預言者イザヤのように、私は唇の汚れた者です。どれほど多くの無益なことばによって、私は自分を汚してしまったことでしょうか。どうか赦してください。

「だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか 隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。 それらが私を支配しないようにしてください。 そのとき私は 大きな背きから解き放たれて 全き者となるでしょう。

私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。 主よ わが岩 わが贖い主よ。」(詩篇19:12ー14)

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(5)

私はこの記事に「舌」と名付けることもできました。けれども、それは少し奇妙なタイトルに思えました。

さらに、この箇所がヤコブのより大きな議論の一部であることを、自分自身に思い出させたかったのです。つまり、真の信仰とは、愛と清さ、そして言葉を通して表現されるものなのです。

今日の箇所では、ヤコブは1章26節で述べた話を続けます。その聖句で、ヤコブはこう言いました。

自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブの手紙1:26)

私は以前にも言いましたが、私たちの言葉は、私たちの心の状態を表します。

時々、人々は誤ったことを口にした後、「失礼しました。つい言ってしまいました」と言います。

しかし、なぜその言葉が出てしまったのでしょうか。それは、その言葉がすでに心の中にあったからです。何の根拠もなく突然出てきたのではありません。その言葉は心に深く根付いており、時が来ると現れるのです。

私たち全員の心の中には罪があるため、ときに思わず悪いことを口にしてしまいます。

だから、ヤコブはこう言いました。

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(2)

私たちは行動するよりも先に、言葉を発してしまうことがよくあります。そのため、もし私たちが成熟し、自制心を持って決して悪いことを言わないようになるならば、おそらく悪い行動をも慎むことができるでしょう。

しかし、この世に生きている限り、私たちの心には罪があるのです。

だから、ヤコブはこう言います。

どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。(7)

私たちの言葉は、自分の人生を形成するだけでなく、周囲の人々の人生にも影響を与えます。くつわによって馬を操るように、また舵によって船の方向を変えるように、私たちの言葉は人の人生を良い方向にも悪い方向にも導くことができるのです。

しかし、残念ながら、私たちはしばしば言葉によって人々を悪い方向へと向かわせてしまいます。ヤコブは、舌を「大きな森を燃やす小さな火」にたとえています。

私たちの言葉は、自分自身の人生を破滅へと向かわせる恐れがありますし、他者の人生をも破壊する可能性があります。だからこそ、ヤコブは「舌はゲヘナ(つまり地獄)の火によって焼かれる」と警告しています。

言葉によって、人は職を失います。言葉によって、夫婦の関係が壊れます。言葉によって、子供は傷つきます。言葉によって、友人関係も壊れてしまいます。それでも、私たちは往々にして不注意のために言葉を発してしまいます。

そのため、ヤコブは舌を「死の毒で満ちているもの」と呼ぶのです。

ヤコブはこう言います。

私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。

私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。(9-10)

言い換えると、私たちは「神様を愛している」と言いながら、どうして神様の似姿に造られた人を侮辱することができるのでしょうか。

ヤコブはこの話を次のようにまとめています。

泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。(11-12)

もちろん、泉は甘い水と苦い水を同時に湧き出させることはありません。しかし、私たちの心に罪があるため、良い言葉も悪い言葉も私たちの口から出てしまいます。

だから、自分の言葉を制御できないと感じるなら、その言葉の源について考えてみてください。あなたの心には何が入っているでしょうか。

苦々しい思いや怒り、見苦しいものが心に宿ってはいないでしょうか。それらをイエス様の手に委ねるまで、自分の言葉を完全に制御することはできません。

だから、ダビデのように祈りましょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。主よ。わが岩、わが贖い主よ。(詩篇19:14)

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コリント人への手紙第一

言葉を通して人を励まし、育て、慰め、教える

正直に言うと、この箇所について話すとき、私はあまり自信がありません。

私は異言の賜物が今も続いていると考えています。クリスチャンの友人から彼らの経験を聞き、それを信じています。それでも、私自身はその賜物を持っていません。

また、一部の牧師たちの意見とは異なり、私は預言が単なる説教ではないと考えています。預言について学んだ結果、預言は説教以上のものだという結論に至りました。

パウロによれば、預言は教会の人々を成長させるため、人々を励ますため、慰めるため、そして教えるためのものです(コリント人への手紙第一14:3、31)。

もちろん、優れた説教はこれら四つの目的を果たします。けれども、説教と預言には大きな違いがあります。

良い説教には聖書の深い学びが必要ですが、ペテロによれば、預言は異なるものです。ペテロは、預言者について語る際、こう述べました。

預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。(第二ペテロ1:21)

そして、第一コリント14章では、パウロは聖書の学びによる説教ではなく、聖霊に動かされて語る言葉について述べているようです。

この箇所では、パウロは異言と預言を比較しています。主な違いは、異言を語る際、通訳がなければ、それは話している人自身にしか益がないということです。周囲の人々には何の益ももたらしません。

しかし、預言する人は、皆が理解できる言葉を語ります。そのため、パウロはコリントの人々が異言を語ることを願っていましたが、それ以上に彼らが預言をすることを望んでいました。

パウロはこう語りました。

異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。(コリント人への手紙第一14:5)

また、

同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。(12)

預言や異言についてさらに語ることはできますが、最も心に残ったことは次の点です。

教会において、私たちが語る言葉は、慎重に用いるべき道具であるべきです。その言葉を通して、人々を成長させ、励まし、慰め、そして教えるべきです。

これこそが預言の目的です。預言の賜物は、人々を導くために超自然的な力をクリスチャンの言葉に加えます。

とはいえ、預言の賜物を持っているかどうかに関わらず、すべてのクリスチャンは周囲の人々と話すとき、そうした言葉を語るべきなのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの言葉は、人々を成長させ、励まし、慰め、そして教えていますか?

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ルカの福音書 ルカ11章

私たちの行動は私たちの言葉に反対するとき

律法学者たちとパリサイ人たちは、旧約聖書の預言者たちを称賛していました。彼らは預言者たちのために墓を建て、こう言いました。

「この預言者たちは本当に偉大だった。もし私たちが先祖だったなら、決して彼らを迫害しなかっただろう。」

ところが、もう一人の預言者が現れました。いや、ただの預言者ではなく、神様が約束された、長く待ち望まれていたメシアがついに来たのです。

それでも、パリサイ人たちと律法学者たちはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様とその弟子たちを殺そうとさえしました。

その行動は彼らの心を示していました。もし彼らが本当に預言者たちを信じ、尊敬していたなら、イエス様をも信じ、尊敬したはずです。しかし、彼らはイエス様に激しく反対しました。

そして、彼らがイエス様に反対したとき、知識の鍵を奪い去りました。彼らは自分たちが神の国に受け入れられると思っていましたが、イエス様は彼らが拒絶されると語られました。

さらに深刻なのは、彼らがイエス様を拒絶したことで、他のユダヤ人たちも天国に入ることができなかったことです。なぜなら、ユダヤ人たちはパリサイ人たちと律法学者たちが真理を知っていると考え、彼らの模範に従ったからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様に従うと主張していますか。あなたの行動は、あなたの言葉を証明していますか。

それとも、あなたの行動は、あなたがキリストを軽んじていることを証明しているでしょうか。いや、むしろ、あなたの行動はあなたがキリストを拒絶していることを証明しているでしょうか。

正しいことを言うだけでは足りません。あなたの行動は、言葉と一致しなければなりません。

あなたの心には、何が入っていますか。

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マタイの福音書 マタイ12章

私たちの口から出る言葉

私は汚い言葉を聞くとき、本当に気になります。特に、クリスチャンがそのような言葉を使うとき、心が痛みます。なぜなら、私たちの言葉は、心の中にあるものを反映しているからです。

パリサイ人たちが「イエス様は悪霊につかれている」と非難したとき、イエス様は次のように答えられました。

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。

あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:33-37)

つまり、彼らの堕落した言葉は、彼らの堕落した心を表していたのです。

だからこそ、イエス様は私たちの無駄な言葉でさえも裁かれるとおっしゃいました。なぜなら、私たちの言葉は、私たちの心の状態を表すからです。

もし私たちの心が良い実で満たされているなら、私たちの口からは良い言葉が流れてきます。しかし、私たちの心が腐ったもので満たされているなら、腐った言葉が口から流れてくるのです。

だから、もし腐った言葉があなたの口から出るなら、驚かないでください。それは、あなたの心がそのような状態であることを示しているのです。そして、もしそんな腐ったものが心にあるなら、あなた自身の心を探り、悔い改める必要があります。

もしあなたの心に苦々しい思いが満ちているなら、苦々しい言葉が口から出ます。もしあなたの心が汚れているなら、汚い言葉が口から出ます。

あなたの心には、何が満ちていますか?あなたの口からは、何が流れ出ていますか?

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ルカの福音書 ルカ6章

あなたの心にあるもの

聖書を読むと、イエス様がしばしば同じたとえを用いながらも、異なる応用を教えておられることに気づきます。

例えば、マタイの福音書では、イエス様が良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木について語る際、そのたとえを偽預言者に当てはめています。つまり、私たちは預言者(あるいは牧師やクリスチャンの著者)の「実」(彼らの教えや行動)を見極める必要があるのです。

一方で、ルカの福音書では、イエス様はそのたとえを用いて、私たち自身の心を探るように挑戦しておられます。

この箇所では、たとえを語る前に、イエス様は裁き、人を責めること、そして人を許すことについて教えておられます。

そのことについて語られた後、イエス様はこう言われました。

悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。

いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。(ルカの福音書6:43-45)

イエス様は何を教えておられるのでしょうか。

それは、私たちがどのような木であるかを自問するよう促しておられるのです。私たちの心の中には何が満ちていますか。相手を裁くことでしょうか。それとも、相手を責めることでしょうか。もしくは、相手を許すことでしょうか。

私たちの心にあるものを見分ける方法は何でしょうか。それは、自分の口から出る言葉を見ることです。なぜなら、私たちの口は心に満ちているものを語るからです。

もし心の中で、私たちが相手を裁き、責めているなら、そのような言葉が私たちの口から出るでしょう。逆に、私たちの心に恵みと許しが満ちているなら、それに応じた言葉が私たちの口から出るでしょう。

イエス様の言葉に注目してください。悪い木は、相手を裁き、責める心を象徴しています。しかし、恵み深く、相手を許す心は良い木を表しています。

だから、私たちは自分自身にこう尋ねるべきです。「私たちの口からどんな言葉が出ているだろうか。」

私たちはいつも相手を批判し、責めていますか。それとも、私たちの言葉は恵みに満ちていますか。私たちの言葉は、私たち自身がどのような木であるかを映し出すのです。

あなたはどのような木でしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

神は人間となられた時

それでは、新約聖書を始めましょう。

福音書について書くとき、旧約聖書について書いた時と同じように、年代順に書きます。ですから、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の順番ではなく、それぞれの福音書に記載されている話を年代順に書いていきます。

したがって、最初にマタイの福音書から始めるわけではありません。むしろ、ヨハネの福音書から始めます。なぜなら、ヨハネ1章に記されている話は、イエス様がこの世に来られる前の話だからです。

ヨハネはこう記しました。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネの福音書1:1)

ヨハネが「言葉」と言う時、それはイエス様のことを指しています。つまり、時間と空間が創造される前から、イエス様はすでに存在しておられたのです。なぜなら、イエス様は永遠の存在であられるからです。

では、なぜヨハネはイエス様を「言葉」と呼んだのでしょうか。

ユダヤ人の考えでは、「言葉」とは「神の知恵」を意味します。

一方、ギリシャ人の考えでは、「言葉」は「神の思い」または「神の理」を意味します。

彼らに「どうしてこの世界がこれほど整然と造られているのでしょうか」と訊けば、その答えは「神様の理によるから」となるでしょう。

したがって、ヨハネがイエス様を「言葉」と呼ぶ時、それはイエス様が神の知恵であり、また神の理であるということを意味しています。

さらに、「言葉」という名前について考えてみましょう。

私たちは、どのようにして人を知ることができるのでしょうか。言葉を通して、その人を知ることができます。その人が全く話さず、何も書かなければ、ある程度まで知ることはできますが、限界があります。

けれども、その人が話し始めると、私たちはその人の考え方を知ることができます。そして、その人の知恵から学ぶこともできます。しかし、最も重要なのは、言葉を通じてその人の性格や心を知ることができるという点です。

同じように、イエス様は私たちに対する神様の「言葉」です。イエス様を通して、私たちは真に神様を知ることができます。どうしてでしょうか。

二つの理由があります。

一つ目は、始めからイエス様が「初めに神とともにおられた」ということです(1:2)。その意味は、イエス様と神には親しい関係があったということを示しています。

それだけではなく、イエス様ご自身が神であるということです。それが二つ目の理由です。14節によれば、イエス様は人となり、私たちの間に住まわれました。つまり、神が人間となられたのです。

キリスト教には難しい教えがあります。それは「三位一体」という概念です。それはどういう意味でしょうか。

父なる神がおられます。そして御子(イエス様)なる神がおられます。さらに聖霊なる神がおられます。

父は御子ではありません。御子は聖霊ではありません。聖霊は父ではありません。けれども、神が3つおられるわけではありません。神は唯一の存在です。

それは人間の理解を超えた偉大な真理です。人間の観点では、三人は三人です。しかし神様の場合、父と御子と聖霊は一つの神として存在されています。それが聖書の教えです。

実のところ、もし私たちが神様を完全に理解できたなら、それは少し奇妙なことだと思います。もし偉大なる神をすべて説明できたなら、おそらく私たちは自分の想像から神様を作り出したのではないかという疑いが出てくるでしょう。

けれども、私たちはこの三位一体の神を完全に理解することも、説明することもできません。ある程度までは理解できますが、そのすべてを把握することはできません。

しかし、イエス様のおかげで、私たちは神様についてさらに理解することができるのです。2000年前にイエス様が生まれた時、私たちは初めて、自分の目で神を見ることができました。

ヨハネはこう記しました。

私たちはこの方(つまり、イエス様)の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(14)

地上を歩かれ、また語られた時、イエス様は神様を表されました。なぜなら、イエス様は人となられた神だからです。イエス様を通して、私たちは神様がどのような方であるかを知ることができます。

だから、ヨハネはこう記しました。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(1:18)

ギリシャ語の文字通りに、イエス様は神様を説明し、また神様を解釈されました。イエス様は父である神の通訳のような存在です。

この記事を書いている現在、もうクリスマスが近づいています。まだ11月ですが、街にはいろいろなクリスマスの飾りが見られます。

けれども、クリスマスの本当の意味を心に留めておきましょう。私たちは神様が人となられたことを祝うのです。それがなぜ重要なのでしょうか。それは、その奇跡によって、神様がご自身を明らかにされたからです。

目に見えない神様を知りたいと思いますか。その飼葉おけをご覧ください。イエス様において、神様の知恵、力、栄光のすべてを見ることができるのです。

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箴言

話す前に

箴言では、ソロモンは何度も私たちの言葉について警告します。

私の友だちは、一時期、箴言を読むのを避けたと認めました。なぜなら、彼の言葉が悪かったことを知っていて、ソロモンの警告を読みたがらなかったからです。

(ところが結局、彼の努力は無駄でした。神様は別の箇所を通して、私の友達を訓戒されました。)

とにかく、この箇所では、私たちが話す前に考えるように警告します。また、私たちが話す前に、相手の意見を聞くように忠告しています。

ソロモンはこう言いました。

愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表わす。(箴言18:2)

この箇所によれば、相手から学ぶ興味がなくて、自分が話すのが好きな人もいます。けれども、彼らが相手の意見を聞いてこそ、知恵を獲得します。

ソロモンは続けてこう言います。

人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。(4)

また、

愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。(6-7)

さらに、

よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける。(13)

要するに、先に考えずに話せば、妻や夫、友達や上司を怒らせるかもしれません。だから、ソロモンはこう言いました。

反抗する兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。敵意は宮殿のかんぬきのようだ。(19)

どれほど、あなたが先を考えずに話したために、愛する人を傷つけたでしょうか。話すのは簡単なことです。しかし、その言葉が出たら、取り戻すのは不可能です。

だから、ソロモンはこう言います。

人はその口の結ぶ実によって腹を満たし、そのくちびるによる収穫に満たされる。

死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。(20-21)

言い換えると、結局、私たちは自分の言葉の実を食べます。その実は美味しいでしょうか。まずいでしょうか。

私たちがどこにいても、私たちの言葉は私たちの人間関係に影響を与えます。私たちの言葉によって、人々は私たちを愛します。もしくは、私たちを憎みます。

だから、妻や夫、子供や同僚、教会の人たちと話す時に、私たちの言葉に気を付けましょう。

イエス様の言葉は、人々に命を与えてくださいました。私たちの言葉もイエス様の言葉のようになるように。

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箴言

人間関係の築き方と壊し方

この箇所では、私たちは人間関係を築き、守るための原則を読みます。

一つの鍵は、私たちの言葉に気を付けることです。

ソロモンはこう書きました。

知恵のある者の心はその口をさとし、そのことばに理解を増し加える。

親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。(箴言16:23-24)

私たちが他の人と話す時、私たちの言葉に気を付けなくてはなりません。

私たちは何を言った方が良いか、また、いつ言った方が良いか知っているでしょうか。私たちの言葉は魂に甘く、人々を癒すものでしょうか。

そんな言葉は人間関係を築き、守ります。

その反面、

ねじれ者は争いを巻き起こし、陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。(16:28)

ある人は、人間関係を癒すのではなく、その関係を壊してしまいます。例えば、彼らはしばしば噂をするので、いろんな人を傷つけてしまいます。

また、彼らが傷つけられた時、相手と話しをせずに、周りの人々にその人について悪口を言います。

しかし、ソロモンはこう言いました。

そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。(17:9)

もちろん、私たちは罪を隠すべきという意味ではありません。もし、人々が本当に傷つけられた時、その罪を無視してはいけません。

とはいえ、毎日、人々は私たちに対して罪を犯します。時々、彼らはあえて罪を犯しますが、たまには、彼らは思わず私たちに対して罪を犯します。多くの場合、私たちはいらいらさせられますが、時々私たちは本当に傷つけられます。

けれども、どんな状態でも、噂をしたり、悪口を言ったりすれば、その状態は良くなりません。むしろ、その状態はもっと悪くなります。

だから、あなたが本当に傷つけられたら、相手に面と向かう方が良いです。それはイエス様の命令です。(マタイ18:15)

そして、その問題を解決するとき、その人を許してあげて、もうそのことについて話さないべきです。「もうするなと言ったでしょう?私は何回そう言わなければいけないの?」と言ってはいけません。

むしろ、過去を指さずに、相手にその問題について話すべきです。

けれども、時々、その問題が本当に小さかったら、何も言わずに、許した方が良いです。

ソロモンはこう言いました。

争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。(箴言17:14)

また、

そむきの罪を愛する者はけんかを愛する。自分の門を高くする者は破滅を求める。(箴言17:19)

時々、私の妻は、私の家事のやり方について文句を言います。そして、私は「細かいなぁ。どうして彼女はそんなに怒っているのだろうか」と思います。

しかし、その時、神様はこう応えられます。

「細かいかもしれないけど、簡単なことでしょう?だから、喧嘩せずに、しなさい。喧嘩すると、壁を築くだけです。そして、ずっと壁を築き続けると、あなたの結婚を壊してしまいます。」

私は自分のプライドを抑えなくてはならないけど、私の結婚にはその方がいいと思います。

実のところ、私の弱さや欠点が妻のよりも多いと思うので、妻の方が忍耐が必要だと思います。その忍耐を本当に感謝しています。

最後に、ソロモンはこう言います。

自分のことばを控える者は知識に富む者。心の冷静な人は英知のある者。(箴言17:27)

私たちが喧嘩するときには、言葉を控えて、気を付けなくてはなりません。私たちは冷静でいるべきです。なぜなら、怒りによって話すと、後でその言葉を後悔することが多いからです。

あなたはどうでしょうか。あなたの言葉は人間関係を築いていますか。それとも、その関係を壊していますか。

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箴言

知恵を持って、話す

箴言では、ソロモンは、しばしば私たちの言葉に関する知恵を伝えます。特に、箴言15章では、ソロモンは私たちの言葉について話します。

柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。(箴言15:1)

人々が私たちに怒るとき、時々彼らは私たちに酷いことを言います。そして、私たちが酷いことを言い返すのは本当に簡単なことです。けれども、そうすれば、その人はもっと怒り狂い、その問題は解決できなくなります。

しかし、多くの場合、あなたが「ごめんなさい」と言いさえすれば、彼らは落ち着きます。

「でも、私は悪くなかった。どうして謝らなければならないのか。」と言う人もいます。

けれども、時々、私たちは思わず私たちの言葉や行動によって彼らを傷つけてしまいます。あなたは相手が敏感すぎると思うかもしれません。それに、彼らは実際に敏感すぎるかもしれません。

そんな場合、私はこう言います。「ごめんなさい。あなたを傷つけるつもりはなかったけど、申し訳ありません。許してくれませんか。」

そして、その以降、私の行動と言葉に気を付けます。私が悪くなかったと思うかもしれませんが、相手の気持ちを認めて、その人に対する愛のため、またキリストに対する愛のため、彼らを傷つける言葉や行動を避けます。

ある日、私はメールを友達に送って、ちょっとその人をからかいました。彼女は爆発して、酷い返事を送りました。

そんな反応は私を驚かせました。 私は悪意を持って彼女をからかったつもりはありませんでした。 以前から何度も同じようなことを言ったことがありましたが、彼女は怒らずに笑っていたのです。

だから、彼女の返事を読んだとき、私は信じられませんでした。

けれども、私にとって大切なのは、私が悪かったかどうかではありませんでした。 私たちの友情こそが何よりも大切だったのです。 だから、私はすぐに謝り、彼女は落ち着きました。

今でも、私たちは良い関係を保っています。 しかし、あれ以来、彼女と話すときには、どんな冗談を言うかに気を付けています。

実は、あれ以来、誰と話すときも、自分の冗談に気を付けるようにしています。

ソロモンは4節で続きます。

穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。(4)

私たちの口から、どんな言葉が出るでしょうか。私たちの言葉は相手の傷を癒すでしょうか。それとも、その言葉は相手の魂を砕くでしょうか。

実は、私がその友達に謝った理由の一つは、以前、彼女が自分のお父さんについて話してくれたことです。

つまり、彼はいつも彼女とそのお母さんに酷いことを言っていました。そして、彼女たちが傷ついたときに、彼はいつも「お前たちが繊細すぎる」と言いました。

そのとき、彼は彼女たちの魂を砕いていました。ですから、私は彼の態度を真似したくなかったのです。

ソロモンは続いて、もっとポジティブなことを言います。

良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。(23)

私たちはそのような人になるべきです。人を傷つけることを喜ばず、時宜にかなった言葉で人を励ますことを喜ぶべきです。

ソロモンはもう一つのことを言います。

正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。(28)

あなたはどうですか。話す前に、あなたの言葉を思い巡らすでしょうか。その言葉が癒す言葉かどうか、またその言葉が命を与える言葉かどうか、確認するでしょうか。

それとも、あなたの口から悪を吐き出すでしょうか。

あなたの口から何が出るでしょうか。

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箴言

人を傷つける言葉、人を癒す言葉

箴言12章では、18節と25節が私の心を打ったので、その箇所に焦点を当てようと思いました。

ソロモンはこう言いました。

軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。(箴言12:18)

どれくらいあなたの軽率な言葉によって、愛する人を傷つけたことがあるでしょうか。また、どれくらい相手の軽率な言葉によって、傷つけられたことがあるでしょうか。

特に、喧嘩するときに、私たちはお互いを傷つけ合ってしまいます。だから、喧嘩するときには、何を言うか気を付けなければなりません。

基本的に私たちは相手を侮辱してはいけません。

「あなたは馬鹿だね。何でそんなことをしたの?」

「あなたは敏感すぎ。」

「あなたはあまりにも感情的だよ。」

時々私たちは相手について大げさに言います。

「あなたは決して手伝ってくれない。」

「いつも遅く帰って来るなぁ。」

そんな言葉を言うと、その問題が解決できません。むしろ相手は怒って、残酷な言葉で言い返してしまいます。そして、ソロモンが言ったように、そんな言葉は剣のように心を刺します。

冗談を言う時や皮肉を使う時にも、気を付けなければなりません。時々、誰かをからかって、思わずその人を傷つけてしまうことがあります。私にもそんな経験があって、後悔しています。

私たちの言葉によって人を癒すはずですが、どれくらい私たちは彼らを傷つけてしまうのでしょうか。

25節では、ソロモンはこう言います。

心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす。(25)

以前言ったように、私たちは人々をからかって、思わずに彼らを傷つけてしまうことがあります。相手を傷つけなくても、あなたは彼らを励ましてあげていないかもしれません。

彼らを愛によって励ました方が良いのではないでしょうか。彼らが悩んでいるときに、彼らを励ますとしたら、どうでしょうか。

また、「あなたのために祈りましょうか」と言えば、どうでしょうか。

神様は私たちがそんな人になることを望んでおられます。イエス様はそのような方でした。

あなたはどんな人でしょうか。

あなたの言葉は人々を傷つけるでしょうか。彼らを癒すでしょうか。