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使徒の働きのデボーション

健全な良心にしたがう(2)

そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:16)

23~24章では、パウロが健全な良心に従うことについて二度語っています。(23:1)

なぜ、パウロにとってそれがそんなに重要だったのでしょうか。

おそらく、三つの理由がありました。

第一の理由は、復活の希望があり、いつか必ずさばきの御座の前に立たなければならないと確信していたからです。(15節)

パウロは、コリントの信徒たちにこう記しました。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(コリント人への手紙第二5:9ー10)

しかし、パウロは主への恐れだけでなく、主の愛を深く知っていました。だからこそ、彼はこれも記したのです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:14ー15)

そして、最後の理由は、健全な良心に従うことで、汚点のない証しを守ることができると知っていたからです。

パウロがフェリクスに神のさばきについて語ったとき、フェリクスは恐れました。(使徒の働き24:24ー25)

もしかすると、フェリクスが賄賂を求めた理由のひとつは、パウロの証しの力を弱めるためだったのかもしれません。つまり、もしパウロが賄賂を渡そうとしたのなら、彼は神のさばきを本当に信じていなかったということになったでしょう。

しかし、パウロは健全な良心を保ち続けたため、その証しは揺らぐことなく立ち続けました。

健全な良心を保つことは、私たちにとってどれほど重要でしょうか。

天のお父さん、私がいつも健全な良心を保てるように導いてください。あなたへの恐れのためです。あなたの愛のゆえです。そして、人々があなたへと引き寄せられるための、汚点のない証しを守るためです。

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ヨハネの手紙第一

神様の証し

神様が三位一体として救いの道を証しされるということは、非常に興味深いことだと思います。この記事を書く前には、そのことについて考えたことがありませんでした。

ヨハネはこう言いました。

この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。

御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。三つのものが証しをします。御霊と水と血です。この三つは一致しています。(ヨハネの手紙第一5:6-8)

この手紙の背景を知らないと、その言葉を理解するのは少し難しいかもしれません。

ヨハネの時代、多くの人々は「イエス様はいつもキリスト(救い主)でいたわけではない」と主張していました。むしろ、彼らは非常に奇妙な教えを信じていたのです。

それは、イエス様がバプテスマを受けたときに「キリスト」という霊がイエス様の中に入ったものの、十字架にかかったときには、その霊がイエス様から立ち去った、というものです。

そのため、彼らの主張によれば、イエス様は十字架で死んだときにはキリストではなくなっており、私たちの罪の代価を支払うことができなかった、というわけです。

しかし、イエス様はバプテスマのときだけでなく、十字架で死なれたときにも、御自分がキリストであることを証明されました。

バプテスマのとき(つまり、水の証し)、天の父がイエス様を称賛され、聖霊様が鳩のようにイエス様の上に降られました(つまり、御霊の証し)。

そして、聖書の預言通りに、イエス様は十字架で私たちの罪の代価を支払ってくださいました(つまり、血の証し)。

このように、天の父と御子と御霊、すべてが一致して救いの道を証ししています。その証しとは、救いがメシアを通してもたらされる、ということです。(「キリスト」とは「メシア」、すなわち「王と救い主」を意味します。)

では、なぜこの証しが重要なのでしょうか。それは、神様が証しされるなら、それに反論できる者は誰もいないからです。9-10節でヨハネはそのように主張しています。

私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。

神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。(9-10)

私たちはしばしば人々の証しを信じます。それなら、どうして神様の証しを疑うのでしょうか。

神様がその証しをされた以上、神様に従っていると主張しながら、その証しを拒絶することはできません。

では、具体的にその証しとは何でしょうか。11-12節でヨハネは私たちに教えています。

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(11-12)

けれども、多くの人々はその証しを好みません。彼らは、イエス様以外にも多くの救いの道があると信じたいのです。

しかし、ヨハネによれば、私たちがそのように主張するなら、それは実際に神様を嘘つきと呼ぶことになります。

神様の証しを信じることで初めて、私たちは自分の救いについて平安と確信を持つことができます。

どうしてでしょうか。それは、私たちの救いが自分の行いに基づいていないからです。むしろ、その救いは神様の恵みとイエス様の十字架の働きに基づいています。私たちがしなければならないのは、その賜物をただ受け取ることだけです。

だからこそ、ヨハネはこう言います。

神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。(13)

ヨハネは、「あなたがたに永遠のいのちの微かな希望を与えるため」とは言わずに、「永遠のいのちの確信を与えるため」と語っています。

あなたはどうでしょうか。神様の証しを受け入れていますか。永遠のいのちの確信を持っていますか。