そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。(使徒の働き24:16)
23~24章では、パウロが健全な良心に従うことについて二度語っています。(23:1)
なぜ、パウロにとってそれがそんなに重要だったのでしょうか。
おそらく、三つの理由がありました。
第一の理由は、復活の希望があり、いつか必ずさばきの御座の前に立たなければならないと確信していたからです。(15節)
パウロは、コリントの信徒たちにこう記しました。
そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。
私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(コリント人への手紙第二5:9ー10)
しかし、パウロは主への恐れだけでなく、主の愛を深く知っていました。だからこそ、彼はこれも記したのです。
というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(コリント人への手紙第二5:14ー15)
そして、最後の理由は、健全な良心に従うことで、汚点のない証しを守ることができると知っていたからです。
パウロがフェリクスに神のさばきについて語ったとき、フェリクスは恐れました。(使徒の働き24:24ー25)
もしかすると、フェリクスが賄賂を求めた理由のひとつは、パウロの証しの力を弱めるためだったのかもしれません。つまり、もしパウロが賄賂を渡そうとしたのなら、彼は神のさばきを本当に信じていなかったということになったでしょう。
しかし、パウロは健全な良心を保ち続けたため、その証しは揺らぐことなく立ち続けました。
健全な良心を保つことは、私たちにとってどれほど重要でしょうか。
天のお父さん、私がいつも健全な良心を保てるように導いてください。あなたへの恐れのためです。あなたの愛のゆえです。そして、人々があなたへと引き寄せられるための、汚点のない証しを守るためです。
