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コリント人への手紙第一

励ましと警告

この箇所では、私たちは誘惑についての励ましと警告を読むことができます。

まず、パウロはこう記しました。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(コリント人への手紙第一10:12)

おそらく、パウロは特に「私の信仰は強い」と考えていたクリスチャンについて語っていました。

以前も述べたように、コリントには「信仰の弱い」人々がいました。つまり、彼らの良心は傷つきやすく、偶像に捧げられた肉を食べることに罪悪感を抱いていました。

現代では同じ状況は少ないかもしれませんが、ワインやビールを飲むことに罪悪感を抱くクリスチャンもいるでしょう。

そのため、「強いクリスチャン」にとって、「弱いクリスチャン」を見下し、「私は強い信仰を持っているので、そんなくだらないルールは必要ない」と自慢するのは簡単なことでした。

けれども、パウロは彼らに警告しました。 「気をつけなさい。自分が強いと思うかもしれないが、そのプライドによって罪に陥り、実際には弱いクリスチャンであることが証明されてしまうかもしれません。」

例えば、ビール一杯がすぐに二杯、三杯、四杯、五杯へと増え、気づけば酔っぱらってしまうかもしれません。そして、その習慣を続けると、アルコール依存の問題が生じる可能性もあります。

どちらの場合も、罪に陥ることになります。

しかし、その罪に直接陥らなくても、プライドの罪に囚われるかもしれません。自分の自由を誇示し、他者を見下すことで、彼らの目の前で自由を行使し、その結果として彼らを罪へと誘ってしまうこともあります。

また、ほかの罪に陥る可能性もあります。例えば、職場で神様に信頼せず、会社の業績を優先したり、自分の立場を守るために神様の教えを曲げてしまうかもしれません。

あるいは、周囲の人々に対して怒りを爆発させてしまうかもしれません。

または、傷ついたときに恨みを抱き、相手を許すことを拒むことがあるかもしれません。

私たちはさまざまな方法で罪に陥る可能性があります。けれども、プライドを持つと、パリサイ人のように、自分の罪が見えなくなってしまうでしょう。

だから、パウロは警告しています。 「注意しなさい。あなたが思うほど、あなたは強くありません。あなたも簡単に罪に陥る可能性があります。」

しかし、その後、パウロはコリントの人々を励ましました。

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。

あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(コリント人への手紙第一10:13)

原文では、「試練」には二つのニュアンスがあります。一つ目はもちろん「試練」です。けれども、この言葉には「誘惑」という意味も含まれています。

だからこそ、パウロの要点はこうです。どんな試練や誘惑に直面しても、神様はあなたの限界を知っておられます。だから、神様はあなたが耐えられない誘惑や試練を許されません。むしろ、神様はいつも脱出の道を備えてくださいます。

もう一つ覚えておくべきことがあります。それは、私たちが経験する試練や誘惑は、決して特別なものではないということです。

あるクリスチャンはこう考えることがあります。 「私だけがこの罪と戦っている。どうして私はこんなに悪い者なのだろうか。」

しかし、それこそサタンがあなたに思わせたいことなのです。

けれども、パウロははっきりと言います。 「あなたがどんな誘惑に直面しても、ほかのクリスチャンも同じ誘惑に直面したことがあります。」

自分の罪をほかのクリスチャンに告白することの益の一つは、同じ罪と戦っている仲間がいることを知ることです。

一人で戦うなら、弱さを感じるかもしれません。しかし、主の力によって共に戦うと、強くなることができます。

あなたはどうでしょうか。自分が強いと思いますか。気をつけないと、罪に陥る可能性があります。

それとも、自分が弱いと感じていますか。どうか勇気を持ちましょう。あなたは決して独りぼっちではありません。

ほかのクリスチャンもあなたと同じ戦いを経験し、その苦しみを理解しています。そして、神様もあなたとともにいて、助けてくださいます。

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箴言

地獄に行く人に警告しないと

この箇所では、ソロモンは本当に鋭い言葉を言います。

捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。

もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。

あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。

この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(箴言24:11-12)

毎日、人々は地獄に行っています。永遠の死に行っています。彼らは虐殺されます。だから、あなたは何をしていますか。

地獄というのは嫌な話題なので、多くの人々は、そのことについて話したがりません。けれども、地獄について話さなくても、その問題は無くなりません。そして、私たちが人々に警告しないと、神様はその責任を私たちに負わせられます。

もちろん、私たちは無理矢理、誰かの道を彼の意志に背いて変えさせることはできません。それは私たちの責任ではありません。私たちは人間の心を変えられないからです。

とはいえ、神様は私たちに、彼らに警告するように命じられました。

神様は「私は彼らが地獄に行くことを知らなかった」と言う言い訳を受け入れられません。

多くの人は愛する人たちに関して、自分自身にこう言います。「彼らがイエス様を信じなくても、きっと天国に行くだろう。なぜなら、彼らは良い人だから。」

なぜ彼らはそう言うのでしょうか。多分、彼らは自分の家族や友達に真実を言いたがらないからです。彼らは拒絶されることを怖がるからです。また、彼らは愛する人が真実を聞くと怒られることを怖がります。

しかし、心の中で、そのクリスチャンは真実を知っています。そして、神様も、そのクリスチャンの心をよく知っておられます。私たちは神様から何も隠すことができません。

だから、神様が預言者エゼキエルに言われたように、私たちにも言われます。

「人の子よ。わたしはあなたをあなたの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしがあなたのお父さんや、お母さんや、兄弟たちや、友達に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、彼らに悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、彼らは自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが彼らに警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17-19)

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エゼキエル書

真理を白く塗る?

「私は本当におばあさんに福音を伝えなくてはならないでしょうか。彼女はクリスチャンではありませんが、本当にいい人です。神様はきっと彼女を受け入れるのではないでしょうか?」

どれほど多くのクリスチャンがそのようなことを言うでしょうか。あるいは、彼らは言葉にしなくてもそのように考えているかもしれません。

その結果、愛する人に福音を伝えることを決してしないのです。

「皆は結局救われる」と語る牧師もいます。彼らはこう言います。

「皆はいつか天国に行きます。だから、地獄について教える必要はありません。神様の愛だけを伝えた方が良いのです。」

しかし、もし私たちがそのようなことを言うなら、真理を白く塗りつぶすことになります。神様は、真理が塗りつぶされることを非常に嫌われます。

この箇所では、その罪のために神様は偽の預言者たちを責められました。そして、神様はこう言われました。

あなたがたは、主の日に、戦いに耐えるために、破れ口を修理もせず、イスラエルの家の石垣も築かなかった。(エゼキエル書13:5)

また、

実に、彼らは、平安がないのに『平安』と言って、わたしの民を惑わし、壁を建てると、すぐ、それをしっくいで上塗りしてしまう。

しっくいで上塗りする者どもに言え。『それは、すぐはげ落ちる。』大雨が降り注ぎ、わたしが雹を降らせ、激しい風を吹きつける。すると、壁が倒れ落ちる。

人々はあなたがたに向かって、『上塗りしたしっくいはどこにあるのか』と言わないだろうか。(10-12)

これらの預言者たちは何をしていたのでしょうか。彼らはイスラエル人にこう言いました。

「あなたの神様との関係は大丈夫です。裁きについて心配する必要はありません。」

イスラエル人は、自分たちの罪によって倒れそうな壁のような状態でした。それにもかかわらず、その偽の預言者たちは悔い改めのメッセージを伝えませんでした。

もし彼らがイスラエル人を警告していれば、その「壁」を強めることができたかもしれません。

しかし、むしろ彼らはイスラエル人の罪を平和の言葉で白く塗ったのです。

(「白く塗る」というのは英語からの翻訳です。日本語の翻訳では、彼らはイスラエルの罪の罅をしっくいで上塗りしました。その「しっくい」は偽の預言者たちの慰めの言葉でした。)

その結果はどうなったでしょうか?それは、裁き、追放、そして死でした。

もし私たちが愛する人々の罪を白く塗るなら、彼らも同じ裁きを受けることになります。

もし彼らが神様との平和を持っていないのに、私たちが「平和だ」と伝えたなら、最終的に彼らは裁かれるのです。

ですから、真理を白く塗ってはいけません。神様から離れている人々に、真理をはっきりと伝えましょう。悔い改めのメッセージを語りましょう。

そうすれば、彼らは神様に向かうかもしれません。そして、彼らは本当の命を見いだすことができるでしょう。

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エゼキエル書

相手が聞こうが聞くまいが

ああ、良かったですね!これは年代順に書かれている本なのですね。😊

エレミヤ書は本当に大変です。いつもあっちこっちに飛ばなくてはならないですから。

さて、エホヤキン王(最後から二番目のユダの王)が捕囚として連れ去られてから5年目に、エゼキエルは預言し始めました。

エゼキエルは、エホヤキンと他のユダ人たちと共にバビロンに追放されました。エゼキエルは祭司の息子で、30歳になり祭司として仕えるはずでしたが、神様は彼を預言者として召されました。

エゼキエルは最初に「ケルビム」という天使を見たようです。

ケルビムは4つの顔を持っていました。それらは人間の顔、獅子の顔、牛の顔、そして鷲の顔です。多くの聖書学者たちは、それらの顔がイエス様を象徴すると考えています。

  • マタイの福音書では、イエス様はユダの獅子として表されました。つまり、イエス様は王です。
  • マルコの福音書では、イエス様は牛として表されました。つまり、イエス様はしもべです。
  • ルカの福音書では、イエス様は人間として表されました。つまり、イエス様は人の子です。
  • ヨハネの福音書では、イエス様は鷲として表されました。つまり、イエス様は神の子です。

ケルビムは神様の全知を象徴しています。(4つの顔が別々の方向を向いていたため、何でも見ることができたのです。)

またケルビムは神様の偏在をも象徴していました。(1つの輪が他の輪の中にあり、どこにでも行くことができました。)

そして、神様が現れ、エゼキエルに語られました。

まず、神様はこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。

彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。

あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。

人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。

たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。

彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。

彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。(エゼキエル書2:3ー7)

神様はエゼキエルに二つのことを言われました。

1つ目は、神様がエゼキエルをイスラエル人に遣わされるということです。

2つ目は、イスラエル人がエゼキエルのメッセージを聞こうが聞くまいが、エゼキエルはそのメッセージを伝えなければならないということです。

神様は私たちにも同じことを言われます。

神様は私たちを周りの人々に遣わしておられます。私たちが神様のメッセージを伝える時、聞く人もいれば、聞かない人もいます。

けれども、彼らが聞こうが聞くまいが、私たちはそのメッセージを伝えなければなりません。

そして、神様はエゼキエルにこう言われました。

あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。(エゼキエル書2:8)

神様はエゼキエルに巻物を与えられました。しかし、その巻物に幸いな言葉は書かれていませんでした。むしろ、「哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」(2:10)のです。

つまり、それらの言葉は裁きの言葉でした。なぜなら、イスラエル人たちが罪を犯していたからです。

エゼキエルがその巻物を食べると、その言葉は蜜のように甘かったのです。

私たちも神様の言葉を受け入れるべきです。そして、その言葉を味わうべきです。けれども、その言葉を自分のためだけに保つのではなく、周りの人々にシェアしなければなりません。

もちろん良い言葉もシェアすべきですが、警告の言葉もシェアすべきです。なぜでしょうか。

神様はエゼキエルにこう言われました。

人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

わたしが悪者に、「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。

もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。

それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。

しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:17ー21)

神様は何を言われているのでしょうか。

私たちは神様の見張り人です。だから、人々に「罪を悔い改めなさい」と伝える責任があります。

彼らが聞いて悔い改めれば、救われます。もし聞かなければ、滅びます。いずれにせよ、その場合、神様は彼らの血の責任を私たちに問われません。

しかし、もし私たちが彼らに警告しないなら、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。

私たちは周りの人々が神様のメッセージにどのように反応するかをコントロールすることはできません。

とはいえ、彼らが聞こうが聞くまいが、神様は私たちにそのメッセージを伝えるように命じておられます。

私たちは友達、同僚、そして家族にこのメッセージを伝えるべきです。そのメッセージを聞いて救われる人もいれば、そのメッセージを聞かずに滅びる人もいます。

しかし、自分自身にこの質問をしてみてください。「私は神様が命じられたことを行っているでしょうか。私は周りの人々に神様の裁きと救いについて伝えているでしょうか。」

あなたはどうですか。

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エレミヤ書

悔い改めなさい

私がハワイにいた時、エホバの証人やモルモン教の人たちが私の家によく訪ねてきました。私が日本に引っ越して、神戸に住んでいた時でも、エホバの証人たちが時々訪ねてきました。

けれども、現在住んでいるマンションにはルールがあるため、ほとんどのセールスや宗教の人々は戸別訪問ができません。

ある意味、それは残念なことです。時々興味深い会話があったからです。

いずれにせよ、このエホバの証人やモルモン教の人々は「私たちはクリスチャンです」と言います。しかし、彼らにはいくつかの問題があります。

例えば、彼らはクリスチャンの言葉を用いますが、その意味は全く異なります。

エホバの証人にとって、イエス様は御使いのかしらであるミカエルです。

モルモン教にとって、イエス様はサタンの兄弟とされています。

もう一つの問題は、彼らの預言者たちが偽の預言を語ったことです。(申命記28:21ー22では、神様は偽物の預言者について警告しておられます。どうぞお読みください。)

エホバの証人やモルモン教の人々の言い訳はこうです。

「聖書に記された本当の預言者たちでもミスをしました。ヨナの話を覚えているでしょうか。ヨナがニネベは滅びると預言しましたが、結局ニネベは滅びませんでした。」

しかし、ヨナの言葉は預言ではなく、警告でした。神様はニネベの人々が悔い改めることを望んでおられたので、ヨナをニネベに遣わされました。

この箇所では、その真実を見ることができます。神様はエレミヤにこのように言われました。

わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。

わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。(エレミヤ書18:7ー10)

この箇所を読むと、ヨナ書をより深く理解できると思います。ニネベの人々は悔い改めたので、神様は彼らに憐れみを注いでくださいました。

一方で、神様はイスラエルの人々に多くの祝福を約束されました。それは、彼らが神様の命令に従うならば、彼らが神様の民となり、神様が彼らの神となられるということです。

ところが、彼らは神様に背を向けたので、神様はその祝福を取り消され、彼らに災いを下されました。

この箇所の終わりでは、彼らの心が硬く、全く神様のメッセージを聞きたくなかったため、彼らはエレミヤを無視し、責めました。その結果は追放です。

私の言葉を誤解しないでください。神様はイスラエルの人々のためにまだ計画を持っておられます。神様は常にご自身の約束を守られます。

とはいえ、イスラエルの人々が悔い改めなければ、神様の祝福を得ることができません。(ローマ11章をお読みください。)

とにかく、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。私たちの罪を悔い改めるべきです。私たちの自己中心的な態度を捨てるべきです。そして、神様に向かうべきです。

そうすれば、本当の命を見つけることができるでしょう。

あなたはどのような罪を悔い改めるべきでしょうか。また、神様はあなたに何を望んでおられるのでしょうか。

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イザヤ書

もっと大変なこと

この箇所によって、私たちはイスラエルのタイムラインのどこにいるかを見ることができます。つまり、イザヤがこの箇所を書いた時に、ユダの王アハズは亡くなったところでした。

とはいえ、29節では、イザヤはアハズの死ではなく、アッシリヤの王の死については書いていませんでした。

多分、ペリシテ人はアッシリヤの王の死について喜んでいました。なぜなら、その王はペリシテ人を苦しめた存在だったからです。

しかし、イザヤはペリシテ人に警告しました。

「この王は死にましたが、あなたの苦しみは終わっていません。むしろ、あなたの苦しみはもっと酷くなります。

そのアッシリヤの王の息子はあなたたちを治め続けますし、飢饉もあなたたちの土地を打ちます。

だから、あなたたちはこの世界から消えて、全く将来の希望はありません。けれども、あなたたちが苦しめたイスラエル人は再びシオンに戻り、安全を知るようになります。」(イザヤ書14:30-32)

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

私たちが悔い改めるために、時々神様は私たちを懲らしめられます。

どうして神様は、アッシリヤを通してペリシテ人とイスラエル人を苦しませられたでしょうか。なぜなら、神様はその苦しみを通して彼らが罪を捨てて、神様に向かうことを望まれたからです。

しかし、アッシリヤ人は悔い改めなかったので、滅びました。

実は、イスラエル人も滅びるはずでした。けれども、神様の恵みによって滅びていませんでした。

以前、神様がアブラハムに約束されました。

わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。。。

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。(創世記22:17-18)

つまり、神様はアブラハムの子孫をずっと祝福し、アブラハムの家系を通して、救い主イエス様が来られると約束されました。

イザヤがペリシテ人に対して、もっと大変な裁きについて警告したように、イエス様はある人にもっと大変な裁きについて警告されました。

その人は38年間歩けなかったのですが、イエス様は彼を癒されました。後にイエス様はその人に会って、こう言われました。

見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。(ヨハネ5:14)

つまり、「あなたのけがが悪かったと思ったでしょうか。今癒されて喜んでいるでしょうか。

あなたにはもっと悪い問題があります。それは、あなたの罪です。もし悔い改めなければ、もっと悪いことが起こります。あなたのけがは一時的なものでした。しかし、地獄は永遠に続きます。」

あなたは神様の警告を聞いて、どうするでしょうか。無視するでしょうか。それとも、悔い改めるでしょうか。

神様の警告に注意しましょう。そうすれば、永遠の罰を受けずに、永遠の命を知るようになります。