カテゴリー
コリント人への手紙第二のデボーション

福音の務めを汚さないように

私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、  むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。(コリント人への手紙第二6:3ー4)

今朝、その言葉は私の心を打ちました。

福音は多くの人につまずきを与えるものです。人々に彼らの罪や神様の聖さについて語るとき、また、イエス様だけが救いの道であると主張するとき、私たちは相手を怒らせる可能性があります。

しかし、彼らが怒ったとしても、私たちを見ると、私たちの中に疑う余地のない誠実さを見るはずです。また、私たちの中に御霊の実、愛や親切や忍耐などを見るはずです。

では、なぜパウロの言葉が私の心を打ったのでしょうか。

時に、私は自分の行為や言葉によって、人々に福音をそしる機会を与えてしまっているのではないかと疑問に思います。

正直に言うと、私はそうしたことがあります。そのとき、私は悔い改めなくてはなりませんでした。

けれども、私だけではなく、私たち皆が、キリストの使節として召されています。

神様の恵みと力によって、その召しにふさわしく歩み、私たちの務めを果たしましょう。私たちが自分の言葉や行為によって、人々に福音をそしる機会を与えないように。

カテゴリー
ガラテヤ人への手紙

十字架の躓きを取り除こうとしている?

この前、私は言いましたが、多くの人々はクリスチャンのことを偏狭だと思っています。なぜなら、私たちはキリストの十字架の御業だけによって人が救われると信じているからです。パウロは、その真理を「十字架の躓き」と呼びました。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、その十字架の躓きを捨てようとしていました。けれども、彼らの動機は、現代の人々の動機とは異なっていました。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ノンクリスチャンのユダヤ人たちの意見を気にしていました。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、十字架のメッセージに反発しました。なぜなら、福音は信仰によってイエス様に来るすべての人々を歓迎するからです。クリスチャンたちは、割礼を受ける必要もなく、律法の細かい規定に従う必要もありませんでした。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、二つの理由で反発しました。

一つ目は、彼らがモーセの律法を真剣に考えていたことです。その律法によって、彼らは神様の民と認められていました。

ところが、パウロによれば、神様の民になる方法は律法に従うことではなく、イエス様に対する信仰です。

だから、パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3:28)

簡単に言うと、ユダヤ人たちが誇る神様の律法によって、人は神様の民にはなりません。むしろ、イエス様を通して神様に来る人は皆、神様の民と認められます。

けれども、ユダヤ人たちは自分のプライドを捨てたくなかったため、その真理を受け入れることができませんでした。

それが、彼らがイエス様の十字架に反発する二つ目の理由でした。彼らは、神様に選ばれた民であることを誇っていました。神様が彼らだけに律法を与えたので、彼らは自分たちがほかの国民よりも正しいと思っていました。

もちろん、その律法を完全に守ることはできませんでしたが、それでも彼らは誇りを持っていました。

このように、プライドは人とキリストを隔てる大きな壁です。彼らは自分の宗教を誇り、自分の義を誇ります。

そのため、クリスチャンたちが「あなたの宗教は足りません。あなたの義は足りません」と言うと、ノンクリスチャンは怒ります。

けれども、自分の宗教や義にしがみついている限り、彼らは神様に近づくことができません。むしろ、神様から離れてしまっています。

パウロは、「割礼が必要だ」と教えた人について、こう言いました。

しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、裁きを受けます。。。

あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除(つまり、去勢)してしまえばよいのです。(ガラテヤ人への手紙5:10,12)

以前、パウロは偽りの福音を宣べ伝える者は神様に呪われると語りました。(ガラテヤ人への手紙 1:8-9)

この箇所では、パウロは皮肉を用いて、同じことを繰り返しています。「もし、割礼を受けたいと思うなら、いっそ去勢された方がいいでしょう。」

ユダヤ人たちはパウロの言葉を聞いて驚いたことでしょう。なぜなら、モーセの律法によれば、去勢された者は主の集会に加わることが許されていなかったからです。(申命記 23:1)

しかし、それこそがパウロの意図でした。「あなたが割礼を受けるなら、主の集会に加わる資格を失います。あなたは真の神様の民ではありません。」

このように、イエス様の十字架を拒み、自分の宗教と義によって救いを得ようとする者は、神様とその民から離れています。

もしあなたが、クリスチャンのユダヤ人たちのように、他の人を喜ばせるために福音を薄めるなら、あなたも神様とその民から離れるかもしれません。

十字架は、多くの人々にとって躓きです。それでも、私たちは彼らを喜ばせようとしてはなりません。たとえ相手が怒ったとしても、私たちは福音を正しく伝えなければなりません。

だからこそ、自分自身に問いかけるべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのか。神様か、それとも周りの人々か。」

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。

もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:10)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章

神様がどのように子供を見ておられるのか

イエス様が神の国について教えられた時、神様がどのように子供たちを見ておられるかを明確に示されました。

まず最初に、イエス様は私たちに「子供に罪を起こさせるようにするな」と警告されました。

そして、イエス様は続けてこう言われました。

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。(マタイ18:6-7)

また、イエス様は「子供につまずきを与えるくらいなら、自分の手や足を切った方が良い」と言われました。

どうしてイエス様はそのような極端なことを言われたのでしょうか。それは、子供たちが非常に影響を受けやすいからです。彼らは私たちの行動を見て、すぐに学びます。

もし私たちが怒りっぽいなら、彼らも怒りっぽくなります。

もし私たちが夫や妻に感謝しないなら、彼らが成長して結婚した時、自分の伴侶に対して感謝をしないでしょう。

もし私たちが彼らを虐待するなら、彼らも自分の子供を虐待する可能性があります。

ですから、子供がいる時は、自分の言動に注意してください。神様はそれに基づいてあなたを裁かれるからです。

イエス様はさらに私たちに警告されます。

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。

まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(マタイ18:10)

神様は子供たちを愛しておられるので、その子供たちを守るために天使を遣わされます。ですから、私たちも子供たちを大切にしなければなりません。彼らを取るに足りない存在と見なしてはいけません。神様はその宝物を私たちに託されたのです。

さらに、イエス様は子供たちを迷子になった羊に例えられます。神様はその子供たちを救いたいと望んでおられます。ですから、イエス様はこう言われました。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(マタイ18:14)

子供に関して、私はもう二つのことをお伝えしたいと思います。

まず第一に、人には責任を取らなければならない年齢があると思います。つまり、子供が自分の罪の責任を取らなければならない時が来るということです。

その年齢が具体的にいつなのかは分かりませんが、きっと子供によって異なるでしょう。彼らが自分の罪を認識し、さらに罪の悪さを理解するのであれば、責任を取る必要があると思います。

第二に、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」と書かれています。

それでも、私は子供たちが滅びる可能性があると考えます。このことについては、ペテロが似たようなことを言っています。

[神様は]あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)

けれども、ペテロははっきりと言っています。人は悔い改めなければ救われません。ですから、子供がどうしても悔い改めないのであれば、救われることはありません。

だからこそ、神様が子供たちを大切にされるように、私たちも子供たちを大切にしましょう。また、彼らが救われるように、福音を彼らに伝えましょう。