カテゴリー
サムエル記第一のデボーション

やめよ。知れ。わたしこそ神。

サムエル記第一19章を読んだとき、私は詩篇第46篇との関係に気付きました。

サウルから逃げたとき、ダビデは詩篇46篇の詩人の言葉の真実さを、身をもって学びました。

神はわれらの避け所また力。
苦しむときそこにある強き助け。(詩篇46:1)

その一方で、神様はサウルに何を思い知らせようとされたのでしょうか。もしかすると、神様はこう語ろうとされたのかもしれません。

[わたしと戦うことを]やめよ。知れ。
わたしこそ神。

わたしは国々の間であがめられ
地の上であがめられる。(詩篇46:10)

その日、神様はサウルを低くされました。それでも、サウルは神様と戦い続けていました。

もしサウルがその戦いをやめていたなら、神様の平和を知っていたでしょう。神様がまことに私たちの避け所また力であることを、彼も知るようになっていたでしょう。

けれでも、彼は、神様と戦い続け、恐れに囚われたまま生きていました。そのため、彼は酷い罪を犯し、最終的に滅びてしまったのです。

サウルの話を読んだとき、私はヤコブの話を思い出しました。ヤコブも、神様と戦ったことがありました。(創世記32:24~31)

しかし、サウルとは異なり、ヤコブはその戦いをやめ、神様に従おうとしました。その結果、彼は平安を見出しました。

あなたはどうですか。あなたはまだ神様と戦い、自分の道を歩んでいるでしょうか。

それとも、神様を見上げて、こう言いますか。「あなたは私の神です。私の良い王です。あなたを信頼します。」

そうすれば、あなたはダビデと詩人とともに学びます。

万軍の【主】はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:11)

カテゴリー
使徒の働きのデボーション

「Stand by Me」

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。。。」と言われた。(使徒の働き23:11)

二ヶ月前、私の中学校で「Stand by Me」という名曲を題材にした英語のレッスンがありました。

たぶん、その影響で、11節を読んだときに、その歌が思い浮かびました。

もちろん、パウロがその歌を歌っていたわけではありません。でも、その歌詞の一部は詩篇46篇に基づいているので、もしかすると、パウロはその言葉を心の中で口ずさんでいたかもしれません。

神は、われらの避け所、また力。 苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。

たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。(詩篇46:1ー3)

ベン・E.キングの歌詞を借りれば、

Lord, I won’t be afraid.
主よ、私は恐れません。

No, I won’t be afraid.
決して恐れません。

Just as long as you stand by me.
あなたが私のそばに立っていてくださる限り。

カテゴリー
詩篇

何を信頼するか

これはもう一つの私が好きな詩篇です。いつものように、ダビデは困っていましたが、こう歌いました。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。(詩篇62:1-2)

「ただ神を待ち望む」という言葉は私の心を打ちます。

ダビデはいろんな試練を経験したので、人々がいつも忠実なわけではないと分かるようになりました。また、お金や富にも頼ることができないと分かるようになりました。

ダビデはこう書きました。

まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。

圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。(9ー10)

つまり、人が偉くても、そうではなくても、私たちは彼らをいつも信頼することができないということです。

時々彼らはあなたを裏切るからです。

彼らが忠実でも、いつまでも生きるわけではありません。ある日、彼らは亡くなってしまうので、あなたは彼らにもう頼ることができません。

自分の富に頼る人もいます。しかし、そのお金を盗んでも、そのお金のためにちゃんと働いても、一時的な幸せだけを買うことができます。結局、あなたはお金と持ち物の虚しさを分かるようになります。

だからダビデは、「これらのものに頼りません」と言います。むしろ、彼はこう言いました。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。(5)

そして、ダビデは私たちに言います。

民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。(8)

あなたは何に頼るでしょうか。人に頼るでしょうか。富に頼るでしょうか。自分自身に頼るでしょうか。

それらのものは偽りの避け所です。結局、それらのものによって私たちはがっかりします。神様だけが私たちの信頼に値します。だから、ダビデはこの詩篇をこの言葉でまとめます。

神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。

主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。(11ー12)

私たちを決してがっかりさせない神に信頼しましょう。

カテゴリー
エレミヤ書

教会は避け所。。。じゃない?

英語では、私たちは教会を [sanctuary] と呼びます。

一つの意味は「聖所」です。

けれども、もう一つの意味は「避け所」です。つまり、教会に行くと、神様にお会いし、安全を見つけることができます。

しかし、教会はすべての人にとって避け所であるわけではありません。神様はユダ人たちにこのように言われました。

イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。あなたがたの行ないと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。

あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。

もし、ほんとうに、あなたがたが行ないとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。

なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。

しかも、あなたがたは盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。

それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、『私たちは救われている』と言う。

それは、このようなすべての忌みきらうべきことをするためか。

わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。

そうだ。わたしにも、そう見えていた。――主の御告げ―― (エレミヤ書7:3ー11)

つまり、罪深い道を行くと、あなたにとって教会は避け所とはなりません。

ダビデの将軍ヨアブはそう学びました。彼はずっと自分の道を行き、無罪の人々を殺しましたが、ダビデの息子ソロモン王の正義を避けるために主の幕屋に逃げました。

なぜでしょうか。それは神様が律法を定められたからです。もし誰かが偶然に人を殺し、殺された人の家族から逃げるために、その殺人者が幕屋に行った場合、守られました。(出エジプト記 21:13ー14)

けれども、ヨアブが故意に人々を殺したので、ソロモンはその幕屋でヨアブを殺しました。(列王記第一2:28ー34)

神様はユダ人に言われました。

「シロを見なさい。以前、わたしの幕屋はシロにありました。しかし、その人々がわたしに背を向けたので、彼らは滅びました。

あなたたちが悔い改めないなら、エルサレムの宮も倒れます。(エレミヤ書7:12ー15)

わたしはあなたたちのいけにえや儀式に興味があるわけではありません。わたしはあなたの服従を望みます。

わたしに従うなら、あなたの人生はうまくいくでしょう。しかし、あなたたちは先祖たちのように、自分の心を堅くし続けます。」(エレミヤ書7:21ー27)

そして、神様はこのように言われました。

この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。。。

わたしの目の前に悪を行なったからだ。――主の御告げ――

彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した。。。

それゆえ、見よ、その日が来る。――主の御告げ――その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。

人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。(28ー30、32)

トフェテという所は、イスラエル人たちが自分の子供たちを偽物の神々にいけにえとしてささげた所でした。彼らが主の宮でいけにえを捧げながら、彼らはトフェテで、この酷いいけにえをささげました。

だから、神様は言われました。

「あなたを裁きます。あなたが私の宮に行っても、赦しません。なぜなら、あなたの心から史実が消え、あなたたちは私の言葉に聞かずに程いことをするからです。」

あなたはどうですか。教会に行くからといって、月曜日から土曜日まで犯した罪が赦されると思いますか。

その罪は赦されていません。もし月曜日から土曜日まで自分の道を行くなら、教会に行く意味はありません。

だから、毎日私たちは神様のために生きましょう。また、ミカの言葉を覚えておきましょう。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:8)