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マタイの福音書のデボーション

ただ人々を責めているだけなのか?

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイの福音書23:4)

パリサイ人たちと律法学者たちは、周囲の人々の罪をよく指摘しました。

しかし、彼らは罪の重荷に苦しんでいる人々に手を差し伸べ、あわれむことはありませんでした。

イエス様のことばを読んで、私はこう考えました。「私はただ人々の罪を指摘するだけなのだろうか。それとも、罪によって苦しんでいる人々をすぐに助けてあげる者なのだろうか。」

おそらく、パウロは上のイエス様のことばを思い巡らしながら、このことばを書いたのでしょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(ガラテヤ人への手紙6:1ー2)

天のお父さん、パリサイ人たちや律法学者たちのようにはなりたくありません。ただ人々の罪を指摘する者ではなく、罪によって苦しんでいる人々に対するイエス様の心を持つ者となれますように。

あわれみの心を私に与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ガラテヤ人への手紙のデボーション

疲れた

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。。。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6:2、9ー10)

正直に言うと、上の言葉は私にとって、今ちょっと難しいです。なぜなら、問題解決の目処が立たないとき、相手の重荷を負うのはとても辛いのです。そして、今は、問題解決の目処が立ちそうにありません。

それでも、パウロは言います。「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」

でも、自分の力では、私はそのことばに従うことができません。私には、ぶどうの木にとどまることによって生まれる霊的な栄養と憩いが必要です。(ヨハネ15:4-5)

イエス様、私は今あなたを必要としているのです。あなたはブドウの木で、私は枝です。あなたを離れては、私は何もすることができないのです。

あなたは私に、「失望せずに、あきらめずに人の重荷を負いなさい」と言われました。

でも、私は疲れました。だから、私がどのようにあなたに一瞬一瞬とどまることができるかを教えてください。私を強めてください。私を満たしてください。

そして、あなたの臨在で、あなたの恵みと愛によって、私の魂をリフレッシュしてください。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。