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ヨハネの福音書のデボーション

光を必要とする世界

この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。。。

すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。(ヨハネ1:4ー5,9)

最近のニュースによると、2024年に527人の小中高生が自殺しました。

たとえ1人でも多すぎるでしょう。

ヨハネは、イエス様にはいのちがあり、イエス様が闇の中を歩んでいる人々に光を与える方であると言いました。

闇の中を歩んでいる人々は多いです。希望のない人々は多いです。

彼らはイエス様の光を必要としているのです。

最近、クロスロードでは、私たちは天の父の目について話しています。つまり、神様がどんなまなざしで私たちを見ているのかを理解する必要があります。

その真理を理解すれば、神の光は私たちの闇を照らすでしょう。

イエス様はそのように人々に触れました。人々がイエス様を見るとき、天の父の目を見ました。そして、彼らが神の目を見たとき、神の光は彼らの闇を照らしました。

だから、私の祈りは、人々が私のうちに住んでおられるイエス様を見るようになることです。

私の妻、娘、生徒たち、同僚たちが私の目を見るとき、私の天のお父さんの目を見ることができるように祈ります。

そして、私を通して、神様が彼らの闇を照らしてくださるように祈ります。

私たち皆が天のお父さんの目を持つように。

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ヨハネの手紙第一のデボーション

闇の中を歩むか、光の中を歩むか

ヨハネの手紙第一3:4~10節は、とても難しい箇所です。その言葉によって、多くのクリスチャンが自分の救いを疑います。なぜなら、その言葉は、罪を犯す人がクリスチャンではないと教えているように見えるからです。

しかし、ヨハネはそのように教えているわけではありません。ヨハネによれば、すべてのクリスチャンは罪を犯します。(ヨハネの手紙第一1:8~10、2:1)

では、ヨハネの言葉はどういう意味なのでしょうか。その答えは、1:6~7にあると思います。

神の真の子供は、闇の中を歩まず、光の中を歩みます。なぜ、彼らはそうするのでしょうか。

それは、彼らが神様を愛し、神様が良い方であると信じ、天の父のようになろうと努めるからです。

闇の中を歩む人は、そのように考えません。むしろ、彼らには神様に対する根深い不信感があります。彼らは、神の良い性格と良い戒めを疑います。

彼らの心の中では、こう言っています。「あなたがそのような神なら、あなたが本当にそのように考えているなら、私はあなたとは関わりたくありません。」

それは、サタンの態度でした。

サタンはエデンで、その態度を人間に伝えました。

現代でも、多くの人々がそのように考えています。

そのような人々は、イエス様とその御父を見たこともなく、知ってもいません。

真のクリスチャンは、そのように考えません。真のクリスチャンは、そのような態度で神様と歩むことはできません。

真のクリスチャンは罪に落ちるかもしれませんが、神様の光がその罪を現すと、そのクリスチャンはすぐに悔い改めます。彼らは言い訳をしません。彼らはその罪を正当化しようとしません。また、彼らは神様の良い性格や戒めを疑いません。

だから、疑問は、私たちが罪を犯すかどうかということではありません。疑問は、私たちが光の中を歩んでいるか、闇の中を歩んでいるかということです。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩み、罪を告白し、悔い改めるなら、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(1:7)

そして、たとえ自分の心が責めたとしても、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じです。神様は私たちの愛と、神様を喜ばせようとする心をご存じで、私たちを受け入れてくださいます。

だから、ヨハネと一緒に喜びましょう。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。(1節)

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ヨハネの手紙第一のデボーション

神様と歩む

ヨハネの手紙第一1―2章を読んで、私は神様と歩むとはどういう意味かを考えていました。

たくさんの人々は、神様と歩むと主張します。ヨハネの言葉を借りれば、彼らは神様を知り、神と交わりがあると主張します。

でも、神様を知り、神と交わりがあるとはどういう意味でしょうか。

ヨハネがはっきりと言っているのは、私たちが闇を歩んでいるなら、神と交わりがあると主張することはできないということです。

残念なことですが、たくさんの自称クリスチャンたちはそのような生活を送っています。彼らはみことばを読むと、好きな箇所は受け入れるけれど、好きではない箇所はあっさりと捨ててしまいます。

でも、神様と歩む人は、神様の戒めと道のすべてが良いと信じます。だから、彼らはそれらを抱きます。彼らは神のみことばのすべてを尊重します。彼らの心は神様に属し、彼らはイエスが歩まれたように歩もうと思います。(ヨハネの手紙第一1:5~6、2:3~6)

とはいえ、光の中を歩むとは、私たちが罪のない人生を送ることを意味しません。

しかし、神の光が私たちの罪を明らかにするとき、私たちは言い訳をせずに、その罪を告白し、悔い改めます。

その時、サタンが私たちを責めようとするかもしれません。でも、イエス様は私たちの隣に立って擁護してくださいます。そして、イエス様の血によって、私たちはすべての罪から清められ、神様の怒りはなだめられます。(1:7、2:1~2)

どうして私たちは赦されているのでしょうか。私たちが真実だからですか?違います。神様が真実だからです。(1:9)

どうして私たちは受け入れられているのでしょうか。私たちの義のためですか?違います。イエス様が義なる方だからです。(2:1)

そして、イエス様はご自身の義の衣を私たちに着せてくださいます。

だから、闇の中を歩まないようにしましょう。

また、神の怒りと裁きを恐れて、光に入ることを恐れないようにしましょう。

むしろ、光に入りましょう。いや、光に向かって走りましょう。神様を抱きましょう。神の道を抱きましょう。そして、神様に愛されている子供として、毎日神様の恵みによって歩みましょう。