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サムエル記第一のデボーション

弱虫ではなく、勇士

しかし、ダビデは自分の神、【主】によって奮い立った。(サムエル記第一30:6)

ダビデの行動を考えるとき、私はパウロの言葉を思い起こしました。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ人への手紙6:10)

苦しむとき、私は弱虫ではなく、勇士でありたいです。

私は「かわいそうパーティー」を開きたくありません。

また、苦々しい思いやフラストレーションや怒りに支配されたくありません。

正直に言うと、時には私はそのように反応してしまいます。

私はそれをもうしたくないのです。

ダビデのように、私は神の大能の力によって強められ、神の武具を身に付け、敵であるサタンに立ち向かおうとします。

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士師記のデボーション

大切なのは。。。

力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。(士師記6:12)

主よ、私が霊的な弱虫ではなく、あなたのための力ある勇士となるようにしてください。

大切なのは、私の力や素性ではありません。

大切なのは、あなたが私とともにおられることです。

そして、自分の愛している者たちを敵であるサタンから解放するために、私を霊的な戦いに遣わしておられるのです。

あなたの働きを成し遂げる資格が私にはありません。それはあなたから与えられるものです。(第二コリント3:5)

さらに、あなたの力は私の弱さのうちに完全に現れるのです。(第二コリント12:9-10)

だから、その大切なことを覚えていて、戦場に走るように導いてください。

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士師記のデボーション

後悔のない歩み

ルベンの諸支族の決意は固かった。なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたのか。ルベンの諸支族の間には、深い反省があった。

ギルアデはヨルダンの川向こうにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。(士師記5:15-17)

天のお父さん、人生の終わりに、後悔のない心で自分の歩みを振り返ることができますように。

人々が敵であるサタンから虐げられていたのに、私が自己満足のまま座って彼らを無視していたという後悔。

人々に霊的なニーズが多くあったのに、私が座り、自分のところにとどまっていたという後悔。

天のお父さん、私にあなたの心を与えてください。人々を憐れむ心。人々の人生を滅ぼしている敵と戦う心。

あなたに対する熱心、イエス様が死んでくださった人々に対する熱心を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働きのデボーション

権威を持つ者としての神の子

すると、悪霊が彼らに答えた。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。」(使徒の働き19:15)

この言葉は、私の心を深く揺さぶりました。その悪霊はもちろんイエス様のことを知っていて、その権威を認めていました。

そして、パウロのことも知っていて、その権威を認めていました。なぜなら、イエス様との関係によって、また神の子供として、パウロは悪霊に対する権威を持っていたからです。

しかし、私たちクリスチャンは、神の子供としての自分の権威を理解しているでしょうか。私たちが堅く立つなら、私たちの敵であるサタンは逃げなくてはなりません。サタンには、私たちに対する力がないのです。

だからこそ、パウロは「堅く立ちなさい」と語りました(エペソ6:13〜14)。

また、ヤコブは「悪魔に対抗しなさい」と語りました(ヤコブ4:7)。

ですから、神の子供よ。神様から与えられたあなたの権威を覚えていましょう。

ヨハネはこう語りました。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

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ルカの福音書のデボーション

指一本だけで

しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。(ルカの福音書11:20)

霊的な戦い、特に私たちの敵サタンを考えるとき、私たちは大切な真理を忘れがちです。

それは、神様がサタンよりも断然強いということです。

サタンは神様と対等ではありません。

神様は創造主です。サタンは、ただの被造物なのです。

神様は、小指一本だけでサタンを破ることができます。

だから、霊的な戦いに直面するとき、私たちのうちにおられる方を信じて、立ち向かいましょう。

そして、ヨハネのことばを心に留めておきましょう。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

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ルカの福音書のデボーション

でも、真理は。。。

だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。(ルカの福音書7:23)

最近、私は霊的な戦いについて考えています。実は、日曜日から、私の教会では霊的な戦いに関するメッセージのシリーズが始まりました。

私たちの敵であるサタンについて考えたとき、私が気づいたのは、サタンの主な武器の一つが欺きと嘘であるということです。イエス様は、サタンを「偽りの父」と呼ばれました。(ヨハネ8:44)

サタンは、バプテスマのヨハネに対して、その武器を振るっていました。

「あなたの人生は無駄だった。あなたはこの牢に入っているが、いったい何を成し遂げたのか。

あなたはイエス様をメシアとして宣言したが、それは本当なのか?彼はローマ帝国からイスラエルを自由にしていないし、あなたを助けてもいない。あなたはまだここにいるではないか。」

嘘と真実を混ぜ合わせるのは、本当に効果的な武器ですね。

だから、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様のもとに遣わし、尋ねました。「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」

イエス様はどのように答えられたでしょうか。イエス様は、人々を癒し、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えられました。

そして、イエス様はヨハネに、基本的にこう言われたのです。

「あなたは、私に失望しているのですね。私があなたの予想通りにローマ帝国を倒していないから。

でも、真理は、私はメシアです。そして、私はメシアに関する聖書の預言を成就しています。

だから、自分の人生や働きが無駄だと思わないでください。真理をしっかり信じなさい。私自身が真理です。だれでも、私につまずかない者は幸いです。」

サタンが私たちを嘘で攻撃するとき、私たちのクリスチャン生活がうまくいかないとき、私たちがイエス様に失望し、イエス様が良い方であることを疑うとき、その痛みと疑いのサイクルを破って、宣言しましょう。

「私はこのように感じているかもしれません。でも、真理は、イエス様は良い方です。真理は、イエス様が本当に神の子で、私の救い主です。真理は、イエス様は私を愛しておられます。」

そして何よりも、覚えていましょう。「イエス様自身が真理です。」

真理は、イエス様に信頼する者が、決して失望させられることがないということです。(ローマ10:11、第一ペテロ2:6)

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詩篇のデボーション

王なる祭司への祈り

イエス様、あなたはダビデの主でした。あなたは、私の主です。(マタイ22:41ー45)

あなたは、天の父の右の座に着いておられます。あなたは、すべてを治めておられます。(へブル人への手紙1:3、8:1、10:12、12:2)

さらに、あなたは永遠に私の祭司でした。あなたは、いつも生きていて、私のためにとりなしをしておられるので、私を完全に救うことができます。(へブル人への手紙7:24ー25)

そういうわけで、この霊的な戦いにおいて、私は喜んであなたに仕えます。

私たちは人間と戦うのではなく、霊的な力と戦っています。その霊的な力は、人々を滅ぼそうとしています。(エペソ人への手紙6:12)

だから、私の周りの人々に、あなたの愛で触れるために、私を用いてください。

ここに私がおります。私を遣わしてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ユダの手紙

私たちが誰と戦わなくてはならないのか

どうして欺きを認識することが難しいのでしょうか。それは、欺きが本質的に見破りにくいものだからです。そのため、偽教師たちは教会に簡単に入り込むことができるのです。もちろん、彼らが「私は偽教師です」と宣言することはありません。

むしろ、彼らは私たちと同じように見え、聞こえ、ふるまいます。けれども、注意深く見ると、彼らが実際には羊の皮を被った狼であることに気づくでしょう。では、どのようにして彼らを見分けることができるのでしょうか。

何よりもまず、私たちは彼らの教えを吟味しなければなりません。

前回の箇所で私たちが読んだように、ヨハネの時代には偽教師たちが神様の恵みを放縦に変えていました。彼らは「イエス様は私の主」と主張しましたが、その行いによってイエス様を否定していたのです。(ユダの手紙4)

さらに、偽教師を見分けるもう一つの方法は、彼らの態度や行いに注目することです。

例えば、彼らはあらゆる権威を認めることを拒みます。彼らは主の権威すら認めません。(8節)

また、彼らは霊的な力を理解していないため、その力を罵ります。彼らはサタンですら罵るのです。サタンが彼らよりも強い存在であるにもかかわらず、彼らはサタンをあざ笑います。

しかし、御使いのかしらミカエルでさえ、自分が正しいと分かっていたにもかかわらず、サタンに対してののしって裁きを宣言することはしませんでした。(8-10節)

さらに、彼らは本能によって理解できること、特に自分たちの情欲によって滅びます。(10節)

こうした理由で、ユダはその偽教師たちを厳しく非難しています。ユダの言葉は、パリサイ人や律法学者たちに対するイエス様の言葉に似ています。

ユダは、彼らを殺害者と呼びます。(彼らはカインの道を歩みました。)

また、ユダは彼らを欲深い者たちと呼びます。(彼らは自分たちの利益のためにバラムの迷いに陥りました。)

最後に、ユダは彼らを反逆者たちと呼びます。(彼らはコラのように背いて滅びました。)(11節)

コラの話に触れるかもしれませんが、ユダは彼らを「ぶつぶつ不満を言う者たち」とさらに呼びます。ユダによれば、彼らは「自らの欲望のままに生きています。その口は大げさなことを語り、利益のために人にへつらいます。」(16節)

そして、ユダは生き生きとした描写を用いて、偽教師たちを非難しています。ユダは彼らを「愛餐のしみ」と呼びました。彼らは本来、神様の羊に餌を与えるべき存在でしたが、羊たちをだまし、彼らのお金を搾取していたのです。

さらに、ユダは彼らを「風に吹き流される雨無し雲」と呼びました。その教師たちは多くの約束を口にしましたが、それを果たすことはありませんでした。また、彼ら自身がいつも流行の偽りの教えに流されていたのです。

ユダはまた、彼らを「枯れに枯れて根こそぎにされた、実りなき秋の木」と例えています。

さらに、ユダは彼らを「自分の恥を泡立たせる海の荒波」にもたとえました。

そして最後に、ユダは彼らを「さまよえる星」と呼びます。それは、偽教師たちの教えによって、迷っている人々がさらに深く迷い込んでしまうということを意味しています。(12-13節)

その偽教師の行き着く果ては何でしょうか。それは破滅です。(14-15節)

ユダの警告を聞いても、偽教師たちはあざ笑いながら自分たちの道を行き続けます。彼らは神の御霊に従わず、自分の本能に従い、教会を分裂させてしまいました。(18-19節)

皮肉なことに、最初は彼らが羊のように見えました。彼らは私たちのように聞こえ、私たちのようにふるまったのです。

しかし、それは新しい問題ではありません。

モーセがエジプトから導き出したイスラエルの民にも同じことが見られました。彼らはエジプトの力から救われましたが、自分たちの不信によって砂漠で死んでしまいました。(5節)

さらに、ある天使たちは自分たちの領分を守らず、自分のいるべき場所を捨てたために裁かれてしまいました。(6節)

ある聖書学者によれば、ユダはサタンの反逆に参加した天使たちについて言っていると考えられています。他の学者たちは、ノアの時代にある天使たちが人間の娘たちと結婚したと解釈しています。(私はその理論に疑問を感じますが。)

いずれにせよ、ユダのポイントは明確です。その人々や天使たちは、神様の選ばれた民に属しているように見えましたが、彼らの罪によって裁かれてしまったのです。

同様に、ユダの時代の偽教師たちは、ソドムとゴモラの人々のように罪に耽っていました。その結果、ソドムとゴモラの人々と同じように、偽教師たちは永遠の火の刑罰を受けることになりました。(7節)

私たちも彼らの模範に従うなら、同じ運命を迎えることになります。

だからこそ、ユダは私たちに警告し促します。

しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。

神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。(20-21節)

簡単に言えば、その偽教師たちを認識し、彼らの運命を避けたいと思うなら、私たちはイエス様にしっかりと根を張らなければなりません。

私たちはキリストの恵みと知識の中で成長し、その御霊と深く結びつかなければなりません。そして、主の愛にとどまり、イエス様の十字架の働きのおかげで、彼らに降りかかる裁きが私たちにとって希望であることを心に留めておくべきです。

あなた自身はどうですか。偽教師たちを認識し、信仰のために彼らと立ち向かうほどに、イエス様の真理に深く根を張っていますか。

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テモテへの手紙第ー

私たちが戦う前に

第1章では、パウロは無益な議論を引き起こす者たちを厳しく責めました。それらの議論は誤った教えに基づいており、エペソの人々を本来の使命から引き離してしまっていたのです。

もちろん、その使命とは、福音を宣べ伝えることです(テモテへの手紙第一1:3–6)。

そして第1章の結びで、パウロはテモテに対して、「神様の御国のために立派に戦い抜きなさい」と命じました。

この戦いの一部には、偽教師への対応も含まれます。しかしテモテは、改めて神様の働きに心を集中させる必要がありました。 というのも、テモテと彼の教会は、むなしい議論によってあまりにも多くの混乱に巻き込まれていたからです。

続く第2章の冒頭で、パウロはこの霊的な働きと戦いが、どこから始まるべきなのかを教えています。彼はこう語りました。

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。

それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。

そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。(テモテへの手紙第一2:1-4)

私たちの使命は何でしょうか。それは、すべての人が救われ、真理を知るようになることです。これこそが、神様の御心なのです。

もちろん、すべての人が救われるわけではありません。けれども、それが神様の御心である以上、私たちもまた、そのことを願うべきです。

しかし、覚えておきましょう。この使命は、まず祈りから始まらなくてはなりません。私たちは、キリストを必要としている人々を見て、彼らのためにとりなさなくてはなりません。

私たちは、人々の物理的な必要のためにはよく祈ります。もちろん、それは大切なことです。けれども、私たちはどれほど、彼らの救いのために祈っているでしょうか。

私たちが愛する人々のために真剣に祈らない理由のひとつは、もしかすると、私たち自身が本当に地獄を信じていないからかもしれません。あるいは、地獄の存在は信じていても、その罰が永遠に続くものだとは信じていないのかもしれません。

しかし、もし私たちがそれを本当に信じているならば、大切な人たちの行き先について考えるときに、無関心な態度など取れるはずがありません。

神様は、決して無関心ではおられませんでした。だからこそ、神様は救いの計画を立てられたのです。そして、パウロはこう語っています。

神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

その証しのために、私は宣教者、使徒、そして、信仰と真理を異邦人に教える教師に任命されました。私は真実を言っていて、偽ってはいません。(5-7)

私たちは皆、かつて罪の奴隷であり、永遠の死へと向かう道を歩んでいました。

けれども神様は、私たちを憐れんで、イエス様を送ってくださいました。イエス様は十字架にかかり、私たちの罪の負債を身代わりに支払い、私たちを贖い出してくださったのです。

「贖いの代価」とは、奴隷を買い取るために支払われる代価のことを意味します。イエス様はその代価を払って、私たちを罪の奴隷状態から解放してくださいました。

この救いの働きは、すでに完成しています。私たちに求められているのは、その賜物を信仰によって受け入れることだけです。 けれども、人々がこの救いの賜物を受け入れるには、まずその知らせを聞く必要があります。

そのために、神様はパウロを遣わされました。パウロは、神様の救いのメッセージを大胆に宣べ伝えました。

そして今、神様はパウロだけでなく、あなたをもまた、この使命のために遣わしておられるのです。

けれども私は、もう一度はっきりと言います。私たちの働きは、祈りから始めなければなりません。

愛する人々のために祈るとき、私たちはこう願うべきです。神様が、彼らの霊的な目と耳を開いてくださいますように。

また、私たちの政治家たちのためにも祈りましょう。神様が、彼らの霊的な目と耳をも開いてくださるように願うべきです。これは、私たちが福音をよりスムーズに宣べ伝えるために必要な祈りなのです。

しかし、私たちがしなければならないことは、もう一つあります。パウロはこう命じています。「すべての人のために感謝しなさい。」

私たちの愛する人々のために感謝するのは、比較的やさしいことです。けれども、好意を抱いていない人々のために感謝するのは、非常に難しいものです。

それでも、なぜ私たちは彼らのために感謝すべきなのでしょうか。

その理由は、感謝することによって、私たちが彼らを神様の目に尊い存在として見ることを思い出させられるからです。

私たちの目には彼らの嫌な態度や外見が映るかもしれません。けれども、イエス様がそのような人々のためにも死んでくださったことを、決して忘れてはなりません。

彼らのために感謝することによって、私たちは彼らをイエス様の目で見始めるようになるのです。

神様は、私たちをこの霊的な戦いへと召しておられます。ですから、祈りをもって、戦場へと進んでいきましょう。

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マタイの福音書 マタイ10章 マルコの福音書 マルコ3章 ルカの福音書 ルカ6章

イエス様と一緒にいるように呼ばれた。出て行って、この世に触れるように呼ばれた。

この箇所では、私たちはイエス様の高まる人気を目にすることができます。おそらく、増え続ける群衆とその必要のために、イエス様は12人の弟子たちを選び、訓練を始められました。

人間としてのイエス様は、ある瞬間には一つの場所にしかおられることができませんでした。そのため、多くの人々に触れるには助けが必要でした。

とはいえ、イエス様が選ばれたのは、本当に多種多様なグループでした。

漁師たち、ローマ帝国と協力していた元収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者もいました。

また、彼らはそれぞれ異なる性格を持っていました。大胆なペテロ、懐疑的なバルトロマイ(つまり、ナタナエル)やトマス、そして短気なヤコブとヨハネもいました。

イエス様は、このように様々な背景や性格を持つ人々を選ばれました。そしてイエス様は、彼らに3つのことを求められました。

そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコ3:14-15)

一つ目は(そして一番大切なのは)、彼らがイエス様の近くにいることです。彼らはイエス様と時間を過ごし、イエス様から学びました。

そして今もなお、イエス様はそのような人を求めておられます。イエス様は、私たちがイエス様の生活に参加し、イエス様をもっと知り、そしてもっとイエス様のようになることを望んでおられます。

二つ目は、彼らがイエス様から学んだメッセージを周りの人々に伝えることです。

多くのクリスチャンは聖書を読み、神様との関係において成長します。けれども、それだけでは足りません。

神様は、私たちが聖書のメッセージを周りの人々に伝えることを望んでおられます。なぜなら、私たちがそれをしなければ、彼らは神様からの喜びを決して知ることができないからです。

三つ目は、彼らが霊的な戦いに参加することです。あなたは悪霊を追い出す経験がないかもしれませんが、毎日私たちは霊的な力と戦っています。パウロはこう書きました

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

イエス様は、私たちが人と戦うのではなく、サタンと悪霊と戦うように召されています。彼らは人々を欺き、地獄に行かせようと働いているからです。そのため、私たちはその魂のために戦わなければなりません。

毎日、多くの人々が死にかけていて、地獄へと向かっています。しかし、神様はそのようなことを望んでおられません。神様は私たちに彼らのために立ち上がり、戦うことを望んでおられるのです。私たちがその使命を果たせば、その人たちは救われるかもしれません。

それがキリストの弟子の姿です。私たちがイエス様と共にいること、福音を伝えるために出ていくこと、そして霊的な戦いに参加することです。

あなたはどうでしょうか。キリストの弟子として、あなたはそのように歩んでいるでしょうか。

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エレミヤ書

疲れている

神様に従うことは簡単なことではありません。特に、預言者にとって、神様に従うことは時として本当に辛いものです。

エレミヤはそのことを学びました。彼は自分の出身地であるアナトテの人々が彼を殺そうとしていることを知りました。

神様はエレミヤを励まし、その人々に対する裁きについて教えられましたが、エレミヤは文句を言っていました。

主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。

なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。

あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます。

主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。」(エレミヤ書12:1ー3)

つまり、エレミヤはこう言ったのかもしれません。

「どうして、この悪人たちは栄えているのでしょうか。私を見てください。私が一生懸命にあなたに従っているのに、私の報いはどこにあるのでしょうか。皆が私を憎み、私を殺そうとしています。」

神様はその言葉を聞いて、エレミヤを慰められたでしょうか。

「大丈夫だ。心配しなくてもよい。」と言われたでしょうか。

違います。むしろ、神様はエレミヤを責められました。

あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。

あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう。(エレミヤ書12:5)

つまり、「もう疲れてしまったのですか。これはまだ始まりにすぎません。あなたの状況はこれからもっと辛くなるでしょう。もしあなたがすでに疲れ果てているのなら、本当のプレッシャーが来た時、あなたはどうするのでしょうか。」

神様は私たちに簡単な人生を約束していません。神様はエレミヤにこう言われました。

「あなたの家族さえも信頼してはいけません。彼らは優しい言葉を口にしても、あなたを裏切るからです。」(エレミヤ書12:6)

では、私はすべての人々を恐れるべきでしょうか。それは違います。

とはいえ、キリストのために迫害されても驚かないでください。なぜなら、イエス様はこう言われたからです。

しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

エレミヤはその敵によって疲れていました。そこで、神様はこう言われました。

「私の国へようこそ。もしあなたが私に従いたいのなら、あなたの人生はさらに大変になるでしょう。だから、もしあなたが私の国で栄えたいのであれば、もっと強くなるべきです。」

どうやって私たちは強くなるのでしょうか。それは、自分が何に直面するのかを知り、準備をすることです。

私たちには敵がいます。しかし、その敵は人間ではありません。パウロはこのように言いました。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

その霊的な戦いのために、どのように準備すればよいのでしょうか。パウロは私たちにその方法を教えます。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。(エペソ6:10ー11)

つまり、自分の力に頼ってはいけません。自分の力に頼ると、エレミヤのように疲れてしまいます。

だからこそ、神様に頼りましょう。毎日、神様と時間を過ごし、天の父から力をいただきましょう。

イエス様がこの世におられた時も、毎日そうされました。実は、私自身も、もっとそうすべきだと感じています。

そして戦いにいくとき、神様の武具を身に着けましょう。

足には平和の福音の備えをはきなさい。

これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペソ6:15ー17)

多くのクリスチャンたちは、自分の力だけに頼りながら、この世を裸のままで歩き回っています。しかし、彼らは霊的な戦いをよく理解しておらず、自分の敵が誰であるかを知りません。

そのため、彼らはサタンにとって簡単な標的となり、容易に被害者になってしまうのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの神様との関係は強いでしょうか。毎日、神様の武具を身に着けていますか。

それを怠ると、あなたは攻撃を受けてしまい、すぐに疲れ果ててしまいます。

だからこそ、パウロが言ったように、

邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6:12)