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コリント人への手紙第一のデボーション

互いに建て上げる

今日の箇所では、パウロは教会にさまざまな指示を与えています。特に、異言や預言に関する指示が中心です。

もちろん、それらの指示は重要ですが、それだけに注目するなら、私たちはパウロの主なポイントを見逃してしまうかもしれません。

それは、教会において、私たちはただ自分自身や自分の益について考えるべきではないということです。むしろ、周りの人々のことを考え、特にその人をどのように強めることができるかを思い巡らすべきです。

(新改訳第3版では「徳を高める」と訳され、第4版では「成長させる」と訳されていますが、ギリシャ語のニュアンスは「建てる」あるいは「強化する」という意味です。)

パウロは何度も教会を強めることについて語ります。けれども、彼が語っているのは組織の強化ではありません。むしろ、神の民をどのように強めることができるかを語っています。なぜなら、神の民そのものが教会だからです。

パウロによれば、教会に行くとき、ただ「どうすれば自分の益を得られるか」と考えるなら、私たちは子どものような考え方をしていることになります(20)。

多くのクリスチャンは教会に来て、「励まされたい」「力を受けたい」と言います。

もちろん、自分の教会で励まされたり、強められたりすることを願うのは自然なことです。

しかし、パウロが語っているのは、私たち全員が「どうすれば他の人を強めることができるか」を考えるべきだということです(26)。

ですから、日曜日に教会へ行くときは、意図的に誰かに声をかけましょう。その人を励ましましょう。その人のために祈りましょう。

もしオンライン礼拝に参加するなら、意図的に教会の人に電話やLINE、Zoomなどで連絡を取り、会話を持ちましょう。

意図的に互いに強め合い、励まし合う教会となりましょう。

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コリント人への手紙第一のデボーション

最も大切なこと

今日、私が気づいたのは、パウロが霊的な賜物について語っているものの、賜物そのものがパウロの主なポイントではないということです。

もし賜物が主題であるならば、パウロはそれらをもっと具体的に説明していたはずです。

たとえば、パウロは賜物を列挙しますが、ある賜物を省略しており(ローマ12:6〜8)、それぞれの賜物が何であるかを詳しく説明していません。

では、パウロは霊的な賜物について教えるよりも、何を伝えたかったのでしょうか。

それは、コリント人たちが教会の分裂や派閥を捨てるべきだということです。パウロは何度もそのテーマを繰り返しています。

「あなたがたは一つのからだです。あなたがたは同じ御霊、同じ主、同じ神に属しています。あなたがたの賜物は教会全体の益のために与えられています。互いに必要とされているのです。互いに敬い合うべきです。

教会のメンバーの苦しみは、あなたの苦しみです。その一方で、もしその人が尊ばれるなら、その人と共に喜びましょう。その人はあなたの一部です。または、あなたはその人の一部です。

あなたがたは霊的な賜物を求めています。それは良いことです。しかし、覚えておきなさい。あなたがたは一つのからだです。だから、分裂を捨てなさい。」

そして、パウロはこの話を第13章へと続けます。

私たちはどうでしょうか。私たちはパウロのように、神の教会とそのメンバーたちを大切にしているでしょうか。それとも、私たちはコリント人たちのように考えてしまっているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

将来の片鱗

この箇所を読んだとき、新たな気づきが私の心に響きました。それは、私たちの霊的な賜物が天国の片鱗であるということです。

パウロはこう語りました。

愛は決して絶えることがありません。

預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。

私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。(コリント人への手紙13:8-10)

パウロが語る賜物は、「不完全な賜物」です。おそらく、天国ではいくつかの賜物は続くでしょう。例えば、奉仕の賜物や、治める賜物、音楽の賜物は続くかもしれません。

けれども、預言はなくなります。なぜでしょうか。預言とは、基本的に神様の言葉を人々に伝えることです。ところが、天国では神様が直接私たちに語られるからです。

異言もなくなります。異言を通して、私たちは神様の御心に従って祈ることができます。けれども、天国では私たちはすでに神様の御心を知っています。

また、異言を通して、私たちは外国語で神様の栄光を伝えることができます。しかし、天国ではすべての人が神様を知っており、私たちは完全に互いを理解し合っています。

私たちの知識も不完全です。特に神様に関する知識は限られています。けれども、天国では私たちは神様のみ顔を直接仰ぎ見るのです。

この三つの賜物は、天国の片鱗です。今、私たちはある程度神様の声を聞くことができますが、天国でははっきりと聞こえるようになります。

神様とのコミュニケーション、そして周りの人々とのコミュニケーションも、今は限られています。しかし、天国では私たちのコミュニケーションは完全なものとなります。

私たちは今、部分的に神様を知っていますが、天国では神様を完全に知るようになります。

言い換えると、

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。(12)

私たちがこの世で目にするもののすべては、天国からのかすかな映しです。けれども、イエス様のみ顔を仰ぐとき、私たちはイエス様を完全に知るようになります。そして、神様が私たちに備えておられた本来の人生の計画を理解するようになるのです。

だから、私は希望を持っています。時として、この世界は悲しみに満ちた場所のように感じられます。

とはいえ、この世は、私たちの未来のぼんやりとした映しに過ぎません。さらに、この世は永遠にこのまま続くわけではありません。

だからこそ、私たちの霊的な賜物を見るとき、また、周囲の人々や被造物を見るとき、それらはただぼんやりとした映しであることを心に留めましょう。私たちには確かな希望があります。それは、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。

やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

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コリント人への手紙第一

どのように霊的な賜物を使うべきか

これは聖書の中で最も有名な箇所の一つです。この箇所は愛について書かれていますが、パウロは特に結婚や恋愛関係について話しているのではありません。

むしろ、これまでの話をまとめています。つまり、私たちの賜物は教会を分裂させるためではなく、教会を成長させるためにあるのです。

だから、この箇所でパウロは、私たちがどのように賜物を用いるべきかを教えています。

パウロはその賜物の使い方を「はるかにまさる道」と呼びます。

そして、彼はこう語っています。

たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。

たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。

たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(コリント人への手紙第一13:1-3)

簡単に言うと、私たちは世の中で最も素晴らしい賜物を持っていたり、自分自身を犠牲にしたり、すべての持ち物を貧しい人々に与えたりすることができます。けれども、神様への愛、また他の人々への愛を持っていなければ、それらは無意味です。

多くの人々は、神様や他の人々への愛のためではなく、自分のプライドのために賜物を使ったり、自分自身を犠牲にします。彼らが求めるのは、人からの誉れです。

しかし、そのプライドによって、彼らは他の人の賜物に嫉妬し、または自分と同じ賜物を持っていない人を見下します。

その結果、偽善に満ちた分裂した教会が生まれます。そのような賜物の使い方は、神様を喜ばせません。

私たちの賜物は、他者への愛の表現であるべきです。愛を持っていなければ、私たちの賜物の使い方は誤っています。

あなたはどうでしょうか。どのように賜物を使っていますか。

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コリント人への手紙第一

賜物を熱心に求める?

私たちがただ求めるなら、神様はどれほど与えてくださるでしょうか。

多くの場合、私たちは自己中心的な態度に注意したり、自分の動機を疑ったりすることで、神様に願うのをためらいます。

私の言葉を誤解しないでください。もちろん、私たちは自分の動機を吟味するべきです。しかし、ためらわずに願ってもよいのです。もし願っている途中で、神様が私たちの誤った動機を示されるなら、もちろん私たちは悔い改めるべきです。

忘れないでください。神様はご自身の子供たちに良いものを与えることを喜ばれる方です。だから、願うとき、私たちは遠慮する必要はありません。

霊的な賜物も、恥ずかしがらずに願ってよいのです。だから、パウロはこう語っています。

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。(コリント人への手紙第一12:31)

「より優れた賜物」とは何でしょうか。私は後でそのことについて話しますが、14章によれば、より優れた賜物とは、教会を成長させる賜物を指します(14:12)。

だから、霊的な賜物を求めるときは、教会を成長させることを考えるべきです。その賜物がどのようにあなたの評判を高めるか、また、あなたがどのような利益を得るかを考えてはいけません。

むしろ、どのように人々を祝福できるかについて考えるべきです。霊的な賜物について考えるときは、自分ではなく、周りの人々のことを考えるべきです。

また、もう一つ忘れてはならないことがあります。神様は御心のままに、私たちに賜物を与えてくださいます(11)。

キリストのからだの中で、私たちは神様から自分の役割を与えられています。だから、その役割を果たすために、神様は私たちに適切な賜物を与えてくださいます。

神様はそれ以上にも与えてくださるかもしれませんが、私たちが望むすべての賜物を与えてくださるとは約束されていません。

パウロはこう語っています。

皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。(29-30)

もちろん、その答えは「いいえ」です。

それでも、霊的な賜物を求めてもよいのです。特に、自分のミニストリーや役割を考えるとき、どの賜物が必要なのかを思い巡らし、その賜物を願うことが大切です。

そして、自分の役割を果たすために、神様が適切な賜物を与えてくださることを信じましょう。

どれほど神様が「はい、喜んで与えます」と答えられるかに驚くかもしれません。

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コリント人への手紙第一

私たちはそれほど特別ではないと思うけれど

教会では、多くの人々が他のメンバーの賜物を見て、劣等感を抱くことがあります。神様が彼らを特別な存在として見ておられ、キリストのからだに欠かせない者であると聞いても、その真理を実感できないことがあります。

しかし、パウロは何度も、私たちが神様の目にとっても特別な存在であることを教えています。

パウロは基本的にこう語っています。

「他の人々の賜物を見て、劣等感を抱いているのですか?そんな必要はありません。『あなたの賜物は安物だが、彼らの賜物は高価なものだ』とは言えません。

その賜物は同じ方から与えられたものです。あなたの賜物の価値も高いのです。

『あなたの役割は取るに足りないが、彼らの役割はとても重要だ』とも言えません。

彼らに役割を与えられた主は、あなたに役割を与えられたのと同じ主です。

そして、神様は決して『あなたの役割はそれほど重要ではないから、私は助けなくてもいい。代わりに天使を送ろう』とは言われません。

むしろ、神様ご自身があなたを助けてくださいます。」

また、以前の記事で述べたように、神様があなたを造られたとき、「あ、失敗した。仕方がない。この人にはとりあえず何でもない仕事を与えておこう」とは決して言われません。

むしろ、パウロはこう語っています。

しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。(コリント人への手紙第一12:18)

この箇所によれば、神様があなたを造られたとき、誤られることは決してありませんでした。さらに、この箇所の文脈をよく見てください。

もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。。。

もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。(17節)

簡単に言うと、神様はご自身が定めた場所にあなたを置かれました。だから、ほかのクリスチャンはあなたに、「あなたはいらない」と言うことはできません。むしろ、あなたはキリストのからだに欠かせない存在です。

この言葉を読んで、「でも、私が欠かせない存在だとは言えません。だって、誰だって私の役割を果たすことができるから」と思うかもしれません。

けれども、少し考えてみてください。あなたのつま先はある程度まで指の役割を果たすことができます。だから、ある意味では指は必要ないと言えるかもしれません。でも、つま先は指ほどその役割を上手に果たすことはできません。

また、腕が一本しかなくても、さまざまな仕事をこなすことはできるかもしれません。それでも、その一本の腕に負担をかけすぎると、疲れて力を失ってしまうかもしれません。

そのように、他の人があなたの仕事をすることができるかもしれません。けれども、彼らがあなたの賜物を持っていないなら、あなたほどその仕事を上手にこなせないでしょう。

また、彼らはあなたと同じ賜物を持っているかもしれません。さらに、彼らの賜物はあなたのものよりも優れているかもしれません。しかし、あなたが自分の役割を果たさなければ、彼らはやがて疲れ果て、燃え尽きてしまうかもしれません。

だから、神様から与えられた賜物を用いてください。神様はご自身の目的のために、あなたを今の場所に置かれました。誰かがあなたを見下すことを許さないでください。

また、自分自身を軽視しないでください。なぜなら、神様はゴミを作られません。あなたは決してゴミではありません。

では、キリストのからだの中で、あなたはどんな役割を担っているでしょうか。

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コリント人への手紙第一

教会を団結させるための賜物

この箇所で、パウロはまだコリント教会の分裂について考えていたかもしれません。この手紙の中で、彼はすでに二度その問題について触れています。

パウロは、霊的な賜物がコリント教会を分裂させたとは述べていません。しかし、その賜物が分裂を引き起こす可能性があることは見ていたかもしれません。

実際、現代の教会でも同じような問題が見られます。

だから、パウロは冒頭から明確に語ります。霊的な賜物は教会を分裂させるためのものではなく、教会のメンバーたちを団結させるためのものです。

パウロはこう記しました。

さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。

奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。

働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。(コリント人への手紙第一12:4-6)

パウロの言葉から、三位一体が霊的な賜物に深く関わっていることが分かります。

異なる賜物がありますが、同じ御霊によって与えられます。

異なる奉仕がありますが、同じ主(イエス)に仕えます。

異なる働きがありますが、すべては同じ神(天の父)によって行われます。

パウロの意図はこうかもしれません。天の父、イエス様、聖霊様はそれぞれ異なる役割を持っておられますが、なお一つの神です。

同じように、私たちの賜物がそれぞれ異なっていても、私たちはなお一つの教会です。だから、私たちには心の一致が必要です。

7節で、パウロはこのことを明確に述べています。

皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。(7)

普通、私たちがプレゼントを受け取るとき、その贈り物は私たち自身の益のためです。けれども、霊的な賜物は異なります。それらは、すべての人の益のために与えられるものです。特に、教会の兄弟姉妹たちを支えるためのものです。

だからこそ、霊的な賜物について考えるとき、自分中心の考えを捨てるべきです。むしろ、その賜物をどのように用いて、周囲の人々に益をもたらせるかを考えるべきです。

このように、霊的な賜物に関しては、プライドや嫉妬の余地はありません。

パウロはこう記しました。

たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。

たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。(15-16)

けれども、ある人は他者の賜物をうらやみ、その感情に基づいて行動してしまうことがあります。

自分が神様から与えられた賜物を気に入らず、不満を抱き、苦々しい態度を持ってしまいます。

または、同じ賜物を持っているものの、他者の方がより豊かにそれを持っているため、嫉妬し、怒りを抱くこともあります。

その結果、彼らは相手に対しても、神様に対しても怒りを向けてしまいます。

しかし、逆の問題もあります。

パウロはこう記しました。

目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。(21)

要するに、より「重要な」賜物を持っている人は、他の人を取るに足りない存在として見下してしまいがちです。

どちらの態度も害を及ぼし、教会を分裂へと導きます。皮肉なことに、以前述べたように、賜物は本来、教会を一つにするために与えられたものです。

だからこそ、私たちは自分自身に問いかけるべきです。

「兄弟姉妹に対する私の態度は正しいだろうか。自分の賜物と他者の賜物に関する私の態度は、教会を分裂へと導くか、それとも一致へと導くだろうか。」

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コリント人への手紙第一

霊を見分けること

私たちは、サタンについて忘れてはならない重要なことがあります。それは、サタンが常に神様の造られた良いものを偽造するということです。

例えば、互いに愛し合う夫婦の関係の代わりに、サタンは不倫やその他の性的な罪を誘惑として差し出します。

また、魂を満たす真の喜びの代わりに、サタンは決して満足をもたらさない一時的な快楽を提供します。

同様に、サタンは偽の霊的な賜物を差し出します。例えば、カルトやオカルトでは、偽の異言、偽の癒し、偽の奇跡が見られます。

ここで「偽」と言うとき、それは必ずしもその奇跡が存在しないという意味ではありません。むしろ、その奇跡の源が神様ではなく、サタンであることを意味します。

だから、パウロはコリント人たちが本物と偽物を正しく見分けられるかどうかを心配しました。

パウロは彼らにこう記しました。

さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。

ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。(コリント人への手紙第一12:1-2)

コリント人たちがどのように偶像に惹かれていったのかは明確ではありません。しかし、もしかすると、サタンによる偽の霊的な経験によって彼らは欺かれていたのかもしれません。

だからこそ、パウロは彼らに、サタンからのものと神様からのものを正しく見分ける方法を教えました。

パウロはこう語りました。

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(3)

一つの見分け方として、御霊に導かれる人は決してイエス様を呪うことができません。イエス様を呪う人を見れば、その人が神様からのものではないとすぐに分かるでしょう。

もう一つの見分け方は、聖霊に導かれる人が「イエスは主」と告白することです。

カルトやオカルト、その他の宗教に属する人々の多くは、イエス様についてさまざまな良いことを語ります。

「イエス様は善良な人物でした。」

「イエス様は偉大な宗教的指導者でした。」

「イエス様は預言者でした。」

しかし、彼らはイエス様がすべての主であることを認めず、また、イエス様が人間としてこの世に来られた唯一の神であることを受け入れません。

もう一つ注意すべき点があります。「イエスは主」と告白する人が、必ずしも聖霊に導かれているとは限りません。以前述べたように、サタンはさまざまな偽物を差し出します。

実は、サタンは偽のイエス様さえも売り込んでいます。第二コリント11:4で、パウロは「別のイエス」について語っています。

モルモン教では、イエス様は多くの神々の中の一人とされ、さらにサタンの兄弟とされています。

エホバの証人によれば、イエス様は御使いのかしらミカエルとされています。

だからこそ、人が「イエスは主」と言うとき、私たちは「どのイエスですか」と問わなくてはなりません。本物のイエスでしょうか。それとも、偽りのイエスでしょうか。

彼らが宣べ伝えるイエスが聖書に記されたイエスと一致しているかどうかを確かめる必要があります。

霊的な賜物や霊的な経験について話すときも、それがどこから来たものなのかを正しく見分けなくてはなりません。

それらが神様からのものであるならば、聖書の言葉と一致するはずです。すなわち、イエス様が人間としてこの世に来られた唯一の神であり、すべての主であることを認めるものです。

だから、人のすべての霊的な経験が神様からのものだと、すぐに信じるべきではありません。むしろ、パウロの言葉に従い、慎重に見極めるべきです。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。(第一テサロニケ5:21)