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ガラテヤ人への手紙のデボーション

すでに神様に受け入れられている

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです……

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

7  ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。 (ガラヤ人への手紙3:26~28;4:6~7)

あるユダヤ人たちがガラテヤのクリスチャンたちに伝えたメッセージはこうでした。「あなたはまだ神様に受け入れられていません。神様があなたを受け入れてくださるためには、あなたがまだまだ行わなければならないことがあるのです。」

けれども、パウロはガラテヤ人たちにはっきりと語りました。「それは嘘です。あなたはすでに受け入れられているのです。それは自分の行いによるのではなく、あなたが信仰によって喜んで王を受け入れたことによるのです。」

なぜなら、神様との関係を壊したのは、私たちが神様を王として拒んだことだからです。だから、その関係を修復するのは、私たちがイエス様に信頼を寄せ、王として受け入れることなのです。

つまり、私たちはイエス様が良いお方であり、私たちを愛し、私たちの最善を知り、望んでおられることを信じます。そして、十字架で私たちのために死んでくださったことによってイエス様がそのことを証明してくださったと信じるので、イエス様を王として喜んで受け入れるのです。

そして、私たちの思いや行為は、徐々にその信仰と調子を合わせていくのです。

それが、信仰によって生きることです。

アブラハムはそのような人でした。彼はしばしば失敗しました。なぜなら、彼の信仰は何度も揺らいだからです。(創世記15~20)

けれども、彼はいつもこの真理に戻りました。「神様は私の信頼にふさわしいお方です。」

だから、時間が経てば経つほど、彼のすべての思いや行為はその信仰に調子を合わせていったのです。(創世記21~24)

そういうわけで、アブラハムが何度も失敗したにもかかわらず、神様は彼の信仰を義と認め、受け入れてくださいました。神様は、アブラハムの信仰がどこに至るかを知っておられたからです。

私はまだ、私があるべき姿には達していません。私は生きるかぎり、「たどり着いた」とは言えないでしょう。

それでも、神様は私をすでに受け入れておられるのです。

私の行いや実績のためではなく、むしろ、揺らぐことはあっても、心の奥底では神様を信じているのです。

神様にとって、それは十分なのです。

あなたもそのような確信を持っているでしょうか。

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ヤコブの手紙

真の信仰がどのように表現されるか(8)

今日の箇所で、ヤコブはついに真の信仰についての話を締めくくります。この手紙の中で、ヤコブは何度も、愛や言葉、そして清さのテーマを強調してきました。

そして、今日の聖句では、ヤコブは再び聖さと、私たちがこの世の汚れを避けることの重要性に焦点を当てます。

その「汚れ」とは、この世のものへの執着です。しかし、それだけでなく、この世の富や成功に伴う高慢も汚れの一部です。

ここでヤコブは、成功した人々—特に業者や商人たち—に向けて語ります。彼らは成功を収めましたが、その結果、自分が神様を必要とすることを忘れ、さらにその成功が神様から与えられたものであることも忘れてしまいました。

だから、ヤコブは彼らにこう言いました。

「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている者たち、よく聞きなさい。

あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。

あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。

あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。

ところが実際には、あなたがたは大言壮語して誇っています。そのような誇りはすべて悪いことです。(ヤコブへの手紙4:13-16)

ある意味において、この聖句は10-12節と関連しています。

その箇所で、ヤコブは問いかけます。「あなたは、自分が何者だと思っているのか。どうして自分の隣人を裁くのか。どうして自分の隣人をそしり、軽蔑するのか。」

そして、13-16節でヤコブはもう一度問いかけます。

「あなたは、自分が何者だと思っているのか。どうして自慢するのか。あなたは無に等しいものだ。あなたはただの霧にすぎない。今日生きていても、明日はどうなるか分からない。あなたは自分がどれほど生きるかをコントロールできないのだ。」

では、私たちは何を学ぶべきでしょうか。私たちは高慢を捨て、神様に近づき、へりくだらなければなりません。

それだけではなく、隣人を軽蔑してはなりません。むしろ、イエス様の命令に従い、自分を愛するように隣人を愛さなければなりません。

ヤコブはこの話を次のようにまとめています。

こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。(17)

この言葉を通して、私たちは再びヤコブの2章の教えに立ち返ります。つまり、「行いのない信仰は死んだものである」ということです。(2:17)

もし、高慢な心を持ち、口で相手を裁き、周りの人々のニーズを無視し、この世に執着しているなら、あなたは本当に信仰を持っているのでしょうか。あなたの信仰は単なる言葉だけのものではないでしょうか。あなたの信仰は空っぽではないでしょうか。

あなたの信仰はどのようなものですか。