カテゴリー
創世記

壊れた

最近、私は「ワンス・ブラザーズ」というバスケットボールのドキュメンタリーを見ました。

それは、ユーゴスラビア出身のブラディ・ディバッツとドラゼン・ペドロビッチという選手の話でした。二人はユーゴスラビア代表選手でした。

そして、1989年に彼らはアメリカに移住し、NBAに入りました。その時、その二人は親友でしたが、ユーゴスラビアで内戦が発生し、すぐに彼らの関係は壊れてしまいました。

ブラディ・ディバッツが言ったのは、「長年築かれた友情を破るのは、ほんの一瞬のことだ」ということです。

創世記3章を読んだとき、その言葉が思い浮かびました。

罪を犯す前に、どれくらいアダムとエバがエデンに住んでいたか分かりませんが、その時、彼らは素晴らしい関係を持っていました。彼らは互いに愛し合い、受け入れ合っていました。また、神様とも親しい関係を持っていました。

私たち皆がそのような結婚生活を望んでいるでしょう。私たち皆が神様との親しい関係を望んでいるでしょう。アダムとエバには実際にそのような関係がありました。

毎日アダムとエバは庭で一緒に働き、その後で、多分ハイキングをしたり、美味しい物を食べたり、楽しい時間を過ごしたりしました。

そして夕方に神様が庭に来られると、彼らは神様と楽しい時間を過ごしました。

神様はその二人の行動や冒険のことを聞いて、喜ばれたと思います。また、アダムとエバがこの新しい世界について質問をしたとき、神様は答えてくださいました。

多分、何年も経ってその関係はもっと、もっと親しくなったと思います。けれども、その関係は一瞬にして壊れてしまいました。

あなたもその話をご存じでしょう。アダムとエバは禁断の木の実を食べました。その瞬間、アダムとエバの間に恥と不安が入り込みました。いちじくの葉で服を作り、自分たちの体を隠しました。

さらに、彼らの信頼関係は失われました。「受け入れてくれているだろうか」、また「本当に愛してくれているのだろうか」という不安が生まれました。

そして、神様がエデンに来られたとき、アダムとエバは神様を迎えるのではなく、むしろ逃げて隠れました。

神様がアダムとエバに面と向かわれたとき、その関係の亀裂が明らかになりました。

「神様。私のせいではありません。それはエバのせいです。一体どうして、あなたは私にエバを与えたのですか。私はあなたに妻をくれとは頼んでいませんでした。」

エバはそんな言葉を聞いて、どう感じたでしょうか。裁かれ、拒絶されたと感じたでしょう。

神様はどう感じられたでしょうか。

「私を拒絶しているのか。私がせっかく造った貴重なギフトも拒絶しているのか。」

ずっと親しい関係を持っていたのに、一瞬にして壊れてしまいました。

しかし、アダムとエバとの関係が壊れたその瞬間から、神様はその関係を回復するために働き始められました。神様はアダムとエバのために服を作ってくださいました。

そのとき、神様はどのようにその関係を回復するかを示してくださいました。神様は動物を殺されました。死は初めてこの世界に入りましたが、その動物の皮によって、神様はアダムとエバの恥を覆われました。

そのように、数千年後、神様はご自身のひとり子を送られ、十字架でイエス様の死によって、私たちの罪と恥を覆ってくださいました。

この壊れた世では、人間関係は難しいものです。時には、人間関係によって、私たちは深く苦しむことがあります。

私の結婚生活が完璧だとは言えません。時々私は妻と喧嘩しますし、時にはお互いをがっかりさせることもあります。

神様との関係も難しいものです。アダムとエバのように、神様と親しくなりたいです。神様の声をもっとはっきりと聞きたいと思います。

けれども、イエス様を通して、神様は回復の道を備えてくださいました。その道を求めましょう。

神様との関係をやめるのは簡単なことです。どうかそうしないでください。神様との関係を求め、人間関係も大切にしましょう。

そのために、私たちには努力と謙遜な態度が必要です。しかし、神様の恵みと力によって、壊れたものは回復することができます。

神様はアダムとエバとの関係を回復されました。神様はあなたとの関係も回復してくださいます。

カテゴリー
創世記

恥がない

この箇所を読むとき、私が一番印象に残っているのは、神様の愛と親切さです。人間を創造するとき、神様は愛を持って、アダムとエバのすべてのニーズに備えてくださいました。

例えば、美しくて美味しい食べ物を造られました。納豆のような食べ物ではなく、美しくて美味しそうなものを造ってくださいました。(納豆が美味しいと思う人が本当にいるのでしょうか。)

それに、神様は彼らに楽しい仕事を与えてくださいました。

そして、アダムが自分の必要性を知る前に、神様はエバを創造してくださいました。

アダムはエバを初めて見たとき、本当に嬉しかったようです。もしかしたら彼は、「すごい!この人こそ私が探し求めていたものだ。神様は私のためにこの人を造ってくださった。やった!」と言ったかもしれません。

そして聖書によれば、彼らは裸でも恥じることがありませんでした。

結婚はそのような関係であるべきです。夫婦は裸でも恥じることがないはずです。

けれども、私はセックスのことだけについて話しているわけではありません。夫婦は恥じることなく、心のすべてをさらけ出すべきです。夫婦は互いを完全に受け入れるべきです。

相手のすべてを知り、受け入れ、喜ぶべきです。

「すごい。この人は素晴らしい」と言う態度を取るべきです。

しかし、たくさんの結婚はそうではなく、早々に崩れてしまいます。

私たちみんな、相手のことを知りたいし、自分を知ってもらいたいと思っています。また、相手に受け入れられたいとも思っています。

一緒に笑い、遊び、話し合うという喜び。それこそが神様がデザインされた結婚生活なのです。けれども、サタンは私たちからそのような結婚生活を奪いたいとどれほど強く望んでいることでしょうか。

拒絶されることを恐れ、相手に私たちの心をさらけ出すことができないと思う人が多いです。もしかしたら、あなたは過去に傷つき、自分の心をさらけ出すことがもうできないと思うかもしれません。

しかし、もしあなたが命の創造主に立ち返り、その無条件の愛と受け入れを受け取るなら、あなたは癒されます。そして、あなたは相手を愛し、受け入れることができるようになります。

さらに、神様はあなたの死んだ結婚を復活させ、新しくしてくださいます。

そして、アダムとエバの関係のように、あなたは裸で恥じることのない結婚生活を送ることができるようになります。

カテゴリー
創世記

神のかたちに創造された

私は27節を何度も読んだことがあるため、深く考えずに読み流してしまうことは簡単です。しかし、神様はこの真理が非常に重要だと思われたため、27節で同じことを二度繰り返して言われました。

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(27)

つまり、神様は人間を造られたとき、御自身の反映を造られたのです。

私たちが親切であるとき、神様のかたちを反映します。

恵みとあわれみを与えるとき、神様のかたちを反映します。

私たちの中にある愛やその他の良いものがあれば、それらは神様の性格を反映します。

ですから、他人を見るときは、私たちを造られた神様のかたちとして見るべきなのです。

とはいえ、時にはそうすることが難しいものです。私たちは神様のかたちを反映しますが、アダムとエバとは異なり、そのかたちは歪んでいるのです。罪の傷によってそのかたちは歪んでいるのです。

時々、梅田の地下道を歩いていると、とても悪い匂いに気づきます。目を上げると、ホームレスの方がいるのです。

もしかしたら、その方は何週間もお風呂に入っていないのかもしれません。その方を見るとき、神様のかたちを認識することは私にとって難しいのです。

また、学校では、時々私の生徒たちが本当に悪い態度を取るので、さまざまな問題が生じます。

そのような時も、神様のかたちを認識するのは難しいです。そのため、その人ちを見下すことは簡単になってしまいます。「その人たちはあまり価値がない」と考えてしまいます。

けれども、神様はその人たちを見るとき、私にこう言われます。

「そのかたちは歪んでしまったけれど、それはやはりわたしのかたちなのです。それでも、あなたはその人たちを見下すのですか。その人たちは非常に価値があり、イエスはその人たちの罪のために死んだのです。」

正直に言うと、私のかたちも歪んでいます。人を裁いて見下すと、私の中の神様のかたちも歪んでしまいます。

私の人生、特に私の罪を見ると、他の人たちはどう考えるでしょうか。私の中の神様のかたちはどれほど歪んでいるでしょうか。実のところ、私はそんなことを知りたくないのです。

しかし、神様は私のことを諦められません。毎日神様は私を新しくしてくださいます。神様は毎日私の内で働いてくださり、私をご自身のかたちのように変えてくださいます。

第二コリント3:18では、パウロはこう言います。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです.

もし神様が私のことを諦められなかったのなら、どうして私が他の人を簡単に諦めることができるでしょうか。どうして私が他の人たちを見下すことができるでしょうか。

私が受けたのと同じ恵みによって、神様はその人たちの中でも働いておられるかもしれません。

ですから、私が自分に問いかけなくてはならないのは、「私が受けたあわれみを彼らに与えているだろうか」ということです。

私が他の人たちに見てもらいたいのは、
私の中にいるあなたのかたちです。
私があなたの心を映す鏡になれるように。

あなたのかたちをもって、歩みたいのです。
自分の父を真似する子どものようになりたいのです。
あなたの心を映す鏡になりたいのです。

--クリス・クリスチャン

カテゴリー
創世記

神様の力と知恵

創世記1章を読むとき、私にとって印象的なのは、神様の力と知恵です。御言葉だけで、神様は全てのものを造られました。神様が「光よ、あれ」と言われると、光は突然現れました。

そして、神様が「動物と木と花よ、あれ」と言われると、それらはすべてたちまち現れました。

神様はどのようにしてモーセにこの場面を説明されたのでしょうか。言葉だけで伝えられたのでしょうか。それとも低速度撮影の動画を見せられたのでしょうか。私もそれを見たいと思います。

ところで、もし神様が現代の科学者と話されるとしたら、創造についてどのように説明されるでしょうか。もし神様がすべてを説明されるとしたら、科学者はその説明を完全に理解できるでしょうか。

私たちは賢くて、たくさんのことを既に知っていると考えがちです。

もちろん、現代の科学者は、モーセよりも多くのことを知っています。それでも、神様が説明されたら、彼らはそのすべてを理解できるでしょうか。おそらく、それは不可能でしょう。

科学者が天国に行って、神様とこのような事について話す時、興味深い話になるでしょう。「ああ、そうでしたか。私たちは大体正しかったけれど、少し間違っていました」と言うかもしれません。

または、「へえ、私たちは全く間違っていましたね」と言うかもしれません。

それでは、私は何を言いたいのでしょうか。神様の力と知恵について考えるとき、私たちは神様を恐れるべきです。

恐れると言っても、「神様が怖い」という意味ではありません。むしろ、「神様は素晴らしい」という意味です。

時々、私たちはこの世界を見て、多くの地震や竜巻、戦争、病気などを目の当たりにします。そして、私たちは「どうして」と問いかけます。

「神様、どうしてそのようなことをお許しになるのですか。」

自分の健康問題について考えるとき、「どうして私は糖尿病を発病したのだろうか」、または、「どうして胃潰瘍を発病したのだろうか」と問いかけます。

時々答えは簡単です。

「あなたがコーラを飲みすぎたから糖尿病を発病したのです。」

けれども、ある場合には、そのような疑問には答えが見つからないことがあります。そして私たちは苦しみます。

しかし、私たちが科学的な疑問を理解できないのに、どうして哲学的な疑問を理解できるでしょうか。

神様の知恵は私たちの知恵よりもはるかに優れています。

この世に生きている限り、私たちには理解できないことがあるのは当然です。私たちはただの人間ですから。

神様が説明しようとしても、私たちはまだ理解できないかもしれません。

それでも、神様が望んでおられるのは、私たちが神様に信頼することです。つまり、神様は私たちが次の3つのことを信じることを望んでおられます。

一つ目は、神様は御自分が何をなさっているのかをよく知っておられるということです。

二つ目は、神様は良い方であるということです。

三つ目は、神様はあなたを愛しておられるということです。あなたがどのような状態になっても、神様はあなたを愛しておられるのです。

ヨブはその真理を学びました。彼の人生は突然困難なものになりました。

「なぜ」と尋ねたとき、神様は全く答えてくださいませんでした。

しかし、最終的にヨブは神様の素晴らしさを目にしました。そしてヨブはこう言いました。

あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、 私は知りました。

あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。

確かに私は、 自分の理解できないことを告げてしまいました。 自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。

あなたは言われます。「さあ、聞け。わたしが語る。 わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」と。

私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。それで、私は自分を蔑み、悔いています。 ちりと灰の中で。(ヨブ42:2-6)

ヨブが謙虚な態度をとった後、神様はヨブの人生を回復されました。それだけではなく、神様はヨブを以前にも増して祝福されました。

ですから、どんな状況に直面しても、どんな疑問があっても、どんな困難があっても、私たち以上に知恵を持っておられる神様に信頼しましょう。神様が私たちの状況の中で働いておられることを信じましょう。

そうすれば、私たちは神様の栄光を目にすることができます。

パウロが言ったように、

ああ、神の知恵と知識との富は、なんと底知れず深いことでしょう。そのさばきは、なんと知り尽くしがたく、その道は、なんと測り知りがたいことでしょう。

なぜなら、誰が主の御心を知ったのですか。また誰が主のご計画にあずかったのですか。また、誰が、まず主に与えて報いを受けるのですか。

と言うのは、全てのことが、神から発し、神によってなり、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ書11:33-36)

カテゴリー
創世記

はじめに神

「はじめに神」

それらはシンプルな言葉ですが、私の目に留まりました。なぜだろうか?どうしてその言葉は私の心に響いたのでしょうか。

おそらく、そのシンプルな言葉には本当に深い意味があるからでしょう。

「はじめに神様」。

「はじめに進化」ではなくて、「はじめに神様」と書いてありました。

もし私たちが進化によって生まれたのであれば、私たちは自然の偶然にすぎません。

けれども、私たちが偶然の生物だとすれば、結局私たちの人生には全く意味がないのです。私たちは動物と同じように生まれて、いつか死ぬのです。

しかし、私たちは偶然の存在ではありません。はじめから神様は、私たちを知り、私たちのために計画を持っておられました。私たちの人生の意味は神様にあります。

ですから、私たちの人生の意味を見つけたいのであれば、神様から始めなくてはなりません。

それ以外のところから始めようとするなら、私たちには虚しさしか見つけられないのです。私たちの大前提が間違っているからです。

ソロモンという王はその真実を深く理解していました。ソロモンはイスラエルの最も偉大な王でした。最も裕福で、最も賢く、彼の王国には平和がありました。

けれども、神様を捨て、自分の幸せを追求しました。多くの女の人と結婚し、多く働き、多くのことを学びました。

ところが、結局ソロモンが言ったのは「空(くう)の空、すべては空」ということです。

つまり、「すべては虚しい。神様から離れては、私を満足させるものは何もないのです。私の人生は無意味です。」

なぜでしょうか?神様自身が命なのですから。もし神様から離れたら、私たちの人生は虚しくなります。

私の人生について考えると、自分に問いかけなくてはならないのは「私は本当にそれを信じているだろうか」ということです。

私は毎日、起きてから寝るまで神様と共に歩んでいるでしょうか。神様は私の全てでしょうか。それとも、私は神様から離れて歩んでいるのでしょうか。

実際、神様から離れて歩むことは簡単です。神様は目に見えないからです。だから神様を無視することはとても簡単なことです。

私はよく仕事をしたり、スポーツ観戦をしたり、インターネットを見たり、ゲームをしたりします。

それらは悪いことではありませんが、ソロモンが言ったように、私が神様から離れていては、私の人生は虚しくなります。

一時的に満足するかもしれませんが、結局私の人生は虚しくなってしまいます。

この世界のものは神様からのギフトです。しかし、ギフトは一時的なものです。そのため、そのものには永遠に満足させる力がありません。

その一方、神様は永遠の方です。神様は満足を与えてくださる方です。

だから一時的なギフトを求めてはいけません。むしろ、ギフトを与えてくださる方を求めましょう。

そうすれば、私たちの人生の意味を見いだすことができます。

また、私たちは本当の満足を見いだすことができるのです。

カテゴリー
このブログについて

はじめに

2011年に、私は英語の聖書ブログを始めました。聖書を読みながら、自分の考えを書き始めたのです。

しかし、日本人の友達は「読みたいけれど、英語が分からない」と言いました。

彼はインターネットの翻訳ソフトを使おうとしましたが、その翻訳はあまり良くないと思いました。そこで、私はこのブログを始めることにしたのです。

実は、私の日本語もあまり上手ではありません。日本語で何かを書くと、妻から「ちょっと変ですねえ」とか「可愛い日本語ですねえ」とよく言われます。

とはいえ、多分私の日本語は、その翻訳ソフトよりは分かりやすいと思います。

ですから、私のつたない日本語をどうか許してください。 :) 

そして、このブログを楽しんでいただければ幸いです。

このブログを通して、あなたが神様とその言葉をもっと深く理解するように願っています。