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ヨハネの福音書のデボーション

誰の真理?

ヨハネの福音書10:26-27では、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

今日の箇所では、イエス様はピラトに対して、これと似たことを言われました。

真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。(ヨハネの福音書10:37)

私たちは、真理にますます敵対する世界に暮らしています。多くの人々はピラトのようにあざけって、「真理とは何なのか」と言います。

アメリカでは、”Your truth”、すなわち「自分の真実」ということばが流行しています。つまり、自分が信じることや感じることこそ正しく、周囲の人々はそれを間違っていると言う権利を持っていない、という考え方です。なぜなら、客観的な真理は存在しないとされているからです。

しかし、天の父に祈られたとき、イエス様はこう言われました。

あなたのみことばは真理です。(ヨハネの福音書17:17)

あなたはそう信じるでしょうか。

イエス様の羊は、イエス様の声に聞き従います。そうでないなら、私たちは本当にイエス様の羊ではありません。私たちは真理に属する者とは言えないのです。

聖書のみことばがあなたの考え方と食い違うとき、どうするでしょうか。あなたの考え方を聖書の教えに合わせるでしょうか。それとも、聖書の教えを曲げて、自分の考え方に合わせようとするのでしょうか。

あなたはイエス様のように、天の父に向かって「あなたのみことばは真理です」と告白するでしょうか。

それとも、自分の「真実」にしがみつくでしょうか。

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あなたご自身が、私を愛しておられるから

父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。(ヨハネの福音書16:27)

天のお父さん、あなたの愛を心から感謝します。

イエス様が私を愛しておられる一方で、天のお父さんが私から距離を置いておられる、ということではないのです。

あなたご自身が、私を愛しておられるのです。

あなたがサウル王のように私に敵対しておられ、イエス様がヨナタンのように私のために必死にとりなしてくださらなければならない、というのではありません。(サムエル記第一19章)

あなたご自身が、私を愛しておられるのです。

また、私が必要を覚えるとき、イエス様を通してでなければあなたに願えない、ということでもありません。私はあなたに直接願い求めることができます。

なぜなら、あなたご自身が、私を愛しておられるからです。

これは本当に不思議な真理です。

あなたご自身が、私を愛しておられるのです。

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私は枝。あなたこそがぶどうの木。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネの福音書15:5)

最近、この箇所に基づいた歌をよく聴いています。

その歌詞の一つは、

I’ll be the branch,
私は枝でいます。
You be the vine.
あなたはぶどうの木であってください。—マーク・ガーシュメル

今日、このことばを思いめぐらしています。

「私の人生には、あなたはぶどうの木であってください。私は枝として生きます。」

それはどういう意味でしょうか。

たぶん、それは、「私の主であってください。私はあなたの立場を奪おうとせず、素直にあなたを信頼し、従います」ということです。

なぜなら、ペテロと同じように、私は主のみことばがいのちを与えるものだと信じているからです。(ヨハネの福音書6:68)

だから、私は主のみことばを喜んで心にとどまらせます。私はもはやそのみことばと言い争ったり、戦ったりすることはありません。

むしろ、私はそのみことばに洗われ、変えられることを喜んで受け入れます。そうすれば、そのみことばがどれほど良く、いのちを与えるものであるか、また天のお父さんがどれほど私を愛してくださるのか、さらにはっきりと分かるようになると知っています。

そして、その愛に満ちて、私は多くの実を結んでいきます。

私は毎日、イエス様がぶどうの木であり、私は枝として生きる喜びをますます知りたいです。

あなたはどうでしょうか。

I feel so free
私は自由を感じます。
When you are my Lord,
あなたが私の主であり、
And I am just me.
私がただ私でいられるとき。—マーク・ガーシュメル

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私たちが真実でなくても

ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」

イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書13:37~14:1)

聖書の章と節の区分は便利ですが、ひとつの問題は、その章と節のせいで、私たちがしばしば本来つながっている思いを分断して読んでしまうということです。

なぜイエス様は弟子たちに「心を騒がせてはなりません」と言われたのでしょうか。

なぜイエス様は「わたしを信じなさい」と命じられたのでしょうか。

それは、弟子たちがイエス様に対して真実でなかったにもかかわらず、イエス様が彼らに対して常に真実であられることを励まそうとしておられたからです。

また、イエス様はしばらく彼らから離れておられますが、彼らを捨てられるわけではありません。むしろ、イエス様は必ず戻り、彼らをご自分のもとに迎えてくださいます。

ペテロはイエス様に対して大きく失敗してしまいましたが、イエス様は彼を捨てられませんでした。むしろ、イエス様はペテロを追い、取り戻してくださいました。(マルコの福音書16:7;ルカの福音書24:34;ヨハネの福音書21章)

しかし、それはペテロだけのためではありません。イエス様はすべての弟子たちのために同じことをしてくださいました。(ルカの福音書24:36~49)

私たちは、自分の失敗の大きさや、その頻度を見ると、容易に絶望してしまうときがあります。

しかし、イエス様は「しっかりして、自分を信じなさい」と言っておられるのではありません。

むしろ、イエス様はこのように言って、私たちを励ましてくださいます。「わたしを信じなさい。あなたがどれほど失敗しても、わたしはあなたを決して捨てることはありません。」

私たちが真実でなくても、
キリストは常に真実である。
ご自分を否むことができないからである。(テモテの手紙第二2:13)

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私たちの主の土台を持って生きる

イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。(ヨハネの福音書13:3)

今日の箇所では、イエス様は卑しい仕事を引き受け、弟子たちの汚れた足を洗ってくださいました。

すこし考えてみてください。

数時間後、ペテロは「イエスを知らない」と言い張ってしまいます。イエス様はそれをよくご存じだったのに、ペテロの足も洗ってくださいました。

また、ユダはすでにイエス様を裏切ろうと企んでいました。イエス様はそれをよくご存じだったのに、ユダの足も洗ってくださいました。

さらに、イエス様は、その夜ご自分が逮捕されるとき、ほかの弟子たちが逃げてしまうこともよくご存じでした。それでも、イエス様は彼らの足をも洗ってくださいました。

これこそ、驚くべき愛と謙遜です。どうしてイエス様はそのような愛と謙遜を持っておられたのでしょうか。

  1. イエス様は、天の父との関係について確信を持っておられました。天の父がイエス様を愛しておられることをよくご存じでした。また、天の父がイエス様にすべての権威を与えてくださったこともよくご存じだったのです。
  2. イエス様は、ご自分がどこから来られたのかをよくご存じでした。天の父がこの世を救うためにイエス様を遣わされたことを、はっきりと理解しておられました。
  3. イエス様はご自分がどこに行かれるのかもよくご存じでした。十字架で死なれることをご存じだっただけでなく、その後、天の父のもとに帰られることもご存じだったのです。

私たちも皆、イエス様のようになりたいと願っているでしょう。イエス様のように、人々を愛し、許し、仕えようと努めているでしょう。

しかし、私たちはイエス様と同じ土台を持っているでしょうか。

私たちは、天の父との関係について確信を持っているでしょうか。つまり、天の父が本当に私たちを愛しておられるという確信、そして私たちが神の子どもとされているという確信を持っているでしょうか。(ヨハネ1:12;第一ヨハネ3:1–2)

私たちは、自分がどこから来たのかを知っているでしょうか。神様が愛をもって私たちを造られたことを、心から理解しているでしょうか。(詩篇139)

また、神様が私たちを使節としてこの世に遣わされたことを知っているでしょうか。(第二コリント5:18–21)

そして、私たちはどこに行くのかを分かっているでしょうか。イエス様が復活されたので、私たちも復活の希望と永遠のいのちの希望を持っていることを理解しているでしょうか。(ヨハネの福音書14:2–3)

さらに、苦しむときも悲しむときも、イエス様がすでにこの世に勝っておられ、私たちが永遠にイエス様と共にいるという確信を持っているでしょうか。(ヨハネの福音書16:33)

どうぞ、上記の箇所を読んでください。そのみことばに思いを巡らしましょう。私たちの土台を心にしっかりと留めておきましょう。

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愛の香り

一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネの福音書12:3)

このことばはいつも私の心に響きます。

その家は、誰もが感じ取れるほど、イエス様へのマリアの愛の香りで満たされていました。

しかし残念ながら、貧しい人へのユダの偽善的な愛によって、その香りはすぐに台無しにされてしまいました。

正直に言うと、今朝、私はなぜか心がささくれていました。神様や周囲の人々に、私はどのような香りを放っていたのか分かりません。

でも、私はユダのような匂いを放ちたくありません。

むしろ、イエス様にも、周囲の人々にも、芳しい香りを放ちたいのです。

イエス様、あなたへの私の愛が、あなたにも、周囲の人々にも、芳しい香りとして漂いますように。

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「石を取りのけなさい」

イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」

イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

そこで、彼らは石を取りのけた。(ヨハネの福音書11:39~41)

「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」

イエス様のみことばは私の心を打ちました。

ときには、私たちは人生の重い石を取りのけるのが遅くなってしまいます。その石は、私たちの心の中にある死んだものを覆い隠しているからです。

傷、絶望、苦々しい思い、許さない心、その他の罪は、心の奥に埋もれています。

しかし、イエス様を信じなければ、私たちの人生に神の栄光を見ることは決してありません。

もちろん、従順は信仰とともに来るはずです。本当に信じるなら、私たちは良い王に従うはずです。

私たちは不従順のために、さまざまな言い訳をすることができます。

「しょうがない。私はこういう人間だから。私の状況は決して変わらないだろう。」

しかし、その道を選ぶなら、私たちの人生に神の栄光やみわざを見ることはないでしょう。

私たちは石を取りのけ、心の中の死んだものすべてを神様の前に表に出さなければなりません。

そして、一歩一歩、神様の恵みと助けによって、その死んだものを捨てていかなければなりません。

主よ、あなたがキリスト、すなわち良い王であることを信じます。だからこそ、私の心とその中にあるすべてをあなたの前に表に出します。私があなたを信頼し、従うことができるよう助けてください。

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私たちの羊飼いに聞き従って

門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。

羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです…

わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。(ヨハネの福音書10:3~4、16)

いろんな意味で、この箇所は8章に似ています。8章では、イエス様は、神様から出た者は神のことばに聞き従うと言われました。

10章でも、同じテーマを見ることができます。イエス様の羊の特徴は、その良い羊飼いの声を聞き、従うということです。

もちろん、羊は愚かなもので、羊飼いからさまようときもあります。けれども最終的には、羊は羊飼いの声をよく知り、喜びます。そして呼ばれたとき、羊は羊飼いのもとに走るのです。

9章に登場する癒された盲人は、イエス様の羊でした。イエス様が呼ばれたとき、その人はイエス様の御声を喜び、従いました。(ヨハネの福音書9:35~39)

その一方、5章に登場する病人はどうでしょうか。イエス様が彼を癒してくださったのに、その人はイエス様を喜び、従う者とは言えません。むしろ、迫害を避けるために、イエス様のことをユダヤ人の指導者たちに知らせました。(ヨハネの福音書5:14~16)

そうは言っても、完璧な羊はいません。

私たち皆、失敗し、羊飼いからさまようときがあります。

では、どのようにして私たちが本当にイエス様の羊かどうか分かるのでしょうか。

羊飼いに対する私たちの基本的な態度が、その答えを示します。それは、羊飼いがどこに行かれても、私たちが信頼し、喜び、聞き従うことです。

それはあなたの心でしょうか。

あなたは誰の羊でしょうか。

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世の光となって

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。

わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。

わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」(ヨハネの福音書9:3~5)

私たちの人生に悪いことが起こるとき、神様がきっと私たちを罰しておられるのだろうと考えてしまうのは、容易なことです。

牧師は昨日の説教で、創世記にあるヨセフの物語について語っていました。ヨセフは自分の状況だけを見るなら、こう思ったかもしれません。「神様は何かの理由で私を罰しておられるのだろうか。なぜ私はこのように苦しんでいるのだろうか。」

しかし、神様はヨセフを罰しておられたのではありません。むしろ、ヨセフにご自身のみわざを現すために、その困難をあえて許されたのです。

だからこそ、ヨセフはどこに置かれても、神様が備えられた働きを忠実に行いました。そうすることで、彼は自分を裏切った兄たちだけでなく、エジプトの人々すべてに光となりました。

神様が私の人生にも同じように働いてくださることを願っています。

イエス様のように、私は世にいる間、世の光です。(マタイの福音書5:14)

そしてイエス様と同じように、神様は私のために良い行いをあらかじめ備えてくださいました。だから、私はその良い行いを、忠実に歩んでいくべきです。(エペソ人への手紙2:10)

あなたについても同じことが言えます。

だからこそ、私たち皆でこのように祈りましょう。

主よ、あなたのみわざが私に現れますように。私の人生を通して、あなたが栄光を受けてくださいますように。

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本当に神様の者であるなら

この方を、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。

あなたがたはこの方を知らない… (ヨハネの福音書8:54~55)

今朝、ある友だちのSNSのコメントを見ていました。彼女はご自分がクリスチャンだと主張していますが、最近のみことばに反する発言を見ると、私は少し疑問に思っています。

パリサイ人たちや律法学者たちも同じような者でした。彼らは神様を知っていると主張しましたが、イエス様によれば、彼らは神様を本当に知っていなかったのです。

どうしてイエス様はそのように言われたのでしょうか。

それは、彼らが神様のことばに聞き従わなかったからです。

イエス様は彼らにこう言われました。

「わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。

神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(ヨハネの福音書8:46~47)

私はイエス様のみことばをただ聞くだけではなく、聞き従わなくてはなりません。

では、私たちは神のみことば、またイエス様のみことばをどう扱うでしょうか。

もし私たちが神様の者であると主張するなら、そのみことばを取捨選択し、好きなことばだけを取り、好きでないことばを捨てることはできません。

私たちが本当に神様の者であるなら、そのみことばのすべてを喜んで受け入れ、聞き従うはずです。

そうすれば、私たちは自由を見いだし、いのちを見いだすことになります。

けれども、私たちが自分自身に問わなければならないのはこうです。「私は良い王を信頼するだろうか。」

わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます…

あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:12、31~32)

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「わたしのもとに来なさい」

イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネの福音書7:37)

今朝、イエス様のみ言葉を思いめぐらしていました。

「わたしのもとに来なさい。」

私は疲れて、潤いたいと思うとき、どこに行くのでしょうか。

正直に言うと、私はしばしばYouTubeを見ます。また、本を読んだり、コンピューターゲームをしたりします。

しかし、私はどれほどイエス様のみもとに行くのでしょうか。

もちろん、たまにそうすることはあります。

主とともに散歩したり、ギターを弾きながら賛美することもあります。

けれども、多くの場合、それは三番目や四番目の選択肢です。

「わたしのもとに来なさい。」

イエス様がこの世を歩んでおられたとき、弟子たちは簡単にそれができたでしょう。

けれども、イエス様はいつも天のお父さんのみもとに行っておられました。

イエス様は天のお父さんに近づいて祈り、そのみ声に耳を傾け、その愛を受け取る時間を取っておられました。

私もそのような時間を取る必要があるでしょう。

イエス様、私があなたのみもとに来て、潤うことを学ぶようにしてください。そして、私がこのように言えるようにしてください。「私の泉はみなあなたにあります。」(詩篇87:7)

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生けるパン、生ける水

イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう…

わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書4:10、14)

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません…

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネの福音書6:35、51)

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。(ヨハネの福音書7:37~39)

イエス様、あなたは天から下って来られた生けるパンです。私があなたを食べる者としてください。

あなたのみ言葉はいのちを与えてくださいます。それは、「いつか天に行ったときのいのち」だけではなく、今のいのちなのです。

だから、私があなたが語っておられたみ言葉のすべてを食べる者としてください。私があなたを信じ、そのみ言葉が私の頭から心へ、そして手へと届くようにしてください。また、そのみ言葉が私の魂を養い、毎日毎日、一瞬一瞬、私を励まし、私の考え方を変えるようにしてください。

また、私は日々あなたの愛と恵みを食べる者としてください。あなたは、十字架でご自分自身を捧げられたとき、この世のいのちのために、そして私のいのちのために、その愛と恵みを示してくださいました。

さらに、私が決して乾くことがないように、生ける水である御霊を私の上に常に注いでください。御霊が私のうちに住み、潤し、導き、あなたの働きをするために力を与えてくださいますように。

イエス様、私の生けるパンとなってください。

聖霊様、私の生ける水となってください。

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乾かない歩みへ

イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。

しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書4:13~14)

イエス様のみ言葉を思いめぐらしていました。

井戸や泉は何のためにあるのでしょうか。ただの飾りではありません。水を飲むためのものです。一度きりではなく、いつも、飲み続けるためのものです。

神様は私に、生ける水である御霊を与えてくださいました。(ヨハネの福音書7:38~39)

そして、その御霊を得るために、私は外に探しに行く必要はありません。御霊は私のうちに住んでおられます。私は、毎日毎日、一瞬一瞬、その交わりと愛と力を飲みながら生きる者なのです。

それは「いつか天に行ったときのいのち」のためではなく、今のいのちのためです。

永遠のいのちは、すでに始まっている現在のいのちなのです。

しかし、もし私が御霊から絶えず飲むことをしないで、別の井戸を求めてしまうなら、私は再び渇いてしまいます。

私はそのように生きたくありません。

だから、先週と同じように、私はもう一度、御霊に祈ります。

More love,
あなたの愛をもっと
More power,
あなたの力をもっと
More of you in my life.
あなたご自身をもっともっと求めています。– ジュード・デル・イエロ

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御霊によって生まれて

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。水と風(別訳)によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。(ヨハネの福音書3:5)

私は確実には言えませんが、もしかしたら、その訳は正しいのかもしれません。

旧約聖書の言語でも、新約聖書の言語でも、御霊・風・息は同じ語で表されます。

ですから、もしかすると5節でイエス様は、「水」と「風」を御霊の比喩として用いておられたのかもしれません。

つまり、「御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」ということです。

実際、イエス様は6節と8節で、「水と風によって生まれる」という表現を「御霊によって生まれる」と言い換えておられます。

いずれにせよ、私は、なぜ聖書が御霊を水や風に例えるのかを考えていました。

旧約聖書では、水は人を清め、乾いた地を潤し、実を結ばせ、いのちを与えます。(イザヤ書44:3~4;エゼキエル書36:25;47:8~9)

また、息は四方から吹き、人に吹きつけて、彼らを生き返らせました。(エゼキエル書37:9~10)

さらに、神の『息』は人の内に住み、その『風』は神の道に従うように導いてくださいます。(エゼキエル書36:26~27)

ですから今日、私はこのように祈りました。

聖霊様、私に吹きつけ、私を生かしてください。私はあなたから離れていては、いのちを持つことができません。

私の罪と汚れをきよめてください。私の中の乾いたところを潤し、私が実を結ぶ者となるようにしてください。

そして、あなたの生ける水の川が私から流れ出て、周囲の人々にいのちを与えるようにしてください。

あなたは思いのままに行かれます。どうか私を連れて行ってください。あなたがどこに行っておられるのかを教えてください。あなたの道を示してください。

私はあなたがどこに行っておられるのか分かりませんが、どうか私を導いてください。

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神の宮をきよめて

細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、

鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」

弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。(ヨハネの福音書2:15~17)

今日の箇所を読んだとき、私はこのように思わされました。「イエス様は、私の心の中のどの態度を倒し、どの罪を追い出したいと願っておられるのでしょうか。」

神様はすぐに答えてくださいました。

私の体は御霊の宮です。イエス様は私をご自身の父の家と呼んでおられます。だからこそ、その家を思う熱心がイエス様を食い尽くします。

そこで私は、自分の罪やふさわしくない態度を思い起こしたとき、このように祈りました。

「主よ、神の宮に対するあなたの熱心を与えてください。私がこのふさわしくない態度を倒し、この罪を追い出せるように助けてください。」

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二流のクリスチャンなどいない

また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。 すると皆が聖霊に満たされ(た)。。。(使徒の働き2:3-4)

この言葉は私の目に留まりました。

御霊は、その部屋にいた一人ひとりの上にとどまりました。12人の使徒たちだけではなく、皆の上にとどまりました。男性も女性も、年配の人も若者も関係なく、御霊は皆の上にとどまりました。

彼らの間には、二流や三流のクリスチャンなどいませんでした。

彼らは皆、神の臨在、知恵、力にアクセスを持っていました。

私も、あなたも、そのアクセスを持っています。

私はそのアクセスを当たり前のものだとは決して思いたくありません。

むしろ、神様が与えてくださったものを最大限に活用したいと願っています。

だから、今日、このように歌っています。

More love,
あなたの愛をもっと
More power,
あなたの力をもっと
More of you in my life.
あなたご自身をもっともっと求めています。– ジュード・デル・イエロ

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祈りに専念している

この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。(使徒の働き1:14、新改訳第三版)

今朝、そのことばを思いめぐらしていました。弟子たちは祈って終わりにしていたのではなく、祈りに専念していました。

では、彼らは何のために祈っていたのでしょうか。もちろん、自分の必要や個人的な霊的成長のために祈っていたかもしれません。

しかし、おそらくそれ以上に、二つのことを特に祈っていたのだと思います。

「あなたの御国が来ますように。」

「御霊を遣わしてください。あなたの御国をもたらすために、あなたの力で満たしてください。」

彼らは、自分たちが何のために祈っているのか、また神様がその祈りにどのように答えてくださるのか、具体的には分かっていなかったでしょう。

御国がローマ帝国をどのように変え、どのように広がっていくのかも、明確に分からなかったでしょう。

また、御霊とその力で満たされるとはどういうことなのかも、はっきりとは理解していなかったでしょう。

それでも、彼らはその祈りに専念しました。

そして神様は、彼らが思い描いていたすべてをはるかに超えて答えてくださいました。

私も彼らと同じように祈りたいと願っています。

主よ、あなたの御国が来ますように。

あなたの御霊で私を満たしてください。私が周囲の人々に御国の働きをするために、あなたの力で満たしてください。

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証しをする機会

しかし、これらのことすべてが起こる前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。

それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。(ルカの福音書21章)

今朝、13節は私の心を打ちました。

幸いなことに、私は迫害に直面したことはありません。

けれども、神様は私に思い起こさせました。「試練や辛いときを、ただの試練や辛いときとして見てはいけません。」

なぜなら、試練や辛いときのただ中で、もし私が天のお父さんを信頼する心を保つなら、周囲の人々は気づくかもしれません。そして、それがイエス様について証しをする機会となるかもしれません。

そう考えて、しばらく前の出来事を思い起こしました。そのとき、私は“かわいそうパーティー”を開いてしまい、その機会を逃してしまいました。

次の機会は逃したくないと願っています。

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主のために生きて

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。(ルカの福音書20:38)

イエス様のことばは私の心に深く響きました。そのことばを読んだとき、パウロの言葉が思い起こされました。

私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。

私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ人への手紙14:7~8)

アブラハム、イサク、ヤコブは、天国で単に主の前で自分勝手に生活しているのではありません。今もなお、彼らは主に仕えているのです。

イエス様の例え話に登場する農夫たちとは違い、彼らは神が受けるべき実を帰しています。彼らは神様の『肖像』を帯びており、「主のもの」という言葉も彼らの心に刻まれています。

私も彼らのようになりたいと願っています。天国や来る御国だけでそのように生きるのではなく、今、この世でこそそのように神様に仕えたいのです。

主よ、毎日毎日、一瞬一瞬、私の人生があなたのものでありますように。

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ちっちゃい子どものように

それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。(ルカの福音書19:4)

この箇所を読んだとき、私は「この年になって木に登るなんて、どれほど恥ずかしいことだろう」と思わされました。

それでも、ザアカイは自分の品位を捨て、子どものようになりました。

私もザアカイのような心が必要だと思います。ときには、周囲の人々が私をどう見ているのかを気にしすぎてしまうことがあります。

けれども、イエス様との関係となると、そのような考え方を捨て、イエス様を見、知り、喜ばせることに心を向けたいと願っています。

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ちっちゃい子供の心

しかし、イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。

まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 (ルカの福音書18:16~17)

今朝、私は、ちっちゃい子どものように神の国を受け入れるとはどういう意味なのかと思い巡らしました。

ちっちゃい子どもは、プレゼントを受け取るとき、どのような態度を示すでしょうか。それは無関心でしょうか。あるいは、そのプレゼントや与える人の良さを疑うでしょうか。

違います。ちっちゃい子どもは、そのプレゼントを喜んで受け取ります。

一方で、金持ちの態度を考えてみてください。彼は悲しくなって、イエス様が与えようとされた御国から立ち去ってしまいました。

なぜでしょうか。それは、御国が自分の富よりも価値があると信じることができなかったからです。

さらに、イエス様を「良い先生」と呼んだにもかかわらず、イエス様に従うほどには信頼することができませんでした。

ペテロも、心の中である程度そのような戦いがあったようです。御国の素晴らしさよりも、自分が何を捨てたのかに心が向き、本当に甲斐があるのかどうかをイエス様に尋ねていました。

私たちは、常に御国の価値や、私たちの王の良さについて疑いを抱くなら、御国に入ることができません。

ただし、私は皆さんに、時おり心に浮かんでしまうような一時的な疑いのことを言っているのではありません。私が話しているのは、御国とイエス様に対する私たちの基本的な態度のことです。

ちっちゃい子どもの心は、御国に無関心でもなく、その価値を疑うこともありません。

ちっちゃい子どもの心は、自分の王に対して皮肉な態度を抱くこともありません。

むしろ、ちっちゃい子どもの心は、御国とその王を喜んで受け入れるのです。

あなたはどうでしょうか。ちっちゃい子どもの心を持っているでしょうか。

あなたはイエス王とその御国をどのように見なすでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

自分を正しいとしようとする?

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。(ルカの福音書16:15)

イエス様のことばを読んだとき、神様が私の心の間違いを示してくださると、悔い改めるよりも自分を正しいとしようとしてしまう、その容易さを思い起こさせられます。

周囲の人々を、また自分自身を説得することができても、神様は私の心をよく知っておられます。

イエス様、私は「でもね」というのではなく、むしろ「はい、主よ」といつも言えるように助けてください。

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御国に入りたいですか

金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。

律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。

しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。 (ルカの福音書16:14~17)

これまでは、この箇所の流れを追うのが少し難しいと思っていました。

けれども、たぶんイエス様はこのように言いたかったのではないでしょうか。「多くの人々は神の国に入ろうとしますが、あなたがたがしなければならないことは一つです。それは、あなたがたの王とその価値観を喜んで受け入れることです。」

パリサイ人たちは、それをしようとしませんでした。むしろ、彼らは自分の王とその価値観をあざ笑いました。その価値観が、彼ら自身が従うと主張していた神の律法や預言者の書に基づいていたにもかかわらず、彼らは嘲笑したのです。

彼らは、お金についてのイエス様の教えを嘲笑しました。

さらに、イエス様のようには結婚を重んじず、別の人と結婚するために、すぐに自分の妻を離婚してしまいました(ルカの福音書16:18)。

さらに、イエス様のようには、正義、あわれみ、神様の愛を重んじませんでした(マタイ12:7;ルカ11:42)。

むしろ、神の前では忌み嫌われるものを重んじてしまったのです。

そして彼らは、自分の王を十字架につけてしまいました。

その結果、彼らが入ろうと求めた御国は、彼らに対して閉ざされてしまいました。

あなたはどうでしょうか。

自分の王を喜んで受け入れているでしょうか。

また、その王の価値観を喜んで受け入れているでしょうか。

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神様が大切にしておられるものを大切にする

ルカの福音書にある三つの例え話を、私はこれまで何度も読んできましたが、今日、初めて一つの考えが心に浮かびました。

放蕩息子が帰ってきたとき、父の喜びに対する長男の反応は、私たちはよく知っています。

しかし、近所の人たちはどう反応したでしょうか。もしその息子をよく知っていて、好意を持っていたのなら、きっと彼らも本当に喜んだでしょう。

では、羊飼いや女性の近所の人たちはどうでしょうか。彼らにとっては、そこまで大きな出来事ではなかったでしょう。

もちろん、「それは良かったね」とは言ったでしょう。

けれども、その後すぐに忘れてしまったに違いありません。

なぜでしょうか。それは、羊飼いや女性と同じようには、その失われたものに価値を置いていなかったからです。

長男もまた、父と同じようには弟に価値を置いてはいませんでした。

同じように、パリサイ人たちはイエス様のようには「罪人」や収税人に価値を置いていませんでした。彼らの目には、その人たちは救いようのない者に見えていたのです。

一方で、イエス様は彼らに最高の価値を置き、大切にされました。だからこそ、イエス様は彼らを積極的に探し求められました。そして、一人が悔い改めるとき、天にいる者たちは皆、喜ぶのです。

では、私たちはイエス様と同じように人々を大切にしているでしょうか。

この世では、人々は行動や言葉、態度によって、ますます周りの人を軽んじてしまいます。

私自身も、そうしてしまうときがあります。

しかし、イエス様は十字架で命を捧げるほどに、彼らを愛しておられます。

それなのに、私たちは彼らを軽んじてよいのでしょうか。

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私たちの王の心

しもべは言った。『ご主人様、お命じになったとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』

すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。』((ルカの福音書14:22~23)

この箇所を読んだとき、神様は私の心にこう語られました。「ブルース、わたしは、わたしの家が満ちることを願っている。空いている席を一つも望んでいない。だから、出て行って、人々が入るように促しなさい。彼らが失われたまま、滅びに向かうままにしてはならない。彼らを連れて来なさい。」

主よ、どうかあなたの心、あなたの熱心を私に与えてください。あなたと御国への熱心、そしてあなたが愛し、命を捧げてくださった人々への熱心を注いでください。

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神様のサーチライトを避けている?

そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」(ルカの福音書12:41)

ペテロのこの言葉は、私にはとても引っかかりました。

イエス様は、私たちが忠実であり、主の帰りに備えるべきことを教えておられる最中でした。ところが、ペテロはそこで、的外れな質問をしてしまったのです。

ペテロがイエス様のことばの矛先を自分から他の人へそらそうとしたのかどうかはわかりませんが、たまにそのようなことをしてしまう人でした。(ヨハネの福音書21:21)

とはいえ、振り返ってみると、私も同じことをしばしばしてしまいます。

日曜日のメッセージを聞くとき、また聖書を読むとき、神様のサーチライトが私の心を照らすことを許すのではなく、むしろ、「あの人こそ、これを聞くべきだ」とか、「あの人がこの言葉を心に留めてくれたらいいのに」と考えてしまうのです。

私は、もうそのようなことをしたくありません。神様のサーチライトが私の心を照らすことを喜んで受け入れたいのです。なぜなら、神様は私を責めるためではなく、私たちの偽善や罪深さを心からきよめたいと願っておられるからです。

そして、私が愛するお方のように変えられていくためです。

天のお父さん、あなたのサーチライトを喜んで受け入れます。どうか、私の心を探り、知ってください。

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弟子とは?

ルカの福音書11:2~4は、しばしば「主の祈り」と呼ばれています。 けれども、もっと正確に言うと、それは弟子の祈りです。

イエス様は、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられました。そうは言っても、弟子とは何でしょうか。

1.弟子は、神様を自分を愛しておられる天のお父さんと見なします。神様に近づくことを恐れず、むしろ、神様が自分を愛し、受け入れておられることを知って安心しています。だからこそ、喜びを持って、大胆に神様に近づきます。

2.弟子は、思いと言葉と行動で神様の御名をあがめます。

3.弟子は、神の国をすべてに優先します。自分の必要よりも、神様の国を大切にします。弟子の願いは、全世界が神様を敬って従うことです。

4.弟子は、天のお父さんを完全に信頼し、日々の必要も、霊的な守りも、すべて天のお父さんに頼ります。

5.弟子は、神様の恵みとあわれみを毎日必要としていることを認めます。だからこそ、その同じ恵みとあわれみを周囲の人々に与えます。

私はそのような弟子となり、またそのような弟子を育てたいと願っています。

あなたはどうでしょうか。

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自分の価値を認めてもらおうとして?

主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。

しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」 (ルカの福音書10:41~42)

イエス様のことばを読んだとき、私はどうしてマルタがそれほど思い煩い、心を乱しているのか疑問に思いました。

そして、次の考えが思い浮かびました。「もしかしたら、マルタはイエス様が自分をすでに受け入れておられることを、まだ分かっていなかったのではないでしょうか。彼女は、自分の価値をイエス様に認めてもらおうと必死になっていたのではないでしょうか。」

イエス様が私たちをすでに受け入れておられることを分からないままイエス様に仕えるとき、私たちはどれほどいろいろなことを思い煩い、心を乱してしまうでしょうか。

イエス様はもちろんご自身への私たちの忠実な奉仕を大切にされていますが、私たち自身をそれ以上に大切にしておられることを、どれほど忘れてしまうでしょうか。

マリアのように、イエス様が私たちをすでに受け入れておられるという確信を持ち、イエス様のもとで心を落ち着かせることができるでしょうか。

それとも、私たちは自分の価値をイエス様に認めてもらおうとして、心に重荷を抱えているのでしょうか。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。 (マタイの福音書11:28~30)

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主よ、あなたのように歩みたい

イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。(ルカの福音書9:11)

今朝、このことばを思い巡らしていました。

イエス様の教会は、そのように歩むでしょうか。

神の民はどうでしょうか。

では、私は?

私は周囲の人々を歓迎しているでしょうか。それとも、少し距離を置いてしまうでしょうか。あるいは、人を遠ざけてしまうときもあるでしょうか。

私は周囲の人々に神の国について話すでしょうか。

つまり、良い王がこの世に来られたことを伝えているでしょうか。

イエス様がどのような王であるのか、彼らが理解できるように助けているでしょうか。

イエス様がこの壊れた世に何をしておられるのかを示しているでしょうか。

彼らがその王をどのように見なすのかを変え、イエス様とその御国を喜んで受け入れるように促しているでしょうか。

そして、私は彼らの壊れた人生を、イエス様の癒しの力へと導いているでしょうか。

主よ、あなたのように歩みたいです。私を用いて、人々をあなたの御国に導いてください。

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あなたがたの信仰はどこにあるのですか

イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。(ルカの福音書8:25)

「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカの福音書8:48)

「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」(ルカの福音書8:50)

主よ、これは乱れた世の中です。あなたはそのことを前もって警告しておられました。(マタイ24:6~13)

けれども、あなたは少女の両親に言われたように、私にも語っておられます。

「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、わたしの救いを見るでしょう。」

主よ、私は信じます。

あなたは風や波の主です。

あなたは悪霊の主です。

あなたは病の主です。

あなたは死の主です。

そして、この世に起こっていることすべてにもかかわらず、あなたは国々とその支配者たちの主です。

だから、今日、私はこのように歌うことを選びます。

見よ、神は私の救い。
私は信頼して恐れない。
ヤハ、【主】は私の力、私のほめ歌。
私のために救いとなられた。 (イザヤ書12:2)

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あなたの罪は赦されています

そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。(ルカの福音書7:48)

今日、このことばをさらに思い巡らしていました。

このことばの重みを、私はどれほど感じているでしょうか。

あの女性は、確かにイエス様のことばの重みを感じていたことでしょう。

一方で、多くの場合、私はそのことばを軽く受け止めてしまいます。たぶん、自分の罪を軽く見てしまうからです。

もし私がそのことばの重みを感じていたなら、主への感謝はどれほど深くなるでしょうか。

主をどれほど強く愛するようになるでしょうか。

そして、周囲の人々にどれほど多くの恵みを注ぐようになるでしょうか。

主よ、あなたのことばが心の奥深くまで染み込むようにしてください。 「あなたの罪は赦されています。」

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私はあなたの罪を赦しました

そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。(ルカの福音書7:48)

今朝、私はこのことばを思い巡らしていました。

言い換えると、イエス様は彼女に「私はあなたの罪を赦しました」と言っておられたのです。

パリサイ人たちはイエス様のことばをそのように理解し、イエス様はその理解を正そうとはされませんでした。

「私はあなたの罪を赦しました。」

ある人々は、私たちが過去の罪を忘れることを許してくれません。

また、自分自身を許すことができないこともあります。

イエス様が「あなたの罪を赦しました」と言ってくださるとき、私たちはそのことばを受け取ることができるでしょうか。

私たちがそのことばを信じられるかどうかにかかわらず、イエス様はそう言ってくださいます。

だから、そのことばが心の奥深くまで染み込むようにしましょう。 そのことばが私たちを形作るようにしましょう。

「<あなたの名前>さん、あなたを赦しました。」

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あなたの招きに応えて

そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」(ルカの福音書5:31~32)

イエス様、あなたはペテロやマタイを招かれたように、私も招いてくださいました。

それは本当に驚くべきことです。私の罪深い過去にもかかわらず、そして今なお罪との戦いの中にいるにもかかわらず、あなたが私を招いてくださることは、ただただ不思議でなりません。

あなたが願っておられるのは、私が悔い改めることだけです。つまり、古くて罪深く、自分の力に頼る生き方を捨て、あなたに従うことです。そして、御国への招きを喜んで受け入れることです。

それは、御国を楽しむためだけではなく、その働きに参加し、周囲の人々を闇の国からあなたの驚くべき光へと導くためです。ペテロもそのように招かれ、マタイもすぐにその働きに加わりました。

あなたは、私の古い生き方にただ新しいものを継ぎ足すことを願っておられるのではありません。

また、もし私が古い生き方にしがみつくなら、あなたが新しいものを注いでくださることを期待することはできません。

あなたは私を全く新しいものとすることを願っておられます。

だからこそ、どうかそうしてください。

そして、「新しい」とは何であるかを私に教えてください。

私を、一歩一歩、栄光から栄光へと、毎日毎日、一瞬一瞬、新しくしてください。

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御霊に満ち、遣わされて

さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ…(ルカの福音書4:1)

イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。(ルカの福音書4:14)

「主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
目の見えない人には目の開かれることを告げ、
虐げられている人を自由の身とし、
主の恵みの年を告げるために。」(ルカの福音書4:18-19)

正直に言うと、今日の初め、私の心は乱れていました。おそらく、SNSやニュースを開いたところから一日を始めてしまったからでしょう。

そこで、「人の怒り」(ヤコブ1:20)に心を向けていたことを悔い改め、上の言葉に目を向けました。

御霊に満ちていた。

御霊によって導かれた。

御霊の力を帯びた。

御霊によって油注がれ、遣わされた。

イエス様はそのように歩んでおられました。

私もそのように歩みたいと願っています。

なぜなら、私たちは壊れた世界に生きており、その世界は良い知らせを切実に必要としているからです。

王は来られました。

その御国はすでに始まっています。

主の恵みの年が訪れました。

だから、私はこのように祈っています。

天のお父さん、私が怒りや恐れに駆られるのではなく、あなたの御霊に満たされるようにしてください。周囲の人々に、あなたにある希望を届ける器として私を用いてください。

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悔い改め

神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。

ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。(ルカの福音書3:2~3)

「悔い改め」

私は、このような語を「クリスチャン語」と呼んでいます。

つまり、教会の中ではクリスチャンたちがよく使いますが、それ以外ではあまり使われない言葉だということです。

けれども、『悔い改め』とはいったい何でしょうか。バプテスマのヨハネは何を宣べ伝えていたのでしょうか。

それは、人々が自分の心の中で主の道を備えることです。

言い換えると、私が神様を王として喜んで受け入れ、その良い支配のもとに身を置くことです。

多くの場合、私たちは『悔い改め』を考えるとき、ヨハネが呼んだ「悔い改めの実」だけに目を向けてしまいます。

けれども、神様の主な関心は、ただ行動が変わることだけではありません。神様が望んでおられるのは、ご自身に対する柔らかい心です。私たちが神様を愛し、信頼することを願っておられるのです。

そのような心から、悔い改めの実は自然に結ばれます。毎日毎日、一瞬一瞬、私たちの考え方や生き方が変えられつつあるのです。

良い知らせは、王に対して反抗的な心を持ち続けるなら恐ろしい結果を招きますが、もし私たちが神様に向き直り、神様を王として受け入れるなら、神様は豊かに赦してくださるということです。(イザヤ書55:6~7)

十字架につけられた犯罪人のことを思い浮かべてみてください。(ルカの福音書23:39~43)

自分の悔い改めを証明するために、私たちが長い間泣き続ける必要はありません。

また、最終的に守れない約束をする必要もありません。

神様が求めておられるのは、私たちが神様を王として受け入れることです。そして、神様が良いお方であり、私たちの最善を知り、望み、深く愛してくださる方であると信頼することです。

それが悔い改めです。神様を見る目を変え、心を開くことです。

神様が喜ばれる人生は、そのような心から自然に流れ出てくるのです。

だからこそ、以前の記事で尋ねたように、私はもう一度問いかけます。

あなたはどのように主を見なすでしょうか。

主を愛しているのでしょうか。

主を信頼しているのでしょうか。

あなたの人生に王の良い支配を喜んで受け入れるのでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

良い主?

「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、
しもべを安らかに去らせてくださいます。
私の目があなたの御救いを見たからです。
あなたが万民の前に備えられた救いを。
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの栄光を。」(ルカの福音書2:29-32)

今日、「主」という言葉について思い巡らしていました。

その原語は、現代英語の “despot”──つまり『独裁』の語源となった語です。

けれども、当時はまったく悪い意味合いを持っていませんでした。

とはいえ、その語には『人を治める力と権利を持つ者』という含みもありました。

しかし、シメオンにとってそれは恐ろしいことではありませんでした。神様は良い主であり、ユダヤ人だけでなく、すべての人々のために救いを備えてくださったからです。

羊飼いたちも同じ態度を取っていました。キリスト──新しい王が生まれたと聞くと、すぐにイエス様を見に行きました。そしてその後、彼らは喜びに満ち、周りの人々に自分たちが見たことを知らせました。

一方で、ユダヤ人たちは皇帝アウグストゥスを良い主とは見なしていませんでした。その統治を喜ぶ者は誰もいませんでした。特に、税金のために住民登録を命じられたとき、誰も喜ばなかったのです。

では、私たちはどのように主を見なすでしょうか。

イエス様が名ばかりの王ではなく、本当の王であることを考えると、私たちは不安を覚えるでしょうか。

イエス様が私たちを支配する力と権利を持っておられることに、いとう気持ちを抱くでしょうか。

もしイエス様が本当に良い主、良い王であることを信じなければ、私たちは喜びをもって従うことは決してないでしょう。

むしろ、それは重荷となり、私たちは避けようとするでしょう。また、自分の人生に対するイエス様の支配を恐れるようになるでしょう。

あなたはどのように自分の主を見なすでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

整えられた民

彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。(ルカの福音書1:17)

今日、「整えられた民」とは何かを思い巡らしていました。

浮かんできたのは、神様に対して素直な心を持つ人のことではないでしょうか。

マリアはまさにそのような人でした。

アブラハムのように、マリアは主のみことばを信じました。神様が良いお方であり、ご自身の約束を必ず守ってくださるという確信を持っていたのです(45節)。

だからこそ、彼女はすぐに「はい、主よ」と応答しました(38節)。

私もマリアの模範に従いたいと願います。整えられた民となり、主を余すところなく信頼し、すぐに「はい、主よ」と応答する姿勢を持ちたいのです。

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詩篇のデボーション 2

平安を見いだすために

どうか及びがたいほど高い岩の上に、
私を導いてください。(詩篇61:2)

ダビデの言葉は私の心に響きました。

英訳では、「どうか私より高い岩の上に私を導いてください」と訳されています。

しかし、新改訳からは、「その高い岩には、私の力では到底及びません。どうか助けて、導いてください。」という響きも感じられます。

ダビデにとって、「高い岩」は身の安全だけでなく、平安を表していました。彼の心が衰え果てていたからです。

その気持ちがよくわかります。

この乱れた世の中では、平安を見いだすのが難しいときもあります。

だから、私はダビデとともに祈っています。

どうか及びがたいほど高い岩の上に、
私を導いてください。

あなたは私の避け所、
敵に対して強いやぐら。

私はあなたの幕屋にいつまでも住み
御翼の陰に身を避けます。詩篇6 1:2-4)

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詩篇のデボーション 2

苦しい目にあわせられたとき

あなたは、御民を苦しい目にあわせ、よろめかす酒を私たちに飲ませられました。(詩篇60:3)

このことばは私の心を打ちました。

ときに、神様はご自身の民を苦しい目にあわせられます。そして、その苦しみによって、私たちはよろめいてしまいます。

例えば、13~14年前、私の会社が倒産し、私は9ヵ月ほど失業しました。

また、私の父は事故で失明してしまいました。

その数年後、私は父が病気で衰弱し、やがて亡くなっていく姿を見守りました。

そのうえ、友だちが早く亡くなるのを見たこともあります。

そして、数年前、私たち全員がコロナのパンデミックに直面しました。

しかし、ダビデはこう言いました。

あなたは、あなたを恐れる者に旗を授けられました。弓から逃れた者をそこに集めるために。(詩篇60:4)

私はそれを読んで、出エジプト記17:15を思い起こしました。その時、モーセは主を「アドナイ・ニシ」、 つまり「主はわが旗」と呼びました。

主は私たちの避け所です。 私たちが恐れ、苦しんでいるとき、主のもとに集まることができます。 主こそ、私たちを救ってくださる方だからです。

苦しみは人生に避けられないものです。 しかし、神様を愛する人たちに対して、 また、神のご計画に従って召された人たちに対して、 その苦しみは決してむなしいものではありません。むしろ、

苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出(します)。。。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:3-5)

神様はその愛を十字架によって証明してくださいました。(ローマ書5:6~8)

だから、苦しい時期には、十字架のまわりに集まりましょう。

しかし、心に留めておきましょう。イエス様はもう十字架にはかかっておられません。

むしろ、イエス様は死を打ち破られました。だからこそ、イエス様のおかげで、私たちは最終的に勝利を得るのです。(詩篇60:12)

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詩篇のデボーション 2

しかしこの私は

彼らは夕べに帰って来ては、
犬のようにほえ、町をうろつき回ります。

食を求めてさまよい歩き、
満ち足りなければ夜を明かします。

しかしこの私は、あなたの力を歌います。
朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。 (詩篇59:14~16)

私はもう一度、ダビデが自分の心を導いたことに感心しています。

サウル王の「犬」はダビデを殺そうとしましたが、捕らえそこねたため、おそらく不満げに吠えていたことでしょう。(サムエル記第一19:11~15)

ダビデ自身にも、吠えたくなる理由があったはずです。サウル王に不当に扱われ、逃亡者として生きなければなりませんでした。

さらに、神様がいつ約束を守られ、ダビデが王となるのか、疑問に思ったことでしょう。

けれども、「犬」とは違って、ダビデは吠えることなく、信仰をもってこう告白しました。

「しかしこの私は、あなたの力を歌います。」

「朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。」

自分の状況がどれほど悪く見えても、この世にどれほどの悪があっても、私は「吠える犬」でありたくありません。

むしろ、私は自分の心を主を礼拝し、主を信頼するほうへ導きたいと願っています。

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詩篇のデボーション 2

思い巡らすべきことば

力ある者たちよ、おまえたちは本当に義を語り、
人の子らを公正にさばくことができるのか。 (詩篇58:1)

神様はイスラエルの支配者たちや裁判官に語っておられましたが、そのことばは私の心にグサッときました。

まるで神様が私に語られたようでした。「ブルースよ、あなたは本当に義を語り、人を公正にさばいているのですか。」

私は、自分の言葉が神様の義なるご性質を表していると考えたいです。

私は、人々を公正にさばいていると信じたいです。情報が足りないまま、人をさばくことなどないと思いたいのです。

けれども、そのことばがそんなにグサッときたことを思うと、どうでしょうか。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。。。

私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、
私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23~24)

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詩篇のデボーション 2

私のためにご自身の計画を成し遂げてくださる神

私は、いと高き方神を呼び求めます。
私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。(詩篇57:2)

私はその英訳が好きです。

私は、いと高き方神を呼び求めます。
私のためにご自身の計画を成し遂げてくださる神を。

ダビデはサウルから逃れて洞窟にいました。それでも彼は、神様がご自身の約束を守り、ダビデを王とされることを信じ続けました。

そして、最終的に神様はそのとおりにしてくださいました。

それは、ダビデがいつもそんなに忠実な人だったからではなく、神様がそのようなお方だからです。ダビデはそれを認めて、こう歌いました。

あなたの恵みは大きく、天にまで及び、
あなたのまことは、雲にまで及ぶからです。(詩篇57:10)

そのことを思いめぐらすと、私は希望を持つことができます。

ときには、私は自分がどれほど周りの人々に触れ、影響を与えているのか疑問に思うことがあります。

しかし、神様は私のためにご自身の計画を成し遂げてくださいます。

それは、私がいつもそんなに忠実な人だからではなく、神様がそのようなお方だからです。

それこそが、本当に驚くべきことなのです。

主よ、私は国々の民の間であなたに感謝し、
もろもろの国民の間であなたをほめ歌います。

あなたの恵みは大きく、天にまで及び、
あなたのまことは、雲にまで及ぶからです。

神よ、あなたが天で、
あなたの栄光が全地であがめられますように。(詩篇57:9~11)

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詩篇のデボーション

神様を信頼し、賛美することを選ぶ

ダビデが自分の心をどのように導いたのか、私はいつも驚かされます。

サウルが彼を殺そうとしていたにも関わらず、また、ピリシテ人に危うく殺されかけたにも関わらず、彼はこう告白しました。

私は知っています。神が味方であることを。(詩篇56:9)

それだけではなく、ダビデは神様を信頼し、賛美することを選びました。(3~4、10~11節)

私もダビデと同じように、自分の心を導きたいと願っています。いつも神様を信頼し、賛美することを選びたいのです。

そして、いつも真理を握ることを選びたいと願っています。

私は知っています。神が味方であることを。(詩篇56:9)

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あなたを私の前に置く

彼らは神を前にしていないのです。セラ

見よ、神は私を助ける方。
主は私のいのちを支える方。(詩篇54:3~4)

天のお父さん、多くの人はあなたを自分の前に置こうとはしません。 あなたを敬わず、あなたのことを思うこともたりともありません。

けれども、どうか私が毎日毎日、一瞬一瞬、あなたを自分の前に置く者となれますように。

ありとあらゆる状況の中で、私の行動と思いを導くためです。

私の心と感情を守るためです。

あなたの優先順位、特にあなたの御国を心に留めておくためです。

そして、あなたに対する感謝の心を保つためです。

なぜなら、あなたは私の神であり、良いお方だからです。

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詩篇のデボーション

悪を見るとき

勇士よ、なぜおまえは悪を誇りとするのか。
神の恵みはいつもある。(詩篇52:1)

この二つの文は、どのようにつながるのでしょうか。

もしかすると、ダビデはドエグに警告していたのかもしれません。 神様の恵みはご自身の民にいつもあるので、神様は必ず正義をもたらされる、ということです。 ドエグの言葉によって、サウル王は85人の祭司とその家族を殺してしまったのです。(サムエル記第一22:18~19)

しかし、よこしまな世界の中で、ダビデは自分自身に思い起こさせていたのかもしれません。 「神の恵みはいつもある」と。

ときには、その真理を忘れてしまうことがあります。

それを忘れると、悪を見るときに、私たちの信仰が揺らぎ始めることがあります。

けれども、ダビデは信仰をもって、このように歌いました。

しかし、私は神の家に生い茂るオリーブの木。
私は世々限りなく神の恵みに拠り頼む。

私はとこしえに感謝します。
あなたのみわざのゆえに。

私はあなたにある敬虔な人たちの前で
すばらしいあなたの御名を待ち望みます。(詩篇52:8~9)

神様を信頼すること。

神様に感謝すること。

神様を待ち望むこと。

私はその道を選びます。

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詩篇のデボーション

お心一つで

ダビデはひどい罪を犯していました。 彼はある女性を奪い、その夫を殺しました。

それを考慮に入れると、ダビデのことばは本当に驚くべきものです。

ヒソプ私の罪を除いてください。そうすれば、私はきよくなります。
私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなります。(詩篇51:7)

ダビデは自分の罪を、ツァラアト(ハンセン病のような皮膚病)にたとえています。 ツァラアトは難病で、その病に冒された人は社会から退けられ、神様の幕屋や神殿に入ることができませんでした。(レビ記13:45–46;14:1–32、特に6–7節;民数記5:3–4)

それでもダビデは、確信をもって語ります。 「あなたは私をきよめることができます。」

このことばを読んで、私はイエス様のもとに来たツァラアトの人の言葉を思い起こしました。

主よ。お心一つで私をきよくすることがおできになります。(マタイ8:2)

イエス様はどのように答えられたでしょうか。

わたしのこころだ。きよくなれ。(マタイ8:3)

イエス様の十字架のゆえに、私たちの罪がどんなに深くても、私たちがどれほど罪悪感に苦しんでいても、イエス様は私たちを清めることができます。

私たちがすべきことは、へりくだって心から悔い改めることだけです。

そうすれば、イエス様は必ず私たちをきよめてくださいます。

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詩篇のデボーション

主のみことばに耳を傾ける

すべて国々の民よ、これを聞け。
すべて世に住む者よ、耳を傾傾けるけよ。

低い者も高い者も、
富む者も貧しい者も、ともどもに。

私の口は知恵を語り、
私の心は英知を告げる。(詩篇49:1~3)

このことばを読んで、私は思いました。「これは、私たちに対する主のみことばでもあるでしょう」と。

主は、私たちが決して払うことのできない身代わり金を、十字架で払ってくださいました。また、私たちのたましいを贖い出し、よみの手から私たちを奪い返してくださるのです。(詩篇49:7~9、15)

けれども、私は何を優先しているのでしょうか。何に信頼を寄せているのでしょうか。

それはお金でしょうか。それとも、主のみことばでしょうか。

経済的な安全を追い求めるよりも、主のみことばを悟り、実践することに努めているでしょうか。

私の心が何を主張しているかは分かっています。しかし、私の行動は同じことを語っているでしょうか。

主よ、私が自分の日ごとの糧よりも、あなたの口のことばを蓄える者となれますように。(ヨブ記23:12、別訳)

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詩篇のデボーション

神の恵みを思う

神よ、私たちはあなたの宮の中で、
あなたの恵みを思いました。(詩篇48:9)

今朝、このことばを心に刻みました。

神様が私たちの人生に与えてくださった人々のことを思い巡らしていました。

また、神様が私を導いてくださった出来事――良いことも、つらいことも――を思い返していました。

それらを考えていると、ハワイの教会で歌ったワーシップソングを思い起こしました。

All I need is your love in my life.
私が必要なのは、あなたの愛だけです。

Your faithfulness will comfort me.
あなたの忠実な愛は、私を慰めてくださいます。

’cause while my life may change, your promises hold true.
なぜなら、私の人生が変わることがあっても、あなたの約束は変わらないから。

I grow strong trusting in you.
あなたを信頼して、私は強くなります。

——マーク・ソーザ

私は神様の忠実な愛を味わってきました。 だから、ダビデとともに私は歌います。

この方こそまさしく神。
世々限りなくわれらの神。
神は死を越えて私たちを導かれる。(詩篇48:14)

私はこの確信を、娘と次の世代のすべての人に語り伝えたいと願っています。

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詩篇のデボーション

王をほめたたえよう

今の世界では、私たちの心配や恐れに心を奪われ、くよくよしてしまうことは容易です。

けれども、このような時こそ、私たちは意識して神様を礼拝することを選ぶ必要があります。

それこそが、この詩篇のテーマです。

すべての国々の民よ、手をたたけ。
喜びの声をあげて神に叫べ。(詩篇47:1)

また、

神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。
われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。(6節)

6節では、私たちは神様にほめ歌を歌うように、4度も促されています。

しかし、どうして私たちは神様にほめ歌を歌うべきなのでしょうか。

まことに、いと高き方主は、恐れられる方。
全地の大いなる王。(2節)

また、

まことに神は全地の王。。。神は国々を統べ治めておられる。
神はその聖なる王座に着いておられる。(7-8)

私たちが自分の問題ばかりを見つめてくよくよしていると、私たちの考え方は歪んでしまいます。 問題が、超えられない山のように見えてしまうからです。

しかし、神様を礼拝し、神様がどのようなお方であるかを思い起こすと、私たちの考え方はもう一度正されます。私たちは思い起こします。「神様は王です。神様はすべてを治めておられる。」

だから、私たちの問題から目を離し、神様を仰ぎましょう。

そうすれば、神様の光の中で、私たちの問題が単なる力のない影にすぎないことを思い起こすでしょう。

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詩篇のデボーション

静まりなさい

静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。(詩篇46:10、口語訳)

今朝、このことばを思いめぐらしていました。

もしかしたら、神様は国々に命じておられるのかもしれません。「あなたがたの戦争や争いをやめよ。」

多くの解釈者はそのように理解しています。

しかし、私はこのことばが、世のトラブルを見て心を騒がせている神の民のために語られているのだと思います。

神様は私たちに語っておられます。

「わたしは今もすべてを支配している。すべての戦争や争いが終わる日が来る。その日、イエスの名によってすべての人が膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白する。

だから、恐れを捨てなさい。心を静めなさい。わたしを信頼しなさい。」

私は、イエス様が言葉で嵐を静められた物語を思い起こします。そのとき、イエス様は嵐に命じられました。「黙れ。静まれ。」

その後、イエス様は弟子たちに問いかけられました。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」

だから今日、私は自分の恐れと心配を捨て、神様こそ神であることを知ることを選びます。

そして、詩人とともに歌います。

「神は私の避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
それゆえ私は恐れない。主は私とともにおられるのです。」(詩篇46:1~2、11)

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詩篇のデボーション

あなたこそ!

神よ、あなたこそ私の王です。(詩篇44:4)

このことばは、私の心に深く響きました。

「あなたこそ!あなたこそ私の王です!」

神様が遠く離れているように感じられるとき、神様に見捨てられたように思えるとき、詩人は叫びました。「神よ、あなたこそ私の王です。」

どうして神様が敗北を許されたのか分からなかったときでさえ、詩人はなお告白しました。「神よ、あなたこそ私の王です。」

それは、私の心の叫びでもあります。「神よ、あなたこそ!あなたこそ私の王です!」

天のお父さん、あなたこそ私の王です。

だから、あなたが遠く離れているように感じられるときでも、私はあなたを呼び求め続けます。

苦しいときも、あなたに見捨てられたように感じられるときでも、私はあなたを信頼し続けます。

そして、どうしてあなたが困難を許されるのか分からないときにも、私はあなたの御名を誇り、賛美し続けます。

あなたこそが私の王です。あなたこそが私の神です。そして、あなたが良い方であることを信じます。

だから、私はパウロと共に叫びます。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

こう書かれています。

「あなたのために、私たちは休みなく殺され、
屠られる羊と見なされています。」(詩篇44:22)

しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8:31~39)

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詩篇のデボーション

心を導こう

詩篇42~43篇を読むと、私がいつも感動するのは、詩人が単に心に従うのではなく、心を導いていることです。

特に、自分の感情に流されずに、その感情を神様に信頼し、希望を寄せるように導いています。

一方で、詩人はこう言います。「私のたましいは、私のうちでうなだれています。」

けれども、彼はすぐにこう続けます。「それゆえ私は。。。あなたを思い起こします。」(詩篇42:6)

この二つの詩篇では、そのようなパターンを何度も見ることができます。

とりわけ、詩人は、ほぼ同じことを三度繰り返します。

わがたましいよ
なぜおまえはうなだれているのか。
私のうちで思い乱れているのか。

神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
御顔の救いを。 (詩篇42:5)

また、

神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
私の救い、私の神を。 (詩篇42:11;43:5)

この乱れた世の中を見るとき、自分の感情に流されて、心が乱れてしまうのは容易なことです。

私はそうしたくありません。むしろ、私の感情と心を、神様に信頼し従うように導きたいのです。

けれども、そのためには、私は神様の助けが必要です。だから、私はこう祈っています。

どうか、あなたの光とまことを送り、
それらが私を導くようにしてください。(詩篇43:3)

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サムエル記第二

人々を王の食卓に招く

今日の箇所を読んで、メフィボシェテに対するダビデの恵みを思いめぐらしました。

メフィボシェテは隠れて恐れていました。なぜなら、その時代、新しい王はたいてい自分のライバル、特に前の王の家族を殺そうと努めたからです。

しかし、ダビデはメフィボシェテに恵みを与え、その人生を回復し、自分の食卓に招いてくださいました。

同じように、私たちも自分の罪のゆえに死の影に座っていました。けれども、イエス王は私たちをあがない、私たちの人生を回復し、ご自身の食卓に招いてくださいました。

しかし、私はイエス様の恵みをただ享受するだけで終わりたくありません。ダビデのように、私も他の人々を王の食卓に招きたいと願っています。

イエス様、あなたは恵みを豊かに与えてくださいました。どうか、だれをあなたの食卓に招くことができるのかを教えてください。

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サムエル記第二のデボーション

神様の恵みを思いめぐらす

ダビデ王は【主】の前に出て、座して言った。「【神】、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。(サムエル記第二7:18)

今朝、私はこう考えていました。「私はどれほど時間をとって、神様の御前に座り、私に注いでくださった恵みを思いめぐらしているだろうか。」

私は、どのようにしてクリスチャンになったのかを思い返します。特に、神様が用いられた状況や人々のことを思い起こします。

神様がどのように私を日本へ導き、祝福してくださったかを思い返します。

また、神様がどのように私を試練の中へ導き、支えてくださったかを思い返します。

それらを、そしてさらに多くの恵みを思いめぐらすと、私はダビデのように尋ねざるを得ません。「主よ、私は何者でしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは。」

もしそのことをもっとよく思いめぐらしているなら、私の人生はどれほど変わることでしょうか。

主よ、私へのあなたの恵みが、私がするすべてのことの土台となるようにしてください。

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サムエル記第二のデボーション

私があなたの御名で呼ばれているから

神の箱は、ケルビムの上に座しておられる万軍の【主】の名でその名を呼ばれている。(サムエル記第二6:2)

ダビデは、【主】の前で力の限り跳ね回った。(サムエル記第二6:14)

天のお父さん、かつてあなたの箱があなたご自身の御名で呼ばれていたように、私もあなたの御名によって呼ばれています。私は周囲の人々にあなたを表す者です。

だから、あなたがどのようなお方であるのかを、いつも心に留めていられるようにしてください。あなたは大いなる王、ケルビムの上に座しておられるお方です。

「小さいこと」においても、あなたは私の敬いと完全な従順にふさわしいお方です。(歴代誌第一15:11~15)

それでも、あなたは良い神であり、私をご自身のものとするために選んでくださいました。

どうか、心が跳ね回るほどの喜びをもって、私が完全にあなたのものとなるようにしてください。

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サムエル記第二のデボーション

主の人?恥のある人?

サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。全イスラエルもおじ惑った。(サムエル記第二4:1)

興味深いことですが、「イシュ・ボシェテ」という名は「恥のある人」という意味です。

もともと彼の名前は「エシュバアル」、すなわち「主の人」でした。(歴代誌第一8:33)

けれども、父サウルと同じように主を信頼しなかったゆえに、彼は「恥のある人」となってしまいました。

そして、彼の世界が崩れ落ちたとき、彼は主を求めることなく、気力を失ってしまいました。

もしその兄ヨナタンが生きていたら、どうなっていたでしょうか。彼はすぐに王位をダビデに譲ったことでしょう。

彼はかつてダビデにこう言いました。

あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。(サムエル記第一23:17)

ヨナタンは主を信頼し、その御心に従おうと努めました。彼こそ、本当に「主の人」でした。

私もそのような人になりたいと願います。

主よ、私があなたの人となるようにしてください。私が毎日毎日、一瞬一瞬、あなたを信頼し、従う者となるように。

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サムエル記第二

神様がはっきりと語られると

この後、ダビデは【主】に伺った。「ユダの町のどれか一つへ上って行くべきでしょうか。」

【主】は彼に「上って行け」と言われた。

ダビデは、「どこに上ればよいでしょうか」と聞いた。

主は「ヘブロンに」と言われた。(サムエル記第二2:1)

今朝、私が考えていたのは、「1節のように、神様がいつもはっきりと答えてくださればいいのに」ということでした。

けれども、次にこうも考えました。「もし神様がそのように語られたら、私はどうするのだろうか。」

神様がダビデをサウル王の後継者として立てられることを、イスラエルの民は皆知っていたようです。サウル自身も、ヨナタンも、アビガイルも、アブネルも、そしてイスラエルの長老たちも、それを知っていました。(サムエル記第一23:17;25:30;サムエル記第二3:18;5:2)

それでも、サウルが亡くなると、アブネルもイスラエルの民も、ダビデを王として受け入れるのがとても遅かったのです。

私は、神様がすでにはっきりと語られたことを拒み、歩まない者になりたくありません。もし私がそのようにするなら、神様が他のことについて語ってくださることはないでしょう。

天のお父様、あなたがすでにはっきりと語られたことに、私が素直に従う者としてください。 それは、他のことについても、私があなたのみ声を聞くことができるためです。

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マタイの福音書のデボーション

私たちの王を見上げると

わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。(マタイ20:18~19)

「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」

私はこのことばを思いめぐらしていました。イエス様は何を言われていたのでしょうか。

「私は王です。」

だからこそ、私たちはすべてにおいてイエス様の命じられたことに従い、人々にもそのように教えるべきです。

しかし、私たちはこの王をどのように見なすのでしょうか。

力をふるって人を押さえつける方でしょうか。恐ろしい方でしょうか。

興味深いことに、女性たちは墓から立ち去ったとき、喜びを抱きながらも、同時に恐れもありました。なぜ恐れていたのかは分かりませんが、イエス様が彼女たちに現れたとき、最初に言われたことばは何だったでしょうか。

「恐れることはありません。」(マタイの福音書28:10)

そして、彼女たちの恐れは消え去り、大きな喜びだけが残りました。

なぜなら、この王は恐れるべき方、すなわち私たちの敬いと従順のすべてにふさわしい方でありながら、良い王だからです。そして、この良い王は私たちを深く愛しておられます。

今朝、私はたまたま詩篇47篇も読みましたが、その詩篇は王に対する私たちのあるべき態度を美しく表現しています。それはあなたの態度でしょうか。

すべての国々の民よ、手をたたけ。
喜びの声をもって神に大声で叫べ。

まことにいと高き方【主】は恐るべき方。
全地を治める大いなる王。(詩篇47:1~2)

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マタイの福音書のデボーション

あなたの血は私の上にある

すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」(マタイの福音書27:25)

イエス様、あなたの血は私の上にあり、私の責任です。私の罪のためにあなたは死なれました。

けれども、あなたの血は私の上にあり、私の心に振りかけられて、邪悪な良心をきよめてくださいました。(ヘブル書9:22~23;10:22~23)

あなたの十字架のゆえに、私を天の父から隔てていた神殿の幕が裂かれました。 今や、私は恐れず、大胆に天の父、またあなたの御前に進み出て、近づくことができます。

イエス様、あなたの血が私の上にあることを感謝します。

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マタイの福音書のデボーション

イエス様が杯を飲み干されたから

イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。(マタイの福音書26:42)

このイエス様のことばを読んだとき、私は過越の祭りの意味を思いめぐらしていました。

神様がエジプトを訪れられたとき、その裁きと御怒りはイスラエルの民を過ぎ越しました。

しかし、イエス様が認めておられたのは、神の裁きと御怒りの杯は、ご自身をただ過ぎ去ることはできないということでした。

なぜでしょうか。

イエス様は罪のない方でした。なのに、なぜその杯を飲まなければならなかったのでしょうか。

それは、本来なら私たちがその杯を飲まなければならなかったからです。私たちは神様の裁きと御怒りにふさわしい罪人だからです。

神の裁きと御怒りが私たちを過ぎ越す理由は、まさに十字架でイエス様がそれらを薄められることなく飲み干してくださったからなのです。

それを思うとき、本当に不思議で、深い恵みだと感じます。

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マタイの福音書のデボーション

兄弟姉妹を愛すること

王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』(マタイの福音書25:40)

この箇所を読むと、多くの人々は、この世で悩んでいる人々――貧しい者、病気の者、飢えている者、牢に入っている者――に手を差し伸べるべきだと考えます。

もちろん、それは正しいことです。

しかし、この箇所でイエス様が語っておられるのは、すべての悩んでいる人々のことではありません。

イエス様はこう言われました。

あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。(40)

少し考えてみてください。「わたしの兄弟たち」とは誰でしょうか。イエス様は誰について語っておられるのでしょうか。(マタイ12:50、28:10、ヨハネ20:17)

マタイ10:40、42や使徒の働き9:1、4-5も読んでみてください。

「わたしの兄弟たち」と語られるとき、イエス様はご自身に従う者たちのことを指しておられるのです。

本当のイエス様の弟子の特徴の一つは、兄弟姉妹に対する愛です。もし私たちがそのような愛を持っていないなら、私たちの信仰は疑わしいものです。

だからこそ、ヨハネはこう言いました。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(第一ヨハネ4:20-21)

私たちは兄弟姉妹をどのように扱っているでしょうか。兄弟姉妹に対する私たちの態度は、神様への愛について何を示しているのでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

最も大切なこととは

イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。

すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」(マタイの福音書24:1~2)

今朝、ユダヤ人たちが神殿、特にその美しさをどれほど誇っていたのかを思い巡らしていました。

けれども、その神殿は最終的に滅びました。なぜでしょうか。それは、ユダヤ人たちがご自身の主を拒んだからです。(マタイの福音書23:29~39)

そして、私はこのように思わされました。

「私の実績は何の上に建てられているのだろうか。私が誇ってきたもの、それらはキリストという土台の上に建てられているのだろうか。つまり、私の人生の土台は『イエス様は私の主』ということなのだろうか。私が愛し、喜ばせたいと願うお方はイエス様なのだろうか。」

イエス様、私がしていることのすべては「あなたが主」という土台に建てられますように。私の人生はあなたのものであり、あなたを愛しています。どうか、私が忠実なしもべとなり、毎日あなたが委ねられたことを行う者となりますように。

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マタイの福音書のデボーション

神のもの

イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」

彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」(マタイの福音書22:20~21)

このイエス様のことばを読んだとき、私たちが鏡をのぞくときにも、イエス様が同じ問いを投げかけられるのではないかと、私は思いました。

つまり、「これはだれの肖像であり、だれの銘なのか」という問いです。

その答えは、「神のもの」です。

神様は私たちを造られたとき、ご自身の肖像を私たちに刻みつけ、「主の聖なるもの」としての印を私たちの心に刻んでおられました。

詩人が記したように、

知れ。【主】こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。 (詩篇100:3)

だからこそ、私たちは神のものを神に返さなければなりません。

特に、心のすべて、いのちのすべて、知性のすべて、力のすべてを神様にささげなければなりません。(マタイ23:37;マルコ12:30)

さらに、神様が求められる実をささげなければなりません。 すなわち、正義とあわれみと誠実という実です。 (マタイ23:23)

今日、私は自分がどれほど失敗しているかを思わされました。 パリサイ人や律法学者のように、私は語ることを実行しないことが多いのです。

私はそのように歩みたくありません。

神様はご自身の肖像を私に刻み、ご自身のすばらしい御名を私の心に刻んでおられます。

神様が私に刻んでくださったその肖像と刻印にふさわしく歩みたいと願います。

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マタイの福音書のデボーション

喜んでついていく?ふさわしい報酬を求める?

そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』

彼らは出かけて行った。 (マタイの福音書20:4~5)

家の主人は最初の労働者たちにも同じことを言ったのでしょうか。

その労働者たちは、「いや、私たちは自分たちがふさわしいと思う報酬を求めます」と言い張ったのでしょうか。

たぶんそうだったのでしょう。

ペテロも同じような考え方を持っていたようです。(マタイの福音書19:27)

ヤコブとヨハネも同じでした。(マタイの福音書20:21)

一方で、癒された盲人たちは、イエス様の良さを味わい、ふさわしい報酬を求めることなく、喜んでイエス様について行きました。(マタイの福音書20:35)

多くの主人たちは、後者の労働者たちと同じような契約を結んだなら、彼らを酷使したことでしょう。(マタイの福音書20:4~7)

しかし、この主人は気前がよく、良い主人でした。(15節の「気前がいい」という表現は、通常「良い」と訳されます。)

だから、私が自問しているのはこうです。「私はどのような神に仕えていると思っているのだろうか。」

神様が気前よく、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて与えてくださる方だと、本当に思っているのだろうか。

癒された盲人たちのように、私は神様の良さを味わい、喜んでイエス様について行くのだろうか。

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マタイの福音書のデボーション

子どもの心

イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。(マタイの福音書19:8)

天のお父さん、私が単に「何が許されているのか」に基づいて決断することがないようにしてください。

特に、私の心の頑なさのゆえに、あなたが最善だと言われることを拒んでしまうときです。

どうか私に子どもの心――柔らかい心、あなたを信じる心――を与えてください。

「何が許されているのか」と尋ねるのではなく、むしろ「私の良いお父さんが何を願っておられるのか」と尋ねる者としてください。

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マタイの福音書のデボーション

私たちの優しい王

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。

するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。 (マタイの福音書17:5~7)

私はペテロのことを考えていました。天の父のみ声を聞いたとき、彼はどれほど恐れたことでしょうか。その少し前、彼はイエス様をいさめようとしたばかりだったからです。(マタイの福音書16:22)

天の父は彼らにはっきりと言われました。「こちらは私の愛する子、私の喜ぶ者である。だから、彼の言うことに反対してはならない。彼の言うことを聞け。」

しかしその後、イエス様は柔和をもって、彼らに触れてくださいました。

主よ、あなたは聖なる方、大いなる方であり、私の従順を受けるにふさわしいお方です。それでも、あなたは私に対して本当に優しいお方です。そのことを感謝します。

主よ、私はあなたを愛し、あなたを喜びます。 あなたの言われることを聞き、従います。

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マタイの福音書のデボーション

薄い信仰、立派な信仰

そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。(マタイの福音書15:28)

イエス様がカナン人の女性をほめられたとき、弟子たちはどう感じていたでしょうか。

弟子たちは彼女を追い出そうとしましたが、結局イエス様は彼女の願いをかなえてくださいました。さらに、イエス様は彼女にこう言われました。「ああ、あなたの信仰は立派です。」

弟子たちはそれを聞いて、きっと少し恥ずかしく感じたでしょう。彼らがその女性を追い出そうとしたからだけでなく、イエス様が何度も弟子たちに「あなたたちは信仰の薄い人たちだ」と言われていたからです。マタイ14章と16章を見ると、そのことが分かります。

一方で、イエス様はこの女性に「あなたの信仰は立派だ」と言われました。

では、なぜイエス様はそう言われたのでしょうか。

それは、最初イエス様が彼女を無視し、娘を助けてくださらないかのようにふるまわれたにもかかわらず、彼女はなおイエス様を信じ続けたからです。

つまり、彼女はイエス様が良い方であることを信じ続け、イエス様が娘を助けてくださると信じ続けたのです。

この話を読むと、私はルカ18章にあるイエス様のたとえ話を思い起こします。

そのたとえでは、あるやもめが堕落した裁判官に正義を願い求めました。裁判官は最初、彼女を助けようとしませんでしたが、彼女がしつこく願い続けたので、ついに助けてくれました。

イエス様はその裁判官を天の父と対比されました。

時には、天の父は私たちの祈りにすぐ答えてくださらないことがあります。また、神様が私たちを愛しておられないように見えることもあります。

けれども、私たちはあきらめずに祈るべきなのです。

そしてイエス様は私たちに問いかけられます。

人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(ルカ18:8)

私たちが嵐に直面するとき、イエス様は信仰を見られるでしょうか。

サタンが私たちを攻撃するとき、イエス様は信仰を見られるでしょうか。

私たちが必要に迫られるとき、イエス様は信仰を見られるでしょうか。

私たちが不正に直面するとき、イエス様は信仰を見られるでしょうか。

イエス様が私たちをご覧になるとき、「ああ、あなたの信仰は立派です」と言ってくださるように。

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マタイの福音書のデボーション

神のみことばを無にしてしまう?

こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。(マタイの福音書15:6)

イエス様、あなたは私の主です。

だからこそ、私が誰のためでも、何のためでも、あなたのみことばを決して無にしないようにしてください。

罪のためでもありません。

私の感情、欲望、夢のためでもありません。

人間の伝統や思想、文化的な伝統、宗教的な伝統、政治的な伝統のためでもありません。

私があなたのみことばを決して変えようとしないようにしてください。

むしろ、あなたのみことばが私を変えるようにしてください。

あなたが私の主だからです。そして、あなたは良い主なのです。

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マタイの福音書のデボーション

みことばが分からないとき

だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。(マタイの福音書13:19)

すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。(マタイの福音書13:36)

みことばが分からないとき、私たちはどうするでしょうか。

ただ「分からない」と言って脇へ置き、実を結ばないまま、サタンがそのみことばを私たちの心から奪うのを許してしまうでしょうか。

それとも、イエス様の弟子たちのように、みことばを切実に理解したいと願い、へりくだって積極的に「説明してください」と尋ねるでしょうか。

主よ、どうか私に弟子の心を与えてください。私が理解を求め、実を結ぶ者となるようにしてください。

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マタイの福音書のデボーション

言葉づかいに注意すること以上に

木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。。。

心に満ちていることを口が話すのです。(マタイの福音書12:33~34)

私は、いつも自分の言葉づかいに注意しようとします。口から出る言葉に気を付けようと努めています。

けれども、今日イエス様の言葉を読んだとき、気付かされたのは、言葉づかいに注意すること以上に、自分の心を探ることが大切だということでした。つまり、私の心は霊的に健全なのでしょうか。

もし心が健全であるなら、私の言葉も健全で、いのちを与えるものとなるでしょう。

しかし、もし心の中に腐ったものが残っているなら、腐った言葉が私の口から出てしまいます。

だから今日、私はこのように祈っています。

主よ、私の心を探ってください。あなたは私の心をよく知っておられます。まだ残っている腐ったものを根絶やしにしてください。

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マタイの福音書のデボーション

羊飼いの招きに応える

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。 (マタイの福音書11:28~30)

それは、私たちへの良い羊飼いの招きです。

バプテスマのヨハネのように、私たちが霊的に疲れているとき。

神様が遠く感じられ、また、私たちの期待どおりになさらないゆえに失望するとき。

試練のゆえに、耐えられない重荷を抱えているとき。

ちょうどマタイの福音書を読む直前、私は詩篇143篇を思い巡らしていました。ダビデの言葉は、イエス様の招きに対するふさわしい応答だと思います。

あなたも、その良い羊飼いの招きに、同じように応えますように。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。
私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。
私のたましいはあなたを仰いでいますから。

【主】よ私を敵から救い出してください。
私はあなたのうちに身を隠します。

あなたのみこころを行うことを教えてください。
あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が
平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:8~10)

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マタイの福音書のデボーション

新しいことを抱く心

それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。(マタイの福音書9:14)

今朝、私はヨハネの弟子たちについて考えていました。なぜ彼らは、まだヨハネに従い続けていたのでしょうか。

ヨハネは牢に入れられ、自分の奉仕は終わりました。

その一方で、ヨハネが指し示していたイエス様の奉仕はすでに始まっていました。それなのに、どうしてイエス様とその道に従わず、ヨハネとその道にしがみついていたのでしょうか。

神様は新しいことをなさっていました。(マタイの福音書3:11)

けれども、ヨハネの弟子たちの心はそれに向いていませんでした。古い布や古い皮袋のように、彼らの心は柔軟さを失っていて、新しいものを受け入れることができませんでした。

ある弟子たちは、イエス様が死なれ、復活されてから何年も後になっても、心はそのままでした。(使徒の働き19:1~7)

私はそのように生きたくありません。しかし、私の心の中にも、その傾向を見ることができます。慣れたこと、心地よいことを好み、すぐに新しいことを抱くことができないのです。

イエス様は、私をヨハネの弟子たちのように戒められるでしょうか。

イエス様、あなたがなさっている新しいことに対して、私が柔らかい心を保つことができるようにしてください。

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おことばを下さい

私も権威の下にある者だからです。(マタイの福音書8:9)

主よ、百人隊長はあなたの権威を認めました。

あなたの弟子たちもあなたの権威を認めましたが、その権威がどれほど及ぶのか、まだ学んでいる途中でした。(マタイの福音書8:27)

その一方で、悪霊やガダラ人たちは、あなたの権威と全く関わりたくありませんでした。(マタイの福音書8:29、34)

けれども、私はあなたが良い王であることを信じています。私の人生にあなたの支配を歓迎します。

だからこそ、おことばをください。私は従います。

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みことばを真珠と見なしているだろうか

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。 (マタイの福音書7:7~8)

そのことばを読んだとき、私はヤコブのことばを思い起こしました。

あなたがたのうちのだれかが知恵に欠けているなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。(ヤコブの手紙1:5)

そして、私はこのように考えました。

神の導きと知恵を求めるとき、私はそのみことばを良い贈り物、完全な賜物、いのちを与えるものと見なしているでしょうか。(ヤコブの手紙1:17~18)

それとも、石や蛇のように見なしてしまうことがあるでしょうか。(マタイの福音書7:9~10)

私の天のお父さんが良い方であり、そのみことばが真珠のように尊ぶべきもの、従うべきものだと信じているでしょうか。

それとも、豚のように、そのみことばを踏みつけてしまうことがあるでしょうか。(マタイの福音書7:6)

二心の者でありたくありません。神様に知恵を求めながら、そのみことばの良さを疑いたくありません。(ヤコブの手紙1:6~7)

私は神の戒めの理由が完全に分からないにもかかわらず、私の良い王に信頼し、従いたいと願っています。

私の良い王よ、すべてにおいて、あなたを信頼することができるように助けてください。いのちを与えるあなたのみことばの上に、私の人生を築くことができるようにしてください。

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私の心の王

しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。 (マタイの福音書5:34~35)

「偉大な王。」

なぜか、その言葉が私の心に響いています。

イエス様は偉大な王です。

けれども、私は毎日毎日、一瞬一瞬、本当にそのようにイエス様を見ているでしょうか。

それとも、イエス様を軽く見てしまうことがあるでしょうか。

パリサイ人たちや律法学者たちが、結婚や真実さ、人を愛することに関して抜け道を探したように、私もイエス様が語られることを避けようとすることがあるのでしょうか。

最近、神様は私に趣味について語っておられます。つまり、私はそれをやりすぎているということです。

私はその注意を完全に無視しているわけではありませんが、完全に従っているわけでもありません。

それは「小さいこと」に見えるかもしれません。

けれども、イエス様は偉大な王です。だから、私はイエス様を軽く見たくないのです。

あなたはどうでしょうか。

主イエスよ、すべてにおいて、私の心の王となってください。

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私が光となるように

闇の中に住んでいた民は
大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に
光が昇る。(マタイの福音書4:16)

主よ、あなたは世の光です。しかし、あなたは私も世の光となるように召しておられます。

この世の人々は、恐れと怒りに支配されています。その恐れと怒りがよく分かります。

けれども、もし私自身が恐れと怒りに支配されているなら、私は光となることができません。どうか、周囲の人々が私を見るとき、恐れや怒りではなく、喜びを見ることができるようにしてください。

真の王がすでに来られたという喜び。

その御国がすでに始まっているという喜び。

そして、私が今やその御国に属しているという喜び。

私が御国の子どもとして生きることができるようにしてください。

私が毎日、あなたの口から出る一つ一つのことばによって生き、あなたを完全に信頼し、喜びをもってあなたに仕えることができるように助けてください。

そして、周囲の人々がその喜びを知るために、人間をとる漁師として私を用いてください。

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悔い改め以上

私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。。。

その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。(マタイの福音書3:11)

今朝、私はその言葉を思い巡らしました。

もちろん、神様は私たちの悔い改めを願っておられます。

しかし、神様はそれだけではなく、私たちの内側でさらに深いことをなさろうと願っておられます。

つまり、精錬する者の火で私たちを清め、御霊の力と臨在で私たちを満たそうとしておられるのです。(マラキ書3:2~3;使徒の働き1:8)

この世は本当に壊れています。

私の内にも、まだ壊れた部分があります。

けれども、私がひびのある器であっても、神様は私を通してこの壊れた世に触れたいと願っておられることを信じます。

だから今日、神様がそのように働いてくださるように祈っています。

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マタイの福音書のデボーション

王を受け入れる

今日の話を読んだとき、マリアとヨセフに語られたシメオンの言葉を思い起こしました。

ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。

あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。(ルカの福音書2:34-35)

「多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

祭司長たちや律法学者たちの心は、確かにあらわになりました。

彼らはきっと、メシアが生まれたという噂を聞いたはずです。(マタイの福音書2:3)

それでも、彼らはメシアを探そうと全く考えなかったようです。私は、彼らが何を考えていたのか全く理解できません。

もちろん、ヘロデ王は自分の王位への脅威を殺そうとしました。

その一方で、博士たちはイエス様を礼拝するために来ました。

今なお、イエス様によって、人々の思いはあらわになります。

多くの人々は、飼葉桶に寝ている赤ちゃんとしてのイエス様を見ても、全く動じていません。

しかし、イエス様が王であることを主張すると、彼らの心はあらわになります。

それを即座に否定する人が多いです。

敵対する人もいます。

一方で、ある人々は礼拝し、従います。

あなたはどうでしょうか。

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マタイの福音書のデボーション

素直な心

ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れた。。。(マタイの福音書1:24)

今朝、主の御言葉に対するヨセフの反応を考えていました。

疑うことなく、異議を唱えず、ためらうこともありませんでした。

むしろ、完全に素直な心でした。

それを読んで、ソロモンへのダビデの戒めを思い起こしました。「あなたは強く、男らしくありなさい。主の御言葉に従いなさい。」(列王記第一2:2〜3)

言い換えると、真の男は余すところなく主に従うのです。

ヨセフはそのような男性でした。

私もそのような男性になりたいと願っています。

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主が私を喜んでおられるゆえ

このことによって私は知ります。
あなたが私を喜んでおられることを。 (詩篇41:11)

今朝、私はその言葉を思い巡らしました。

「主が私を喜んでおられる。」

果たして主は本当に私を喜んでおられるのでしょうか。

どのようにそれを知ることができるのでしょうか。

サタンは私を責め、攻撃し、滅ぼそうとしますが、最終的に私を決して打ち倒すことはできません。

イエス様と十字架で流された血によって、私は勝利を得ます。

だからこそ、私はダビデと共に歌います。

ほむべきかな、イスラエルの神【主】。
とこしえからとこしえまで。

アーメン、アーメン。(詩篇41:13)

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詩篇のデボーション

主が耳を傾けてくださったゆえ

今朝、私は詩篇39篇と40篇のつながりに初めて気付きました。

詩篇39篇では、ダビデはこう願いました。

【主】よ、私の祈りを聞いてください。
助けを求める叫びに耳を傾けてください。
私の涙に黙っていないでください。(詩篇39:12)

そして、40篇では、ダビデはこう歌いました。

私は切に【主】を待ち望んだ。
主は私に耳を傾け、
助けを求める叫びを聞いてくださった。

滅びの穴から泥沼から、
主は私を引き上げてくださった。
私の足を巌に立たせ、
私の歩みを確かにされた。

主はこの口に授けてくださった。
新しい歌を、私たちの神への賛美を。(詩篇40:1~3)

けれども、私にもっとも印象に残ったのは、ダビデの反応でした。

あなたはいけにえや穀物のささげ物を
お喜びにはなりませんでした。
あなたは私の耳を開いてくださいました。

全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を
あなたはお求めになりませんでした。

そのとき、私は申し上げました。
「今、私はここに来ております。
巻物の書に、私のことが書いてあります。

わが神よ、私は
あなたのみこころを行うことを喜びとします。

あなたのみおしえは
私の心のうちにあります。」(詩篇40:6~8)

主がダビデに耳を傾けてくださったゆえ、ダビデは主に耳を傾けました。主がダビデにしてくださったことゆえ(詩篇40:1〜5)、ダビデは喜んで神様とその御心に従いました。神の御言葉は、ダビデの喜びだったのです。

それはダビデの心でした。

それはイエス様の心でした。(ヘブル書10:5〜7)

私もそのような心を願っています。

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詩篇のデボーション

神様の懲らしめの中にある私たちの心

この詩篇を読むと、私はダビデの心に深く動かされます。

彼は神様の懲らしめを受け入れているようです。もしかすると、これは歴代誌第一21章に記されたダビデの罪の後の祈りだったのかもしれません。

いずれにせよ、ダビデは神様の懲らしめに不満をぶつけて主から離れるのではありませんでした。

むしろ、彼は知恵の心を求めました。特に、このはかない人生の中で何が本当に大切なのかを知りたいと願ったのです。(詩篇39:4〜6)

また、自分はただこの壊れた世界を通り過ぎていく旅人にすぎないことを心に留め、懲らしめの中でも主と共に歩みたいと願いました。(12節)

今年、私もそのような心を願います。正しいものの見方を保つ知恵の心を持ち、へりくだって主と共に歩み続けたいのです。

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詩篇のデボーション

心を導く

皆さん、あけましておめでとうございます!

毎年、多くの人々が新年の抱負を立てます。私は普段そうしませんが、詩篇37篇を読んだとき、今年、ある部分で自分の心を神様の恵みによって導いていきたいと願いました。

特に、SNSやニュースを見るとき、私は怒りに支配されることを許さないと選びます。(詩篇37:1、7~8)

もちろん、怒るときはあります。その瞬間、怒ってもかまいません。けれども、その怒りや恐れが私を支配することは許しません。

むしろ、私は静まり、耐え忍んで主を待つことを選びます。神様が私のタイミングではなく、ご自身のタイミングで確かに正義をもたらしてくださると信じることを選びます。(7節)

その間、私は良い王に仕え、神様が私に求めておられることに励むことを選びます。(3節)

私たち皆が、そのように心を導かれ、この暗い世界に神の光となりますように。

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 あらゆるときに

私はあらゆるときに主をほめたたえる。
私の口には、いつも、主への賛美がある。 (詩篇34:1)

私たちがそのように生きるなら、私たちの人生はどれほど変わるでしょうか。

神様への賛美が私たちの口にいつもあるなら、私たちの態度はどれほど変わるでしょうか。

神様の偉大さを覚えているなら、私たちの問題はどれほど小さく見えるでしょうか。

もし、この世の状態について文句を言わずに、一緒に神様の御名をあがめ、その御名をこの世に宣言するなら、どれほど私たちは神様の力を知るでしょうか。(3節)

私たちは、この世に希望を与えることができるメッセージを持っています。

私たちは、この世に命を与えることができるメッセージを持っています。

しかし、礼拝の心を失うと、私たち自身がそのメッセージを忘れてしまうでしょう。

正直に言うと、私も忘れてしまうときがあります。

だからこそ、今日、礼拝する時間を取りましょう。神様が私たちのために何をしてくださったか思い起こしましょう。

それだけではなく、神様の麗しさや素晴らしさを思い出し、礼拝しましょう。

そして毎日、ダビデの言葉を心に留めて、この人生を歩みましょう。

私はあらゆるときに主をほめたたえる。
私の口には、いつも、主への賛美がある。

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詩篇のデボーション

喜びを選ぶ

 私たちのたましいは【主】を待ち望む。
主は私たちの助け、私たちの盾。

まことに私たちの心は主を喜び
私たちは聖なる御名に拠り頼む。(詩篇33:20-21)

昨日、ディートリヒ・ボンヘッファー牧師の言葉を読みました。

もし私たち自身が喜びと勇気によって支えられていないのなら、 喜びと勇気を持っていない人々をどのように助けることができるでしょうか。

今月、神様はその真理を私に思い起こさせ、今日の詩篇とボンヘッファーの言葉を通して、私の心にさらに刻みつけてくださいました。

喜びのない、恐れに支配されている人々に対して、私は神様の器となりたいと願っています。

だからこそ、自分の問題とこの世の問題を見ても、ダビデと共に主を喜び、主に拠り頼むことを選びます。

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インマンヌエル

私はあなたが行く道で
あなたを教えあなたを諭そう。
あなたに目を留め助言を与えよう。(詩篇32:8)

今朝、私はその言葉を思いめぐらしました。

インマヌエルとは、まさにそのことを意味しているのでしょう。

神様は常に私に目を留めておられます。

それは怒りの目でも、私を勘ぐる目でもなく、愛に満ちた目であり、私を正しい道へ導きたいと願っておられる目なのです。

疑問は、神様が私と共におられるかどうかではありません。むしろ、私が神様と共に歩んでいるかどうかということです。

あるいは、私はくつわや手綱といった馬具で強いられなければならない、 分別のない馬やらばのようなのでしょうか。(9節)

2026年には、柔らかい心と開かれた耳を持ち、 愛深い天のお父さんを子どものように信頼して歩みたいと願います。

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神の恩寵

まことに、御怒りは束の間、
いのちは恩寵のうちにある。(詩篇30:5)

今朝、その言葉が私の心に深く響きました。

神様が恩寵を与えてくださるとき、私たちはいのちを得ます。

そして2000年前、ベツレヘムで、神様は恵みの手を伸ばしてくださいました。

ヨハネはこのように記しています。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのち得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

神様の愛と恵みによって、私たちは神の御心にかなう者とされます。

それは本当に驚くべきことです。

だから、み使いたちと共に歌いましょう。

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が
みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

メリークリスマス!

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聞かれた

ほむべきかな【主】。
主は私の願いの声を聞かれた。(詩篇28:6)

クリスマスの季節なので、先週の土曜日にルカの福音書にあるゼカリヤの物語を読んでいました。

そしてダビデの言葉を読んだとき、ゼカリヤに語られたガブリエルの言葉を思い出しました

恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。(ルカの福音書1:13)

正直に言うと、神様が私の祈りに聞き届けてくださらないように見えるとき、失望するのは容易なことです。

けれども、神様が思い起こさせてくださいました。

「わたしはあなたの祈りを聞いています。たとえ『ノー』と答える時でも、あなたの願いを確かに聞いています。あなたを無視しているのではありません。あなたを愛しているのです。」

だから、私はダビデと共に歌います。

【主】は私の力、私の盾。
私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。

私の心は喜び躍り
私は歌をもって主に感謝しよう。(詩篇26:7)

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私が信じていなかったなら──

もしも私が
生ける者の地で【主】のいつくしみを見ると
信じていなかったなら──。(詩篇27:13)

私が多くのことをコントロールできないこの乱れた世の中で、 もし神様が良い方であり、私を深く愛しておられると信じていなかったら、どうなるでしょうか。

私は失望してしまうでしょう。

私は苦々しい心を抱くでしょう。

私はいつも怒っているでしょう。

私は恐れているでしょう。

イエス様を信頼し、従い続けることは難しくなるでしょう。

しかし、私は信じます。

だからこそ、自分の心を導き、ダビデと共に歌うことを選びます。

待ち望め【主】を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め【主】を。(詩篇27:14)

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私たちの動機

あなたの恵みは私の目の前にあり
あなたの真理のうちを私は歩み続けました。(詩篇26:3)

今日、いくつかの英訳を読み比べました。最も大きな違いは、「真理」と訳されている語が「忠実」とも訳せるという点です。

そのため、ある英訳では次のように訳されています。

あなたの誠実な愛は私の目にあり、
あなたの忠実さによって、私は歩み続けます。

別の訳では、こう表現されています。

あなたの誠実な愛を心に留め、
あなたの忠実さに頼って歩みます。

しかし、この意訳が私の心に特に響きました。

あなたの誠実さを心に留め、
あなたの忠実さは私の心を動かします。

神様の目が私たちの心を探っておられることは、少し恐ろしく感じられるかもしれません。時には、私たちを精錬する過程は痛みを伴います。

けれども、私の動機は恐れではなく、神の誠実な愛と忠実さです。

だから、私は毎日、喜んで自分の心を神様にさらけ出すことを選びます。

あなたはどうでしょうか。

あなたは神の誠実な愛と忠実さを知っていますか。

あなたの動機は何でしょうか。

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主は恵みとまことに満ちておられるから

【主】よあなたの道を私に知らせ
あなたの進む道を私に教えてください。

あなたの真理に私を導き教えてください。
あなたこそ私の救いの神
私はあなたを一日中待ち望みます。(詩篇25:4~5)

この詩篇を読むたびに、上の言葉はいつも私の心に響きます。

私はダビデのような心を持ちたいのです。

神様に教えられたい心。

神様を信頼する心。

しかし今日、なぜダビデがそのように願ったのか、わかってきました。

【主】の道はみな恵みとまことです。(詩篇25:10)

ダビデは心からそう信じ、自分の主のようになりたいと願ったのです。

私も、イエス様のようになりたいのです。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。。。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:14、16~17)

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あなたがあインマンヌエルであるゆえに

たとえ死の陰の谷を歩むとしても
私はわざわいを恐れません。
あなたがともにおられますから。(詩篇23:4)

イエス様、これは本当に乱れた世の中です。

けれども、あなたがインマヌエルであるゆえに、この世の民が恐れることを、私は恐れません。(イザヤ書8:12)

この世の民が心配することを、私は心配しません。(マタイ6:25~34)

この世の民は怒りに駆られるかもしれませんが、私はそうしません。(ヤコブ1:19~20)

むしろ、私の良い羊飼いよ、あなたを信頼し、待ち望むことを選びます。(イザヤ書8:17)

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何を求めているでしょうか

ある者は戦車を、ある者は馬を求める。
しかし私たちは
私たちの神【主】の御名を呼び求める。(詩篇20:7)

その言葉は私の心に響きました。

私は何を求めているでしょうか。特に安心感を得るために、何を追い求めているでしょうか。

ダビデの時代、王たちは軍隊の戦車や馬によって安心感を持っていました。

私たちの多くにとって、お金はその安心感を与えます。

しかし、ダビデにとって、その安心感は神様から与えられたのです。だからこそ、彼は毎日神様を追い求めました。

私はそのような心を持ちたいと願っています。神様を追い求める心を願っているのです。

あなたはどうですか。何を求めているでしょうか。

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神様がだれであるからこそ

私の口のことばと私の心の思いとが
御前に受け入れられますように。
【主】よわが岩わが贖い主よ。(詩篇19:14)

その言葉は、私にとって馴染み深いものです。私は何度もその言葉を読み、歌ってきました。 けれども今日、その最初の一部を思い巡らしました。

私にとって、神様はだれでしょうか。

神様は「ヤハウェ」です。つまり、神様は永遠の方です。 ただひとりの神であり、他の神々に勝る偉大な方、創造のすべての主です。

それでも、神様は私から遠く離れている方ではありません。 神様はインマヌエルであり、私たちとともにおられる神です。 私の岩。私の基盤。嵐の中の私の砦です。

さらに、神様は私のあがない主です。 イエス様は十字架で血潮を流し、サタンの国の奴隷生活から私を救い出し、 ご自身のご支配の中に移してくださいました。

だからこそ、私は神様を愛し、喜ばせたいと願います。

そのような心をもって、私は今日、ダビデとともに歌います。

私の口のことばと私の心の思いとが
御前に受け入れられますように。

あなたにとって、神様はどのような方でしょうか。

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神の謙虚

あなたは御救いの盾を私に下さいます。
あなたの右の手は私を支え
あなたの謙遜は私を大きくします。(詩篇18:35)

もうすぐクリスマスだからこそ、その言葉が私の心に響いているのでしょう。

「あなたの謙虚は私を大きくします。」

私は取るに足りない者なのに、神様はご自身を低くし、人となり、しもべの姿をとってくださいました。

そして、神であるイエス様は十字架で私の罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:7~8)

だから今や、そのみわざによって、取るに足りない私は神の子とされました。

なんとすばらしいことでしょう。

【主】は生きておられる。
ほむべきかなわが岩。
あがむべきかなわが救いの神。(詩篇18:46)

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イエス樣を「主」と呼ぶ喜び

私は【主】に申し上げます。
「あなたこそ私の主。
私の幸いはあなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)

今朝、ダビデの言葉を思いめぐらしました。そして、この考えが心に浮かびました。

「イエス様を『主』と呼ぶことには、喜びがあります。」

けれども、イエス様が良い方であり、私たちを深く愛してくださることを信じないなら、その喜びを知ることはできません。

その確信を持たないなら、イエス様を『主』と呼ぶことは、むしろ恐ろしいことになります。

ダビデは、神様を『主』と呼ぶ喜びを確かに味わいました。この詩篇を読むと、その喜びがはっきりと示されています。

私もその喜びを味わったことがあります。

けれども、私は毎日その喜びを満喫したいと願っています。

あなたはどうでしょうか。

イエス様を『主』と呼ぶ喜びをご存じですか。

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詩篇のデボーション

私が愚か者のように振る舞うことがある?

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。(詩篇14:1)

天のお父さん、あなたがおられることを認めます。

それでも、私は、あなたがおられないように振る舞うことがあるでしょうか。

私があなたを脇へ置くときがあるでしょうか。

また、私の恐れ、心配、さらに私の罪深い欲求が治めるときがあるでしょうか。

私の予定にこだわりすぎて、あなたがしておられることを見逃すことがあるでしょうか。

イエス様、私は愚か者のように振る舞いたくはありません。

あなたがインマヌエル、私とともにおられる神であることを心にいつも留めさせてください。

あなたを毎日毎日、一瞬一瞬、求める心を与えてください。

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詩篇のデボーション

私に良くしてくださる神

私は【主】に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。(詩篇13:6)

今朝、ダビデの言葉は私の目に留まりました。

私の問題をくよくよするとき、神様がどこにおられるかを考えるのは、容易なことです。

けれども、私はいつも神様がどれほど良くしてくださったかを思い起こしたいです。

私がまだ罪人であったとき、キリストは私のために死んでくださいました。

私が神様をまったく求めずに自分の道を歩んだとき、神様は私を追い求めてくださいました。

そのときに神様が私に良くしてくださったのなら、神様は今、ご自分の子にしてくださった私を見捨てられるでしょうか。それはあり得ないでしょう。

だから今日、神様がどれほど私に良くしてくださったかをもっと思い巡らしたいのです。

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詩篇のデボーション

この壊れた世界を見るとき

拠り所が壊されたら
正しい者に何ができるだろうか。(詩篇11:3)

ニュースやSNSを見るたび、私は自分の心を導くことを思い起こさなければなりません。

この世のよこしまを見るとき、思い悩むのは容易です。

けれども、王はまだみ座におられます。 立ち去られないのです。

イエス様はすべてをご覧になります。 そして、この世に帰ってこられると、すべての人を裁かれるのです。(4~6)

その日、この世は癒され、私は私の王の御顔を見るのです。(7)

その間、私は自分の恐れや怒りや心配を脇へ置くことを選びます。

そして、私の良い王に信頼することを選ぶのです。

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サムエル記第一のデボーション

忘れないで

ヤベシュ・ギルアデの住民は、ペリシテ人がサウルに行った仕打ちを聞いた。

そこで勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰って来て、そこでそれらを焼いた。 (サムエル記第一31:11~12)

ヤベシュ・ギルアデの住民であることを忘れるのは容易なことでしょう。なぜ彼らはそのような行動を行ったのでしょうか。

それは、サウルが彼らの都市を救ってくれたからです。(サムエル記第一11章)

彼らはそれを決して忘れることはありませんでした。

同じように、私はイエス様が十字架でしてくださったことを決して忘れたくありません。むしろ、いつも感謝の心を保ち、イエス様に仕えたいと願っています。

今朝、たまたま、詩篇86篇も読みましたが、ヤベシュ・ギルアデの住民の話のゆえに、ダビデの言葉は私の心に深く響いたのです。

わが神主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し
とこしえまでもあなたの御名をあがめます。

あなたの恵みは私の上に大きく
あなたが私のたましいを
よみの深みから救い出してくださるからです。(詩篇86:12~13)

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サムエル記第一のデボーション

弱虫ではなく、勇士

しかし、ダビデは自分の神、【主】によって奮い立った。(サムエル記第一30:6)

ダビデの行動を考えるとき、私はパウロの言葉を思い起こしました。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ人への手紙6:10)

苦しむとき、私は弱虫ではなく、勇士でありたいです。

私は「かわいそうパーティー」を開きたくありません。

また、苦々しい思いやフラストレーションや怒りに支配されたくありません。

正直に言うと、時には私はそのように反応してしまいます。

私はそれをもうしたくないのです。

ダビデのように、私は神の大能の力によって強められ、神の武具を身に付け、敵であるサタンに立ち向かおうとします。

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サムエル記第一のデボーション

敬うべき神

サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。。。」

サムエルは言った。。。「あなたが【主】の御声に聞き従わ(なかったからだ。」(サムエル記第一28:15、18)

天のお父さん、あなたは私の願いをかなえる単なるジーニーではありません。

あなたは私に操られる神ではありません。

あなたは敬い、従うべき神なのです。

サウルはその真理を決して学びませんでした。 むしろ、彼は自分の耳、さらに心をあなたに閉じてしまったのです。

だから最終的に、あなたは彼に語られなくなったのです。

どうか、私がそのようにならないように。 私がいつも柔らかい心と、あなたに傾いている耳を保つことができるようにしてください。

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サムエル記第一のデボーション

怒りに流されて

あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。。。

主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。(サムエル記第一25:28、30~31)

アビガイルの言葉は私の心を打ちました。

ある英訳では、「あなたのうちには、一生の間、悪が見出されないように」とあります。

それが私の願いです。

私は自分の誤った選択によって、後悔や痛む良心を抱えて苦しみたくありません。

しかし、私の感情、特に怒りに流されるとき、それは起こりがちです。

ダビデもまた、その怒りによって危うく流されてしまうところでした。

私はもちろん人を殺すほど怒ったことはありませんが、愚かなことを言ったり、行ったりした経験は思い出すことができます。

私はそのようなことをもうしたくありません。

天のお父さん、どうか私の心を守ってください。特に怒りから守ってください。

怒りに流されるのは容易ですが、それは私にあなたの望まれる人生をもたらすものではありません。

どうか私のうちに、一生の間、悪が見出されないようにしてください。むしろ、この口と心にあるものがあなたの御目にかないますように。私の主よ、私の岩、私のあがない主、私の良い神よ。

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サムエル記第一のデボーション

些細なこと?

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記24:5)

サウルの上着の裾を切り取ったことで、ダビデの心がどれほど痛んだかに私は驚きました。

その代わりに、ダビデはサウルを殺すこともできたのです。それと比べると、ダビデがしたことは些細な罪ではないでしょうか。

それでも、その「些細な罪」でさえ、ダビデの心を痛めました。

それを読んで、私は自問しました。

「些細な罪のために自分の良心が痛むとき、私はダビデと同じように反応するだろうか。」

私には、些細な罪のために言い訳をするのは容易なことです。

しかし、神様の心にかなう人とは、大きなことだけではなく、小さなことにおいても神様を喜ばせることを意味します。

私の人生の隅々まですべてを神様の支配下に置き、神様に捧げていないものは何一つあってはなりません。

それが、私の祈りです。

主よ、私の人生にあなたの御国が来ますように。御心が天で行われるように、私の人生の隅々までにも行われますように。

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サムエル記第一のデボーション

希望の灯台

そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。(サムエル記第一22:2)

今日、なぜ人々がダビデのもとに集まっていたのかを思い巡らしました。

実際、ダビデは彼ら以上に大きな問題を抱えていました。彼らにとって、ダビデと共にいることは、自分たちで暮らすよりも危険だったでしょう。

しかし、なぜかダビデは彼らに希望を湧かせました。

ダビデは確かに完全な指導者ではありませんでした。彼の嘘によって、85人の祭司とその家族がサウルに殺されました。

それでも、人々は自分たちにない希望と信仰をダビデに見ました。それによって、自分たちの内にも希望と信仰が湧いてきました。

私はそのような人になりたいと願っています。私の妻、娘、同僚、友人、そして周囲の人々すべてに希望と信仰を湧かせたいと願っています。

正直に言うと、今週、それほどよくできなかったと思います。 それでも、それが私の願いです。

天のお父さん、私が希望の灯台となるように。私を通して周囲の人々があなたに引き寄せられるように。

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サムエル記第一のデボーション

愛するものからの傷

サムエル記第一19〜20章を読んだとき、私はサウルがどのように感じたかを思い巡らしていました。

おそらく、サウルは自分の子供たちに裏切られたと感じたでしょう。なぜなら、彼らはサウルの見方ではなく、ダビデの見方だったからです。そのことによって、サウルは深く傷ついたのです。

しかし、悪かったのは彼らではなく、サウル自身でした。

ヨナタンの言葉はサウルの心を刺しましたが、もしその言葉に耳を傾けていたなら、サウルは癒しを知ることができたでしょう。でも、残念ながら、彼は破滅に至る道を歩み続けました。

私はサウルほどではないと思っていますが、頑なになることがあります。それでも、そのような態度を避けたいのです。

むしろ、忠実な友人の言葉に心を開いたままでいたいと願います。たとえその言葉が痛くても、受け入れたいのです。(箴言27:5〜6)

特に、イエス様の言葉に心を開き続けたいです。なぜなら、イエス様は私のもっとも忠実な友だからです。

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サムエル記第一のデボーション

やめよ。知れ。わたしこそ神。

サムエル記第一19章を読んだとき、私は詩篇第46篇との関係に気付きました。

サウルから逃げたとき、ダビデは詩篇46篇の詩人の言葉の真実さを、身をもって学びました。

神はわれらの避け所また力。
苦しむときそこにある強き助け。(詩篇46:1)

その一方で、神様はサウルに何を思い知らせようとされたのでしょうか。もしかすると、神様はこう語ろうとされたのかもしれません。

[わたしと戦うことを]やめよ。知れ。
わたしこそ神。

わたしは国々の間であがめられ
地の上であがめられる。(詩篇46:10)

その日、神様はサウルを低くされました。それでも、サウルは神様と戦い続けていました。

もしサウルがその戦いをやめていたなら、神様の平和を知っていたでしょう。神様がまことに私たちの避け所また力であることを、彼も知るようになっていたでしょう。

けれでも、彼は、神様と戦い続け、恐れに囚われたまま生きていました。そのため、彼は酷い罪を犯し、最終的に滅びてしまったのです。

サウルの話を読んだとき、私はヤコブの話を思い出しました。ヤコブも、神様と戦ったことがありました。(創世記32:24~31)

しかし、サウルとは異なり、ヤコブはその戦いをやめ、神様に従おうとしました。その結果、彼は平安を見出しました。

あなたはどうですか。あなたはまだ神様と戦い、自分の道を歩んでいるでしょうか。

それとも、神様を見上げて、こう言いますか。「あなたは私の神です。私の良い王です。あなたを信頼します。」

そうすれば、あなたはダビデと詩人とともに学びます。

万軍の【主】はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:11)

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サムエル記第一のデボーション

信仰を周囲の人に注射する

すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。

ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(サムエル記第一17:46~47)

ダビデの言葉は私の心を打ちました。

彼の願いは、すべての国々が、ダビデが仕えた神を知ることでした。つまり、神様がダビデを通して行われるみわざを見るとき、彼らが神様のすばらしさを見ることができるようにと願っていたのです。

同時に、ダビデはイスラエルの民にも信仰を注射したいと願っていました。ゴリアテとペリシテ人の軍勢に直面したとき、彼らは勇気を失っていました。だからこそ、ダビデはその信仰を回復させたいと願ったのです。

私も、同じことをしたいと願います。つまり、神様を知らない周囲の人々が、私の中にある神のみわざを見て、神様が存在しておられることを知るようになることです。

彼らが神様のすばらしさと力強さ、そして良さを知り、神様を知りたいと願うようになることを祈ります。

それだけではなく、私は周囲のクリスチャンたちにも信仰を注射したいと願っています。彼らが絶望するとき、私の中にある神の働きを見て、「確かに、神様はここにおられる。希望がある。」と実感するように祈ります。

天のお父さん、私が周囲の人々に信仰と希望を注射するように導いてください。

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サムエル記第一のデボーション

むなしい礼拝、真の礼拝

「どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が【主】を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」

サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは【主】のことばを退け、【主】があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」(サムエル記第一15:25~26)

「どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、【主】を礼拝します。」

サムエルはサウルについて帰り、サウルは【主】を礼拝した。(サムエル記第一15:30~31)

天のお父さん、サウルはあなたを礼拝しようとする態度を示しましたが、礼拝の本質をまったく理解していませんでした。

真の礼拝とは、あなたが私たちの心を持っておられることです。それは心の一部ではなく、心のすべてをあなたに捧げることです。

ダビデはそのことをよく理解していました。

まことに私が供えても
あなたはいけにえを喜ばれず
全焼のささげ物を望まれません。

神へのいけにえは砕かれた霊。
打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:16~17)

しかし、サウルは、その真理を決して理解することがありませんでした。

あなたがサウルの心を持っておられなかったため、彼の礼拝はむなしいものでした。

主よ、あなたは私の心を持っておられるでしょうか。

私の心のすべてを支配してください。

私の礼拝が、サウルの礼拝のようにむなしいものにならないように。

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サムエル記第一のデボーション

自分が良いと思う通りに生きる?

すると兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」(サムエル記第一14:36)

そのことばを読んだとき、昨日の説教を思い出しました。

私の牧師は、すべてのことを神様の支配下に置くことの大切さを語っていました。つまり、好き勝手に行動するのではなく、神様を求め、御心に従うことです。

サウルはそうしなかったため、最終的に彼の統治は崩れてしまいました。

しかし、自分が良いと思う通りに行動してしまうのは自然なことです。好き勝手に時間やお金を費やすのは簡単ですし、自分の目に良く見えることをすぐに選んでしまいます。

けれども、それは神様の支配下に生きている姿ではありません。

だからこそ、神様は私にこう語っておられると思います。「決断するときに、わたしのこころをもっと求めなさい。」

特に、経済のことをもっと考えなければなりません。献金だけでなく、私の経済全体を神様の支配下に置くべきです。自分が良いと思う通りにお金を使うのではなく、神様の御心に従って用いるべきです。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

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サムエル記第一のデボーション

本当に、良しとされるのですか?

主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。(サムエル記第一12:22)

天のお父さん、どうして私が不実で、大失敗し、あなたを裏切るにもかかわらず、あなたは私を捨て去られないのでしょうか。

それどころか、あなたは私をご自身の者、ご自身の子とすることを良しとされるのです。

それは本当に驚くべきことです。あなたはそれを良しとされるとは、なんと不思議なことでしょう。

だからこそ、お父さん、私があなたを恐れ、心を尽くして、誠実に仕えるように導いてください。

あなたがどれほど大いなることをしてくださったかを心に留めておくように助けてください。特に、私がイエス様の十字架の働きを決して当たり前のものだと思わないようにしてください。

私へのあなたのすばらしい恵みといつくしみに、心から感謝します。

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サムエル記第一のデボーション

御霊を消してしまうのか?

サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。

彼らがそこからギブアに行くと、見よ、預言者の一団が彼の方にやって来た。すると、神の霊が彼の上に激しく下り、彼も彼らの間で預言した。(サムエル記第一10:9~10)

御霊はサウルのために素晴らしいことをしてくださいました。

でも、私の心に打たれたのは、サウルの反応です。彼は御霊を消してしまいました。(テサロニケ人への手紙5:19)

彼は文字通り、家に帰って隠れました。

なぜでしょうか。

もしかすると、預言者との霊的な経験によって、サウルは恐れを感じたのかもしれません。

あるいは、周囲の人々が彼をあざ笑ったとき、彼は恥じ入ったのかもしれません。

いずれにせよ、その結果として、サウルは自分の人生における御霊の働きを消してしまいました。

私はそうしたくありません。

むしろ、ペテロと他の使徒たちの模範に倣いたいです。使徒の働き第2章では、御霊は彼らの上に激しく下り、満たしてくださいました。

しかし、サウルとは異なり、使徒たちは大胆に神様のために生き、その導きに従いました。

聖霊様、私はあなたを消してしまうことがあるでしょうか。

あなたが私の心を動かしてくださるとき、それを無視しないように導いてください。むしろ、私の心にあなたが付けてくださった火花を炎に燃え立たせるように、勇気と願いを与えてください。

そして、私が毎日毎日、一瞬一瞬、あなたの導きに従うことができますように。

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サムエル記第一のデボーション

だれに希望を寄せる?

全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか。(サムエル記第一9:20)

今朝、私はそのことばを思いめぐらせました。

イスラエルの民は、不完全な王、不完全な救い主に希望を寄せていました。

完全な王、完全な救い主がすでにおられたのに、どうして彼らは別の者に思いを向けていたのでしょうか。

でも、そうするのは容易なことです。私たちはしばしば神様の代わりに別のものに希望を寄せてしまうでしょう。

私はそうしたくありません。

むしろ、私の良い王の支配下にとどまり、すべてよりもイエス様に思いを向けることを選びます。

主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:7)

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詩篇のデボーション

あなたが遠く感じられるときに

主よ、なぜ、あなたは遠く離れて立ち、苦しみのときに、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)

天のお父さん、あなたが遠く離れて立ち、身を隠されているように感じられるときがあります。特に、苦しんでいるとき、私はそのように感じることが多いのです。

でも、真理は、あなたが私の良い王であり、永遠に治めておられるということです。(16節)

真理は、あなたが私の叫びを無視しておられるのではなく、耳を傾けてくださるということです。(17節)

そして、いつかの日に、あなたは正義をもたらし、すべてを癒してくださいます。(18節)

だから、私の良い王、あなたが遠く離れて感じられるとき、私は自分の感情ではなく、あなたを信じることができるように助けてください。

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詩篇のデボーション

計り知れない恵み

人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。(詩篇8:4)

今朝、上の言葉を思いめぐらせました。

私たちのすべては、罪の肥溜めに落ちて、その汚れにまみれてしまいました。それでも、イエス様は、御使いよりわずかに欠けがあるものとし、その肥溜めに入り、救い出してくださるほど、私たちを心に留めてくださいました。

しかし、本当に驚くべきことは、イエス様は私たちをご覧になるたびに、肥溜めから救い出された「物」として見なしておられるわけではないということです。私たちがその汚れにまみれていた状態という記憶は、まったく残っていないのです。

むしろ、ご自身の義に着せられ、栄光と誉れの冠をかぶらせている者としてご覧になります。

私たちへのイエス様の恵みと愛は、本当に測り知れないものです。

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詩篇のデボーション

正義の裁判官を待ち望む

あなたはさばきを定められました。(詩篇7:6)

今日、その言葉私の心に響きました。

この世のよこしまと不正をニュースで見るとき、怒るのは簡単なことです。

しかし、この詩篇を通して、神様は私に思い起こさせてくださいました。「わたしはそのよこしまと不正を無視しているわけではありません。」

神様は裁きを定められました。そして、その日に、神様は正義をもってすべての人々を裁かれます。

神様は人の行動だけでなく、彼らの心の深みをも調べておられます。そして、彼らが悔い改めようとしないなら、最終的に神様の正義と向き合うことになります。

だから、ニュースを読むとき、怒りを脇へおいて、ダビデとともに賛美することを選びます。

私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。いと高き方 主の御名をほめ歌います。(詩篇7:17)

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詩篇のデボーション

私たちが悲しむとき

私たちの人生は、いつも楽というわけではありません。ダビデはそれをよく知っていたので、哀歌を多く書きました。

でも、私たちがこの壊れた世界で悲しむとき、このことを心に留めておきましょう。

1.神様は私たちの神であり、私たちの王です。(詩篇5:2)。ですから、私たちは神様を敬い、神様に従うべきです。

多くのクリスチャンは、神様をお父さんとして、また友だちとして考えたいと思います。もちろん、神様は私たちのお父さんであり、友だちです。

でも、文句を言うとき、神様が私たちの神であり王であることを忘れてはなりません。神様は、私たちの敬いと従順にふさわしい方です。

2.神様は良い方です。

時々、私たちは周りの悪を見ると、神様のご性質を疑い始めます。神様が本当に良い方であるかどうか、疑い始めるのです。

でも、私たちはこの真理を心に留めておかなくてはなりません。神様が悪に取り組むのが遅く感じられるかもしれませんが、最終的に正義をもたらしてくださるのです。(第二ペテロ3:8〜10)

その日、すべての人々はダビデの言葉が正しいと知るようになります。

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。(詩篇5:4)

だから、どんな悪を見ても、神様の良いご性質を疑わないようにしましょう。

3.私たちも、ただ恵みによって神様に近づくことができます。

私たちは周囲の悪人を見て怒るかもしれませんが、謙遜な態度を持って、神様の恵みがなければ、私たちも裁かれていたことを覚えておきましょう。

4.私たちが試練に直面するときこそ、神様の導きと助けが必要です。

だから、ダビデと一緒に祈りましょう。

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、(または、私には大変な問題があるので)あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。(8節)

最後に、主にあって喜び、主のことを誇りましょう。(11節)

私たちにトラブルがあるとき、文句を言うのは簡単なことです。そうせずに、神様に身を避けて、主を喜びましょう。

そうすれば、あなたの視点は完全に変わります。そして、神様の偉大さと比べると、あなたの問題は小さく見えるでしょう。

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詩篇のデボーション

神に特別に扱われている

知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。(詩篇4:3)

今朝、その言葉は私の心に響きました。

神様は私を特別に扱ってくださいます。

神様は私を責めるのではなく、恵みによって義と認めてくださいます。(1節)

私が呼ぶとき、神様は聞いてくださいます。(3節)

私が御顔を仰ぐとき、神様は怒っておられるのでも、がっかりしておられるのでもなく、その光を私の上に照らしてくださいます。(6節)

だからこそ、「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」と叫ぶ世界に、私は答えます。

「私の神こそがそうしてくださいます。」

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詩篇のデボーション

神様の答えが遅く感じられるとき

私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)

日曜日に、教会で「やもめと不正な裁判官のたとえ話」についてのメッセージを聞きました。

そのたとえ話の中で、やもめは裁判官が願いを聞き届けてくれるという確信を、どれほど持っていたでしょうか。彼が彼女のことをまったく気にかけていないことを、よく知っていたはずです。

それでも、彼女の願いを聞いてくれるのはその裁判官しかいなかったので、彼に願い続けるしかありませんでした。

一方、ダビデは、神様が自分を愛しておられるという確信を持っていました。だからこそ、神様に祈るとき、聞き届けてくださるという確信も持っていたのです。

今、私はこう思います。「神様の答えが遅く感じられるとき、私は神様が聞いてくださるという確信を、どれほど持っているだろうか。」

私は、ダビデのような信仰が欲しいです。

私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)

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詩篇のデボーション

イエス様は治めておられる

「わたしが わたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山 シオンに。」

「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。 『あなたはわたしの子。 わたしが今日 あなたを生んだ。』」(詩篇2:6~7)

私はこの乱れた世の中を思うとき、この言葉に心強さを覚えます。

イエス様は治めておられます。

ユダヤ人の指導者たちやローマ帝国はイエス様を十字架につけましたが、その真理を変えることはできませんでした。(使徒の働き4:25~28)

サタンもその真理を変えることはできませんでした。(黙示録12章)

イエス様を王座から追い出すことができる者も力も、何ひとつ存在しません。

そして、いつかの日、神様はすべてのものをイエス様の足台としてくださいます。(詩篇2:8~9、ヘブル書1:5~13)

だからこそ、私はニュースでこの世の悪を見るとき、また、自分の問題を心配するとき、この真理を握ることにします。

イエス様はこの世を治めておられます。そして、このイエス様は良い方です。

幸いなことよ、すべて主に身を避ける人は。(詩篇2:12)

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詩篇のデボーション

誰のために、栄える木が実を結ぶのか

幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。

主のおしえを喜びとし 、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。

その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び  その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。(詩篇1:1-3)

詩篇1篇では、詩人は、神様のみ言葉に思いを巡らす人について書いています。彼によれば、その人は栄えて実を結ぶ木のようになります。

でも、私たちが誰のために実を結ぶのか、考えたことがあるでしょうか。私たちが栄えるとき、誰がその益を受けるのか、考えたことがあるでしょうか。

果樹は、自分に栄養や祝福を与えるために実を結ぶわけではありません。むしろ、その木は周囲の人々を祝福し、栄養を与えるために実を結びます。

私たちは、そのような人であるべきです。

多くのクリスチャンは、この箇所を読むとき、このように考えます。「聖書を読んで、その言葉に思いを巡らすと、私は祝福されます。」

もちろん、それが間違っているわけではありません。しかし、もっと大切なのは、私たちが実を結び、神様がその実を通して周囲の人々を祝福してくださることです。

私たち皆がそのような木であり、神様の恵みのパイプラインとなって、周囲の人々に触れるように。

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サムエル記第一のデボーション

あなたが私の人生を治めてくださるために

主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。

なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。(サムエル記第一8:7)

それを言われたとき、神様はどう感じておられたでしょうか。

神様は怒っておられたでしょうか。

そうだったかもしれません。

しかし、イスラエルの民がイエス様を王として拒んだとき、彼は怒っておられたのではなく、悲しんでおられました。

その悲しみは、ご自身が傷ついたからではなく、むしろ、イエス様がイスラエルの民の選択がどの道に導かれるかをよくご存じだったからです(マタイ23:37〜39;ルカ19:41〜45)。

今日、私はこう考えていました。「自分の王がどれほど私を愛しておられるか、本当に理解しているだろうか。」

イスラエルの民はそれを理解していなかったため、神様を王として拒んでしまいました。

私はそれをしたくありません。

けれでも、私はもう一度自問します。

「自分の王がどれほど私を愛しておられるか、本当に理解しているだろうか。」

私の良い王よ、自分に対するあなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるのかを理解するようにしてください。

それは、私が喜んであなたにすべてを明け渡し、あなたが私の人生のすべてにおいて治められるためであるように。

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サムエル記第一のデボーション

だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう?

ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。(サムエル記第一6:20)

今日の箇所では、イスラエルの民もペリシテ人も、大切な真理を思い知らされました。

それは、神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていないということです。

ペリシテ人の神ダゴンは立つことができず、ペリシテ人たち自身も立つことができませんでした。だから、さばきが下ったとき、彼らは領主たちに主の箱を戻すように叫びました。

しかし、イスラエルの民もまた、神様の前に立つことはできませんでした。

何百年も前に、モーセは彼らにこう警告していました。

「レビ人だけが主の箱を運ぶことを許されている。しかし彼らでさえ、その箱を見たり触れたりすることは許されていない。」(民数記4:15~20)

ところが、イスラエルの民はその指示を無視し、箱をすぐに覆わず、さらに勝手にその箱を開けてしまったため、さばきが彼らにも下りました。そこで、彼らは叫びました。「だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう。」

その答えは明らかです。神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていません。なぜなら、神様は聖なる方であり、私たちは罪によって汚れた者だからです。

私たちは皆、罪を犯しており、神の栄光を受けることができません。(ローマ書3:23)

だから、私たちがふさわしいことは、神の裁きだけです。

しかし、イエス様を通して、今や私たちはこの聖なる神の前に立つことができます。

パウロはこう記しました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ書5:1~2)

どうして、私たちは神様の前に立つことができるのでしょうか。それは、イエス様の十字架のみわざによって、私たちが神様との平和を持っているからです。

十字架の上で、私たちの罪によって汚れた衣はイエス様に置かれました。そして、私たちがイエス様を信じると、神様はイエス様の義と聖さをもって、私たちを着せてくださいます。

だからこそ、私たちは自由に神様の前に進み出ることができるのです。

もちろん、自分が義人であることを感じないときもあります。とくに、罪を犯すとき、私たちは汚れていて、神の愛にふさわしくないと感じます。

それでも、私たちは希望を持っています。それは、

キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だからこそ、私たちは神様の栄光を見るとき、恐れる必要はありません。むしろ、私たちは喜びます。なぜなら、イエス・キリストによって、神様は私たちをすでに受け入れてくださっているからです。

そして、いつかの日、私たちは神様の栄光を身にまとうことになります。

だから、パウロはこう記しました。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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サムエル記第一のデボーション

なんと偉大なお方、私たちの神よ

ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。

アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。

次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。(サムエル記第一5:1~4)

この物語を読むたびに、私はいつも笑ってしまいます。

ペリシテ人たちは、主をただの神々の一つだと思っていました。しかも、彼らは先ほどイスラエルの民を打ち倒したばかりだったので、自分たちの神ダゴンのほうが主よりも偉大だと考えました。

でも、彼らはすぐに、自分たちが間違っていたことを思い知らされました。

ダゴンが主の箱の前で、地にうつぶせになって倒れている場面を思い浮かべるとき、私はいつもイザヤ書45章にある神のことばを思い出します。

神様はこの出来事の何百年も後にそのことばを語られましたが、それはまさに、あの日ペリシテ人たちに語っておられたのと同じメッセージでした。それは、

わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、 わたしをおいて、ほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、 決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、 すべての舌は誓い。。。(イザヤ書45:21~23)

今日、その言葉を思い巡らしています。それを読んで、私は叫ばずにはいられません。「なんと偉大なお方、私たちの神よ。」

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サムエル記第一のデボーション

栄光がどこにあるのですか

前回の記事では、私は士師の時代に、イスラエルの民が神様に従わず、自分勝手に生きていたことを述べました。

でも、この箇所では、彼らはさらにひどいことをしました。彼らは神様を、飼いならされたジニーのように扱い、ペリシテ人を打つために用いようとしたのです。

ところが、第一サムエル記の著者は、「神様がケルビムという天使の上に座しておられる万軍の主である」と強く主張します。

通常、「ケルビムに座しておられる万軍の主」という表現は、神様の契約の箱を指しています。なぜなら、神様がモーセや大祭司と語られた時、契約の箱の上の雲の中に現れたからです(レビ記16:2)。

しかし、この箇所では、その雲はまったく現れませんでした。

ですから、この場合、著者は契約の箱そのものではなく、その箱が象徴する天国の現実について語っているのではないでしょうか。つまり、天国では、天使たちが神様に栄光を帰しています。なぜなら、神様はその栄光にふさわしい方だからです。

その一方で、イスラエルの民は神様にまったく栄光を帰しませんでした。

この物語の最後では、エリの義理の娘が出産し、その息子をイ・カボデと名づけました。その名前は、「栄光はどこか」という意味です。

彼女が意味したのはこうです。「神の栄光はどこですか。神様は私たちを見捨てられました。ここには、栄光がもうありません。」

しかし、もしかしたら、神様はイスラエルの民に同じ質問を投げかけておられたのかもしれません。今でも、神様は私たちに同じ質問を投げかけておられるのかもしれません。

特に、神様にふさわしい栄光と誉れは、今どこにあるのでしょうか。天使たちは、その栄光と誉れを神様に帰しています。でも、私たちはどうでしょうか。

教会、職場、家庭、そして私たちの人生において、本当に栄光と誉れを神様に帰しているでしょうか。

それとも、神様が私たちをご覧になる時、「栄光はどこにあるのでしょうか」と言われているのでしょうか。

天のお父さん、あなたは、操られる神ではありません。

あなたはケルビムの上に座しておられる万軍の主です。あなたは、すべてを治めておられる方です。

その「すべて」には、私自身も含まれています。あなたは、私の王です。

ですから、私はいつもあなたを王として敬うように導いてください。

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サムエル記第一のデボーション

聞こえない耳、見えない目

時々、聖書には、私たちに痛烈な皮肉が示されることがあります。この箇所でも、そのような皮肉を見ることができます。

サムエル記第一3章一節には、こう書かれています。

そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。(サムエル記第一3:1)

これは士師記の時代でした。その時代はどのようなときだったでしょうか。

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。 (士師記21:25)

第一サムエル2章によれば、祭司たちも神様に従わず、勝手に振る舞っていました。だから、神様はイスラエル人に語ることを拒まれました。

そして、3章2節では、私たちは皮肉なことを見ることができます。大祭司エリの目はかすんできて、見えなくなっていました。ところが、エリの霊的な目もかすんで、見えなくなっていたのです。

どうしてでしょうか。なぜなら、エリは神様を敬わなかったからです。むしろ、彼は自分の息子たちを神様よりも敬っていたのです。

エリの息子たちは、神様とイスラエル人に対して故意に罪を犯していたのに、エリは彼らを祭司として退けませんでした。だから、神様ご自身がエリとその息子たちを祭司として退けられました。(2:29-36;3:11-14)

しかし、その一方でサムエルがいました。

この箇所では、もうひとつ皮肉なことが描かれています。盲目のエリが、霊的なことの見方をサムエルに教えたのです。

神様がサムエルを呼ぼうとしておられると理解したとき、エリはこう言いました。

主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」(第一サムエル3:9)

そして、主がサムエルのそばに立ち、呼ばれたとき、サムエルはその声を聞き、エリの助言に従ってこう答えました。 「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」

主が私たちのそばに立ち、呼ばれるとき、私たちは主に対して目と耳を閉ざしているため、どれほど主がおられることに気づかないでしょうか。

イエス様はこう言われました。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。

それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。(マタイ13:15)

神様があなたを呼ばれるとき、あなたはどうしますか。エリのように、自分の罪を握り、主の声を聞くことを拒むでしょうか。そうすれば、あなたの霊的な目と耳は不自由になってしまいます。

そうするのではなく、サムエルのように答えましょう。

「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」

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サムエル記第一のデボーション

私たちの忠実な祭司

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(サムエル記第一2:25)

今朝、私はその言葉に思いを巡らせていました。

神様に対して罪を犯すとき、私たちのために仲裁に立ってくださる方がおられます。

神様はイエス様を、私たちの忠実な祭司として起こしてくださいました。さらに、イエス様はとこしえに私たちの祭司です。(サムエル記第一2:35;ヘブル書2:17~18;7:23~25)

私の罪によって神様をどれほど悲しませたかを振り返ると、その真理は本当に不思議なことだと思います。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8:34)

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ルツ記のデボーション

あがなわれた

どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。。。

どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。(ルツ記4:11~12)

今日、ラケル、レア、タマルの物語を思い巡らせていました。彼女たちの人生は、それぞれのかたちで壊れたものでした。(創世記29~30章、38章)

それでも、最終的に彼女たちは、その壊れた人生のゆえにではなく、祝福された女性としてユダヤ人たちに思い出されました。

ルツの人生もまた、壊れたものでした。しかし今、彼女は祝福された人として記憶されています。

さらに、神様はこの4人の女性たちを通して、私たちのあがない主であるイエス様をこの世に送られました。彼女たちの名前はイエス様の系図に記録されているのです。

だから、神様は私に思い起こさせてくださいました。 「あなたは、人生の壊れたところによって定義されているのではありません。私はあなたをあがなって、今や、あなたは祝福されているのです。」

I was nothing before you found me.
あなたが私を見つけてくださる前、私は取るに足りない者でした。
You have given life to me.
あなたは私にいのちを与えてくださいました。

Heartache, broken pieces,
悩み、砕けた心。
Ruined lives were why you died on Calvary.
滅びた人生のゆえに、あなたはカルバリで死んでくださいました。

Your touch was what I longed for.
私が憧れていたのは、あなたの癒しの御手でした。
You have given life to me.
あなたは私にいのちを与えてくださいました。ーービルとグロリア・ゲイザー

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ルツ記のデボーション

安息を得るために

姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。」(ルツ記3:1)

今日、神様の安息について思いを巡らせていました。

ルツは、ある意味で安息を見つけました。ナオミ、そして特にボアズに信頼を寄せることで、身の落ち着き所となる安息を得たのです。

もしボアズがそれほど善良な人でなければ、その夜、ルツは本当に困っていたことでしょう。

しかし、彼女はボアズが善良な人であることを信じていたので、やがて安息を見出すことができました。

ルツの態度とは対照的に、士師の時代のイスラエルの民は神様に信頼を寄せることを拒み、何度も安息を失いました(士師記1:18~19、2:11~12、3:30~4:2、5:31~6:2)。

ところで、聖書では、「買い戻し」と訳される語は(ルツ3:9)、神様に当てはめるとき、「あがない」と訳されます。

つまり、ルツは自分の「あがない主」であるボアズを信頼しましたが、イスラエルの民は自分の「あがない主」である神を信頼しなかったのです。

今、私は安息を失った人々のことを考えています。彼らが安息を失ったのは、あがない主が良い神であることを信じなくなったからです。

私はその模範に倣いたくありません。

ルツのように、私は自分のあがない主が良い方であり、その約束が確かであることを信じる道を選びます。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

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ルツ記のデボーション

でも、真理は…(2)

今日、ルツ記1~2章をさらに読んで、私たちの感情と真理の違いについて考えていました。

第1章で、ナオミはどのように感じていたでしょうか。

彼女はこう言いました。

「主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられた。」

でも、真理は何だったのでしょうか。

「神様は私に御恵みを惜しまない主です。」

私はただ自分の感情に従いたくはありません。それは抜け出しにくい痛みのサイクルにつながります。

私は神の愛に根差し、みことばの剣を振るって、こう宣言したいのです。「でも、真理は…」

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ルツ記のデボーション

でも、真理は…

ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。」(ルツ記2:20)

この章では、ナオミの態度はまったく違いますね。

第1章では、ナオミは苦々しい思いを抱いて、「主が私を卑しくし、辛い目にあわせられた」と言いました。(ルツ記1:13、20~21)

でも、第2章では、彼女は真理に目を開かれるようになりました。さまざまな煩いがナオミに訪れても、神様が彼女を決して捨てられることはありませんでした。それどころか、神様は彼女を深く愛しておられました。

あなたは今、ナオミのように痛みのサイクルに陥っているかもしれません。

神様があなたを辛い目にあわせていると思うかもしれません。

神様があなたを見捨てられたと感じるかもしれません。

でも、真理はこうです。神様は良い方で、あなたを深く愛しておられます。

だから、神様から離れるのではなく、神様の翼の下に身を避けようとするなら(12節)、あなたもやがてその真理に目が開かれるようになるでしょう。

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ルツ記のデボーション

神様は良い方なの?

ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミ(「快い」の意味)と呼ばないで、マラ(「苦しむ」の意味)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。

私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。

どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(ルツ記1:20~21)

今、私はナオミのように感じている知り合いのことを考えています。

神様が良い方であることを信じるのが難しいときもあります。

それでも、その知り合いのために祈っていた今朝、別の友人からSMSが届きました。

去年、彼は失業し、今年はさまざまな意味で本当に大変な一年でした。

正直に言うと、彼のために祈る中で、私が失望を感じることもありました。神様の答えが長い間、見えなかったからです。

でも今朝、彼が再雇用されたことを知らせてくれました。

そして神様は、もう一度私に思い起こさせてくださいました。「はい、わたしは良い方です。」

だから私はその真理を握りしめながら、今もなお苦しんでいる知り合いのために祈り続けています。特に、その人が神様がまことに良い方であることを知るようにと祈っています。

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

平和の神

平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。

あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。(テサロニケ人への手紙第一5:23~24)

今日、「平和の神」という言葉を思い巡らしていました。

第4章3節で、パウロはこう語りました。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。

そして、今日の箇所では、パウロは神様が私たちの人生にその聖さをもたらしてくださるように祈っています。

ときには、そのプロセスに神の懲らしめが含まれることもあります。そして、その懲らしめが苦しいときもあります。

それでも、神様が私たちをにらんでおられると考える必要はありません。神様は平和の神です。私たちは神様との平和をもっているのです。

だから、神様が私の人生の中で取り組んでおられる課題を考えるとき、私は自分をその真理に染み込ませています。

「神様は私に怒っておられません。私は神様との平和をもっているのです。」

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

神のみこころ

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。(テサロニケ人への手紙第一4:3)

今朝、その言葉が私の目に留まりました。なぜなら、「これが神のみこころ」とはっきりと語る聖書箇所は、それほど多くないからです。

私をはじめ、多くのクリスチャンたちは「神様のみこころを知りたい」と言います。

その言葉の背景には、誰と結婚するべきか、どのような進路をたどるべきかといった問いがあることが多いです。

でも今朝、神様は私に思い起こさせてくださいました。「これは私のこころです。あなたがたが聖なる者となることです。」

パウロはこの文脈で主に性的な聖さについて語っています。彼の時代も、私たちの時代と同じように、それが大きな課題だったからです。

しかし、聖なる者となることは、性的な聖さだけに限られるものではありません。私たちの愛、言葉、思い—それらすべてにおいて、イエス様のようになることです。

だから今日、神様が私の心の中で取り組んでおられる課題について考えています。

その取り組みと格闘しながら、私は自分自身に、私を愛してくださるアバの言葉を思い起こしています。

「これは私のこころです。あなたがたが聖なる者となることです。」

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テサロニケ人への手紙第一のデボーション

信仰、望み、愛

私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。(テサロニケ人への手紙第一1:3)

信仰、望み、愛。

天のお父さん、私がするすべてのことが、それらから生まれるようにしてください。

義務からではなく、「我慢しなければ」という感情からでもなく。

むしろ、私の働きが信仰から出るようにしてください。それは、あなたが良い方であることを信じる信仰です。あなたが私を愛してくださることを信じる信仰です。私の最善をご存知であり、それを願っておられると信じる信仰です。

私の苦労が愛から生まれるようにしてください。あなたへの愛。周りの人々への愛。

私の忍耐が望みに支えられるようにしてください。永遠を考慮に入れると、この世の問題、私の問題ははかないものです。イエス様、あなたを知っているゆえに、その望みをもっています。

あなたのゆえに、私の罪は赦されました。私の問題を通して、神様が私を罰しておられるというわけではありません。

むしろ、私は大胆に神様の御前に進み出ることができます。あなたのように、私は天の父に選ばれ、愛されているのです。

私が毎日毎日、一瞬一瞬、その視点を保つことができるようにしてください。

イエス様、あなたを待ち望んでいます。私は待ち望んでいます。

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コロサイ人への手紙のデボーション

自分の心を守る

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。(コロサイ人への手紙4:2)

前回の記事で私は言いましたが、最近のニュースやSNSを見るとき、私の心が騒ぐのは簡単です。

でも今日、神様は、私が自分の心に注意を払うように思い起こさせてくださいました。 私は常に自分の思いを吟味し、祈って、それを神様に委ねる必要があります。

それだけではなく、私が自分の心を感謝へと導き、主にあって喜ぶことを選ぶようにと、神様は思い起こしてくださいました。

今日、たまたま詩篇17篇も読み、ダビデのことばを通して、神様の語りかけが私にいっそう深く響きました。

あなたは私の心を調べ、夜、私を問いただされました。私を炉で試されましたが、何も見つかりません。私は 、口の過ちを犯さないように心がけました。。。

私は、義のうちに御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、御姿に満ち足りるでしょう。(詩篇17:3、15)

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コロサイ人への手紙のデボーション

困難のときの祈り

天のお父さん、ニュースやSNSを見るとき、この世の悪は明らかです。

だから、私たちの心が騒ぐのは簡単です。

でも、あなたは教会を選ばれ、私たちは聖なる、愛されている者です。(コロサイ人への手紙3:12)

私たちがその身分を覚えていられるように助けてください。

それを覚えて、怒り、憤り、悪意、罵りを捨てることができるように助けてください。この世はそれらによって特徴づけられていますが、私たちがあなたのかたちに従って新しくされ続けるようにしてください。(8、10節)

私たちが深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を身に着けるようにしてください。そして、そのすべての上に、私たちが愛を身に着けるようにしてください。

あなたの平和が私たちの心を支配するようにしてください。(15節)

あなたのことばが私たちのうちに豊かに住むようにしてください。私たちが知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心からあなたに向かって歌うようにしてください。(16節)

最後に、言葉であれ行いであれ、何をするときにも、あなたに感謝する心をもって、主イエスの御名によって行うようにしてください。(17節)

この困難に満ちた世界では、私たちが怒りや恐れに支配されるのではなく、あなたの愛、喜び、平和に治められるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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コロサイ人への手紙のデボーション

イエス様にしっかり結びつく

かしらにしっかり結びつくことをしません。このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。(コロサイ人への手紙2:19)

「かしらにしっかり結びつくことをしません。」

私はそのことばに心を打たれました。

私はイエス様にしっかりと結びついていたいと願います。

しかし、私は、イエス様に受け入れていただくために、単にルールを守ろうとしているわけではありません。(20~23節)

私はすでに受け入れられています。十字架によって、私の債務証書は無効にされました。(14節)

むしろ、イエス様と結びつくために、私は三つのことを自分に思い起こさせています。それは、

  • イエス様は良いお方です。
  • イエス様はすでに私を愛し、受け入れてくださっています。
  • イエス様は私の最善をご存じで、それを望んでおられます。

だから私は毎日毎日、一瞬一瞬、感謝を込めて、私の主を信頼し、従う道を選び取ります。

このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ人へ手紙2:6-7)

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コロサイ人への手紙のデボーション

ただの我慢?神の喜び?

神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。 (コロサイ人への手紙1:11~12)

日本では、「我慢」ということばが、まるで合言葉のように使われています。

苦しいとき、「我慢しなくちゃ」と言われることがよくあります。

ときには、私たち自身が自分に向かって「我慢しなくちゃ」と言い聞かせることもあります。

でも、私が気づいたのは、パウロがコロサイのクリスチャンたちに、ただ我慢することだけを求めていたわけではないということです。

パウロの願いは、彼らが神の喜びに満たされることでした。

困難のとき、私たちに堅く立つ力を与えるのは、「我慢」ではなく、神の喜びです。

その喜びがなければ、我慢はやがて耐えられない重荷になってしまいます。

私は、ただ我慢するのではなく、神様がしてくださったことを喜びたいのです。

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(13~14節)

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ピリピ人への手紙のデボーション

恵みによって立つ

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。(ピリピ人への手紙4:1)

4章は、少し不思議な始まり方をします。1節は、実質的に3章の内容をまとめているのです。

私たちは、どのようにして堅く立つことができるのでしょうか。

それは、恵みによって立つことだと思います。

私たちは、自分の努力によって神様の受け入れを得ようとはしません。自分の義の成績表や資格によって、神様の愛にふさわしいと証明しようとはしません。(3:2~9)

むしろ、それらを手放して、ただイエス様との関係を追い求めます。でも、その関係も、私たちが得ようとする必要はありません。なぜなら、イエス様はすでに私たちを捕らえて、ご自身のものとしてくださったからです。(3:10~12)

だから今、愛と感謝を込めて、私たちはイエス様の御心と関心を自分のものとして、イエス様と御国のために生きます。(3:13~21)

さらに、私たちの罪や失敗にもかかわらず、私たちは希望と確信をもっています。それは、いつかの日、私たちがイエス様の御顔を見ることです。

その日、私たちはイエス様に似た者となります。キリストをありのままに見るからです。(ピリピ3:20〜21、第一ヨハネ3:1〜2)

それが、恵みによって立つということです。

私は、毎日そのように生きたいと願っています。

あなたは、どうでしょうか。

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ピリピ人への手紙のデボーション

イエス様のことを求める

テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。

みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。(ピリピ人への手紙2:20~21)

この言葉を読んだとき、私はこう考えました。「私はイエス様のことを求めているだろうか。」

私はつまらないことに心を奪われ、時間を浪費するのはたやすいことです。

それでも、私はイエス様のことを求めたいと心から願っています。

イエス様にとって最も大切なのは、私の人生に置かれている人々です。

テモテもパウロも、そのような関係を大切にしました。

だから、私の祈りは昨日の祈りと同じです。

天のお父さん、あなたの民への御子の心を私に与えてください。イエス様が大切にしておられることを、私も大切にしたいと願っています。

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ピリピ人への手紙のデボーション

あなたの心を持っているか

私がキリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、その証しをしてくださるのは神です。(ピリピ人への手紙1:8)

天のお父さん、私は、あなたの民へのイエス様の愛の心をもっているでしょうか。あなたは、その証しをしてくださるでしょうか。「ブルースは、私の御子と同じように、私の民について感じています。」

あなたの心を私に与えてください。あなたの民への御子の心を、私にも与えてください。

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エペソ人への手紙のデボーション

私たちはすでにそのような者だから

ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。(エペソ人への手紙5:1)

天のお父さん、その言葉が私の目に止まりました。

恐れのためではなく。

あなたの愛や受け入れを得るためではなく。

むしろ、あなたの愛に根差し、愛を土台として生きる者として、私たちはあなたに倣おうと努めます。

私たちはすでにあなたに愛されている子どもたちです。(1節)

私たちはすでにあなたの聖徒たちです。(3節)

私たちはすでにあなたにあって光です。(8節)

私たちはそのような者になろうと努める必要はありません。

私たちはすでにそのような者となりました。

そのような者として、私たちは毎日、大喜びをもって、あなたを喜ばせたいと願います。

あなたにあって、自分たちのアイデンティティを覚えていられるように助けてください。

私たちはあなたを愛しています。あなたがまず私たちを愛してくださったからです。

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エペソ人への手紙のデボーション

神の愛に根差している

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:17ー19)

最近、教会で私は「初めの愛」についてのメッセージを語りました。特に、イエス様への初めの愛を保つことがどれほど大切かについて話しました。

しかし、初めの愛を保つということは、単に聖書をもっと読み、祈り、神様に仕えるという話ではありません。

むしろ、それは、この基本的な真理に、自分自身を根差すことなのです――「神がまず私たちを愛してくださいました。」

初めの愛を保つために、私たちは毎日、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを、より深く理解するべきです。

けれども、私たちは当たり前だと思っているものに自分自身を根差すことはできません。思い巡らすことのないものに根差すこともできません。

例えば、エペソ人への手紙1ー3章にあるパウロの言葉を軽く読んで、「はい、はい、もう知っている」と言ってしまうのは、とても容易なことです。

けれども今日、私はこの三つの真理を思い巡らし、心の中で把握しようとしています。

世界の基が据えられる前に、神様は私を自分の子どもとするように選んでくださいました。(エペソ1:4ー5)

私は罪の汚れのすべてから清められました。神様は私を聖なる者、傷のない者として見なしてくださいます。(エペソ1:4、7)

私は神様の作品です。神様は、私が御国に仕えるために、良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)

それらを思い巡らすとき、また、自分がそれにどれほどふさわしくないかを思うとき、私は驚きに満たされます。

パウロも、きっとそのように感じたでしょう。(エペソ3:8)

エペソ1章から3章を読むとき、あなたは「もう知っている」と言っていませんでしたか。それとも、その真理を思い巡らし、再び驚いていたでしょうか。

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エペソ人への手紙のデボーション

あらかじめ備えられた道を歩む

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

昨日、私は来日30年の記念日を祝いました。1995年に来たとき、これほど長く日本にいることになるとは思っていませんでした。

しかし、私が気づいてきたのは、神様が私のために日本での働きをあらかじめ備えてくださっていたということです。

そのことを思い起こすたびに、私は深く感動します。

そして神様が私に思い出させてくださったのは、まだまだあらかじめ備えてくださっている働きがあるということです。それがどのようなものであるか、私は知りませんが、その導きに注意を払い、その良い行いに歩みたいと願っています。

あなたもそのように歩むことができるように祈ります。

なぜなら、私だけではなく、私たち皆が神の作品だからです。

私たちは皆、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。

私たち皆が良い行いに歩むように、神様はその良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

そして、私たちは一人でではなく、むしろ共に歩むように呼ばれているのです。

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エペソ人への手紙のデボーション

霊的な記憶喪失

クリスチャンとして、忘れることは容易なことです。

神様がどれほど私たちを恵まれたかを忘れてしまいます。

世界の基が据えられる前から、神様が私たちを選んでくださったことを忘れてしまいます。

神様が私たちにふんだんに与えてくださった恵みを忘れてしまいます。

神の召しにより与えられる望みを忘れてしまいます。

私たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものであるかを忘れてしまいます。

私たちの中で働いている神の大能の力を忘れてしまいます。

私たちの王の偉大さを忘れてしまいます。イエス様は、「全ての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」(エペソ人への手紙1:21)

だから、エペソ人への手紙では、パウロは神様が私たちの霊的な記憶喪失を癒すように祈ります。パウロは、私たちが上記の真理をしみじみと感じるように祈ります。

この箇所を読むとき、その言葉、その真理は心に響いているでしょうか。

それとも、全然何も感じていないでしょうか。あなたの心の喜びは冷めたでしょうか。

私はあなたのためにパウロの言葉を祈ります。

でも、私のためにも祈ってください。なぜなら、私も霊的な記憶喪失がある時もあるからです。

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士師記のデボーション

神中心?自己中心?

数日に渡ってサムソンの人生を考えているとき、二つのことが私の目につきました。

一つ目は、サムソンが自己中心な人生を送っていたということです。彼が敵を打ち倒したとき、イスラエルの民をある程度まで助けましたが、その助けは偶発的なものでした。彼はイスラエルの民を救おうとしていたわけではなく、彼の動機はただ復讐でした。

二つ目は、彼が神様との関係をほとんど持っていなかったということです。彼が神様に祈ったのは、助けを求めるときだけでした。

サムソンは祭壇を建てたこともなく、神様を礼拝したこともありませんでした。勝利を得たときも、それ以外のときも、神様に感謝することはありませんでした。

神様はサムソンを通して、ある程度までイスラエルの民をピリシテ人から救われました。

けれども、サムソンが人々を導くことはありませんでした。彼が自分の民と関わった唯一の場面は、彼らがサムソンをピリシテ人たちに引き渡したときでした。(士師記15:11~13)

彼は、人々を神様に従うように導くことはまったくありませんでした。むしろ、周りの人々と同じように、サムソンは自分の目に良いと見えることを行っていました。(士師記14:17;17:6)

私はそのような人になりたくありません。私の心が神様のものとなることを願います。また、周りの人々が神様に従う心を持つよう導きたいです。

あなたはどうですか。どのような人になりたいですか。

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詩篇のデボーション 士師記のデボーション

誠実に歩んで

毎日、聖書通読プランと共に、私はいつも詩篇も読みます。

今日、たまたま26篇を読みました。それを読んで、ダビデの態度とサムソンの態度の違いに気づかざるを得ませんでした。

ダビデの言葉を祈り、それに従っていたら、サムソンの人生がどれほど違っていたかを想像してみてください。

主よ、私を弁護してください。私は誠実に歩み、よろめくことなく、主を信頼しています。

主よ、私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。

あなたの恵みは、私の目の前にあり、あなたの真理のうちを私は歩み続けました。

私は不信実な人とともに座らず、偽善者とともに行きません。悪を行う者の集まりを憎み、悪しき者とともに座りません。

手を洗い、自らの潔白を示します。主よ、私はあなたの祭壇の周りを歩きます。

感謝の声を響き渡らせて、語り告げます。
あなたの奇しいみわざのすべてを。(詩篇26:1-7)

私はダビデの言葉を祈り、それに従いたいです。

それがあなたの願いでしょうか。

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士師記のデボーション

私たちの真の光

見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。。。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。(士師記13:5)

サムソンの名前は「小さな太陽」を意味しました。

でも、彼はやがて来られる真の光の微かな繁栄でした。

サムソンはイスラエルの民を救い始めましたが、自分の多くの欠点のゆえ、その働きを完成できませんでした。

イスラエルの真の光は、まだ来られていませんでした。(ヨハネ1:9)

しかし、2000年前、もう一人の天使がヨセフという人に現れて、こう言いました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私は今日、そのことを思い出して、喜んでいます。

私たちの光が来られました!

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。(イザヤ書60:1)

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士師記のデボーション

不信の心

イスラエルは大変な苦境に立たされた。そのとき、イスラエルの子らは主に叫んだ。

「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルの神々に仕えたのです。。。あなたが良いと思われるように何でも私たちにしてください。ただ、どうか今日、私たちを救い出してください。」

彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。(士師記10:9ー10、15ー16)

イスラエルの民は、どれほど心から悔い改めていたでしょうか。おそらく、その悔い改めはとても表面的だったのでしょう。

神様はそれをよくご存じでした。

それでも、神様は最終的に彼らをあわれんでくださいました。

驚くべきことは、神様がすでにイスラエルの民を滅ぼしていなかったことです。しかし、預言者マラキの言葉を通して、私たちは神様の性格を見ることができます。

主であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、 あなたがたは絶え果てることはない。(マラキ書3:6)

それが心強い言葉です。私の不信の心を知っておられても、神様はいつも真実な方です。

それでも、イスラエル人の模範に倣いたくはありません。むしろ、神様が私に真実であるように、私も神様に真実でありたいのです。

天のお父さん、私の不信の心を癒してください。