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マタイの福音書のデボーション

自分の罪に気づく

先日、マタイ6:22ー23を読んだとき、「私の目は健やかなのだろうか?」と考えました。

健やかな目を持っていれば、私は自分の罪や欠点を見ることができるはずです。しかし、自分の罪や欠点を見逃し、周囲の人々のそればかりを見るのは、いかに簡単なことでしょうか。

英語のことわざに、「最も悪い種類の欺瞞は自己欺瞞である」というものがあります。イエス様の言葉を借りれば、もし人が自己欺瞞に陥っているとしたら、その闇はどれほど深いものでしょうか。(マタイ6:23)

(主よ。)だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。 主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14)

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マタイの福音書のデボーション

健やかな目?悪い目?

からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。

ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。(マタイの福音書6:22ー23)

上のことばを反芻しながら、私は考えました。「私の目は健やかだろうか。私は物事を正しく見ているのだろうか。」

私は神様からの称賛を、人からの称賛よりも大切にしているだろうか。私は誰を喜ばせたいのだろうか。

また、この世のものを正しく見ているだろうか。その価値を正しく評価しているだろうか。つまり、この世のものよりも、神様とその御国を大切にしているのだろうか。

そして、私は神様のことを正しく考えているだろうか。神様を良い父として見なしているだろうか。神様が私を愛しておられると信じているだろうか。そのことを信じて、私は経済や健康や必要なものについて、過度に心配せずに生活しているだろうか。

主よ、私に健やかな霊的な目を与えてください。私が物事をあるがままに見ることができますように。

私が毎日、あなたの光の中を歩む者となりますように。「いのちの泉はあなたとともにあり あなたの光のうちに 私たちは光を見るからです。」(詩篇36:9)

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マタイの福音書のデボーション

従い、信じ、礼拝する

イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」 」マタイの福音書4:4;申命記8:3)

天のお父様、私が欲しいものや必要なものを与えてくださらないときがあります。

それは、それらが悪いものだからではなく、むしろあなたが私に大切なことを思い出させたいからです。

この世のものは良いものであり、大切に思えるかもしれませんが、最終的にそれらは私に豊かな人生を与えることはできません。私に豊かな人生を与えるのは、あなたの口から出る一つ一つのことばによって生きることです。

ですから、イエス様と同じように、私があなたの良いことばに従う者となるように助けてください。(ヨハネ4:34)

イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」(マタイ4:7;申命記6;16;出エジプト記17:7)

天のお父様、あなたが私を本当に愛しておられることを信じています。あなたがいつも私と共にいてくださることを信じています。

ですから、イスラエルの民のようにならず、私が辛いときにもあなたの愛を疑うことがないようにしてください。むしろ、イエス様のように、小さな子どもが良いパパを信頼するように、私があなたに完全に信頼する者となるように助けてください。

そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」(10節;申命記6:13)

天の神様、あなただけが私の礼拝にふさわしいお方です。ですから、毎日、毎秒、私の言葉や思いや行為、すなわち私の命のすべてが、あなたへの礼拝となるようにしてください。私が他のものを礼拝することがないように。私が他のものに仕えることがないように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

クリスマスの祈り

主よ、私が決してあなたのことを当たり前のものだと思うことがないように。あなたの不思議さに心打たれる感動を、いつまでも失うことがないように。

祭司たちと律法学者たちは、感動を失ってしまったようです。彼らは毎日、聖書を学び、さまざまな宗教的な儀式を行っていました。しかし、あなたが生まれたと聞いても、あなたを探し求めようとはしませんでした。

むしろ、彼らは変わらない心で、自分の学びや儀式に戻っていきました。

主よ、私が博士たちのようになれますように。あなたを求め、あなたを見たとき、喜びに満たされ、ひれ伏して礼拝する者となりますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書のデボーション

クリスマスのメッセージ

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイの福音書1:21)

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

その言葉を聞いて、ヨセフはとても驚いたでしょう。

「私の息子が自分の民をその罪から救う?どういうことだろう?私の息子がどうやって人々をその罪から救うことができるのだろうか。」

その時、ヨセフは十字架をまったく想像できなかったでしょう。

もし御使いが、「この方はローマ人たちからお救いになる」と言っていたら、ヨセフはたぶんすぐに理解できたでしょう。なぜなら、神様は似た言葉をサムソンの両親に語られたからです(士師記13:5)。

しかし、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」とは?

現代でも、その言葉を聞いて、ヨセフと同じように戸惑う人は多いでしょう。

もし彼らが自分に救いが必要だと思えば、政府の圧制からの救いを考えるでしょう。または、経済的な問題、健康の問題、家庭の問題などを考えるでしょう。

それらの問題が取り去られれば、喜びと平和を得られると考えるでしょう。

だから、もし彼らが祈ろうと思っても、それらの問題のために祈るでしょう。

けれども、彼らが気づいていないのは、自分の最大の問題が自分の罪であるということです。つまり、自分の罪からの救いを必要としていることに気づいていないのです。

多くの人々は自分の罪を軽んじています。また、自分の行為を罪として認めていません。

その一方で、ある人たちは自分の罪によって罪悪感と後悔を抱いていますが、どうしたらよいかわかりません。

それでも、どちらの場合でも、メッセージは同じです。

「イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。」

ですから、クリスマスのことを考え、私たちの愛する人々にクリスマスの意味をどのように説明すべきかを考えるとき、そのメッセージの中心を心に留めておきましょう。

イエス様がご自分の民をその罪からお救いになるために来られました。

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サムエル記第一のデボーション

私たちを解放し、賜物を与えてくださる

ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。

子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。。。

ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。

「これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの戦勝品の一部です。」

その送り先は。。。ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった。(サムエル第一30:18-19,26-27,31)

その言葉を読んだとき、私はイエス様についてのパウロの言葉を思い起こしました。

そのため、こう言われています。 「彼はいと高き所に上ったとき、 捕虜を連れて行き、 人々に贈り物を与えられた。」(エペソ4:8)

ダビデが捕虜を敵から解放し、人々に贈り物を与えたように、イエス様もサタンの捕虜である私たちを解放し、贈り物を与えてくださいました。

イエス様は永遠の命を与えてくださいました。

御霊をも与えてくださいました。

教会をも与えてくださいました。

さらに、神の民を強め、他のサタンの捕虜をも解放するために、霊的な賜物を与えてくださいました。

ですから、このクリスマスの季節に、パウロと共に叫び、喜びましょう。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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サムエル記第一のデボーション

真っ直ぐな人だろうか 

そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。」(サムエル記第一29:6)

聖書の中のこのアキシュの言葉は、最も皮肉な言葉の一つです。

アキシュはダビデに言いました。「私はあなたが仕えている神の名によって誓って、真実を言います。あなたは真っ直ぐな人です。」

ところが、アキシュが知らなかったのは、ダビデが一年以上もアキシュに嘘をついていたということです。

そして、アキシュがそれを言った直後、ダビデはもう一度嘘をついて、自分がアキシュに忠実に仕えているしもべであるかのように話しました。

聖書には、その時の神様の思いやダビデの思いは記されていません。

けれども、アキシュの言葉を振り返ったとき、ダビデはこのように祈ったのではないでしょうか。

「主よ。私は大失敗しました。赦してください。私は真っ直ぐな人のように振る舞っていなかったのです。でも、これから、そのような人になりたいです。」

主よ、ダビデと同じように、私はいつも真っ直ぐな人ではありません。私の行為によって、あなたの御名を汚してしまいました。どうか赦してください。

私のすべての言葉、行為、思いが、あなたの目にかなうものとなりますように。

私が立っているあなたの恵みに感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

ほかに道はない。。。本当に?

ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。(サムエル記第一27:1)

それは本当だったでしょうか。ダビデは本当に他の道がなかったのでしょうか。

もし、以前と同じようにダビデが神様に相談していたら、神様はより良い道を示してくださったかもしれません。

確かに、ダビデはその決断によって、一時的にサウルから逃れることができました。

しかし、そうするために、ダビデはアキシュを欺かなければなりませんでした。その結果、第二十八章で、ダビデがペリシテ人の軍隊と一緒にイスラエルと戦うように頼まれることになりました。(二十八章一節)

時々、私たちは道徳的に問題があることをしなければならないと思ってしまいます。そして、その決断によって、私たちの問題が一時的に解決されることもあるかもしれません。

けれども、ダビデの決断と同じように、私たちの決断はさらに多くの問題や、道徳的に問題がある選択へとつながることがあります。

主よ、私は決して「ほかに道はない」と考えながら決断しないようにしてください。

むしろ、正しい道を教えてください。あなたに喜ばれる道を教えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

傷つけられたとき、どうすればよいか

ダビデがサウルと話すのは、これが最後のときでした。

彼らは和やかに離れましたが、サウルと一緒に帰るほどにダビデがサウルを信頼していなかったことは明らかです。

なぜなら、サウルは何度も自分の約束が頼りないものであることを証明していたからです。

それでも、ダビデはサウルのいのちを尊び、彼を許しました。

虐待のパターンがあるとき、私たちは大切なことを覚えていなくてはなりません。私たちは復讐を求めずに、その人を許すべきです。

しかし、神様は私たちが危険な状況に入ることを求めてはおられません。

つまり、その人が本当に心を入れ替えたことを証明するまで、その人から距離を置いてもよいということです。人が自分が本当に変わったことを示すには時間がかかります。

残念ながら、多くの場合、その時は決して来ません。サウルの場合は、その時は決して来なかったのです。

だから、ダビデから学びましょう。

あなたの虐待者を許しましょう。けれども、その人からの虐待を許してはいけません。

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サムエル記第一のデボーション

健全な良心を保つ

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記第一24:5)

私たちの良心によって心が痛むとき、私たちはどうするでしょうか。

神様のみ前に柔らかい心を保つため、良心は罪に対して私たちの防衛最前線です。

しかし、良心を無視すると、その良心は麻痺してしまう恐れがあります。(第一テモテ四:二)

私たちの良心が麻痺してしまった兆候は何でしょうか。以前、ある罪を犯したときには心を痛めたけれど、今はもう気にしなくなることです。

何年か後に、ダビデの良心が麻痺してしまい、預言者ナタンはダビデに面と向かって責めなくてはなりませんでした。そのとき初めて、ダビデは悔い改めて、柔らかい心を取り戻しました。(第二サムエル記11-12章)

私たちが健全な良心を保つように努めましょう。そして、ダビデと一緒に歌いましょう。

だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は、大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14」

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サムエル記第一のデボーション

弱さに対する忍耐

ケイラの人たちを批判するのは簡単なことでしょう。なぜなら、ダビデが彼らをペリシテ人たちから救ったのに、彼らはサウルの手に引き渡そうと考えていたからです。

しかし、ジフ人とは違って、ケイラの人たちがサウルに連絡したという証拠はありません。

彼らはそうしていたかもしれませんが、何も言わなくても、サウルは自分の家来たちから、ダビデがケイラの人たちをペリシテ人たちから救ったことを聞いていたでしょう。

おそらく、ケイラの人たちは、サウルがダビデを捕らえるために来るという噂を耳にしたのでしょう。そして、ダビデと周囲の人々の会話を聞いたかもしれません。

「どうしたらいいでしょうか。私たちはダビデをサウルに引き渡してはいけないでしょう。ダビデは最近、私たちを助けてくれたのです。」

「でも、サウル王がノブで何をしたか聞いた?祭司アヒメレクがダビデを助けたことで、サウルは約八十人の祭司たちを殺したそうです。祭司たちですよ。」

「そうでしょう。さらに、私たちは自分自身をペリシテ人たちから守れなかった。どうすれば私たちはダビデをサウルから守ることができるでしょうか。」

たぶん、そのような話を聞いて、ダビデは神様に相談しました。「ケイラの者たちは、私をサウルの手に引き渡すでしょうか。」

神様が「彼らは引き渡す」と言われると、ダビデはケイラの人たちに怒りませんでした。彼らが自分を助けてくれるように要求しませんでした。

むしろ、ダビデはひっそりとケイラを出ました。ダビデは彼らの弱さを理解して、彼らを許しました。

時々、人々は私たちをがっかりさせます。彼らは弱いものだからです。

でも、私たちも弱いものです。それでも、イエス様は毎日、私たちに恵みを与えてくださいます。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:12ー13)

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サムエル記第一のデボーション

見捨てられたように感じるとき

「おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めてくれない」(第一サムエル22:8)

これは、サウルが自分の家来たちに語った言葉でした。だれもサウルに謀反を企てていないのに、彼はそう思い込んでいました。

同じ頃、洞窟の中で、ダビデも似たようなことを語りました。

ご覧ください。私の右に目を注いでください。私には、顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って、私のいのちを気にかける人もいないのです。(詩篇142:4)

もちろん、サウルはダビデを殺そうとしていました。けれども、ダビデの言葉も正確ではありませんでした。

ヨナタンはダビデをかばい、彼を守ってくれました。

妻ミカルは命がけで、ダビデをサウルから逃がすように助けました。モアブの王も、ダビデの家族の世話をしてくれました。

さらに、四百人の者たちがダビデとともにいました。

それでも、ダビデは逃走中であり、洞窟に隠れていたため、彼の言葉は誇張された反応のように見えます。

しかし、サウルとは違って、ダビデは主に信頼を寄せました。彼は自分の心を神に注ぎ出し、自分の弱さを認めました。それでも、ダビデはこのように言いました。

私の霊がわたしのうちで衰えはてた時にも、あなたは、私の道をよく知っておられます。(詩篇142:3)

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生けるもの地でもの、私の受ける分。」(詩篇142:5)

正しい人たちは私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。(詩篇142:7)

だれもあなたのことを気にかけてくれないと思うでしょうか。ちょっと考え直してみましょう。自分が思っている以上に、人々はあなたを愛しているのです。

さらに、すべての人々があなたを見捨てても、神様は決してそうされません。

神様は私たちの道を知っておられます。神様は私たちの避け所です。神様は私たちに良くしてくださいます。

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サムエル記第一のデボーション

神様を拒む者への裁き

サムエル記第一16〜19章では、私たちは三回このような言葉を読みます。「主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」(16:14、23;18:10;19:9)。

正直に言うと、これらは難しい言葉です。神様は災いの霊を、災いをもたらすために送ることがあるのでしょうか。どうして、良い神、また愛の神がそのようなことをなさることができるのでしょうか。

厳しい答えですが、それは神様の正当な裁きです。サウルは神様をあえて拒んだからです。

けれども、聖書はこの裁きが、悔い改めの最後のチャンスを与えるものであることを示唆しています。

第一列王記22章では、神様はアハブ王に破滅をもたらすために偽りの霊を送りました。それでも、それと同時に、神様はアハブに警告するために預言者を遣わし、悔い改めのチャンスを与えました。

けれども、以前の話と違って(列王記第一21:27〜29)、アハブは悔い改めようとしませんでした(列王記第一22:17〜28)。

新約聖書でも、同じようなことが見られます。パウロは、悔い改めようとしない罪人に関して、こう語っています。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(第一コリント5:5)

黙示録では、神様はいろいろな災害を送られます。悪霊によってもたらされる災害もあるようです。

多くの人々が死にますが、それ以上に多くの人々が生き残っていて、悔い改めのチャンスがあります。しかし、彼らは悔い改めようとしません(黙示録9:20〜21)。

そして、第二テサロニケでは、パウロは終わりの日について語っています。人々が騙されて滅びるために、神様は反キリストをこの世に放たれます。

なぜでしょうか。その理由は明確です。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。

それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。(第二テサロニケ2:10ー12)

つまり、反キリストとその惑わす力は、人々が真理を愛することを拒否したことに対する神の罰なのです。

神様がサウルやアハブを裁かれたように、終わりの日には、神様は悔い改めることを拒む人々を裁かれるのです。

あなたはどうでしょうか。神様を愛しているでしょうか。真理を愛しているでしょうか。正義を喜んでいるでしょうか。

あなたは、神様にどのように反応するでしょうか。

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サムエル記第一のデボーション

力ある神

信じられませんが、もうそろそろクリスマスですね。

このところ、イザヤ書9:6に思いを巡らしています。その箇所では、メシアは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれています。

特に、「力ある神」という名前について考えていました。

この言葉は、メシアを強い勇士として描写しています。

ユダヤ人たちがしばしばメシアを「ダビデの子」と呼んだので(マタイ21:9)、ダビデ自身が強い勇士であったことはふさわしいことです。

イスラエル人たちが脅かされ、絶望した時、ダビデは彼らのために戦って、勝利しました。

同じように、私たちが自分の問題に打ちのめされ、絶望している時、私たちのメシアであるイエス様は私たちのために戦って、勝利してくださいます。

だから、どんな苦しみがあっても、私たちの力ある神に望みを託しましょう。

なぜなら、イエス様はあなたを見て、「私はあなたのために戦っている」と言われているからです。

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サムエル記第一のデボーション

心をご覧になる神

人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。(サムエル記第一16:7)

第一サムエル記の中で、あるいは聖書全体の中で、これは最も有名な言葉の一つです。

ダビデの家族でさえ、彼を正当に評価しませんでした。サムエルがエッサイの息子たちに会いたいと言った時、エッサイはダビデのことをすっかり忘れていました。

しかし、人間と違って、神様は私たちの外見ではなく、心をご覧になります。

神様はダビデの心の中に何を見ておられたのでしょうか。神様はそれを直接教えてはくださいませんが、ダビデの生涯を見ると、私たちは彼の心を少し垣間見ることができます。

ダビデは神様を愛する心を持っていました。

ダビデは神様に信頼する心を持っていました。

ダビデは神様に対して柔らかい心を持っていました。

ダビデは時々罪を犯しました。実際、彼は非常に深刻な罪を犯してしまいました。けれども、彼は最終的に悔い改め、再び神様に喜ばれたいという態度を持っていました。

主よ、私がダビデのような心を持つことができますように。あなたを愛する心。あなたに信頼する心。あなたに対して柔らかい心。

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サムエル記第一のデボーション

神様は悔やむことがあるのか?

主のことばがサムエルに臨んだ。「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。」(サムエル記第一15:10ー11)

「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」(29節)

主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。(35節)

今日、私は上の言葉を反芻しました。

「悔やむ」という言葉は、「気が変わる」と訳すことができます。

神様は悔やむことがないのに、どうして著者は、神様がサウルのことを悔やんだと言うのでしょうか。

また、神様は気が変わることがあるでしょうか。神様は気まぐれな方でしょうか。

たぶん、鍵は29節にあります。

「主は人間ではないので、悔やむことがない。」

別訳では、「主は人間ではないので、気が変わりません。」

ある意味、私たちは神様が悔やむ、あるいは神様の気が変わると言えるかもしれませんが、神様は人間のようにそうするのではありません。

人間の知識には限界があります。そのため、私たちは多くのミスをしてしまいます。また、出来心で愚かな決断をしてしまう時もあります。さらに、私たちは気まぐれで、急に気が変わることもあります。

でも、神様はそのような方ではありません。

神様はすべてのことをご存知です。過去のこと、現在のこと、未来のことの全部を知っておられます。だから、神様はサウルが何をするかをご存知でした。

サウルが罪を犯した時、神様は「私は失敗した。サウルがそのような王になるとは知らなかった」とは言われませんでした。

また、神様は「私は愚かだった。サウルの性格をよく知っていたのに、どうして彼を選んだのだろうか」とは言われませんでした。

むしろ、神様は何が起こるかをよく知っておられました。さらに、神様のなさることにはすべて目的があります。

それでも、神様は感情を持っておられます。神様はサウルが何をするのかをよく知っておられましたが、サウルが実際に罪を犯した時、神様は悲しまれました。

いったいどうして、神様はサウルを選ばれたのでしょうか。

私にはわかりません。

もしかしたら、イスラエル人たちは神様のタイミングを待たずに、「今、王が欲しいです」と言ったからかもしれません。

彼らがもう少し待っていたら、神様の心にかなうダビデを彼らに与えてくださったでしょう。

もしかしたら、イスラエル人たちは、「ほかのすべての国民のよう」な王がどんな人であるかを学ばなくてはならなかったからかもしれません。

神様は彼らに、なぜその要望が悪いのかを教えなくてはなりませんでした。

とにかく、神様がサウルを選ばれた理由があり、その理由は良いものでした。でも、サウルの罪と反抗的な態度を見た時、神様は悲しまれました。神様は「悔やみました」。

それは、神様が失敗したからでも、急に悪い決断をしたことに気づいたからでもありませんでした。むしろ、神様は「こうあらねばならないが、辛い」と言われたのです。

「神様は人間のように気が変わるというわけではありません。」

それは心強い言葉です。

神様は気まぐれな方ではありません。神様の性格は首尾一貫しています。

例えば、神様は罪を裁かれますが、悔い改める罪人には憐れみを喜んで与えてくださいます。(エゼキエル33:10ー16)

聖書には、そのような話が何度も記されています。(列王記第一21:17ー28;列王記第二22:15ー20;歴代誌第二12:5ー8;33:1ー13;ヨナ3章)

また、その憐れみによって、自分の民が他の人のためにとりなすと、神様は裁きをよく先延ばしにしてくださいます。(出エジプト記32:9ー14)

しかし、神様は正義の方なので、最終的にはこう言われます。「もう時間です。この人々が悔い改めようとしないから、私は裁きます。」(エレミヤ7:16;11:14;14:11)

残念なことですが、今日の話では、サウルは心から悔い改めませんでした。むしろ、彼は言い訳をしました。

彼は最後には悔い改めましたが、それは自分の罪を悲しんだからではなく、自分の王位を失うことを恐れたからです。

だから、神様はサウルを裁かれ、イスラエルの王位から退けられました。

では、要約すると、

1.神様の性格は首尾一貫しています。神様は忍耐深く、憐れみ深い方なので、悔い改める人を赦し、改める時間を与えてくださいます。けれども、神様は正義の方なので、最終的には悔い改めようとしない罪人を裁かれます。

2.神様は何をなさっても、良い理由があります。神様は驚かれることがありません。それでも、罪を見ると神様はいつも悲しまれます。そういう意味で、神様は「悔やみます」。

しかし、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます」(ローマ8:28)。

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サムエル記第一のデボーション

神様を求めているのか

すると、兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

しかし、祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう」(サムエル記第一14:36)

兵の言葉は、士師記の時代のイスラエルの態度に似ていました。その時代、「王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていました」。(士師記21:25)

しかし、サウルは王となり、神様を求める者であるはずでした。(申命記17:18-20)

それなのに、イスラエル人たちはサウルにこう言いました。「あなたが良いと思うようにしてください」。

このことは、サウルの生涯を通じて現れた最大の問題でした。彼は口では「神様を求めたい」と言いましたが、神様を求めることを忘れた時もありました。(36)

また、神様を求め始めたものの、すぐにあきらめてしまった時もありました。(19)

さらに、エフタのように(士師記11:30-31)、神様を求める代わりに、神様を操ろうとして愚かな誓いを立てました。

この話を読んで、私は考えました。「神に対する私の態度はどうなのか?」

決断の時、私は本当に神様を求めているでしょうか。それとも、ただ自分が良いと思うことを行っているだけでしょうか。

私の願いをかなえていただくために、神様を操ろうとしているのでしょうか。

それとも、私は本当に神様に仕え、神様の心に従いたいと願っているのでしょうか。

サウルの何年か後、神様は別の王にこう言われました。

主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々御力を現してくださるのです。(歴代誌第二16:9)