カテゴリー
使徒の働き

大多数の意見に従う?

大多数の意見に従うのは、とても簡単なことです。特に、私たちがその意見に賛同しているなら、それに従うのはなおさら簡単です。

とはいえ、大多数の意見に従うことが常に正しいとは限りません。この箇所では、パウロと他の囚人たちを管理していた百人隊長が、そのことを学びました。

悪天候のため、彼らのローマへの旅は予想以上に遅れました。けれども、パウロはさらに悪化することを知っていました。そこで彼は、百人隊長に警告しました。

皆さん。私の見るところでは、この航海は積み荷や、船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう。(使徒の働き27:10)

神様がパウロにそう告げたのか、それともパウロ自身の経験からそう判断したのか、私は分かりません。いずえにせよ、とにかく、百人隊長は待ちたくなかったようです。そこで彼は船長や船主と相談し、彼らは航海を続け、別の港で冬を過ごそうと決めました。

なぜ彼らはパウロの助言を聞かなかったのでしょうか。ひとつの理由は、パウロが船員ではなかったからかもしれません。そのため、彼らは自分自身の判断に頼りました。

もうひとつの理由は、彼らがもう待ちたくなかったことです。彼らは旅の遅れを取り戻したいと考えていました。

しかし、大多数の意見に従った結果、彼らは命を失いかねない状況に陥ってしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の言葉に従いますか。それとも、大多数の意見に従いますか。

周囲の人々が悪いことをするとき、あなたもそれに加わるでしょうか。

また、日本の文化が神の国の文化と対立するとき、あなたはどちらに従いますか。日本の文化でしょうか、それとも神の国の文化でしょうか。

いつも大多数の意見に従っていると、神様の言葉に背いてしまうこともあります。そして、それによって困難な状況に陥ることがあるかもしれませんし、神様を悲しませることにもなります。

パウロはこう言いました。

神の御霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ人への手紙4:30)

あなたは誰に従っているでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

捉えられた?

この箇所では、3つの福音に対する反応を見ることができます。

1つ目は、迫害です。ユダヤ人たちは福音のゆえにパウロを迫害しました。

2つ目は、人々が私たちを狂気じみていると思うことです。フェストゥスはパウロの話を聞いたとき、そう考えました。

3つ目は、人々が私たちや福音を軽んじることです。アグリッパはパウロの話を聞いたとき、パウロを素朴な人間だと思ったようです。

それでも、パウロは福音を宣言し続けました。なぜでしょうか。

第二コリント5章で、パウロはその理由を説明しました。

私たちが正気でないとすれば(フェストゥスはそう思った)、それは神のためであり、正気であるとすれば(パウロはそう主張した)、それはあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕えているからです。

私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。(第二コリント5:13-14)

どうしてパウロは福音を述べ伝え続けたのでしょうか。なぜなら、パウロは、キリストが私たちを愛し、私たちの罪のために十字架で死んでくださったことを固く信じていたからです。

キリストの愛は彼の心を捉え、人々が彼を狂気じみていると思っても、パウロは福音を伝えなければならないと確信していました。

私たちも同じ態度を持つべきです。イエス様が私たちのために死んでくださったことを信じ、本当にキリストの愛に触れられるなら、私たちは福音を周囲の人々に伝えるべきです。

私たちを迫害する人もいます。私たちを狂気じみていると思う人もいます。私たちを素朴な者だと思う人もいます。しかし、イエス様を信じ、救われる人もいます。

あなたはどうでしょうか。イエス様の愛に捉えられているなら、福音を周囲の人々に伝えるでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

神様からの召しに従う

この箇所では、パウロはフェストゥスとアグリッパ王の前に立ちました。このアグリッパ王は、ヤコブを殺し、ペテロを殺そうとしたヘロデの息子でした。

ユダヤ人たちは再び、フェストゥスに対してパウロをエルサレムへ送るよう願いました。フェストゥスはそこでパウロに裁判を受けさせようと考えましたが、実はユダヤ人たちはパウロがエルサレムへ向かう途中で彼を暗殺しようと企んでいました。

パウロはその陰謀を十分に理解していたため、フェストゥスがエルサレム行きを説得しようとしたとき、パウロは「カエサルに上訴します」と宣言しました。

フェストゥスはその願いを受け入れましたが、ここで問題が生じました。パウロの「罪」とされていたものはユダヤ教の法律に関する問題でした。したがって、フェストゥスはどのようにこの「罪」をカエサルへ説明すべきか分かりませんでした。

つまり、フェストゥスはユダヤ教の問題を十分に理解しておらず、おそらくカエサルもユダヤ教について詳しく知らなかったということです。

そのため、アグリッパ王が到着すると、フェストゥスは彼と相談しました。するとアグリッパ王は、「パウロの弁明を聞こう」と述べました。

こうして、パウロはもう一度自らの証しを語りました。パウロはこれまで何度も証しを語っており、そのたびに私たちは新しい詳細を知ることができます。

アグリッパと話した際、パウロはイエスから与えられた使命について説明しました。

イエス様は、パウロにこう語られました

わたしは、あなたを。。。[ユダヤ人たちや異邦人たち]のところに遣わす。

それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかるためである。(使徒の働き26:17-18)

イエス様は私たちに同じ使命を与えてくださいます。

私たちは周囲の人々に福音を伝えるべきです。その目的は何でしょうか。それは、彼らが自分の罪の鎖や心の暗闇に気づくことです。

そして、彼らがサタンの支配から解放され、神様の国に入ること、さらに罪が赦されること、そしてイエス様を信じる信仰によって神様の子供となることです。

その召しについて、パウロはアグリッパ王とフェストゥスにこう語りました。

私は天からの幻に背か(なかった。)(19)

あなたはどうでしょうか。あなたはその使命を果たしているでしょうか。あなたは周囲の人々に福音を伝えているでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

高潔な人

フェリクスは神様の裁きについて聞くと恐れましたが、それでも何度もパウロを呼び、話しました。なぜでしょうか。

フェリクスにはパウロから金をもらいたい下心があったので、何度もパウロを呼べ出して語り合った。(使徒の働き24:26)

フェリクスはパウロに何と言ったでしょうか。

「ずっと牢にいるのは大変だろう。あなたは自分の宗教に夢中だが、牢から出たくはないのか?福音を伝えたいだろう?あなたの神もきっとそう望んでおられるはずだ。」

または、

「教会の人々はあなたのことを心配しているだろう。ところで、多くのクリスチャンがいるのか?財源はどのようになっているのか?確かに、彼らはあなたを助けたいと思っているはずだ。」

パウロは賢い人物でした。彼はフェリクスの意図をよく理解していたでしょう。しかし、パウロはどうしても自分の良心に反することはできませんでした。

フェリクスは約二年間にわたりパウロと話しましたが、最終的に総督の座はフェストゥスという人物に引き継がれました。

パウロが賄賂を使い、牢から出ることは簡単だったでしょう。さまざまな「正当な理由」を挙げることもできたでしょう。それでも、パウロは決してそうしませんでした。なぜでしょうか。

第一の理由は、パウロが神様を愛していたことです。彼は神様のタイミングで釈放されることを信じていました。

たとえ釈放されなくても、神様の計画が最善であると信じていたのです。そして、パウロはイエス様を悲しませたくありませんでした。

第二の理由は、賄賂を使うことがパウロ自身の証しを損なうことになるからです。考えてみてください。パウロはフェリクスに正義・節制・来るべき裁きについて語っていました。もし彼が賄賂を使っていたら、フェリクスはどう思ったでしょうか。

「やはり、パウロはその教えを本気で信じていないのだろう。もし彼が神様の裁きを恐れているなら、この賄賂を受け取るはずがない。」

しかし、パウロは決して賄賂を使いませんでした。その結果、彼の証しは揺るぎないものとなりました。

あなたはどうでしょうか。不便な状況でも、あなたは良心に従うことができるでしょうか?

決して自分の良心に反してはいけません。もっと大切なのは、神様の言葉に反しないことです。神様を信頼し続けてください。

神様が「この場合、悪いことをしても構わない」とは決して言わないのです。

だからこそ、神様の道を歩むことを決断してください。

もしそうしなければ、あなたは神様を悲しませることになり、あなた自身の証しを損ねてしまうでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは高潔な人ですか?

カテゴリー
使徒の働き

神様のご計画のすべてを伝えている?

パウロはエペソの人々にこう語りました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。

私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(使徒の働き20:26-27)

「神のご計画のすべて」とは、一体どういうことでしょうか。

この箇所では、パウロの言葉の意味を知ることができます。パウロはローマの総督フェリクスの前に立ち、ユダヤ人たちの言いがかりを否定しました。

その日、フェリクスは何も決断しませんでした。けれども、その後、彼は何度もパウロと話しました。その時、パウロは自らの信仰について語りました。

もちろん、パウロは神様の愛やイエス様の十字架の働き、そして信仰による救いについて話したことでしょう。しかし、パウロはもう一つの重要なことについても語りました。

パウロが正義と節制と来るべきさばきについて論じた。。。(使徒の働き24:25a)

つまり、パウロはこう語りました。「神様の目にあなたは罪人です。悔い改めなければ、あなたは必ず裁かれます。」

フェリクスはどのように反応したでしょうか。

フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする。」と言った。(25b)

福音とは、ただ「神様はあなたを愛している」というメッセージではありません。

福音は次のようにも語ります。

「深刻な問題があります。真の王はこの世に来て、この世界を裁き、すべてを癒してくださいます。けれども、あなたはその備えができていないのです。あなたは正当な王に罪を犯し、その正しい裁きに直面することになります。」

もし私たちがこのことを伝えないなら、神様の計画のすべてを知らせていないことになります。そして、彼らが地獄へ行ってしまったなら、その血に対する責任は私たちにあるのです。

もちろん、私たちの目的はただ彼らを怖がらせることではありません。

福音は「良い知らせ」です。つまり、王は良いお方で、私たちの罪にもかかわらず、私たちを深く愛してくださいます。

そして、イエス様の十字架の働きによって、私たちはただ地獄から救い出されるだけではなく、イエス様は私たちに豊かな人生を与えてくださり、神様の喜びと平和を知ることができます。

地獄と神様の裁きへの恐れよりも、私たちはこの素晴らしい恵みに目を向けるべきだと思います。

とはいえ、私たちは彼らに警告すべきです。「もし王であるイエス様を拒絶するなら、あなたは必ず裁かれます。」

フェリクスのように、それを聞いて恐れてしまう人もいるでしょう。彼らは「今はそのことについて話したくない」と言うかもしれません。しかし、彼らの反応は私たちの責任ではありません。

私たちができることは、忠実に神様のメッセージを伝えることだけです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の計画のすべてを人々に伝えていますか。

カテゴリー
使徒の働き

神の妨げられない計画

前の記事で書きましたが、神様はご自身の計画を私たちの人生において成し遂げてくださいます。そして、どんな力もその計画を妨げることはできません。

この箇所では、その真理の一つの例を見ることができます。あるユダヤ人たちは、パウロを殺すまでは食べたり飲んだりしないと呪いをかけて誓いました。そこで、彼らは祭司長たちの協力を求めました。

彼らは誰に誓ったのでしょうか。それは神様への誓いだったのでしょうか。それは、なんとも皮肉な誓いです。

「神様。私たちは人を殺してはならないという戒めを破り、パウロを殺害することを誓います。」

確かに彼らは別の言葉を使ったかもしれませんが、本質的には、それが彼らの誓いでした。さらに、祭司長たちはその誓いが正しいと考え、ユダヤ人たちと協力しました。

けれども、彼らは神様の計画を妨げることはできませんでした。

神様の導きによって、パウロの甥はユダヤ人たちの計画を知ることができました。そして、神様が千人隊長の心の中で働かれ、その千人隊長がパウロを守ったため、パウロは無事に裁判に進むことができました。

その結果、ユダヤ人たちの陰謀は無駄になりました。

私はこの話を読むと励まされます。私たちが神様の御心に従おうとするとき、この世が私たちに反対することがあります。事実、私たちが神様に従うと、この世が反対することもあります。

しかし最終的には、誰も、またどんな力も神様の計画を妨げることはできません。

だから、紅海でのモーセの言葉を心に刻みましょう

恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。(出エジプト記14:13)

カテゴリー
使徒の働き

私たちのそばに立ってくださる神

時々、聖書を読むと、私たちは使徒たちやほかの聖書の登場人物をスーパーヒーローのように見なします。例えば、彼らは勇気を持ち、恐れることなく死に直面します。

もちろん、そのような話もあります。シャデラク、メシャク、そしてアベデ・ネゴは、まさにそのような勇気を持っていたようです。(ダニエル書3章)

とはいえ、神様を信じた人々が常にそんな勇気を持っていたのかどうかは、私にはわかりません。結局、彼らもただの人間だからです。

そのため、今日の箇所を読むと、パウロの心の中に何があったのか、私は考えずにはいられません。

最高法院の人々の論争が激しくなり、千人隊長はパウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと恐れました。そこで、兵士たちはパウロを最高法院の人々の中から救い出し、兵営へと連れて行きました。

その夜、パウロは眠りにつくとき、何を考えていたでしょうか。彼は恐れていたでしょうか。彼は、神様からの使命を全うできるのか疑っていたでしょうか。

パウロが何を考えていたか、私にはわかりません。しかし、イエス様はパウロを励まされました。

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。
(使徒の働き23:11)

二つのことが、私の心を打ちました。

一つ目は、イエス様がパウロのそばに立たれたことです。

私たちが最も暗い時、試練の中にいる時、恐れや疑いにさいなまれる時、イエス様はいつも私たちのそばに立ってくださいます。

二つ目は、イエス様がパウロに「勇気を出しなさい。」と言われたことです。

もしパウロがすでに勇気を持っていたなら、なぜイエス様は 「勇気を出しなさい」と言われたのでしょうか。

もしかすると、パウロの境遇のために、彼の心は少し揺れていたのかもしれませんが、イエス様は彼を安心させ、「勇気を出しなさい」と励まされました。

時々、私たちの信仰も揺らぐことがあります。神様の道を歩んでいるとき、本当に正しい道を進んでいるのかどうかを疑うことがあります。

けれども、イエス様はパウロに言われたように、私たちにも語られます。「勇気を出しなさい。」

では、どうすれば私たちは勇気を持つことができるのでしょうか。それは、神様が私たちの人生においてご自身の計画を成し遂げられるからです。そして、サタンやこの世のどんな力も神様の計画を妨げることはできません。

イエス様はパウロにこう言われました。

あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(11)

要するに、「あなたの敵について心配するな。あなたは私の目的を果たす。だから、しっかりして、私に信頼しなさい。」

あなたはどうですか。あなたの境遇のため、信仰をだんだん失いかけているでしょうか。相手があなたに反対しているので、恐れているでしょうか。

勇気を出しましょう。イエス様があなたのそばに立ってくださっていることを覚えておきましょう。そして、イエス様に信頼し続け、従い続けましょう。イエス様がご自身の計画を成し遂げられることを確信しましょう。

そして、パウロの言葉を心に刻みましょう。

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:5-7)

カテゴリー
使徒の働き

蛇のように賢い?

イエス様は弟子たちに「蛇のように賢く生きなさい」と命じられました(マタイ10:16)。この箇所では、パウロはまさにそのように行動しました。

パウロが「狼」に取り囲まれたとき、彼の賢い言葉によって、最高法院は二つに割れました。パウロは何と言ったのでしょうか。

兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。(使徒の働き23:6)

パウロは本当のことを言いました。パウロはイエス様の復活を信じていたため、裁きを受けていました。

もちろん、パウロはイエス様の名前を直接口にしませんでした。しかし、その言葉によって、復活を信じる人々(つまり、パリサイ人たち)と復活を信じない人々(サドカイ人たち)の間で対立が生じました。

結果として、パリサイ人たちはパウロをかばい始めました。

もしかすると、その言葉をきっかけにイエス様を信じるようになったパリサイ人もいたかもしれません。それが本当に起こったかどうかはわかりませんが、あるパリサイ人たちはこう叫び始めました。

この人には何の悪い点も見られない。もしかしたら、霊か御使いが彼に語りかけたのかもしれない。(使徒の働き23:9)

では、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

誰と話しているかをよく理解するべきです。

あなたは、福音に強く反対する人に出会うかもしれません。けれども、その人をよく知り、特に彼らの考え方を理解しているなら、神様はあなたにどのように彼らを説得できるかを教えてくださるかもしれません。

そして、あなたの賢い言葉によって、福音の種が彼らの心に蒔かれるかもしれません。

だから、イエス様の言葉を心に刻みましょう。

わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。

ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。(マタイ10:16)

カテゴリー
使徒の働き

偏見にとらわれている?

この箇所では、パウロは偏見にとらわれていた二つのグループに直面しました。

ユダヤ人たちは、自分たちを神の民と見なしていたため、神様が異邦人の罪人を救いたいと望まれていることに気づけませんでした。

彼らは、異邦人が救われるためにはユダヤ人のようにならなければならないと考えていました。たとえ神様が異邦人を受け入れられたとしても、異邦人はユダヤ人より劣っていると見なしていたのです。

そのため、パウロが「神様は私を異邦人のもとへ遣わされた」と語ったとき、ユダヤ人たちはその考えをまったく受け入れませんでした。

一方、ローマ人たちはユダヤ人を見下していました。彼らは、ユダヤ人がローマ市民になることなどあり得ないと考えていました。

そのため、本来は裁判の前にローマ市民をむちで打つことが違法であったにもかかわらず、パウロに鞭打ちの刑を科そうとしました。

パウロが千人隊長に「私はローマ市民です」と伝えたとき、千人隊長は最初は信じませんでした。

けれども、自分の誤りに気づくと、深い恐れを感じました。なぜなら、ローマ市民をむち打つことは違法であり、それを行えば千人隊長自身が罰せられるからです。

では、私のポイントは何でしょうか。偏見にとらわれてしまうと、私たちはさまざまな問題に直面します。

もちろん、周りの人々を怒らせることもあるでしょう。しかし、それだけではなく、神様はそのような態度をもつ私たちを裁かれます。

神様はすべての人々を愛しておられます。そのため、イエス様は特定の民族のためではなく、すべての民族のために命を捧げられました。

そして、私たちがクリスチャンになると、神様は私たちを等しくご自身の子供として愛してくださいます。

パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。

あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ3:28)

だからこそ、私たちは偏見を捨て、人々をありのままに受け入れましょう。彼らは神様のかたちに創造され、神様に愛され、救い主を必要としているのです。

カテゴリー
使徒の働き

誤解された

この話の興味深い点は、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解を解こうとしたものの、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちとの間に新たな誤解を生んでしまったことです。

クリスチャンのユダヤ人とノン・クリスチャンのユダヤ人の両方が、パウロの教えを誤解しました。彼らは、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちに対して、モーセの律法を完全に捨てるように教えていると思ったのです。

そのため、ヤコブと他の長老たちは、パウロにモーセの律法に従って、四人のユダヤ人クリスチャンたちとともに清めの儀式に参加するよう説得しました。

さらに、神様への誓願を守るために、その四人の費用をパウロが負担しました。(彼らはナジルの誓願を立てていたかもしれません。)

パウロはその考えに同意しました。しかし、ある聖書学者たちは、彼が誤った判断をしたと考えています。つまり、パウロは その儀式に参加すべきではなかったということです。

私の考えでは、パウロの選択は正しかったと思います。彼はユダヤ人を救うために、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったのです。(第一コリント9:19-23)

それでも、ユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解は解けたものの、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちは依然としてパウロがモーセの律法に反対していると思っていました。

さらに、彼らは パウロが異邦人を神殿に連れ込んだと誤解しました。(ユダヤ人の律法では、それは禁止されており、神殿を汚す行為とされていました。)

では、私のポイントは何でしょうか。イエス様に従い、その言葉に忠実であっても周りの人々に誤解される可能性があるということです。

教会の人々だけでなく、この世の人々もあなたを誤解するかもしれません。誤解を解こうと努力しても、あなたのことを理解できない人もいるでしょう。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか。イエス様に従い続けるしかありません。神様が私たちに語られたことに従わなくてはなりません。それが唯一の道です。人々の反応を神様に委ねるべきです。

もちろん、私たちは自分の行動を振り返る必要があります。彼らの批判が完全に誤っていることもあります。ところが、時には彼らの指摘が部分的に正しいこともあるかもしれません。

だからこそ、自分の行動と動機を慎重に見極めてください。そして、神様の御心がわかる限り、神様に従いましょう。パウロのような態度を取ることが大切です。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。

それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。

主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:3-5)

カテゴリー
使徒の働き

代価がどんなに高くても

この箇所の解釈は少し難しいかもしれません。

なぜ神様はその預言をパウロに示されたのでしょうか。神様は、パウロがエルサレムに行かないように警告されたかったのでしょうか。それとも、パウロが試練に備えることを望まれたのでしょうか。

私の考えですが、おそらく神様はパウロが試練に備えるために、あらかじめ警告されたのだと思います。

イエス様が初めてパウロに現れたときから、すでにパウロがユダヤ人や異邦人に福音を述べ伝える中で苦しむことを警告されていました。(使徒の働き9:15-16)

だからこそ、他のクリスチャンたちがパウロに「エルサレムへ行かないでほしい」と願ったとき、パウロはこう答えたのではないでしょうか。

あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。(使徒の働き21:13)

つまり、どれほど代価が高くても、パウロはイエス様に従おうと努めました。だからこそ、周囲の人々が何を言っても、彼の決意は揺るぎませんでした。

あなたはどうでしょうか。

神様は決して、私たちが順調な人生を送ることを約束されたわけではありません。また、神様に従うことですべての人々が私たちを愛してくれるとも約束されませんでした。

むしろ、神様はその正反対のことを約束されました。(ヨハネ16:33;第二テモテ3:12)

あなたはすでにそのことを知っているかもしれません。しかし、試練に直面したとき、あなたはどうするでしょうか。

その試練が訪れるとき、神様が恵みと勇気を与えてくださるように願います。

カテゴリー
使徒の働き

走るべき道のりを走り尽くす

エペソの指導者たちに対するパウロの最後の言葉には、いくつかの点で私の心を打つものがありました。

聖霊様はパウロに、多くの試練に直面することを警告されました。それでも、パウロはこう言いました。

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き20:24)

パウロにとって、福音を述べ伝えることは最も重要な使命でした。彼は忠実にそれを果たしたので、こう言うことができました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。

私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(26-27)

しかし、パウロはエペソの指導者たちにも、自らの走るべき道のりを走り尽くすように励ましました。つまり、神様が彼らに託された教会の世話をすることです。パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。

また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。(28-31)

パウロがはっきりと語ったのは、サタンが私たちが走るべき道のりを走り尽くさないように攻撃するということです。

その一つの方法は外からの攻撃、つまり迫害です。

けれども、もう一つの方法があります。それは教会内部からの攻撃 です。つまり、真理をねじ曲げる者が教会に入ってくるということです。

彼らはクリスチャンのように見えますが、実際にはサタンの偽りを教えます。もし彼らに従ってしまえば、私たちは誤った道に進むことになります。

だからこそ、パウロはエペソの人々に言いました。「注意しなさい。迫害も、偽のクリスチャン・リーダーも、必ずやってきます。」

私たちも注意しなければなりません。私たちの信仰のために、親しい家族や友人の間でも私たちを迫害する者がいるかもしれません。

また、もし神様の言葉を十分に知らなければ、ネット、本、さらには私たちの教会の中でも、サタンの偽りに触れ、騙されてしまうことがあります。

それを聞いて不安を感じたり、「どうすればいいのか?」と迷ったりするかもしれません。しかし、パウロはこう言いました。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。

みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(32)

つまり、最終的に、神様とその恵みだけが私たちを最後まで守ってくださいます。神様の恵みは私たちを救い、守ってくださいます。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、神様が与えてくださった恵みによって走りましょう。

私たちは一人で走る必要も、自分の力で走る必要もありません。神様の恵みによって、私たちは走るべき道のりを走り尽くすことができます。

カテゴリー
使徒の働き

手で造った神々に仕える?

この箇所では、手で造られた神々への礼拝、つまり偶像礼拝のために暴動が起こりました。とはいえ、実際には、銀細工人であるデメテリオにとって本当の神は偶像ではなく、お金でした。

彼がパウロに反対した理由を説明したとき、最初に述べたのは、エペソ人がクリスチャンになると自分や同業者の評判が悪くなり、売り上げが下がるということでした。これが彼の最大の懸念でした。

そしてその後、彼は「ところで、偉大な女神アルテミスは自分の威光を失います。」と付け加えました。

結局、彼はこの二つの”神”を礼拝するがゆえに群衆を扇動しました。幸いにも、町の書記官が人々を落ち着かせました。

もしそうしていなかったら、パウロは殺され、多くの人が負傷し、エペソ人たちはローマ帝国によって厳しく罰せられたでしょう。

今でも、人々の人生は手で造られた神々によってめちゃくちゃになっています。

お金に対する愛のせいで、結婚や人間関係が壊れ、教会や政府で多くのスキャンダルが発生しています。さらに、お金への執着が麻薬取引を大問題にし、毎年多くの人々が命を落としています。

さらに、お金、偶像、そして偽の神々への愛が、人々を神様から遠ざけ、死に至る道へと導いています。もし彼らが悔い改めなければ、命の源から引き離され、永遠に地獄で苦しむことになります。

あなたはどうでしょうか。あなたは手で造られた神々に仕えて いますか、それとも本当の唯一の神に従っていますか?

偶像を礼拝するならば、あなたは永遠に滅びてしまいます。

唯一の神だけが命を与えることができるのです。

あなたは誰に仕えているでしょうか?

カテゴリー
使徒の働き

罪を捨てる

私たちがクリスチャンになると、神様は新しいスタートを与えてくださいます。それは本当に素晴らしい知らせですね。

この箇所では、神様はエペソの人々にも新しいスタートを与えられました。多くの人々はクリスチャンになったことで、罪の道から離れ始めました。

例えば、魔術を行っていた人々は、その書物を焼き捨てました。その書物は非常に高価なものでしたが、彼らはちゅうちょせずに焼き捨てました。

さらに、彼らが皆の前でそうしたことで、周りの人々は彼らの決断を目の当たりにしました。

この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

もし私たちの心が本当に変えられたならば、私たちの行動も変わるはずです。私たちが本当にイエス様を信じるなら、たとえ痛みを伴うとしても、罪を捨てるべきです。

例えば、あなたの会社の業績が良かったとしても、もし悪徳商法を行っているならば、神様は私たちのやり方が変わることを望まれます。

あるいは、あなたが恋人と肉体関係を持っているかもしれません。相手があなたと絶交する可能性があったとしても、私たちは純潔を守るべきです。

とはいえ、そのような選択をする際には、自分の動機を明確に伝える必要があります。単に心を入れ替えたいからではなく、神様への感謝を持って、私たちは違う道を歩んでいるのだと示すべきです。

つまり、イエス様の十字架の働きによって私たちは赦され、新しいスタートを与えられました。そして、私たちの人生は、神様の愛、喜び、平和で満たされています。

私たちが神様の道を歩むと、私たちに怒りを向ける人もいるかもしれません。あざ笑う人もいるかもしれません。けれども、私たちを通してキリストの愛に触れ、イエス様を見つける人もいるのです。

エペソにもそのような人々がいました。エペソにいるクリスチャンを通して、神様は多くの人の心に働かれました。だから、

主のことばは力強く広がり、勢いを得て行った。(20)

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに、どの罪を捨てるように命じられているでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

本当の関係を持っている?

イエス様は十字架にかけられる前に、弟子たちにこのように語られました。

わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。(ヨハネ14:12)

この箇所では、そのようなことを見ることができます。ルカはこのように書きました。

(パウロ)が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出ていくほどであった。(使徒の働き19:12)

ある祭司長の息子たちはそれを見て、イエス様の名前によって人から悪霊を追い出そうとしました。ところが、悪霊は答えました。

イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。(15)

すると、その悪霊につかれていた人が彼らに飛びかかり、押さえつけ、打ち負かしました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちには、神様との個人的な関係が必要です。

たとえあなたのご両親、兄弟、親友がクリスチャンであっても、それがあなた自身がクリスチャンであることを意味するわけではありません。あなたは自分自身の神様との関係を持たなくてはなりません。

その関係を持たなければ、サタンはあなたを神の子供として認めません。しかし、もっと重要なのは、神様があなたをご自身の子供として認めてくださらないということです。

もしかしたら、裁きの日に、あなたは神様にこう言うかもしれません。

「え?私を知らないのですか?毎週日曜日に私は教会に行っていましたよ。私の父も母もあなたを知っていますし、私の友人たちもあなたを知っています。」

ところが、神様はこう言われます。「おまえの父も母も知っているし、おまえの友人もよく知っている。しかし、おまえは何者だ?」

そして、あなたは神様から永遠に離れてしまいます。

あなたはどうでしょうか。神様との関係を本当に持っていますか?神様を本当に知っていますか?

カテゴリー
使徒の働き

いつ人を神様に委ねるべきか

愛する人々が福音を拒絶するのを見るのは、非常につらいことです。けれども、私たちが諦め、その人を神様に委ねるべき日が来るかもしれません。では、いつそうすべきなのでしょうか。

今日の箇所では、その答えを見つけることができます。

エペソにいたとき、パウロはいつも通りユダヤ人の会堂に行き、イエス様について教えました。パウロは約三か月間そうしましたが、最終的にユダヤ人たちは心を頑なにし、聞き入れず、「道のこと」(つまり福音)を悪く言いました。(使徒の働き19:9)

パウロの反応はどうだったでしょうか。

パウロは彼らから離れ、別の場所へ行き、福音を受け入れる人々に伝えました。

福音を伝えるとき、相手がもっと聞きたいという気持ちを持っていると感じることがあります。そのような心を持っている人には、福音を伝え続けるべきです。

しかし、相手が心を固くし、敵対的な態度を取るならば、私たちは彼らを神様の手に委ね、別の人々に福音を伝え始めるべきです。

頑なな心を持つ人に福音を伝え続けることは無駄であり、むしろ相手の心をさらに固くしてしまうかもしれません。

私たちは誰かを信じさせることはできません。人の心を変えられるのは聖霊様だけです。

パウロが言ったように、私たちは福音の種を植え、水を注ぐことができます。しかし、成長させるのは神様だけです。(第一コリント3:6-7)

だからこそ、もし相手が私たちの言葉を拒絶するならば、私たちは身を引き、彼らの心を変えられる方に委ねましょう。

カテゴリー
使徒の働き

悔い改めることだけではく

この箇所では、私たちはバプテスマのヨハネの弟子たちに出会います。ある意味では彼らはアポロに似ていましたが、ある意味ではアポロとは異なっていました。

アポロのように、彼らはバプテスマのヨハネに従いました。しかし、アポロと違い、ヨハネが誰を指していたのかを理解していませんでした。

ヨハネは彼らにバプテスマを授けましたが、もしかしたらヨハネがイエス様をメシアとして宣言する前に、彼らは別の場所へ移ったのかもしれません。つまり、彼らは罪を悔い改めましたが、イエス様に従ってはいませんでした。

そこで、パウロは彼らにイエス様について教えました。その後、彼らはイエス様を信じ、イエス様の名前によって洗礼を受け、聖霊を受けました。

今日の要点は何でしょうか。罪を悔い改めるだけでは、十分ではありません。

「神様に従いたい」と言っても、それだけでは足りません。

あなたはイエス様を信じなければなりません。

イエス様は、神様への道のひとつではありません。唯一の道なのです。イエス様との関係を持たなければ、どれほど多くのものを持っていても、それは無意味です。

あなたはどうでしょうか。イエス様を信じていますか。すでにイエス様を受け入れましたか。

カテゴリー
使徒の働き

素直な心

私たちが「もう知っている」という態度を取るのは、簡単なことです。

例えば、日曜日に牧師のメッセージを聞くとき、「もう知っている」と思ってしまうことがあります。

長い間、教会に通っている人にとって、そのような態度を取るのは特に簡単です。

正直に言うと、私自身もそのような態度を取ったことがあります。今でも、そのような姿勢に注意しなければなりません。

たとえ神様や聖書について多くのことを正しく理解していても、私たちはまだまだ学ぶべきことがたくさんあります。

この箇所では、アポロという人物がイエス様について深い知識を持っており、その理解はある程度正しかったものの、不完全でした。

そこで、プリスキラとアキラというクリスチャン夫婦は、アポロに「神の道をもっと正確に説明しました」(使徒の働き18:26)。

最も重要なのは、アポロが素直な心を持っていたということです。彼は「私はもう知っている」と言って彼らの教えを拒んだわけではありません。

むしろ、常に学ぶ姿勢を保っていたため、彼のミニストリーはさらに力強くなりました。その態度によって、彼は神の国のためにさらに豊かな実を結びました。

あなたはどうでしょうか。あなたは成熟したクリスチャンで、聖書について深く知っているかもしれません。しかし、今でも素直な心を持ち、学ぶ姿勢を取っていますか。

謙遜な態度を持ち、まだ知らないことが多くあると認められるでしょうか。

そのような心を持ち続けることによってこそ、私たちはクリスチャンとして成長し、神様のために豊かな実を結び続けることができるのです。

カテゴリー
使徒の働き

私たの責任を果たす

パウロが常に行ったことは、福音を述べ伝えることでした。どこへ行っても、パウロはイエス様がキリストであることを伝えました。

(覚えておいてください。「キリスト」とは名前ではなく、肩書です。ユダヤ人にとって、「キリスト」とは「救い主」や「王」を意味します。)

なぜ、パウロは福音を述べ伝えたのでしょうか。その理由の一つは、イエス様がパウロにそう命じられたことです。そして、イエス様は一度だけ命じたのではありません。パウロが救われたとき、イエス様は彼に使命を与えられました。(使徒の働き9:15)

そして、この箇所でも、イエス様はもう一度パウロにこう言われました。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(使徒の働き18:9)

しかし、パウロには、福音を伝える理由がもう一つありました。彼は、預言者エゼキエルに対する神様の言葉を覚えていました。

わたしが、悪いものに「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:18-19)

そのため、コリントでユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶したとき、パウロはこう言いました。

あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。(使徒の働き18:6)

その後、パウロはエペソの長老たちに、似たことを語りました。(使徒の働き20:26-27)

私のポイントは?

私たちは、知っている人に福音を述べ伝える責任を持っています。

彼らの反応は私たちの責任ではありませんが、私たちは彼らに真理を伝える使命があります。そうしないと、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。

イエス様は、かつてパウロに語られたように、私たちにも語られます。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(使徒の働き18:9)

カテゴリー
使徒の働き

もう一つのクリスマス

2000年前、人々は最初のクリスマスを祝いました。

けれども、私たちクリスチャンは、もう一つのクリスマスを待っています。

最初のクリスマスの日、イエス様は赤ちゃんとしてこの世に来られました。そして、イエス様の目的は、十字架で私たちの罪のために死ぬことでした。イエス様が私たちの罰を受けてくださったので、今は天の父が私たちを赦してくださいます。

しかし、パウロによれば、イエス様はもう一度来られます。今度は、この世を裁くために来られます。

パウロはこう言いました。

なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義を持ってこの世界をさばこうとしておられるからです。

神はこの方(イエス)を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒の働き17:31)

イエス様を拒絶したすべての人々は、永遠に罰を受けます。

しかし、イエス様を受け入れたすべての人々は、この砕かれた世界から救い出され、新しくされます。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(へブル人への手紙9:27-28)

あなたは、イエス様の再臨に向けて準備ができていますか。どのように備えるべきでしょうか。

パウロはアテネの人々に語りかけ、私たちにもこう言います。

。。。今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。(30)

「悔い改め」とは、これまで歩んできた方向から正反対の道へと進むことを意味します。つまり、自分の道ではなく、神様の道を歩み始めることです。自分自身を頼るのではなく、イエス様に信頼し始めることです。

そうすれば、「次のクリスマス」が来たとき、あなたは準備万端です。

あなたは、すでに準備ができていますか。

カテゴリー
使徒の働き

遠く離れない神

私の一番好きな歌は、このように始まります。

As little children, we would dream of Christmas morn,
私たちが幼い頃、クリスマスの朝を夢見ていました。
Of all the gifts and toys we knew we’d find.
つまり、きっと見つけることのできるプレゼントやおもちゃのことを思い描いていました。
But we never realized a baby born one blessed night,
しかし、私たちは気づいていませんでした。ある祝福された夜に生まれた赤ちゃんが、
Gave us the greatest gift of our lives.
私たちの人生にとって最も素晴らしい贈り物であることを。

その夜、目に見えない神が、目に見える存在となりました。また、知られていない神が現れ、私たちに近づかれました。

パウロは、その真理をアテネの人々に伝えようとしました。彼らは「知られていない神」のために祭壇を設けていました。

そこで、パウロは彼らにこう言いました。「その神は、今や知られるようになりました。神ご自身が私たちにご自身を現してくださいました。その神はすべての神々の中の一つではなく、唯一の神です。

そして、その神は、この世界とその中にあるすべてのものを創造されました。

神は天地の主であり、命を与えるお方です。

また、神はご自身の計画に従って、すべてを成し遂げられました。その目的は何でしょうか。

それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。(使徒の働き17:27a)

そして、神様を求める人々にとって、良い知らせがあります。

確かに、神は私たちに一人ひとりから遠く離れてはおられません。(27b)

イエス様のもう一つの名前は「インマヌエル」です。

クリスマスの良い知らせとは、神様が私たちに近づいてくださり、神様を知ることができるようになったことです。

イエス様を通して、私たちは神様と親しい関係を持つことができます。

神様は私たちに近づいてくださいました。だからこそ、私たちも毎日神様に近づいていきましょう。

カテゴリー
使徒の働き

悪を見て見ぬふりをする?

私たちはこの世の悪を目にすると、次第に気にならなくなってしまうことがあります。最初はそれを見て心を痛めたかもしれません。けれども、時間が経つにつれて、その悪に慣れ、やがて気づかなくなってしまうのです。

パウロはそうではありませんでした。彼がアテネに行ったとき、数多くの偶像を目にしました。そのとき、彼はどう反応したでしょうか。

パウロは。。。町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。(使徒の働き17:16)

「憤り」という言葉の原語は、新約聖書の中で、もう一つの箇所にしか現れません。皮肉なことに、そのほかの箇所では、パウロは「愛は苛立たず」と語っています。

しかし、今日の箇所では、パウロは憤りを覚えました。なぜでしょうか。それは、この偶像のせいで多くの人々が地獄へ向かっていたからです。サタンは彼らを欺き、苦しめていました。

そのため、パウロは彼らが救われるように、大胆に福音を述べ伝えました。

あなたはどうでしょうか。

周囲の悪を目にすると、あなたは憤りを覚えるでしょうか。

不正を見たとき、憤りを覚えるでしょうか。

人々が悪を「良いこと」と呼ぶとき、あなたは怒りを感じるでしょうか。

サタンが人々の命を滅ぼしているとき、あなたは正義の怒りを覚えるでしょうか。

もし何も感じないなら、あなたの心の中で何かが正しくありません。御霊があなたの心に住んでおられるなら、悪を目にしても無関心ではいられないはずです。

私たちは御霊に導かれ、この世に塩と光として生きるべきです。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。

もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。

あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。

また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。(マタイ5:13-15)

あなたはこの世の悪に慣れすぎて、塩気を失った塩になってしまっていないでしょうか。悪に対する無関心な態度のせいで、隠された光になっていないでしょうか。

私たちはそのような者にならないように気をつけましょう。むしろ、周りの人々に触れるほど、悪に対する憤りを覚える者となりましょう。

沈黙するのではなく、悪を見て見ぬふりせず、神様の光としてこの世に出て、人々に影響を与えましょう。

カテゴリー
使徒の働き

私たちが聞くことを吟味する?

現代では、私たちはさまざまな情報を簡単に得ることができます。特に、インターネットを通じて、多様なニュースや意見に触れることができます。

信仰に関しても同じです。牧師だけでなく、一般のクリスチャンも神様や聖書について語り、多くの人が彼らの教えに従っています。

けれども、私たちはどれほど彼らの言葉を吟味しているでしょうか。もし吟味しなければ、信頼に値しない人の意見に流されてしまいます。

テサロニケ人やベレア人の多くは、まさにそのような人々でした。福音の敵は簡単に彼らを扇動し、パウロとシラスに対する大騒ぎを引き起こしました。

なぜでしょうか。それは、彼らがパウロの敵の言葉を吟味せず、すぐにその嘘を信じてしまったからです。

しかし、パウロの言葉を信じた人々の中にも、聞いたことを十分に吟味しない者がいました。ルカはテサロニケ人とベレア人を比較して、こう記しました。

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(使徒の働き17:11)

よく考えてみてください。パウロは偉大な使徒でした。けれども、御霊はルカを通してベレア人を称賛しました。

なぜでしょうか。それは、彼らが簡単にパウロの言葉を受け入れたのではなく、むしろ聖書に照らして吟味したからです。

もしベレア人がパウロの言葉を吟味したことが良いことであるなら、私たちも牧師の言葉を吟味すべきではないでしょうか。有名な牧師やクリスチャン作家の言葉も、慎重に検証すべきではないでしょうか。

しかし、多くの人々は聞くことを吟味しません。もし話の内容が正しく聞こえたり、心を動かされたりすると、すぐに受け入れてしまいます。

その結果どうなるでしょうか。神様の道から離れ、偽りの教えの風に吹き回されるのです。(エペソ4:14)

そうならないようにしましょう。私たちが聞くことを吟味しなければ、神様の道を見逃してしまいます。

むしろ、パウロの言葉を心に留め、それに従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(第一テサロニケ5:21-22)

カテゴリー
使徒の働き

解放された

この箇所のテーマの一つは、「解放」です。

ルデヤとその家族は罪から救われました。もしかすると、彼女たちはユダヤ人の律法の要求からも自由にされたのかもしれません。

ある女性は、悪霊の力から解放されました。

看守は、(もしかすると他の囚人も)自分の罪から救われました。

そして、パウロとシラスは牢の鎖から解放されました。

さまざまな意味において、パウロとシラスの経験はこのテーマを象徴していると言えるでしょう。

彼らは牢に座り、鞭による傷の痛みに苦しんでいたはずです。それにもかかわらず、彼らは祈り、賛美の歌を歌いました。

おそらく、最初は他の囚人たちはパウロとシラスを不思議な人物だと思ったでしょう。けれども、彼らの祈りと賛美を聞くうちに、囚人たちはパウロとシラスの信仰の真実さを理解し始めました。

もしかすると、彼らは神様の臨在を感じ、パウロとシラスに神様について尋ねたかもしれません。

看守はその様子を見て、皆がおかしいと思い、自室に戻って眠りにつきました。ところが、突然地震が起こりました。そして、

たちまち扉が全部開いてすべての囚人の鎖が外れてしまった。(使徒の働き16:26)

その言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私たちが自分自身を神様にささげると、霊的な牢の扉が開き、囚人の鎖が外れるからです。

もちろん、そのようなことは私たちの人生にも起こりますが、私たちが触れる人々の人生にも起こるのです。

パウロが囚人たちに「逃げないでください」と願ったとき、神様の愛が彼らの心にすでに触れていたので、誰一人として逃げる者はいませんでした。

その様子を見た看守は、叫びました。

先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。(30)

それ以前、サタンは看守とその家族を長い間縛っていました。しかし、パウロから流れた愛と憐れみによって、彼らはサタンの鎖から解放されました。だから彼らは喜びに満ちました。

神様は、あなたの周りの人々を自由にしたいと望んでおられます。そのために、2000年前、天の父はイエス様を送ってくださいました。

だからこそ、神様の愛を彼らに示しましょう。また、パウロが伝えた福音のメッセージを語りましょう。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒の働き16:31)

その言葉を信じるなら、あなたの周りの人々も救われるでしょう。

カテゴリー
使徒の働き

神の御名のもとに自分の計画成し遂げようとする?

この箇所はとても興味深いです。パウロと他の宣教師は各地へ行こうとしましたが、御霊に「行ってはならない」と言われました。

そのため、おそらく数日間、あるいは数週間の間、パウロたちは少しフラストレーションを感じていたでしょう。しかし、ある日、パウロは幻を見ました。その幻の中で、一人のマケドニア人がこう言いました。

マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。(使徒の働き16:9)

だから、パウロたちはすぐにマケドニアへ向かいました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは神様の御心に従っているつもりで、あちこちへ行くことが簡単にできます。しかし、何度も障害にぶつかり、フラストレーションを感じてしまうことがあります。

私たちの問題は何でしょうか。多くの場合、私たちは実際には神様の御心に従っていないのです。むしろ、私たちは神様の名のもとに、自分の計画を成し遂げようとしているのです。

ですから、ミニストリーをしていてフラストレーションを感じるときは、少し静まりましょう。そして、神様を求めましょう。

「神様、私の計画を祝福してください」と祈るのではなく、「神様、あなたが何をなさっているのか教えてください。私がどのようにあなたの働きに加わることができるのか教えてください」と祈りましょう。

そうすれば、神様は御心をあなたに示してくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたは本当に神様の御心に従っているでしょうか。それとも、もしかすると、自分の計画に神様の名前を付けているだけでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

すべての人に、すべてのものとなる

この箇所では、私たちは少し不思議な出来事を目にします。パウロは各地を巡り、クリスチャンたちに異邦人に関する教会の決定を伝えました。つまり、異邦人は割礼を受ける必要がないということです。

それにもかかわらず、パウロはテモテに割礼を受けさせました。なぜでしょうか。

おそらく、テモテが純血のギリシャ人であれば、パウロは彼に割礼を受けさせなかったでしょう。

実際、テトスという人物は純血のギリシャ人であり、パウロは彼に割礼を受けさせませんでした(ガラテヤ2:3)。さらに、テトスの働きの対象は主に異邦人でした。

けれども、テモテの場合、彼の母がユダヤ人であり、彼自身もユダヤ人たちに福音を伝えたいと願っていました。そして、もしテモテが割礼を受けていなかったならば、ユダヤ人たちは彼の言葉に決して耳を傾けることはなかったでしょう。

そのため、テモテがユダヤ人に仕えたいと願うのであれば、割礼を受ける必要がありました。

パウロはその真理を次のように説明しました。

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。

律法の下にある人たちにはーー私自身は律法の下にはいませんがーー律法の下にあるもののようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。。。

すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。(第一コリント9:20,22)

では、パウロの模範から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

できる限り、あなたが仕える人々に共感するべきです。そうしなければ、彼らはあなたの言葉に耳を傾けてくれないでしょう。

日本の宣教師として、私は日本人の言語や文化、考え方を学ぶべきです。

とはいえ、あなたが自分の国に住んでいる場合でも、周りの人々の考え方や生活、楽しんでいることを知るべきです。そして、できる限り相手のことを理解し、共感するよう努めるべきです。

例えば、あなたは社交的な人かもしれませんが、相手は内気な人かもしれません。

その場合、最初から大きな教会に彼らを紹介するのではなく、一対一で時間を過ごす方がよいかもしれません。また、もう一人か二人のクリスチャンの友人を紹介するのもよいでしょう。

もしかしたら、あなたはスポーツがあまり好きではないかもしれません。それでも、相手から誘われたなら、一緒に行く方がよいでしょう。

簡単に言うと、できる限り相手のことを理解し、共感しましょう。テモテもパウロもそうしました。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたの人生にどのような人を置かれたでしょうか。彼らが救われるために、どのように彼らをもっと知り、共感できるでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

もう一つのチャンスを与える?

この箇所では、私たちはパウロとバルナバが別れる場面を目にします。

その理由は、マルコという若い男性です。マルコはバルナバのいとこであり、パウロとバルナバが最初の宣教旅行に出発する際、彼も同行しました。けれども、なぜか途中で帰ってしまいました。

私たちはその理由を知りません。もしかしたら、彼はホームシックだったのかもしれません。あるいは、福音の敵と対峙したときに恐れを感じたのかもしれません。

いずれにせよ、どうやらパウロはマルコの決断を受け入れられなかったようです。

そのため、パウロとバルナバが再び宣教旅行に行こうとしたとき、バルナバがマルコを同行させようと提案すると、パウロは強く反対しました。

バルナバはそのことで怒り、マルコとともにキプロスへ渡り、宣教の働きを続けました。一方、パウロはシラスという人物とともに別の地へ赴きました。

私はパウロの気持ちがよく分かります。信頼できない人と働くのは、とても難しいことです。とはいえ、この場面では、パウロは自分が説いていた教えを忘れてしまいました。それは「恵み」です。

その後、パウロはそのことを理解するようになりました。マルコはもう一度チャンスを与えられ、バルナバとともに忠実に仕えました。その後、彼はペテロとともに忠実に仕えました。

そして最終的には、彼はパウロとともに忠実に仕えました。パウロはマルコについて、テモテにこう言いました。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(第二テモテ4:11)

実は、パウロとマルコは互いに恵みを与え合わなければなりませんでした。

パウロはマルコの過去の失敗を許さなければなりませんでした。けれども、マルコもまた、パウロの以前の態度を許さなければなりませんでした。互いに許し合ったことで、二人は祝福されました。

あなたはどうでしょうか。あなたをがっかりさせた人がいるでしょうか。あなたを傷つけた人がいるでしょうか。

神様は何度も私たちにチャンスを与えてくださるので、私たちも周りの人々にそのようなチャンスを与えるべきです。

もちろん、すぐに相手を完全に信頼しなければならないわけではありません。それでも、信頼を得る機会を与えるべきです。

そして、彼らが私たちの信頼に値することを示せば示すほど、もう一度彼らを信頼しましょう。

天のお父様は、もう一度チャンスを与える方です。神様の子どもとして、私たちもそうすべきです。

カテゴリー
使徒の働き

恵みだけ

この箇所では、私たちは使徒の時代における最も重要な議論の一つを目にします。

パウロとバルナバは異邦人たちに福音を述べ伝えました。けれども、あるクリスチャンたちはパウロとバルナバの教えに反対しました。

つまり、パウロとバルナバはこう教えました。

ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。

また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについてこの方によって、信じる者はみな義と認められるのです。(使徒の働き13:38-39)

ところが、あるユダヤ人の信者たち、特にパリサイ派に所属している信者たちは、それを受け入れませんでした。

もちろん、彼らはイエス様への信仰によって人々が赦されることを信じていました。しかし、それに加えてもう一つの要求をしました。

つまり、異邦人たちは割礼を受けなければならず、さらにモーセの律法を守らなければならない、ということです。

だから、

パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じた。。。(使徒の働き15:2)

だから、彼らは皆、エルサレムに行き、使徒たちと長老たちとその問題について話し合いました。

まず、パウロとバルナバは、異邦人の間での神様の働きについて語りました。けれども、そのあと、パリサイ派の人々が立ち上がり、こう言いました。

「それはいいけれど、彼らはまだ割礼を受け、モーセの律法を守らなければならない。」

こうして、激しい議論が始まりました。

私はペテロの思いを想像できます。

ペテロは幼い頃からユダヤ人として育ち、ずっとモーセの律法に従ってきました。彼にとって、異邦人に対する神様の恵みの言葉を受け入れることは、まだ少し難しかったかもしれません。

そのため、彼はパリサイ派の人々の意見に共感を覚えたかもしれません。

それでも、コルネリウスの家に行ったとき、ペテロ自身がそのメッセージを異邦人に伝えました。

そのため、この議論を聞きながら、ペテロは神様からの幻をもう一度思い出していたことでしょう。(使徒の働き10:11-16)

そして、彼は再びその幻の教訓について思い悩んだかもしれません。

けれども、最終的にペテロは、神様がユダヤ人と異邦人を区別しないことを悟り、皆にこう言いました。

。。。人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証をされました。

私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神を試みるのですか。(8-10)

それを聞いて、皆は静かになりました。バルナバやパウロの異邦人との経験よりも、ペテロの言葉が彼らの心を打ったようです。

そして、ヤコブは聖書によってペテロの言葉を確認したため、すべての異議がなくなりました。

では、この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

恵みだけによって、私たちは救われるのです。

私たちはキリストの御業に、自分の努力を足すことはありません。

私たちが頑張ったからといって、神様がその報いとして私たちに恵みを与えてくださるわけではありません。

私たちの努力を神様の恵みに足して救われるのではなく、私たちはキリストの十字架の御業だけによって救われました。

けれども、ペテロのように、私たちの多くにとってこの真理を受け入れることは容易ではありません。そのため、「私はやっぱりだめだ」と思い、神様が本当に私たちを受け入れてくださるのか疑問に思うことがあります。

あるいは、周りの人々を裁いて、「あの人はだめだ」と考えてしまうこともあるかもしれません。

しかし、事実として、救いに値する人は誰もいません。だからこそ、私たちには恵みが必要なのです。

私たちは救いに値しませんが、イエス様が十字架で血を流されたことによって、私たちは義と認められました。神様はすでに私たちを受け入れています。だから、神様が私たちを受け入れてくださるかどうか、悩む必要はないのです。

それを本当に信じていますか?

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2:8-9)

カテゴリー
使徒の働き

苦難があっても

控えめに言っても、パウロとバルナバの宣教旅行は決して退屈なものではありませんでした。

彼らは数々の成功を経験しましたが、同時に多くの試練にも直面しました。あるとき、パウロは石打ちの刑に遭い、死の危機に瀕しました。そのため、彼らが失望し、諦めてしまうことは容易だったでしょう。

けれども、彼らはそうしませんでした。むしろ、迫害された場所にまで戻ったのです。なぜでしょうか。それは、そこにいる信者たちを励まし、信仰に堅く立つように勧めるためでした。

彼らは何を語ったのでしょうか。

私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない。(使徒の働き14:22)

もし私たちがそのクリスチャンたちの立場だったなら、きっと試練ではなく、神様の祝福について聞きたかったことでしょう。

しかし、パウロは、新しいクリスチャンたちが試練に直面することを理解していました。もし、パウロとバルナバが訪れた都市の人々が彼らを迫害するなら、新しいクリスチャンたちも同じように迫害される可能性が高いのです。

だからこそ、パウロはその試練の現実を隠そうとはしませんでした。彼は、「あなたがたは確かに苦しみを経ることになる」と語ったのです。

それでも、良い知らせもありました。それは、彼らがその苦しみに一人で直面する必要はなかったことです。神様がパウロとバルナバとともにおられたように、神様は新しいクリスチャンたちともともにおられるのです。

さらに、アンティオキアのクリスチャンたちが、パウロとバルナバを神様の恵みに委ねて送り出したように、パウロとバルナバも新しいクリスチャンたちを主に委ねました(23,26)。

パウロとバルナバが確信していたのは、新しいクリスチャンたちが試練に直面しても、神様の恵みが彼らを支えるということです。

同じように、あなたがどんな試練や苦難に直面しても、神様はいつもあなたとともにおられ、その恵みによって、あなたはその試練を乗り越えることができます。

パウロとバルナバとともにおられた神は、今もあなたとともにおられます。だから、どんな苦難があっても、あきらめないようにしましょう。絶望しないようにしましょう。

Through many dangers, toils and snares
I have already come;
さまざまな危険や苦難、罠を乗り越え、私はすでにここまでたどり着きました。

‘Tis Grace that brought me safe thus far
恵みは私を安全に導き、ここまで守ってくださいました。

and Grace will lead me home.
さらに、恵みは私を主の家へと導いてくださいます。

ーージョン・ニュートン

カテゴリー
使徒の働き

ただの人間

この箇所を読むと、罪に陥った多くの有名な牧師の名前が思い浮かびます。かつて多くの人々が彼らを尊敬していましたが、やがてその尊敬を失ってしまいました。

そのとき、クリスチャンたちは、彼らがただの人間であることを改めて思い知らされたのです。

それでも、私たちが牧師を特別な存在として見なすのは容易なことです。おそらく、神様の姿を直接見ることができないため、牧師を模範とし、彼らに目を向け、従おうとしてしまうのでしょう。

けれども、最終的に彼らもただの人間なのです。

あなたがリーダーであっても、ただの教会のメンバーであっても、私たち皆はこのことを常に心に留めておかなければなりません。

パウロはそのことを深く認識していました。

パウロとバルナバがリステラを訪れたとき、彼らはイエス様のみ名によってある人を癒しました。リステラの群衆はその奇跡を目にすると、パウロとバルナバを神々として礼拝しようとしました。

なぜでしょうか。

それは、彼らの神話によれば、かつてゼウスとヘルメスが人間の姿で人々の間に現れたものの、多くの者が彼らを歓迎せず、その結果、神々の怒りによって罰せられたからです。しかし、一組の夫婦が彼らを受け入れ、その善意によって祝福されたという伝承がありました。

リステラの人々はこの話を覚えており、パウロとバルナバにいけにえを捧げたいと思いました。けれども、それを見たパウロとバルナバは、叫びました。

皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。

そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。(使徒の働き14:15)

それでも、パウロとバルナバは、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせました。

パウロはコリントの教会でも、似た問題に直面しました。そこでは、コリントのクリスチャンたちが、どのリーダーが最も偉大なのかを議論していました。しかし、パウロは彼らにこう問いかけました。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(第一コリント1:13)

また、

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(第一コリント3:5-7)

たとえ最も敬虔な人であっても、祭り上げることは危険です。なぜなら、彼らもまた、ただの人間だからです。

人間は失敗することがあります。

人間は私たちを落胆させることがあります。

もし私たちの信仰の基盤が神様ではなく、一人の人間に置かれているなら、その人が私たちを失望させたとき、私たちの信仰はどうなるでしょうか。

パウロはその危険を私たちに警告しています。

しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(第一コリント3:10-11)

あなたの信仰の基盤は何でしょうか。あなたの牧師でしょうか。有名な著者や牧師でしょうか。それとも、イエス様でしょうか。

イエス様だけが、私たちが真に信頼できる揺るぎない基盤です。イエス様に信頼するなら、あなたは決して失望することがありません。(イザヤ書28:16;第一ペテロ1:6)

カテゴリー
使徒の働き

対立

この箇所を読むと、「対立」という言葉が思い浮かびます。

パウロとバルナバが福音を述べ伝えたとき、エリマという人物やユダヤ人たちは彼らに反対しました。

エリマは霊的な理由から彼らに対立しました。

ユダヤ人たちが反発した理由は、嫉妬と罪から生じました。(とはいえ、結局のところ、福音に反対する人々すべてには霊的な理由があります。)

では、パウロとバルナバはどのように反応したのでしょうか。

サタンがエリマを通して直接攻撃したとき、彼らは御霊の力によって戦いました。霊的な戦いにおいて、私たちは自分の力だけでは戦えません。なぜなら、サタンと悪霊は私たちよりも強力だからです。

しかし、ヨハネはこう書きました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、聖霊様の力によって、パウロとバルナバはエリマに勝利し、セルギウス・パウルスとその家族が救われました。

プライドを持つ嫉妬深い人々と対立したとき、パウロとバルナバは大胆に福音を述べ伝え続けました。

そして、ユダヤ人たちの心が固くなると、パウロとバルナバはその都市の異邦人たちに福音を伝え始めました。その後、彼らは別の場所へ行き、そこでの人々にも福音を述べ伝え続けました。

このように、自分勝手な理由で私たちと対立する人もいます。

また、私たちが何を言っても、イエス様をどうしても信じようとしない人もいます。そのため、最終的に私たちは彼らを神様にゆだねるしかありません。神様が彼らを裁かれるのです。

私たちは強制的に相手にイエス様を信じさせることはできません。ただ福音を伝えることしかできません。その結果は、相手と神様の責任です。

だから、人々が福音を拒絶しても、落胆しないでください。大胆に福音を伝え続けましょう。

私たちは皆、対立と向き合うことになります。しかし、そのときこそ、パウロの言葉を覚えていましょう。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ人への手紙6:9)

カテゴリー
使徒の働き

神様の働きのために聖別される

私は、宣教師になることについて初めて考えたときのことをよく覚えています。

友達と話していると、なぜか宣教の働きについての話題になりました。そのとき、私はこう言いました。 「神様は私を宣教師として召されていないと思う。」

すると、友達は答えました。 「どうしてそんなに確信があるの?神様にもう尋ねたの?」

「えっと。。。」

その夜(もしかしたら翌晩)、祈っているときにこの会話を思い出しました。

だから、私は神様にこう言いました。

「トニーさんに、あなたに宣教師になるよう導かれているかどうか尋ねるべきだと言われました。」

それを口にした瞬間、ある考えが心に浮かびました。きっと私自身の考えではないでしょう。なぜなら、宣教師になる意図がまったくなかったからです。

すると、神様がこう言われました。 「そうです。私に尋ねなさい。」

私の反応は?

「私は尋ねたくない。あなたが『はい』と答えるなら、本当に困ります。」

そして、いろいろと言い訳をしましたが、神様は何も答えず、結局すべてが無駄だと気付きました。

だから、私は尋ねました。 「では、私に宣教師になってほしいのですか?」

その晩、神様は答えませんでした。それでも、その日がターニングポイントとなりました。心が少し柔らかくなったからです。

それから2~3年後、進路について祈りました。そして、友人たちはこう言いました。 「神様の導きを求めているなら、すべてを神様に捧げなくてはならない。」

帰る途中、神様は再び私の心に語りかけました。 「ブルース、あなたの心には『絶対に日本へ行かない』という思いがあるよ。」

その言葉を聞いて、神様の意味が分かりました。

前年、短い宣教旅行で日本に訪れていました。けれども、その後、こう思いました。 「やっぱり私は日本向きじゃないだろう。」

意識的に「日本には絶対戻らない」と口にしたわけではありませんが、心の中ではそう決めていました。

だから、その夜、もう一度心のすべてを神様に捧げました。

日本で宣教師になったのは、それから24年前のことです。

なぜ、私はこの話をしているのでしょうか。

それは、私の経験がサウロとバルナバの経験に似ているからです。

クリスチャンたちが神様の御心を求めていたとき、神様は彼らに言われました。 「行きなさい。私の目的のために、あなたたちを聖別しています。」

この箇所では、御霊の人格を見ることができます。なぜなら、御霊ご自身が彼らに語られたからです。

さあ、わたしのためにバルナバとサウロ聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい。(使徒の働き13:2)

だから、クリスチャンたちがさらに祈り、断食した後、サウロとバルナバは御霊の導きに従いました。

今でも、神様がなぜ私を呼ばれたのかを考えています。多くの良いことをしてきたと思いますが、これからどのように導かれるのかは分かりません。だから、私の祈りはこうです。 「次の段階は何でしょうか。」

しかし、神様は宣教師や牧師だけを呼ばれるのではありません。あなたも呼ばれています。神様はご自身の目的のために、あなたを聖別されました。

あなたは、その目的をご存知ですか? 神様が望まれることをしていますか?

カテゴリー
使徒の働き

破滅に至る高慢

ソロモンはこの言葉を書きました。

高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。(箴言16:18)

ヘロデ・アグリッパの人生で、私たちはその真理を見ることができます。

ちょっとややこしいですけど、聖書の中にはたくさんのヘロデがいます。

バプテスマのヨハネを殺して、イエス様の裁判に参加するヘロデはヘロデ・アグリッパとは違う人でした。それは、ヘロデ・アンティパスという人でした。アンティパスはヘロデ大王の息子でした。

そして、ヘロデ・アグリッパはヘロデ大王の孫で、アンティパスの甥でした。イエス様が小さい子どものころに、ヘロデ大王はイエス様を殺したいと思いました。

ヘロデ大王のように、ヘロデ・アグリッパは暴力的な人でした。彼はヤコブを殺したし、ペテロをも殺そうとしました。神様がペテロを救い出した後、アグリッパはペテロの番兵たちを殺しました。

ヘロデは権力者で、高慢な人でした。だから、ヘロデがツロとシドンの人たちに怒ったとき、彼らは謙遜にヘロデのところに行って、和解を願いました。

ヘロデの演説を聞いた時、彼らは叫んだ。

神の声だ。人間の声ではない。(使徒の働き12:22)

ヘロデは神様を認めず、その言葉を受け入れなかったため、天使によって打たれ、命を落としました。

神様が最も嫌われるものの一つはプライドです。なぜなら、プライドは神様との間に壁を築き、私たちを神様から遠ざけるからです。そのプライドによって、私たちは神様を必要としないと考え、神様抜きで生きようとします。

プライドは、他の人々との関係にも壁を作ります。プライドのせいで、どれほど友人関係、家族、結婚、そしてその他の人間関係が壊されてきたでしょうか。

さらに、ヘロデのように、悔い改めないなら、プライドは私たちを破滅へと導きます。もしプライドを持ち続け、「神様、あなたを必要としない」と言い続けるなら、神様は最終的に私たちの願いを叶えます。

つまり、永遠に神様から離れたまま生きることになります。しかし、神様から離れるなら、私たちは命、愛、喜び、平和からも遠ざかります。なぜなら、それらの源は神様だからです。

ヘロデは、最後にこの真理を思い知らされました。

あなたはどうでしょうか。あなたのプライドは、友人、妻、夫、同僚、そして教会の人々との間に壁を作っていませんか。あなたのプライドは、神様との間に壁を作っていませんか。

ペテロはこう書きました。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。(第一ペテロ5:5-6)

カテゴリー
使徒の働き

神様の応答、私たちの信仰

この話は多くの意味で非常に面白い場面です。

特に面白いのは、天使がペテロを牢から救い出し、ペテロがマリアの家に行ってノックをしたとき、召使いのロデがあまりにも興奮しすぎて、ペテロを外に立たせたまま、他のクリスチャンたちに良い知らせを伝えた場面です。

けれども、この話を読んで、私はこう思いました。

「どうして神様はペテロを助けたのに、ヤコブを救ってくださらなかったのだろうか。」

その答えを私たちは知りません。

クリスチャンたちはヤコブのためにも祈っていたはずです。そして、ペテロのために祈ったとき、彼らの信仰がより強かったから神様が答えてくださったわけではありません。

なぜなら、ロデがペテロが外にいると伝えたとき、彼らはロデの言葉を信じませんでした。もし彼らに強い信仰があったなら、すぐに扉を開けていたでしょう。それでも彼らはそうせず、ロデが正気かどうかを疑い続けました。

私たちはクリスチャンたちの不信仰を批判できないと思います。なぜなら、彼らはヤコブのために祈ったのに、ヤコブは殺されてしまったからです。

彼らがヤコブのために祈ったとき、おそらく彼らの信仰は非常に強かったはずです。なぜなら、それ以前に神様は使徒たちを敵から救い出してくださったからです。(使徒の働き5章)

それでも、神様はヤコブを救い出さずに、ペテロを救い出してくださいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1.私たちがどれほど強い信仰を持っていたとしても、神様は私たちの祈りに応えてくださらないことがあります。

時に、私たちの願いは神様の御心と一致していないため、神様は私たちの願いを退け、ご自身の計画を成し遂げられます。

その時、私たちはどう反応するでしょうか。

失望しても、なお神様に信頼し続けるでしょうか。

神様の方法が最善であることを信じ続けるでしょうか。

また、失望の中でも祈り続けるでしょうか。

この話のクリスチャンたちはそうしました。彼らは失望しても、信仰をあきらめませんでした。神様に対して苦々しい思いを抱くこともありませんでした。

むしろ、次の試練が訪れたとき、彼らはすぐに祈り始めました。そして、彼らの信仰が弱かったにもかかわらず、神様の恵みによってペテロは救われました。

これが私の次のポイントです。

2.私たちの信仰や不信仰は神様を制限しません。

もちろん、神様は私たちの信仰を望まれます。けれども、私たちの信仰が弱いときでも、神様はその不信仰によって制限されることはありません。神様は恵みに満ちた方であり、私たちに値しないものさえも与えてくださいます。

だから、私たちは神様のもとへ行き続け、神様が良い方であることを信じ続け、また、神様が最善を知り、それを行われることを信じ続けなければなりません。

神様はいつも私たちの願いを叶えられるわけではありません。しかし、神様はそのような信仰をいつも祝福されます。なぜなら、その信仰こそが神様を喜ばせるからです。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

カテゴリー
使徒の働き

聖霊と信仰に満ちている人

バルナバはとても素晴らしい人でした。使徒の働き4章では、彼は自分の土地を売り、その代金を教会に捧げて貧しい人々を助けました。

そして、9章では、使徒たちや他のクリスチャンたちがサウロを疑い、恐れていたとき、バルナバは彼を支持しました。

さらに、この箇所では、バルナバは異邦人たちに働きかけ始めました。クリスチャンたちが異邦人の間で実を結び始めると、使徒たちはバルナバを彼らのもとへ遣わしました。

そして、23節にはこう書かれています。

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。(使徒の働き11:23)

その後、バルナバはサウロを呼び、アンティオキアの信者たちに仕えました。(その場所で、信者たちは初めて「クリスチャン」と呼ばれました。)

そして、大飢饉が起こるという預言を聞くと、バルナバとサウロはアンティオキアで救援物資を募り、それをエルサレムへ持ち帰り、そこで苦しんでいるクリスチャンたちを助けました。

しかし、24節の言葉は私の心に深く響きます。

(バルナバ)は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(24)

私もそんな人になりたいと思います。立派な人になりたいです。

前にも言いましたが、「バルナバ」とは彼のニックネームでした。本名はヨセフでした。けれども、彼は皆に愛され、「バルナバ」、つまり「慰めの子」と呼ばれるようになりました。

なぜバルナバはそのような生き方をしたのでしょうか。それは、彼が聖霊と信仰に満ちていた人だったからです。

彼は聖霊に満たされ、豊かな実を結びました。彼の心から愛が溢れました。

他の人々がある人を信じなくても、バルナバはその人を信じました。彼は惜しみなく自分の財産や時間を人々に与えました。さらに、彼の言葉によって、多くの人々が励まされました。

バルナバの信仰は、ただイエス様を信じるだけではありませんでした。その信仰は彼の人生のすべてに浸透し、周りの人々にも影響を与えました。

その結果は?

こうして、大勢の人たちが主に導かれた。(24b)

私はそのことを強く望みます。人々が私の人生を見て、イエス様に魅了されるほどに、私は聖霊と信仰に満ちた人になりたいと思います。

「私の信仰は個人的なものだから、あまり話さない」と言う人もいます。

ある人は、聖霊に満ちることをただ自分の益のためだと考えています。彼らは祝福を受けたいと思っているのです。

しかし、もし私たちが本当に聖霊と信仰に満ちているなら、私たちの人生は完全に変わります。

私たちの考え方が変わります。

私たちの生き方が変わります。

神様の愛が私たちを通して流れ、人々に触れることで、彼らは神様に魅了されます。

あなたはどうでしょうか。あなたは聖霊と信仰に満ちているでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

神様の働きを妨げる?

ペテロがコルネリウスの家から帰ると、教会の大騒ぎに直面しました。なぜなら、彼は教会のリーダーでありながら、異邦人をもてなし、異邦人の家を訪れたからです。さらに、その異邦人はローマの百人隊長でした。

そこで、ペテロが家に入ると、人々は彼を囲み、責め始めました。

あなたは、割礼を受けなていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした。(使徒の働き11:3)

そのユダヤ人たちにとって、ペテロの行為は許しがたいものでした。なぜなら、彼はわざわざ異邦人と関わり、自らを汚したからです。

けれども、ペテロは何が起こったのかを説明しました。彼は神様からの幻や、コルネリウスへの天使の命令、そして御霊がどのように異邦人たちを満たしたかを語りました。

そして、ペテロは彼らにこう言いました。

ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じた時に、私たちにくださったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。(17)

「どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」

私たちはどれほど神様の働きを妨げているでしょうか。

もしかすると、私たちの偏見のせいで神様の働きを阻んでしまうかもしれません。

また、神様が新しい方法で働かれても、私たちはその新しい方法に慣れていないために、その働きを妨げてしまうことがあります。

さらに、神様の働きが私たちの伝統に反するかもしれません。

あるいは、私たちのプライドや固くなった心のせいで、その働きを妨げてしまうかもしれません。

「私の考え方が間違っている」と認めることは、とても難しいものです。

また、「神様はあの人を用いることができる」と認めることが難しい時もあります。

しかし、もし私たちが謙遜な態度を持たないなら、神様の働きを妨げてしまうことになるかもしれません。

最終的に、私たちはパウロの戒めに従うべきです。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(テサロニケ人への手紙第一5:21-22)

もちろん、新しいものが神様から来るかどうかを吟味しなくてはなりません。けれども、私たちは自分の心も試すべきです。私たちの考え方も試すべきです。私たちのプライドも試すべきです。

エルサレムにいたユダヤ人のクリスチャンたちも、そうしなければなりませんでした。

そして、彼らが出した結論は?

人々はこれを聞いて沈黙した。そして、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(使徒の働き11:18)

そして、彼は神様の働きを妨げることなく、その務めに加わり始めました。(19-26)

あなたはどうでしょうか。神様の働きを妨げているでしょうか。それとも、神様の働きを目にし、喜んでその務めに加わるのでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

隔ての壁を打ち壊す

ユダヤ人が異邦人に福音を伝えるために、神様は大きな壁を打ち壊さなければなりませんでした。

皮肉なことですが、その壁の一つは神様の律法から来ていました。それは、清いものと汚れたものに関する律法でした。

レビ記を読むと、こうした原則が何度も出てきます。

「このものに触れてはならない。それに触れると、不潔になる。しかし、この儀式を行えば、清められる。」

また、

「この動物を食べてはならない。あなたにとって、それは汚れたものである。しかし、あの動物は清いので食べてもよい。」

この律法の目的は何だったのでしょうか。その目的は、ユダヤ人に重要なことを教えるためでした。それは、神様が聖なる方であるということです。そのため、もし神様との関係を求めるなら、あなた自身も清くなければなりません。

けれども、ユダヤ人のクリスチャンたちは、大切なことを理解していませんでした。それは、汚れたものや清いものに関する律法(また、すべての儀式的な律法)が、彼らの神様との関係を象徴するものであることです。

さらに、イエス様がすでに来られたので、彼らはその象徴を必要としなくなりました。なぜなら、イエス様にあって、本体が来たからです。

とにかく、教会が誕生した後、クリスチャンたちの間ではこの議論がありました。ユダヤ人の儀式的な規則に従うべきだと主張する人もいれば、その規則に従う必要はないと主張する人もいました。

コルネリウスに出会う前、ペテロと他のユダヤ人たちは、まだその規則に従うべきだと考えていました。

けれども、神様はその壁を強く打ち壊しました。神様はペテロに幻を示されました。その幻の中で、ペテロはいろいろな汚れた動物を見ました。そして、神様はペテロにこう言われました。

「立ち上がり、屠って食べなさい。」

ペテロは驚きました。もしかすると、神様が彼の忠実さを試していると思ったのかもしれません。そこで、ペテロはこう答えました。

主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。(使徒の働き10:14)

ところが、神様はペテロを厳しく叱責されました。

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(15)

ペテロがその重要なポイントを正しく理解するために、神様はその幻を三回繰り返されました。

その後、コルネリウスのしもべたちがやって来て、神様はペテロにこう言われました。

見なさい。三人の人があなたがを訪ねて来ています。さあ、下に降りていき、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。(19-20)

もしペテロがその幻を見ていなかったら、彼はコルネリウスのしもべたちと同行することを拒んでいたでしょう。なぜなら、異邦人の家に入って共に食事をすると、彼は汚れた者になってしまうと考えていたからです。

けれども、ペテロはその幻を覚えていたので、彼らと一緒に行きました。

ペテロがコルネリウスの話を聞き、さらに御霊がコルネリウスとその家族を満たすのを見たとき、教会は大きく変わりました。それは教会の転換点となる出来事でした。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コルネリウスに対するペテロの言葉を覚えていてください。

神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか、汚れた者であることが言ってはならないことを、示してくださいました。(28)

もちろん、現代では、私たちはユダヤ人の儀式に従うべきかどうかを議論しません。

しかし、私たちはどれほど他の人を見下しているでしょうか。

どれほど私たちは、「その人は救いに値しない」と考えてしまうでしょうか。

さらに、彼らの人種や身分によって、どれほど私たちは人を軽蔑しているでしょうか。

また、過去の傷のために、どれほど私たちは「彼らは神様の赦しに値しない」と思ってしまうでしょうか。

けれども、イエス様は彼らのためにも死んでくださいました。だから、私たちには「あの人は汚れたものだ」と言う権利はありません。

もちろん、コルネリウスのように、その人は罪によって汚れています。しかし、イエス様はどんな人でも清めることができます。

私たちがその人に福音を伝えると、ペテロのように驚くかもしれません。なぜなら、御霊はその人をも満たすかもしれないからです。

あなたはどんな偏見を持っているでしょうか。どんな人に対して苦々しい思いを抱いているでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

イエス様を知らない人はどうなる?

クリスチャンが「天国への道はただ一つしかありません。それはイエス様です。」と言うと、多くの人々はこう尋ねます。

「では、イエス様のことを聞いたことがない人はどうなるのですか?彼らは地獄に行くのでしょうか?」

そのため、多くのクリスチャンは、別の道があるのではないかと疑問に思います。しかし、聖書によれば、救いへの道は他にありません。この話にも、その真理が示されています。

エチオピアの高官(使徒の働き8章)のように、コルネリウスという百人隊長は神様を畏れていました。

コルネリウスは貧しい人々を助け、本当の神に祈っていました。おそらく、彼はイエス様のことを聞いたことがあったでしょう。それでも、イエス様が唯一の救いの道であることはまだ知らなかったようです。

だから、神様はコルネリウスに天使を遣わしました。当然、コルネリウスは恐れました。「なぜこの天使が来たのだろう?私の罪のために、私を裁くのだろうか?」と思ったかもしれません。

ところが、天使はこう言いました。

「あなたの祈りと施しは神の御前に上がり、覚えられています。さあ、あなたはもう救われました。神様との平和を持っています。だから安心してください。」

天使は本当にこのように言ったのでしょうか。福音を聞いていない人が、もし他の方法で救われるのなら、天使はそのように語ったはずです。

けれども、天使はそう言いませんでした。むしろ、コルネリウスの祈りと施しについて語った後、天使はこう言いました。

さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。その人は、シモンという皮なめし職人のところに泊まっています。その家は海辺にあります。(使徒の働き10:5-6)

なぜ天使はコルネリウスにそのことを命じたのでしょうか。それは、コルネリウスが福音を聞いて、救われるためです。

そこで、コルネリウスはその命令に従い、使者を遣わしてペテロを招きました。

ペテロが来て、コルネリウスの話を聞くと、こう言いました。

これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。(34-35)

そして、ペテロはコルネリウスを祝福して帰ったのでしょうか。

本当にそうしたのでしょうか。

違います。ペテロは福音を宣べ伝えました。そして、コルネリウスとその家族は福音を信じ、御霊に満たされました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

天国への道はただ一つしかありません。それは福音を聞き、信じることです。神様はこの話を通して、そのことを明らかにされています。

しかし、福音を聞いたことがない人はどうなるのでしょうか。

彼らが神様に示されたことに応じるなら、神様は彼らに答えてくださいます。

コルネリウスはユダヤ人から神様について聞き、その真理に応じました。エチオピアの高官も同じように応じました。

だから、もし福音が届いていない国で、ある人が神様の創造を見て、創造者が存在することを認め、「創造者よ、自分自身を私に現してください」と願うなら、神様はその願いに応えてくださいます。

神様は正義の方だから。そして、神様は忠実な方だからです。

神様はどのようにしてご自身をその人に現されるのでしょうか。神様は天使を遣わすかもしれません。あるいは、人を送るかもしれません。この話では、神様はその両方を行われました。

私は宣教師のニュースレターで、このような話を読みました。ある人は「いと高き神」を信じていましたが、その神について何も知りませんでした。そこで彼は二十年間、毎日祈りました。

「神様、あなたのことを知る人を私に遣わしてください。」

そして、宣教師が来ると、彼はすぐに信じました。

神様は正義の方です。誰かが本当に神様を求めるなら、神様は必ずその人に福音を聞く機会を与えてくださいます。

だからこそ、「別の方法がある」という考え方を捨てましょう。他の道はありません。だから、主の命令に従い、福音を地の果てまで届けましょう。

カテゴリー
使徒の働き

人を癒し、人を復活させる神

この箇所では、私たちは二つの素晴らしい話を読みます。アイネアとタビタに対するペテロの言葉は特に印象的です。

アイネアは八年間床についていました。彼は回復する希望を完全に失っていたかもしれません。ところが、ペテロは彼にこう言いました。

アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。(使徒の働き9:34)

彼は瞬く間に癒され、立ち上がりました。

タビタはすでに亡くなっていましたが、ペテロは彼女にこう言いました。

タビタ、起きなさい。(40)

彼女は目を覚まし、復活しました。

ペテロの言葉はとてもシンプルでした。しかし、現代においても、人々はその言葉を聞く必要があります。

イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。

もちろん、イエス様は身体の問題を癒すことができます。けれども、多くの人々は感情的な問題や霊的な問題を抱えています。彼らの心には過去の傷もあり、現在の傷もあります。

だから、彼らは「イエス・キリストがあなたを癒してくださいます」という言葉を聞く必要があるのです。

アイネアを癒してくださったイエス様は、彼らをも癒すことができます。

起きなさい。復活しなさい。

多くの人々は、自分の人生を振り返ると、失われた希望しか見えません。

彼らは離婚を考えています。彼らの未来には光がないように思えます。だから、彼らはイエス様が死んだものを復活させることができると知る必要があります。

彼らは、イエス様が彼らの結婚、未来、希望を回復させることができると知る必要があります。だからこそ、私たちは彼らに伝えなくてはなりません。

「起きなさい。神様に向かうなら、神様はあなたを新しくしてくださいます。」

人々はこの二つのメッセージを聞く必要があります。この世で希望を失いかけている人々に、このメッセージを届けましょう。

カテゴリー
使徒の働き

人々を信じる?

前回のように、この話を読んだとき、私はサウロがクリスチャンになった後、エルサレムのクリスチャンたちが彼にどう反応したかを想像しました。彼らはサウロに会ったとき、どう感じたでしょうか。

というのも、彼らが前回サウロを見たとき、彼はユダヤ人たちがステパノを殺すことに賛成し、自らも多くのクリスチャンを迫害していたのです。

サウロはエルサレムに戻ったとき、まずひそかにクリスチャンたちと話そうとしたのでしょうか。あるいは、神殿に行き、使徒たちに会って「こんにちは。私はクリスチャンになったよ」と言ったのでしょうか。

何年か前、私はアメリカの有名な牧師、ラウル・リースさんの証を聞きました。

クリスチャンになる前、彼は非常に暴力的な人でした。彼は奥さんをたびたび虐待し、ついに彼女は離婚を決意しました。その日、彼は普段より早く帰宅し、奥さんが荷物をまとめているのを見ました。

彼女はクリスチャンで、その時は教会にいましたが、帰宅後すぐに家を離れるつもりでした。

荷物を見たリースさんは、奥さんと子供たちを殺そうと考えました。そして、その後自ら命を絶とうとも思っていました。けれども、待っている間にテレビをつけると、ある牧師が神様の愛について語っていました。

その話を聞いた彼は、涙を流しながらイエス様を主として受け入れました。喜びに満たされ、すぐに家を出て、奥さんを探しに行きました。

しかし、彼は奥さんを見つけられなかったため、家へ戻りました。すると、奥さんが泣いている声が聞こえました。

(そのクリスチャンの番組を見る前、リースさんはいろいろな物や家具をあちこちに投げてしまっていました。)

ドアの鍵がかかっていたため、リースさんはノックしました。ドアチェーンをつけたまま、奥さんはドアを少し開けて「何が欲しいの」と尋ねました。

彼は答えました。「私はクリスチャンになったよ。」

彼女の反応は?

彼女はそのドアを勢いよく閉めました。

けれども、最終的に、彼女はリースさんを家へ入れることを許しました。1〜2年ほどかかりましたが、彼女はずっと彼を見ていて、次第にリースさんが本当に変わったことを信じるようになりました。

これは、サウロに対する使徒たちの反応と同じでした。サウロが「私はクリスチャンになったよ」と言ったとき、彼らは彼を信じようとしませんでした。むしろ、彼らはドアを勢いよく閉めたのです。

しかし、リースさんの奥さんがドアを開けたように、バルナバもそのドアを開きました。

もしかすると、それ以前にバルナバはダマスコでサウロに会っていたかもしれません。あるいは、バルナバにはダマスコに友人がいて、その友人がサウロの話を確認した可能性もあります。

そこで、バルナバはサウロを擁護し、使徒たちに「私はサウロの話を信じる。彼は本当に変わった」と言いました。

おそらく、使徒たちがサウロを本当に受け入れるには時間がかかったでしょう。けれども、彼らは彼を見続ける中で、神様がサウロの人生に働かれていることを理解し始めました。最終的に、彼らもサウロのことを信じるようになりました。

私の要点は何でしょうか。どんなに罪深い人でも、キリストに出会うと変わることができます。だからこそ、私たちは彼らに自分の変化を証明する機会を与えなければなりません。

あなたを傷つけた人がいるかもしれません。彼らはクリスチャンになり、「私は新しい人になった」と言うかもしれません。

それでも、あなたは相手を信じず、距離を取り続けるでしょう。その気持ちはよく理解できます。

けれども、バルナバのように私たちも彼らにチャンスを与えなくてはなりません。

最初から相手を完全に信じる必要はありません。自分の心を守りながら、時間をかけて彼らを見守ることが大切です。そして、神様が彼らの人生に働かれるのを見ながら、少しずつ心を開いていってください。

なぜなら、神様は恵みによって、あなたに何度もチャンスを与えてくださったからです。神様の子どもとして、私たちも周りの人々にそのチャンスを与えるべきなのです。

カテゴリー
使徒の働き

イエス様があなたの人生を変えてくださると

この箇所を読んだとき、私はダマスコの人々がサウロにどう反応したかを想像しました。

サウロがクリスチャンになった後、諸会堂に行き、説教するように頼まれました。

おそらく、諸会堂の指導者たちは、彼がクリスチャンを非難するメッセージを語ると思っていたでしょう。なぜなら、サウロがダマスコに来た目的はクリスチャンたちを捕らえることだったからです。

ところが、彼がイエス様は神の子であり、メシアであると教え始めたとき、諸会堂の指導者たちはどれほど驚いたことでしょう。

彼らは何を考えたでしょうか。最初は戸惑い、サウロがそんなことを教えるとは信じられなかったかもしれません。

もしかすると、「サウロはクリスチャンになったふりをして、彼らを欺こうとしているのではないか。本当に自分が言っていることを信じているのだろうか」と疑っていたかもしれません。

そこで、彼らはサウロと少し議論し始めました。もしかすると、彼らはサウロが弱い議論しかできないと思っていたかもしれません。

けれども、逆に、サウロは彼らを論破してしまいました。そして最終的に、彼らは「サウロは本当にイエス様のことを信じるようになった」と理解するようになりました。

彼らの反応はどうだったでしょうか。彼らはサウロを殺そうとしました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがイエス様に従い始めると、私たちの家族や親しい人の中には喜ばない人もいます。彼らは私たちの変化した人生を見ると、最初は驚き、何も言わないかもしれません。「ただ一時的なものだ」と言うかもしれません。

しかし、私たちがイエス様に従い続けると、彼らは私たちに反対し始めるかもしれません。

そんなことが必ず起こるとは言えませんが、その可能性はあります。それでも、家族や友人があなたの信仰に反対するなら、それは本当に苦しいことです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。

もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。

しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対してに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(ヨハネ15:18-21)

イエス様は、私たちがイエス様に従ったとき、すべての人々が私たちを愛するとは決して約束されませんでした。イエス様が約束されたのは、いつも私たちを愛し、私たちと共におられることです。(ヨハネ14:21,23)

さらに、もし家族や友人が私たちを拒絶したとしても、イエス様は私たちがイエス様にある新しい兄弟姉妹を見つけることを約束されました。

だから、失望しないでください。むしろ、この言葉を心に留めてください。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル人への手紙12:2-3)

カテゴリー
使徒の働き

福音を伝えるように選ばれました

昨日、私は「使徒の働き」の三つの話を通して、神様の選び、人間の選択、そして私たちが行って福音を伝える責任が、どのようにともに働くのかを説明しました。

この話は、その二つ目の例です。

あるパリサイ人、サウロは、キリストに対して頑なな心を持ち、キリスト教を根絶しようとしていました。

もし神様がサウロをそのまま放置されていたなら、彼は滅びに至っていたでしょう。しかし、神様はサウロの人生に介入されました。

なぜでしょうか?それは、神様がサウロを救うことを選ばれたからです。神様がアナニアに語られたとき、私たちは神様の選びをはっきりと見ることができます。

神様がアナニアに「サウロのもとへ行き、助けなさい」と命じられたとき、アナニアは驚いて答えました。

「え?本当に?あの男はクリスチャンたちを迫害しようとしているのに。」

神様の答えは?

行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。(使徒の働き9:15)

神様の答えは、すでに救いのために人々を選ばれているなら、私たちは福音を伝えなくてもよいという考えを否定するものです。(昨日の記事でも、同じ点に言及しました)。

アナニアがそのようなことを神様に言うところを、想像できますか。

「では、あなたがすでにサウロを選ばれたのなら、私は彼のもとへ行く必要はないでしょう?」

もしアナニアがそんな愚かなことを言っていたら、神様はどのように答えられたでしょうか。きっと、神様はアナニアに対して非常に厳しく怒られたでしょう。なぜでしょうか。神様はアナニアに「行きなさい」と命じられたからです。

同じように、神様は私たちに「行きなさい」と命じられます。

もちろん、神様は私たちの助けを必要とされません。それでも、多くの場合、神様は私たちを通して人々を救うことを選ばれます。

神様は私たちに御国の鍵を渡されました。もし私たちが行かず、福音を伝えないなら、天国の門は人々に対して閉ざされたままとなるでしょう。

この話ともう一つの話を読む際に、一つ注意してください。イエス様はサウロに直接語られ、天使は百人隊長コルネリウスに直接現れました。それでも、神様はご自身の民を遣わし、その二人に語らせました。

そのように、神様は私たちが行き、福音を伝えることを求めておられます。

ピリポは、神様によってエチオピア人のもとへ遣わされました。

アナニアは、神様によってサウロのもとへ遣わされました。

そしてサウロは、ユダヤ人や異邦人のもとへ行き、福音を伝えるように選ばれました。

あなたも、この世の民のもとへ行き、福音を伝えるように選ばれています。

ある人がかつてこう問いかけました。

「God」という言葉の最初の二文字は何でしょうか。「Go」。

「Satan」という名前の最初の三文字は何でしょうか。「Sat」。

私たちはただ座っているのではなく、この世の民のもとへ行き、福音を伝えましょう。

カテゴリー
使徒の働き

私たちが行かないと

使徒の働きの三つの話では、神様が人を救うことを選ばれること、その人自身の選択、そして私たちが神様の証人として福音を伝える責任が、互いに働き合う様子を見ます。

多くの人々は、神様の選びと人間の選択がどのように関係しているのか疑問に思います。つまり、もし人々が神様の選びによってのみ救われるのであれば、神様が選ばれなかった人が裁かれるのはなぜでしょうか。

また、もし神様がすでにある人を選ばれているのなら、なぜ私たちはその人に福音を伝える必要があるのでしょうか。

私はすべての疑問に答えることはできません。しかし、この三つのことが真実であることは確かです。

この話の登場人物のひとりに、エチオピアの高官がいました。彼はイスラエルの神について聞き及び、神様を礼拝するためにエルサレムを訪れていました。

注意すべき点があります。ルカによれば、その人物は神様を信じて礼拝していました。けれども、神様は「彼はイエスのことを知らないが、それでも問題ない。私のことを知り、一生懸命に礼拝しているのだから、それで十分だ」とは言われませんでした。

むしろ、神様はピリポに天使を遣わされました。その天使はピリポに行くべき場所を示しました。そして、ピリポがそのエチオピア人を見たとき、聖霊様は「彼のもとへ行きなさい」と命じられました。

すると、ピリポはそのエチオピア人がイザヤ書53章を読んでいるのを耳にしました。特に、彼はイエス様についての預言を読んでいました。そこで、ピリポは彼に尋ねました。

「あなたは、読んでいることを理解していますか。」(使徒の働き8:30)

そのエチオピア人の答えは、私の心を深く打ちました。

導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか。(使徒の働き8:31)

それを読んだとき、私はパウロの言葉を思い起こしました。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。

聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。

宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(ローマ書10:14)

その答えはどうでしょうか?人々は聞くことも、信じることも、呼び求めることもできないのです。もちろん、そのエチオピア人にもできませんでした。そこで、彼はピリポを馬車に招きました。そして、旅の途中でピリポは福音を説明しました。

福音を聞いたそのエチオピア人は、イエス様を信じて洗礼を受けました。そして、彼は福音のメッセージをエチオピアへ持ち帰りました。

実際、現代のエチオピアのクリスチャンたちの起源は、このひとりのエチオピアの高官にまで遡ります。

ここで、三つの重要なポイントがあります。

1.救われるためには、人々は福音を聞き、信じる必要があります。もし神様を畏れる人が福音を聞く必要がないのであれば、神様はわざわざピリポをそのエチオピア人に遣わさなかったでしょう。

パウロも、この問いを投げかけました。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(ローマ10:15)

答えは前と同じです。彼らは宣べ伝えることができません。しかし、神様がピリポを遣わされたように、神様は私たちをも周りの人々のもとへ遣わしてくださいます。

2.神様は確かにそのエチオピア人を救うことを選ばれました。

ピリポが来るまで、彼は福音を聞く機会がなかったため、滅びの道を歩んでいました。けれども、神様は働かれ、福音を聞く機会を与えてくださいました。

もし神様がそうされなかったなら、彼は滅びていたでしょう。

3.その人は福音を信じることを選ばなくてはなりませんでした。彼が信じたからこそ、救われたのです。

では、この三つのことはどのようにともに働くのでしょうか。どのようにしてこの三つのことのバランスを取るのでしょうか。私には分かりません。しかし、神様はすべてをよくご存じです。だから私は、それを神様に委ねます。

では、私の要点は何でしょうか。

行きなさい。

そのエチオピア人と同じように、多くの人々は滅びの道を歩んでいます。そのエチオピア人と同じように、多くの人々はイエス様について聞く必要があります。そして、神様がピリポを遣わされたように、神様は私たちも遣わされます。

だから、イエス様の言葉を心に留めましょう。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)

カテゴリー
使徒の働き

賜物

多くの人々がキリスト教について理解していないことのひとつは、私たちが持っているすべてのものが神様からの賜物であるということです。私たちの持ち物だけでなく、命さえも神様からの賜物です。

しかし、私たちにとって最も素晴らしい賜物は、救いです。神様は私たちを罪の刑罰とその力から救い、聖霊様を通して私たちのうちに住んでおられます。

私たちがこの受けた恵みを実感すると、人生は完全に変わります。どんな状況に置かれていても、神様の愛を知り、自分がどれほど祝福されているかを理解することができます。

残念なことに、今日の話に登場するシモンという人物は、その教訓を決して学びませんでした。

ピリポが来る前、シモンは権力と名声を持っていました。彼は奇跡のような業を行っていましたが、その力は神様からのものではありませんでした。それでも、彼はその力を持っていたために、自分を偉大な人物だと誇り、サマリアの人々も彼をそう信じていました。

ところが、ある日ピリポがやって来ました。彼は一般の人でしたが、聖霊様に満たされていました。そして、シモンの業と比べると、ピリポの奇跡のほうがはるかに偉大なものでした。

そのため、サマリアの人々はシモンから離れ、ピリポの言葉に耳を傾け、最終的に主を信じるようになりました。

シモン自身もイエス様を信じるようになりました。とはいえ、彼が本当にクリスチャンになったのかどうかは分かりません。もしかすると、彼は本当にクリスチャンになったのかもしれませんが、彼の態度と行動を見ると、そうとは言い切れません。

控えめに言っても、彼は恵みについてまったく理解していませんでした。つまり、私たちは神様の恵みを得るために何かをすることはできません。ただ感謝をもって、その恵みを受け取ることができるだけなのです。

そのため、シモンはペテロとヨハネが手を置くことで御霊が人々に与えられるのを見たとき、自分もその力を求め、ペテロとヨハネに対してその力を買いたいと申し出ました。

しかし、ペテロは彼にこう答えました。

おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。おまえが金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ。おまえは、このことに何の関係もないし、あずかることもできない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。

だから、この悪事を悔い改めて、主に祈れ。もしかしたら、心に抱いた思いが赦されるかもしれない。おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ。(使徒の働き8:20-23)

私たちが神様の恵みを正しく理解できなければ、どうなるでしょうか。

1.私たちは傲慢になります。神様から受けたものは自分にふさわしいと考え始めます。そして、他のクリスチャンが自分にないものを持っていると、私たちは羨ましく思い、苦々しい気持ちを抱くようになります。

シモンはまさにそのような人物でした。ピリポが来る前、彼は有名人でした。けれども、ピリポやペテロ、ヨハネと比べると、彼は決して特別な存在ではありませんでした。

彼は再び名声を得たいと願い、名声を失ったことで苦々しい思いを抱き、ペテロ、ヨハネ、ピリポを妬むようになりました。そこで彼は、神様の賜物を買おうとしました。それは神様の栄光のためではなく、自分の栄光のためでした。

一部のクリスチャンも、シモンと同じ問題を抱えています。その一方、別のクリスチャンたちは正反対の問題を抱えています。

2.私たちは、自分に価値がないと思ってしまいます。自分の罪が深すぎるために、神様でさえ私たちを救うことができないと考えてしまうのです。また、神様の賜物を受けるに値しないと感じてしまいます。

もしシモンが本当にクリスチャンだったなら、ペテロに叱責された後、正反対の問題に陥っていたかもしれません。

ペテロの厳しい叱責を受けたことで、彼は直接神様のもとへ行き、赦しを願うことができないと感じたかもしれません。そのため、彼はペテロに「私のために祈ってください」と頼みました。

しかし、へブル人への手紙の著者はこう言いました。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:15-16)

神様の恵みに値する人は、誰もいません。だから、神様から受けた賜物によって誇ることなく、周りの人の賜物を妬まないようにしましょう。

けれども、同時に、私たちは神様の賜物を受けるに値しないにもかかわらず、神様は喜んで良い賜物を自分の子どもたちに与えてくださることを覚えておきましょう。

これから、恵みの意味を深く学んでいきましょう。

カテゴリー
使徒の働き

喜びを分かち合う?

この箇所では、クリスチャンたちはエルサレムを離れ、キリストによる喜びを広げ始めました。とはいえ、彼らはエルサレムから押し出される必要がありました。

ステパノが殺された後、サウロというパリサイ人がクリスチャンたちを迫害し始めました。

皮肉なことに、サウロはキリスト教を根絶しようとしましたが、その迫害によってキリスト教はかえって広まり、多くの新しい教会が生まれました。

その後、クリスチャンになったサウロは宣教者として教会を訪れて強め、さらに多くの新しい教会を設立しました。その結果、キリスト教はローマ帝国全体に広がっていきました。

けれども、もし使徒たちが初めから使命を忠実に果たしていたなら、神様はこの迫害を許されたでしょうか。イエス様は彼らに命じられました。

あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)

そして、イエス様は天に帰られる直前に、弟子たちにこう言われました。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

それでも、御霊が彼らの上に臨んだ後も、使徒たちはエルサレムにとどまり続けました。

もしイエス様の命令通りに彼らがエルサレムを離れていたなら、教会は迫害を受けたでしょうか。また、使徒たちは隠れなければならなかったでしょうか。

そうかもしれません。けれども、もしかすると彼らはその困難を避けることができたかもしれません。

迫害が始まっても、使徒たちはなおエルサレムにとどまり続けました。なぜだったのでしょうか。それははっきりとは分かりません。

彼らは教会の人々に自らの勇気を示したいと思ったのかもしれません。しかし、主の命令への不従順は続いていました。

一方、ほかのクリスチャンたちはエルサレムを離れました。

執事のひとりであるピリポは、サマリアへ行きました。イエス様はかつてサマリアを訪れましたが、多くのユダヤ人はサマリアを避けていました。彼らはサマリア人を軽蔑していたからです。

けれども、ピリポはイエス様の模範に従い、サマリアで福音を述べ伝え、奇跡を行いました。その結果はどうだったでしょうか。

その町には、大きな喜びがあった。(使徒の働き8:8)

自己中心になるのは簡単なことです。自分のことだけを考えるのは、誰にとっても容易なことです。しかし、イエス様が望まれるのは、私たちが受けた喜びを周りの人々と分かち合うことです。

多くの人々が苦しんでおり、イエス様を必要としています。だからこそ、私たちは毎日御霊に満ち溢れるべきです。そうするならば、私たちが周りの人々に触れるとき、彼らは御霊に触れられ、変えられるのです。

カテゴリー
使徒の働き

神様を拒絶するパターン

この箇所では、私たちは教会の最初の殉教者を見ることができます。それはステパノでした。

6章では、使徒たちがやもめの世話をするために7人の執事を任命しました。ステパノはその執事の一人でした。

しかし、彼がイエス様の言葉を述べ伝えたとき、宗教的指導者たちは彼と対立しました。ステパノは逮捕され、最高法院の前に立たなくてはなりませんでした。そこで、多くの証人が彼に偽りの告発をしました。

ステパノが自ら弁解するとき、彼はイスラエルの歴史を詳しく語りました。その中心的なポイントは、ユダヤ人たちが何度も、彼らを救うために神様が遣わした人々を拒絶してきたことです。

ヨセフの兄弟たちはヨセフを奴隷として売りましたが、何年か後、飢饉の際にヨセフは彼らを救いました。

イスラエルの民もまたモーセを拒絶しました。彼が王子であったとき、彼らはモーセを受け入れず、エジプトを脱出した後も彼に反抗しました。

彼らが神様の約束の地に入った後も、そのパターンは続きました。彼らは預言者たちの言葉を拒絶し、偶像を礼拝しました。

そして、彼らはイエス様を拒絶し、殺しました。

それでも、彼らはなお「私たちは神様の民だ」と言い張りました。なぜなら、彼らは神殿で神を礼拝していたからです。

ところが、ステパノは彼らにこう言いました。

しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。

「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。 ーー主の言葉ーー 私の安息の場は、いったいどこにあるのか。わたしの手が造ったものではないか。」(使徒の働き7:48-50)

要するに、「もしあなたが、あなたを救うために神様が遣わした方を拒絶するなら、あなたが神殿で礼拝しても、それは無意味です。」ということです。

最高法院の人々の反応はどうだったでしょうか。彼らは先祖のパターンに従いました。彼らはステパノを殺しました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生のパターンは何でしょうか。あなたは宗教的な人かもしれません。毎週教会に行き、良い行いをしているかもしれません。

それでも、もしあなたがイエス様を主と神として拒絶し、福音を伝える人々を拒絶するなら、あなたの良い行いは神様の目には無意

味です。むしろ、かつて神様とそのメッセンジャーを拒絶した者たちと同じように、あなたは裁かれることになります。

救いへの道はただ一つ、それはイエス様です。今日、あなたはイエス様を受け入れませんか。

天のお父様、私は罪を犯しました。私は自分の道を歩み、あなたが遣わされたイエス様を拒絶してきました。どうか赦してください。

イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださったことを感謝します。私はあなたを主と救い主として受け入れます。

あなたの御霊で私を満たしてください。毎日どのように生きるべきかを教えてください。あなたの名前によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
使徒の働き

牧師たちやリーダーたちができないこと

最初の教会は、成長の過程で多くの困難に直面しました。この箇所では、その一例を見ることができます。

教会の重要な役割の一つは、貧しいメンバーのニーズに応えることでした。けれども、教会が次第に大きくなるにつれて、その働きの責任も大幅に増えていきました。

初めのころ、使徒たちは寄付を集め、食糧を配給していました。そのため、バルナバとアナニアは自分の畑を売り、その代金を使徒たちに渡しました。

しかし、クリスチャンの数が急増し、使徒たちはこの働きを適切に管理できなくなっていきました。

さらに、ヘブル語を話すユダヤ人のやもめたちは食糧を受け取れていましたが、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちは十分な配給を受けていませんでした。

なぜでしょうか。使徒たちが意図的にギリシア語を話すやもめを差別したとは考えにくいですが、おそらく彼らは忙しすぎて、その働きを十分に行うことができなかったのでしょう。

では、彼らが取った解決策とは何だったのでしょうか。

私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。

その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専門します。(使徒の働き6:2-4)

彼らがそのように行動したことで、神様の言葉はさらに広まり、教会は急速に成長し続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。一つの重要な教訓があります。

牧師やリーダーだけでは、教会のすべての役割を果たすことはできません。

多くの場合、私たちはミニストリーの働きをすべて専門の人々に任せてしまいます。けれども、私たちは皆キリストの体です。私たち一人ひとりが自分の役割を果たすべきです。

その役割を果たすために、私たちは聖霊に満たされなくてはなりません。

教会の働きが十分に機能していないと、多くの人が不満を抱き、リーダーを批判することがあります。しかし、私たちが日々聖霊に満たされ、自分の役割を忠実に果たすなら、リーダーの負担を軽減することができます。

その結果、彼らは神様から与えられた使命に集中し、より良くその働きを進めることができるのです。

私たち自身は、自分に与えられた役割を果たしているでしょうか。

もう一つ大切なポイントがあります。牧師たちは自分自身に問いかけるべきです。「神様は、私に何を求めておられるのだろうか?」と。

そして、その使命を果たすために、どの役割を手放さなくてはならないかを考えなくてはなりません。

さらに、彼らは聖霊に満たされた人々を育てる必要があります。そうすれば、そのメンバーたちは、牧師やリーダーが果たしきれない役割を担うことができるのです。

牧師やリーダーだけでは、すべてのミニストリーの役割を担うことはできません。

私たち一人ひとりが(牧師であれ、一番新しいクリスチャンであれ)そのことを学ぶなら、神様の教会は成長していきます。ところが、それを学ばなければ、神の国の広がりは止まってしまいます。

あなたはどうでしょうか。自分に与えられた役割を果たしていますか。

カテゴリー
使徒の働き

止められない

この箇所を読むとき、「止められない」という言葉が思い浮かびます。使徒の働きではなく、聖霊様の働きは決して止められません。

使徒たちはさまざまな奇跡を行い、福音を述べ伝えました。その結果、神の国に入る人々はますます増えました。

祭司長たちはそれを見て、使徒たちに妬みを抱きました。もしかすると、彼らはこう思っていたかもしれません。

「私たちは祭司長であり、神様の代表者なのに、どうして神様は私たちではなく、イエス様の弟子たちを通して働いておられるのだろうか。」

しかし、おそらく彼らは心の中で、その答えをすでに知っていたでしょう。使徒たちを責めたとき、彼らはこう言いました。

おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人(つまり、イエス様)の血の責任をわれわれに負わせようとしている。(使徒の働き5:28)

彼らはイエス様の死の責任を逃れたいと思いました。なぜでしょうか。

おそらく、復活の後、彼らは「私たちは間違っていたのだろうか?まさかイエス様が本当にメシアだったのだろうか。」と思ったことでしょう。

もちろん、多くの祭司長たちやパリサイ人たちの考えは変わりませんでした。それでも、7節によれば、イエス様がメシアであることを信じるようになった祭司たちもいたのです。

とにかく、最高法院の人々はもう一度使徒たちを逮捕し、彼らを責めました。使徒たちは、すでにイエス様の名によって教えないように命じられていたにもかかわらず、教え続けたからです。

ペテロの答えは驚くべきものでした。

人に従うより、神に従うべきです。

私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。

私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。(29-32)

21世紀のクリスチャンにとって、その言葉は特に不思議なものではありません。

けれども、その言葉に祭司たちとサドカイ人たちは面食らったことでしょう。彼らは宗教的な指導者でありながら、復活を信じていませんでした。

さらに、ペテロは、復活したイエス様を通して、神様がイスラエルに悔い改めを促し、罪の赦しを与えると語りました。

そして彼らは、聖霊様の働きこそが、自分たちの言葉の真実を証明するものだと述べました。

バプテスマのヨハネが現れるまでの400年間、誰も聖霊様の働きを目にすることはありませんでした。しかし、使徒たちによれば、聖霊様は預言者や祭司だけではなく、イエス様を信じるすべての人の上に注がれています。

さらに、使徒たちは、聖霊様に満たされているはずの祭司たちにそのことを告げました。

そのため、祭司たちや最高法院の人々は、その言葉を受け入れることができませんでした。彼らは使徒たちを殺そうと考えましたが、ガマリエルというパリサイ人が立ち上がり、こう言いました。

この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。

しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。(38-39)

私は前にも言いましたが、祭司長たちは自分が間違っていたのかどうか疑い始めていたでしょう。ガマリエルの言葉に対する彼らの反応は、その疑いを示しています。

もし彼らがイエス様を偽のメシアだと確信していたなら、使徒の働きが神様から出た可能性を認めることはできなかったでしょう。

けれども、彼らにはその疑いがあったため、使徒たちを釈放しました。そして使徒たちは、イエス様がメシアであることを教え続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。神様の民が聖霊様に満たされるなら、その働きは決して止められません。

社会の状況を見れば、絶望するかもしれません。迫害を受ければ、私たちは大きな苦しみを味わうかもしれません。しかし、たとえ敵が私たちを苦しめても、私たちが聖霊様に満たされるなら、神様は私たちを用い、神様の国を広げてくださいます。

だからこそ、失望しないでください。むしろ、聖霊様の力によって、大胆に神様からの使命を果たしましょう。

カテゴリー
使徒の働き

罪の深刻さ

使徒の働きの中でも、これは最も衝撃的な出来事かもしれません。けれども、この話は罪の深刻さを明らかにしています。

バルナバという人物は、自分の畑を売り、その代金を使徒たちに渡しました。そのお金は貧しいクリスチャンたちを助けるためのものでした。

おそらく、使徒たちや他のクリスチャンたちはその姿を見て、バルナバを称賛したことでしょう。

(実は、バルナバの本名はヨセフでした。ヨセフがその代金を捧げた後、クリスチャンたちは彼をバルナバ、つまり「慰めの子」と呼び始めたのかもしれません。)

アナニアとサッピラというクリスチャンたちは、皆の反応を見て、自分たちも土地を売り、その代金の一部を使徒たちに渡しました。ところが、そこには問題がありました。彼らは気前の良い人に見えましたが、その動機は不純だったのです。

問題は、彼らが代金の一部だけを捧げたことではありませんでした。ペテロによれば、それは彼らの自由な選択だったのです。

もし50%を捧げても、それは問題ではなかったでしょう。もし10%しか捧げなくても、それでも問題はなかったでしょう。

後に、パウロは献金についてこう書きました。

一人ひとり、いやいやながちでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(第二コリント9:7)

簡単に言えば、神様は私たちがどれほどの額を献げるかを気にされるのではなく、私たちの心がどれほど神様に属しているかを見ておられます。

アナニアとサッピラの心がどれほど神様に属していたかは分かりませんが、確かに100%ではありませんでした。彼らはお金に執着し、また、人々の称賛を求めました。

そのため、彼らは嘘をつきました。ただペテロに対して嘘をついたのではありません。教会の人々だけを欺いたのでもありません。彼らは神様に対して嘘をついたのです。

もしかすると、それは単なる嘘ではなかったかもしれません。彼らはモーセの律法に従い、誓いを立ててその代金を捧げた可能性があります。(レビ記27:28)

その場合、もし彼らがその代金の一部を自分のために取っておいたなら、彼らはその誓いを破ることになります。神様はその罪を深刻に捉え、アナニアとサッピラを打ち滅ぼされました。

この刑罰は厳しいものだと思われるかもしれません。確かに、それは厳しい刑罰でした。

とはいえ、心に留めておきましょう。私たちはある罪を小さいと思うかもしれませんが、神様にとっては、その罪は非常に深刻なものです。

もしかすると、アナニアとサッピラは、「これはほんの小さな嘘だ。誰も傷つかない」と思っていたかもしれません。

けれども、小さな罪は私たちの心の状態を表します。アナニアとサッピラの罪は、彼らの偽善、貪欲、嫉妬、そしてプライドを明らかにしました。

さらに、私たちにとっては、小さな嘘をつくのは些細なことのように思えるかもしれません。しかし、イエス様がその罪のために死ななければならなかったほど、それは深刻なものだったのです。

あなたは「些細な」罪を犯しているでしょうか。

神様の目には、その罪は決して些細なものではありません。だからこそ、自分の心を探ってください。

その罪は、あなたの心の状態について何を示しているでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

一致、力、と恵み

教会はどのような存在であるべきでしょうか。この箇所では、私たちは良い模範を見ることができます。

一致

さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。(使徒の働き4:32)

現代の教会は同じことを言えるでしょうか。2000年前のクリスチャンたちは、心と思いを一つにしました。彼らは、自分が所有しているものを自分のものだとは考えませんでした。むしろ、それらは主のものであると見なしました。

だから、兄弟姉妹に必要があれば、彼らはそのニーズに応えました。その結果、クリスチャンの間には、飢える人がいませんでした。

しかし、今は多くのクリスチャンがそのように考えていません。十一献金についてのメッセージを聞くと、「でも、それは私のお金だ」と言います。「十一献金は旧約聖書の時代のものだった。それは私には関係ない。」

正直に言えば、十一献金は確かに旧約聖書の時代の制度でした。

それでも、「あなたのお金」は、実際にはあなた自身のものではありません。神様があなたに才能や健康な身体を与えてくださったから、あなたはお金を稼ぐことができるのです。つまり、そのお金は神様のものです。

使徒の働きの時代、クリスチャンたちはその真理を認め、神様からいただいたものを惜しみなく分かち合いました。その結果は。。。

恵み

大きな恵みが彼ら全員の上にあった。(33b)

もちろん、神様は直接私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちを赦し、多くの祝福を与えてくださいます。しかし、神様は私たちがその恵みのパイプラインとなることを望んでおられます。

私たちは、自分が受けた恵みを周りの人々と分かち合うべきです。けれども、もし私たちが自己中心的になり、その恵みを分かち合うことを拒むなら、そのパイプラインは詰まり、流れが滞るようになります。

一方で、私たちが自分自身から目を離し、周りの人々を愛するなら、教会の中で恵みは豊かに溢れます。

使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし(ました)。(33a)

その力によって、彼らはいろいろな奇跡を行い、彼らの証しが世界を大きく変えました。

同じ御霊は、現代においてもその働きをなすことができます。だからこそ、私たちはそのために祈るべきです。癒しの奇跡だけではなく、変えられた人生という奇跡のためにも祈るべきです。

つまり、聖書を伝える人が話すとき、私たちは、聖霊様が彼らを通して力強く働くように祈るべきです。

聖霊様の力が伴わなければ、牧師のメッセージは意味を失ってしまいます。そのため、私たちは聖霊様が私たちの牧師たちを満たし、彼らを通して語られるように祈りましょう。

それだけではなく、聖霊様が私たち自身を満たし、私たちを通して働かれるように祈りましょう。なぜなら、私たちも神様の祭司だからです。

一致、恵み、そして力。

2000年前の教会のように、現代の教会もこの三つのことで満たされますように。

カテゴリー
使徒の働き

御霊に満たされ続く

この箇所を読むと、二つのことに気づきました。

第一に、御霊に満たされることは一度きりの経験ではありません。むしろ、神様の民は何度も御霊に満たされました。この箇所でそのことが分かりますし、使徒の働きの中でも何度も確認できます。

第二に、御霊に満たされることには特別な目的があります。この箇所では、その目的が二つ示されています。つまり、大胆さと力です。

ルカは最高法院の人々について、こう記しています。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

少し考えてみてください。ペテロとヨハネは逮捕され、一晩中拘束されました。 そのため、彼らが最高法院の前に引き出されたとき、宗教的な指導者たちは彼らが恐れるだろうと予想しました。

ところが、ペテロとヨハネは大胆にイエス様のことを伝え、聖書を引用しました。さらに、彼らは驚くべき言葉を語ったのです。

この方(イエス様)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(12)

彼らは世間一般の漁師でした。特別な宗教的な教育を受けたわけではありませんでした。それでも、彼らは力と大胆さをもって、そのことを語りました。

さらに、宗教的な指導者たちがどれほど彼らを迫害しても、ペテロとヨハネを黙らせることはできませんでした。

また、宗教的な指導者たちは、イエス様の空っぽのお墓を説明できず、癒された足の不自由な人の奇跡を否定することもできなかったため、ペテロとヨハネの言葉に反論することができませんでした。

そこで彼らは協議を重ねた後、ペテロとヨハネを再び脅し、イエス様の名によって語ることも教えることも禁止しました。

しかし、ペテロとヨハネは再び大胆に答えました。

神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。

私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。(19-20)

宗教的な指導者たちはそれを聞くと、さらに二人を脅しましたが、結局は彼らを釈放しました。

ペテロとヨハネは、仲間のクリスチャンたちと再会すると、共に祈りました。特に、すべての人々がイエス様こそメシアであることを知るために、神様がクリスチャンたちに大胆さと力を与えてくださるように祈りました。

そのあと、

集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。(31)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、イエス様のためにこの世に影響を与えたいと思うなら、私たちの中に聖霊の臨在が必要です。

私たちはただの一般人かもしれませんが、聖霊を通して大胆さと力を持つことができ、神様は私たちを通して素晴らしい働きをされます。

しかし、私たちはどれほどその大胆さと力を欠いているでしょうか。私はその感覚がよく分かります。自分の欠点と弱さを知って、自信を持てないことも多くあります。

だからこそ、私たちは皆、聖霊に満たされ続けなければなりません。

私たちは御霊の器ですが、そこには多くのひびが入っています。私たちは疲れることもあります。世のものに心を奪われてしまうこともあります。絶望することもあります。

だから毎日、さらに毎秒、神様の働きをするために聖霊様に満たされなければなりません。

聖霊様、私はあなたを必要とします。どうか毎日私を満たしてください。この世の民はあなたを本当に必要としています。だから、あなたの働きをするために、私を力と大胆さで満たしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
使徒の働き

祝福を受けることができる前

多くの人々は、神様からの祝福を願います。

実際、神様は、自分の子どもに贈り物を与える愛に満ちた父です。神様の子どもとして、私たちは祝福を期待することができます。

けれども、その祝福を受ける前に、私たちがすべきことがあります。ペテロはユダヤ人たちにこう言いました。

ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。。。

モーセはこう言いました。

「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。

彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。その預言者に聞き従わない者は誰でも、自分の民から断ち切られる」。。。

神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなた方一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。(使徒の働き3:19-20、22-23、26)

つまり、ペテロはこう語っていたのです。

「モーセ自身が、『モーセのような一人の預言者が来る』と言いました。そして、モーセは『あなたがたはその預言者に聞き従わなければならない。そうしなければ、あなたがたは自分の民から断ち切られる』とも語りました。

その預言者はすでに来られました。イエス様こそ、その預言者です。だから、イエス様の言葉を聞いて悔い改めなさい。

あなたを祝福するために、神様はイエス様を遣わしてくださいました。しかし、まずあなたがたが悔い改めなければなりません。そうすれば、イエス様があなたがたの罪をぬぐい去り、回復の時、そして祝福の時が訪れます。」

ペテロはこの言葉をユダヤ人たちに語りましたが、この言葉は私たちにも当てはまります。

神様はまずイエス様をユダヤ人たちのために遣わしましたが、同時に、神様は私たちのためにもイエス様を遣わしてくださいました。そして、イエス様がユダヤ人たちを祝福されたように、私たちも祝福してくださいます。

けれども、その前に、私たちは悔い改めなければなりません。自分の道を歩み続けることはできません。私たちはイエス様に聞き従わなければならないのです。

そうしなければ、決して神様からの祝福を知ることはできません。それどころか、神様の民から断ち切られ、神様の国に入ることもできません。

多くの人々は神様からの祝福を望みますが、自分の道を歩み続けたいと思います。自分勝手な条件でその祝福を望みます。しかし、本当に祝福を望むなら、自分勝手な条件ではなく、神様の条件に従う必要があります。

もちろん、救いも同じです。自分勝手な条件では、救いを得ることはできません。つまり、良い行いによって救いを得ることはできないのです。むしろ、イエス様とその十字架の働きを信じることが必要です。

ただイエス様への信仰によって、あなたは神様に義と認められます。

そして、救いを得た後も、私たちは同じ原則に従って生き続けます。もし、自分の道を歩むなら、神様からの祝福を期待することはできません。私たちは神様の道を歩まなければならないのです。

では、私たちは何とかしてその祝福を得るために努力しなければならないのでしょうか。違います。私たちは決してそんなことはできません。

とはいえ、神様は私たちの信仰を求めておられます。私たちは神様に従うほどに、神様を信じるでしょうか。それなら、私たちはその祝福を知ることができます。

ノアが箱舟を作ったとき、その教訓を学びました。

アブラハムがカナンに行ったとき、その教訓を学びました。

ダニエルが王の食べ物を拒絶したとき、その教訓を学びました。

聖書の時代でも、現代でも、多くの人々がその教訓を学びました。

あなたは神様からの祝福を求めていますか。

あなたはどれほど神様を信じていますか。自分の道をやめて、神様の道を歩むほどに、神様を信じていますか。

カテゴリー
使徒の働き

私たちじゃない

ペテロとヨハネに癒された乞食が歩き始め、跳びはね、大きな声で神様を賛美すると、周りの人々は驚きました。なぜなら、その人は約40年間、歩くことができなかったからです。ところがすぐに、人々はペテロとヨハネをぽかんと見つめ始めました。

すると、ペテロは彼らにこう言いました。

イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や、敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。。。

このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。

イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。(使徒の働き3:12,16)

ペテロの言葉の中に、私たちは本当に大切なことを見いだします。

私たち自身は、自分の人生の中心ではありません。大切なのは私たちではなく、私たちができることでもありません。

大切なのは、イエス様です。大切なのは、イエス様が十字架で成し遂げられた御業です。そして、大切なのは、今イエス様が行っておられることです。

ペテロが高慢な態度で、「私たちを見てみなさい。すごいでしょう?神様は私たちに素晴らしい力を与えてくださった。私たちは本当に恵まれているでしょう?」と自慢するのは、簡単だったでしょう。

しかし、ペテロはそうせず、イエス様を示しました。ペテロとヨハネではなく、イエス様がその人を癒されたと指摘しました。

また、ペテロが強調したのは、その奇跡を見た人々がペテロとヨハネを信じて褒めるのではなく、イエス様を信じ、イエス様を褒めたたえるべきだということです。なぜなら、イエス様は彼らのために死なれたからです。

さらに、モーセと他の預言者たちは、イエス様を指して「イエス様に聞きなさい」と語りました。

けれども、多くのクリスチャンはイエス様に焦点を当てず、自分自身に目を向けてしまいます。自分の霊的な賜物に注目し、自分ができることに意識を向け、自分が得た誉れに心を奪われてしまうのです。

その結果、自分のいのちの目的を見失ってしまいます。

それは、イエス様を知り、周りの人々にイエス様を指し示すことです。

もし自分自身にばかり焦点を当てるなら、私たちは神様が私たちに与えようとしているいのちや喜びを理解することができません。

あなたはどうでしょうか。何に焦点を当てていますか。何のために生きていますか。誰のために生きていますか。

カテゴリー
使徒の働き

神様の働きに加わる?

正直に言うと、神様は私に人に触れる機会を何度も与えてくださるのに、私はその機会を何度も逃してしまいます。なぜでしょうか。それは、私が自分の予定に集中しすぎてしまうからです。

例えば、私は買い物に行って誰かに出会っても、挨拶だけしてすぐに買い物に戻ってしまいます。時には本当に時間がないかもしれません。

とはいえ、なぜ私はその人と約束をしなかったのでしょうか。むしろ、多くの場合、私は心の中で言い訳をし、すぐに立ち去ってしまいます。

今日の箇所では、乞食の前を通り過ぎるとき、ペテロとヨハネが同じように言い訳をするのは簡単だったでしょう。なぜなら、彼らはちょうど神殿へ向かっている途中でした。彼らには神様を礼拝する予定がありました。だから、乞食と話す時間がなかったはずです。さらに、彼らにはお金が全くありませんでした。

そのため、乞食を無視するのは本当に簡単なことだったでしょう。

また、「ごめん、お金がない」と言って、そのまま立ち去ることも簡単だったでしょう。

けれども、彼らはそうしませんでした。彼らは立ち止まり、その人を見つめました。

そして、自分たちができないこと(つまり、お金を渡すこと)を気にせず、聖霊様ができることを示しました。

ペテロはこう言いました。

金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。(使徒の働き3:6)

そして、ペテロはその乞食の手を取って立たせました。すると、その乞食は突然歩き始め、跳びはね、神様を賛美し始めたので、皆は驚きました。

あなたはどうでしょうか。自分の予定に集中しすぎて、聖霊様が何をしたいのかを見逃してはいないでしょうか。

自分の限界に意識を向けすぎて、聖霊様が何をすることができるのかを見落としてはいないでしょうか。

毎日、聖霊様の導きに従って歩みましょう。聖霊様がどのように働かれるのかを見て、その導きに従い、その働きに加わりましょう。

カテゴリー
使徒の働き

ひとつになって、ひとつにする

今日、私はこの箇所を締めくくろうと思いますが、44節と46節の「一つになって」と「心を一つにして」という言葉は、私の心を打ちました。

この言葉は、42節と関係があると思います。つまり、クリスチャンたちは交わりに専念していました。

彼らは他のクリスチャンとの関係を大切にしていたので、積極的に共に時間を過ごそうと努めました。けれども、ただ宮に集まっただけではなく、彼らは自分の家にも集まりました。そして、週に一度ではなく、毎日集まりました。

さらに、彼らは本当に互いに愛し合いました。だから、貧しい兄弟姉妹を常に助けました。

そして、彼らは心を一つにしました。

では、彼らは決して喧嘩しなかったのでしょうか。それは違うと思います。

彼らはいつも意見が一致していたのでしょうか。おそらく、そうではなかったでしょう。

けれども、最終的に彼らは、相手の違いを受け入れ、兄弟姉妹として見なすことができました。彼らは互いに必要であると認め、さらにその関係に専念しました。

クリスチャンが新しい夫婦にアドバイスを与えるとき、しばしばこう言います。

「困難な時にも、この関係を守ろうと努めなさい。相手に対するコミットメントはとても大切です。だから、喧嘩するときも、傷つけられるときも、努力してその関係を守りなさい。」

もちろん、その通りです。

しかし、どれほど多くのクリスチャンが他のクリスチャンと喧嘩し、その関係を捨ててしまうでしょうか。

神様は私たちにこう言われます。

「兄弟姉妹との関係を守りなさい。私はあなたにそのようなコミットメントを望んでいます。」

それにもかかわらず、私たちはこのことをほとんど考えようとしません。辛いときも、喧嘩するときも、傷ついたときも、神様は私たちに忠実なコミットメントを求めておられます。

結婚と同じように、クリスチャンの交わりにはコミットメントが必要です。そして、苦労も伴います。けれども、そのコミットメントを持てば、素晴らしい報いがあります。

そのようなコミットメントがあれば、私たちは祝福されます。さらに、この世の人々は、私たちの互いの愛を見て、イエス様に惹かれるでしょう。使徒の時代にも、そのようなことが起こりました。

神様の民の愛と一致、そして彼らの間で働かれる神様の力によって、教会は成長しました。ルカはこう記しています。

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(使徒の働き2:47)

確かに、教会の中にはさまざまな問題があります。教会が人間によって成り立っている限り、問題があるのは当然です。

なぜなら、イエス様は完全な人々のために来られたのではなく、霊的に病んでいる人々のために、また、傷ついた人々のために来られたからです。

牧師や他のリーダーたちが失敗することもあります。教会では、人が人を傷つけることもあるでしょう。

それでも、その関係にコミットメントを持ち続けますか。あなたのプライドを脇へ置き、困難の中でも人間関係の問題に向き合うでしょうか。イエス様のためにそうしませんか。

主の言葉を心に留めておきましょう。

私はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

カテゴリー
使徒の働き

共に祈ることに専念する?

正直に言うと、最近の記事を振り返ったとき、私は教会をやめた人に対して厳しすぎたのではないかと思いました。私には、はっきりと分かりません。

誰かに傷つけられて教会をやめた人がいることは、よく知っています。だから、ある程度まで、私は彼らに共感できます。

とはいえ、教会をやめることは、良い解決策ではありません。

相手を許すことは、大変であり、とても難しいことです。しかし、もし私たちが本当にイエス様を愛し、従いたいと思うなら、その教訓を学ばなければなりません。なぜでしょうか。

一つ目の理由は、苦々しい思いや怒りを抱いて相手を許さないことが、聖霊様を本当に悲しませるからです。(エペソ4:29-32)

もちろん、もしあなたが聖霊様を悲しませるなら、天の父とイエス様も悲しまれるでしょう。

二つ目の理由は、私たちが許さないなら、この世の人々にどんなメッセージを伝えているでしょうか。結局、私たちは彼らと全く変わりません。

とにかく、傷ついた人には多少共感できますが、私は神様のみ言葉に対して頑なな心を持つ人に全く同意できません。

また、キリストのからだ(つまり、教会)が不要だと思う人にも、私は全く同意できません。

パウロの言葉を借りるなら、彼らは手や足に向かって「私はあなたを必要としない」と言っているのです。(第一コリント12章21節)

けれども、パウロでさえ、そのようなことを主張することはありませんでした。

少し考えてみてください。

パウロはローマ帝国内で神様のために働き、福音を述べ伝えました。だから、パウロは毎週同じ教会に行くことができませんでした。彼は一つの教会について「これは私の教会だ」と言うことはできませんでした。

それでも、パウロはクリスチャンとの交わりを大切にしていました。彼は常に他のクリスチャンたちと時間を過ごしたいと願っていました。(ローマ1:10-12;第二コリント1:15-16;ピリピ1:8)

なぜでしょうか。パウロは彼らを祝福したいと願ったからです。(ローマ1:11;第二コリント1:15)

パウロは、彼らが自分を必要としたと認めました。

さらに、パウロ自身が彼らを必要としたと認めました。

特に、パウロは彼らの祈りが必要でした(エペソ6:19-20;コロサイ4:3;第一テサロニケ5:21;第二テサロニケ3:1-2)。

また、パウロは彼らの励ましが必要でした。(ローマ1:12)

「私は、教会を必要としない」と言う人は、とてもわがままだし、高ぶっています。

どうして私は彼らを「高ぶる」と呼ぶでしょうか。私たちはお互いを必要としますから。

どうして私は彼らを「わがまま」と呼ぶでしょうか。仮に、彼らが私たちを必要としないと思っても、私たちは彼らを必要としますから。私たち皆は、キリストの体に役割を持ちます。

とにかく、使徒の働きの箇所に戻りましょう。この箇所によれば、そのクリスチャンたちは祈りに専念しました。

でも、この箇所によれば、彼らは自分の部屋で、一人で祈っていたわけではありません。もちろん彼らはそうしましたけど、ルカのポイントは、彼らが一緒に祈っていたことです。

(ところで、ルカは使徒の働きを書いたでしょう。(ルカの福音書1:1-4;使徒の働き1:1-2))

なぜ、他のクリスチャンと共に祈ることが大切なのでしょうか。

一番の理由は、そうすることで、私たちは自分の心を神様の御心に調和させるだけでなく、相手の心にも調和させることができるからです。イエス様は、私たちが一つになるように祈られました。(ヨハネ17:20-21)

共に祈ることで、私たちは一つになります。

教会の初期から、共に祈ることはクリスチャンの習慣でした。(使徒の働き1:14)

クリスチャンが一致すると、神様の国のために素晴らしい働きができます。

けれども、もし私たちが喧嘩し、「あなたを必要としない」と言ってしまえば、私たちは弱くなり、何もできなくなります。サタンはそれを見て、きっと喜ぶでしょう。

だから、そのような考え方を捨てましょう。キリストの教会として、一致を求めましょう。

全てのことに同意する必要はありません。

私たちのミニストリーの方法が異なるかもしれません。それでも構いません。

しかし、私たちの愛を伝えましょう。そして、「あなたを必要としている」と伝えましょう。

そうすれば、サタンの国は崩れ、私たちの人生においてイエス様がほめられます。また、天の父もほめたたえられます。

カテゴリー
使徒の働き

主の体を軽んじる?

教会をやめた人について考えると(前回の記事を読んでください)、私はもう一つのことを思い出しました。それは聖餐式のことです。

残念なことですが、多くのクリスチャンは聖餐式が何を意味するのか、何を象徴するのかについて深く考えません。

使徒の働き2:42では、ルカは使徒の時代のクリスチャンについて次のように書きました。

彼らはいつも。。。パンを裂き「ました」。

もしかすると、ルカは、彼らがただ一緒に食事をしたことを意味していたのかもしれません。しかし、第一コリント11章によれば、教会では、しばしば聖餐式がその食事の時間の一部でした。

聖餐式とは何でしょうか。それは十字架のことを思い出すことです。その前の晩、弟子たちと食事をしたとき、イエス様はパンを裂いて、こう言いました。

これはあなたあたのための、わたしのからだです。私を覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:24)

そして、イエス様は杯を取って、こう言われました。

この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

一つのことに注意してください。聖餐式は、クリスチャンが共に行うものです。私たちはパンを裂き、分け合います。なぜでしょうか。

理由の一つは、私たち全員がキリストの体に属しているからです。イエス様を信じるすべての人のために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様は、あなたが好きなクリスチャンだけのために死なれたわけではありません。

少し考えてみてください。最初の聖餐式のその瞬間、弟子たちは本当に互いに愛し合っていたでしょうか。

その直前、彼らは「誰が一番偉いか」について議論していました。弟子たちの間で、誰も皆の足を洗おうとしなかったため、イエス様は自らその役目を担われました。

さらに、彼らの人格について考えてみてください。

例えば、「熱心党員」と呼ばれていたシモンとマタイのことを思い出してください。イエス様に出会う前、シモンはローマ帝国に反抗しようとしていました。けれども、同じくイエス様に出会う前、マタイはローマ帝国のために働いていました。

彼らは本当に親友だったでしょうか。

そんな難しい関係があったので、イエス様は彼らに命じなければならなかったでしょう。「互いに愛し合いなさい。」

もし彼ら全員がとても親しい関係を持っていたら、イエス様はそのことを言う必要がなかったでしょう。

しかし、聖餐式を共にするとき、彼らは思い出しました。「私たち全員はイエス様に属しています。私たち全員は、イエス様にあって、一つです。」

だから、パウロはコリントの人々に怒りました。彼らはいつも喧嘩し、どのリーダーが一番偉いかを議論していました。

それに、彼ら全員はキリストの体に属していたのに、金持ちは貧しい人々を見下しました。ところが、彼らを見下すことで、実は金持ちはイエス様の教会を軽んじていました。(第一コリント11:22)

だから、パウロはこう言いました。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(第一コリント11:27)

主のからだと血に対して罪を犯すとは、どういう意味でしょうか。その人々は、イエス様が捧げられた血とからだを軽んじ、罪を犯しました。

彼らは基本的にこう言いました。「イエス様、あなたがその人のために死んでくださったことは知っています。でも私は、それを気にしません。私自身は、その人とは全く関係がありません。」

そのような態度を持つなら、あなたは主のからだ、つまり主の教会に罪を犯すことになります。なぜなら、そのクリスチャンが好きでも嫌いでも、その人はイエス様のからだに属しているからです。

だから、相手に怒るとき、相手が嫌いなとき、相手と争うとき、聖餐式に参加するなら、あなたの相手に対する態度を改めなければなりません。

だから、パウロはこう言いました。

だれでも、自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい。(第一コリント11:28)

この箇所の文脈に従えば、それは、あなたが兄弟姉妹との関係を吟味しなければならない、という意味です。

残念なことですが、教会をやめる人々はそうしません。もし彼らがまだ聖餐式に参加するなら、彼らは好きな人とだけ一緒に行います。

彼らは悪い人間関係を全く吟味せず、相手と和解を求めません。むしろ、彼らはその人を避けます。しかし、そうするなら、彼らはキリストのからだと血を軽んじてしまいます。

もしあなたが「私はまだクリスチャンだけれど、教会をやめた」と言うなら、自分自身にこの質問をしてみてください。

「一対一で、私がやめた教会の人々と聖餐式を行う機会があれば、私はその機会を活かすだろうか。そのとき、私たちはこう言えるでしょうか。

『イエス様と天の父が一つであるように、私たちは一つです。私たちの一致によって、この世は、天の父がイエス様を遣わしたことを理解するでしょう。』」(ヨハネ17:21-23)

あなたがまだ教会に行っているとして、どのように聖餐式を行っているでしょうか。兄弟姉妹との関係は良好でしょうか。もしくは、あなたはイエス様のからだと血を軽んじているでしょうか。

心に留めておきましょう。イエス様はあなただけのためではなく、あなたが軽蔑しているクリスチャンのためにも死なれました。だから、その関係を吟味し、その人に対するあなたの態度を改めるべきです。

カテゴリー
使徒の働き

クリスチャンの交わりに専念する?

この記事は前回の記事の続きです。前回の記事では、私は教会をやめる人について話しました。

彼らの一つの不満は、教会で訓戒されることに飽きたということです。また、彼らは「もう知っている」という態度を持っていました。

今日は、さらに重要な問題について話したいと思います。おそらく、多くの人々が教会をやめる理由は、説教ではなく人間関係にあるでしょう。つまり、リーダーやほかの教会のメンバーたちと気が合わないということです。

私の友人が掲載した記事を読んだとき、私は少し混乱しました。その記事でインタビューされたクリスチャンの一人はこう言いました。

「人間関係の問題のせいで、私は教会をやめるわけではありません。私はかっとして急にやめたわけではありませんでした。私は、教会をやめる決断をじっくり考えました。」

けれども、その記事には、その人が教会をやめた理由が書かれていません。

その人は、人間関係の問題を控えめに語っています。しかし、記事(とコメント欄)を読むと、多くの場合、人間関係の問題こそが教会をやめる根本的な理由であることが明らかになります。

ある人々は、教会の方向性について、リーダーたちに賛成できませんでした。

ある人々は、リーダーたちの行動を批判しました。

ある人々は、教会に愛が欠けていると不満を述べました。

そのため、彼らは教会をやめてしまいました。

けれども、使徒の時代のクリスチャンたちは、そのようにはしませんでした。

新改訳では、翻訳者たちは「守り」(別訳:「専念」)という言葉を使徒たちの教えだけに結び付けています。

しかし、ほとんどの英訳では、「専念」という言葉を「使徒たちの教え」だけではなく、交わり、パンを裂くこと、祈りにも結び付けています。

したがって、この箇所を次のように翻訳できます。「彼らはいつも。。。(クリスチャンの)交わりに専念していました。」

つまり、彼らはクリスチャンの交わりに熱心でした。

私の友人の一人は、その記事を読んでこう言いました。

「まあ、私はもう教会に行かないけれど、クリスチャンの友人がいて、私たちは霊的な成長や個人的な成長のために、互いに励まし合っていますよ。」

彼らが本当にそうしているのなら、それは素晴らしいことだと思います。とはいえ、具体的に彼らは何を意味しているのでしょうか。一週間に一度くらい電話をするのでしょうか。一か月に一度?一年に一度?

彼らはその友人と時間を過ごし、互いに話し合い、励まし合い、もし必要があれば訓戒し合っているでしょうか。彼らにとって、それをすることは優先度が高いのでしょうか。

彼らは一緒に祈ることに専念しているでしょうか。

彼らは一緒にパンを裂いているでしょうか。

もしかすると、彼らはまず仕事や家族、学校を優先し、時間があればほかのクリスチャンとの時間を割いているのでしょうか。

しかし、使徒の時代のクリスチャンたちは交わりを優先していました。

信者となった人々はみな一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。

そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし(ました)。。。(使徒の働き2:44-46)

彼らは交わりに熱心だったので、毎日宮に集まりました。彼らは家々で時間を過ごしました。そして、他のクリスチャンたちのニーズを満たしました。

その結果は?

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(47)

教会はなぜ成長したのでしょうか。イエス様はその理由を私たちに説明されました。イエス様は弟子たちにこう言いました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:35)

少し注意してください。イエス様は「あなたがたがすべての人々に対する愛があるなら、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」とは言いませんでした。

イエス様は「互いの間に愛があるなら…」と言われました。

もちろん、私たちは教会の外の人々を愛するべきです。また、私たちは教会の人々だけを愛することに焦点を当てるべきではありません。私たちは教会の外にいる人々と関わるべきです。

とはいえ、この世の人々が私たちを見るとき、私たちが喧嘩し、怒り合い、許し合わず、苦々しい思いを持っているのを見たなら、彼らはどう思うでしょうか。

次のような会話を想像してみてください。あなたが友人にイエス様のことをずっと伝えていたとします。そして、彼らが「じゃあ、あなたの教会に行きたいと思うけど」と言います。

けれども、あなたは「実は、私はもう教会に行っていない」と答えます。

彼らが「どうして?」と訊いたら、あなたはどう答えるでしょうか。

「まあ、人間関係の問題があって。。。」

「少しリーダーたちと教会の方向性について言い争いをしてしまったので。。。」

相手はそれを聞いて、どう反応するでしょうか。イエス様が教会を愛し、その教会のために死なれたのに、あなたがその教会の悪口を言ったら、彼らはクリスチャンになりたいと思うでしょうか。

第一ヨハネ4:20を少し言い直すと、あなたの心に強く響くかもしれません。

「神を愛すると言いながら兄弟との交わりを拒むなら、その人は偽り者です。見える兄弟との関係を断つ者に、目に見えない神を愛することはできません。」

もし、教会の兄弟姉妹との交わりを拒むなら、あなたは神様を愛していると主張できるでしょうか。もしその関係を断つなら、あなたは本当に神様を愛していると言えるでしょうか。

友人を愛することは簡単です。

兄弟姉妹に欠点があっても、あなたは彼らを愛するでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

み言葉に専念する?

数年前、私の友人はFacebookで記事を掲載しました。そのタイトルは「教会をやめた人」でした。

その記事には、ある敬虔なクリスチャン—つまり、聖書をよく学び、惜しげもなく献金をささげ、熱心に人々を導いていたクリスチャンが、教会をやめてしまったという話が書かれていました。

その人は信仰を捨てたわけではなかったようです。それでも、教会を去りました。その人は「教会の中で、私は最も積極的な人の一人だったし、最も忠実な人の一人だった」と言っていたにもかかわらず、教会をやめました。

その人はいくつかの理由を挙げていたので、私は今後数日にわたり、そのことについて話したいと思います。

正直に言えば、私の愛する人々がその著者の意見に同意すると聞くと、本当に悲しくなります。

その著者の最初の理由は、「私は牧師のメッセージを何百回も聞いたので、もうわかっているし、訓戒されるのはもう嫌だ」ということでした。

けれども、この箇所では、教会の模範、またクリスチャンの生活の模範が示されています。

今日は、一つのことに焦点を当てたいと思います。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り[ました]。(使徒の働き2:42)

新改訳では、「使徒たちの教えを守る」と書かれていますが、「守る」と訳された言葉にはさまざまな意味があります。

そのため、翻訳者は使徒の働き1:14で、その言葉を「専念する」と訳しました(これは第3版です)。

また、使徒の働き6:4では、その言葉を「励む」(第3版)、または「専念する」(第4版)と訳しています。

要するに、この箇所を次のように訳すことができます。「彼らはいつも使徒たちの教えに専念しました。」

多くの英語の聖書では、42節はこのように翻訳されています。

とにかく、初期のクリスチャンたちは神様の言葉に熱心でした。彼らはその言葉を知りたいと願いました。彼らはその言葉に従いたいと思いました。

だから、「訓戒されるのはもう嫌だ」と言う人に、私はこう訊きたいと思います。

「あなたはみ言葉にどれだけ専念しているでしょうか。聖書が本当に神様のみ言葉であると信じていますか?使徒の働きの時代のクリスチャンのように、あなたはみ言葉に対する強い熱心を持っていますか?

それとも、聖書の教えはもう古臭いと感じていますか?その教えはあなたの人生に関係ないと思いますか?」

もちろん、説教する際に人を見下す牧師もいます。彼らは「すでに到達した」という態度を示すかもしれません。その場合、私は教会をやめた人の言い分を理解できます。

とはいえ、それは本当の問題でしょうか。

少し自分自身に、次の質問をしてみてください。

「私が聖書を読んで、聞きたくないことを目にしたとき、私は訓戒されていると感じるだろうか。」

残念ながら、多くのクリスチャンは聖書を読むとき、好きな箇所だけを選び、聞きたくない言葉が含まれる箇所を避けてしまいます。

その結果、教会に行くと「私は訓戒されている」と感じてしまうのです。

しかし、私たちがクリスチャンなら、み言葉に専念しなければなりません。励ましや慰めの言葉であれ、挑戦や訓戒の言葉であれ、私たちはそのすべてに専念すべきです。

「何百ものメッセージを聞いたし、もうわかっている」という言い分に関して、私たちは自分自身に同じような質問をするべきだと思います。

聖書を読むとき、私はもう何も学ぶことがないのでしょうか。すでにすべてを読んだから、すべてを知っているのでしょうか。それとも、神様は今もなお、その言葉を通して私に語り続けておられるのでしょうか。

正直に言うと、「もう全部読んだことがあるし、メッセージの内容を聞いたことがある」という感覚はよくわかります。それでも、二つのことを伝えたいと思います。

一つ目は、私が40年来のクリスチャンですが、今でも学び続けているということです。聖書を読むときや、日曜日のメッセージを聞くとき、神様が私に新しいことを示してくださることもあります。その時、私は本当に興奮します。

二つ目は、あなたは同じことを何回も聞いたことがあるかもしれません。けれども、その言葉に従っていますか?その言葉は、あなたの頭から心へと移動したでしょうか。

例えば、あなたは許しのメッセージを何回も聞いたことがあるでしょう。でも、あなたを傷つけた人をすでに許してあげましたか?

また、怒りや苦々しい思いを手放すことの大切さについて聞いたことがあるでしょう。その怒りと苦々しい思いを、もう手放しましたか?

要するに、あなたの人生の中で、神様の言葉は生きていて、力を持ち、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるほどに刺し貫き、あなたの心の思いや計画を見分けていますか。(へブル4:12)

それとも、その言葉はあなたの左の耳に入り、右の耳から抜けていくのでしょうか。

もちろん、私はあなたの経験をよく知りませんし、教会をやめた人の経験も知りません。

もし、あなたの牧師がいつも皆さんを見下しながら説教しているのなら、別の教会に行った方がいいかもしれません。

しかし、それが本当の問題でしょうか。

あるいは、問題は神様のみ言葉に対するあなたの態度にあるのでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

福音のメッセージ

この箇所では、私たちは最初の本格的な福音の説教を読むことになります。

それ以前、すべての説教はイエス様の死と復活の前に伝えられました。したがって、それらの説教はまだ不完全でした。

しかし、ペテロがこの説教をしたとき、イエス様はすでに旧約聖書にある救いに関する預言をすべて成就されていました。だから、ペテロは群衆に宣言しました。

神が今や主ともキリスト(つまり、神様が選ばれた王)ともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒の働き2:36)

それを聞いて、心を刺され、群衆は答えました。

「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」(37)

ペテロは彼らに言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして、遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

簡単に言えば、それは福音のメッセージです。

まず、私たちは罪を悔い改めなければなりません。もう自分の道を歩むのではなく、神様の道を歩み始めなければなりません。

私たちは自分の道を歩んできたために、神様を悲しませ、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいました。そのことを認めなければなりません。

そして、私たちはイエス様に信頼を寄せ、その良い支配のもとに従います。

「主よ、私の王となってください。私は自分の道を歩むことで、神様を悲しませ、周りの人々も、私自身も傷つけてしまいました。けれども、あなたは私を愛してくださり、十字架で私の罰を受けてくださいました。だから、これから私はあなたに従いたいと思います。私はあなたを信頼し、従います。」

バプテスマは、その決断のしるしです。バプテスマを通して、あなたはこう言います。

「私の古い生活に対して死にます。「私の道」に対して死にます。そして、私は新しい人としてよみがえります。イエス様の血によって、私の罪は清められ、聖霊の力によって、私はこの新しい人生を歩みます。」

御霊という約束は、最も素晴らしい賜物です。なぜなら、聖霊様は神であり、私たちのうちに住んでおられるからです。私たちはもはや神様から離れていません。今や、神様と親しい関係の中に生きています。

そして、私たちが神様と共に歩めば歩むほど、聖霊様は私たちの傷を癒し、私たちを新しくしてくださいます。神様は、私たちのために計画された人生を示してくださいます。実は、神様は私たちを造られる前から、そのプランをすでに考えておられました。

永遠の命は、天国では始まりません。永遠の命は今から始まります。

それは福音のメッセージです。そのメッセージを信じ、受け入れましたか。もし、上記の祈りを初めて祈ったなら、ぜひコメント欄で教えてください。

カテゴリー
使徒の働き

この同じ御霊

私にとって、聖霊様が来て、教会を力で満たされた日のことを想像するのは少し難しいです。激しい風のような響きが聞こえ、炎のような舌が一人ひとりの上に留まる光景は、非常に不思議で神秘的なものでした。

そして、御霊に満たされ、彼らはエルサレムの道に出て、学んだことのない言語で神様を賛美しました。

周りの国々から来たユダヤ教の改宗者たちは、その賛美を自分の言語で聞き、とても驚きました。私が彼らの立場なら、私も驚いたことでしょう。「不思議だな。これは何なのだろう?」

しかし、ペテロはこう言いました。

これは、預言者ヨエルによって語られたことです。

「神は言われる。終わりの日に、わたしは、すべての人にわたしの霊を注ぐ。

あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

その日わたしは、私のしもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ。すると彼らは預言する。。。」(使徒:16-18)

そしてペテロが福音を伝え、その日に3000人の人々が救われました。

そんな話を読んで、多くのクリスチャンは問いかけます。「どうして現代ではそんなことが起こらないのだろうか。どうして現代に聖霊様はそのように働かないのだろうか。」

しかし、聖霊様は現代でもそのように働くと私は思います。ペテロはこう言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

ペテロによれば、聖霊という賜物はペテロの世代だけのためではありません。ペテロは、彼らの子孫にも聖霊様が与えられると言いました。

それだけではなく、聖霊様はすべての国民に与えられるとも言いました。つまり、主が召してくださったすべての人々は聖霊様を受けます。

例えば、14年前、私の牧師の人生が混乱していたとき、神様は彼に夢を見させました。その夢によって、私たちの教会は始まりました。

振り返ると、神様は何度も私の周りの人々を通して私に語りかけてくださいました。

私が人生のために神様の御心を求めていたとき、ある日、私の祈りを知らない私の友人が突然こう言いました。

「ブルース、なぜか私はあなたが事務職をすることが想像できません。あなたはミニストリー向きだと思います。」

さらに、神様が私に直接語りかけたり、私の人生にさまざまなことをなさったので、私は快適なハワイの生活を捨てて、日本に引っ越しました。

私は確信をもって、聖霊様のおかげで日本に来たと言えます。

実は、私は聖霊様の導きをもっともっと必要としています。

正直に言えば、私はよく自分の力と知恵によってミニストリーを行っています。けれども、そのように生きることはもう望んでいません。2000年前にクリスチャンたちが聖霊様に満たされたように、私も聖霊様に満たされたいのです。

あなたはどうですか。

カテゴリー
使徒の働き

私たちの心を知っておられる神

この箇所では、マッティアが使徒として選ばれ、ユダの務めを引き継ぎました。

ある人々は、ペテロや他の弟子たちが勝手にマッティアを任命したと考えています。つまり、神様はマッティアではなくパウロを選びたかったのだ、と主張するのです。

その人々によれば、イエス様がパウロに現れて彼を使者として任命したとき、実はパウロがユダの務めを引き継いだのだそうです。

私もかつてはそう考えていましたが、今はそう思いません。なぜなら、第一コリント15:5で、パウロはマッティアを12人の使徒の一人として認めていたからです。

イエス様が復活された後、ユダに現れることはなかったため、この文脈ではパウロがマッティアについて言及していたのでしょう。

それに、パウロが使徒として任命されたにもかかわらず、彼はこう言いました。「私は使徒の中で最も小さい者です。私は使徒と呼ばれるに値しない者です。」(第一コリント15:9)

もう一つ注意すべき点があります。それはユダの死です。マタイの福音書27章によれば、祭司長はユダが返した銀貨を受け取り、畑を購入しました。そしてユダは出て行って首を吊りました。

しかし、使徒の働きによれば、ユダ自身が地所を購入し、真っ逆さまに落ちて、体が真っ二つに裂けたと記されています。どうやって、その2つの話を調和できるでしょうか。

アケルダマ(その畑の名前)はベン・ヒノムの谷にあります。たぶん、ユダは崖の上で首を吊ったでしょう。そして、ユダの死体が腐敗し始めている間に、その綱は切れたかもしれません。だから、その死体は谷に落ちて、その畑に着地しました。

それを聞いて、祭司長たちはユダの代わりに、その畑を買ったでしょう。なぜなら、彼らは「そのお金は血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない」と言ったからです。(マタイ27:6)

でも、それは今日の要点ではありません。

興味深いのは、使徒たちがユダに彼らと同じ務めを割り当てられていたと認めたことです。つまり、ユダは他の弟子たちと共に二度の宣教旅行に行き、福音を述べ伝えたり、悪霊を追い出したり、病人を癒したりしました。(ルカ9-10章)

とはいえ、イエス様はユダの心をよくご存じでした。ユダがさまざまな素晴らしい働きをしても、彼の心は真にイエス様のものではありませんでした。そのため、彼は最終的に暴露され、追い出されました。

その後、神様に属する心を持つ者がユダの務めを受け継ぎました。

私は何を言いたいのでしょうか。

私たちがミニストリーに携わっているなら、毎日自分の心を探らなければなりません。私たちの動機を吟味しなければなりません。私たちの心が本当に神様のものかどうか、試さなければなりません。

私たちはイエス様の御名によってさまざまな良いことを行うことができます。私たちのミニストリーを通して人々が救われるかもしれません。

しかし、神様は私たちの心を見抜かれます。もし私たちの心が神様の目にかなわないなら、最終的に神様は私たちの務めを取り去り、別の人に与えます。

そして、もっと恐ろしい可能性もあります。

もしかしたら、私たちはイエス様にこう言うことになるかもしれません。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡をおこなったではありませんか。(マタイ7:22)

ところが、イエス様は私たちにこのように答えられます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

あなたの心はどうですか。あなたは本当に自分の心をイエス様に捧げたでしょうか。

もしかしたら、良いクリスチャンのふりをしているかもしれません。もしそうなら、結局あなたの務めは取り去られ、ほかの人に与えられるでしょう。

あなたの心は、誰のものでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

イエス様の再臨を待つ

イエス様が天に上っていくのを目にするのは、本当に驚くべき光景だったでしょう。だから私は、弟子たちが口をぽかんと開けて、イエス様が見えなくなるまで空を見つめていたことがよく理解できます。もし私がその場にいたなら、同じことをしていたでしょう。

しかし、そのとき二人の天使が現れて、彼らにこう言いました。

ガラリヤの人たち、どうして天を見上げて、立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

その言葉から、私たちは二つのことを学ぶことができます。

一つ目は、私たちの希望の理由です。この世は混乱し、ますます悪化しているように見えますが、イエス様は必ずこの世に戻られます。その日、イエス様はすべてを新しくされます。

二つ目は、イエス様が戻られるまで、私たちには果たすべき重要な使命があるということです。

おそらく、天使たちが伝えたかったのは、「ここにただ立ち尽くしているのではなく、イエス様の言葉に従いなさい」ということだったのでしょう。

弟子たちはまずエルサレムに行き、御霊を待つ必要がありました。もし私たちがミニストリーを志すなら、まず同じように、御霊を待つことから始めるべきです。

前回の記事で述べたように、私たち自身の力には限界があります。しかし、聖霊に満たされた人は、この世を変えることができます。

だから、この世を見渡すとき、ただ不平不満を言うだけではなく、ただ天を仰ぎながらイエス様の再臨を待つだけでもなく、むしろ、聖霊に満たされて、神様の言葉に従いましょう。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ24章 使徒の働き

世界を変える力

それでは、福音書に関する最後の記事です。そして今日から、使徒の働きについてお話しします。

以前気づいていたかどうかわかりませんが、おそらく使徒の働き1:4で、ルカはルカの福音書24:49を参照しているでしょう。その箇所では、イエス様は弟子たちに「聖霊様が来るまで、エルサレムで待ちなさい」と命じられました。

その後、およそ40日が経ち、イエス様は弟子たちをベタニヤ、つまりオリーブ山へ連れて行かれました。

オリーブ山に立っていた時、弟子たちはゼカリヤの預言を覚えていたかもしれません。ゼカリヤの預言によれば、国々がイスラエルを征服した後、主はオリーブ山に降り立ち、その国々と戦って、世の王となられます。(ゼカリヤ書14章)

もしかすると、彼らはその預言を思い出し、それを確かめるためにイエス様に尋ねたのかもしれません。

主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。(使徒の働き1:6)

しかし、イエス様はこのように答えられました。

いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威を持って、定めておられることです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:7-8)

多くの人々はイエス様がいつ戻られるのかを気にします。もちろん、イエス様の再臨のしるしに注意を払うことは重要ですが、それ以上に、イエス様が戻られるまでの間に私たちはイエス様から受けた使命に目を向けなければなりません。

それは何でしょうか。それは、福音を宣べ伝えることです。私たちはイエス様の証人となるべきです。

では、イエス様の証人になるとはどういうことでしょうか。

基本的に、それは私たちが見たこと、聞いたこと、そして知っていることを伝えることです。

イエス様があなたの人生にどのように働かれたかを伝えるべきです。あなたが教会で学んだことや、聖書から得た教えを周りの人々に分かち合うべきです。そうすれば、私たちはこの世を変えることができます。

とはいえ、私たち自身の中には世を変える力はありません。私たちの言葉だけでは、人の心を変えることはできません。

むしろ、私たちの内に住んでおられる聖霊様こそが、ご自身の力によってこの世を変えることができます。私たちの力では何も成し遂げることはできません。

だからこそ、イエス様は弟子たちに「あなたたちはすべてのことを知っているから、行きなさい。この世を変えなさい」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らにこう言われました。「聖霊様が来るのを待ちなさい。聖霊によるバプテスマを受ける時、あなたがたは力を受けます。その後、行きなさい。」

私たちはしばしば、自分の力と知恵によってミニストリーをしようとします。そうすると、多くのことを成し遂げるかもしれません。

けれども、本当にこの世界を変えたいと願うなら、聖霊によるバプテスマが必要です。私たちは聖霊様の力に満たされるべきです。なぜなら、人間の力や知恵には限界があるからです。

一方で、神様には限界がありません。

聖霊様、どうか私を満たしてください。 私はしばしば、自分の知恵と力によってミニストリーをしようとしてしまいます。けれども、あなたから離れては私は何もすることができません。

私はもう、自分の力や知恵に頼ることに疲れました。だから、聖霊様、私を満たしてください。あなたのためにこの世に影響を与えるために、力を与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ28章

私たちと共におられる方

私たちはもうすぐ福音書を読み終えます。予想以上に時間がかかりましたが、それでも楽しむことができました。

さて、イエス様は弟子たちに指示を与えた後、こう言われました。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイの福音書28:20)

イエス様はすぐに天に戻られる計画を立てておられました。そして、イエス様が天に戻られた後、弟子たちは大きな使命を担わなければなりませんでした。それは神の国を広げることです。

もちろん、その使命には喜びが伴いました。しかし、イエス様が弟子たちに教えられたのは、彼らが迫害や苦しみを必ず経験するということでした。最終的に、弟子たちの多くは自分の信仰のために命を捧げました。

それでも、イエス様は彼らにこう約束されました。

「あなたがたは私を見なくなります。それでも、私はいつもあなたがたと共にいます。あなたたちを捨てて孤児にすることはありません。

むしろ、私はあなたたちに聖霊様を与えます。そして、聖霊様はあなたたちと共に住み、あなたたちのうちにおられます。」(ヨハネ14:16-20)

イエス様は私たちにも同じ約束を与えてくださいました。私たちがどこへ行っても、何をしていても、どんな喜びや苦しみを経験していても、イエス様は私たちを決して見捨てることがありません。

イエス様は今も私たちと共におられ、永遠に私たちと共にいてくださいます。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ28章

弟子作り

数年前まで私は、マタイ28:16-20の出来事と使徒の働き1章の出来事が全く異なる時に起こったことだと気づいていませんでした。

マタイの出来事はガリラヤで起こり、使徒の働きの出来事はオリーブ山で起こったのです。

もしかすると、ガリラヤでイエス様は11人の弟子たちだけではなく、500人の弟子たちにも現れたのかもしれません。(第一コリント15:6)

そのため、ガリラヤに来た時、「疑う者たちもいた」。(17)

つまり、11人の弟子たちはすでによみがえられたイエス様を見ていましたが、その500人はまだイエス様を見ていなかった可能性があります。

けれども、イエス様に会うと、彼らの疑いは消え去り、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしには天においても地においてもすべての権威が与えられています。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイの福音書28:18-20)

イエス様が単に「福音を述べ伝えなさい」と言わなかったことには重要な意義があると思います。(もちろん彼らには福音を述べ伝える役割もありました。)

イエス様は彼らに「弟子を作りなさい」と言われました。その弟子たちは自分の弟子を作るのではなく、イエス様の弟子を作るべきでした。では、弟子を作る方法は何だったのでしょうか。

彼らは新しい信者にバプテスマを授けました。バプテスマは、彼らがイエス様に従う決意を示すしるしでした。

私たちがバプテスマを受けるとき、私たちはキリストに属することを表現しています。バプテスマの水は墓を象徴しています。その水に入るとき、私たちはこう宣言しているのです。

「イエス様が死んでよみがえられたように、私は自分の古い生活に対して死に、新しい人としてよみがえります。そして、私の体が死んでも、私はよみがえってイエス様と共に永遠にいます。」

時折、日本ではノンクリスチャンの親が、クリスチャンである息子や娘にこう言うことがあります。「教会に行ってもいいけれど、バプテスマを受けてはだめです。」

そのため、その息子や娘は本当に困ります。「私の家族を怒らせても、洗礼を受けるべきなのだろうか。」

実は、使徒の時代にも、多くのユダヤ人たちが同じようなプレッシャーに直面していたかもしれません。しかし、イエス様の弟子になりたいのであれば、私たちはイエス様を何よりも優先しなくてはなりません。

洗礼を受けるとき、私たちは皆の前でその決断を明確に宣言します。

イエス様は弟子作りについて、もう一つの重要なことを教えられました。それは、新しい弟子たちにイエス様の戒めを教えることです。そして、新しい弟子たちがその戒めを守るように教えることも含まれていました。

多くのクリスチャンたちはこれを聞いて、違和感を覚えるかもしれません。

「だって、それは律法主義でしょう?私たちは恵みによって救われたのではないですか?」

もちろん、私たちは恵みによって救われました。そして、キリスト教を単なる規則の体系として教えるべきではありません。

それでも、私たちが弟子たちに教えなくてはならないのは、神様が彼らを深く愛しておられるということです。そして神様は、私たちの最善を望まれます。

だからこそ、私たちが救いのために神様を信じるならば、神様の道が一番良いと信じ、従うのは当然のことです。私たちはその道を選んで進むべきです。

さらに、もし私たちが神様を本当に愛しているのであれば、神様を喜ばせることを選び取るべきです。

簡単に言えば、私たちは人々が神様に近づく方法を教えるべきです。そして、彼らが日々神様をさらに愛し、信頼するよう導くべきです。

残念ながら、多くの教会ではそのことが十分に教えられていません。そのため、教会の中には「赤ちゃんクリスチャン」と呼ばれる人々が多くいます。彼らは決して霊的に成長しません。

口では「神様を愛している」と言うかもしれませんが、神様に信頼することを学んでいないのです。その結果、彼らの人生は混乱してしまうことがあります。

ですから、私たちはただ福音を述べ伝えるだけではなく、弟子を作りましょう。イエス様を愛し、信頼し、従うクリスチャンを育てましょう。

そうすれば、彼らはイエス様の恵みと知識において成長するでしょう。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ21章

イエス様に目を向けていますか?

自分の死について聞くことほど、恐ろしいことはないでしょう。

だからこそ、イエス様がペテロの死を預言された後、二人はしばらく沈黙のまま歩き続けたのかもしれません。

それは、気まずい沈黙だったでしょう。けれども、ふとペテロは、ヨハネが彼らの後をついてきていることに気づきました。

そこでペテロは、イエス様に問いかけました。

主よ。この人はどうなのですか。(ヨハネの福音書21:21)

つまり、「彼もあなたのために死ななくてはならないでしょうか。」ということです。

しかし、イエス様は答えられました。

わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。(22)

主に仕えるとき、私たちはしばしば自分自身を周りの人々と比べてしまいます。

時には、彼らの才能や霊的な賜物をうらやましく思うことがあります。

また、時には自分の才能や賜物を誇り、周りの人々を見下してしまうこともあります。

さらに、神様が私たちを召されるときもあります。けれども、ペテロのように私たちは問いかけてしまいます。

「どうして私なのでしょうか?あの人を遣わしたらどうですか?」

しかし、イエス様は私たちに同じ答えを与えられます。

「彼らのことを気にしないで。あなたにかかわることではない。 あなたは、私に従いなさい。

周りの人々に目を向けるのではなく、私に目を向けなさい。 自分自身を彼らと比べるな。

私から目を離さず、ただ私に従いなさい。」

正直に言うと、それは難しいことです。 私たちの目はすぐに周りの人々へと向かい、私たちの心はすぐに自分自身を周りの人々と比べてしまうからです。

そして今も、私自身そうしてしまいます。

けれども、もし神様のために実を結びたいと願うなら、私たちは周りの人々ではなく、イエス様に目を向けるべきです。

あなたはどうでしょうか?何を見つめていますか?

自分自身でしょうか。

周りの人々でしょうか。

もしかしたら、イエス様でしょうか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ21章

私たちを信じてくれる神

これは、聖書の中で私が特に好きな話の一つです。主人公はペテロ――自信満々なペテロ。大胆なペテロ。

それでも、ペテロはイエス様を知っていることを三度否定しました。その瞬間、彼の自信も、大胆さも失われました。もしかすると、彼は自分自身すら信じられなくなったかもしれません。

復活後、ペテロとイエス様の最初の会話を読んでみたいと思います。残念ながら福音書にはその詳細な会話は記されていません。

ペテロはイエス様の墓へ行ったとき、イエス様の遺体が見つからず、激しく困惑したことでしょう。「ヨハネは、イエス様がよみがえられたと信じている。でも、本当にそれが事実なのだろうか?」

もしかすると、ペテロはこう思ったかもしれません。

「正直、ある意味では、それが本当じゃないほうがいいかもしれない。だって、もし本当なら、私はどうやってイエス様と向き合えばいいのだろうか。」

けれども、突然イエス様はペテロの前に現れました。

ペテロはどう反応したでしょうか。驚きでしょうか。喜びでしょうか。それもあるかもしれません。

もしかすると、ペテロはイエス様のもとにひれ伏し、涙を流しながら何度もこう叫んだのではないでしょうか。

「ごめんなさい……どうか赦してください。」

多分、イエス様はペテロにこう言われたことでしょう。

「大丈夫だ。赦してあげよう。私はあなたのような人々のために十字架で死んだのだから。私は今も変わらず、あなたを愛している。」

それを聞いて、ペテロは慰められたかもしれません。けれども、すぐに疑いが心に浮かんだのではないでしょうか。

「まさか、本当にイエス様は私を赦してくださったのか?たとえ赦されたとしても、イエス様は私を弟子としてもう受け入れられないのではないか?私の失敗はあまりにも大きすぎる。。。」

そして、数日が経ちましたが、ペテロはイエス様と再び会うことがありませんでした。そのため、彼の心は再び沈んだことでしょう。

「やはりダメなのか。。。イエス様は『赦してあげよう』と言ってくださった。でも私はもう、イエス様の弟子として歩み続けることはできないのではないか。元の生活に戻るしかないのだろうか…。」

そこで、ペテロは他の弟子たちにこう言いました。

「私は漁に行く。」

他の弟子たちも、おそらく少し退屈していたので、ペテロと共に漁に出ました。ところが、夜通し漁をしても、何も捕れませんでした。

もしかすると、ペテロの気持ちはさらに沈んだのではないでしょうか。

「私はもう、何をやってもダメだ。。。魚を捕ることすらできない。」

そして、彼らは岸辺から声を聞きました。

「おい!食べる魚がないみたいだね。船の右側に網を打ってみなさい。」

弟子たちがその言葉通りにすると、突然、彼らの網は魚でいっぱいになりました。それを見たヨハネは叫びました。

「あれは主だ!」

ペテロはヨハネの言葉を聞くと、すぐに湖へ飛び込み、イエス様のもとへ泳いでいきました。ペテロが岸に着くと、イエス様は微笑みながら言われたことでしょう。

「ペテロ、何をしているのだ。他の弟子たちを助けなさい。」

ペテロは船に戻り、弟子たちと共に魚を岸辺まで持ってきました。彼らが到着すると、イエス様はすでに魚を焼いて、彼らのために食事を用意されていました。

彼らが食べながら、きっと笑ったり、様々なことを語り合ったりしたでしょう。けれども、食事が終わると、イエス様はペテロに言われました。

「ペテロ、少し話がある。こちらへ。」

その言葉を聞いて、ペテロは内心ひやひやしていたかもしれません。

「やはり。。。イエス様は私を責め、私を捨てるのだろう。弟子としての私の歩みは、もう終わりなのだろうか。。。」

不安を抱えながら、おどおどとペテロはイエス様と共に歩き始めました。もしかすると、無言のまま何分も散歩したかもしれません。そしてついに、イエス様はペテロに問いかけました。

ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、私を愛していますか。(ヨハネの福音書15:15)

新改訳では、「この人たちが愛する以上に」と書かれています。しかし、実際にイエス様の言葉は、それほど明確ではありませんでした。

イエス様が語られたのは、こういうことです。

「これらよりも、私を愛していますか。」

多くの聖書学者によれば、おそらくイエス様は他の弟子たちについて話していたのだろうと考えられています。そのため、新改訳では「この人たちが愛する以上に」と訳されています。

けれども、ペテロの答えを考えると、その解釈には納得できない部分があります。

ペテロはこう答えました。

「はい。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」

ペテロは、自分がイエス様を三度否定したことを痛烈に覚えていたはずです。それにもかかわらず、どうして「はい」と答えることができたのでしょうか。

だから、私は異なる視点を持っています。

もしかすると、彼らが歩いているとき、ペテロの船や網、魚が視界に入ったかもしれません。

もしそうなら、イエス様の問いかけの意味は、こうだったのではないでしょうか。

「ペテロ。このものよりも、私を愛していますか?私はほんの少しの間、あなたのもとを離れた。それなのに、その間にあなたはすぐに元の生活へ戻ってしまった。本当に、これらよりも私を愛しているのか?」

この問いかけに対して、ペテロは迷いなく答えたはずです。

「はい。あなたを愛しています。」

すると、イエス様は答えられました。

わたしの子羊を飼いなさい。(15)

彼らはしばらく歩き続けると、イエス様は再び問いかけられました。

「私を本当に愛しているのか?」

ペテロはもう一度「はい」と答えました。

すると、イエス様は言われました。

わたしの羊を牧しなさい。(16)

彼らはしばらく歩き続けると、イエス様はもう一度問いかけられました。

「ペテロ、私を愛しているのか?」

この問いを聞いて、ペテロの心は痛みました。

そこで、ペテロは答えました。

主よ。あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。(17a)

イエス様は答えられました。

わたしの羊を飼いなさい。(17b)

そしてイエス様は続けてこう言われました。

まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。

しかし、年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。(18)

イエス様はペテロの死を預言されました。そして何年か後、ペテロはイエス様への信仰ゆえに、十字架で死ぬことになります。

どうしてイエス様は、そのことをペテロに伝えられたのでしょうか。おそらく、イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか。

「ペテロ。私は、あなたが犯した大きな失敗をよく知っている。それでも私は変わらず、あなたを信じているのだ。

実は、あなたは将来、同じような試練に直面することになる。そのとき、あなたは再び選択を迫られる。私を否定するのか。あるいは、私のために命を捧げるのか。

しかし、今度はあなたは、私のために死ぬことを選ぶのだ。」

そして、イエス様はペテロに言われました。

私に従いなさい。(19)

ペテロのように、私たちも皆、失敗することがあります。そのたびに、ペテロと同じように思うかもしれません。

「私は大失敗した。神様は私なんて受け入れてくださるのだろうか。」

しかし、安心してください。

神様はあなたを受け入れ、今もあなたを用いられます。なぜなら、神様はあなたの現在の姿だけを見ているのではなく、あなたが将来どのようになるかをよくご存じだからです。

神様はあなたを信じておられます。

だから、自分の力に頼らないようにしましょう。

また、自分の知恵に頼らないようにしましょう。

神様があなたを受け入れ、あなたを信じておられることを覚え、心を安らかに過ごしましょう。

そして、歩みましょう。イエス様に従いましょう。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ20章

イエス様を見たことがないのに

「百聞は一見にしかず。」

私たちはこのことわざを口にしますが、時として、何を見ても信じない人がいるものです。

パリサイ人たちと祭司長たちは、イエス様の奇跡を実際に目の当たりにしました。それでもなお、イエス様がメシアであることを信じませんでした。

たとえば、ラザロが復活したとき、彼らはラザロを殺そうとさえしました。なぜなら、人々がその奇跡を目撃し、イエス様を信じるようになったからです。

彼らの問題は何だったのでしょうか。それは、彼らが信じたくなかったということです。もし何かを信じたくないなら、人はいつでも信じられない理由を作り出すものです。

しかし、トマスは本当にイエス様の復活を信じたかったのです。それでも、なぜか自分自身を納得させることができませんでした。だから、彼はほかの弟子たちにこう言いました。

私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れて見なければ、決して信じません。(ヨハネの福音書20:25)

だから、イエス様が鍵がかけられた部屋に奇跡的に入って、トマスのぽかんと顔を見た時、多分イエス様は微笑みながら、こう言いました。

あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(27)

トマスの反応は?

私の主。私の神よ。(28)

イエス様は答えました。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(29)

つまり、「あなたは見たから信じているのです。けれども、真の祝福は、見ずに信じることで見いだされるのです」ということです。

アブラハムもその祝福を知りました。アブラハムは神様が彼をどこに導いているかよくわからなかったけど、アブラハムは自分の地元を去って、神様に従いました。なぜなら、アブラハムは神様の約束を信じたからです。

ノアもその祝福を知りました。神様が洪水が発生すると言ったから、ノアは大きい箱舟を作りました。

ダビデもその祝福を知りました。神様がダビデが王になると約束したから、サウロ王が何回もダビデを殺そうとしても、ダビデは仕返しを求めませんでした。そして、神様のタイミングで、ダビデは王になりました。

マリアもその祝福を知りました。彼女は天使のメッセージを信じて、イエス様の母になりました。

聖書の時代から現代まで、たくさんの人々は神様を信じて、祝福されました。

でも、それは盲信ではありません。

イエス様が生まれる何百年前に、いろんな預言者はたくさんのことをイエス様に関して預言しました。

また、イエス様に出会った人は自分の経験を書きました。ヨハネはこう書きました。

イエス様は弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(30-31)

それに、私たちは教会の偉人たちの歩みを見ることができます。たとえば、アウグスティヌス、マルティン・ルター、ジャン・カルヴァンは、神の御国のために偉大な働きを成し遂げました。

今なお、教会には多くのクリスチャンがいます。神様は彼らの人生の中で働き、福音によって彼らを変えてくださいました。

また、私たち自身もイエス様に出会い、神様の御業をこの目で見ることができます。

しかし、私たちは一つの選択をしなければなりません。

「主よ。私はあなたを見たことがありません。それでも、私はあなたを信じます。」

そして、イエス様を信じて従うとき、イエス様はますますご自身を私たちに現してくださいました。そして、私たちも祝福を知るのです。

ペテロはこう言いました。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども、愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(第一ペテロ1:8-9)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

満たされて、遣わされた

イエス様が復活された日曜日、11人の弟子たちの間では混乱や不信が広がっていたようです。

彼らが集まったとき、マリアやほかの女性たち、エマオへ行ってきた弟子たち、そしてペテロが「主を見た」と強く主張しました。それでも、ほかの弟子たちはその話を信じませんでした。

すると、イエス様が突然彼らの前に現れました。当然、弟子たちは驚き、最初は幽霊を見たのだと思いました。

けれども、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と言われました。

この言葉を聞いて、「弟子たちが怖がっていたので、イエス様は彼らを慰めようとされたのだ」と思うかもしれません。

しかし、実は当時の文化において、この言葉は「こんにちは」のようなごく普通の挨拶でした。

もしかすると、イエス様は最初、カジュアルな態度で通常の挨拶としてこの言葉をかけられたのかもしれません。けれども、弟子たちが恐れていたため、イエス様はより真剣な口調で「安心しなさい。わたしだよ」と言い、彼らを励まされました。

そして、イエス様はご自身の手と足を示し、魚を食べられました。おそらく、弟子たちはイエス様の傷跡に触れたことで確信を得たのでしょう。その後、彼らは納得し、喜びに満たされました。

さらに、イエス様は彼らに、預言者たちがイエス様の死と復活について語っていたことを教えられました。また、イエス様ご自身が以前言われたことを彼らに思い出させました。

その後、イエス様は彼らにこう言われました。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ20:21)

また、

あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。

あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。ルカ24:48-49)

そして、イエス様は彼らに息を吹きかけ、こう言われました。

聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。(ヨハネ20:22-23)

それを読むと、私は別の聖書の場面を思い出します。エデンで神様がアダムに息を吹きかけ、アダムは物質的な命を受けました。

一方、この箇所では、弟子たちは霊的な命を受けたのです。

聖霊様は、救いのしるしとして彼らに入りました。そして、イエス様が以前約束されたように、聖霊様は彼らにさまざまなことを教え、彼らがどこへ行っても、聖霊様は共におられました。

さらに、聖霊様は、彼らがイエス様から受けた使命を果たすために力を与えてくださいました。だからその後、彼らはあらゆる場所へ福音を広げていきました。

同じように、私たちがイエス様を救い主、そして主として受け入れる時、イエス様は私たちに息を吹きかけ、霊的な命を与えてくださいます。

聖霊様も、私たちの内に入り、私たちを導いてくださいます。さらに、聖霊様は私たちに力を与えてくださるので、イエス様から与えられた使命を果たすことができます。

だから、私たちは決して独りぼっちではありません。私たちは自分の力や努力によって神様を喜ばせたり、神様の目的を果たしたりするわけではありません。

むしろ、神様ご自身が私たちに住んでおられる聖霊様を通して、私たちを満たし、命と敬虔をもたらすすべてのものを与えてくださいます。(第二ペテロ1:3)

私たちの主な務めは、福音を広げることです。私たちは、悔い改めてイエス様を受け入れる人に、「あなたの罪は赦された」と宣言することができます。しかし、神様の救いを受け入れない人には、私たちは将来の裁きについて警告します。

神様は御国の鍵を私たちに与えてくださいました。私たちが福音を伝えることで、御国の門が開かれ、周りの人々はそこへ入る機会を得るのです。

だから、聖霊に満たされて進みましょう。死にかけている世に、御国の門を開きましょう。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ24章

鈍い心

いつイエス様がペテロにご自身を現されたのかによりますが、この話では、私たちはイエス様の復活後の三度目か四度目の現れを見ることになります。

この話では、二人の弟子たち(十二人の弟子には含まれていない)が、エマオという村へ向かっていました。もしかすると、エマオは彼らの故郷だったのかもしれません。

彼らは歩きながら、女性たちの証言や、ペテロとヨハネの報告について語り合っていました。けれども、彼らはまだイエス様の復活を信じていなかったようです。

すると、イエス様が突然現れました。しかし、彼らはイエス様を認識することができませんでした。聖書によれば、彼らの目は遮られていたのです(16節)。

つまり、彼らはイエス様を見ることができたものの、イエス様は彼らがご自身を認識することを許されませんでした。

もしかすると、イエス様は墓の外でマリアに現れた際も、同じことをされたのかもしれません。

その後、イエス様は彼らに尋ねられました。

歩きながら語り合っているその話は何のことですか。(ルカの福音書24:17)

おそらく、その二人はとても驚いたでしょう。「知らないのですか?あなたはエルサレムにいたのではないのですか?何が起こったか、ご存じでしょう?」

けれども、イエス様は何も知らないふりをして答えられました。

「どんなことですか?」(19節)

すると、その二人は自分たちの混乱と悲しみを打ち明けました。つまり、彼らはイエス様がメシアであり、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくださると信じていました。

しかし、イエス様は十字架で死なれました。それに、彼らはイエス様がよみがえられたという話を聞いたものの、それが本当に信じられるかどうかわかりませんでした。

それを聞いて、イエス様は彼らを叱責されました。

ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。(25-26)

そして、イエス様は、苦しむメシアが私たちの罪のために死なれ、よみがえられたという、最初の説教を語られました。

彼らがエマオに着くと、イエス様はさらに先へ行かれる様子でした。けれども、彼らの心は揺さぶられ、イエス様に熱心にお願いしました。

一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。(29)

そして、イエス様が彼らと食卓に着かれると、パンを取り、神様をほめたたえ、それを裂いて渡されました。(30)

もしかすると、その光景を見たとき、彼らはイエス様が5000人にパンと魚を与えられた出来事を思い出したのかもしれません。そして、彼らの目が開かれ、イエス様を認識しました。

ところが、その瞬間、イエス様の姿は見えなくなりました。

すると、彼らは話し合いました。

道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心はうちで燃えていたではないか。(32)

そして、彼らは11人の弟子たちのもとへ行き、イエス様が復活されたことを伝え、女性たちとペテロの証言を確かめました。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれほど神様の言葉に対して鈍い心を持っているでしょうか。

私たちは、イエス様が私たちの罪のために死なれ、よみがえられたことを信じているかもしれません。しかし、イエス様のほかの言葉を本当に信じているでしょうか。

なぜ私たちの心は鈍くなってしまうのでしょうか。

もしかすると、あの二人の弟子のように、過去の経験を振り返ることで失望するのかもしれません。あるいは、私たちの人生が思い描いた通りに進んでいないのかもしれません。

そうすると、私たちは神様に問いかけます。 「あなたの言葉は真実なのでしょうか。あなたは本当に私とともにおられるのでしょうか。私の必要を本当に満たしてくださるのでしょうか。あなたは私を本当に愛しているのでしょうか。」

私もそうした疑いを抱いたことがあります。

もしかすると、私たちは神様の道を疑い、自分の道を選びたいと思うのかもしれません。神様の道は意味がないと思ってしまうからです。

私はノンクリスチャンと結婚するクリスチャンを何人も知っています。彼らの理由は、良いクリスチャンの伴侶を見つけられなかったことでした。けれども、多くの場合、後になってその決断を後悔しました。

私たちがイエス様の言葉を信じないなら、あの二人の弟子たちのように、失望と悲しみに満ちた人生を歩むことになります。

しかし、良い知らせがあります。イエス様は決して私たちを見捨てません。イエス様は今も私たちとともに歩んでおられます。

もし、私たちが心を開き、すべてを打ち明けるなら、イエス様はご自身の言葉を私たちの心に注ぎ、私たちを癒し、新しい希望を与えてくださいます。

だから、鈍くなった心を捨てましょう。心を開き、イエス様を信じましょう。

聖書はこう言っています。「この方(イエス様)に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ28章 マルコの福音書 マルコ16章 ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活について、二つの注意事項をお伝えしたいと思います。

一つ目は、マルコ16:9-20を省略することです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはこの部分を書いていなかったと考えられているからです。

では、なぜマルコは具体的にイエス様の復活について語らなかったのでしょうか。私は三つの説を聞いたことがあります。

1つ目は、マルコが福音書を完成させる前に亡くなったという説です。

2つ目は、元々の結末が何らかの理由で失われたという説です。

3つ目は、使徒の時代には、教会で牧師がマルコの福音書を朗読した後に、イエス様の復活を目撃した人々が自分の証を語っていた可能性があるという説です。

いずれにせよ、マルコが亡くなった後、現在の結末が加えられたと考えられています。

二つ目の注意事項は、福音書間でイエス様の復活の記録を統合するのが非常に難しいということです。できる限り、復活の出来事の順番を整理しようと思いますが、これはあくまで私の考えです。

とはいえ、どの福音書を読んでも、基本的な事実は一致しています。

女性たちがイエス様の墓に着いたとき、その墓はすでに空っぽでした。そして、天使たちが現れ、イエス様の復活を彼女たちに知らせました。

その後、イエス様はマリアやほかの女性たちにご自身を現され、彼女たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷では証人の証言に多少の違いがあったとしても、これらの四つの事実は十分に認められるでしょう。

では、簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様の墓に行ったが、イエス様の遺体はありませんでした。

2.マリアが墓に入り、イエス様の遺体がないと分かると、すぐに弟子たちに知らせるために戻りました。

3.ほかの女性たちはその場に残り、おそらく何が起こったのか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が現れ、そのうちの一人がイエス様の復活の良い知らせを伝えました。

4.そこで、女性たちは弟子たちに伝えるために急いで戻りました。彼女たちは急いでいたため、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.その間に、マリアは弟子たちにイエス様の遺体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)そこで、ペテロと(おそらく)ヨハネは墓を調べに行きました。マリアは彼らと共に墓に戻りました。

彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家に来て、残っていた弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネは墓に着き、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活されたと信じたようですが、ペテロはまだ疑っていたようです。おそらく、彼らは戻る途中でそのことを話し合ったでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネが墓へ向かう際、走ったため、もしかするとマリアは遅れて着いたかもしれません。そのため、マリアがようやく墓に着いたとき、ペテロとヨハネがまだそこにいたかどうかは分かりません。

そして、イエス様はマリアの前に現れ、彼女を慰められました。その後、彼女はすぐに弟子たちのもとへ戻りました。(ヨハネ20:12-18)

8.マリアが戻っている間に、イエス様はほかの女性たちの前に現れました。彼女たちは道中だったのかもしれません。また、弟子たちが彼女たちの言葉を信じなかったため、多少の失望を感じていたかもしれません。

けれども、イエス様が彼女たちを励まされたので、彼女たちはもう一度弟子たちのもとへ向かいました。

その頃、マリアも戻ってきたため、弟子たちはマリアと女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかは分かりませんが、これが私の推測です。

さて、マリアのことを少し考えてみましょう。私がこの場面を想像すると、イエス様の墓の外で、マリアが深い悲しみに沈み、絶望している姿が浮かびます。

もし私の考えが正しければ、彼女はまだほかの女性たちの天使の経験を聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の遺体がなくなったという事実だけです。

そして、マリアが墓に入ると、二人の天使がいました。ところが、ほかの女性たちの話をまだ聞いていなかったため、マリアは彼らが天使であることを認識しませんでした。

すると、天使たちは「なぜあなたは泣いているのですか」と尋ねました。

マリアはただこう答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

もしかすると、天使たちがイエス様の復活を伝えようとしたその瞬間、イエス様が現れたのかもしれません。

最初、マリアはイエス様を認識しませんでした。しかし、イエス様が彼女の名前を呼ばれました。

「マリア。」

その瞬間、マリアの悲しみの涙は、一気に大きな喜びへと変わりました。

私たちはどれほどマリアのようでしょうか。苦しみに沈み、神様が遠く感じることがあります。

祈っても、まるでその祈りが天井にぶつかり、神様に届かないかのように感じることもあります。

神様を求めても、見つけられないことがあります。まるで神様が沈黙し、いなくなったかのように思えることもあります。

けれども、実際には神様は私たちとともにおられます。マリアのように、私たちは神様を見ていないだけかもしれません。しかし、神様は確かにそこにおられます。そして、最もふさわしい時に、ご自身を現してくださいます。

だから、諦めないでください。誰もが悲しみの時を経験します。誰もが、神様が遠く感じる時を通ることがあります。けれども、神様はインマヌエルです。すなわち、「神様は私たちとともにおられる」ということです。

そして、イエス様を復活させたのと同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びへと変えてくださいます。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ28章

信じようとしない人?

私は祭司長たちとパリサイ人たちの頑なな心に驚きを禁じ得ません。

彼らはイエス様のお墓を警備するために対策を練りましたが、そのお墓は空っぽになりました。結局、彼らはその事実を認めざるを得ませんでした。

彼らは番兵たちの話を通して、地震と天使の存在を知りました。

さらに、彼らはおそらく、ほかの復活した人々についても聞いたことでしょう。(マタイ27:52-53)

それでもなお、その証拠を目の当たりにしながらも、彼らはイエス様がキリストであることを信じませんでした。

そのため、弟子たちがイエス様の遺体を盗んだという噂を広めるために、彼らは番兵たちにお金を渡しました。律法を厳格に守ることで自分を誇る人々であったにもかかわらず、彼らはこのような嘘を広めたのです。

この行為を通じて、彼らはイエス様の言葉の真実性を証明することになりました。ラザロのたとえ話で、イエス様はこう言われました。

モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、誰が死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。(ルカ16:31)

イエス様とほかのユダヤ人たちがよみがえられたにもかかわらず、パリサイ人たちや祭司長たちはどうしても信じようとしませんでした。

今でも同じような人々がいます。あなたが神様の存在を示し、聖書やイエス様について彼らの疑問に答えたとしても、彼らは信じないかもしれません。

さらに、彼らは自分では説明できない事実を目撃することがあるでしょう。例えば、彼らがクリスチャンの知り合いのがんが癒される様子を目にするかもしれません。それでもなお、彼らはどうしても信じようとしません。

最終的に、イエス様を信じない人々がいます。彼らは信じることができないわけではありません。ただ、信じたくないのです。そして、神様が彼らに恵みを与えてくださらなければ、彼らは決して信じないでしょう。

では、私が言いたいことは何でしょうか。

祈り続けましょう。神様だけが彼らの目を開けることができるのです。パウロはこう語りました。

それでもなお私たちの福音に覆いがかかっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いがかかっていると言うことです。

彼らの場合は、この世の神が(つまり、サタン)、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(第二コリント4:3-4)

それでは、私たちは何を祈るべきでしょうか。それは、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、神様が彼らの心を照らしてくださるように祈るべきです。(第二コリント4:6)

実際、パウロ自身もそのようにして救われました。彼は霊的に盲目で、真理を拒んでいましたが、神様は文字通りにも、また比喩的にも、光をパウロに照らしてくださいました。その光によって、パウロの人生は完全に変えられました。

愛する人々の頑なな心を見て、失望を感じていませんか。あなたがどれほど何かを言ったり、行ったりしても、彼らの心を変えることはできません。けれども、神様にはその力があります。

だから、どうか諦めないでください。祈り続けましょう。熱心に祈りましょう。そして、神様の恵みによって、彼らが救われる可能性を信じましょう。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ27章 マタイ28章

だれも妨害できない神様の計画

ちょっと考えてみると、これは非常に面白い聖書の話です。

パリサイ人たちや祭司長たちは、弟子たちがイエス様の遺体を盗み、イエス様がよみがえられたと宣言することを懸念しました。そのため、彼らはピラトにイエス様の墓を警備するよう頼みました。

ピラトはその依頼を受け入れ、番兵を派遣しました。

ところが、三日目に地震が起こり、天使がイエス様の墓を覆っていた石を転がし、その石の上に座りました。番兵たちはその光景を目撃し、恐怖のあまり気を失いました。

パリサイ人たちや祭司長たちが混乱し、苛立っている様子を想像してみてください。おそらく、彼らは互いにこう問い合ったでしょう。

「どうして私たちは番兵を頼んだのだろう?空っぽの墓をどう説明すればいいのだろう?番兵たちが眠ったという話を信じる人はいないし、弟子たちが番兵を倒したという話も信じられるはずがない。一体どうしたらいいのだろう?」

この話から、私たちは重要な教訓を学ぶことができると思います。

人々は、神様の計画を妨害したり、自分の目的を果たそうとしたりして、さまざまな計画を立てることができます。

しかし、最終的には神様の計画を妨害することはできません。神様の目的は確固として立ち続けます。

多くの人々は人間の自由意志と神様の主権に関して疑問を抱くことがあります。私はそのすべての答えを持っているわけではありませんが、この箇所を通して、私たちはその答えの一端を見ることができると思います。

パリサイ人たちと祭司長たちは、自分たちの自由意志によって番兵を頼みました。神様はその選択を阻止することはありませんでした。

けれども、彼らが選択をした後、神様はご自身の選択をされました。

神様はイエス様を復活させ、石を転がし、番兵たちに恐怖を与えました。

このように、神様は私たちの選択を許してくださいます。しかし、その後、神様はご自身の選択をされます。だからこそ、私たちは神様の計画を妨害することはできません。

パリサイ人たちと祭司長たちはイエス様のお墓で神様の計画を阻止することができませんでした。そして、これからも神様の計画を妨害できる人は誰もいないでしょう。

だからこそ、確信を持って神様を賛美しましょう。神様はすべてを支配しておられ、その計画は必ず成し遂げられるからです。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

聖書が成就するため

この箇所を読むと明らかなのは、イエス様の死が偶然ではなかったということです。また、イエス様の死は神様の間違いでもありませんでした。むしろ、神様はこの時が始まる前から、私たちの救いを計画しておられたのです。

皮肉なことに、祭司長たちがイエス様がメシアであるしるしを求めたとき、イエス様は確かにそのしるしを与えられました。けれども、彼らはそのしるしを認識することができませんでした。

彼らはイエス様に十字架から降りるように挑戦しましたが、イエス様は預言の成就を示されました。

そして、イエス様は叫ばれたのです。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

祭司長たちは、イエス様がエリヤという預言者を呼ばれているのだと思いました。しかし、実際にはイエス様は彼らに詩篇22篇を指しておられたのです。なぜでしょうか。それは十字架の上でイエス様がダビデによって書かれた言葉を成就されたからです。

十字架の上で、イエス様は侮辱され、軽蔑されました。驚くべきことに、祭司長たちは知らず知らずのうちにダビデの詩篇を引用していたのです。詩篇22篇において、ダビデの敵はこう語りました。

主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。(詩篇22:8)

祭司長たちはイエス様について、こう言いました。

彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。「わたしは神の子だ」と言っているのだから。(マタイ27:43)

ダビデの時代には、十字架という刑罰はまだ存在していませんでした。それにもかかわらず、ダビデは十字架による死を生々しく描写しました。ダビデはこう語りました。

水のように 私は注ぎ出され、
骨はみな外れました。(詩篇22:14a)

実際には、十字架にかけられた人々の骨の関節がしばしば外れたとされています。

そして、ダビデはこう語りました。

心はろうのように
私のうちで溶けました。(詩篇22:14b)

ヨハネによれば、兵士がイエス様の脇腹を槍で突き刺したとき、血と水が流れ出ました。現代の医師によれば、その血と水が流れる現象は、心不全の兆候である可能性があるとされています。

さらに、ダビデはイエス様が喉が渇くことについても預言していました。

舌は上あごに貼り付いています。(詩篇22:15)

さらに、ダビデはイエス様の手と足が刺されることについても預言しました。(ダビデは釘ではなく、犬の歯や、場合によってはライオンの歯のような描写を使用しています。詳細については詩篇22篇の13節をご覧ください。)

犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。(詩篇22:16)

さらに、十字架にかけられた人々は、自分の胸郭を見ることができたとされています。

ダビデはそのような状況についても詩篇の中で描写しました。

私は自分の骨をみな数えることができます。(紙片22:17)

さらに、ダビデは兵士たちがイエス様の服をめぐって賭けをすることについても預言されました。

彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。(詩篇22:18)

それらの預言はイエス様を指していました。祭司長たちは聖書をよく知っていましたが、それを認識することができませんでした。

ヨハネは他の聖書の箇所も参考にしています。詩篇34篇と69篇、またゼカリヤ書12章もイエス様のことを指しています。

さらに、イザヤ書53章は特に具体的にイエス様のことを指しています。

イエス様は私たちの背きのために刺されました。また、イエス様は私たちの罪のために砕かれました。(5節)

証人たちがイエス様に言いがかりをつけたにもかかわらず、イエス様は何も言われませんでした。(7節)

イエス様は自分の敵のためにとりなしをされました。(12節)

イエス様は悪者たちと一緒に葬られるはずでしたが、最終的にお金持ちの人のお墓に葬られました。(9節)

そして、イエス様はよみがえられました。(10-11節)

だから、私はもう一度言います。イエス様の死は偶然ではありませんでした。時間が始まる前に、天の父はイエス様の死、そして私たちの救いを計画しておられたのです。

ですから、イエス様の十字架の御業を当たり前のものだと決して思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちの救いのため、またイエス様が支払われた代価のために、天の父をほめたたえましょう。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

全額が支払われた

私が大嫌いなことの一つは、税金を払うことです。毎年、私は税務署に行き、確定申告を提出します。その後、一か月ほどして税務署が少しお金を返してくれます。しかし、その直後には市民税や県民税を支払わなくてはなりません。

私はいつも一括払いで税金を支払います。もちろん分割払いも選択できますが、一括払いの方が自分には合っていると思います。そうすれば、次の年まで税金のことを考えなくても済むからです。

十字架の上で、イエス様の最後の言葉は、まるでその税金を支払うイメージを描写しているようでした。

12時になると、暗闇が全地を覆いました。そして15時ごろまで、その暗闇は続きました。おそらくその間に、神様は私たちの罪をすべてイエス様に負わせたのではないでしょうか。

その暗闇は罪の象徴だったのでしょう。罪によって霊的な暗闇がこの世にもたらされましたが、天の父はその罪をイエス様に負わせられました。

そして、15時ごろ、イエス様は叫ばれました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

その瞬間、おそらく天の父は、私たちの罪をイエス様に負わせ、イエス様に背を向けられたのではないでしょうか。それにより、天の父とイエス様との関係は初めて壊れてしまったのでしょう。

そしてイエス様は私たちが本来受けるべき罰を経験されました。つまり、イエス様は天の父から離れられたのです。

イエス様は完全な愛の源、喜びの源、そして命の源から離れられました。

そのような状態はまさに地獄そのものです。イエス様は実際に地獄に行かれたわけではありませんが、ある意味で地獄を経験されたのです。イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

そして、死を迎える直前、イエス様は天を仰ぎ、祈られました。

完了した。父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。(ルカ23:46;ヨハネ19:30)

「完了した。」

イエス様の時代、ユダヤ人たちが税金を支払うと、ローマ人はその言葉を請求書に捺印しました。その意味は、「全額が支払われた」ということです。

イエス様の死によって、私たちの罪のためのすべての負債が支払われました。

その結果はどうでしょうか。私たちは神様との新しい関係を持つことができるようになりました。神様は至聖所と聖所の間にかかっていた神殿の幕を、上から下まで真っ二つに裂かれました。(マルコ15:38)

その理由は何でしょうか。

その行為を通して、神様は私たちにこう語られたのです。「私たちの間にあった障害は破られた。イエス様を通して、あなたは私に近づくことができる。」

イスラエル人が経験したように(出エジプト記20:18-21)、私たちはもはや神様から遠くに立つ必要はありません。

むしろ、私たちは神様に近づくことが許されています。

だから、神様に近づきましょう。

へブル人への手紙の著者はこう述べています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19-22)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ19章

自分の苦しみを脇へ置くことができる?

私たちがどれほど自己中心的であるかを知りたいなら、悲しんでいるときの自分の反応を見るべきです。試練に直面し、苦しんでいるとき、私たちは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。

自己憐憫に浸るのは、ごく自然な反応かもしれません。

「どうして私はこんな試練に向き合わなければならないのか。いつまで苦しみ続けるのか。」——そう考えるのは普通のことです。

けれども、私たちが十字架を見るとき、イエス様は自分自身よりも、周りの人々に焦点を当てておられたことに気づきます。イエス様は一人の犯罪人を憐れみ、敵のために祈り、そしてこの場面では、母マリアへの深い愛を示されました。

マリアは十字架のもとで涙を流していました。彼女の長男は、ひどい罰を受け、死のふちに立たされていました。しかし、マリアの他の子どもたちは十字架の近くにはいなかったようです。

もしかすると、彼らはイエス様が狂っている(マルコ3:21)と思い、彼が家族に恥をかかせたと感じたのかもしれません。

だからこそ、他の息子や娘の姿はなく、マリアは十字架のもとで一人涙を流していました。家族からの慰めはありませんでした。

そのとき、イエス様は愛する弟子(おそらくヨハネ)を見て、マリアにこう言われました。

女の方、御覧なさい。あなたの息子です。(ヨハネの福音書19:26)

(当時、「女の方」という表現は、非常に丁寧で敬意を込めた言葉でした。)

そして、イエス様はヨハネにこう言われました。

御覧なさい。あなたの母です。(27)

その後、ヨハネはマリアを自分のもとへ引き取りました。

イエス様は、ご自身の苦しみだけを考える権利があったでしょう。彼は無実でした。この苦しみを受ける理由は何もありませんでした。

それでもイエス様は、自らの苦しみを脇へ置き、周りの人々を見て、愛を示されました。

あなたはどうでしょうか。

かつて、私の牧師の奥様は本当に素晴らしい方でした。私が知り合った人の中でも、彼女は最も愛を示す人の一人でした。彼女は亡くなるその日まで、変わることなく愛を示し続けました。

彼女はがんにかかり、少しずつ健康を失っていきました。最終的には、自分のベッドにずっといる状態となり、周りの人々が彼女を介護する必要がありました。それでも、彼女は自己憐憫に浸ることはありませんでした。

最後まで、彼女は介護してくれる人々にイエス様の愛で触れようとしていました。

もちろん、彼女は完全な人ではありませんでした。きっと、気が沈むこともあったでしょう。それでも、イエス様のように、彼女は自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々に愛を示しました。

あなたはどんな苦しみを経験しているでしょうか。どんな試練に直面しているでしょうか。

あなたは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。それとも、あなたは自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見ることができるでしょうか。

苦しみの中で自分自身に焦点を当てる心は、その苦しみに留まり続けます。しかし、自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見る心は、苦しみを越えて、もう一度喜びを見いだすのです。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

神様をののしること。神様の前にへりくだること。

これは、十字架にまつわる有名な話の一つです。イエス様の隣には、二人の犯罪人も十字架につけられました。そして、ルカはその二人についてこう記しています。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え、」と言った。(ルカ23:39)

「ののしり」という言葉が私の心に強く響きました。それを思い、こう考えました。「どれほどの人々が自分の罪による苦しみの中で、神様をののしるだろうか。」

この犯罪人は悪事を働いたために罰を受けていましたが、悔い改めることなく、その罰について不満を述べていました。

もしかすると、彼は自分の行為が正しいと思い込み、イエス様にこう叫んだのかもしれません。「あなたは本当にキリストなのですか。私はこの罰に値しない。私を救いなさい。」

他の福音書によれば、最初はもう一人の犯罪人もイエス様をののしっていました。しかし、おそらくイエス様は答えることなく、情け深く彼らを見つめられたのでしょう。

だからこそ、二人目の犯罪人は次第に静まっていったのかもしれません。彼が悟ったのは、ローマ人がイエス様の尊厳を奪おうとしていたにもかかわらず、イエス様がその尊厳を保ち続けておられたということでした。

さらに、彼はイエス様が敵に対して情けと愛と赦しの心を持っておられるのを目にしました。

もしかすると、その犯罪人は以前にイエス様の奇跡を目の当たりにしたことがあり、イエス様の教えを聞いたことがあったのかもしれません。

そして、彼は自分自身を見つめ直し、初めてこう認めたのでしょう。「やはり私は悪かったのだ。いろいろと言い訳をしたが、それはただの言い訳にすぎなかった。私は確かにこの罰に値する。」

だからこそ、もう一人の犯罪人がイエス様をののしり続けると、彼はこう言いました。

おまえは神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。

おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(40-41)

そして、彼はイエス様に向き直り、こう願いました。

イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(42)

私のただの想像にすぎませんが、たぶんイエス様は十字架の上で初めて微笑まれたのかもしれません。そしてイエス様はこう答えられました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。(43)

その瞬間、その犯罪人は救われました。彼は死にかけていながらも、命を見いだしたのです。

私は前にも述べましたが、多くの人々は一人目の犯罪人のような態度を取ります。彼らは悪事を行いますが、罰を受けて苦しむと、自分の悪さを認めることなく神様をののしるのです。

多くの人々が、なぜ神様が地獄で人々を永遠に罰するのか疑問を持ちます。

その理由の一つとして、地獄では誰も悔い改めないからかもしれません。むしろ、彼らは永遠に神様をののしり続けます。

彼らは自分の行為が正しかったと主張し続けます。彼らの心では、自分の悪さを理解していながらも、自分の罰について不平を言い続けるのです。

地獄では、人々は自分の罪深さを認識し、その罰に値することも理解していますが、それを決して認めることはありません。

しかし、自分の罪を認め、へりくだって悔い改める人は、二人目の犯罪人のように赦され、命を見いだすのです。

そのための時間は「今」しかありません。死んでからでは、すでに手遅れなのです。だからこそ、パウロはこう書きました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

あなたはどうでしょうか。イエス様の前にへりくだって来ることができるでしょうか。そして、イエス様からの救いを受け入れるでしょうか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ23章

彼らをお赦しください

多くの人々にとって、相手を許すことは非常に難しいことです。それは、私たちの心に深い傷があるからです。そして、その傷が深ければ深いほど、癒しにはより長い時間がかかります。

もし指を針で刺されたなら、癒しは早いでしょう。けれども、誰かが意図的にあなたの背中をナイフで刺したなら、その傷が癒えるには非常に長い時間を要するでしょう。

だからこそ、敵に対するイエス様の反応は本当に驚くべきものです。十字架の上で、イエス様はこう言われました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカの福音書23:34)

イエス様の言葉について、少し考えてみてください。

もし相手が自分が何をしているのか分かっていなかったなら、その人を許すことは比較的簡単なことでしょう。多くの場合、彼らが自分の行為に気づくとすぐに謝罪し、それを許しやすく感じることが多いからです。

しかし、もし相手が意図的にあなたを傷つけたのであれば、それを許すのは非常に難しいことです。

では、パリサイ人たちや祭司長たちの場合はどうでしょうか。彼らはイエス様にこう言ったでしょうか。

「あれ?イエス様、私たちの行為によって、あなたが十字架につけられているのですか。ごめんなさい。今すぐあなたを助けます。」

そうではありません。彼らは最初から意図的にイエス様を殺そうと計画していました。

彼らは代価を支払ってユダにイエス様を裏切らせました。最高法院での裁判のために偽りの証人を集め、さらにピラトやヘロデのもとでイエス様について数々の嘘をつきました。

彼らの影響力によって、ユダヤ人たちは「十字架につけろ!」と叫びました。それだけではなく、イエス様が十字架にかかっている間も、彼らはイエス様を侮辱し、からかいました。

では、イエス様は本当に「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言うことができたのでしょうか。彼らはすべてを理解していたように見えます。

それでも、彼らは実際には知りませんでした。彼らは自分の嫉妬によって目が曇らされていました。彼らのプライドや罪がその視野を曇らせていたのです。さらに、サタン自身が彼らの思いを暗くしたのです。

実は、私たち全員が、かつて霊的に盲目でした。

たとえ人々が意図的にあなたを傷つけたとしても、その理由は彼ら自身も霊的に盲目であるからかもしれません。

もしかすると、彼らはあなたにどれほどのダメージを与えたか気づいていないかもしれません。 もしくは、彼らは神様の目にはあなたが価値ある存在であることを知らないのかもしれません。

あるいは、彼ら自身が深い傷を抱えているため、思わずあなたを傷つけてしまうことがあるかもしれません。そして、自分の行為について自覚していない場合もあるでしょう。

例えば、ある男性は長年、家族を虐待していた父親を許せませんでした。けれども、神様はその男性に、その父親自身も子供の頃に虐待を受けていたことを明らかにされました。癒されていない傷が原因で、その父親は大人になってから自分の家族を傷つけてしまったのです。

その息子が父親の傷を理解したとき、父親に対する共感が生まれ、許すことができるようになりました。

私たちが相手を許せないときには、次のことのために祈るべきです。つまり、私たちが自分の傷から目をそらし、私たちを傷つけた人の心を理解できるように祈るのです。

イエス様は十字架の上でまさにそれをなさいました。イエス様はご自身の傷ではなく、イエス様を憎む人々のニーズに目を向けられました。その人々は決して悔い改めることはありませんでしたが、それでもイエス様は彼らを赦してくださいました。

神様の助けによって、あなたも相手の傷を理解することができるようになります。それでも、相手は悔い改めないかもしれません。

けれども、あなたが相手のことを理解することができたなら、あなた自身が変わります。あなたは自分の傷ではなく、相手の傷に焦点を当てるようになります。

そして、神様があなたの心にその人への愛と憐れみを注いでくださり、彼らを赦すことができるようになるのです。

許せない人がいるでしょうか。その人を理解できるように祈ってください。その人の傷を知ることができるように祈りましょう。そして、イエス様のように祈りましょう。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

神様が書かれたこと

ピラトと祭司長たちのやり取りは非常に興味深いものです。ピラトは十字架の上にイエス様の罪状書きを掲げました。その「犯罪」とは?

「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。

祭司長たちはすぐにピラトのもとへ行き、抗議しました。彼らはこう言いました。「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この者はユダヤ人の王と自称した』と書いてください。」

けれども、ピラトは答えました。「私が書いたものは、そのままにしておけ。」(ヨハネ19:21-22)

今もなお、多くの人々はユダヤ人たちのような態度を取っています。彼らはイエス様を王として認めようとしません。彼らはイエス様が神の子であると認めたくありません。また、イエス様だけが神様への道であると認めたくありません。

そのため、彼らはクリスチャンたちに不平を言います。

「イエス様がご自身を王や神の子や神様への道だと自称したかもしれませんが、私はそうは信じません。」

しかし、私たちはピラトとは違い、私たち自身よりも遥かに優れた権威を持つ方を指すことができます。私たちは彼らにこう言うことができます。

「神様が書かれたものは定められています。あなたはその言葉を変えることはできません。あなたは神様の御心を変えることもできません。神様の言葉は永遠に立ちます。あなたの不信が、神様の言葉を変えることはありません。」

人々はこのような言葉を聞きたくないでしょう。祭司長たちもピラトの言葉を聞いて激怒したはずです。けれども、相手がその言葉を好むかどうかは問題ではありません。なぜなら、神様の言葉は正しいのです。

だからこそ、人々は選択を迫られます。

彼らは自分の心をその真理に合わせるでしょうか。それとも、彼らが信じたいと思うものに真理を曲げようとするでしょうか。

しかし、もし彼らが真理を曲げようとするならば、最終的に彼らの人生は砕かれてしまいます。

イエス様はご自身について、こう言われました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。

「家を建てる者たち(つまり、祭司長たちや、ほかの宗教的なリーダーたち)が捨てた石(つまり、イエス様)、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」。。。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42,44)

祭司長たちがイエス様を拒絶した結果、彼らの世界は崩壊しました。エルサレムは滅び、神殿は破壊されました。そして、裁きの日には彼らは自分の罪によって裁きを受けることになるのです。

イエス様を拒絶するすべての人々にも同じことが起こります。なぜなら、神様が書かれたことは定められているからです。

その言葉を聞いて、あなたはどう応えるでしょうか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ23章

イエス様の心

イエス様の心を見て、私はいつも驚かされます。

この箇所では、私たちはイエス様を十字架へと導いた、憐れみ深い御心を見ることができます。

イエス様が丘を登られたとき、泣いている女性たちをご覧になり、こう言われました。

エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。

なぜなら人々が、「不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来るのですから。

そのとき、人々は山々に向かって「私たちの上に崩れ落ちよ」と言い、丘に向かって「私たちをおおえ」と言い始めます。

生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。(ルカの福音書23:28-31)

イエス様はご自身の境遇を顧みることなく、ユダヤ人たちがイエス様を拒絶した結果について預言されました。

つまり、「私が神様のいのちで満ち溢れているのに、ローマ人たちが私にこのようなことをするなら、彼らは霊的に枯れた人々に対してどうするでしょうか。

ローマ人たちはあなたたちを迫害し、あなたたちは死を望むようになります。その時、子供のいない人々をねたむほど絶望するでしょう。」

35~40年後に、イエス様の言葉は成就しました。ローマの軍隊はエルサレムを破壊したのです。

しかし、私の心に響いたのは、イエス様がそのことを決して望んでおられなかったことです。ユダヤ人たちがイエス様を憎んだにもかかわらず、イエス様は彼らの破壊を望まれることはありませんでした。むしろ、イエス様は彼らの救いを望まれました。

そして、イエス様は私たちの救いも望んでおられるのです。

そのため、イエス様は十字架へと向かわれました。イエス様はご自身だけでなく、私たちと私たちの必要を見てくださったのです。

このことを思い巡らしていると、一つの讃美歌が心に浮かびます。

And can it be that I should gain an interest in the Savior’s blood?
どうして、救い主の血によって、私が益を得ることができたのでしょうか。
Died He for me, who caused His pain—
私がイエス様の苦しみを引き起こしたのに、イエス様は私のために死んでくださいました。
For me, who Him to death pursued?
私がイエス様を死に追いやったのに、イエス様は私を愛しておられました。

Amazing love! How can it be,
なんという驚くべき愛でしょうか。そんなことが本当にあり得るでしょうか。
That Thou, my God, shouldst die for me?
私の神であるあなたが、どうして私のために死んでくださったのでしょうか。

ーーチャールズ・ウェズリー

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

もし私たちがイエス様の十字架を背負わなければならなかったら

クレネのシモンについて、私たちはほとんど知りません。マルコによれば、彼はルフォスという人の父でした。

ローマ書16:13では、パウロがルフォスという人に挨拶していることから、ある聖書学者たちはマルコの福音書のルフォスが同一人物だと考えています。

シモンは、おそらく北アフリカ出身のユダヤ人で、過ぎ越しの祭りを祝うために初めてエルサレムを訪れた巡礼者だったのでしょう。

ところが、エルサレムに到着した彼は、自分が思い描いていた以上の出来事を目撃することになりました。シモンは、まことの過ぎ越しの子羊が自分の罪のために犠牲となる瞬間を目の当たりにしたのです。(第一コリント5:7)

しかしその前に、シモンはイエス様の十字架を背負わなくてはなりませんでした。

最初はイエス様がご自身の十字架を背負われました。けれども、肉体的な苦しみ(イエス様はむち打たれ、大量の血を流され、兵士たちの拳で殴られました)や精神的な苦しみ(イエス様が愛された者たちに裏切られ、捨てられました)のため、その十字架の重さに耐えきれず、倒れてしまわれたのです。

イエス様はその十字架を背負い続けることができなくなられました。そこでシモンが代わりにその十字架を背負うこととなりました。

その出来事を読んで私はこう考えました。

もしイエス様がゴルゴタで「もういいです。私はもうこの苦しみに耐えられません。あなたがこの十字架を背負いなさい。あなたがこの十字架で死になさい。あなたはこの十字架に値するでしょう?私は罪を犯したことがありません。罪を犯したのはあなたです。」と言われたら、私たちはどうなっていたでしょうか。

ある意味で、シモンはそれを少し経験しました。イエス様が十字架を背負うことができなくなられたため、シモンは自分の十字架を背負わなければなりませんでした。

ですが、実際にはそれは本当はイエス様の十字架ではありませんでした。それはシモン自身の十字架だったのです。なぜなら、イエス様は罪を犯しておられませんでしたが、シモンは多くの罪を犯していたからです。

後になって、シモンはその真実を理解したのでしょうか。

「私は実際にはイエス様を助けていませんでした。本当にその十字架に値していたのは私自身でした。

実は、その十字架を背負ったとき、イエス様は私を助けようとしてくださっていました。私はその十字架で死ぬことに値していたのですが、イエス様が私の代わりに十字架で死んでくださったおかげで、私は罪から救われたのです。

でも、もしイエス様が十字架をもう耐えられなくなっていたら、私はどうなっていたでしょうか。私は今どこにいただろうか。」

その答えは?地獄です。なぜなら、私たち皆が地獄に値するからです。

しかし、イエス様は十字架を背負ってくださいました。イエス様は、私たちが値する罰を十字架の上で受けてくださるほど、私たちを愛してくださいました。

だからこそ、私たちの罪は赦され、真の命を得ることができるのです。それは、私たちを深く愛しておられる神様との関係を持つ人生です。

ですから、十字架を当たり前のものだと考えてはいけません。むしろ感謝の心を持って、私たちのために十字架で死んでくださったイエス様を仰ぎ見ましょう。

Jesus Christ,
イエス・キリスト
Praise your name,
あなたの御なをほめたたえます。
Lord I sing without shame.
主よ、私は恥じることなく歌います。

You bore the cross.
あなたは十字架を背負ってくださいました。
So much love.
こんなにも大きな愛で。
All my life, all I need is you.
私の一生、私が必要とするのは、あなたただ一人です。

ーージェームズ・ガブリエル

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ27章

イエス様の血が私たちの上に

全ての福音書を読むと、ユダヤ人たちの「十字架につけろ」という叫びは、私の心を深く揺さぶります。

イエス様はその言葉を聞いて、心から悲しまれたことでしょう。なぜなら、イエス様はその人々を本当に愛していたにもかかわらず、彼らはそのようなひどい言葉を叫んだからです。

ピラトはその言葉を聞き、無力を感じながら、群衆の前で手を洗い、こう言いました。

この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。(マタイの福音書27:24)

その群衆はそれを聞き、こう答えました。

その人の血は私たちや私たちの子供らの上に。

最終的にユダヤ人たちはその行為のゆえに苦しむことになりました。

彼らが自分のメシアを拒絶したため、西暦70年にローマの将軍タイタスがエルサレムを破壊し、多くのユダヤ人とその子供たちが殺されました。もちろんタイタスがその剣を振るいましたが、それはユダヤ人に対する神様の裁きでした。

けれども、ピラトと群衆の言葉について考えると、二つのことが私の心に強く響きます。

一つ目は、私たち全員がイエス様の死の責任を負っているということです。イエス様は私たちのために死なれたからです。

もし私たちが神様を拒絶しておらず、罪を犯していなかったならば、イエス様が死ぬ必要はなかったでしょう。したがって、イエス様の血はその時代のユダヤ人だけではなく、私たち全員の上にあるのです。

パウロはこのように書いています。

全ての人は罪を犯し「ました」。(ローマ3:23)

だから、ピラトとは違って「私には責任がない」と言える人は誰もいません。私たち全員がその責任を負っているのです。

とはいえ、「イエス様の血は私たちの上に」という言葉には、もう一つの重要な意味を見いだせると思います。(これが私の二番目のポイントです。)

もちろん、群衆が意味したのは「イエス様の死は私たちの責任だ」ということでした。

けれども、皮肉なことに、イエス様の血は私たちを覆い、私たちの罪を清めてくださるのです。私たちがイエス様を信じるなら、その血は私たちの罪を覆い、神様の目において私たちは義と認めてくださいます。

へブル人への手紙の著者は次のようにイエス様について書いています。

また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、体をきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:12-14)

だから、私たちの救い主に叫びましょう。

「あなたの血が私たちの上にあります。私たちは罪を犯したので、あなたの死の責任を負っています。

けれども、どうかあなたの血が私たちを覆ってください。あなたの恵みと憐れみによって、私たちを清め、赦し、完全にしてください。」

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ19章

あなたの王は誰でしょうか

ピラトと祭司長たちの会話を見てみると、聖書の物語の中でも最も皮肉な場面の一つが描かれています。

ピラトは神様をまったく知らなかったにもかかわらず、祭司長たちや他のユダヤ人に向かって叫びました。「見よ。お前たちの王だ。」

ピラトの言葉は、まさに真実でした。イエス様はユダヤ人の王だったのです。

しかし、神をよく知っているはずの祭司長たちはこう主張しました。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」

本来、「カエサルのほかには、私たちに王はない」と言うべき立場だったピラト。ところが、彼が「イエス様は王だ」と宣言したのです。

その反面、「イエス様は王」と言うべきだったユダヤ人たちは、むしろ「カエサルは王だ」と言い張りました。

祭司長がそう信じていなかったとしても、彼らは「神こそ王だ」と宣言すべきでした。しかし、怒りに駆られた彼らは、何も考えずに「カエサルは王だ」と叫んでしまったのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたの王は誰ですか。

祭司長とは違い、「イエス様は王だ」と言うかもしれません。けれども、あなたの行動はその言葉と一致しているでしょうか。

もしかすると、周りの人々はあなたの行動を見て、「あなたの王は会社だ」と言うかもしれません。なぜなら、仕事が最も大切だからです。

あるいは、「あなたの王は家族だ」と言われるでしょうか。

もしくは、「あなたの王は趣味だ」と言われるでしょうか。

日本では、最も大きな「神」として君臨しているのは、文化という存在かもしれません。

多くのクリスチャンにとっても、文化は王のように支配しています。

日本の文化に従うプレッシャーは非常に強く、だからこそ、人々は家族の平和を守るために、自分の信仰を妥協してしまうことがあります。

また、自分のキャリアを守るために、教会へ行くことをやめてしまう人もいます。

もし誰かがあなたの人生を見て、「これがあなたの神だ」と言ったら、それは何を指すでしょうか。

それはあなたの仕事でしょうか。

それとも、文化でしょうか。

あるいは、あなた自身でしょうか。

もしかすると、神を指すでしょうか。

もっと重要なのは、あなたの答えです。もしあなた自身の人生を振り返ったとき、あなたは正直に「神こそが私の神だ」と言えるでしょうか。

もしかすると、別のものを指すべきなのかもしれません。

あなたの王は誰でしょうか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ23章

イエス様が答えてくださらない人

この箇所では、私たちはイエス様に対するヘロデの反応を見ることができます。

しかし、より正確に言えば、私たちはヘロデに対するイエス様の反応を見ることができるのです。

このヘロデは、バプテスマのヨハネを殺害しました。そして、彼がイエス様のことを初めて聞いた時、イエス様が実はよみがえったヨハネではないかと疑問に思いました。(マタイ14:12; ルカ9:7-9)

そのため、ヘロデはイエス様に会いたいと思いました。一方で、パリサイ人によれば、ヘロデはイエス様を捕まえたいとも考えていました。(ルカ13:31-33)

しかし、この物語では、ついにヘロデはイエス様に会うことができました。彼はイエス様に奇跡を行うよう頼んだり、さまざまな質問を投げかけたりしましたが、イエス様は何もお答えになりませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、イエス様はヘロデが何を聞いても、イエス様を信じず、従わないことを知っていたからでしょう。

ヘロデは、かつて何度もバプテスマのヨハネの言葉を聞き、「非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」にもかかわらず、悔い改めることはありませんでした。(マルコ6:20)

ヘロデはイエス様に対しても同じ態度を取りました。ヘロデにとって、イエス様は興味深い存在であったかもしれません。もしかしたら、イエス様が何か奇跡を披露してくれると期待していたのかもしれません。

けれども、ヘロデはイエス様を重んじることはなく、イエス様に従う意思も全くありませんでした。そのため、イエス様は何もお答えになりませんでした。

この物語は私たちへの警告です。もし私たちがイエス様に対して頑なな心を持っているならば、イエス様は私たちに語りかけることをおやめになるかもしれません。

イエス様は、私たちの願望を叶えるためだけの存在ではありません。私たちは、イエス様を軽んじてはなりません。

イエス様は私たちの神です。

イエス様は私たちの王です。

イエス様は私たちの主です。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様をどのように考えますか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ27章 マルコの福音書 マルコ15章 ヨハネの福音書 ヨハネ18章 ヨハネ19章 ルカの福音書 ルカ23章

私たちには、基礎がないと

前にも言いましたが、この福音の箇所を統合するのは少し難しいです。 以下は私の個人的な意見ですが、どうぞ福音書を読んで、自分なりの結論を導いてください。

  • 祭司長たちや最高法院の代表たちは、イエス様をピラトの前に連れて行き、最初の告発をしました。(ルカ 23:1-2; ヨハネ 18:29-31)
  • ピラトは初めてイエス様と対話しました。(ヨハネ 18:33-38では、その話の詳しい内容が記されていますが、ほかの福音書では簡潔に要約されています。)
  • ピラトはイエス様が無実であると宣告しましたが、ユダヤ人のリーダーたちがその判断に抗議したため、ピラトはイエス様をヘロデのもとに送りました。(マルコ 15:3-5; ルカ 23:4-12)
  • ヘロデがイエス様をピラトに送り返し、ピラトはもう一度イエス様が無実であると宣告しました。(ルカ 23:13-17)
  • その後、ピラトはユダヤ人たちに「私はイエス様かバラバ(犯罪者)を釈放しようと思っているが、どちらを釈放すべきだと思うか」と尋ねました。けれども、ユダヤ人たちはバラバの釈放を望みました。(これはすべての福音書に記されています。)
  • ピラトはバラバを釈放しましたが、イエス様を殺すのではなく、むち打つように命じました。(マルコ 15:16-20; ルカ 23:21; ヨハネ 19:1-7)
  • ピラトはもう一度ユダヤ人たちを説得しようとしましたが、最終的にイエス様が十字架にかけられるよう命令しました。(ヨハネ 19:7-14)

その背景を踏まえて、今後数日にわたって、私はすべての主人公について話そうと思います。

今日はピラトについてお話したいと思います。

歴史書にはピラトに関する記述がありますが、私は聖書の物語だけを参考にしたいと思います。

この話を読むと、私はピラトに関してこう感じます。

「難しい決断をしなければならない時や、自分の人生の在り方を考える時、ピラトには強い基盤がなかった。」

ピラトが初めてイエス様を尋問した時、彼はまずイエス様が本当に反逆者かどうかを見極めたいと思いました。そのため彼は直接こう尋ねました。「お前は王なのか。」

イエス様はご自身が王であると主張されましたが、「私の国はこの世のものではありません」と語られたため、ピラトはイエス様がローマ帝国に対する脅威ではないと判断しました。ピラトにとって、それが最も重要なことでした。

しかし、イエス様は続けてピラトの世界観に異議を唱えられました。イエス様はこう言われました。

わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。(ヨハネ18:37b)

要するに、「ピラト、あなたは真理の味方でしょうか。 あなたは真理を愛しているでしょうか。 真理はあなたの基礎でしょうか。

もしそうであるならば、あなたは私の言葉を聞き、従わなくてはなりません。」

私たち皆もイエス様の質問と向き合わなければなりません。 私たちの人生の基礎は何でしょうか。その基礎は真理でしょうか。 イエス様が真理であることを信じるでしょうか。

ピラトもその疑問と向き合いました。彼の反応はどうだったでしょうか?

真理とは何なのか。(ヨハネ18:38)

私はピラトの声を本当に聞いてみたいです。

彼は怒ってこう言ったのかもしれません。 「あなたは自分が誰だと思うのか?すべての人々よりも、あなたは真理をよく知っていると思うのか。」

あるいは、皮肉っぽい声でこう言いたかったのかもしれません。 「真理?本当の真理なんてない。真理とは、力を持つ者が語るものだ。」

または、絶望を感じながらこう言ったのかもしれません。 「真理が本当に存在するのだろうか。たとえ真理が存在するとしても、私はそれを見つけられるだろうか。」

ピラトが本当に意味したものは私には分かりませんが、結局彼は真理の存在を拒絶しました。そしてイエス様を真理の源として拒絶しました。その結果はどうだったでしょうか?

彼が決断を下したとき、確固とした基盤を持っていませんでした。むしろ、彼は周囲の人々の言葉やプレッシャーに影響を受けました。

彼は暴動の脅威に直面しました。(マタイ27:24)

また、ユダヤ人の指導者たちはピラトの行為をカエサルに伝えると脅しました。(ヨハネ19:12)

そのプレッシャーを感じたピラトは、自分の恐れに負けて悪い決断をしました。彼自身がその決断が間違いであると十分に分かっていたにもかかわらず、それを選びました。

私たちにも同じようなことが起こるかもしれません。もし私たちが真理を基盤としなければ、もし私たちがイエス様を基盤としなければ、私たちは周囲の人々の意見や自分自身の恐れに左右されて決断します。そして、悪い決断をしてしまうのです。

あなたはどうでしょうか?決断を下すとき、あなたの基盤は何ですか?あなたの人生の基盤は何ですか?神様の知恵を求めていますか?神様の言葉が真理であることを信じていますか?

ヤコブはこう語っています。

あなたがたのうちに、知恵にかけている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱くもので、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。(ヤコブ1:5-8)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ27章

死をもたらす悲しみ

この話では、私たちはイスカリオテのユダの死について知ることができます。

イエス様が死刑を宣告されたのを見て、ユダは深く後悔し、祭司長たちと民の長老たちの元へ行き、こう言いました。

私は無実の人の血を打って罪を犯しました。(マタイの福音書27:4)

そして、ユダは受け取ったお金を返そうとしましたが、祭司長たちや長老たちはそのお金を受け取ることを拒みました。そのため、ユダはそのお金を神殿に投げ込んで立ち去り、その後、首を吊りました。

コリント人への手紙第二7章で、パウロは二種類の悲しみについて語っています。パウロはこう書きました。

神様のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(7:10a)

ペテロも同じような悲しみを経験しました。彼はイエス様を知ることを三度否定し、深い悲しみに包まれました。それでも、彼は悔い改め、赦されて、イエス様の弟子としての役割に戻ることができました。

それに対して、ユダは決して悔い改めることはありませんでした。もちろん、彼は自分の行為の結果を後悔しました。しかし、神様からの赦しを求める代わりに、ユダは自ら命を絶ちました。

パウロはこのような悲しみを「死をもたらす悲しみ」と呼びました。(第二コリント7:10b)

残念ながら、多くの人々はユダのような悲しみを経験しています。

彼らは自分の行為によって生じた悪い結果を目の当たりにし、赦される希望を持てないと感じています。その行為があまりにも重大であるため、神様が自分を赦すことなどできないと思い込んでいるのです。

私たちはそのような人々のために何をしているのでしょうか。

祭司長たちはユダに、神様からの赦しを知る手助けをするべきでした。ところが、彼らはそうしませんでした。むしろ、ユダの悲しみを見て、「で?もしあなたが悪いことをしたなら、それは自分の責任だ。私たちには関係ない。」と言い放ちました。

もちろん、祭司長たちは罪深い心を持っていたため、ユダを助けることができませんでした。ユダを助けるためには、彼ら自身の罪を認める必要があったでしょう。しかし、彼らは自分の罪を認めたくありませんでした。

皮肉なことに、そのお金が「血の代価」であるため、彼らはそのお金を神殿の金庫に入れることはできないと思いました。実際には、彼らは自分たちの罪を自覚していたのでしょう。

それでもなお、神様の祭司として、私たちは罪に苦しんでいる人々を助けるべきです。私たちはその役割を果たしているでしょうか。私たちは、彼らが悔い改めれば、神様が赦してくださることを伝えているでしょうか。

あるいは、彼らの苦しみに対して、私たちはむしろ喜んでいるでしょうか。「それはあなたの責任だ。身から出た錆だ。私に助けを求めるな。」と冷たく言い放っているでしょうか。

イエス様はペテロに厳しく責める権利を持っておられました。それどころか、ペテロだけでなく、すべての弟子たちに対しても、同じように責めることができたはずです。

けれども、イエス様はその代わりに、彼らに恵みを与えられました。神様からの赦しを示されたのです。その結果、彼らは悔い改め、人生が根本から変えられました。

イエス様は、私たちが周囲の人々に対しても、同じように恵みをもって接することを望んでおられます。あなたは、そのように行動しているでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ルカの福音書 ルカ22章

最も大切な質問

イエス様の裁判はいろいろな意味で本当にひどいものでした。

その最大の理由は、祭司たちと最高法院がイエス様が無実であることを十分に理解していたことです。 それにもかかわらず、彼らはイエス様を妬み、憎んでいたため、必死にイエス様を殺す理由を探し続けました。

神様の律法によれば、人を告発するには、二人の証人の証言が一致しなければなりませんでした。 けれども、彼らは証人たちを何人も尋問しましたが、証言が一致する二人の証人を見つけることができませんでした。

ようやく彼らは証言が一致していると思われる二人の証人を見つけたかのように思いました。その証人たちによれば、イエス様は「神殿を壊し、新しい神殿を建てる」と宣言されたというのです。

しかし、実際にイエス様が意味していたのは、「あなた方がこの神殿を壊しても、私はそれをよみがえらせる」ということでした。そして、イエス様がお話しされた神殿はヘロデの神殿ではなく、ご自身の死と復活に関するものでした。(ヨハネ2:19-21)

それにもかかわらず、大祭司がその証人たちを詳しく尋問すると、彼らの証言の中に矛盾があることが明らかになり、その証言は無効となりました。

フラストレーションを感じた大祭司は、イエス様を直接尋問することにしました。けれども、イエス様が沈黙を守り続けられたため、大祭司は叫びました。

私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。(マタイ26:63)

それは最も重要な質問です。 イエス様とは誰でしょうか。 イエス様は本当に神の子でしょうか。 イエス様は本当にキリストでしょうか。

ちなみに、「キリスト」というのは名前ではなく肩書です。簡単に説明すると、「キリスト」とは、「神様が約束された王」を意味します。

だからこそ、もしイエス様がキリストであるなら、私たちは自分の人生をイエス様に捧げるべきです。さらに、いつかイエス様は私たちを裁かれるお方です。だからこそ、イエス様は彼らに警告を与えられたのです。

あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。(マタイ26:64)

イエス様はダニエル書7章を参照されました。ダニエルによれば、すべての力と権威と栄光がメシアに与えられ、メシアに立ち向かう者たちは裁きを受けるということです。

祭司たちと最高法院はそれを聞いた時、どのように反応したでしょうか。 彼らはイエス様とその言葉を拒絶しました。イエス様が彼らのメシアであり、神の子であることを信じることを拒みました。

その代わりに、彼らはイエス様を神への冒涜で告発し、死刑を宣告しました。

多くの人々は同じように反応します。彼らは福音を聞き、イエス様の主張を理解します。 それにもかかわらず、イエス様を拒絶します。

むしろ、彼らは十字架で自分のために死んでくださった方を踏みつけます。 そのため、へブル人への手紙の著者によれば、彼らはいつか裁かれるのです。(へブル 10:28-30)

しかし、イエス様を信じて受け入れる人は、神の子どもとなる特権を与えられます。(ヨハネ 1:12)

あなたはどうしますか。 イエス様を拒絶しますか。それともイエス様を受け入れますか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ18章

私たちに真実を言う人を打つ?

この箇所では、私たちはイエス様の最初の裁判を目にします。アンナスという人物は裁判官でした。

カヤパが大祭司となる前、アンナスは大祭司でしたが、ローマ帝国が彼を退け、その代わりにカヤパを大祭司に任命しました。

それでも、ユダヤ人の指導者たちはなおアンナスを敬い、カヤパが大祭司であるにもかかわらず、アンナスの影響力は依然として非常に強かったと考えられます。

いずれにせよ、アンナスはイエス様に対し、弟子たちや教えについて尋問しました。けれども、イエス様は直接答えるのではなく、こう言われました。

わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。

なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。(ヨハネの福音書18:20-21)

要するに、「あなた方は律法を尊重すると主張しているでしょう。では、その律法に従いなさい。律法によれば、あなたがたが私を告発したいと思うなら、証人が必要です。証人たちはどこにいるのですか。」ということです。

けれども、イエス様がそう言われたとき、下役の一人がイエス様を打ち、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言いました。

それに対して、イエス様は答えられました。

わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。(23)

アンナスはそれを聞いて、返す言葉がありませんでした。なぜなら、イエス様の言葉は正しかったからです。そこで彼は、イエス様を正式な裁判のためにカヤパのもとへ送りました。

しかし、イエス様の問いは私に深く考えさせます。人々が私に真理を伝えるとき、私はどのように反応するでしょうか。特に、その真理が私の罪を指摘するとき、私はどう反応するでしょうか。

アンナスのように高慢になり、自分の過ちを認めないでしょうか。あるいは、アンナスの下役のように、その人を攻撃するでしょうか。

もしかすると、私はその真理を受け入れるでしょうか。

真理を聞くのがつらいときもあります。正直に言うと、私は頑固なので、神様が私に「ブルース、その人の言葉を聞きなさい」と語られることもあります。

それでも、時々私はその真理と戦います。自分の過ちを認めたくないからです。私はなお、自分の道を歩み続けたいと思うことがあります。

しかし、キリストの弟子として、私たちはそのように生きてはいけません。私たちは真理を愛するべきです。たとえ耳に痛くても、その真理を愛するべきです。

だから、ヤコブの言葉に従いましょう。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:21-22)

人々があなたに真理を伝えたとき、あなたはどのように反応するでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ18章 ルカの福音書 ルカ22章

自分の心を見極める

イエス様の裁判を見る前に、少しペテロの話を振り返りたいと思います。

この話については、福音書を統合するのが少し難しいです。 けれども、この話をよく理解すると、ペテロは実際にイエス様を知ることを4回否定したものの、証人たちの前では3回否定したようです。

ペテロの最初の否定は、大祭司の家の中庭で起こりました。

もう一人の弟子(もしかするとヨハネか、あるいは12弟子の外から来た弟子かもしれません)が大祭司をよく知っていたため、中庭に入りました。

そしてその弟子がペテロのことを保証したため、ペテロも中庭に入ることができました。(ヨハネ 18:15-16)

この話に、一人のしつこい女性が登場します。彼女は門番として働いていたので、ペテロが中庭に入った際にこう尋ねました。

あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。(ヨハネ18:17)

ペテロは「違う」と答えました。

そして、彼女から逃れたものの、ペテロが火に当たっていると、彼女は彼を追い、じっと見つめながら言いました。

あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。(マルコ14:67)

そして、大声で、彼女はその場の全員に向かって叫びました。

この人も、イエスと一緒にいました。(ルカ22:56)

それを聞いて、彼らはペテロに訊きました。

あなたもあの人の弟子ではないだろうね。(ヨハネ18:25)

ペテロはこのように答えました。

弟子ではない。何を言っているのか分からない。理解できない。(ヨハネ18:25b;マルコ14:68)

そして、ペテロはすぐに前庭の方に向かいました。 けれども、間もなく、その同じ女性がほかのしもべと共にペテロと対峙しました。

もしかすると、その友人は以前にペテロとイエス様を見たことがあったのかもしれません。 その時、門番はペテロを指して言いました。

「この人はあの人たちの仲間です。」(マルコ 14:69)

さらに、その友人も皆の前でこう言いました。

この人はあの人たちの仲間です。(マタイ26:71)

その中庭にいた一人がそれを聞き、ペテロをじっと見ました。 彼もペテロを認識し、大声で叫びました。

あなたも彼らの仲間だ。(ルカ22:58)

ペテロはそれを聞いて、誓いました。 「いや、違う。そんな人は知らない。」(マタイ 26:72;ルカ 22:58b)

その言葉を聞いて、たぶん皆は一瞬静まったかもしれません。 けれども、1時間後、別の大祭司のしもべが通りかかり、ペテロを見ました。

そのうえ、彼はペテロに耳を切り落とされた人の親類でした。 それで彼はこう言いました。

あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。(ヨハネ18:26)

ペテロがそれを否定しようとした時、別の人が大声で叫びました。

確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。ことばのなまりで分かる。(マタイ26:73;マルコ14:70)

それを聞いて、ペテロはパニックになり、もし自分が嘘をついているなら呪われてもよいと誓い始めました。そして叫びました。「そんな人は知らない。」(マタイ 26:74)

すると、鶏が鳴きました。

その瞬間、ペテロは大騒ぎの音を聞き、イエス様がピラトの元へ連れて行かれるところを見ました。そしてイエス様は振り向いてペテロをじっと見つめられました。ペテロは自分が何をしたのかを悟り、外に出て激しく泣きました。

これが私が福音書を統合して描いた話です。(もしかすると少し間違いが含まれているかもしれません。)

とにかく、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

ペテロを批判するのは簡単です。彼の臆病さや偽善を非難することもできるでしょう。しかし、そうする前に、私たちは自分自身の心をまず振り返るべきではないでしょうか。

実は、もし私がペテロだったなら、もっと勇気を持てたかどうか自信がありません。

私自身、十代の時に似たような経験をしました。友人に「君はクリスチャンか?」と尋ねられた時、その質問を避けようとしました。「はい」と正直に答えることができなかったのです。

今でもそのことを思い返すたびに恥ずかしい気持ちになります。

さらに、私は他のクリスチャンが様々な罪に陥るのを見たことがあります。特に性的な誘惑に負けることが多いです。

私自身もそのような誘惑に頻繁に直面します。そして、気をつけなければ私もその罪に陥るかもしれません。私は弱い存在です。神様の恵みによってのみ、私は立つことができています。

私たちが他の人が罪に陥るのを目撃する時、忘れてはならないことがあります。それは、私たち全員が弱いものであるということです。そして誰もが罪に陥る可能性があるのです。

ですから、他人を裁く前にその人を憐れみ、その人の回復のために祈りましょう。

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(ガラテヤ人への手紙6:1)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ18章 ルカの福音書 ルカ22章

力と権威、憐れみと恵み

この箇所では、イエス様の中に三つのことを見ることができます。

1.イエス様の力と権威。 イエス様は敵に取り囲まれていましたが、それでも状況を支配しておられました。

イエス様が立ち上がり、敵と向き合われた時、「誰を捜しているのか」と問いかけられました。 彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は「わたしがそれだ」と言われました。(ヨハネ 18:4-5)

日本語では分かりづらいですが、実はイエス様はこの時、神様の御名を使われました。(出エジプト 3:13-14;ヨハネ 8:58)

すると、イエス様の敵はその言葉を聞いた瞬間、地に倒れました。どれほどの恐怖を感じたことでしょうか。

そこで、イエス様は再び問いかけられました。「誰を捜しているのか。」(ヨハネ 18:6-7)

彼らはすっかり自信を失い、おどおどしながら答えました。「ナザレ人イエスを。。。」

彼らがイエス様の返事を待つ間、再び地に倒れる覚悟をしたかもしれません。けれども、イエス様は静かに答えられました。

わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。(ヨハネ18:8)

イエス様を捕らえに来たとしても、彼らは誰が本当の力を持っているのかを思い知らされました。 それは彼ら自身ではなく、イエス様でした。

2.イエス様の憐れみ。 敵はまだおどおどしていたため、弟子たちはその恐れにつけ込んで攻撃しようと思ったかもしれません。 すると、弟子の一人が叫びました。

主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

イエス様の答えを待たずに、ペテロは敵の一人を攻撃し、右の耳を切り落としました。 (もしかしたら、ペテロはその人の頭を斬ろうとしたものの、誤って耳だけを切り落としてしまったのかもしれません。)

けれども、イエス様は彼を叱責されました。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。(マタイ26:53)

昔の讃美歌には、こんな歌詞があります。

イエス様は、ご自身を解放するため、またこの世界を滅ぼすために、一万人の天使を呼ぶことができたでしょう。

実は、その作詞家は誤解していました。12軍団とは、約4万8千人から7万2千人ほどの規模を指します。

とにかく、イエス様はその敵だけでなく、世界のすべての人々を滅ぼすこともできました。 しかし、イエス様は彼らを憐れんでくださいました。イエス様は彼らを殺さず、むしろ彼らの命の代わりに、ご自身の命を捧げられました。

3.イエス様の恵み。 憐れみとは、相手が受けるべき罰を与えないことです。 恵みとは、相手が受ける資格のないものを与えることです。

この出来事では、イエス様は大祭司のしもべに恵みを示されました。 イエス様は彼の耳を癒してくださいました。(ルカ 22:51)

それはイエス様の最後の癒しの御業でした。 より正確に言うと、それはイエス様の最後の肉体的な癒しの御業でした。

十字架の御業を通して、イエス様は私たちに霊的な癒しをもたらしてくださいました。 イエス様の恵みによって、私たちの罪は赦され、私たちは永遠の命を得ることができます。

私たちがしなければならないことはただ一つだけです。それは、イエス様を信じることです。

力と権威。憐れみと恵み。私たちの主を描写するより優れた言葉があるでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ルカの福音書 ルカ22章

私の心と神様の心が違うとき

時に、私たちは試練と苦しみに直面します。例えば、重い病気にかかったり、信仰のために家族の問題が生じたり、ミニストリーで困難があったりする時、私たちは神様の助けを願います。

時に、神様は私たちの祈りに応えてくださり、素晴らしい方法で状況を変えてくださいます。

しかし、神様が私たちの祈りに応えないこともあります。この箇所では、そのような答えを見ます。

イエス様は同じことを三度祈られました。最初にイエス様はこう祈られました。

わが父よ、できることなら、この「十字架の苦しみの」杯をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)

イエス様はこの祈りを静かに言われたのではありませんでした。イエス様は地面にひれ伏し、切に祈られました。(マルコ 14:35)

さらに、イエス様は大きな苦しみを感じ、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

私たちがイエス様を思い描く時、穏やかなイエス様を想像することが多いでしょう。けれども、この時のイエス様はまったく落ち着いていませんでした。

天の父はイエス様の深い感情をよくご存じでした。天の父はイエス様を心から愛しておられました。それでもイエス様の祈りに応えられませんでした。

イエス様はそれを悟られ、こう祈られました。

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

それでも、イエス様は別の方法を求め続けたかもしれません。しかし、天の父はその祈りに応えられませんでした。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

あるクリスチャンたちはこう言います。「もしあなたが十分な信仰を持っていれば、神様はあなたの祈りを必ず叶えなくてはならない。」

けれども、それが真実ならば、私たちはイエス様の信仰が足りなかったと言わなければなりません。私たちは神の子を責めるでしょうか。

実は、私たちの心が神様の心と異なることもあります。神様は魔人ではありません。私たちは自分の願いに神様の心を無理に合わせることはできません。むしろ、私たちが自分の心を神様の心に合わせなければならないのです。

イエス様はその模範を示されました。イエス様は天の父が願いを叶えるよう強く主張されることはありませんでした。むしろ、イエス様は自分の心を天の父の心に合わせられました。私たちもそのようにすべきです。

そして、もし天の父が私たちの祈りに応えられない時、イエス様のように、私たちは立ち上がり、天の父の御心に従うべきです。

とはいえ、自分の力だけで神様の御心に従う必要はありません。あなたは、一人で試練に直面する必要はないのです。

イエス様も一人で試練に向かわれたわけではありません。イエス様の苦しみと痛みの中で、天の父はイエス様を励まし強めるために天使を送られました。天の父はあなたのためにも同じことをしてくださいます。

それだけではなく、御霊を通して、神様は直接私たちを慰めてくださいます。御霊は私たちの助け主であり、苦しむ時に私たちを支えてくださいます。(ヨハネ 14:16)

だから、パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26-28)

では、もし神様が私たちの祈りに応えられない時、私たちはどうすべきでしょうか。

私たちは神様を信頼すべきです。神様の方法が私たちの方法よりもはるかに優れていることを信じるべきです。

私たちが試練に直面している間も、神様が私たちを助けてくださることを信じるべきです。

そして、立ち上がり、神様の御心に従い続けるべきです。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ18章 ルカの福音書 ルカ22章

弱い

サタンが優しい存在だと言う人は誰もいません。サタンは私たちの肉体的な弱さや精神的な弱さを見つけると、すぐに攻撃してきます。

この箇所では、それがはっきりと分かります。イエス様と弟子たちがゲツセマネに着いたとき、イエス様は彼らに警告されました。

誘惑に陥らないように祈っていなさい。(ルカ22:40)

その時、弟子たちはすでに精神的に疲れ果てていました。彼らはまだイエス様の言葉を理解しようとしていました。つまり、イエス様が裏切られること、そしてイエス様が彼らのもとを去っていくことを、受け入れられなかったのです。

そのため、彼らは肉体的に、精神的に、そして霊的に弱くなりました。(ルカ 22:45)

だからこそ、イエス様が「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われたのに、彼らは眠ってしまいました。イエス様は何度も彼らに警告し、願われましたが、彼らは1度だけではなく、3度も眠ってしまいました。

その結果どうなったのでしょうか?イスカリオテのユダとユダヤ人の指導者たちがやって来ると、彼らは逃げ去ってしまいました。

しかし、イエス様はさらに過酷な試練に直面されました。イエス様は十字架を背負い、すべての人々の罪を担われました。その時、天の父はイエス様に背を向けられました。

この箇所では、イエス様の祈りをほんのわずかしか見ることができません。けれども、イエス様の最初の祈りは約1時間続き、その後さらに2度祈られました。

イエス様が祈るとき、その苦しみはあまりにも深く、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

さらに、その時、弟子たちは眠っていたため、イエス様には精神的な支えがありませんでした。

けれども、イエス様が弱さの中におられた時、天の父はイエス様を力づけてくださいました。

そして、天の父はイエス様を支えるために天使を遣わされたのです。(ルカ22章43節)

だから、捕らえられた時、イエス様は冷静に、最後の試練に直面する覚悟を決められました。

では、なぜ弟子たちは目を覚まして祈ることができなかったのに、イエス様はできたのでしょうか。

おそらく、イエス様は生前、毎朝目を覚まして祈ることを習慣としていたからです。 それは朝だけでなく、夜にも行われました。(マルコ 1:35、マタイ 14:23)

そのため、イエス様は最も弱い時に、日々の訓練によって培われたように自然に反応されたのです。

けれども、弟子たちはその訓練を積んでいなかったため、弱さの中で失敗してしまいました。

あるアメリカの有名なアメリカンフットボールの監督は、自分の選手たちと試合のビデオを見る際、相手チームの選手について語りました。 そのチームのある選手は、何度も同じミスを繰り返していました。そこで、その監督はこう言いました。

「その選手は練習の時、自分の技術について、きちんと気をつけなかったのだろう。 たぶん、彼はこう思ったのかもしれない。「正しいやり方はもうよく知っている。だから、今は気をつけなくても、試合の時にはちゃんとできるだろう」”

けれども、疲れ果てた時、人はただ反応するだけだ。 そして、その反応は、自分が普段どのように訓練してきたかによって決まるのだ。」

霊的な世界においても、これは同じです。

もし、あなたが 「私は困った時、何をすべきかよく知っている。だから、その時が来たらちゃんと祈るだろう」 と思っていたとしても、 毎日その訓練をしていなければ、肉体的に、そして精神的に疲れた時に、 あなたは本当に祈ることができるでしょうか。

そして、試練が訪れた時、弟子たちのようにあなたも自分の弱さに負けてしまうかもしれません。

しかし、もしイエス様のように、毎日神様を求め、目を覚まして神様と語るならば、 試練に直面した時、あなたは迷うことなく、すべきことを行い、固く立つことができるのです。

あなたはどうでしょうか? あなたは、毎日目を覚まして神様と語っていますか?

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マルコ14:38)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちに対するイエス様の望み

クリスチャンたちは本当に、イエス様が私たちに対して抱かれる望みを理解しているでしょうか。

以前の記事では、イエス様が私たちとの親しい関係を望まれていることを見ました。永遠の命とは、イエス様に近づき、イエス様を知り、イエス様に知られることです。

けれども、イエス様はそれだけではなく、他にも望まれることがあります。イエス様は、私たちが兄弟姉妹と共に一つとなることを望んでおられます。

イエス様はこのように祈られました。

わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。

父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。(ヨハネの福音書17:20-23)

イエス様は、私たちがイエス様と天の父のような関係を持つことを望まれます。イエス様と天の父が一つであるように、私たちも一つとなるべきです。

とはいえ、それはどういう意味なのでしょうか。

一つの意味は、目的の一致です。私たちが同じ目的を持ち、共に働くことです。その目的とは、福音を伝えることにほかなりません。

もう一つの意味は、互いに相手を自分より優れた者と考えることです。私たちは自分のことだけでなく、他の人のことも顧みます。(ピリピ2:3-4)

しかし、多くの場合、私たちはそのように生きていません。

そのため、ノンクリスチャンが私たちの教会に足を踏み入れると、そこには争いがあり、苦々しい心が見られることがあります。彼らはそのようなものを教会の外でも目にすることができるため、落胆し、すぐに教会を離れてしまいます。

それでも、当の教会の人々は自分のことで精いっぱいで、何が起こったのか気づいていないかもしれません。

イエス様は、それをご覧になると、深く悲しまれるのです。

周りの人々に対するあなたの行動や態度によって、どれほどイエス様を悲しませているでしょうか。あなたの苦々しい思いや、恨み、陰口を持つ心によって、イエス様はどれほど嘆かれるでしょうか。

その結果、イエス様だけでなく、私たち自身も苦しむことになります。

さらに、ノンクリスチャンは暗闇の中でつまずき続けます。なぜなら、彼らは教会の中に光がないと感じるからです。

あなたはどうでしょうか。あなたと他の教会のメンバーは、本当に一つとなっているでしょうか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ17章

聖別された。聖別されている途中。

「聖別」。

日本ではこの言葉がどれほど一般的に使われているかはわかりませんが、英語の “Sanctification” は「Christianese」、つまり「教会の中だけで使われる言葉」と見なされることがあります。

聖書の中で「聖別」という言葉を目にすることもあれば、教会の説教で耳にすることもあるでしょう。では、その言葉はどのような意味を持つのでしょうか。

基本的に、二つの意味があります。

一つ目は、神様の目的のために、他のものから選り別けられることです。

二つ目は、清められることです。

イエス様が弟子たちのために祈られたとき、その二つの意味を見ることができます。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。(ヨハネの福音書17:16-19)

まずは、19節を見てみましょう。イエス様が言われたのは、弟子たちが(また私たちが)聖別されるために、イエス様がご自身を聖別されたということです。

要するに、天の父の目的のためにイエス様がご自身を選り別けてこの世に来られ、十字架で死なれたということです。その働きによって、イエス様は私たちを聖別されました。つまり、イエス様は私たちの罪を清め、私たちを天の父のものとされました。

だから、私たちはこの世にいるにもかかわらず、もはやこの世のものではありません。私たちの考え方や生き方は、この世の民の考え方や生き方とはまったく異なります。だからこそ、彼らは私たちのことを理解できず、憎む人もいます。

それでも、私たちが聖別される過程は、今もなお続いています。

神様の言葉と働きを通して、私たちは罪とは何かを理解し、次第にその罪を憎むようになります。

そして、罪を犯したとき、神様の言葉が私たちの心を打ち、悲しみと悔い改めへと導かれます。そのようにして、神様は私たちを絶えず清め続けてくださいます。

また、神様の言葉を通して、私たちは神様の御心を知るようになります。神様は私たちに、どのように生きるべきかを教え、またどのように神様の国の目的を果たすかを示してくださいます。

その言葉を聞き、従うと、私たちは日々、さらに神様の目的のために聖別され、主に用いられる者となります。

だから、ある意味では、私たちはすでに聖別されました。なぜなら、十字架で流されたイエス様の血によって、私たちの罪は清められたからです。

しかし、別の意味では、私たちは今もなお聖別の途上にあります。

イエス様が私たちの聖別のために祈っておられるので、私たちもまたそう祈りましょう。

イエス様、毎日私をさらに聖別してください。 私がよりあなたの姿に似るように。 私が罪を憎み、天の父の御業に参加できるように。

私が失敗したときには、どうか私を赦し、引き上げてください。 日々、私を清め、あなたのものとしてくださいますように。

あなたのみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ17章

私たちが敵対的な世にいるのに。。。

この箇所では、イエス様が私たちへの深い愛をもって、私たちのために祈られる姿を見ることができます。

この真理を心に留めておきましょう。イエス様は私たちのために祈ってくださいます。

私たちはしばしば周りの人々のために祈ります。しかし、私たちの大祭司であるイエス様は、私たちのために祈ってくださいます。特に、イエス様は天の父が私たちを守ってくださるように祈られます。

もちろん、この箇所でイエス様は弟子たちのために祈られました。

けれども、イエス様が私たちのためにも祈っておられると信じます。なぜなら、イエス様が弟子たちを敵対する世へ遣わされたように、私たちもまた敵対する世へ遣わされているからです。そして、弟子たちが霊的な戦いに直面したように、私たちも霊的な戦いに直面しています。

だから、イエス様はこのように祈られました。(今もなお、イエス様は私たちのためにこのように祈っておられることでしょう。)

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。。。

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。

わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネの福音書17:11,14-15)

福音のゆえに、あなたを憎む人もいるかもしれません。

迫害の時が訪れることもあります。

それでも、イエス様が私たちのために祈ってくださるので、天の父はサタンの攻撃に限界を定めてくださいます。そして、神様の力に頼るなら、私たちは耐えられない試練を経験することはありません。

だからこそ、どんなにつらい試練に直面しても、揺るがず堅く立ちましょう。神様は常に私たちとともにおられるのです。

そして、あなたは必ずその試練を乗り越え、勝利を得ることを忘れないでください。なぜなら、イエス様はあなたのために祈っておられるのです。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ17章

永遠のいのちとは

「永遠のいのち」と聞くと、多くの人々は天国での永遠の幸せを思い浮かべます。もちろん、それは間違いではありません。けれども、不思議なことに、多くの人々は神様抜きの存在を想像してしまいます。

彼らは神様が天国におられることを理解しているかもしれません。とはいえ、天国では私たちは神様を真に知り、また神様に知られる存在であることについては、あまり考えようとしません。だから、この世にいる間も、まるで神様が存在しないかのように生きています。

これはノンクリスチャンだけの話ではありません。クリスチャンでさえ、そのように生きることがあります。

彼らは日曜日に教会へ行き、讃美歌を歌い、メッセージを聞きます。もしかしたら、平日でも時折聖書を読み、祈るかもしれません。けれども、それ以外の時間、彼らはまるで神様がおられないかのように日常を過ごしてしまいます。

仕事や家族、趣味は良いものですが、私たちはそれらに没頭しすぎて、神様との関係に十分な時間を投資しないことがあります。しかし、私たちの命、特に永遠の命は、神様との関係そのものなのです。

イエス様はこのように祈られました。

永遠のいのちとは、唯一の誠の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。(ヨハネの福音書17:3)

もちろん、私たちは永遠に生きます。とはいえ、イエス様は「永遠のいのち」とは単に永遠に生きることではないと語られました。

確かに、天国では私たちは幸せになるでしょう。とはいえ、イエス様は「永遠のいのち」とは単に幸せな人生を送ることではないとも語られました。

むしろ、「永遠のいのち」とは、神様を知ることです。また、イエス様を知ることです。

「永遠のいのち」とは、単に天の父とイエス様について知識を得ることではありません。

「永遠のいのち」とは、天の父とイエス様を親しく知ることです。

イエス様はこのように祈られました。

彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。。。わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。。。

父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。。。

わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。(21,23,24,26)

だから、私たちの人生の目的は神様を知ることです。

私たちの人生の目的は、神様に近づき、親しく知り、また神様に親しく知られることです。

つまり、永遠の命はただの未来の話ではありません。永遠の命は、今この瞬間から始まるのです。イエス様によれば、今もなおイエス様は天の父を現し、これからも現し続けてくださいます。

だから、私たちが天国に行くと、新しいことを始めるわけではありません。むしろ、天国は私たちがこの世で始めたことの続きなのです。

もしあなたが天国に着いたとき、まだ神様とただの知り合い程度の関係しかないなら、それはとても残念なことではありませんか。もし天国に着いたとき、あなたが神様をほとんど知らないなら、それは何とも惜しいことではありませんか。

この世で神様と親しい関係を築くなら、天国に着いたとき、どれほどの喜びを感じるでしょうか。

もしこの世で、毎日神様と話し、神様の声を聞き、人生の中で神様の働きを見て、さらに神様があなたを通して周りの人々に触れられることを目の当たりにするなら、やがて神様の御顔を仰ぐとき、どれほどの幸せに満たされるでしょうか。

私はそのような喜びを心から知りたいのです。毎日そのように生きているわけではないかもしれませんが、それでもそのように生きていきたいと願っています。

あなたはどうなのですか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ16章

平和と喜びを見つけるために

この箇所を読むと、弟子たちがイエス様の言葉に困惑していることが分かります。なぜなら、イエス様は去って行くと話されたからです。彼らはその言葉に囚われ、イエス様のほかの言葉がかすんでしまいました。

聖霊様の約束や、将来の祝福についてのイエス様の言葉に耳を傾けることなく、彼らは繰り返しこう思いました。「イエス様は去って行かれる。私たちはどうすればいいのか。」

だから、イエス様は彼らを励ますと同時に、警告を与えられました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。

あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。

そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。(ヨハネの福音書16:20-22)

イエス様の死と復活によって、その言葉は成就しました。

イエス様が十字架につけられたとき、敵は喜びましたが、弟子たちは絶望しました。けれども、よみがえられたイエス様を見たとき、彼らの悲しみは喜びに変わりました。

だから、彼らが迫害やさまざまな苦しみに直面しても、その喜びを奪うことができる者は誰もいませんでした。そして、その喜びを持って、彼らはこの世を変えたのです。

しかし、イエス様の言葉は私たちにも当てはまります。イエス様が再びこの世に来られるまで、私たちは多くの試練に直面します。今は、私たちの悲しみの時です。

パウロはこう書きました。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(ローマ人への手紙8:22-23)

けれども、イエス様がこの世に戻られるとき、私たちは御顔を直接見て喜ぶでしょう。そして、私たちの喜びを奪うことのできる者は誰もいません。

とはいえ、イエス様が戻られるまで、十字架の御業によって、私たちは神様に近づくことができます。

だから、イエス様のみ名によって、私たちは天の父に何でも求めることができ、神様はそれを与えてくださいます。そして、私たちの喜びは満ち溢れるようになります。(ヨハネ 15:23-24; 26-27)

時々、私たちはイエス様の言葉の例外ばかりを強調しすぎてしまうことがあります。

もちろん、私たちの祈りは神様の御心に沿うものでなければなりません。

確かに、もし私たちが誤って蛇を求めてしまったなら、神様はそれを断る権利を持っておられます。

けれども、その例外に囚われすぎると、私たちは神様に何も願わなくなってしまいます。

しかし、天の父は、私たちにためらわずに願ってほしいのです。

どれほど私たちは祈らないために、神様の祝福を逃しているでしょうか。

どれほど私たちは心の願いを神様に求めないために、喜びを不完全なものにしているでしょうか。

だから、願い求めましょう。

パウロの言葉を心に留めてください。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ人への手紙8:26-27)

時々、私たちは弱さのゆえに、何のために祈るべきか分からないことがあります。時には、誤ったことのために祈ってしまうことさえあります。けれども、そのようなとき、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちの益となるように祈ってくださいます。

だから、パウロはこう書きました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

だから、この三つのことを覚えて、安心しましょう。

1.私たちの事情がどんなに悪くても、イエス様はこの世に戻り、すべてを癒してくださいます。

2.神様が私たちを愛しているので、私たちは何でも願い求めることができます。そして、聖霊様が私たちのためにとりなし、私たちに良いものだけを与えてくださいます。

3.神様はご自身の計画に従い、すべてのことを私たちの益となるように働かせてくださいます。

この三つの約束を心に留めるなら、イエス様の言葉はあなたの心により深く響くでしょう。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(33)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ16章

御霊の働き

聖霊様とは誰でしょうか。今なお、多くのクリスチャンたちは聖霊様について混乱しています。

一つのことを心に留めておきましょう。聖霊様は「物」ではなく、「者」です。

聖霊様は単なる力ではなく、人格を持っておられます。

だからこそ、イエス様が聖霊様について話されるとき、聖霊様を「助け主」と呼ばれました。

このギリシャ語の言葉は翻訳が難しいものですが、ある意味では、聖霊様は弁護士のような存在です。サタンが私たちを責めようとするとき、聖霊様は私たちを弁護し、助言を与え、助けてくださいます。人格のない力には、そんなことはできません。

だからこそ、このことを理解し、心に留めましょう。聖霊様は人格を持つ方なのです。

サタンが私たちを責めるとき、聖霊様はイエス様とともに、天の父のみ前で私たちのためにとりなしてくださいます。

私たちがどう祈ればよいか分からないとき、聖霊様は私たちのために祈ってくださいます。(ローマ 8:26-27,34)

私たちが神様が本当に私たちを愛しておられるのか疑問に思うとき、聖霊様は「あなたは神様の子どもだよ」と思い出させてくださいます。(ローマ 8:15-16;第一ヨハネ 3:24)

そして、今日の箇所では、イエス様はさらに聖霊様の働きについて教えてくださいした。

その方(聖霊様)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさいます。(ヨハネの福音書16:8)

時々、私たちは人々の心を変える責任があると思いがちです。もちろん、私たちは福音の種を蒔き、水を注ぐ責任があります。

しかし、その種を成長させることができるのは、聖霊様だけです。人々の心を変えることができるのも、聖霊様だけです。

人々がイエス様を拒絶するとき、聖霊様は彼らの罪を明らかにされます。(ところで、この箇所における「罪」とは、一般的な悪行を指すのではなく、イエス様を拒絶することを意味します。)

イエス様が天に戻られたため、私たちはイエス様の義の模範を直接見ることができません。だからこそ、聖霊様は私たちに何が良いのかを教え、イエス様こそが救いの道であることを示してくださいます。

また、聖霊様は人々に将来の裁きについて警告されます。サタンが裁かれるのはもちろんですが、キリストを拒絶する者も裁かれます。

最後に、聖霊様は私たちをすべての真理へと導いてくださいます。私たちが聖書を読むとき、聖霊様はその言葉の意味を教えてくださいます。

初めて聖書の言葉を読むとき、その意味が分からないかもしれません。けれども、後になって私たちがその言葉を必要とするとき、聖霊様はそれを思い出させ、その意味を説明してくださいます。

もう一つのことに気づいてください。つまり、天の父とイエス様と聖霊様の交流です。

天の父が知っておられることは、イエス様も知っておられます。そして、イエス様が知っておられることを、聖霊様は正しい時に私たちに現してくださいました。

天の父、イエス様、聖霊様は唯一の神であり、調和して働かれます。

では、この真理が私たちにとってどんな意義を持つのでしょうか。

イエス様が「私たちの益のために天に戻る」と言われたとき、それは本気の言葉でした。なぜなら、聖霊様を通して神様ご自身が、イエス様を信じる者のうちに住んでおられるからです。

聖霊様は私たちを通して、周りの人々をイエス様へと導かれます。聖霊様は私たちの弁護士として働き、私たちのためにとりなし、教え、導いてくださいます。また、聖霊様は私たちを慰めてくださいます。

イエス様、聖霊様を私たちに与えてくださり、感謝します。聖霊様を通して、あなたは真にインマヌエル—「私たちとともにおられる神」です。

聖霊様、どうか毎日私たちを導き、教え、助けてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

カテゴリー
ヨハネ15章 ヨハネ16章

職業上の危険

私が初めて日本に来たとき、教会で英会話の授業を教えていました。

その頃、牧師のお嬢さんはキリスト教の幼稚園で働いていました。

ある日、一人の子供が彼女の手をハサミで刺しました。幸いにも、そのハサミの刃の先端が丸かったため、彼女は無事でした。

後日、彼女は私にこう言いました。「私の幼稚園では英語の先生が必要です。そこで働きませんか。」

私はそのハサミの話を覚えていたので、断りました。そんな職業上の危険には全く興味がなかったからです。😄

しかし、クリスチャンとして、私たちは避けられない「職業上の危険」があります。もし私たちがイエス様のことを伝えるなら、怒る人がいるでしょう。私たちを憎む人もいるでしょう。

イエス様はこう言われました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。

しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(ヨハネの福音書15:18-21)

イエス様は完全な愛そのものでした。そして、完全な人生を歩まれました。それでも、人々は彼を憎みました。

私たちはイエス様の運命を避けられると思うでしょうか。

もちろん、すべての人々が私たちを憎むわけではありません。私たちがイエス様の真理を伝えると、私たちを愛する人もいます。けれども、イエス様のメッセージを曲げることを拒むなら、ときに相手の反応は敵対的になってしまいます。

残念なことですが、そのために多くのクリスチャンがメッセージを曲げてしまいます。なぜでしょうか。憎まれたくないから。争いを避けたいから。

私の言葉を誤解しないでください。私たちは、あえて争いを求めるべきではありません。

しかし、私たちがイエス様のメッセージを正しく伝えるなら、私たちを憎む人が現れるのは当然のことです。自然に対立が生じるでしょう。でも、それが私たちの目的ではありません。

それでも、イエス様のメッセージを伝えるとき、私たちは争いを恐れてはいけません。むしろ、「神様の計画のすべてを、余すところなく」知らせなくてはなりません。(使徒の働き20:27)

イエス様は決して争いを恐れませんでした。まして、私たちはなおさらです。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ15章

愛の戒め

私たちクリスチャンが「互いに愛し合いなさい」というイエス様の戒めの意味を本当に理解できているのか、私は疑問に思います。

ひとつの意味は、愛がただの感情ではないということです。

神様でさえ、私たちに自分の感情を変えるよう命じることはできません。

例えば、私があなたに「私に怒りなさい」と言っても、あなたに怒る理由がなければ、怒ることはできないでしょう。

けれども、私があなたを殴れば、当然すぐに怒るでしょう。なぜなら、怒りは感情だからです。私たちの状況によって、怒りは自然に湧き上がります。

また、落ち込んでいる人に「元気になりなさい」と言っても、その人は急に嬉しくなることはないでしょう。私たちは状況によって喜びを感じるからです。

しかし、イエス様は私たちに「互いに愛し合いなさい」と命じられます。

もし愛がただのセンチメンタルな感情であるならば、イエス様は「愛し合いなさい」と命じることはできなかったでしょう。なぜなら、愛は周りの人々との関係によるものだからです。仲が良ければ愛せますが、そうでなければ愛せません。

では、愛とは何でしょうか。それは、私たちが相手を価値ある存在としてみなし、その態度をもって接することです。

イエス様はそのような愛の最高の表現を示されました。

人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きいな愛は誰も持っていません。(ヨハネの福音書15:13)

つまり、最高の愛とは、自分自身よりも相手を大切にすることです。

イエス様は私たちにそのような愛を示してくださいました。イエス様は天を離れ、この世に来られ、私たちの罪のために死んでくださいました。その愛は、私たちが受けるべき罰を代わりに背負われるほどのものでした。

だから、イエス様が私たちを大切にされたように、私たちも周りの人々を大切にするべきです。彼らのために命を捨てるほどに、私たちは彼らを愛するべきです。

「でも、それは無理でしょう。あなたは私が毎日どんな人を扱わなくてはならないか知らないでしょう。私自身を彼らのために犠牲にするべきでしょうか。そんなに彼らを大切にするべきでしょうか。」

はい、そのとおりです。

けれども、それができるようになるためには、新しい心が必要です。そして、私たちがぶどうの木に繋がってこそ、その変化は可能となるのです。

あなたが神様の愛を受けると、失敗や罪があっても、神様があなたを愛してくださることが分かります。その神様の愛を理解すると、相手の失敗や罪があっても、あなたは彼らを愛せるようになります。

とはいえ、イエス様に繋がらず、神様の愛を常に受けていないなら、相手にそのような愛を示すのは難しいでしょう。

あなたの周りに、愛するのが難しい人がいるでしょうか。正直に言うと、私の周りにもそういう人がいます。

けれども、愛はただの感情ではありません。愛は選択です。

しかし、神様の私たちへの愛を理解していなければ、私たちはそのような選択をすることはできません。

だからこそ、神様に近づきましょう。私たちが神様の愛に根ざすことができるように。そうすると、神様の愛が私たちを通して流れ、私たちは愛の実を結ぶのです。

この世は、そのような愛を必死に探しています。

あなたは、どうしますか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ15章

私たちが実を結ぶように祈る

この箇所で、イエス様は非常に驚くべき約束をされます。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。(ヨハネの福音書15:7)

このイエス様の言葉を読むと、多くの人々は「では、私が長者になるように祈ろう」と考えます。

しかし、イエス様の言葉を注意深く読んでください。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら。。。」

前回の記事で、私はイエス様にとどまることについて話しました。それは、イエス様に信頼する人生を送ることです。つまり、私たちはイエス様が私たちの最善を知り、私たちの最善を求めておられることを信じるのです。

完全に神様に信頼する人は、お金に執着するでしょうか。それはありえないと思います。

お金や持ち物などの一時的なものを求めるのではなく、その人は何を追求するでしょうか。

その人は神様との関係を追求します。また、その人は神様の国のために、周りの人々に触れたいと思います。要するに、その人は神様のために実を結びたいと願うのです。

だから、イエス様は8節でこう言われました。

あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(8)

私たちが何でも欲しいものを求めるという教えの文脈は、イエス様のために実を結ぶことです。

イエス様は続けて語られます。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(16a)

そう言った後、イエス様はもう一度語られます。

また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(16b)

実を結ぶ方法のひとつは何でしょうか。他のどんなことよりも、イエス様はこのことを望まれます。

あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。(17)

こうすることで、私たちは周りの人々に神様の性格を示し、この世に触れることができます。そのようにして、私たちは実を結びます。それだけではなく、永遠に残る実を結ぶのです。

もし私たちが変えられた心を持つなら、つまり、一時的なものではなく永遠のものに焦点を当てる心を持つなら、神様は喜んで私たちの祈りをかなえてくださいます。なぜなら、私たちがさらに多くの実を結ぶからです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様にとどまっているでしょうか。何よりもイエス様を喜ばせたいと思うでしょうか。イエス様に仕え、この世に触れたいと思うでしょうか。

それとも、一時的なものにまだ執着しているでしょうか。

あなたの心の状態はどうですか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ15章

イエス様にとどまる必要

前回の記事で、私は私たちの人生における天の父の働きについて話しました。

つまり、私たちの義や実は、自分の努力からではなく、天の父の働きによって生まれるのです。イエス様のみ言葉を通して、天の父は私たちを清めてくださいます(ヨハネの福音書15:3)。

また、私たちが失敗したり、罪を犯したりするとき、天の父は私たちを支え、実を結ぶように刈り込んでくださいます。

では、私たちの実が天の父の働きによって生まれるのであれば、私たちは何もしなくてよいのでしょうか。

そうではありません。私たちがすべきことが一つあります。それは、イエス様にとどまることです。

それはどういう意味でしょうか。

私たちはイエス様との親しい関係を保つべきです。

私たちはイエス様を人生の中心に据えるべきです。

また、イエス様と時間を過ごすべきです。

私たちはイエス様の言葉を聞き、その言葉に従うべきです。

イエス様はこう言われました。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。

わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。(ヨハネの福音書15:9-10)

以前の記事で私は述べましたが、イエス様は単に「私の言葉に従いなさい」と言われただけではありません。

イエス様は、「私に信頼しなさい。私はあなたを愛しているから。私はあなたの最善を望んでいる」と語られました。

誰かを信頼できなければ、その人との関係を築くことは非常に難しいものです。もし私たちが神様に「あなたに信頼できません」と言うなら、その関係には距離が生まれてしまいます。

けれども、私たちが神様を信じ、その言葉に従えば従うほど、神様との関係はますます親しくなります。

私たちは神様を信頼するからこそ、その言葉に従います。そして、従うことによって神様の祝福を見て、神様が私たちの最善を望んでおられることを悟るのです。

だからこそ、私たちは神様をさらに愛し、信頼し、喜んで神様の言葉にますます従います。そして神様の祝福をさらに経験することで、私たちはますます神様を愛し、信頼するようになります。

このような神様との関係を持つことで、私たちは多くの実を結ぶのです。

しかし、もし私たちが決して神様を信じることを学ばなければ、どうなるでしょうか。私たちは決して実を結ぶことができません。

イエス様はこう言われました。

わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。

わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。(15:4-6)

あなたはどうですか。あなたは神様と共に歩み、神様を愛し、信頼するでしょうか。そうすることで、あなたは実を結ぶことができます。

もしその関係がなければ、あなたが何をしても、神様を喜ばせることはできません。そして、不信を捨てなければ、ユダのように、枯れて燃えてしまうのです。

しかし、神様と共に歩むなら、あなたは実を結び、喜びを知ることができます。

イエス様はこう言われました。

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。(11)

どうすれば、神様との信頼関係を築き始めることができるでしょうか。

まず、あなたの救いのためにイエス様に信頼することが必要です。

ヨハネはこう書きました。

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ(ること)。。。それが神の命令です。(第一ヨハネ3:23)

もしあなたがまだ神様との関係を持っていないなら、今日その関係を始めてみませんか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ15章

上げられて、刈り込まれた

キリスト教をほかの宗教と比べると、一つの大きな違いは、私たちの義が自分の努力によるものではないことです。むしろ、神様が私たちの心を変えてくださるので、私たちのふるまいが変わり始めるのです。

旧約聖書において、神様はこの概念を初めて教えられました。神様はエレミヤを通して、こう言われました。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。。。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:31,33)

また、神様はエゼキエルを通してこう言われました。

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(エゼキエル36:26-27)

そして、今日のヨハネの箇所では、イエス様は神様の働きをさらに詳しく説明されています。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。(ヨハネの福音書15:1-2)

イエス様によれば、天の父は実を結ばない枝を取り除き、実を結んでいる枝をさらに多く実を結ぶように刈り込まれます。

では、神様が実を結ばない枝を取り除くとはどういう意味なのでしょうか。

私は、それがクリスチャンが救いを失うということではないと思います。他の聖書の箇所がその考えを否定しているからです。

この意味について、二つの可能性があると思います。

第一に、イエス様はイスカリオテ・ユダのような人々について話しているのかもしれません。

ユダはイエス様のもとに来て、多くのことを学びました。彼は実際に弟子となりました。けれども、最終的に彼は実を結びませんでした。彼はイエス様を心から信じることはありませんでした。だからこそ、彼は取り除かれてしまったのです。

今日でも、多くの人々が教会に通い、聖書から学んでいます。ところが、彼らは本当にその言葉を信じることはありません。そのため、彼らもまた取り除かれるのです。

しかし、もう一つの可能性があります。

「取り除く」という言葉は、「上げる」とも訳すことができます。

もしかすると、イエス様が意味されたのは、天の父が実を結ばない枝を日差しにさらすように持ち上げることだったのかもしれません。

そうすることで、その枝はより多くの栄養を受け、健康になり、やがて実を結び始めるのです。

このように、神様は私たちを罪や失敗から引き上げ、私たちが実を結ぶように、私たちの心の中で働かれます。そして、私たちが実を結び始めると、神様はその実の成長を妨げるものを刈り込まれます。

神様はペテロのためにもそのようにしてくださいました。

ペテロはイエス様を裏切ったことで深く落ち込んでいました。けれども、イエス様は彼を引き上げ、励まされました。

イエス様はペテロが自分自身を変えるのを待たれませんでした。むしろ、イエス様はペテロのもとに行き、彼の心に働きかけ、憂鬱から引き上げて、前に進めるように促されたのです。

とはいえ、ペテロが実を結び始めると、イエス様は「では、私の働きは終わりだ」と言われることはありませんでした。

むしろ、イエス様はペテロの偏見を刈り込まれたことで、ペテロはかつて見下していた異邦人にも福音を伝え始めたのです。(使徒の働き10-11)

ところが、その過程はまだ終わっていなかったのです。

ペテロは再び失敗しましたが、イエス様はもう一度ペテロを引き上げ、さらに刈り込まれました。(ガラテヤ人への手紙2:11-14)

あなた自身はどうでしょうか。クリスチャン生活を振り返ると、失望することがありますか。

神様があなたを責めることはなく、決してあきらめることもない、ということを心に留めておきましょう。

むしろ、あなたが完全になるまで、神様はあなたの心の中で働き続けておられます。

だから、神様から逃げず、むしろ神様に近づき、とどまりましょう。そうすることで、あなたは実を結ぶのです。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ15章

実を結ぶために選ばれました

この有名な箇所で、イエス様は私たちと神様との関係を素晴らしい描写で示されています。

イエス様はご自身を「ぶどうの木」と呼ばれます。

旧約聖書では、神様はイスラエルを「ぶどうの木」として表されました。

本来、イスラエル人は神様のために実を結び、その実を通して周囲の国民が神様に近づくはずでした。けれども、彼らの不従順のために悪い実ばかりを結び、神様は彼らを裁かれました。(イザヤ5:1-7、エレミヤ2:21)

だから、イエス様はご自身を単なる「ぶどうの木」ではなく、「まことのぶどうの木」と呼ばれました。なぜなら、イエス様の実を通して人々が神様に近づくだけでなく、イエス様の働きを通して救われるからです。

そして、イエス様は私たちを「枝」と呼ばれます。

16節で、イエス様はこう言われました。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。

それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。。。(ヨハネの福音書15:16)

実を結ぶとはどういう意味でしょうか。ひとつの意味は、神様に変えられた人生を生きることです。

パウロは、かつての私たちの罪深い生き方について語った後、こう言いました。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)

つまり、私たちが本当にクリスチャンになれば、私たちの人生はそのことを証明するはずです。かつての人生と比べると、私たちの生き方や考え方は変わるはずです。

そして、私たちの人生が変われば変わるほど、私たちは周りの人々に影響を与え始めます。彼らは私たちの中に神様を見て、神様に近づき、救われるのです。

それは、かつてイスラエルのために神様が立てられた最初の計画でしたが、今は、それが私たちのための神様の計画です。

ペテロはこう言いました。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。

それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(第一ペテロ2:9)

あなたは、実を結ぶために神様に選ばれました。あなたは、その実を結んでいるでしょうか。

カテゴリー
ルカの福音書 ルカ22章

敵対的な世に直面するとき

イエス様と弟子たちが二階の大広間を出られると、イエス様は彼らにこう尋ねられました。

わたしがあなたがたを財布も袋も履物も持たせずに遣わしたとき、何か足りないものがありましたか。(ルカの福音書22:35)

その以前、イエス様は弟子たちをイスラエル各地に福音を述べ伝えるために二度遣わされました。(ルカ 9ー10章)

その際、イエス様は、彼らに何も持たず、訪れる町の人々のもてなしに頼るよう命じられました。

イエス様の人気が最高潮に達していたころ、人々は弟子たちの必要を満たしてくれました。時には弟子たちが敵対的な人々に出会うこともありましたが、彼らを歓迎する者もいました。(ルカ 22:35b)

ところが、状況は変わりました。イエス様は「不法な者たちとともに数えられた」ため、彼らに敵対する者が増えていったのです。(37ー38)

かつて弟子たちを歓迎していた人々は、もはや彼らを迎え入れませんでした。そこで、イエス様は弟子たちに警告を与えられました。

しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。(ルカの福音書22:36)

つまり、「これから、私についていくことは非常に危険です。だから、十分に用心しなさい。」ということです。

弟子たちは答えました。

主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります。(38)

要するに、「心配しないでください。誰かが私たちを攻撃したら、私たちは反撃できます。」ということです。

実際、ゲツセマネでペテロはそれを実行しようとしました。

けれども、イエス様はこのよいに答えられました。

それで十分。(38)

私は確かではありませんが、もしかすると、イエス様がそれを言われたとき、少し憤りを感じられたかもしれません。なぜなら、イエス様の意図は、暴力に暴力で対抗することではなかったからです。

むしろ、イエス様の本当のメッセージは、「敵対する人に出会うとき、自分の心を整えなさい」ということでした。

イエス様は、私たちにも同じことを語られます。

後にヨハネの福音書で私たちは読むことになりますが、イエス様は弟子たち(また私たち)に警告されました。

「私のために、人々はあなたを憎みます。彼らはあなたを迫害します。そのとき、驚いてはいけません。」

もちろん、私たちはノンクリスチャンを愛し、福音を伝えるべきです。とはいえ、同時に私たちは警戒しなければなりません。

イエス様のために、私たちを憎む人もいます。私たちを裏切る人もいます。私たちを傷つける人もいます。そして、私たちが愛している者でさえ、そうするかもしれません。

だからこそ、イエス様の言葉を心に刻みましょう。

いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。

ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。人々には用心しなさい。(マタイ10:16-17)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ14章

捨てられていない

最近まで、私の娘はよく私と妻の部屋に来て、私たちのベッドに登り、私たちの間で寝ていました。

私たちが「どうしてここに来たの?」と尋ねると、彼女は「寂しかった」と答えました。

おそらく、私たちは皆、寂しさを感じたことがあるでしょう。

イエス様が「わたしは去って行く」と言われたとき、弟子たちは同じように感じたに違いありません。けれども、イエス様は彼らにこう言われました。

そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。

世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。

しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。。。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネの福音書14:16-21,23)

イエス様の言葉から、私たちは三位一体を知ることができます。また、その言葉を通して、大切な真理を学ぶことができます。三位一体の神様は、私たちと共におられます。

イエス様が約束されたのは、もう一人の助け主、つまり御霊を送ってくださることです。そして、御霊は私たちを教え、イエス様の言葉を思い起こさせてくださいます。

さらに、イエス様はご自身が私たちのもとに来られると約束されました。イエス様は私たちを捨てて孤児にはなさいません。

最後に、イエス様は、天の父が私たちのもとに来て、共に住まわれると約束されました。

しかし、私たちが心に留めておくべきことがあります。私たちは神様の言葉に従わなければなりません。だから、前回の記事の教訓は非常に大切だと思います。

つまり、私たちは神様の言葉に従うほどに、神様を信じることができるでしょうかという問いかけです。だから、ヨハネの福音書14章の冒頭で、イエス様はこう言われました。

神を信じ、またわたしを信じなさい。(1)

神様を信じなければ、神様との関係を築くことはできません。

また、私たちは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を喜ばせたいと願うほどに、神様を愛しているでしょうか。罪を避けたいと願うほどに、神様を愛しているでしょうか。

もし私たちが神様を信じ、愛し、従うなら、神様の臨在を深く知ることができます。だから、良いときも悪いときも、神様からの平安を経験することができるのです。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(27)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ14章

私たちが本当にイエス様を愛しているなら

この箇所を読むと、多くの人々は驚くことでしょう。

イエス様はこう言われました。

もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネの福音書14:15)

少し考えてみてください。もし、あなたの恋人や夫、妻が「もし私を愛しているなら、あなたは私の戒めを守るはずです」と言ったら、あなたはどう反応するでしょうか。

多くの人々は「そんなの嫌だ」と答え、その人と絶交するかもしれません。

けれども、私たちのイエス様との関係について、次のことを心に留めておきましょう。

第一に、イエス様は私たちの救い主であるだけでなく、私たちの主でもあるということです。しかし、イエス様は、自分の歪んだ喜びのために私たちの人生を惨めなものにしようとされるのではありません。むしろ、イエス様は私たちを深く愛し、私たちの最善を望んでおられます。

さらに、イエス様は私たちの創造者であり、私たちの人生のデザインを完全にご存じです。そのため、イエス様の言葉に従うなら、私たちの人生は祝福され、うまくいくのです。

だからこそ、イエス様は「私の言葉に従いなさい」と命じるのではなく、こう言われます。「私を信じなさい。あなたが私を愛しているなら、私を信じなさい。私はあなたの最善を知り、それを心から願っているからです。」

残念ながら、私たちの経験では、多くの人々が「こうしなさい」「ああしなさい」と指示するとき、彼らは私たちの最善を求めているのではなく、自分自身の最善を求めています。

そのため、神様が「私を信じなさい。私はあなたの最善を求めている」と言われても、私たちはその言葉を疑ってしまいます。

これは新しい問題ではありません。エデンの時代にも、同じ問題が起こりました。神様はアダムとエバにこう言われました。

「私を信じなさい。私はあなたの最善を求めている。だから、善悪の知識の木の実を食べてはならない。あなたが悪を知れば、深く苦しむことになるから。」

けれども、サタンがエバを欺いたため、彼女は神様の意図を疑いました。

彼女はこう思いました。「神様は私の最善を望んでいないかもしれない。神様は私にこの良いものを与えてくださらないかもしれない。」

そして今もなお、多くの人々が同じように考えています。

もう一つのことを心に留めておきましょう。

私たちが罪を犯すと、神様は傷つかれます。神様は聖なるお方なので、罪をご覧になると深く悲しまれます。

あなたは本当に神様を愛しているでしょうか。神様を悲しませたいと思いますか。それとも、神様を喜ばせたいと願いますか。

少し考えてみてください。もしあなたが妻や夫を愛しているなら、わざとその人を傷つけるでしょうか。「私はこうすれば相手を傷つけると分かっているけど、気にしない」と言うでしょうか。

もちろん、そのような態度は取らないでしょう。むしろ、あなたは相手を喜ばせたいと思うはずです。

それと同じように、私たちは神様を愛するべきです。もし私たちが本当に神様を愛するなら、神様を悲しませるのではなく、神様を喜ばせたいと願うべきです。

イエス様はこの世で生きておられた間、まさにそのような態度を取られました。イエス様は天の父を愛し、信じておられたので、いつも天の父の言葉に従われました。そして十字架に至るまで、天の父の言葉に従われました。

なぜでしょうか。それは、イエス様が天の父は私たちの最善を求められることを信じておられたからです。

あなたはどうですか。あなたはイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じるでしょうか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ14章

驚くべき約束

この箇所で、イエス様は驚くべき約束をされました。もしかすると、その約束を聞いたあなたは、「本当ですか?イエス様は本気なのですか?」と思うかもしれません。

イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。(ヨハネの福音書14:12)

イエス様はさまざまな驚くべきことを行われました。病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせ、何千人もの人々に教え、福音を通して希望を与えられました。

では、イエス様を信じる人々もそのようなことをするのでしょうか。さらに大きなわざを行うのでしょうか。

もしかすると、使徒の働きを読んで、イエス様が弟子たちだけについて語られたのだと思うかもしれません。なぜなら、彼らはイエス様が行ったような奇跡を行い、福音をイスラエルだけでなく全世界に広めたからです。

しかし、イエス様は「わたしを信じる者」と言われました。

弟子たちだけではなく、イエス様を信じるすべての人々のことを指していたのです。新約聖書の時代に生きていた人々だけではなく、イエス様を信じる者がさらに大きなわざを行うと約束されました。

では、なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか。それは、イエス様が天の父のもとへ帰り、私たちに聖霊を送られたからです。その聖霊が私たちの心の内に住んでおられるため、聖霊の力を通して私たちはこの世を変えることができるのです。

では、私たちはイエス様のように病に苦しむ人々を癒し、死者をよみがえらせることができるのでしょうか。

時々、私はこう考えます。「私たちは不信のゆえに、どれほど神様の働きを制限しているのだろうか。」

私は発展途上国のクリスチャンたちの素晴らしい証を聞いたことがあります。彼らは「現実」を気にせず、イエス様の言葉をそのまま受け入れ、信じました。その結果、神様は驚くべき奇跡を行われました。

正直に言うと、私はしばしば懐疑的な態度を持っています。日本で癒しの話を聞くこともありますが、「本当にその人は癒されたのだろうか。その健康状態はどれくらい続くのだろうか」と思うことがあります。

それでも、私は神様が今もなお働いておられると信じています。この瞬間も、神様は確かに働いておられます。

だからこそ、私たちはイエス様の言葉をもっと信じるべきだと思います。

またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。(13-14)

もちろん、私たちがスポーツカーを求めて祈ったとしても、イエス様が必ずその祈りに答えるわけではありません。

しかし、私たちが自分自身の栄光を求めるのではなく、神様の栄光を求め、自分の願いではなく神様のみこころを求めるなら、多くの場合、神様は私たちの祈りに応えてくださいます。

さらに、神様は、私たちが願うこと、思うことのすべてをはるかに超えて行ってくださいます。(エペソ3:20)

神様は、私たちを通してこの世に触れたいと望んでおられます。では、神様が私たちを用いてくださると、あなたは信じていますか。

あなたは、自分の不信や懐疑を捨てて、「あなたの御心が行われますように。私を用いてください。」と神様に祈るでしょうか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ14章

神様を見ること。神様を知ること。

私たちはどのようにして神様を知ることができるでしょうか。どのようにして神様がどのようなお方かを知ることができるでしょうか。

神様は目に見えない方なので、この疑問には唯一の答えしかありません。それは、神様ご自身が私たちにご自身を現わさなければならない、ということです。

初めに、神様はご自身を幻や夢、天使や預言者を通して現わされました。

そして、イエス様はこの世に来られました。しかし、イエス様は単なる人間ではありませんでした。イエス様ご自身が神であり、私たちの間に生きておられました。だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。(ヨハネの福音書14:7)

ピリポがそれを聞いて、「私たちに父を見せてください」と言ったとき、イエス様はこう答えられました。

ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。

わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください」と言うのですか。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。

わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。(9-11)

イエス様の言葉を誤解しないでください。天の父とイエス様は同じお方ではありません。天の父はイエス様ではなく、イエス様は天の父ではありません。

とはいえ、パウロはこう書きました。

御子は、見えない神のかたちであり「ます」。(コロサイ人への手紙1:15)

イエス様を通して、私たちは天の父の「かたち」を見ます。(もう一度繰り返しますが、誤解しないでください。神様は霊なので、物質的なかたちを持っておられません。)

イエス様の言葉を聞けば、私たちは天の父の言葉を聞いているのです。

さまざまな状況におけるイエス様の反応を見れば、私たちは天の父の反応を知ることができます。

だからこそ、天の父を知りたいのなら、イエス様を見てください。

少し考えてみてください。私の娘を見た人々は、よく「ブルース、お嬢さんはあなたに似ていますね」と言います。

そして、彼女が成長すると、彼女の行動や考え方は、私の影響を受けます。彼女を見ることで、あなたは私について多くのことを知ることができます。それは親子の常です。

それでも、彼女は私の不完全な反映にすぎません。それに対して、イエス様は天の父の完全な反映なのです。

では、私の言いたいことは何でしょうか。

神様を知りたいのなら、イエス様を見てください。

神様の考え方を知りたいのなら、イエス様の言葉を読んでください。

さまざまな状況に対する神様の反応を知りたいのなら、イエス様の反応を見てください。

私たちは神様がどのようなお方かを想像する必要はありません。すでに知っているのです。なぜなら、神様はこの世に来られ、人間となられたからです。

だからこそ、神様との関係を求めましょう。そうすれば、必ず神様を見いだすことができます。

ヤコブはこう言いました。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ14章

天の父のもとへの道

多くの人々はこの個所を読むと、心が乱され、怒りを感じることがあります。なぜなら、イエス様の言葉を受け入れることが難しいからです。そのため、彼らはその言葉を拒絶してしまいます。

では、イエス様は何を語られたのでしょうか。

背景を少し説明すると、イエス様は弟子たちに「私はあなたがたのために場所を用意しに行く」と語ったばかりでした。そして、イエス様は彼らにこう言われました。

わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。(ヨハネの福音書14:4)

けれども、トマスはイエス様の言葉を理解できなかったため、ごく自然な質問をしました。

主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。(14:5)

イエス様はこう答えられました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(14:6)

イエス様は「私は父のみもとへの道を教えます」とは言われませんでした。

イエス様は「父のみもとへ行くために、あなたがたが何をすべきかを教える」とも言われませんでした。

イエス様は「私が父のみもとへの道である」と語られました。 「もし天国に行き、天の父に会いたいと思うなら、私を通して行かなければなりません。」

これは驚くべき主張です。

けれども、少し考えてみてください。

もしアメリカ大統領に会いたいと思っても、自分の意思でホワイトハウスのオーバルオフィスに入ることはできません。

招待状が必要であり、さらに、誰かが扉であなたを迎え入れ、大統領のもとへ案内してくれます。

その人がいなければ、あなたは決して大統領に会うことはできません。その人こそが、大統領のもとへ至る道なのです。

このように、イエス様は天の父のみもとへ至る道です。しかし、イエス様は単なる天国の案内人ではありません。イエス様は神の子です。

イエス様が十字架で死に、私たちの罪の代価を払われたことによって、私たちは神様との関係を持つことができます。

イエス様は私たちを天の父のみもとへ導き、大祭司として私たちのためにとりなしをしてくださいます。(ローマ8:34、へブル10:19-22)

けれども、イエス様の十字架の働きがなければ、また、イエス様が私たちとともにおられなければ、私たちは天国に入ることも、天の父に会うこともできません。

イエス様はトマスにもう一つのことを語られました。「私は真理です。」

多くの人々は真理を求めています。

けれども、最近では多くの人々が、真理は存在しないと考えています。特に霊的な真理はないと感じる人が増えています。

しかし、イエス様は「わたしは真理である」と主張されました。

「私の言葉は真理です。真理は相対的なものではありません。私の言葉は完全な真理です。私から離れてしまえば、あなたは真理を見つけることができません。」

さらに、イエス様は「私は命である」と主張されました。

多くの人々は人生の意義を求めています。彼らは意味のある人生を探し、生きがいのある人生を求めています。そして最終的に、死後の命を求めています。

だから、イエス様は言われました。

「私は命です。あなたは人生の意義を求めていますか。私のもとに来なさい。

意味のある人生を探していますか。生きがいのある人生を求めていますか。あなたは、お金や家族、持ち物、力、結婚、子供などによって充実した人生を得ようとするかもしれません。

しかし、それらはあなたに命を与えることはできません。最終的に、あなたの心は空っぽになってしまいます。私を通してのみ、あなたは生きがいのある人生を見つけることができます。

また、もし死後の命を求めているなら、仏やムハンマド、その他の宗教的な指導者を通してその命を得ることはできません。私を通してのみ、あなたの罪は赦され、永遠の命を受けることができます。」

けれども、多くの人々はこの言葉を信じたくありません。なぜなら、彼らは自分の宝物を手放さなければならないかもしれないからです。また、もはや自分の思いのままに生きることができなくなるからです。

だから、人々はイエス様を嘘つきだと言います。あるいは、イエス様が間違っていたと言います。または、イエス様の言葉が正しく引用されなかったのだと主張します。

しかし、本当の命を見つけたいのなら、イエス様を通してのみ、それを得ることができます。

真理は相対的なものではなく、確かなものです。イエス様のうちにこそ、真理を見つけることができます。

また、もし天国に行き、天の父に会いたいのなら、イエス様があなたの隣におられなければなりません。

だから、イザヤの言葉に耳を傾け、それに従いましょう。

主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。

悪しきものは自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。

主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(イザヤ55:6-7)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ14章

私たちのために用意されたもの

前回の記事でも触れたように、最後の晩餐で、弟子たちはイエス様の言葉に衝撃を受け、深く悩んでいました。

なぜなら、イエス様は「私が行くところに、あなたは今ついて来ることができない」と言われたからです。

さらに、イエス様は弟子たち全員がつまずき、イエス様を見捨てることになると語られました。そして、最も勇敢な弟子のように見えたペテロでさえ、「イエスを知らない」と三度言うことになる、と言われたのです。

それでも、イエス様は彼らの心をよくご存じでした。そのため、彼らを励まして、こう語られました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネの福音書14:1)

要するに、「心を騒がせてはなりません。これは厳しいことかもしれず、あなたたちには到底想像できないかもしれません。しかし、天の父は今もすべてを支配しておられます。天の父を信じなさい。そして、私をも信じなさい。」ということです。

そして、イエス様は彼らに未来のことを少し示し、なぜご自身が行かなくてはならないのかを説明されました。

わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(14:2-3)

イエス様は私たちに三つの約束をされました。

1. 私たちのための場所を用意される。 もし私たちがイエス様を救い主として受け入れれば、イエス様は天の父の家に私たちのための場所を用意してくださいます。

その場所がどのようなものかは分かりませんが、きっと素晴らしいものでしょう。イエス様が卑しい場所を作るはずはありません。

クリスチャンの歌手キース・グリーンは、興味深い歌詞を書きました。

あなたは六日間で天地を造られましたが、父の家を二千年以上構築中です。

2. 再びこの世に戻られる。 イエス様が去ると聞いたとき、弟子たちは混乱し、不安になりました。けれども、イエス様は「私は必ず戻る」と約束されました。

まず、イエス様は彼らに聖霊を送ると約束されました。そして、イエス様ご自身もいつか戻られると約束されました。

3. イエス様がいるところに、私たちもいることができる 。イエス様が戻られるとき、私たちもイエス様がいる場所に迎え入れられます。

パウロはこう語りました。

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。

そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

ですから、これらの言葉をもって、互いに励まし合いなさい。(第一テサロニケ4:16-18)

でも、ちょっと考えてみてください。その会話の数時間後、弟子たちはつまずき、イエス様を見捨てました。それにもかかわらず、イエス様はそんな彼らに、あの素晴らしい約束をされたのです。

なぜ、イエス様は彼らにそんな約束をされたのでしょうか。

それは、イエス様が彼らを決してあきらめることなく、彼らの心と人生に働き続けようと計画されていたからです。

同じように、イエス様は決してあなたのこともあきらめません。どんなに苦しんでも、どんなに失敗しても、イエス様はあなたのために場所を用意しておられます。

だから、絶望しないでください。むしろ、立ち上がって、歩み続けましょう。

Why should I worry?
どうして私は悩む必要があるのでしょうか。
Why should I fret?
どうして私は不安にならなければならないのでしょうか。
‘Cause I’ve got a Mansion Builder.
私には、豪邸を築いてくださる方がおられます。
Who ain’t through with me yet.
その方は、私を決して見放さず、今も働き続けておられます。

–Second Chapter of Acts

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ13章 ルカの福音書 ルカ22章

私たちの弱さを知り、それでも受け入れてくださる神

イエス様が弟子たちに、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません」と言われたとき、彼らは当然戸惑いました。イエス様は彼らの師であり、彼らはイエス様がそばにおられない人生を想像することができませんでした。

そこで、いつものようにペテロは、皆が考えていたことを口にしました。

主よ。なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちを捨てます。(ヨハネ13:36-37)

イエス様の答えを聞いて、ペテロとほかの弟子たちは衝撃を受けました。

わたしのためにいのちを捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。(ヨハネ13:38)

そして、イエス様はペテロにこう言われました。

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。

ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31-32)

それでも、ペテロは再び言いました。

主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカ22:33)

ところが、イエス様は再び繰り返されました。

ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたし知らないと言います。」(ルカ22:34)

もしかすると、ほかの弟子たちはそれを聞いて、「まさかペテロが裏切り者なのだろうか。さっきイエス様は、私たちの中に裏切り者がいると言われたが、それはペテロのことなのだろうか」と思ったかもしれません。

ペテロ自身も、そう疑問に思ったかもしれません。

そこで、イエス様は続けて言われました。

あなたがたはみな、つまずきます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる」と書いてあるからです。

しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ14:27-28)

それでも、ペテロはなおも主張し続けました

たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)

そこで、イエス様はさらに具体的に、そしてより力強く宣言されました。

まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。(マルコ14:30)

それでも、ペテロはイエス様の言葉を信じませんでした。そして、ペテロとほかの弟子たちは、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い張りました。(マルコ 14:31)

しかし、最終的には、イエス様が預言された通りに、彼らは皆つまずきました。イエス様が捕らえられたとき、彼らは逃げ去り、ペテロは三度イエス様を知らないと言いました。

この話のポイントは何でしょうか。私たちが自分自身を理解しているよりも、イエス様は私たちのことを深く知っておられます。私たちが気づかなくても、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。それでも、イエス様は私たちを受け入れられます。

それこそが、この話の最も驚くべき点です。イエス様は決してペテロを責められませんでした。むしろ、イエス様はペテロを励まされました。

「わたしはあなたのために祈っているよ。あなたはつまずくけれど、あなたはきっと立ち上がる。だから、立ち上がったら、ほかの弟子たちを励ましなさい。」

このように、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。しかし、イエス様は私たちを責めるのではなく、大祭司として、毎日私たちのために祈ってくださいます。

私たちが転んだとき、イエス様は私たちを引き上げてくださいます。そして、私たちを引き上げると、「他のつまずいた人を憐れんで、励ましなさい」と言われます。

だから、私たちが失敗しても、弱くても、この言葉を心に留めておきましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ13章

全ての人が認めるように

ユダが部屋から出た後、イエス様は残りの弟子たちに向いて、十字架の前の最後のメッセージを始めました。この傲慢なよく喧嘩するグループに、イエス様はこう言いました。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(ヨハネの福音書13:34ー35)

覚えていてください。この前、この弟子たちは彼らの間に誰が一番偉いか議論していました。彼らのプライドのゆえ、誰もほかの弟子たちの足を洗う気は全然ありませんでした。

だから、イエス様はこの大切の教訓が彼らの心にぐっと来るように望みました。つまり、彼らがお互いに愛し合うことです。

ちょっと気づいてください。イエス様は、「すべての人々を愛しなさい」と言いませんでした。もちろん、イエス様はそのことも望んだけど、そう言いませんでした。

むしろ、イエス様は「お互いに愛し合いなさい」と言いました。

どうしてでしょうか。

その互いの間に愛によって、全ての人はその十一人がイエス様の弟子たちであることを認めるから。

今なお、多くの教会は、そのお互いの愛が欠乏しています。私たちは弟子たちのようにプライドを持って、よく喧嘩します。

だから、ノン・クリスチャンたちが教会に入ると、彼らは「イエス様に従う者はこういうものだろうか。イエス様はこんな人を育てるだろうか。それなら、私はイエス様とその教会に興味ない」と思います。

何年か前、私はある教会に行ったけど、賛美の時間、なぜかワーシップ・リーダーは部屋の後ろに座ったままで、渋い顔をしていました。

だから、ほかの人がビギナーなのに、頑張ってギターを弾き、歌わなくてはなりませんでした。だからその日、礼拝の雰囲気はとても悪いものでした。

後で私が分かったのは、礼拝の前にそのワーシップ・リーダーがほかのリーダーと喧嘩していたということです。

でも、一番悪いのは、その日に新しい人が来ていたということです。彼女はその悪い雰囲気に気づいたので、その教会に決して戻りませんでした。

もし、私たちが互いに愛し合えないなら、どうやって私たちは教会の外の人を愛することができるでしょうか。

もし、私たちがこの世の人々のようにふるまえば、どうやって、彼らは私たちの中にイエス様を見ることができるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは周りのクリスチャンたちの態度を変えることができないけど、神様の助けによって自分自身の態度を変えることができます。

周囲のクリスチャンに対するあなたの態度はどうですか。

あなたは彼らを見下すでしょか。彼らを批判するでしょうか。彼らの欠点についていつも文句を言うでしょうか。もしくは、あなたがイエス様に愛されたように、彼らを愛しているでしょうか。

今度の日曜日、あなたは教会に行くとき、イエス様の言葉を覚えていてください。その言葉に思いを巡らしてください。そして、あなたが周りのクリスチャンを愛せるように、神様の助けのために祈ってください。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が見とめるようになります。(34ー35)

カテゴリー
マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ルカ22章

十字架の描写

旧約聖書には、キリストを描写する物語が数多くあります。この箇所では、イエス様がそれらの描写を成就されます。

イエス様と弟子たちは、最後の晩餐で過ぎ越し祭りを祝っていました。そして、彼らが最初のぶどう酒の杯を取り、飲んだ後、イエス様は袋からマッツァーというパンを一枚取り出されました。実は、その袋には三枚のマッツァーが入っていました。

なぜ三枚あったのでしょうか。一部のユダヤ人の解釈によれば、それらのマッツァーはアブラハム、イサク、ヤコブを象徴しています。別の解釈では、祭司、レビ人、一般のイスラエル人を表していると言われています。

いずれにせよ、イエス様は二枚目のマッツァーを取り出し、裂いて弟子たちに与えられました。そして、過ぎ越しの祭りの食事において、イエス様は初めてその伝統の真の意味を明らかにされました。

これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。(ルカ22:19)

現代のユダヤ人クリスチャンによれば、その三枚のマッツァーは天の父、御子、そして聖霊を象徴していると言われています。

そして、そのマッツァーを通して、私たちはイエス様について学ぶことができます。

二枚目のマッツァーが袋から取り出されたように、イエス様は天から来られ、私たちの間に生きられました。

マッツァーにはパン種が含まれていません。聖書では、パン種は罪を象徴しています。したがって、マッツァーはイエス様の罪のない性質を表しています。

さらに、マッツァーが膨らまないように、人々は焼く前にそのマッツァーに穴を開けました。同じように、イエス様も私たちの罪のために刺されました。

また、マッツァーが裂かれたように、十字架上でイエス様の体も裂かれました。

そのマッツァーを食べた後、イエス様は次のぶどう酒の杯を取られました。それは「贖いの杯」と呼ばれました。これを見たユダヤ人たちは過去を振り返り、神様がどのようにして彼らを奴隷の生活から解放してくださったかを思い起こしました。

けれども今回は、イエス様は弟子たちの視線を未来へと向けられました。

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、私の契約の血です。(マタイ26:28)

ルカの福音書によれば、それは「新しい契約」でした(ルカ 22:20)。「新しい契約」とは、どういう意味だったのでしょうか。

神様はイスラエルの民をエジプトから救い出された後、彼らと契約を結ばれました。その契約とは、彼らが神様の律法に従えば、神様は彼らの神となり、彼らは神の民となるというものでした。

ところが、問題が発生しました。誰もその律法に完全に従うことができなかったのです。

そこで、エレミヤ書において、神様は新しい契約を立てると宣言されました。しかし、その契約は人々の努力によるものではありませんでした。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうであるーー主のことばーー。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。

彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだーー主のことばーー。

わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(エレミヤ31:33-34)

この契約において、神様はいくつかの約束をされました。

一つ目 は、私たちが神様に従うことができるように、神様が私たちの心を変えてくださることです。

二つ目 は、私たちが神様との新しい関係を持つことです。神様と私たちの間には、祭司や牧師を介する必要がありません。私たちは皆、神様との親しい関係を持つことができます。

三つ目 は、神様が私たちの罪を赦してくださることです。神様はもはや私たちの罪を思い起こされません。

このように、イエス様が意味されたのは、「新しい契約はすでに来ています。私の注がれた血によって、あなたたちの罪は赦され、あなたたちは新しい命を得るのです。」ということでした。

イエス様と十字架の御業を覚え、へブル書の著者の言葉に従いましょう。

心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。(へブル10:22-23)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ13章 ルカの福音書 ルカ22章

裏切り

福音書を統合すると、一つの疑問が浮かびます。それは、ユダが最初の聖餐式に参加していたかどうか、ということです。

ルカは、ユダが参加したことを暗示しているようですが、他の著者の記述を見ると、ユダは参加しなかったように思われます。

私の考えでは、ユダは恐らく聖餐式に参加していたのではないでしょうか。おそらく、他の著者は最後の晩餐の出来事を年代順には記録していなかったのだと思います。

いずれにせよ、この箇所では、イエス様が裏切り者であるユダをどのように扱われたのかが描かれています。この話には、興味深い点がいくつかあります。

ヨハネは(「イエス様が愛しておられた弟子」はヨハネのことだと考えられます)、イエス様の隣に座っていたようです。けれども、ユダもイエス様の隣に座っていた可能性があります。

私がそう考えるのは、弟子たちがユダに対するイエス様の言葉をすべて聞いていたわけではないからです。もし彼らが、イエス様がユダを裏切り者としてはっきり指摘されるのを聞いていたなら、きっとユダを責めていたことでしょう。

多くの最後の晩餐の絵画とは異なり、この場面では誰も椅子に座っていなかったと考えられます。彼らは低いカウチに座り、横になって左肘で体を支えていました。そのため、彼らの頭は隣の人の胸の近くにあるような状態でした。

したがって、おそらくイエス様の右側にはヨハネが座り、左側にはユダが座っていたのでしょう。

以前述べたように、イエス様の隣に座ることは大変光栄なことと考えられていました。そのため、イエス様はユダを左側に座らせることで、ユダに特別な光栄を与えられたのです。

それでも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。(ヨハネ13:21)

弟子たちはそれを聞いて、衝撃を受けました。そして、一人一人がイエス様に尋ねました。「まさか私ではないでしょうか。」

ユダ自身もイエス様に同じように尋ねました。

もしかすると、ユダはイエス様を完全に欺いたと思っていたのかもしれません。しかし、イエス様は答えられました。「はい。あなたですよ。」

ユダのショックを想像してください。彼の秘密は明るみに出ました。もしかすると、彼はイエス様が皆の前で彼を暴露し、その結果、自分が殺されるのではないかと恐れたかもしれません。

おそらくその頃、ペテロはヨハネに尋ねたでしょう。「イエス様が誰について話しているのか、聞いてみてくれ。」(ヨハネ13:24)

イエス様はヨハネに答えられました。

わたしがパン切れを浸して与える者が、そのひとです。(ヨハネ13:26)

実は、その時代において、パン切れを浸して与えることは、もう一つの光栄を示す方法でした。

そのため、イエス様がパンを浸してユダに与えたとき、おそらくヨハネ以外の弟子たちは「すごいな。私たちが思っていたより、ユダは偉いのかもしれない。」と思ったでしょう。

ユダ自身も驚いたことでしょう。一瞬、彼はイエス様の言葉の意味を誤解したかもしれません。

けれども、イエス様は彼に言われました。

あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。(ヨハネ13:27)

ユダはそれを聞いて、イエス様が彼の心をよく知っておられたことを悟りました。そして、彼はその家を出て、イエス様を裏切るためにイエス様の敵のもとへ向かいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちを裏切る人もいるということです。彼らは意図的に私たちを傷つけることがあります。そのようなとき、私たちが苦々しい思いを抱き、彼らを軽蔑するのは簡単です。

しかし、イエス様がユダを神によって造られた人間として尊重されたように、私たちも裏切り者を神によって造られた人間として尊重すべきです。

それでも、私たちは彼らの性格をよく理解している必要があります。彼らの本質について、私たちは自分自身を欺いてはいけません。そして、可能な限り、私たちは自分を守るべきです。

イエス様の生涯を見ると、イエス様もそのような姿勢を取られました。人々がイエス様を殺そうとしたとき、イエス様はすぐに身を避けられました。

ユダの場合だけは、イエス様は逃げませんでした。なぜなら、ついにイエス様の時が来たからです。イエス様がこの世に来られた目的は、私たちの罪のために死ぬことでした。

とはいえ、神様は一般的に、私たちが虐待を甘んじて受けることを求めているわけではありません。そのため、できる限り、その人から距離を取りましょう。

もし、どうしてもその人を避けられないのであれば、あなたの盾を常に持っていてください。つまり、彼らがいるときには、警戒しなければなりません。

もし相手の性格をよく理解し、彼らの言動によって自分の心の備えができていれば、自己防衛することができます。

それでも、私たちは相手を許すべきです。そしてさらに、彼らを神によって造られた人間として尊重すべきです。

ペテロはこう記しました。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(第一ペテロ3:9)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ13章

私たちの足が洗われること

この話から、私はもう一つの重要なポイントをお伝えしたいと思います。

イエス様がペテロの足を洗おうとされたとき、ペテロはこう言いました。

決して私の足を洗わないでください。(ヨハネの福音書13:8a)

イエス様がこのように答えられました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(8b)

そして、いつものように、ペテロは言い過ぎてしまいました。

主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。(9)

けれども、イエス様はこう答えられました。

水浴した者は、足以外は、洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたががたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。(10)

イエス様の言葉の意味は何だったのでしょうか。

「ペテロ、あなたは私を信じたので、すでにきよめられています。しかし、日々の歩みの中で、あなたの『足』は罪によって汚れます。だから、私はそれを清める必要があるのです。」

イエス様は、私たちにも同じことを語られます。

私たちがイエス様の前に来て、イエス様とその十字架の働きを信じると、イエス様は私たちの過去のすべての罪をきよめてくださいます。

それでも、日々の生活の中で私たちの心は罪によって汚れます。私たちの罪が神様や周りの人々を傷つけ、私たち自身も苦しみます。けれども、それによって救いが失われるわけではありません。私たちは今も神の子供です。

とは言え、毎日イエス様の前に来て、「私を赦してください。私の心を清めてください。」と祈らなければなりません。それは過去の罪のためではなく、今日の罪のためなのです。

ヨハネはこう書きました。

もし私たちが、自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

正直に言うと、私の足を洗っていただくために、私はもっとイエス様の前に行かなければなりません。

毎日罪を犯しても、私は深く反省せず、告白もしません。そのため、その罪が私と神様の間に壁を作ってしまいます。

だからこそ、私たちは日々イエス様の前に来て、罪を告白しましょう。イエス様の赦しを願いましょう。そうすれば、イエス様は真実な方なので、私たちをきよめてくださいます。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ13章

私たちの模範

聖書では、神様はイエス様とその十字架の働きについて、さまざまな生々しい描写を与えてくださいました。

まず、神様はアダムとエバに、「やがて、ある者が蛇の頭を踏み砕く。しかし、その時、その者のかかとも傷つけられる」と約束されました。(創世記3章)

また、神様がアブラハムに、イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう命じられた場面があります。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様は彼を止められました)(創世記22章)

さらに、神様の律法において、多くのいけにえや捧げものがイエス様を指し示していました。

それだけでなく、預言者イザヤはイエス様について詳しく預言しています(特にイザヤ53章)。ダビデの詩篇もまた、イエス様を指し示しています(例えば詩篇22篇)。

けれども、イエス様が十字架で死ぬ前に、もう二つの重要な描写を与えてくださいました。一つ目は、もちろん聖餐式です。(別の記事でそのことについて触れます。)

そして二つ目は、この箇所にあります。それは、とても美しい描写だと思います。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取っ手にまとわれた。(ヨハネの福音書13:4)

それは何の描写なのでしょうか。パウロはこう語りました。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:5-7)

イエス様は神でありながら、ご自身を空しくされました。もちろん、イエス様は依然として神でしたが、栄光の衣を脱ぎ、人間となられました。

それだけでなく、王として来られたのではなく、しもべのかたちを取られました。

パウロは続けてこう言いました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。【ピリピ2:8)

イエス様がご自身を低くされ、弟子たちの足を洗われたように、イエス様はさらにご自身を低くされ、十字架で死なれました。その結果、今、私たちの罪はイエス様の血によって洗われています。

だから、ペテロがイエス様の奉仕を遠慮しようとしたとき、イエス様はこう語られました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(ヨハネ13:8)

要するに、「ペテロ、あなたは私のたとえを妨げています。私があなたの足を洗うように、私はあなたの心を洗わなくてはなりません。もし私があなたの罪を清めなければ、あなたは私と関係がなくなってしまいます。」ということです。

イエス様は彼らの足を洗われた後、上着をまとい、再び席に戻って、彼らの主として振る舞われました。

そのようにして、パウロはこう語りました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエス様の名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:9-11)

イエス様が弟子たちに問いかけられたように、今も私たちに同じ質問を投げかけられます。

わたしがあなたがたに何をしたのかわかりすか。(ヨハネ13:12)

あなたは理解しているでしょうか。

あなたの罪が許されるために、イエス様が何を捨て、何をささげられたのかを分かっていますか。

もしそれを理解しているなら、イエス様はあなたにこう語られます。

あなたがたは私を「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。

主である、師でああるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたにも範を示したのです。。。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:13-15、17)

イエス様は私たちの模範です。イエス様はしもべとして歩まれました。そして、イエス様は私たちをご自身のように生きるように招いておられます。

あなたは、しもべとして歩んでいるでしょうか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ13章 ルカ22章

本当のリーダーシップ

私は以前にも述べましたが、四つの福音書を統合するのは時として難しいものです。

多くの場合、著者たちは出来事を年代順に伝えておらず、時には話の途中で脱線することもあります。最後の晩餐について読むと、私はそのように感じます。

弟子たちが食事をしているとき、彼らは誰が一番偉いかについて議論を始めました。なぜその話題になったのかは分かりませんが、もしかすると、過ぎ越しの祭りを祝うために二階の大広間に入った際、一人一人の席を巡って言い争いが起こったのかもしれません。

なぜなら、その文化では、イエス様の右に座る者が最も偉い弟子とされ、左に座る者が次に偉い弟子とされたからです。そして、イエス様から離れた席に座るほど、その弟子の地位は低く見なされました。

そのため、彼らは誰がイエス様の隣に座るべきかを巡って争っていたのかもしれません。

例えば、ペテロはこう言ったかもしれません。「俺はお前たちのリーダーだ。イエス様の右に座るのは当然だろう。」

するとヨハネは、「でも、イエス様は俺のことを一番好きだよ。」と言ったかもしれません。

また、ユダは「でも、俺は財務を担当している。だから、一番偉いはずだ。」と言ったかもしれません。

イエス様がこの言い争いをどれほどの時間見ていたのかは分かりませんが、ようやく弟子たちは不満げに席につきました。そして、そのときイエス様は驚くべき行動をとられました。

このような状況では、食事の前に誰かが他の人々の足を洗うことが習慣でした。当時、人々はサンダルを履き、未舗装の道を歩いていたため、すぐに足が汚れてしまいました。

通常、しもべが足を洗いましたが、しもべがいない場合は最も若い者がその役目を担うことになっていました。したがって、本来であればヨハネが行うべきだったかもしれません。

けれども、彼は何とかイエス様の隣の席を確保した(ヨハネ13:23)ため、しもべの役を引き受けるのを避けたかったのかもしれません。そして、その大喧嘩の末、他の弟子たちも足を洗う気にはなれませんでした。

イエス様は弟子たちを叱責する権利がありました。しかし、イエス様は責めるのではなく、愛を示されました。

イエス様は席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻かれました。そして、弟子たちの足を洗い、拭かれました。

それを見て、弟子たちは恥ずかしい思いに駆られたでしょう。特に、イエス様がその仕事をしているのは、彼らがそれを避けたせいでした。彼らの中で、誰もその仕事を引き受けたくなかったのです。

イエス様はその務めを終えると席に戻り、彼らに問いかけられました。

わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。

そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。(ヨハネ13:12-14)

イエス様は続けてこう言われました。

異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。

あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。

食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。(ルカ22:25-27)

そして、イエス様は結論を述べられました。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:15-17)

イエス様は、彼らに何を教えようとされたのでしょうか。

イエス様は、彼らを大きな責任を担う者として選ばれました。やがて、イエス様は彼らに王権を委ねられます。彼らはイスラエルの十二部族を治め、イエス様の国でその食卓に着き、共に食べたり飲んだりするのです。

とはいえ、イエス様が以前言われたように、リーダーシップとはただ人々に命令を下すことではありません。本当のリーダーは人々に仕える者です。そのため、イエス様は弟子たちの足を洗われました。そして、イエス様は私たちの罪のために死なれました。

だからこそ、私たちリーダーも同じことを実践すべきです。

リーダーシップの祝福は、私たちの権利にあるのではありません。それは、人々に命令することではなく、むしろイエス様のように人々に仕えることにあります。それこそが、本当のリーダーシップなのです。

あなたは、リーダーシップをどのように定義するでしょうか。それは、人々があなたに仕えることでしょうか。それとも、あなたが人々に仕えることでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ルカの福音書 ルカ22章

主のために部屋を整える

この時から、イエス様はもう群衆の前に現れることはありませんでした。人々の前で教えたり、奇跡を行ったりすることもなくなりました。イエス様は、ご自身がまもなく十字架で死なれることをよく理解しておられました。

けれども、その前に弟子たちと最後の食事を共にしようと考えられました。

この出来事には不思議な点があります。イエス様は奇跡的に、都市で水がめを運ぶ男性がいることを知っておられたのでしょうか。(当時、そのようなことをするのは女性だけでした。)

それとも、イエス様はあらかじめマルコの父と相談し、前もってこの合図を決めていたのでしょうか。(このマルコとは、後に福音書を記したマルコのことです。)

はっきりとは分かりませんが、結果として弟子たちがその家に入った時、その家の二階の大広間にはすでに席が用意されていました。

興味深いことに、イエス様が生まれたときは宿屋に場所がありませんでした。しかし、イエス様が十字架にかかられる前には、イエス様のために用意された部屋があったのです。

あなたの心の状態はどうでしょうか。あなたの心はイエス様のために用意されていますか?

それとも、あなたの心の中には罪や自己中心的な欲望が散らかり、イエス様があなたを用いることができない状態でしょうか。

イエス様、私の心の中には、あなたのためのスペースが常にありますように。私の罪を清め、私を通してあなたの目的を成し遂げてください。私の人生をあなたの栄光のために用いてください。アーメン。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ26章 マルコの福音書 マルコ14章 ヨハネの福音書 ヨハネ12章

真の愛。偽りの愛。

この話では、私たちはイエス様に対する二人の人物の愛を見ることができます。けれども、彼らの愛は全く異なるものでした。

マリアの愛は心から生まれたものでした。一方で、ユダの「愛」は自分勝手で利己的なものでした。

イエス様はベタニアという町に行かれました。その時、イエス様はシモンという人の家を訪れました。弟子たち、ラザロ、そしてその姉妹マリアとマルタも来て、一緒に食事をしました。

食事の後、マリアは非常に高価な香油を持ってきて、イエス様の頭に注ぎ、さらにその足にも塗りました。そして、自分の髪でその足を拭いました。

ユダはそれを見て、こう言いました。

どうして、子の香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(ヨハネ12:5)

他の弟子たちも同意し、同じようなことを言ったようです。

けれども、ヨハネはユダの動機を説明しています。

彼がこの言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。(12:6)

だから、イエス様はこのように答えられました。

彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。私のために、良いことをしてくれたのです。

貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。

彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。

まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。(マルコ14:6-9)

この言葉に対するユダの反応は何だったのでしょうか。彼はイエス様を引き渡すために、祭司長たちのところへ行き、彼らから銀貨30枚を受け取りました。

私たちはユダの動機を完全には知りません。けれども、それが単にイエス様の叱責に対する反発ではないと思います。おそらく、もっと深い理由があったのでしょう。

もしかしたら、彼の愛は、相手から何を得られるかに基づく利己的なものだったのかもしれません。だから、自分の利益のためにお金を盗める限り、彼は貧しい者にお金を渡すことに満足していたのでしょう。

また、イエス様が王になりそうだと期待する限り、ユダはイエス様に従うことを選んでいたのかもしれません。

しかし、何度もイエス様は、王になることではなく、自分の死について語られました。もしかしたら、ユダはその話にうんざりし、「もし死にたいと思うなら、死ねばいい」と考えた可能性もあります。

だからこそ、彼はイエス様を裏切ったのではないでしょうか。

一方で、マリアは心からイエス様を愛しました。ユダとは異なり、マリアはイエス様から何かを得ようとはせず、純粋な心でイエス様に貴いものをささげたいと願いました。

私はヨハネの生々しい描写がとても好きです。

家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)

イエス様に対する私たちの愛は、そのようであるべきです。この世は、イエス様に対する私たちの愛の香りで満たされるべきです。私たちの愛が明らかになれば、周りの人々はその愛を見過ごすことはないでしょう。

ユダがマリアを責めたように、私たちを責める人もいるかもしれません。けれども、イエス様にとって、私たちの愛は香油のようなものです。

あなたはどうでしょうか。あなたの愛は自分勝手なものでしょうか。イエス様から何を得られるかだけを考えているでしょうか。

あるいはあなたの愛は、イエス様にとっても、この世界にとっても、素晴らしい香りを放つものでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ25章

羊とやぎのたとえ話:どのように兄弟姉妹たちを扱うか

イエス様は、この世の終わりに関する話をこのたとえ話で締めくくられます。

「大きな患難」について話された後、イエス様は最後の裁きについて語られます。その時、神様は国々を裁かれます。そして、飼い主が羊をやぎから分けるように、神様は人々を分けられます。

そのたとえ話の文脈を考えると、たぶんイエス様が意味されたのはこうです。大きな患難の時、多くのクリスチャンが迫害され、苦しみます。

その時、イエス様を信じ、愛する人々はそのクリスチャンたちを助けます。だから、イエス様は彼らを祝福し、神様の国に迎え入れられます。

しかし、クリスチャンを迫害する人々、またはクリスチャンの苦しみに目をつぶる人々は裁かれます。

とはいえ、この話は他の適用があるとも考えられます。大きな患難はまだ来ていませんが、私たちは兄弟姉妹をどのように扱うかによって裁かれるのです。

イエス様はこう言われました。

さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた、御国を受け継ぎなさい。

あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」(マタイの福音書25:34-36)

その人々が「いつ私はそんなことをしたのでしょうか」と尋ねると、王はこう答えられます。

まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。(40)

その一方、その兄弟たちを助けない人々に対して、王はこう言われます。

まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。(45)

私たちの兄弟姉妹が苦しむときに、私たちはどうするでしょうか。神様の愛をもって彼らに手を差し伸べるでしょうか。私たちがそうすれば、実は私たちはイエス様に触れていることになります。

しかし、私たちが彼らに目をつぶれば、実はイエス様に目をつぶってしまうのです。だからこそ、私たちは裁かれるのです。

ヨハネはこう言いました。

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

子供たち。私たちは、言葉や口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(第一ヨハネ3:16-18)

イエス様は私たちにたくさんのものを与えてくださいました。私たちに命を与えるために、自分の命を犠牲にされました。どうして私たちは隣人のために同じことをしないのでしょうか。

イエス様に背を向けないでください。イエス様は私たちの兄弟姉妹のために命を捨てるほど愛してくださいました。だからこそ、彼らに手を差し伸べ、愛を分かち合いましょう。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ25章

タラントンのたとえ話:忠実に仕えている?

この箇所の二つ目のたとえ話は、イエス様が以前に教えられたことを指しています。つまり、イエス様がこの世に戻られるまで、私たちは神様から委ねられた働きを忠実に果たさなければならないということです。

このたとえ話では、ある主人が三人のしもべに銀を預け、「この銀を投資しなさい」と命じました。

彼は最初のしもべに五タラントを預けました(タラント一つ分の銀は約二十六〜三十六キロとされています)。次に、二番目のしもべには二タラントを、三番目のしもべには一タラントを預けました。

なぜ主人は、しもべたちに異なる量を与えたのでしょうか。それは、彼らそれぞれの能力に応じて銀を預けたからです。

神様はこのように、私たち一人ひとりに才能と資源を与えてくださいます。けれども、私たちは皆、同じものを与えられるわけではありません。神様は、それぞれに異なる才能を与え、その才能に応じて、どのような資源を委ねるかを決められるのです。

また、このたとえ話のように、神様は私たちがその才能と資源を忠実に用いることを求めておられます。もし私たちが忠実にそれを行うなら、神様は私たちにこう言われます。

よくやった。良い忠実なしもべだ。お前はわずかなものに忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイの福音書25:21)

このたとえ話では、主人は二人のしもべにそのように言いました。ところが、もう一人のしもべは銀を投資せず、地面に穴を掘ってそれを隠しました。だから、主人が戻った時、そのしもべは預かった銀だけを返しました。

なぜ彼はそんな行動を取ったのでしょうか。おそらく、主人を敬っていなかったからです。

主人が不公平だと思っていたのです。つまり、主人は何もせずに他人の労働によって利益を得ていると感じていました。そして、しもべは銀を投資しても、主人が自分に正当な報いを与えてくれないと疑っていたのです。

多くの人々は神様をそのように見ています。彼らは神様を正しく重んじようとせず、不公平で厳しすぎる方だと考えています。そのため、神の国のために自分の才能や資源を用いようとせず、かえって神様を責めるのです。

けれども、彼らの不満は単なる言い訳にすぎません。実際には、彼らは神様のためではなく、自分自身のために生きたいと願っているのです。

主の日が来る前、つまりイエス様がこの世に戻られる前に、多くの人々は神様に対して誤った考えを抱きます。その時代には、地震、飢饉、戦争、疫病などが起こり、それを見た人々は自分の罪を悔い改めることなく、神様を責めるのです。

しかし、イエス様が戻られる時、彼らは自分の言い訳と批判が誤っていたことに気付きます。

神様が公平な方であるにもかかわらず、実際には自分自身がわがままで、怠惰で、罪深い者であったことを認めるようになるのです。だから、彼らは裁きを受けることになります。

信仰の本質とは、神様が良い方であることを信じることです。私たちはさまざまな災いに直面するかもしれませんが、それは神様が悪いからではありません。私たちは不正を目にすることがあるかもしれませんが、神様は不正な方ではありません。むしろ、この世の問題の根源は、私たち自身にあります。

それにもかかわらず、自らの責任を認めず、神様を重んじることなく、神様を責めて言い訳を並べるなら、私たちは神様から任されたものを忠実に用いることができなくなります。

あなたはどうでしょうか。神様について、あなたはどのように考えていますか。あなたの人生を通して、神様を重んじているでしょうか。神様があなたに委ねられたものを忠実に用いて、この世に働きかけているでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ25章

十人のおとめのたとえ話:あなたは準備している?

25章では、二つのたとえ話を通して、イエス様はすでに教えられたことを強調されています。つまり、私たちは目を覚ましてイエス様の再臨を待ち望み、主が命じられたとおりに忠実に仕えなければならないのです。

この最初のたとえ話では、多くの人々が細部にまで解釈を加えようとするあまり、時に言い過ぎてしまうことがあります。

しかし、このたとえ話の要点は、私たちが目を覚まし、心の準備を整えて、イエス様の再臨を待ち望むべきだということです。なぜなら、私たちが予期しない時に、イエス様は戻られるからです。

この話では、十人のおとめがその教訓を学びました。花婿が花嫁の家に向かい、その後ふたりが戻ってくると婚礼の祝宴が始まる予定だったため、皆がその時を待っていました。

ところが、何らかの理由でふたりは遅れ、ようやく到着した時には、十人のおとめは眠っていました。彼女たちが目を覚ました時、ともしびが消えかけていたため、油がさらに必要になったのです。

五人のおとめは余分な油を持っていたため、ともしびを整えることができました。けれども、他の五人のおとめは油を持っていなかったため、買いに行かなくてはなりませんでした。

ところが、彼女たちが戻ってきた時には、家の戸はすでに閉じられており、彼女たちは中に入ることができませんでした。

イエス様がこのたとえ話で強調された要点は何でしょうか。ある人々は花婿の再臨に備えていると思っていましたが、実際には準備が整っていませんでした。一方、ある人々は確かに準備ができていました。

準備が整っていた人々は婚礼の祝宴に参加することができましたが、準備していなかった人々は参加できず、家に入ることも許されませんでした。

イエス様が戻られる時、多くのユダヤ人は、愚かな娘たちのような状態にあります。

彼らは長い間、メシアの到来を待ち望んできました。あるユダヤ人たちは、確かに準備が整っています。つまり、イエス様をメシアとして認め、聖霊に満たされているため、イエス様が戻られる時、神の国に入ることができるのです。

その一方、あるユダヤ人たちは自分が準備できていると思っていますが、実際には整っていません。そして、イエス様が戻られる時、そのことが明らかになります。

その時、彼らはようやくイエス様がメシアであることに気づきます。けれども、すでに手遅れであり、神の国に入ることはできないのです。

ユダヤ人たちだけではなく、ユダヤ人ではない人々もそのことを経験します。

多くの人々は、自分がクリスチャンだと主張します。しかし、彼らは本当にイエス様を主であり救い主として受け入れてはいません。見かけは敬虔に見えても、彼らは敬虔の力を否定する者です(第二テモテ3:5)。

彼らはイエス様に従っていると言いますが、実際には自分自身のために生きています。

ですから、イエス様が戻られる時、彼らは自分の心が整っていないことに気づき、神の国に入ることはできないのです。

あなたはどうでしょうか。イエス様の再臨のために、心の準備はできているでしょうか。救いに至る道はただ一つです。パウロはこう語りました。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)

あなたは、どう応じるでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ24章 マルコの福音書 マルコ13章 ルカの福音書 ルカ21章

いつも整えた心を持つ?

多くのクリスチャンは、イエス様がいつ戻られるかに関心を寄せています。そのため、イエス様が戻られる時期を予測しようとするクリスチャンも少なくありません。

私が高校生だった頃、ある本が出版されました。そのタイトルは「1988年にイエス様がきっとこの世に戻る88の兆候」でした。

もちろん、イエス様は1988年に戻られることはありませんでした。それでも、その著者はがっかりすることなく、さらに別の本を書き、再びイエス様の戻りを予測しました。

なぜでしょうか。その著者を含め、多くのクリスチャンはイエス様のお言葉を無視しているように思えます。

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。(マルコ13:32)

神様はご自身の計画を立てられました。しかし神様は、私たちにイエス様がいつ戻られるかを教えてはくださいませんでした。

とはいえ、イエス様はご自身の戻りに関するしるしを示されました。そして私たちに対し、「目を覚ましなさい。自分の心を整えなさい」と警告されました。イエス様は次のように語られました。

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。

それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。

主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33-37)

残念なことですが、多くのクリスチャンはその言葉を無視しているようです。

前回の記事でも述べましたが、イエス様はこの箇所で同じことを四回繰り返されていますので、私も繰り返すべきだと感じます。

多くのクリスチャンは、イエス様がクリスチャンたちを集め、天国に連れていく時期を議論します。大きな患難の前にイエス様は私たちを集められるでしょうか。その患難の途中で集められるでしょうか。それとも、その患難の後に集められるのでしょうか。

私はその疑問が重要でないとは言いません。イエス様が戻られる時期を問うよりも、戻られた時に私たちの心が整えられているかどうかを問う方が重要です。もし、あなたの心が常に整えられているなら、イエス様がいつ戻られても驚くことはありません。

これがイエス様のポイントです。そのため、イエス様の戻りに関する細かい議論をする前に、自分自身に次の質問を投げかけてください。

「もしイエス様が今日戻られたなら、私の心は整えられているだろうか。私はイエス様の御心に従っているだろうか。もしイエス様が今日戻られたなら、イエス様は私に何を言われるだろうか。」

これこそが最も重要な質問です。

では、あなたの心はすでに整えられているでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ24章 マルコの福音書 マルコ13章 ルカの福音書 ルカ21章

主が戻られるまで

この箇所では、イエス様はご自身が戻られるまでにどのような出来事が起こるかを説明されています。そしてイエス様のお言葉によれば、この世界は次第に悪化の一途をたどります。最終的には非常に厳しい状況になるでしょう。

戦争が起こり、地震や様々な災害が発生します。その混乱の中で、偽預言者たちが現れ、希望を語るメッセージを伝えるものの、多くの人々を欺きます。

さらに、反キリストも登場します。

その結果として、迫害が生じます。特にユダヤ人やイエス様に従う人々が迫害されるため、多くの人々が信仰を捨ててしまうのです。

現在、多くの人々は自分をクリスチャンだと主張しますが、イエス様に従わず自分の道を歩んでいます。しかし、迫害の時代が訪れると、このような「クリスチャン」はいなくなるでしょう。迫害を受ける前に、自らの「信仰」を捨てると考えられます。

また、周囲の邪悪さのため、多くの人の愛が冷えていきます。信頼は薄れ、人々は互いに、特にクリスチャンたちを裏切るようになります。そしてさらに災害が続くことで、人々の恐怖は増していきます。

ところが、この災厄が頂点に達するとき、イエス様が現れて、邪悪なものを終わらせ、ついに神の国が来るのです。

これらの言葉の後、イエス様は私たちを励ますと同時に警告もされています。

イエス様の最初の警告は、偽のキリストが現れるということです。

イエス様がこの世に戻られるとき、雲の中から偉大な力と栄光を伴って現れ、全世界が一斉にイエス様を目にするでしょう。だから、噂を信じてはなりません。

しるしや不思議を行う偽のキリストも現れますが、そのような人物を信じてはなりません。なぜなら、反キリストもまたしるしや不思議を行い、多くの人々を欺くからです。(第二テサロニケ2:3-9)

さらに、イエス様は私たちが厳しい試練に直面しても希望を失わず、イエス様を待ち望み、神様の御心に従い続けるよう励まされています。イエス様は次のように言われました。

これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。(ルカ21:28)

要するに、迫害や災害などが起こっても、思い悩まないでください。絶望しないでください。なぜなら、その出来事はイエス様の戻りのしるしだから。

でもイエス様は私たちに警告します。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカ21:34)

その試練が訪れるとき、周囲の不正を目にして絶望に陥ることは容易です。だからこそ、イエス様は私たちが絶望に陥らないよう注意を促されています。

また、邪悪なものを見る際には皮肉的な心を持たないよう気をつけなければなりません。「イエス様はもう戻ってこられないのではないか」と思い始めてはいけません。

むしろ、イエス様を待ち望み続け、イエス様に仕え続けましょう。そうすれば、あなたは報いを受けることができます。しかし、そうしない場合、あなたは懲らしめを受けることになります。(マタイ24:46-51)

もしかすると、「この話は私には関係ない」と思うかもしれません。なぜなら、その試練が訪れる前、反キリストが現れる前に、あなたがすでにイエス様とともにいると思っているからです。

以前にも述べたように、私もそれを信じたいと願っています。けれども、もし反キリストを目にして、自分が誤っていたことに気づいたなら、そのときは、私が述べたことを思い出してください。

そして、どのような試練に直面しても、どれほどの苦しみを経験しても、主が戻られるまで、イエス様を待ち望み、忠実に仕え続けましょう。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ24章 マルコの福音書 マルコ13章 ルカの福音書 ルカ21章

将来を現すしるし

前回の記事では、この箇所が非常に難解であると述べました。その理由の一つは、マタイ、マルコ、そしてルカが同じ話を伝えているものの、それらを統合するのが難しいという点です。

イエス様が神殿が破壊されると言われた際、弟子たちは大変な衝撃を受け、いつそのことが起こるのかを尋ねました。また、世の終わりのしるしがどのようなものなのかも尋ねました。

彼らの視点を考えてみてください。

その質問をした時点では、彼らはまだイエス様が十字架にかかり、死を迎え、そして復活しなければならないことを理解していませんでした。

さらに、復活された後にイエス様が天国へ帰られる必要があることについても全く分かっていませんでした。

そのため、彼らがイエス様の到来について尋ねた際、その質問はイエス様が天国から戻って来られる時期を指しているのではありませんでした。おそらく、彼らが意味していたのは、イエス様が自身の王国を築くのはいつなのかということだったのでしょう。

彼らは子供の頃から「主の日」について何度も聞いてきた経験がありました。その日は、主が国々を裁き、イスラエルを再び王国として確立される日とされています。

しかし、イエス様は彼らに、神殿が破壊されることを告げられました。それが起こる前に、確かに「主の日」は来ないでしょう。

加えて、その週の初めにイエス様と弟子たちがエルサレムに到着した際、多くの人々が「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」と叫びました。

この出来事を踏まえて、弟子たちは非常に混乱していたのです。

とにかく、ルカによれば、イエス様は将来、偽のキリストが現れたり、戦争や様々な災害が起こったりするだろうと言われました。

けれども、それが起こる前に、イエス様は弟子たちに、彼らが迫害され、殺されることもあると警告されました。『使徒の働き』を読めば、そのことを目の当たりにすることができます。

また、彼らが捕まえられた時、イエス様が約束されたように、聖霊様が彼らに何を言うべきかを教えられたので、彼らの敵はその証言に対してどのように反論すべきか分からず困惑しました。

さらに、イエス様は彼らに、「軍隊がエルサレムを包囲するのを見たら、すぐに逃げなさい」と警告されました。エルサレムが破壊され、その住民が捕虜になる日が来るからです。イエス様は、妊娠中の女性たちにとってその日は特に困難でひどい時になると語られました。

西暦70年に、イエス様の預言は成就しました。その時、多くのクリスチャンはイエス様の警告を覚えていて逃げ延びましたが、他のユダヤ人たちはエルサレムに留まりました。彼らはエルサレムが最も安全な場所だと信じていたからです。

ところが、イエス様が言われた通り、彼らは殺されるか、捕虜として連れ去られました。

また、マタイとマルコは「荒らす忌まわしいもの」について言及しています。

ダニエルもその出来事を預言しており、アンティオコス4世エピファネスによってその預言が一度成就しました。彼はゼウスの偶像を神殿に立て、祭壇で豚を捧げました(豚は神様の律法によれば汚れたものとされています)。

西暦70年には、そのような具体的な出来事は起こりませんでしたが、一部の聖書学者たちは、ローマ人たちが神殿に入った際、別の方法で神殿を汚し、それがイエス様の預言の成就だったと考えています。私もその意見に同意します。

イエス様はこれらの出来事に関して、次のように語られました。

それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。(マルコ13:19)

最近まで、私はイエス様が西暦70年の出来事について語っておられないと思っていました。なぜなら、反キリストが来るとき、クリスチャンたちはさらに大きな苦しみに直面すると考えていたからです。

けれども、今ではその確信は揺らいでいます。なぜなら、歴史を振り返ると、エルサレムが倒れた際にユダヤ人たちが味わった苦しみは本当に深刻だったからです。

それでも、おそらく2000年前の出来事は将来のしるしだと思います。実際には、その出来事は現代の状況にも関連していると感じます。

今でも私たちは戦争や戦争のうわさを耳にします。飢饉や地震、様々な災害を目の当たりにします。偽のキリストが現れることもあります。そして、クリスチャンに対する迫害が続いているのです。

さらに、イエス様がこの世に戻られるまで、これらの出来事は続くでしょう。しかし、イエス様が戻られると、天に現れて、全世界がイエス様を見るでしょう。その時、イエス様はご自身の民を呼び集められるのです。(マタイ24:30-31)

多くのクリスチャンたちは、反キリストが現れる前にイエス様がご自身の民を召し、彼らが反キリストを決して目撃しないと信じています。

私もそれを信じたいのですが、その考え方は誤りだと思います。

ただし、その考えについて何を信じるにしても、次の一点を覚えていてください。

エルサレムに関するイエス様の預言はすべて成就しました。そして、イエス様のその他の預言も今なお成就しつつあります。ですから、イエス様は必ずこの世に戻られるでしょう。イエス様はそのように約束されたからです。

イエス様は次のように言われました。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(ルカ21:33)

だから、私たちがどれほどの苦しみを経験しても、私たちの心を整え、希望を持ってイエス様の御再臨を待ち望みましょう。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ24章 マルコの福音書 マルコ13章 ルカ21章

私たちの神殿が堕落すると

この箇所は、聖書の中でも最も難解な箇所の一つです。

もしかすると、あなたはこの箇所のすべての解釈を求めているかもしれません。正直なところ、私自身もその答えをすべて知りたいと思っています。

ですので残念ながら、このブログにすべての答えが含まれているわけではありません。

そこで、いつものように私は明確な点に焦点を当てたいと思います。また、この箇所が私たちの人生とどのように関係しているかについて考えてみたいと思います。

さて、今日はイエス様がなぜこのような話を始められたのかを見てみましょう。イエス様がパリサイ人たちや律法学者たちと議論された後、イエス様の弟子たちは神殿を見て、こう言いました。

先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。(マルコ13:1)

もちろん、外見を見ると、神殿は非常に美しい建物でした。けれども、イエス様はすぐに彼らの熱意に冷水を浴びせました。

この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。(マルコ13:2)

イエス様が言われた通り、神殿は崩れました。西暦70年に、神殿は攻撃を受け、火事が起こり、屋根から金が溶け出して壁のひびに入り込んでしまいました。そこで、将軍はその金を取り出すために神殿の石を一つずつ崩すように命じました。

どうして神様はそのようなことを許されたのでしょうか。それは、その神殿の外見は美しかったものの、その内部には多くの堕落があったからです。

もちろん、神殿では良いことも起こりましたが、堕落があまりにも多かったため、最終的にその神殿は立ち続けることができませんでした。神殿には貪欲もありました(だからイエス様は業者たちを追い出されました)。

さらに、「私たちは神様に仕える」と言った祭司たちでさえ、神様に出会った時に神様を認識しませんでした。イエス様が彼らの中におられたにもかかわらず、彼らはイエス様を神様として認めず、むしろイエス様を殺そうと考えました。

私たちクリスチャンは神の神殿です。それでも、これまでどれほど多くの有名なクリスチャンや、そのミニストリーが堕落によって崩れるのを見てきたでしょうか。彼らは崩れるだけでなく、そのミニストリーも完全に崩壊してしまいます。

しかし、彼らを裁く前に、私たち自身の神殿を見直さなければなりません。私たちの神殿には、どのようなものがあるでしょうか。

堕落があるでしょうか。貪欲があるでしょうか。偽善があるでしょうか。嫉妬があるでしょうか。プライドがあるでしょうか。

これらはエルサレムの神殿にも存在していました。それらは、あなたの神殿にも入り込んでいるでしょうか。

また、他の要因も私たちの神殿を汚すことがあります。情欲、苦々しい思い、相手を許さない心は私たちの神殿を汚します。

一方で、愛や憐れみといったものが私たちの神殿にあるべきですが、それらはあなたの神殿に存在しているでしょうか。

周囲の人々が私たちの神殿を見たとき、それを素晴らしい神殿だと思うかもしれません。私たちはクリスチャンの模範に見えるかもしれません。

けれども、私たちの神殿に堕落があるなら、最終的にその神殿は崩れ、堕落は露わになります。

あなたの神殿には、何が存在しているでしょうか。

カテゴリー
マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ21章

神様が何を求めておられるか

パリサイ人たちを厳しく責めた後、イエス様は少し座り、神殿で献金箱を通り過ぎる人々をそっと見ておられました。

金持ちたちもやってきて、とても目立つ方法で大金をその献金箱に入れました。

その様子を見ると、もしかするとイエス様の顔は渋くなったかもしれません。人々が次々とその献金箱にお金を入れていく間に、イエス様の表情はだんだんと暗くなったのでしょう。

けれども次に、一人の貧しいやもめがその献金箱の隣に来て、他の人々と違い、レプタという硬貨を二枚入れました。

レプタはほとんど価値がない硬貨でした。おそらく、二枚のレプタで小麦粉を少し買い、小さなパンを焼くことができたでしょう。それでも彼女は、そのレプタを献金箱に捧げました。

もしかすると、彼女は他の人々が多くの献金をしているのを見て、自分が献金したとき、少し恥ずかしさを感じたかもしれません。それでも、彼女は神様への愛と感謝の心を込めて、そのお金を捧げました。

その姿を見たイエス様の表情は、明るくなったに違いありません。そして、イエス様は彼女を指し示し、弟子たちにこう言われました。

まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。(マルコ12:43)

弟子たちはそれを聞いて驚いたに違いありません。おそらく、彼らはイエス様にこう言ったでしょう。「どういうことでしょうか、イエス様。彼女はほんの少ししかお金を入れなかったのに。」

しかし、イエス様はこう言われました。

皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(マルコ12:44)

パリサイ人たちと律法学者たちを批判された後に、イエス様がそのやもめを褒められたことは偶然ではなかったと思います。イエス様は彼らを偽善者と呼ばれました。なぜなら、彼らの行為は周囲の人々を感動させるためのものであったからです。

だからこそ、イエス様はそのやもめをご覧になったとき、弟子たちにこう言われました。「見なさい。神様はこのような人を探しておられるのです。」

では、神様はどのような人を探しておられるのでしょうか。神様に属する心を探しておられるのです。

彼女は、周囲の人々が自分についてどう思っているか全く気にしていませんでした。また、彼女は自分の持ち物に執着していませんでした。

むしろ、彼女は神様にこう申し上げたのです。「私はあなたのしもべです。私にはほんの少ししかありませんが、それをあなたにお捧げします。」

あなたはどうでしょうか。あなたはそのような心を持っているでしょうか。イエス様があなたをご覧になったとき、「この人の心は神様に属している」と言われるでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ23章

神様に遣わされた人々を拒絶すると

叱られるのが好きな人は誰もいません。

「君は間違っている」と言われるのが好きな人もいません。

では、そう言われたとき、あなたはどう反応するでしょうか。

パリサイ人たちは彼らの先祖たちの例に従いました。彼らは懲らしめられたとき、その言葉に耳を貸さず、悔い改めることもせず、神様に遣わされた人々を攻撃しました。

彼らはイエス様に反対し、殺してしまいました。その後、彼らは弟子たちに反対し、彼らを殺そうとしました。それでも彼らはこう言いました。「私たちが自分の先祖なら、私たちは決して預言者たちを殺さなかっただろう。」

だから、イエス様は彼らにこう言われました。

蛇よ。まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。

だから、見よ。私は預言者、知者、律法学者を遣わすが、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して回る。

それは、義人アベルの血から、神殿と祭壇の間でおまえたちが殺した、バラキヤの子ザカリヤの血まで、地上で流される正しい人の血が、すべておまえたちに降りかかるようになるためだ。

まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。(マタイの福音書23:33-36)

それで、イエス様は泣いて、こう言われました。

エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。

見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。

今から後、「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に」とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」(37-39)

最終的にそれは起こりました。イエス様を殺した世代の人々が生きているうちに、イスラエルは滅び、その神殿が破壊され、今なお再建されていません。

私たちが神様に遣わされた人々を拒絶すると、何が起こるでしょうか。私たちの人生は崩れ去り、私たちは裁かれます。

神様はそれを見て、決して喜ばれることはありません。神様はそれを見て、泣かれるのです。けれども、私たちが自分の主としてイエス様を認めるまで、私たちは決して命と平和を知ることができません。

ソロモンはこう記しました。

愛する者が傷つけるのは誠実による。(箴言27:6)

真実は厳しいかもしれません。真実を聞くのは辛いかもしれません。しかし、真実を受け入れると、私たちは癒されます。

あなたが叱られるとき、どう反応するでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ23章

内側を清める?

この箇所では、イエス様はパリサイ人たちや律法学者たちを厳しく責め続けられます。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。

目の見えないパリサイ人。まず、杯の内側をきよめよ。そうすれば外側もきよくなる。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。

同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。(マタイの福音書23:25-28)

それは非常に厳しい批判ですね。多くのユダヤ人たちはパリサイ人たちと律法学者たちを正しい人と見なしていました。しかし、イエス様は彼らの心の汚れを暴露されました。彼らの強欲、放縦、そして偽善をすべて暴露されたのです。

イエス様は彼らを白く塗った墓と呼ばれました。彼らの外側はきれいでしたが、内側には腐っている骨がありました。

では、あなたの場合はどうでしょうか。イエス様があなたの心をご覧になるなら、何と言われるでしょうか。あなたを白く塗った墓と呼ばれるでしょうか。それとも、外側がきれいで内側が汚れている杯と呼ばれるでしょうか。

仮面をかぶるのはとても簡単なことです。実は、ギリシャ語で「偽善者」という言葉の本来の意味は「役者」でした。

けれども、神様はあなたの外側だけでなく、あなたの心もご覧になります。その時、神様は何をご覧になるでしょうか。

また、あなたが自分の心を見るとき、何をご覧になるでしょうか。神様が見苦しいと見なすものが見えるでしょうか。あなたは周りの人々の罪は見えますが、自分の罪が見えていないでしょうか。

神様からどれほどの憐れみを受けているかを理解しているなら、周りの人々の罪を見るときに、彼らに同情を感じるはずです。そうなのに、あなたは彼らを責めて「私は一切そんなことをしない」と思うでしょうか。

あなたの心の中には何が入っているでしょうか。あなたの杯から何を清めなくてはならないでしょうか。

カテゴリー
このウェブログを購読するために マタイの福音書 マタイ23章

神様にとって大切なことを心に留めておく

日本では状況が異なるようですが、最近、アメリカ人が「クリスチャン」という言葉を聞くと、しばしば悪いイメージを思い浮かべることがあります。

ある程度、それはイエス様を愛する人々に対して当然の反応だとも言えます。イエス様はこう言われました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。。。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ18:18,20)

でも時々、私はこう疑問に思います。「どうして彼らはそんな悪いイメージを持っているのでしょうか。それは私たちがイエス様に従っているからなのでしょうか。それとも、私たちが一番大切なことを忘れてしまっているからなのでしょうか。」

アメリカのクリスチャンたちの多くは、毎週の日曜日に教会に行ったり、バイブルスタディーに参加したり、毎日聖書を読んだり、祈ったり、聖書的な価値観を周りの人々に伝えたりしています。

実は、イエス様の時代にも、そのような人々がいました。それはパリサイ人たちと律法学者たちです。しかし、イエス様は彼らについてこう言われました。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみあわれみと誠実をおろそかにしている。

十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる。(マタイの福音書23:23-24)

ルカ11:24では、イエス様はもう一つのことを加えられました。それは、彼らが神への愛を持っていなかったということです。

また、ある時、イエス様は弟子たちにこう言われました。

互いの間に愛があるなら、その弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)

だから、私たちが自分自身にこう訊くべきだと思います。私の人生は神様の愛と憐れみで印されているでしょうか。

周りの人々が私たちを見るとき、私たちからの愛と憐れみを見ることができるでしょうか。私たちが彼らを愛しているのを知っているでしょうか。彼らに対する私たちの憐れみを見ることができるでしょうか。それとも、ただ彼らを責める人を見るだけでしょうか。

私たちの職場では、周りの人々は誠実さのある人を見るでしょうか。また、忠実な人を見るでしょうか。それとも、彼らはできるだけ仕事をサボる人を見るでしょうか。

もし、周りの人々が私たちの中に愛と憐れみと誠実を見ることができないなら、私たちは彼らの批判に値します。残念ですが、私たちのせいで彼らは決してクリスチャンにならないかもしれません。

神様は彼らを裁かれますが、私たちをも裁かれます。なぜなら、私たちの行動によって、「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」からです。(第二サムエル記12:14)

では、あなたはどうでしょうか。あなたの心からは何が出ているでしょうか。愛?憐れみ?正義?誠実?

神様にとって、それが一番大切なことです。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ23章

抜け穴

別の記事で、私は律法主義がなぜそんなに悪いのかについて話しました。

この箇所では、律法主義のもう一つの悪い点を見ることができます。律法主義では、人々は常に抜け穴を探し求めています。彼らは律法を文字通り守っていると思うかもしれませんが、その律法の精神をしばしば無視してしまいます。

パリサイ人たちや律法学者たちも、多くの抜け穴を見つけていたと考えられます。この箇所で、イエス様はその具体的な例を示されました。

律法によると、神様に何かを誓うなら、その誓いを誠実に守らなければなりませんでした。

しかし、パリサイ人たちや律法学者たちはその律法を解釈する際に、多くのくだらないルールを作り出しました。

例えば、もし神殿にかけて誓うのであれば、その誓いを守らなくてもよいとされました。その一方、神殿の黄金にかけて誓う場合は、その誓いを守らなければならないのです。

また、もし祭壇にかけて誓うのであれば、その誓いを守らなくてもよいとされました。一方で、祭壇の上のささげものにかけて誓う場合は、その誓いを守らなければなりません。

しかし、イエス様はそのルールの無意味さを明確に指摘されました。なぜなら、神殿によって黄金は聖なるものとなり、また祭壇によってそのささげものは聖なるものとなるからです。

そのため、イエス様は彼らにこう言われました。

「もし、あなたが神殿にかけて誓うなら、あなたはその神殿に住まわれる神にかけて誓うことになります。

また、もし天にかけて誓うなら、それは神の御座、そしてその御座に座しておられる神に誓うことになるのです。」

では、イエス様のポイントは何でしょうか。

正しいことをしなさい。

神様が「私の名にかけて誓うなら、その誓いを守りなさい」と言われたとき、神様は「私の名にかけずに誓うなら、その誓いを守らなくてもよい」という意味で言われたわけではありません。

もちろん、誓いを守ることは大切です。とはいえ、最も重要なのは真実を語ることです。もしあなたが何かをすると言うなら、それをしっかりと実行しなさい。

パリサイ人たちと律法学者たちは「神様に対する誓い」という言葉に過度に集中するあまり、「誓いを誠実に守りなさい」という原則を見逃してしまいました。

その結果、彼らは「ブヨをこして除いた」のです。(つまり、神様に対する誓いを定義するために、数多くの細かいルールを作り上げました。)

ところが、「らくだを飲み込んでしまいました」。(彼らは何度も自分の誓いを破るという重大な過ちを犯してしまいました。)(マタイ23:24)

では、あなたの場合はどうでしょうか。あなたは心から正しいことを行い、神様を喜ばせたいと願っていますか。

それとも、正しいことをすることを嫌がり、いつも抜け穴を探し回っているでしょうか。

もしあなたが抜け穴を見つけ、それを利用しようとするなら、神様を喜ばせることはできません。だからそのような態度を捨てましょう。むしろ、神様があなたに示されたことを忠実に行いましょう。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ23章

私たちの先生が悪い時

私は子供の頃、「ベスト・キッド」という映画を観ました。それはもう30年前のことですが、今でも面白い映画だと思います。

実は現在、YouTubeでその映画に基づいた現代のシリーズを見ることができます。(おそらく、それは英語だけですが。)それも非常に人気があります。

その映画では、ダニエルという少年が、ある空手道場の生徒たちにいつもいじめられていました。そのため、ダニエルは空手を習いたいと思うようになります。

あるとき、ダニエルは自分の先生にこう訊きました。「どうして彼らはあのような振る舞いをするのでしょうか。」

先生はこう答えました。「悪い弟子というものは存在しない。存在するのは悪い先生だけだ。」

私はその言葉に完全には同意できませんが、その中に真理が含まれていると思います。もし先生が悪ければ、その先生に従う者たちも同じ道を辿ることになります。

この箇所でも、私たちはそのことを学びます。イエス様はパリサイ人たちや律法の専門家を厳しく責め続けておられます。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナ(つまり、地獄)の子にするのだ。(マタイの福音書23:13-15)

この律法学者たちやパリサイ人たちにはさまざまな欠点がありました。彼らは偽善者であり、律法の細かいルールに執着していて、神様が本当に大事にするものを理解していませんでした。

その結果はどうなったのでしょうか。彼らの弟子たちも同じように振る舞うようになりました。実際、その弟子たちはさらにひどくなりました。クリスチャンになる前のサウロはその一例です。

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

もしあなたが聖書を教えるなら、あなたの性格はどのようなものでしょうか。

ヤコブはこう言っています。

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しい裁きを受けます。(ヤコブ3:1)

ヤコブは主に私たちの教えについて話していると思いますが、私たちの人生についても語っています。教師であるなら、私たちはパリサイ人たちや律法学者たちとは異なり、教えと行為が一致していなければなりません。(マタイ23:3)

そこで、もしあなたが教師であるなら、あなたの教えと行為は一致していますか。それとも、偽善者のように生きていますか。

さらに、あなたが教えるとき、または人生を歩むときに、神様の優先順位を忘れずに覚えていますか。正義、憐れみ、誠実を忘れずにいますか。

心に留めておきましょう。神様はあなたの教えと行為によって裁かれます。しかし、それだけではありません。もしあなたが自分の弟子を忠実に訓練しないのであれば、神様はあなたが育てた弟子の姿を見て、あなたを裁かれます。

もう一つ忘れてはならないことがあります。それは、あなたの先生がどのような人であるかということです。

あなたの先生はどのように生きていて、何を教えているでしょうか。もし悪い先生に従うなら、あなたはその先生の歩む道を辿り、最終的には困難に直面することになるでしょう。

教会では、誰の話を聞いていますか。ポッドキャストでは、誰の言葉に耳を傾けていますか。どんな人の本を読んでいますか。

教師たちは自分の教えに責任を持ちますが、あなたは何を聞くかに責任を持っています。

ですので、以前にも述べたことではありますが、もう一度繰り返させてください。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。(第一テサロニケ5:21)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ23章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

リーダーシップに関する間違った考え方

リーダーシップとは何でしょうか。

イエス様は、パリサイ人たちと律法の専門家を厳しく批判された時、本当のリーダーシップを定義されました。

まず、イエス様は弟子たちと群衆に警告されました。

律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。

しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで事項しないからです。(マタイ23:1-2)

この箇所で、イエス様が彼らに教えられたのは、そのリーダーたちの権威ある立場を尊重する必要があるけれど、彼らの行動を模倣してはならないということです。なぜなら、彼らの言葉と行動が一致していなかったからです。

もちろん、彼らは律法の細かなルールや、さまざまな宗教的な伝統を守っていました。けれども、最も重要なこと、つまり正義、憐れみ、そして誠実を忘れていたのです。

その態度は、神様や周囲の人々に対する彼らの姿勢に悪影響を与えてしまいました。

さらに、その態度は彼らのリーダーシップに関する考え方にも影響を与えました。彼らは人々に仕えるのではなく、命令したいという考えを持っていました。

イエス様は彼らについてこう言われました。

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイ23:4)

彼らは多くの律法やルールを人々に課しました。けれども、その人々がそのルールを守れず、罪悪感の重さで苦しみ始めると、パリサイ人たちや律法学者たちは彼らを励ますことも、彼らのために祈ることもせず、助けるどころかむしろ彼らを責めました。

さらに、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の立場を誇示していました。

彼らの聖句を入れる小箱は大きく、衣の房(その房にも神様の言葉が書かれていました)は長く、周りの人々は彼らを見た時に本当に感心しました。「その人は本当に霊的な人だ」と思ったのです。

また、彼らはお金を儲けるために自分の立場を利用しました。イエス様は「彼らはやもめたちの家を食い尽くします」と言われました。おそらくそれは、パリサイ人たちがやもめの歓心を買い、彼女たちのお金を搾取したということを意味しているのでしょう。

さらに、彼らは周りの人々に「先生」や「父」と呼ばれることを好みました。なぜなら、それは彼らの高い立場を示す印だったからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。

あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。

また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。(マタイ23:8-10)

リーダーたちはそのことを心に留めていなければなりません。肩書を持つこと自体は良いことですが、実際には私たち全員が対等なのです。神様だけが私たちに対して優れた方です。

それでも、神様はしもべとしてこの世に来られました。イエス様は病気の人々を癒し、困難にある人々に良い知らせを伝え、十字架で私たちの罪のための罰を受けて下さいました。リーダーたちはそのような態度を取るべきです。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたのうちで、一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:11-12)

本当のリーダーたちはしもべです。彼らは敬意、栄誉、またはお金を求めるのではなく、周りの人々に仕えるために全てをささげます。

さて、あなたはどのようなリーダーなのでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ22章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

ダビデの子。神の子。

多分、イエス様はパリサイ人たちやサドカイ人たちの偽善的な態度に嫌気が差していたので、彼らを黙らせるためにこの質問を投げかけられたのでしょう。

あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。(マタイ22:42a)

パリサイ人たちや律法の専門家にとって、それは非常に簡単な質問でした。そのため、彼は即座に答えました。

ダビデの子です。(マタイ22:42b)

そして、イエス様は彼らの「キリスト」(または「メシア」)に対する考え方に異議を唱えられました。イエス様は次のように尋ねられました。

それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、「主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」」と言っているのですか。

ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:43-45)

その答えは簡単です。イエス様は人の子(つまりダビデの子)であるだけでなく、神の子でもあります。

人間として、イエス様はダビデの子孫でした。しかし、神の子として、イエス様はダビデの主でした。

けれども、パリサイ人たちや律法の専門家はそのことを理解することができませんでした。もしかすると、彼らは心の中でそのことを理解したくないと思っていたのかもしれません。

今なお、多くの人々はパリサイ人たちや律法の専門家のように考えています。彼らはイエス様を人間として認めます。そして、イエス様が良い方であることを認めます。もしかすると、イエス様を素晴らしい先生として認めることもあるかもしれません。

しかし、彼らはどうしてもイエス様が神の子であるとは認めようとしません。

イエス様は人の子だけではなく、神の子でもあります。だからこそ、イエス様は私たちの愛、信頼、そして服従にふさわしい方です。さらに、イエス様だけが天の父への道です。

さて、あなたはイエス様をどのように考えるでしょうか。彼は一体誰だと思いますか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ22章 マルコの福音書 マルコ12章

神の国に入りたいと思うと

イエス様を尋問していた人々の中に、イエス様の言葉に深く感動した一人の人物がいました。そこで、彼はイエス様にこう尋ねました。

すべての中で、どれが第一の戒めですか。(マルコ12:28)

イエス様はこのように答えられました。

第一の戒めはこれです。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

第二の戒めはこれです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

これらよりも重要な命令は、ほかにありません。(マルコ12:29-31)

この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。(マタイ22:40)

要するに、もしあなたが完全にその二つの戒めを守ることができるなら、実はすべての戒めを守ることになるということです。なぜなら、すべての戒めは、その二つの戒めに基づいているからです。

すると、イエス様に質問した人はこう答えました。

先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。

そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。(マルコ12:32-33)

この人は、パリサイ人たちや律法の学者たちとは違い、とても重要なことを理解したようです。それは、儀式的な聖さだけでは不十分だということです。

もし私たちが神様を喜ばせたいなら、律法に文字通り従うだけではなく、律法の精神にも従わなければなりません。そして、もし私たちがその二つの戒めに従わないのなら、私たちの他のすべての良い行いには、全く意味がないのです。

その人がそのことをよく理解したので、イエス様は彼にこう言われました。

あなたは神の国から遠くない。(マルコ12:34)

イエス様が言っていないことに気づいてください。

イエス様は「ああ、良かった。あなたがそのことをよく理解しているから、天国へようこそ。」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は「あなたは神の国から遠くない。」と言われました。

どうしてでしょうか。

それは、その人がもう一つの重要なことを理解しなければならなかったからです。それは何だったのでしょうか。

それは、その二つの戒めを完全に守ることができる人は誰もいないということです。だからこそ、私たちには救い主が必要なのです。その人がその必要性を理解し、イエス様を信じていたなら、イエス様はその人に「神の国にようこそ」と言われたでしょう。

私たち皆、この真理を理解しなければなりません。自分の良い行いだけでは、天国に入れる人は誰もいません。いくら努力しても、私たちは完全に神様を愛することや、周りの人々を愛することに失敗します。

そういうわけで、イエス様はこの世に来られました。イエス様は十字架で私たちの罰を受けてくださいました。しかし、三日目にイエス様はよみがえられました。そのため、イエス様を信じてこそ、私たちは救われるのです。

あなたはイエス様を信じていますか。もしイエス様をあなたの主としてまだ受け入れていないのであれば、今日そうしてみませんか。

イエス様、私は罪を犯しました。私は心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くしてあなたを愛してきませんでした。隣人を自分自身のように愛してきませんでした。

むしろ、私の行為を通して、あなたを傷つけ、周りの人々も傷つけました。どうかお赦しください。

あなたが十字架で私の罰を受けてくださったことに感謝します。私の主となってください。アーメン。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ22章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

聖書と神様の力を理解しないと

ある英語の子どもの歌は、サドカイ人たちをこのように描写しています。

I don’t want to be a Sadduccee.
(サドカイ人になりたくないよ。)
‘Cause, a Sadduccee is sad, you see.
(だって、サドカイ人たちは悲しい人たちだから。)

それは少しくだらないだじゃれですが、どこかに真実が含まれています。

最終的に、サドカイ人たちは希望を持たない人々でした。なぜなら、彼らは復活を信じていなかったからです。彼らは死を迎えると命が終わると考えていました。

その考え方は、神様に対する彼らの思いや、自分の人生観、そして聖書に対する理解に影響を与えてしまいました。

彼らは神様の力を理解しておらず、神様の愛も知りませんでした。また、神様が私たちと永遠に共に生きたいと望んでおられるという概念を全く持っていませんでした。

彼らは墓に入ると命が終わると考えていたため、この世のもの、つまり力とお金に執着していました。

このような考え方は、彼らの聖書の理解にも影響を与えました。彼らは聖書の最初の5冊(創世記から申命記まで)だけを神様の言葉として受け入れていました。預言者の書や詩篇などは神様の言葉として受け入れなかったのです。

そこで、彼らはイエス様のところに行き、パリサイ人たちを困らせた質問をイエス様に尋ねました。それはくだらない質問でしたが、その時代のユダヤ人たちの文化では、万が一(もしくは、億が一と言えるでしょうか)その話が現実になる可能性があると考えられていました。

サドカイ人たちはこう尋ねました。

先生。モーセは、「もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない」と言いました。

ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。

では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。(マタイ22:24-28)

それは非常にくだらない疑問に思えるでしょう。それは非現実的であり得ないと思われます。

ともかく、イエス様は彼らに対して非常に厳しく答えられました。

あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マタイ22:29-30)

そして、イエス様は出エジプト記の箇所を引用されました。

サドカイ人たちはその箇所をよく知っていたはずですが、彼らはその言葉を決して深く考えたことがなかったでしょう。だからこそ、イエス様の言葉は彼らに強い衝撃を与えたに違いありません。イエス様はこう言われました。

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(31-32)

神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とは言われませんでした。神様はこう言われました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。今なお、わたしは彼らの神である。」

要するに、アブラハムやイサクやヤコブの魂は今も生きています。だから、イエス様はサドカイ人たちが受け入れていた聖書の箇所を用いて復活を証明し、彼らの議論を完全に打ち砕かれました。

それでは、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様を私たちが作った箱に閉じ込めることはできません。

しかし、サドカイ人たちは神様をそのような箱に閉じ込めてしまいました。彼らは神様の力を理解せず、神様が人々を復活させる力を持つことを信じなかったのです。

なぜ彼らは神様の力を理解できなかったのでしょうか。それは、彼らが聖書を正しく理解していなかったからです。

だからこそ、私たちはサドカイ人たちのようにならないように注意する必要があります。聖書を学び、その真意を理解するために努力しましょう。

もし聖書が神様についての私たちの考えに反することを語っているなら、サドカイ人たちのようにその言葉を拒否するのではなく、むしろ受け入れるようにしましょう。

そうすることで、私たちは神様をさらに深く知り、神様との親しい関係を築くことができるのです。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ22章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

神様の物を返す

私は税金を支払うのが大嫌いです。毎年3月に確定申告を書くのはとても大変です。その時に少し返金はされるものの、6月になると税金の負担が非常に大きくなります。

私はマンションを購入したため、毎年その税金を支払わなければならない上に、市民税や県民税も負担しなければなりません。

税金を支払うのが好きな人などいないでしょう。でも、イエス様の時代ではユダヤ人たちは特に支払いたがりませんでした。それは、彼らがイスラエルを征服していたローマ帝国に税を納めなければならなかったからです。

そこで、パリサイ人たちとヘロデ党の者たちは、イエス様を罠に陥れるための完璧な質問を思いついたのです。

彼らはこう尋ねました。

先生。私たちは、あなたがお話になること、教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。

ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。(ルカ20:21-22)

もしイエス様が「税金を払わなくてよい」と言えば、ヘロデ党の者たちはその言葉をローマ帝国に伝え、イエス様は反逆者として捕らえられたでしょう。

一方で、イエス様が「税金を払うべきだ」と言えば、ユダヤ人の間でイエス様の人気は失われてしまったかもしれません。

ところが、イエス様は彼らの意図をよく知っておられました。そこで、イエス様は再び彼らの質問に別の質問で答えられたのです。

まず、イエス様は彼らに税金を支払うための銀貨を見せてくれるよう頼みました。そして、イエス様は彼らにこう尋ねられました。

だれの肖像と銘がありますか。(ルカ20:24)

彼らは、「カエサルのものです」と答えました。

すると、イエス様はこう言われました。

では、カエサルのものはカエサルに、神のものは、神に返しなさい。(ルカ20:25)

イエス様が意味されたのは何だったでしょうか。

「あなたたちはカエサルのお金を使っていますね。そのお金を使うということは、そのお金がカエサルに属するものだという証拠ではありませんか?だから、カエサルに属するものはカエサルに返しなさい。」

けれども、イエス様は続けてこう言われました。

「でも、あなたたちは、もっと大切なことを覚えていなくてはいけません。神様に属するものは神様に返しなさい。」

この言葉を通して、イエス様はローマ帝国の主張を巧みに論破すると同時に、ユダヤ人たちに重要な教訓を教えられました。

ローマ帝国は、カエサルが神であると主張していました。実際、その銀貨にはそのような言葉が刻まれていました。しかし、イエス様はカエサルと神様を明確に区別されました。

「カエサルという一人の人間には、彼に属するものを返しなさい。けれども、真の神には、神に属するものを返しなさい。」

私はイエス様のこの2つ目のポイントについてお話ししたいと思います。ローマ帝国の銀貨にカエサルの肖像と銘が刻まれていたように、私たちにも神様の肖像と銘が刻まれています。

聖書によれば、神様は人を神のかたちとして創造されました。(創世記1:26-27)

そして、パウロはこう言っています。

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(第二コリント3:3-4)

神様はご自身の名前を私たちの心に記し、私たちが神様に属していることを明確にしてくださいました。時には、私たちに刻まれた神様の肖像が、私たちの罪によって歪んでしまうことがありますが、パウロはこう書いています。

私たちはみな。。。鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられています。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

それでは、私が言おうとしているのは何でしょうか。

私たちは神様に属しています。だから、私たちは神様に属するものをお返ししなければなりません。それは単なるお金ではありません。それは私たちの命そのものです。

あなたは神様に属するものを、神様にお返ししますか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ22章

王子の婚宴のたとえ話:神様の国はいること

この話では、イエス様は私たちがイエス様を拒絶する危険性について警告し続けておられます。

このたとえ話では、ある王が自分の息子のために結婚の披露宴を催し、多くの人々を招待しました。ところが、その日が来たとき、招待されたお客さんたちは様々な理由をつけて来ませんでした。

王はもう一度彼らにしもべを遣わしましたが、彼らは気にもかけず、自分の用事であちこちへ行きました。

さらに、ある人々はそのしもべたちを捕まえて、侮辱し、殺してしまいました。

この話は、以前のたとえ話と同じようにイスラエルを描写しています。

とはいえ、それだけではなく、この話は福音に対する多くの人々の反応も描写しています。

神様はご自身の国に入るように私たちを招待します。神様は私たちのためにすべてを整えてくださいました。私たちがしなければならないことは、ただその招待に応えることだけです。

それでも、多くの人々はその招待を軽んじて、自分の道を行き続けます。さらに、ある人々は神様のメッセンジャーを侮辱し、迫害します。

その結果はどうなるのでしょうか?裁きです。死です。

しかし、この話には驚くべきどんでん返しもあります。王は他の人々を招待し、彼らが来た後に披露宴が始まりました。

ところが、その中に婚礼の礼服を着ていない人がいました。彼は傍若無人で、その王の要求を無視し、普通の服を着ていました。そのため、その王は彼のところに行き、こう言いました。

友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。(マタイの福音書22:12)

その人には良い言い訳がなかったので、彼は「人が泣いて歯ぎしりする暗闇」に放り出されました。(13)

このように、多くの人々は神様の招待を聞き、神の国に入りたいと願います。けれども、彼らは神様の条件を認めず、自分の方法で入ろうとします。

では、神様の条件とは何でしょうか。それについては、ヨハネが私たちに教えてくれます。

その証とは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。

御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5:11-12)

要するに、神の国に入りたいのであれば、イエス様を着る必要があるということです(ガラテヤ3:27)。

「イエス様を着る」とはどういう意味でしょうか。それは、イエス様をあなたの主として受け入れることです。

そうすることで、神様が私たちを見るとき、私たちの罪をではなく、キリストの義を見るのです。なぜなら、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払ってくださったからです。

しかし、多くの人々はその条件を受け入れることを拒む傾向があります。彼らは自分の方法で神の国に入ろうとします。けれども、それでは神様の招待とイエス様の十字架の働きを軽んじることになります。

私たちはそのような行動を取るべきではありません。もしそうするなら、私たちは神様を侮辱することになるのです。

だからこそ、あなたには選択があります。あなたは神様の条件を受け入れ、神の国に入ることができます。または、自分の方法を選び、地獄に向かうことになります。他に選択肢はありません。

あなたはどうしますか。神様の条件を受け入れて、神様に近づこうとしますか。それとも、自分の方法で神様のもとに来ようとしますか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

悪い小作人のたとえ話:イエスを拒絶すると

イエス様はユダヤ人のリーダーたちに不信を責めた後、彼らが悔い改めない場合にどうなるかを警告されました。

このたとえ話はイザヤ書5章に似ています。イザヤ書の箇所では、神様がご自分の造られたぶどう園について話されています。そのぶどう園は北イスラエル王国とユダ王国を象徴しています。

その話でも、イエス様の話でも、その主人は受け取るべきぶどうを受け取れませんでした。けれども、イエス様の話では、特に農夫たちを責めておられます。

もちろん、その農夫たちは、預言者たちやイエス様を拒絶したユダヤ人のリーダーたちを表しています。彼らはイスラエル人の霊的な健康を守る責任を持っていました。

リーダーたちがその責務を果たしていれば、イスラエルは霊的な実を結んでいたでしょう。ところが、彼らは堕落し、その責任を果たしませんでした。

なぜでしょうか。それは、神様を重んじず、自分自身のために生きたからです。彼らはお金や権力、人々からの栄誉に執着していました。

だからこそ、イスラエルの民が実を結ばなかったのは当然のことでした。

そこで、神様は彼らにしもべを送りました。イスラエルの歴史の中で、神様は何度も預言者たちを遣わされました。預言者たちはイスラエル人たちに警告し、訓戒しました。

しかし、そのリーダーたちは幾度となく預言者たちを拒絶し、迫害しました。さらには、預言者たちを殺してしまうことさえありました。

最後に、神様は御自身のひとり子を送ってくださいました。けれども、そのリーダーたちは御子を殺そうと計画していたのです。

だから、イエス様がユダヤ人たちに「主人がその農夫たちをどうすると思いますか?」と尋ねられると、彼らはこう答えました。

その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば、収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。(マタイ21:41)

それでも、ユダヤ人たちはそんな悪者が存在することに驚きました。そこで彼らは「そんなことが起こってはなりません。」と言いました。(ルカ20:16)

ところが、イエス様は次のように答えられました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には、不思議なことだ。」

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42-44)

イエス様が意味されたのは何でしょうか。イエス様はすべてのものの基礎です。イエス様は要の石です。

要の石とは、建物の最初に据えられる石を指します。その建物は要の石の周りに建てられます。この石は非常に重要であり、この石が少しでも歪むと、建物全体が歪んでしまいます。

同じように、神の御国、そして私たちの人生もイエス様の周りに建てられなければなりません。そうしないと、すべては歪んでしまいます。

しかし、ユダヤ人のリーダーたちはイエス様を拒絶したため、神の国は彼らが軽蔑していた人々に与えられました。つまり、収税人や売春婦、異邦人に与えられたのです。なぜなら、彼らはイエス様を救い主として受け入れたからです。

一方で、そのリーダーたちは裁かれ、すべてを失ってしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は何の上に建てられているでしょうか。お金でしょうか。財産でしょうか。力でしょうか。この世のものでしょうか。それともイエス様でしょうか。イエス様はあなたの要の石でしょうか。

神様はあなたに命を与えてくださいました。あなた自身も、あなたが持つものすべても神様に属しています。そして、神様はその御国のために、あなたに霊的な実を求めておられます。

しかし、自分のためだけに生きているなら、その実を結ぶことはできません。そして、ユダヤ人のリーダーたちのように要の石を拒絶すれば、裁きを受け、すべてを失ってしまいます。

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章 ルカの福音書 ルカ20章

あなたの間違った考え方を認めないと

私たちの考え方が間違っていると分かる時、時にはそれを認めるのが難しいものです。私自身もそれを認めたくないことがあります。どうしてでしょうか。

それは、プライドがあるからです。「私は間違っていた」と言うのは簡単ではなく、謙虚な態度が求められます。

けれども、もし私たちが神様との関係や人々との関係を守りたいと思うなら、その謙虚な態度が不可欠です。

イエス様の時代の宗教的なリーダーたちは、このような態度を持っていませんでした。イエス様は何度も彼らの間違った考え方を指摘されましたが、彼らはどうしてもそれを認めようとはしませんでした。特にイエス様の最後の週(つまり、十字架にかかる前)に、その姿が明らかになります。

イエス様が神殿から商人たちと両替人を追い出された後、祭司長たちや民の長老たちがイエス様のところに来て、こう尋ねました。

何の権威によって、これらのことをしてるのですか。だれがあなたにその何の権威を授けたのですか。(マタイ21:23)

いつものように、イエス様は彼らの質問に対して別の質問で答えられました。

ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。(マタイ21:25)

それを聞かれた時、彼らは板挟みになってしまいました。

もし彼らが「天から」と答えたなら、イエス様は「では、どうしてヨハネの言葉を信じなかったのでしょうか。ヨハネは私がメシアであることを語りました。もしその言葉を受け入れるなら、私の権威がどこから来るのかが理解できるはずです。」と言われたでしょう。

その一方で、彼らが「人から」と答えたなら、周りの群衆は彼らに怒りを向けたでしょう。なぜなら、群衆はヨハネが本当の預言者であると信じていたからです。

そこで彼らは「分かりません」と答えました。

すると、イエス様は「もし私の質問に答えないなら、私もあなたの質問に答えません。」と仰いました。

その後、イエス様は彼らにたとえ話を語られました。その話では、あるお父さんに二人の息子がいました。お父さんが長男に何かを頼んだ時、最初はその息子が「それをしたくありません」と答えましたが、最終的にはその仕事をしました。

一方で、次男は頼まれた時に「はい、します。」と言いましたが、結局その仕事をしませんでした。

このたとえ話を通して、イエス様は宗教的なリーダーたちを、かつて罪を犯していた罪人たちと比較されました。

宗教的なリーダーたちは正しい人たちに見えましたが、心の中では神様に背いていました。

彼らがバプテスマのヨハネを見た時、彼が頭がおかしいと思いました。しかしすぐに分かったのは、ヨハネのミニストリーを通して多くの人々の人生が変わったということです。神様がヨハネを通して働かれていることは明らかでした。それでも、彼らはプライドのゆえにヨハネを拒絶しました。

さらに、彼らはイエス様をも見ていました。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、イエス様の教えを聞きましたが、それでもイエス様を拒絶しました。

イエス様が彼らの間違った考え方を暴露し、彼らがイエス様の議論に反論することができなくても、彼らは自分の考えに固執しました。

一方で、このリーダーたちに見下されていた罪人たちは、かつて神様に背き、人々をだましたり、自分の体を売ったりしましたが、ヨハネやイエス様の言葉を聞くと、謙虚に自分の罪を認め、悔い改めました。

そこで、イエス様は宗教的なリーダーたちにこう言われました。

まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。(マタイ21:31)

あなたはどうでしょうか。自分が間違った時、それを認めることができるでしょうか。プライドは人間関係を壊します。けれども、さらに深刻なのは、プライドが神様との関係を壊してしまうことです。

だからこそ、謙虚な心を保ちましょう。相手から訓戒された時は、その言葉を素直に受け入れましょう。そして、自分が間違ったと気づいた時には、すぐにそれを認めましょう。

そうしなければ、あの宗教的リーダーたちのように、私たちは周りの人々から距離を置かれ、さらには神様からも離れてしまうかもしれません。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様を見るとき、イエス様の声を聞くとき

多くの人々は「神様を信じる」と言いますが、イエス様を信じていません。

しかし、もしあなたが本当に神様を信じるなら、イエス様を拒絶することはできません。この箇所で、イエス様はこう語られました。

わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネの福音書12:44-46)

つまり、イエス様を信じることは、神様を信じることです。イエス様を見ることは、神様を見ることです。

そして、イエス様はこう語られました。

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。(49-50)

だから、イエス様の言葉を聞くことは、神様の言葉を聞くことです。なぜなら、イエス様は神様の言葉を正しく伝えられるからです。

したがって、もしあなたがイエス様の言葉を拒絶するなら、それは実際には神様の言葉を拒絶することになります。さらに、もしイエス様を拒絶するなら、それは神様ご自身を拒絶することなのです。

そこで、イエス様はこう語られました。

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。(48)

私たちがイエス様の言葉を聞くと、その言葉によって私たちは裁かれます。

もしイエス様を信じるなら、あなたは光と命を見つけるでしょう。 しかし、イエス様を拒絶するなら、あなたが見つけるのは暗闇と裁きです。

あなたはどう選ぶでしょうか。

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ12章

誰からの栄誉を求めるか

聖書の中で、これは最も切ない言葉の一つです。

しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じたものが多くいた。

ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。(ヨハネの福音書12:42-43)

この箇所では、私たちは隠れた信者たちの存在を見ます。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、その教えを聞いて信じるようになりました。

それでも、彼らは誰にもそのことを打ち明けませんでした。なぜなら、会堂から追放されることを恐れていたからです。その文化において、会堂からの追放はユダヤ社会全体からの孤立を意味していました。

彼らの決断が示したのは、神様を喜ばせることよりも、周囲の人々の歓心を買うことを優先したということです。

もしサタンがあなたがクリスチャンになることを阻止できないなら、あなたが自分の信仰を周囲の人々に伝えることを妨げようとします。

どのようにしてそれを行うのでしょうか。サタンはあなたに問いかけます。 「もし周囲の人々に伝えたら、彼らはどう反応するだろうか。」

時には、その反応は明確です。あなたの友人や家族があなたを拒絶するかもしれません。議員たちもこの板挟みに直面していました。もしイエス様を信じると公言すれば、彼らは会堂から追放されることになるでしょう。

けれども、多くの場合、私たちは相手がどのように反応するか分かりません。それでも、悪い反応を恐れてしまいます。

私が中学生や高校生だった頃、私も同じように感じていました。高校2年生になるまで、私は自分がクリスチャンであることを友人に伝えませんでした。なぜなら、彼らの反応を恐れていたからです。

しかし、神様は私たちがそのように生きることを望んではおられません。神様は、私たちが周囲の人々に触れ、影響を与えることを望んでおられます。けれども、もし私たちが恐れに支配されるなら、それを実践することはできません。

私たちの信仰のゆえに、私たちを拒絶する人がいます。すべての人が私たちを愛するわけではありません。イエス様は完全な方であったのに、彼を憎む人がいました。

どうして私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。

だからこそ、相手が私たちを拒絶することを心配しないでください。私たちの信仰を大胆に伝え、その結果を神様に委ねましょう。

イエス様の言葉を忘れずに心に留めましょう。

ですから、誰でも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を知らないと言います。(マタイ10:32-33)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ12章

遅すぎる前に

時には、人々はイエス様に従うことを先延ばしにします。なぜなら、「あとでできる」と思ってしまうからです。しかし、それには危険が伴います。

この箇所では、イエス様が十字架を前にして、覚悟を決め、叫ばれました。

父よ。御名の栄光を現してください。(ヨハネの福音書12:28a)

そして、天の父は、すべての人の前で答えられました。

わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。(28b)

イエス様の周りにいた人々は、その声を聞きましたが、正しく聞き取ることができなかったようです。

ある人々は、「雷が鳴ったのだ」と言いました。

また、別の人々は、「天使があの方に話しかけた」と言いました。

なぜ彼らは天の父の言葉を理解できなかったのでしょうか。

ヨハネはこのことを解説します。

それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。

「主よ。私たちが聞いたころを、誰が信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。

「主よ。彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒すこともないように。」

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。(38-41)

私は以前の記事でこの箇所について説明しましたが、基本的に彼らが天の父の声を理解できなかった理由は、すでにイエス様に対して頑なな心を持っていたからです。

ある人々にとって、イエス様が以前大工の仕事をしていたという事実は、彼らの持つメシア像と一致しませんでした。

また、別の人々がイエス様を拒絶した理由は、イエス様が彼らを宗教的な偽善者として明らかにされたことでした。

さらに、イエス様の教えが彼らの伝統や宗教的な規則と対立していたため、それを理由にイエス様を拒む人々もいました。

そのため、イエス様が奇跡によってご自身のメシアとしての資格と、その言葉の真実性を証明されても、彼らは「悪魔の力によってその奇跡を行った」と言い張りました。

この箇所では、彼らはこう言いました。 「まさか、それが神様の声だとは思えない。ただの私の想像だろう。きっと雷の音に違いない。」

けれども、彼らが自分の目と耳を閉ざせば閉ざすほど、心はますます頑なになり、霊的にも盲目になっていきました。

そこで、イエス様はもう一度彼らに警告されました。

もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。

闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。(35-36)

要するに、「あなたの時間は限られています。すぐに心を開かなければ、永遠に盲目になってしまいます。まだ可能なうちに、私と私がもたらす光を信じなさい。」ということです。

イエス様は、あなたにも同じことを語っておられます。人々がイエス様のもとへ引き寄せられ、救われるために、イエス様は地上から上げられ、十字架にかけられました。

けれども、もしあなたが目と耳を閉ざし続けるなら、たとえ真理が目の前にあっても、それを認識することはできません。そして、そのときには、救いの機会は失われてしまいます。

だからこそ、パウロはこう語りました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

カテゴリー
ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様に仕えるために

イエス様がエルサレムに目立つ形で入城されたこと、また神殿から業者や両替人を追い出されたことによって、エルサレム中でイエス様は話題となりました。そのため、初めてエルサレムを訪れた人々がイエス様に会いたいと願うのは、自然なことでした。

この話では、ユダヤ教に改宗しようとしていたギリシャ人たちが、イエス様に会いたいと願いました。おそらく、ピリポがギリシャ語の名前だったため、彼らは最初にピリポのもとを訪ねたのでしょう。

そこで、ピリポはアンデレとともに、彼らをイエス様のもとへ連れて行きました。(アンデレは、人々をイエス様に紹介することが多かった人物です。)

イエス様は彼らに会ったとき、次のように語られました。

人の子が栄光を受けるときが来ました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12:23-24)

イエス様はご自身の死と復活について語られていました。イエス様がこの世におられる限り、その働きはイスラエルに限定されていました。けれども、イエス様が死んで復活された後、聖霊を通してその働きは世界中に広がり、すべての国と民族に及びました。

そして、イエス様はさらに続けて語られました。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至ります。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについてきなさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。

わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。(25-26)

イエス様は、ごく当たり前のことを語ると同時に、非常に逆説的なことも言われました。

では、その当たり前のこととは何でしょうか。イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様についていかなければなりません。また、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様がおられる場所にいなければなりません。

もしあなたが常にイエス様から離れているなら、イエス様に仕えることは困難です。だから、イエス様に仕えたいと思うなら、イエス様の近くにいて、イエス様が望まれることを見極めなければなりません。

けれども、イエス様と共に歩みたいと願うなら、ときには愛する者や、執着しているものを手放さなければならないこともあります。だからこそ、イエス様は逆説的なことを言われました。

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至る。」

もちろん、私たちはすべてを憎むべきだというわけではありません。しかし、ときにはイエス様に従うために、私たちは愛する者や、この世のものを手放さなければならないことがあります。

たとえば、イエス様が「あなたの国を離れ、別の場所へ行きなさい」と言われるなら、私たちはその御声に従わなければなりません。

また、イエス様が「あなたの現在の収入は高いかもしれないが、その仕事を捨て、私に仕えなさい」と言われるなら、イエス様の国のために、私たちはその道を選ばなければなりません。

ときには、イエス様についていくことで、私たちの人生は大きく変わります。ときには犠牲を払うこともあるでしょう。けれども、もし私たちがイエス様のもとにいなければ、真に仕えることはできません。

忘れないでください。その犠牲と変化は痛みを伴うかもしれません。しかし、最終的には、その犠牲には大きな価値があります。

私は日本に引っ越したとき、そのことを学びました。もともとハワイを離れる予定はまったくありませんでした。けれども、実際に日本へ来ると、私は以前よりも幸せになりました。イエス様についていき、日本に来たことで、私は新たな命を見出しました。

イエス様についていくなら、あなたも命を見つけることでしょう。

あなたはどうでしょうか。イエス様がおられる場所に、あなたもいるでしょうか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章

私の信仰の強さは?

信仰。

実は、私は自分の信仰があまり強くないと感じています。特に、祈るときに自分の信仰が弱いと感じることがあります。私は祈るとき、本当に信仰をもって祈っているのでしょうか。「信仰をもって祈る」とは、どういう意味なのでしょうか。

イエス様が呪われた木が枯れたとき、弟子たちは非常に驚きました。そして、彼らはイエス様にこう尋ねました。

どうして、すぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。(マタイ21:20)

イエス様はこのように答えられました。

神を信じなさい。(マルコ11:22)

「神様を信じなさい」とは何を意味するのでしょうか。私たちは何を信じるべきでしょうか。

1.神様が良い神であるということ。 神様は私たちを愛する天の父であり、私たちに良い賜物だけをくださいます。

だから、私たちがパンを願えば、神様は石を与えるようなことはされません。また、私たちが魚を願えば、神様は蛇を与えるようなこともされません。

2.神様が私たちの祈りを聞いてくださるということ。 どんなに小さな願いであっても、神様はそれを聞いてくださいます。私たちの問題がどれほど大きくても、またはどれほど小さくても、神様は祈りを聞いてくださいます。

3.神様が私たちの祈りをかなえる力を持っておられるということ。 神様にとって、私たちの願いは決して難しいものではありません。

4.神様が私たちを祝福したいと望んでおられるということ。 正当な理由がない限り、神様は私たちに良いものを与えることを控えることはなさらないのです。

5.神様が私たちのために良い計画を持っておられるということ。 神様の計画は私たちにとって良いものであり、その計画は私たちの益のために働きます。

これらの五つのポイントを覚えながら、イエス様の次の言葉を読みましょう。

まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、「立ち上がって、海に入れ」と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。

ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求める者は何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、その通りになります。(マルコ11:23-24)

この箇所を読んで、神様に何を頼んでも、神様がその祈りを必ずかなえなければならないと考える人がいます。

けれども、時には、私たちが魚やパンに見えるものを願っても、実際にはそれらが石や蛇であることがあります。例えば、ある男性や女性と結婚することを祈ったとしても、十年後には神様がその祈りをかなえなかったことに感謝するようになる場合があります。

また、私たちは良いことのために祈ることがありますが、神様はさらに良いものを用意してくださることがあります。例えば、新しい仕事を願って祈ったとしても、神様はそれよりも良い仕事を与えてくださいます。

ですから、信仰をもって祈ったとしても、神様がその祈りをかなえてくださるとは限らないのです。

けれども、通常、私の問題は間違ったことのために祈るのではありません。多くの場合、私の問題は、神様が私の祈りをかなえてくださることを信じきれていないところにあるのです。

例えば、私の現在の職場は非常に素晴らしい場所です。以前の職場よりもはるかに良い職場です。

しかし、その学校に応募した際には、多くの疑いを抱いていました。実は、数年前、その同じ場所で不採用になった経験がありました。それに、何度も良い仕事を願って祈ったものの、その祈りがかなえられることはありませんでした。

それでも、私が十分な信仰を持っていなかったにもかかわらず、神様の恵みによって採用されることができました。

また、私はがんを患った友人のために祈ったことがあります。医師たちはその状態を見て「もう手の施しようがない」と言いましたが、多くの人が祈り、私も祈りました。ただ、私はあまり希望を持つことができませんでした。

もちろん、神様が友人を癒す力を持っておられることは信じていましたが、本当に癒してくださるかどうかは分かりませんでした。結局、2人とも亡くなりました。それでも、神様は1人の命を約5年延ばしてくださいました。

さて、ここで私が言おうとしているのは何でしょうか。

神様は信仰を見ると喜び、祈りに応えてくださいますが、祈りが叶うかどうかは私たちの信仰の強さにはあまり関係がありません。たとえ信仰が小さくても、神様が祈りに応えてくださることは多々あります。

それでも、私はもっと希望を持って祈るべきだと感じています。なぜなら、神様は私を助けてくださるだけでなく、実際に私を助けてくださった経験があるからです。

そのため、私はよく次のように祈ります。

「あなたを信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章 ルカの福音書 ルカ19章

実のない木

多くの人々はこの話を読むと、イエス様の行為に疑問を抱きます。いちじくのなる季節ではなかったのに、どうしてイエス様は実を結ばない木を呪われたのでしょうか。

聖書学者たちにはさまざまな意見があります。

その中の一つの意見によれば、過ぎ越しの祭りの時期には、普通のいちじくの木は食べられる芽を実らせることがあります。もしかしたら、イエス様はそのような芽を探しておられたのかもしれません。けれども、木にそのような芽がなければ、おそらくいちじくの実がなる季節が来ても、その木は実を結ばないでしょう。

その意見が正しいかどうかはわかりませんが、筋の通った説明のように思えます。

いずれにせよ、マルコの福音書によれば、イエス様はいちじくの木を呪われた後、エルサレムに入って神殿を清め、エルサレムを離れる途中で弟子たちがその木が枯れていることに気づきました。

ですから、イエス様はこのいちじくの木を通して、弟子たちに何かを教えたかったのだと思われます。それは何でしょうか。

いちじくの木が実を結ばなかったために裁かれたように、イスラエルが霊的な実を結ばないために裁かれることです。このことは神殿の出来事において明らかにされています。

イエス様のミニストリーの初めにも、イエス様は神殿を清められました。イエス様は牛や羊を売っている人々を追い出し、両替人たちも追い出されました。それは、そこが外国人たちが入って礼拝できる場所だったからです。

彼らが神殿のさらに近い場所に行くことは禁止されていましたが、祭司たちはその場所を市場として使いました。それに加え、多くの人々がその業者や両替人によってだまされていました。

神殿であるべきその場所を、市場にしてしまったのです。祭司たちはそのような行為を許していました。

だから、彼らの修行や宗教的な熱心が堕落していたことは明らかでした。

さらに、彼らはイエス様をメシアとして拒絶するだけでなく、イエス様を殺そうともしていました。そのため、イスラエルは裁きを受けました。

ローマ帝国の将軍タイタスは、その神殿を破壊しました。そして今なお、その神殿は再建されていません。なぜでしょうか。それは、神様が長い間イスラエルに愛と恵みを注いでくださったにもかかわらず、彼らが霊的な実を結ばなかったからです。

一方で、神様の働きは実を結ばないわけではありません。ユダヤ人たちがイエス様を拒絶したことで、福音が世界中に広がりました。そして、ある日、ユダヤ人もイエス様を信じるようになるでしょう。(ローマ書11章)

とはいえ、私たちは自分自身に問いかける必要があります。私たちの人生はどのような実を結んでいるでしょうか。私たちの体は神様の宮です。その宮は霊的な実を結んでいるでしょうか。

私たちは周りの人々に良い影響を与えているでしょうか。もしかすると、この世のものに執着し、私たちの宮は汚されてしまっているかもしれません。

ユダヤ人の祭司たちのように、私たちはお金に執着しているでしょうか。または、他の世のものに心を奪われているでしょうか。もしそうなら、霊的な実を結ばないことによって、裁きの日に私たちの功績は焼き尽くされてしまうでしょう。

私たちが実を結ばない木のようにならないために、霊的な実を結びましょう。聖霊に満たされ、私たちの周りの人々に神様の愛を分かち合いましょう。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章 ヨハネの福音書 ヨハネ12章 ルカの福音書 ルカ19章

私たちに平和を与えるもの

この箇所で、イエス様はついにエルサレムに到着されました。そして、四つの福音書を読むと、ユダヤ人たちの興奮がよく伝わってきます。彼らは叫び声をあげていました。

「ホサナ、ダビデの子に。」

「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」

「ホサナ、いと高き所に。」(マタイ21:9)

また、

「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に」(マルコ11:9)

そして、

「天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」(ルカ19:38)

そして最後に、

「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

大騒ぎのため、多くの人々が「一体これは何の騒ぎだ?この人は誰だ」と尋ねました。そして、ほかの人々が「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。(マタイ21:10-11)

ヨハネによれば、その大騒ぎの理由の一つは、多くの人々がまだラザロの復活について語り続けていたことでした。(ヨハネ12:17-18)

最初に、パリサイ人たちはイエス様にこう言いました。

先生、あなたの弟子たちを叱ってください。(ルカ19:39)

イエス様がその願いを拒まれると、彼らは不満を漏らしました。

見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。(ヨハネ12:19)

それでも、イエス様がエルサレムに近づき、その都市をご覧になった時、喧噪の中で、イエス様は涙を流しながらこう言われました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。

彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。

それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカ19:42-44)

西暦70年、聖書に書かれている出来事が実際に起こりました。ローマの将軍タイタスは、エルサレムとその神殿を破壊しました。

なぜ神様はそれを許されたのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神の訪れの時を認識しなかったからです。彼らは神様の平和を逃しました。心の平安を失い、さらに神様との平和をも失いました。

同じように、神様は私たち一人ひとりに訪れます。ローマ人への手紙1章によれば、神様のことを聞いたことがない人であっても、すべての人が神様の存在を知っています。

彼らが星空を見たり自然の美しさを見たりするとき、聖霊様が彼らの心にこう語るかもしれません。「これは偶然ではありません。これはデザインされたものです。あなたが作った偶像はこれを作ることができません。真の創造者を求めなさい。」

また、教会でイエス様について聞くことがあるかもしれません。あるいは、友達がイエス様について教えてくれることがあるでしょう。

その時、彼らは分岐点に立たされます。彼らはどう選択するでしょうか。神様の言葉を聞いて従うでしょうか。それとも、その言葉を拒絶するでしょうか。

神様に従うなら、彼らは神様との平和と永遠の命を知ることができます。しかし、その言葉を拒絶すれば、裁かれます。

あなたはどうでしょうか。神様は今、あなたを呼んでおられます。今日は救いの日です。今、イエス様を受け入れませんか。

カテゴリー
マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章 ヨハネの福音書 ヨハネ12章 ルカの福音書 ルカ19章

主がお入り用なのです。

私たちはついに、イエス様の人生の最後の週にたどり着きました。

この箇所では、一つのフレーズが私の心を深く打ちました。イエス様は弟子たちに次のように言われました。

向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。

もし「どうして、ぼくのか」とだれかが尋ねたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。(ルカ19:30-31)

弟子たちがイエス様の言葉に従うと、その持ち主たちは彼らに問いかけました。

どうして、子ろばをほどくのか。(33)

弟子たちはイエス様の指示に従い答えました。その結果、持ち主たちはその子ろばを貸してくれました。

それを読んで、私は心の中で問いかけました。「主が私に、『私はこれが必要だ』と言う時、私はどう反応するだろうか。」

例えば、イエス様が「その人を助けるために、私はあなたのお金が必要です。その人は経済的に苦しんでいるから」と言ったら、私はすぐに「はい、どうぞ」と答えるでしょうか。

または、私がどこかに向かっている途中で誰かにばったり会った際に、イエス様が「私はあなたの時間が必要です。その人と話しなさい」と言ったら、私はどうするでしょうか。

または、イエス様が「あなたが西宮を去る時が来ました。私に仕えるために別の場所へ行きなさい」と言ったら、私は「はい、行きます」と答えるでしょうか。

それとも、私が自分の持っているものにしがみついてしまうのでしょうか。

実際には、自分自身で確信を持てません。過去を振り返ると、何度もイエス様が「こうしなさい。私はあなたからこれが必要だ」と言われたにもかかわらず、私は拒んでしまったことがあります。

「忙しい。」

または、

「私はそのお金が必要だ。別の物を買いたいから。」

弟子たちはそのろばをイエス様の元に連れて行き、イエス様をそのろばに座らせて、王としてあがめました。

私たちも同じようにするべきです。イエス様が私たちに「これが必要だ」と言われた時、私たちはその物をイエス様にささげ、イエス様を私たちの王としてあがめるべきです。

私はそうできるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。