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ヨハネの福音書 ヨハネ11章 ルカの福音書 ルカ19章

本当の聖さ

前回の記事では、王を拒絶する人々についてのたとえ話を読みました。今日の記事では、イエス様が指された人々について見ていきます。

イエス様がエルサレムに近づいておられ、多くの人々が過ぎ越しの祭りを祝うためにすでに集まっていました。そして、彼らは互いに訊き合いました。

どう思うか。あの方(つまり、イエス様)は祭りに来られないのだろうか。」(ヨハネ11:56)

なぜ彼らはそのように訊いたのでしょうか。

祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。(ヨハネ11:57)

実は、それは本当に皮肉なことでした。なぜでしょうか。

過ぎ越しの祭りを祝う前に、ユダヤ人たちは自分自身を清める必要がありました。つまり、儀式的に清められる必要があったのです。(ヨハネ11:55)

しかし、祭司たちやパリサイ人たちは儀式的には清められていたものの、心の中ではイエス様を殺そうと考えていました。

私たちはこの話から何を学ぶべきでしょうか。それは、聖さが単なる儀式的なものではないということです。聖さとは、教会に行くことや聖書を読むこと、献金をささげることだけではありません。

本当の聖さは、イエス様を王として受け入れることから始まります。

「イエス様、私は自分自身を清めることができません。儀式や自分の努力では清められません。イエス様、助けてください。私を清めてください。私の罪を赦してください。」

ヨハネは次のように書いています。

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

私たちが神様に受け入れられることを願うのであれば、それ以外の方法はありません。私たちはキリストの十字架のもとへ行き、イエス様の救いの御業を信じる必要があります。

そうすることで、私たちは神様の目に清められるのです。

あなたはどうでしょうか。本当に清められているでしょうか。

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キリストを拒絶することを主張すると

このたとえ話には、もう一つ重要なポイントがあります。

イエス様はこう言われました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。。。

一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、「この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません。」と伝えた。

さて、彼は王位を授か[りました]。(ルカの福音書19:12,14-15)

実は、このたとえ話は実際の出来事を基にしています。

ヘロデ大王が亡くなったとき、彼の息子ヘロデス・アルケラオスは王位を授かるためにローマへ行きました。(なぜなら、ローマ皇帝がイスラエルの本当の支配者だったからです)。

けれども、ユダヤ人たちは大使を皇帝アウグストゥスに送り、「ヘロデス・アルケラオスが私たちの王になることを、私たちは望んでいません」と訴えました。

最終的に、ヘロデス・アルケラオスはユダヤを支配することはできましたが、王位を授かることはできませんでした。

このように、イエス様は天の父から王位を授かるのを待っておられます。しかし今なお、多くの人々はイエス様を憎み、「この方が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません」と言います。

けれどもヘロデス・アルケラオスの場合とは異なり、彼らが望もうが望むまいが、イエス様は王となられるのです。

そして、彼らがイエス様に反対し続けるなら、たとえ話の中の人々のように裁きを受けることになります。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様をあなたの王として受け入れているでしょうか。望もうが望むまいが、イエス様は王となられます。それゆえ、イエス様に反対して裁かれるよりも、イエス様にあなたの人生を捧げる方が良いでしょう。

私は地獄の話で恐怖を煽ることを望んでいません。神様の愛と恵みこそが、はるかに幸せな物語です。そして、神様はあなたを心から愛しておられます。

神様との和解を可能にするため、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。そして、私たちの罪のために、イエス様は十字架で死んでくださいました。

しかし、もし神様の賜物を拒絶し、イエス様をあなたの王として受け入れないなら、あなたは裁きを受けることになるでしょう。

ヨハネは次のように書いています。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神様のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:18)

あなたは選択する必要があります。どう決断するのでしょうか。

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ミナのたとえ話:私たちが待っているうちに

ルカによれば、イエス様がこのたとえ話を教えられた理由は、「イエス様がエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたから」です(ルカの福音書19:11)。

つまり、イエス様は彼らの間違った考えを正すと同時に、正しい考えを彼らの心に植え付けたいと思われたのです。それで、イエス様はこう言われました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。

彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。(12-13)

イエス様は、どのような間違った考えを覆したいと思われたのでしょうか。それは、神の国がすぐに来るという考えです。

王としての地位につく前に、イエス様は罪の問題を解決するために十字架で死ななければなりませんでした。

イエス様は死なれ、復活された後、天に帰って天の父の右に座られました。そして、聖書によれば、現在イエス様は「敵がご自分の足台とされるのを待っておられます」(へブル人への手紙10:13)。

ですから、私たちはいまだにイエス様の帰りを待っています。

では、イエス様が帰られるまで、私たちは何をすべきでしょうか。私たちはイエス様に忠実に仕えるべきです。

イエス様は弟子たちの心にその考えを植え付けたいと思われました。神の国のために、まだたくさんの仕事をしなければなりません。

このたとえ話では、王は十人のしもべに同じ金額を与えました。そして、王は彼らに、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と命じられました。

そのお金は何を象徴しているのでしょうか。おそらく、それは私たちの救いです。しもべたちはそのお金を得るために働いたのではありません。王はそのお金を彼らに預け、彼らはそれを投資しなければなりませんでした。

同じように、私たちは働いて救いを得たのではありません。神様の恵みによって救いが与えられました。しかし、私たちはその救いを用いて、神様の国のために働かなければなりません。

パウロは次のように言いました。

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。【ピリピ2:12-13)

私たちが与えられた救いを投資するとは、どういう意味なのでしょうか。それは、私たちが受けた救いを用いて、周りの人々に投資することを意味します。

私たちは自分の救いを喜ぶだけではなく、その救いを周りの人々と分かち合う心が必要です。彼らのために祈り、彼らに仕えましょう。

そして、私たちは彼らに対して、イエス様の目、口、耳、手となるべきです。イエス様が帰られるまで、私たちはそうし続けなければなりません。

そのように行動するなら、私たちは報いを受けるでしょう。どんな報いでしょうか。それは、神様の国のためにさらに大きな責任が与えられることです。

多くのクリスチャンは神様のために素晴らしいことをしたいと思っています。しかし、もし彼らが受けた救いを周りの人々と分かち合わないのであれば、神様がさらに大きな責任を彼らに委ねられるでしょうか。

さらに、最後のしもべのように、神様の国のために投資をしないのであれば、イエス様が帰られるとき、その人々は叱責されることになるでしょう。

パウロはそのような人々について次のように語っています。

その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:15)

あなたはどうでしょうか。あなたが受けた救いで、何をしているのでしょうか。

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私たちのせいで

これはとても有名な聖書の話ですが、今日この個所を読んでみると、今まで読み過ごしていた箇所が心に強く響きました。

[ザアカイ]はイエス様がどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。(ルカの福音書19:3)

ザアカイは取税人でした。現代でも、多くの人々は税務署を嫌うかもしれませんが、イエス様の時代では、ユダヤ人たちは取税人を非常に憎んでいました。

以前にも私は述べましたが、取税人はユダヤ人たちが嫌うローマ帝国に協力し、自分の民をだましていたため、ユダヤ人の間では全く人気がありませんでした。

それでも、ザアカイはどうしてもイエス様を見たいと思っていました。なぜでしょうか。

おそらく、彼は多くのお金を持っていましたが、彼の心はまだ空虚でした。けれども、ザアカイがイエス様を見ると、イエス様の中に他の人とは違う何かを見ました。つまり、命と希望を見たのです。

ところが、群衆のせいで、ザアカイにはイエス様が見えませんでした。

おそらく、その群衆の中には信心深い人々が多くいたでしょう。彼らは神様を愛していたかもしれません。それでも、彼らの存在がザアカイにとって障害となり、イエス様を見ることを妨げました。

ザアカイは背が低い人でした。そして、大勢の人々がいました。もしザアカイが無理にイエス様のところへ行こうとしたら、群衆の反応を予想することができたでしょう。彼らがザアカイを認めたとしても、きっと彼を通らせなかったでしょう。

そのため、ザアカイは木に登りました。そしてザアカイを見て、イエス様はこう言われました。

ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。(5)

もしザアカイが、人々が彼に抱いている意見について疑いを持っていたなら、彼らの反応によってその疑いは完全に吹き飛ばされたでしょう。彼らは不満を言い立てました。

[イエス様]は罪人のいところに行って客となった。(7)

しかし、ザアカイがイエス様の愛に触れたことで、彼の心は大きく変わりました。そして、彼はこう言いました。

主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。(8)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれほど群衆のようにふるまうことがあるでしょうか。神様を愛していると言うかもしれませんし、イエス様に従うと言うかもしれません。それでも、私たちのせいで周りの人々がイエス様を見られないことはないでしょうか。

私たちは彼らにイエス様のことを伝えているでしょうか。それとも、彼らを見下したり、追い出したりしているでしょうか。

ザアカイに対するイエス様の反応を覚えていましょう。イエス様は、すべての人々との関係を望まれます。そのため、イエス様は十字架にかかられました。イエス様は私たちだけのために死なれたのではなく、彼らのためにも命を捧げてくださいました。

イエス様は軽蔑されている人々のためにも命を捧げられました。だから、人々を軽蔑してはいけません。

また、人々がイエス様のもとに来ようとするとき、その道を妨げることのないようにしましょう。むしろ、イエス様の言葉を心に刻みましょう。

人の子は、失われたものを探して救うために来たのです。(10)

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周りの人々のニーズに目を向ける?

私がバルティマイとその友達の話を読むと、イエス様の愛と憐れみ深い心は、私にとても印象的です。

イエス様はもうすぐ十字架に行くし、そのことを親友たちにはっきりと伝えたのに、彼らは理解してくれませんでした。そんな状況で、イエス様が自分の思いや、フラストレーションや、心配で思い詰めていたなら、びっくりすることではなかったでしょう。

でも、その道を歩いているうちに、イエス様は前に何回も聞いていた願いをもう一度聞きました。

主よ。ダビデの子よ。私たちを憐れんでください(マタイ20:30)

大勢の人がイエス様を取り巻いており、イエス様がその声を見逃すのは簡単だったかもしれません。

また、その声を無視するのも簡単だったでしょう。なぜなら、多くの人がその二人に「黙れ」と言ったからです。

しかし、イエス様は立ち止まり、「その二人を呼んできなさい」とおっしゃいました。

そして、彼らが来ると、イエス様は彼らに尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのですか。」

彼らは答えました。「主よ、目を開けていただきたいのです。」

マタイによると、イエス様は深く憐れみ、彼らの目に触れて癒されました。

イエス様はご自身のフラストレーションや困難に思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に目を向けられました。

私たちはどうでしょうか。どのくらい私たちはイエス様の模範に従い、自分自身のことで思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に気づいているでしょうか。

また、どれだけ自分自身の必要やフラストレーションに思い詰めることで、神様の愛を周りの人々に伝える機会を逃しているでしょうか。

おそらく、私もそのような機会を逃してきたことが多いでしょう。

私たちはイエス様のようになることを学びましょう。私たちの苦しみや心配にとらわれることなく、周りの人々のニーズや痛みに目を向けましょう。そして、イエス様のように、彼らに手を差し伸べ、神様の力で彼らを癒しましょう。

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全く違う態度

前回の記事で述べたように、イエス様は弟子たちにはっきりとご自分のミッションを説明されましたが、彼らはまだ理解していませんでした。

彼らは、なぜイエス様がこの世に来られたのか、また、間もなく訪れる試練について理解していませんでした。

もし彼らがそのことを正しく理解していたなら、おそらくヤコブとヨハネ(そして彼らの母親)は、イエス様にこの願いをしなかったでしょう。彼らは次のように頼みました。

あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。(マルコ10:37)

イエス様はその願いを聞いて、どのように感じられたでしょうか。その直前に、イエス様は彼らに「私はすぐに殺される」と語られたばかりでした。

それにもかかわらず、弟子たちは自分たちの地位のことを気にしていたのです。そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けることができますか。(マルコt10:38)

つまり、「私の話を全然聞いていないのですか。私は死にます。あなたたちは私の右と左で死にたいと思うのですか」ということです。

それがイエス様が意味されたことでした。けれども、いつものように、ヤコブとヨハネはその言葉を完全に誤解しました。そのため、彼らは「できます」と答えたのです。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。(39)

実際、その二人は後にイエス様のために大きな苦しみを経験しました。ヤコブは殉教し、ヨハネは追放されました。

それでも、イエス様は彼らにこう言われました。

しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。(40)

他の弟子たちはヤコブとヨハネの願いを聞くと、本当に怒りました。なぜでしょうか。ヤコブとヨハネがイエス様の感情を全く考えなかったからでしょうか。

いいえ、そうではありません。おそらく、彼ら自身がヤコブやヨハネよりも、自分たちのほうが資格があると思っていたからでしょう。

それでも、イエス様は彼らを集めて、こう言われました。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコ10:42-45)

要するに、イエス様はこう言われていました。

「あなたたちは自分自身の態度を変えなくてはなりません。

あなたたちは、私の王国においてどのような位置を持つかを心配しています。それは、偉い人が楽な人生を送るものだと思っているからです。あなたたちは、周りの人々に命令し、彼らがあなたたちに仕えるだろうと思っています。

けれども、私の王国では、それが偉い人ではありません。もしあなたたちが偉くなりたいのであれば、人々に仕えなければなりません。そして、もし先頭に立ちたいのであれば、皆のしもべにならなければなりません。

なぜなら、私は仕えられるために来たのではないからです。私は人々に仕えるために来たのです。さらに、私は彼らのために命を捧げるために来たのです。」

実際、私自身もそのような態度が必要です。私はしばしば自分自身を他の人々と比べたり、競争したりしてしまいます。けれども、ミニストリーにおいて、そのような態度は適切ではありません。私たちは仕える心が必要です。

この態度はミニストリーだけでなく、私たちの日常生活にも欠かせないものです。

職場では、私たちは同僚や顧客に仕えるべきです。

家庭では、夫たちは妻や子供に仕える心を持たなければなりません。

正直に言うと、この三つの場面において、私はよく失敗します。

それゆえ、ある古い英語の讃美歌が、私の祈りそのものです。

また、「The Witness」(目撃者)というクリスチャンのミュージカルの中で、ヤコブとヨハネは次のように歌いました。

Lord make me like you.  Please make me like you.
主よ、私をあなたのように変えてください。
You are a servant.  Make me one too.
あなたはしもべです。私もしもべとなれるようにしてください。
O Lord I am willing.
主よ、私の心は開いています。
Do what you must do to make me like you Lord.
あなたがしなければならないことをどうぞしてください、私があなたのようになれるように。
Make me like you.
あなたのように私を変えてください。
Whatever you do Lord, please make me like you.
何をされても、どうしても私をあなたのように変えてください。

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マタイの福音書 マタイ20章 マルコの福音書 マルコ10章 ルカの福音書 ルカ18章

明確に語られたことを理解していない?

この話では、ルカの言葉が私の心に深く響きます。

弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカ18:34)

もちろん、「これらのこと」や「このことば」というのは、イエス様の死と復活を示しています。

ルカの言葉が私の心に深く響く理由は、イエス様が自分の死と復活について明確に語られたことです。弟子たちはその言葉を理解できたはずですが、それでも彼らは理解できませんでした。それはなぜでしょうか。

もしかすると、彼らはまだ霊的に成熟していなかったのかもしれません。多くの若いクリスチャンが聖書を読むとき、理解できないところが多いでしょう。けれども、私たちの信仰と知識が成長するにつれて、さらに理解が深まるでしょう。

あるいは、弟子たちには霊的成熟の問題だけではなく、イエス様の言葉を受け入れたくないという心の壁があったのかもしれません。イエス様がすぐに死ぬという現実を信じたくない彼らは、自分の耳を閉じてしまいました。

もう一つの理由は、彼らが神様の御心よりも自分たちの望みを優先していたことです。次の話の中でヤコブとヨハネの願いを見れば、彼らの自己中心的な姿勢が見えてきます。

しかし、どれほど私たち自身も同じような態度を取ってしまうでしょうか。聖書では神様の言葉がわかりやすく、神様が私たちの心にはっきりと語りかけてくださるにも関わらず、私たちはそのメッセージを見逃してしまうことがあります。

例えば、振り返ると、私がハワイに住んでいたとき、神様は私を日本に行くように呼ばれていました。何度も、「あなたは事務などの仕事には向いていない。ミニストリーをした方がいい」と言われました。

ある人々は率直に、「あなたは宣教師として日本に行くべきだ」と直接言われました。

けれども、当時の私はハワイを離れる気も、日本に行く気も全くありませんでした。

そのため、神様の言葉を受け入れることができませんでした。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という言葉を聞いても、「それは私のためではない」と思い込んでいました。

それでも神様は私の心に働き続け、数年後、日本に導かれました。そして、神様に従う喜びや、神様の言葉に従う喜びを経験することができました。

もし、あなたが心を神様に開けば、あなたもその喜びを知ることができるでしょう。

あなたの心は今、どんな状態でしょうか。神様があなたに語りかけておられるのに、その言葉を退けてはいませんか。それとも、その言葉に心を開いているでしょうか。

私たちはいつもこう祈りましょう。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

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マタイの福音書 マタイ20章

でも、それは不公平だよ

私の個人的な意見ですが、もしかすると、このたとえ話はペテロに対するイエス様の反応だったのかもしれません。ペテロはこう言いました。

私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

多分イエス様はこの話を通してペテロを励ますと同時に、警告を与えたいと思われたのかもしれません。

この話では、ある主人が自分のぶどう園で働く者たちを雇いました。最初に雇われた労働者たちは主人と賃金を交渉しました(一デナリは通常の一日の賃金でした)。

けれども、その後に雇われた労働者たちは具体的な賃金を交渉しませんでした。むしろ、主人はこう言いました。

あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。(マタイの福音書20:4)

夕方になると、主人は労働者たちに賃金を支払い始めました。彼は一番最後に雇われた人々に最初に支払い、一番最初に雇われた人々には最後に支払いました。主人は後に雇われた人々に一デナリを渡しました。

そのため、最初に雇われた人々が来たとき、彼らはもっと多く支払われるだろうと期待しました。ところが、主人は彼らにも一デナリを渡しました。その結果、彼らは不満を漏らしました。

それは当然の反応と言えるかもしれません。 一部の労働者はわずか一時間しか働かなかったのに、一デナリを受け取りました。 それなのに、丸一日働いた人々も同じく一デナリしか受け取らなかったのです。

しかし、次に注目してください。主人の答えはこうでした。

友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。

自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私は気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。(13-15)

要するに、最初に雇われた労働者たちは騙されたとは言えません。彼らは交渉した賃金を正当に受け取ったのです。

それでは、なぜ彼らは怒ったのでしょうか。それは、主人が後に雇われた労働者に非常に気前よく振る舞ったからです。

イエス様が伝えたかったポイントは何でしょうか。

「私に従うことで何を得られるかを気にしてはいけません。また、自分が当然受け取るべきものに執着してもいけません。そして、自分自身を他の人々と比べることもやめなさい。

あなたがどれだけ犠牲を払ったか、他の人がどれだけ犠牲を払ったか、それを気にする必要はありません。あなたの報いは確実に与えられます。

けれども実は、神様は人にふさわしい報いを与えるよりも、ふさわしくない報いを喜んで与える方なのです。

もし、自分が当然受け取るべき報いだけに執着しすぎるならば、神様はそれを与えるかもしれませんが、それだけしか与えられないでしょう。

しかし、周りの人が何をしているかに気を取られず、自分が受け取るべき報いに執着しないのであれば、あなたは想像以上に神様からの祝福を受けることができるでしょう。」

どうでしょうか。あなたはいつも自分自身を他の人々と比べているでしょうか。あるいは、「どうして自分のほうが神様に仕えているのに、他の人々のほうが神様から祝福を受けているのだろうか」と疑問に思ったことはありませんか。

心に留めておきましょう。恵みとは、私たちが値するかどうかには全く関係のないものです。

恵みとは、私たちが神様からの報いに値しないにもかかわらず、神様が私たちに愛といつくしみを注いでくださることを指します。

実際、私たちに値するものは死です。なぜなら、私たち全員が罪を犯したからです。

ですから、自分が値するものについて過度に気にすることはやめましょう。

むしろ、自分が値しない恵みを受け取ったことに心から喜びましょう。つまり、永遠の命、喜び、平和、そして愛を豊かに受け取ったことを感謝しましょう。

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イエス様に従い甲斐がある?

イエス様に従うことは本当に甲斐があるのでしょうか。裕福な役人はその疑問に直面しなければなりませんでした。残念ながら、彼はイエス様に従うことに甲斐がないと感じてしまいました。

ペテロもまた、自分自身に同じ問いを投げかけました。「イエス様のために、私はすべてを捨ててきましたが、それは本当に価値あることなのでしょうか。」

そこで彼はイエス様に尋ねました。

ご覧ください。私たちはすべとを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

イエス様はこのように答えられました。

まことに、あなたがたに言います。

私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。(マルコ10:29-31)

ここには、二つの重要な注意事項があります。

1.イエス様は、私たちがイエス様に従うなら報いを得ると教えてくださいました。報いは天国で得るだけではなく、この世でも得られます。それだけではなく、イエス様は私たちが豊かに祝福されると語られました。

もちろん、私たち全員が金持ちになるわけではありません。それでも、私たちの人生の終わりに振り返るとき、「私は祝福された。イエス様に従った甲斐があった」と心から言えるでしょう。

2.マルコの福音書にのみ記されているこの言葉は特に目立つものです。イエス様は報いについて語るだけではなく、警告もしてくださいました。「あなたは迫害を受けるでしょう。私に従えば必ず迫害されるでしょう。」

つまり、クリスチャンとしての生活はいつも楽しいものではありません。もちろん、喜びの瞬間はありますし、神様が私たちに祝福を注いでくださることもあります。

しかし、イエス様に従うならば、あなたを憎む人々がいるでしょう。イエス様は完全な神の子であったにもかかわらず、人々は彼を憎んだのです。

そして、イエス様はこう語られました。

しもべは主人にまさるものではない。。。人々が、私を迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ15:20)

だから、イエス様に従っている間に迫害を受けることがあっても驚かないでください。むしろ、永遠の報いに目を向けましょう。なぜなら、どんな苦しみがあっても、最終的にはイエス様に従う価値があるからです。

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マルコの福音書 マルコ10章

真理を言うほどに、人々を愛している?

この話では、イエス様は意地悪だったのでしょうか。どう思いますか。

この若い役人は必死に神の国に入りたいと願っていましたが、イエス様は彼に不可能とも思える挑戦を与えられました。その人が神様に対する熱心を持っていたのに、イエス様の言葉によって、その熱心は弱まってしまったように見えます。

それでも、マルコは興味深いことを記しています。彼は、イエス様がその役人にどのような感情を抱いておられたかを説明しています。

イエスは彼を見つめ、その人をいつくし[みました]。(マルコ10:2a)

イエス様は彼のうわべだけを見ず、その人の心も見つめられました。イエス様は彼の熱心をよく理解しておられました。けれども、イエス様は彼に欠けているものも見抜かれました。

そこで、イエス様はその人が自分に何が欠けているのかを理解することを望まれたのです。そうすれば、その人はイエス様の助けを求め、永遠の命を見つけることができたでしょう。

そのため、イエス様は彼にこう言われました。

あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っているものをすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。(21b)

要するに、イエス様はこう言われていました。

「さっき、あなたは自分に何かまだ欠けているように感じると言いましたね?その通りです。あなたは神様を愛するよりも、お金に執着しています。

だから、あなたが持っているものをすべて売り払いなさい。そして、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。持ち物を売って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、あなたは本当の宝を得ることができます。

そして、わたしに従って来なさい。」

その言葉を言われた時、イエス様の願いは、彼が本当の命を見つけることでした。しかし彼は悲しみながら帰っていきました。

イエス様は真理を取り繕うことはされませんでした。イエス様は率直に真理をお伝えになりました。

時として、真理を聞くのは難しいものです。そして時には、人々はその真理を拒絶することもあります。それでも、私たちは真理を伝えなければなりません。

それでもなお、私たちは本当の愛と憐れみをもって真理を伝えなければなりません。

相手がまだ真理を拒絶するかもしれませんが、彼らが私たちの愛を理解するように努めましょう。

彼らが傷つくかもしれませんが、私たちが彼らの最善を望んでいることが伝わるように祈りましょう。

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救いの不可能性

私が大学生の時、宗教学の教授がキリスト教について話した際にこの話を取り上げました。彼の主張は何だったでしょうか。キリスト教によれば、天国に行きたいと思うなら、自分の持ち物をすべて売らなくてはならない、ということでした。

実は、私の教授の言葉は、私たち全員に全く別の教訓を教えています。それは、文脈を正しく理解しないと、聖書が教えていることを完全に誤解してしまう、ということです。

いずれにせよ、この箇所を総合的に比較してみると、イエス様と対話した人物について興味深い点が明らかになります。

彼は金持ちであり(全ての福音書の著者がそう記述しています)、若者であり(マタイ19:22)、さらに役人でもありました(ルカ18:18)。

そして彼はイエス様にこう尋ねました。

「良い先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16;マルコ10:17)

イエス様はこう答えられました。

なぜ、私を「良い」と言うのですか。また、なぜ、良いことについて、私に訊ねるのですか。良い方は神おひとりのほか、誰もいません。(マタイ19:17;マルコ10:18)

この箇所では、イエス様はご自身についての誤解の一つを明確にされます。それは、「イエス様は良い方だったが、神ではなかった」というものです。

イエス様はその人にこう言われました。

「あなたが私を神と呼ぶなら、それは正しいことです。 けれども、それを信じないなら、私をただの人間と呼ぶべきです。

とはいえ、もし私がただの人間であるなら、私を良い方と呼んではいけません。 なぜなら、唯一の神だけが良い方だからです。」

そして、イエス様は彼にこう言われました。

「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」(マタイ19:17)

その言葉だけを読むと、イエス様が私たちの良い行動によって天国に入れると言っていると思うかもしれません。しかし、この役人の反応を見てください。

私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。(20)

多くの人々には同じ問題があります。彼らは一生懸命神様の戒めを守ろうとします。そして、頑張って正しいことをしようとします。その役人のように、自分はその戒めをちゃんと守ったと思う人もいるでしょう。

それでも、心の中では何かが欠けていることを感じています。それはなぜでしょうか。

なぜなら、私たちは周りの人々をだますこともできるし、自分自身をだますこともできます。しかし、神様の基準を完全に満たすことができる人は誰一人としていないからです。

パウロは次のように書きました。

全ての人は罪を犯し「ます」。(ローマ3:23)

もし、私たちが自分の心を探るなら、そのことが明らかになるでしょう。

それでは、イエス様が永遠の命への道について語られた時に、どうして神様の戒めを指されたのでしょうか。もしかすると、パウロがその答えを示してくれるかもしれません。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては、神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ3:20)

ちょっと考えてみてください。鏡には私たちの顔を洗う力があるでしょうか。そんな力はありません。むしろ、鏡は私たちの汚い顔を映し出します。

同じように、律法には私たちの罪を清める力はありませんが、私たちの罪を指摘することができます。

とはいえ、その「鏡」の反映が時々ピンぼけになることもあるかもしれません。

もちろん、神様の律法の言葉は明確です。けれども、私たちがその律法の意味を正しく理解できないときもあります。また、その律法の意味を理解していても、自分の罪がまだ見えないこともあるでしょう。

この役人には、その問題がありました。彼は自分が律法を完全に守ったと思っていました。そこで、イエス様はその人の「鏡」を拭いて、反映をはっきりと見えるようにしてくださいました。イエス様はこう言われました。

完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、私に従って来なさい。(21)

どうして、イエス様はそう言われたのでしょうか。それは、その役人自身が言ったように、彼にはまだ何かが欠けていたからです。

彼は神様を愛するよりも、お金に執着していました。その結果、実際には彼は十戒の最初の戒めを破り、お金を自分の神としてしまいました。

その役人がイエス様の言葉を聞いたとき、自分の罪をはっきりと見ることができました。それでも残念ながら、彼はこう言うことはありませんでした。

「イエス様、私を助けてください。私は罪人です。私を憐れんでください。」

むしろ、彼は悲しみながら立ち去ってしまいました。

だからイエス様はこう言われました。

富を持つものが神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。(マルコ10:23)

弟子たちはそれを聞いて衝撃を受けました。それは、彼らが金持ちは神様に恵まれた人だと信じていたからです。しかし、イエス様はその同じ教えを繰り返されました。

子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。(マルコ10:24-25)

どうしてでしょうか。それは、この世のものを持ちながら、神様からのものを持つことは不可能だからです。金持ちは普通の人よりも多く、この世のものを所有しています。そのため、彼らが手放さなければならないものは、普通の人よりも多いのです。

そこで、弟子たちはこう尋ねました。

それでは、だれが救われることができるでしょう。(マルコ10:26)

次に記されたイエス様の言葉こそ、この箇所の核心を示しています。

それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。(マルコ10:27)

神様から離れている状態では、救いを得ることは不可能です。私たちは不完全な存在であるため、自分の努力だけで自分自身を救うことはできません。

イエス様はその教訓を役人に伝えたいと望まれました。

けれども、イエス様の十字架の御業と神様の御業によって、救いは可能になります。私たちがすべきことはただ一つ、イエス様を信じることだけです。

ヨハネは次のように書きました。

神は、実に、そのひとり子を与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

今日あなたは、神様の救いの賜物を受けないでしょうか。

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子供のように

イエス様が弟子たちを子供たちを追い出そうとしたことで責められたとき、イエス様はこう言われました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。

まことに、あなたがたに言います。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。(マルコ10:14-15)

子供のように神の国を受け入れるとは、どういう意味でしょうか。子供の性格はどんなものでしょうか。

1.彼らは人を全面的に信頼します。年月が経ち、さまざまな傷や嘘、裏切りを経験し、その心が固くなってしまうまで、彼らは人の言葉を信じ、疑うことを知りません。私たちはそのような純粋な心を持つべきです。

罪とは、基本的に神様に対する信頼の欠如と言えます。つまり、私たちは神様にこう言うのです。「あなたの言葉を信じません。あなたが私の最善を望んでいることを信じません。だから、自分の道を行きます。」

しかし、そのような態度でいるならば、私たちは決して神の国に入ることができません。

2.彼らは完全に大人に依存します。そして、そのことを素直に認めます。彼らは自分で料理を用意することも、服やその他必要なものを買うこともできません。彼らはそれらを受け取るために、両親に依存しています。

同じように、私たちがどれほど神様に依存しなければならないかを理解できなければ、私たちは決して神の国に入ることができません。

なぜなら、私たちには救いを買う力がないからです。そしてまた、私たちは救いのために働くこともできません。むしろ、神様の恵みとイエス・キリストの十字架の御業に完全に依存する必要があります。

その真理は非常に単純であるため、多くの人々にとって受け入れるのが難しいものです。また彼らは、その真理を信じることを拒むかもしれません。

自分の救いを買えると思いたいのです。または、自分の救いのために働くことができると思いたいのです。彼らは、自分には何もできないという事実を認めるのを嫌うのです。

けれども、私が以前に述べたように、彼らは子供のように神様を全面的に信頼することを学ばなければなりません。

イエス様はこう言われました。

神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神の御業です。(ヨハネ6:29)

あなたはどうですか。神様の前に子供のような心で来ているでしょうか。

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取るに足りない者の神

父親として、私は自分の娘が大好きです。それでも、彼女がうっとうしい時もあります。特に、私が大切な仕事をしているとき(別に大切じゃないことをしている時でも)、彼女は必死に私の注意を引こうとします。

私が仕事を続けながら、彼女を見ずに「はい、はい」と適当に応えるのは、とても簡単です。もし特に参っている時には、「後で。今忙しいよ。」と言ってしまうかもしれません。

この箇所では、イエス様の弟子たちはまさにそのように反応しました。

お母さんたちが自分の赤ちゃん(きっと泣いている赤ちゃんもいたと思います)、また幼い子供たち(おそらく乱暴な子供もいたでしょう)をイエス様のもとに連れて行ったとき、弟子たちは参ってしまい、「もう帰りなさい。イエス様はこの子供たちのために時間がないよ。」と言いました。

しかし、イエス様はすぐに弟子たちの言葉に反応されました。

イエス様はそれを見て、憤っ[た]。(マルコ10:14a)

そして、イエス様は彼らにこう言われました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。(マルコ10:14b)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの子供たちや他の人々を、弟子たちがしたように扱ってはいけません。彼らを取るに足りない人として扱ってはいけません。重要ではない人として扱ってはいけません。私たちの時間に値しない人として考えるべきではありません。

なぜなら、そうすればイエス様はとても憤られるからです。彼らはイエス様の大切な創造物であり、イエス様は彼らのために死ぬほどまでに彼らを愛しておられました。

あなたもまた、同じように愛されています。自分が取るに足りない人間だと思うかもしれません。のけ者だと感じるかもしれません。

それでも、人々があなたをそのように扱うとき、イエス様は憤られます。イエス様はあなたを憐れんでおられます。そして、あなたを愛しておられます。イエス様は決してあなたを見捨てることはありません。

だから、イエス様に近づいてください。イエス様の目には、あなたはとても大切な存在です。あなたは貴い者です。そしてイエス様は、あなたとの関係を何よりも望んでおられます。

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結婚しない方がましでしょうか

イエス様の教えに対する弟子たちの反応は、非常に興味深いものがあります。

もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。(マタイの福音書19:10)

要するに、「もし離婚できず、同じ人とずっと結婚していなくてはいけないのであれば、結婚しないほうが良い」ということです。「みじめな結婚よりも、独身の生活のほうがましです。」

もちろん、みじめな結婚よりも、独身の生活のほうがましですが、多くの人々はずっと独身でいる生活を望まないでしょう。だから、イエス様はこのように語られました。

そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。

母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。

また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。

それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。(11-12)

要するに、独身の生活で満足できる人は少ないということです。

ある人は「母の胎から独身者として生まれた」と言われています。例えば、生まれつきの身体的な不自由があるために、彼らにとって結婚生活を送るのは非常に困難な場合があります。

または、「人から独身者にさせられた」とする人もいます。おそらくイエス様は宦官について語られたのかもしれません。現代では宦官は存在しませんが、過去のトラウマが理由で結婚を望まない人もいます。

さらに、パウロのように、神の国のために独身生活を選ぶ人もいます。

イエス様は、「もしあなたが独身生活に満足できるなら、それでも良い」と語られました。

けれども、残念なのは、弟子たちや現代の多くの人々が、一生の結婚を「牢獄」のように感じていることです。英語圏では、「Ball and chain」というイメージが使われることがあります。

だから、彼らは結婚する気が進みません。しかし、そのような考え方のせいで、彼らは一生の結婚の喜びを逃してしまいます。神様が初めて結婚を造られたとき、夫婦のために幸せな生活を計画されました。

結婚は本来、素晴らしいものであるはずです。結婚が必ずしも「Ball and chain」であるわけではありません。

では、良い結婚の秘訣とは何でしょうか。

結婚の初めから、あなたと伴侶はお互いに腹を決めなくてはなりません。

まず、神様に対して柔らかい心を保つことを決意しなくてはなりません。

そして、伴侶に対して柔らかい心を保つことを決意しなくてはなりません。

神様に対して柔らかい心を保つなら、あなたたちが喧嘩するとき、神様はあなたたちの心に語り、平和をもたらしてくださいます。多くの場合、神様はあなたに(または伴侶に)「もうやめなさい。相手に譲りなさい。」と語られるでしょう。

さらに、神様はあなたたちに、どのように結婚を強めるかを教えてくださいます。また、どのように相手のニーズを満たすかを教えてくださいます。そして、どのようにもっと愛し合えるかを教えてくださいます。

もし伴侶に対して柔らかい心を保つなら、あなたは相手のことをもっと深く理解できるようになります。

相手の動機がわかり、相手をイライラさせる原因がわかり、相手を喜ばせる方法もわかるようになります。

もし、あなたが努力してこれらを学び、相手をイライラさせないようにするだけでなく、積極的に相手を喜ばせようとすれば、相手もあなたに対して同じようにしてくれるでしょう。

その結果、あなたたちはみじめな結婚ではなく、幸せな結婚を築き、本当に一体となることができます。

あなたは結婚をどのようにとらえるでしょうか。「Ball and chain」としてとらえるでしょうか。それとも、神様が意図された喜びで満ちたものとしてとらえるでしょうか。

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私たちの伴侶が私たちに対して頑なな心と持つとき

以前の記事で、私は夫婦が自分の心を探らなくてはならないと言いました。

つまり、私たちが自分の伴侶に対して頑なな心を持っているかどうかを自分自身に問いかける必要があるということです。また、神様に対しても頑なな心を持っているかどうかを問いかけなければなりません。

健全な結婚においても、不健全な結婚においても、それらはとても大事な質問です。なぜなら、もし神様に対して、また伴侶に対して頑なな心を持っているなら、結婚は長く続かないからです。

では、もし私たちの伴侶が私たちに対して頑なな心を持っているなら、どうすればよいのでしょうか。

それは非常に難しい問題です。

聖書では、神様は二つの件についてしか教えていません。

一つ目は、相手が姦淫を犯した場合です。とくに、その罪を悔い改めようとしないときです。

イエス様ははっきりと語られています。その場合、神様は離婚を許されます。あなたが相手と離婚して別の人と結婚することは、姦淫とはみなされません。

多分その理由は、神様の目では、その結婚が修復できないくらい、相手が頑なな心を持っていることです。その夫婦の関係はすでに崩れてしまっています。なぜなら、相手が他の人と一体となったからです。

特に、相手が再婚した場合、最初の結婚は完全に壊れてしまい、あなたはその人に縛られる必要はありません。

しかし、相手が一度だけ不倫を犯したものの、悔い改めた場合はどうでしょうか。それはさらに複雑な問題です。

もちろん、壊れた信頼関係を修復するのは非常に困難です。それが不可能だとは言いませんが、とても難しいです。とはいえ、相手が悔い改めた場合、あなたが仲直りをもたらすために働くことは、神様の御心であると考えられます。

それは非常に難しいことですが、神様の恵みと、周囲のクリスチャンのサポートが必要になると思います。信頼関係を修復するには多くの時間がかかるでしょう。それでも、神様はあなたの結婚を癒すことができます。

もし、あなたと伴侶が神様に対して柔らかい心を持つならば、神様はあなたの心を癒し、あなたの結婚をも癒してくださるでしょう。

第一コリント7章で、パウロは別の件について語っています。それは、あなたのノンクリスチャンの伴侶があなたを捨てる場合です。その場合、パウロはこう述べました。

しかし、信者でないほうの者が離れていくなら、離れていかせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。(第一コリント7:15)

イエス様と使徒たちは、その二つの状況についてしか語っていません。

しかし現代では、多くの人々がDVについて疑問を抱いています。その場合、神様は離婚を許されるのでしょうか。イエス様と使徒たちはその問題については何も語っていません。

その理由は私には分かりません。その時代にも同様の問題は存在していました。ユダヤ人の妻たちは夫と離婚することはできませんでしたが、DVの場合は裁判官に訴え出ることで、裁判官が夫に妻との離婚を強制させることができました。

とはいえ、イエス様と使徒たちがDVに関して語らなかったため、多くの牧師たちはDVが離婚の理由にはならないと考えています。

私の考えでは、もしあなたの伴侶が危険な人であり、あなたが虐待を受けているならば、さらに相手がどうしてもカウンセリングを受けない場合は、あなたは相手と一緒に住み続ける必要はありません。まずはあなた自身と子供を守るべきです。

個人的な意見ですが、イエス様がパリサイ人たちに対して語った内容はDVのケースに適用できると考えています。

私が喜びとするのは真実の愛(あるいは、憐れみ)。いけにえではない」とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

神様が結婚の祭壇の上に、虐待された妻たちを犠牲として捧げることを要求することはないと思います。

では、DVの場合、神様は離婚を許されるのでしょうか。それは正しい質問ではないと思います。

正しい質問とは何でしょうか。

イエス様は、モーセの時代に神様が人々の頑なな心のために離婚を許されたと語られました。

少し質問させてください。

クリスチャンは頑なな心を持ち続けてもよいのでしょうか。

それは許されません。

だから、これは私の個人的な意見です。結婚がもう続けられないほど、相手が頑なな心を持っているなら、神様は離婚を許されると思います。

では、あなたが離婚を考えているなら、どうすれば良いのでしょうか。

どんな状況であっても(姦淫、あなたが捨てられた場合、DVなど)、決断する前に自分の心を探りましょう。

「私には神様に対して、また伴侶に対して頑なな心があるのだろうか」と自問しましょう。

それこそが最も重要な質問だと思います。

もしその質問に「はい」と答えるのであれば、離婚の決断を急がず、慎重に考えるべきです。自分の頑なな心が理由で離婚を選んではいけません。

とはいえ、あなたが自分の心を神様と伴侶に対して開いているのに、伴侶が頑なな心を持ち続け、離婚を求めたり、暴力であなたを脅したりする場合、離婚を選択しても良いと思います。

そのような場合、神様は離婚を命じられませんが、その状況をよく理解してくださり、離婚を許されると思います。

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神様と私たちの伴侶に対して、頑なな心を持つと

いろんな福音書を読んで同じ話を統合するのは非常に興味深いことです。私はマタイの福音書とマルコの福音書をしっかり統合しているかどうかわかりませんが、このように統合する試みは面白いと思います。

パリサイ人たち: 「何か理由があれば、妻を離婚することは律法にかなっているでしょうか。」

イエス様: 「知らないのですか。二人は結婚すると、もはや二人ではなく、一体になるのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」

パリサイ人たち: 「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」

イエス様: 「え?モーセはあなたがたに何と命じたでしょうか。『あなたの妻を離婚しなさい』と命じたのですか。」

パリサイ人たち: 「まあ、そういうわけではありませんが、モーセは私たちに妻を離別することを許しました。」

イエス様: 「その通りです。モーセは離婚を命じたのではなく、離婚を許したのです。どうして離婚を許したかわかりますか。それは、あなたがたの心が頑なだったからです。

しかし、神様がアダムとエバを造られたとき、結婚を設けられたとき、離婚は神様の元々の意図ではありませんでした。」

この話を統合するのは面白いかもしれませんが、イエス様はとても深刻な問題に取り組んでいます。

この箇所で、イエス様はなぜ多くの夫婦が離婚してしまうのかを説明されています。彼らは神様に対する頑なな心を持ち、伴侶に対する頑なな心も持っています。

では、人々はどのように神様に対する頑なな心を持つのでしょうか。

まず、彼らは結婚に関する神様の教えを拒んでいます。

結婚は一生のものです。私たちは自分の妻や夫に忠実でなければなりません。キリストが教会を愛するように、夫は妻を愛さなければなりません。教会がキリストに従うように、妻は夫に従わなければなりません。それらは神様の教えです。

それでも、多くの人々は、その教えに従うのは無理だと言い、様々な言い訳を作ります。

「私の妻が私に従わないのに、どうして愛するべきだろうか。」

「私の夫が私を愛してくれないのに、どうして私は彼に従わなければならないのでしょうか。」

「結婚生活がうまくいくかどうか、だれにもわかりません。もしかしたら、うまくいかないかもしれないので、離婚のオプションを残しておいた方がいいのかもしれません。」

また、彼らが喧嘩するとき、神様はこう語ります。「もうやめなさい。相手に譲りなさい。このことについて喧嘩するのは無駄です。」

ところが、彼らは誇りや怒りを捨てることを拒むので、神様の声に従いません。

では、どのように人々は伴侶に対する頑なな心を持つのでしょうか。彼らは互いに耳を傾けません。

妻が夫が働きすぎると言うと、夫は「だって、私たちはお金が必要だろう」と答えます。

夫が情交の欠如について不満を言うと、妻は「だって、私は疲れすぎている」と答えます。

妻が夫の言葉や行動がひどいと言うと、夫は「君は敏感すぎるよ」と答えます。

他にもさまざまな例を挙げることができます。

その結果はどうなるでしょうか?

離婚です。

多くの人々は、どうして自分の結婚が失敗したのか疑問に思います。2〜3回結婚する人もいますが、その再婚も離婚に至ることがほとんどです。なぜでしょうか。

それは、彼らが自分自身の心の問題に取り組まなかったからです。つまり、神様に対して、また伴侶に対して、柔らかい心を保つことを学ばなかったのです。

あなたは独身ですか。伴侶を求めていますか。その前に、自分の心をよく探ってください。

神様があなたの行為について訓戒されるとき、あなたはその言葉を聞き入れることができるでしょうか。結婚後、神様はきっと、伴侶をどのように扱うべきかをあなたに教えられるでしょう。

けれども、もし今、神様の言葉に対して頑なな心を持ち、その態度を結婚に持ち込むなら、あなたの結婚はきっと崩れてしまいます。

あなたは結婚していますか。伴侶に対してフラストレーションを感じていますか。まずは、伴侶に目を向けるのをやめ、自分自身の心を探りましょう。どのように伴侶に対して頑なな心を持っているのでしょうか。そして、何を変えるべきかを神様に尋ねましょう。

あなたは離婚していますか。別の伴侶を探していますか。

その前に、自分自身にこう訊きましょう。「私はどのように以前の伴侶に対して頑なな心を持っていたのだろうか。私はどのように神様に対して頑なな心を持っていたのだろうか。」

そう訊かないと、あなたは同じ失敗を繰り返してしまうかもしれません。

もう一つのことを考えてみてください。今でも、あなたは神様に対して、また元夫や元妻に対して、頑なな心を持っているでしょうか。

もしかすると、神様はあなたに、元夫や元妻との和解に向けて働きなさいと語っているのかもしれません。もし神様がそのように語っているなら、その言葉に従うことができるでしょうか。

次回は、相手があなたに対して頑なな心を持つ場合について話していきます。けれども、今日はまず自分自身の心を探りましょう。あなたの心のすべては神様のものでしょうか。

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どうして離婚はそんなに痛いでしょうか

離婚は非常に難しいトピックです。なぜなら、離婚に伴う痛みは非常に深いからです。日本でも離婚率は徐々に上昇しています。そのため、私たちは結婚と離婚に関するイエス様の教えを真剣に考えるべきだと思います。

パリサイ人たちはイエス様のもとに来て、こう尋ねました。

何か理由があれば、妻を離婚することは律法にかなっているでしょうか。(マタイ19:3)

その時代においても、離婚は論争の的となる問題でした。どんな理由でも離婚が許されるべきだと考えるパリサイ人もいれば、性的な罪だけが離婚の正当な理由だと考えるパリサイ人もいました。

実際、多くのパリサイ人は離婚を経験していました。彼らの多くは、他の女性と結婚したいと思ったために妻と離婚することを選びました。もちろん彼らは姦淫を犯したくなかったものの、他の女性と関係を持ちたいがために妻を離婚したのです。

おそらく、山上の垂訓やこの箇所で、イエス様が特にこの問題について話されたのだと思います。

つまり、「あなたが結婚していない人と肉体的な関係を持たなかったとしても、もし他の女性と関係を持つために妻を離婚したならば、それは神様の目には姦淫である」ということを教えたのです。

いずれにせよ、イエス様はパリサイ人の質問にこう答えられました。

あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から「男と女に彼らを創造され」ました。

そして、「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、二人は一体となるのである」と言われました。

ですから、彼らはもはや二人ではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。(マタイ19:4-6)

イエス様は律法の専門家たちの意見を全く無視し、聖書を示されました。そして、聖書を基に、イエス様は結婚の本来あるべき姿を説明されました。

結婚とは、男と女が一体となることです。彼らはもはや別々の存在ではありません。彼らは結び合い、一体となるのです。

時々、人々はこう疑問に思います。「なぜ神様はセックスを夫婦だけのものと命じるのでしょうか。」

その主な理由は、男性と女性が肉体的な関係を持つとき、彼らが結び合うからです。それは肉体的な結びつきに留まらず、精神的にも結びつき、さらには彼らの魂も結び合うのです。

ボンドを使って、うっかり指を二本貼り合わせた経験はありませんか。もし無理にその指を引き離そうとすれば、どうなるでしょうか。肌が傷ついてしまいますよね。

同じように、夫婦が離婚すると、完全に別れることはできません。肉体的および精神的な結びつきのために、彼らの魂は裂かれるのです。

また、結婚していない人々の場合でも、彼らが肉体的な関係を持った後に別れるなら、その魂の結びつきが原因で、彼らの魂は裂かれてしまいます。

結婚している人も、していない人も、カップルの関係が長く続けば続くほど、別れる際の痛みはひどくなります。なぜなら、彼らは性的に結びつき、また、良い経験も悪い経験も共有し合うことで、さらに深く結びつくからです。

では、なぜ離婚がそんなに苦しいのでしょうか。この箇所で、イエス様はその理由を教えておられます。

それは、離婚が私たちの魂の一部を裂くからです。本来は永遠に続くべきもの、すなわち体の一致、心の一致、魂の一致が裂かれてしまうのです。だからこそ、イエス様は命じられます。

「神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」(マタイ19:6)

それでは、離婚の痛みは決して癒されないのでしょうか。神様は離婚した人を赦してくださらないのでしょうか。

そうではありません。

しかし、私たちは二つのことを理解する必要があります。

一つ目は、神様が結婚を永遠のものとしてデザインされたということです。

二つ目は、神様のデザインを拒むなら、その結果として痛みが生じるのは当然です。

では、なぜ人々は離婚を選ぶのでしょうか。次の記事でこのことについて詳しく話すつもりです。

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パリサイ人と取税人のたとえ話:恵みの必要を心に留める

まず、少しアナウンスがあります。最近、新改訳2017を購入したので、これからその翻訳から引用を始めます。そのため、あなたの聖書と比較すると、少し違うところがあるかもしれません。

それはさておき、不思議なことですが、何千年経っても人間の本質はあまり変わりません。この箇所を読むと、それがよくわかります。

ルカはこう書きました。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエス様はこのようなたとえを話された。(ルカの福音書18:9)

その時代、特にパリサイ人たちはそのような態度を持っていました。彼らは一生懸命に、一番細かい律法にさえ従おうとしました。しかし、それは彼らのプライドへとつながりました。

イエス様のたとえ話の中で、あるパリサイ人が大きな声でこう祈りました。(もしくは、祈りというより独り言を言ったのでしょうか)。

神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。(11-12)

ようするに、「神様、あなたの国に私のような人がいて良かったですね。私はいい人ですよね?逆に、この収税人は。。。」ということです。

残念なことですが、今でもそんな態度を取るクリスチャンがいます。彼らは神様の恵みによって救われたと認めていますが、彼らの態度は違うことを示しています。

恵みによって生きる人には二つのことがはっきり見えます。彼らの罪深い心が見えますし、どれほど神様が必要かが見えます。

この収税人には、その二つのことがはっきり見えていました。

その時代、ユダヤ人たちは収税人を憎んでいました。なぜなら、収税人はユダヤ人でありながらイスラエルを征服したローマ帝国と協力していたからです。

それに加えて、収税人たちはイスラエル人を騙して、ローマ帝国が要求した額よりも多く税を取り立てていました。

けれども、この収税人は自分の胸を叩きながら、こう祈りました。

神様、罪人の私をあわれんでください。(13)

イエス様はその人について、こう言われました。

あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。

誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。(14)

あなたはどうですか。あなたは神様の恵みによって生きているでしょうか。自分の罪深い心が見えていますか。そして、どれほど神様が必要かが分かっていますか。

そのような人とは、どのような人でしょうか。

彼らはへりくだり、神様が何をしてくださったのかを感謝します。彼らの心にはプライドの余裕がありません。つまり、自分の義や、自分のたまものに関するプライドがないのです。

彼らは、自分が永遠の死にしか値しない者であることを理解しています。それでも、神様が彼らに恵みを注いでくださったため、毎日感謝で心が満ちています。

たとえ他人が彼らを正当に評価しないときでも、彼らは苦々しい思いを抱きません。また、自分の功績を誇ることもありません。むしろ、感謝に満ちた心を持っています。

もう一つの特徴は、彼らが受けた恵みを周りの人々に与えることです。彼らは偉そうな態度を取ることはありません。むしろ、自分自身が神様の恵みを必要としていたように、周りの人々もその同じ恵みを必要としていることを理解しています。

自分の罪深い心がわかるならば、他人を軽蔑することはできません。自分がどれほど赦されたかを理解していると、他人を裁くこともできません。

むしろ、心が恵みと憐れみに満ち、その恵みと憐れみで周りの人々に触れるようになります。

あなたはどうですか。神様の恵みがどれほど必要か、あなたには分かっていますか。

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やもめと裁判官のたとえ話:試練に直面するとき、信仰を貫く

一節だけ読むと、イエス様のポイントは「神様がすぐに祈りに応えないときでも、祈り続けるべきである」ということだと思うかもしれません。

もちろん、それも正しいのですが、実際には、イエス様は特定の種類の祈りについて話されています。

この箇所では、イエス様はまだこの世の最後の日について話しています。その日は、悩みの日であり、試練に満ちた日です。

イエス様は私たちが自分の罪のために裁かれないことを約束されましたが、試練や苦しみを経験しないとは約束されませんでした。

時には、私たちは不正義を経験します。特に、反キリストが現れてこの世を支配する時には、クリスチャンたちは大いに苦しむことでしょう。

この箇所でイエス様は、そうしたクリスチャンたちについて語られています。聖書によれば、すべてのクリスチャンが迫害を受けるとされています。

そのような時には、「神様はどこにおられるのだろうか。神様は私を見捨てたのだろうか。まだ私を愛しておられるだろうか。正義はいつ実現するのだろうか」と疑問に思うかもしれません。

だからこそ、イエス様はこのたとえ話をされたのです。この話では、ある女性が不正義を経験したため、裁判官のもとへ行き、正義を求めました。

けれども、その裁判官は彼女の願いを何度も断りました。それでも彼女はあきらめず、何度も裁判官のもとへ行き、お願いを続けました。最終的に、裁判官はこう言いました。

私は神を恐れ ず、人を人と思わ ない が、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよ う。

そうでないと、ひっきりなしに やって来 て、私は疲れ果ててしまう。(ルカの福音書18:4-5)

イエス様の意味されたことは何でしょうか。神様がその裁判官のように、私たちに正義を与えたくないために、毎日祈りで神様を困らせないと応えてくださらないということでしょうか。それは違います。

実際には、イエス様はその正反対のことを言われています。この不正な裁判官でさえ、その女性のしつこい願いに応じて正義を与えたのです。まして、あなたを愛する公正な神様が、喜んであなたに正義を与えてくださらないことがあるでしょうか。

黙示録6:9-11には、似たような場面が描かれています。その箇所では、聖徒たちはイエス様のために迫害を受けましたが、この世では正義を受けることはありませんでした。

それでも神様は彼らを励まし、「正義は必ず来る」と約束されました。

しかし、苦しんでいるときに正義を待つことは非常に辛いものです。だからこそ、イエス様は私たちにこう問いかけておられるのです。

だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(8)

もしかすると、あなたはこう考えるかもしれません。

「大丈夫です。私はひどい苦難(マタイ24:21-22)に直面しない。イエス様はその前にクリスチャンたちのすべてを天国に連れて行ってくださるから、心配しなくていい。反キリストを見ることは決してないだろう。」

正直に言えば、私はその確信は持てません。もしかすると、私たちはそのひどい苦難を経験し、反キリストに直面するかもしれません。

とはいえ、仮にそれを避けられるとしても、あなたの信仰はどれほど強いでしょうか。

辛い時、あなたは神様とその正義を疑い始めるでしょうか。「神様、どこにおられるのですか。私を愛しておられるでしょうか。どうして私はこんなに苦しむのでしょうか。」と問いかけるでしょうか。

それとも、信仰を貫いて、こう言うでしょうか。

「神様、私はまだあなたを信じます。たとえ苦しんでいても、あなたを捨てません。私は、最終的にあなたが私に正義を与えてくださると信じます。この世ではその正義を見ないかもしれませんが、後に必ずあなたの正義を知ることになると信じます。」

イエス様があなたをご覧になるとき、揺らぐ信仰をご覧になるでしょうか。それとも、動じない信仰をご覧になるでしょうか。

へブル人への手紙の著者の言葉を心に留めましょう。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(へブル12:12)

そして、私たちの忠実な神様への信仰を貫き続けましょう。

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ルカの福音書 ルカ17章

急な裁き、確実な裁き

パリサイ人たちに神の国について語られた後、イエス様は弟子たちに警告されました。それは、非常に困難な時が訪れるということです。

その時、彼らはイエス様の再臨を切に願い、イエス様が帰られたという噂を聞けば、それを信じてしまうかもしれません。けれども、イエス様はご自身の再臨について、いくつかの重要なことをはっきりと教えられました。

第一に、イエス様が帰って来られるとき、それを誰も見逃すことはできないということです。イエス様はこう言われました。

いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。(ルカの福音書17:324)

第二に、イエス様は突然現れます。

その日は、普段と変わらない一日として始まります。人々はいつものように、食べたり、飲んだり、結婚したり、買ったり、売ったり、植えたり、建てたりするでしょう。ところが、突如としてイエス様が来られ、裁きが始まるのです。

第三に、義人は死に至る裁きを経験することはありません。イエス様はこう言われました。

ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。(29-30)

注目してください。ロトがソドムを出て行ったとき、裁きが訪れました。同じように、イエス様が来られるとき、義人が悪者から分けられたあとで、裁きが下ります。

第四のポイントは、イエス様が来られるとき、もしあなたが神様との関係を持っていなければ、あなたは裁かれるということです。あなたの友人や、妻、夫、親族が素晴らしいクリスチャンであったとしても、その関係があなたを救うことはできません。

だから、イエス様はこう言われました。

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。(34-35)

最後のポイントは、裁きが確実であるということです。イエス様はこの教えを次の言葉で締めくくられました。

死体のある所、そこに、はげたかも集まります。(37)

死体があれば、はげたかが集まるのは確かです。同じように、霊的に死んだ者がいれば、裁きが下るのは確実です。

だから、あなたは自分自身に問いかけなければなりません。あなたは準備ができていますか。あなたの心は整っていますか。あなたはこの世のものに執着していますか。それとも、神様を愛しているでしょうか。

裁きの日には、あなたの心の隠されたものが明らかになります。

イエス様が来られると、イエス様を愛している人々は喜んで迎えます。

しかし、この世のものに執着する人々は、持ち物を失うことを恐れるでしょう。

だからこそ、イエス様は弟子たちに警告されました。

ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(32-33)

神様がソドムを裁かれたとき、ロトの妻はソドムでの生活に執着し、後ろを振り返りました。結果として、彼女も裁かれることになりました。

もしあなたがこの世のものに執着するなら、イエス様が来られるとき、あなたも裁かれることになるでしょう。

あなたの心のあり方はどうでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

神様の御国を見るため

この箇所で、パリサイ人たちはイエス様に、神の国がいつ来るのかを尋ねました。

もしかすると、彼らの意図は、「あなたは本当にメシアなのですか?もしそうなら、私たちにしるしを示してください」ということだったのかもしれません。

しかし、いつものように、イエス様は批判者に対してしるしを与えることを拒まれました。むしろ、イエス様はこう答えられました。

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。

いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカの福音書17:320-21)

イエス様は何を意味されたのでしょうか。「あなたたちは神の国のしるしを求めすぎて、その到来をすでに目の前で見ながらも認識できていません。」

つまり、「あなたの王はすでに来ています。その王はあなたがたの間で御国の業を行っています。それを目の当たりにしているのに、なぜなおもしるしを求めるのですか。」ということです。

パリサイ人たちは、神様が何をしているのかを見ることができませんでした。とはいえ、あなたはどうでしょうか。

神様はあなたの周りの人々の心の中で働いています。神様は彼らの人生を変えたいと願っておられます。そして、神様はあなたを通して彼らに触れたいと願っておられます。

けれども、あなたは自分の人生に気を取られすぎて、神様が何をしているのか気づけていないでしょうか。

あるいは、聖書に書かれた預言に強い関心を持ち、イエス様がいつ再臨されるのかばかりを気にしすぎるあまり、神様があなたの周囲でどのように働いておられるのかを見失ってはいないでしょうか。

もちろん、聖書の預言は重要です。けれども、もし神様の働きを見失っているなら、私たちの視点はゆがんでおり、神様は私たちを御国の働きのために用いることができません。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りで神様がどのように働いておられるのかを見ているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

感謝

この箇所では、10人のツァラアトに冒された人々は一緒にイエス様の所に行きます。

もちろんツァラアトはつらい病気でしたけど、一つの良い点がありました。ツァラアトに冒された人々の間では、普段存在する壁は崩れました。

普通は、ユダヤ人とサマリヤ人は互いに憎み合いました。でも、その十人は病気のせいで、自分の民の間でのけ者になりました。だから、彼らがわっかったのは、彼ら皆がただの人間で、ユダヤ人とサマリヤ人には大差がないことです。

私たちもそのことを学ぶべきです。つまり、パウロはこう教えました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

私たちにどんな宗教的な背景があっても、どんな文化的な背景があっても、私たち皆は同じです。つまり、私たち皆は罪人です。そして、イエス様が私たちに触れてくれないと、私たちは死ぬとき永遠に神様から離れます。私たちの罪のせいで、私たちはのけ者になりましたから。

おまけに、その10人のように、私たちは自分自身を救うために何もできません。

その時代、ツァラアトの治療がなかったので、ツァラアトに冒された人は、何もできませんでした。

そのツァラアトに冒される人のように、私たちは一つのことしかできません。それは、神様様の憐れみを願うことです。

その十人はイエス様にこう叫びました。

イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。(ルカの福音書17:13)

イエス様は彼らを憐れんで、癒してくださいました。でも、彼らは信仰が必要でした。イエス様はその場で彼らを癒してくださいませんでした。むしろ、イエス様は彼らにこう言いました。

行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。(14)

そして、彼らは行く途中で癒されました。

このように、私たちがイエス様に信仰を置くときにのみ、私たちの罪は清められるのです。

彼らは自分が癒されたことを知ると、大喜びしました。ところが、サマリヤ人だけがイエス様のもとへ戻り、イエス様に感謝を捧げました。

イエス様はそれをご覧になり、こう尋ねられました。

十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。(17-18)

イエス様は、私たちについてどれほど同じことを言われるでしょうか。私たちの罪を清めるために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様の恵みによって、私たちは永遠の死から救われました。

しかし、私たちはその救いをどれほど当たり前のものとして受け止めているでしょうか。

私はただ感謝の言葉について話しているのではありません。私たちの行動は、どれほどイエス様への感謝を表しているでしょうか。

イエス様は愛と恵みを私たちの人生に注いでくださいましたが、私たちはそれをただ享受しているだけでしょうか。それとも、その愛と恵みが私たちを通して周囲の人々に届いているでしょうか。私たちの人生は神様に栄光を帰しているでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生はイエス様への感謝を映し出しているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章 ヨハネ12章

真理を認識できる?

私は以前にも言いましたが、パリサイ人たちと祭司たちの大きな問題は、彼らがイエス様の言葉を聞き、イエス様の御業を目の当たりにしていながら、それでもなおイエス様を信じなかったことです。

だからこそ、この箇所で彼らは危機に直面しました。

イエス様はラザロをよみがえらせました。そして、彼らはその奇跡を否定できませんでした。皆が、ラザロが4日間死んでいたのに、イエス様が彼をよみがえらせたことを知っていました。そのため、多くの人々がイエス様を信じるようになりました。

けれども、パリサイ人たちと祭司たちの反応はどうだったでしょうか。

「私たちはイエス様の御業をよく知っています。私たちはその奇跡を否定できません。それでも私たちはまだ信じません。」

イエス様がメシアである証拠は十分にありました。それにもかかわらず、彼らはどうしてもイエス様を信じようとはしませんでした。

一方で、彼らはユダヤ人たちの反応に思い悩みました。つまり、ユダヤ人たちがイエス様を王にしようとすれば、ローマ帝国がイスラエルの土地と国民を奪い取ることになる、という懸念です。

ヨハネは、大祭司カヤパの言葉の皮肉さを認識しました。カヤパは次のように言いました。

あなたがたは全然何もわかっていない。

ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。(ヨハネの福音書11:49-50)

カヤパが意味したのは、ローマが彼らの国を奪い取るよりも、イエス様が死ぬ方が方便だということです。

しかし、ヨハネは次のように解説しました。

ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(51-52)

自分の口から発せられる真理さえ認識できないほど、彼らのプライドと野心は彼らの目を曇らせていました。

あなたはどうでしょうか。真理を聞いたとき、その真理を認識できるでしょうか。

イエス様は、「私は真理だ」と言われました。

真理を理解するためには、あなたはたった一つのことを認めなければなりません。つまり、イエス様が生ける神の御子キリストであることです。

それを認めない限り、あなたは決して真理を理解することはできません。

あなたはどうでしょうか。真理を認識できるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

死んだ者に命を与えてくださる方

いつか、この11章を終えることになるでしょう。とはいえ、今日はまだ終えません。😊

この箇所は、真理に満ちた大切な部分だからです。

イエス様がマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われたとき、マルタはこう答えました。

私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。(ヨハネの福音書11:24)

けれども、イエス様はこう答えられました。

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。

このことを信じますか。(25-26)

つまり、「よみがえりは単なる未来の出来事ではありません。私はよみがえりであり、死んだ者に命を与える者です。もし私を信じるなら、あなたは決して死ぬことがありません」ということです。

そして、イエス様はラザロをよみがえらせることで、ご自身の言葉を証明されました。

イエス様はラザロをよみがえらせたように、イエス様を信じるすべての人をよみがえらせます。

パウロは次のように語りました。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。

それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり[ます]。(第一テサロニケ4:16)

そして、パウロはこう言いました。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(第一コリント15:51-53)

ラザロの場合、彼はよみがえらされましたが、再び死を迎えました。しかし、イエス様が私たちを復活させるとき、朽ちることのない体を与えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。死後、自分がどうなるか知っていますか。永遠の命を持っているという確信がありますか。

イエス様はよみがえりであり、命です。イエス様を信じるなら、あなたは決して死ぬことはありません。この世を去ると、新しい命が始まります。

だからこそ、イエス様はマルタに問いかけたように、あなたにも問いかけます。 「このことを信じますか。」

あなたがマルタのように答えますように。

はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。(27)

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

私たちの苦しみをイエス様に打ち明ける?

私たちの多くは、苦しみの中にあるとき、その苦しみに向き合わず、ただ埋めてしまいます。苦しみを無視しようとします。

もしかしたら、仕事や食べ物、楽しみで気を紛らわせようとするかもしれません。けれども、その苦しみは私たちの魂を蝕み、やがて広がり、私たちを飲み込んでしまいます。

では、どうすればよいのでしょうか。

マリアとマルタもこの苦しみを経験しました。彼女たちの兄は亡くなりました。そして、もしイエス様がもっと早く来ていれば、ラザロは死ななかったことを知っていました。ところが、イエス様はすぐには来られませんでした。

そのため、彼女たちはラザロの死に苦しみ、もしかすると、イエス様に裏切られたと感じたかもしれません。

だから、イエス様がようやく来られたとき、彼女たちはほぼ同じ言葉を口にしました。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(ヨハネの福音書11:32)

私は前にも言いましたが、もしかしたら、マルタはその言葉を口にしたとき、イエス様を責めるのではなく、「私はあなたをまだ信じています」という意味を込めていたのかもしれません。

けれでも、マリヤの場合はどうでしょうか。おそらく、彼女は苦しみに満ちた声でその言葉を発したのでしょう。だから、ヨハネはイエス様の反応を描写するとき、次のように書きました。

そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ[ました]。(33)

どうしてイエス様はそのように反応されたのでしょうか。おそらく、イエス様はマリヤに深く同情されたのでしょう。しかし、もしかすると、マリヤの不信仰を見て、心を痛められたのかもしれません。

38節では、ほかの人々が「なぜイエス様はもっと早く来られなかったのか」と問いかけたとき、イエス様は同じ反応を示されました。

だから、イエス様はラザロの墓に向かったとき、マルタにこう言われました。

その石を取りのけなさい。(39a)

私はマルタの答えをよく理解できます。

主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。(39b)

けれでも、イエス様はこのように答えられました。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

最初、マルタはイエス様の言葉に従うことに気が進みませんでした。すでに手遅れだったからです。ラザロはすでに亡くなっていました。

しかし、最終的に彼女がイエス様の言葉に従ったことで、イエス様はラザロを復活させられました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは、どんな苦しみを心の中に埋めてしまったでしょうか。

その苦しみのせいで、どんな苦々しい思いを抱いているでしょうか。たとえば、ほかの人々に対する苦々しい思い、あるいは神様に対する苦々しい思いです。

イエス様はあなたにこう語られます。

「その石を取り除きなさい。あなたの苦しみと苦々しい思いを私に打ち明けなさい。それらはあなたの心の中で腐っているからだ。だからこそ、その苦しみを打ち明けなさい。もし私を信じるなら、あなたは神様の栄光を見ることになる。」

あなたはどう応じるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

光の中を歩んでいる?

イエス様がラザロとその家族に会うためにユダヤへ行こうとされたとき、弟子たちはその決断に反対しました。

先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。(ヨハネの福音書11:8)

けれども、イエス様の答えは本当に印象的でした。

昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。

しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。(9-10)

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。

天の父の御心に従う限り、必ず守られるでしょう。天の父の導きを信頼する限り、つまずくことはありません。イエス様はそう教えられました。

その反面、神様の御心に従わない人や、天の父の導きを信頼しない人は、迷いの中で苦しむことになります。

だからこそ、私たちはイエス様のように生きるべきなのです。

前回の記事で私は、イエス様が何よりも私たちの信頼を望んでおられると書きました。そして、私たちがイエス様を信じて従う決断をするとき、物事をありのままに見るようになります。

たとえ私たちの状況が厳しいときでも、イエス様の愛を感じることができます。また、私たちの試練が一時的なものであることを理解するようになります。

しかし、世の光から離れると、試練と受けた傷のために、私たちは絶望の暗闇の中でつまずいてしまいます。

あなたはどうでしょうか。あなたには、はっきりと見えていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ11章

私たちが信じるために

これはイエス様の最も有名な奇跡の一つです。私は何度もこの話を読んだことがありますが、今回は特にこの言葉が私の心に深く響きました。

あなたがたが信じるために。。。(ヨハネの福音書11:15)

この箇所では、私たちは何度もこのテーマを目にします。そして、その言葉を通して、私たちはイエス様の動機を知ることができます。時には、人々はイエス様の行動を理解できませんでしたが、イエス様の動機は、彼らの信仰を成長させることでした。

だから、イエス様はマルタの信仰に挑戦されたのです。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

そして、イエス様がラザロの墓で祈られたとき、次のように祈られました。

わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。

しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。(42)

そして、ラザロの復活の後、ヨハネは私たちに次のように語りました。

そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(45)

イエス様が私たちに学んでほしいことの一つは、私たちがイエス様を信頼することです。私たちのあらゆる経験、苦しみや試練の中にあってもイエス様を信頼すること。それこそがイエス様の意図されていることです。

時には、私たちは神様にこう問いかけます。「神様、あなたを愛しています。でも、なぜ私はこの試練に直面しているのでしょうか。あなたは本当に私を愛してくださっているのでしょうか。」

この話では、マリヤがそのように問いかけました。彼女はイエス様のことを心から愛していました。

また、別の話では、彼女はとても高価な香油をイエス様の足に塗り、彼女の髪の毛でその足をぬぐいました。

マリヤはイエス様を愛していました。そして、イエス様がマリヤたちを愛しておられることを知っていたので、ラザロが病気になったとき、彼女はイエス様を呼びました。イエス様は必ず来てくださると確信していました。

実際、イエス様はその家族を心から愛しておられました。(5)

だから、イエス様は彼らの家に行かず、二日間待っておられたのです。(6)

ちょっと待ってください。イエス様は彼らを愛しておられたから、行かなかったのでしょうか。

それはどういう意味でしょうか。

どうしてイエス様は二日間も待っておられたのでしょうか。それは、イエス様が彼らに、イエス様を信頼することを学ぶよう望んでおられたからです。

イエス様が二日間も来られなかったことで、ラザロは死にました。けれども、イエス様がラザロを復活させたとき、彼らの信仰のレベルは大きく成長しました。

時には、私たちは「どうして神様は何も言わないのだろうか。どうして私の祈りに応えてくださらないのだろうか」と疑問に思います。

マリヤとマルタも、きっとそう考えたでしょう。「どうしてイエス様は来てくださらないのだろうか。」

もちろん、彼女たちはイエス様を信頼していました。しかし、イエス様は彼女たちがさらに深く信頼するよう望んでおられました。

マルタの言葉を少し見てみましょう。

主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 (21)

それは苦々しい気持ちを込めた言葉だったのでしょうか。私はそう思いましたが、今はわかりません。もしかしたら、それは信仰の言葉だったのかもしれません。

「イエス様、あなたがもっと早く来ていたら、私の兄を癒すことができたことをよく知っています。でも、私はあなたをまだ信じています。今でも、神様はイエス様と共におられ、イエス様の願いを聞いてくださることを知っています。」(21-22)

マルタは、イエス様がラザロを復活させることを信じたでしょうか。おそらく、そうは信じなかったでしょう。(39節を読んでください。)

もしかしたら、彼女はこう言いたかったのかもしれません。

「あなたは私の願いを叶えてくださらなかったけれど、私はあなたをまだ信じています。だからこれからも、困ったときにはあなたのもとへ行きます。」

それでもなお、イエス様はもう一度マルタの信仰に挑戦されました。

「今の問題をもうあきらめたでしょうか。そうしてはなりません。あなたのお兄さんは復活します。私は命の主です。

私は誰にでも命を与えることができます。私を信じる者は、たとえ死んでも生きるのです。そして、私を信じる者は決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(23-26)

マルタは「はい」と答えましたが、おそらく、イエス様の本当の意味を理解していなかったでしょう。それでも、彼女は言いました。「あなたを信じます。あなたが神の子だと信じます。」(27)

この信仰とは何でしょうか。それは子供のような純粋な信仰です。

私たちも、イエス様の言葉が理解できないことがあります。神様の決断や行動が分からないこともあります。

しかし、混乱していても、失望していても、「私はまだあなたを信じます」と言えるでしょうか。

マルタは、ラザロの墓の前で、その疑問に向き合わなければなりませんでした。「この厳しい状況の中でも、私はイエス様の言葉に従うほどに、イエス様を信じることができるでしょうか。」

けれども、彼女がイエス様の言葉に従ったとき、神様の栄光を目の当たりにしました。

私たちも同じです。マルタに問いかけたように、イエス様は私たちにもこう問いかけます。

もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。(40)

あなたはどのように反応しますか。

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ルカの福音書 ルカ17章

私たちの奉仕の姿勢

私たちは皆、褒められるのが好きです。誰かが「よくできたね」と言ってくれると、私たちはとても嬉しくなります。

しかし、それが私たちが奉仕する理由でしょうか。私たちは人からの称賛を求めているのでしょうか。それとも、神様の称賛を求めているのでしょうか。

もし人から称賛を得られなかったとき、私たちは正当に評価されていないと感じるでしょうか。怒りを覚えるでしょうか。

イエス様は、このことについて、とても興味深い描写を与えてくださいます。

ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。

かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。

しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。

あなたがたもそのとおりです。

自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。(ルカの福音書17:37-10)

イエス様の意味されたことは何でしょうか。神様は私たちの努力を正当に評価されないのでしょうか。神様は私たちに報いを与えてくださらないのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

聖書のほかの箇所によれば、神様は私たちの働きと努力を評価し、やがて報いを与えてくださいます。

とはいえ、私たちが覚えておくべき重要なことが二つあります。

一つ目は、私たちがこの世に生きている限り、果たすべき使命があるということです。自分の成功を祝って怠ける余裕はありません。さらに、人からの称賛を求める余裕もありません。むしろ、神様から委ねられた働きを忠実に続けなければなりません。

二つ目は、私たちがどんな役割を持っていようとも、神の国でどんな立場にあろうとも、私たちはただ神様の恵みによって仕えるのだということです。

私たちは神様から報いを受けるに値しません。もちろん、救いにも値しません。

実際には、私たちの欠点や弱さ、失敗にかかわらず、神様が私たちを用いてくださることこそが恵みなのです。

さらに、私たちが仕えることができるように、神様はいろいろな才能や賜物を与えてくださいます。神様は私たちに力と知恵を授けてくださいます。

それなら、それらの賜物をすべて受け取ったとき、私たちは誇ることができるでしょうか。

パウロはこう書きました。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント4:7)

だから、私たちが生きている限り、神様から委ねられた働きを続けましょう。謙遜に、忠実に。

そして、仕えるときには、なぜ私たちが仕えることができるのかを覚えておきましょう。つまり、神様の恵みを心に留めておきましょう。

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ルカの福音書 ルカ17章

赦し

この箇所で、イエス様は赦しについて語られています。けれども、その言葉は非常に厳しいものです。イエス様はこう言われました。

もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。(ルカの福音書17:3)

相手があなたを傷つけたとしても、いつまでも怒りを抱いていてはいけません。イエス様は私たちに「その人と直接話し合いなさい」と命じられました。

もちろん、感情を整理するために、少し時間を置くことは必要かもしれません。それでも、怒りを長く溜め込むのはよくありません。そしてイエス様は、「相手が悔い改めれば、赦しなさい」と教えられました。

しかし、イエス様はさらに語られます。

かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます」と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。(4)

これは単なる助言ではありません。イエス様は、「もし相手が謝るなら、赦すことを少し考えた方がいいかもしれない」と言われたのではありません。

イエス様は私たちに命じられました。「赦しなさい。」

弟子たちはどのように反応したでしょうか。

私たちの信仰を増してください。(5)

私たちの多くは、そのように考えるでしょう。

「主よ。私の傷はとても深いのです。私が赦せるかどうかわかりません。私たちが相手を赦せるように、私の信仰を増してください。」

イエス様は弟子たちに、また私たちにこう答えられました。

もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、「根こそぎ海の中に植われ」と言えば、言いつけどおりになるのです。(6)

つまり、どれほど深い傷を抱えていても、その根は引き抜くことができるのです。そして、たくさんの信仰を持つ必要はありません。

あなたがどれくらいの信仰を持っているかは、それほど重要ではありません。

本当に大切なのは、あなたが誰を信じるかということです。イエス様は偉大な癒し主です。どんな傷を負っていたとしても、イエス様はあなたを癒すことができます。

だから、自分を変えようとする強い意志があるかどうかは問題ではありません。

実は、神様の戒め自体に、私たちを変える力はありません。私たちは自分の心を変える力を持っていないのです。自分の力だけで、完全な人間になることはできません。

しかし、イエス様は私たちを変えることができます。

だから、自分の力に頼って、「頑張ろう。相手を許そう。」と思うのではなく、むしろ、イエス様に向かって、イエス様の癒しと助けを求めましょう。

そして、イエス様を信じるなら、あなたは奇跡を目にするでしょう。

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ルカの福音書 ルカ17章

人々につまずきを与えている?

この箇所では、イエス様はこう言われます。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。

この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(ルカの福音書17:2)

それは非常に厳しい言葉ですが、イエス様は続けてこう語られました。

気をつけていなさい。(3)

つまり、「私はあなたに語っている。あなたに警告している。気を付けていなさい。」ということです。

それを読んだとき、私は少し恐れを感じます。私には9歳の娘がいます。彼女はまだ幼い存在です。私はどんな父親なのだろうか。私は懸命に努力していますが、決して完璧な父親ではありません。

彼女は私を見ています。私は彼女にとって良い模範となっているでしょうか。それとも、私の言動によって娘につまずきを与えてしまっているでしょうか。

そのことを思うとき、私はこう祈ります。 「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」

しかし、私はほかの人々にもつまずきを与えているでしょうか。私は、妻や同僚、教会の人々に対して、私の行動や悪い態度を通して、知らず知らずのうちに傷つけているでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたは周りの人々にどのような影響を与えているでしょうか。

あなたの生き方を通して、彼らはイエス様に近づいているでしょうか。それとも、あなたが彼らにつまずきを与えているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ16章

金持ちとラザロ:地獄の現実さ

地獄。それは決して楽しい話題ではありません。

けれども、イエス様は地獄について教えられました。この箇所では、イエス様は地獄の存在を示し、それがどのような場所であるかを説明されています。

第一のポイントは、地獄が苦しみの場所であるということです。そこでは、人々は意識のある状態で苦しんでいます。

多くの人は、死んだら意識がなくなると考えます。しかし、それは誤った認識です。地獄では、人々は自分の状況をはっきりと理解し、苦しみ続けます。

第二のポイントは、悪者と義人の間に大きな淵があることです。そして、その淵を渡ることはできません。一度地獄に入ると、そこから抜け出すことはできません。もはや悔い改める機会は失われているのです。

さらに、地獄にいる人々は、おそらく悔い改めたいとは思っていないでしょう。この話では、金持ちは苦しみながら憐れみを求めましたが、悔い改めることはありませんでした。

第三のポイントは、地獄に行きたいと思う人などいないということです。また、地獄にいる人々は、自分の愛する者が地獄に来ることを望みません。

時々、人々はこう言います。「私はクリスチャンになりたくありません。なぜなら、私の両親や祖父母がすでに亡くなっているからです。もし彼らが天国に行けなかったのなら、私も行きたくありません。」

けれども、この金持ちの言葉に耳を傾けてみてください。

父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。(ルカの福音書16:27-28)

アブラハムは、「それは無理だ」と答えました。なぜなら、たとえ神様がそれを許されたとしても、その金持ちの兄弟たちはすでに神様のみ言葉を拒絶しているため、たとえ誰かが復活して彼らに警告したとしても、彼らは信じないでしょう。

皮肉なことに、別のラザロがイエス様の力によって復活しました。イエス様はこれによって、自分が神の子であることを証明されました。

ところが、イエス様の敵はその出来事を目の当たりにしてもイエス様を拒絶し、さらにはイエス様とラザロを殺そうと企てたのです。

とはいえ、私がここで強調したいのは、その金持ちは自分の家族が地獄に来ることを望まなかったという点です。

もしあなたが、家族や友人が地獄にいるかもしれないと考え、それゆえにイエス様の救いを拒んでいるのなら、その金持ちの言葉を覚えていてください。あなたの家族や友人は、あなたが地獄に行くことを望んでいません。

では、私たちはどうすれば地獄を避けることができるのでしょうか。

それには、イエス様を信じることが必要です。イエス様があなたの罪のために死なれ、そしてよみがえられたことを信じる必要があります。さらに、イエス様を主と救い主として受け入れなくてはなりません。

「神様が愛なら、どうして人々を地獄に送るのか」と疑問に思う人がいるかもしれません。

しかし、神様から離れた人生そのものが地獄なのです。もしあなたが命、愛、喜び、平和の源から遠ざかるなら、それこそが地獄ではないでしょうか。

神様が人々を地獄に送るのではなく、人々自身が地獄への道を選んでいるのです。

つまり、彼らは命の意味を与える方に背を向けているのです。その結果、彼らの心には絶望しか残りません。それこそが地獄なのです。

あなたはどうしますか。命の源へと向かうでしょうか。それとも、命の源に背を向けるでしょうか。それはあなた自身の選択です。

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ルカの福音書 ルカ16章

永遠のために準備しないと

この箇所で、イエス様は地獄について語られます。その描写は非常に生々しいものです。なぜなら、イエス様はある人物の経験を詳細に描写されているからです。

ある学者たちは、イエス様が実在の人物について話していると考えています。なぜなら、この話の中で、イエス様は登場人物の名前を明かされているからです。

私は、この出来事が本当に起こったかどうかは分かりません。とはいえ、この話を通して、イエス様は私たちに対し、永遠のために備えるべきだと明確に警告されています。

だからこそ、16章では、最初の話(ずる賢い管理人)と最後の話が深く結びついているのです。

この話では、イエス様は贅沢に暮らしていた金持ちについて語られます。彼はあらゆる欲求を満たし、必要なものをすべて持っていたため、自分の未来を気にすることはありませんでした。

さらに、彼は周囲の人々のことを気にも留めていませんでした。

彼は毎日、ラザロという乞食の前を通り過ぎていました。ラザロについて詳しくは分かりませんが、もしかすると彼は身体が不自由であり、物乞いをする以外に生きる術がなかったのかもしれません。

ラザロは、金持ちの食卓から落ちる物を食べたいと願いましたが、金持ちは彼に全く気づきませんでした。

こうして、彼らは何年もの間、このような生活を送りました。

けれども、彼らが死ぬと、ラザロはアブラハムのふところへと導かれ、慰めを受けました。一方、金持ちはハデス(地獄のような場所)で苦しみました。そして、彼が助けと憐れみを求めると、アブラハムはこう答えました。

子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。

しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。(ルカの福音書16:25)

アブラハムの言葉の意味は何でしょうか。

この金持ちは、ずっとこの世の人生を楽しんでいました。彼は富を蓄え、快楽を求め、気ままに暮らしていました。しかし、彼は永遠のための準備をまったくしていませんでした。

一方、ラザロはこの世に何も所有していませんでした。彼の生涯は本当に苦しみに満ちていました。それでも、彼は永遠のために備えていました。

そのため、二人が死んだとき、ラザロは慰められましたが、金持ちは苦しみました。

金持ちの問題は、お金そのものではありませんでした。彼の問題は、未来に備えなかったことです。イエス様の教えに従わず、彼が自分の財産を正しく用いなかったため、永遠の住まいで彼を迎える人が誰もいませんでした。(16:9)

この金持ちの生き方に倣うことがないようにしましょう。私たちの命は非常に短いものです。そのことを覚え、永遠のために準備しましょう。そうしなければ、金持ちのように永遠に苦しむことになります。

あなたはどうでしょうか。永遠のために備えていますか。

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ルカの福音書 ルカ16章

人の前で義を装う自分を正しいとする?

パリサイ人の大きな問題の一つは、独善的な態度でした。

彼らは細かい規則に従っていましたが、自分の明白な罪を認識することができませんでした。そして、イエス様がその罪を指摘されたとき、彼らはそれを否定しました。「私たちは正しい人だ」と言い張ったのです。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。

人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。(ルカの福音書16:15)

この話の中で、イエス様は彼らのお金への執着を裁かれました。

けれども、パリサイ人たちはこう考えました。 「でも、私の財産は神様の祝福のしるしのはずだ。イエス様は何を言っているのだろう?」

ところが、彼らの心の中では、お金が偶像となっていました。彼らは神様よりもお金を愛していたのです。

あるいは、彼らはお金以上に、ただ一つのものを愛していたかもしれません。それは、周囲の人々からの称賛です。だからこそ、彼らは施しをするとき、人々に見てもらえるように確認しました。

多くの人々はお金や世間からの称賛を求めますが、神様の目にはそれらは忌み嫌われるものです。

もちろん、お金や称賛そのものが悪いわけではありません。しかし、それらが人生の目的となり、さらにそれらが私たちの神となってしまうなら、神様との関係を妨げる障害となります。

パリサイ人たちは、人前で正しい行いを示すだけでなく、ほかにも多くのことをしていました。彼らは過剰な規則を強制しながら、自ら抜け道を見つけ、それを正当化して自分自身を誇りました。

例えば、イエス様は彼らの姦淫に関する考えを非難されました。あるパリサイ人は、その律法を回避するために、自分の妻たちと離婚し、すぐに別の女性と再婚しました。

けれども、イエス様は彼らにこう言われました。

だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。(18)

しかし、最も問題なのは、彼らが罪人と関わることなく、ただ裁いたことです。彼らは律法を利用して人々を裁きましたが、罪人の救いを望んでいませんでした。むしろ、彼らは「人々から天の御国を遮っていました。」(マタイ23:13)

それでも、ある人々はパリサイ人の妨害を乗り越え、神の国へ入っていました。

つまり、パリサイ人たちが拒絶した人々こそがイエス様に触れられ、彼らの余計な規則を押し切り、神の国へと導かれていたのです。(ルカ16:16)

あなたはどうでしょうか。あなたの心には何があるでしょうか。外側は清く見えても、あなたの心は汚れていないでしょうか。

あなたは独善的な態度を持ち、自分の罪を認識できないでいるでしょうか。

私たちがパリサイ人のようにならないように。むしろ、イエス様が私たちの罪を明らかにし、神様との関係を阻む私たちのプライドの壁を打ち砕いてくださるように祈りましょう。

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ルカの福音書 ルカ16章

何に、誰に仕えているか?

私たちの社会では、「お金」という神が非常に人気です。多くの人々がお金を慕い求め、それを追いかけます。彼らはお金のために働き、時にはそのために命を落とします。(例えば、過労死です。)

しかし、イエス様はこう言われました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカの福音書16:13)

私は以前も言いましたが、私にとってこの教えはとても厳しいものです。特に、お金を使って人に仕えることは難しいと感じます。だからこそ、私は自分自身に問いかけるべきです。私は誰に仕えているのでしょうか。

私はお金に仕えているのでしょうか。懸命に働き、手にした財産をできる限り手放さずに守ろうとしているだろうか。それとも、その財産を神様に仕えるための道具と考えているだろうか。神様は、私の財産にいつでも、どこでもアクセスできるだろうか。

もしそうでないなら、私は神様ではなく、お金に仕えていることになります。それは偶像礼拝です。

これはパリサイ人たちの問題でもありました。彼らはイエス様の言葉を聞いたとき、あざ笑いました。

その時代、人々は富を神様の祝福のしるしだと考えていました。

「神様は義人だけを祝福されるはずだ。私は多くの財産を持っているのだから、私は義人に違いない。」

それだけではなく、彼らは貧しい人々を見下しました。そして、イエス様までも侮りました。つまり、彼らは偶像礼拝の罪を犯しただけでなく、プライドという罪も犯したのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分の持ち物を誇っているでしょうか。あなたの持ち物が、あなたの神になってはいないでしょうか。あなたはお金に仕えているために、神様の国のために周りの人々に触れることができないでしょうか。

あなたは何に仕えているでしょうか。誰に仕えているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ16章

不正な管理人のたとえ話:忠実さ

前回の記事では、私たちはずる賢い管理人の話を読みました。その管理人は自分の未来のために準備していたため、イエス様は彼を褒められました。

しかし同時に、イエス様は彼を戒められました。そして、イエス様はこう言われました。

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(ルカの福音書16:10)

要するに、誰を信頼するかを慎重に考えなさい。どんな人にも、いきなり大きな責任を任せるのではなく、まずその人をよく見極めるべきです。

まずは小さな責任を与え、その人が誠実に果たせるかどうかを確認しなさい。その人が忠実に仕えるなら、さらに大きな責任を任せなさい。けれども、小さな責任すら果たせないなら、その人を信頼してはならないということです。

とはいえ、私たちは他者を評価するだけではなく、自分自身も省みなければなりません。イエス様は続けてこう言われました。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。(11-12)

神様は私たちに財産やさまざまな資源を与えてくださいました。あなたはそれらを忠実に活用しているでしょうか。

あなたの財産が、実は神様のものであることを理解しているでしょうか。神様はあなたに才能と健康を授けてくださいました。そのため、あなたは働き、お金を得ることができます。

そういうわけで、あなたの財産は本来、あなたのものではなく、神様のものであり、あなたはそれを管理しているにすぎません。

もしあなたが忠実に神様の財産を管理していないなら、神様があなたにさらなる責任を委ねると思うでしょうか。特に、神様はあなたにミニストリーの責任を託されるでしょうか。

私は教会の働きについてだけ話しているのではありません。

あなたの学校や職場、近所にも、神様を必要としている人々がたくさんいます。神の国の一員として、私たちはその人々に触れ、影響を与えるように召されています。そして、それに忠実に応じるなら、天国で報いを得るのです。

しかし、もしあなたがこの世の物に対して不忠実であるなら、神様は永遠のものをあなたに委ねることができるでしょうか。

あなたは、神様があなたに託されたものに忠実でしょうか。神様はあなたを信頼できるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ16章

不正な管理人のたとえ話:私たちの未来を確保する

私たち皆は安定した未来を望みます。けれども、果たして十分な準備をしているでしょうか。そして、未来を考えるとき、永遠のもののためにも備えているでしょうか。

このイエス様のたとえ話は、少し変わったものでした。なぜなら、イエス様は私たちにどのように生きるべきかを教える際に、悪い人の行動を模範として用いられたからです。

この話では、ある管理人が雇い主の財産を乱費しました。もしかすると、彼はその財産を横領していたのかもしれません。雇い主はその事実を知ると、彼を解雇しました。

けれども、その前に管理人は会計報告を提出しなければなりませんでした。そのため、その報告を完成させるまでは、まだ雇われた状態にありました。

報告を作成する間、管理人は自分の未来をどのように確保するかを考えました。

彼は肉体労働をしたくなかったし、雇い主が推薦状を与えてくれないため、別の人の管理人として働くことも難しいでしょう。もちろん、彼は乞食になりたくはありませんでした。

そこで、彼は計画を立てました。彼は雇い主の債務者たちのもとへ行き、その借りを減額してあげました。なぜなら、彼はこう考えたからです。

こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。(ルカの福音書16:4)

そこまでは、そのたとえ話は特に変わったものではありませんでした。ところが、雇い主がその管理人の行動を知ったとき、その反応は驚くべきものでした。

主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。(8b)

どうしてでしょうか。その管理人は自分の未来を確保したからです。(それでも、きっと管理人を褒めた後、雇い主は「出て行け!」と叫んだことでしょう。)

そして、イエス様はこう言われました。

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないもの[です」。(8a)

要するに、この世の人々は、自分の財産や立場を賢く活用し、人との関係を巧みに築くことで、未来を確保します。

世の人々がそうするのなら、ましてクリスチャンはなおさらです。

とはいえ、クリスチャンとして、この世の人生だけでなく、永遠に目を向けなくてはなりません。

たとえ話では、管理人は自分の立場を利用し、人生の次の段階に入ったとき、友人たちが彼を迎え入れました。

では、この話は私たちとどのような関係があるのでしょうか。イエス様はこう言われました。

そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。(9)

イエス様が意味されたことは何でしょうか。それは、私たちが人々を神の国へ導くために、与えられた資源を活用することです。例えば、宣教師たちに献金すること、教会にささげること、また誰かと共に食事をしながら福音を伝えることなどです。

そうすれば、天国にたどり着いたとき、あなたの財産は消えてしまいますが、福音によって触れられた人々があなたを歓迎してくれるでしょう。さらに、イエス様ご自身があなたを迎え、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言われます。

しかし、もし自分の財産を自分だけのために使うなら、あなたを迎える人は誰もいないでしょう。そして、イエス様の前に立つとき、自分の財産の使い方について申し開きをしなくてはなりません。

そのとき、あなたが誇りに思っていた達成はどうなるでしょうか。

パウロはこう言いました。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。

というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:12-15)

あなたはどうでしょうか。あなたの未来は確保できていますか。

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ルカの福音書 ルカ15章

放蕩息子:恵みの贅沢さ

多分、これはイエス様が話された中でも最も有名なたとえ話でしょう。

とはいえ、パリサイ人たちはその話を聞いて、本当にあきれたかもしれません。なぜなら、パリサイ人にとって、この話の主人公は非常に嫌な人物だったからです。

ある若い息子は父親に背を向け、「父さんが死ねばいいのに」と思っていました。(なぜなら、父親が亡くなれば遺産をもらえるからです。)

そして、息子はその遺産を受け取り、ぜいたくな暮らしを始めました。彼は欲張りで、わがままな性格であり、道徳的にも歪んだ人物でした。

彼はすぐに遺産を浪費してしまい、その直後に大飢饉が起こりました。

さらに彼の所持金が尽きると、友人たちも彼を見捨てて去っていきました。彼は貧しくなり、みじめな状況に陥りました。

助けてくれる人は誰もいなかったため、彼は本当に情けない仕事をするしかありませんでした。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物でしたが、彼はその豚の世話をする仕事をせざるを得なかったのです。彼は飢えすぎて豚の餌を食べたいと思うほどでした。

これが罪の欺きです。罪は一時的に喜びを与えることがありますが、最終的には死へと導きます。

ついに彼は自分の罪に気づきました。彼はこう言いました。

「父のしもべとしての生活は、今の私の状況よりもはるかに良い。きっと父は私を息子としては受け入れてくれないだろう。私はあまりに悪すぎる。それでも、もしかすると、父は私をしもべとして雇ってくれるかもしれない。」

こうして彼は家に向かって歩き始めました。

歩いている間、彼は父親に言う言葉を何度も練習していました。

お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。(ルカの福音書15:18-19)

多分、パリサイ人たちは息子の思いを聞いたら、二つの反応を示したことでしょう。

「もし彼が土下座して、お父さんの許しを懇願するなら、お父さんは彼を許すかもしれない。しかし、それでもお父さんが許さない可能性もある。」

または、こう思ったかもしれません。「まさか、あの息子が許されるなんてあり得ない。彼はあまりにもひどいことをした。お父さんは絶対に許さないだろう。」

そのため、彼らがイエス様の次の言葉を聞いたとき、きっと驚き、あきれてしまったことでしょう。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(20)

その時代、威厳のあるユダヤ人の父親がすたこらと走ることは絶対にありませんでした。だからこそ、パリサイ人たちはこの話を聞いて、お父さんがそのような息子のために走ったことが信じられなかったでしょう。

けれども、そのお父さんはそうされたのです。彼は息子を抱きしめ、口づけしました。

その息子は汚れており、ひどい臭いがして、服もボロボロだったことでしょう。それでも、お父さんは全く気にされませんでした。

そして、息子が自分の練習したセリフを言い始めると、お父さんは途中でそれを遮り、しもべを呼んでこう言いました。

急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。

食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。(22-24)

それこそが、神様の恵みと愛のぜいたくさです。

パリサイ人たちはそのような神様を思い描くことができませんでした。そのため、彼らは罪人を見ると軽蔑しました。

神様は罪人がご自身に立ち返ることを望んでおられるとイエス様は教えられました。そして、その罪人が戻ってきたとき、神様はその人を侮ることなく、むしろ抱きしめ、祝福されます。

あなたが神様を思い描くとき、どのようなイメージを持っていますか。厳格な父親でしょうか。それとも、常に責め続ける神様でしょうか。私たちの罪を絶えず覚えている神様でしょうか。

イエス様はそのような神様を教えられませんでした。ですから、周囲の人々を見るとき、パリサイ人の性格を真似るのではなく、天の父なる神様の性格を模範にしましょう。

そして、もしあなたが「神様は私のことを愛し、受け入れてくださるだろうか」と疑問に思うなら、神様が確実にあなたを愛し、受け入れてくださることを心に留めましょう。

神様の愛と恵みは非常に豊かです。そして、悔い改めさえすれば、神様はその愛と恵みを惜しみなくあなたに注いでくださいます。

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ルカの福音書 ルカ15章

見失った羊と無くした銀貨のたとえ話:失われた人を捜して救う

この箇所では、イエス様とパリサイ人たちの間の大きな違いが明らかになります。 それは、パリサイ人たちが失われた人々を裁いたのに対して、イエス様はその人々を探し、救おうとされたことです。

残念ながら、今もなお、多くのいわゆるクリスチャンの態度は神様の御心とは全く異なります。

一方で、イエス様はいつも失われた人々を探し求め、救おうとされました。

イエス様はパリサイ人たちと時間を過ごした直後、「罪びとたち」と時間を過ごされました。実際、イエス様は普段から罪人たちとともに時間を過ごされていました。

ところが、パリサイ人たちはそれを見たとき、イエス様を非難しました。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2)

パリサイ人たちは「罪びとたち」に触れると自分が汚れると考え、彼らを避けました。

パリサイ人たちは決して罪人たちを食事に招待することはなく、罪人の家を訪れることは想像すらできませんでした。仕事をする上でも、罪人と関わりを持たないように努めていました。

そのため、イエス様が罪人たちを歓迎されたとき、パリサイ人たちは衝撃を受けました。

そこで、イエス様は三つのたとえ話を語られました。今日は、そのうち二つのたとえ話についてお話しします。

一つ目は迷子の羊のたとえ話です。羊飼いはその羊を愛していたため、必死に探しました。そして、羊を見つけたとき、羊飼いは友人や近所の人々を呼び集めてこう言いました。

いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。(ルカの福音書15:6)

そして、イエス様はパリサイ人たちにこう語られました。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(7)

パリサイ人たちについて少し考えてみてください。もし彼らが羊飼いだったとしたら、彼らは羊を責めたでしょう。「なんて愚かな羊なんだ。あいつが死んでも自業自得だ。」

けれども、イエス様はそのようには決して考えられませんでした。むしろ、命を捨てるほどまでに羊を愛し、羊を救おうと思われました。

パリサイ人たちの考え方はそれとは全く異なっていました。

とはいえ、彼らも本来イエス様のような態度を持つべきだったはずです。

おそらく、彼らは預言者たちの書を何度も読んでいたでしょう。そして、もしそれを正しく記憶し、理解していたなら、神様がそのように考えるお方であることを知るべきだったのです。実際、それこそがホセア書の中心的なメッセージです。

続けて、イエス様は銀貨を一枚なくした女性についての話をされました。それはおそらく結婚した女性の頭飾りだったのでしょう。頭飾りは10枚の銀貨で作られたアクセサリーで、現代の結婚指輪に似たものです。

もしあなたが結婚指輪をなくしたとしたら、どう感じるでしょう。その女性もきっと同じ気持ちだったに違いありません。

だからこそ、彼女は懸命に家を掃き、銀貨を見つけるまで細かく探しました。

それと同じように、神様は全地を見渡し、失われた人々を念入りに探し、救おうと思われます。

そして、イエス様はこう言われました。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)

これが神様の態度です。あなたはどうでしょうか。「罪びと」を見たとき、その人を裁くでしょうか。それとも、神様の愛をもって接し、その人々の救いのために働くでしょうか。

パリサイ人のように人々を裁くのではなく、むしろ、私たちを救ってくださったイエス様のようになりましょう。

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ルカの福音書 ルカ14章

代価を計算する?

大勢の群衆がイエス様についていったとき、イエス様は彼らの心を探り、その動機を見抜こうとされたのではないでしょうか。

彼らはイエス様の奇跡を見るためについていったのでしょうか。それとも、イエス様の素晴らしい教えを聞くためについていったのでしょうか。または、彼らは本当にイエス様がメシアであることを信じたからこそ、ついていったのでしょうか。

おそらく、そのような理由でイエス様は彼らに挑戦されたのです。

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:26-27)

要するに、「あなたは本当に私の弟子になりたいと思っていますか。その代価は高いです。家族を失うことになるかもしれませんし、自分の命さえ失うかもしれません。」ということです。

イエス様は弟子たちに楽な人生を約束されることは決してありませんでした。むしろ、その逆を約束されたのです。

十字架を負うことは決して楽なことではありませんでした。そして、人々が十字架を地面に置いた後、その十字架で苦しみ、ひどい死を経験しました。

けれども、十字架を負うことを拒み、つまりイエス様のために試練を受けることを拒むなら、イエス様は「弟子になることはできない」と言われました。

それは受け入れやすい言葉でしょうか。決してそうではありません。

それでもイエス様は私たちに挑戦されます。「私についていきたいと思うなら、まず費用を計算しなさい。」

イエス様はその決断を塔を築くことに例えられました。ある人が前もって費用を計算せずに塔を建て始め、完成できなかったなら、周囲の人々にあざ笑われるでしょう。

同じように、もしあなたがイエス様についていき始めても、試練のせいで諦めてしまったら、あなたは恥をかくことになります。

とはいえ、もう一つ費用を計算しなければなりません。それは、イエス様についていかない場合の代価です。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。

もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。(31-32)

あなたには神様との平和があるでしょうか。それとも、神様と戦っているのでしょうか。

あなたは神様と戦っていないと思うかもしれません。しかし、もしイエス様をあなたの主として拒絶しているなら、実際には神様に反抗しているのです。

少し考えてみてください。聖書によれば、神様は私たちと和解をもたらすためにイエス様をこの世に送りました。それでは、なぜ私たちには神様との和解が必要なのでしょうか。それは、私たちが神様と戦っているからです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されました。「あなたが神様と戦っているなら、その代価を計算しなさい。たとえば、ある王がほかの王と戦おうとするなら、まず勝利できる可能性を考えます。もし勝利できないと思えば、平和を求めるでしょう。」

私たちもそのようにすべきです。実際には、神様はすでに私たちに手を差し伸べておられます。

けれども、神様との平和を望むなら、神様の条件を受け入れる必要があります。それは、イエス様の十字架の御業を信じ、イエス様を主として受け入れることです。

そうすることで、私たちは本当の命を知ることができます。しかし、もしイエス様を拒絶したまま亡くなるなら、神様との戦いがどれほど深刻なものであったかを知ることになります。

ですから、まだ時間がある間に神様との平和を求めましょう。

神様は私たちにこの世の塩となるよう呼びかけておられます。神様の光と愛を通じて、この世に影響を与えるよう求めておられるのです。役立たない塩にならないようにしましょう。

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ルカの福音書 ルカ14章

言い訳

イエス様はパリサイ人たちに、神の国に入ることができると仮定しないように警告された後、いつものように例え話を語られました。

その話では、ある人が大勢の人々を宴会に招きました。

その時代、時計を持っている人はいませんでしたので、招待された人々は宴会の日付を知っていましたが、何時に始まるかまでは分かりませんでした。そこで主人は、彼らの家にしもべを送り、「宴会の準備が整いました。どうぞお越しください」と伝えました。

ところが、その日に多くの人々が招待を断りました。彼らはさまざまな言い訳をしましたが、どれも許されない言い訳でした。

ある人はこう言いました。「畑を買ったので、どうしても見に行かなければなりません。申し訳ありませんが、お断りいたします。」(彼はその畑をまだ見ずに購入したのでしょうか。)

別の人はこう言いました。「五頭の牛を買ったので、それを試しに行くところです。申し訳ありませんが、お断りいたします。」(つまり、新しい「おもちゃ」を買ったので、宴会に行けないのです。)

さらにもう一人はこう言いました。「結婚したので、伺うことができません。」

もちろん、彼が最近結婚したのは良いことでしたが、それは宴会に行かない理由にはなりませんでした。おそらく、その奥さんと一緒に出席することもできたはずです。

しかし、聖霊様が人々の心の扉を叩かれるとき、どれほどの人々が言い訳をするのでしょうか。

「私は忙しすぎる。他に予定があります。」

または、彼らはこの世の物事やお金、財産に夢中になり、「私はそれを楽しみたいのです。後でイエス様を慕うかもしれません。」と言うかもしれません。

さらに、彼らの家族が障害となる場合もあります。「クリスチャンになると、夫が何を言うだろう。両親はどう思うだろう。家族との関係が複雑になってしまうかもしれない。」

けれども、神様はそのような言い訳を受け入れられません。

そして、そこには危険が伴います。神様は何度も招き続けてくださるかもしれませんが、今あなたが受け取った招待が、あなたにとって最後のものかもしれません。

明日交通事故に遭い、命を落とすことだってあり得ます。誰も自分がいつ亡くなるのかを知ることはできません。ですから、言い訳をしないでください。神様の招待を受け入れましょう。

だからこそ、パウロはこう記しました。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第一コリント6:2)

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ルカの福音書 ルカ14章

イエス様を拒絶すると

この直前の箇所では、義人の復活の際に、神様が気前の良い人々に報いを与えることをイエス様が教えられました。

それを聞いた食卓の客の一人はこう言いました。

神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。(ルカの福音書14:15)

ユダヤ人たちは、メシアが来て自分たちの国を確立する際、大宴会を開くと信じていました。そのため、その人がその言葉を口にした後、おそらく食卓の皆は「アーメン」と言ったことでしょう。彼らは、メシアの宴会にきっと招かれると思っていたからです。

皮肉なことに、その時、彼らはメシアであるイエス様と共に食事をしていました。それにもかかわらず、彼らはイエス様をメシアとして認識せず、さらに拒絶しました。最終的には、彼らはイエス様を十字架につけてしまったのです。

だからこそ、神の国が来る時、彼らはその中に入ることができません。一方で、彼らが見下した人々、つまり貧しい者、身体の不自由な者、盲人、足の不自由な者たちが天国に入ります。

さらに、パリサイ人たちが救いに値しないと判断した罪人や異邦人も神の国に入ります。ところが、パリサイ人たち自身は拒絶されるのです。

多くの人々は天国に行きたいと願いますが、パリサイ人たちのようにイエス様を拒絶します。彼らは自分なりの道徳的なルールを作り、それに従おうとしますが、そのルールに従わない人々を批判します。

けれども、パリサイ人たちと同様に、彼らが天国の門に到達しても、その中に入ることはできません。そして、彼らが軽蔑した人々は天国に歓迎されるのです。

あなたはどうでしょうか。イエス様を拒絶しながら、天国に入れると思いますか。

イエス様こそ天国への唯一の門です。イエス様とその十字架の御業を信じる者だけが天国に入ることができます。ですから、自分の誇りを捨て、イエス様のもとに来てください。

イエス様はこう言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)


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ルカの福音書 ルカ14章

人に与えるとき

イエス様はその部屋にいる人々をご覧になったとき、どのような人々を見られたのでしょうか。

そのパリサイ人はさまざまな人を招待しましたが、おそらくイエス様以外の招待客は裕福な人々だったのではないでしょうか。少なくとも、彼らは仕事が順調で社会的に成功しているように見えたかもしれません。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴を催す場合には、

むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。(ルカの福音書14:12-14)

このパリサイ人は施しをしていたことでしょう。しかし、おそらく貧しい人を食事に誘うことは決してなかったのではないでしょうか。もしかすると、そのような考えさえ彼の心に浮かばなかったのかもしれません。

その理由は何でしょうか。彼は友人や社会的に地位の高い人々に感心されたいと思っていたからでしょう。苦しんでいる人々を助けるよりも、友人と楽しむことや自分の評判を築くことに興味があったのかもしれません。

多くのクリスチャンは十一献金を捧げますが、残りの収入は自分自身のために使っていることが多いです。私たちは十一献金を捧げたことで、神様への義務を果たしたと感じるかもしれません。

けれども、神様は私たちに気前の良い人になることを求めておられます。それは教会だけでなく、私たちの日常生活においても同様です。そして、私たちが誰かのニーズを満たすとき、神様は私たちに祝福を与えてくださいます。

もう一つ考えるべきことがあります。それは、私たちが与えるときに、恩返しを期待するかどうかということです。恩返しを期待せず、神様が私たちに与えてくださったものを惜しみなく周囲に分け与えられるでしょうか。

イエス様はそのような与える姿勢を神様が祝福されることを教えられました。

私自身、与えることが難しいと感じることがあります。しかし、もしイエス様のようになりたいのであれば、私たちはイエス様のように与えることを学ぶべきです。恩返しを期待せず、犠牲的に与え、苦しんでいる人々を助けるべきです。

あなたはそのように周囲の人々に与えることができるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ14章

謙遜

この箇所では、私たちは興味深い文化的な状況を目の当たりにします。

イエス様がパリサイ人の家で食事をされる中で気付かれたのは、招かれた人々が一番良い席を求めて座ろうとしていることでした。

その文化では、一番偉い人は主人の右側に座りました。そして、その席が埋まっている場合、人々は主人の左側に座ろうとしました。それでも座れなければ、できるだけ主人の近くの席に座ろうとしました。

けれども、イエス様はこう言われました。

「一番良い席を求めてはいけません。もし主人が『この人に席を譲りなさい』と言うなら、あなたは恥ずかしい思いをすることになります。むしろ、末席に座りなさい。そうすれば、主人が『どうぞもっと上席にお進みください』と言い、周囲の人々から尊敬を受けるかもしれません。」

日本ではこのような状況に直面することはあまりないかもしれません。しかし、教会では、多くの人々がより高い立場を求めることがあります。たとえば、牧師やワーシップリーダーのように、尊敬される立場になりたいと思う人もいるでしょう。

ですが、そのような立場を求めるのではなく、むしろ謙遜な態度を取り、小さな仕事でも忠実に仕えましょう。たとえば、礼拝のために椅子をセットしたり、人々を迎えて入口で挨拶したりすることです。

忠実に仕える中で、心が準備できたときには、神様のタイミングでイエス様があなたにもっと大きな仕事を与えられるかもしれません。

けれども、もしあなたが周囲の人々を批判し、「私の方があの人よりもその仕事が上手にできるのに」と言ってばかりいるなら、結局のところ恥ずかしい思いをすることになります。

イエス様がこの世におられた時、謙遜な態度を取られました。イエス様はユダヤ人の王として高い地位につこうとはされませんでした。

神様でありながら最上のものを求められることはなく、むしろしもべの姿勢を取り、十字架にまで行き、私たちの罪のために死んでくださいました。

だからこそ、パウロはこう記しました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピりピ2:9-11)

だからイエス様のようになりましょう。謙遜な態度を取って、できるだけ周りの人々に仕えましょう。そして、神様のタイミングであなたは高くしてくださいます。

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ルカの福音書 ルカ14章

議論を通して、人を救う?

イエス様は優れた教師であるだけでなく、優れた論者でもありました。この個所では、イエス様は再びパリサイ人たちと、安息日に人を癒すことが合法的かどうか議論されています。

パリサイ人たちの反応は少し興味深いものです。イエス様が彼らに対して、安息日に癒すことが正しいか、そうでないかを問われたとき、彼らは黙ってしまいました。そこで、イエス様は水腫を患っている人を癒されました。

その後、イエス様はパリサイ人たちにこう問いかけられました。

自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。(ルカの福音書14:5)

彼らの答えは?

彼らは答えることができなかった。(6)

もしかすると、彼らはこのことわざを思い浮かべたのかもしれません

「あなたが黙っていて、周囲の人々に馬鹿者だと思われる方が、あなたの言葉によって、周囲の人々が馬鹿者だと明確に理解するよりも良い。」

けれども、ここで再び重要な真理が明らかになります。

パリサイ人たちは何度もイエス様と議論を試みました。そして最終的に、彼らはイエス様の議論に対して何も答えることができませんでした。イエス様はその議論に勝利されました。

では、パリサイ人たちはイエス様の教えを信じるようになったでしょうか。安息日に人を癒すのが正しいことだと認めたでしょうか。

残念ながら、そうではありません。むしろ、彼らはイエス様を殺そうと企むようになりました。

つまり、単なる議論によって人々をイエス様に信じるよう導くことはできません。あなたが議論を通じて、イエス様を信じるべき理由や聖書を信じるべき理由、そしてキリスト教が正しい理由を説明することは可能です。

あなたはその議論に勝つことがあるかもしれません。相手がパリサイ人たちのように黙るかもしれません。それでも、どれだけ議論をし、証拠を示しても、イエス様を拒絶する人は必ずいます。

かつてラジオ番組で、あるクリスチャンが哲学者と議論を交わしました。その哲学者はこう言いました。

「クリスチャンたちは聖書の真実性を証明しようとするとき、いつも聖書を引用します。それは循環論法ですよ。証明したいことを最初から仮定してはいけません。」

そのクリスチャンはこう反論しました。

「あなたはなぜ聖書が一冊の本だと思うのですか。実際には聖書は66冊で構成されています。さらに、著者は40人以上に及び、1000年以上をかけて書かれました。

ですから、一人の著者の言葉を使って別の著者の言葉を検証することは循環論法ではありません。全く異なる出所を利用しているのです。」

哲学者は「違う、違う、違う」と言い続けました。

そして、クリスチャンはこう尋ねました。「なぜ違うと言うのですか。私の議論に答えることができますか。それとも単に信じないだけですか。」

哲学者は「私はそれを信じない」と断言しました。

その哲学者は答えることができませんでした。彼はパリサイ人たちのように沈黙しました。とはいえ、おそらく彼は他のクリスチャンたちと話すときでも、同じ議論を繰り返していたことでしょう。

では、私たちはノン・クリスチャンと議論を交わすべきではないのでしょうか。彼らの疑問に答えない方が良いのでしょうか。そうではありません。

ペテロはこう記しました。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(第一ペテロ3:15)

答えを心から求めている人もいるでしょう。そして、もしあなたがその答えを与えるなら、彼らはクリスチャンになるかもしれません。しかし、単なる議論によっては、誰も神の国に入ることはできません。

人々の心を開くことができるのは聖霊様だけです。ですから、人々と話すとき、彼らの質問に答えるだけでなく、彼らのために祈りましょう。

そうすることで、聖霊様が彼らの心を変え、彼らは救われるかもしれません。

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ルカの福音書 ルカ13章

神様の望み、されないこと、できないこと

これは、本当に胸が痛む箇所です。パリサイ人との対話の後、イエス様はこう言われました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。

「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。(ルカの福音書13:34-35)

イスラエルの歴史において、その指導者たちは主の言葉と、それを伝えた預言者たちを拒絶しました。だからこそ、イエス様は裁きの日が迫っていることを警告されたのです。

エルサレムの神殿は再び滅ぼされ(西暦70年に実際に起こりました)、ユダヤ人たちは各地に逃れなければならず、その結果、20世紀までイスラエルという国家は存在しませんでした。

そして、イスラエルの民がイエス様をキリストとして受け入れる時が来るまで、イエス様は再臨されません。

とはいえ、この箇所は私たちにとってどのような意義を持つでしょうか。この箇所を通して、私たちは神様が何を望み、何をされず、また何ができないのかを知ることができます。

神様の望みとは何でしょうか。神様は私たちとの親しい関係を望まれます。そして、その愛によって、私たちが平和、喜び、そして満足を見いだすことを願っておられます。

では、神様は何をされないのでしょうか。神様は私たちに神様を受け入れるよう強制されることはありません。

イエス様はユダヤ人の指導者たちにこう言われました。「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」

もし私たちがユダヤ人の指導者たちのように神様を拒絶するなら、神様は私たちの決断を受け入れられます。

では、神様には何ができないのでしょうか。もし私たちが神様から離れるなら、神様は私たちに喜びや平和や満足を与えることができません。

それは、神様が与えたくないのではなく、与えることができないのです。

なぜなら、私たちは神様との関係のために創造されたからです。だからこそ、神様から離れると、私たちの心には常に空虚さが残ります。

私たちはその空虚を、お金や所有物、仕事や人間関係で満たそうとするかもしれません。けれども、それらでは決して満たされません。結果として、私たちの人生はむなしさに包まれてしまいます。

神様抜きの人生とはそのようなものです。なぜなら、本当の愛、本当の平和、本当の喜びは神様から来るものだからです。神様から離れるということは、愛と平和と喜びから離れてしまうことなのです。

あなたが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言うことができるようになるまで、あなたは真の愛と平和と喜びを得ることはできません。

あなたはどうでしょうか。イエス様を救い主として受け入れていますか?

もしかすると、神様から離れたまま、平和と喜びと愛を求めているのではないでしょうか?

そのような人生は最終的にむなしさに終わります。イエス様こそが唯一、本当の満足をもたらしてくださるのです。

今日、イエス様を受け入れてみませんか?

イエス様、私はこれまであなたに背を向けて生きてきました。あなたから離れ、自分の力で生きようとしていましたが、私の人生はむなしさに包まれました。

どうか赦してください。あなたが私の罪のために死んでくださり、よみがえられたことを信じます。私はあなたを私の主、そして救い主として受け入れます。

どうか私をあなたへと引き寄せてください。あなたとの親しい関係を望みます。アーメン。

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ルカの福音書 ルカ13章

どうしても恐れに負けない?

相手に「恐れるな」と言うのは簡単ですが、自分自身が恐れに打ち勝つことは時に難しいものです。

とはいえ、イエス様は決して恐れに屈されることはありませんでした。

ある日、パリサイ人たちがイエス様のもとに来て、こう言いました。

ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。(ルカの福音書13:31)

このパリサイ人たちは本当にイエス様のことを心配していたのでしょうか。そうかもしれません。

パリサイ人の一人、ニコデモはイエス様を信じたようです。イエス様を信じたほかのパリサイ人たちもいたかもしれません。

それでも、私はこのパリサイ人たちの動機を疑います。

その時点では、ヘロデはイエス様を殺そうという意図を公にしていませんでした。

ヘロデが初めてイエス様について聞いたとき、バプテスマのヨハネがよみがえったのだと思ったようです。そのため、ヘロデはイエス様に会ってみたいと思いましたが、イエス様を殺そうとは考えていませんでした。(ルカ9:7-9)

そして、ついにイエス様と対面したとき、ヘロデはイエス様が奇跡を行うのを見せてほしいと願いました。(ルカ23:8)

もちろん、ヘロデがまったく危険ではないというわけではありません。

とはいえ、おそらくパリサイ人たちは彼の危険性を誇張したのではないでしょうか。なぜなら、彼らはイエス様に恐れを抱かせたかったからです。

そこで、イエス様はこう答えられました。

行って、あの狐にこう言いなさい。「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。

だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」(32-33)

簡単に言えば、「出ていけ。私は逃げない。」

なぜイエス様はヘロデを狐と呼ばれたのでしょうか。狐は狡猾であり、危険な動物だからです。また、ユダヤ人にとって、狐は価値のない者を象徴していました。

イエス様は御自身の教えに従われました。イエス様は蛇のように賢明な方でした。(マタイ10:16)

もちろん、イエス様は世の危険を軽視されたわけではありません。イエス様はその危険を十分に理解し、注意を払われました。

しかし同時に、人々を恐れることはありませんでした。彼らはイエス様の体を殺すことはできても、魂を滅ぼすことはできなかったからです。

それに、イエス様が死なれる時はまだ来ていませんでした。だからこそ、イエス様は天の父の御心に従うことを決断されたのです。

私たちもそのようにすべきです。神様に仕えようとするとき、私たちに敵対する者がいるかもしれません。その人は狡猾であり、危険な存在かもしれません。

そのような人には警戒しなければなりません。そうしなければ、私たちは傷つけられる可能性があります。

それでも、私たちは彼らを恐れるべきではありません。彼らに拒絶されることを恐れるべきではありません。彼らが私たちに何をするかを心配してはいけません。

むしろ、私たちは神様が命じられたことを忠実に行い続けましょう。

へブル人への手紙の著者はこう記しました。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:2-3)

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ルカの福音書 ルカ13章

手遅れになる前

地獄について考えることを好む人はほとんどいないでしょう。また、私たちは誰かが地獄に行くとは思いたくないものです。むしろ、私たちは麻原彰晃やヒトラーのような例外を除けば、すべての人々が天国に行くものと思いたいのです。

おそらく、イエス様の時代にも、多くの人々がそのように考えていたでしょう。だから、ある人がイエス様のもとに来て、こう尋ねました。

主よ。救われる者は少ないのですか。(ルカの福音書13:23)

もしかすると、その人の真意は、「天国へ行く方法をもっと簡単にできないでしょうか。もっと多くの人々が天国に入れるようになればいいのに。」ということだったのかもしれません。

その人の言葉について少し考えてみましょう。その人はユダヤ人でした。おそらく、彼は異邦人の救いについて深く考えたことはなかったでしょう。

彼はユダヤ人として、天国に入ることがどれほど難しいかを思い巡らしていたかもしれません。なぜなら、彼は自分自身を周囲の人々と比べていたからです。

パリサイ人たちや律法学者たちは律法を熱心に学び、神様の定めた規則だけでなく、人間が作り出した宗教的な戒律にも従おうとしていました。

だからこそ、その人がパリサイ人や律法学者たちを見たとき、こう思ったのかもしれません。

「これは到底無理だ。パリサイ人のように生きることはできない。それに加え、イエス様は、私たちの義がパリサイ人の義に勝らなければならないと教えられた。」(マタイ5:20)

イエス様の次の言葉は、その人にとって慰めにはならなかったでしょう。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

要するに、「はい。救われる人は少ないのです。」ということです。

そして、イエス様は私たちに警告されます。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、「ご主人さま。あけてください」と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、「あなたがたがどこの者か、私は知らない」と答えるでしょう。

つまり、その狭い門に入るには、期限が限られています。もし私たちがその門を通る前に死んでしまえば、もう手遅れなのです。

では、その門とは何でしょうか。

イエス様はこう言われました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(ヨハネ10:9)

天国に入るためには、イエス様との関係が必要です。イエス様と、その十字架における御業を信じなければなりません。そうすれば、私たちは救われるのです。

そして、イエス様はユダヤ人たちに警告されました。

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。

人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。(28-30)

多くのユダヤ人たちは、「私はユダヤ人だ。神様が私たちを御自分の民として選ばれたのだから、私は問題ない」と考えていました。

また、あるユダヤ人たちは、律法を守れば救われると思っていました。

けれども、イエス様が教えられたのは、イエス様を救い主として受け入れた者は救われるが、イエス様を拒絶する者は救われないということです。

そのため、多くのユダヤ人は天国で先頭に立つと考えていましたが、結局彼らは天国に入ることができませんでした。

そして、今でも多くの人々がユダヤ人たちと同じように考えています。

彼らはクリスチャンホームに生まれたから、自分がクリスチャンだと思い込んでいます。または、彼らは教会に通い、さまざまな良い行いをしているので、救われると考えているかもしれません。

しかし、そのような人々が天国に行くとは限りません。イエス様こそが門なのです。イエス様以外に、天国への門はありません。

手遅れになる前に、その門に入りますか。

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ルカの福音書 ルカ13章

目を覚ます必要

マタイの福音書では、私たちはこの個所と同じイエス様のたとえを見ます。(多分、これは別の時ですけど)。

でも、この個所を読んだ時、私は前回このたとえを正しく解釈したかどうと疑問に思いました。

もしかしたら、イエス様は、同じたとえでいろんなことを教えていたかもしれません。(例えば、マタイ5:23-26ルカ12:54-59。)

とにかく、このたとえの別の解釈について話そうと思います。イエス様はこう言いました。

神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。(ルカの福音書13:20-21)

旧約聖書では、パン種は罪と不潔の描写でした。

例えば、過越の祭の食事を食べたとき、イスラエル人たちはパン種が入っていないパンを食べなくてはなりませんでした。彼らはそのパンを裂いて食べました。そして、そのパンは、彼らの体に命を与えました。

どうして彼らはパン種のないパンを食べたでしょうか。

一つの理由は、彼らがエジプトから逃れたとき、速く行かなくてはならなかったことです。そしてイスラエル人たちはパン種のないパンをすぐに焼くことができました。

でも、もう一つの理由がありました。イエス様は、自分自身を「命のパン」だと呼びました。そして最後の晩餐で、イエス様は過越の祭のパンを取り、裂いて、弟子たちにこう言いました。

これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。(ルカ22:19)

イエス様は、自分の罪のために十字架で死にませんでした。そのパンのように、イエス様の心にはパン種、つまり、罪や不潔がありませんでした。

でも私たちの罪のためにイエス様の体は裂かれました。イエス様は私たちの罪の罰を受けてくださいました。

そして、私たちがその命のパンを食べると、つまり、イエス様とその十字架の働きを信じて、受け入れると、イエス様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

でも私の要点に戻りましょう。パン種は普通、罪と不潔の描写です。でもこのたとえ話で、イエス様は、神の国をパンに広がっているパン種と比べます。どうしてでしょうか。

答えはちょっと怖いものです。神様の民の中で堕落が広がる可能性があるということですから。

アメリカの教会を見ると、それがすぐにわかると思います。例えば、監督教会と長老教会はゲイの結婚を認め始めました。

それは道徳的な堕落です。

でも、教会の歴史で、私たちはキリストに関する教えの堕落をも見ることができます。

だから教会では、多くの人々は処女懐胎(つまり、イエス様の父はヨセフではなく、神でした)や、イエス様の復活や、イエス様が神であることを否定します。それでも、彼は「私はクリスチャンだ」と言い張ります。

どうして、彼らはそう言えるでしょうか。彼らは聖書をも否定するから。もしクリスチャンたちが聖書を否定するなら、堕落は簡単に教会に入ることができます。

イエス様はそのことについて警告しました。

サタンは麦の中に毒麦を蒔きます。その毒麦の一つの種類は聖書に反対する教えです。私たちが注意しないと、そんな教えは教会の中に広がってしまいます。(マタイ13:24-30、36-43)。

だからイエス様は私たちに警告します。たくさんの人々は「イエス様を知っている」と主張するけど、実はイエス様を全然知りません。(24-28)

だからイエス様はこう言いました。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

私の要点は何でしょうか。目を覚ましましょう。

あなたの牧師の教えに注意を払いましょう。ポッドキャストで聞く説教に慎重になりましょう。クリスチャンの本を読むときも、注意深く判断しましょう。

もしその教えが聖書に合うなら、その教えを受け入れ、従いましょう。しかし、その教えが聖書に合わないなら、その教えを捨てなければなりません。

そうしなければ、堕落はあなたの心に容易に入り込んでしまいます。

だから、パウロはこう記しました。

しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5:21)

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ヨハネの福音書 ヨハネ10章

見ても信じない?

ある人々はこう言います。「神様自身が私の前に現れて、私と話すなら、私は神様のことを信じるだろう。」

けれども、その考え方には大きな問題があります。

神様自身はこの世に現れました。神様は私たちと話され、私たちの間を歩いておられました。神様はいろいろな奇跡を行われました。神様が敵対者たちと議論されたとき、相手は答えられなくなりました。それでも、彼らは神様を信じませんでした。

私の要点は何でしょうか。

もし、あなたが信じないと決めてしまっているなら、たとえ神様があなたの前に現れても、あなたは信じないでしょう。むしろ、それを夢や幻覚だと自分を説得しようとするでしょう。

人々が神様を拒絶する理由は、彼らが神様のことを信じられないからではなく、信じたくないからなのです。

この箇所では、私たちはそのような例を見ます。ユダヤ人たちはイエス様のところに来て、こう言いました。

あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。(ヨハネの福音書10:24)

イエス様はこう答えられました。

わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。(25)

その前に、イエス様は病気の人々を癒され、足が不自由な人々を癒され、目が見えない人々を癒され、皮膚病にかかった人々を癒され、死んだ人々を復活させられました。それにもかかわらず、周りの人々はそれを見ても、イエス様を信じませんでした。

さらに、彼らが学んだ預言者たちは、その奇跡について語っていました(イザヤ書53:4、61:1-2など)。それでもユダヤ人たちは、なぜかイエス様を信じることを拒みました。

その後、イエス様はさらに明確に語られました。

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。(27-30)

誰が永遠の命を与えることができるでしょうか。それは神様だけです。しかし、イエス様はご自身の民に永遠の命を約束されました。

さらに、イエス様は「わたしと父とは一つです。」と言われました。

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。ユダヤ人たちは理解しました。イエス様はご自身が神であることを主張されたのです。彼らはすぐに反応し、イエス様を殺そうとしました。

彼らはこう言いました。

良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。(33)

彼らはイエス様の言葉を誤解しませんでした。

そのためイエス様は続けて、旧約聖書を引用されました。その詩篇では、神様は不正な裁判官たちを「神」と呼ばれました。なぜなら、彼らが人々を裁くとき、神様の立場に立っていたからです。

だから、イエス様はこう言われました。「もし、裁判官の立場のために神様が彼らを『神』と呼ばれたのなら、神の独り子として、私は『神』と呼ばれるのにふさわしいでしょう。」

動物でも人間でも、親子はいつも同じ本質を持っています。だから、もしイエス様が神の子であるなら、イエス様は誰でしょうか。

そして、イエス様はご自身の人生について語られました。イエス様は常に神様の働きに参加し、いろいろな奇跡を行われました。ユダヤ人たちはそれを知っていました。それを見ました。それでもなお、彼らはイエス様を拒絶しました。なぜでしょうか。

私にはわかりません。

もしかしたら、イエス様の教えと行動が彼らの期待と違っていたからかもしれません。それでも、彼らは自分たちの考え方を変えることなく、イエス様に背を向けました。

現代でも、多くの人々は同じことをします。彼らはイエス様に出会うのに、イエス様は彼らの期待するものと違います。

もしかしたら、イエス様が彼らの罪を示したため、彼らは気分を害するのかもしれません。そして、彼らは自分の罪にしがみつきたいという理由でイエス様を拒絶するのです。

あなたはどうでしょうか。「神様を見るなら、私は信じる」と言いますか。おそらく、見ても信じないでしょう。もし信じる意志がないのなら、何を見ても信じることはないでしょう。

そのことを認め、自分自身を欺くのをやめましょう。

しかし、それよりも大切なことは、心をイエス様の前に柔らかくすることです。そうすれば、あなたは本当の命を見つけることができるのです。

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ルカの福音書 ルカ13章

人々を解放するのに

根付いた伝統や考え方を捨てるのは容易ではありません。

ユダヤ人の指導者たちは、イエス様の教えと力によって、安息日に人を癒すことが悪いことではないと理解できたはずです。何度も彼らはイエス様と議論しようとしましたが、イエス様の答えに何度も言葉を失いました。

しかし、この箇所を読んだとき、ある言葉が私の心に深く響きました。それは、イエス様のミニストリーの目的を示しています。

その言葉は「解放」です。

イエス様はある女性を見たとき、こう言われました。

あなたの病気はいやされました(ルカの福音書13:12)

新改訳では「あなたは癒された」と翻訳されていますが、原文ではイエス様は「あなたは病気から解放された」、または「あなたは病気から自由にされた」と言われました。(12)

そして、イエス様が御自身の行動について会堂管理者に説明されたとき、こう言われました。

この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。

安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。(16)

私たちはこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。宗教的なルールを守ることよりも、イエス様は人々を解放することを望まれます。

サタンが18年間、その女性を縛っていたために、彼女の人生は本当にみじめでした。

その18年の間、その会堂管理者は彼女に対してほとんど情けを示さなかったようです。もし彼が本当に彼女を愛していたなら、彼女が癒されることを喜んだはずです。

ところが、逆に彼はイエス様が規則を破ったとして責めてしまいました。

その反面、イエス様は彼女を見た瞬間、彼女に深く共感されました。イエス様はサタンがどのように彼女を長年苦しめたかを見て、彼女を解放しようと思われたのです。そして、イエス様は彼女を癒されました。

あなたはどうでしょうか。ルールを守ることに集中しすぎて、周囲の束縛されている人々に目を向けることができていないのではないでしょうか。

束縛されている人々を見ても、心を動かされないでしょうか。神様の愛と力によって、彼らに触れ、解放へ導こうとは思いませんか。

そうしなければ、あなたはその会堂管理者のようです。そして、その会堂管理者のように、いつかイエス様の前に立ち、恥じ入ることになるでしょう。

日々、私たちが愛をもって、彼らに触れ、解放へ導くことができますように。

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ルカの福音書 ルカ13章

実のならないいちじくの木のたとえ話:自分の心を見抜くこと

イエス様が皆に、裁きの日が来る前に神様との和解を求めるよう警告された直後のことです。おそらく群衆の一人は、少し前に起こった事件を思い出したのでしょう。

どうやら、ガリラヤ人たちがいけにえをささげていたとき、ローマの総督ピラトが彼らを殺すよう命じたようです。そして、その兵士たちはガリラヤ人たちの血を、ささげられた動物の血と混ぜました。

その話をイエス様に伝えた人は、こう考えたのかもしれません。

「イエス様、あなたが話しているのはこういう人々のことですか?彼らは非常に罪深かったに違いありません。なぜなら、神様が彼らをこのように裁かれたからです。」

けれども、イエス様はこう答えられました。

そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカの福音書13:2-3)

そして、イエス様は別の災難について語られました。

また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(4-5)

イエス様は何を伝えようとされたのでしょうか。

災害が発生したとき、なぜ神様はそのようなことが起こることを許されたのか、と議論されることがよくあります。

しかし結局、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。

「私たちは皆、いつか必ず死ぬ。私は事故で亡くなるかもしれない。誰かに殺されるかもしれない。高齢になり、自然に亡くなるかもしれない。

いつ亡くなるかは誰にもわからない。時間がまだたくさんあると思うかもしれないが、明日突然亡くなるかもしれない。そのとき、私は死ぬ準備ができていると言えるだろうか。」

ルカ12章のイエス様のたとえ話では、金持ちは準備ができていませんでした。

ピラトに殺された人々も、準備していなかったかもしれません。

シロアムの塔の事故で亡くなった人々も、準備していなかったかもしれません。彼らにとっては、すでに手遅れでした。

あなたはどうでしょうか。自分の死の準備をしているでしょうか。

イエス様はさらに別のたとえ話を語られました。その話の中で、ある人がいちじくの木を植えました。けれども、3年が経っても、その木は実を結びませんでした。そこで彼は、その木を切り倒そうと思いました。

しかし、番人はこう言いました。

ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。

木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。(8-9)

この話から、私たちは二つのことを学ぶことができます。それは、神様の裁きと憐れみです。

神様は私たちに実を結ぶことを求められます。つまり、救いの実を求められます。なぜなら、イエス様は御自身の血によって、その救いを買い取られたからです。

神様は、実を結ばない木をすぐに切り倒すこともできます。けれども、忍耐強く、その人の心の中で救いのために働かれます。

それでも、最終的には裁きの日が訪れます。もしあなたが準備していないなら、つまり、救いの実を結ばないなら、あなたは永遠に滅びの道へと進むことになります。

だから、「どうしてこの残虐な犯罪が起こったのか」「どうしてこの災害が発生したのか」と心配するよりも、いつ自分が亡くなるかわからないという現実を覚えていてください。

そして、自分自身にこう問いかけましょう。「私は裁きの日のために準備ができているだろうか。」

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ルカの福音書 ルカ12章

神様との和解

福音書に記されたイエス様の教えは、とても興味深いものです。なぜなら、以前述べたように、イエス様は同じたとえや教えを繰り返されることがあるものの、異なる適用を示されるからです。

山上の垂訓において、イエス様は私たちに、できるだけ早く相手と和解しなければならないと教えられました。そうしなければ、彼らがあなたを裁判官のもとへ連れて行き、あなたは裁かれることになります。そして、裁判官があなたを裁いた後では、もはや手遅れです。(マタイ5:26-27)

この個所では、イエス様は同じたとえを用いられますが、人々との和解について語っているのではありません。むしろ、神様との和解について語られています。

まず、イエス様は群衆を責められました。なぜなら、彼らは空の現象を通じて天気を予測できたにもかかわらず、神様からの明らかなしるしを見極めることができなかったからです。そのしるしとは、イエス様御自身です。

イエス様はすでに来られていたにもかかわらず、彼らはメシアとして認めようとしませんでした。それに加えて、彼らはイエス様の教えに反対し、結果として神様に反抗していたため、裁かれる危険がありました。

だから、イエス様は彼らに警告を与えられたのです。

あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。

裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。

あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。(ルカの福音書12:58-59)

要するに、神様との和解を求めなさい。そうしなければ、あなたは必ず裁かれることになります、ということです。

あなたはどうでしょうか。神様との平和を持っていますか。その答えは一つしかありません。それは、イエス様との関係です。

イエス様は十字架上で、私たちの罪の罰を身代わりとして受けてくださいました。もし、イエス様とその御業を信じるなら、私たちは神様と和解できるのです。

だからこそ、パウロはこう言いましました。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント5:20-21)

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ルカの福音書 ルカ12章

福音の炎

炎は時に恐ろしいものです。特に森林火災は危険であり、一瞬にして広がり、大規模な被害を引き起こします。それでも、その一方で、炎は森林にとって良い影響をもたらすこともあります。

炎は地面に積もった落ち葉や折れた枝を燃やし、その結果、土壌が日光を受けて活性化し、栄養が供給されます。

また、下生えが焼かれることで、周囲の木々は土壌の栄養をより多く吸収できるようになり、さらに強く成長します。

それに加え、炎は木々に害を及ぼす虫を駆除する働きもあります。

要するに、炎は森林を清め、新たな命をもたらすことができるのです。

そして、イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。(ルカの福音書12:49)

その火とは何でしょうか。聖書学者たちの間にはさまざまな意見がありますが、私はその火が福音であると考えます。

では、イエス様はどのようにしてその火をともされたのでしょうか。

そして、イエス様はこう言われました。

しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(50)

この話において、「バプテスマ」という言葉は、イエス様の死を指しています。別の場面で、イエス様はヤコブとヨハネにこの「バプテスマ」について語られました。(マルコ10:38)

イエス様が十字架で死なれ、よみがえられた後、福音の火がともされました。そして森林火災のように、その火は広がり、人々の魂を清め、永遠の命をもたらしました。彼らの罪は赦され、神様との関係は回復されたのです。

とはいえ、火は時に痛みの原因ともなります。だから、イエス様は弟子たちにもう一度警告を与えられました。

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。

今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。(51-53)

魂を清める炎に触れることは痛みを伴います。そのため、多くの人はその痛みを経験したくないと考えます。

福音を聞いたとき、彼らの良心はその火によって軽いやけどを負い、ためらいを覚えます。その火による清めを望まないがゆえに、彼らはその火から逃げてしまうのです。

または、その火をもたらす人と争い、時には自分の家族とさえ対立することもあります。

この個所では、イエス様はこのことについて語られています。

けれども、私たちが福音のために家族や友人から拒絶され、苦しむとき、イエス様が十字架の上でさらに大きな苦しみを経験されたことを思い起こしてください。

だから、へブル人への手紙の著者はこう記しています。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:3)

だからこそ、福音の炎を携えましょう。そうすれば、その火が周りの人々に触れ、彼らを清め、新しい命をもたらします。

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ルカの福音書 ルカ12章

イエス様の再臨に向けて準備できている?

イエス様は、偽善や貪欲、この世のものを慕うことに関して警告された後、もう一つの重要なことについて弟子たちに訓戒を与えられました。それは、イエス様の再臨に備えて、彼らがしっかりと準備をしておく必要があるということです。

そして、イエス様はこう言われました。

腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。(ルカの福音書12:35-37)

つまり、イエス様の再臨が訪れても、私たちは驚くべきではありません。私たちは常にイエス様を待ち望んでいるはずです。そのため、イエス様が来られたとき、私たちはすぐにその声に応えるべきです。

とはいえ、私は準備ができていないことが多いと認めなければなりません。なぜなら、ときにこの世のものに心を奪われてしまうことがあるからです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告を与えられるのです。

ところが、もし、そのしもべが、「主人の帰りはまだだ」と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。

そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。(45-46)

私たちは「イエス様はいつでも戻られるかもしれない」とよく言いますが、その言葉を本当に信じているでしょうか。

私たちは「イエス様は今日戻られない」と明言することはないかもしれません。けれども、私たちがどれほどイエス様が決して再臨されないかのように生きているでしょうか。

だから、私たちは兄弟姉妹を傷つけたり、悪口を言ったりするのでしょうか。または、この世のものに心を奪われ、のめりこんでしまうのでしょうか。そのように生きるなら、私たちは裁かれるのです。

そして、イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(47-48)

要するに、あなたが知識を持てば持つほど、その責任も大きくなります。

とはいえ、「私は知らなかった」と言ったとしても、それは言い訳にはなりません。あなたは知るべきだったのです。神様の御心を積極的に求めるべきでした。そうしなければ、あなたは罰せられるのです。

これは非常に厳しい警告ですが、イエス様は希望に満ちた言葉も語られました。

では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。

主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。(42-44)

もし私たちが忠実に神様に仕えるなら、イエス様の再臨の際に報いを受けることができます。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたにさまざまな責任を委ねられましたが、その務めを誠実に果たしているでしょうか。あなたは忠実に仕えているでしょうか。

イエス様の再臨に向けて準備できているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ12章

人生の意義

この人生の意義とは何でしょうか。

多くの人々はその答えを知らず、迷い続けています。彼らは、お金や財産の中に人生の意義を見いだせると信じ、それらを追い求めます。

だからこそ、この話の中で、その男性はイエス様に家族の遺産を公平に分けるよう願ったのです。

けれども、イエス様は彼にこう言われました。

いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない。(ルカの福音書12:15)

そして、イエス様は周囲の人々にこう言われました。

だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。

いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。(22-23)

どうしてイエス様はこのことを言われたのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、食べ物や服、お金で買えるものよりも、私たちの命がはるかに大切だからです。これらのものは一時的なものであり、瞬く間に存在し、瞬く間に消えてしまいます。

この世のものを手に入れることで、一時的に心や体が満たされるかもしれません。しかし、最終的にはもっと多くを求めるようになり、決して満足することはありません。むしろ、ますます飢え渇くようになります。

二つ目は、神様が私たちを深く愛しておられるからです。神様は私たちの必要をすべてご存知であり、もし私たちが神様を最優先に求めるなら、神様はその必要を満たしてくださいます。

それならば、私たちは他のものを優先するべきではないでしょうか。

では、私たちは何を最優先にするべきでしょうか。それは、神様の国です。

神様の国とは何でしょうか。それは「人々」です。イエス様は彼らのために命を捧げられました。神様は彼らとの関係を強く望んでおられます。だから、私たちは彼らを優先するべきです。

もし誰かが助けを必要としているなら、可能な限りその必要を満たすように努めましょう。お金を愛するのではなく、人々を愛し、惜しみなく与えましょう。なぜなら、神様は惜しみなく私たちに多くのものを与えてくださったからです。

私たちがこのように与えるなら、「自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げるのです。」(ルカ12:33)

とはいえ、彼らの物質的な必要を満たすだけではなく、彼らの霊的な必要にも目を向け、イエス様の愛によって彼らに触れるべきです。

神様は私たちに素晴らしい国を与えてくださいました。私たちの罪を赦すために、神様はイエス様を送ってくださいました。そして、神様は私たちを養子として迎えてくださいました。

だから、一時的なものに心を奪われたり、時間を浪費したりしないようにしましょう。むしろ、永遠に価値のあるものを追い求めましょう。

私たちを愛してくださる神様を求め、その愛をもって周りの人々に触れましょう。そうすれば、彼らも神様を知るようになるでしょう。

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ルカの福音書 ルカ12章

愚かな金持ちのたとえ話:私たちの時間が来るとき

私たちの命は非常にもろいものです。一瞬で、それが奪われることもあります。交通事故や地震などの災害が起これば、私たちは突然亡くなるかもしれません。

その日、私たちが神様の御前に立ったとき、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

今日の箇所では、一人の男性がイエス様に、家族の遺産を分けるよう求めました。どうやら、彼の兄が遺産を公平に分けていなかったようです。

ところが、おそらくイエス様の目には、さらに大きな問題があったのでしょう。つまり、その男性はお金に心を奪われすぎていたのです。

彼の父親は裕福であり、彼は長い間、その遺産を受け取ることを夢見ていたのかもしれません。けれども、父親が亡くなったとき、彼は期待していたほどの遺産を受け取ることができず、その夢は崩れ去りました。

そこで、彼はイエス様に助けを求めました。

しかし、イエス様はその願いをきっぱりと断られました。

いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。(ルカの福音書12:14)

簡単に言えば、「絶対にだめだ」ということです。

そして、イエス様は彼に警告を与えられました。

それ以前、イエス様は弟子たちに偽善について警告されましたが、その男性の願いを聞いた後、イエス様は彼と弟子たちに対して貪欲について警告されました。

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(15)

イエス様は、その男性と弟子たちに何を伝えたかったのでしょうか。

それは、私たちの人生において、この世のものが最も大切なものではないということです。快適な生活や豪華なライフスタイルは、本質的にはそれほど重要ではありません。

そして、イエス様はたとえ話をされました。その話の中に、一人の金持ちが登場します。彼は多くの財産を持ち、贅沢な暮らしをしていました。

そして、ある年、彼の畑は豊作となりました。彼はどのようにしようかと考えました。

彼は貧しい人々に食べ物を分け与えることもできましたし、財産を使って多くの人を助けることもできました。けれども、彼はそうせず、自分自身のことだけを考えました。そして、彼はこう言いました。

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(18-19)

多くの人々はそのような夢を抱いています。彼らは早く引退し、自分のためだけに生きたいと願っています。

「安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

ところが、神様はその人にこう言われました。

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(20)

そして、イエス様はこのたとえ話を次のように締めくくられました。

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(21)

では、私の元の質問に戻りましょう。もし私たちがこの世を去り、神様の御前に立つとき、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

神様はこう言われるでしょうか。 「愚か者よ。あなたは人生の中で無駄なものを追い求め、自分の人生を無意味なものにしてしまった。」

それとも、神様はこう言われるでしょうか。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたに多くのものを任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ。」(マタイ25:23 )

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ルカの福音書 ルカ12章

隠れクリスチャン

私が子供の頃、「Undercover Christian」(隠れクリスチャン)というスキットを聞いたことがあります。そのスキットでは、あるクリスチャンがレポーターにインタビューされたとき、こう言いました。

「私の信仰は個人的なものですので、周りの人々には話しません。」

しかし、イエス様は「隠れクリスチャン」に対して、別の呼び方をされます。それは「偽善者」または「役者」です。

(実は、「偽善者」という言葉の元の意味は「役者」ということでした。)

その人はクリスチャンの世界で歩むとき、クリスチャンのように話し、ふるまいます。けれども、教会を出ると、まるでイエス様を知らないかのようにふるまいます。

そして、この箇所で、イエス様は「最終的にあなたの秘密は明らかになる」と警告されました。

私は、実際にそのようなクリスチャンの話を聞いたことがあります。彼はイエス様を自分の主として受け入れましたが、両親の反応を恐れていました。そのため、仏壇で祈り続け、線香をあげ続けました。そして彼はこう言いました。

「私は両親に愛を示したいから。」

ところが、結局その秘密は明らかになりました。その時、彼の父親は激怒しました。

「お前はクリスチャンなのに、仏教の儀式をし続けていたのか?お前は一体どんなクリスチャンなのか?」

彼は「両親に対する愛を示したい」と言っていましたが、最終的には自分の証を損なってしまいました。

イエス様はこう言われました。

だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。

しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカの福音書12:8-9)

では、私たちは、人の前で「イエス様を知らない」と言ったことがあるなら、救いを失ってしまったのでしょうか。

必ずしもそうとは限りません。ペテロも弱さの中で、「イエス様を知らない」と三度言いました。

私自身も、中学生のとき、そして高校生のときに、自分の信仰を友達から隠していました。友達に「あなたはクリスチャンですか」と聞かれても、私はその質問に対して曖昧に答えていました。

しかし、もし私たちが一貫して人の前で「イエス様を知らない」と言い続けるなら、自分がクリスチャンであることを公にすることはできません。

もしあなたがクリスチャンであるなら、そのことを明確に伝えなければなりません。

洗礼式には一つの重要な目的があります。それは、「私はクリスチャンである」ということを宣言することです。あなたは世界に向かって、自分の主を公に表します。

もしあなたが洗礼を受けることを拒むなら、あなたは本当にクリスチャンであると言えるでしょうか。

私たちは隠れクリスチャンにならないようにしましょう。私たちのために死んでくださり、よみがえられたイエス様を大胆に宣言しましょう。

私たちの信仰を拒む人もいるでしょう。けれども、私たちが見つけた喜びを見出す人もいるでしょう。

あなたはどうしますか。

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ルカの福音書 ルカ12章

恐れなさい。恐れるな。

この箇所でのイエス様の言葉は、私の心に深く響きます。

「恐れてはいけません。」

そして、「恐れなさい。」

イエス様はこう言われました。

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカの福音書12:4-5)

要するに、「人ではなく、神様を恐れなさい。」ということです。

人々はあなたの身体を殺すことができるかもしれません。しかし、神様はあなたを地獄に投げ込む権威を持っておられます。一瞬のうちに身体は死ぬかもしれませんが、霊的な死は永遠に続くのです。

では、私たちは恐れながら生きるべきなのでしょうか。

神様はじっと私たちを見つめ、私たちの失敗を待っておられるのでしょうか。そして、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちを稲妻で打たれるのでしょうか。神様は人々を地獄に投げ込むことを喜んでおられるのでしょうか。

決してそうではありません。

イエス様はこのことも語られました。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。

それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(6-7)

私たちが神様の御性質を考えるとき、二つのことを覚えていなければなりません。それは、神様の聖さと神様の愛です。その二つの概念のバランスを保つことが重要です。

多くの人々は神様の愛に焦点を当てる一方で、神様の聖さを忘れがちです。

けれども、聖書において、人々が神様の栄光を目の当たりにすると、まず神様の聖さに気づきます。そして、神様の聖さを見たとき、自分の汚れを認識するのです。

その結果として生じるものは何でしょうか。

それは、恐れです。

なぜなら、彼らは神様の裁きを受けるに値することを理解し、自分が死ぬべき存在であると悟るからです。

ところが、その後、彼らは神様の愛を知ります。聖書には何度も、神様の最初の言葉として「恐れるな」と記されています。

この箇所においても、イエス様は私たちに同じことを教えられました。

まず、イエス様は「神様を恐れなければならない」と言われました。なぜなら、神様は聖なる方だからです。神様の聖さゆえに、罪は必ず裁かれなければなりません。

もしこの世に生きている間に、あなたが神様のもとに行かず、罪の赦しを得なければ、その罪は地獄で裁かれることになります。

しかし、それは神様の望みではありません。神様は私たちを深く愛しておられ、私たちの最善を願っておられます。

神様の目には、私たちは取るに足りない存在ではありません。それどころか、神様は私たちの名前を知り、私たちの人生の細部に至るまでご存知なのです。

神様は、あなたの罪を背負うためにイエス様をこの世に送られました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。もしあなただけが罪を犯していたとしても、神様はイエス様を送られたことでしょう。

私たちがこのことを実感するとき、私たちの最初の恐れは、神様への圧倒的な愛へと変えられます。

私たちはもはや神様を恐れる必要はなく、また、その他の何かを恐れる必要もありません。もし私たちが神様に信頼するなら、この世で何が起ころうとも、私たちには天国における確かな希望があるのです。

だからこそ、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。

それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。

恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)

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ルカの福音書 ルカ12章

偽善

時々、イエス様は一つのたとえを用いて、さまざまな教訓を示されました。この箇所では、その一例を見て取ることができます。

以前、イエス様が弟子たちを宣教の旅へ遣わされたとき、こう言われました。

おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。(マタイ10:26)

つまり、イエス様は弟子たちに多くのことを教えられましたが、他の人々はまだその教えを聞いていなかったのです。けれども、弟子たちが福音を伝えるとき、彼らはイエス様のすべての教えを人々に伝えなければなりませんでした。

また、イエス様が彼らにささやかれたことを、彼らは屋上で大胆に宣べ伝えなければなりませんでした。(マタイ10:27)

この箇所では、イエス様はほぼ同じたとえを用いながらも、全く異なる教訓を示されました。イエス様は弟子たちにこう言われました。

パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。(ルカの福音書12:1)

そして、イエス様はこう言われました。

「あなたは心の中で様々なものを隠しているかもしれません。けれども、結局それらは明らかになります。あなたが暗闇で語ったことは、光の中で聞かれます。また、あなたがささやいた秘密は屋根の上から宣べ伝えられるのです。」

要するに、あなたは良いクリスチャンのふりをすることができるかもしれません。しかし、もしあなたが偽善者であり、行動が言葉と矛盾しているなら、あなたの偽善は最終的に明るみに出ます。

この世では隠せるかもしれませんが、天国では隠すことはできません。

だからこそ、私たちは偽善者にならないように気をつけなければなりません。私たちは神様と人々の前で正直な人生を歩みましょう。

そうしなければ、私たちに関する真実は、いつか必ず明らかになるのです。

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ルカの福音書 ルカ11章

私たちの行動は私たちの言葉に反対するとき

律法学者たちとパリサイ人たちは、旧約聖書の預言者たちを称賛していました。彼らは預言者たちのために墓を建て、こう言いました。

「この預言者たちは本当に偉大だった。もし私たちが先祖だったなら、決して彼らを迫害しなかっただろう。」

ところが、もう一人の預言者が現れました。いや、ただの預言者ではなく、神様が約束された、長く待ち望まれていたメシアがついに来たのです。

それでも、パリサイ人たちと律法学者たちはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様とその弟子たちを殺そうとさえしました。

その行動は彼らの心を示していました。もし彼らが本当に預言者たちを信じ、尊敬していたなら、イエス様をも信じ、尊敬したはずです。しかし、彼らはイエス様に激しく反対しました。

そして、彼らがイエス様に反対したとき、知識の鍵を奪い去りました。彼らは自分たちが神の国に受け入れられると思っていましたが、イエス様は彼らが拒絶されると語られました。

さらに深刻なのは、彼らがイエス様を拒絶したことで、他のユダヤ人たちも天国に入ることができなかったことです。なぜなら、ユダヤ人たちはパリサイ人たちと律法学者たちが真理を知っていると考え、彼らの模範に従ったからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様に従うと主張していますか。あなたの行動は、あなたの言葉を証明していますか。

それとも、あなたの行動は、あなたがキリストを軽んじていることを証明しているでしょうか。いや、むしろ、あなたの行動はあなたがキリストを拒絶していることを証明しているでしょうか。

正しいことを言うだけでは足りません。あなたの行動は、言葉と一致しなければなりません。

あなたの心には、何が入っていますか。

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ルカの福音書 ルカ11章

律法主義という問題

イエス様はパリサイ人たちを批判された後、律法学者たちにも言及されました。

イエス様はこう言われました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(ルカの福音書11:46)

この箇所では、私たちは律法主義がなぜそんなに悪いのかを学びます。

第一の理由は、律法主義が人々に耐えられないほどの重荷を負わせ、その重荷を取り除く希望が全くないことです。つまり、律法学者たちは神様の律法に多くの余計な規則を加えたのです。

例えば、律法では安息日に仕事をすることが禁じられていましたが、律法学者たちは「仕事」の定義を極めて細かく設定していました。

例えば、安息日に女性はアクセサリーを付けてはいけませんでした。なぜなら、もし彼女たちがアクセサリーを外そうとすると、それを手に持たなければならず、それが「重荷」とみなされるため、安息日の律法を破ることになってしまいます。

また、安息日に歩く距離にも制限がありました。もし 2.5キロメートル 以上歩いてしまうと、安息日の律法に違反することになってしまいます。

このような余計な規則は何百もありました。そして、これらの規則を破ると、律法学者たちから責められることになりました。

律法学者の規則は今では存在しませんが、今日のクリスチャンたちはどれほど他のクリスチャンに余計な規則を押し付けているでしょうか。聖書には記されていないにもかかわらず、それを守るべきだと考えるのです。

例えば、「酔ってはならない」という戒めではなく、「一切お酒を飲んではならない」と言います。

または、「映画を見てはならない。」

または、「踊ってはならない。」

こうした規則は、もう一つの問題につながります。それは、人を裁く態度です。

つまり、「あなたはその規則を守らないから、良いクリスチャンではない。」という考え方です。

さらに、「私は規則を守っている」と思うことで、プライドを感じます。

しかし、たとえ規則を守ったとしても、パリサイ人のように公義と神への愛と憐れみを忘れてしまいます。彼らは自分を正しい人間だと思いますが、神様の目にはパリサイ人や律法学者たちと変わりません。

けれども、律法主義の最も恐ろしい問題は、律法が正しいことと悪いことを教える一方で、正しいことを行う力を与えないことです。むしろ、人が失敗すると、律法は彼らを裁くばかりです。そのため、人々は何度も失敗し、やがて絶望してしまうのです。

イエス様の時代、多くの人々がそのように感じていました。彼らは律法学者の規則を守ろうとしましたが、できませんでした。

そして、彼らが律法学者に「どうすればよいでしょうか」と尋ねると、「もっと努力しなさい」と言われました。

つまり、律法学者たちは彼らを決して助けようとはしなかったのです。

たとえあなたが余計な規則を捨て、モーセの律法だけを守ろうとしても、その律法にはあなたを救う力はありません。最終的に、あなたはパウロのようにこう叫ぶでしょう。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

しかし、イエス様の時代の人々とは異なり、パウロは希望を持っていました。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

律法主義はあなたを救うことができません。律法はあなたを救うことができません。

でもイエス様は、十字架の働きを通して、あなたを救うことができます。イエス様は十字架で私の罰を受けたから。だから、パウロはこう言いました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(8:1)

だから、律法主義を捨てましょう。プライドと絶望も捨てましょう。むしろ、イエス様とその十字架に向かいましょう。

そうすれば、私たちは赦され、神様を喜ばせる力を受けるのです。

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ルカの福音書 ルカ11章

心にあるもの

この箇所では、イエス様はパリサイ人を厳しく批判されます。なぜなら、彼らの心は汚れていたからです。

パリサイ人の外見はとても清く見えました。彼らは律法を細かく守っていました。しかし、実際には彼らは偽善者でした。

例えば、彼らの心は貪欲に満ちていました。彼らは十一献金をささげましたが、貧しい人を見ても助けずに通り過ぎました。彼らは、人よりもお金を愛していたからです。

また、彼らは神様の愛と知恵を持たずに、周囲の人々をすぐに裁いていました。そのため、イエス様が安息日に人々を癒された時、彼らはイエス様だけでなく、癒された人々さえも批判しました。(ヨハネ 9章)

彼らは預言者ミカの言葉を完全に忘れていました。

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。

全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。

私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:6-8)

だから、イエス様は彼らを批判されました。

さらに、イエス様は彼らのプライドも指摘されました。彼らがリーダーになろうとした理由は、人々に仕えることではなく、尊敬されるためだったのです。

そのため、イエス様はこう言われました。

おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。(ルカの福音書11:44)

どうしてイエス様はそう言われたのでしょうか。神様の律法によれば、墓は不潔なものとされていました。その墓に触れると、儀式的に不潔になってしまいます。

つまり、イエス様が意味されたことは、「あなたたちは汚れており、あなたと関わる人も汚れてしまう。それに、彼らはあなたを聖いと思っているため、あなたに触れたとき、自分が汚れたことにまったく気づかない。」ということです。

厳しい言葉ですね。

しかし、真理は時に厳しいものです。そして、パリサイ人はその真理を理解しなければなりませんでした。

彼らは周囲の人々を欺いたかもしれませんが、神様を欺くことはできませんでした。悔い改めなければ、彼らは裁かれるでしょう。残念なことに、多くのパリサイ人たちは決して悔い改めませんでした。

あなたはどうでしょうか。外見は清くても、心は汚れていませんか。

宗教的な行いだけでは不十分です。ただ教会に行くだけでは十分ではありません。十一献金をささげることも十分ではありません。

もし心の中にプライドや貪欲があるなら、その行動は意味を成しません。もし愛がなければ、あなたの良い行動は無意味なのです。

あなたには、神様への愛が必要です。そして、周りの人々への愛も必要です。

神様はあなたの心を見抜かれます。神様は、ご自身の御心に適う者を探されています。

あなたの心には何が入っていますか。

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ルカの福音書 ルカ10章

イエス様が望まれること

私はこの話が大好きです。なぜなら、この教えはとても重要なのに、忘れてしまいやすいからです。

マルタはイエス様を自分の家に招きましたが、イエス様が来られても、マルタはイエス様とほとんど時間を過ごすことができませんでした。どうしてでしょうか。それは皮肉なことに、彼女がイエス様に仕えようとしていたからです。

一方で、マルタの妹マリヤは何も手伝わず、イエス様の足元に座ってその言葉に聞き入っていました。その姿を見て、マルタは非常に苛立ちを感じました。

何分、あるいは何時間が経ったのか分かりませんが、ついにイエス様が教え続けている最中に、マルタは我慢できずに口を挟み、大きな声で言いました。

主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。(ルカの福音書10:40)

多分、皆がそれを聞いた時、場には気まずい沈黙が漂ったでしょう。

もしかすると、マリヤは頭を垂れて顔を赤らめたかもしれません。また、多分ほかのお客さんたちは、最初にマルタを見て、次にマリヤを見て、最後にはイエス様に視線を向けて、その反応を待ったことでしょう。

ある人は、イエス様がマリヤを叱責すると思ったかもしれません。なぜなら、彼女はマルタを手伝うべきだったからです。それに、当時の文化では、女性がイエス様のような先生から学ぶことはあり得ないと思われていました。

(とはいえ、イエス様はそのようなことを度々許されました。)

もしかすると、別の人は、イエス様がマルタを叱責するのではないかと思ったでしょう。なぜなら、その時代、女性が偉大な先生が話している間に口を挟むのは不適切とされていたからです。

でも、イエス様はおそらく愛と慈しみを持って、マルタにこう言われました。

マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。

マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。(41-42)

「肝心なことは一つだけです。」という表現はとても興味深いです。その一つのことが必要だったのは誰でしょうか。イエス様でしょうか、それともマルタでしょうか。

おそらくイエス様とマルタの両方に、そのことが必要だったのだと思います。

マルタにはイエス様との時間が必要でした。少しの休憩が必要でした。イエス様の言葉を聞く時間が必要でした。そして何より、イエス様がどれほど自分を愛しているかを知る必要がありました。

一方で、マリヤはその「一つのこと」を選び、イエス様はその選びを喜んでマリヤに与えられました。

その反面、イエス様にはマルタが準備していた料理は必要ありませんでした。ぴかぴかな家も必要ではありませんでした。

実際のところ、イエス様にはマルタとの時間さえ必要ではありませんでした。それでも、イエス様はどんなことよりもマルタとの時間を望んでおられました。

マルタはイエス様に仕えようと忙しくし過ぎてしまい、イエス様と全く時間を過ごせませんでした。多分挨拶をした後は、イエス様とほとんど話さなかったでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの心の戸をイエス様に開いているでしょうか。それとも、イエス様があなたの心の居間にいるまま、忙しくして別のことをしているのでしょうか。

もしかすると、毎日あなたはイエス様と時間を過ごしているでしょうか。イエス様から学び、イエス様と話しているでしょうか。

何よりも、イエス様はそう望んでおられます。イエス様はあなたと親しい関係を持つために十字架で命を捧げられました。

「My Heart, Christ’s Home」(私の心、イエス様の住まい)という短編フィクションの本があります。その本の中で、イエス様はある人にこう言われました。

「あなたの問題はこうです。あなたは、聖書を読む時間、また私に祈る時間を自分の霊的な成長の修行として考えました。でも、私はこの時間をとても大切にしています。

私があなたのことを愛していることを忘れないでください。私は高い代価を払って、あなたを贖いました。あなたとの時間を私の宝と見なしています。だから、どうか私のためにこの時間を忘れないでください。

あなたは私との時間がどうでもいいと思うかもしれませんが、私はあなたとの時間を切に望んでいます。」

イエス様の望みを心に留めましょう。

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ルカの福音書 ルカ10章

知識をもって、行動する?

この箇所を読む時、もう一つの考えが心に浮かびました。

この話の中には、神様の言葉をよく知っている三人が登場します。

もちろん、律法の専門家は実在した人物ですが、残りの二人(祭司とレビ人)はフィクションの登場人物です。とはいえ、そのフィクションの登場人物にも、律法の専門家と同じ問題がありました。

この三人は神様の律法を熟知しており、もしイエス様が律法に関する質問をしたなら、彼らは即座に答えることができたでしょう。

しかし、彼らの心の中で、その律法の意味を本当に理解していたわけではありませんでした。そのため、たとえ話の中で、祭司とレビ人は怪我をした人を助けることがありませんでした。

彼らは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神を愛すること」と「隣人を愛すること」の本質を理解していなかったのです。むしろ、自分の愛の欠如に対して言い訳をしていたのです。

律法の専門家も同様でした。律法を読んで自分の弱さを見た時、彼は「イエス様、どうすればよいでしょうか。私は神様の基準を満たすことができません」とは言いませんでした。

代わりに、彼は自分の正しさを証明しようとしました。イエス様は彼の心の状態を示そうとされましたが、律法の専門家は律法の意味を議論したいと考えていました。

その結果、彼はイエス様にこう尋ねました。「では、私の隣人とは、誰のことですか。」

だから、イエス様はたとえ話を通して律法の専門家に自分の質問に答えさせました。そしてイエス様はこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」

そのあと、律法の専門家はどうしたのでしょうか。私たちにはわかりません。

おそらくルカは、私たち自身が自分の心を探ることを望んだのだと思います。私たちはイエス様の言葉を聞いて、どう応答するでしょうか。

聖書の知識を持つだけでは足りません。聖書の言葉を引用するだけでも足りません。その言葉に従い、その言葉を心に受け入れて、私たちの内面を変えていく必要があります。

もう一つのことを考えましょう。

このたとえ話では、サマリヤ人は祭司とレビ人の行動を目撃したでしょうか。もし目撃していたとしたら、彼らを見てどう感じたでしょうか。

周囲の人々は私たちを見る時、何を見るでしょうか。彼らはこう言うかもしれません。

「どうしてこの人は愛にこんなに満ち溢れているのだろう。どうしてこの人はこんなにも憐れみ深いのだろう。私もそのようになりたい。」

あるいは、彼らはこう言うかもしれません。「これがクリスチャンですか?私の方がずっと良い人間だと思いますけど。」

私たちは知識だけを持つことのないようにしましょう。むしろ、神様の言葉を心に受け入れ、その言葉に従いましょう。

日曜日に教会に行って宗教的な活動をするだけではなく、憐れみ深く、恵み深い人生を送りましょう。

そうすれば、私たちを見る時、周りの人々はイエス様を見ることができ、イエス様についてもっと知りたいと思うようになります。

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ルカの福音書 ルカ10章

行動と真実をもって愛するか

この話を読むたびに、ヨハネの言葉が心に浮かびます。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(第一ヨハネ3:18)

このたとえ話を通して、私たちはその深い意味を見いだすことができると思います。このサマリヤ人はどのようにして行動と誠実さをもって愛を示したのでしょうか。

まず一つ目に、彼は自分の文化における偏見を捨てました。

おそらくユダヤ人たちはこの話を聞いた時、非常に驚いたことでしょう。なぜなら、ユダヤ人の泥棒が旅行者を襲い、ユダヤ人の祭司とレビ人(神殿で働く人)がその人を助けなかったからです。

そしてその後、サマリヤ人が登場します。サマリヤ人たちは混血の人々であり(ユダヤ人と異邦人)、本当の神様への礼拝と偽物の神々への礼拝を混ぜたため、ユダヤ人たちから軽蔑されていました。その結果、サマリヤ人たちもユダヤ人を憎んでいたのです。

しかし、この物語の中で、サマリヤ人は怪我をしたユダヤ人を見た時にその人を憐れみました。

しかも、そのサマリヤ人は憐れむだけでなく、具体的な助けを提供しました。もちろん、怪我をした人を憐れむことは良いことですが、助けなければそれは意味を持ちません。

では、そのサマリヤ人は何をしたのでしょうか?

彼はユダヤ人に近寄りました。(34a)

彼はその人の痛みを和らげました。(34b)

彼はその人を宿屋に連れて行き、介抱しました。(34c)

さらに、このサマリヤ人は自分のお金を使ってその人の世話をしました。(35)

そして、イエス様が律法の専門家に言われたように、イエス様は私たちにもこう言われます。

「あなたも行って同じようにしなさい。周りの人々を見て、彼らが必要としているなら、その人を助けなさい。」

とはいえ、言い訳をするのはとても簡単です。

「私は忙しすぎる。」 「助けたいけれど、何もできない。」 「もっと大切なことをしなくてはならない。」

おそらく、祭司とレビ人もそのように考えたのでしょう。もしかしたら、彼らはその人がすでに死んでいると思い、その遺体に触れることで儀式的に不潔になることを恐れたのかもしれません。

(神様の律法では、儀式的に不潔な人は神殿に入ることが許されていませんでした。)

そのため、彼らは自分の義務をその人に対する愛よりも優先させました。

また、彼らはこう思ったかもしれません。「私は医者ではない。これは私の責任ではない。何もできない。」

どのように考えたとしても、彼らは神様の言葉を忘れてしまいました。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。(ホセア書6:6)

あなたはどうでしょうか。周りの人々のニーズを見る時、その人を無視するでしょうか。もしかすると、祈るだけで実際に助けることはしないでしょうか。それとも、ただ言い訳をしてしまうでしょうか。

憐れみ深い心を持って生きましょう。なぜなら、神様はそのような心を望んでおられるからです。言葉や口先だけで愛するのではなく、行動と真実をもって愛を示しましょう。

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ルカの福音書 ルカ10章

祈りなさい。行きなさい。

この箇所では、イエス様は12人の弟子たちだけでなく、さらに72人を派遣されました。そして彼らに以前と同じ指示を与えられました。

2~3節は私の心に深く響きます。

イエス様は以前言われた言葉を繰り返されました。

実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(ルカの福音書10:2)

要するに、多くの人々の心は福音を受け入れる準備が整っています。もし私たちが彼らに福音を伝えるなら、彼らはすぐにそのメッセージを受け入れるでしょう。

だからこそ、イエス様はこう言われます。「働き手のために祈りなさい。神様が彼らを送るように祈りなさい。」

けれども、それだけでは終わりません。イエス様は命じられます。「行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わす。。。」(3節)

イエス様は今でも私たちに同じことを言われます。

もちろん、イエス様は私たちが働き手のために祈ることを望んでおられます。

とはいえ、イエス様はあなた自身をも遣わそうと望んでおられるのです。イエス様は、あなたがその召しを聞き、周りの人々に触れていくことを望んでおられます。

時として、私たちは拒絶されることを恐れることがあります。しかし、イエス様は私たちにこう言われます

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。(16)

要するに、人々があなたを拒絶しても、実際には彼らはイエス様を拒絶しているのです。ですから、失望しないでください。なぜなら、必ず福音を受け入れ、救われる人がいるからです。

このようにして、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。

あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。

また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。(23-24)

長い間、モーセやダビデ、ダニエルなどは、神様の御国が力をもって到来することを願ってきました。けれども、キリストが来られたことにより、私たちはその御国が人々の人生に訪れるのを目の当たりにすることができます。

それでも、私たちが行動しなければ、その力を見ることはできません。しかし、私たちが行動すると、神様の御国が訪れ、力をもって人々の人生を変える様子を目の当たりにすることができます。

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ヨハネの福音書 ヨハネ10章

良い羊飼い

この箇所では、私たちとイエス様との関係の素晴らしい描写を見ることができます。イエス様は羊飼いと羊の描写を用いられています。

門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。

すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(3-4)

イエス様の言葉から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

簡単に言えば、イエス様は私たちと本当に個人的な関係を持っておられます。

私は高校で働いており、授業には40人の生徒がいて、多くの場合、一週間に一度しか教えません。そのため、すべての生徒の名前を覚えるのはとても難しく、多くの先生たちが座席表を使います。

けれども、羊を見分けることを想像してください。多くの人々にとって、それは不可能に近いでしょう。すべての羊は大体同じように見えるからです。でも、羊飼いは一匹一匹の名前を知っています。

この世には何億人もの人々がいます。それにもかかわらず、イエス様が私の名前をご存知であることを想像するのは難しいかもしれません。

しかし、それだけではありません。イエス様は毎日私を導き、世話してくださいます。イエス様は私の先に行き、私を守ってくださいます。さらに、イエス様は私のためにご自身の命を捨ててくださいました。

イエス様はこう言われました。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10:11)

羊飼いと羊の価値を比べてみてください。羊飼いの価値は断然高いです。

そして、宇宙を造られた神とあなた自身の価値を比べてみてください。どう思いますか。

それでも、イエス様はあなたを愛されたので、天国を離れて人間となり、あなたの罪のために十字架の上で苦しみ、死なれました。

それが信じられないと思うかもしれませんが、それは本当の話です。それは私たちへのイエス様の愛です。

イエス様、あなたが私の羊飼いであることを感謝します。この世には何億人もの人々がいるのに、あなたは私の名前をご存知です。

たとえ私だけが罪を犯していたとしても、あなたは私のために十字架で死んでくださったでしょう。あなたの愛は本当に驚くべきものです。

私がその愛を心から実感できるように助けてください。そして、私を通して、あなたの愛が流れ、周りの人々に触れるようにしてください。彼らもあなたを知り、あなたの羊となるように。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ10章

多くの人々はクリスチャンたちにこう尋ねます。「どうしてあなたは、神様への道が一つしかないと信じるのですか。」

簡単に言えば、それはイエス様がそう主張されたからです。

イエス様はこう教えられました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。(ヨハネの福音書10:1)

多くの人々は、どうすれば天国に行けるか教えようとします。

パリサイ人たちは、神様の律法を正確に守らなくてはならないこと、そしてユダヤ人の先祖のルールと伝統を堅く守らなくてはならないと教えました。

現代でも、多くの人々は自分の努力によって天国に入ろうとします。

しかし、イエス様によれば、天国の門を通らずに、ほかの方法で入ろうとする者は強盗です。

自分の努力によって、彼ら自身が天国に入ることはなく、彼らの教えに従うなら、あなたの魂を盗むことになります。つまり、あなたは裁かれ、地獄に行くのです。

イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。(10a)

この箇所では、イエス様はサタンについて語られています。けれども、多くの場合、サタンは人々を用いて私たちを永遠の破壊に導きます。

その人たちは、必ずしも意図的にあなたの魂を滅ぼそうとしているわけではないかもしれません。実際、多くの場合、彼らの意図は善良であるように見えることさえあります。

けれども、彼らはサタンに騙されているので、もし私たちが彼らに従うなら、私たちも同じ落とし穴に落ちてしまいます。

では、天国に至る門とは何なのでしょうか。イエス様はこう言われました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(9)

この描写は本当に興味深いです。

羊飼いが羊を少し遠い場所へ連れて行くとき、羊たちが休むために、一時的な羊小屋に入れました。その羊小屋には一つの入り口しかなかったため、羊飼いは寝るときにその入り口で横になりました。彼自身が門となったのです。

イエス様が言われたのは、もしあなたが天国に入りたいなら、また祝福された人生を望むなら、イエス様に従わなければならないということです。イエス様以外のことを教える者たちは、あなたを破壊へと導きます。

イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(10:10)

あなたは豊かな人生を望んでいますか。一つの道しかありません。一つの門しかありません。あなたはその門を通る決心をしますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

もう学ぶ必要がないを思うと

この箇所では、強烈な皮肉があります。

生まれつき盲目の人はイエス様をキリストとして認識したため、イエス様を拝みました。

一方で、ずっと見える目を持つ人たちは、イエス様を見ても、イエス様がキリストであることを認めませんでした。

さらに、彼らはイエス様の奇跡を目にしましたし、イエス様と論じようとするたびにいつも負けました。それでも彼らはイエス様を信じませんでした。

どうして彼らは真理を見ることができなかったのでしょうか。それは、彼らが自分はすでに真理を知っていると思っていたからです。

彼らは律法と預言者の書をよく知っており、若い頃からその知識を誇っていました。そのため、イエス様が来て彼らの誤った考え方を暴露したとき、彼らはその考えを手放すことができませんでした。自分が間違っていると認めることができなかったのです。

イエス様はこう言われました。

わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。(ヨハネの福音書9:39)

イエス様が意味されたことは何だったのでしょうか。イエス様に会うと、人々は分かれ目に立つことになります。もし彼らがへりくだり、イエス様を受け入れるなら、彼らの霊的な目が開かれ、救いを得るでしょう。

しかし、もし彼らが自分のプライドを手放さず、すでに真理を知っていると思うなら、イエス様に関する真理を見ることはできません。それは、彼らがその真理に目をつぶってしまうからです。

パリサイ人たちがしたのはまさにそれでした。彼らはイエス様にこう尋ねました。

私たちも盲目なのですか。(40)

現代でも、多くの人々はこう尋ねます。「私が盲目だって?私にはいい学歴がある。私には、いろんな経験がある。私はもうこの世のことを知っている。」

けれども、イエス様はこう答えられます。

もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。(41)

要するに、イエス様は彼らにこう言われていたのです。

「はい、あなたは盲目です。もし、あなたが謙遜で、助けを求め、自分の目が見えないと認めるなら、神様はあなたの罪を赦してくださるでしょう。

けれども、もしあなたがすでに真理を知っていると思い、あなたのプライドのために私の真理を拒絶するなら、あなたの罪は残るのです。」

あなたはどうですか。もう学ぶ必要がないと思いますか。それとも、あなたはへりくだり、イエス様の真理を受け入れますか。イエス様自身が真理であることを信じますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

救い

イエス様が生まれつき盲目の人を癒されたとき、ユダヤ人たちは驚きました。

しかし、この話を通して、私たちはもう一つのことを見ることができます。それは、美しい救いの描写です。

この話では、その人は生まれてからずっと目が不自由でした。同じように、私たちも生まれてから霊的に盲目であり、霊的に死んでいました。

そして、イエス様は私たちを見つけてくださいました。この話では、盲目の人はイエス様を求めていませんでした。むしろ、イエス様はその人を見つけ、触れてくださいました。

同じように、私たちが神様を求めていなかったのに、神様は私たちを見つけて、触れてくださいました。

さらに、イエス様はその人にこう言われました。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」

そのように、神様は霊的なバプテスマを通して私たちの罪を清めてくださいました。そして、私たちの洗礼式を通じて、私たちは周りの人々に神様が私たちのために何をしてくださったかを宣言します。

その人の目が癒されたのは、本当に劇的な変化でした。そのため、周りの人々は彼のことをほとんど認識できませんでした。彼らはこう言いました。

これはすわって物ごいをしていた人ではないか。(ヨハネの福音書9:8)

ある人は、「これはその人だ」と言いました。けれども、ほかの人は、「そうじゃない。ただその人に似ているだけだ」と言いました。(9)

しかし、その人は言い張りました。「私がその人です。」

時々、私たちがクリスチャンになると、周りの人々がユダヤ人たちのように反応します。私たちが劇的な変化を経験するので、周りの人々は私たちを見て驚きます。「あなたは全然違う人みたいです。どうして。」

その時、私たちには、彼らに神様が私たちのために何をしてくださったかを伝える機会があります。

また、時間が経つにつれて、私たちはイエス様のことをもっと深く理解するようになります。この話では、癒された人にとっていろんな段階がありました。

「彼はイエスという方です。」

さらに、「あの方は預言者です。」

そして、最後に、「あなたは人の子(つまり、メシア、王、救い主)です。」

私たちは自分のあかしを言うかもしれませんし、相手が私たちの変化を否定できないかもしれません。それでも、彼らはキリストだけではなく、私たちをも拒絶する可能性があります。

この話では、癒された人も同じ経験をしました。パリサイ人たちは、その人にイエス様が罪人であることを説得しようとしました。けれども、その人が彼らの主張を否定すると、彼らはその人を拒絶しました。

それでも、その人の信仰は揺らぎませんでした。イエス様がもう一度彼を見つけたとき、その人はひれ伏してイエス様を拝みました。なぜなら、彼は新しい命を受けていたからです。

私たちもその人のように反応しましょう。

神様が私たちのためにしてくださったことに感謝し、大胆に周りの人々に私たちのあかしを伝えましょう。反対されても、勇気を持って恐れに屈することのないように。そして、毎日私たちの救い主を求め、礼拝しましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ9章

どうして私にそんなことが起こったのだろうか

時々、私たちに悪いことが起こると、私たちは「どうして?神様は私を罰しているのだろうか」と尋ねます。

実際、時々私たちの罪のために、神様は私たちが苦しむことを許されます。とはいえ、多くの場合、神様は積極的に私たちを罰しておられるのではありません。むしろ、私たちは自分の罪の自然の結果を受けるのです。

あなたがクリスチャンであり、神様があなたを赦してくださったかもしれませんが、この世において、罪の結果を避けられるとは限りません。多くの場合、私たちの罪のゆえに悪いことが起こります。

そして、神様がその罪の結果から私たちを守られないなら、私たちは神様を責めることができません。なぜなら、その苦しみによって、私たちは罪の悪さを理解できるようになるからです。

それは、私たちが聖くなる過程の一部です。その火を通して、神様は私たちを清めてくださいます。

とはいえ、私たちが罪を犯さなくても、私たちに悪いことが起こる場合もあります。

今日の箇所では、イエス様とその弟子たちは、生まれつき盲目の人を見ました。そして、弟子たちはイエス様にこう尋ねました。

先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。(ヨハネの福音書9:2)

その時代、多くの人々はこう考えていました。「あなたの体が不自由なら、それはあなたのせいです。神様があなたの罪のために罰しているのです。」

けれども、その人は生まれつき盲目でした。だから、弟子たちは混乱しました。「この人はご両親の罪のために盲目になったのでしょうか。それとも、もしかしたら子宮の中で、この人自身がなにか罪を犯したのでしょうか。」

すると、イエス様はこう答えられました。

この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(3)

イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。時々、私たちの苦しみは私たちの罪のためではありません。むしろ、神様は私たちを通して素晴らしいことをしようと思われるのです。

アメリカでは、ジョニー・エリクソン・タダという人がいます。彼女は十代の時にダイビング事故で四肢麻痺になりました。たくさんの人々が彼女のために祈りましたが、神様は彼女を癒されませんでした。

けれども、彼女を通して神様は多くの人々に触れられました。その事故が起こらなかったなら、ジョニーはそんな影響力を持つことはなかったでしょう。

神様は彼女を罰しておられませんでした。むしろ、彼女を通して神様のわざが現れたのです。

イエス様はこう言われました。

わたしが世にいる間、わたしは世の光です。(5)

イエス様は天国に戻られましたが、神様の栄光を現すために私たちの人生を照らしてくださいます。そして、私たちを通してイエス様は輝き、周りの人々に触れてくださいます。

だから、あなたが苦しんでいるなら、自己憐憫に浸らないでください。むしろ、このように祈りましょう。「神様、私を照らしてください。また私を通して、輝いてください。」

そうすれば、あなたの人生に神様の栄光が輝くでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

あなたは誰の子でしょうか。

この箇所では、ユダヤ人たちとイエス様は痛烈な会話をしました。その会話では、一番大切な質問は、「あなたが誰の子でしょうか」ということでした。

イエス様がこの世に生きている間、ユダヤ人たちはイエス様の父親を疑ったでしょう。

多分、彼らは「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。」と言ったとき、「でも、イエスは不品行によって生まれた人だ」と内心、思っていたでしょう。

なぜなら、マリヤとヨセフが結婚する前に、マリヤが妊娠したからです。もちろん、周りの人々は聖霊の力によってマリヤが妊娠したことを信じませんでした。だから、イエス様の実のお父さんに関して、いろんな噂がありました。

しかし、元の質問に戻りましょう。あなたは誰の子でしょうか。

イエス様は、本当の神の子の特質について教えました。つまり、彼らはアブラハムのようにふるまうことです。(ヨハネの福音書8:39)

アブラハムはどのようにふるまったでしょうか。

1.アブラハムは、神様を完全に信じました。(創世記15:6)

2.アブラハムは信仰のゆえに行動しました。だから、彼は自分の地元を去り、神様が約束した土地に行きました。

それに加え、神様が「イサクをいけにえとしてささげなさい」と命じられたとき、アブラハムはその命令に従おうと思いました。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様はアブラハムを止められました。)

3.アブラハムは神様の言葉を受け入れました。神様が話されたとき、アブラハムは聞きました。神様の子は真理の子です。

つまり、彼らは真理を愛して持ち続ける者です。たとえ真理が自分にとって痛くても、彼らは自分の耳を閉じません。むしろ、彼らはその真理を聞き従うことで成長します。(8:44-47)

4.神様の子の最後の特質は、イエス様を愛しているので、イエス様に従うことです。(42)

イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。だから、私たちがイエス様を愛することは当然のことです。

しかし、この話では、ユダヤ人たちはその特質を持っていませんでした。だから、彼らの本当の父親が誰であるかがわかります。

あなたはどうですか。あなたは誰の子でしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

人々を開放する真理

時々、人々は「キリスト教のルール」を見て、束縛されるように感じます。だから、彼らはこう思います。「私がそのルールに従うなら、私は人生を楽しめない。」

しかし、イエス様の言葉は私たちを束縛するためのものではなく、私たちを解放するためです。だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8:31-32)

それを聞いて、多くの現代の人たちはそのユダヤ人たちのように反応します。

私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、「あなたがたは自由になる」と言われるのですか。(33)

現代では、多くの人々はこう言います。「私は日本人です。(または、アメリカ人などです)。私は奴隷じゃない。私は好きなように生きられます。「あなたが自由になる」って、どういう意味でしょうか。」

けれども、イエス様は私たちにこう言われます。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。

しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(34-36)

多くの人々は、自分の良心から解放されて、罪を好きなだけ犯せば、それは本当の自由だと思います。

ところが、事実は、最初は彼らが罪を犯すことを選んでも、最終的に彼らは罪の奴隷になることです。彼らはもうその罪を犯したくなくても、自分自身を止められません。ポルノの中毒とか、ギャンブル中毒とか、アルコール中毒とか、いろんな例があります。

それだけではなく、多くの人々は苦々しい思いの奴隷です。

または、彼らは自分の悪い習慣の奴隷のゆえに、自分の結婚や人間関係を壊しますが、その習慣を捨てられません。

しかし、私たちがイエス様に従うと、イエス様は私たちを解放してくださいます。

私たちは自分の人生を滅ぼすものに鎖で縛られていましたが、イエス様はその鎖を壊して、より優れた道を示してくださいます。それだけではなく、その道を歩む力を与えてくださいます。

イエス様は「しなさい」だけを言われません。むしろ、イエス様はこう言われます。「私の手を取ってください。一歩一歩、一緒に進みましょう。」

そして、私たちは少しずつ変わりつつあり、気がつけば、私たちは完全に解放されていました。

あなたはどうですか。もうあきらめてこう言っているでしょうか。「もう無理です。私はこの罪をやめられない。その罪が私の人間関係や私の人生を壊しているのに、やめられない。」

イエス様はあなたを解放できます。ただし、あなたはイエス様の助けを求めなくてはいけません。

「イエス様、あなたが私を愛して、私の最善を望んでおられることを信じます。だから、私はあなたの道を行きたいです。助けてください。」

そうすれば、あなたの人間関係やあなたの人生は癒されます。そして、あなたは本当の自由を知ります。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

光と命を与える方

この世では、多くの人々が道に迷っています。つまり、彼らは良い人生や良い結婚、良い仕事、そして何にも増して喜びと平和を求めていますが、なぜかそれらを見つけられません。

アダムとエバがエデンから追い出されて以来、人々はそのように生きてきました。

そして、イエス様は来て、こう宣言されました。

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)

要するに、「良い人生を求めているでしょうか。喜びと平和に満ちている人生を求めているでしょうか。どうやってそんな人生を得ることか分からないので、あなたは暗中模索しているでしょうか。

私のところに来なさい。私はあなたに光を与えます。あなたはもう暗闇に躓きません。むしろあなたは、本当の命を見つけます。」

けれども、パリサイ人たちや律法学者のように、多くの人々はイエス様の資格を疑います。イエス様はどなたでしょうか。どうしてイエス様がそんなことを言う権利を持っているのでしょうか。

もしイエス様がただの人間なら、そんな権利を持っていないでしょう。なぜなら、人間の知識には限界があるからです。

しかし、イエス様は人間であるばかりではありません。イエス様は神です。

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。(ヨハネ8:56)

ユダヤ人たちは、それを聞いて驚きました。そして、彼らはこう答えました。

あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。(57)

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。(58)

イエス様が意味したものは何ですか。イエス様はユダヤ人に出エジプト記3章を示されました。神様がご自身をモーセに現した時、モーセは神様の名前を尋ねました。神様はこう答えられました。

わたしは、「わたしはある」という者である。。。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と。(出エジプト記3:14)

つまり、神様は永遠の方であることです。過去でも、今でも、未来でも、神様は変わりません。そして、神様以外に、ほかの神がおられません。

新改訳では、イエス様が何をしたか見えませんけど、原文では(また英語の翻訳では)私たちがはっきり見えるのは、イエス様が神様の名前を自分自身に当てはめたことです。イエス様は「私は永遠の神です」と言われました。

ユダヤ人たちはそれを聞いて、イエス様の言葉がよくわかりました。だから、彼らは石を取ってイエス様に投げつけようとしました。なぜなら、彼らはイエス様の主張を信じなかったから。そして、ただの人間が「私は神だ」と言うなら、それは死に値する罪でした。

あなたはどうですか。イエス様が誰だと思うでしょうか。イエス様はただの人間だったでしょうか。預言者だったでしょうか。もしかすると、素晴らしい先生だったでしょうか。

もしそうなら、あなたはイエス様の言葉をあっさりと拒絶することができます。

けれども、イエス様が本当に神様なら、あなたはイエス様の言葉を重視しなくてはなりません。なぜなら、もしあなたの人生に光を見つけたいなら、イエス様だけを通して、あなたはその光を見つけることができるからです。

さらに、イエス様を拒絶するなら、あなたは死だけを知ります。あなたの体も死ぬし、あなたは永遠に神様から離れます。その暗闇で、あなたには苦しみと悲しみだけが残ります。

イエス様はこう言われました。

もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(ヨハネ8:24)

あなたはイエス様が神であることを信じているでしょうか。それだけではなく、あなたはイエス様に従っているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ8章

わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい。

私はこの話が大好きです。

イエス様は宮で教えておられます。多くの人々がイエス様を取り囲み、その教えに耳を傾けています。けれども、突然、パリサイ人たちと律法学者たちがイエス様のもとにやって来ました。

彼らは一人の女性を連れてきて、イエス様の足元に彼女を押し付けます。おそらく彼女は泣きながら、その目には恐怖が溢れていたことでしょう。

すると、一人のパリサイ人がこう言いました。

先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。(ヨハネの福音書8:4-5)

しかし、イエス様が彼らの目を見たとき、その心を見抜かれました。彼らは、その女性の罪に驚き、どうすればよいかわからなくて困っていたわけではありませんでした。

むしろ、彼らはイエス様に何か言わせて、罠に陥れようと考えていたのです。

例えば、イエス様が「彼女に石を投げなさい」と言えば、彼らはその言葉をローマ人たちに伝えていたでしょう。なぜなら、ローマ帝国の律法では、死刑を執行できるのはローマ政府だけだったからです。

また、イエス様が「罪人の友達」として知られていたにもかかわらず、そのような言葉を発したなら、罪人たちはイエス様を遠ざけたかもしれません。

一方で、イエス様が「その女性を逃せ」と言えば、パリサイ人たちは「イエス様はモーセの律法に反対している」と非難できたでしょう。その結果、人々はイエス様の言葉を信じなくなった可能性があります。

いずれにせよ、イエス様は彼らに直接答えず、指で地面に何かを書き始められました。つまり、イエス様は彼らを無視されたのです。

当然、彼らは腹を立て、イエス様に向かって叫びました。「おい、私たちを無視するな。答えろ。この女性は重大な罪を犯したのだ。どうすればいいか答えろ。」

ついに、イエス様は立ち上がり、彼らにこうおっしゃいました。「それなら、彼女に石を投げなさい。」

おそらく、これを聞いて彼らは微笑み始めたかもしれません。しかし、イエス様は続けてこう言われました。

あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(7)

そして、イエス様はもう一度地面に書き始めました。何を書いたのでしょうか。

私はわかりませんが、時々「書く」という言葉には、「人の罪を書き留める」というニュアンスがあります。だから、もしかしたらイエス様は彼らの名前と罪を書き留められたかもしれません。

もし、誰かが皆の前であなたの名前と隠した罪を書き留めたら、あなたはどうしますか。おそらく、パリサイ人たちや律法学者たちのように、あなたは逃げるでしょう。

結局、その女性だけがイエス様の前に残りました。そしてイエス様は彼女にこう訊ねられました。

婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。(10)

彼女が目を上げると、誰もいませんでした。彼女は驚いて、こう答えました。

{主よ。}だれもいません。(11)

おそらく、イエス様は微笑まれました。そして、イエス様はこう言われました。

わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(11b)

時々、私たちは鏡をのぞくと、こう思います。「どうして神様は私のことを愛しているだろうか。どうして私を受け入れるだろうか。」

なぜなら、私たちは自分の罪を目にし、私たちの人生はめちゃくちゃだからです。

けれども、イエス様は私たちにこう言われます。「わたしはあなたを罪に定めない。」

それだけではなく、イエス様はこう言われます。

「あなたの後悔に浸るな。いつも振り返るのをやめなさい。あなたはもう赦されたから。

そして、あなたの人生を壊した罪を捨てなさい。行きなさい。私はあなたの人生のすべてを新しくします。私の死によって、あなたには新しい人生があります。その新しい人生を送りなさい。」

あなたの後悔で思い詰めているでしょうか。あなたに対する神様の愛と赦しを疑うでしょうか。この言葉を覚えていてください。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

救いの水

仮庵の祭りの最後の日に、多分、イエス様は祭司たちがシロアムの池からの水を祭壇に注いだ事を見たでしょう。周りの人々もそれを見て、こう歌いました。

あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。(イザヤ12:3)

でも多分、そのすぐ後、彼らはほかの声を聞いたでしょう。イエス様はこう叫びました。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37-38)

それはさすがイエス様でした。ユダヤ人たちはずっとその祭りをお祝いして、祭司たちはずっと水を祭壇に注いだけど、イエス様は彼らにその儀式の本当の意味を説明しました。

その前、人々がその儀式を見た時、彼らはエジプトからの救いを思い出しました。また、彼らは、その先祖が砂漠を渡ったとき、神様が岩から水を二回備えてくださったことを思い出しました。

だから、その儀式を通して、彼らは救いの喜びを思い出しました。その救いは、自分の努力によるものではなく、神様の備えによるものでした。

でも、彼らは一つのことを見逃していました。その岩を通して、神様は彼らにイエス様のことを描写しました。

パウロはこう書いた。

(イスラエル人の)みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。(第一コリント10-3-4)

だから、イエス様はユダヤ人たちにこう語られました。

「あなたたちは砂漠を歩いていたイスラエル人のように渇いているでしょうか。霊的な砂漠の中にいるのでしょうか。神様を慕いながらも、どうしても神様を見つけることができないのでしょうか。

それなら、私のもとに来なさい。私を信じなさい。(ヨハネ6:35を覚えているでしょう)。そうすれば、あなたの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。」

では、イエス様が意味されたものは何だったのでしょうか。ヨハネがその意味を説明してくれます。

これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(39)

つまり、私たちがイエス様のもとに来て信じるなら、御霊である神は私たちとともに住み、私たちのうちにおられるのです。(ヨハネ14:17)

そのため、私たちの霊的な渇きは満たされます。また、私たちの人生から御霊が流れ出し、周りの人々に触れるのです。だからこそ、毎日私たちが救いの泉から水を汲むことで、私たち自身が祝福されると同時に、周りの人々も祝福されます。

クリスチャンたちは、そのように生きるべきです。毎日、私たちは御霊から力を受けて、次第にキリストと同じかたちに姿を変えられていきます。(第二コリント3:18)

また、私たちは周りの人々に神様の救いを延べ伝えます。そして、その中で喜びを知るのです。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

聖書を正しく解約する?

前回の記事で、私たちはイエス様がユダヤ人たちに、外見によって裁くことをしないように警告されたことを見ました。

一つ目の理由は、多くのユダヤ人たちが、イエス様があまり教育を受けていないと思い、イエス様の教えを拒絶したことです。

けれども、ユダヤ人たちにはもう一つの問題がありました。それは彼らの聖書の解釈が間違っていたことです。彼らは、安息日に人々を癒すことが罪であると思っていました。なぜなら、彼らは癒すことを仕事だと考えたからです。

しかし、彼らが注意深く聖書を読んでいたなら、安息日に善を行うことが常に正しいと気づいたでしょう。(マタイ12:12)

時には、クリスチャンたちも同じような過ちを犯します。彼らは聖書を読んでいますが、その解釈が間違っていることがあります。なぜそうなるのでしょうか。

時には、その箇所の前後を見逃してしまうことがあります。また、聖書全体のメッセージを理解していない場合もあるかもしれません。

例えば、ヨハネ6章で、イエス様はこう言われました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(ヨハネ6:53)

その前後を読まないと、それはかなりグロテスクな言葉に聞こえます。けれども、その前後を読むと、私たちはイエス様の意味が分かります。イエス様はたとえを使っておられました。

つまり、もし私たちがイエス様のもとに来て、イエス様を信じるなら、私たちは永遠の命を得るということです。(その箇所についてもっと知りたいなら、ここをクリックしてください。)

私が大学生の時、友達が別の箇所を誤って解釈したことがありました。マタイ26章では、(マルタの妹)マリヤがイエス様の頭にとても高価な香油を注ぎ、イエス様の足に塗りました。すると、弟子たちはマリヤを批判し、こう言いました。

何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。(マタイ26:8-9)

でも、イエス様はこう言われました。

貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。(マタイ26:11)

私の友達がその言葉を読んだとき、こう言いました。「イエス様は本当に偉そうな態度を取っていたね。彼は自分が貧しい者よりも偉いと思っていたから。」

しかし、友達は二つのことを見逃していました。

一つ目は、ヨハネの福音書によれば、最初にマリヤを批判したのはユダであるということです。実際には、ユダは貧しい者を愛していませんでした。むしろ、彼は貧しい者のための寄付されたお金をしばしば盗んでいました。(ヨハネ12:6)

二つ目は、イエス様が申命記から引用されていたということです。

貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。

「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」(申命記15:11)

だから、イエス様の要点は、貧しい者が重要ではないというわけではありませんでした。イエス様が言われたのはこういうことです。

「貧しい者はいつもあなたたちと一緒にいるのだから、これまで通り助け続けるべきです。とはいえ、私に対する愛を示す機会はすぐになくなります。マリヤはその機会を活用しました。だから、彼女を批判してはいけません。」

そのため、イエス様は偉そうな態度を取られたのではありません。イエス様はマリヤを偽善者による批判から守られたのです。

しかし、聖書の前後を読まなければ、私たちはイエス様の言葉を誤解してしまうかもしれません。

そのため、聖書を読むときは注意を払いましょう。聖書の箇所を読むときは、その前後をしっかりと読みましょう。また、自分が好きな箇所だけを読むのではなく、聖書全体を読むことが大切です。

そうすれば、正確に聖書を解釈することができるようになります。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

人々を正しく裁く?

この箇所では、イエス様は人々を裁くことについて話されています。イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(ヨハネの福音書7:24)

どうしてイエス様は彼らにそう言われたのでしょうか。二つの理由がありました。

今日、まず一つ目の理由を見ていきたいと思います。

一つ目の理由は、ユダヤ人たちがイエス様についてこう言ったことです。

この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。(7:15)

要するに、「彼はただの大工です。彼はれっきとした学者ではありません。どうして私たちは彼の言葉に耳を傾けるべきでしょうか。」ということです。

そのため、彼らはイエス様の権威を拒絶し、イエス様の言葉を受け入れることをしませんでした。

私たちも、相手の外見や教育や背景によって、牧師や聖書を教える人を裁いてしまうことは簡単にできます。

その人が特別に賢く見えず、ごく普通の人であり、正式な聖書の教育を受けたことがないかもしれません。それでも、私たちが心を開いてよく聞けば、神様はそのような人々を通しても私たちに語ってくださることができます。

それだけではありません。私はただ牧師について話しているのではありません。もし御霊がその人の中に宿っているのであれば、神様は小さい子供を通してさえ語ってくださることができます。

けれども、私たちはしばしば相手の見かけで裁いてしまい、その結果、神様の言葉を聞き逃してしまうことがあります。

反対に、カリスマ性があり、話すのが上手な人もいます。しかし、もし私たちがその人の教えに従うなら、間違った道へ導かれてしまうこともあります。

ですから、外見だけで(良い場合も悪い場合も)人々を裁かないようにしましょう。むしろ、彼らが語る内容に注意深く耳を傾け、その人生に御霊の働きがあるかどうかを見極めましょう。

時には、神様が用いられる人々を見て、私たちは驚かされることがあります。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

私たちは誰に仕えているでしょうか

この箇所を読んだとき、この言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私は神様のみ言葉を教えているからです。

わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(ヨハネの福音書7:16-18)

この箇所を読むと、私は自分自身にこう問いかけます。「私の教えはどこから来るのだろうか。私自身から来るのだろうか。それとも、神様から来るのだろうか。

私が日曜日にメッセージを伝えるとき、それは私の栄光のためだろうか。私は教会の人々を感動させたいと思っているのだろうか。それとも、人々が神様に栄光を帰すよう願っているのだろうか。」

私たちクリスチャンは真理を伝える者であるべきです。そして、私たちには偽りがあってはなりません。牧師や聖書を教える者だけでなく、すべてのクリスチャンが真理を伝える者であるべきです。

しかし、真理を語る者になりたいなら、私たちは誰に仕えるのか決める必要があります。また、誰の栄光を求めるのか決める必要があります。

私たちは自分自身の栄光を求めているのでしょうか。それとも、神様の栄光を求めているのでしょうか。私たちは本当に神様に仕えているのでしょうか。それとも、口先で神様の名前を讃えているだけで、実際には自分自身に仕えているのでしょうか。

もし私たちが自分自身の栄光を求めているなら、または周囲の人々からの誉れを求めているなら、神様の福音を薄めてしまう誘惑に直面することになります。そして、もしかすると福音をまったく伝えない選択をしてしまうかもしれません。

あるいは、私たちはパリサイ人のようになってしまうかもしれません。表面上は神様に仕えているふりをしながら、実際には人々からの栄光を求めているのです。

あなたは誰に仕えていますか。あなたは誰の栄光を求めていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

イエス様は誰でしょうか

以前、イエス様は弟子たちに「私が誰だと思うか」と問いかけられました。(マタイ16:13)

この箇所では、ほかのユダヤ人たちがエルサレムで同じ質問に直面しました。

いろいろな意見がありました。

「イエス様は良い人だ。」

「イエス様は預言者だ。」

「違う。イエス様は群衆を惑わしている。彼は悪霊につかれている。」

「いや、メシアじゃないでしょうか。」

どうしてユダヤ人たちはそんなに混乱していたのでしょうか。

一つの理由は、彼らが「メシア」、つまり「キリスト」がどんな方であるかを誤解していたからです。

彼らはキリストが奇跡的に現れると思っていました。けれども、彼らはイエス様の家族を知っていると思い込んでいました。(ただし、その話の全てを理解していたわけではありません)。

それに、イエス様は律法学者のように特別な教育を受けていませんでした。

もう一つの理由は、イエス様が律法学者の伝統を何度も破ったことです。例えば、安息日にイエス様は人々を癒しました。

イエス様は安息日に良いことをするのは合法であると教えましたが、彼らは自分たちの伝統を手放すことができませんでした。彼らは自分たちが律法をよく知っていると思い込んでいたため、その大工の意見を受け入れることができなかったのです。

三つ目の理由は、ユダヤ人のリーダーたちが律法をよく知っていると思っていたものの、実際には多くのことを見逃していたからです。そのため、ニコデモがイエス様を擁護しようとした際、彼らはこう答えました。

あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。(ヨハネの福音書7:52)

けれども、イザヤ書9章には、キリストがガリラヤで現れることが書かれています。

とはいえ、イエス様は最も大切な理由を伝えられます。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(17)

つまり、あなたが心から神様を求めるなら、神様を見つけることができます。そして、イエス様を見るなら、イエス様がキリストであることを理解します。けれども、心から神様を求めなければ、その真理を理解することはできません。

パリサイ人たちは宗教的な熱心を持っていましたが、同時にプライドを持ち、偽善者でした。彼らは神様を求めているように見えましたが、実際には人間の喝采を求めていました。そのため、彼らはイエス様を見ても、イエス様を認めませんでした。

その一方、神様を求める人々は真理を見ることができました。なぜなら、彼らは神様の前にへりくだったからです。

あなたはどうでしょうか。あなたはまだイエス様が誰なのか疑問に思っていますか。自分のプライドを捨ててください。神様に関するあなた自身の意見を捨ててください。

お金よりも、自分の幸せよりも、すべてよりも、神様を求めてください。そうすれば、あなたの混乱がなくなり、神様はご自身をあなたに現わしてくださいます。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章 ルカの福音書 ルカ9章

裁きの時間。憐れみの時間。

前回の記事でも書きましたが、私たちが真理を伝えると、私たちを憎む人もいます。

とはいえ、真理を伝えると同時に、私たちの態度と言葉遣いに注意しなくてはなりません。

この箇所では、その理由をはっきり見ることができます。

仮庵祭りのため、イエス様の兄弟たちは先にエルサレムへ向かいましたが、イエス様はしばらくとどまられました。どのくらい待たれたのかは分かりませんが、結局イエス様もエルサレムへ向かわれました。

この時から、イエス様のミニストリーのほとんどはユダヤとエルサレムで行われました。そして、十字架で死なれるまで、あと6っか月ほどの時間しか残されていませんでした。

けれでも、エルサレムへ向かう前に、イエス様は再びサマリヤを通ることを選ばれました。イエス様は以前に一度サマリヤを訪れ、そのとき多くのサマリヤ人がイエス様を受け入れ、信じました。(ヨハネ4章)

ところが、今回は、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。その理由は、イエス様がエルサレムへ向かっていたからです。

サマリヤ人とユダヤ人の間にはまだ深い敵意が残っていました。サマリヤ人たちはユダヤ人の祭りで歓迎されることがなかったため、イエス様がその祭りへ向かうと知ると、彼らはイエス様を拒絶したのです。

イエス様の弟子たちは、このサマリヤ人たちの反応を見て激怒しました。サマリヤ人たちはイエス様から何も受けるに値しないのにもかかわらず、イエス様は彼らを訪ねようとされました。それにもかかわらず、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶したのです。

他の町に住むサマリヤ人たちがイエス様を受け入れたことで、弟子たちは彼らに対して寛容な態度を取るようになりました。

けれども、この町の人々がイエス様を拒絶したとき、ヤコブとヨハネはイエス様にこう申し出ました。

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカの福音書9:54)

おそらく、彼らはエリヤの話を思い浮かべていたのでしょう。エリヤが軽蔑されたとき、天から火を呼び下し、その人々を滅ぼしたという出来事です。(列王記第二1章)

しかし、イエス様は彼らを叱責されました。

なぜでしょうか。おそらく、裁きの時はまだ来ていなかったからです。イエス様は人々を救うために来られました。(ヨハネ3:17)

私たちは、イエス様の心を持つべきです。もちろん、イエス様を拒絶する人々に対して、いつか裁きの日が来ます。

とはいえ、その日はまだ来ていません。その日が来るまで、私たちは彼らの救いのために祈り、働く必要があります。そして、愛をもってイエス様が与えてくださった真理を伝えなければなりません。そのとき、神様の恵みによって人々は救われるのです。

周囲の人々の罪がどれほど酷くても、彼らが滅びることを私たちは喜ぶべきではありません。

イエス様もそのようなことを喜ばれません。彼らが永遠の命を得るために、イエス様は十字架で命を捧げられたのです。

罪人に対して、私たちはイエス様の心を持っているでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

真理を言うとき

昨日もこの個所について書きましたが、また別のことが私の心を打ちました。

時に、私たちが人々に神様の真理を伝えると、相手にむっとされることがあります。その人が真理を信じず、私たちを憎むことさえあるかもしれません。

イエス様も、そうした不信と憎しみを経験されました。イエス様の兄弟たちでさえ、イエス様を信じず、からかったのです。

そのため、イエス様は彼らにこう言われました。

世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。(ヨハネの福音書7:7)

現代のアメリカでは、クリスチャンたちが同性愛は罪であると言うと、多くの人々は「あなたの心は狭い。あなたは偏屈だ」と言います。

イエス様はこの箇所で、そのことについて警告されました。私たちは世の中で、その行いが悪いことを証しするなら、憎まれ、迫害されることがあります。

以前私が言ったように、真理を伝えるには正しい方法と悪い方法があります。私たちは相手を憎まず、愛をもって真理を伝えるべきです。

私の娘が4歳の時、私はよくこう言いました。「危ないよ。駐車場や道に飛び出してはいけない。車に轢かれるよ。」

どうして私はそう言ったのでしょうか。それは娘を愛しているからです。

人々を彼らの罪のゆえに警告するとき、私たちもそんな態度を取るべきです。その罪が本当に酷いものでも、私たちは彼らを軽蔑せず、憎むべきではありません。

むしろ、彼らが悔い改めて救われることを願うべきです。そして、彼らが神様の恵みと憐れみを知ることを願うべきです。

しかし、愛をもって真理を伝えても、私たちが憎まれる場合もあります。イエス様は完全な神の子でした。それでも、人々はイエス様を信じず、憎み、イエス様を十字架で殺しました。

私たちは違う反応を期待するべきでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章

天の父のスケジュールに従う?

イエス様が5000人にパンを与えられた奇跡の後、さらに多くの弟子たちがイエス様を拒絶した後、イエス様はユダヤとエルサレムをしばらく避けられました。

けれども、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていました。そのため、多くのユダヤ人たちがエルサレムに向かって行きました。その時、イエス様の兄弟たちはイエス様にこう言いました。

「あなたは、ずっとエルサレムを避けていたでしょう?本当に有名になりたいなら、エルサレムに行くべきです。そこで奇跡を行う方がいいでしょう。家に隠れていては、有名になることはありませんよ。」

しかし、その言葉には大変皮肉な意図が込められていました。ヨハネはこう記しています。

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。(ヨハネの福音書7:5)

イエス様は兄弟たちにこう言われました。

わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。。。

あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。(6-8)

要するに、「私はあなたのスケジュールに従いません。実は、私は自分のスケジュールに従いません。私の天の父のスケジュールに従います。」ということです。

だから、自分の兄弟たちは祭りに行きましたが、イエス様は天の父のタイミングを待っておられました。

多くの人々は、自分のスケジュールに従います。時々、彼らは無理やり相手の日程に従わせられてしまいます。

けれども、私たちクリスチャンはイエス様の模範に従うべきです。私たちは天の父の声を聞き、天の父が決めたスケジュールに従うべきです。

正直に言えば、私はしばしば自分のスケジュールに従うことで、神様の働きを見逃してしまうでしょう。

私には、しなくてはならないことがいろいろありますが、神様は私のところにいろいろな人々を導きます。それでも、私はしばしば立ち止まらず、話しもせずに、軽く挨拶だけして通り過ぎてしまいます。

もしかしたら、相手が私に気づかなければ、私は挨拶すらしないかもしれません。けれども、歩きながら、「しまった。あの人と話した方がよかったのに。機会を見逃したのではないか」と思うのです。

あなたはどうでしょうか。誰のスケジュールに従っていますか。あなたのスケジュールを脇に置いて、天の父のスケジュールに従いますか。それとも、自分のスケジュールに集中しすぎて、神様の働きを見逃しますか。

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イエス様に従う?

イエス様に従うとはどういう意味でしょうか。

この話では、三人の人々が「弟子であることの意味」を知りました。

律法学者がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。(マタイ8:19)

この人物は、他の律法学者たちとは異なっていました。多くの律法学者はイエス様に反対しましたが、この人は熱心にイエス様に従おうとしました。

もちろん、熱心であることは良いことです。けれども、イエス様は彼に警告されました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)

要するに、イエス様はこう言われました。

「私は楽な人生を約束しません。私に従うことは時に困難です。あなたが家を離れれば、戻る機会は限られるでしょう。もしかすると、一度も結婚しないかもしれません。それでも、あなたはまだ私に従いたいのですか。」

そして、イエス様は別の人にもこう言われました。

「わたしについて来なさい。」

しかし、その人はこう答えました。

まず行って、私の父を葬ることを許してください。(ルカ9:59)

おそらく、その人の父親はまだ生きていたでしょう。イエス様が「私について来なさい」と言われたのは、葬儀の最中ではなかったはずです。

もしかすると、その父親は病気で死にかけていたのかもしれません。いずれにせよ、あるいはとても元気ではあるものの、年老いていたのかもしれません。いずれにせよ、その人は父親が亡くなるまで待ちたいと考えました。

さらに、その父親がイエス様に反対していたため、その人がイエス様に従うならば、父親に拒絶される可能性もあったのです。

そこで、イエス様はこう言われました。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。(ルカ9:60)

おそらく、イエス様が意味されたことは、「霊的に死んでいる者たちが霊的に死んでいる者たちを葬らせなさい」ということだったのでしょう。

時に、人々はこう考えます。「私はクリスチャンになりたくありません。なぜなら、私の両親はすでに亡くなっており、もし私がクリスチャンになるなら、彼らが地獄に行ったと認めなければならないからです。」

しかし、イエス様が伝えたかったのは、あなたにそのことを決定する権限はないということです。霊的に死んでいる者たちがあなたの霊的な運命を決めることを許してはなりません。

また、霊的に死んでいる者のために、神様の働きを避けるべきではありません。なぜなら、あなたが他の霊的な死人に福音を伝えれば、その人は救われる可能性があるからです。

けれども、もしあなたが家族の意見を恐れて福音を伝えないなら、その人々も地獄へ行ってしまうかもしれません。

そのとき、もう一人の人がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。(ルカ9:61)

でも、イエス様はその人にこう言われました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。(ルカ9:62)

なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。おそらく、イエス様はその人の心を見抜いておられたからでしょう。

つまり、彼は家族への愛ゆえに、心を尽くしてイエス様に従うことができませんでした。そのため、たとえイエス様について行っても、すぐに家へ戻ってしまうでしょう。

もし私たちがいつも過去を振り返ってばかりいるならば、イエス様に従うことは非常に困難になります。イエス様は私たちの心のすべてを求めておられます。一部分だけを望まれるのではありません。

そのため、時には良いことであっても手放さなければならないことがあります。なぜなら、私たちはより優れたものを求めているからです。

その三人の人々がイエス様の言葉にどのように反応したのか、私たちには分かりません。おそらく、福音書の著者たちは、私たち自身が心を探るように意図したのでしょう。

たとえ困難でも、あなたはイエス様に従うでしょうか。

家族や友人がイエス様に従うことを拒んだとしても、それでもイエス様に従うでしょうか。

イエス様に従うために、すべてを捨てるでしょうか。

もしイエス様が「わたしについて来なさい。」と言われたなら、あなたはどうするでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章

仲間を赦さない悪い家来のたとえ話:憐れみか火か:どちらで塩気がつけられる?

マタイ、マルコ、ルカの三人は、同じ事件について語っています。その話をまとめることは本当に興味深いものです。

けれども、この話の最初に戻りましょう。それは、弟子たちが誰が一番偉いかを論じ合っていたことです。

おそらく論じ合う中で、多くの酷い言葉が交わされ、人々は深く傷ついたでしょう。そのため、イエス様は私たちが傷ついた時、どのように対応するべきかを教えてくださいました。

その後、ペテロがイエス様に質問をしました。おそらく他の弟子たちは彼を傷つけたことでしょう。それが初めてではなく、おそらくこれからもペテロは傷つけられることがあるでしょう。そのため、ペテロはイエス様に問いかけたのです。

主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ18:21)

おそらく、ペテロは相手を七回赦すことが寛容な態度であると考えたのでしょう。その時代、多くの先生たちは三回赦すことが適切であると教えていました。(「ただし、聖書にはそのような教えは記されていません。)

しかし、イエス様はこう答えられました。

七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。(マタイ18:22)

イエス様が意味されたことは、私たちが490回まで許さなくてはならないというわけではありません。むしろ、私たちは数えることなく許さなくてはならないのです。

そして、イエス様は有名なたとえ話を語られました。

ある王が、しもべの大きな借金を免除しました。けれども、そのすぐ後、そのしもべは別の人に出会いました。その以前、しもべはその人にお金を貸していたため、返済を要求しました。相手が払えなかったので、しもべはその人を牢に投げ込みました。

王はそのことを聞いたとき、そのしもべを呼びました。そして、しもべが来た時、王はこう言われました。

悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。(マタイ18:32-33)

そのため、借金をすべて返済するまで、そのしもべは牢に投げ込まれました。そしてイエス様はこう言われました。

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。(35)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

そのしもべにとって、仲間が返済しなければならなかった借金は大きなものでした。それは約4か月分の給料に相当しました。

けれども、その借金をしもべが王に返済しなければならなかった借金と比べると、非常に小さいものでした。その額は何億円にも及ぶものでした。

時々、人々は私たちを傷つけ、その傷は本当に深いものです。とはいえ、私たちの神様に対する負債の方がはるかに大きいのです。私たちは自分の罪が小さいものだと思うことがあるかもしれませんが、実際にはその罪は積み重なります。

もし、あなたが毎日罪を3回ほど犯すとすれば、それは1年間で約1000の罪になります。そしてその数字をあなたの年齢に掛けると、何千もの罪になるのです。

それにもかかわらず、神様はあなたの罪をすべて赦してくださいました。だからこそ、私たちも他の人々を許すべきです。

では、もしそうしなかった場合にはどうなるでしょうか。そのしもべが仲間を牢に投げ込んだ時、その仲間は罪悪感に浸りました。

私たちも、しばしば同じような行動を取ります。私たちは相手を許さず、その縁を切ります。そして私たちは、相手が罪悪感に浸ることを望んでいるのです。

しかし、例え話では、王はそのしもべの行動を知った時、彼を獄吏に引き渡しました。その時代、獄吏は囚人を見張るだけでなく、その囚人を拷問する役割を担っていました。

同じように、私たちが相手を許さないなら、神様が私たちをサタンに引き渡すことがあると思います。(異なる文脈ですが、第一コリント5:5をご参照ください。)

その結果、サタンは私たちを苦しめ、私たちは自分の怒りや苦々しい思いに浸ることになります。

なぜ神様はそのようなことをされるのでしょうか。それは、私たちを憎んでいるからでしょうか。違います。それは、私たちが悔い改めることを望んでおられるからです。

いずれにせよ、このたとえ話の後に、もしかしたらイエス様はこう言われたかもしれません。

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(マルコ9:49)

つまり、もしあなたが神様の憐れみによって塩気を付けられないなら、火によって塩気を付けられることになります。あなたが悔い改めるまで、あなたの人生は惨めなものになるでしょう。

そして、イエス様はこう言われました。

塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。(マルコ9:50a)

イエス様は、私たちを地の塩と呼ばれました。私たちは、この世の人々を憐れみと恵みで味付けする役割を果たすべきです。

けれども、もし怒りや苦々しい思いを持ち続けるなら、私たちは塩気を失ってしまいます。そのため、イエス様は弟子たちと私たちにこう語られます。

あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9:50b)

あなたはどうでしょうか。あなたを傷つける人に対して、あなたは塩の役割を果たしているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ18章

傷ついたとき、神様の手を解く?

この箇所は、マタイ16章に似ています。この箇所も少し解釈が難しいです。

マタイ16章では、イエス様は繋ぐことと解くことについて話されています。

何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(16:19)

その箇所では、イエス様は神の国と救いについて話されています。新約聖書を読むと、多くの場合、神様が私たちを通して人々に触れたいと望んでおられることがわかります。

私たちはキリストの体です。私たちは周りの人々にとって、イエス様の目や耳、口、そして手です。

もし私たちが出て行って福音を伝えるなら、神様の手が解き、多くの人々が救われます。しかし、私たちが福音を伝えないなら、ある程度まで神様の手は縛られてしまいます。

もちろん、私たちが働かなくても神様は働くことができますが、多くの場合、私たちが働かない時、神様は何もしません。

ペテロは二つの方法で神様の手を解きました。彼はユダヤ人たちに福音を伝えました。

それでも、弟子たちはイエス様の命令に従わず、異邦人たちに福音を伝えませんでした。そこで、神様は直接行動を起こされました。神様はペテロに幻を示し、またコルネリオという異邦人に天使を遣わされました。

それは神様の理想ではありませんでした。神様の理想は、ペテロたちが積極的に異邦人たちに福音を伝えることでした。

それでも、その話の後、神様は天使を遣わず、人々を通して異邦人たちを救われました。弟子たちが福音を伝え、多くの人々が救われたのです。

さらに、ペテロは異邦人たちをユダヤ人の律法の要求から解放しました。それによって神様の手が解き、多くの人々が救われました。

とはいえ、この箇所では、その前後は全く異なります。そして再び、イエス様は語られます。

何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。(マタイ18:18)

でも、この場合、イエス様が意味されたことは何でしょうか。

私の意見ですが、もし相手があなたを傷つけ、謝らないなら、あなたはその人のために祈るべきです。そうすることで、私たちが神様の手を解き、神様は彼らの人生に働き始められます。

多くの場合、私たちは相手に対する怒りや苦々しい思いに縛られています。私たちは相手のために祈るのではなく、相手について祈っています。

「主よ、彼が何をしたかご覧になりましたか?信じられません。彼を罰してください。」

ところが、十字架の上で、イエス様は敵について祈られたのではありません。イエス様は彼らのために祈られました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

その祈りを通して、神様は彼らの人生に働き始め、さらに救いの業を行われました。

そのように、もし私たちが相手のために祈るなら、神様の手を解き、神様は彼らの人生に働き始められます。

もちろん、私たちが祈らなくても、神様は働くことができます。とはいえ、多くの場合、神様は働く前に私たちの祈りを待っておられることがあります。

けれども、私たちが苦々しい思いを持ち続けるなら、神様の手を縛ることになり、神様は私たちの人生にも、相手の人生にも働かれません。

怒りや苦々しい思いを手放すことは難しいものです。そのため、神様は私たちを支えてくださる兄弟姉妹たちを与えてくださいました。彼らは、和解をもたらすために助けてくれ、私たちのために祈ってくれます。

だから、イエス様はこう言われました。

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(19-20)

あなたはどうですか。心の中で何か痛みを抱えているでしょうか。あなたは天の父の手を縛っているでしょうか。それとも、その手を解いているでしょうか。

つまり、あなたはただ相手について祈っているのでしょうか。それとも、相手のために心から祈っているのでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ18章

傷ついたとき

私たちが傷つくことは、本当に辛いことです。さらに、私たちが信頼している人に傷つけられると、その痛みはさらに深いものとなります。

おそらく、弟子たちが誰が一番偉いかを論じ合っていた時、互いに傷つけ合っていたでしょう。イエス様はそれを知っておられたので、彼らにこう言われました。

また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。(マタイの福音書18:15)

二つのことに注目してください。

まず第一に、誰かがあなたを傷つけた時、その人があなたの元に来て謝るのをただ待つべきではありません。あなた自身が積極的にその人の元に行き、その問題について話し合うべきです。

多くの場合、私たちは怒り、相手が私たちの元に来て謝るように要求してしまいます。

けれども、その態度は和解の姿勢ではなく、誇りの姿勢です。神様は私たちが平和をつくる者になることを望んでおられます。イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9)

もちろん、あなたのケンカしている友達を助けるべきです。しかし、あなたが相手と喧嘩している場合には、あなた自身が平和をつくる者となる必要があります。もしプライドを持ち続けるなら、相手と和解することはできません。

さらに、もし相手が意図せずあなたを傷つけた場合、彼らはあなたの傷に気づいていないかもしれません。そのため、私たちがただ待っているだけでは、彼らが謝ることは決してないでしょう。ですから、私たちは積極的に相手のところに行くべきです。

第二に、私たちはゴシップや中傷をしてはいけません。イエス様は「あなたが傷ついた時、皆にそのことを話しなさい」とは言われませんでした。むしろ、イエス様は「行って、ふたりだけのところで責めなさい」と言われました。

もちろん、私たちの希望は、相手が私たちの傷に気づき、そして謝罪することです。

ところで、もし相手があなたの元に来て、そのように責めてきたら、どのように反応すべきでしょうか。特に、あなたが相手が繊細すぎると感じる場合、どのように対応するのが良いでしょうか。

それでも、彼らの感情を大切にするべきです。そして、素直に謝りましょう。また、相手の言葉を心に留めて、次に気を付けるべきことを考えるようにしてください。それこそが、平和をつくる者の態度です。

しかし、あなたが傷ついたにもかかわらず、相手が自分の過ちを認めない場合、どうすれば良いでしょうか。

その場合、イエス様は「二人の人々を連れて行き、その人と話しなさい」と言われました。

もちろん、その二人には状況を正確に説明すべきです。それでも、相手を悪く言うことは避けなければなりません。あなたの目的はあくまで和解です。

実際に、その二人と相談することで、あなた自身が相手を誤解していたことに気づく場合もあるかもしれません。 または、彼らの助けによって、相手が自分の至らなさに気づくこともあるでしょう。

ただし、改めて強調しますが、あなたの目的は和解です。

しかし、相手が聞き入れてくれない場合には、教会にその問題を伝えるべきです。

必ずしも全員の前で公にする必要はありません。 とはいえ、牧師や他のリーダーの助けを求めるのが良いでしょう。

けれども、相手が聞き入れてくれないなら、イエス様はこう言われます。

教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(17)

イエス様が意味されたことは、あなたが相手に対する期待を変えるべきだということです。相手がクリスチャンとしてふるまうことを期待しない方が良いでしょう。

むしろ、彼らをクリスチャンではない人として見た方が良いです。私たちは、クリスチャンではない人がクリスチャンのようにふるまうことを期待しないでしょう。そして、相手が悔い改めない限り、クリスチャンとしての行動をしているとは言えません。

ですから、相手に会うときには気をつけてください。相手が悔い改めないなら、あなたを何度も傷つける可能性があります。

イスラエル人が取税人を避けたように、あなたもできるだけ相手を避けた方が良いでしょう。それでは、なぜ避けるべきなのでしょうか。それはあなたが怒っているからですか。それとも苦々しい思いを持っているからですか。そうではありません。

実際には、その怒りや苦々しい思いを手放さなくてはなりません。そうしなければ、あなた自身がその感情に縛られてしまうからです。

むしろ、相手が危険な人物であるため、その人を避ける方が良いのです。もし彼らが自分の過ちを認めないなら、その人はあなたにとって危険な存在です。ですから、相手を避けてください。

さて、あなたはどうですか。傷つけられた時、どのように対応しますか。

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ミニストリーに関するプライド

イエス様が弟子たちに「神の国でどのように偉くなるのか」を教えられたとき、おそらく彼らは少し違和感を覚えたことでしょう。なぜなら、彼らは誰が一番偉いのかを巡って言い争いをし、さらに自分たちのグループの外にいる人々を軽んじていたからです。

そのため、ヨハネは少し緊張しながら、こう尋ねました。

先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。(マルコ9:38)

イエス様はこう答えられました。

やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(39-41)

教会の問題の一つは、人々が自分のミニストリーを守ろうとすることです。つまり、彼らはこう考えます。 「これは私の役割であり、私のミニストリーだ。他の人が参加するべきではない。」

弟子たちも同じような態度を取りました。 ある人物が悪霊を追い出しましたが、その人は弟子たちの仲間ではありませんでした。 そのため、弟子たちは彼に「やめなさい」と命じました。

けれども、イエス様は彼らにはっきりとこう言われました。

「これは競争ではありません。その人は私を愛し、仕えたいと思ったのです。だから、彼にやらせなさい。私は彼にその力を与えたのだから。」

私たちも同じような態度を取るべきです。たとえ相手が私たちよりも優れた働きをしていても、喜んで彼らをミニストリーに迎え入れるべきです。なぜなら、私たちはミニストリーをする際に自分の栄光を求めてはならないからです。

むしろ、私たちは神様に栄光を帰そうとすべきです。そして、誰かが神様からの賜物を用いるとき、そのことを喜ぶべきです。

残念ながら、教会の中でも競争が生じることがあります。人々は「どの教会のほうが大きいか」「どのミニストリーのほうが優れているか」を考えます。

さらに、相手の方法が自分と異なれば、批判を始めることもあります。しかし、それはイエス様の望まれることではありません。それはむしろサタンの望むことです。もし教会の人々が互いに争えば、サタンとの戦いに費やすべき時間が失われてしまうからです。

だからこそ、教会として、また教会のメンバーとして争うことをやめましょう。そして、むしろ協力し合いましょう。なぜなら、私たちは同じチームに属し、同じ目標を持っているのだから。

私たちが分裂するなら、神様の名を汚してしまいます。しかし、一致し、協力するなら、神様の御名に栄光を帰すことができます。

そのような人々になりましょう。

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神様がどのように子供を見ておられるのか

イエス様が神の国について教えられた時、神様がどのように子供たちを見ておられるかを明確に示されました。

まず最初に、イエス様は私たちに「子供に罪を起こさせるようにするな」と警告されました。

そして、イエス様は続けてこう言われました。

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。(マタイ18:6-7)

また、イエス様は「子供につまずきを与えるくらいなら、自分の手や足を切った方が良い」と言われました。

どうしてイエス様はそのような極端なことを言われたのでしょうか。それは、子供たちが非常に影響を受けやすいからです。彼らは私たちの行動を見て、すぐに学びます。

もし私たちが怒りっぽいなら、彼らも怒りっぽくなります。

もし私たちが夫や妻に感謝しないなら、彼らが成長して結婚した時、自分の伴侶に対して感謝をしないでしょう。

もし私たちが彼らを虐待するなら、彼らも自分の子供を虐待する可能性があります。

ですから、子供がいる時は、自分の言動に注意してください。神様はそれに基づいてあなたを裁かれるからです。

イエス様はさらに私たちに警告されます。

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。

まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(マタイ18:10)

神様は子供たちを愛しておられるので、その子供たちを守るために天使を遣わされます。ですから、私たちも子供たちを大切にしなければなりません。彼らを取るに足りない存在と見なしてはいけません。神様はその宝物を私たちに託されたのです。

さらに、イエス様は子供たちを迷子になった羊に例えられます。神様はその子供たちを救いたいと望んでおられます。ですから、イエス様はこう言われました。

このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(マタイ18:14)

子供に関して、私はもう二つのことをお伝えしたいと思います。

まず第一に、人には責任を取らなければならない年齢があると思います。つまり、子供が自分の罪の責任を取らなければならない時が来るということです。

その年齢が具体的にいつなのかは分かりませんが、きっと子供によって異なるでしょう。彼らが自分の罪を認識し、さらに罪の悪さを理解するのであれば、責任を取る必要があると思います。

第二に、「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません」と書かれています。

それでも、私は子供たちが滅びる可能性があると考えます。このことについては、ペテロが似たようなことを言っています。

[神様は]あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(第二ペテロ3:9)

けれども、ペテロははっきりと言っています。人は悔い改めなければ救われません。ですから、子供がどうしても悔い改めないのであれば、救われることはありません。

だからこそ、神様が子供たちを大切にされるように、私たちも子供たちを大切にしましょう。また、彼らが救われるように、福音を彼らに伝えましょう。

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マタイの福音書のデボーション

聖さの中心

[この記事は、私が伝えた教会のメッセージでした。私の通訳者は、このメッセージを翻訳してくれました。]

SNSを使ってる人はどのくらいいますか?私もSNS使ってます。でも時々、ちょっと怒りを感じる書き込みを見かけるときがあります。そんな時は、つい言い返しそうになる口をぐっと抑えます。正確に言うと、書き返しそうになる “腕を” 抑えます。

最近Facebookでこう言う投稿を見ました。「クリスチャンていうのはさ、『あれは罪、これは罪、なぜなら旧約聖書にそう書いてあるから』って言って人を裁くよね。でも旧約聖書には『シーフードは食べたらいけない。二つの素材が混じった服は着たらいけない。土曜日に働いてはいけない。』と書いてあるじゃないか。でもそれをクリスチャンは今は守ってないことに関しては、どういうつもりなんだい?」という書き込みでした。

この人は何を言いたいんでしょう?「クリスチャンは矛盾してる。旧約聖書から、自分の好きなところだけ選んで従って、それ以外は見ないふりしてる。」ということでしょう。

この指摘は正しいですか?もしあなたがこのように問われたら、何と答えますか?アメリカのある有名な牧師が、このことに関して最近非常に”面白い”回答を導き出しました。「もう旧約聖書の律法はすべて忘れてしまえ」と。

その牧師はこう言ってるんですね。「十戒はもう気にしなくていいんです。汝らはもう十戒に従うことなかれ。なぜならこれらはもはや現代を生きるあなたへの命令ではないんです。」

さらにエスカレートしてこう言います。「ペテロも、ヤコブも、パウロも、クリスチャンの信仰から旧約聖書を切り離すことにしました。つまりこの使徒たちは、教会からこの世の価値観や仕組みから切り離し、旧約聖書の掟すら切り離したんです」。

はっきりさせておかないといけないのは、この牧師は決して、私たちは好きなように生きていい、とは言ってはいません。彼は、私たちに大切なのは愛の律法だ、と言いたいのです。愛の律法とは、「神を心から愛しなさい。自分を愛するように隣人(となりびと)を愛しなさい。」です。これは完全に真実です。でも、だからと言って、愛の律法から十戒を切り離すことはできません。愛の律法と旧約聖書にある倫理的な律法を切り離すことはできません。イエス様はそうされませんでした。イエス様の弟子たちもそうはしませんでした。実際、愛の律法とは旧約聖書の倫理的律法から来ているんです。(レビ19:18, 申命6:5)

じゃあ、私たちにとって旧約聖書って何でしょうか。神様を喜ばせるために、一個一個すべての律法を厳密に守るべきでしょうか。じゃあ食べ物に関しての律法は?着るものに関しては?もっと言えば、いけにえを捧げることは?なぜ私たちはもういけにえを捧げなくていいんでしょうか?このようなことを、皆さんは考えた事ありますか?

最近こういう本をもらいました。「聖書的に生きる1年。」1年間、この本の著者は、聖書に書いてある戒めの一つ一つを厳格に守るということにチャレンジしました。もちろん その中には、人のものを欲しがらない、嘘をつかない、ゴシップをしない、というものも含まれています。そして、安息日に休む事、特定の食べ物は食べないこと、服装のことも、全部聖書の通りに守るようにしました。不貞を働く夫がいれば、その人に石を投げることすらしました。(まあ、石といっても小石ですけど。) 私たちも皆こういうふうに生きるべき?これが聖いってことでしょうか?

先週からSteadfast断固というシリーズが始まりました。聖いという事が、毎日の日常の生活の中ではどういう事なのか、を一緒に考えてみましょう。

イエス様の弟子の一人、ペテロはこのように言いました。

あなたがたを召してくださった聖なる方(神様)にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(第一ペテロ 1:15-16)

この箇所では、ペテロは旧約聖書のレビ記というところから引用しています。(レビ11:44-45, 19:2; 20:7)レビ記で神様は民に繰り返し語られています。「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」そして、その度に、神様はこうも言っています。あなたがたは周りの人たちと同じことをしてはならない。 (レビ18:3; 24-30, 20:23-26) あなた方は選り分けれたほかとは違う存在なのです。

ペテロが、旧約聖書から引用したということは、実はすごく大事な意味があります。つまり、こと聖さに関して言うと、私たちと旧約聖書は大事な関係がある、ということです。じゃあ、旧約聖書と私たちの関係って本当のところ、何でしょうか。私たちが聖い生き方をしようとするとき、旧約聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。イエス様が何と言われたか、見てみましょう。

マタイによる福音書5:17から。

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(17-20)

ここはとても大事なことですが、イエス様は神様のことばに対して、最大限の敬意を払っています。イエス様が律法や預言者について語るとき、それらはすべて旧約聖書から語っています。そしてこう言っていますよね。「わたしが来たのは、律法を廃棄するためではないです。成就するために来たのです。」

どういう意味でしょうか。二つ意味があります。一つ目は、イエス様は神の律法に完全に従いました。大工として30年間を過ごし、3年間は福音を伝える説教者としていきました。その間、一度として神の律法を破ることはありませんでした。神がしなさいということはしたし、神がしてはいけないといわれることは決してしませんでした。私たち「してはいけないことをしてしまうこと」イコール罪と考えがちですよね。でも、実は「しなければならないことをしない」ことも罪です。イエス様はどちらにも従いました。

二つ目は、旧約聖書はイエス様を指し示しているということです。旧約聖書の中にある300以上もの預言がイエス様を指し示しています。 それだけではないです。旧約聖書の中にあるストーリーもイエス様のことを示しています。ノアの箱船や、ヨナと大きな魚や、モーセがイスラエルの民を連れてエジプトを脱出した、これらのストーリーは、すべてイエス様のことを指しています。

律法もそうです。イスラエルの民が捧げたいけにえはイエス様を指し示しています。いけにえは、人の罪は、誰かの死を持って贖わなければならないということを示しました。幕屋もそうです。幕屋は、神がわたしたちの間に住まわれるということを表しました。. 民法もそうです。民法はイエス様の聖さ、正しさ、愛を表しています。そして倫理的律法は、イエス様がいかに罪の無いお方か、ということをを示しています。

預言、ストーリー、律法これら全てがイエス様のことを指し示し、またイエス様によって成就しました。だから、これらは今イエス様が説明したように イエス様の教えに従って、理解するべきなんです。この山上の説教と呼ばれる箇所の最後の部分では、イエスさまの話を聞いていた人々は、イエス様が権威を持って話されることに驚いた、とあります。イエス様はこのことを権威を持って話すことができました。なぜなら、イエス様ご自身ががこれらを作られた方だからです。そしてすべてはイエス様のことを指し示していました。

だから、「どうして旧約聖書の律法のうち、これは守るけど、あれは守らないのはなんでだろう」って思ったら、これを思い出してください。私たちは「イエス様の権威に従う」のです。

なぜならすべての律法はイエス様を指し示しているからです。つまりどの律法が今も有効で、どの律法がそうじゃないのか、それを知りたかったら、一番簡単な方法はイエスさまがそのことについてどう教えたかを、調べることです。

そしてイエス様は、旧約聖書についてご自分の弟子たちに教えましたので、弟子たちが何と言っているか、ということも調べることができます。つまり、弟子たちが、「この律法やあの律法は今は当てはまらない」、と言っていたら、それはつまりそうなんです。

だから、私たちはもういけにえを捧げることはしません。だから今はなんでも食べていいのです。イエス様も、弟子もこう言っています。「それらの律法はイエス様によって成就された。果たされた。それらの律法は私たちにイエス様がなぜ必要なのかを表すpictureとして大切です。でも、もはやあなたたちは律法にしばられてはいないのです。」でも、イエス様もしくは弟子たちがこの律法には従うべきとする時、私たちもその律法に従う必要があります。なぜなら、そこには聖く生きるとはどういうことかが、表されているからです。

だから、イエス様は、「すべてが成就されるまでは、律法の中の1ピースすら廃されることはない。」と言われました。イエス様が再び戻って来られるその日まで、私たちには旧約聖書が必要です。

その理由は二つです。一つ目は、旧約聖書と律法はイエスさまがなぜこの地に来られたのかを証言しています。もう一つは、旧約聖書は私たちがどのように生きるべきかを教えてくれます。

だから「旧約聖書はもういらない」とは言えないんですね。私たちには必要です。そして「あなたがそれを軽く扱うなら、天の御国で一番小さいものと呼ばれる。」とイエス様は言われます。さらに、イエス様やその弟子たちが教えた「戒めを破ったり、破るように人に教えたりするものは、天の御国で一番小さいものと呼ばれます。」と言われます。

注目したいのは、イエス様がこの箇所で聖く生きることについて話すときに、いつも十戒を引用してきているということです。でもただ十戒にだけ目を向けさせたいのではないです。イエス様はあなたの心を指さしています。「あなたの心はどこにありますか?」と聞いています。

聖さの中心は、単にたくさんの律法を守ることではありません。「ここからこっちはアウトだけど、ここからこっちはセーフだよね?」と、安全ラインを見極めようとすることでもありません。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうか、です。

だからイエス様は続けてこう言いました。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」

律法学者たちやパリサイ人たちっていうのは、当時とてもちゃんとした、宗教的な人々とされていました。でもそれはとても表面的なもので、彼らの心は神様に向いてはいませんでした。もちろん彼らは律法を一言一句守ろうとしていました。でも同時に、いつも、その律法の抜け穴を探していました。残りの箇所からそれが伺えます。

21-22節を読みましょう。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(21-22)

イエス様はここで十戒から引用していますよね。殺してはならない。すると、律法学者やパリサイ人はこう言います。「私たちは誰も殺してはいない。だから大丈夫だ。」

でもイエスさまは言われます。「それは良かった。じゃあ、あなたの心の中はどうですか?あなたが怒りを感じた時、あなたはその怒りをすぐに水に流しますか?それともあなたの兄弟姉妹に対して怒りをくすぶらせたままでいますか?」

私たちは、感情を持ってるから、怒りを感じることがあるのは当然です。ただ、その怒りを握りしめたままでいませんか?そうするとどうなりますか?私たちは心の中で、人を殺すんです。

その人に刺々しく話すようになる。言葉で攻撃するようになる。場合によっては、その人を自分の人生から締め出そうとします。それを言葉に出さなくても、行動や態度でそれを伝えてしまうんです。 それが伝えるメッセージは「あなたが死んでしまえばいいのに」です。

イエス様が言ってるのは、「心にそんな怒りや憎しみを抱えたままでいるなら、あなたは神様の命令を破っていることになる」です。

だから23節から26節では、あなたが律法を破り、誰かを傷つけたらなら、まず行って、仲直りしなさい、と言っています。ただ教会に来て、我敬虔なり、という顔で、献金をして祈って、賛美をしないで。まず関係を修復しなさい、と。

あなたはどうですか?行って修復しなければならない関係がありますか?

27節、28節を読みましょう。

『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(27-28)

ここでも十戒から引用しています。ここでも、イエス様は、「もう十戒を守る必要はないよ」と言っているのではなくて、この文字の言葉の向こう側にあるものを見なさい、そして自分の心を探りなさい。あなたは心の中で、姦淫の罪を犯していないですか?」と言っています。

夫である皆さん、妻である皆さん、自分の夫や妻以外の異性を見て、「あー、この人が私の伴侶だったらな」って思ったこと、ありますか?それは、神様の目には、姦淫です。心の中であっても、その人を欲しがることは、十戒を破っていることになります。

男性にとってポルノは大きな誘惑です。それも、心の中で姦淫を犯していることになります。

イエス様は言います。「あなたのその目があなたをつまづかせるなら、えぐりだしてしまいなさい」と言われました。

文字通り、えぐりだせと言っているのではないです。イエス様が言われるのは、心の中をあつかうためには、そのくらい極端でありなさい、と言われました。

最近アメリカのあるクリスチャンの政治家が、あることで批判にさらされました、それは、たとえ仕事であったとしても、女性と二人きりでランチやディナーに行ったりしないというふうに彼が決めたからです。周りの人は彼を批判しました。

「いやいやちょっと待って。あなたの周りの女性がみんなあなたを誘惑しようとしてるとでもいうの?」といって彼を批判しました。

でも彼が言ってるのはそうじゃないですよね。彼が言ってるのは、「僕は自分自身を信用していない。僕は罪人です。だから気をつけていなければ、僕の心が僕をどこに連れて行くか、わからない。」

極端にも見えるかもしれないど、彼は自分の心の弱さを真剣に取り扱いました。私たち全員が彼の真似をする必要はないです。でも罪のことを考える時、私たちもそれを避けるために、そのくらい真剣に向き合う必要があります。あなたはどうですか?

多くの場合、私たちは罪を軽く考えてしまいます。だから、旧約聖書の律法を読むと、罪に対する裁きがあまりにも大きすぎるように、神様が厳しすぎるように感じるんですね。私たちは、神様が真剣に考えてる罪をとても軽く考えている。

でも神様は罪はとてもシリアスなものと考えた。だから、罪のあがないのためにイエス様を十字架に送ったんです。イエス様は殺人や、レイプや、盗みといった罪のために死んだのではありません。あなたの口から出る汚れた言葉のために死んだのです。あなたが誰かを傷つけた言葉のために死んだのです。あなたがついた嘘のためにです。あなたが、私が自己中心だったから、その罪のために死なれたんです。これらは私たちを地獄に送る罪です。決して軽く扱うことはできません。

イエス様は罪を避けるためなら、どんなことでもしなさい、と言われます。あなたの心はどこにありますか?

31節、32節を読みましょう。

また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(31-32)

離婚を経験された人は、この言葉はすごく痛いと思います。ここでイエスさまが伝えようとしていることをまず言いますね、そのあとで、離婚についてもうすこし触れます。

ここでイエスさまが仰っているのは、やはり姦淫についてです。当時、夫が妻に離婚を突きつけることはできました。でもその逆はできませんでした。夫が妻と離婚したいとなったら、その離婚状と呼ばれるものを渡すだけでいいんです。そこには「もうお前は私の妻ではない、誰とでも再婚すればいい。」と書いてありました。

でもイエス様がここで夫たちに言っているのは、夫が妻と不当な理由で離婚する時、それは、妻に対して「好きなように姦淫の罪を犯しなさい」って言ってることになる、ということです。なぜなら神の目には、その離婚は正当なものではなくて、妻はまだその人の妻だからです。だから彼女がもし誰か別の人と結婚するという罪を犯すなら、その責任は元々の夫であるその人にあると。

神様が結婚というものを作られました。それは、いつまでも続く関係としてデザインされたものです。神様がアダムとエバを作られた時、二人は元々永遠のいのちが与えられていたはずでした。永遠に夫婦として生きるはずでした。彼らが罪を犯し、死というものがこの世界に入ってきたそのあとでも、結婚は、死が二人を分かつまで、夫婦を一つに結びつけるものでした。

神様の結婚に対する計画は、最初にそれをデザインされた時と全く変わってはいません。だからもしあなたが、不当な理由で結婚の関係を壊し、他の人と再婚するなら、神様の目には、あなたは姦淫の罪を犯していることになります。

そうなってくるとbig questionが出てきます。じゃあ離婚の、正当な理由って何。

イエスさまがここで言われる様に、相手が自分以外と性的関係を持った時というのがそうです。

パウロはこう言いっています。ノンクリスチャンの伴侶が離れていくなら、離れて行かせなさい。(第一コリ7:15-16)

この二つ以外に、神様が認める離婚の理由はあるでしょうか? あるとしても、私はそれを聖書に見つけることはできません。でも大事なことは、もし他にも正当な理由が あったとしても、この質問自体が正しくないんです。

たとえ、あなたの状況がどうであったとしても、あなたが最初に問うべき質問は、「神様がデザインした結婚から、逃れる方法はありますか」ではあってはいけないです。それはパリサイ人の思考です。だからパリサイ人は神様の結婚への計画からかけ離れたことをしていました。つまりしょっちゅう離婚を繰り返してました。

あなたが神様に聞くべき質問は、「神様、私の結婚を何とかして守る方法はないでしょうか。」「神様、私の心はあなたのものです。あなたは私に何を望まれていますか」。結婚を守ることがいつも可能であるとは言いません。でも夫と妻の両方がその心を持てば、そして神様には対してへり下るなら、希望があります。あなたの心はどこにありますか?

考えて欲しいことはこうです。この中にも、離婚を経験した人がいるでしょう。それはあなたのせいではなかった。あなたの夫や、妻があなたを裏切ったんです。彼らがあなたに背を向けたんです。もしそうなら、どうか自分を責めないでください、なぜならイエス様はあなたを責めません。

でももし、あなたが自分の心を、神に対して、相手に対して頑なにしてしまったが故に、離婚したのなら。もしそうなら、そしてそのことを悔い改めていないなら、どうか、今日、悔い改めてください。悔い改めるなら、あなたは赦しと癒しを受け取ります。神様は離婚のドロドロの醜ささえも、美しいものに変えることのできるお方です。たとえ一度は離婚することになっても、神様が関係を癒してくれて、再度一緒になったっていう夫婦がいることも私は知っています。

もうそうするには遅すぎる人もいるかもしれない。相手はすでに再婚してしまったかもしれないもしくはあなたが再婚しているかもしれない。でも聞いてください。あなたの新しい結婚が良くない形で始まったとしても、神様は、それを贖うことが、修復できるお方です。

聖書にダビデという男性が出てきます。彼はバテシェバという女性と結婚しました。彼のこの結婚は、最も良くない形でスタートしました。ダビデは夫のある女性と関係を持ち、女性を妊娠させました。そして自分が結婚するために、女性の夫を殺しました。でもダビデが心から悔い改めた時、そのことに対する裁きはダビデはもちろん受けましたけれども、神様はダビデの結婚を祝福されました。この結婚がのちに生み出した子孫を知っていますか。イエス様です。神様は結婚を修復してくれます。

あなたの結婚もそうです。でもあなたが悔い改めないなら、最初の結婚を壊した時と同じ態度のままなら、次の結婚もいつか崩れます。もう一度言いますねだから大事な質問は、あなたの心はどこにありますか?

時間がなくなってきたので、もう一つだけ例を見ましょう。43節から45節を開きましょう。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(43-45)

最初の自分の隣人を愛しなさい、は、レビ記に出てくることばですが、後半の自分の敵を憎みなさいは、旧約聖書のどこにも書かれていません。じゃあここ、イエス様は間違ってるの?そうではなくて、律法が歪んだ解釈をされている点を指摘しているんです。

律法学者たちやパリサイ人たちは勝手にこう言いました。「神は自分の隣人を愛しなさいと言われる、ということは、その理屈でいうと、敵は憎みなさいってことだよね。」

なぜこういうふうに考えたのでしょうか。律法が本当に伝えようとしていることを見ようとせずに、表面だけとって、私は誰に対して愛を示すべきだろうか?と考え、そしてその範囲を限定し、じゃあ誰に対しては愛を示さなくてもいいだろうか?と考えるようになりました。そして結論は、「じゃあ敵のことは愛さなくてもいいよね!」でした。

このことは、ヒデさんが先月話してくれた、良きサマリヤ人の話にも出てきました。律法の専門家はイエス様に尋ねましたよね。「私の隣人とは誰のことですか?」

彼の本当の質問はこうなんです。「ここからは愛さないといけない、ここからは愛さなくても良い。その境界線のラインはどこにあるんですか?」

イエス様の答えはよく読んでみると、イエス様はこう言ってることがわかります。「律法学者君、君の質問は間違っています。誰が私の隣人かと聞くのではなくて、私は誰の隣人になれますか?って聞くべきです。そして出会うすべての人の隣人になりなさい。たとえその人たちがあなたを憎んでいたとしてもね。」

この少し後の箇所で、イエス様は言われます。もし自分を愛してくれるものだけを愛したとして、それじゃあこの世界の人々と何も変わりません。誰だってそうします。この世界とは違う、聖いものになりなさい。イエス様はこれらの教えのまとめとして、ペテロがレビ記を引用したことと同じような言い方をされています。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(48)

律法や、十戒や、それらを全て要約した、イエス様と弟子たちが私たちに守る様に言われた愛の律法、いろいろな戒めががありますね。でも聖さの中心とは、これらの戒めを表面を見てただ単に守ることだけではないんです。聖さの中心は、あなたの心が神様のものかどうかです。

今日のメッセージを聞いて、こう感じてる人もいるでしょうか。「私にはそんなの不可能だわ」その通りです。不可能です。だから私たちはイエス様が必要なんです。だから聖霊様に私たちの内側に住んでいただく必要があるんです。この山上の説教の一番最初に、イエス様は何と言われたでしょうか。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(5:3)

イエス様は、「超霊的な人たちは幸いです。天の御国はそういう立派な人たちのものだから」とは言われませんでした。イエス様は、心の貧しい人は幸いです、自分の罪のために苦しみの声を上げる人は幸いです。と言われました。なぜなら、天の御国は、まさにその人たちのためのものだからです。

だからイエス様が来られたんです。私たちのすべての失敗を償うために死なれました。でもイエスさまは死からよみがえりました。そして私たちがイエスさまに心を明け渡すなら、イエス様は私たちの心を作り変えてくれます。そしていつか私たちはイエス様のようになります。イエス様は私たちをこう励ましています。

義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(5:6)

あなたの心はどこにありますか?義に対する飢え渇きはありますか?イエス様のようになりたいと願う心はありますか?それとも何も思わないですか?

あなたの義が、ただ表面的に決まりを守るだけの律法学者たちと何も変わらないなら、あなたは天の御国には入れません。神様はあなたの心を求めておられます。あなたの心は神様のものですか?

Plant Group Questions
1. マタイ5:17-22, 27-28, 31-32, 43-48を読もう。

2. 旧約聖書に書かれている法の中で、クリスチャンとして、あるものは今も守り、あるものは守らないことについて、不思議に思ったことはありましたか?メッセージを聞いた今、どのようにほかの人に説明することができるでしょう?

3. 聖書の中に書かれている、神様からの命令について、従うのが難しかったり、つい言い訳をして逃れようとしてしまうものはありますか?もしあるなら、それは何ですか?日曜日のメッセージの中で話された個所のものかもしれないし、それ以外でも構いません。

4. 神様の命令を聖書を通して知りながらも、「でも、神様はこんな状況のときは例外ですよね?あんな状況のときは仕方ないですよね?」と聞き続けることは、どうして良くないのでしょうか?

5. クリスチャンの政治家のとった、極端な行動についてあなたはどう思いますか?(たとえ仕事であっても、女性と二人きりでは会わない)あなたの心の中を探ったとき、あなたも、同じように”極端な”対策をとる必要なことがありますか?もしそうなら、それはどんなことですか?そのためにお互いに祈りましょう。

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マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

最も偉い人

時々、私はクリスチャンとしてどれほど成長しなければならないかを見て、落胆してしまいます。けれども、弟子たちに対するイエス様の忍耐を思うと、私は励まされます。

弟子たちがカペナウムへ向かう途中、彼らは「誰が一番偉いか」について議論していました。おそらく、イエス様はそのやり取りを聞きながら、静かに歩みを進めておられたのでしょう。そして、彼らが家に着いたとき、イエス様はこう尋ねられました。

道で何を論じ合っていたのですか。(マルコ9:33)

多分、弟子たちは恥ずかしくて、何について話していたのかを認めることができず、黙っていました。そこで、イエス様は彼らにこう語られました。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコ9:35)

おそらく、弟子たちはそれを聞いて混乱し、イエス様に尋ねました。

それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。(マタイ18:1)

おそらく、弟子たちは「私たちの中で、一番偉いのは誰でしょうか」と尋ねたかったのでしょう。

すると、イエス様は小さな子供を腕に抱き寄せ、こう答えられました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4)

イエス様が意味されたことは何でしょうか。

まず一つ目は、小さな子供のようにならなければ、誰も天国に入ることができないということです。

小さな子供の特徴は何でしょうか。彼らは謙遜であり、すべてを知っているとは思いません。そのため、いつも両親に質問をし、何事にも両親を頼りにします。

私たちが天国に入りたいのなら、そのような態度を持たなければなりません。神様の前で謙遜になり、自分がすべてを知っているわけではないと認め、神様の知恵と導きを求める必要があります。

また、神様に頼ることを学ばなければなりません。もちろん、救いのために神様に頼ることは不可欠です。けれども、それだけではなく、日々の生活の中で神様の知恵と力に頼ることを学ぶ必要があります。

しかし、多くの人々はそのように生きません。彼らは、自分の力と知恵が十分であると考え、それに頼って生きています。けれども、そのように考え、生きるなら、彼らは決して神様の国に入ることはできません。

クリスチャンの中にも、自分の知恵と力に頼り続ける人がいます。私自身もそのようになりがちです。しかし、私も少しずつ、自分の弱さを理解し、どれほど神様が必要なのかを実感するようになっています。

イエス様の二つ目のポイントは、偉さとは、何人の人があなたに仕えるかによって測られるものではないということです。むしろ、一番偉い人は周囲の人々に仕える者です。だから、イエス様はこう言われました。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

偉大なリーダーたちについて考えてみてください。彼らは無理やり人々を従わせる必要はありませんでした。むしろ、人々はそのリーダーに喜んで従いました。そして、彼ら自身も周囲の人々に仕えるために生きました。

そのため、たとえ相手から何の利益も得なくても、真のリーダーは人々に仕えるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。

また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。(マルコ9:37)

子供に仕えても、大きな利益があるわけではありません。なぜなら、彼らはあなたに多くを与えることができないからです。しかし、子供に仕えることは、実はイエス様に仕えることなのです。

さらに、イエス様への愛ゆえに、あなたが誰かに仕えるとき、実はイエス様に仕えているのです。イエス様の目には、そのような人こそ偉大な存在です。

あなたは偉い人になりたいでしょうか。

子供のようになりましょう。謙遜でいましょう。他者に仕えましょう。相手が偉い人であっても、そうでなくても、彼らのニーズを優先しましょう。

あなたはどうしますか。

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マタイの福音書 マタイ17章

意図的に人々を怒らせる?

私たちクリスチャンは、この世界の人々とは異なる価値観と考え方を持っているため、時には彼らの意見に反対せざるを得ないことがあります。

ただし、私たちが信じることを伝える際に、相手が不快に感じる場合があります。

とはいえ、私たちの信仰のゆえに相手が不快に感じることと、私たちが意図的に相手を怒らせることには大きな違いがあります。

前者はやむを得ないことですが、後者は罪です。

この話では、イエス様とその弟子たちはカペナウムという場所にいました。そして、宮の納入金を集める者がペテロに「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか」と尋ねました。

おそらくペテロは焦って「もちろん払います」と答えたのでしょう。

その後、イエス様はペテロにこう尋ねられました。

シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。(マタイの福音書17:25)

ペテロは「ほかの人たちからです」と答えました。すると、イエス様はこう言われました。

では、子どもたちにはその義務がないのです。(26)

要するに、イエス様は神様のひとり子であるため、納める義務はありませんでした。それでも、イエス様は続けてこう言われました。

しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。

その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。(27)

イエス様は払わない権利を持っておられました。けれども、もしイエス様がその権利を主張されていたなら、相手は怒ったでしょう。だから、イエス様は納められました。

この話から二つの応用を考えることができます。

第一に、時には、私たちは相手のために自分の権利を譲らなければならないということです。

私が大学生の時、クリスチャンのキャンプに参加しました。暇な時間に私たちはトランプをしていました。

もちろん、ギャンブルはしていませんでしたが、ある女性が怒りました。彼女はトランプをするのはよくないと教えられていたからです。

私たちはその考え方が間違っていると思いましたが、彼女を責めることはしませんでしたし、彼女の感情を無視することもありませんでした。むしろ、私たちはトランプをやめました。

もし続けていたら、彼女につまずきを与えることになり、それは罪だったでしょう。

もう一つの応用は、私たちが信じていることのゆえに相手を怒らせてしまうことがあるかもしれません。それでも、私たちは彼らに愛を示すことができます。

あるクリスチャンは、ゲイの生活が罪であると明確に言いますが、エイズにかかっているゲイの人々を愛し、世話をすることもします。

私の牧師の義理のお父さんとお母さんはクリスチャンではありません。そして、仏教の儀式があるとき、私の牧師とその妻は参加しません。

しかし、彼らはご両親にこう言いました。「私たちは儀式に参加しませんが、家を掃除し、儀式の後、食べ物を出したり、できるだけお手伝いします。」

彼らは、自分が信じることをはっきりと伝える一方で、愛も示しました。

私たちが信じることのゆえに相手を怒らせてしまうことがあるかもしれません。けれども、意図的に相手を怒らせることは罪です。

私たちがただキリストに従うゆえに怒る人がいることはやむを得ないことですが、意図して彼らを怒らせる必要はありません。

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マタイの福音書 マタイ17章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

訊くのを恐れる?

この箇所で、イエス様は再び弟子たちに、エルサレムで何が起こるのかを説明されました。彼は非常に明確に語られました。

このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。(マタイ17:22-23;ルカ9:44)

弟子たちはどのように反応したのでしょうか。

しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。(ルカ9:45)

多くの私たちにとって、弟子たちがイエス様の言葉を理解できなかった理由はわかりにくいかもしれません。

イエス様は曖昧な表現をされたわけではなく、率直に語られました。それにもかかわらず、なぜ弟子たちはイエス様の言葉を理解できなかったのでしょうか。

ルカはその理由を私たちに示しています。「このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。」

では、なぜその言葉は彼らから隠されていたのでしょうか。おそらく、彼らの心はその言葉を理解できるほど十分に準備されていなかったからです。彼らはまだ、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、新しい王国を築かれることを望んでいました。

けれども、その希望にあまりに集中しすぎたため、イエス様の明確な言葉を理解することができませんでした。さらに、彼らはイエス様にその言葉の意味を尋ねることを恐れました。

なぜ彼らは恐れたのでしょうか。私は、彼らがイエス様の叱責を恐れたとは思いません。むしろ、彼らはイエス様の言葉が比喩ではなく、現実のものだと気づくことを恐れたのではないでしょうか。

彼らはイエス様が殺されるという事実に意識を向けすぎて、イエス様がよみがえられるという約束を聞き逃してしまいました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

時として、私たちは自分の考えに固執しすぎるあまり、イエス様が明確に語られても、その言葉を正しく理解できないことがあります。「イエス様はこう言っているように聞こえるけれど、きっと本当の意味は違うはずだ」と思い込んでしまうのです。

それでも、私たちはイエス様に尋ねることを避けたくなることがあります。なぜなら、もしイエス様が本気でそう言われたのなら、私たちは自分の考え方や生き方を変えなければならないからです。そして、変えることは時に恐ろしく感じられます。

たとえば、パウロはこう言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(第二コリント6:14)

つまり、もし相手があなたを神様とその道から遠ざけるのであれば、その人から離れたほうが良いということです。

しかし、クリスチャンではない人と交際しているクリスチャンにとって、またクリスチャンではない人と婚約しているクリスチャンにとって、この言葉は受け入れがたいものかもしれません。

「これは、彼氏と別れるべきだという意味なのだろうか?」

そう思いながらも、彼らは神様に尋ねたくありません。なぜなら、神様に尋ねれば、答えは明確であり、その人と別れるべきだと示されるかもしれないからです。

また、パウロはこうも言っています。「不品行を避けなさい。」(第一コリント6:18)

すると、あるクリスチャンはこう考えるかもしれません。「この言葉の意味は、私が彼氏と関係を持つべきではないということなのだろうか?」

けれども、その人は神様に尋ねたくありません。なぜなら、すでに関係を持ってしまっているからです。

正直に言うと、真理を聞くことは時に痛みを伴うものです。自分の考え方や行動を変えることもまた、大きな痛みを伴うことがあります。

しかし、その苦しみに意識を向けすぎるあまり、私たちはその先にある祝福や希望を見落としてしまうことがあるのです。

たとえば、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」と書かれている箇所には、次のような言葉もあります。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。(第二コリント6:17-18)

さらに、「不品行を避けなさい。」と書かれている箇所には、次のような言葉があります。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であることを知らないのですか。」(第一コリント6:19)

私たちは、この真理についてもっと深く考えるべきです。

だから、聖書について疑問があるなら、積極的に尋ねるべきです。そして、その言葉を心に抱き、日々の歩みにおいて生きるべきです。

最初は痛みを伴うかもしれませんが、やがて私たちは神様からの祝福を知ることになるでしょう。

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私たちの信仰はどこでしょうか

私の信仰はどこにあるのだろうか。

時々、私は自分自身にそう問いかけます。「どうして私は神様をもっと信頼できないのだろうか。」

けれども、時には少し違う質問をします。「私は何を信頼しているのだろうか。」

この箇所では、その二つの問いが浮かび上がります。

イエス様、ヨハネ、ヤコブ、そしてペテロが山から戻ったとき、他の弟子たちは律法学者と論じ合っていました。彼らが何について議論していたのかは定かではありませんが、おそらく律法学者はこう言ったのかもしれません。

「あなたの先生は神様から来たのではありません。ほら、あなたたちはこの男の子から悪霊を追い出せなかったではありませんか。」

いずれにせよ、イエス様が彼らに「何について話していたのか」と尋ねられると、その男の子の父親はこう言いました。

先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。

それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。(マルコ9:17-18)

そして、そのお父さんは必死に願いました。

もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。(マルコ9:22)

イエス様はこう答えました。

できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(マルコ9:23)

私はその父親に共感できます。彼はこう言いました。

信じます。不信仰な私をお助けください。(9:24)

どのように、その父親はその言葉を口にしたのでしょうか。もしかすると、彼の希望はほとんど失われていて、信じることが難しかったのかもしれません。しかし、彼はイエス様が救えないなら、誰も救えないということを理解していました。

そこで、イエス様の目を見つめながら、その父親は涙を流し、自らの不信仰を認めました。

「イエス様、私は信じたいのですが、この問題は長い間続いてきました。あなたを信じることは、とても難しいのです。けれども、あなたが助けてくださらないなら、私は希望を失います。どうか、私が不信仰を克服できるよう助けてください。」

イエス様は、その父親の願いを聞かれると、悪霊を追い出されました。

私はこの話から希望を受け取ります。私もよく不信仰と戦います。私の信仰の小さな滴は、不信仰の大波に圧倒されることがあります。

その父親も同じように感じたことでしょう。しかし、彼が不信仰であったにもかかわらず、イエス様は憐れみと恵みを示し、その息子を癒してくださいました。

時々、私も神様の良さを疑うことがあります。けれども、私が叫ぶとき、イエス様は答えてくださいます。神様は私に憐れみと恵みを与えてくださり、私はもう一度神様の恵みと憐れみを思い出します。

いずれにせよ、この話の中で、弟子たちはイエス様に尋ねました。

なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。(マタイ17:19)

そして、イエス様は彼らに信仰について教えられます。

あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。

もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

でも、イエス様はもう一つのことを言われました。

この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。(9:29)

覚えていてください。その出来事の前に、弟子たちはイスラエルの中で多くの人々から悪霊を追い出しました。けれども、時が経つにつれ、彼らはその力の源を忘れてしまったかもしれません。

そのため、彼らは神様を信頼せず、自分の力と方法に頼り始めたのかもしれません。そして、祈ることを忘れてしまい、悪霊を追い出すことができませんでした。

私はこの話を読むたびに、自分自身に問いかけます。「私は何を信じているのだろうか。自分の能力や賜物に頼っているのか。自分の知恵に頼っているのか。それとも、神様に頼っているのか。」

神様を信頼するなら、たとえからし種ほどの信仰しかなくても、何でも可能になります。しかし、自分自身に頼るなら、私は何もできません。

毎日、このことについて考えなければなりません。私はよく失敗します。もしあなたも不信仰との戦いをしているなら、一緒に祈りませんか。

イエス様、私の信仰はどこにあるのでしょうか。私の状況を見るとき、私はしばしばパニックになり、あなたが私を助けてくださるかどうかを疑ってしまいます。

私の不信仰をお赦しください。すべてのことにおいて、あなたを信じることができるよう助けてください。私の心と状況の中で働いて、私に平和と喜びを与えてください。

私は何を信頼しているのでしょうか。私はしばしば自分自身に頼り、それによって失敗します。どうかお赦しください。あなたの声を聞き取れるように助けてください。そして、私が毎日あなたを信頼できるよう導いてください。アーメン。

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聞きなさい

福音書の中で、これは最も興味深い話の一つだと思います。また、この出来事のタイミングも印象的です。

イエス様は、メシアに関する弟子たちのイメージを打ち砕いたばかりでした。

さらに、弟子たちはイエス様が死んでよみがえるという話をまったく理解できませんでした。だから、イエス様が十字架で死ぬまで、彼らはその話を脇に置き、それについて深く考えないよう努めました。

弟子たちは、「イエス様はただのたとえ話をしているのだろう。もしかすると、イエス様は間違えているのかもしれない」と考えた可能性があります。いずれにせよ、彼らは心の中でイエス様の言葉に真剣に向き合っていませんでした。

そこで、一週間ほど後、イエス様は最も親しい弟子である三人に、このことを理解させようとされました。

ところで、マタイとマルコは「それから六日たって」と記していますが、ルカは「これらの教えがあってから八日ほどして」と述べています。どちらの記述が正しいのでしょうか。ルカは誤っていたのでしょうか。

実は、「八日ほど」というギリシャ語の表現は、当時広く使われた熟語でした。その意味は「およそ一週間」ということです。

もう一つの可能性として、当時のユダヤ人たちは、一日の一部(一時間でも)を一日と数える習慣がありました。(これはイエス様の復活に関する記述でも見られる考え方です。)

そのため、ルカの言葉の意味は、メシアに関する会話が最初の日に始まり、山での出来事が最後の日に起こり、その間に六日間が経過した、ということかもしれません。

いずれにせよ、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山へ連れて行かれました。そして、イエス様が祈っておられる間、彼らは眠ってしまったようです。したがって、おそらく次の出来事をほとんど見逃してしまいました。

イエス様は輝き、エリヤとモーセと話しておられました。そして弟子たちが目を覚まし、イエス様とエリヤ、モーセの会話を聞いたとき、モーセとエリヤは、イエス様の死と復活について語っていました。(ルカ9:30ー31)

弟子たちはそれを目の当たりにし、完全に目を覚ました後、いつものようにペテロが真っ先に話し始めました。

先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。(マタイ17:4)

ところが、光り輝く雲が弟子たちを包み込み、その雲の中から声が響き渡りました。

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5)

その声を聞くと、彼らは恐れ、ひれ伏しました。けれども、すぐに彼らは別の声を耳にしました。それは、彼らが愛するイエス様の声でした。

起きなさい。こわがることはない。(マタイ17:7)

彼らが目を上げると、イエス様は元の姿に戻っていました。彼はもう輝いておらず、モーセとエリヤの姿もすでに消えていました。

そして、彼らが山を降りた時、イエス様は彼らに警告されました。

人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。(マタイ17:9)

どうしてイエス様は彼らにその幻を見せられたのでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らがイエス様の使命を理解するためです。

けれども、イエス様はもう一つのことを教えようとされました。それは、死は終わりではないということです。

彼らはモーセとエリヤを目にしました。モーセは山で死にましたが、エリヤは死なずに天国へと引き上げられました。それでも、彼らはなお生きており、イエス様と語り合っていました。

それでも、その三人の弟子たちはまだ理解していませんでした。そこで、彼らが山を降りている時、「死人の中からよみがえる」と言われたことの意味について論じ合いました。(マルコ9:10)

ただし、私にとって最も印象に残ったのは、天の父の言葉です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

時には、イエス様の弟子たちのように、私たちもイエス様の言葉を完全には理解できないことがあります。そして、後になって弟子たちと同じように、その言葉の意味を悟ることができるようになるでしょう。

しかし、その意味がわかっても、わからなくても、イエス様は私たちの主です。天の父がイエス様を送られたのですから、私たちはイエス様の言葉を聞き、従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様の言葉を理解できなくても、イエス様を信頼し、その言葉に従うことができますか。

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最も大切なもの

あなたは何のために生きているでしょうか。何を求めているでしょうか。

楽な人生でしょうか。富でしょうか。この世の物でしょうか。

この箇所で、イエス様は私たちに自分の優先順位を見直すように挑戦されています。イエス様は弟子たちに、そして私たちに、本当に難しいことを語られました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:23)

イエス様は私たちにそう要求されましたが、ご自身もそのように生きておられました。

イエス様は自分自身を捨てられました。

イエス様は天国に留まり、私たちをそのまま放置し、地獄へ向かわせることもできました。けれども、イエス様は天国を離れ、栄光を捨て、天使の礼拝を後にしてこの世に来られ、人間となられました。

この世において、イエス様はご自身のニーズを優先せず、周囲の人々の必要を満たすことを選ばれました。

イエス様は十字架を背負われました。

イエス様は打たれ、血を流されながらも、自らの十字架を死刑の場まで運ばれました。そして、十字架上で激しく苦しまれ、死なれました。なぜでしょうか。

天の父の計画を成し遂げるためです。私たちの救いのために死なれました。

イエス様がご自身を捨てられたように、私たちも自分自身を捨てるべきです。とはいえ、それは人生を楽しんではいけないという意味ではありません。イエス様もご自身の人生を楽しまれました。

ただし、神様の計画を果たすために、時には自分のニーズや願いを手放す必要があるのです。

時には、私たちは苦しまなければならないことがあります。私たちの家族は、私たちの信仰のゆえに私たちを拒絶するかもしれません。日曜日に働かないことで、職を失うかもしれません。イエス様に従うがゆえに、迫害を受けるかもしれません。

それでも、私たちは苦しみの中にあっても、イエス様に従うべきです。

なぜでしょうか。それは、イエス様にあって、私たちが最も大切なものを見出すからです。それは、イエス様との関係であり、また私たちのために備えられたイエス様の計画を成し遂げることです。

しかし、ある人々は、自分が欲しいもののために、イエス様とその計画を捨てます。彼らは自分の欲望を手放さず、代わりにイエス様を手放してしまいます。

イエス様は彼らにこう言われます

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。(ルカ9:25-27)

時に厳しい現実ですが、もし私たちがイエス様を捨て、自分の欲望を持ち続けるなら、最終的にすべてを失ってしまうのです。

けれども、逆に自分の願いを手放し、イエス様に従うなら、真の満足と平安を見出すことができます。なぜなら、裁きの日に、イエス様は私たちに報いを与えてくださるからです。

この世においても、私たちはその栄光を垣間見ることができます。

そのため、イエス様は弟子たちにこう約束されました。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。(マルコ9:1)

弟子たちはイエス様のために苦しみましたが、彼らは神の国が力強く到来するのを目の当たりにしました。神様は彼らを通して奇跡を行われ、福音によって多くの人々の人生が変えられました。

また、彼らはイエス様のために殉教しましたが、神の国に着いたとき、素晴らしい報いを受けました。

あなたはどうでしょうか。一番大切なものを得るために、自分の欲するものを手放すことができるでしょうか。

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イエス様の邪魔するもの

私たちはよく、他のクリスチャンにつまずきや妨げとなるものを置かないよう、注意するように教えられます。

また、キリストを信じない人々に対して、イエス様が「つまずきの石」や「妨げの岩」であるということをよく聞きます。

しかし、私たちはどれほどイエス様の働きを妨げる存在になってしまうことがあるでしょうか。この箇所を読んだとき、そのことを考えさせられました。

イエス様は弟子たちに、神様の計画を成し遂げるために、ご自身が死ななければならないと語られました。

弟子たちはその言葉を聞いて驚きました。彼らは初めてこの話を聞いたし、それは彼らが思い描いていたメシア像とはかけ離れたものでした。

彼らは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、イスラエルを解放されると信じていました。そして、彼ら自身がイエス様の大臣になると思い込んでいました。そのため、イエス様の言葉に深く戸惑ったのです。

けれども、いつものように、ペテロは真っ先に自分の思いを表現しました。

主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。(マタイ16:22)

「神の御恵みがありますように」という言葉は直訳するとそのようになりますが、その本当の意味は「まさか!」という驚きの表現です。

つまり、ペテロはイエス様の言葉に対して強く反対しました。

私たちはどれほどイエス様を「主」と呼びながらも、イエス様の言葉に逆らうことがあるでしょうか。ペテロもそうしました。

そのため、イエス様は彼を厳しく叱責されました。

下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(23)

もしイエス様に「サタン」と呼ばれたら、あなたはどう感じるでしょうか。イエス様はペテロを「サタン」と呼ばれました。なぜなら、ペテロの口から出た言葉は、サタンの考えそのものだったからです。

イエス様は、私たちの罪のために十字架で死ぬことをすでに決断されていました。しかし、ペテロはイエス様の計画に強く反対しました。だからこそ、イエス様の敵がイエス様を逮捕しようとしたとき、ペテロは下手ながらも彼らを攻撃しました。

ところが、その態度によって、彼はイエス様とその計画を妨げる者となってしまいました。ペテロは、自分の思いをイエス様の思いに合わせようとはしませんでした。むしろ、イエス様の思いを自分の思いに合わせようとしたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生において、あなたは神の御心を考えていますか?それとも、人の考えにばかりとらわれていますか?

あなたは自分の計画を神様の計画に合わせているでしょうか?それとも、神様の計画を自分の計画に合わせようとしているでしょうか?

あなたは神様の御心に従っているでしょうか?それとも、神様の名前を自分の計画に利用しようとしているでしょうか?

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マタイの福音書 マタイ16章

教会が立つ基礎

これは本当に印象的な箇所ですので、もう一度見てみましょう。

ペテロがイエス様に向かって「あなたはキリストです」と告白した後、イエス様は彼を称賛されました。

するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイの福音書16:17-19)

それは本当に印象的な言葉ですが、その言葉が意味するものとは何でしょうか。そして、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

まず最初に、神様がご自身を現わされると救いがもたらされるということです。

人々は神様を自ら見出すことができないため、神様がご自身とその真理を明らかにされなければ、私たちは神様のことを知ることはできません。そのため、救いはまさに恵みから来るものなのです。

カトリック教徒たちはペテロを尊敬し、ペテロの権威によってイエス様が教会を建てられたと教えています。

けれども、この箇所では、イエス様はそのように教えられたわけではありません。「ペテロ」という名前は「小さい石」という意味を持っていますが、イエス様は「岩の上に教会を建てる」と言われました。

ペテロ自身もその言葉を忘れず、こう語っています。

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:4-6)

ペテロによれば、教会は何の石の上に立つでしょうか。それはイエス様です。

私たちクリスチャンは何者でしょうか。私たちは生ける石です。そして、神様は私たちを用いて、ご自身の家、つまりご自身の神殿を建てておられます。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きのゆえに、神様の祭司となりました。

私たちには祭司が要りません。なぜなら、私たち自身が神様の祭司だからです。私たちは確信をもって、大胆に天の父の御もとに近づくことができます。

教会がイエス様の上に建てられたので、ハデスの門もそれには打ち勝つことができません。サタンはずっと教会を滅ぼそうとしましたが、教会は今もなお立っており、イエス様が戻られるまで立ち続けるでしょう。

イエス様はペテロに特別な権威を与えられたでしょうか。おそらくそうされたでしょう。しかし、その時、ペテロとほかの弟子たちはイエス様の言葉を完全に理解していなかったと思います。

イエス様が天に戻られた後、ペテロの最初のメッセージを通して、多くのユダヤ人がクリスチャンとなりました。(使徒の働き2章)

また、異邦人もペテロを通して福音を聞き、初めてクリスチャンになりました。(使徒の働き10–11)

つまり、ペテロは天の御国の鍵を使ったことで、ユダヤ人と異邦人が初めて神の国の門に入ることができました。

さらに、その鍵を用いて、ペテロとヤコブは、ユダヤ人の儀式的な律法および食事に関するルールのほとんどを解きましたが、教会の平和を守るためにいくつかの律法を守るよう指示しました。(使徒の働き15章)

それでも、ペテロが最初の法王であり、他の人々がペテロの権威と立場を継いだとは言えません。イエス様は、そのようなことを決して言われませんでした。

実は、ある程度、イエス様の言葉はすべてのクリスチャンに当てはまります。

神様の祭司として、私たち皆は天の御国の鍵を受けています。そして、私たちが福音を伝えると、その福音を聞いて信じる人々に天の国の門が開かれます。

また、私たちは信じる人々に対して、彼らの罪が恵みによって赦されることを宣言する権威を持っています。したがって、彼らは自分の働きによって救いを得ようとする考え方から解放されます。

ですから、その鍵を使いましょう。そうすれば、彼らも私たちがいただいた救いを受けることができるのです。

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最も大切な質問

イエス様がミニストリーの半ばに差し掛かった頃、十字架のことを考え始められました。それゆえ、イエス様は弟子たちが自分についてどう思っているかを知りたいと願われました。

彼らはイエス様をただの預言者だと考えていたでしょうか。ただの良い教師だと思っていたでしょうか。

そこで、イエス様は弟子たちにこう尋ねられました。「人々は私のことをだれだと言っていますか。」

弟子たちは様々に答えました。その後、イエス様はさらに問われました。「では、あなたがたは、私をだれだと言いますか。」

この問いは、あの時代の人々のためだけでなく、すべての世代の人々のためのものです。今もなお、イエス様は私たちに尋ねられます。「あなたは私をだれだと言いますか。」

イエス様を預言者だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は預言者でした。イエス様を通して、私たちは神様の言葉を聞くことができます。

では、イエス様を良い人だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は良い人です。彼は一切罪を犯されませんでした。

とはいえ、イエス様はただの預言者なのでしょうか。ただの良い人なのでしょうか。

ペテロはそうは考えませんでした。彼はこう言いました。

あなたは、生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16)

ペテロがそう言ったとき、ユダヤ人たちは「メシア」、つまり「キリスト」という言葉の本当の意味を十分に理解していませんでした。(「メシア」と「キリスト」は同じ意味です。)

弟子たちも、その意味を完全には理解していませんでした。そのため、イエス様はご自身がキリストであることを誰にも言ってはならないと、弟子たちを戒められました。

もしある概念を理解できていなければ、それを他の人々に正しく説明することは難しいでしょう。

彼らは、メシアが人々の罪のために死ななければならないことを理解していませんでした。彼らが理解していたのは、「いつかメシアがイスラエルを治める」ということでした。

そのため、「キリスト」や「メシア」という言葉を聞くと、そのイメージがまず浮かびました。

あなたはどうでしょうか。イエス様がメシアであることを信じていますか?つまり、イエス様があなたの罪のために死なれたことを信じていますか?そして、イエス様はあなたの王ですか?あなたの人生をイエス様に捧げていますか?

イエス様は、ただの預言者ではありません。イエス様は、ただの良い人でもありません。イエス様は神です。

ユダヤ人たちは、イエス様の主張を正しく理解していました。確かに、ある意味では私たちすべてが神の子供です。なぜなら、神様が私たちを創造されたからです。

けれども、イエス様は「神様が自分を造られた」という意味ではなく、「自分は永遠から本当に神の子である」と主張されました。

そのような主張は、実際には「自分が神である」という宣言です。

その主張のために、ユダヤ人たちはイエス様を十字架につけて殺しました。(ヨハネ5:18、マタイ26:63ー66)

もしイエス様があなたの神であり、王であるなら、イエス様はあなたの礼拝と奉仕に値します。しかし、あなたは本当にそう信じていますか? ペテロのように、あなたは言うことができますか?「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

もしあなたがそのことを信じているけれど、まだ告白していないのなら、今、祈りませんか。

イエス様、私はあなたをただの良い人だとは思いません。私はあなたをただの預言者だとも思いません。

あなたが神であることを信じます。 私は、あなたが十字架で私の罪のために死なれたことを信じます。また、あなたが三日目によみがえられたことを信じます。 それを心から感謝します。

どうか私の神になってください。私の王になってください。 これから、私はあなたに従いたいです。どう生きるべきかを教えてください。アーメン。

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マルコの福音書 マルコ8章

盲人

17年くらい前の話ですが、私の父が転倒した際にメガネが割れ、父の目にガラスが入ったため、視力を失いました。

おそらく、この聖書の箇所に出てくる男性も似た経験をしていたのではないかと思います。彼は若い頃にはきちんと見ることができたけれど、事故や病気のせいで視力を失ったのかもしれません。そう考えられる理由は、彼が木や人の形をよく知っていたからです。

さて、イエス様がその男性を癒された際、その手順は少し変わっていました。イエス様はその男性の両目に唾をつけ、その目に触れました。

もしかしたら、多くの盲人と同じように、彼の瞼は粘着質のものが原因で閉じていたのかもしれません。そのため、洗い清める必要があったのでしょう。

そしてイエス様は彼の目を開きました。その後、イエス様は彼に「何か見えるか」と尋ねられました。

男性は、「人が見えます。木のように見えますが、歩いているのが分かります」と答えました。

イエス様がもう一度彼の両目に触れると、その男性の目は完全に癒されました。

イエス様がその人の目を癒されたように、イエス様は霊的に盲目な人々も癒してくださいます。ただし、この話のように、時には段階があります。

イエス様は彼らの霊的な瞼を開くために、彼らの罪深い考えを洗い清めてくださいます。そして彼らは少しだけ見ることができるようになりますが、まだはっきりとは見えません。

しかし、イエス様が彼らにもう一度触れると、彼らの霊的な目は完全に癒されます。その時、彼らが最初に見るものはイエス様です。

その後、イエス様は彼らの思いと人生を変え、彼らは新しい人に生まれ変わります。

ですから、もし周りの人々がイエス様を見ることができず、人生を変えられる真理に気づいていないとしても、諦めないでください。時間がかかることもあるでしょう。

また、あなたが彼らの霊的な目を開くことはできません。彼らの目を開くことができるのはイエス様だけです。そのため、彼らのために祈り続け、霊的な種を蒔き続けてください。

そして、神様の恵みによって、いつの日か彼らの目が開かれる時が来るでしょう。

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律法主義?それとも、この世を愛する?

私は、このブログで何度も言っていることですが、牧師のメッセージを聞くときも、ポッドキャストを聞くときも、クリスチャンの本を読むときも、その教えを必ず聖書と比べるべきです。

実際、このブログの記事も同様です。私が書く内容も、聖書と比べて確認する必要があります。(あなたがこのブログを読まれる際、ぜひ聖書の箇所も読んで、私の言葉を確かめてみてください。)

さて、この箇所では、私たちがなぜ人々の教えを聖書と比べるべきなのか、その重要性を学ぶことができます。

この箇所では、イエス様が5000人にパンを与える奇跡を繰り返されます。けれども、この出来事はまったく別のものです。人数も異なり、パンと魚の数も違っています。

その奇跡の後、パリサイ人たちとサドカイ人たちがイエス様のもとに来ました。(もしかすると、サドカイ人たちの中にはヘロデ王に従う者も含まれていたかもしれません。)

彼らは再びイエス様に天からのしるしを求めましたが、イエス様はそれを断られました。そして、その会話の後、イエス様は弟子たちにこう言われました。

パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。(マタイ16:6)

(マルコによれば、イエス様は「ヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と言われました。多分、イエス様はヘロデに従うサドカイ人たちについて話されたのでしょう。)

いつものように、弟子たちは混乱しました。

「私たちはパンを持っていない。でも、もしかすると、パリサイ人やサドカイ人からパンを買うことは禁止されているのではないでしょうか。」

しかし、イエス様は彼らを叱られました。

「なぜ、パンについて話しているのですか。あなたたちは、私が5000人にパンを与えた時、また、4000人にパンを与えた時のことをもう忘れてしまったのですか。私は、そんなパンについて話しているのではありません。」

そして、マタイはこう記しています。

彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。(マタイ16:12)

彼らの教えは何だったでしょうか。

パリサイ人の教えは律法主義でした。彼らは、自分の良い行動によって神様の国に入ることができると考えました。だから、彼らは律法を勉強し、その律法に従おうと懸命に努力しました。

ところが、彼らは神様の律法に多くのルールを加えたため、人々に神様が意図されなかった重荷を負わせました。それだけでなく、彼らは自分たちが加えたルールを守らない人々を批判しました。

さらに、彼らは神様の律法に反するルールさえも作り上げました。

それだけではなく、彼らは律法の細かな点に集中しすぎたため、その律法の精神を見逃してしまいました。その結果、彼らは誤って人々を裁き、本当の正義と憐れみを忘れてしまったのです。他の箇所を読むと、そのことがより明確にわかります。

一方、サドカイ人たちは富と力に強い関心を持っていました。そのため、彼らはローマ帝国(およびヘロデ王)と協力しました。また、彼らは復活を信じていませんでした。そのため、永遠の物ではなく、一時的な物事に重点を置いていました。

だからこそ、イエス様は律法主義とこの世を愛することに対して警告を発せられたのです。どちらもパン種のように教会の中に広まり、やがて神様がその教会を用いられなくなる原因となるからです。

残念ながら、その時代の多くの人々は、パリサイ人とサドカイ人の教えを吟味しませんでした。

そのため、彼らは律法とルールに押しつぶされ、神様に裁かれると感じました。また、別の人々は永遠の物に目を向けることなく、一時的な物のためだけに生きていました。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは、この二つの罠に陥っていないでしょうか?

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人々をイエス様のもとに連れて行く?

この箇所では、イエス様の癒しのミニストリーがどれほど人気だったかがわかります。

私の心に響くのは、多くの人々が癒されたいと思ったにもかかわらず、一人でイエス様のところに行かなかったことです。むしろ、友達や家族が彼らをイエス様のところに連れて行きました。そして、イエス様は彼らを癒されました。

その時代にイエス様が目や耳を癒されたように、現代でもイエス様は霊的な目や耳を開いてくださいます。また、イエス様が当時、人々の体を癒されたように、今ではイエス様が人々の心を癒してくださいます。

もちろん現代でも、イエス様は人々の体を癒されます。しかし、それ以上にイエス様は人々の心と魂を癒したいと望んでおられるのです。(例えば、マルコ2:1–12をご覧ください。)

さて、当時、人々が病気の友人や体が不自由な友人をイエス様のもとに連れて行ったように、私たちも苦しんでいる人々や霊的に病んでいる人々をイエス様に連れて行くべきです。私たちは彼らを癒すことはできませんが、イエス様は彼らを癒すことができます。

そのため、彼らが自分でイエス様のもとに行くのを待つべきではありません。むしろ、私たちが積極的に彼らをイエス様のところに連れて行くべきなのです。

このことに心を留めておきましょう。イエス様はしばしば人々にこう尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのか?」

また、「よくなりたいか?」

彼らが癒しを望むならば、イエス様は彼らを癒してくださったのです。

同じように、私たちは人々をイエス様のところに連れて行くことはできますが、最終的に彼ら自身が決断しなくてはなりません。彼らが癒しを望むのかどうか、イエス様が提供するものを受け入れるのかどうか。それは彼ら自身の選択です。

では、あなたはどうでしょうか?あなたは人々をイエス様のもとへ連れて行っていますか?

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根気、謙虚、信仰

イエス様はこの女性と話された時、何を考えておられたのでしょうか。また、どのようなトーンで話されたのでしょうか。

ユダヤ人と向き合われた後、イエス様はイスラエルを離れて、ツロとシドンへ行かれました。その場所はイスラエルの北にあり、海岸の近くに位置しています。

イエス様はひっそりとそこに行かれましたが、すぐに人々はイエス様がおられることを聞きつけました。その中に一人の女性もいました。彼女はギリシャ人で、その地域で生まれ育った人でした。

(マルコの福音書によれば、彼女はカナン人とも呼ばれていました。)

彼女の娘が悪霊に取りつかれていたため、イエス様に助けを求めに来ました。

主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。(マタイ15:22)

通常、イエス様は人々に思いやりをもって話されましたが、この場合はそうされませんでした。イエス様は彼女の願いを聞かれましたが、彼女を無視されました。

それでも、彼女はあきらめず、必死に叫び続けました。「主よ、私の娘を助けてください。」

だから、主の弟子たちはイエス様にこう言いました。

あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。(マタイ15:23)

それを聞いて、イエス様はその女性に向かって、こう言われました。

わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。(マタイ15:24)

イエス様はどのようなトーンでその言葉をおっしゃったのでしょうか。少し苛立たれた声だったのでしょうか。それとも、少し謝罪するような優しい声だったのでしょうか。

「ごめんね。助けたいけれど、私はユダヤ人たちのために遣わされているのです」と。

イエス様がその言葉をどのように言われたのかは分かりませんが、彼女はまだあきらめませんでした。それどころか、彼女はイエス様のもとに近づき、ひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と懇願しました。

それでもイエス様は、もう一度、少し厳しい言葉で彼女を拒まれます。

子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです(マタイ15:26)

イスラエルでは、誰かを犬と呼ぶことは侮辱とされていました。しかし、イエス様は「子犬」と言われました。彼らの言語では、「小」を付けることで、相手を少し可愛がるニュアンスが生まれます。

それでも、多くの人がその言葉を聞いたならば、感情を害されたかもしれません。

ところが、彼女は怒ることなく、イエス様の言葉を用いてこう言いました。

主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。(マタイ15:27)

つまり、彼女はこう言いました。「あなたがユダヤ人のために遣わされていることは分かっています。でも、彼らが食卓から落とすパンくずを、私たちがいただいてもよいのではないでしょうか。」

それを聞いて、イエス様は意外な言葉で彼女を褒められました。

ああ、あなたの信仰はりっぱです。(マタイ15:28)

イエス様が相手の信仰を褒められることは本当に珍しいことでした。それはたった二回だけ記録されています。そして、その二人目も異邦人でした。(マタイ8:5-13)

とにかく、イエス様はその女性の信仰を見て感動され、その娘を癒されました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか?

時には、私たちが祈るとき、神様が沈黙されているように感じることがあります。無視されているように思うかもしれません。けれども、この女性のように、私たちは根気強く祈り続けるべきです。

もちろん、私たちはイエス様に命令することはできません。(時々、ある牧師たちはそのように教えることがありますが、それは誤りです。)

しかし、謙虚な態度をもって、イエス様が私たちを助けることができると信じるならば、多くの場合、イエス様はその願いを叶えてくださいます。

ですから、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。

1.神様が良い方であり、私たちを愛しておられることを信じますか?

2.神様がその願いを叶えられても、断られても、その答えが私たちの益のためだと信じますか?

3.神様が答えられるまで(「はい」でも「だめ」でも)、私たちは祈り続けるでしょうか?

では、あなたはどうでしょうか?根気をもって祈り続けますか?神様を信頼しますか?神様があなたの願いを断られたとしても、謙遜にその答えを受け入れるでしょうか?

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本当に不潔なもの

多くの人々はモーセの律法を読むと、どうしてユダヤ人たちが聖いものと不潔なものに関するさまざまな律法を持っているのかと疑問に思うかもしれません。

一部の律法は、健康や衛生上の理由から与えられたのかもしれません。

とはいえ、神様はユダヤ人にさらに重要なことを教えたいと思われたのです。それは、いくつかのものは人を汚すということです。

物理的な聖いものと不潔なものは、霊的な聖いものと不潔なものの象徴でした。

神様が本当に伝えたいのは、「あなたが完全に聖い者になるべきだ」ということです。体だけでなく、霊も聖くならなければなりません。

残念ながら、ユダヤ人たちは物理的な聖さにあまりにも集中しすぎたため、神様の本質的な教えを見逃してしまいました。

そのため、イエス様がこう言われたとき、弟子たちは非常に混乱しました。「外側から人に入って、人を汚すことができる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」

弟子たちは幼少のころから、「このものを食べてはいけません。そのものを食べてはいけません。そのものを食べると汚されます」と教えられてきました。

だから、彼らはイエス様に尋ねました。「ええ?どういう意味ですか。私たちは、特定のものを食べると私たちが汚れると教えられました。」

そこで、イエス様はこう答えられました。

あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。。。

人から出るもの、これが、人を汚すのです。

内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:18-23)

イエス様の意味はとても分かりやすいと思います。だから、私はこれだけを尋ねます。

あなたの心には何が入っていますか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実が入っていますか。もしそうなら、それらは自然とあなたの口や人生から流れ出ます。

しかし、もしあなたの心に悪い考えや不品行などが入っているなら、それらもまた自然とあなたの口や人生から流れ出ます。そして、それらがあなたを汚してしまうのです。

あなたの口から何が流れ出ているでしょうか。あなたの人生から何が流れ出ているでしょうか。

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私たちの価値観の土台とは?

何によって、自分の価値観が基づいているのでしょうか。それは本当に重要な質問です。なぜなら、あなたの価値観が、あなたのさまざまな決断に影響を与えるからです。

パリサイ人たちにとって、モーセの律法や預言者の言葉は非常に大切なものでした。とはいえ、彼らにとって伝統はそれ以上に重要なものでした。

おそらく彼らは言葉では表さなかったかもしれませんが、行動でそれを示していました。そのため、時々彼らは神様の戒めを無視し、自分たちの伝統に従うことを選んでいました。

だからこそ、イエス様は彼らを厳しく非難されたのです。

あなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。(マタイ15:6)

あいにく、たくさんのクリスチャンがそのように生きています。神様の言葉を無にして、別の基準に従うのです。

ある人は自分の文化や伝統に従います。たとえば、仏壇で線香をあげる人がいます。

「それはただの文化的なことです。深い意味はありません。ただ日本の風習です。」

けれども、そのようにすることで、文化や伝統のために神様の戒めを無視しているのです。(第一コリント10:19-22)

文化は別の形で私たちに影響を与えることもあります。

例えば、アメリカでは、一部の人々がこう言います。「私はキリストを信じて従います。とはいえ、聖書が間違っていると信じ、同性愛は良いものだと考えます。」

なぜ彼らはそのように信じているのでしょうか。彼らは神様に反抗する文化にますます従っているからです。彼らの価値観は、この世の文化に合わせて調整されています。しかし、それをすることで、神様の戒めを捨てざるを得なくなります。

あるクリスチャンは自分の誤った意見を離さずに神様の戒めを捨てます。例えば、神様は「クリスチャンではない人と結婚してはならない」と言われます。

それでも、彼らはこう言います。「でも、私はこの人を愛しています。きっとなんとかなるでしょう。」

その結果、彼らは神様の戒めを捨て、その人と結婚するのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの価値観の基準は何でしょうか。文化でしょうか。伝統でしょうか。自分の意見でしょうか。

真実はただ一つの基準しかありません。それは神様の言葉です。

文化は変わるかもしれません。伝統は変わるかもしれません。あなたの意見も変わるかもしれません。しかし、神様の言葉は決して変わることはありません。

預言者イザヤはこう言いました。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ40:8)

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使徒の働きのデボーション

抜かれた?(旧約聖書が私たちに関係あるでしょうか)

普段私はこんなことをしないけど、最近、私は有名なアメリカの牧師のメッセージを聞いたので、そのことについて話したいと思います。

彼は、使徒の働き15章から話しました。私は、そのメッセージの80%ぐらいに賛成できたけど、あと20%は賛成できませんでした。

でも、彼を批判するよりも、私は、どのように旧約聖書が私たちに関係があるか話したいと思います。

多分、彼の要点は、クリスチャンになるために、私たちがユダヤ人になる必要がないことです。つまり、ユダヤ人たちは神様がモーセとイスラエル人に与えた契約に結ばれたけど、私たちは、その契約とは結ばれていません。

今、クリスチャンたちの皆は(ユダヤ人でも、ユダヤ人じゃなくても)神様の恵みによって、神様の民になります。私たち皆、救い主が必要である罪人です。

多分、彼はそう言いたかったと思います。もしその牧師が、そのように説明していたら、彼を批判する人はいないと思います。でも、彼はこう言いました。

「不品行を定義するために、パウロやほかの使徒たちは旧約聖書、つまり、モーセの律法を調べませんでした。実は、彼らは罪を定義するために旧約聖書を全然調べませんでした。」

「あなたは、十戒とは全く関係ありません。あなたは、そのユダヤ人の律法、またモーセの律法に全然関係ありません。あなたは十戒に従うべきではありません。なぜなら、その律法は、あなたのためではないから。

あなたが従う律法(つまり、隣人を愛する戒め)は、より優れたものです。あなたが従う律法は、もっと理解しやすいです。実は、あなたが従う律法は、あなたからもっと要求します。」

「ペテロとヤコブとパウロがクリスチャンの信仰について話したとき、旧約聖書に頼りませんでした。彼らは教会から旧約聖書の世界観や、価値観や、律法を抜きました。

どうやってクリスチャンになることについて教えたとき、旧約聖書を全然使いませんでした。教会から旧約聖書の全体を抜きました。使徒たちは、クリスチャンの信仰から旧約聖書を抜いたし、私たちもそうするべきです。」

私は、この牧師の言葉を言いなおします。そうすれば、あなたには、彼の言葉と聖書の言葉の違いをはっきり見ることができると思います。彼の最後のポイントから始めましょう。

1.ペテロとヤコブとパウロは、クリスチャンになることと、ユダヤ人になることを区別しました。

ユダヤ人の世界観によれば、あなたが救われたいなら、ユダヤ人にならなくてはいけませんでした。また、モーセの律法のすべてを守らなくてはなりませんでした。

だから、使徒の働き15章では、あるユダヤ人たちは「クリスチャンになりたいなら、ユダヤ人になるべきです」と言いました。

でも、ペテロたちは、その考え方を捨てました。私たちも、そうするべきです。

それでも、旧約聖書は、教会とその教えにとって欠かせないものでした。だから、パウロはテモテにこう言いました。

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。(第一テモテ4:13)

パウロは「聖書」と言ったけど、私たちの66書のある聖書(創世記から黙示録)について話していません。なぜなら、パウロがその言葉を書いた時、新約聖書は、まだ書かれている途中だったから。

もう書かれた手紙と福音書があっても、多分テモテはそのすべてを持っていなかったでしょう。

それに、新約聖書の著者たちが「聖書」と言ったとき、その意味が「新約聖書の書」だったのは二回だけでした。(第二ペテロ3:15-16--パウロの手紙、第一テモテ5:17-18--多分ルカの福音書)。

だからパウロは「聖書」と言ったとき、だいたい旧約聖書について話していました。

ところで、その牧師の話の話では、もう一つの問題が出てきます。彼は、よく言います。

「使徒たちの信仰は特別な本(つまり、聖書)に基づいていなかった。なぜなら、彼らは特別な本を持っていなかったから。」

もちろん、使徒たちは新約聖書の全部を持ってはいなかったけど、彼はきっと旧約聖書をもって、教えました。

使徒たちは、すべての教会で旧約聖書の全体を持っていたかどうかわかりませんけど、彼らの手紙でも、福音書でも、また彼らのメッセージでも、彼らは、いつも旧約聖書を引用しました。

また、上記の箇所では、パウロはテモテに、「旧約聖書を朗読しさい」と言いました。

この牧師は、もう一つのことをよく言います。「使徒の働きでは、ペテロたちは、いつもイエス様の復活について教えました。聖書ではなく、イエス様の復活は彼らの信仰の基礎でした。」

もちろん、イエス様の復活は、彼らの信仰の基礎でした。でも使徒の働きで、彼らのユダヤ人に対するメッセージを読んで見てください。彼らは復活だけはなく、旧約聖書も指摘しました。

「ほら、旧約聖書では、神様は、イエス様の死と復活について話しています。」

そして、パウロはコリント人に復活について話したとき、最初に旧約聖書を指摘しました。(第一コリント15:3-4)

だから、教会にとっては、旧約聖書は欠かせないものでした。でも、彼らは旧約聖書を読んだとき、ほかのユダヤ人と違うレンズを使いました。イエス様の復活の後、イエス様は彼らにそのレンズを与えました。(ルカ24:26-27、44-47)

もしあなたがそのことを疑うなら、使徒の働きと使徒たちの手紙を読んでみてください。何回も彼らはイエス様からのレンズを用いて、旧約聖書を教えました。彼らの教えには、旧約聖書は欠かせないものでした。

ところで、そのレンズは何でしたか。旧約聖書のすべてがイエス様を指していることです。イエス様の死と復活は一つの例です。

また、そのレンズのため、儀式に関る律法は私たちには、もう関係がないのです。その儀式はイエス様のことを示していました。でも、イエス様はもう来て、その律法を満たしたので、その儀式はもういりません。(へブル人への手紙8-10章を読んでください。)

ユダヤ人の民法もイエス様のことを指しています。

例えば民法は聖さの大切さを教えました。また民法は、罪の深刻さを教えました。もしあなたが、民法に書かれた罰がひどいと思うなら、十字架を見てください。そこで、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

とにかく、ユダヤ人の民法の目的もイエス様を指しているので、イエス様が来た後、私たちはその律法に従う必要がありません。でも、その律法を読むとき、イエス様があなたのために何をしてくださったか忘れないでください。

2.教会で使徒たちは不品行や、ほかの罪について教えたとき、旧約聖書によって、その罪を定義しました。

私たちにとっては、「不品行」というのは、ちょっとあいまいなことかもしれないど、パウロは具体的にそれを説明しました。そして、その定義は旧約聖書の律法から来ました。パウロはこう言いました。

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。

律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。(ローマ7:7)

パウロは、むさぼることについて話したけど、それは例だけでした。ほかの罪を入れてもいいです。だから、その言葉をちょっと変えてみましょう。

律法が、「姦淫してはならない。同性愛は罪です。獣と寝てはならない」と言わなかったら、私は不品行を知らなかったでしょう。

でも律法は足りませんでした。なぜなら、律法は罪を定義するけど、私たちに罪を克服する力を与えてくれないから。

だから、パウロはこう言いました。

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)

地図は私たちの目的地を示していますが、その地図が私たちの手を取って、導くことはできません。そして、私たちが地図を読めなくて、フラストレーションを感じるとき、その地図は私たちを慰めず、助けることができません。

そのように、神様の律法は、正しいことと罪を定義することできるけど、私たちに罪と戦う力、また正しいことをする力を与えることができません。むしろ、私たちが罪を犯すと、律法は私たちを裁きます。だからこそ、私たち皆にイエス様が必要です。

3.あなたがクリスチャンなら、あなたは十戒に従います。

「あなたがクリスチャンなら、十戒に従いなさい」と言っていません。

クリスチャンが十戒に従うのは、事実です。もちろん、あなたは完全に十戒に従うことができません。でも、聖霊様の導きと力によって、あなたはだんだん十戒に従い始めます。

あなたが頑張っているから、十戒に従うというわけではないです。むしろ、毎日、聖霊様が、あなたを導いて、あなたの考え方と生き方を変えるのです。

聖霊の導きによって、私たちは律法の文字だけに従うだけではなく、その律法の精神にも従い始めます。つまり、私たちは神様を愛し、隣人を私たち自身のように愛します。

それは、もちろんより優れた命令です。なぜなら、その命令には、抜け穴がないのですから。

要するに、私たちはユダヤ人になる必要はありませんが、私たちはまだ旧約聖書に強い関係があります。私たちはユダヤ人ではありませんが、私たちが教会に入れる理由は、ヤコブが教会を旧約聖書につないだから。つまり、

この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。

それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。

大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。(使途の働き15:16-18)

もちろん、私たちは新約聖書と旧約聖書(つまり、神様との新しい契約、神様との古い契約)を混ぜません。

でも、私たちは旧約聖書が私たちにまったく関係ないと言えません。むしろ、私たちは新しいレンズを用いて、旧約聖書を読みます。そのレンズは、イエス様のレンズ。

そこで、イエスは、聖書(つまり、旧約聖書)を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。

キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:45-47)

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マタイの福音書 マタイ15章 マルコの福音書 マルコ7章

手引きする盲人から立ち去る

この箇所では、イエス様が再びパリサイ人たちと向き合われます。イエス様の弟子たちはユダヤ人の長老たちの伝統に従わず、手を洗わずにパンを食べたのです。そのため、パリサイ人たちはイエス様とその弟子たちを批判しました。

ところが、イエス様はパリサイ人たちを批判されました。なぜなら、彼らは自分たちの伝統を守るために神様の律法を犯していたからです。例えば、パリサイ人たちはユダヤ人に次のように教えていました。

「もしあなたのご両親が貧しくても、『私のお金は神様にささげたので、あなたを助けることができない』と言うのであれば、ご両親を助けなくてもよい。」

しかし、神様は「あなたの父と母を敬いなさい」と命じられました。

そのため、イエス様は預言者イザヤの言葉を用いてパリサイ人たちを指摘されたのです。

この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。

彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。(マタイ15:8-9)

そのあと、主の弟子たちはイエス様にこう言いました。

パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。(マタイ15:12)

けれども、イエス様はこのように答えられました。

わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。

もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。(マタイ15:13-14)

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。それは、誰の教えを聞くか注意深く選ぶべきだということです。

多くの人々は上手に話すことができます。彼らは話す際に、あたかも神様からの権威を持っているかのように見えることがあります。

しかし、もし彼らの言葉が神様の言葉に反するのであれば、そのミニストリーは最終的に偽物として暴露され、引き抜かれるのです。

この世では、そのミニストリーが一時的に栄えることがあったとしても、裁きの日には神様がその働きを焼き尽くしてしまわれます。

そのリーダー自身は救われるかもしれませんが、彼らが達成したものはすべて焼き尽くされてしまうのです。(第一コリント3:10-15)

ですから、聞くべき教えを注意深く吟味しましょう。牧師の教えであれ、クリスチャン書籍の教えであれ、ポッドキャストの講師の教えであれ、慎重に調べる必要があります。

その教えが聖書と一致するなら、従うべきです。けれども、聖書の教えと異なるなら、その人の言葉を捨てるべきです。

もしその先生が何度も聖書と異なることを教えるのであれば、その人から離れるべきです。さもなければ、彼らが陥った穴にあなたも陥るでしょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ6章

躓かせる者

イエス様の話を聞いたとき、なぜユダヤ人は気分を害したのでしょうか。もしかすると、彼らはイエス様の言葉を誤解していた可能性があります。つまり、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネの福音書6:53-56)

もし、その言葉を文字通りに解釈するなら、誰でも面食らうでしょう。

とはいえ、子供のころから、ユダヤ人たちは獣や鳥を食べる前に、その血を注ぎ出さなくてはならないと教えられていました。つまり、血を食べては絶対にいけないと教えられていたのです。(レビ記17:10-14)

しかし、その時、イエス様は文字通りに話しておられたわけではありません。イエス様はたとえ話をされていたのです。

以前の記事で私はお伝えしましたが、イエス様の肉を食べるということは、イエス様のもとに来るという意味です。イエス様の血を飲むということは、イエス様を信じるという意味です。

そして、あなたがイエス様のもとに来て信じるなら、あなたは決して霊的に飢えることも渇くこともありません。(ヨハネ6:35)

とにかく、ユダヤ人たちはイエス様の言葉を文字通りに解釈したために機嫌を悪くしたのかもしれません。

とはいえ、もしかすると、彼らはイエス様の言葉を正しく理解していたものの、その言葉を受け入れることができなかったのかもしれません。つまり、永遠の命に至る唯一の道はイエス様しかないということです。

今でも、人々はその言葉を聞いて、「これはひどい言葉だ。そんなことを誰が聞いていられるだろうか」と言います。(60)

クリスチャンたちが、神様への道はキリストだけだと言うと、多くの人々がむっとします。だから時には、クリスチャンのリーダーたちでさえ、その真理を教えることをためらいます。

「まあ、多分イエス様は、自分がただ一つの道だと意味されたわけではないだろう。他にも方法があるのかもしれない。」

しかし、イエス様が「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と言われたとき、それは本気でそうおっしゃったのです。

もしイエス様のもとに行かず、信じないなら、誰も永遠の命を受けることはできません。イエス様を拒絶する人には、裁きしかありません。

イエス様はユダヤ人たちにこう言われました。

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(63)

つまり、「律法を守るあなた自身の努力を通して、あなたは天国に行こうとしています。ところが、その努力はむなしいものです。なぜなら、あなたの努力は足りないからです。

実は、あなたの良い行動は、神様の目には汚れた着物のように見えます。御霊だけがあなたたちに永遠の命を与えることができるのです。

けれども、あなたたちが私のもとに来て信じて初めて、御霊はその命を与えてくださいます。」

そして、イエス様はこう言われました。「わたしの言葉は霊的なものです。もし、あなたたちがその言葉を信じて初めて、命を与えられるのです。」(63)

しかし、多くの現代の人々のように、多くのユダヤ人たちはイエス様の言葉を拒絶し、立ち去ったのです。

ですから、イエス様が弟子たちに問いかけられたように、私たちにも問いかけておられます。

まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。(67)

ペテロのように答えましょう。

主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。

私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。(68-69)

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ヨハネの福音書 ヨハネ6章

本当のパンのために働く?

聖書の中では、これは本当に印象的な箇所の一つですが、少し難しい箇所でもあります。

イエス様が5000人にパンと魚を与えられた後、その群衆はイエス様を王にしようと思いました。そのため、イエス様はすぐにその場を立ち去られました。

彼らがイエス様を見つけると、イエス様は彼らを訓戒されました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。

この人の子を父すなわち神が認証されたからです。(ヨハネの福音書6:26-27)

要するに、「あなたたちは私を捜していましたが、あなたたちの動機は間違っています。あなたの霊的な必要を求めず、ただ物理的な必要を求めています。

私はあなたたちにパンを与えましたが、一時的なものを優先してはいけません。永遠の命に至るもののために働きなさい。」

そして、ユダヤ人たちはこう答えました。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(28)

おそらく、彼らはこんな答えを予想していたでしょう。「聖書を覚えていなさい。十戒やほかの律法に従いなさい。」

なぜなら、彼らは律法学者たちやパリサイ人たちからそんなことをよく聞いていたからです。

しかし、イエス様は意外な答えを与えられました。

あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(29)

つまり、「永遠の命を得るために私を信じなくてはなりません。ほかの方法はありません。律法によってあなたは永遠の命を得ることはできません。私を信じないなら、永遠の命を得られません」ということです。

ユダヤ人たちは、それを聞いて、少し違和感を覚えたかもしれません。だから、彼らは天からのしるしを求めました。

例えば、モーセはイスラエル人に天からのパンを与えてくれました。そのしるしによって、イスラエル人はモーセが神様のしもべだと分かりました。

けれども、イエス様は彼らの間違った考え方を訂正されました。モーセではなく、神様がイスラエル人にパンを与えてくださいました。

さらに、そのパンはただの象徴でした。つまり、神様は彼らに「まことのパン」を与えたいと思っておられました。その「まことのパン」は世の民に一時的な命を与えるのではなく、永遠の命を与えます。

そして、イエス様の次の言葉は彼らを驚かせました。

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)

ところで、35節は6章の鍵です。イエス様は物理的なパンについて話しておられませんでした。(つまり、イエス様は聖餐式のパンについて話していたのではありません。)

だから、あなたがイエス様のもとに来てイエス様を信じたとしても、あなたはまだ毎日ご飯を食べなければなりません。イエス様は霊的なことについて話しておられるのです。

イエス様の肉を食べるということは、イエス様のもとに来るという意味です。イエス様の血を飲むということは、イエス様を信じるという意味です。35節を読めば、そのことが明らかになると思います。

もし、イエス様のもとに来てイエス様を信じるなら、神様との関係を持ち、あなたの霊的な飢えと渇きはなくなります。

6章を読むと、そのテーマを何度も見ることができます。

イエス様はユダヤ人の問題を指摘されました。

「私がまことのパンなのに、あなたたちは私をまだ信じていません。私の奇跡を見、私の教えを聞いたにもかかわらず、あなたたちは私をまだ信じていません。」(36)

けれども、イエス様は続けてこう言われました。

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。(37)

また、

事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。(40)

また、

父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。(45)

また、

信じる者は永遠のいのちを持ちます。(47)

また、

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら(つまり、私に来るなら)、永遠に生きます。

またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(十字架で、イエス様は自分の体をささげたので、私たちは永遠の命を得ることができます。)(51)

また、

これは天から下って来たパンです。。。このパンを食べる者(つまり、私に来る者)は永遠に生きます。(58)

そして、イエス様はこう言われました。

人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ(私に来て、私を信じなければ)、あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(53-54)

また、

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者(私に来て、私を信じる者)は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(56)

最後に、イエス様はこう言われました。「物理的な食べ物は、結局虚しいものです。なぜなら、そんな食べ物は永遠の命を与えることができません。しかし、私の言葉を信じるなら、永遠の命を受けます。」(63)

私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。本当の満足を求めるなら、神様との関係が必要です。

けれども、そうするために、イエス様のもとに来て、イエス様とその十字架の働きを信じなければなりません。

あなたも、今日そうしませんか。

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イエス様を疑う?

この箇所を読むとき、いくつかのことが私の心を打ちます。

1つ目は、イエス様がご自身の人生のバランスを保たれたということです。周りの人々のニーズに応えるためにご自身のニーズを犠牲にされたこともありましたが、イエス様は天の父と共に過ごす時間を最優先されました。

もしイエス様がその時間を優先されたなら、私たちもそうすべきではないでしょうか。

いずれにせよ、イエス様が山におられる間、弟子たちが海で苦しんでいるのをご覧になりました。それでもイエス様は3時から6時ごろまで待ってから彼らのところに向かわれました。

同じように、私たちが苦しんでいても、イエス様は時に待っておられることがあります。それは、イエス様が私たちを見放したということではありません。イエス様は私たちを見守っておられるのです。

ただし、イエス様はその試練を許されます。なぜなら、イエス様はご自身が見えなくても、私たちがどれほど信頼しているかを知りたいからです。

弟子たちがイエス様のところから去ったとき、イエス様は「後で私は向こうで会います」と言われました。しかし、弟子たちが海で苦しんだとき、イエス様の言葉を覚え、信じていたのでしょうか。

そしてイエス様は湖の上を歩いて、彼らを通り過ぎようとされました。弟子たちがイエス様を見たとき、彼らは恐れて、イエス様を幽霊だと思いました。けれども、イエス様は彼らに言われました。「心配しないで。私だよ。」

ペテロはイエス様のところに行こうと思い、湖の上を歩き始めました。ところが、風と波を見たとき、ペテロはパニックになり沈み始めて、「主よ!助けて!」と叫びました。

イエス様は愛と恵みを持ってペテロを救われましたが、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。

とはいえ、この話の最後を読むとき、薄い信仰を持っていたのはペテロだけではなかったことが分かります。イエス様が舟に乗り込まれると、風がすぐにやみました。弟子たちはそれを見て非常に驚きました。なぜでしょうか。

というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。(マルコ6:52)

その言葉は、私の心を何よりも強く打ちました。彼らはパンの奇跡の本当の意味を理解していませんでした。何がわからなかったのでしょうか。

1.イエス様が彼らを本当に愛しておられ、彼らのニーズに応えてくださること。

2.イエス様が彼らのニーズに応える力を持っておられること。

ペテロが海の上を歩いたとき、最初は全く問題ありませんでした。しかし、彼がイエス様から目を離し、周りの波や風を見たとき、困惑してしまいました。

どれほど私たちも同じことをしているでしょうか。私たちは自分の境遇に集中しすぎて、イエス様から目を離してしまい、イエス様の愛と力を忘れてしまうことがあります。その結果、私たちは疑って沈み始めるのです。

実際、私もそうしてしまうことがあります。だから、一緒に祈りませんか。

主よ。あなたは私のために多くのことをしてくださいました。私はあなたの善さを見ました。あなたの愛を感じました。あなたの力を経験しました。それなのになぜか、私はまだ疑っています。

どうか、私の信仰を強めてください。私の固い心を柔らかくしてください。私がパンの奇跡の意味を理解できるように助けてください。あなたの愛と力を深く理解できるようにしてください。

イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

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私たちがあまり持っていなくても

私はこの話を一億回読んだかのように感じています。(もちろん、少し大げさですが。)

それでも、今回は新しいことに気づきました。

イエス様の弟子たちは、宣教の旅から戻ったばかりで、きっと疲れ果てていたことでしょう。そんな中、マルコの福音書には、こう記されています。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。(マルコ6:31)

とはいえ、おそらくもう一つの理由として、イエス様が弟子たちと一緒に寂しい所へ行きたがったのではないでしょうか。

イエスはこのこと(つまり、バプテスマのヨハネが殺されること)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。(マタイ14:13)

おそらく、イエス様はその出来事を聞かれた後、自分の安全を考えて寂しい場所に行かれたのだと思います。なぜなら、ヘロデ王がイエス様のことを耳にすると、イエス様を探し始めたからです。(ルカ9:9)

しかし、なぜイエス様は弟子たちだけと一緒に行きたがられたのでしょうか。

多くの場合、この点について深く考えることはありませんが、イエス様は100%神であると同時に、100%人間でもありました。

イエス様とヨハネがどれほど親しかったのかは分かりません。ただ、彼らが従兄弟であったことは確かです。もしかすると、子供の頃、一緒に遊んでいたこともあったかもしれません。

さらに、イエス様のミニストリーが始まった際、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けられました。また、ヨハネが牢に入れられ、ひどく気落ちしていた時には、イエス様は彼を励まされました。

だからこそ、イエス様が「まあね。大丈夫。ヨハネは天国にいるからね。」とあっさり言われることはなかったのではないでしょうか。

むしろ、イエス様はヨハネの死を嘆きたかったのだと思います。さらにもう一つ覚えておいてください。イエス様の弟子たちの中には、もともとヨハネの弟子であった者が二人いたのです。(ヨハネ1:37)

おそらく、彼らもヨハネの死を嘆きたかったのではないでしょうか。

残念なことに、彼らにはそんな時間がありませんでした。大勢の人々がイエス様と弟子たちについて行き、イエス様とその弟子たちの疲れや悲しみを知らず、イエス様に自分たちの必要を満たすよう求めました。

もし私がイエス様だったなら、それを見て怒ったかもしれません。「出て行きなさい。私の友人の死を悼んでいることが分からないのか?」

せめて私はこう言ったかもしれません。「ごめんなさい。あなたと時間を過ごしたいけれど、今日は難しいです。明日来ていただけますか?」

しかし、イエス様は彼らを歓迎されました。(ルカ9:11)

それだけではなく、イエス様は一日中彼らと共におられました。

やがて日が暮れ始めた頃、弟子たちはイエス様のもとに来てこう言いました。「先生、もう遅いので、食事をするために、皆を帰らせた方が良いのではないでしょうか。」

これは、その群衆を帰らせる絶好の言い訳でした。けれども、イエス様はそうされませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい。」(マタイ14:16)

弟子たちは答えました。「でも、この人たちは多すぎます。私たちには到底無理です。」

そこでイエス様は尋ねられました。「あなたがたは何を持っていますか。」

弟子たちは言いました。「少ししかありません。」

イエス様は仰いました。「それを私に持ってきなさい。」

そして、イエス様はそのパンと魚を取り、祝福して、驚くべき奇跡を行われました。弟子たちだけでなく、その群衆も満腹するほど食べることができました。

それだけではなく、食べ物は多く余りました。

私は「新しいことに気づいた」と言いましたが、それは何でしょうか。

時々、私たちは疲れ果てたり傷ついているため、「自分には人々に与えるものが何もない」と考えることがあります。

けれども、神様が私たちにそのように行動するよう求められるなら、神様は相手の必要を満たすために私たちに必要なものを与えるだけではなく、私たち自身の必要も満たしてくださいます。そしてその満たしは限界ぎりぎりではなく、豊かに溢れるほどに与えられるのです。

ここでのキーフレーズは、「神様があなたに求められるとき」です。

神様は私たちにすべての人々の必要を満たすことを要求されるわけではありません。もし私たちがそれをしようとすれば、燃え尽きてしまうでしょう。

そのため、私たちはこう問いかけるべきです。「自分にはほとんど与えるものがないように思えるけれど、神様は私にその人たちに対して情け深い心を与えてくださっているだろうか?神様は私にその人たちに仕えるよう求めておられるだろうか?

それとも、ただ『これは私の義務だ。私はその人に触れなければならない』と感じているだけなのだろうか?」

もし、神様が情け深い心を与えておられず、あなたの心に語りかけておられないなら、あなたはその人を別の誰かに任せた方が良いかもしれません。

しかし、神様が「行きなさい」と語られるなら、神様はあなたの持っているものを取り、祝福し、相手の必要を満たすだけでなく、あなたの必要も豊かに満たしてくださるでしょう。

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あなたを尊敬するけど。。。

この箇所では、ヘロデ王の行動が非常に謎めいているように思えます。ヘロデが自分の兄弟の妻を奪い結婚したとき、バプテスマのヨハネはヘロデを厳しく責めました。

もちろん、ヘロデはそれを聞いて不快に感じましたが、もしその妻ヘロデヤの影響がなかったなら、彼は何もしなかったかもしれません。ヘロデヤはヨハネの死を望んでいましたが、ヘロデはそこまでしませんでした。

最初、彼もヨハネを殺したいと思ったかもしれませんが、最終的にはヨハネを逮捕し、牢に閉じ込めました。

では、なぜヘロデはヨハネを殺すことをためらったのでしょうか。ひとつ目の理由は、ヘロデがユダヤ人の反応を恐れていたからです。(マタイ14:5)

もうひとつの理由として、時間が経つにつれてヘロデはヨハネを尊敬するようになっていた可能性があります。ヨハネが王に「あなたが悪い」と勇敢に告げたことに対し、ヘロデは感服していたのかもしれません。

マルコの福音書によれば、ヘロデはヨハネが他の人々とは異なることを認識していました。つまり、ヨハネが正しく、聖なる人であることを理解していたのです。

そして、ヨハネが何度もヘロデを責め、その言葉に当惑させられたにもかかわらず、ヘロデは「喜んで耳を傾けていた。」(マルコ6:20)

それでも、ヘロデは決して悔い改めることはありませんでした。

ヘロデの誕生日パーティーでは、その娘が皆の前で踊りを披露しました。ヘロデはその踊りを見て喜び、こう言いました。

おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。(マルコ6:23)

ヘロデの娘はお母さんに相談し、バプテスマのヨハネの首を要求しました。

ヘロデはそれを聞いて心を痛めました。けれども、自分のプライドのため、人々の前で誓いを取り消すことができず、ヨハネを殺してしまいました。

おそらく、ヘロデはその前にヨハネと会話する機会がなかったかもしれません。とはいえ、私の想像では、もしもヨハネと話していたなら、ヘロデはこう言ったかもしれません。

「ごめんなさい。私はあなたのことを嫌っているわけではありません。実は、あなたを心から尊敬しています。けれども、娘があなたの首を望んだのです。」

私たちがヘロデの態度を非難するのは簡単かもしれません。しかし、どれほど私たち自身が、イエス様に似たようなことを言ってしまうでしょうか。

私たちがイエス様の言葉を聞くと、心の深いところが揺さぶられます。それでも、その言葉に従わず、自分のプライド、家族、または他の優先事項を理由に、イエス様とその言葉に背を向けてしまうことがあります。

あなたはどうでしょうか。教会の説教を聞くとき、このブログを読むとき、また聖書を読むとき、その言葉が心に染み込み、心が温かくなるのを感じることがあるでしょう。あなたは「この方を尊敬します。本当に素晴らしい方です」と思うかもしれません。

しかし、そこで立ち止まり、「けれども…」と言って、神様の御言葉に背を向けてしまうこともあるかもしれません。

神様が送られた人を尊敬すること、それ自体は十分ではありません。また、彼らが敬虔な人だと認めることも、十分ではありません。

もし彼らが神様の言葉を正しく伝えているなら、それに応じて行動しなくてはなりません。そして、悔い改める必要があります。なぜなら、神様はいつかあなたが聞いたその言葉によって、あなたを裁かれるからです。

あなたはどう応じますか。

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マタイの福音書 マタイ10章

偉い?取るに足りない?

イエス様がこの話をどのようにまとめられるかは、本当に興味深いですね。イエス様は弟子たちに「あなたを受け入れる者は、私を受け入れる」と言われました。

そのように、福音を拒絶する人は、イエス様をも拒絶しているのです。

つまり、相手があなたを拒絶しても、自分を責めないでください。彼らの拒絶は辛いかもしれません。特に、あなたがその人を愛しているなら、その拒絶はなおさら痛いかもしれません。

しかし、あなたが悪いというわけではありません。むしろ、彼らはあなたが代表する方を拒絶しているのです。

とはいえ、イエス様はこの原則を別の方法でも用いられます。

つまり、預言者を受け入れる者は、預言者が受ける報いを受けます。また、義人を受け入れる者は、義人が受ける報いを受けます。

おそらくイエス様は、弟子たちのニーズに応える人々について話されているのだと思います。そのような人々が弟子たちの食料や必要なものを整えるなら、彼らは弟子たちと同じ報いを受けることになります。

では、どうしてイエス様は弟子たちにこのことを語られたのでしょうか?おそらく、イエス様は弟子たちに次のような教えを伝えたかったのだと思います。

「もちろん、あなたの仕事は非常に重要です。それでも、他の人々を見下してはいけません。その人々も神様の働きをしているのです。そして、あなたのニーズを整える人々も、あなたと同じ名誉を受けるに値します。」

弟子たちは「霊的な仕事」をしているかもしれませんが、他の人々は弟子たちの奉仕を支える働きをしています。その人々がいなければ、弟子たちは自分の使命を果たすことができなかったでしょう。

私たちの多くは、牧師や教師、ワーシップリーダーのような目立つ役割の人々を特別視することがあります。しかし、背景で働く人々に目を向けることが少ないのではないでしょうか。

たとえば、礼拝のために椅子を並べたり、マイクやスピーカーをセットしたりする人々もいます。彼らも同様に栄誉を受けるべき存在です。

そして裁きの日、神様は彼らにも牧師やワーシップリーダーたちと同じ報いを与えてくださるのです。

要するに、神様がその人々を称賛されるならば、私たちも彼らを褒めたたえるべきです。

そして、イエス様はさらにこう言われました。

わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイの福音書10:42)

それを言われたとき、イエス様は小さな子供を抱いていたのかもしれません。または、イエス様が弟子たちを「小さいもの」と呼ばれた可能性もあります。

もしイエス様が小さな子供について話されていたのなら、覚えていてください。神様にとって、キリストに属する小さな子供たちを世話することは本当に大切な働きです。

もしイエス様が弟子たちや預言者について話されていたのなら、彼らも「小さいもの」です。だからこそ、あなたがリーダーの立場にいるなら、偉そうな態度を取ってはいけません。

あなたは「偉い人」だと思いますか?覚えていてください。

神様にとって、ほかの人々が行う神の国の仕事も非常に重要です。神様は、人々の前で行われる仕事も、裏方で行われる仕事も同じように称賛されます。だから、背景で働く人々にも敬意を示しましょう。

あなたは「取るに足りない」立場だと思っていますか?覚えていてください。あなたが忠実に仕えるなら、神様はあなたにも「偉い人」と同じ報いを与えてくださいます。

なぜなら、神様の目には私たち全てが貴い存在であり、忠実な者に豊かな報いを与えてくださるからです。

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マタイの福音書 マタイ10章

人々を分かつ剣

イエス様が迫害について話をまとめられた言葉を聞くと、違和感を覚えるかもしれません。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。(マタイの福音書10:34-36)

イエス様は「平和の君」と呼ばれます。

なぜイエス様は「平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た」と言われたのでしょうか。また、なぜイエス様は「剣のように家族を分かつ」と言われたのでしょうか。

もちろん、イエス様は平和の君です。そして、イエス様がこの世に再び戻り、すべてを治められるとき、真の平和が訪れるでしょう。とはいえ、その時はまだ来ていません。

だからこそ、イエス様は警告を繰り返されます。「もしあなたがイエス様に従うなら、あなたの家族でさえもあなたを拒絶するかもしれません。」

日本でも、私はそのような状況を目の当たりにしたことがあります。ある女性は本当に苦しんでいました。なぜなら、そのお父さんに「もしクリスチャンになりたいなら、この家から出て行け。お前はもう俺の娘ではない」と言われたからです。

イエス様に従うことで、家族間の争いが生じることもあります。その時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。

信仰を保ちながら、その信仰を隠すべきでしょうか。一部の人はそのようにしましたが、嘘が発覚すると、状況はさらに悪化しました。その上で、イエス様は次のように言われました。

ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(32-33)

もし、あなたが愛している人たちの前でイエス様を否定するなら、あなたは本当にイエス様を愛し、イエス様に従っていると言えるでしょうか。

もし一生を通じてイエス様を否定し続けるなら、果たして自分自身がクリスチャンだと胸を張って言えるでしょうか。

もちろん、私たちが弱さを抱える時もあります。ペテロにも弱さがありました。彼はその弱さから、イエス様を三度も否定してしまいました。

けれども、最終的にペテロは自分の信仰のために十字架につけられて命を捧げました。

イエス様は次のように言われました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(37-39)

要するに、あなたにとってイエス様は何よりも大切な存在であるべきです。たとえどんなに苦しみを経験しても、イエス様をすべてのものよりも優先しなければなりません。

もし家族の平和を守るためにイエス様を否定するなら、最終的にその家族は地獄に行くことになるでしょう。

しかし、キリストのためにその家族の平和を手放すなら、もしかすると、いつの日か彼らがイエス様に従うようになるかもしれません。

この教えを実践することは簡単ではありません。

けれども、覚えておいてください。もし家族があなたを拒絶するとしても、あなたにはもう一つの家族があります。あなたが苦しむとき、その家族はあなたを愛し、支えてくれるでしょう。なぜなら、教会はただの建物ではなく、神の家族そのものだからです。

だからこそ、家族の平和を守るためにあなたの信仰を否定してはいけません。そしてイエス様を否定しないでください。むしろ、イエス様を他の何よりも優先しましょう。そうすれば、本当の平和を見つけることができます。

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マタイの福音書 マタイ10章

迫害が来ると

迫害。

それは、とても嫌な響きを持つ言葉かもしれませんね。迫害について話したいと思う人はあまりいないでしょう。けれども、聖書では「迫害が来る」という警告が繰り返し記されています。

パウロは次のように言いました。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(第二テモテ3:12)

「もしかしたら、迫害を受けるかもしれません」とは書いてありません。「確かに迫害を受けます」と書かれています。

前回の記事でもお話ししましたが、もしあなたがイエス様のようになりたいと思うなら、必ずあなたを憎む人が出てくるでしょう。迫害は憎しみの次の段階です。

だからこそ、イエス様は弟子たちにも、私たちにも警告されました。イエス様は私たちのことを「狼の中の羊」と呼ばれました。

迫害について、イエス様はどのような指示を与えてくださるでしょうか?

まず最初に、「気をつけなさい」ということです。あなたの信仰のために、あなたを攻撃する人がいるかもしれません。

イエス様は肉体に対する攻撃について話されましたが、心に対する攻撃もあります。あなたの信仰のために、言葉を用いて攻撃する人もいるのです。

そのような人々をよく理解してください。そして、感情的な危険がある場合や、物理的な危険がある場合には、すぐにその場から離れてください。

福音を伝えたなら、それであなたの役割は果たされています。もし彼らがあなたの言葉を拒絶するなら、イエス様は次のように言われました。

あなたがたの足のちりを払い落としなさい。(マタイの福音書10:14)

それは少し奇妙に見える表現かもしれませんが、その当時の文化では珍しいことではありませんでした。

ユダヤ人たちは外国を出たとき、その地のちりを払い落としました。なぜなら、そのちりをイスラエルに持ち帰ると、イスラエルが汚れると考えていたからです。

つまり、イエス様が意味されたのは、「もし相手が福音を拒絶するなら、彼らが汚れた状態であることを示しなさい。彼らは裁きを受けますが、それは彼ら自身の責任であることを伝えなさい。」ということです。

そして、その場を立ち去りなさい。あなたの役割は果たされています。彼らからの暴力や辛辣な言葉に耐え続ける必要はありません。

とはいえ、一度迫害を受けると、将来の迫害を恐れるようになるのは簡単なことです。そのため、他の人々に福音を伝えることをためらうかもしれません。

それでも、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。

わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。(26-27)

つまり、「私があなたに教えたことは最終的にみんなの前に現れます。迫害を受けたとしても、その言葉を止めることはできません。だから、恐れずに、大胆にその言葉を伝えなさい。」

そして、イエス様は次のように言われました。

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(28)

あなたの魂を滅ぼす方はサタンではありません。それは神様です。サタンは地獄の囚人になる存在です。(サタンはまだ地獄にはいません。)サタンは地獄の支配者ではないのです。

しかし、心に留めてください。多くの人々が神様を拒絶しているため、毎日彼らは死に、地獄に行っています。不潔なものは天国に入ることができないため、神様は彼らを地獄に送らざるを得ません。

だからこそ、もし私たちが彼らを愛しているなら、迫害への恐れを捨て、大胆に福音を述べ伝えるべきです。

そして、イエス様は私たちを慰めてくださいます。

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(29-31)

つまり、迫害が来ても、神様はあなたのことを決して忘れることはありません。神様はあなたを助けてくださいます。

そして、もしイエス様のために命を捧げることになったとしても、神様はあなたと共におられ、すぐにイエス様のお顔を拝することができます。

だから、迫害を恐れないでください。むしろ、私たちに与えられた命の言葉を大胆に伝えましょう。

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マタイの福音書 マタイ10章

すべての人々に好かれようとする?

今日、イエス様の弟子たちへの指示についてさらに深く考えていこうと思います。

7-8節は、私の心に響きました。イエス様は弟子たちに、「病人を癒し、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。」と言われた後、次のように言われました。

あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイの福音書10:8)

つまり、あなたは無償で神様の恵みを受けたのですから、その恵みを周りの人々に無償で与えるべきです。神の国はお金を儲けるためにあるものではありません。

牧師や宣教師が、自分の働きのために報酬を受け取るべきではない、という意味ではありません。実際、イエス様は「働く者が食物を与えられるのは当然のことです」と言われました。

とはいえ、福音を伝える目的は報酬を受け取ることではありません。むしろ、私たちが受けた貴重なものを周りの人々に与えることなのです。

もう一つ、私の心に響いたことがあります。イエス様は弟子たちに何度も警告されました。

「すべての人々があなたを受け入れるわけではありません。あなたが神様の働きをし、彼らに神様の言葉を伝えたとしても、彼らがあなたを必ずしも愛するわけではありません。」

むしろ、弟子たちを憎み、拒絶する者がいる、とイエス様は警告されました。そのため、弟子たちは奉仕をする際に、友人や家族に対しても注意を払うべきでした。

これは言い過ぎのように聞こえるかもしれませんが、当時の時代背景においてはそうではありませんでした。特にサウロの時代、クリスチャンたちは激しい迫害を受けました。

もし彼らがすべての人々を信頼していたなら、殺されていたことでしょう。サウロのように、彼らの家族や友人はクリスチャンを迫害することを神様の御心だと考えていたからです。

そのため、イエス様は彼らに「蛇のようにさとくなりなさい」と言われました。要するに、行動を起こす前に慎重に考えなさいということです。相手がどのような人かをよく考慮し、相手が信頼できるかどうかを見極めるべきだということです。

それでもイエス様は続けられました。「鳩のように純真でありなさい。」(10-16)

あなたが裏切られた時にも、愛が冷めないように注意してください。相手を憎むことなく、復讐の心を捨てなさい、ということです。

私たちもイエス様の言葉を覚えているべきです。もしあなたがイエス様に従うなら、あなたを憎む人もいるでしょう。おそらく、家族や友人があなたを殺すことはないかもしれませんが、彼らがあなたを拒絶することはあるかもしれません。

イエス様は弟子たちに次のように言われました。

弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。

弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。

彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。(24-25)

私は前にも言いましたが、イエス様は完全な愛を持った方でした。彼の人生は完璧でした。

しかし、それにもかかわらずイエス様を憎む人もいました。イエス様を「悪魔」と呼ぶ人もいたのです。

そして、彼らはイエス様を殺してしまいました。私たちがイエス様に従うなら、私たちはすべての人々からの愛を期待できるでしょうか。

だからこそ、他人に愛されるためだけに努力するのはむなしいことです。むしろ、イエス様のようになることに努力すべきです。なぜなら、イエス様はあなたのためにご自身の人生を十字架でささげられたからです。

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弟子づくり、霊的な教え、実用的な教え

イエス様が弟子を育てる際には、霊的な指示だけでなく、実用的な指示も教えられました。

まず、イエス様は弟子たちに霊的な真理を教え続けました。例えば、山上の垂訓や平地の説教を説かれました。また、数々のたとえ話を用いて教えられました。

けれども、弟子たちを奉仕に送り出す際には、実用的な指示も与えられました。

例えば、弟子たちはサマリヤ人や異邦人のところへ行かず、ユダヤ人の町だけを訪れるべきだと教えられました。それはなぜでしょうか。パウロが語ったように、福音は最初にユダヤ人に届けられるべきものだったからです。(ローマ1:16)

もちろん、イエス様は時々異邦人やサマリヤ人を癒し、教えることもされましたが、彼らに福音を伝える時期はまだ来ていなかったのです。

イエス様はさらに具体的な指示を弟子たちに与えられました。

イエス様は、弟子たちが何を持つべきか、持たないべきかを教えられました(マタイ10:9-10)。

また、彼らがどこに泊まるべきかを教えられました(マタイ10:11-13)。

さらに、彼らが拒絶される場合や迫害される場合の対処方法についても教えられました(マタイ10:14,23)。

そして、イエス様は弟子たちに厳しく警告されました。「信頼できない人もいるので注意しなさい。もちろん、悪を行うことは避けなさい。それでも、相手を賢く扱うように。」(マタイ10:16-17)

このように、イエス様は霊的な教えも並行して教え続けられました。

例えば、神様はスズメの必要を日々備えておられるので、弟子たちの必要も必ず備え、彼らを守られるということです。なぜなら、神様はスズメ以上に彼らを愛し、大切にしてくださるからです。そのため、彼らは神様を全面的に信頼すべきでした(マタイ10:9-10;29-31)。

また、彼らは神様を何よりも愛するべきだと教えられました。イエス様は弟子たちにこう語られました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37-39)

私が伝えたいのはこれです。私たちが人々を奉仕のために訓練する際には、霊的なことと実用的なことの両方を教えるべきだということです。

もちろん、彼らはミニストリーや日常生活における霊的な原則を学ぶ必要があります。

しかし、それと同時に、彼らにどのようにミニストリーを行うべきかという実践的な側面も教える必要があります。

イエス様もそのようにされました。まず、弟子たちはイエス様がどのようにミニストリーを行うかを目の当たりにしました。そして、イエス様は必要な指示を簡潔に与え、弟子たちを送り出されました。

弟子たちが戻ると、イエス様は彼らの報告を聞き、必要に応じてフィードバックを与えられました。私たちも、同じようにして人々を訓練するべきではないでしょうか。

もちろん、彼らが私たちと全く同じようにミニストリーを行う必要はありません。私たちが基本的なことを教えた後は、その基礎の上に彼らが神様の導きに従って、自分のミニストリーを築いていくべきです。

けれども、残念なことに、多くの場合、訓練はどちらか片方に偏りがちです。

例えば、霊的な訓練だけを与える一方で、ミニストリーに関する実用的な訓練を与えない場合、その弟子は大きな失敗をし、そのミニストリーは早々に崩れてしまうことがあります。

逆に、ミニストリーに関する実用的な指導だけを与えると、最初は順調に見えても、弟子自身がプライド、罪、その他の霊的な落とし穴に陥り、結果的にそのミニストリーも崩壊してしまうことがあります。

ですから、弟子たちを訓練する際には、このような失敗を避けるべきです。霊的な訓練と実用的な訓練の両方を与えましょう。そうすることで、神様は彼らと私たちを用いて、神の国を成長させてくださるでしょう。

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畑になる毒草

この箇所を読むと、なぜかユダに目が向きます。

この箇所では、イエス様は弟子たちを呼び、イスラエル人に奉仕するために送り出されました。イエス様は彼らに、悪霊を追い出し、あらゆる病気と患いを癒す力を与えられました。けれども、彼らの最も重要な使命は福音を伝えることでした。

マタイは弟子たちの名前を挙げる際、最後にこう記します。「そして、イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」(マタイ10:4)

考えてみてください。ユダも悪霊を追い出しました。ユダも病人を癒しました。ユダも福音を伝えました。それなのに、最終的に彼はイエス様を裏切ったのです。

なぜユダは、これほど多くの素晴らしい働きをしながらも、イエス様を裏切ることになったのでしょうか。その理由を完全に理解するのは難しいです。

けれども、ユダはイエス様が語られた「畑にある毒麦」のたとえ話を象徴しているように思えます。(マタイ13:24-30; 36-42)

実際、毒麦と麦は見た目が非常によく似ています。そのため、農夫が毒麦を引き抜こうとすれば、誤って麦も引き抜いてしまう可能性がありました。そこで、農夫は収穫の時まで待つことにしました。その時になって初めて、麦と毒麦を分けました。

同じように、ユダは信者のように見えました。彼は他の弟子たちと共に学び、また他の弟子たちと同じように、悪霊を追い出し、人々を癒し、福音を伝えました。

それでも、彼は決して自分の心をイエス様に捧げることはありませんでした。

私のただの推測にすぎませんが、もしかすると、ユダは自分の利益のためにイエス様を利用しようと考えていたのかもしれません。

しかし、彼の目的とイエス様のビジョンが全く異なっていることに気づき、イエス様を利用できないと悟ったとき、彼はイエス様を裏切る道を選んだのです。

現代においても、教会の中にはそのような人々がいます。彼らはクリスチャンのように見え、クリスチャンのように聞こえます。中には奉仕をする人もいます。それでも、彼らの心は本当にイエス様に捧げられてはいません。

あなた自身はどうでしょうか。あなたの心はイエス様に捧げられていますか。あなたの人生は本当にイエス様のものでしょうか。それとも、ユダのように、あなたは畑の毒麦でしょうか。

表面的に信者のふりをすることはしないでください。牧師や教会の他のメンバーを欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことはできません。そして、裁きの日には、あなたの本当の姿が明らかにされるでしょう。

その毒麦とならないように。あなたの心をイエス様に捧げましょう。信者のふりをして生きても、あなたの人生は虚しくなり、最終的には裁きを受けることになるのです。

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マタイの福音書 マタイ9章

収穫を見ている?

この箇所から、私たちはイエス様のミニストリーに関して学ぶことができます。

1.イエス様は出て行かれました。 イエス様は福音を述べ伝えるため、また病気の人や傷ついた人々に触れて癒すために、さまざまな場所に行かれました。

2.イエス様は見られました。 多くの場合、私たちは人々を見ていますが、彼らのことに本当に注目していません。私たちは自分の考えや計画に夢中になりすぎて、周囲の人々に気を留めることがありません。

また、私たちは彼らの外見に注目しがちです。見た目や行動を見ることはしますが、彼らの心の痛みや悲しみに目を向けません。しかし、イエス様はそのすべてに目を留められました。

3.イエス様は彼らを見て、かわいそうに思われました。 イエス様はただ行って見ただけではなく、人々を見るときには彼らをかわいそうに思われました。なぜなら、彼らを縛り付けるサタンの鎖を見られたからです。また、サタンが彼らを苦しめている様子を見られました。

彼らは弱り果てて倒れている羊のようで、迷っていて命の道をよく知らなかったため、イエス様は悲しまれました。

イエス様の弟子として、私たちはイエス様の態度を取るべきです。教会の外に行き、周囲の人々を見て、彼らを憐れむべきです。

イエス様は弟子たちにこう言われました。

収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(37-38)

この箇所を読むと、私はいつもある歌を思い出します。

See the fields,
畑を見てください。
Ripe and white as snow,
雪のように白くなって、刈り入れ時になっています。
Up from the seeds of faith we planted long ago.
それらは、昔蒔いた信仰の種から成長したものです。

So many the hearts in season,
今、収穫の時が来た心がたくさんあります。
With every prayer they’ve grown.
すべての祈りによって、その種が成長しました。
He has made them ready,
神様がその人々の心を整えてくださいました。
But we must bring them home.
しかし、私たちは彼らを刈り入れ、神様のもとに連れ帰らなければなりません。

Time like a free wind,
時間は自由な風のようで、
So quickly slips away.
すぐに過ぎ去ってしまいます。
Too soon today’s tomorrow,
今日の「明日」が、
Too soon a yesterday.
すぐに「昨日」になってしまいます。

So little time for the reaping,
収穫のための時間は短く、
And laborers are few,
労働者は少ないのです。
Lift your heads to the fields of white,
目を上げて、白くなった畑を見てください。
The work that we must do.
私たちがしなければならない仕事がそこにあります。

Lord of the Harvest,
収穫の主よ、
Place your fire in me.
私の心にあなたの炎を灯してください。
Servant you need now?
主よ、あなたは今、しもべを必要とされていますか。
Servant I will be.
私はそのしもべとなります。

Give me the eyes of your Spirit,
あなたの御霊の目を私に与えてください。
Your heart of compassion to know.
あなたの憐れみ深い心を知ることができるように。
Lord of the Harvest,
収穫の主よ、
Show me where to go.
私がどこに行くべきか教えてください。

Wherever you may lead me, Lord of the Harvest, I’ll go.
収穫の主よ、あなたがどこに導かれても、私は従います。

–ポール・スミス、ジェームズ・ニュートン・ハワード

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マタイの福音書 マタイ13章 マルコの福音書 マルコ6章

私たちが愛している者が私たちのあかしを拒絶するとき

私は以前にも述べましたが、聖書にはイエス様が2回驚かれた場面が記録されています。1回目は、百人隊長の信仰を見て驚かれた時です。(マタイ5:8-13)

2回目の出来事が、この話です。イエス様はすでにイスラエル中で有名な方となっていました。福音書によれば、その時イエス様は2度地元に戻られました。(おそらく他にも戻られたことがあったかもしれませんが、聖書には書かれていません。)

いずれにせよ、地元に戻られると、人々はイエス様の奇跡や知恵を認めながらも、イエス様を預言者やメシアとして受け入れることを拒みました。

なぜでしょうか。おそらく、彼らはずっとイエス様をただの大工として見ていたからです。それ以前、イエス様は何度も彼らのために食卓やいろいろなものを作ってくださいました。

その時、彼らは「イエス様は素晴らしい預言者だ」とは思わなかったのです。彼らにとって、イエス様はただの大工に過ぎなかったのです。

おそらく、そのおじいさんたちやおばあさんたちにとって、イエス様は昔その近所で遊んでいた子供としての印象が強かったのでしょう。その頃、イエス様は近所の子供たちと一緒に遊び、その家を訪ねて食事を共にすることもあったのです。

そのため、彼らにはイエス様に教えられることを受け入れるのが難しかったのだと思います。「この人が私に教えるなんて」と思ったかもしれません。だからこそ、イエス様が教えた時、彼らはむっとしたのでしょう。

それゆえ、イエス様は彼らにこう言われました。

預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。(マルコ6:4)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

1.神様は意外な人を通して話されることがあります。もし私たちが彼らを見下してしまうなら、神様の声を見逃してしまうかもしれません。

時には、彼らは若く、未経験者であることがあります。あるいは、あまり教養がない人かもしれません。そのため、私たちは彼らを見下してしまうのです。

けれども、根本的には、私たちは神様が彼らを少し軽んじておられると思い込むため、私たち自身も彼らを軽んじてしまいます。結果として、私たちは彼らの言葉を受け入れなくなるのです。

それでも神様は、若い人、年を取った人、教育を受けた人、教育を受けていない人を問わず、用いて私たちに語ってくださるのです。

神様はあなたが尊敬する牧師を用いることもできるし、あなたをイライラさせる妹や弟を用いることもできるのです。もし彼らが自分の人生を神様にささげ、聖霊様が彼らの中に住んでおられるなら、神様は彼らを通して私たちに語ることができるのです。

とはいえ、私たちは謙虚な心を持っているでしょうか。彼らの外見だけではなく、彼らの内におられる聖霊様を見ることができるでしょうか。

2.時には、以上の理由により、周りの人々があなたのあかしを拒絶することがあるかもしれません。イエス様も同じ経験をされたことがあります。不完全な私たちが拒絶されるなら、それは驚くべきことではないでしょう。

私たちには相手の反応をコントロールすることはできませんし、彼らに無理やり信じさせることもできません。

あなたの責任は、神様があなたに何を与えてくださったか、そして神様が何をしてくださったかを伝えることです。そして、もし彼らがあなたのあかしを拒絶するなら、彼らのために祈るべきです。

人々の心を変えることができる方はただ一人。それは神様です。

だから、拒絶されても、がっかりしないでください。謙虚な態度を持ち続けましょう。そして、ほかの人と話すときに、神様が語っておられるかどうか注意深く見ましょう。そうすれば、あなたの予想以上に神様の声を聞くことができるでしょう。

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マタイの福音書 マタイ9章

イエス様ができること。イエス様がしないこと。

この箇所を見ると、私たちはイエス様が何をすることができるのか、また何をしないのかを知ることができます。

イエス様は盲人や口のきけない人を癒すことができます。

けれども、イエス様はご自身を無理やり人々に信じさせることはされません。

わたしにそんなことができると信じるのか。(マタイの福音書9:28)

彼らが「そうです。主よ。」と答えた時、イエス様は「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われました。(29)

つまり、彼らが本当に信じなかったなら、彼らは癒されなかったのです。

実際には、私たちが信仰を持っていなくても、イエス様は私たちを癒すことができます。ある日、相手がイエス様のことをよく知らず、まったく信仰を持っていなかった状況でも、イエス様はその人を癒されました。(ヨハネ5:1-15)

とはいえ、多くの場合、イエス様は人々の信仰を求められました。

この話では、二人の盲人が信じたために癒されました。

ところが、次の話では、イエス様が口のきけない人を癒された時、多くの人々は驚きましたが、パリサイ人たちはイエス様を信じず、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。(34)

イエス様がどんな奇跡やしるしを行っても、パリサイ人たちは信じることを拒み続けました。

イエス様は彼らの信仰を求められましたが、彼らに無理やり信じさせることはありませんでした。

同じように、イエス様は私たちにも無理やり信じさせることはされません。

イエス様は私たちに聖書を与えてくださり、神様が私たちの人生にどのように働いているかを示し、神様に従う時の祝福を思い起こさせてくださいます。

それでも、私たちは毎日自分自身に問いかけるべきです。「私は神様を信じるだろうか。私は神様を信じるので、神様の道を行くだろうか。」

そうすれば、神様からの祝福と癒しを見いだすことができます。

そうしない場合、パリサイ人のように、神様の祝福と癒しを決して知ることはできません。

さて、あなたはどうしますか。

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人々を清め、命を与えてくださる神

旧約聖書を読んでいると、「清いもの」と「汚れたもの」についての記述が頻繁に出てきます。ユダヤ人たちにとっては、触れても良いものと触れてはならないものが多くありました。

例えば、死骸は汚れたものとされていました。また、生理中の女性たちも汚れたものとみなされていました。もしそのような者に触れると、自分自身も汚れたものとされてしまいました。

以前にも述べたように、不思議なのは、イエス様が汚れた人々に触れた時、イエス様自身が汚れたものとならず、むしろその汚れた人々が清い者とされたことです。

この箇所では、まさにそのような場面を見ることができます。

一人の女性が、十二年もの間、長血の病に悩まされていました。これはおそらく、生理的な問題だったかもしれません。

彼女は一か月に一度だけではなく、常に汚れたものとみなされていました。彼女は多くの医者に診てもらいましたが、全く治りませんでした。

そこで彼女は必死にイエス様の服に触れようとしました。彼女は「この服に触れさえすれば、必ず治る」と信じていたからです。

では、なぜ彼女はイエス様に直接お願いしなかったのでしょうか。おそらく彼女は、自分の病のために深く恥じていたからではないでしょうか。

また、「汚れたもの」としてみなされていたため、イエス様に拒絶されるかもしれないと思っていた可能性もあります。

しかし、彼女がイエス様の服に触れた瞬間、病が癒された時、イエス様はこう尋ねられました。

だれがわたしの着物にさわったのですか。(マルコ5:30)

そして、彼女が自分の行動を認めるまで、イエス様は待っておられました。なぜイエス様が彼女の返事を求められたのでしょうか。おそらく二つの理由があったのだと思います。

一つ目は、彼女が完全に癒されたことを確信させたかったからです。つまり、その病気がもう二度と再発しないことを伝えるためでした。

二つ目は、イエス様が周りの人々にこの癒しについて知らせたかったからです。12年間、彼らはその女性を除け者にしていました。けれども彼女が清いものとなったことを公に知らせたいとイエス様は思われたのでしょう。

その後、イエス様は会堂管理者であるヤイロの家へ行かれました。彼の娘が瀕死の状態だったからです。ところが、その家に着く前に、ヤイロの家から人々が来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました」と伝えました。

それにもかかわらず、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。

そして、イエス様はその少女のそばに行かれ、愛を持ってこう言われました。「少女よ、あなたに言う。起きなさい。」

その言葉が告げられた瞬間、彼女は起き上がりました。

この話から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

私たちの罪によって、私たちは皆「汚れたもの」となってしまいました。「自分はあまりにも汚れていて、もうきよめられることはない」と感じているかもしれません。あるいは、「神様はもう私を赦してくださらない」と思っているかもしれません。

罪のために、希望を失っていると感じているかもしれません。結婚や家計が壊れてしまい、将来への展望がないと思っているかもしれません。

けれども、その女性を癒された神、またその少女を復活させられた神は、今も生きておられます。神様はあなたを清め、新しい命を与えることができます。

神様は、一つの言葉、一つの手で、あなたを癒すことができます。

もしあなたがイエス様に向かい、イエス様とその十字架の働きを信じるならば、イエス様はあなたを癒してくださいます。

ですから、あなたのために私はパウロのように祈ります。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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解放された

これは実に不思議な話だと思います。

嵐の後、イエス様とその弟子たちは湖の向こう側に到着します。そこで彼らは、二人の悪霊につかれた男性に出会います。

(マルコとルカの福音書では、悪霊につかれた一人の男性についてのみ記述されていますが、その理由は分かりません。もしかすると、一人だけがイエス様を信じたのかもしれません。ただし、それは推測にすぎません。)

おそらく、イエス様と弟子たちが浜辺へ漕ぎ寄せる途中で、奇妙な叫び声を耳にしたことでしょう。そして突然、裸の二人の男性が駆け寄ってきます。彼らは腕や足に壊れた鎖をつけていたかもしれません。

そして、弟子たちがよく見ると、彼らの体に多くの傷があることに気づきます。彼らは何度も自分自身を傷つけていたからです。

あなたがその二人を見たら、どのように感じるでしょうか。おそらく私は非常に恐怖を感じたでしょう。

それでも、イエス様は冷静に振る舞い、悪霊たちにその二人から出ていくよう命じられました。

悪霊たちは最初は従わずに叫びます。

神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。

神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。(マタイ8:29;マルコ5:7)

けれども、イエス様がもう一度「出て行け」と命じられると、その悪霊たちはイエス様に懇願します。

もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。(マタイ8:31)

イエス様が「行け」と命じられると、悪霊たちは豚の中に入りました。そして、その豚の群れは湖へ駆け降り、水に溺れて死んでしまいました。

その二人の人々は解放されましたが、町の人々はその光景を見ても喜ぶどころか、逆に恐怖を抱きました。

そのため、彼らはイエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と懇願しました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

まず第一に、悪霊は実在するということです。そして、悪霊は非常に危険な存在です。

一部の人々は、タロットカードやウィジャ板を使いながら「これはただの遊びだ」と考えるかもしれません。しかし、それらを使うことで私たちは悪霊の影響を受けやすくなります。

ある牧師がこう言っています。「悪霊の世界に通じるドアがあるが、そのドアには取っ手が一つしかありません。それは私たちの側にあります。私たち自身がそのドアを開けるとき、悪霊が私たちの人生に入ることができるのです。」

タロットカードやウィジャ板、占い師などはそのようなドアを表しています。

さらに、悪霊は私たちの益を全く望んでいません。時には光の天使のように装いますが、彼らの本当の目的は私たちを破滅に導くことです。

この箇所では、悪霊がその二人の人々や豚たちにどのように影響を与えたかをよく見ることができます。それは悪霊の意図を明確に示しています。

タロットカードやウィジャ板、占いは一見楽しそうに見えるかもしれませんが、それらの背後には悪霊が潜み、私たちを滅ぼそうとしています。

良い知らせは、私たちはその悪霊を恐れる必要がないということです。悪霊は確かに力を持っていますが、イエス様は彼らをはるかに超えた力を持っておられます。また、悪霊に対して、イエス様は完全な権威をお持ちです。

それでも、オカルトからは距離を置いてください。いつかイエス様と弟子たちのように、あなたも悪霊と向き合うことになるかもしれませんが、悪霊を求めることは決してしないでください。

さらに、この話から私たちが学べるもう一つの教訓があります。

最初、罪は魅力的に見えるかもしれませんが、最終的にその罪はあなたを支配するようになります。

どうして悪霊がその二人に入ったのかは分かりませんが、確かなのは、彼らが神様を求めていなかったということです。

そして、彼らが悪霊にドアを開けてしまった結果、悪霊が彼らに入り込み、彼らは自分自身をコントロールできなくなりました。その代わりに、悪霊が彼らを支配し始めたのです。

そのように、私たちは最初は罪を選んでしまうかもしれませんが、最終的にその罪に支配されることになります。そして、この話にあるように、私たちは自分自身を傷つけてしまいます。

神様が私たちに恵みを与えず、私たちが決して悔い改めないなら、私たちは最終的に滅びてしまうでしょう。

しかし、イエス様は私たちを解放する力を持っておられます。もし私たちが心から悔い改めるなら、イエス様は私たちを赦し、罪に打ち勝つことができるよう助けてくださいます。

ただ、私たちの変化を周りの人々が見たとき、必ずしも喜んでくれるわけではありません。

この話では、町中の人々は喜びませんでした。それどころか、イエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と願ったのです。

悪霊につかれていた人々は恐ろしい存在でしたが、町の人々はむしろ彼らが解放されなかったほうが良かったと思っていたかのようです。

あなたの周りの人々も、あなたの変化を見たとき、同じように感じるかもしれません。

それでも、イエス様は私たちをその人々のもとに送り出されます。そして、イエス様が彼らに言われたように、私たちにもこう言われます。

家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。(ルカ8:39)

イエス様はあなたを解放してくださいました。神様があなたにしてくださったことを周りの人々に伝えてみませんか。そうすることで、彼らも解放される可能性があります。

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私たちの信仰

イエス様の言葉、「信仰の薄い者たちだ」を読むとき、私はこう思います。「もし、イエス様が私を見ると、イエス様に同じ言葉を言われるかなあ。「ブルース、どうしてあなたの信仰はそんなに薄いか。」」

イエス様の弟子たちの状況についてちょっと考えてみてください。

イエス様が言った通りに、彼らは湖を渡ろうとしました。最初は、湖は静かだったけど、急に大暴風が起こりました。その船は大波にぶつかったし、どう漕いでも、進めることができませんでした。

そして、彼らは思い出しました。「イエス様はここにおられる。どうして、イエス様は何もしてくださらないだろうか。」

彼らはイエス様を見たけど、イエス様は寝ていました。「私たちはすぐに死んでしまうのに、イエス様は寝ているのか。」

だから、彼らはイエス様を起こして、叫びました。「先生。私たちはおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。助けてください。」

その時点で、弟子たちはイエス様から何を期待したのでしょうか。この話の最後で、彼らはイエス様の力に本当に驚きました。だから、何を期待していたでしょうか。

多分、彼らは全然何も期待していませんでした。彼らはイエス様に頼んだけど、「多分イエス様には何もできない」、と思ったでしょう。

でも、彼らが分かったのは、彼らを助ける力を持つ人は、イエス様しかいないということです。だから、彼らの反応には、信仰と不信が入っていました。

どのぐらい、私たちもそのように反応するでしょうか。私たちは自分の問題におぼれているし、私たちはずっと頑張ったけど、最終的に希望がなくなりました。

だから、やっと私たちはイエス様に叫ぶけど、実は、私たちはイエス様が私たちを助けられないと思っているけれど、もうほかの解決が見えないのだと思います。

私たちは信仰をもつ心から叫べずに、恐れから叫びます。

私たちは「イエス様は寝ているの?私たちのことを本当に愛しているだろうか」、と思います。

でも、恵みによって、イエス様は私たちを助けて、優しく叱責します。「どうして、そんなに怖がっているのでしょうか。まだ信仰がないのですか。」

だから、この記事の元の質問に戻ります。どのぐらいイエス様はそのことを私に言うでしょうか。どうして、私はイエス様の愛を疑うでしょうか。イエス様が何回も自分の力を現したのに、どうして私はその力を疑うでしょうか。でも、私はそうします。

私がイエス様を心から信頼できたら、なんと素晴らしいことでしょう。

自分の状況をコントロールできないとき(そもそも私たちにコントロールできることが本当にあるのでしょうか)、私はパニックにならずに、イエス様に信頼して歩むことを願っています。

さらに、信仰をもって、イエス様が私を愛し、私の必要を備えてくださることを信じて生きることを願っています。

あなたはどうですか。それがあなたの願いなのですか。

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マタイの福音書 マタイ13章

神の宝を分かち合う?

「あなたがもらったものをどうしましたか。」

裁きの日に、神様は私たちにこの質問をされるのではないかと思います。この箇所で、イエス様は同じ質問を弟子たちにされたのだと思います。

イエス様は彼らにこう問いかけられました。

あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。(50)

彼らが「はい」と答えると、イエス様はこう言われました。

だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。(マタイの福音書13:52)

この箇所から、私たちは二つのことを学ぶことができると思います。

1.神の国に関する知識は宝のようなものです。(ギリシャ語で「倉」という言葉には、「宝」という意味もあります。マタイ13:44では、この同じ言葉が新改訳で「宝」として翻訳されています。)だから、私たちはその知識を軽んじてはいけません。

2.私たちが問題に直面するとき、また周りの人々が問題に直面するとき、私たちはその宝を活用すべきです。

私たちは神の国に関する知識という宝を与えられています。その知識を周囲の人々に分かち合わなければなりません。私たちのメッセージは何ですか。

そらは、神様は人々を素晴らしい価値のある真珠とみなされるのです。だからこそ、イエス様はすべてを捨てて、十字架で私たちを買い取られました。

また、私たちが見る悪は永遠に続かないと知っています。ある日、その悪は取り除かれ、裁かれるのです。

さらに、今でも神様はこの世に働いておられます。そして、神様が蒔かれた種は小さいかもしれませんが、その過程が私たちには見えなくても、その種は成長します。サタンでさえ、その成長を止めることはできません。

そして、その木の下で、人々は平和と喜びを見いだすのです。

あなたがその宝を分かち合うとき、それを初めて聞く人もいれば、何度も聞いたことがある人もいるでしょう。

それでも、この世の人々を見ると、その宝をすぐに分かち合いましょう。なぜなら、多くの人々が愛、希望、そして人生の目的を求めているからです。そして、私たちが持っている宝だけが、その飢えを満たすことができるのです。

さらに、ある日、神様はあなたに問われるでしょう。「私はあなたに素晴らしい宝を与えたが、それをどうしましたか。周りで苦しんでいた人々にそれを分かち合いましたか。」

あなたはどう答えるでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ13章

網のたとえ話:迫っている裁き

福音書の中で、イエス様は天国について語られましたが、実際には天国よりも地獄について多く教えられました。この箇所では、イエス様は迫り来る裁きについて語られています。

以前にも述べたように、この世の悪を見るとき、私たちはしばしばフラストレーションを感じ、「なぜ神様が何もしないのか」と疑問に思うことがあります。

けれども、この箇所では、イエス様はその日が必ず来ると語られます。すべての人々は、たとえ死者の魂であっても、あるいはまだ生きている者であっても、神様の前に立ち、裁きを受けます。

その日、神様は悪者と正しい者を分けられます。正しい者は報いを受け、永遠に神様とともにいることができます。

その一方、悪者について、イエス様は次のように語られます。

この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイの福音書13:49ー50)

なぜイエス様はこのことを教えられたのでしょうか。その一つの理由は、私たちに希望を与えるためです。つまり、この世の悪は永遠に続かないということです。この邪悪な世界の中で、私たちにはそのような希望が必要だと思います。

二つ目の理由は、私たちに警告を与えるためです。つまり、神様の忍耐は永遠に続かないということです。

神様は誰も滅びることを望まれません。しかし、人々があえて神様とその福音を拒絶した場合、神様は彼らの意志を尊重されます。つまり、彼らは永遠に神様から離れて生きることになります。

けれども、その日が来ると、彼らは神様から離れていることが、どれほど惨めな状態かを悟るでしょう。だからこそ、彼らは永遠に絶望して苦しむことになります。

多くの人々は、神様が彼らの喜びを奪おうとしていると思い込み、神様から逃げます。しかし、実際には、神様から離れると、本当の喜びは全く存在しません。

ですから、この邪悪な世界を見るとき、心に留めておきましょう。裁きの日は迫っています。あなたは準備ができていますか。つまり、信仰によって神様の救いを受け入れましたか。

もしあなた自身が準備できているなら、自分にこう問いかけましょう。「私が愛する人々は準備ができているだろうか。」

もし彼らが準備できていないなら、どうしても彼らに福音を伝えましょう。

地獄は現実です。イエス様はそう教えられました。あなたは信じていますか。そして、信じているならば、福音をあなたが愛する人々に伝えているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ13章

隠された宝と真珠の商人のたとえ話:救いの喜び

数年前、私は興味深い記事を読みました。ある夫婦が自分の庭にいたとき、木の下に埋まっていた缶を見つけました。それはただのごみのように見えましたが、注意深く見ると、中には古い金貨が入っていました。その金貨は1800年代のものでした。

さらに庭を探してみると、彼らは金貨が入った缶をいくつも見つけました。その金貨の価値は約10億円でした。私もそんな宝物を見つけられたらいいのにと思います。

この箇所で、イエス様のたとえ話は、この話に似ています。

最初のたとえ話では、ある男性が畑に隠された宝を見つけました。けれども、その畑は自分のものではなかったため、その宝をもう一度埋めた後、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その畑を購入しました。

2つ目のたとえ話では、商人が真珠を探していて、素晴らしい真珠を見つけました。しかし、その真珠は非常に高価だったため、彼は自分の持ち物をすべて売り払って、その真珠を購入しました。

これら2つの話を読むとき、私は2つのことに心を打たれます。

1つ目は、宝を見つけた人たちの喜びです。2つ目は、どうしてもその宝物を手に入れようとする彼らの決意です。

多くの人々がこの話を読むとき、キリストを見つけた人の喜びを思い浮かべます。

イエス様との関係には計り知れない価値があるため、彼らはイエス様を得るためにすべてを捨てる覚悟があります。イエス様に従うために、自分の家や家族、持ち物を手放します。(マルコ10:29)

それは少し痛いかもしれませんが、彼の喜びはその苦しみをはるかに上回ります。

けれども、この話にはもう一つの解釈があります。それは、私たちが宝物であり、真珠であるということです。そして、イエス様が私たちを探している人です。

私たちは自分の罪のために迷い、霊的に死んでいました。ところが、イエス様が私たちを見つけたとき、喜びをもってすべてを売り払って私たちを買い取られました。イエス様は天国を去り、自分の栄光を天国に残して人間となられました。

この世にいる間、イエス様は空腹を感じることもあり、喉が渇くこともあり、疲れることもあり、痛みに耐えることもありました。そして、イエス様は十字架で苦しみ抜いて死なれました。

なぜでしょうか。それは、イエス様にとって私たちがすばらしい価値を持つ真珠だからです。私たちは埋もれている宝物です。

私たちは汚れていて、錆びついているかもしれませんが、イエス様の目には非常に高い価値がありました。だからこそ、イエス様はすべてを捨てて、私たちを買い取られました。

では、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

パウロは次のように言いました。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(第一コリント6:19-20)

だからこそ、毎日私たちを愛してくださる救い主をほめたたえましょう。。

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良い先生の特質

私は20年以上英語を教えてきましたし、30年近く聖書を教えてきました。

それでも、イエス様の教える技術のレベルには決して達することができないと思います。イエス様は、本当に最も熟練した先生でした。

なぜイエス様はそんなに素晴らしい先生だったのでしょうか。それは、イエス様の教え方が本当に素晴らしかったからです。では、イエス様はどのように教えたのでしょうか。

この箇所によると、イエス様はいつもたとえ話を用いられました。では、なぜたとえ話を用いられたのでしょうか。

以前にも述べたように、たとえ話を通して、イエス様は誰が本当に学びたがっているのかを区別されました。学びたいと思う人々は、いつもイエス様に質問をしました。

一方で、質問をしない人々は、その話を楽しむことはできても、その話の意味を理解することはできませんでした。

けれども、イエス様に質問をする人々にとっては、たとえ話は分かりやすくなり、覚えやすいものとなったのです。

それは、良い先生が持つ特質の一つです。霊的な真実を説明する際、誰にでもその真理が理解できるようにすることです。

一部の先生は、自分の学歴や霊的な知識を誇示したいがために、誰も理解できない術語を使ったりします。また、会衆がすぐに忘れてしまうギリシャ語やヘブル語を紹介することもあります。

その結果、会衆は感激して「本当に深いメッセージだったね。学問的な内容だった。」と言うかもしれません。

それでも、最終的には彼らはこう思うのです。「いったい何の話だったのか、その意味がよく分からなかった。」

一方で、イエス様はいつもシンプルな言葉を用いられたため、誰にでも理解できました。

そのたとえ話とシンプルな言葉のおかげで、会衆はイエス様の教えに引き込まれました。会衆にとって、つまらない話を長時間聞くのは本当に苦痛です。しかし、イエス様は決してそのような話をされませんでした。

イエス様は会衆のレベルを正確に理解しておられました。マルコによれば、「イエス様は彼らの聞く力に応じて、みことばを語られた」(マルコ4:33)とあります。

つまり、イエス様は彼らが理解できないことを教えられることはありませんでした。

また、へブル人への手紙の著者も、赤ちゃんに堅い食べ物を与えるのは適切ではない、と述べています。その赤ちゃんが堅い食べ物を食べられるようになるまでは、ミルクを与えなければなりません。そして、成長したら堅い食べ物を与えることができるのです。(ヘブル5:11-14)

最後に、イエス様は弟子たちの質問にいつも答えてくださいました。マルコはイエス様についてこう記しています。

たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。(4:34)

普通、イエス様は弟子たちの質問を待って、その質問に答えてくださいました。

私たちはイエス様のようにいつも答えを持っているわけではありません。けれども、質問を通して、私たちはさらに学び、先生として成長していくことができます。

たとえあなたが教会の先生ではなくても、私たちは皆教える機会を持っています。例えば、子供たちを教える機会や、神様に導かれて私たちのもとに来た人々を教える機会が与えられます。

だからこそ、イエス様のような先生になるために努力していきましょう。

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パン種のたとえ話:変えられた

私はパン屋ではありませんが、おそらく誰でもこの個所のたとえ話を理解できるでしょう。イエス様は再び神の国について語られています。

パン職人がパンを焼くとき、生地にパン種を入れます。そのパン種は何をするでしょうか。

まず、パン種は生地全体に広がり、次に、生地の性質を変えます。もしパン種が入らなければ、そのパンは平たく、固いものになります。しかし、パン種のおかげでパンはふんわりと膨らみ、おいしくなります。

神の国も同じようなものです。

まず、私たちは福音の種を人々の心に蒔きます。そして、ある人々は信仰によって福音を受け入れます。福音は彼らの魂の中に広がり、やがて彼らは全く新しい人へと変えられます。

彼らの考え方が変わり、行動も変わり、彼らのすべてが新しくなります。

だから、パウロはこう記しました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (第二コリント5:17)

神の国とは、そのようなものです。

私たちは、この世界を政治的な方法によって変えることはできません。新しい法律が制定されたとしても、世界そのものは変わりません。

誤解しないでください。もちろん、民主的な社会において、私たちは自分の権利を行使し、変化のために戦うべきです。

しかし、新しい法律によって人々の心を変えられると考えるなら、それは私たちが自分自身を欺いていることになります。

たとえば、同性愛に反対する法律が制定されても、人々の振る舞いは変わりません。中絶を禁止する法律ができても、中絶する人がいなくなるわけではありません。

神の国は、一瞬にしてこの世に現れるものではありません。聖霊様は人々を一人ずつ変えていかれます。

まず、聖霊様は私たちの心を変えてくださいます。そして、私たちを通して、聖霊様はほかの人々に触れ、彼らを変えていかれます。こうして、少しずつ神の国は広がり、やがて国々も変わり始めます。

だからこそ、私たちは自分自身に問いかけるべきです。私たちは福音をもって、何をしているでしょうか。あなたは福音を受け入れ、その結果、あなたの人生は変えられているでしょうか。

そして、あなたは周囲の人々に福音を伝えているでしょうか。そうすることで、聖霊様は彼らの心にも働き始めてくださいます。

だから、毎日祈りましょう。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

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からし種のたとえ話:小さいものから始まること

私は、イエス様が御自身の説教で用いられた生き生きとした描写が大好きです。

この話では、イエス様は神の国をからし種に例えられました。その種はとても小さいものですが、やがて大きな木に成長し、鳥はその枝に巣を作ります。

イエス様の要点は何でしょうか。たいていの場合、神の国は最初から大きなものとして始まるのではなく、むしろ小さなものとして始まります。

特に、多くの場合、神様は御自身の国を建てるために、世の目には取るに足りないと思われる人々を選ばれます。

例えば、マリアは貧しい十代の女性でした。ヨセフはただの大工でした。

そして、イエス様が来られたとき、大軍を率いる王としてではなく、父ヨセフと同じく大工として来られました。

イエス様が弟子たちを選ばれたとき、漁師、ローマ帝国と協力する収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者を選ばれました。

キリスト教が始まったとき、それは世の基準では取るに足りない都市で始まりました。当時の世界にはエルサレムよりも重要な都市がいくつもありましたが、神様はエルサレムを選ばれました。

それでも、その取るに足りない都市から、クリスチャンたちは世界中に行き、福音を宣べ伝えました。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは自分を取るに足りない人間だと思うかもしれません。神様が天の国のためにあなたを用いることはできないと思うかもしれません。

けれども、世の目には取るに足りないと思われるからこそ、神様は喜んであなたを用いられます。神の国には、たくさんの「取るに足りない人」がいるのです。

そして、あなたのような人を通して、神の国は広がり、この世の人々に触れていきます。

だからこそ、パウロはこう記しました。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(第一コリント1:26-29)

心に留めておきましょう。神様の目には、あなたは取るに足りない人ではありません。むしろ、神様は小さな者を通して偉大な御業を行われます。

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毒麦のたとえ話:どうして悪があるの?

多くの人々は、なぜ神様がこの世に悪を許されるのかについて疑問を持ちます。

このたとえ話で、イエス様はその理由の一つを示してくださいました。

私たちが理解しなくてはならないのは、神様がこの世の悪の源ではないということです。神様は聖なる方であり、決して悪いことをされません。神様は良い種だけを蒔かれます。

とはいえ、私たちには敵がいます。サタンは人々の心に悪い種を蒔きます。その種は毒麦となり、人々を傷つけ、さまざまな害をもたらします。

イエス様はその人々を引き抜くこともできますが、そうすると神様が救いたい人々に悪い影響を与える可能性があります。

どうしてなのでしょうか。正直に言うと、私はすべてを理解しているわけではありません。しかし、例えば、ある人々は神様に対して本当に無関心である場合があります。時として、苦難がなければ、彼らは決して神様に向かおうとしないのです。

それは天災であることもあれば、犯罪による被害であることもあります。もしかすると、彼らは本当に傷つくかもしれません。

けれども、その苦しみを通して、彼らは神様を見出し、救いに至るのです。そして、もしその苦しみがなければ、その人が救われることは決してなかったと神様はご存じなのです。だからこそ、神様は毒麦が残ることを許されているのです。

簡単に言えば、神様には私たちには見えないことが見えています。神様は私たちが知らないことを深くご存じです。

しかし、忘れないでください。裁きの日は必ず来ます。

人を殺す者には裁きが下されます。女性を傷つけた者にも裁きが下されます。神様に反抗する者には、裁きが訪れます。

その日には、すべての人が、神様に仕える者と神様を拒む者の違いをはっきりと理解するでしょう。

だから、この邪悪な世界を見て絶望しないでください。裁きの日を待ち望んでください。その日は正義がもたらされます。そして、その日にはすべての人が神様の知恵と正義を知るのです。

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イエスのたとえ話:御国の種

このたとえ話には、前回のたとえ話と大体同じ意味があると思います。前にも言いましたが、私たちは神様の言葉を人々の心に蒔くかもしれませんが、その種を成長させることができるのは神様だけです。

例えば、私たちが福音を伝えるとき、相手は無関心かもしれません。または、彼らが本当に怒るかもしれません。それでも、私たちが意識しなくても、その種は根を張っているかもしれません。

私たちの力がなくても、神様は聖霊様を通して、相手の心の中で働き始めます。神様は状況や他の人々を用いて、その人を近づけてくださいます。

そして、いつの間にか、その人はあなたのところに来て、微笑みながらこう言うのです。「イエス様のことを教えてくださって、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、私はクリスチャンになりました。」

しかし、このたとえ話はまた別の解釈もできると思います。

時々、私たちはこの世を見てフラストレーションを感じます。「神様の国は本当に来るのだろうか。そうは見えないなあ。この世界はだんだん悪くなっているようだから。」

でも、このたとえ話では、私たちはいくつかのことを学ぶことができます。

イエス様とその弟子たちを通して、神の国の種はすでに蒔かれました。今でも、人々の心にたくさんの種が蒔かれています。そして、その種は成長し続けています。

とはいえ、多くの場合、私たちはその成長に気づきません。けれども、振り返ると、その福音の種がどれほど成長したかに気づくことができるのです。

イエス様が天に戻られて以来、福音がどれだけ広まったか考えてみてください。一つの都市から始まり、世界中に広まりました。今でも、その福音は広がり続けています。

そして、神様の国が打ち勝つことは確かなものです。誰もその成長を止めることができません。ソ連もそれを学びました。福音を滅ぼそうとした他の国々も、それを学びました。

だから、最終的に神様の国が来て、すべての人々がその国を見ることになります。その日、イエス様はすべてを治められます。そして裁きの日に、イエス様に従う人々は報いを受け、自分の道を選んだ人々は滅びるのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。

1.希望を持って待つこと。 周りの悪を見て、失望するのは簡単なことです。でも、勇気を持ってください。神様の国は確かに来ています。そして今も成長を続けており、誰もその成長を止めることはできません。

だから、たとえフラストレーションを感じたり苦しみを経験したりしても、待ち望み続けてください。この邪悪な世界は永遠に続くことはありません。そして裁きの日には、あなたは必ず報いを受けます。

2.ちゃんと準備をすること。 いつイエス様が戻られるかわかりませんが、その日まで私たちは天の父のご用を果たさなくてはなりません。

イエス様が戻られる時期は重要ではありません。重要なのは、イエス様が戻られるその時に、私たちがちゃんと準備を整えていることです。

あなたはどうでしょうか。あなたは準備ができていますか。

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種まきのたとえ話:種を蒔こう

前回、この箇所についてお話ししましたが、今日は同じ箇所から別の視点についてお話ししたいと思います。

この話を見ると、農夫がイエス様を象徴していると考えることがよくあります。それも確かにそうかもしれませんが、イエス様が農夫について語られたとき、私たちのことを考えていた可能性もあります。

イエス様がこの世におられた時間は非常に短いものでした。その間に、イエス様は神様の御言葉を人々の心に蒔きましたが、今や私たちがその種を蒔く役割を担っているのです。

このたとえ話から、本当に重要なことを学ばなければならないと私は思います。

私たちが神様の御言葉を蒔くとき、その種が固い心に落ちることがあります。相手がその言葉を聞いても理解せず、また理解しようともしないため、サタンがその言葉を奪ってしまいます。

また、別の人々はその言葉を聞き、喜んで受け入れ、自分の信仰を宣言します。その姿に私たちは大変喜びます。けれども、困難や迫害が訪れると、彼らはその信仰を簡単に捨ててしまいます。

ある人々は、その言葉を信じ、クリスチャンとして成長し始めます。しかし、彼らの仕事や生活の忙しさが、神様との関係を妨げてしまうことがあります。

おそらく彼らは、お金や物を優先しすぎるのかもしれません。教会には通っているかもしれませんが、それ以上の霊的な成長は見られず、霊的な実を結ぶこともありません。

けれども、他の人々はその言葉を聞き、神様の国のために豊かな実を結び始めます。

私のポイントは何でしょうか。その結果は私たちの責任ではありません。私たちは相手の心を変えることはできません。では、私たちにできることは何でしょうか。

私たちは、種を蒔くことができます。そして、水を注ぐことができます。さらに、祈ることができます。パウロはこう言いました。「植える人もいるし、水を注ぐ人もいるけど、成長させたのは神です。」(第一コリント3:6-7)

蒔いた種が成長せず、実を結ばないとき、がっかりした経験があるでしょうか。その結果をコントロールすることはできません。

私たちにできることは、ただ種を蒔き、水を注ぐことです。その後、その人を神様に委ねるしかありません。

あなた自身はどうでしょうか。その種を周りの人々に蒔いていますか?

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種まきのたとえ話:私たちの心の状態

以前、イエス様はさまざまなたとえを用いられましたが、これはイエス様の最初の本格的なたとえ話です。

このたとえ話では、農夫が多くの種をあちらこちらに蒔きました。おそらく、もっと効率的な方法があったかもしれませんが、その時代の農夫たちはこのようにして種を蒔いていました。

道に落ちた種もありましたが、鳥が来てその種を食べてしまいました。イエス様によれば、その道は、神様のみ言葉を聞く人を象徴しています。けれども、残念ながら、その人はその言葉を理解できず、理解しようとも思いませんでした。

私は前に述べたように、たとえ話は本当に学びたいと思った人と、ただエンターテインメントを求める人とを区別しました。

イエス様の弟子たちのように学びたい人々は、イエス様にそのたとえ話の意味を尋ねました。一方で他の人々は意味が分からないまま帰りました。

彼らはイエス様の話を楽しんだかもしれませんが、そのたとえ話の意味を理解せず、理解しようとも思わなかったのです。その結果、サタンがその言葉を奪い、彼らはその言葉をすぐに忘れてしまいました。

また、他の種は岩地に落ちました。岩地とは、石灰岩の上に薄い層の土がある場所です。その土は浅かったため、種はすぐに芽を出しましたが、日が昇ると、根がないためにすぐに枯れてしまいました。

このような人々について、イエス様は次のように言われました。「み言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れます。しかし、み言葉のために困難や迫害が起こると、彼らはすぐにつまずいてしまいます。」(マルコ4:16-17)

彼らはそもそもクリスチャンだったのでしょうか。おそらくそうではないと思います。なぜなら、彼らには根がなかったからです。

もしかすると、彼らには一時的な感情的経験だけがあったのかもしれません。けれども、その感情がなくなり、「信仰」のために迫害が訪れたとき、彼らはすぐにキリストに背を向けてしまいました。

また、他の種はいばらの中に落ちました。ところが、「いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。」(マルコ4:7)

このような人々について、イエス様はこう言われました。「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」(マルコ4:19)

多くのクリスチャンがそのような生き方をしています。この世を愛しすぎるあまり、イエス様に対する愛を忘れてしまうのです。

最後に、ある種は良い地に落ち、たくさんの実を結びました。このような人々は、神様の言葉を聞き、理解し、受け入れ、そしてずっとその言葉を覚え続けます。そのため、彼らは神様の国のために豊かな実を結びます。

あなたの心はどのような状態でしょうか。

神様の言葉がわからないとき、あなたはその言葉をただ置いておくだけでしょうか。それとも、その意味を求めるでしょうか。誰かに尋ねるでしょうか。

私たちは質問することで成長します。けれども、もし私たちが尋ねないままでいるなら、全く成長することはありません。そして、サタンが神様の蒔いた種を盗んでしまいます。

教会に行くとき、ただ感情的な経験だけを求めていませんか。感情は移り変わるものです。もし感情に基づいて信仰を築こうとするなら、その信仰はすぐに崩れてしまいます。むしろ、あなたの信仰はイエス様とそのみ言葉に基づいて築かなければなりません。

あなたは毎日、何を求めているでしょうか。

すべてに優先して、神様を求めていますか。それとも、お金、快楽、持ち物を求めるあまり、神様のために時間がなくなってしまっていますか。また、あなたはもう神様の御心と御国を求めることを忘れてしまっていませんか。

それとも、あなたは神様のみ言葉を聞き、その意味を理解しようとしていますか。その言葉を受け入れ、信じ、心に刻んでいることで、豊かな実を結んでいますか。

あなたの心の状態は、今どのようなものですか。

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イエスのたとえ話:真理を求める目と耳

イエス様の口癖の一つは、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉です。

福音書においても、イエス様はその言葉を語られ、黙示録においても同じ言葉を語られました。

では、イエス様が意味されたことは何だったのでしょうか。

ある日、イエス様がたとえ話を語られた後、弟子たちはこう尋ねました。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」

イエス様は次のように答えられました。

あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。

というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。

わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。

それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」(マタイ13:11-15)

「あなた方に天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」という言葉は、一見すると少し不公平に感じられるかもしれません。

なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか。少し考えてみましょう。

イエス様のたとえ話は、だれでも聞くことができました。そのたとえ話の意味は、漠然としていたかもしれませんが、イエス様はその意味がいつか明らかになるよう意図されました。そして最終的に、それらのたとえ話は真理を照らします。

イエス様は次のように言われました

隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。(ルカ8:17)

だから、弟子たちがイエス様のたとえ話の意味を求めると、イエス様はその意味を説明されました。そして、最終的に彼らは教会の人々にその意味を伝えました。

とはいえ、すべての人々が真理を本当に知りたいと思うでしょうか。彼らは答えを求めているでしょうか。それとも、彼らはただのエンターテインメントを求めているだけでしょうか。

イエス様のたとえ話は、神様の真理を求める人々とエンターテインメントを求める人々を区別しました。

現代の教会が抱える問題の一つは、多くの人々が神様の真理を求めるよりも、エンターテインメントを求めていることです。

そのため、彼らは賛美を歌ったり、牧師のメッセージを聞いたりするかもしれませんが、それでもその言葉が彼らの心を貫くことはありません。

そして、万が一その言葉が心を貫き、違和感を覚えるとしたら、彼らはその言葉を聞くことをやめて、別のことを考え始めます。

残念ながら、彼らがその状態を続けるなら、最終的に彼らは神様の声を聞くことができなくなります。マタイが引用したイザヤの預言は彼らに実現します。

彼らは見ても、本当に見ることはありません。聞いても、本当に聞くことはありません。むしろ、彼らは自分の目と耳を神様の真理に対して閉ざしてしまうのです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されます。

「神様の真理を聞くとき、あなたの聞き方に注意しなさい。そして、その言葉にきちんと思いを巡らしなさい。もしその言葉を正しく聞いて従うなら、神様はさらに多くを教えてくださいます。

けれども、そうしないなら、学んだことを忘れ、ついには神様がもうあなたに語りかけてくださらなくなるのです。(マルコ4:24;ルカ8:18)

そして、イエス様は弟子たちにこう言われました。

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17)

あなたはどうでしょうか。あなたには真理を見極める目と神様の言葉に耳を傾ける耳があるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ11章

祝福を得るため

私たち皆、神様の祝福を知りたいと願っています。でも、その祝福をどのようにして得ることができるでしょうか。

イエス様が群衆に語られた時、ある女性がこう叫びました。

あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。(ルカの福音書11:27)

しかし、イエス様はこう答えられました。

いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。(28)

クリスチャンたちにとっても、「従順」という言葉は、あまり人気のある言葉ではありません。多くのクリスチャンは従順よりも、神様の恵みについて語ることを好みます。

もちろん、神様の恵みがなければ、だれも神様の祝福を受けることはできません。なぜなら、私たちは神様の祝福に値しないからです。

とはいえ、神様の祝福を受ける鍵は、信仰による従順な心です。

私たちは「神様を信じる。神様のみ言葉を信じる」と言うかもしれません。

けれども、従順な心を持たなければ、その言葉は意味をなしません。

もし私たちが本当に神様に信頼するなら、また、本当にそのみ言葉を信じるなら、私たちは神様の言葉に従うでしょう。

だから、一番大切な質問は、「あなたは本当に神様を信頼していますか。」ということです。あなたは、その言葉に従うなら、祝福されると信じていますか。

例えば、結婚する日まで、婚前交渉を控えるなら、あなたの結婚はより祝福されると信じていますか。

あなたが献金をささげるなら、あなたの経済が悪化することなく、祝福されると信じていますか。

あなたが主に従うように、自分の夫に従うなら、または、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたが自分の妻を愛するなら、あなたの結婚が祝福されると信じていますか。

もしくは、あなたはその言葉が理想的すぎると考えていますか。

もし、本当の祝福を見つけたいなら、神様に信頼することを学ぶ必要があります。 あなたは神様の道が最善であると信じる必要があります。

そして、その言葉に従うことが求められます。

それは簡単でしょうか。いいえ、そうではありません。

しかし、心に留めてきましょう。神様の恵みによって、私たちは神様を信じ始めました。同じように、神様の恵みによって、私たちは神様の言葉に従う力を持つことができます。

私たちが神様に頼みさえすれば、神様は私たちにその力を与えてくださいます。 イエス様はこう言われました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

あなたはどうでしょうか。神様に信頼し、従っていますか。

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マタイの福音書 マタイ12章 ルカの福音書 ルカ11章

私たちは御霊を歓迎しないと

パリサイ人たちは、「イエス様が悪魔の力によって悪霊を追い出している」と言いました。

そのため、イエス様は彼らの不信を責められました。そこで、彼らはイエス様にしるしを求めました。

しかし、たとえイエス様がしるしを示されたとしても、彼らはそれでも信じなかったでしょう。だからこそ、イエス様は彼らの要求を拒まれました。

では、なぜ私は「彼らはしるしを見ても信じなかっただろう」と思うのでしょうか。それは、イエス様がすでにヨナのしるしを彼らに示されたからです。

つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた後、その魚から出たように、イエス様も三日三晩、地の中にいた後、お墓から出られました。ところが、イエス様がよみがえられた時、パリサイ人たちはそれでもイエス様を信じませんでした。

そのため、イエス様はもう一度彼らの固い心を責められました。具体的には、イエス様は「ニネベの人々と南の女王(つまり、シェバの女王)が彼らを裁く」と言われました。

なぜなら、彼らはヨナやソロモン王のメッセージを聞いた時、悔い改めたからです。

一方で、イエス様がソロモンやヨナよりも優れた方であるにもかかわらず、パリサイ人たちは信じようとしませんでした。

そのため、イエス様は彼らに例えを示されました。その例えを通して、イエス様は「彼らがイエス様を信じないこと、また、聖霊を拒絶することの結果」について教えられました。

イエス様はこの世に来られた時、地獄の力を克服されました。例えば、その時、イエス様は多くの悪霊を人々から追い出されました。けれども、イエス様はイスラエルの民とパリサイ人たちに警告されました。

「私は悪霊を追い出し、地獄の力を克服し、私の賜物、つまり御霊を与える。ところが、もしあなたたちが御霊を拒絶するなら、地獄の力が戻り、あなたの状態は以前よりも悪くなる。」

なぜでしょうか。それは、あなたが神様の力を味わい、あなたを救うことのできる方に触れられたにもかかわらず、その方を拒絶したからです。

そして、イエス様は山上の垂訓の例えをもう一度語られました。それは、「体のあかりは、あなたの目である」ということです。もちろん、これは物理的な真理ですが、同時に霊的な真理でもあります。

イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたは何を見ていますか。神様が語られるとき、その真理を見えますか。私を見るとき、私が誰であるか分かりますか。」

もし私たちが正しく見ることができるなら、私たちの人生は光に満ちるでしょう。しかし、正しく見えなければ、私たちの人生は暗闇に満ちてしまいます。そのため、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)

あなたはどうでしょうか。イエス様をあなたの主と救い主として受け入れていますか。御霊をあなたの人生に歓迎していますか。

もしあなたが心を神様に対して固くしてしまうなら、サタンの破壊的な働きを受けやすくなります。

しかし、もしあなたが心を御霊に開くなら、命を見いだすのです。

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マタイの福音書 マタイ12章

私たちの口から出る言葉

私は汚い言葉を聞くとき、本当に気になります。特に、クリスチャンがそのような言葉を使うとき、心が痛みます。なぜなら、私たちの言葉は、心の中にあるものを反映しているからです。

パリサイ人たちが「イエス様は悪霊につかれている」と非難したとき、イエス様は次のように答えられました。

木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。

まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。

あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:33-37)

つまり、彼らの堕落した言葉は、彼らの堕落した心を表していたのです。

だからこそ、イエス様は私たちの無駄な言葉でさえも裁かれるとおっしゃいました。なぜなら、私たちの言葉は、私たちの心の状態を表すからです。

もし私たちの心が良い実で満たされているなら、私たちの口からは良い言葉が流れてきます。しかし、私たちの心が腐ったもので満たされているなら、腐った言葉が口から流れてくるのです。

だから、もし腐った言葉があなたの口から出るなら、驚かないでください。それは、あなたの心がそのような状態であることを示しているのです。そして、もしそんな腐ったものが心にあるなら、あなた自身の心を探り、悔い改める必要があります。

もしあなたの心に苦々しい思いが満ちているなら、苦々しい言葉が口から出ます。もしあなたの心が汚れているなら、汚い言葉が口から出ます。

あなたの心には、何が満ちていますか?あなたの口からは、何が流れ出ていますか?

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自分の心を固くする危険性

この箇所では、イエス様は再びパリサイ人たちに出くわします。

その時、目が見えず、口がきけない人がイエス様のもとに連れて来られました。この場合、その原因は悪霊でした。そこで、イエス様がその悪霊を追い出された後、その人は目が見えるようになり、話せるようになりました。

周りの人々は驚きましたが、パリサイ人たちは、この奇跡がベルゼブル(つまり、サタン)の力によって行われたものだと言いました。

ここで注目すべきなのは、パリサイ人たちはイエス様の奇跡を否定しなかったことです。彼らはただ、イエス様の力がどこから来たのかを疑ったのです。

現代の人々だけが、イエス様が奇跡を行われたかどうかを疑います。なぜなら、2000年前に起こったことは疑いやすいものだからです。けれども、目の前で起こった出来事は否定しにくいものです。

それこそがパリサイ人たちの問題でした。彼らはイエス様のことが嫌いでしたが、イエス様の奇跡を否定することはできませんでした。

このパリサイ人たちの態度は、重要なポイントを示しています。

以前にも述べましたが、どんな証拠を見ても、意図的に信じない人がいるものです。彼らは「信じられない」のではなく、「信じたくない」のです。そのため、彼らは心を固くし、神様の存在を否定するために、できる限り神様の御業を歪めようとします。

その結果、パリサイ人たちは「イエス様は汚れた霊に取り憑かれている」「サタンの力によって悪霊を追い出している」と言いました。

しかし、イエス様は彼らに二つのことを言われました。

1.もしサタンが自分自身と戦うなら、その国は立ち行かなくなります。

2.イエス様が悪霊を追い出されたことは、イエス様がサタンの味方ではないことの証明です。イエス様はサタンの国を攻撃され、その悪霊は逃げ去りました。そして、イエス様はサタンを縛り、人々を自由にされました。

そして、イエス様はパリサイ人たちに警告されます。

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。

しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31-32)

マルコはイエス様の言葉を解釈しました。

このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。(マルコ3:30)

つまり、パリサイ人たちは自分の心をあまりにも固くしたため、神様が何をされていたのかが分からなくなりました。さらに、彼らは神様の御業をサタンのものだと言いました。

これが、心を固くすることの危険性です。それを続ければ、最終的に聖霊の声が聞こえなくなり、神様の御業を見ても、それを認識できなくなります。そして、もしそうなってしまったら、救いの希望はなくなってしまいます。

そのため、イエス様はこの態度を「赦されない罪」と呼ばれました。彼らの心があまりにも固くなりすぎたため、彼らには救いの希望がなくなったのです。

モーセの時代、パロも同じ罪を犯しました。そのため、彼は滅びました。

では、人はいつその境界線に至るのでしょうか。それは神様だけがご存知です。ある人々の心は、救われるには固すぎるように見えるかもしれませんが、彼らが最終的に救われる可能性もあります。使徒パウロは、そのような例の一つです。

時々、クリスチャンは「私は赦されない罪を犯してしまったのではないか」と心配します。

けれども、もしそのように心配しているなら、たぶんその罪を犯していません。自分の罪を認識し、神様に対して柔らかい心を持って悔い改めるなら、心配する必要はありません。

本当に注意すべきなのは、自分の心を固くしてしまっている人たちです。

では、どのように柔らかい心を保つことができるでしょうか。それは、謙遜な態度を持ち、罪を犯したならすぐに悔い改めることです。そして、毎日、イエス様のように天の父の心を求め、従うことです。

あなたはどうでしょうか。どのような心を持っていますか。

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家族よりも親しい関係

私たちが愛する人々に自分のことを理解してもらえないのは、本当に苦しいことです。イエス様も、12歳の時に神殿でそのように感じられました。その時、イエス様の両親は彼のことを理解できなかったからです。

この箇所でも、イエス様の家族は彼のことを理解していませんでした。イエス様は神様の働きを一生懸命にしておられたので、食事をする時間すらありませんでした。そのため、イエス様の家族は、「イエスは気が狂ったのではないか」と思ったのです。

それで、彼らはイエス様を連れ戻しに出て来ました。ただ、イエス様の兄弟たちだけでなく、母マリヤも一緒に来ました。おそらくマリヤは、イエス様が気が狂ったとは考えなかったものの、彼の健康を心配していたのでしょう。

とにかく、大勢の人々が群がっており、イエス様の家族は彼のもとに直接行くことができなかったため、伝言を送りました。

イエス様は彼らの意図を理解されましたが、彼らのもとに行くことはされませんでした。その代わりに、彼はこう言われました。

わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」

それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。

「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイ12:48-50)

また、

わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。(ルカ8:21)

時々、あなたが愛する人々は、あなたが神様の御心に従わないように説得しようとすることがあります。時には、彼らはあなたが気が狂ったと思うかもしれませんし、やりすぎていると感じることもあるでしょう。

しかし、覚えていてください。私たちは、彼らを喜ばせるために生きるのではなく、神様を喜ばせるために生きています。私たちは、神様の声に耳を傾け、神様の御心に従うべきです。

もちろん、私たちはバランスを取る必要があります。私たちは家族を愛し、敬うべきです。

また、神様が私たちに求めておられる以上のことをしてはいけません。なぜなら、それでは私たち自身が燃え尽きてしまうからです。

それでも、私たちは家族よりも神様を愛さなければなりません。神様の私たちに対するご計画と希望は、家族の希望よりも大切だからです。

あなたは神様をすべてよりも大切にしているでしょうか。それとも、あなたの家族があなたを神様の御心から引き離しているでしょうか。

そういうわけで、クリスチャンと結婚することが重要なのです。なぜなら、そうしないと、神様のご希望が配偶者の希望と対立する時に、大きな問題を引き起こす可能性があるからです。

また、たとえ配偶者が「私はクリスチャンだ」と言っていても、神様と共に歩んでおらず、神様の御心に従わないのであれば、それもまた大きな問題となります。

ですから、自分の心を神様にささげている人と結婚しましょう。そして、私たちのために死んで復活された方に、私たちの心と思いと力をささげましょう。

あなたの心は誰のものでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ8章

祝福されて、周りの人々を祝福する

この箇所は、とても短いですが、私たちが大切なことを学ぶことができると思います。

この話では、イエス様はあちらこちらに行かれて、福音を述べ伝えられました。

もちろん弟子たちはイエス様と一緒に行きましたが、三人の女性たちも同行しました。それは、マグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデ王の執事の妻ヨハンナ、そしてスザンナという人です。

私たちは、その三人についてあまり詳しくは知りませんが、彼女たちはイエス様に触れられました。

イエス様はマリヤから七つの悪霊を追い出されましたし、ヨハンナとスザンナの病気を癒されたか、彼女たちから悪霊を追い出されたのです。要するに、その三人はイエス様によって祝福を受けたのです。

だから、彼女たちは感謝の心を持って、イエス様について行き始めました。それだけではなく、彼女たちは経済的にイエス様のミニストリーを支援し始めたのです。

私たちは、この話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たち皆はイエス様によって祝福を受けています。もちろん、一番大きな祝福は、イエス様が私たちの罪のために死んでくださったことです。

とはいえ、もしかすると、イエス様があなたの結婚や家族を修復されたり、あなたの過去の傷を癒されたりしたかもしれません。

確かに、祝福を受けるのは素晴らしいことです。けれども、あなたは周りの人々を祝福しているでしょうか。

それとも、祝福を受けるだけで終わっていませんか。あなたは周りの人々に祝福を分かち合っていますか。

あるクリスチャンはこう考えるかもしれません。「どうして十一献金をささげるべきなのでしょうか。それは新約聖書の教えではありません。」

確かにそうかもしれません。しかし、クリスチャンとして、私たちは気前の良い人になるように召されています。(第二コリント8:7)

なぜでしょうか。それは、神様が単に私たちを恵みで満ちた器として望んでおられるだけではないからです。

神様は、私たちが恵みのパイプラインとなり、その恵みが私たちを通して流れ、周りの人々に触れることを望んでおられるのです。

もちろん、それには教会を経済的にサポートすることも含まれますが、それだけではありません。私たちは、自分の人生を神様にささげ、周りの人々に仕えるべきです。

あなた自身はどうでしょうか。あなたは単なる恵みで満たされた器でしょうか。それとも、恵みのパイプラインでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ7章

あなたの愛はどこでしょうか

この箇所を読むと、私はこう感じます。「私はどれほどイエス様を愛しているのだろうか。」

この話には二人の人物が登場します。

一人は罪深い女性です。私たちは彼女の具体的な罪については知らないものの、周囲の人々は彼女の罪をよく知っていたようです。もしかすると彼女は売春婦だったかもしれません。ただ、それは単なる推測にすぎません。

一方、もう一人はシモンというパリサイ人です。彼は「正しい人」として知られていました。彼の言動は正しく、人生は順調に進んでいました。

そんな中で、シモンは食事にイエス様を招きました。食事の最中、その女性は泣きながらシモンの家に入りました。彼女の涙がイエス様の足にこぼれたため、彼女は自分の髪の毛でその足を拭い、香油を塗ったのです。

これに対するシモンの反応はどうだったでしょうか。それは軽蔑でした。彼女に対する軽蔑であり、イエス様に対する軽蔑でもありました。

そして、シモンはこう考えました。

この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。(ルカの福音書7:39)

けれでも、イエス様はシモンに向かってたとえ話を語られました。

その話では、一人は少額のお金を借り、もう一人は多額のお金を借りましたが、結局、二人ともそのお金を返すことができませんでした。そこで、金貸しは二人の借金を赦しました。

そして、イエス様はシモンにこう問いかけられました。

では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。(42)

多分シモンはこう考えたかもしれません。「イエス様のポイントは何だろうか。これは落とし穴のある質問なのだろうか。」

けれども、最終的に、彼は次のように答えました。

よけいに赦してもらったほうだと思います。(43)

そして、イエス様はこう言われました。「あなたの判断は正しいです。」

ところが、その次のイエス様の言葉は、シモンの心をナイフのように刺しました。

「実は、これは普通のユダヤ人のマナーですが、お客さんが来たとき、良い主人は足を洗う水を提供し、口づけで挨拶し、そのお客さんの頭に油を塗ります。

けれども、あなたは私のために何もしてくれませんでした。一方で、この女性は私が来たとき、私の足を涙で洗い、私の足に口づけし、高価な香油で私の足を塗りました。」

要するに、「シモン、あなたの愛はどこにあるのでしょうか。

この女性は私を深く愛しています。彼女は自分の行動を通して、神様の赦しに対する感謝を示しました。彼女はどれほど赦されたかを理解しているため、その愛は非常に深いです。

その一方、あなたは自分がどれほど赦しを必要としているかを理解していないため、あなたの愛はほとんどありません。さらに、あなたは私を軽んじ、いや、私に対して軽蔑的な態度を取ってしまいました。」

そして、イエス様はその女性に向かってこう言われました。

あなたの罪は赦されています。(48)

多分、周りにいた人々はその言葉を聞いて面食らったことでしょう。なぜなら、罪を赦すことができるのは神様だけだからです。

しかし、イエス様はさらに続けて言われました。

あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(50)

あなたはどうでしょうか。あなたの愛の深さはどれほどでしょうか。

あなたは、シモンのように、自分の罪の深さを理解していないため、また、どれほど自分が赦されたかを知らないために、イエス様やその十字架の働きを軽んじてしまうのでしょうか。

私たちが神様の赦しを理解していない状態でいると、次の二つの結果が生じます。

1.私たちは独善的な態度を取り、周りの人々を軽蔑し、裁くようになります。

2.私たちの神様への愛は極端に薄くなります。

しかし、私たちが神様の愛をしっかりと理解すれば、私たちの心は神様への愛と感謝で満たされます。そして、その愛と憐れみを周りの人々にも分け与え始めます。

あなたは、どのような心を持っているでしょうか。

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マタイの福音書

イエス様から学ぶこと

私はハワイ大学を卒業して以来、学校に戻る気にはなりませんでした。でも、振り返ってみると、修士の学位などを取っておけばよかったなあと思います。

とはいえ、学校は大変です。宿題も試験もたくさんあるからです。

それでも、クリスチャンとして、イエス様は私たちを学校に出席するように呼ばれます。あなたが神学校に出なくてはならないと言うわけではありません(神様はあなたをそうするように呼ぶかもしれませんが)。

ただ、私たちはイエス様の学校に出るように呼ばれています。

イエス様はこう言われました。

あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。(マタイの福音書11:29)

イエス様の時代、多くのラビたち(つまり、先生たち)は弟子たちをこのような言葉で招きました。

イエス様の学校では、私たちは何を学ぶのでしょうか。私たちは、天の父がどのような方であるかを学びます。イエス様はこう言われました。

それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(27)

多くの人々は神様を知りたがりますが、どうすれば神様を知ることができるか分かりません。目に見えない神を知るには、どうすればよいのでしょうか。もし神様がご自身を現わさないなら、それは不可能です。

けれども、イエス様を通して、神様はご自身を現わされます。イエス様は、天の父がどのような方であるかを教えてくださいます。そして、イエス様の人生を見ると、天の父の性格が見えてきます。イエス様はこう言われました。

わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)

イエス様の性格を見ると、天の父の性格が見えてきます。イエス様の言葉を聞くと、私たちは天の父の言葉を聞いていることになります。

さらに、イエス様を通して、神様が私たちにどのように生きてほしいと望んでおられるかが分かります。それは、「しなさい」と「してはならない」というリストに従う生活よりも、はるかに優れた人生です。

パリサイ人は、そのような生活を送っていました。彼らの「しなさい」と「してはならない」というリストは非常に長いものでした。

しかし、彼らの模範に従った人々は重荷を背負うことになりました。彼らは神様の愛と恵みを見つけることができず、むしろ裁きを見つけました。自由を得ることなく、守りきれない多くのルールに縛られてしまったのです。

それでも、イエス様は私たちにこう言われます。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。

そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(28-30)

イエス様はルールそのものに強い関心を持っておられるわけではありません。イエス様は、私たちが神様に近づくことを望んでおられます。また、私たちが周りの人々を愛することを望んでおられます。

そして、私たちが弱っている時には、イエス様が私たちを強めてくださいます。知恵が足りない時には、イエス様が教えてくださいます。私たちがつまずくと、イエス様が引き上げてくださいます。失望する時には、イエス様が励ましてくださいます。

だから、イエス様の教えは重荷ではありません。むしろ、その教えは私たちに自由を与えるものです。

イエス様の学校に入る資格とは何でしょうか。それは、へりくだった心です。そして、イエス様から学びたいと願う心です。

イエス様の時代、多くの宗教的な人々は、そのような心を持っていませんでした。その一方、イエス様の弟子たちは、そのような心を持っていました。だからこそ、イエス様はこう言われました。

天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。

そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(25-26)

あなたはどうでしょうか。イエス様の学校に出たいと願っていますか。イエス様から学びたいと思っていますか。

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マタイの福音書

信じられない?もしくは、信じたくない?

多くの人々は「私は神様の存在を信じられません」と言います。そして、彼らはその理由をいくつも挙げます。

けれども、多くの場合、彼らが本当に信じられないわけではありません。むしろ、信じようとしないのです。

彼らは自然の中に神様の働きを見ます。周囲の人々の人生にも、時には自分自身の人生にも、神様の働きを感じることがあります。それでも、神様を信じようとはしません。なぜでしょうか。

なぜなら、神様が存在するなら、彼らは自分の人生が自分のものではないことを認めなくてはならないからです。自分勝手に生きることはできません。そして、神様の前で自分の人生について申し開きをしなくてはならないのです。

だから、彼らはさらに証拠を求めます。しかし、その証拠が与えられても、彼らはなおも証拠を求め続けるのです。

神様がご自身を明確に現わされたとしても、彼らはそれが幻覚だと自分に言い聞かせるかもしれません。「もしくは、お酒を飲みすぎたのかもしれない」と思うこともあるでしょう。

イエス様の時代、イスラエルの人々も同じように反応しました。イエス様が奇跡を行い、病の人を癒し、死者を復活させても、なお信じない人々がいました。むしろ、さらに多くの奇跡を求めました。

その結果、イエス様は彼らに「もうしない」と言われました(マルコ8:12)。

さらに、イエス様は信じない人々を裁かれました。

ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。

おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:21-24)

この言葉で、イエス様は私たちに何を教えておられるのでしょうか。神様が私たちにご自身を示されれば示されるほど、また、語りかけられれば語りかけられるほど、私たちはより大きな責任を負うことになります。そして、神様を拒み続けるなら、私たちは厳しく裁かれるのです。

ですから、もしあなたが本心では信じたくないと思っているなら、「もっとしるしを示してください」と祈ることは非常に危険です。なぜなら、そのしるしが示された時点で、あなたには責任が生じるからです。

やがて、私たちは皆、神様の御前に立つことになります。その日、神様は私たちの言い訳を取り除き、心の奥にある動機を明らかにされるのです。

その日、あなたは気づくでしょう。あなたが信じられなかったのではなく、信じようとしなかったのだと。そして、あなたは裁きを受けることになります。

ですから、あなたの言い訳を捨ててください。あなたのプライドを捨ててください。もしイエス様を主として受け入れ、従うなら、あなたは祝福されます。この世においても、そして永遠の世界においても、祝福されるのです。

ペテロはこう言いました。

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(第一ペテロ5:6)

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マタイの福音書 マタイ11章 ルカの福音書 ルカ7章

すべての人々を喜ばせようと思う?

英語には、こんなことわざがあります。「You can please some of the people some of the time, but you can’t please all of the people all of the time.」

つまり、「あなたは、たまにある人々を喜ばせることができるかもしれません。しかし、いつもすべての人々を喜ばせることはできません。」ということです。

このことわざは、イエス様に対しても当てはまりました。イエス様は完全な方でした。イエス様のすべての行動は完全でしたし、イエス様は完全に人々を愛しておられました。

それでも、イエス様はすべての人々を喜ばせたわけではありません。そして、イエス様ご自身も、すべての人々を喜ばせようとは全く思われていませんでした。

むしろ、イエス様は批判者たちの偽善を指摘されました。そして、彼はこう言われました。

この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。

「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言います。

でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。(マタイ11:16-19)

要するに、バプテスマのヨハネが来て禁欲生活を送ったとき、パリサイ人たちや律法学者たちはこう言いました。「その人の言うことを聞くな。彼は頭がおかしい。」

しかし、イエス様が来られたとき、イエス様は罪人と共に食べたり飲んだりされたため、彼らはこう言いました。「その人の言うことを聞くな。彼は食いしん坊で大酒飲みだ。」(もちろん、イエス様が食いしん坊で大酒飲みだったわけではありません。)

このことからわかるのは、パリサイ人たちがヨハネとイエス様を拒絶したのは、彼らの生活スタイルのためではなかったということです。実際のところ、彼らはヨハネとイエス様が伝えたメッセージそのものを受け入れなかったのです。

多くの人々も、そのパリサイ人たちのようです。私たちがイエス様の言葉を伝えるとき、彼らはそのメッセージによって心地悪さを感じることがあります。

すると、彼らはそのメッセージを汚すため、メッセンジャーの評判を傷つけようとします。そして、批判できる点を探し出そうとします。そんな人々を喜ばせることは、絶対にできません。

ここで私が言いたい要点は何でしょうか。そんな人々を喜ばせようとしないでください。

賢い人は、すべての人々を喜ばせようとはしません。賢い人は、ただ一人、神様を喜ばせようとします。そして、その結果として、彼らは神様のために実を結ぶのです。

イエス様はこう言われました。

知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。(ルカ7:35)

それはどういう意味でしょうか。相手があなたを批判しても、あなたが結んだ実を通して、あなたの知恵の正しさが証明されるのです。

だから、すべての人々を喜ばせようとする必要はありません。イエス様でさえそれをされませんでした。私たちも同じです。ですから、私たちを召された方を喜ばせることに集中しましょう。

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マタイの福音書 マタイ11章 ルカの福音書 ルカ7章

私たちのための神の目的を拒否する

私たち皆は偶然ではなく、神様の目的のために造られた存在です。

その目的は何でしょうか。

それは、私たちが神様との関係を持つために造られたことです。

そして、私たちは人間関係のために造られました。私たちは周りの人々に触れることができるように、そして私たち自身も周りの人々に触れられることができるように造られたのです。

さらに、私たちは神様から授かった才能や賜物を通して神様の心を実践するように造られています。

残念ながら、多くの人々はその目的を知らずに生活を続けてしまいます。なぜでしょうか。彼らは神様が与えてくださった目的を拒絶し、自分自身のためだけに生きているからです。

このように、パリサイ人たちと律法学者たちはそのような生き方をしていました。イエス様はバプテスマのヨハネの働きが神様からのものであることを認められましたが、ルカによれば、パリサイ人たちと律法学者たちについてこう書かれています。

。。。パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。(ルカ7:30)

ヨハネのメッセージは次の通りでした。

1.悔い改めなさい。その悔い改めのしるしはバプテスマです。

2.メシア(救い主、または王)はすぐに来ます。自分の心を整えなさい。

しかし、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の義を誇りに思い、自分が悔い改める必要があるとは認めませんでした。

さらに、神様がご自身を現された時、つまりイエス様が来られた時、彼らはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。

だから、マタイはこう記しています。

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12)

バプテスマのヨハネの時代に、王であるイエス様が来られたにもかかわらず、パリサイ人たちと律法学者たちは、その王国に激しく敵対しました。

彼らは神の王国を守っていると思っていたのに、実際には神様の王国を攻撃してしまったのです。その結果、彼らは神様が彼らに対して持っていた御心を逃してしまいました。

しかし、ルカは他の人々についてこう記しています。

ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。(7:29)

その人々はへりくだり、神様の道が正しいことを認め、悔い改め、最終的にイエス様を王として受け入れたため、神様の王国に入ることができました。また、彼らは神様が彼らのために持っていた目的に立ち返ったのです。

あなた自身はどうでしょうか。神様があなたに与えてくださった目的に従っていますか。

最初のステップは悔い改めです。自分の最善を知らないことを認め、神様の道を受け入れる態度を取ることが必要です。特に、イエス様が真理であり、道であり、命であることを認めなくてはなりません。

言い換えると、イエス様をあなたの主として受け入れるべきなのです。

今、そうしませんか。

主よ、私は長い間、自分自身の道を歩み続け、あなたが私に示してくださった目的を逃してしまいました。私を赦してください。

私の罪のために十字架で死んでくださり、そして三日目によみがえられたイエス様を信じます。どうか私の主となってください。

これからは、あなたに従いたいです。あなたの御心に従いたいです。私をあなたに近づけてください。そして、あなたの御心を私に示してください。イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン。

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ルカ7章

こちらに来ておられる神。私たちの近くにおられる神。

「神様はどこにおられるのだろう?」

悲劇のただ中にいる時、多くの人々がそう問うのではないでしょうか。おそらく、この箇所に登場するやもめも、そう尋ねたことでしょう。彼女の夫はすでに亡くなり、突然、息子も命を落としてしまいました。

彼らは彼女が愛する家族であるだけでなく、彼女を経済的に支える唯一の存在でした。その時代では、夫や息子を失うことは、女性にとって貧困に陥る可能性が非常に高い状況でした。

そのため、葬儀の場で泣きながら、彼女はこう叫んだかもしれません。

「神様、あなたはどこにおられるのでしょうか。私たちを本当に愛してくださっているのでしょうか。なぜあなたは、このようなことを許されたのでしょうか。」

そして、神様が来られました。

死骸を運ぶ群衆は、命の源であるイエス様を取り囲む群衆に出会いました。

イエス様は泣いているその母親を見た時、彼女に深い同情の念を抱かれました。

イエス様は彼女に近づき、「泣かなくてもよい」とおっしゃいました。そして、イエス様は彼女の息子を復活させられたのです。

その奇跡を目の当たりにした群衆は、初めは度肝を抜かれたことでしょう。しかし、すぐに喜びに満たされ、歓声を上げたのです。

大預言者が私たちのうちに現われた。。。神がその民を顧みてくださった。(ルカの福音書7:16)

神様はどこにおられるでしょうか。神様は、すでに来ておられます。そして、神様は私たちのすぐ近くにおられます。

たとえあなたには神様が見えないとしても、また神様の臨在を感じられないとしても、神様は確かにここにおられるのです。

神様は、あなたの涙をご覧になっています。あなたの悲しみをよく知っておられます。そして、神様はあなたを深く愛しておられます。

その愛を神様は2000年前に証明されました。罪によって壊れたこの世界のために、イエス様は十字架で命を捨てられました。

そして、イエス様の復活を通じて、神様は私たちの問題に取り組む力を持っておられることを示されました。

また、イエス様は、ナインのやもめを助けられたように、私たちをも助けてくださいます。私たちがしなければならないのは、ただイエス様に頼ることだけです。

ダビデはこう言っています。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩篇34:18)

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マタイの福音書 マタイ11章 ルカの福音書 ルカ17章

疑いと戦う

聖書に登場する英雄たちも、疑いや恐れと戦っていたことを知ると、私はなんだか安心します。なぜなら、私が独りぼっちではないことが分かるからです。

バプテスマのヨハネも、自分の疑いや恐れと戦いました。彼は神様のために、とても重要な使命を果たしました。彼は人々に悔い改めを呼びかけ、イエス様の道を準備しました。ところが、突然その働きは終わってしまいました。

ヘロデ王は、自分の弟の妻と結婚しました。そのことをヨハネが責めると、ヘロデ王は怒り、ヨハネを捕えて牢に入れました。

おそらく、ヨハネは最初、確信をもって喜びながらこう宣言したでしょう。 「メシアは来た!イエス様は、この世の王や私たちの敵から救い出してくださる!」

けれども、時間が経っても、イエス様はさまざまな驚くべきことをされたものの、政治的なことにはまったく関心がないようでした。ヘロデ王は依然としてガリラヤを統治し、ローマ帝国も存続していました。そして、ヨハネはなお牢の中にいました。

時が経つにつれ、ヨハネの確信は次第に揺らいでいったかもしれません。ある日、彼の信念は完全に消え去ったのではないでしょうか。

「イエス様は本当にメシアなのだろうか?私は間違っていたのだろうか?私は本当に神様の声を聞いたのだろうか?」

ある日、ヨハネの弟子たちが彼のもとへやってきて、おそらくイエス様のことを語ったでしょう。その話をすべて聞き終えたヨハネは、静かに座りました。そして弟子たちにこう頼みました。

「イエス様に伝えてください。『おいでになるはずの方はあなたですか?それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか?』」

弟子たちはイエス様に近づいたとき、どのように感じたでしょうか。ヨハネの失望を目の当たりにし、彼らも疑い始めたのでしょうか。それとも、自分たちの師の問いをしっかりと受け止めたでしょうか。

いずれにせよ、彼らはヨハネの言葉をイエス様に伝えました。

イエス様はどのように反応されたでしょうか。彼は怒ることはありませんでした。ヨハネの弱い信仰を責めることもありませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちを優しく見つめられました。そして、周りにいる病に苦しむ人々を見渡されました。

イエス様は癒し始めました。目の見えない人、耳の聞こえない人、足の不自由な人、病に苦しむ人、イエス様は彼らすべてを癒されたのです。

そしてイエス様は、もう一度ヨハネの弟子たちに向かって、こう言われました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:4-6)

時々、ヨハネのように、私たちは疑いと戦います。「イエス様は本当におられるのだろうか」と問いかけることがあります。

私たちは自分の状況を見渡し、この世界を見つめます。そして、こう思うことがあります。

「私の信仰は本物なのだろうか。イエス様は私の信仰に値する方なのだろうか。もしかすると、私の信仰は無意味なのではないか。イエス様に従うことは本当に価値のないことなのだろうか。」

ありがたいことに、イエス様は私たちの疑いを責めることはありません。むしろ、こう語りかけてくださいます。

「私のしてきたことを覚えていなさい。私はあなたを助けてきただろう。私はあなたを癒してきただろう。私は今もここにいる。私は今もあなたの人生の中で働いている。」

しかし、それだけではなく、十字架を心に留めておきましょう。その十字架こそがイエス様の愛の証だからです。そして、イエス様の復活によって、私たちはイエス様が私たちを救う力を持っていることを確信できるのです。

あなたが決してイエス様につまずくことのないように。むしろ、イエス様こそが私たちの立つべき土台となるように。その土台は、私たちの足元で決して崩れることはありません。

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マタイの福音書 マタイ8章 ルカの福音書 ルカ7章

恵みと信仰

この二つの箇所をまとめると、私たちはこの話全体を見渡すことができます。

ルカの福音書によると、百人隊長がイエス様の助けを求めた際、実際には百人隊長の代わりにユダヤの長老たちがイエス様に願い出てくれました。彼らはこう言いました

この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。(ルカ7:4-5)

長老たちは、百人隊長について「この人はイエス様の助けをいただく資格があります」と言いました。

けれども、百人隊長自身はこう言いました。

あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。(ルカ7:6-7)

時々、私たちは救いをいただくために、あるいは神様から何かをいただくために、自分には「資格」が必要だと思い込むことがあります。

しかし、恵みはそうした条件とは無縁のものです。恵みとは、「あなたに資格がないにもかかわらず、私はあなたに永遠の命や、その他の必要なものを与えます。あなたがしなくてはならないのは、ただ私に頼むことだけです。」ということです。

だからこそ、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は神様に祈り、信頼する信仰を持っているだろうか。」

時に、私たちは信仰を失い、皮肉っぽくなることがあります。私自身もそう感じることがあります。なぜなら、祈りが必ずしも神様の期待通りに答えられるとは限らないからです。

そんな時、私たちは疑問を抱きます。「祈りには本当に意味があるのだろうか。神様は本当に私の祈りに答えてくださるだろうか。神様には私を助ける力があるのだろうか。神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」

けれども、信仰はこう答えます。「神様の良さを信じ続けます。神様は私の最善をよくご存じです。それに、神様には私を助ける力があります。だから、私は祈り続けます。」

百人隊長はそのような信仰を持っていました。彼はこう考えました。

「私はローマ人であり、ユダヤ人は普通ローマ人を嫌っています。だから、私はイエス様の助けをいただく資格がないと思う。

とはいえ、きっとイエス様には私を助ける力があり、さらにイエス様が喜んで私を助けてくださると思う。だからこそ、頼んでみよう。」

その結果、彼のしもべは癒やされました。

イエス様が驚かれることは非常に珍しい出来事です。聖書の中でその記述は二回だけあります。一つは、イエス様の地元の人々がイエス様を信じなかった時(マルコ6:6)です。

そしてこの話では、イエス様はこのローマ人の信仰を見て驚かれました。イエス様は、彼についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ8:10-12)

この箇所から、もう一つの重要なポイントを学ぶことができると思います。

この百人隊長のように、恵みが必要であると認め、イエス様を信じる人は神の国に入ることができます。私たちは家系の資格によって神の国に入ることはできません。また、私たちの良い行いによって入ることもできません。

むしろ、私たちはこう認めなくてはならないのです。

「私には、あなたから何かをいただく資格はありません。でも、私はあなたを信じます。私はあなたの十字架の働きを信じます。そして、私はあなたが三日目によみがえられたことを信じます。だから、どうか私を救ってください。」

パウロはこう言いました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:何の土台に私たちの人生を建設するか

今日で、山上の垂訓と平地の説教についての話が終わります。

どちらも同じように終わります。つまり、イエス様はその聞き手に挑戦を投げかけておられるのです。イエス様は彼らに問いかけます。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

要するに、「あなたが私を『主』と呼んでも、私の言葉に従わないなら、私は本当にあなたの主でしょうか。」

ある人はこのように要約しました。「イエス様があなたの人生のすべての主でないなら、イエス様はまったくあなたの主ではないのです。」

その通りです。イエス様があなたの主であるかどうか。可能性は二つしかありません。イエス様はあなたの主であるか、そうでないか、どちらかです。

そして、イエス様は非常に有名なたとえを語られます。それは、「岩の上に強い土台を持つ建てられた家」と「土台なしで砂の上に建てられた家」です。

もし私たちがイエス様の言葉を聞き、それに従うなら、私たちは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています」。

その安定した土台のおかげで、人生の嵐が来ても、私たちの家はびくともしません。

その一方、私たちがイエス様の言葉を聞きながら従わないなら、私たちの人生は砂の上に建てられています。

砂とはどのようなものでしょうか。砂は常に移り変わるものです。

この世の価値観も砂のように移り変わります。道徳的な価値観も常に変化しています。

50年前に悪いと見なされていたことが、今では良いと見なされることがあります。また、良いとされていたものが、今では時代遅れの考え方とされてしまうこともあります。

しかし、もし私たちが移り変わる砂の上に人生を建てるなら、その土台は不安定であり、人生の嵐が襲ってきたとき、私たちの人生は崩れてしまいます。

あなたはどうでしょうか。岩の上にあなたの人生を建てていますか。

イエス様の言葉を聞くだけではなく、その言葉に従っていますか。それとも、この世と調子を合わせて、移り変わる砂の上に人生を建てているでしょうか。

簡単に言うと、イエス様はあなたの主でしょうか。