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士師記

神様はその行動を本当に承認されたのか

時々、私たちは聖書を読むときに、聖書の登場人物が悪いことをするのを見ます。時には、聖書のヒーローですら、本当にひどいことをします。そして、私たちは尋ねます。「神様はそれを承認されたのか。それは神様の御心だったのか。」

特に、神様がその状況について何も解説されないときに、私はそう尋ねます。

時々、誰かが悪いことをしたとき、聖書にはこう書かれています。「その行為は神様の心をそこなった。」

たとえば、ダビデがバテ・シェバと姦淫を犯し、その夫を殺したとき、聖書にはこう書かれています。

しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。(サムエル記第二11:27)

とはいえ、多くの場合、聖書には神様の感情が全く書かれていません。だから、神様が怒られたか、平気だったか、私たちはよく分かりません。

多くの人々はこう考えます。「神様はその行動を承認されたのかもしれない。もし承認されていなかったなら、なぜ聖書に何も書かれていないのでしょうか。」

けれども、それは誤った考え方です。エフタの話(士師記11章)で、私はこの疑問についてさらに語ります。しかし、この箇所でも、スコテとペヌエルという都市に対するギデオンの行動を考えると、同じような疑問が生じます。

その都市はガドという部族のものでした。イスラエル人がミデヤン人を追ったとき、彼らはその都市の人々にパンを求めました。ところが、その長老たちは拒絶しました。

なぜ拒んだのでしょうか。彼らが恐れたからかもしれません。もしイスラエル人がミデヤン人を征服できなかったなら、ミデヤン人はその都市に復讐したかもしれません。

しかし、この箇所をよく読むと、もう一つの可能性が見えてきます。長老たちがギデオンの願いを拒んだとき、彼らはギデオンを嘲ったのです。

「あなたたちは馬鹿です。あなたたちが300人しかいないのに、1万5千人の軍隊を攻めるつもりか。私たちは絶対手伝ってあげない。」(士師記8:15)

だから、ギデオンの勝利の後で、彼はその二つの都市に対して復讐しました。

神様はその行動を承認されたのでしょうか。聖書は沈黙しています。実際、多くの聖書の解説者はギデオンが正しいと解釈しています。

それでも、私の意見ですが、多分、神様は承認されなかったと思います。なぜ私はそう思うのでしょうか。

このような話を読んで、「神様は承認されたか」と尋ねるとき、ただその一つの話を読むだけではなく、聖書全体の教えを見なければなりません。

神様はこのような状況について何を教えておられるでしょうか。

二つのことを見ましょう。一つは正義についてです。神様はイスラエル人に教えられました。

いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。(申命記19:21)

それは復讐の教えではありませんでした。むしろ、それは罰の制限でした。つまり、その罰は罪と同等でなければなりませんでした。罰は罪より大きくてはなりませんでした。

その二つの都市はギデオンの軍隊にパンをあげることを拒絶し、ギデオンたちをからかいました。荒野の茨やとげの罰、また、やぐらの壊し、また人を殺すことは、その罪に合っていたでしょうか。

私の意見ですが、その罰は彼らの罪に合っていなかったと思います。それがギデオンの傷ついたプライドによる復讐のように見えます。

二つ目のことは、イエス様の申命記の解説です。

イエス様は言われました。

『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:38-39)

あなたが考えると、それは本当に心を打つ描写です。

イエス様は言われました。もし、誰かがあなたの右の頬を打ったら、左の頬も向けなさい。

もしあなたが右利きで、相手に向かい合ったなら、どうやって相手の右の頬を打つでしょうか。手の甲で打たなければなりません。

けれども、通常、相手の体を傷つけるために手の甲は使いません。それは侮辱の行為なのです。

だから、イエス様が意味されたのは、もし、誰かがあなたを侮辱するなら、赦しなさいということです。その人と喧嘩しない、という意味です。

ギデオンはそうしませんでした。もちろん、その都市の長老たちは悪かったです。しかし、ギデオンの反応も悪かったです。左の頬も向けずに、彼は復讐しました。

いずれにせよ、私のポイントは、聖書に神様がその行動を見て怒られたと書かれていないからと言って、神様がその行動を承認されているとは限らないということです。

私たちは、聖書の全体の教えを見なければなりません。そうすれば、神様の承認かどうか分かるようになります。

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士師記

なだめるような言葉

もし、誰かが不公平に私たちを責めたら、私たちはどう反応するでしょうか。

多くの人にとって、自然な反応は相手を責めることです。また、ひどい言葉を受けたら、私たちはひどい言葉を返します。他の人は何も言わずに、すねます。

しかし、そのような反応は良くありません。ギデオンはそれを知っていました。

ミデヤン人と戦うことを計画したとき、ギデオンはいくつかのイスラエルの部族に助けを求めました。けれども、その戦いがほとんど終わるまで、ギデオンはエフライム人に助けを求めていませんでした。

だから、エフライム人は怒りました。初めから、彼らは助けたかったのに、除外されたように感じました。彼らはギデオンが、他の手段がないときに彼らを呼んだと感じました。だから、彼らは言いました。

あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。(士師記8:1)

そして、彼らはギデオンを激しく責めました。

ギデオンはどう反応したでしょうか。ギデオンは彼らを責めませんでした。彼はすねませんでした。むしろ、ギデオンは言いました。

今、あなたがたのしたことに比べたら、私がいったい何をしたというのですか。。。神はあなたがたの手にミデヤン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べたら、私に何ができたのでしょう。(2-3)

その言葉によって、ギデオンはエフライムのプライドをなだめました。

箴言にこう書いてあります。

柔らかな答えは憤りを静める。(箴言15:1)

あなたはどうでしょうか。誰かがあなたを不公平に責めたとき、あなたはどう反応しますか。

時には、一番良い方法は、自分のプライドを抑えて、謙虚になることです。とはいえ、それは簡単なことではありません。

けれども、もし相手を本当に愛しているなら、そうする方が良いのではないでしょうか。

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士師記

誰を信頼しているでしょうか。

誰を信頼しているでしょうか。

神様はギデオンにそう訊いておられたようです。ミデヤン人と戦うために、ギデオンは3万2千の人々を集めました。けれども、神様は言われました。

あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが、『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。

今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。(士師記7:2-3)

2万2千人は帰っていきましたが、神様は「それでも、まだ多すぎる」と言われました。

だから、神様はさらに多くの人々を帰らせました。結局、その32千人から、300人しか残りませんでした。どうしてでしょうか。

それは、神様がイスラエル人が自分自身に頼らず、ただ主に信頼することを望んでおられたからです。そして、たった300人で、神様はイスラエル人に勝利を与えてくださいました。

同じように、神様は私たちが神様を信頼することを望んでおられます。

けれども、私たちは誰を信頼するでしょうか。何に頼るでしょうか。お金でしょうか。私たちの仕事でしょうか。私たち自身でしょうか。それとも、神様でしょうか。

もし私たちが他のものに頼るなら、それが私たちの優先事項になります。そして、私たちはそれを神様よりも大切にします。

しかし、もし私たちがただ神様を信頼するなら、私たちの優先順位は正しくなり、勝利を得ます。

あなたの神様との関係はどうですか。強い関係がありますか。それとも、弱い関係でしょうか。あなたは神様と親しい関係があると思いますか。

自分自身に問いかけてください。「私は誰を信頼しているのだろうか。何に頼っているのだろうか」

神様はあなたと親しい関係を望んでおられます。けれども、もしあなたが「神様を他の何よりも信頼する」と答えられないなら、その親しい関係はできません。

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士師記

私たちが何者になるかの可能性を見られる神

この箇所は神様がモーセを呼ばれた箇所と似ています。両方の場合、神様は自信がない人を呼び、用いられました。

この場合、天使はギデオンを呼ばれたときに、興味深いことを言いました。(ちなみに、多くの学者は、その「天使」がイエス様だと考えています)。その天使は言いました。

勇士よ。主があなたといっしょにおられる。(士師記6:12)

けれども、ギデオンは全く勇士ではありませんでした。彼はただの農夫でした。そして、彼は全然強くなかったし、全く勇気がありませんでした。神様が彼を呼ばれた時に、彼は答えました。

「私は取るに足りない人ですし、取るに足りない部族の出身です。どうやって、私はイスラエルを救うことができるでしょうか。」

そして、ギデオンはバールの祭壇を破壊する時に、夜に行いました。なぜならば、彼は家族と近所の人々を恐れていたからです。

また、ギデオンはイスラエル人を戦いのために集めた時に、神様が彼らと共におられる証拠を求めました。

それでも、神様はギデオンに恵みを与えてくださいました。ギデオンが神様を試しても、神様は許してくださいました。

そして、ギデオンがやっと「この方は神様です」と分かって、恐れてひれ伏した時に、神様は言われました。

安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。(23)

ギデオンは罪人でした。死に値しました。なぜならば、ギデオンは罪人であったのに、聖なる神様の御顔を見たからです。しかし、神様はギデオンを殺しませんでした。むしろ、神様はギデオンを素晴らしい働きのために呼ばれました。

どうしてでしょうか。それは、神様がギデオンの可能性を見られたからです。神様はギデオンを信じてくださいました。

そのように、神様はあなたを信じてくださいます。あなたが見えなくても、神様はあなたの可能性を見られます。

だから、自己憐憫にふけらないでください。「私は取るに足りない人だ」と言わないでください。

それは嘘です。なぜならば、神様があなたを創造されたからです。そして、神様の目的のためにあなたを造られました。つまり、あなたが神様を知り、神様の国のために仕えるために造られました。

どんな人であっても、神様はあなたに可能性を見られます。

ただ、私たちは神様に「イエス」と言うべきです。

あなたはどうしますか。

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士師記

あなたは値する(しない)事を得る?

私たちが悪い決断をすると、どれぐらい他の人々はこう言うでしょうか。

「自業自得でしょう?」

「同情なんてしない。」

「それは当然の報いだよ。」

そして、それはその通りです。聖書では、こう書かれています。

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)

もし、私たちの人生に悪い種を蒔けば、悪い実が出てきます。

この箇所の初めで、神様はイスラエル人にそのようなことを言われました。イスラエル人が神様に背を向けたので、神様はミデヤン人がイスラエル人を迫害することを許されました。

その苦しみの中で、イスラエル人は再び神様に叫び求めました。

すると、神様は答えられました。

イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。

わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。

それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」(士師記6:8-10)

つまり、「あなたたちは値することを受けた。私があなたたちに警告したのに、あなたたちはそれを無視したから、今苦しんでいる。」

それでも、神様はイスラエル人を見捨てられませんでした。むしろ、彼らの罪なのに、神様は彼らに手を伸ばして救ってくださいました。

それは恵みです。私たちは神様から何も値しません。むしろ、私たちは皆神様に背を向けて、自分の道を行っていたから、地獄に行くことに値します。

でも、もし私たちが神様に叫び求めたら、神様は応えてくださいます。私たちを愛してくださるからです。

神様は、私たちの罪の結果をすべて取り除かれるわけではありません。あなたの悪い選択によって、苦しむかもしれません。

でも、もし私たちが神様に向かったら、苦しみの中でも希望があります。つまり、神様は私たちをまだ愛してくださるので、私たちの苦しみの中で働いて助けてくださるということです。

あなたは悪い選択をしましたか。その選択によって苦しんでいますか。神様に向かいましょう。神様は、あなたを赦して、助けてくださいます。なぜならば、神様はあわれみ深くて、恵み深い神様だからです。

ダビデが書いたように、

主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。(詩篇86:5)

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士師記

試合に参加しているでしょうか。ただ傍観しているのでしょうか。

多分、一番有名なバスケットボールの選手はマイケル・ジョーダンです。

とはいえ、彼のチームメートであるスコッティ・ピッペンも非常に優れた選手でした。彼はNBA(アメリカバスケットボールのリーグ)の歴史の中で、本当にすごい選手でした。

さらに、ピッペンはNBA50周年記念オールタイムチームに選ばれました。

けれども、一つの試合で、彼の評判は悪くなりました。なぜでしょうか。彼はバスケットボール・コートに入ることを拒否しました。

時間が少ししかない時に、最後の逆転を狙うために、コーチは他の選手にシュートを打たせるプレイを指示しました。ピッペンはそれを聞いて、爆発し、出場を拒否しました。

皮肉なことに、そのチームメートはシュートを決めて、そのチームは勝ちました。

ピッペンは最も良いバスケットボールの選手の一人ですが、多くのファンはその試合をまだ覚えています。だから、彼の評判はまだ少し汚れています。

イスラエル人は同じような状況に直面しました。神様はイスラエルの部族のすべてに協力させて、イスラエル人を圧迫する国と戦うよう命じられました。ところが、ある部族は来ることを拒否しました。

なぜでしょうか。私たちには分かりません。

私たちはバラクを批判するかもしれません。なぜなら、デボラが同行しない限り、バラクは行こうとしなかったからです。しかし、結局バラクは出陣しました。

けれども、ある部族はさらに悪い態度をとりました。彼らはまったく来なかったのです。だから、勝利の歌の中で、デボラはそのことを歌いました。

イッサカルのつかさたちはデボラとともにいた。イッサカルはバラクと同じく歩兵とともに谷の中を突進した。ルベンの支族の間では、心の定めは大きかった。

なぜ、あなたは二つの鞍袋の間にすわって、羊の群れに笛吹くのを聞いているのか。ルベンの支族の間では、心の秘密は大きかった。

ギルアデはヨルダン川のかなたに住んでいた。なぜダンは舟にとどまったのか。アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。

ゼブルンは、いのちをも賭して死ぬ民。野の高い所にいるナフタリも、そうである。(士師記5:15-18)

つまり、イスラエル人が迫害者と戦うために自分の命をかけたとき、ルベンの支族、ギレアデの支族、ダンの支族、アッシェルの支族はただ傍観していました。

クリスチャンとして、私たちも戦争に参加しています。それは霊的な戦争で、毎日多くの人々が地獄に行っています。そして、神様は私たちにお訊きになります。

「あなたはただ傍観しているのでしょうか。それとも、試合に参加して、迷っている魂のために戦っているでしょうか。」

ある人にとって、あなたしかクリスチャンを知りません。そして、あなたが何も言わないと、彼らはイエス様のことを全く聞かないでしょう。その場合、神様はあなたに責任を問われます。

神様はあなたに言われます。

「他のクリスチャンはあちらこちらに行って、福音のために自分の命をかけました。なぜ、あなたは彷徨したのですか。なぜ、家に残ったのですか。なぜ行かなかったのですか。」

神様、私が決して傍観しないように。むしろ、私が試合に参加し、あなたのためにこの世界に影響を与えられるようにしてください。

私があなたの声を聞き、あなたの指示が分かるようにしてください。私が立派な兵士になれるようにしてください。アーメン。

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士師記

神様に従う時

私たちは皆、ロールモデルがいます。ある人にとっては、お父さんやお母さんです。他の人にとっては、おじいさんやおばあさん、あるいは先生です。

私たちが若い頃、彼らは私たちの成長にとって本当に大切な存在です。私たちの人格を形づくる手助けをしてくれます。私たちが育っていく過程を支えてくれます。

けれども、私たちが彼らから目を離して、神様に仰がなくてはならない時が来ます。

他のロールモデルは不完全です。時々彼らは失敗します。彼らは時々ミスをします。それに、彼らには弱さがあります。そして、時々、彼らは私たちを助けられません。だから、私たちは彼らに頼らずに神様に頼らなくてはなりません。

この箇所を読むと、バラクがそこまで成長していないことがわかります。その時、デボラという人はイスラエル人の預言者であり、イスラエルを裁いていました。

その時、イスラエル人の敵であるヤビン王は彼らを圧迫していました。デボラはバラクに言いました。

「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。

わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」(士師記4:6-7)

ところが、バラクは言いました。「もし、あなたが私たちと共に行かないなら、私は行きません。」

だから、デボラは答えました。

私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。(9)

どうして、デボラはそう言っていたのでしょうか。バラクの願いは悪かったでしょうか。もしかしたら、悪くなかったけど、理想的な反応ではなかった。なぜでしょうか。

一番の理由は、バラクが神様を信じなかったからです。神様だけに頼りませんでした。むしろ、彼は神様に頼る人に頼りました。

とはいえ、さらに悪いこともあり得ます。もし彼が神様に頼らない人に頼っていたなら、もっと大変なことになっていたでしょう。

しかし、結局、私たちの信仰は他の人の信仰に頼らずに、立たなくてはなりません。つまり、私たちはイエス様だけを信じなくてはなりません。私たちが神様に従う理由が、誰かが私たちに「神様に従いなさい」と言ったことだったら、それはダメです。

私たちは神様に対する愛によって、神様に従うべきです。

クリスチャンホームで育てられた子供たちは皆、その選択に直面します。私もその選択に直面しました。私は自分自身に訊かなくてはなりませんでした。

「どうして神様を信じるのでしょうか。私の両親が信じるからでしょうか。それとも、神様が私に対して本当にリアルだからでしょうか。

私が神様に従う理由が、私の両親が神様に従うからでしょうか。それとも、私の個人の経験によって、神様に信頼できることを知っているからでしょうか。」

いつか、私たちのロールモデルの手を離してイエス様の手を取らなくてはなりません。

もちろん、私たちは他のクリスチャンのサポートが必要です。神様は他のクリスチャンを私たちの人生に置いて、私たちを励まし、成長することを助けてくださいます。

しかし、私たちは不完全なロールモデルに頼るべきではありません。むしろ、イエス様に頼るべきです。

ヘブル人への手紙の著者が言ったように、

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(へブル12:2)

誰の手をつないでいるでしょうか。

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士師記

あなたは自分自身を誰に与えるでしょうか

士師記では、同じテーマが何度も繰り返されます。

士師記3:7-8には、こう書いてあります。

こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行い、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。

それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。

また12節では、

そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。彼らの主の目の前に悪を行ったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。

そして、4:1-2では、

その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。エフデは死んでいた。

それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。

士師記を読みながら、何度もそのような言葉を見ます。イスラエル人は偽の神々を礼拝し始めたため、神様がその神々の国の手にイスラエル人を渡されました。

そして、イスラエル人は苦しみ、悔い改めて、神様に「助けてください」と祈り、神様が彼らを救う救助者を起こされました。

この箇所から、私たちは大切なことを学べると思います。

私たちが自分自身を何かに捧げると、そのものの奴隷になります。もし、私たちが自分自身を罪に捧げたら、罪の奴隷になります。

でも、もし、私たちが自分自身を神様に捧げたら、神様の奴隷になります。

以前言ったように、「あなたは誰かに仕えなくてはならない。」

パウロはこのように言っていました。

あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6:16)

時々、人々は、「神様から離れたら、私は自由です。私は何でも出来る。」と思います。

でも、彼らが分からないのは、他のものの奴隷になっていることです。たとえば、自分の情欲や貪欲の奴隷になってしまいます。そして、パウロが言ったように、その行き着く所は恥と死です。(ローマ6:21-22)

たくさんの人々は、「どうして、私の人生はめちゃくちゃになったのだろうか」と思います。

「どうして、私の結婚はめちゃくちゃなのだろうか。どうして、私の経済はダメなのだろうか。どうして、私の悪い癖を止められないのだろうか。」

そして、彼らが気づくのは、自由だと思っていたものが本当は奴隷の人生だということです。また、その人生が死に導くことを理解するようになります。

だから、パウロは書きました。

あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(6:19)

あなたはどうでしょうか。あなたは自分自身を誰に捧げているでしょうか。何に捧げているでしょうか。

誰も本当に自由ではありません。

情欲に仕えて奴隷となり、滅びる人生を送ることもできます。

それとも、あなたは神様に仕えて満ち溢れる人生を送ることができます。

あなたはどうしますか。

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子育てを失敗すること

数年前、私は新聞の記事を読んでいました。その記事によると、日本の若い両親たちは、その子どもたちにどのように道徳を教えるか迷っていました。なぜなら、両親たちも道徳について確信がなかったからです。

もちろん、もし両親たちが自分自身道徳について確信がなければ、子どもたちに教えることはできません。

その結果、学校で多くの問題が起こります。15年くらい前、「学級崩壊」という言葉を聞き始めました。その状態は今でもあまり改善されていません。

イスラエル人は学級崩壊を経験しませんでした。彼らは社会崩壊を経験しました。

彼らは初めに、神様を礼拝し、神様の道に従っていましたが、やがて違う神々を礼拝し始めました。すぐに、彼らの道徳は崩れました。どうして、それは起こったのでしょうか。

イスラエル人は子育てに失敗したからです。どのように失敗したのでしょうか。

その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。(士師記2:10)

神様はイスラエル人に命じられました。「あなたの子どもたちに私について教えなさい。私はあなた方のために何をしたか教えなさい。」

それなのに、イスラエル人はその義務を無視しました。その結果どうなったでしょうか。その子どもたちは神様を知らなかったし、主がイスラエル人のために何をしたか全然知りませんでした。だから、その社会はすぐに崩れました。

私たちはどうでしょうか。私たちの子どもたちに神様について教えているでしょうか。神様が私たちのために何をされたかを、教えているでしょうか。

それとも、ただ子どもたちを日曜学校に連れて行って、その義務を先生たちに任せているでしょうか。

それは絶対にダメです。その先生たちは一週間に一回だけ私たちの子どもたちを教えています。でも、私たちは毎日子どもたちと一緒にいます。

先生たちが私たちの子どもたちに教えるとき、神様は喜ばれると思いますが、神様はその責任を両親たちに与えられました。神様は私たちに命じられます。

あなたがたは、私のことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。(申命記11:18-19)

もし、あなたの子どもたちが神様を知らないなら、それは日曜学校の先生のせいではありません。それは、あなたの責任です。

神様について教えるべきなのは、あなたです。神様との関係をどう築くかを教えるべきなのも、あなたです。

そして、あなたの子どもにとって、あなたはクリスチャンの模範です。

日曜学校の先生たちは私たちの教えを補いますが、私たちの責任を取ることはできません。

もちろん、私たちの子どもたちは自分で決断しなくてはなりません。私たちが義務を果たし、神様について教えても、彼らが神様から立ち去るかもしれません。それをコントロールすることはできません。

でも、私たちが自分の子どもを教えないなら、神様はその責任を私たちに問われます。

時々、クリスチャンは言います。「でも、私は聖書をあまり知らない。神様のこともあまり知らない。私は聖書を教える資格がない。日曜学校の先生はもっと良い資格があるでしょう?」

そうかもしれませんが、それは良い言い訳ではありません。あなたはあまり知らないかもしれませんが、知っていることを教えなくてはならないのです。

そして、毎日毎日、あなたの信仰が成長し、神様についてもっと学ぶべきです。そうすれば、子どもたちにもっと教えることができるようになります。

あなたはどうでしょうか。神様の命令に従って、子どもたちに教えていますか。それとも、ただ日曜学校に連れて行っているのでしょうか。

イスラエル人は子どもたちに教える義務を果たせませんでした。そうしないでください。あなたの子どもに教えてください。そうすれば、あなたのように、彼らも神様を知るようになります。

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士師記

でも、私はできない

時々、神様は私たちに何かを命じられますが、私たちはそれは無理だと思います。私たちにとって、その仕事が大きすぎると思うかもしれません。または、私たちは罪と闘っていますが、いつも誘惑に負けてしまいます。

だから、私たちは言います。「神様、ごめんなさい。私はできません。この闘いは大きすぎるから。」

また、「この仕事ができません。私にとっては無理です。」

イスラエル人も同じでした。神様はイスラエル人に「カナン人をすべて土地から追い出しなさい」と命じられました。

けれども、その仕事が難しくなると、イスラエル人は諦めました。

どの程度まで頑張ったのでしょうか。追い出そうとしたのに、圧倒的に敗北したのでしょうか。

または、少し頑張ったけど、すぐに諦めたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分、イスラエル人はあまり努力しなかったのでしょう。だから、攻撃を始めたけど、うまく行かなかったから、すぐに諦めてしまいました。カナン人を追い出すのは難しすぎたからです。

だから、神様は彼らに言われました。

「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。

あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を壊さなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。(士師記2:1-2)

神様は彼らの言い訳を受け入れませんでした。なぜでしょうか。なぜなら、神様は彼らと共におられると約束し、また、彼らを助けることを約束してくださったからです。

神様はイスラエル人の目の前に、エリコの壁を壊してくださいました。神様はイスラエル人の敵の上に雹を送り、イスラエル人の刀よりも、雹の方がその敵を殺しました。神様はアイを征服するためにイスラエル人に作戦を与えてくださいました。

それでも、イスラエル人は言いました。「私たちの敵は鉄の戦車を持っているから無理です。」

また、

「カナン人はこの土地から出たくない。彼らは激しく戦っています。彼らを追い出せない。」

神様の大きさに焦点を当てず、彼らは自分の弱さに焦点を当てていました。神様の助けを祈らず、彼らはただ「私たちはできない」と言っていました。だから、神様の命令に従いませんでした。

私たちはどうでしょうか。問題に直面するとき、どのように反応するでしょうか。私たちより大きい仕事を与えられたら、神様の力に頼り、従いますか。それとも、ただ「無理だ」と言って、やってみる前に諦めますか。

あるいは、少しだけやってみるけど、すぐに「もうだめです。残念です」と言いますか。

神様はその言い訳を受け入れません。なぜなら、神様は私たちと共におられるからです。そして、神様が私たちに仕事を与えるときは、いつも助けを備えてくださいます。

だから、私たちが何ができないかに焦点を当てず、神様が何ができるかに焦点を当てましょう。そして、従いましょう。

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ヨシュア記

誰に仕えるでしょうか

昔、有名な歌手ボブ・ディランが、こう歌いました。

確かに、誰かに仕えなくてはならない。
必ず誰かに仕えなくてはならない。

悪魔に仕えるかもしれない。
主に仕えるかもしれない。
けれども、誰かに仕えなくてはならない。

ディランがこの歌を作ったのは、1979年のことです。 そのとき、それは確かに真実でした。 ヨシュアの時代にも、それは変わらず真実でした。 そして、今もなお、それは変わらぬ真実です。

この箇所で、ヨシュアはイスラエルの民に対して、神様が彼らのためにどれほど多くのことをしてくださったかを思い起こさせました。 けれども同時に、もし彼らが神様に背を向けるなら、神様は彼らを罰せられると警告しました。

さらにヨシュアは、彼らにアブラハムの父テラのことを思い出させます。 テラは、他の神々に仕えていました。 そしてイスラエルの民自身もまた、エジプトで他の神々に仕えていたのです。

そのような背景を語ったあとで、ヨシュアはこう言いました。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。

もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア記24:14-15)

私たちもまた、同じ決断を迫られています。 私たちは、いったい誰に仕えるのでしょうか。 神様に仕えるのでしょうか。 それとも、自分自身に仕えるのでしょうか。

お金に仕えるのでしょうか。 性の「神」に仕えるのでしょうか。 力の「神」に仕えるのでしょうか。

誰に仕えるのでしょうか。

ヨシュアは、こう語りました。 「たとえ、あなたがたがどのような選びをするにせよ、私と私の家は主に仕える。」

おそらく、このブログを読んでいる多くの人は、同じように言うことでしょう。 けれども、「神様に仕える」とは、いったいどういう意味でしょうか。

まず第一に、それは他の偶像を捨てることです。 この世界には、目に見える偶像だけでなく、目に見えない偶像も数多く存在します。

仏教やヒンドゥーの像だけではなく、金銭の「偶像」や性の「偶像」、力の「偶像」もあります。 何かを礼拝するなら、それはすでに偶像になっているのです。

もし私たちが神様に仕えたいと願うなら、 神様を人生の第一にしなければなりません。 そして、あらゆるものを神様の御支配のもとに置くべきなのです。

ヨシュアはこう言いました。

今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。(24:23)

もちろん、それは、お金をすべて捨てることでも、結婚生活の中で性を断つことでも、リーダーシップの立場を降りることでもありません。 けれども、どんなことをするにも、私たちの心が神様に向かっていなければならないのです。

つまり、 「神様、あなたこそが私の人生の主権者です。 私の性においても、お金においても、立場においても―― 私の人生のすべてをあなたの御支配のもとに置きます。」 という姿勢が必要なのです。

そして、これまでに他の神々を礼拝してきたなら、 たとえば仏陀やアラーに向かって礼拝していたなら、 それをやめなければなりません。 なぜなら、二人の主に仕えることはできないからです。

ヨシュアは、こう言いました。

主は聖なる神であり、ねたむ神である。(24:19)

神様に仕えるということには、もう一つの大切な意味があります。 それは、心から神様を愛し、その愛ゆえに従っていくということです。

ヨシュアは、こう語りました。

あなたがたは、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。。。

あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。(23:6,11)

イエス様もこう語れました。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。(ヨハネ14:21)

しかし、もう一つ大切なことを心に留めておかなければなりません。 私たちは、自分の力だけでは神様に仕えることができないのです。

ヨシュアは、イスラエルの民にこう語りました。

あなたがたは主に仕えることはできないであろう。(24:19)

おそらく、ヨシュアがそう語ったとき、 彼は単にイスラエルの民にチャレンジを与えたかったのだと思います。

「あなたがたは本当に神様に仕える覚悟があるのか。 その約束は、心からのものなのか。」

けれども、その言葉は比喩ではなく、文字通りに正しかったのです。

聖霊が私たちの心の中で働かれなければ、 私たちは神様に仕えることができません。 聖霊が私たちを内側から造り変えてくださらなければ、 私たちは神様に従い続けることができないのです。

だから、私たちは日々、こう祈る必要があります。

「聖霊様、今日も、私の心を一新してください。 私の内側を清めて、あなたのかたちに似た者として造り変えてください。 私は、あなたに仕えたいのです。」

これこそが、神様に仕えるということの本当の意味です。

あなたは、誰に仕えているでしょうか。

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ヨシュア記

誤解と和解に導くコミュニケーション

多くの場合、誤解の原因は、悪いコミュニケーションにあります。 私たちが自分の考えを十分に伝えないために、お互いの意図を取り違え、相手を不当に裁いてしまうのです。

この箇所でも、まさにそのような状況が見られます。

ルベン族、ガド族、マナセ族の半部族は、ヨシュアの祝福を受けて、ヨルダン川の東側にある自分たちの所有地へと帰っていきました。 なぜなら、他のイスラエルの部族たちは、それぞれ自分の相続地を受け取ったからです。

ところが、帰る前に、その三つの部族は一つの祭壇を築きました。 これを見た他の部族は、非常に怒りを覚えました。 というのも、神様はイスラエルの民がカナンに入った時、命じられた所以外には祭壇を築いてはならないと命じておられたからです。

さらに、もしその三つの部族が神様に背くことがあれば、 アカンの時のように、全体にまでその悪影響が及ぶと考えられました。

そこで、他の部族たちは、彼らに面と向かって問いただし、場合によっては戦わなければならないと真剣に考えるに至ったのです。

けれども、その三つの部族は、自分たちが築いた祭壇の目的を他のイスラエルの部族に説明しました。 つまり、彼らはその祭壇でいけにえをささげるつもりはない、と語ったのです。 むしろ、その祭壇は、自分たちが他のイスラエルの部族と同じ神様を礼拝していることの証しだと言いました。

その説明を聞いて、ヨシュアと他の部族たちは納得し、それぞれの地へと帰っていきました。

この出来事から、私たちは二つのことを学べると思います。

第一に、誤解を避けるためには、良いコミュニケーションが必要だということです。

もし最初から、その三つの部族がイスラエルの族長たちと共に行動し、彼らの目の前で祭壇を築き、その目的を説明していたなら、このような誤解は起きなかったかもしれません。

ところが、何も告げずに祭壇を築いたため、他の部族たちはその意図を誤って受け取ってしまいました。

なぜ彼らがそうしなかったのかは、はっきりとは分かりません。

衝動的な決断だったのかもしれません。ヨルダン川に着いたとき、突然この考えが浮かんだのかもしれません。あるいは、他の部族も当然自分たちの意図を理解してくれていると思い込んでいたのかもしれません。

いずれにせよ、自分たちの意図をきちんと伝えなかったことによって、重大な誤解が生まれたのです。

私は妻に、いつもこう伝えています。 「あなたの心は読めないよ。もし僕があなたのことやあなたの必要を理解することを望むなら、それをちゃんと伝えてほしいんだ。」

そして、伝えてくれたなら、私はしっかりと聞いて、それを覚えなければなりません。(それは簡単ではありませんが、努力しています。)

そうすれば、私はもっと妻のことを理解でき、妻が何も言わなくても、そのニーズに気づけるようになります。

それでも私たちは、相手が自分の思いや意図を理解してくれるだろうと、勝手に思い込むべきではありません。 もし理解してほしいと願うなら、自分の思いをきちんと伝えなければならないのです。 あの三つの部族も、そのことを痛みの中で学びました。

第二に、私たちはすぐに相手と向き合って話すべきです。

彼らが祭壇を築いたとき、他の部族たちはその意図を誤解し、深く怒りました。 しかし良かったのは、彼らがその部族のもとに赴き、きちんと話し合いをしたということです。 そのため、誤解はすぐに解けました。

けれども、多くの場合、私たちはそうしません。 むしろ、自分の怒りにとどまり続けてしまうのです。 そのような態度では、問題は決して解決しません。 もし私たちが誰かに傷つけられたと感じたなら、その人ときちんと向き合って話すべきなのです。

そうすれば、正しい裁きを行い、その人と和解することができます。 しかし、問題を見て見ぬふりをしていると、その関係は少しずつ壊れていきます。 それは、決して神様が望んでおられることではありません。

あなたの人間関係は、今どうでしょうか。 あなたは、正しく物事を見極めて裁いているでしょうか。 それとも、不完全な情報に基づいて、誰かをさばいてしまってはいないでしょうか。

良いコミュニケーションをとれているでしょうか。 それとも、自分の怒りの中にとどまったままでしょうか。

神様は、あなたにどのような一歩を願っておられるのでしょうか。

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ヨシュア記

約束を守ってくださる神

私は、この箇所の最後の部分が特に大好きです。

こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。

主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。

主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。(ヨシュア記21:43-45)

およそ700年から800年前、神様はアブラハム、イサク、ヤコブに、カナンの地を与えると約束されました。

それからの時を経て、アブラハムの子孫は大いなる国民となり、神様は多くの奇跡をもって、イスラエルの民をエジプトから解放してくださいました。

そして、彼らを40年の間、荒野で守り導き、数々の敵との戦いでも勝利を与えてくださいました。

そしてついに、イスラエルの民は、神様が約束された地に住み始めることになったのです。

彼らがすべきことは、ただ一つ――それは、神様の約束を信じて行動することでした。 それが、神様の祝福に与るための条件だったのです。

私たちも、神様の約束が実現するのを見たいと願うなら、その約束を信じて、行動に移さなければなりません。

ヨシュアとカレブを除いて、エジプトから救い出された世代は、この信仰の行動をとりませんでした。 そのため、彼らは皆、荒野で命を終えることになりました。

そしてヨシュア記19章では、ダン族もまた、神様が備えておられた土地を占領しようとしませんでした。

では、あなたはどうでしょうか。

神様は、私たちに永遠のいのちの約束を与えてくださいました。 あなたは、その約束を信じ、そして行動しているでしょうか。

ヨハネの福音書3章16節には、このように書かれています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

永遠のいのちを受け取ることは、決して難しいことではありません。 ただ神様の約束を信じ、その賜物を願い求めるなら、それを受け取ることができるのです。

イエス様は、こう語られました。

そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37)

それだけではありません。神様は、永遠のいのちだけでなく、他にも数えきれないほど多くのことを約束しておられます。 神様は、私たちの必要を満たすと約束されました。 私たちを祝福すると約束されました。

あなたは、それを信じていますか? その約束に信頼し、それに応じた行動をとっていますか?

それとも、かつてのイスラエルの民のように、信じずに立ち止まってはいませんか?

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ヨシュア記 士師記

容易な道を行くこと

神様の道はいつも容易な道ではありません。神様は容易な人生を約束されませんでした。しかし、問題に直面するとき、神様の民はより容易な道を探すことがあります。ダン族もその通りでした。

ヨシュア19章47節にはこう書かれています。

ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。

イスラエル人がカナン人と戦うとき、神様は助けることを約束されました。けれども、ダン族にとって、神様が征服するように命令した土地を占領するのは難しかったのです。

そのような難しい状況の中で神様に信頼したカレブとは対照的に、ダン族は諦めました。むしろ、彼らは、より征服しやすい場所に行き、その土地を占領しました。

士師記18章にはこの話がもっと詳しく書かれています。(ただし、士師記ではレシェムという場所がライシュと呼ばれています。)

ダン族の問題は何だったのでしょうか。彼らは神様に信頼せずに、自分自身に信頼し始めたのです。その結果、士師記18章の最後で、ダン族は神様から離れて偶像礼拝を始めました。

もし私たちが神様の道から離れて、容易な道を選ぶと、同じことが起こるでしょう。神様に信頼しないために、罪と妥協し始めてしまいます。もしすぐに悔い改めなければ、いつの間にか神様から遠く離れてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。容易な道を歩んでいるでしょうか。経済的な問題について心配して、疑わしい方法で儲けようとしているでしょうか。

クリスチャンの伴侶が見つからないから、イエス様を信じていない人を考えているでしょうか。ノン・クリスチャンの家族や友人からのプレッシャーを感じているために、もう神様の道を諦めようとしているでしょうか。

そうしないでください。神様はあなたと共におられること、あなたのニーズを満たすことを約束されています。困難な状況にあっても、容易な道を選ばないでください。むしろ、ダビデの言葉を心に留めましょう。

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩篇37:4)

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ヨシュア記

神様の備えを受け取るために

「神様は本当に私を祝福したいと思っておられるのだろうか。私のために本当に良い計画を持っておられるのだろうか。神様は約束を本当に守ってくださるのだろうか。」

時々、私たちはそのような疑問と闘い、神様が与えようとしておられるものを受け取ることをためらってしまいます。

イスラエル人も、そのような疑いと闘っていました。多くの勝利を得ていたにもかかわらず、彼らは神様が約束された土地をまだ占領していませんでした。なぜそうだったのか、私にはわかりません。

すでに占領した土地に満足していたのかもしれません。あるいは、未知のことを恐れていたのかもしれません。あるいは、自分たちよりも強い民と戦うことを恐れていたのかもしれません。

本当の理由はわかりませんが、彼らはためらっていました。だから、ヨシュアは彼らを叱責しました。

あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。(ヨシュア記18:3)

そして、ヨシュアは彼らに命令しました。

部族ごとに三人の者を選び出しなさい。彼らが立ってその地を行き巡るように、私は彼らを送り出そう。彼らはその地についてその相続地のことを書きしるし、私のところに来なければならない。

どれぐらい、私たちはイスラエル人のように、先を進むのを怖がって、神様が与えたいものを捕まえないでしょうか。だから、私たちは何もせずに、ただ座ってしまいます。でも、そうすれば、何も起こらない。

信仰によって歩かなくてはならない。神様が私たちのために良い計画が持っておられることを信じて、神様の導きを信頼しなくてはなりません。

私はずっと、日本で妻を捜していて、フラストレーションを感じていました。だから、結局、私は計画を作りました。どんな妻が欲しいか考えて、リストを書きました。その後で、リストを見て、「何が必要か」のポイントと「何が欲しいか」のポイントを区別しました。

その後で、私の周りの女性たちを見て、誰がそのリストに合ったか考え始めました。そして、デートするためにある女性に電話しようと思いました。

でも、その時、本当に不思議なことが起こりました。神様はそのプロセスに介入してくださいました。

本当に良い女性がいると思いましたが、ちょっと遠くに住んでいました。だから、その人を諦めて、違う人に電話しようと思いました。

でも、その人に電話する前に、神様はその最初の人を私の目の前に置いてくださいました。私たちはメールを書き始めて、そして、電話し始めました。

その後で、彼女は神戸に引っ越しました。一年後に、私たちは結婚しました。今年で、もう8年になりました。

(聡子、愛しているよ。( ゚∀゚)ノ)

とにかく、私は神様の良い計画を捕まえるために踏み出したから、そのプロセスは始まりました。もし、何もしなかったら、何も起こらなかったかもしれません。でも、私が動き始めたら、神様は働き始めてくださいました。

あなたは、自分の人生でフラストレーションを感じていますか。何も起こらなくて、フラストレーションを感じていますか。計画し始めてください。動き始めてください。そうすれば、神様の働きを見るでしょう。

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ヨシュア記

追い出せない罪

私たちは皆、罪と戦っています。私たちの人生から追い出すのが難しい罪もあります。特に男性にとっては情欲との戦いが困難なことが多いですが、女性がどのような罪と戦っているのか、私は確信を持って言うことができません。

しかし、その戦いが非常に困難だからといって、「もう仕方がない。その罪を征服できない。」と言って、ただ諦めてしまってはいけません。

残念ながら、カナンでイスラエル人はそのような態度を取りました。ヨシュアがマナセ族に自分たちの土地がどこであるかを教えたにもかかわらず、ヨシュア記17章12-13節には次のように書かれています。

しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの土地に住みとおした。

イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。

イスラエル人はカナン人と契約を結び、カナン人をイスラエル人の支配下に置きました。けれども、神様の命令に従うことなく、カナン人を追い出さずに留めてしまいました。

私たちも時には頑固な罪に直面することがあります。その罪を追い出したいと思いながらも、その罪が私たちの中に居座り続けます。その結果、私たちはその罪とある種の「契約」を結ぶような状態になります。

「あなたが私を完全に支配することは許さないけれど、私の人生の中に留まることは認めます。」

しかし、そうしているうちに、時には私たちはその罪に負けてしまうことがあります。

ヨシュア記14-18節で、マナセ族とエフライム族は「私たちの土地は狭すぎる」と不平を言いました。ヨシュアが彼らに別の場所を提案した際、彼らは次のように答えました。

谷間に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。(16)

私たちも罪と戦うときに、同じような言い訳をすることがあります。神様は私たちにこう言われます。「あなたはその罪を征服することができます。勝利することができますよ。」

けれども、私たちはこう答えることがあります。「無理です。その罪は強すぎます。」

それでは、ヨシュアは彼らに何と語ったのでしょうか。

あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。。。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。(17-18)

ヨシュアは非常に重要なことを伝えました。それは、彼らが一緒に戦えば、その敵を征服する力があるということです。

私たちも同じです。罪と戦うとき、周囲のクリスチャンに助けを求めることが有益です。たとえば、祈ってほしいと頼んだり、「私がその罪を犯していないか時々確認してください」とお願いすることが役立ちます。

そうすることで、私たちは共に強くなり、罪を追い出す力を持つことができるようになります。

あなたの場合はどうでしょうか。その頑固な罪と戦っていますか。それとも、言い訳をして、その罪が居座ることを許してしまっていますか。

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ヨシュア記

神様は忠実です。私たちは?

カレブの物語を読むと、私は本当に心を動かされます。彼が40歳のとき、神様が約束された地を偵察するために遣わされました。しかし、彼とヨシュアだけが、神様がその地をイスラエルの民に与えてくださると信じていました。

そのため、同世代のイスラエル人たちは皆死に絶えましたが、カレブとヨシュアは神様の恵みによって生き続けました。そして、彼らはなお健やかでした。

カレブは85歳になっていましたが、こう言いました。

今や私は、きょうでもう八十五歳になります。

しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(ヨシュア記14:10-11)

神様は、これまでずっとカレブに忠実でいてくださいました。そして、カレブもまた、神様に生涯忠実であり続けました。彼は健やかな体を保っており、信仰もいささかも衰えていませんでした。

だから、カレブはこう語ったのです。

どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。

あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。(ヨシュア記14:12)

カレブは、45年前にも神様を信じていました。そして、イスラエルの民がようやく約束の地に入ったその時も、やはり変わらず神様を信じていました。

アナク人を征服するのは不可能に思えたかもしれません。しかしカレブは、少しも疑いませんでした。なぜなら、神様がそう約束しておられたからです。カレブは、神様の約束を信じ続けたのです。

あなたはどうでしょうか。 神様が忠実なお方であることを信じていますか。 神様がその約束を必ず守ってくださると信じていますか。

そして、あなたは神様に忠実でしょうか。 神様があなたを助けてくださると信じて、今日も神様に従おうとしていますか。

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ヨシュア記

先を見て、走り続ける

多くの人々は、引退の日を心待ちにしています。長年働いた後、やっとリラックスでき、自分のやりたいことに時間を使えるからです。

しかし、神の国においては「引退」は存在しません。

クリスチャンとして、私たちは前を見つめて走り続けるように召されています。絶えず成長し続けるように召されています。そして、神様のためにこの世に影響を与えるように召されています。

ある一節の中で、神様はヨシュアにまさにそのことを語られました。

あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。(ヨシュア記13:1)

神様は、こう言われたのではありません。 「さあ、ヨシュア。もう年を取ったね。では、リラックスする権利を得たから、どうぞ、ゆっくり休みなさい。」

むしろ、神様はこう言われました。 「あなたは多くのことを成し遂げてきた。よくやった。けれど、あなたの使命はまだ終わっていない。しなければならないことが、まだたくさん残っている。」

神様は、私たちにもそのように語っておられます。

私はもう30年以上クリスチャンとして歩んでいますが、まだ完全な者にはなっていません。今でも、罪との戦いの中にあります。成長が必要なところが、まだまだ残っています。だから、クリスチャンとして寛いでいる場合ではないのです。

それに、私はこれまでずっと神様に仕えてきましたが、まだまだしなければならないことが数多く残っています。

たとえ引退しても、おそらく何らかの形で神様に仕えることになると思います。神のことばを語る機会があるかもしれません。スモールグループを導くことがあるかもしれません。あるいは、人々を祝福するために訪ねていくこともあるかもしれません。

日本では、今もなお大多数の人々がイエス様を知りません。だからこそ、まだやるべきことがたくさんあります。私たちは、40年後にこの国に大きなインパクトを与えることを願っています。

けれども、イエス様が私を天に呼ばれるその日まで、私は安らいでいる場合ではありません。あなたもそうです。

だから、私たちは前を見つめて走り続けましょう。さらにイエス様に似た者へと成長していきましょう。この世で、イエス様の手となり、足となり、口となりましょう。

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ヨシュア記

ひと言も取り除かなかった

私は、ヨシュア記11章15節が大好きです

がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりに行い、がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなかった。

いつか私が天に召されたとき、もし墓石が与えられるなら、そこにこう記してほしいと願っています。

「ブルースは、主が命じられたすべてのことばを、一言も取り除くことがなかった。」

時間を無駄にするのは、本当に簡単なことです。また、目の前の緊急なことに気を取られて、本当に大切なことを忘れてしまうのも、あまりにも簡単です。私は、その両方をよくしてしまいます。

さらに、言い訳をつくるのも簡単です。

「自分の自由な時間が必要なんです。」

あるいは、

「生活のためには、お金が必要でしょう?」

でも、神様に従うなら、神様は必要なものを与えてくださらないでしょうか。

神様は、お金をも、自由な時間をも与えることのできる方ではないでしょうか。

もちろん、神様は私たちが燃え尽きてしまうことを望んでおられません。むしろ、私たちがその愛と恵みに照らされて、輝く者となることを望んでおられます。

イエス様は、私たちにこう言われました

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

だからこそ、私は自分に、次の二つの問いを投げかけなければなりません。

1.神様を信じているだろうか。

2.神様に従っているだろうか。

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ヨシュア記

私たちを聞いてくださる神、私たちのために戦ってくださる神

この箇所では、本当に驚くべき、信じがたい奇跡について記されています。ヨシュア10:13によれば、太陽はとどまり、月も静止したとあります。その結果、イスラエルの民は十分な光を得て、敵を討ち破ることができました。

では、「日が動かなかった」とは、どういう意味なのでしょうか。もちろん、これは文字どおりには解釈できません。なぜなら、実際に太陽は動かないからです。

では、神様が地球とその他の惑星の動きを止められたのでしょうか。それとも、地球の自転を一時的に遅くされたのでしょうか。そうだとすれば、神様は自然法則そのものを変えられたことになります。

正直に言えば、私にはそれがどう行われたのか分かりません。

一部の学者たちは、神様が何らかの方法で光を屈折させ、地球が動いていたとしても、イスラエルが戦うのに十分な光を与えられたのではないかと考えています。

何が実際に起こったのかは分かりません。しかし、一番大切なポイントは、14節に記されているのです。

主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。(ヨシュア記10:14)

私たちは皆、人生において困難な時を経験します。厳しい上司、苦しい結婚生活、その他のつらい人間関係の中にあるかもしれません。

あるいは、自分自身の罪と格闘しているかもしれません。

落胆や、うつのような状態と戦っている人もいるでしょう。

そんなとき、私たちはこう問いかけたくなります。

「神様は、本当に私を愛しておられるのだろうか。神様は、本当に私の人生の中で働いておられるのだろうか。」

けれども、神様はヨシュアの祈りを聞いてイスラエルのために戦ってくださったように、私たちの祈りも聞いてくださり、私たちのためにも戦ってくださいます。

ですから、たとえどんなに苦しい状況にあっても、落胆しないでください。神様は、あなたの祈りを確かに聞いておられ、あなたのために戦ってくださるのです。

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ヨシュア記

でも、その時は正しいと思ったのに

ヨシュアは、基本的には優れたリーダーでした。

とはいえ、彼はふたつの重大な判断ミスをしました。なぜ、彼は失敗してしまったのでしょうか。その両方に共通していたのは、自分の知恵に頼ってしまったということです。

ひとつ目は、アイの件です。イスラエルがエリコに対して大勝利を収めた直後、ヨシュアと民たちは大きな自信を持っていました。そして、アイとの戦いの作戦について、まったく神様に相談しなかったのです。

むしろ彼らはこう言いました。「エリコを簡単に征服したのだから、アイは小さな町だし、軍全体を送る必要はない。」

こうして神様に尋ねることなく出陣し、敗北を喫しました。もし最初から神様に相談していたなら、アカンの罪について知らされていたことでしょう。

ふたつ目は、この箇所に記されている出来事です。

神様はイスラエルに、カナンの民をすべて滅ぼすよう命じておられました。なぜなら、その民は徹底的に悪に染まっていたからです。けれども、その中にいたギブオン人は、欺いて言いました。「私たちは、遠い国から来た旅人です。」

この偽りによって、イスラエルは彼らと盟約を結んでしまいました。

なぜ、そのような盟約を結んでしまったのでしょうか。ヨシュア記9:14節には、こう書かれています。

主の指示をあおがなかった。

神様に相談していれば、彼らは騙されることはなかったでしょう。

いずれの決断も、表面的には正しく思えたかもしれません。しかし、ふたつとも誤った選択でした。

私たちも、どれほど同じような過ちを繰り返しているでしょうか。自分の知恵に頼り、「これが最善だ」と思って決断しても、神様に相談しないことがあります。また、神様の御言葉を知っていても、それを意図的に無視してしまうことさえあるのです。

聖書には、こう記されています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12)

私たちは、ヨシュアの失敗から学びましょう。決断のときには、神様に祈り、その導きを求めましょう。

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戦いに走りましょう

「神様は、まだ私を用いてくださるだろうか。それとも、私はもうだめなのだろうか。」

クリスチャンは失敗したとき、特に罪を犯してしまったときに、よくそう考えてしまいます。イスラエルの民も、きっと同じように思ったかもしれません。

アカンの罪のゆえに、彼らはアイの町で敗北しました。罪は正しく処理されましたが、それでも心に不安が残っていたことでしょう。

「神様は、まだ私たちと共におられるのだろうか。あるいは、神の約束はもう無効になってしまったのだろうか。」

だから、神様はヨシュアにこう語られました。

恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。(ヨシュア記8:1)

つまり、神様はこう言われたのです。

「ヨシュア、あなたたちは確かに失敗した。そして、その罪のゆえに苦しんだ。だが、すでにその罪は処理された。

だから、今こそ立ち上がりなさい。恐れることはない。私があなたたちに敵対することを恐れなくてよい。私はあなたたちを捨ててはいない。

だから、落胆してはならない。むしろ、私の命令に従って、アイの町との戦いへと向かいなさい。私は必ず、あなたたちに勝利を与える。」

私たちが失敗する時、特に罪を犯してしまったとき、神様は同じように語られます。私たちが悔い改めたあとでも、「本当に赦されたのだろうか」「神様は今も私と共におられるだろうか」と、不安になることがあります。

けれども神様は、私たちにこう言われます。

「あなたは失敗した。だが、その罪を告白したのだから、立ち上がりなさい。私は今もあなたと共にいる。がっかりしてはならない。さあ、私のことばに従い、戦いの現場に戻りなさい。」

私たちはいま、どのような戦いの中にいるのでしょうか。

聖書は、私たちが霊的な戦いの只中にあることをはっきりと示しています。私たちは、サタンとその悪しき力に立ち向かっています。

そして同時に、私たちは人々の魂のために戦っています。つまり、イエス・キリストをまだ知らない人々が、神と個人的な関係をもつことができるように――そのために私たちは働いているのです。

サタンもこのことを知っています。彼があなたの救いを奪うことができないなら、今度はあなたを非効果的な戦士にしようと働きかけてきます。

だからこそ、私たちが罪を犯したとき、サタンは私たちを落胆させようとします。彼はこうささやくのです。

「あなたはもうだめだ。あなたの罪が見えるだろう?神様がそんなあなたをどうやって用いることができるというのか。もう黙っていたほうがいい。誰も、あなたのことばなんて信じないのだから。」

けれども、神様はそのようなことは決して言われません。神様は、私たちが自己憐憫に陥ることを望んでおられません。むしろ、神様が私たちに伝えようとしておられるのは、こういうことです。

「私は今もあなたを愛している。私は今もあなたを用いることができる。」

だから、落胆しないでください。

あきらめないでください。

立ち上がりましょう。

そして、再び戦いに向かいましょう。

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隠すことができない

私は関西にずっと住んでいて、関西弁を少し話します。関西では多くの人が「あかん」という言葉をよく使います。

少し可笑しいですが、今日の箇所には「アカン」という名前の人が出てきます。そして、アカンは本当にあかんかったのです。

(ごめんなさい。私の前の牧師がその駄洒落を使っていて、私は忘れられません。)

とにかく、アカンはイスラエルの人々に大きな問題をもたらしました。

イスラエルがエリコを征服した後、神様は「すべてを破壊しなさい」と命じられました。

けれども、アカンは自分のために衣服や金、銀を取ってしまいました。その後、イスラエルが「アイ」という町と戦った時、神様が共におられなかったため、彼らは恐れて逃げ出しました。

ヨシュアと民は失望し、「どうしてこんなことが起こったのか」と問いかけました。

すると神様はこう答えられました。「立ちなさい。イスラエルは罪を犯した。それを取り除かない限り、何をしてもうまくいかない。」

そこで、イスラエル人は神様の前に立ち、 神様がアカンの罪を明らかにされました。

その罪を処理して初めて、イスラエル人は神様の計画を再び成し遂げることができたのです。

私たちも同じです。 時々、私たちは心の中に罪を隠し、 「誰にも知られていないから大丈夫だ」と思ってしまうことがあります。 しかし、どれほど巧みに隠しても、神様から隠すことはできません。

実は、この事件の前に、神様はこう言われていました。

あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。(民数記32:23)

つまり、どれほど巧みに罪を隠しても、 必ず罰を受けることになります。

アカンがまさにその例です。

では、なぜ罪はそれほどまでに悪いのでしょうか。 二つの理由があります。

一つ目は、罪が他の人に影響を与えるということです。 自覚がなくても、必ず誰かに影響します。

おそらくアカンは、「自分の行動は悪いかもしれないが、他の人に迷惑はかけないだろう」と思ったのかもしれません。 けれども、実際にはその罪によって、イスラエルはアイの戦いで敗走しました。

二つ目は、罪が神様の計画の実現を妨げるということです。

私たちが罪を犯しても、神様は私たちを見捨てることはありません。 神様はそのように約束しておられます。 とはいえ、神様は罪を抱えたままの私たちを祝福することはされません。

ですから、神様の祝福を受けたいと願うなら、罪を隠すのではなく、 正直に向き合い、処理しなければならないのです。

しかし、ここに良い知らせがあります。 神様はいつでも、喜んで私たちを赦してくださいます。 第一ヨハネ1:9には、こう書かれています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

だから、決して罪を隠してはいけません。 むしろ、神様の御前に進み出て、告白しましょう。 そうすれば、神様は私たちを赦してくださり、 祝福もしてくださいます。

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ヨシュア記

悪を再び建て直す?

この話を何度も読んできましたが、今回は特に印象に残ったのは最後の部分です。 エリコを滅ぼした後で、ヨシュアはこの呪いのことばを語りました。

この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。

その礎を据える者は長子を失い。その門を建てる者は末の子を失う。(ヨシュア記6:26)

何年か後に、ある人がエリコを建て直そうとした時、 ヨシュアが語ったとおり、その人は呪われました(列王記第一16:34)。

なぜヨシュアはこの呪いを語ったのでしょうか。 おそらく、エリコが悪の象徴であったからです。

エリコの中では、売春や子どものいけにえ、偶像礼拝が行われていました。 神様がイスラエルの民にその地の住民を攻め取り、 その地を得るよう命じられた理由の一つは、 その悪を取り除くことにありました。

だからこそ、ヨシュアはこう言ったのです。 「この悪は決して戻ってはならない。 もし誰かがこれを建て直すならば、 神様はその人を呪われるだろう。」

では、私たちはどうでしょうか。 私たちの人生の中で、 一度壊されたはずの悪を再び建て直してはいないでしょうか。

聖書はこう教えています。 私たちがキリストを信じる者となるとき、 「古い人」――つまり、かつての考え方や生き方――は キリストとともに十字架につけられたのです。

ですから、私たちはもはや罪の奴隷ではありません(ローマ6:6)。

しかし、私たちがわざと罪を犯すことを選ぶなら、それは古い人をよみがえらせることになります。

その結果として、罪は私たちを滅ぼします。もちろん、それは私たちの魂を滅ぼすのではありません。 神様はすでに私たちを救ってくださったからです。

とはいえ、罪はこの世において、 私たちの人生を滅ぼしうるのです。 結婚を滅ぼし、人間関係を壊し、評判を台無しにし、私たちが大切にしているすべてのものを 打ち砕いてしまう可能性があるのです。

その意味で、罪深い生活を再び建て直そうとする者は、「呪われた」と言えるかもしれません。

だから、パウロはこう書きました。

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:11-14)

あなたはどうでしょうか。あなたの人生の中で、罪を建て直しているでしょうか。 それとも、罪をそのままにし、キリストのために生きているでしょうか。

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ヨシュア記

誰が誰の味方なのか

去年、アメリカではティム・ティーボウという人物が注目を集めました。 彼はアメリカン・フットボールのクォーターバックです。

通常、クォーターバックには優れたリーダーシップと正確なパス能力が求められますが、 ティーボウはリーダーシップには定評があるものの、パスはあまり得意ではありません。

それにもかかわらず、彼のチームは6連勝を記録し、 多くの人々を驚かせました。

彼が有名になったもう一つの理由は、 彼がクリスチャンであり、自分の信仰を公然と語ることにあります。 インタビューのたびに、彼は神様を賛美し、感謝を表します。 そのため、時には批判も受けるのです。

つまり、「彼は神様が自分に試合の勝利を与えてくださると本気で思っているのか」と、人々は問いかけるのです。

けれども、彼はそのようなことは口にしません。 実際、私自身は、神様がどのチームを勝たせるかには、あまり関心がないと感じています。 (とはいえ、時々、自分の好きなチームのために祈ることもありますけれどね。)😊

おそらく、ティーボウが伝えたいのはこういうことではないでしょうか。 「神様が私の味方であるというよりも、私は神様の味方でありたい。」

まさにこのことを、ヨシュアも学ばなければなりませんでした。

ある日、ヨシュアは見知らぬ人物を見かけました。 そこで、彼はこう尋ねました。

あなたは私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。(ヨシュア記5:13)

しかし、その人はこのように答えられました。

いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。(14)

多くの学者は、その見知らぬ人物がイエス様ご自身であると信じています。 そこで、その方はこう言われました。

あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。(15)

ヨシュアは、その方の語った言葉に従い、 神様の戒めを民に伝えました。

私たちはよくこう問いかけます。 「神様は私の味方でしょうか。」

確かに、それは良い問いかもしれません。 聖書には、「私はあなたの味方だ」という神様の言葉がたびたび記されています。 けれども、もしかすると、 こう問いかけるほうが、もっと大切かもしれません。

「私は神様の味方なのだろうか。」

つまり、私たちは神様の御言葉に従って歩んでいるでしょうか。

これこそが、主の軍の将がヨシュアに示した本質でした。 重要なのは、神様がヨシュアの味方かどうかではなく、 ヨシュアが神様の側に立っているかどうかです。

ヨシュアは、神様の前に柔らかな心を持ち、 神様に従う者として整えられました。 だからこそ、神様は彼を力強く用いることができたのです。

それは、私たちにも言えることです。

あなたは、どうでしょうか。 あなたは、誰の味方についているのでしょうか。

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ヨシュア記

過去を取り除く神

日本では、年末になると、多くの人々が「忘年会」を開きます。 つまり、「今年のことは忘れて、新しい年を迎えましょう!」というわけです。

けれども、私はこの概念がいまいちよく分かりません。 私は英語の生徒たちにこう尋ねました。 「今年は、そんなにつらい年だったんですか?」

「いや、そうでもありません。」

「じゃあ、何を忘れたいんですか?」

「うーん……さあ。」

いずれにせよ、それが今日の箇所との関係はいったい何でしょうか。それは、クリスチャンにとっては、私たちの過去はキリストにあって取り除かれているのです。

神様がイスラエルの民を約束の地へ導かれたとき、こう語られました

きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。(ヨシュア記5:9)

つまり、「あなたの過去には、 多くの恥とそしりがありました。 あなたがたは長い間、エジプトで奴隷として過ごしてきました。 けれども、それはもう終わったのです。」

神様は、あなたの過去を取り除かれました。だからこそ、未来に希望を抱きなさい。私には、あなたのために素晴らしい計画があるのだから。

神様は、今日の私たちにも同じように語っておられます。

「あなたがたは、長い間、罪の奴隷であり、 サタンの支配のもとにありました。罪のゆえに、恥と誹りに満ちていました。

けれども、私はそれらをすべて取り除いた。私は、あなたのために良い計画を持っている。だから、未来を喜んで待ちなさい。」

イザヤ書43:25で、神様はこう語られました。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

第一コリント2:9で、パウロはこう書いた。

目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。

あなたの過去の重荷は、あまりにも重すぎると感じているでしょうか。

罪による罪悪感と恥の重荷に、押しつぶされそうになってはいないでしょうか。

けれども、神様はそれらをすでに取り除いてくださいました。 神様は、あなたの罪をもう思い出されず、あなたのために、想像を超える将来を準備しておられます。

ですから、私たちは過去に背を向けて、神様が備えておられる将来に向かって歩みましょう。

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ヨシュア記

見えない未来に直面する時

私たちは未来に直面するとき、 何が起こるのか、よく分かりません。 だから、未来を楽しみに感じることもあれば、 時には不安や恐れを抱くこともあります。

イスラエルの民がヨルダン川を渡り、 神様が約束された地に入ろうとしていたときも、 同じような思いを抱いていたかもしれません。

長い旅路を経て、ようやくその地にたどり着いた―― その喜びは計り知れなかったことでしょう。

けれども同時に、未知の地に足を踏み入れる不安や、 これから直面するであろう戦いや課題への 心配もあったはずです。

だから、ヨシュアはイスラエルの民に語りました。

あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。。。

それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。(ヨシュア記3:3ー4)

そして、ヨシュアはこう言いました。

あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行われるから。(5)

神様は、今日の私たちにも同じことを語っておられます。 契約の箱は、神の臨在を象徴するものでした。 そして、神様がイスラエルの民に「私について来なさい」と命じられたように、 今も私たちに、「私に従いなさい」と招いておられるのです。

当時、イスラエルの民は 何をすべきか、どこへ行くべきか、よく分かっていませんでした。 しかし、神様はすべてをご存知でした。

同じように、私たちが未来に直面するとき、 何が最善の選択なのか、自分に何が求められているのか―― はっきりと見えないことがあります。 けれども、神様はすべてをご存知です。 だからこそ、私たちにこう言われるのです。 「私について来なさい。」

さらに神様は、イスラエルの民に「身を清めなさい」と命じられました。 これは単に体を整えることではなく、 神のために自らを聖別するということです。

彼らが心を整え、自らを神にささげたとき、 神様は驚くべきみわざを行うと約束されました。

神様は、私たちにも同じことを語っておられます。 私たちは、神のために自らを聖別するべきなのです。 自分自身のものではないことを、思い出しましょう。

イエス様は、ご自身の血によって私たちを贖われました。 ですから、私たちはイエス様に属しているのです。 そして、私たちが自分の人生を神様にささげるとき、 神様は驚くべきみわざを行われます。

さらに、神様はもう一つのことを命じられました。 イスラエルの民がヨルダン川を渡るとき、 神様は川の流れをせき止められました。

その後、神様はこう命じられました。

「ヨルダン川の中から十二の石を取り、 今夜宿泊する場所に置きなさい。 そして、あなたの子どもたちが 『この石は何ですか』と尋ねたとき、 私があなたたちのために何をしたかを語りなさい。」

このことは、私たちにも教えています。 神様が私たちを試練から救い出してくださったとき、 その証しを記録に残しておくのは良いことです。

日記に記すことや、ブログに書くことも役に立つかもしれません。 大切なのは、「記録を作ること」です。

そうすれば、 見えない未来に直面しても恐れることなく、 神様が再び救い出してくださるという確信を 持ち続けることができるのです。

あなたは、未来を前にしたとき、 恐れの目で見つめるでしょうか。 それとも、信仰の目で見つめるでしょうか。

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ヨシュア記

家族が救われるには

私はクリスチャンホームで育ったことを、心から感謝しています。 父が亡くなった時、彼が天に召されたという確信が、私たち家族に慰めと平安を与えてくれました。

けれども、多くの人々には、家族に対してそのような平安がありません。 だからこそ、彼らは家族の救いのために祈るのです。

それは、まさにラハブの願いでもありました。 ラハブは、イスラエルがエリコを攻撃することを知っていたので、 イスラエルの斥候たちにこう願いました――「どうか、私と私の家族を生かしてください。」

すると、その斥候たちは答えました。

その人たちは彼女に言った。「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる。

私たちが、この地に入って来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。

あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。

しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。(ヨシュア記2:17-19)

斥候たちは、ラハブとその家族のために救いの方法を備えました。 赤い紐をラハブの家の窓に結びつけておく必要がありました。 イスラエルが攻撃してくる時には、ラハブとその家族は家の中にとどまっていなければなりませんでした。

神様もまた、私たちの救いのための方法を備えてくださいました。 私たちがクリスチャンとなる時、神様は聖霊によって証印を押してくださいます(エペソ1章13節)。

しかし、私たちが家族も救われてほしいと願うなら、彼らにもその証印が必要です。 他に方法はありません。

ラハブの家族が救われるためには、ラハブが備えられた方法について彼らに語る必要がありました。 私たちもまた、同じようにしなければなりません。 家族に何も語らずに、ただ祈るだけでは十分ではないのです。

私たちが自分自身の救いの中にとどまり、ただ家族の救いを願うだけではいけません。 私たちは口を開き、福音を語る必要があるのです。

ラハブがそうしたからこそ、その家族は救われたのです。

あなたはどうでしょうか。 あなたの家族にとって、イエス様を知っている唯一の存在は、もしかするとあなたかもしれません。 あなたは、彼らにイエス様のことを伝えますか。 彼らを神様の家へと導きますか。

それとも、沈黙したまま、彼らを神様から離れたまま死なせてしまいますか。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。(ローマ10:13ー14)

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ヨシュア記

成功の鍵

成功。 私たちは皆、成功を望んでいます。 「私の目的は失敗することです」と言う人はいないでしょう。

成功を得るのは簡単ではありません。 書店には、「成功の秘訣」を語る本が山のように並んでいます。

けれども、ここで神様は、 私たちに「真の成功」への道を教えてくださいます。

多くの人はこう考えます―― 「成功するには、とにかく自分の力で努力しなければならない。」

しかし、神様はまったく異なる視点を持っておられます。 神様は、ヨシュアにこう語られました。

あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。

わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。

それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。

そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

わたしはあなたに命じたではないか。

強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(ヨシュア記1:5-9)

神様によると、成功の鍵とは何でしょうか。

それは、自分自身に頼るのではなく、 神様に頼ることです。

神様の力に頼るべきです。 神様の知恵に頼るべきです。 自分の力と知恵に頼ってはならないのです。

そのようにして、神様はヨシュアに語られました。

強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。(9)

多くの場合、私たちは成功を得ようとして、 自分自身の力や知恵にばかり頼ってしまいます。 だからこそ、自分の手には負えないような仕事や問題に直面すると、 私たちはパニックに陥ってしまうのです。

しかし、神様はこう言われます。

「私はここにいる。あなたの味方だ。 だから、私を信頼しなさい。 恐れる必要はない。 問題に直面しても、落胆しなくてよい。 私はあなたと共にいる。 だから、私と共に歩み続けなさい。」

神様はヨシュアにも語られました。

「あなた自身の知恵に頼ってはならない。 むしろ、私の言葉と道を口ずさみ、 昼も夜もそれを思い巡らしなさい。 それだけでなく、 その言葉に忠実に従いなさい。 そうすれば、あなたは繁栄し、成功を得ることができる。」

私たちがどれほど自分の力と知恵に頼って失敗してしまうか。 ヨシュアは後に、アイという町でそのことを痛感しました。

一方で、ソロモンは成功の鍵をよく知っていました。 彼はこう書きました。

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。(箴言3:5-7)

あなたは、どのように成功を追い求めていますか。

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ヨブ記

癒し

神様と話した後、ヨブにとって癒しの時間が訪れました。けれども、神様が求められたのは、ただ肉体の癒しだけではありませんでした。また、精神的な傷の癒しだけでもありませんでした。

ヨブの人間関係にも癒しが必要でした。神様はヨブの友人たちにこう言われました。「あなたたちはヨブについて間違っていただけでなく、私について、そして私の目的についても間違っていました。」

ヨブがその言葉を耳にしたとき、つまり神様が彼の汚名をそそいでくださると知ったとき、本当に喜んだことでしょう。しかし、神様は彼らに命じられました。

今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのために全焼のいけにえをささげよ。

わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。(ヨブ記42:8節)

ヨブはその言葉を聞いて、どのように感じたでしょうか。喜んで友人たちのために祈ったでしょうか。それとも、まだ傷ついていて、友人たちのために祈ることが難しかったのでしょうか。私の意見では、多分彼はまだ深く傷ついていたと思います。

この弁論がどれくらい続いたのかは分かりません。一日だけだったのでしょうか。それとも数週間にわたったのでしょうか。いずれにしても、彼らはずっとヨブを批判し、ヨブの整合性を疑い続けていました。

それでも、神様はこう命じられました。「ヨブ、あなたの友人たちのために祈りなさい。」

ヨブが友人たちを許し、彼らのために祈ったとき、ヨブの癒しが始まりました。人間関係も修復され、彼の人生のすべても回復しました。

この話から、私たちは本当に大事な原則を学べると思います。周りの人々に傷つけられると、私たちの心は苦さに陥りやすく、その苦さを持ち続けるのは簡単なことです。

しかし、神様は「許しなさい」と命じられます。それだけではなく、私たちは神様が彼らを赦してくださるよう祈るべきなのです。

「でもね、ブルース。あなたは彼らが何をしたのか知らないでしょう。本当に私を傷つけたのです。」

もちろん、私は何があったか知りません。けれども、神様はすべてをご存じです。たとえ彼らが悪かったとしても、神様は「許しなさい」と命じられます。どうしてでしょうか。

なぜなら、そうしなければ、あなたは決して癒しを経験できないからです。苦さは、ただあなたを傷つけた人との関係に影響を与えるだけでなく、あなたの人生全体に悪影響を与えます。

苦く、相手を許せない人々は、精神面だけでなく、身体面にも深刻な影響を受けるのです。研究によると、苦さは高血圧、胃潰瘍、心臓病などとも関係があると言われています。

私の大好きな引用はこうです。

許しは囚人を解放します。しかし、許すときに、すぐに気付くのは、その囚人が自分自身だったということです。

あなたは癒しを求めているでしょうか。許し方を学ぶ必要があります。

それは簡単なことでしょうか。いいえ、簡単だとは言えません。

もしかすると、あなたには牧師の助けが必要かもしれませんし、カウンセラーに相談することが必要かもしれません。けれども、何よりも必要なのは、神様の助けです。

そして、あなたが許すとき、そこから癒しが始まります。

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ヨブ記

結局一番大切なこと

ようやく、神様がやって来られました。

エリフは最後のスピーチで嵐について話しました。それは、嵐が近づいていたからでしょうか。そして、その嵐の中から神様がヨブに語られたのでしょうか。

いずれにせよ、ある人はこう訊くかもしれません。「どうして、あなたはエリフが正しかったと思うのですか。」

その答えは、40章で神様がヨブにこう尋ねられたからです。

あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしに罪を定めるのか。(ヨブ記40:8)

エリフもほぼ同じことを言っていました。(32:2)

さらに、神様はエリフのスピーチの最後の部分を繰り返されます。

つまり、「私に疑問を抱くあなたは誰ですか。」

こうして、神様は言われました。

知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。(38:2ー3)

また、

だれが心のうちに知恵を置いたか。だれが心の奥に悟りを与えたか。(38:36)

そして、

非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。 (40:2)

つまり、「ヨブよ。あなたはたくさん喋るが、何を言っているのか自分でもよく分かっていない。それに、少し考えてみなさい。あなたの思考力はどこから来たのか。それは私からではないのか。それでも、あなたは私と弁論できると思うのか。」

この箇所で、神様はヨブにヨブ自身の弱さと限界を思い出させます。

神様がこの世界を造られた時、ヨブはそこにいませんでした。だから、ヨブは神様がどのようにこの世界を造られたのかも知らず、自然の法則についてもよく理解していませんでした。(38:4~11)

さらに、ヨブの経験には限界がありました。海の深さを経験したことがなく、この世界の果てまで行ったこともなく、宇宙へ行ったこともありませんでした。雲にすら到達したことはありませんでした。(38:16~24)

また、ヨブには自然をコントロールする力もなく、草を育てる力もなく、雨を降らせることも雷を鳴らすこともできず、星を出したり、すべての動物に餌を与えることすらできませんでした。(38:25~41)

ヨブは動物を作ったこともありませんでした。ダチョウに速く走る力を与えたのは神様であり、馬に力を与えたり、わしに飛ぶ力を与えたりするのも神様です。それに、この世界の動物をすべて飼いならすこともできませんでした。(39章)

さらに、ヨブはカバやレビヤタン(その意味は少し曖昧で、ワニを指すのかもしれません)と戦うことができなかったのです。それなのに、どうしてその創造主と戦えるというのでしょうか。(40~41章)

ヨブは自分の弱さと限界に直面したとき、へりくだり、神様にこう言いました。

あなたには、すべてができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。。。

まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。(ヨブ記42:2ー3)

私たちは何を学べるのでしょうか。以前も言いましたが、繰り返すことは価値があると思います。ヨブは、自分がなぜ苦しんだのかを最後まで知りませんでした。

もちろん、「神様は私を罰しているわけではない」とは理解しましたが、それ以上のことは知らされませんでした。

神様は「実は、サタンと私は少し話していて…」というような説明は全くされませんでした。

それでも、最終的にヨブにとって、その理由を知ることはもはや重要ではありませんでした。一体、何が大切だったのでしょうか。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。(42:5)

つまり、「どうしてこの事件が起こったのかは、もはや大切ではありません。大切なのは、あなたがここにおられ、私を愛してくださるということです。

あなたは私よりも偉大で、私よりも知識と知恵を持っておられます。そして、私に会う義務はなかったのに、私を愛し、私に会ってくださったのです。

だから、私はへりくだります。そして、私の疑問を置いておきます。」

私たちは、すべての疑問の答えを知ることができないかもしれません。神様は決して答えを与えてくださらないかもしれません。それでも試練と苦しみの中で、次の3つのことを思い出さなくてはなりません。

  1. 神様はすべてを制御しておられます。そして、私たちが理解できなくても、神様は何をしておられるかよく理解されています。
  2. 私たちが神様の臨在を感じられなくても、神様はここにおられます。
  3. 神様は私たちを愛しておられます。

この3つのことを決して疑わないでください。一言で言えば、これがヨブ記のメッセージです。

だから、たとえ試練があっても、苦しみがあっても、ヨブのようにこの真実を心に持ち続けましょう。

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ヨブ記

神様の正義、私達の傲慢

多くの人々は神様の良い性質や存在を疑います。彼らはこう言います。「もし神様が存在し、善良なお方であるなら、なぜこの世界に悪があるのでしょうか。なぜ神様は悪をすべて取り除かないのでしょうか。悪がある以上、絶対に神様は存在しない。たとえ存在していたとしても、神様は善良なお方ではないのです。」

ヨブもまた、ヨブ記の20ー21章および23章で、この疑問について語りました。ヨブはこう尋ねました。「なぜ多くの悪人が罰されないのでしょうか。」

すると、エリフは答えました。

神は決して悪を行わない。全能者は公義を曲げない。(ヨブ記34:12)

そして、14ー15節で、エリフは本当に大切なポイントを述べます。それは、もし神様が完全な正義を強要されたなら、すべての人々が滅ぼされるということです。(34:14ー15)

なぜなら、私たちは皆、罪を犯しているからです。

さらにエリフはこう言いました。「神様はすべての悪人を今罰していないかもしれませんが、私たちが『悪人は決して罰せられていない』とは断言できません。

そして、神様はえこひいきをなさらない方です。結局、すべての罪人は自分の罪の代償を払わなければなりません。

しかし、もし神様が今、憐れみによって何もなさらないのであれば、どうして私たちは文句を言えるでしょうか。なぜなら、もし神様が憐れみを示してくださらなければ、私たちは皆、滅ぼされてしまうからです。」(34:18ー19)

その後、エリフはへりくだる人々とヨブを比較しました。へりくだる人々は自分の罪を認め、悔い改めますが、ヨブは神様の正義を疑問視していました。

エリフは問いかけました。「神様がその態度に報いられると思いますか?あなたはまるで悪人のように話しています。」

35章では、エリフがヨブの言葉の矛盾を指摘します。ヨブは「神様が私の言葉を聞いてくだされば、私の汚名はそそがれる」と言いましたが、同時に神様の正義を疑っていました。

けれども、もしヨブの言うように神様が不正義な方であるなら、そもそも神様がヨブの無罪かどうかを気にすることはないでしょう。

続いて、エリフは「もし神様が不正義な方であるならば、どうして私たちは善を行うべきなのでしょうか」という傲慢な疑問に答えました。

ヨブ自身はその言葉を使いませんでしたが、もしヨブが言うように神様が悪人を罰しないとしたら、多くの人々がそのように考えるでしょう。

エリフはこう答えました。「神様が『悪から離れ、正しいことを行いなさい』と言われるのは、神様ご自身の益のためではなく、私たちの益のためです。

もちろん、神様は私たちを裁かれます。そして、私たちの罪は神様との関係に影響を与えます。

とはいえ、私たちの行動が影響を与えるのは、神様よりもむしろ私たち自身や周囲の人々です。ですから、もし私たちが神様の命令を無視するなら、その結果、傷つくのは私たち自身なのです。」(35:6ー8)

さらにエリフは、別のポイントを指摘しました。多くの人々は苦しみの中で叫びますが、ほとんどの場合、神様に心を向けません。彼らが傲慢な態度を取り続けるため、神様はその叫びをお聞きになりません。

そのため、エリフはヨブに言いました。「あなたも同じような態度を取っています。神様の正義を疑う中で、神様があなたの叫びに答えるべきでしょうか。」(35:9ー15)

そして、36章でエリフは再び繰り返します。神様は悪人を罰し、たとえ正しい人々が苦しむことがあっても(ヨブの友達はそれを認めませんでした)、神様は彼らを高めてくださいます。(36:6ー7)

けれども、エリフはヨブに警告しました。もし神様が苦しみを通してヨブを懲らしめておられるのであれば、その理由を必ずお示しになります。そして、神様は沈黙されません。

(ここでエリフが暗に認めているのは、神様がまだヨブにその理由を明かされていないということかもしれません。)

ただし、もし神様が「悔い改めなさい」と言われたなら、ヨブはへりくだってそれを受け入れ、苦い心を捨てなければなりません。そうしなければ、ヨブは最終的に滅ぼされてしまうでしょう。(36:8ー13)

さらにエリフは別の警告を与えました。もし神様の正義を疑い続けるなら、その態度は罪へとつながるかもしれません。(36:17ー19)

最後にエリフはこう言いました。「あなたは神様を裁く立場にはありません。神様がその苦しみを許されることを批判する資格はないのです。」

これがエリフの言葉です。

見よ。神は力にすぐれておられる。神のような教師が、だれかいようか。

だれが、神にその道を指図したのか。だれが、「あなたは不正をした」と言ったのか。(ヨブ記36:22ー23)。

また、

見よ。神はいと高く、私たちには知ることができない。その年の数も測り知ることができない。 (36:26)

エリフは続けてこう言いました。

神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知りえない大きなことをされる。 (37:5)

最後に、エリフはこう言いました。

神に何と言うべきかを私たちに教えよ。やみのために、私たちのことばを並べることができない。

私が語りたいと、神にどうして伝えられようか。人が尋ねるなら、必ず彼は滅ぼされる。

今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。(37:19ー21)

つまり、「あなたは神様と弁論したいのですか?あなたの理解はあまりに小さく、曖昧であるため、良い弁論をすることはできません。神様の知恵と知識は、あなたの理解をはるかに凌ぎます。神様の聖さも、あなたの清さをはるかに凌ぎます。」

では、私たちは何を学ぶべきでしょうか。神様の正義を疑問視することは、私たちの傲慢さを表しています。神様と比べると、私たちはほとんど何も知らないのです。

さらに、私たちは罪深い存在であり、どうして私たちが神様の正義を疑問視することができるでしょうか。私たちは神様に答えを要求する立場にはないのです。

それでは、私たちが疑問を抱いたとき、どうすればよいのでしょうか。たとえ難しくても、私たちはその疑問を一旦置いておき、神様を信じるべきです。

神様の善良な性質を信じ、神様の正義を信じ、神様の知恵を信じるのです。そうするならば、神様は私たちの信仰に報いてくださるでしょう。

エリフが言ったように、

私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。

だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。(ヨブ記37:23-24)

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ヨブ記

苦しみ、謙遜、と恵み

ヨブ記を解説する上で、さまざまな問題があります。その一つが、エリフの言葉をどのように理解すべきかということです。

ある学者たちは次のように考えています。「エリフはただの馬鹿なおしゃべりにすぎませんでした。そのため、誰も彼を重要視しませんでした。」

一方で、別の学者たちは次のように述べています。「エリフは正しかった。彼はヨブを神様の言葉を受け入れるための準備をしていたのです。」

私はエリフが正しかったと思います。なぜなら、32章2~3節で次のように書かれているからです。

エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。

彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったからである。

エリフが怒っていた理由は二つありました。

一つ目は、ヨブが神様の正義を疑ったことです。

二つ目は、ヨブの友達がヨブの神様についての誤った考え方を正そうとしなかったことです。彼らはただ、「あなたは罪人です。神様はあなたを罰している」と言い続けました。

けれども、ヨブが具体的にどの罪を犯したのかについては、まったく説明できませんでした。

33章では、エリフがヨブの文句に答えます。その文句はこうでした。「私は何も悪いことをしていないのに、神様は私に敵対している。それに、神様は私の文句に対して沈黙している。」

エリフはこう答えました。「神様は必ず私たちに語りかけてくださいます。しかし、多くの場合、私たちはそれを聞いていないのです。」

さらに、エリフはこう言いました。「時には、神様は私たちの夢を通して語られます。」

おそらく、エリフはヨブの悪い夢について考えていたのでしょう。その夢の目的とは何だったのでしょうか。

人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる。

神は人のたましいが、よみの穴に、入らないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる。(ヨブ記33:17-18)

ある学者たちは、エリフが暗に「あなたは罪を犯したから、神様があなたを罰している」と言っていると考えています。

けれども、もしそうだったなら、神様がヨブの友達を批判したときに、なぜエリフも批判されなかったのでしょうか。おそらく、エリフは「ヨブが大きな罪を犯したから神様が彼を罰している」とは言わなかったからです。

むしろ、彼はこう言いました。「ヨブ、私たちは皆、罪を犯しますよね?あなたは大きな罪を犯していないかもしれませんが、時々罪を犯すことはあるでしょう?だから、神様は時折、私たちの罪とプライドを取り除くために、このような試練を許されるのです。

そして、神様が私たちの敵だから、私たちを苦しめるわけではありません。むしろ、神様は私たちを愛しておられ、私たちの救いのために常に働いておられるのです。」

そして、エリフはこう言いました。

見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行われ、

人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。(33:29-30)

さらに、苦しみの中で、私たちは神様の恵みを見出すことができます。

23ー25節で、エリフは代言者について語ります。その代言者は、私たちに正しい道を教え、私たちのためにとりなしを行います。そして、その代言者はこう言います。

彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。(24)

そのとりなしによって、苦しんでいる人は祈ることができるようになり、神様の恵みを見出すことができるようになります。そして、その時、彼らは喜びの叫びを上げます。

私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。

神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る。(27-28)

これは、新約聖書における救いの象徴ではないでしょうか。

ですから、この箇所から私が学んだのは、私たちの苦しみの背後には、神様の目的があるということです。私たちの試練を通して、私たちがへりくだるようになり、自分たちが罪人であり、神様の恵みが必要であることを思い出すのです。

もし、私たちがヨブのように神様の意図を疑うなら、一つのことを思い出しましょう。それは、神様が私たちを死と地獄から救うために、身代金を備えられたということです。その身代金は、神様の御子の命そのものでした。

ですから、私たちが苦しむとき、「神様が私たちを憎んでいるから、この試練を許された」と思わないでください。むしろ、神様は私たちを愛しておられるので、この試練を通して私たちを清め、救ってくださるのです。

ヨブが語ったように

しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。(ヨブ記23:10)

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ヨブの最後の弁解

ヨブはこの箇所で、一番長いスピーチをします。それはヨブの最後の弁解です。

27章では、ヨブはもう一度こう言います。「私はこの苦しみに値していない。」そして、彼はその友達についても語ります。

私の敵は不正をする者のようになれ。私に立ち向かう者はよこしまな者のようになれ。

神を敬わない者の望みはどうなるであろうか。神が彼を断ち切り、そのいのちを取り去るときは。

苦しみが彼にふりかかるとき、神は彼の叫びを聞かれるであろうか。(ヨブ記27:7-9)

そして、彼は言いました。「あなたたちは『悪人だけが呪われる』と言ったでしょう?それなら、あなたたちは冤罪の罪を犯したので、呪われることになりますよ。」

その後で、ヨブはその友達の「悪人の呪い」についての教えを繰り返し、「その言葉はあなたたち自身に当てはまるのですよ」と言いました。

そして、自分の弁解を続けました。

28章では知恵について語りました。つまり、人々は金や銀を鉱山から採取しますが、神様の御告げがない限り、誰も知恵という宝を見つけることはできません。また、神様が教えなければ、人々は知恵の価値を理解することができません。

しかし、ヨブはこう言いました。「神様は知恵を現してくださいました。」

それは、

主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。(ヨブ記28:28)

ヨブは文句を言っても、彼は本当の知恵とは何かを否定しませんでした。つまり、彼は主を恐れ続けたのです。

それでも、29章から31章にかけて、もう一度彼の苦しみについて文句を言い始めました。

29章では、彼は自分の以前の人生について語りました。かつて彼は尊敬され、正しい行いをしていました。

具体的には、貧しい人を助け、身寄りのない人や未亡人にあわれみを示し、さらに弱い人々を助けていたのです。そのため、神様がヨブを祝福するはずだと考えていました。

けれども、30章でヨブはこう文句を言いました。「神様はすべてを奪われた。今や皆が私をからかっている。それに、神様は私の祈りを全く聞いてくださらない。」

そして、30章から31章にかけて、ヨブはこう問いかけます。「私は貧しい者を助けたでしょう?苦しんでいる人のために悩んだでしょう?私は清い目を保ったでしょう?

もし私が姦淫を犯したり、貧しい人を助けなかったり、金銭を私の神としたり、偶像礼拝をしたり、敵の苦しみを見て喜んだり、私の罪を隠したりしたなら、どうぞ私を罰してください。

けれども、私はそのようなことを一切行っていません。

これが私の弁解です。それに署名しました。では、神様、もし私を責めたいのであれば、どうかお答えください。」

この箇所から何を学べるでしょうか。私は二つのことがあると思います。

一つ目は、ヨブの友達の「悪人だけが苦しむ」という考え方が間違っていたことです。

二つ目は、ヨブの「私が苦しみに値しないから、苦しむべきではない」という考え方も間違っていたことです。

私たちが住んでいる世界は壊れています。地震があり、台風があり、自然災害があります。また、この世界には病気や死があります。さらに、罪によって堕落した人々が多く存在し、その行動が私たちに影響を与えます。

そして、サタンもいます。また、サタンには多くの手下がいます。彼らは私たちを憎み、私たちを攻撃します。

これらすべてが私たちに影響を与えるため、神様は決して「あなたは苦しむことがない」とは約束していません。

むしろ、神様はその逆のことを約束されています。イエス様はこう言われました。

あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

イエス様は「あなたがたは、世にあっては患難があるかもしれない」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は「あなたがたは、世にあっては患難があります」とはっきりと言われました。

たとえ、あなたがこの世で最も賢く、正しい人であっても、苦しみはやってきます。

イエス様はすべての人々よりも賢く、正しかったにもかかわらず、苦しみを受けられました。私たちはイエス様にまさる者でしょうか。

時々、クリスチャンたちは「私たちが苦しまないように、イエス様は私たちのために苦しまれた」と言います。

しかし、それは間違っています。イエス様は、私たちをあがなうために苦しまれました。また、いつか、すべてが新しくなるために苦しまれました。その日はまだ来ていませんが、必ず訪れます。

ですから、苦しむときは、その日を待ち望みましょう。

パウロはこう書いています

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ8:18-25)

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不完全な理解、歪んだ視点

やっと、ヨブの友達のスピーチが終わりました。要約すると、ビルダデはこう言いました。

「神様は偉大な方です。神様は聖なる方です。でも、あなたはどうでしょうか。

あなたはただの蛆(うじ)です。あなたはただの虫けらです。あなたは汚れていて、不潔な人です。」

ヨブは皮肉たっぷりに答えました。

「すごい!あなたの知恵は素晴らしい!あなたは偉いですね。」

そして、ヨブは言いました。

「もちろん、神様は偉大な方です。もちろん、神様の力はどんなものか想像できません。神様と比べると、私は取るに足りない存在です。

でも、この苦しみは私にふさわしいものではありません。あなたが何を言っても、私を説得することはできません。」

ビルダデを見ると、私は二つのことが分かります。

一つ目は、彼の神様についての考え方が不完全で歪められていることです。もちろん、神様は偉大な方ですし、神様と比べると私たちは取るに足りない存在です。

また、私たちの視点から見ると、神様の聖なる性格と比べると、私たちは虫けらか、蛆のように見えるかもしれません。

しかし、神様は私たちをそのようには全然思っておられません。

どうして私はそう思うのでしょうか。それは、神様が人間としてこの世に来られた時、「虫けら」とか「蛆」と呼ばれた人々と時間を過ごし、癒やしてくださったからです。体だけを癒やしたのではなく、その魂も癒やしてくださったのです。

イエス様は、投石されそうだった売春婦に手を差し伸べて、あわれみを与えてくださいました。

また、皆に憎まれていた悪辣な取税人に友情の手を差し伸べられました。

イエス様は彼らや他の悪名高い罪人たちと共に食事をし、時間を過ごされました。そして、その結果、彼らの人生は全く変わりました。

けれども、それだけではありません。死に値しない方であったにも関わらず、イエス様は十字架で死なれました。

イエス様は清い方でした。聖なる方でした。それでも、私たちの罪のために死なれたのです。なぜでしょうか。私たちを蛆だと考えていたからでしょうか。私たちを虫けらだと考えていたからでしょうか。違います。

イエス様は、私たちをすばらしい価値のある真珠だと考えられたからです。だから、高い値段でも、イエス様は喜んで払ってくださいました。

私が高校生の時、クリスチャンのコメディアンの話を聞いたことがあります。その時、彼は一番好きな歌について話しました。彼にとって、その歌はキリスト教のメッセージを要約したものでした。

彼は「その歌は何だと思いますか。」と尋ねました。

「たぶん、それは、本当に昔の素晴らしい賛美歌でしょうね。例えば……」

(コメディアンは深呼吸をして、荘重な声で「神は我がやぐら」という賛美歌のメロディで歌い始めました。)

I come before Thy throne of grace,
And throw myself upon my face.
私はあなたの恵みの御座の前に進み出て、ひれ伏します。

I know that I am but a worm.
私は自分がただの虫けらであることを深く理解しております。

So step on me God and watch me squirm.
だから、神様、私を押しつぶしてください。そして、私がもがく様子をご覧になってください。

(はい、そうですね。アメリカのユーモアは少し独特ですね。)

けれども、そのコメディアンはその後こう言いました。

「いや、違います。むしろ、この一つのシンプルな歌がキリスト教のメッセージをまとめていると思います。」

(「主われを愛す」のメロディ)

Jesus loves me this I know.
イエス様が私を愛しておられることを知っています。

For the Bible tells me so.
聖書にそう書かれているからです。

Little ones to him belong.
小さな子供たちはイエス様に属しているのです。

They are weak but he is strong.
彼らは弱いですが、イエス様は力強いお方です。

Yes, Jesus loves me.
そう、イエス様は私を愛しておられる。

Yes, Jesus loves me.
そう、イエス様は私を愛しておられる。

Yes, Jesus loves me.
そう、イエス様は私を愛しておられる。

The Bible tells me so.
彼らは弱いですが、イエス様は力強いお方です。

もちろん、それは福音のメッセージのすべてではありません。けれども、それは福音のスタート地点です。もし神様が私たちを愛しておられなかったら、福音は存在しません。

私たちは、その愛をこの世界の傷ついている人々と分かち合わなければなりません。ビルダデはそれをしませんでした。(これが、ビルダデについての二つ目のことです。)

おそらく、ビルダデが「神様はあなたを愛している」と言ったとしても、ヨブを慰めることはできなかったと思います。しかし、もしビルダデが自分の行動を通して神様の愛と哀れみを示していたなら、ヨブを慰めることができたかもしれません。

つまり、ビルダデの行動と言葉を通して、ヨブはこう感じたかもしれません。「神様はまだここにおられる。神様はまだ私を愛しておられる。このビルダデを通して、神様の愛と哀れみが見えるから。」

あなたはどうでしょうか。あなたの神様についての考え方は不完全で歪められているでしょうか。神様にとって、あなたはただの虫けらだと思うでしょうか。

神様は決してそのようには思っておられません。神様はあなたを愛しておられます。そして、神様はその愛をこの世界に分かち合うことを望んでおられます。あなたの言葉だけではなく、あなたの行動を通しても、その愛を分かち合ってほしいのです。

あなたは神様の愛を知っていますか。ほかの人々はあなたを通して神様の愛を見ることができるでしょうか。

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見えない神との関わりにおけるフラストレーション

残念なことに、エリパズは再びヨブを責めました。だから、ヨブは言い続けました。「もし私が罪を犯したのなら、どの罪を犯したのか教えてください。」

そして、ついにエリパズは具体的にヨブの罪について語り始めました。けれども、問題は、それがすべて冤罪だったことです。

そこで、ヨブは再び神様の前での裁判を求めました。彼はこう言いました。

ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。

私は御前に訴えを並びたて、ことばの限り討論したい。

私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。

神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。

そこで正しい人が神と論じ合おう。そうすれば私は、とこしえにさばきを免れる。(ヨブ記23:3-7)

ヨブはもう一度、自分の無実を宣言しました。また、ヨブは神様の公平さを信じていることも明言しました。ヨブは心の中でこう考えていました。「もし神様と論じ合うことができたなら、きっと私は正義を勝ち取るだろう。」

けれども、その後で、ヨブはこう言いました。

ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。

左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。(ヨブ記23:8-9)

つまり、ヨブはこう叫びました。「神様!あなたはどこですか?私が苦しんでいるのに、あなたはどこにおられるのですか?どうして、あなたは私に敵対しておられるのですか?」

これが、見えない神様との関わりにおけるフラストレーションです。時には、試練の中でも神様の臨在を感じ、慰めを得ることがあります。

しかし、時には神様がとても遠く感じられることもあります。その理由は私たちには分かりませんし、神様も説明されることはありません。

私たちは祈りますが、その祈りが神様に届かないように思える時があります。聖書を読みますが、神様が何も語られないように感じることもあります。そんな時、ヨブのように私は問いかけます。

「どうして、あなたは私に敵対しておられるのですか?私は悪いのでしょうか?もしそうなら、どうか私に教えてください。」

そのような状況で、私たちはどうしたら良いのでしょうか。簡単な答えはありません。

しかし、私がヨブを尊敬しているのは、彼が神様に疑問を投げかけ、神様が彼を捨てられたと思い、さらには神様が彼を迫害されていると思ったにもかかわらず、ヨブが決して神様を見捨てることはないと信じていた点です。

そして、ヨブの問いと苦情、苦しみの中で、彼は信仰に基づき次のような言葉を残しました。

しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。(23:10)

だから、辛い試練を経験しても、ヨブは続けてこう言いました。

私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。

私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。(23:11-12)

私たちも同じ態度を取らなくてはなりません。たとえ神様が遠く感じられる時や、神様が私たちに敵対しておられるように思える時でも、私たちは神様にすがりつくべきです。

また、神様の慈しみを信じ続けなくてはなりません。そして、神様が公平な方であることを疑わず信じ続けるべきです。そしてもう一つ、私たちが今苦しんでいたとしても、最終的には金のように純粋にされるという希望を持ち続けることです。

だから、試練が訪れても、神様に背を向けないでください。たとえ神様を見つけられないように思える時でも、神様のことをあきらめないでください。

神様の言葉を心に蓄え、その言葉を手放さないでください。そして、神様を求め続けましょう。

そうすれば、ヨブのように、あなたも再び神様を見出す時が来るでしょう。

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辛い真実

ヨブ記を読み続けると、ヨブの友達は頑固に「あなたは何か悪いことをしたから、神様があなたを罰している」と言い続けます。

けれども、ヨブとその友達の喧嘩の中で、私たちは神様が答えてくださらない疑問に直面します。それは、「どうして神様は悪を止めようとなさらないのでしょうか」という疑問です。

また、「時々悪い人は苦しむけれど、どうしていつもそうではないのでしょうか。時々、彼らは本当に幸せな人生を送っているように見えます。どうして彼らはもっと苦しまないのでしょうか」とも考えます。

ツォファルの答えは単純です。「悪人の人生は一時的にうまくいくけれど、結局は苦しむよ。」

しかし、ヨブはこう答えます。

「そうですか?でも、私が見るのは、彼らが生き続けており、さらに強力になっている姿です。どうしてでしょうか?どうして彼らは神様を恐れないのに、富を得たり、安全な人生を送ったりしているのでしょうか。」

ヨブは続けてこう言います。

「あなたが言ったように、彼らの子供たちは苦しむかもしれませんが、どうして本人が苦しまないのでしょうか。亡くなったら、子供のことをもう気にしないではないですか。どうして神様はその本人を罰しないのでしょうか。」

だから、21章の最後で、ヨブは言いました。

どうしてあなたがたは、私を慰めようとするのか。むだなことだ。あなたがたの答えることは、ただ不真実だ。(ヨブ記21:34)

24章で、ヨブは同じようなことを言います。皮肉を込めて彼はこう言いました。「分かりました。悪人は結局罰される。それでは、あなたの証拠を示してください。」

辛い真実ですが、多くの悪人が栄え、この世では神様からの罰を受けません。

もちろん、いつか神様は彼らを裁きますが、「どうして今裁かないのか」は理解しにくいです。

私にも分かりません。麦と毒麦のたとえ話(マタイ13:24-30)でイエス様が暗示されたのは、麦(神様に属している人々)を傷つけずに、毒麦(悪人)をこの世界から取り除くのは難しい、ということです。

たとえば、誰かが罪を犯した結果、ある人が本当に傷つきます。その人はそれまで神様のことを全く考えず、神様を求めてもいませんでした。けれども、自分の世界が揺れ動く中で、神様を求め始めます。

多くの日本人の場合も同じです。多くの日本人がクリスチャンになった理由は、人生の危機がきっかけでした。

それでも、私はこの答えに完全に満足しているわけではありませんし、それが完全な答えだとも思いません。しかし、その答えから分かるのは、神様は私よりもよくご存じで、賢明な方だということです。

また、神様には私たちには見えない目的と、私たちには分からない理由があります。それがヨブ記のメイン・ポイントの一つです。

有限の知識しか持たない私たちには、無限の知識を持つ創造者に尋ねる立場はありません。

他の記事で、この問題についてさらに深くお話しします。

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ヨブ記

贖い主

ヨブ記の中で、これは少し驚くべき箇所です。なぜなら、ヨブはイエス様のことを全く知らなかったにもかかわらず(もちろん、イエス様はまだお生まれになっていませんでした)、贖い主を信じることを叫んだからです。

最初に、もう一度触れておきますが、ヨブの友達はヨブの本当の状態を理解せず、ヨブを支えようとはしませんでした。そのため、ヨブはその友達を批判しました。

けれども、その中で、ヨブは叫びました。

どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる者がありましょうか。(ヨブ記17:3)

ヨブが何を言っているのか、少し分かりにくいです。「保証すること」と「誓うこと」というのは、どういう意味でしょうか。旧約聖書では、これらには三つの意味があります。

まず、創世記では、ユダが自分の命をかけてベニヤミンの命を保証しました。彼は父ヤコブにこう言いました。

私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。(創世記43:9)

だから、ヨセフがベニヤミンを自分の奴隷として取ろうとした時に、ユダは「ベニヤミンの代わりに私を奴隷にしてください」と願っていました。

もう一つの意味があります。日本のように、もし誰かがローンを組みたい場合、時々保証人が必要です。もしお金を借りた人が返済しなければ、その保証人が代わりに支払います。

しかし、この箇所では、多分別の意味があります。もし誰かが犯罪に問われた場合、時々ある人がその人のために保証をします。つまり、「この人は無罪だと思う」と誓うのです。

なぜそのようにしたのか、私たちにはわかりません。それは裁判官の要求だったのかもしれません。

もし誰もその人の保証をしなければ、裁判官は有罪と判断するかもしれません。さらに、その人が有罪であっても、その報いを支払えない場合には、保証人が代わりに支払うこともあり得ます。

ヨブの言葉は本当に興味深いです。なぜなら、神様は保証人を要求する裁判官でありながら、ご自身が保証人であられるからです。

イエス様こそが私たちのためにそのようにしてくださいました。イエス様は神様でありながら、天の父がすべての裁きをイエス様にゆだねても、なお私たちの保証人でいてくださいます。

そして、神様は私たちの罪をご覧になり、私たちがその報いを支払うことができなかったので、イエス様はご自身の血でその代価を支払われました。

神様への嘆きの中で、ヨブは叫びました。

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。

私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。

この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。(25-27)

ヨブ記を読むと、時々「ヨブは永遠の命を信じていたのだろうか」と思います。

彼の感情によって意見が変わったように見えることもあります。けれども、この箇所で、彼ははっきりと宣言します。「私は死んでも生きる。その時、私の贖い主は私を弁護してくださる。」

私たちも同じ希望を持っています。たとえ試練があっても、後の日に私たちの贖いは地上に立たれるのです。その日、天の父の前に立ち、私たちのために弁護して、「この人の罪のために、私はすでに支払いを済ませました」と言われるのです。

だからこそ、パウロが言ったように、キリスト・イエスにある私たちは、罪に定められることが決してありません。(ローマ8:1)

少し古いけれど、私の大好きな歌があります。

贖い主がいます。
神様の子イエス・キリストです。
神の尊い子羊、救い主、 聖なる方。

イエス様、私の贖い主、
すべての名にまさる名前。
尊い神の子羊、救い主、
罪人の希望、
罪人のために殺された。

私は栄光の中で立つときに、
イエス様の顔を見ます。
私の王に永久まで仕えます
その聖なるところで。

私のお父様、感謝します。
あなたはご自分の子を送ってくださいました。
そして、あなたの聖霊を残してくださいました。
この世界で、あなたの御業が終わるまで。

ーーキース・グリーン

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煩わしい慰め手、本当の慰め手

エリパズの言葉を聞いて、ヨブは腹を立てて、このように返事をしました。

そのようなことを、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ。

むなしいことばに終わりがあろうか。あなたは何に興奮して答えるのか。

私もまた、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら、私はことばを連ねてあなたがたを攻撃し、あなたがたに向かって、頭を振ったことだろう。

私は口先だけであなたがたを強くし、私のくちびるでの慰めをやめなかったことだろう。(ヨブ記16:2-5)

つまり、「もう、やめてくれ!何度も何度も同じことを繰り返して言うけど、その言葉は俺を全然助けていない。もしお前たちが俺の立場にあったなら、俺はお前たちを攻撃するだろうか?

いや、情け深い心を持って、俺はお前たちを慰め、お前たちを励ます。それなのに、どうしてそうしてくれないんだ?」

そして、ヨブは自分の惨めな人生について文句を言うけど、最後に興味深いことを言います

今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。

私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。

その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。(19-21)

ヨブの友達は悪い慰め手でしたが、ヨブは天に誰かが、ヨブのためにとりなしをしてくださることを信じていました。

それはその通りです。私たちのためにも、誰かがとりなしをしてくださっています。パウロはこう書きました。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(ローマ8:26-27)

ヨブのように、私たちは苦しみ、どのように祈ったらよいかわからず、また私たちの友達が私たちをがっかりさせる時にも、私たちのためにとりなしをしてくださる方がおられます。その方は聖霊様です。聖霊様は私たちのために、神様の御心に従い、とりなしをしてくださいます。

それでは、その結果はどうなるのでしょうか。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)。

多くの場合、私たちは28節だけを読みますが、どうして神様が私たちの益のために働いておられるのか、わからないことがあります。その理由は、聖霊様が私たちのためにとりなしをしてくださっているからです。

あなたはヨブのように、神様があなたを捨てられたと思いますか。また、神様があなたに敵対しておられると思いますか。

それはサタンからの嘘です。今でも、聖霊様はあなたのためにとりなしをしてくださっています。ですから、たとえあなたが見えなくても、神様が私たちの益のために働いておられることを覚えておきましょう。

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知っているつもりの高ぶり

ヨブが14章でもっと文句を言った後で、エリパズはもう一度話しかけます。もう一度、エリパズは「悪人だけが苦しむ」と言います。

でも、私にとって、興味深いことは、どうやって、その話を始めることです。

彼は言った。

知恵のある者はむなしい知識をもって答えるだろうか。東風によってその腹を満たすだろうか。

彼は無益なことばを使って論じ、役に立たない論法で論じるだろうか。(ヨブ記15:2-3)

また、

あなたは最初に生まれた人か。あなたは丘より先に生み出されたのか。

あなたは神の会議にあずかり、あなたは知恵をひとり占めにしているのか。(7-8)

エリパズはヨブを批判していたけど、実は、この言葉を彼自身に対して言ったほうが良かったのです。

彼は最初に生まれた人のように話した。

彼は神様の会議に与る人のように話した。

彼は自分自身だけが知恵がある人のように話した。

でも、結局、彼が分かったのは、彼がヨブについて、全く間違っていたことです。

空しい知識と言葉を持っていた人はエリパズ自身でした。

あなたはどうですか。「周りの人よりも、私は知っている」と思うでしょうか。私たちが状況を本当に知らないのに、すぐに「知恵」の決まり文句を言いますか。

ヨブがその友達に言ったように、多くの場合、私たちに対して、全く黙るのは知恵です。(13:5)

じゃあ、私たちは他の人々に決して知恵をシェアしないほうが良いんでしょうか。

そこまで言わない。でも、知恵の部分は、いつ知恵をシェアしたほうが良いか、また、どうやって知恵をシェアしたほうが良いか知っていることです。

そして、もし、状況を知らないと、知恵というのは黙ることです。情報を全部持っているまで、知恵は何も言わない。

あなたのあの言葉は知恵深いですか。もしくは、あなたの言葉は全部空しいでしょうか。

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人々を裁くこと

この箇所では、ヨブの友人たちはヨブの性格を攻撃し続けています。

今度はツォファルの番です。ツォファルも他の友人たちと同じように、ヨブが悪いことをしたために、神様がヨブを罰していると主張します。

ヨブはそれを聞き、その友人たちの「知恵」を嘲笑し、「あなたたちだけではなく、私も神様の力と知恵をよく知っている」と言いました。その後、ヨブはこう言いました。

だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。

しかし、あなたがたは偽りをでっちあげる者、あなたがたはみな、能なしの医者だ。

ああ、あなたがたが全く黙っていたら、それがあなたがたの知恵であったろうに。

さあ、私の論ずるところを聞き、私のくちびるの訴えに耳を貸せ。

あなたがたは神の代わりに、なんと、不正を言うのか。神の代わりに、欺きを語るのか。

神の顔を、あなたがたは立てるつもりなのか。神の代わりに言い争うのか。

神があなたがたを調べても、大丈夫か。あなたがたは、人が人を欺くように、神を欺こうとするのか。

もし、あなたがたが隠れて自分の顔を立てようとするなら、神は必ずあなたがたを責める。

神の威厳はあなたがたを震え上がらせないだろうか。その恐れがあなたがたを襲わないだろうか。(ヨブ記13:3-11)

つまり、「あなたたちはたくさん言っているけど、事実を理解していない。『あなたは罪を犯しただろう?』と言うけど、私は全くしていない。あなたたちとはもう話したくない。神様と話したい。神様のほうが公平だから。

もし、あなたたちが神様の前に裁かれたら、立てるだろうか?あなたたちはどう感じるだろうか?」

ヨブは正しかった。彼らは根拠もないのにヨブを責めました。そして、神様が彼らを問い詰めると、彼らは立つことができませんでした。ヨブ記の最後にその様子が描かれています。

だから、私たちが人を裁くときには注意が必要です。

時々、人々はヨブの友人たちのように周りの人々を裁きます。彼らはこう言います。「あなたの病気が癒されない理由は、あなたの信仰が弱すぎるからです。もし信仰が十分なら癒されるはずです。」

時には、さらにひどいことを言います。「あなたには秘密の罪があるのでしょう?だから病気なのです。」

けれども、神様はそのような人たちを裁かれます。パウロはこのように書いています。

それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。(ローマ14:10-13)

この箇所では、パウロは人々の意見について話しています。たとえば、野菜だけを食べるか、肉を食べるかということや、どの日に礼拝するべきかについてです。パウロは、これらの意見を理由に人々を裁いてはいけないと言いました。

しかし、ほかの箇所で、パウロはこうも言っています。もし誰かが罪を犯したなら、その罪を無視せず、その人に面と向かって指摘しなければならない、と。(第一コリント5章)

ただし、根拠がなければ裁いてはいけません。罪の証拠がないままに兄弟や姉妹を責めてはいけないのです。

そうすると、ヨブの友人たちのように、相手を助けるどころか、彼らの前につまずきになるものを置くことになります。そして、そのようなことをすれば神様はあなたを裁かれるでしょう。

あなたはどうでしょうか。根拠がないのに他の人を裁くことはありますか。イエス様はこのように言われました。

うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。(ヨハネ7:24)

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ヨブ記

神様は私たちを罰する機会を待っておられるのでしょうか

この箇所で、私がヨブの文句を読むと、多くの人々の考え方が浮かび上がってくるように感じます。ヨブはこう言いました。

あなたはいのちと恵みとを私に与え、私を顧みて私の霊を守られました。

しかし、あなたはこれらのことを御心に秘めておられました。私はこのことがあなたのうちにあるのを知っています。

もし、私が罪を犯すと、あなたは私を待ちもうけておられ、私の咎を見のがされません。(ヨブ記10:12-14)

また、

あなたの日々は人間の日々と同じですか。あるいは、あなたの年は人の年と同じですか。

それで、あなたは私の咎を捜し、私の罪を探られるのですか。(5-6)

ヨブのように、多くの人々は、神様が私たちの罪を犯すのを待っていると思っています。そして、私たちの罪を見ると、神様が喜んで私たちを罰すると考えています。

もちろん、もし私たちが良いことをすれば、神様が私たちを祝福すると信じています。しかし、もし私たちがたった一つの悪いことをすれば、「どかん!」と神様が私たちを罰すると感じています。

けれども、神様はヨブに対して、全くそのようには考えておられませんでした。ヨブ記1~2章にあるように、神様はヨブを責めておられませんでした。むしろ、サタンがヨブを責めていました。神様はヨブを擁護されていたのです。

今でも、誰かが私たちを責めるとき、神様は私たちを擁護してくださいます。以前のブログでそのことについて読んだことがありますが、もう一度確認してみましょう。パウロはこのように書きました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。。。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。

罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。 (ローマ8:1,33-34)

ですから、「神様が私たちを罰したいから、私たちのミスを待っている」という考え方は捨てましょう。

神様は私たちを擁護してくださる方です。そして、もし私たちが神様の子供であるなら、決して罪に定められることはありません。

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ヨブ記

仲介者を必要とする

この箇所では、ヨブのフラストレーションが神様に対してあふれ出しました。ヨブは神様の主権を認めていましたが、それでも神様が非常に遠い存在に感じられ、自分が捨てられたように思えていました。

そのため、ヨブはこう言いました。

たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない。

ああ、神が奪い取ろうとするとき、だれがそれを引き止めることができようか。だれが神に向かって、「何をされるのか」と言いえよう。(ヨブ記9:11-12)

それに、ヨブは神様が自分を苛めていると思っていました。

たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない。

神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、

私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。

もし、力について言えば、見よ、神は力強い。もし、さばきについて言えば、だれが私を呼び出すことができるか。(16-19)

また、ヨブには神様が自分の惨めさを喜んでいるように感じられました。

にわか水が突然出て人を殺すと、神は罪のない者の受ける試練をあざける。(23)

ヨブにとって、最も辛かったのは、神様が不公平に思えたことでした。

みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。。。

地は悪者の手にゆだねられ、神はそのさばきつかさらの顔をおおう。もし、神がそうするのでなければ、そうするのはだれか。(22,24)

ヨブを批判するのは簡単です。けれども、おそらく、ほとんどの人々はヨブのような苦しみに直面したら、同じように感じるのではないでしょうか。一番信仰の強いクリスチャンでさえ、そう感じる可能性があります。

しかし、この箇所で私たちが覚えておくべきことがあります。一つ目は、神様の前に立って「私は全然悪いことをしたことがない」と言える人は誰もいないということです。

ヨブはこう言いました。

まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。

たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられない。

神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。(2-4)

多くの人々は、裁きの日に神様の前に立ち、自分の人生について申し開きができると思っています。けれども、その日には、神様が私たちの悪い思いと行動のすべてを明らかにされます。

それだけではなく、良いことをする機会がありながら何もしなかったことも明らかにされます。そのとき、私たちは神様の聖なるご人格と比較して、自分がいかに罪深いかを知り、自分自身を申し開くことができないことを悟るのです。そして、私たちの言い訳や申し開きの空しさが明白になるでしょう。

その日、多くの人々は、ヨブのようにこう言います。

いったい、この私が神に答えられようか。私が神とことばを交わせようか。

たとい、私が正しくても、神に答えることはできない。私をさばく方にあわれみを請うだけだ。(14-15)

ヨブは、自分が無実であっても、無罪の人として神様の前に立つことができないことを理解していたため、叫びました。

私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。

神がその杖を私から取り去られるように。その恐ろしさで私をおびえさせないように。

そうすれば、私は語りかけ、神を恐れまい。いま私はそうではないからだ。(33-35)

ヨブには、そのような仲介者がいませんでした。しかし、私たちにはいます。パウロはこのように書きました。

神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。(第一テモテ2:5-6)

また、

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。(ローマ8:34)

神様の前で、誰も無罪の人として立つことはできません。私たちは皆、裁きを受けるに値します。しかし、イエス様は私たちの仲介者です。

イエス様は天の父にこう言われます。「私はその人の罪のために支払いをしました。」

それゆえ、天の父は私たちにこう言われます。「あなたはもう罪に定められていない。あなたは赦された。」

それだけではなく、イエス様は私たちのように苦しんだ経験をお持ちです。けれども、私たちと異なり、イエス様は罪がないにもかかわらず、苦しまれました。

だからこそ、イエス様は私たちの苦しみを理解されています。私たちの痛みをわかり、混乱を理解し、捨てられたと感じる思いをも共感してくださいます。

なぜなら、イエス様は人間として私たちと同じすべての感情を経験されたからです。

ヘブル人への手紙の著者はこのように書いています。

主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(へブル書2:18)

また、

私たちの大祭司は「つまり、イエス様」、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル書4:15-16)

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ヨブ記

正しいけど、間違っている

エリファズはヨブに最初のスピーチをした。私にとって、興味深いポイントは、時々エリファズが正しいことを言ったことです。

実は、パウロは第一コリント3:19でエリファズの言葉を引用しています。

神は知恵のある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕らえる。彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。(ヨブ記5:13)

エリファズはもう一つの真実を語りました。

ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。

神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。(17-18)

ソロモンも、そのようなことを書きました。

わが子よ。の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。

父がかわいがる子をしかるように、は愛する者をしかる。(箴言3:11ー12)

しかし、問題は、この言葉がヨブの状況には適用できなかったという点です。神様はヨブを罰しておられず、ヨブは全く悪いことをしていませんでした。

そのため、その「真実」の言葉はヨブを助けるどころか、さらに彼を落ち込ませ、怒らせる結果となりました。

ヨブはこう思いました。「友人たちは私を慰めてくれるはずだったのに、かえって攻撃された」(6章)。

彼らの言葉によって、神様はまるで不公平な方のように見えてしまいました。つまり、ヨブが何の悪いこともしていないにもかかわらず、神様はヨブを罰しているように見えたのです(7章)。

私が伝えたいポイントはこうです。「真実」を使うときには注意が必要です。あなたの言葉が真実であったとしても、それがその状況に本当に適用できるかどうかをよく考えてください。

あなたの意図が良かったとしても、もしあなたの言葉がその状況に適用できないなら、相手を傷つけてしまう可能性があります。そして、神様はその言葉のためにあなたを裁かれるかもしれません。

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ヨブ記

簡単すぎる説明と冤罪

少し告白があります。このブログを英語で書いたとき、「ヨブ記はどうしようかなあ」と考えました。

ヨブ記の内容自体はそれほど問題ではありませんでしたが、難しかったのは、4章から31章まででヨブとその友人たちがずっと言い争いをしており、同じようなことを何度も繰り返している点です。

このブログは主にデボーションを目的としているため、普段はあまり具体的な解説を行っていません。そのため、ヨブ記をどのように進めればよいか、長い間考えてきました。

最終的に私が決めたのは、4章から31章をまとめて一般的な解説を行うことでした。その後、次の11回ほどのブログの記事で、さらに具体的な内容を取り上げることにしました。

時にはいくつかの箇所を省略することもありますが、神様の導きに従って書いていきます。

先ほども述べたように、4章から31章は主にヨブとその友人たちの言い争いが記録されています。友人たちはヨブの苦しみを見て、またヨブの訴えを聞いて、なぜヨブが苦しんでいるのかを説明しようとしました。

彼らは何を言ったのでしょうか。要約すると、彼らの答えは次のようなものでした。

もし、あなたの子らが神に罪を犯し、神が彼らをそのそむきの罪を手中に送り込まれたのなら、

もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、

もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。(ヨブ記8:4-6)

つまり、「あなたの子供たちは罪を犯したので罰せられた。あなたも罪を犯したのではないか。だからこそ、あなたが罰せられているのだ。けれども、悔い改めれば、神様があなたを赦してくださり、すべてが大丈夫になるだろう。」

そして、4章から31章まで、ヨブの友人たちは一貫して「神様はいつも悪人を罰し、悪人だけが苦しむ」ということを言い続けました。

しかし、この説明には二つの問題がありました。一つ目は、この説明があまりにも単純すぎたことです。ヨブが述べたように、悪人は最終的に罰を受けるかもしれませんが、この世界では罰を受けないこともあります。

また、悪人の行動によって無実の人々が苦しむこともあります。彼らは衣服を失い、飢え、またその子どもたちは奴隷にされてしまいます。

それだけでなく、無実の人が殺されることもあり、主人や妻が相手の不貞によって苦しむ場合もあります。(21章と24章)

したがって、「悪人だけが苦しむ」という主張は誤りです。

二つ目の問題は、さらに深刻です。ヨブの友人たちは、「ヨブが悪事を行ったに違いない」と言いましたが、それは完全に間違いでした。

神様はヨブについてこのように言われました。

おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。(1:8)

神様はヨブを罰しておられませんでした。神様の目から見ると、ヨブは無実であると言われます。ですから、ヨブの友人たちが「あなたは罪を犯したのではないか」と言ったとき、彼らは完全に間違っていたのです。

ヨブは彼らにこう言いました。

私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。(6:24)

しかし、彼らはヨブが犯した罪を一つも思いつくことができませんでした。それにもかかわらず、自分たちの主張を証明しようとして、ヨブの罪の例をあれこれ挙げましたが、それらはすべて根拠のないものでした(22:5-9)。

そして、彼らはこう結論づけました。「あなたはそのような罪を犯したのだろう。それゆえ、罰せられているのだ。」

私たちはこの話から何を学べるでしょうか。

人々がなぜ苦しむのかという疑問は、簡単に答えられるものではありません。ただ「悪人は罰せられ、善人は守られる」と言うだけでは解決にはなりません。その答えはあまりにも単純であり、誤っています。

ヨブ記1~2章を読むと、より深いことが明らかになります。つまり、悪霊が存在しており、その悪霊は私たちに対して悪意を持っています。

また、私たちの周りには悪い行いをする人々がおり、その行動によって私たちが影響を受けることもあります。したがって、神様からの罰以外に、もう二つの理由が見えてきます。

では、なぜ神様は悪霊や悪人の働きを止めようとなさらないのでしょうか。この疑問に対して、神様は答えを言われませんでした。ヨブ記でも答えられず、今日でも神様はその理由を説明しておられません。

しかし、ヨブ記の最後で神様がヨブに答えられたとき、ヨブにとっては神様が言われたことが十分で、満足するものでした。それについては、後ほど読みます。

もう一つ学べることは、人を責めるときに慎重でなければならないということです。特に、その人が苦しんでいるときには、さらに気をつけなければなりません。

なぜなら、冤罪を作ることは、その人との関係を損なうだけでなく、神様は冤罪を作る人を非常に嫌われるからです。

ヨブ記の最後では、そのことがはっきりと示されています。

この世の悪や、私たちの愛する人々がなぜ苦しむのかという疑問は、簡単に答えられるものではありません。

けれども、ヨブの友人たちのように、この疑問を安易に扱うことは避けましょう。単純すぎる答えを与えることは控えましょう。また、冤罪を作ることのないようにしましょう。

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ヨブ記

私たちが見えないもの

この箇所で、ヨブは本当に失望していました。それは、ヨブの大切なものをすべて奪われてしまったからです。

ヨブの子供たちは亡くなり、妻の心は苦々しく、ヨブの持ち物はすべて失われ、さらに彼の体には悪性の腫瘍が満ちていました。

このような状況では、誰でも心が折れてしまうのは不思議ではないと思います。そして、ヨブは自分の感情を表現しました。彼は自分の誕生日を呪い、生まれたときにどうして死ななかったのかと嘆きました。

ヨブは自殺したかったわけではないと思いますが、眠るたびに、「決して目覚めなければいいのに」と思っていたのです。

それでも、毎日目覚め、彼の状態は依然として厳しいものでした。そして、彼はこう思いました。「なぜ、苦しんでいる人々はそのように生き続けなければならないのでしょうか。つまり、どうして悔しく、苦い人生を生きなければならないのでしょうか。」

そして、ヨブは問いかけました。

神が囲いに閉じ込めて、自分の道が隠されている人に、なぜ、光が与えられるのだろう。(ヨブ記3:23)

つまり、私は自分の人生の目的が見えません。私は問題ばかりで、それがずっと続いているのに、どうして神様がこの命を与えてくださったのでしょうか。

最後に、ヨブはこう言いました。

実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、私のうめき声は水のようにあふれ出る。

私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。

私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。(24-26)

それは、ヨブの地上からの視点でした。

けれども、天の視点はどうでしょうか。なぜかは分かりませんが、ヨブはその視点を決して見ることがありませんでした。ヨブは、神様が天使とサタンの前でヨブを誇られたことを全く知りませんでした。

また、神様がその試練を許された理由は、ヨブに敵対していたわけではありませんでした。むしろ、神様はヨブがこの試練を乗り越えられると確信していたので、その試練が起こることを許されたのです。

しかし、神様はその理由をヨブに一切教えられませんでした。

さらに、大変なことが起こっても、神様がヨブの人生の上にその御手を置いておられたことをヨブはまったく知りませんでした。

サタンはヨブを完全に破壊したいと願っていましたが、神様がそれを許されませんでした。しかし、それさえもヨブには教えられませんでした。

私たちも試練に直面するとき、なぜそのような悪いことが起こるのかを理解できないことがあります。そして、神様が私たちに反対していると思うかもしれません。神様がもう私たちを愛しておられないと思うかもしれません。あるいは、神様が私たちのことを気にしておられないと思うかもしれません。

けれども、どうか忘れないでください。神様の私たちに対する愛は決して止まることはありません。それどころか、神様は誇りある父として私たちを考え、信じておられることを覚えておきましょう。

また、何が起こったとしても、神様は守りの御手を私たちから取り去られることはなく、私たちが耐えられない試練を決して許されないことを覚えておきましょう。

パウロはこのように書きました。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。

神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント10:13)

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ヨブ記

友達が悲しむときに

この箇所では、ヨブの三人の友人を見ることができます。その名前は「エリファズ」、「ビルダデ」、そして「ツォファル」です。彼らはヨブの困難について聞き、彼を慰めるために訪問しました。ヨブの状態を見たとき、

彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を切り裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。

こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。(ヨブ記2:12-13)

ヨブ記を読むと、ヨブの友人たちについて多くの批判ができるかもしれませんが、彼らの良い点は、ヨブを本当に愛していたことです。

そして、最初の七日間、彼らは最も良い行動をとっていました。それは、彼らが黙って、ヨブと共に座っていたことです。

ところが、彼らが口を開いて「知恵」を語り始めると、状況は悪化しました。

この話から私たちは重要な教訓を学べると思います。私たちの友人が困難な状況にあり、苦しんでいるとき、多くの場合、私たちのアドバイスは必要ありません。私たちの「知恵」も必要ありません。

何よりも、彼らは私たちが共にいてくれることを望んでいます。また、私たちが彼らの話を聞いてくれることを望んでいます。

時に、彼らの苦しみによって馬鹿なことを言うかもしれません。彼らは神様の知恵や道を疑うこともあるかもしれません。

しかし、その時、彼らを批判しない方が良いのです。彼らには批判が必要ではありません。彼らはただ自分の苦しみを表現しているだけです。彼らに必要なのは、私たちの理解と同情です。

もし、私たちが彼らを理解し、彼らと共にいるなら、その行動を通して私たちは神様の愛を示すことができます。そして、彼らは再び神様の愛と臨在を感じることができるようになるのです。

パウロはこのように書きました。

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。 (ローマ12:15)

ですから、周りの人々が苦しんでいるときには、私たちはあまり口を開かず、耳と慰めの腕を使いましょう。

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ヨブ記

私たちが神様を礼拝する理由

私たちはイスラエル人の歴史を少し休憩して、ヨブ記を学びたいと思います。その理由は二つあります。

第一に、ヨブがいつ生きていたのか、私たちにははっきり分かりませんが、多分、彼はアブラハムの時代に生きていた可能性があります。また、モーセの時代に生きていたかもしれません。

いずれにしても、ヨブの物語はモーセ五書の時代に起こったとされています。そして、このブログでは、可能な限り聖書を時系列順に読むことを目指しています。

第二に、私たちの教会は新しいメッセージ・シリーズを始める予定です。そのテーマは「私たちが苦しむとき、神様はどこにおられるのでしょうか」ということです。

このブログとそのメッセージ・シリーズには強い関係があるかもしれません。

さて、ヨブについて聖書にはこのように書かれています。

この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。(ヨブ記1:1)

さらに、神様は彼を豊かに祝福されました。彼は、

東の人々の中で一番の富豪でした。(1:3)

けれども、突然、その平和な人生が失われました。 神様はサタンと話されたときに、ヨブについて誇られました。

おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。(1:8)

しかし、サタンはこのように答えました。

ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

あなたは彼と、その家とすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。

あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。

しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」 (1:9-11)

そして、神様はサタンにヨブを攻撃する許可を与えられました。サタンは一日でヨブの財産を破壊し、息子たちと娘たちを殺しました。

ヨブの反応はどうだったでしょうか。

彼はもちろん泣きました。けれども、その後で、ヨブは神様を礼拝しました。

私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。は与え、は取られる。の御名はほむべきかな。(1:21)

ヨブは全く罪を犯しませんでしたので、サタンは神様に言いました。

皮のかわりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。

しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。(ヨブ記2:4-5)

再び、神様はサタンにヨブを攻撃する許可を与えられました。すると、サタンは「ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫瘍で彼を打ちました。」(2:7)

その時、ヨブの妻の忍耐は失われました。

彼女はこう言いました。

それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。(2:9)

しかし、ヨブはこのように答えました。

あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。(2:10)

私たちがヨブの人生について考えるなら、大切なことを心に留めるべきです。どうして私たちは神様を礼拝するのでしょうか。どうして神様に従うのでしょうか。それは、神様からの祝福だけが目的なのでしょうか。

ヨブはそのような人ではありませんでした。神様がしてくださったことのために礼拝したのではなく、むしろ神様が礼拝に値する方だからヨブは礼拝しました。

神様がヨブを祝福されたとしても、祝福されなかったとしても、神様は礼拝に値する方であり、ヨブの信頼に値する方です。だからこそ、ヨブは問題がいくつもあったとしても、神様を礼拝し続け、従い続けました。

あなたはどうでしょうか。どうしてあなたは神様を礼拝するのでしょうか。神様があなたを祝福してくださったからでしょうか。それとも、あなたの得のために従うのでしょうか。

あるいは、神様が礼拝に値する方だから礼拝するのでしょうか。神様があなたの信頼に値する方だから従うのでしょうか。

真の礼拝者は、神様が何をしてくださったかだけのために礼拝するのではありません。真の礼拝者は、神様が礼拝されるべき方であると信じるからこそ礼拝します。

また、真の礼拝者は、大変なことが起こったとしても、神様が良い方であることを信じ続けます。

あなたはどのような礼拝者でしょうか。

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申命記 詩篇

この世界はあなたをどのように思い出すか

これはモーセ五書の最後の一部です。

しかし、モーセはこの最後の箇所を書いたわけではありません。モーセが亡くなった後に、誰かがこれを記録しました。

モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼をは、顔と顔を合わせて選び出された。

それはが彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、

また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威とをことごとくふるうためであった。(申命記34:10-12)

それは、すばらしい追悼文です。

モーセは神様が顔と顔を合わせて選び出された人です。

モーセは神様の力に満たされた人です。

モーセは神様の力を通して、イスラエル人をエジプトから救い出した人です。

これを読んだとき、私はこう思いました。「私が亡くなるとき、家族や友達、同僚は私をどのように思い出すでしょうか。」

一昨年、私の父が亡くなりました。私と母、兄弟が父をどのように思い出しているかは分かりますが、他の人々が父をどのように思い出すかについてはよく分かりません。彼らが追悼文を書くなら、何と書くだろうと思います。

そして、私が亡くなった時に、人々は何を言うでしょうか。私についてどのような思い出を持つでしょうか。

私にはその答えがよく分かりません。ただ、神様が望んでおられる人になるには、まだたくさんの時間が必要だと感じます。弱さが多いからです。失敗も多いからです。それでも、もし人々が私を通して少しでも神様を見ることができるなら、それは本当に嬉しいことです。

詩篇90篇で、モーセはこう書きました。

それでも、人々が私を見ると神様がちょっとだけでも見えたら、私は嬉しい。(詩篇90:10)

だから、モーセはこう祈りました。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(12)

また、

私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(17)

それは私の祈りです。

「神様、私に自分の日を正しく数えることを教えてください。賢く生きたいからです。また、私の手のわざを確かなものにしてください。私の人生が空しいものにならないように、何をするべきか教えてください。そのわざが空しいものにならないように。」

私には本当に好きな歌があります。それは私の心の叫びです。

Lord, my friend has gone to be with you.
主よ、私の友達があなたの所に行ってしまいました。
I’m not asking why
どうしてか訊いていないのです。
Or questioning what you do
あなたの御心を疑っていないないのです。
But I’m realizing that my days are numbered too.
けれども、私の人生が短いことが分かるようになりました。
Will my life have been all that I wanted it to?
振り返るときに、希望した通りに生きたでしょうか。

Will my friends reflect on precious memories?
私が亡くなるときに、私の友達は私についていい思い出を持つでしょうか。
And if I sing to the world, will they know you were the love in me?
もし、この世に歌ったら、周りの人々は私の愛があなたから来たことが分かるでしょうか。
And the praise I gave goes on eternally?
私の賛美は永遠に続くでしょうか。
How will they remember me?
すべての人々はどのように私を思い出すでしょうか。

How will they remember?
どのように思い出すでしょうか。
I hope when they remember they see you.
彼らが私を思い出したら、あなたを見るように望みます。

I know that in my heart I must be sure all my days have not just slipped away.
私の心の中で、私の人生が空しいものじゃなかったという確信が欲しいです。
It already seems life will be too short.
私の命は短そうです。
Wasn’t I a child just yesterday?
昨日、私は子供じゃなかったでしょうか。
Time just slips away.
光陰矢のごとしです。

Lord, I’m not afraid to be with you.
主よ、私が天国であなたと共にいることを怖がっていません。
But I feel there’s so much left for me to do.
けれども、まだ、この世界で、たくさんのことをしなくてはならないと思います。
I just had to know that I made you proud too.
あなたが私について考えたら誇ることを知りたいです。
Will they know I love you?
すべての人々は私があなたを愛していることが分かるでしょうか。

How will they remember?
どのように思い出すでしょうか。
I hope when they remember they see you.
彼らが私を思い出したら、あなたを見るように望みます。

I want the world to see Jesus in me
この世界の人々が私の中で、イエス様を見るように望んでいます。

ーーキム・ボイス

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申命記

他の人々の上に神様の祝福のために祈ること

創世記が終わったように、申命記も祝福で終わります。

創世記では、ヤコブが息子たちのために具体的な祈りを捧げたように、モーセもその子孫のために具体的な祈りを捧げました。

それを読んだとき、私はこう思いました。

「どのくらい私は相手の前で、その人のために祈るでしょうか。また、どのくらい具体的な祈りを捧げるでしょうか。」

モーセが何のために祈ったのか、少し考えてみてください。

神様がユダを敵から助けてくださるように祈りました。(申命記33:7)

私たちが心に留めておかなければならないのは、霊的な戦いのただ中にいるということなのです。だからこそ、戦っている間に、他の「兵士」のために祈らなければならないのです。

そして、神様に仕える人々、すなわちレビ人のためにも、モーセは祈ったのです。

彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。(11)

そのように、私たちも神様に仕える人々のために祈るべきです。特に、牧師たちのために祈るべきです。

彼らは私たちの教会を導いているので、神様が彼らを祝福してくださるように祈らなければなりません。

そのあと、モーセは、安全と安らぎのために祈りました。(12節)

この世では、私たちは多くの心配ごとに囲まれ、圧倒されやすいものです。だからこそ、私たちには「人のすべての考えにまさる神の平安」が必要です。

最後に、モーセは物質的な祝福のためにも祈りました。金持ちになることを願うためではありませんが、神様の祝福を通して私たちが他の人を祝福できるようにと祈るべきです。(第二コリント9:8-11)

他の人のために一般的な祈りをするのは簡単かもしれません。しかし、もっと具体的な祈りを捧げましょう。

あなたも他の人からそのような祈りを望んでいるでしょうし、私もそのような祈りを必要としているのです。

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申命記

命を与える言葉、命を与えてくださる方

神様はイスラエル人の性格に関して、ご自身をごまかしてはおられませんでした。彼らの不誠実な性格をよく覚えておられ、将来においても彼らが不誠実になることをご存知でした。

だから、神様はモーセに歌を書きなさいと命じられました。なぜならば、イスラエル人が神様に背を向けて苦しい状況に陥った時、その理由が分かるためです。

その歌は、イスラエル人に対する神様の慈しみと、彼らの不誠実さについて書かれたものでした。この歌は、イスラエル人を警告するためのものでした。

しかし同時に、イスラエル人に希望を与えるためでもあります。

神様はこう言われました。

今、見よ。わたしこそ、それなのだ。

わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。

わたしは傷つけ、またいやす。

わたしの手から救い出せる者はいない。(申命記32:39)

けれども、一番印象に残っている言葉は46-47節です。モーセはこう言いました。

あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行わせなさい。

これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。(申命記32:46-47)

つまり、「注意しなさい。この言葉に従えば、命を得ることができます。」

神様は私たちに同じことを語られます。

それは書かれた言葉だけではなく、生きている言葉についてもです。

「生きている言葉」というのはイエス様のことです。

イエス様は神様の本質の完全な現れです。イエス様はこの世に来られ、神様の性格を示し、私たちがどのように神様を喜ばせるか教えてくださいました。

そして、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださいました。

私たちにとって、イエス様の人生の話はむなしいものではありません。そのように考えてはいけません。

イエス様を信じれば、イエス様は私たちに命を与えてくださるからです。

ヨハネはこう記しました。

ことば「つまり、イエス様」は人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ 1:14)

また、

しかし、「イエス様」を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ 1:12)

だから、イエス様をむなしい言葉として考えるのをやめましょう。

イエス様を無視する言葉として見なしてはいけません。

むしろ、あなたの命をイエス様に捧げてください。

そうすれば、イエス様は命を与えてくださいます。

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申命記

インマヌエル

私たちは皆、影響を受けた人がいます。それはお父さんやお母さんかもしれません。先生や友達、もしくは牧師かもしれません。

けれども、結局、彼らはいなくなります。引っ越すかもしれないし、亡くなるかもしれません。

だから、私たちが自分自身に問わなければならないのは、彼らがいなくなったとき、私はどうするのかということなのです。

ヨシュアとイスラエル人もその状況に直面しました。モーセは40年間彼らを砂漠で導いてきましたが、今、モーセは彼らにこう言いました。

私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。(申命記31:2)

ヨシュアとイスラエル人は、それを聞いて何を考えたでしょうか。

おそらく、本当に寂しい気持ちや心配があったでしょう。

「モーセは私たちと一緒に来ないのですか?でも、私たちはどうすればよいのでしょうか。モーセが私たちを導いてくださらないと、私たちは続けられません。」と思ったかもしれません。

しかし、モーセはイスラエル人にこう言いました。

あなたの神、ご自身が、あなたの先に渡って行かれ。。。

強くあれ、雄雄しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。

主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。。。

ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。

主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(3,6,8)

時々、私たちはつらい状況に直面します。登りにくい山に直面します。私たちを跪かせるような試練に直面します。

しかし、モーセはイスラエル人と私たちにこう言います。

「私たちは一人ぼっちではありません。神様は私たちと共におられます。神様は私たちの先を進んでくださいます。そして、神様は私たちを見放すことも、見捨てることもされません。

だから、強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」

イザヤがイエス・キリストの誕生を予言した時、イザヤはこう言いました。

処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ書7:14)

インマヌエルというのは、「神は私たちとともにおられる」という意味です。

神様は、私たちがその真理を心に留めておくことを望んでおられます。私たちは一人ぼっちではありません。決して一人ぼっちではありません。

人々が私たちを見放すことやがっかりさせることがあるかもしれません。けれども、神様はいつも私たちと共におられ、決して私たちを見捨てることはありません。

And the years may come, and the years may go
年は来て、また過ぎ去ります。

Though we may forget somehow
そして私たちは子の真理を忘れてしまう時もあるかもしれません。

That the child once born in Bethlehem is still among us now.
それは、ベツレヘムで生まれた子が、今でも私たちと共におられるということです。

Immanuel, God with us.
インマヌエル――神様は私たちと共におられます。

–エイミー・グラント

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申命記

隠れていない、遠くかけ離れたものでもない

祝福と呪い。

根本的に、それがこの箇所の内容です。

神様が言われたのは、もしイスラエル人が神様を愛し、従うならば、神様が彼らを祝福されるということです。

けれども、彼らが神様に背を向けるならば、呪いが臨むと言われたのです。

この祝福と呪いはイスラエル人だけのためだったので、具体的には説明しませんが、私たちが学ぶことがあると思います。

最初に、イスラエル人がどんなに失敗しても、神様はいつも彼らと和解することを望んでおられました。

30章で、神様が言われたのは、罪によってどんなに悪い状態になっても、神様が彼らと和解するために働かれるということです。

神様は彼らの心の中に働き続けることを約束されました。そして、その働きによって、彼らはもう一度神様に戻り、愛し、従うようになるのです。

神様は私たちのためにも同じことをされます。

私たちが神様からどんなに遠く離れても、神様は私たちとの和解のために働いてくださいます。

二つ目は、神様の道は隠れていないということです。

神様は私たちに何をして欲しいかをはっきりと示してくださいます。神様は私たちが知らないことで罰することはされません。

イスラエルの民は神様の要求をよく知っていました。そして彼らの敵でさえ、その要求を知っていました。

神様はこう言われました。

すべての国々は言おう。「なぜ、はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」

人々は言おう。「それは、彼らの父祖の神、が彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、(申命記29:24-25)

そして、神様はイスラエル人にこう言われました。

隠されていることは、私たちの神、のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。 (申命記29:29)

だから、イスラエル人が罪を犯したときに、言い訳はありませんでした。私たちにも言い訳はありません。

神様はご自身の言葉を示されました。けれども、それだけではなく、その言葉は私から遠くかけ離れたものでもありません。

まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。

これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。

また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。

まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。(申命記30:11-14)

「遠くかけ離れたものでもない」というのは、誰でも神様の御言葉を聞くことができるという意味です。

とはいえ、別の意味では、その言葉は私から遠くかけ離れたものです。つまり、私たちは皆、神様の御言葉に完全に従うことができません。私たちは皆、罪を犯します。

パウロが書いたように、神様の律法は私たちを神様の前に正しくすることはできません。律法は私たちの罪を明らかにするだけです。

けれども、パウロはこの申命記の箇所を通して、イエス・キリストを信じる信仰によって、神様が私たちを義と認めてくださることを教えました。

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。

また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることなのです。

では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:6-10)

だから、私たちは、もはや自分の努力によって義人になろうとしません。むしろ、イエス様の十字架の働きによって私たちは義と認められます。私たちがしなければならないのは信じることだけです。

イエス様はこう言われました。

あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(ヨハネ6:29)

イエス様の御言葉を心に留めておいて、イスラエル人へのモーセの言葉について考えてみましょう。

モーセはこう言いました

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、

あなたの神、を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり(ます)。(申命記30:19-20)

イスラエルの民にとって、その意味は神様の命令に従いなさいという意味でした。

しかし、2000年前に、キリストを通して、神様はご自身を私たちに表してくださいました。

だから、今、命を選ぶことはイエス様を選ぶことなのです。

ですから、イエス様を選びましょう。

イエス様こそ、私たちの命なのです。

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申命記

感謝です

この記事を英語で書いたのは、ちょうどクリスマスの頃でした。

クリスマスの時、私はいつも感謝します。神様の御子のために感謝します。永遠の命の賜物のために感謝するのです。

この箇所を読んだら、私はそのことについて考えます。

神様が命じられたのは、イスラエルの民が産物の初物を神様に捧げるとき、神様が彼らのために何をしてくださったかを思い起こさなければならないということなのです。

つまり、アブラハムを呼ばれ、その人から、大きくて強く、人数の多い国民を作り出されました。そして、その国民をエジプトの奴隷の人生から救い出し、乳と蜜の流れる地を与えてくださいました。

そのことを思い起こした後、イスラエルの人々は産物の初物を神様の前にささげて礼拝しました。

そして、その周囲の人々は神様の慈しみを喜び祝ったのです。

私たちも、その態度を取るべきなのです。

私たちは時間を取って、神様が私たちのためにしてくださったことに感謝をささげるべきです。

しかし、それはクリスマスの時だけではなく、通年そうすべきなのです。

神様が私たちを選ばれたからです。

イエス様をこの世に送ってくださったからです。

イエス様が私たちのために死んでくださったからです。

聖霊様を私たちのうちに臨ませるために送ってくださったのです。

そして、私たちには将来の希望があるのです。

私の教会では歌われていませんが、私は「I’m forever grateful」、つまり、「いつまでも感謝している」という歌が好きです。

You did not wait for me to draw near to you
私があなたに近づくのを待っておられたのではありませんでした。
But you clothed yourself in frail humanity.
むしろ、あなたは弱い人間と同じようになってくださいました。

You did not wait for me to cry out to you.
私があなたに呼びかけるのを待っておられたのではありませんでした。
But you let me hear your voice calling me.
しかし、あなたは私にあなたの声を聞かせてくださったのです。

And I’m forever grateful to you.
私はいつまでも感謝します。
I’m forever grateful for the cross.
十字架のゆえに、絶えず感謝します。

I’m forever grateful to you
私はいつまでも感謝します。
That you came to seek and save the lost.
あなたは失われた人を捜し、救うために来てくださったのです。ーーマーティン・J・ナイストロム

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申命記

正直さ

去年、私は若い女性と面白い会話をしました。営業職における正直さについて話しました。そして、私は尋ねました。

「もし二つの会社があなたの商品を買うために競争していて、彼らの提示額が低すぎたら、どうしますか。」

その女性はこう答えました。「私はその二つの会社に『相手の会社がもっと高い値段を提示した』と言います。」

私はさらに尋ねました。「もし、その二つの会社があなたの嘘に気づいたらどうなるでしょうか。」

「多分、うまくいきません。二つの会社のどことも契約できないでしょう。」

「そして、あなたの上司がその嘘について聞いたら、どう反応するでしょうか。」

「全然気にしないと思います。すべての会社はそうするからです。上司は『残念な状況だけど、ほかのクライアントを見つけられるから、大丈夫』と言うはずです。」

その上司が本当にそう思うかどうかは分かりませんが、神様はそのような考え方を忌み嫌われます。神様はこう言われます。

あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。

あなたは家に大小異なる枡をもっていてはならない。

あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。

すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、は忌みきらわれる。(申命記25:13-16)

とはいえ、この世界には違う意見を持つ人たちがいます。

時々、ビジネスの世界では嘘も方便であると考えられることがあります。それでも、そのようなビジネス慣習に対して、一つのルールがあります。それは、もし嘘が明らかにされたら、それを認めなければならないということです。

数年前、雪印乳業が多くの嘘をつき、その嘘が発見されたため、評判が大きく損なわれました。

食中毒の問題が発生しましたが、その会社はその問題を隠そうとしました。

その後、補助金を得るために、牛肉の出所について嘘をつきました。

さらに、バターの賞味期限を変更し、評判はさらに悪化しました。

私たちが「商売をやる以上嘘は仕方ない」と言うなら、そのような結果を招いてしまいます。

神様はそのような言い訳を受け入れられません。ビジネスの場面でも個人的な関係でも、神様は私たちに正直であることを求められます。

そうしなければ、信頼関係が破れ、あなたの評判が傷つきます。神様の民として、他の人が私たちの正直さを疑うことができないはずです。

パウロはこう書きました。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

職場でも、家庭でも、どこにいても、あなたはどれくらい正直でしょうか。

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申命記

妻(か夫)を喜ばせること

この箇所はとても興味深いです。

この箇所は結婚と離婚についてです。パリサイ人たちはこの箇所を根拠に、妻を離婚することが許されると考えていました。

議論の中心は、「何が恥ずべきことか」という点でした。

私は離婚についてあまり話しませんが、イエス様の言葉を引用します。それは、神様は決して離婚を命令されなかったということです。

しかし、人々の心が固かったため、神様は離婚を許されたのです。

つまり、人々はまず神様に対して心を固め、さらに神様の結婚についての教えに対しても心を固めました。そして、夫と妻は互いに対して心を固め合ってしまいます。

けれども、私にとって一番興味深いのは5節です。神様はこのように言われました。

人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。

彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。(申命記24:5)

神様は結婚の最初の年の大切さをよくご存じでした。

それゆえ、結婚が良い始まりを持つことを望んでおられたのです。

その最後のフレーズが大好きです。「自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」

このフレーズから、私たちは健康的な結婚の鍵を見つけることができます。それは、夫婦がお互いを喜ばせ合おうとする心です。

多くの場合、夫や妻は相手に焦点を当てず、自分自身にばかり焦点を当ててしまいます。その結果、結婚がうまくいかなくなってしまうのです。

相手を喜ばせることなく、相手が自分を喜ばせてくれないことに文句を言うのです。

第1節において、そのような態度が離婚の原因となりました。

人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり。。。

パリサイ人たちにとって、「恥ずべき」ということは、姦淫のことだけを指しているのではありませんでした。料理が上手くない、声が大きすぎる、あるいは以前より美人ではなくなった、ということまで含まれていたのです。

その人のフォーカスはどこにあるのでしょうか。妻を喜ばせることでしょうか。

違います。むしろ、彼のフォーカスは、「私の妻が私を喜ばせてくれない」という自己中心的な考え方です。

そのような態度によって、彼らは妻を離婚しようとしたのです。

ここで、大切なポイントをお伝えしたいと思います。神様は特に夫に、健康的な結婚を守る責任を与えられました。神様は夫に、妻を喜ばせるべきだと命じられました。

では、なぜ神様は夫たちにその命令を与えられたのでしょうか。それは、神様が女性をよく知っておられるからです。神様は女性を応答者として造られたのです。そして、夫が妻を喜ばせると、妻もまた夫を喜ばせようとするのです。

しかし、妻たちがそれに気づかず、また夫が自分自身の幸せにばかり焦点を当てているのを見たら、妻たちは文句を言い始めます。

その結果、夫たちはイライラし、さらに自己中心的になり、愛がますます冷めてしまいます。

結局、その結婚は徐々に悪化し、最終的には離婚に至ることになります。

その一方、もし誰かがこの悪循環を断ち切り、自己中心的な考えを捨てて、相手を喜ばせようとする態度を取ったら、その結婚を守ることができるのです。

もちろん、結婚を守るためには、夫と妻が共に努力しなければなりません。

そして、妻たちも夫を喜ばせる責任があります。また、たとえ夫が妻を喜ばせようとしなくても、妻にはこの悪いサイクルを止める責任があるのです。

けれども、神様は特に夫に、その責任を与えられました。

だからこそ、パウロは夫たちにこの命令を書いたのです。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(エペソ5:25)

キリストは一番最高の夫でした。イエス様は自分自身のことだけを考えずに、教会、つまり私たちのために、すべてを捧げられました。

パウロはこう記しました。

キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25ー27)

夫たち、あなたの結婚に不満がありますか。自分自身に焦点を当てるのをやめましょう。妻に焦点を当て始めてください。自分の幸せではなく、妻の幸せに焦点を当ててください。

そうすれば、あなたの結婚は徐々に良くなり、神様があなたに望んでおられる結婚になるでしょう。

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きよい人生を保つ

この箇所で、神様は衛生に関する法律を制定されました。(下水道システムがなかったため、それは非常に重要でした。)

その法律を通して、神様はイスラエル人にきよさの大切さを教えられました。

神様はこう言われました。

あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。。。

あなたの神、が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。

あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。 (9,14)

私は14節を読んで、本当に印象に残りました。

神様は私たちの中を歩み、私たちをサタンの攻撃から守りたいと望んでおられます。しかし、私たちの陣営、つまり私たちの人生はきよくなければなりません。醜いものや穢れたものがあってはならないのです。

ダビデはこのように言いました。

私は、全き道に心を留めます。
いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。
私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。

私の目の前に卑しいことを置きません。
私は曲がったわざを憎みます。
それは私にまといつきません。(詩篇101:2-3)

多くの人は自分のイメージを守るために人前できよい人生を保とうとします。しかし、自分の家ではどうでしょうか。

自分の家で、正しい心を保っているでしょうか。それとも、心の押し入れの中に醜いものを隠しているのでしょうか。

神様は罪のあるところにおられることはできません

だからこそ、神様は私たちに醜いものを避けるように教えておられるのです。

あなたの心はどうでしょうか。きよいでしょうか。それとも穢れているのでしょうか。

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でも、それは私の責任じゃないよ

「でも、それは私の責任ではありません。」

それは昔からの言い訳です。

カインもそのような言い訳を使いました。神様がカインに、「あなたの弟アベルはどこでしょうか」と尋ねられたとき、カインは答えました。

知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。(創世記4:9)

けれども、神様はその答えを認められませんでした。なぜならば、カインはアベルのために責任があったのに、アベルを殺したからです。

この箇所で、神様は私たちがお互いに対する責任を持っていると教えておられます。

神様はこう言われました。

あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたは同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。

もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。

彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。

すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。

あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。(申命記22:1-4)

私たちの兄弟たちと姉妹たちが助けを必要としているとき、神様は「それは私の責任ではありません」という言い訳を許されません。

神様はそれを私たちの責任とされます。

この箇所で、神様は私たちが周りの人々の持ち物を世話しなくてはならないと命じられました。しかし、そうであるならば、その人々自身も世話すべきではないでしょうか。

ルカ10章で、イエス様の例え話で、サマリヤ人はその態度を取りました。彼は隣人の必要を見たとき、その人を助けたのです。

どうして神様はそのように命じられたのでしょうか。それは、神様が私たちのためにそのようにしてくださったからです。

少し想像してみてください。私たちは罪に溺れ、希望を失い、地獄への道を歩んでいるとします。それを見て、もしイエス様が「それは私の責任ではない」と言われたとしたらどうでしょうか。

けれども、イエス様はそのようには言われませんでした。むしろ、イエス様はご自身を低くされ、天国を出て人間となられ、値しない私たちのために死んでくださいました。

イエス様が私たちのためにそのようにしてくださったなら、私たちはそのようにするべきではないでしょうか。

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私たちのために呪われた人

この箇所で、神様は犯罪者が殺されたとき、その体をどのように扱うべきか教えられました。神様はこう言われました。

もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、

その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。

木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。(申命記21:22-23)

ガラテヤ人への手紙で、パウロはこの箇所を引用しました。

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(ガラテヤ3:13ー14)

もちろん、キリストはご自身の罪のために殺されたのではありませんでした。むしろ、私たちの罪が赦されるために、イエス様は十字架で殺されたのです。

私たちの罪によって神様からの呪いがもたらされました。

しかし、イエス様はその呪いを身に負ってくださり、十字架で私たちの罪のために代価を支払ってくださったのです。

だから、私たちはもう呪われてはいません。むしろ、私たちは神様の祝福を待ち望みます。

それは最高の贈り物でした。

クリスマスの時に、私は「御使いうたいて」という歌を歌うのが大好きです。

最近、歌手がその歌を歌うときに、二つ目のリフレインを歌わないことがありますが、その歌詞がイエス様が来られた理由を説明するので、私は大好きです。

Nails, spears, shall pierce him through
釘と槍はイエス様を刺しました。
The cross be borne for me and you
イエス様は私たちのために十字架を負われました。
Hail, Hail, the Word made flesh
人間になられた神様をほめたたえましょう!
The Babe, the Son of Mary.
マリヤの子よ。

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一人で戦っている?神様と一緒に戦っている?

スポーツでは、大きな試合の前に、監督や選手がチームに向けて激励演説をすることがあります。

おそらく、祭司がチームに激励演説をすることはないでしょう。

ところが、神様は大きな戦争の前に、イスラエル人にそのようにするよう命じられました。

神様はこのように言われました。

あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、

彼らに言いなさい。

「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。

弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。

共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、である。」(申命記20:2-4)

もし誰かが軍隊に激励演説をするのであれば、その人は将軍などの地位にあるはずです。けれども、神様は祭司が話した方がよいと言われました。

それはなぜでしょうか。

おそらく、一つの理由は、イスラエル人の力がどこから来るのかを思い出させるためです。

私たちが大きな問題に直面するとき、本能的にまず一人で解決しようとします。自分の力でその問題に立ち向かうのです。

しかし、それに圧倒されたとき初めて、神様に向かって「助けてください」と叫ぶのです。

私自身もよくそうしてしまいます。

けれども、神様は「最初から私に焦点を当てなさい」と言われます。

また、神様は私たちに「一人で戦う必要はないことを思い出しなさい。私はあなたと共におり、私は勝利を与える」と言われます。

あなたはどうでしょうか。試練に直面するときに、神様を仰ぐでしょうか。神様の力を求めるでしょうか。

それとも、自分自身に信頼するでしょうか。

自分に焦点を当てると、その結果はプライドです。しかし、圧倒されたときには、私たちのプライドは潰れ、恐れ始めます。

プライドも恐れも良くないことです。

ですから、あなたの人生が崩れる前に、神様を求めましょう。

毎日の初めに、神様を仰ぎましょう。神様を信頼しましょう。

そうするなら、神様にあって勝利を得ることができます。

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復讐か正義?

ウサマ・ビン・ラディンが殺されたときに、私は全く泣きませんでした。

実は、彼が亡くなって嬉しく思いました。彼がもういなくなって、この世界はさらに安全になったと考えます。

それでも、ビン・ラディンを殺す方法に対して、私の感情は少し複雑です。私はアメリカが正義のために彼を殺したのか、復讐のために殺したのか分かりません。

ビン・ラディンは軍事目標でしょうか。そうだと考えます。アメリカを攻撃することを計画した時に、ビン・ラディンは軍事目標となりました。

ビン・ラディンを殺さずに、家で捕らえて、裁判官の前に連れて来ることはできなかったでしょうか。

私には分かりません。私には全ての情報がないからです。

「それは正義だ」と言う人もいれば、「それは復讐だ」と言う人もいます。

時々、その境界線は分かりにくいものです。

けれども、この箇所で、神様は原則を与えられます。

神様の律法によれば、もし、誰かが偶然に他の人を殺した場合、特別な都市に行けば安全でした。つまり、殺された人の家族などが、その人を殺してはならなかったのです。

この律法によって、神様は正義の名のもとに、人が他の人を殺すことを阻んでくださいました。

時々、私たちは怒るときに、何が正義か分からなくなることがあります。だからこそ、冷静になるための時間が必要です。その都市は、人々にその時間を与えました。

復讐したい人たちは、その人が意図的に殺人を犯したのではなく、死に値しないことを理解することができるのです。

しかし、神様はさらにもう一つの原則を与えられます。神様は言われました。

いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。(申命記19:21)

つまり、罰は犯した罪と同等であるべきです。

例えば、誰かがあなたを少しだけ怪我させた場合、その人を殺してはなりません。その人を殺すと、それは正義ではありません。それは復讐です。

本当の正義によって裁くなら、犯した罪に対して相応の罰を与えられるはずです。

多分、ビン・ラディンの死はその二つの原則と一致していました。彼は意図的に人々を殺しました。偶然ではありませんでした。だから、彼は犯した罪に対して相応の報いを受けたのです。

とはいえ、もっと良い方法があったのでしょうか。私には分かりません。

けれども、心に留めておきましょう。いつか、神様はその行動を裁かれるのです。

自分の行動が復讐か正義かを考えるとき、そのことを忘れてはなりません。

私たちは皆、神様のみ前で自分のことを申し開きすることになるのです。(ローマ14:12)

そして、神様はあなたを裁かれます。だから、行動する前に、私たちは裁きの日に神様に何を申し上げるか考えなくてはならないのです。

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申命記

偽の預言者、本当の預言者、最高の預言者

私たちの時代にも、多くの偽預言者がいます。

イエス様が「誰も私がいつ帰るか知らない」と言われたにもかかわらず、その偽預言者たちはイエス様の帰る日を予言します。

もし、あなたが十年後にこのブログを読んだとしても、その時にも偽預言者の存在に気づくことでしょう。

しかし、預言者とは未来の出来事を予言するだけの人ではありません。

彼らの最も重要な責任は、神様の言葉を伝えることです。

多くの偽預言者は、神様の名前を用いてメッセージを伝えますが、そのメッセージは神様からの言葉ではありません。

では、偽預言者と本物の預言者をどのように区別できるでしょうか。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

あなたの心の中で、「私たちは、が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。

その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。(申命記18:21-22)

その言葉によって、モルモン教の設立者であるヨセフ・スミスと、エホバの証人の設立者であるチャールズ・ラッセルは偽預言者であると言えます。

さらに、神様は申命記13章で、「預言者」が奇跡やしるしを行うとしても、それだけでは預言者である証拠にならないと教えられています。

神様はこう言われました。

あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。

あなたがたの神、【主】は、あなたがたが心を尽くし、いのちを尽くして、本当にあなたがたの神、【主】を愛しているかどうかを知ろうとして、あなたがたを試みておられるからである。(申命記13:1-3)

だから、偽の神々を述べ伝える人は偽預言者です。また、「主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとする人」も偽預言者です。(申命記13:5)

神様の名前によって語る人々の多くは、モーセの時代に生きていなくて本当によかったと思います。なぜなら、その時代に生きていたら、すでに裁かれて殺されていたかもしれないからです。

そのため、誰の言葉に耳を傾けるべきか、そして私たちが神様の名前によって何を語るべきか、気を付けなければなりません。

しかし、イスラエルには多くの真の預言者がおり、その後、神様は最も偉大な預言者をお送りになりました。

モーセはこう言いました。

あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。。。

わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。

わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。(申命記18:15,18-19)

その人はイエス様でした。イエス様は天の父の言葉を伝え、天の父を表してくださいました。ただ言葉で表されたのではなく、行動を通しても表されました。

さらに、神様はこう言われました。「イエス様に従わない者がいれば、わたしが彼に責任を問う。」

また、イエス様はこう言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

あなたはどの預言者に従っているでしょうか。

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申命記

リーダーシップ

あなたは、「私はリーダーではない。誰も私に従わないのです」と言うかもしれません。

それはその通りかもしれませんが、時には神様があなたの人生に人を送り、「その人を導きなさい」と言われることがあります。

もしあなたが親であれば、あなたはリーダーです。神様はあなたを子供を導くために呼ばれました。

もしあなたが夫であれば、神様はあなたを家族を導くために呼ばれました。

さらに、職場で後輩がいるなら、あなたはリーダーです。

この箇所で、神様は私たちにリーダーシップについて教えておられます。リーダーとして、私たちはこのことを覚えておかなければなりません。

1つ目のポイントは、私たちには神様に対する責任があるということです。

そのため、神様はイスラエルの民にこう教えられました。

「あなたが選んだ王は私の律法を書き、それを読み、従わなければならない。」

なぜなら、王であっても神様に応えなければならないからです。

同じように、私たちも神様に応える責任があります。

ですから、リーダーとして、人々をどのように扱うか、またどのように生きるかに注意しなければなりません。

実際、リーダーとして、それに関して私たちには他の人々よりも大きな責任があるのです。

2つ目のポイントは、リーダーとして他の人々より高い地位にあったとしても、自分がその人々より偉いと思ってはいけないということです。

私たちが持っているものはすべて神様から来ています。私たちの権威も神様から与えられたものです。ですから、私たちは他の人々を尊敬しなければなりません。

3つ目のポイントは、自分自身に楽な人生を与えるために権威を使ってはいけないということです。

私たちの目的は誰かに仕えてもらうことではなく、他の人々に仕えることにあります。(マルコ10:45)

最後のポイントは、神様が私たちを導いてくださるように、私たちも他の人々を導くべきだということです。

神様はイスラエルの王たちにこう命じられました。

「イスラエルの民をエジプトに導いてはならない。この土地に留まらなければならない。」

同じように、私たちは勝手に行きたい所に行ったり、やりたいことだけを行うわけにはいきません。むしろ、私たちは神様の導きに従わなければなりません。

そうすれば、私たちは他の人々を正しい道へ導くことができます。

あなたはどうでしょうか。

良いリーダーでありたいと願っているでしょうか。

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祝い

年末には、多くの日本人が忘年会に参加します。

ある日、私はある女性と話していて、その人は「今週、6つのパーティーに行くよ」と言いました。

私はおそらく一年間でも6つのパーティーに行くことはないので、少し驚きました。

けれども、年末とお正月は祝う時です。それは素晴らしいことです。

何度も、この箇所で神様はこう言われます。「喜びなさい。」

日本語の聖書ではそうは見られないかもしれませんが、英語の翻訳では「祝いなさい」という表現が繰り返されています。

クリスチャンは喜びにあふれる人であるべきです。それを常に心に留めなくてはなりません。私たちは十年間もレモンを吸っているような顔をしていてはいけません。

私たちは喜ぶべきです。

何のために喜ぶべきでしょうか。

1つ目の理由は、私たちの救いのためです。

ユダヤ人は過越の祭りを祝うとき、救いを思い出しました。つまり、神様は彼らをエジプトから救い出されました。

エジプトでは、彼らは奴隷でした。そして、多くの人が殺されました。しかし、神様は彼らを救い出されたのです。

私たちもまた救われました。2千年前に、イエス様は赤ちゃんとして来られ、人間となられました。そして、十字架で私たちの罪のために死なれ、復活されて、死に打ち勝たれました。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ14:19)

2つ目の理由は、神様の備えに感謝することです。

収穫の時、イスラエルの民は神様の慈しみにあふれて喜びました。

そのように、私たちも神様の備えに感謝し、喜ぶべきです。つまり、家族や友達、食べ物や家など、私たちの日常生活において与えられているものに感謝するのです。

ですから、どのような状態にあっても、祝うことを覚えていてください。なぜなら、どんな苦しみや悩みを経験しても、私たちは喜びを見いだすことができるからです。

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申命記

開いている手

この箇所から、神様が私たちにどのような人になることを望んでおられるかが分かります。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

あなたの神、があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったんら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。

進んであならの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。

あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。

その人があなたのことでに訴えるなら、あなたは有罪となる。

必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。

このことのために、あなたの神、は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。

貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。

「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」(申命記15:7-11)

その後、神様は奴隷を解放することについて主人たちに命じられました。

彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。

必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。

あなたの神、があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。(13-14)

開いている手。

心に未練を持たずに与えなさい。

気前の良い人。

私たちは、そのような人になるべきです。

なぜでしょうか。それには2つの理由があります。

1つ目の理由は、神様が私たちを祝福してくださったからです。そして、神様はこう言われました。

「私があなたに与えたものを使って、周りの人々を祝福しなさい。」

2つ目の理由は、私たちが周りの人々を祝福すると、私たち自身もさらに祝福されるからです。

パウロはこう言いました。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。。。

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。(第二コリント9:8、10-11)

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申命記

神様の慈しみにあって喜ぶこと

この箇所で、神様は什一献金の目的について語っておられます。

その理由は非常に興味深いものです。

あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。(申命記14:22)

どうしてでしょうか。

それは、イスラエルの民が、誰がその食物を与えたのかを思い出すためでした。

イスラエルの民は、その食べ物を神様が選ばれた礼拝の場所に持って行き、それを食べながら神様の慈しみを祝いました。

私たちも什一献金を捧げるときに同じ態度を持つべきです。つまり、私たちが捧げるときに、神様の慈しみを心から祝うべきです。

とはいえ、私は気をつけないと、什一献金が税金のように感じることがあります。それは、かなり辛い税金のようになってしまいます。

什一献金を捧げるときに、神様の慈しみを祝うことを考えたことはありませんでした。

しかし、それこそが本来の姿であり、そうすべきなのです。

神様、私が什一献金を捧げるときに、その理由を忘れないように助けてください。

什一献金を捧げるのは、あなたの慈しみを祝うためです。

あなたはいつも私の必要を備えてくださり、それ以上のものを備えてくださることを感謝します。

どうか、私が決して渋々捧げることがないように助けてください。むしろ、いつもあなたの慈しみを覚え、それを感謝する心を持たせてください。

あなたの慈しみを心から感謝します。アーメン。

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申命記

見るのに、信じるべきではないとき

「私は見ると信じる。」

アメリカ人は何か信じられない時に、その表現をよく使います。

西宮で台風の警告が出るとき、私はいつもそう思います。

どうしてでしょうか。台風は西宮にほとんど来ないからです。西宮において台風とは、少し強い風が吹いて、少し雨が降る程度のものです。

もし私が和歌山や沖縄に住んでいたら、もっと心配するかもしれません。でも、西宮の人々がなぜそんなに心配するのか、私には分かりません。

信仰に関して、時々人々は「物理的な証拠があれば、私は信じる」と言います。

イエス様の弟子トマスもそのような人でした。英語では、彼は「Doubting Thomas」、つまり「疑い深いトマス」と呼ばれています。

しかし、時には、目にしても信じるべきではないこともあります。

モーセはこの箇所でこう言いました。

あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。

あなたがたの神、は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうにあなたがたの神、を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。(申命記13:1-3)

モーセがその言葉を言ったとき、エジプトの呪法師たちのことを考えていたかもしれません。

モーセがパロのもとに行った時、多くの奇跡を行いました。ところが、パロの呪法師たちが自分たちの奇跡を行ったため、パロはモーセの言葉に従いませんでした。

だからモーセが伝えたかったことは、超自然的な力を持つ存在が神様だけではないということです。サタンや悪霊も超自然的な力を持っています。

そのため、奇跡やしるしを見ても、それらが神様から来たと決めつけてはいけません。

私たちが自分に尋ねるべきことは、「この奇跡はどこから来たのでしょうか」ということです。神様から来たのでしょうか。サタンから来たのでしょうか。」

それ以外の可能性はありません。

では、どうやって見分けることができるのでしょうか。

2節に答えが記されています。

もし、奇跡を行っている人が偽の神々を述べ伝えているなら、その力はサタンから来ています。

また、その人が聖書に反することを述べ伝えているなら、その人の力はサタンから来ています。

さらに、その人が神様が禁じられたことを教えているなら、その力もまたサタンから来ています。

いつか反キリストが現れる時が来ます。その時、彼はしるしと奇跡を行い、多くの人々を驚かせるでしょう。(黙示録13:11-14;マタイ24:24)。

しかし、それらのしるしと奇跡は神様から来たものではありません。それらはサタンから来たものです。

それでも、多くの人々はその奇跡を目にすることで反キリストを信じ、騙されてしまうのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。

奇跡だけを見て判断するのではなく、自分に問いかける必要があります。

「彼らは何を教えているのでしょうか。その教えは聖書に基づいているでしょうか。その教えは神様の言葉に反していないでしょうか。また、その教えは聖書だけに基づいているでしょうか。

それとも、その人は他の宗教の教えも取り入れているのでしょうか。」

時々、クリスチャンの中には、創価学会の奇跡を見て「私たちもその原則を使えるのではないか」と考える人もいます。

けれども、それは絶対に避けるべきことです。

もちろん、そのようなグループで奇跡が起こることもありますが、その力がどこから来たのかを考えるべきです。「霊的な原則から来た」のでしょうか。それとも、サタンから来たのでしょうか。

ですから、心に留めましょう。時には、目にしても信じるべきではないことがあります。

だからこそ、パウロはこう言いました。

すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

悪はどんな悪でも避けなさい。(第一テサロニケ5:21-22)

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神様の方法で礼拝する

「どうして、天国に行くのにはたくさんの方法がないのでしょうか。どうして、一つの方法しかないのでしょうか。」

多くの人々はクリスチャンにそのように尋ねます。

理由はたくさんありますが、最も重要な理由は、この箇所に書かれています。

神様はこう言われました。

彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。

ああなたがたの神、に対して、このようにしてはならない。(申命記12:3ー4節)

そして、神様は言われました。

あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。(8節)

その後、神様はイスラエルの民に詳しく礼拝する方法を教えられました。

この話から私たちは重要な教訓を学ぶことができます。

神様はすべての種類の礼拝を受け入れられるわけではありません。

私たちが良い礼拝の方法だと思っても、神様がそれを受け入れられない場合もあります。

31節で、神様はこう言われました。

あなたの神、に対して、このようにしてはならない。

彼らは、が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。

もちろん、私たちはその話を聞いて、そのような礼拝はひどいと思います。

けれども、その時代には、イスラエル周辺の国々で多くの人々がそのようなことを行っていました。その人々は、それらの行いを良いことだと考えていました。戦争の時や、良い収穫を望む時に、神々の助けを得るために、祭壇で子供を焼いたのです。

私たちのこの時代においても、神様は多くの礼拝の方法を忌み嫌われることがあると思います。

日本では多くの人々が仏壇に食べ物などをささげていますが、神様にとってそれは忌み嫌うことです。

そうすると、パウロの教えによれば、私たちは悪霊と交わっていることになります。

第一コリント10:20−21には、次のように書かれています。

いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。

私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。

時々、クリスチャンもそのようなことをします。けれども、神様はそれを受け入れられません。

中にはタロットや占星術を行い、「大丈夫だ」と思うクリスチャンもいます。

しかし、神様はそれを禁じておられます。(申命記18章9-14、イザヤ書47:13-15)

神様が教えられなかった方法で礼拝することは、本当の礼拝とは言えません。

「私は神様を礼拝している」と言っても、そのような行いをしているならば、神様はそれを受け入れられません。

イエス様はこう言われました。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:24)

私たちは霊によって礼拝しなければなりません。

神様は礼拝の方法だけが重要だと思っておられるわけではありません。神様は私たちの心と魂を求めておられます。

さらに、私たちはまことによって礼拝しなければなりません。つまり、神様がご自身を表されたように、私たちは礼拝しなければなりません。

神様は御言葉を通してご自身について教えてくださったので、その真理に基づいて神様を礼拝しなければならないのです。

もし私たちが神様の御言葉に反して礼拝しようとするならば、神様はその礼拝を受け入れられません。なぜなら、それはまことによる礼拝ではないからです。

あなたはどうでしょうか。神様の方法で礼拝していますか。

それとも、あなたの勝手な方法で礼拝しているのでしょうか。

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申命記

神様から引き離すもの

目に見えない神様に従うことは、時に難しいものです。

その一つの理由は、私たちが見えるものに引き寄せられるからです。

私たちは趣味に引き寄せられることがあります。

特定の彼や彼女に引き寄せられることもあります。

お金や持ち物に引き寄せられることもあります。

それらのものに引き寄せられるのは簡単です。なぜならば、それらが私たちの目の前にあり、私たちはそれらを見ることも、触れることもできるからです。そして、それらによってすぐに満足するようになるからです。

それら自体は悪いものではありません。

しかし、時には私たちにとって神様よりも大切になってしまうことがあります。

そのことを神様はご存じだったので、イスラエルの民にこう言われました。

気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことがないように。(申命記11:16)

イスラエルの民にとって、「神々」とは、周囲の国々が礼拝していた偶像のことでした。

私たちにとっての「神々」は、多分、お金、力、セックスといったものかもしれません。多くの人々は、それらによって神様から引き離されてしまいます。

使徒の時代も同じでした。パウロはデマスという人物について、こう記しました。

デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまいました。(第二テモテ4:10)

デマスは以前、パウロのミニストリーに参加していました(コロサイ4:14;ピリピ1:24)。

しかし、結局彼の心は迷い、横道にそれてしまいました。

理由は分かりません。お金が原因だったかもしれませんし、持ち物への欲望が原因だったかもしれません。

けれども、最終的にデマスはパウロを捨て、神様をも捨ててしまいました。

私たちも気を付けなければ、同じことが起こるかもしれません。

そのため、モーセはイスラエルの民に言いました。

あなたがたは、私のことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。

これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

それは、があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。(申命記11:18-21)

つまり、心と思いと魂の中で、神様を中心にするべきです。

何をしていても、どこに行っても、どこに居ても、あなたの人生の中心には神様があるべきです。

そして、あなたの子供にもそのことを教えなくてはなりません。そうすることで、この世界によって神様から引き離されることを防ぐことができます。

あなたは何を追いかけていますか。誰を追いかけていますか。

この世界のものを中心に据えていますか。

それとも、すべてよりも神様を中心にしているでしょうか。

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神様に愛された

この箇所を読んだ時に、15節は本当に印象に残りました。

は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。

そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。(申命記10:15)

アブラハム、イサク、そしてヤコブは、決して完璧な人たちではありませんでした。

イスラエルの民もまた完璧ではありませんでした。何度も文句を言い、神様に反抗しました。

それでも、神様は彼らを恋い慕われました。

時にはイスラエルの民に怒りを覚えられることもありましたし、時には懲らしめることもありました。

それでも、神様の愛は決して変わることなく、神様はイスラエルの民を恋い慕い続けられました。

この箇所を読むと、私には希望があります。それは、私自身も罪を犯し、失敗するからです。

もし私が神様だったら、きっと自分を諦めてしまうと思います。しかし、神様は私を恋い慕い続けておられます。

神様はあなたのことも恋い慕っておられます。

それを聞いた時、私たちはどのように反応するべきでしょうか。

神様はこう言われました。

イスラエルよ。今、あなたの神、が、あなたに求めておられることは何か。

それは、ただ、あなたの神、を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じるの命令と主のおきてとを守ることである。(12ー13節)

つまり、神様に愛されているからこそ、私たちは神様を恐れ、愛し、支えにし、従いましょう。

それは神様の愛を得るためではありません。

神様はすでに私たちを愛しておられます。神様はすでに私たちを恋い慕い、私たちを選んでくださっています。

むしろ、神様が私たちを愛してくださっているからこそ、私たちはその愛に応えるべきです。

モーセの時代もそうだったように、今もそれは変わりません。

毎日、神様の愛に応えて生きていきましょう。

私たちは愛しています。

神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)

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とりなし

以前、私は「もし私がモーセなら、イスラエルの民を導くことに耐えられないだろう」と言いました。

おそらく、多くの牧師たちは、人々を導くことがどれほど難しいかを理解しているため、モーセに同情するでしょう。

モーセは時々腹を立てました。時には本当にイライラさせられることもありました。

それでも、モーセはイスラエルの民への愛を決して失うことはありませんでした。

何度も何度も、イスラエルの民が罪を犯した時に、モーセは彼らのために祈りました。

何度も何度も、神様が彼らを裁くと決められた時に、モーセは神様とイスラエルの民の間に立ち、神様の恵みとあわれみを求めて祈りました。

もちろん、クリスチャンのリーダーたちには、このような心が必要です。

けれども、すべてのクリスチャンも、周りの人々に対してこのような心を持つべきです。

時には、人々が私たちをいら立たせることがあります。

時には、人々が私たちを怒らせることがあります。

時には、人々が私たちを傷つけることがあります。

そして、「神様、どうか彼らを裁いてください。彼らが受けるべき罰を与えてください。私はもう耐えられません」と祈るのは簡単なことです。

しかし、モーセが値しない人々のために祈ったように、私たちも同じことをするべきです。

多くの場合、問題の根本は、相手の霊的な目が見えないことにあります。サタンが彼らの思いをくらませることもありますし、多くの場合、人々自身が自分の思いをくらませていることもあります。

その結果、彼らは私たちをイライラさせたり、怒らせたり、傷つけたりします。

もちろん、彼らは神様の裁きを受けるに値します。

けれども、私たちも神様の裁きを受けるに値します。そして、私たちが神様をイライラさせたり、怒らせたり、傷つけたりする時には、神様のあわれみを求めます。

同じように、私たちは他の人々のためにも神様のあわれみを求めるべきです。

神様が彼らの霊的な目を開かせてくださるよう祈るべきです。そして、彼らが悔い改め、神様が彼らを赦し、癒してくださるよう祈るべきです。

それは決して簡単なことではありません。

けれども、イエス様はまさにそのようなお方でした。

9年ほど前に「パッション」という映画を見ました。

その中の一つのシーンが印象深く残っています。イエス様が十字架にかけられた時、山上の垂訓のフラッシュバックがありました。その時、イエス様はこう言われました。

「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタイ5:43ー45)

十字架の上で、イエス様はご自身の言葉に従われました。イエス様を迫害し、殺そうとしている人々のために祈られたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたを怒らせる人のために祈ることができますか。

あなたをイライラさせる人のために祈ることができますか。

あなたを傷つける人のために祈ることができますか。

彼らに対して、神様のあわれみを求めて祈ることができますか。

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信頼

自立。

私の父は多くのことを教えてくれましたが、その中でも特に、どうやって自立するかを教えてくれました。

兄や姉が同じ意見を持っているかどうかは分かりませんが、おそらく賛成していると思います。

とはいえ、自立は両刃の剣のようなものです。

すべての親が、自分の子供が成長して自立することを望んでいますが、極端な自立は孤立につながる可能性があります。それは良いことではありません。

なぜなら、誰も100%自立するために創造されてはいないからです。どうしても、この人生で全く一人で生きることはできません。

私たちは互いを必要としています。そして、それ以上に、私たちは神様を必要としています。

神様はイスラエルの民にこれを教えようとされました。

神様はこう言われました。

あなたの神、が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人はの口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。

あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、があなたを訓練されることを、知らなければならない。(申命記8:2-5)

イスラエルの民が荒野を通ったとき、神様が彼らに教えようとされた大事なことの一つは、彼らが神様を必要としているという事実でした。

時々、神様は彼らが飢えることや喉が渇くことを許されました。けれども、結局は神様がイスラエルの民のすべての必要を備えられました。彼らの服もボロボロになりませんでした。(私の服もそうだったら良いのに、と思います。)

しかし、彼らを神様が約束の地に導かれる前に、神様は警告を与えられました。

あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。

あなたの神、を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。(17-18)

私たちは何かが必要な時に神様を思い出すことは簡単です。けれども、すべての必要が満たされた時には、神様が必要であることを忘れてしまいやすいものです。

私たちが給料を得るために、神様が力と才能を与えてくださったことを忘れるのは簡単です。むしろ、自分の努力だけを通して成功したと思い始めることもあります。

その結果、神様を信頼するのではなく、自分自身に頼り始めてしまいます。

しかし、私たちは自分自身を信頼人生のために造られたわけではありません。

私の父もこのことを学ばなくてはなりませんでした。父は過度に自立を追求したために、100%神様を信頼することができませんでした。

けれども、父の目が見えなくなった時に、その重要なレッスンを学びました。つまり、父は神様と他の人々を必要としていたのです。盲人となったことで、自立した人生を送ることは不可能になりました。

私はまだそれを学んでいる最中です。

父から自立についての教えを受けたことに感謝しています。その教えによって私は大人になることを学びました。

しかし同時に、その教えは私の霊的な成長を妨げるものとなりました。神様を信頼せずに、私は自分自身を信頼するようになりました。

神様が「信仰によって踏み出しなさい」と言われても、私は踏み出しません。なぜなら、本当に神様を信頼できるかどうかが分からないからです。

だからこそ、父と同じように、私も信頼について学ぶ必要があります。

神様、私があなたを信頼することができるよう助けてください。

あなたを信頼するよう導いてください。あなただけが必要であることを思い出すようにしてください。私があなたを信頼し、あなたに従うことができるよう助けてください。

そして、私があなたの口から出るすべてのもので生きることができますように。

父から自立の意味を学んだことに感謝します。けれども、天のお父様、あなたを信頼することを教えてください。アーメン。

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問題があなたより大きいとき

私の人生を振り返ると、神様がどれほど多くの問題を解決してくださったかに驚かされます。

例えば、日系ビザを申請した時のことです。日系三世の人ならビザを受けられますが、証拠が必要です。

私の場合、祖父の戸籍が必要でした。問題は、その戸籍がどこにあるかが分からなかったことです。私の母もその場所を知りませんでした。

ですから、どうやってその戸籍を見つければいいのだろうかと悩みました。

また、他にもいくつかの書類が必要でした。私の出生証明書や、両親の出生証明書、両親の結婚証明書などです。

母はそれらすべてを持っていたので、私に送ってくれました。そして、もう一つの書類も送ってくれました。それは祖父のパスポートでした。

母はそのパスポートを送った理由は分かりませんでした。ビザ申請には必要なかったですし、私は頼んだ覚えもありません。

ところが、私の日本人の友人がそのパスポートを見て、「あ、お祖父さんの出身地が書いてあるよ」と教えてくれました。

それですぐに戸籍を見つけることができ、ビザを取得しました。

イスラエルの民にも大きな問題がありました。

神様が約束された土地をどうやって受け取るのか、彼らには全く分かりませんでした。なぜなら、その土地にはイスラエルの民よりも強く、大きな人々が住んでいたからです。

しかし、神様は言われました。

あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう」と言うことがあれば、

彼らを恐れてはならない。あなたの神、がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。

あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、は、あなたを連れ出された。

あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、が同じようにされる。

あなたの神、はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。

彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。(申命記7:17-21)

つまり、「もちろん、その国々の人々は、あなたより強いですが、私は彼らより強いのです。

恐れることはありません。怯えることもありません。

以前、私がどのようにあなたを救ったかを思い起こしなさい。今でも、私はあなたを救います。私は大いなる恐るべき神であり、あなたの問題を解決します。」

そして、神様は言われたとおりにイスラエルの民を助けられました。

神様は私たちにも同じことを言われます。

私たちが大きな問題に直面して、どうすればいいか分からないと考えるときに、神様は言われます。

「もちろん、その問題はあなたより大きいですが、以前、私があなたのために何をしたか思い起こしなさい。私が大いなる恐るべき神であり、どんな問題があっても、あなたを助けることができることを思い起こし、私に信頼しなさい。」

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次の世代に伝えよう

私の教会では「Pass it On(次の世代に伝えよう)」という曲を歌っています。

その歌詞は以下の通りです:

すべての世代は
あなたの素晴らしい力と御業をその子供たちに伝えます。
彼らはあなたの忠実さと栄光についての話を伝えます。

そして、私たちは次の世代に、
あなたが怒るのにおそく、恵みに富んでおられることを伝えます。
それは、すべての人々が
あなたの御業を祝うためです。

あなたに栄光と誉れと賛美を捧げます。
私たちは一緒に次の世代にあなたの素晴らしい道を伝えます。

私は子供のミニストリーを約7年間行ってきたので、この箇所が本当に印象深く残っています。つまり、私たちは次の世代に神様についての知識を伝えなければなりません。

そうすることで、彼らも神様を知り、信仰を持つことができるようになるからです。

神様はイスラエルの民にそのように命じられました。

後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。

「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。

は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、

私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。

それで、は、私たちがこのすべてのおきてを行い、私たちの神、を恐れるように命じられた。

それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。

私たちの神、が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」(申命記6:20-25)

残念なことですが、イスラエルの民はそれをしませんでした。その結果、次の世代が成長したときに、偶像礼拝や他の罪に陥ってしまいました。(士師記2:10-13)

あなたはどうでしょうか。あなたの子供が神様を知るために、何を伝えていますか。私たちの神様についての知識や私たちの経験、そして神様が何をしてくださったかを、私たちの子供たちに伝えていますか。

その責任を他の人に渡すのは簡単です。特に日曜学校の先生たちにその責任を渡すのは簡単です。

何も言わずに、ただ私たちの子供がイエス・キリストを知ることを願うだけのこともあるでしょう。

先生は本当に大切な存在だと思います。しかし、神様は両親たちにその責任を命じられました。それは、神様から与えられた大切な責任です。

もし私たちがその責任を避けて、他の人たちに任せてしまったら、私たちの子供が神様から離れてしまうことに驚けるでしょうか。

ですから、神様から任された責任をしっかり果たして、私たちの子供たちに教えましょう。

神様について教えましょう。神様が私たちのために何をしてくださったのかを教えましょう。

そして、彼らがどのように神様との関係を持つことができるのかを教えましょう。

そうすれば、私たちの子供たちも神様を知る機会を得られるのです。

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一番大切な戒め

前回の記事で、私たちが神様の命令に従う理由についてお話ししました。けれども、振り返ってみると、私の答えはまだ不完全だったように感じます。

もちろん、一つの理由は、神様が私たちのために最善を望んでおられ、私たちが神様の命令に従うと祝福を受けることができる、という点です。

しかし、もう一つの重要な理由があります。そしてその理由こそ、私たちが神様の命令に従うことの基礎となるものです。

モーセはこう言いました。

聞きなさい。イスラエル。は私たちの神、はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。(申命記6:4ー5)

イエス様は「それは一番大切な戒めだ」と言われました。では、どうしてこれは一番大切な戒めなのでしょうか。それは、私たちが神様を愛すれば、自然と神様の戒めに従いたいと願うようになるからです。

例えば、カップルがお互いに愛し合っていると、相手を喜ばせたいと思い、それが決して重荷ではありません。むしろ、相手の反応を見て、心から喜びを感じるでしょう。

花やプレゼントを渡す時には、本当に楽しみになりますし、料理を作ったり、掃除をしたりすることも、(まあ、大抵の場合)重荷には感じないのです。

もし私たちの動機が愛であれば、自然に相手を喜ばせたいと願うものです。

神様との関係においても同じことが言えます。私たちが心から神様を愛しているなら、神様を喜ばせたいと願い、また、神様を傷つけたくないと思うのです。

私自身も時々、愛している人々を傷つけてしまうことがあります。それはわざとではなくても、結果的に傷つけてしまったということです。

けれども、相手の気持ちを知った時、自分の行動や態度を変えました。それは、相手を愛しているからこそ、もう傷つけたくないと思ったからです。

私たちが罪を犯す時、神様を傷つけてしまいます。だからこそ、本当に神様を愛しているならば、そのことに気づいた時には、そのような行動を避けたくなるはずです。

もちろん、私たちは「決して失敗しない」「決して罪を犯さない」とは言えません。なぜなら、私たちは皆、罪を犯す者だからです。

しかし、私たちにとって、「神様は私を赦してくださるから、罪を犯し続ける」という考え方は、余地がありません。

その態度は、まるで「妻は私を赦してくれるから、不倫をしてもいい」という考え方のようなものです。

もし私たちが妻を本当に愛しているならば、妻の気持ちを無視して不倫をすることは、決してできないはずです。

同じように、私たちが本当に神様を愛しているならば、神様の気持ちを無視して罪を犯すことはできません。

では、どうして私たちは神様に従うのでしょうか。

その一番大切な理由は、私たちが神様を愛しているからです。

イエス様はこう言われました。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。(ヨハネ14:21)

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どうして神様に従うべきですか?

去年、私の娘は、いつも何かを指さして「これは何ですか?」と尋ねていました。

私は英語の言葉を教え、妻は日本語の言葉を教えました。娘がバイリンガルになることを望んでいるからです。

けれども、娘が「どうして」と尋ね始めることを、まったく楽しみにしていません。

「これは何?」という質問は、「どうして?」という質問に比べて答えやすいです。

「どうして?」という質問に答えるのは、時々少し面倒に感じることもあります。

やがて、娘は私たちのルールの理由を知りたいと思うようになるかもしれません。そして、いつも「どうして?どうして?」と尋ね続けるかもしれません。

そのような時、「私がそう言ったから」という答えが最も簡単に感じるかもしれません。

けれども、神様はそうなさらないのです。

この箇所で、モーセはイスラエルの民に神様の命令について話しました。

その際、神様はその命令の理由についても伝えられました。

神様はこう言われました。

どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。(申命記5:29)

後で、モーセはイスラエル人に言いました。

あなたがたは、あなたがたの神、が命じられたとおりに守り行いなさい。

右にも左にもそれてはならない。 あなたがたの神、が命じられたすべての道を歩まなければならない。

あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。(32ー33節)

神様は決してご自分勝手な規則を設けられることはないのです。

また、理由のない命令を与えられることもないのです。

むしろ、神様の最大の望みは、私たちの人生がうまくいくことであり、私たちがいつもしあわせに生きることなのです。

時には、神様がある命令を与えられる理由がわかりにくいことがあります。

しかし、神様に従うなら、最終的に私たちの人生は良い方向へ導かれます。

今はその理由がわからないかもしれませんが、後になって理解できることもあるでしょう。

ですから、「どうして」と問いかけたい時には、その理由を思い出してください。

それは、神様が私たちを愛し、私たちのために最善を望んでおられるからです。

それを信じますか?

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信仰の出発点

私にとって、この箇所の言葉は非常に印象的です。

きょう、あなたは、上は天、下は地において、だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心を留めなさい。(申命記4:39)

これは、信仰の出発点なのです。

この言葉を告白すること自体で信仰が完全になるわけではありませんが、その告白こそが信仰の始まりなのです。つまり、神様が存在することを認め、告白することが、信仰の第一歩となります。

ヘブル書11章6節にはこうあります。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

これが信仰の出発点ですが、神様が存在することを信じるだけでは十分ではありません。他に神がいないことを信じる必要があります。

仏陀が神であると信じてはいけません。アッラーが神様の名前だと信じてもいけません。

私たちは、神様がご自身をどのように表されたのかをそのまま信じなければならないのです。

皆さんは、象と盲人たちの話を聞いたことがあるかもしれません。

ある盲人は象の鼻に触れて、「象は蛇のようだ」と言いました。

もう一人の盲人は象の足に触れて、「いいえ、違います。象は木の幹のようだ」と言いました。

全ての盲人は象の異なる部分に触ったため、それぞれ異なる意見を持ちました。

この話が伝える教訓は、盲人たちはそれぞれ少しずつ正しかったものの、最終的には誤った結論に至ったということです。彼らは真実を部分的に理解しましたが、完全には理解できませんでした。

宗教もこれと似ています。

すべての宗教は神様についての真実を部分的に知っていますが、異なる視点や考え方を持っています。

すべての宗教が少し正しい一方で少し間違っているという点では似ていますが、同じ神様について教えようとしています。

しかし、この話には問題があります。

その盲人たちが誤った理由は、象が話せなかったことにあります。象は、「違う、違う。あなたたちは間違っています。私はこういう動物です」と言うことができませんでした。

ですが、神様はイスラエルの民にご自身を表してくださいました。彼らは推測する必要がありませんでした。

神様はこう言われました。

さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。

神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。

あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。

あるいは、あなたがたの神、が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。

あなたにこのことが示されたのは、だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。

主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。

主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出した。

それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地に入らせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。(申命記4:32-38)

神様がご自身を表されたので、イスラエルの民には言い訳ができませんでした。神様ははっきりとご自身を説明されました。

そのため、神様はこう言われました。「私だけが神であり、ほかに神はないことを認めなさい。」

神様は私たちにも同じことを言われます。

「私を信じない理由はありません。 あなたが私について間違ったイメージを持つ理由もありません。私は聖書の中でご自身を表しましたのです。」

私たちが自分自身に問わなければならないのは、神様を信じるかどうかということです。

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私たちを決して見捨てない神

「私は、あまり良いクリスチャンではありません。何度も失敗してしまいます。神様は私をあきらめられるのでしょうか。神様は私を捨ててしまわれるのでしょうか。」

このような質問をするクリスチャンはたくさんいます。

さらに、彼らは問いを投げかけます。

「私は大きな失敗をしました。 自分の道を進んで神様から離れてしまい、人生は混乱してしまいました。 神様はもう一度私を受け入れてくださるでしょうか。 私を赦してくださるでしょうか。」

この箇所で、その答えが見つかると思います。

神様はイスラエルの民に警告を与えられたのです。それは、彼らが神様に背を向けて偶像礼拝を始めた場合に何が起こるかについてでした。つまり、彼らは追放されるのです。

神様はこう言われました:

「見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕えることになる」(申命記4:28)。

イスラエルの民はやがて、その神々が無力であることを理解するようになります。なぜなら、その神々はイスラエルの民を助けることができないからです。

しかし、29~31節で、神様はこう言われました。

そこから、あなたがたは、あなたの神、を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。

あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、に立ち返り、御声に聞き従うのである。

あなたの神、は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。  

パウロもこう記しました。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

神様はイスラエルの民に約束されました。

あなたたちは私の民となり、私はあなたの神となる。(レビ記26:12)。

イスラエルの民が何度も神様に背を向けたとしても、神様はいつも彼らが戻るのを待っておられました。そして、彼らが戻ってきた時、神様はいつも喜んで受け入れられました。

神様は私たちに対しても同じようにされます。私たちが大きく失敗しても、また人生がどれほどめちゃくちゃになったとしても、神様は待っておられるのです。

そして、心と精神を尽くして神様を求めるなら、神様を見いだすことができるのです。

あなたは失敗したと感じていますか。あなたの人生は混乱しているでしょうか。神様に向き直ってください。神様は、あなたを待っておられるからです。

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知恵と悟り

この世界の人々が私たちを見る時、何を見ているのでしょうか。

彼らが困難に陥った時、またはアドバイスが必要な時に、私たちのところに来るでしょうか。

私たちを見て、神様の近くにいる人々だと感じるでしょうか。神様の知恵と悟りに満ちた人々だと思うでしょうか。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

これを守り行いなさい。

そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」と言うであろう。

まことに、私たちの神、は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。

このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。(申命記4:6ー7節)

知恵と悟りに満ちた人々になりたいのであれば、神様の近くにいること、そして神様の言葉に従うことが必要です。

周りの人々が私たちを見る時、彼らは正義、知恵、悟りに満ちた人生を見るはずです。

そして、そのような人生を見ることで、私たちに近づきたいと思うでしょう。それは、彼らがそのような人生を持っていないからです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生にはそのような特徴があるでしょうか。

私自身を振り返ると、まだまだ欠けている部分が多いと感じます。多くの場合、私は光になることができず、周りの人々にただ溶け込んでしまいます。

しかし、神様は私たちが光となることを望んでおられます。

イエス様はこう言われました。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

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神様の言葉に付け加えず、神様の言葉を取り除かない

ハワイにいた時、私は子供のミニストリーに参加していました。それは本当に楽しいものでした。けれども、最終的には燃え尽きるように感じてしまいました。

少し大変だったので、一度休憩を取り、その後リフレッシュされて、また大丈夫になりました。ところが翌年、再び疲れるようになり、休憩をとってもリフレッシュできませんでした。

それでも、ミニストリーを辞めることを考えると、私は罪悪感を覚えました。

子供たちのために責任を感じていましたし、私の代わりにミニストリーを担う人がいるのかと心配していました。

しかし、最終的には辞めなければならなかったのです。

その時、私は大切なことを学びました。それは、神様の御心に関して、神様の言葉に何かを付け加えることも、神様の言葉から何かを取り除くこともしてはいけない、ということです。

神様は私が日本に引っ越すことを望んでおられたので、子供のミニストリーに対する召しは終わっていました。

けれども、私は日本に行きたくありませんでした。その上、神様が私に子供のミニストリーを続けるための恵みを与えておられなかったのに、私はそれを続けてしまいました。

その結果、私は燃え尽きてしまいました。

この聖書の箇所を読んだ時、その経験を思い出しました。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。

私があなたがたに命じる、あなたがたの神、の命令を、守らなければならない。(2節)

この箇所で、モーセは神様からの律法について語りました。しかし、クリスチャンにとっても、その原則は同じです。

もし神様の命令に従わなければ、それは不服従になります。例えば、私が日本に行くという神様の召しを拒絶した時、それは不服従でした。

また、神様が命令された以上に何かをすることも良くありません。そうすれば、神様が私たちに負わせたくない重荷を、自ら負うことになってしまいます。

例えば、神様が私を子供のミニストリーに召された時、それは私にとって全く重荷ではありませんでした。本当に楽しいものでした。

けれども、その召しが終わった後も、私はそのミニストリーを続けてしまいました。その結果、それは負い切れない重荷になってしまったのです。

これはミニストリーに限らず、どの神様の命令にも当てはまる原則です。

例えば、パリサイ人と律法学者たちは、神様の律法に命じられていないことを付け加えました。その教えによって、彼らはイスラエルの民に重荷を負わせたのです。

その重荷は負い切れないものでしたし、神様もそれを望んではおられませんでした。

だからこそ、イエス様はパリサイ人と律法学者たちにこう言われました。

律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。 (ルカ11:46)

あなたはどうでしょうか。

あなたの人生で、神様の言葉から何かを取り除いてしまうことはありませんか。また、神様の命令に従わないことはありませんか。

それがもし当てはまるならば、それは罪を犯していることです。そして、悔い改め、神様の言葉に従い始めるべきです。

あなたは、神様の言葉に付け加えていることはないでしょうか。神様が求めておられる以上のことを、自分で進んでしてはいないでしょうか。

それをしてしまうと、燃え尽きてしまうかもしれません。なぜなら、あなたは神様が与えていない重荷を自分で負っているからです。

神様の言葉を取り除かないようにしましょう。

そして、神様の言葉に付け加えることもしないようにしましょう。むしろ、神様が命じた通りに生きるようにしましょう。

そうするならば、神様があなたのために計画された人生と、その中にある喜びを見つけることができるでしょう。

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神様が「ノー」と答えられる時に

私の父は一年前に亡くなりました。その後、家族みんなで父のことを思い出して、いろいろな話をしました。

2003年、父は事故にあって目が見えなくなりました。その後、父と話した時に、こう言いました。

神様と話し始めましたが、私だけが話していたため、神様の声を聞くことができませんでした。

そして、この聖書の箇所を思い出しました。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」

そのため、私は静かに黙り、神様の声を聞き始めました。そして、

その日曜日の晩に、神様の声を聞くことができました。

次の朝、私は聞いたことをリアン(私の母)に伝えました。それは、皆が奇跡のために祈っていること、つまり、私の目が見えるようになるように祈っていることです。

けれども、神様は私にこう言われました。

「私はその奇跡を行うことができる。しかし、そうはしない。

むしろ、もっと素晴らしい賜物を与えよう。愛と情けと哀れみに満ちた心を与えるのです。」

父が亡くなるまで、目が癒されることはありませんでした。けれども、神様が約束された通り、父は新しい心を与えていただきました。

この箇所では、モーセも神様から「ノー」の答えを聞く経験をしました。

メリバという場所で罪を犯したために、神様はモーセにこう言われました。「あなたは私が約束した土地に入ることはできません。」(民数記20章)

それでも、モーセは神様に懇願しました。「どうか、あなたが約束された土地に私を入らせてください。」

ところが、神様は答えられました。「もう十分です。この件について、もう二度と私に言ってはなりません。」(申命記3:26)

モーセはどのように反応したのでしょうか。彼は拗ねたり、文句を言ったり、「それなら、あなたにはもう従わない」と口にしたりしたのでしょうか?

むしろ、彼は忠実に神様に仕え続けました。

そして、次のイスラエルのリーダーとなるヨシュアを訓練しました。

「もし十分な信仰があれば、あなたが神様に何かを願う時、神様は必ず『イエス』と答えなければならない」と教える人がいるのです。

しかし、この箇所では、神様がその意見に反論しています。

時として、神様はご自身の理由によって、私たちの願いを拒否されます。

モーセの場合は、彼の罪のゆえに神様がその願いを拒絶されました。

一方で、私の父の場合は、神様がさらに素晴らしい奇跡を行おうとされたのです。

それは、新しい心を与えることでした。

私たちが自分に問いかけるべきことは、「神様がノーと答えられた時、私はどう反応するだろうか」ということです。

私は、モーセと私の父のように反応したいと思います。

この二人は、とても失望したことでしょう。

私の父は、目が見えるようになりたいと願っていました。

モーセは、神様が約束した土地に入りたいと願っていました。

けれども


、神様がノーと答えたとしても、彼らは神様に忠実に仕え続けました。

神様、モーセの話を感謝します。

また、私の父の話を感謝します。

どうして時にはあなたが「ノー」と答えられるのか、私は分かりません。それでも、あなたの方法が最善であることを信じます。

あなたが「イエス」と言われても「ノー」と言われても、私が常に忠実に仕え続けることができるように助けてください。アーメン。

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あなたはもう到達した?

この記事は一年前に英語で書きました。その時、私の父が亡くなり、父のためにこの記事を書いたのです。

最近、クロスロード教会のメンバーであるキャサリン・ベントンも亡くなりました。ですから、キャサリンのことも覚えて、この記事を書いています。

神様の御下で完全にされたキャサリンと私の父に、また会える日が来るのです。

前のブログでこの話について触れましたが、この箇所を読むと、もう一つ心に残ることがあります。

それは、モーセがルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族にヨルダンの東側の土地を与えたということです。

つまり、これら三つの部族の人々には、神様が約束された土地の外に住むことが許されたのです。 しかし、モーセは彼らに命じました。

あなたがたの神、は、あなたがたがこの地を所有するように、あなたがたに与えられた。

しかし、勇士たちはみな武装して、同族、イスラエル人の先に立って渡って行かなければならない。。。

があなたがたと同じように、あなたがたの同族に安住の地を与え、彼らもまた、ヨルダンの向こうで、あなたがたの神、が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、そのとき、あなたがたは、おのおの私が与えた自分の所有地に帰ることができる。  (申命記3:18、20)

その三つの部族の人々はすでに到達し、自分たちの土地を見つけました。彼らは安住の地を与えられたのです。

けれども、彼らの使命はまだ終わっていませんでした。神様は「まだ辿り着いていない人々を助けなさい」と命じられまたのです。

そして、神様は私たちにも同じ命令を与えておられます。

もちろん、私たちの中で本当に辿り着いた人は誰もいません。私たちは皆、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:14)。

とはいえ、もしかすると、あなたは他の人よりキリストとの歩みにおいて、少し先を進んでいるかもしれません。

例えば、あなたの経験を通して、人生の戦いの中でどのように勝利を得るかを学んだかもしれません。だからこそ、神様は私たちに、他の人が勝利を得られるよう助けることを望んでおられるのです。

この箇所において、もう一つ興味深い点があります。それは、モーセが「もう着いた」人々に、ただ他のイスラエルの民と一緒に進みなさいと言ったのではないことです。

むしろ、彼らは他のイスラエルの民の先頭に立ち、その道をリードし、準備しなければならなかったのです。

私たちも、キリストにある兄弟姉妹たちのために、同じようにすべきです。

では、どのように助けるべきでしょうか。それは、私たちが学んだことを教えること、私たちの経験を共有すること、彼らのために祈ること、彼らが戦う時に隣に立って一緒に戦うことです。

あなたはもう到達したと思っていますか。クリスチャンとしてすでに成熟していると思いますか。

パウロがピリピ3章で語ったように、この世に生きるクリスチャンの中で、誰も完全には辿り着いていません。

だからこそ、イエス様に召されたように、私たちは目標を目指して一心に走り続けるべきなのです。

そして、もしある程度すでに辿り着いているなら、兄弟姉妹たちがそこまで辿り着けるように助けましょう。

私たちが歩んできた道を示しましょう。つまり、私たちが落ちた落とし穴について彼らに警告し、神様が示された勝利への道を教えましょう。

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不可能だと思うとき

時々、私たちは勝てないと思える戦いに直面することがあります。

それは辛い結婚かもしれません。

罪との戦いかもしれません。

あるいは健康の問題や経済的な問題かもしれません。

イスラエルの民がバシャンの王オグとその軍隊に対して戦った時、おそらく彼らは「この戦いに勝つのは不可能だ」と思ったかもしれません。

バシャンには60の都市があり、それらは高い城壁と門、そして頑丈なかんぬきで守られた要塞でした。そして、オグとその軍隊はイスラエルの民を迎え撃つために出てきました。

しかし、神様はこう言われました。

彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。(申命記3:2)

そして、イスラエルの民はその軍隊を打ち負かしました。

この箇所から、私は2つのことを学ぶことができます。

一つ目は、もし神様が私たちの味方であるならば、どんな圧倒的な確率も乗り越えることができる、ということです。勝てないと思える戦いでも、勝利が可能になるのです。

二つ目は、過去に神様が何をしてくださったのかを覚えておくことの大切さです。

神様はこう言われました。

あなたはエシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。(2節)

つまり、「王シホンを覚えていますか。彼の軍隊が敗れたではないですか。そのように、オグとその軍隊も私によって敗れるでしょう。だから、大胆に出て行って戦いなさい。必ず勝利するのです。」

あなたには、どのような戦いがありますか。それは不可能だと思えるものですか。

もし神様があなたの味方であるなら、どんな圧倒的な確率でも乗り越えられることを覚えておきましょう。

そして、神様が過去に与えてくださった勝利を思い出しましょう。

それによって、未来に直面するとき、また、大きな山を目の前にしたとき、きっと勇気を与えられるのです。

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神様が与えてくださったもので満足する

時々、私はもっと物が欲しくなることがあります。例えば、大きなテレビやI-padが欲しいと思うことがあります。

けれども、この箇所を読むときに特に心に残るのは、私たちは神様が与えてくださったもので満足するべきだ、ということです。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

「あなたがたを恐れる国々がいる。しかし、彼らのものを取るな。なぜなら、私はそれをその人々に与えたからだ。私は彼らの土地を少しもあなたがたに与えるつもりはない。」

なぜ、神様は「満足するべきだ」と言われたのでしょうか。

その理由は7節に記されています。

事実、あなたの神、は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。

あなたの神、は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。(申命記2章:7)

つまり、神様はあなたをすでに祝福してくださったのです。あなたを守り、すべてを満たしてくださいました。だから、他の人のものを貪ってはいけません。

この言葉は、ヘブル人への手紙の著者が語った言葉に似ています。

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。

主ご自身がこう言われるのです。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなた を捨てない。」

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。(13:5ー6)

神様が私たちの味方であり、さらに私たちの必要を満たしてくださるのであれば、他に何が必要でしょうか。

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出発時間

私が出席する教会は8年前に始まりました。その8年間で、私たちは12人のチーム(子供3人を含む)から150人の教会へと成長しました。

私たちはずっと同じ場所で集まり、さまざまなミニストリーを行うために、徐々により多くの部屋を借りなければならなくなりました。

けれども、もうすぐ、このビルは私たちの教会には小さすぎるようになります。それは良い問題ではありますが、やはり問題でもあります。だから、神様は私たちのために新しい場所を準備してくださっているのだと思います。

この箇所を読むとき、私は自分の教会のことを考えます。神様はイスラエルの民にこう言われました。

あなたがたはこの山に長くとどまっていた。。。

見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。

行け。その地を所有せよ。これは、が。。。与えると言われた地である。(申命記 1:6、8節)

この箇所で、神様はイスラエルの民にホレブを立ち去り、神様が約束された土地へ行きなさいと命じておられました。ホレブでは、イスラエルの民は神様について多くを学びました。そこでは、モーセが初めて神様に出会いました。

その後、モーセは十戒を授かり、その命令をイスラエルの民に伝えました。さらに、ホレブではイスラエルの民は神様の臨在を直接経験しました。

しかし、今神様はこう言われました。

「出発の時間です。立ちなさい。行きなさい。私はあなたがたのために場所を整えました。その場所を所有しなさい。」

イスラエルの民はホレブで長い間文句を言っていたので、出発することに少なからず喜びを感じたかもしれません。

ところが、神様が約束された土地に入る時間が来ると、彼らは自分の恐れによってその地に入ることを拒んでしまいました。神様がその土地を与えると約束されていたのにもかかわらず、また神様が共にいると約束されていたのにもかかわらずです。

その結果、反抗的な世代が死に絶えるまで、イスラエルの民は砂漠をさ迷わなければなりませんでした。

私たちはこの箇所から何を学べるでしょうか。

いつか、神様はあなたに「出発の時間です」と言われるかもしれません。

私の教会にとっては、きっとその時が来たのだと思います。

私自身にとっては、その時は17年前でした。神様は私に「日本へ行きなさい」と言われました。

私の牧師にとっては、その時は8年前でした。神様はこう言われました。「あなたの教会を出て、新しい教会を始めなさい。」

しかし、その決断は時には恐ろしいものです。信仰によって一歩を踏み出すことは、時に難しいものです。

では、神様が「出発の時間です」と言われた時、あなたはどうしますか。

信仰によって進むでしょうか。

それとも、現在の場所に留まり続けるだけでしょうか。

私自身にとって、それは戦いでした。そして、今でも私は次の一歩が何であるかを考え続けています。まだ分かりません。

私が知っているのは、神様の御声を聞かなければならないということです。そして、もし神様が「出発の時間です」と言われるなら、私はその時に従わなければならないのです。

私たちは皆、そうするべきです。では、あなたはどうでしょうか。神様に従うために、今出発する必要があるでしょうか。

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神様の御心

何年か前、神様の御心についてのメッセージを聞きました。

その牧師が話していたのは、神様の御心を的の中心のように考える人たちがいるということでした。つまり、ターゲットの真ん中に当たらないと、神様の御心を逃したと考えるのです。

しかし、神様の御心はそのようなものではありません。むしろ、神様の御心は塀に囲まれた庭のようなものです。

その庭の中で私たちは自由に選択できます。塀の外に出てしまえば神様の御心を逃してしまいますが、その庭の中、つまり神様の御心の中ではさまざまな選択が許されています。

例えば結婚についてです。多くの人々は次のように考えます。

「神様は私のためにたった一人の相手を選んでおられる。だから、その人を見つけなければならない。」

けれども、この考え方は間違っています。神様の御心の中であれば、いろいろな人の中から選んでも構いません。

ただし、その塀の中、つまり神様の御心の中で選ばなければなりません。

民数記36章では、神様はツェロフハデの娘たちに塀を与えられました。

マナセの部族はツェロフハデの娘たちについて心配していました。その娘たちの父親が亡くなり、兄弟がいなかったため、彼女たちは父親の土地を受け継ぎました。

けれども、もし娘たちが他の部族の男性と結婚すれば、マナセ部族の相続地が小さくなってしまうという問題がありました。

そこで神様は次のように命じられました。

彼女たちは、その心にかなう人にとついでもよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。(民数記36:6)

この箇所で、神様の御心が見えます。塀が設けられていました。つまり、その娘たちは父の部族に属する氏族に嫁がなければならなかったのです。

しかし、その塀の中では自由がありました。つまり、彼女たちは自分の心にかなう人に嫁ぐことが許されていました。

私たちのクリスチャン生活も同じです。もちろん結婚についてもそうですが、他のことでも同じです。

超えてはならない塀があります。例えば、結婚に関する神様の命令です。「クリスチャンはクリスチャンと結婚しなければならない。」

けれども、その塀の中であれば、誰と結婚してもよいです。

それは、神様が選ばれたただ一人と必ず結婚しなければならない、ということではありません。

時々、私たちは的に当てるかどうかを心配しすぎて、何かをするのを恐れるあまり、結局何もしないことがあります。

でも、それはよくありません。

神様の御心の中では、私たちには自由があります。そのことを心に留めてください。

結婚でも、仕事でも、どのような事柄でも同じです。まず、塀に囲まれている庭がどこにあるのかを知らなければなりません。その中で生きるべきなのです。

そしてその中にいる限り、神様の御心にかなっているかどうかを心配しすぎないでください。きっと大丈夫です。

もし神様があなたのために別の計画を持っておられるなら、つまりもっと具体的な的があるなら、神様が必ず知らせてくださいます。

ですから、的を外すことへの恐れに惑わされず、ためらわずに行動しましょう。

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命の価値

「私は殺人を認めません。」

それはアガサ・クリスティの本に登場する探偵、エルキュール・ポアロの有名な信条です。

神様も同じ意見をもっておられます。だからこそ、この箇所では殺人について多くの命令が記されています。

つまり、故意に誰かを殺した場合にどうすべきか、また偶然に殺してしまった場合にどうすべきかが教えられています。

その後で、神様はこう言われました。

あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。(民数記35:33)

日本人については分かりませんが、時々、アメリカ人は殺人に対して少し鈍感になることがあります。

最近、アメリカでたくさんの子供が殺された事件があったため、アメリカの人々は大きなショックを受けました。

けれども、普段、殺人のニュースを聞いても特にショックを受けないことが多いです。毎日どこかで殺人が起こっているからです。

しかし、神様にとっては、その血が土地を汚してしまいます。

なぜでしょうか。それは多分、人が他人を殺すということが、命の価値を蔑視する行為だからではないでしょうか。そして、殺人を犯した人はすぐに命の価値が全く分からなくなってしまうのです。

とはいえ、殺人はもっと長いプロセスの最後の段階にすぎません。

そのプロセスの始まりは、私たちが命の価値を尊重しなくなることです。

私たちは他人を見下し、憎むようになります。そして、たとえその人の身体を殺さなくても、私たちの心の中でその人を殺してしまうのです。

だから、イエス様はこう言われました。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがた は聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に向かって『能な し』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。

また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21ー22)

私たちは人を憎むとき、その憎しみによって土地を汚してしまいます。なぜなら、本当にその人を殺さなくても、私たちの心の中でその人を殺しているからです。

ヨハネはこう語りました。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3:15)

一方で、イエス様はどのような方でしたか。

ヨハネは続けてこう言いました。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(第一ヨハネ3:16a)

イエス様は私たちを大切にしておられたので、ご自分の命を十字架でお捨てになったのです。命を滅ぼすことはなさらず、むしろ命を捧げられたのです。

そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命を受けることができるのです。

では、あなたはどうでしょうか。命を大切にしていますか。

それは言葉だけではなく、行動によっても命を大切にすることです。

それは具体的にどのようなことでしょうか。

ヨハネはこう言いました。

ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3:16b)

イエス様がご自分の命を私たちのためにお捨てになったように、あなたも他の人のために命を捧げることができるでしょうか。

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とげと茨

私は草取りが大嫌いです。子供の頃、時々庭で草取りをしなければなりませんでした。それに、その庭はかなり広かったのです。

母は私にこう教えました。

「草取りをするときは、草の根からしっかり引き抜かなければならない。そうしないと、草はすぐにまた生えてくる。」

しかし、根から引き抜いても、時々草はすぐに再び生えてきました。そのため、私は草取りが嫌いでした。

このように、神様はイスラエルの民に何度も警告されたのです。 出エジプト記で警告され、さらに民数記でも再び警告されたのです。

「カナン人を徹底的に追い出しなさい。その偶像と祭壇を壊さなければならない。その宗教的な物も完全に捨て去らなければならない。」

そして、神様はこう語られました。

もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。(民数記33:55)

罪は草やカナン人と同じです。もし、草を完全に追い出さないなら、それはとげや茨になり、最終的には私たちを滅ぼします。

私たちは決して罪と妥協してはなりません。

もし神様を喜ばせたいのであれば、心の中に罪の根を少しでも残してはいけません。

罪を根絶しなければ、それはすぐに戻ってきます。

神様、私が罪と決して妥協しないように助けてください。

私が決して「今回だけ」と言うことがないように。なぜなら、そのようにしてしまうと、何度も罪に陥ることを繰り返してしまうからです。

私の心からその罪の草を根絶してください。私はあなたを喜ばせたいのです。アーメン。

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次善に甘んじる

時々、私は聖書を読むとき、何が神様の完全な意志で、何が神様の寛容な意志なのかを考えます。

神様の完全な意志とは、神様が望まれる通りにすべてが起こることを指します。

一方で、神様の寛容な意志とは、神様が何かを許されるものの、それが神様にとって喜ばしいことではない場合を指します。

例えば、アダムとエバの罪について考えてみましょう。

神様の完全な意志は、彼らが自由意志を持つことでした。けれども、その完全な意志の中には神様の寛容な意志も見られます。

つまり、神様は彼らに自由意志を与えたことによって、彼らが自分の道を選ぶ可能性を許されたのです。

彼らが罪を犯したとき、神様は喜ばれたでしょうか?いいえ、そうではありません。しかし、それを許されたのです。

このように、神様がアダムとエバに自由意志を持つことを望まれた結果、彼らは罪に陥りました。

神様の完全な御心は、彼らが神様に従うことでした。 一方で、神様の寛容な御心は、彼らが神様に従わないことを許されたのです。

時には、神様の完全な意志と寛容な意志が明確に区別できる場合もあります。アダムとエバの場合がその一例です。

けれども、他のケースでは、必ずしも明確ではないことがあります。

例えば、ガド族、ルベン族、ヨセフの子マナセの半部族が約束の地に住まず、別の土地に住むことを選んだとき、それは神様の完全な意志だったのでしょうか?

それとも神様の寛容な意志だったのでしょうか?

モーセはこう語りました。

もしあなたがたがそのようにし、もしの前に戦いのため武装をし、あなたがたがのうちの武装をした者がみな、の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地がの前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたはに対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。

そして、この地はの前であなたがたの所有地となる。(民数域32:20ー22)

でも、それは神様の完全な意志だったのでしょうか。

私の意見では、多分そうではありません。

ガド族、ルベン族、そしてヨセフの子マナセの半部族が神様が約束された土地に住まなかったことで、彼らは神様の祝福を失ったのでしょうか。

正直に言えば、それは分かりません。何を失ったのか考えるのは難しいです。彼らは幸せだったかもしれません。

でも、もし彼らが神様が約束された土地に住んでいたなら、さらに幸せだったのではないでしょうか。

私たちはどれほど次善に甘んじているのでしょうか。そして、どれほど私たちが持っているものに満足し、それゆえ神様からのより素晴らしいものを断ってしまったのでしょうか。

神様は許してくださるかもしれません。とはいえ、その結果、神様が注ぎたかった祝福を失う可能性もあります。

時々、私たちは神様のタイミングを待ちたくないために次善に甘んじてしまいます。

また、私たちが居心地の良さにとらわれたり、神様の最高の計画を知らなかったりして、次善に甘んじてしまうこともあります。

おそらくガド族、ルベン族、そしてヨセフの子マナセの半部族もそうだったのではないでしょうか。

彼らは神様が約束された土地を待つのを望まず、その土地の祝福を知らなかったのです。

多分、私が次善に甘んじる理由は、神様のタイミングを待ちたくないからではなく、今の状態に満足してしまっているからです。

もし、あなたが神様の御心に従っているのであれば、満足すること自体は悪いことではありません。

しかし、もしその満足が、神様があなたのために望んでおられる場所や目的に対する障害となるなら、それは良くないことです。

私は今、自分自身に問いかけています。私は今、神様が望んでおられる場所にいるのでしょうか。

それとも、次善に甘んじているだけなのでしょうか。

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誘惑を根絶する

旧約聖書は時に、かなり血まみれの描写があります。この箇所もその一つです。

神様は、イスラエル人に対してミデヤン人を完全に滅ぼすよう命じられました。なぜなら、その人たちがイスラエル人を罪へと導いたからです。

そして、イスラエル人がミデヤン人の女性たちを生かしておいたとき、モーセは怒りました。

その理由は、特にミデヤン人の女性たちが、イスラエル人の男性たちを偶像礼拝に導いたからです。そこで、彼女たちも殺さなくてはならなかったのです。

ただし、性的な宗教儀式にまだ関わっていない若い女の人たちだけは生かしておかれました。

では、この箇所から私たちは何を学べるでしょうか。

聖い人生を生きるためには、罪を根絶し、つまずきとなるものを捨てなくてはならない、という教訓です。

イエス様もこう言われました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5:29-30)

イエス様は本当に極端な言葉を使われますが、実際に目を抉り出したり、手を切り捨てることを求めているわけではありません。

それでも、イエス様のメッセージは明確です。罪を容認してはいけないのです。

もしもつまずきとなるものがあれば、それをすぐに捨てなければなりません。

たとえば、あなたが持っているビデオや雑誌が罪への誘惑となるなら、それを捨てるべきです。

もし、あなたの彼や彼女があなたに罪を犯させるなら、その関係を断つことが必要です。

友人があなたに罪を犯させるのであれば、少し距離を置くべきです。

多くの場合、私たちはつまずきとなるものを持ち続け、その結果として罪を犯してしまいます。そして、「どうして私はいつも罪に落ちてしまうのだろう」と考えるのです。

神様は、その原因となるものを切り離しなさい、と語られています。あなたにとってつまずきになるものは何でしょうか。

パウロはこう書いています。

神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。(テサロニケ4:7)。

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なだめの香り

民数記28~29章では、イスラエル人が捧げる犠牲についての具体的な説明が書かれています。

ただし、ここではその犠牲について詳しく書きません。なぜなら、すでに出エジプト記とレビ記のブログで説明しているからです。

けれども、この箇所で一つのフレーズが心に残りました。そのフレーズは何度も繰り返されているのです。

つまり、「主へのなだめの香りでした」という言葉です。

それと同じように、イエス様が私たちのために十字架で命を捧げられたとき、その犠牲も神様へのなだめの香りでした。それは神様の目において正義を満たし、私たちに永遠の命を与えてくださったのです。

そして、今では神様は私たち自身が神様へのなだめの香りであると言われます。

第二コリント2章15~16節にはこのように書かれています。

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。

神様が私たちを見るとき、キリストの香りを嗅がれます。

そして、私たちがこの世界に出ていくとき、イエス様の香りを広げるべきなのです。

第二コリント2章14節には、このように書かれています。

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

16節に書かれているのは、ある人たちにとって私たちが「いのちから出ていのちに至らせる香り」であるということです。つまり、彼らが私たちの中にキリストを見るとき、イエス様に近づきたいと願うのです。

けれども、ある人たちにとっては、私たちは「死から出て死に至らせる香り」です。

なぜなら、キリストを拒絶する人々にとって、私たちは死と裁きが近づいていることを思い出させる存在だからです。そして誰も、そのことを思い出したいとは思わないのです。

もし、私たちがキリストの香りを広げないなら、それは本当に悪いことです。

私たちが神様に自分の体を生きた供え物として捧げないなら、私たちは本当に生きているとは言えません。ただ存在しているだけです。

しかし、神様はそれを望んでおられません。神様は、私たちが自分自身を神様に捧げ、キリストを知る知識の香りを広げることを望んでおられるのです。

あなたからはどんな香りが匂うでしょうか。

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罪から来る報酬

それでは、この箇所で民数記のタイトルの2つ目の理由が分かります。

つまり、エジプトから出た世代が亡くなった後、モーセはもう一度イスラエル人の人数を数えたのです。

けれども、私が興味深いと思うのは、モーセがこの情報を書くときに他の情報も書き加えたことです。おそらく、モーセはその情報を通してイスラエル人に警告を伝えたかったのだと思います。

つまり、罪の結果について警告を与えたかったのです。(26:9-10)

最初に、コラ、ダタン、アビラムとその仲間たちの反抗について書いています。

そして、ユダの息子エルとオナンの罪とその死についても記されています。(26:19;また、創世記38)

さらに、アロンの息子ナダブとアビフの話もあります。その二人は、主の前に異なった火をささげたために死んだのです。(26:61)

最後に、エジプトを出た世代が全員亡くなったことについて書いています。その世代が亡くなった理由は、彼らが主に信頼しなかったためです。

また、27章では、モーセがカナンに入れなかった理由が記されています。つまり、ツィンの荒野でモーセは神様の命令に従わなかったのです。

この箇所のポイントは何でしょうか?

それは、「罪の結果は死である」ということです。

私たちは皆、罪を犯したため、いずれ死にます。

ローマ書6章23節には、こう書かれています。

罪から来る報酬は死です。

その真理から逃れることはできません。罪は本当に深刻な問題です。

もし、イエス様が私たちがこの世を去る前に来られないのなら、私たちは皆死ぬ運命にあります。

それだけでなく、私たちは皆、地獄に行くに値する者です。

けれども、ローマ書6章23節の最後の部分には、素晴らしい知らせがあります。

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

イエス様は私たちの罪のために十字架でその代価を払われました。そして、もし私たちがイエス様を信じるなら、天国に入ることができます。

今でも、私たちは神様の前に恐れずに近づくことができるのです。

あなたはどうでしょうか。イエス様に信頼していますか。天国に行く確信を持っていますか。

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罪に引き寄せられた

バラムはイエス様について預言しましたが、イエス様の友達ではありませんでした。また、イスラエルの友達でもありませんでした。

神様はバラムにイスラエル人を呪うことを許さなかったため、バラムはモアブの王からお金を受け取ることができませんでした。

それで、バラムはイスラエル人を倒す方法を考え、すぐに良い方法を見つけました。

民数記31章16節によると、バラムの助言に従い、モアブの王バラクがモアブの女性たちをイスラエルに送り、その男性たちを偶像礼拝へと導いたのです。

その計画は成功しました。イスラエル人は偶像を礼拝し始めたため、2万4千人が殺されました。

サタンは私たちに同じ策略を使います。サタンは、神様が私たちを守っていることを知っているため、私たちを神様から引き離そうとします。

サタンは私たちの弱点をよく知っているので、そこに焦点を当てるのです。

ヤコブはこう書いています。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:14-15)

イスラエル人は自分の欲に引かれ、おびき寄せられ、誘惑されました。その欲がはらむと罪を生み、そしてその結果は死でした。

同じように、私たちも自分の欲に引かれ、誘惑されて、罪を犯してしまいます。

では、どうすればよいのでしょうか。

パウロはこう書いています。

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(第二テモテ2:22)

まず、私たちは罪から逃げなくてはなりません。

創世記39章では、ヨセフがそのようにしました。ポティファルの妻がヨセフに「私と寝ておくれ」と誘惑しましたが、ヨセフはその場から逃げました。

しかし、罪から逃げるだけでは十分ではありません。

私たちは義と信仰と愛と平和を追い求めなくてはならないのです。

罪から逃げることだけでなく、良いことを求めるべきです。

最後に、自分ひとりで罪と戦う必要がないことを心に留めましょう。

キリストを求める人々と共に戦いましょう。

あなたの弱さを分かち合い、彼らを助け、また助けてもらいましょう。

互いに助け合い、さらに神様に委ねるなら、その戦いはもっと軽くなるのです。

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知っているだけでは不十分

11月なのに、日本ではもうクリスマス気分です。多くのお店でクリスマスの飾りが飾られ、クリスマスの商品が販売されています。

去年、素晴らしいクリスマスカードを見つけました。そのカードは1600円くらいでしたが、16種類のクリスマスのメロディが楽しめるものでした。

買おうか迷いましたが、結局買いませんでした。今年は買うかもしれません。

それはさておき、民数記にクリスマスの預言があるとは思えませんが、実はあるのです。

バラムはこう言いました。

私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。

ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。(民数記24:17)

多分、東方の博士たち(マギ)は東のほうで星を見たとき、この箇所を覚えていて、イスラエルに向かったのではないでしょうか。(マタイ2:1ー2)

神様は、イスラエルから王が出ることをバラムに示されました。バラムはそのことをよく理解していました。

それでも、バラムは神様に心を捧げませんでした。バラムは将来の王に心を開きたくなかったのです。

神様について知っているだけでは不十分です。イエス様について知っているだけでも不十分です。

イエス様がこの世に来て、ベツレヘムの飼葉おけに寝たことを知っているだけでも不十分です。

イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれたことを知っているだけでも不十分です。イエス様が復活されたことを知っているだけでも不十分です。

私たちはイエス様に心を開かなければなりません。

祭司たちと律法学者はメシアの預言をよく知っていました。それでも、イエス様の前で礼拝しませんでした。

ヘロデもその預言を知っていましたが、イエス様を殺そうとしました。

あなたはどうでしょうか。イエス様にどのように反応しますか。イエス様に心を開いていますか。

それとも、ただイエス様について知っているだけでしょうか。

ヨハネ1章10~12節には、こう書いてあります。

このかた「イエス様」はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

バラムのようにならないでください。祭司たちやヘロデのようにもならないでください。

むしろ、イエス様をあなたの王であり救い主として受け入れてください。イエス様を信じ、心を開いてください。

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祝福を決めておられる神

これは興味深い話です。モアブの王バラクは何としてでもイスラエル人を呪いたいと考えていました。バラムもバラクを本当に助けたいと思っていました。

けれども、神様はその二人の計画を止められました。

何度もバラクはバラムに言いました。「その国を呪いなさい。」

しかし、何度もバラムは答えました。「申し訳ありません。私は祝福しなくてはならないのです。」

そこで、バラクはバラムをイスラエル人の一部だけが見える場所に連れて行きました。そしてバラクは言いました。

「わかりました。イスラエル人全員を呪うことができないのなら、この一部の人々だけを呪ったらどうでしょうか。」

けれども、神様はバラムにこの言葉を与えられました。

立て、バラクよ。そして聞け。ツィポルの子よ。私に耳を傾けよ。

神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。

神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。

見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。

神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。(民数記23:18-20)

神様は全く変わらない方です。神様はいつも約束を守ってくださいます。

そして、神様は私たちを愛しておられるので、私たちを祝福したいと望んでおられます。

人間は変わることがあっても、神様は決して変わらないのです。

神様は私たちにどのような祝福を与えてくださるのでしょうか。

それは、神様の臨在(23:21)、救い(23:22)、悪霊からの守り、敵に対する勝利(23:24;24:8–9)、豊かな人生(24:5–7)、そして名誉(24:7)です。

では、この祝福を阻むものは何でしょうか。

それは、神様から逸れた心です。

イスラエル人もそのことを学びました。

しかし、神様の御手に留まるなら、私たちは祝福されます。そして、誰も—人でも悪霊でも—その祝福を奪うことはできません。

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悪いことをすることをもう決めた

去年、私は面白い話を読みました。

ある日、その著者は、ビデオレンタル店に行き、友達と一緒に見るために良いビデオを借りようと思いました。一つのDVDを見て、少し微妙だと思ったそうです。

つまり、クリスチャンにとっては多分見ないほうがいい内容だと思いました。

それでも、彼はこう考えました。

「このビデオはそんなに悪くないかもしれない。私たちは大人だし、少しぐらい悪い言葉やシーンがあっても、大丈夫だろう。」

けれども、レジに向かう途中で、彼は少し不安になりました。

「もし教会の人が私がこのビデオを借りるところを見たら……」

それでも、彼はレジに行き、店員にそのビデオを渡しました。

その時、店員が彼のIDカードを見て、顔が明るくなり、こう言ったそうです。

「確か、あなたは___さんでしょう?あなたの本が大好きです。」

その著者は、死ぬほど恥ずかしかったそうです。

けれども、どれほど私たちは同じことをしているでしょうか。

私たちは何が悪いことかを知っています。

聖霊様の声が聞こえているのに、それを無視して悪いことをしてしまいます。

バラムも同じようにしました。モアブの王バラクはバラムに願いました。「イスラエル人を呪ってください。」

しかし、神様はバラムに「ダメだ」と言われました。

バラクがバラムの答えを聞き、もう一度、人を送り、さらに多くのお金を約束しました。そして、バラムは「少し考えさせてください」と答えました。

神様はバラムがすでに行くことを決めているのをご存じだったため、それを許されましたが、条件を与えられました。

それは、「私があなたに命じた言葉だけを言いなさい」というものでした。

けれども、バラムはバラクに会いに行く途中で、神様の言葉を避ける方法を考えていたかもしれません。

そこで、神様は彼を止めるために天使を送られました。その天使は剣を持ち、道に立ちはだかりました。

多くの人はこの話をすでに知っているかもしれません。これは有名なバラムのろばの話です。

この出来事を通して、神様は明確に言われました。

「私の民を呪うな。もし呪おうとするなら、あなたは死ぬ。」

多くの場合、私たちはバラムのようです。神様の言葉をよく知っているのに、罪の魅力に惹かれて、神様の御言葉をどうやって避けるかを考えてしまいます。

私たちが悪いことを行うことを心の中で決めてしまうと、何も私たちを止めるものはありません。

しかし、罪を犯せば、必ずその結果を刈り取ることになります。

私たちは皆、誘惑に直面します。その時、どうするでしょうか。すぐに逃げるでしょうか。

それとも、バラムのように、心の中でその罪についてよく考えてしまうでしょうか。

私たちは、自分のしたいことを行うために、神様の言葉をどうやって避けるかを考えるでしょうか。

エペソ人への手紙4章30節には、こう書いてあります。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

私たちは肉の欲に負けるために救われたのではありません。むしろ、私たちはその肉の欲から解放されるために救われたのです。

だから、パウロが書いたように、

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かさ れた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたが たは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:13ー14)

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感謝の心

文句、文句、文句、文句。ブツブツ、ブツブツ、ブツ。。。ちょっと待って。

イスラエル人が文句を言っていない?本当に?彼らが喜んで、神様に感謝しているなんて、信じられません!

イスラエル人たちは何度も「水がない、食べ物がない」と文句を言い続けていました。

けれども、今日の箇所では、神様がイスラエル人のために水を備えてくださった後、彼らはこう歌いました。

わきいでよ。井戸。—このために歌え—
笏をもって、杖をもって、つかさたちがうがち、民の尊き者たちが掘ったその井戸に。(民数記21:17ー18)

どれほど私たちは感謝の心を持っているでしょうか。むしろ、どれほど私たちは自分の人生やトラブルについて文句を言っているでしょうか。

私も、よく文句を言ってしまいます。イスラエル人の態度を批判しますが、私自身も同じようなことをしてしまいます。

しかし、神様は私たちにたくさんの良いものを与えてくださいました。素晴らしく、美しい妻。とても可愛い娘。良い友だち。仕事。家。食べ物。

つまり、私は自分の必要をすべて満たされています。

それに加えて、私は永遠の命をいただいています。

イエス様はこう言われました。

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。

わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)

私は子供の時にこの歌を歌いました。

命の川は私から流れます。
その川の水は、
足が不自由な人が歩けるようになり、
盲人が見えるようになり、
牢屋のドアを開け、
囚人を解放します。

湧き出せ、井戸よ、 私の魂のうちに。

湧き出せ、井戸よ、 私を癒せ。

湧き出せ、井戸よ、 豊かな命を与えよ。

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神様にとっては、何が大切か

人間関係は報いのあるものです。けれども、時には壊れやすいこともあります。

関係を壊す原因の一つは、信頼が失われることです。妻が夫を信頼できず、夫が妻を信頼できないために、多くの結婚が破綻してしまいます。

私たちと神様との関係も同じです。だからこそ、神様が私たちに求めておられるのは、神様を信頼することです。

私たちが神様を信頼することを学べば、その関係はうまくいきます。しかし、そうしないなら、私たちと神様との関係も破綻してしまいます。

エデンの園で、アダムとエバはこの教訓を学びました。神様が彼らに言われたのは、「私を信頼しなさい」ということでした。

また、「その善悪の知識の木から食べてはなりません。悪を知る必要はありません」とも言われました。

ところが、彼らは神様を信頼せず、その実を食べてしまい、すべてが台無しになってしまいました。

同じように、神様はイスラエル人にも「私を信頼しなさい。私があなたを愛し、あなたの必要を備えることを信じなさい」と求めておられました。

けれども、イスラエル人は何度も神様を信頼しませんでした。むしろ、困難に直面するたびに文句を言い始めました。

この場面でも、彼らは同じことをしました。再び文句を言い始めたのです。

「パンもないし、水もないし、この惨めな食べ物が大嫌いです」と。

では、彼らはどの食べ物に文句を言っていたのでしょうか。それはマナでした。天から与えられたパンです。

この発言は少し矛盾していました。

「パンがない」と言いながら、「このパンが嫌いだ」と言っていたのです。

神様が彼らに与えてくださらなかったわけではありませんでした。問題は、彼らが与えられた食べ物に満足していなかったことです。

水が足りないという問題もたびたび起こりました。それでも、どの時も神様はイスラエル人に忠実でおられました。水がない状況で死んだ人はいませんでした。

神様はイスラエル人の必要をすべて備え続けてくださいました。それにもかかわらず、彼らは文句を言い続けていたのです。

そのため、神様は燃える蛇を送り、多くの人が死にました。

なぜでしょうか。それは、神様が彼らに必要なものを備えてくださらなかったからではありません。そうではなく、彼らが神様に信頼しなかったからです。

やがてイスラエル人は悔い改めました。そして彼らはこう言いました。

「モーセ、私たちのために祈ってください。私たちは間違っていました。」

モーセは祈りました。しかし、神様はただ彼らを癒されるだけではなく、彼らがしなければならないことをお命じになりました。

神様はこう言われました。

あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。(民数記21:8)

どうして神様はそのように命じられたのでしょうか。それは、壊れたものを治したかったからです。それは信頼関係の修復でした。

神様は基本的にこう語られました。

「あなたが私を信頼しなかったことによって、この問題が起きたのです。だから解決は簡単です。私を信頼しなさい。もし、その蛇を仰ぎ見れば、癒されるのです。

あなたは私の言葉を信じるでしょうか。私の言葉に従うでしょうか。」

蛇を仰ぎ見た人々は癒されました。

けれども、神様の言葉を信じなかったために蛇を見ようとしなかった人もいたかもしれません。

神様は信仰を求めておられました。

神様を信頼した人は生きましたが、神様を信頼しなかった人は死んでしまいました。

ある人がこう言いました。

「罪の反対は良い行動ではありません。罪の反対は信仰です。

罪とは、『神様、あなたを信頼しない。あなたの方法が最善であることを信じない』という態度です。

そのような態度によって、他の罪が生じます。

しかし、根本的に罪とは『神様、あなたを信じない』という姿勢なのです。」

ですから、良い行動は悪い行動を相殺するものではありません。神様が求めておられるのは良い行動だけではなく、信仰です。

そのため、神様は救いについて「良い行動をしなさい」とは言われません。むしろ、こう言われます。

「私のひとり子を信頼しなさい。イエスを求めれば、永遠の命を受け取ることができます。」

もちろん、神様は私たちの良い行動を見ることを望んでおられます。けれども、それ以上に神様は私たちが信頼することを望んでおられるのです。

もしその信頼関係がなければ、私たちの良い行動は汚れた服のようなものです。

イエス様はこう言われました。

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3:14ー15)

神様は救いのために良い行動を求めておられるのではありません。信仰を求めておられます。

とはいえ、私たちの良い行動は信仰の実です。

もし私たちが神様に信頼しているのなら、神様が望んでおられることをしないでしょうか。

あなたはどうでしょうか。神様を信頼していますか。

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境界線を尊重する

人には誰でも境界線があります。私たちは皆、人間関係の中で、相手を許すこともあれば、許さないこともあります。

つまり、それぞれに受け入れられる言葉と行動がある一方で、受け入れられない言葉と行動もあります。

もし、私たちが健康的な人間関係を守りたいのであれば、その境界線を尊重しなければなりません。

例えば、何年か前のことですが、私は友達から辛いメールをもらいました。

その前に、私がメールで冗談を書いたところ、友達はそれを本気に受け取ってしまい、怒りのこもった返事を私に送ってきたのです。なぜなら、私は境界線を越えてしまい、友達を傷つけてしまったからです。

そして、彼女ははっきりとこう言いました。「そんな言葉は絶対に許せない。」

その時、私には選択肢がありました。それは、その境界線を守ってその関係を続けること、または、その境界線を無視してその関係を壊すこと。

けれども、私にとってその決断は簡単でした。私は謝り、それ以来、言葉に気をつけるようになったのです。

モーセとイスラエル人がエドム人に出会ったとき、彼らは境界線に直面しました。

彼らの先祖同士は親族であり、イスラエル人はヤコブの子孫、エドム人はヤコブの兄エサウの子孫でした。

イスラエル人はエドムを通りたいと願いましたが、エドムの王は「だめだ」と言いました。

イスラエル人は説得しようとしてこう言いました。

私たちは公道を登って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。(民数紀20:19)

それでも、エドムの王は拒絶しました。そして、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出てきました。

そのため、イスラエル人はエドムを回避しました。

申命記2:4-8で、神様はイスラエル人に「エドムの境界線を尊重しなさい」と命じられました。

だから、イスラエル人はその命令に従いました。

あなたはどうでしょうか。周りの人の境界線を尊重していますか。

もし誰かが「だめだ」と言ったとき、それを無視して境界線を越えてしまうでしょうか。

時々、相手はこう言うかもしれません。「そんな言葉は私を傷つけるよ。そんな言葉を言わないでください。」

または、こう言うかもしれません。「あなたがそのことをしたら、私を傷つけるよ。やめてください。」

境界線を尊重することは、相手の感情を尊重することです。そして、「はい、分かりました。私にとってあなたは大切な人だから、もうしません」と言うことです。

そうすれば、私たちの人間関係は健康的になります。

しかし、相手の感情を無視して何度もその境界線を越えるなら、その関係は壊れてしまいます。

多くの友情や多くの結婚が、その境界線の問題によって破綻してしまったのです。

あなたは、人間関係の中で、どの境界線を越えてしまったことがありますか。イエス様はこう言われました。

もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら。。。出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。  (マタイ5:23-24)

つまり、もしあなたが境界線を破ってしまったなら、それを修復してください。

私たちは相手の感情に配慮し、境界線を尊重しながら行動しましょう。

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軽率な言葉、軽率な行動

みんなはいつか限界点に達します。

誰かがあなたを傷つけることがあるかもしれません。

誰かがいつもあなたを怒らせることがあるかもしれません。

そして、あなたはその怒りと傷を心に保ち、隠し続けるかもしれません。けれども、圧力は少しずつ高まり、最終的には爆発してしまうでしょう。

モーセもそのような経験をしました。

モーセは世の中で最も謙遜な人でしたが、40年間ずっとイスラエル人の文句と反抗的な態度に耐えていました。

そして、神様が何度もイスラエル人のニーズを満たされたのに、彼らはまた文句を言い始めました。

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。(民数記20:3-4)

(イスラエル人がその事件を見て、主を恐れたのに、もう一度文句を言い始めるのが私は信じられません。)

なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。(5)

モーセが主の前に出たとき、神様はこのように言われました。

杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。

あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。

あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。(8)

モーセが本当にこう考えたかどうかは分かりません。けれども、多分イスラエル人の所に戻る途中で、モーセはこう思ったかもしれません。

「この人たちは信じられない。なぜ彼らの文句を何度も聞かなければならないのでしょうか。

40年だよ!40年間、繰り返し彼らの文句を聞き続けていた。

でも、問題はイスラエル人だけじゃない。なぜ神様は毎日しっかり備えてくださらないのでしょうか。

そうすれば、私は誰の文句を聞く必要もないのに。

「岩を打て!」

「岩に命じよ!」

すべて無駄だ!」

そして、やっと皆が岩に到着すると、モーセのフラストレーションが湧き上がりました。

モーセは皆に向かって叫びました。

逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。(10節)

そして、モーセは岩に命令せず、岩を打つと、水が流れ出てきました。

神様は恵みを示され、水を与えてくださいました。それでも、神様はその行動を喜ばれませんでした。

そして、神様はモーセにこう言われました。

あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。

それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(12)

詩篇106:32-33には、このように書かれています。

彼らはさらに、メリバの水のほとりで主を怒らせた。

それで、モーセは彼らのためにわざわいをこうむった。彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。

軽率な言葉。

軽率な行動。

その言葉と行動によって、神様への信頼を欠いた態度、また神様を尊敬しない態度を示してしまいました。それは、モーセがコントロールを失い、怒りに負けてしまったからです。

しかし、私たちはどれほど同じことをしているでしょうか。私たちは怒りによって軽率な言葉を口にします。または、傷つけられたことで軽率な行動を取ってしまいます。

以前、私は砂漠の岩がイエス様の象徴であることを話しました。(第一コリント10:4)

その岩を一度だけ打つことで水が出てきましたが、その後は命じるだけで水が流れ出ました。

同じように、イエス様は十字架で私たちの救いのために一度だけ打たれました。そして今、私たちはイエス様に話しかけ、「あなたは主」と告白し、赦しを願うことで、生きた水、つまり永遠の命を受け取ることができます。

しかし、もし私たちが感情に負けて、イエス様への信頼を欠いた言葉を発したり、イエス様を尊敬しない行動を取ったりすれば、それはもう一度イエス様を打つようなものです。

そのように、アダムとエバも神様への信頼を欠き、背いたため、イエス様が十字架に行かなくてはなりませんでした。

なぜ、私たちが救われたのに、不信仰と不尊敬な態度を示し続けるのでしょうか。

私たちは皆、傷つけられることがあります。私たちは皆、怒ることもあります。

けれども、その時に、私たちはどのように振る舞うべきでしょうか。

傷つけられても、神様への信頼を示し行動するでしょうか。神様を敬って行動するでしょうか。

それとも、軽率な言葉や行動によってイエス様を打つのでしょうか。

パウロはこのように書いています。

怒っても、罪を犯してはなりません。

日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26ー27)

私たちが怒りを持ち続け、その怒りが化膿してしまうと、悪魔に機会を与えてしまいます。そして、軽率な言葉や行動が出てきてしまいます。

ですから、悪魔にそのような機会を決して与えないでください。

むしろ、私たちの言葉と行動を通して、イエス様を信頼し、尊敬しましょう。イエス様はその価値があるお方だからです。

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清められた

私は旧約聖書の時代に生きていなくて良かったと思います。宗教的な儀式が数多くあるので、きっと私は混乱してしまうでしょう。

しかし、神様はその儀式を通して、神様がどのような方であるか、私たちが誰であるか、そして神様が私たちにどのような人になってほしいかを示されました。

この箇所で、神様は清める儀式を通して、罪について教えられ、また私たちと神様との関係についても教えられています。

一つ目は、罪を無視することができないということです。

誰かが儀式的に汚れると、水で清めを行わなければなりませんでした。その儀式的な洗いを無視してはなりませんでした。

もし、その儀式を無視すると、集会から断ち切られることになりました。

なぜでしょうか。それは、自分を清めないと神様の聖所を汚してしまうからです。(民数紀19:13、20節)

同じように、私たちが人生の中で罪を持ち続けると、神様の宮、つまり私たちの体を汚してしまいます。

私たちがクリスチャンになった時から、聖霊が私たちの内に住み始めました。ですから、私たちの体は神様の聖所です。

もし私たちの心の中に罪があれば、その心を清めなければなりません。その罪を無視してはならないのです。

そのため、すべての人が天国に行けるわけではありません。清められていない罪深い人たちが天国に入ると、天国の聖所を汚してしまいます。

神様はそれを許されないので、そのような人たちは神様から断ち切られることになります。

二つ目は、清い人だけが汚れた人を清めることができたということです。(18–19節)

そのように、イエス様だけが私たちを罪から清めることができます。それは、イエス様だけが完全に清い方だからです。イエス様は決して罪を犯されませんでした。

興味深いのは、人を清める水を作るために、雌牛の灰が必要とされたという点です。しかし、その灰を作る人は、その行いによって汚れることになりました。

同じように、イエス様も一時的に汚れることになられました。つまり、イエス様が十字架で死なれた時、全世界の罪がイエス様の上に置かれました。

第二コリント5:21には、このように書かれています。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

三つ目は、清めることをしない言い訳がなかったということです。なぜなら、清められる方法は本当に簡単なものでした。その水が必要であれば、誰でも受け取ることができたからです。

ですから、もし誰かが清めをせず、そのために集会から断ち切られることになったなら、それはその人自身の責任です。

同じように、もし誰かが神様の救いを拒絶し、地獄に行くことになったなら、それはその人自身の責任です。

救われることは決して難しいことではありません。イエス・キリストの御名を呼び求めれば、すぐに来て、あなたを救ってくださいます。

ローマ書10:13には、このように書かれています。

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

救いは本当に簡単なことです。そのため、誰も言い訳をすることはできません。

イエス・キリストを拒絶する人には、神様の怒りしかありません。そして、その人は永遠に神様から断ち切られることになります。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪は清められていますか。あなたは赦されていますか。

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祭司職の賜物

神様の民として、私たちは数多くの賜物をいただきました。救いの賜物をいただき、永遠の命の賜物をいただき、御霊の賜物もいただきました。

しかし、私たちはさらにもう一つの賜物をいただきました。

神様はアロンにこう言われました。

わたしはあなたがたの祭司職の賜物の奉仕として与える (民数記18:7)

神様は私たちにも、その賜物を与えてくださいました。

イスラエル人の中ではアロンとその息子たちだけがその賜物をいただきましたが、私たちは異なる祭司職をいただきました。

この祭司職はすべてのイエス・キリストを信じる人々のためのものです。男性であっても女性であっても、ユダヤ人であっても異邦人であっても、私たちは皆、神様の前で祭司です。

ガラテヤ人への手紙3:28には、このように書かれています。

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

また、黙示録1:6には、このように書かれています。

「イエス様は」私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

どうして祭司職が賜物だと言えるのでしょうか。

それは、私たちがその立場を得るために働くことができないからです。

アロンとその息子たちは神様によって祭司として選ばれました。その後、その子孫だけが祭司になることができました。

けれども、神様がアロンとその息子たちを選ばれた理由は、彼らが他の人々よりも聖なる人だったからではありません。アロンとその息子たちも、しばしば失敗しました。

そのように、私たちはイエス・キリストを信じることによって神様の家族に生まれ、神様の祭司とされました。

私たちはその賜物を得るために働いたわけではありません。また、私たちは他の人々よりも聖なる人ではありません。それでも、この祭司職は賜物として私たちに与えられました。

ですから、この賜物を真剣に考えなければなりません。神様はアロンとその息子たちに、この賜物を大切にしなさいと命じられました。神様はこのように言われました。

あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。

そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。(民数記18:1)

私たちが覚えていなければならないのは、私たちの体が神様の宮であり聖所であるということです。

そして、私たちは祭司として罪を犯すと、神様の聖所を汚します。それに、私たちは神様がくださった祭司職も汚します。

そのような場合、神様の目の前で私たちは責任を負うことになります。

しかし、この賜物は本当に大きな特権です。それは、私たちが神様の前に来ることができるからです。

旧約聖書の時代の祭司たちよりも、私たちはさらに大きな特権があります。

大祭司だけが一年に一度、至聖所に入ることができました。至聖所で大祭司は神様の前に来ることができました。

一方で、私たちは皆、いつでも神様の前に来ることができます。

さらに、この祭司職は生きている神様に仕える特権です。神様は私たちを通してこの世界に触れられます。

アロンの祭司職はイスラエルに触れるためのものでしたが、私たちには全世界に触れる祭司職があります。

あなたはこの賜物についてどのように考えるでしょうか。真剣に考えているでしょうか。

この祭司職のミニストリーを感謝しているでしょうか。そして、この賜物を使って周りの人々に触れているでしょうか。

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誰についていっているでしょうか

ついていったほうがよいリーダーはたくさんいますが、ついていかないほうがよいリーダーもたくさんいます。問題は、悪いリーダーについていくと、彼があなたを穴に引きずり込んでしまうのです。

数年前、私の社長は全くダメなリーダーで、会社は倒産してしまいました。

実は、私はその会社をもっと早く辞めたほうがよかったのですが、ずっとそのリーダーについていたため、結局、私も大変な状態になってしまったのです。

イスラエルの民も同じ教訓を学びました。コラとダタンとアビラムという人々はモーセに反抗し、さらに250人のリーダーとその従う者たちを説得して反抗させたのです。

彼らの最も大きな不満は、モーセがイスラエルの民を神様の約束の地へまだ導いていないということでした。むしろ、皆はずっと荒野をさまよっていたのです。

しかし、彼らは2つのことを忘れていました。

第一に、神様はモーセに何をすべきかを教えておられ、モーセは自分で決断したのではなく、神様に従っていたのです。

第二に、彼ら自身の以前の反抗によってカナンに入ることができなかったのであり、それはモーセのせいではなかったのです。

けれども、もう一つの不満は、コラと他のレビ人が自分の立場に満足していなかったということでした。彼らは祭司を助ける務めを担わなくてはならなかったのですが、むしろ祭司そのものになりたいと望んでいたのです。

だから、彼らは「モーセは力を愛している独裁者だ」と言ったのです。(これは私の意訳です。)

ダタンとアビラムはモーセの前に出ることを拒んだので、モーセとイスラエルの民はその二人のもとへ行きました。

神様はダタンとアビラムに従う者たちを滅ぼそうとされたのですが、モーセがとりなしたため、神様はモーセに語られたのです。

この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。(民数記16:24)

そして地面が割れて、地はその口を開き、コラ、ダタン、アビラム、そしてその家族を飲み込みました。その後、主のところから火が出て、その250人のリーダーたちを焼き尽くしました。

それでも多くのイスラエル人は文句を言い続けました。

あなたがたは主の民を殺した。(民数記16:41)

神様はそれを聞いて怒られ、彼らを神罰で打たれました。

モーセとアロンはすぐに取りなしをしましたが、多くの人々が亡くなりました。

その後、神様はこう言われました。

イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。

その杖にはおのおのの名を書きしるさなければならない。レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。

あなたはそれらを、会見の天幕の中わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。

わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。(民数記17:1ー5)

その12人は杖を持ってきて、次の日には、アロンの杖が芽を吹き、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいました。

その奇跡によって、皆は神様が誰をリーダーとして選ばれたのかを理解するようになりました。

あなたは誰についていっているでしょうか。どのような状況であれ、それは大切なことですが、霊的な状況において特に重要です。

どのような牧師があなたの教会を導いているでしょうか。

どのクリスチャンの本を読んでいるでしょうか。

インターネットやポッドキャストでどのクリスチャン牧師の話を聞いているでしょうか。

霊的なリーダーにとって何が大切でしょうか。

第一に、その人の心が神様に属していることです。つまり、彼らは心を尽くして神様を愛しているのです。

第二に、彼らが周りの人を真に愛しているかどうかということです。

第三に、彼らが謙遜な人であることです。モーセは世界で最も謙遜な人でした。イエス様もまた謙遜なお方でした。そのような人にこそ、ついていくべきなのです。

自分の立場に全く執着せず、他の人が自分に仕えることを求めるのではなく、むしろ自ら他の人に仕える人です。

第四に、神様の御言葉を正しく教えることです。残念ながら、多くの人はそうしていないのです。彼らは神様を愛し、周りの人をも愛していますが、その教えは神様の御言葉と比べると異なっています。

そのため、その人たちに従う者たちは、神様の御言葉に対して誤った考えを抱くようになってしまうのです。

最後に、そのリーダーの行動は言葉と一致していなければなりません。もちろん、リーダーも罪と戦いますが、その罪について語るときには、「私にとっても難しいのです」と正直に認めるほうが良いでしょう。

イスラエルの民は悪いリーダーに従ったために苦しみました。

同じように、私たちも注意しなければ、苦しむことになるのです。

では、あなたは誰に従っているのでしょうか。

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私の畳の部屋には、キャビネットの扉のハンドルから房が掛けてあります。それは、私の大学の卒業のタッセルです。

どこかに私の高校の卒業のタッセルもありますが、少し汚れているので、私の旅行用荷物に掛けてあると思います。

とにかく、普段、そのタッセルを見ると、私は学校時代を思い出します。

時々、悪い思い出もありますが、大体は良い思い出です。よく勉強しましたが、楽しい時期でもありました。

同じように、この箇所で神様はイスラエル人に房を作りなさいと命じられました。けれども、それは学校時代を思い起こすためではありません。

他のことを思い起こすために、その房を作らせたのです。

神様はこのように言われました。

イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。

そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。(民数記15:38ー40)

イスラエル人は歩きながら、その房に触れるたびに、いつも「私は神様の聖なるものです。だから、私は神様の命令に従うべきです」と思い出しました。

もちろん、私たちはその房を作る必要はありませんが、神様とその言葉を思い出すために、何か物理的に思い出せるものがあるのは良いことだと思います。

私のコンピュータの上には、小さな紙があります。その紙には「神様は私たちの備え主です」と書いてあります。

以前、誰かが一万円と一緒にその紙を封筒に入れてくれました。私はその紙をコンピュータにつけています。

それを見るたびに、私は思い出します。経済的に辛い状態であっても、神様は私の必要を備えてくださいます。

おそらく、一番良い房は私たちの心につける房でしょう。つまり、聖書の御言葉を暗記することです。

物理的に思い出せるものは、だんだん効果が薄れていくかもしれません。私たちは常に目にするため、次第に見ても気づかなくなります。

しかし、神様の御言葉を私たちの心に結びつけると、神様はその房を用いられます。辛いときに、神様はその御言葉を通して、私たちにご自身のこと、御言葉、そして神様のあわれみを思い出させてくださいます。

子供のころ、私は聖書の御言葉をよく暗記していました。私はもう一度、それをすべきだと思います。

何度も神様はその房を通して私を助けてくださいました。

もしもっと多くの聖書の房を作るなら、神様は将来再びそれを用いて私を助けてくださると信じます。

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反抗的

私は娘の結実ちゃんが大好きです。けれども、結実ちゃんはだんだん反抗することが増えてきました。

いつもではありませんし、そこまでひどいわけでもありませんが、時々こういう会話があります。

私: 「じゃあ、ごはんを食べよう。」 結実: 「たべない!」

妻: 「お風呂に入ろう。」 結実: 「はいらない!」

私: 「ねんねの時間だよ。」 結実: 「ねない!」

普段は結実ちゃんがすぐにその態度を捨てて私たちに従いますが、ときどきとても反抗します。

昨年、大変だったときがありました。

朝ごはんのあと、結実ちゃんはいつも「ごちそうさま」と言いますが、その日は全然言いませんでした。

そのため、「ごちそうさま」と言うまで私たちは椅子から降ろしませんでした。(そのとき、結実ちゃんはベビーチェアに座っていました。)

結実ちゃんは泣いて「いやだ!」と叫びながら、「ごちそうさま」と言うのを拒否し続けました。

一時間ほどかかったと思います。

とにかく、神様はそのような反抗的な態度を大嫌いであることが、この箇所からはっきりわかります。

最初に、イスラエル人は神様が約束された土地に入ることを拒否しました。

そして神様が「もう入ってはならない」と言われた後に、イスラエル人は入ろうとしました。その結果、神様はイスラエル人を罰されました。

その後、民数記15章では、神様がイスラエル人に無意識に罪を犯した場合にどうするべきかを教えられました。

神様はすべての罪を憎まれますが、私たちが時々無意識に罪を犯し、その後でその罪に気づくことがあります。

神様は「その場合、犠牲を捧げれば赦される」と言われました。

しかし、反抗的な態度で故意に罪を犯した場合は、結果が非常に厳しくなります。いけにえを捧げても赦されませんでした。むしろ、その人は民の中から断たれました。

そのため、民数記15章では、あるイスラエル人が安息日を破ったとき、彼は殺されました。

その人は安息日を忘れていたわけではありませんでした。その行動が悪いと十分わかっていながら、意図的に行いました。そのため、彼は殺されました。

私たちは皆罪を犯します。とはいえ、あなたは故意に罪を犯されるでしょうか。

時には、人々はこう言います。「私は罪を犯しますが、その後で神様に「赦してください」と言えば大丈夫だよ。」

それは反抗的な態度です。

ヘブル人への手紙の著者は、そのような人について、このように言っています。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。(ヘブル10:29)

もしあなたがクリスチャンであれば、もちろん、神様はあなたを赦されます。しかし、その罪の結果から逃れることはできません。

神様はイスラエル人の反抗的な態度を赦されましたが、神様が約束された土地に入ることは許されませんでした。彼らは自分たちの選択によって、本当に苦しみました。

そのように、私たちが故意に神様に対して反抗的な態度を取れば、必ず後で苦しむことになります。

パウロはこのように書きました。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 (ガラテヤ人への手紙6:7-8)

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心を尽くして神様に従う

昔のワーシップソングに、このような歌詞があります。

主よ、私の心をあなたに捧げます。
私の魂をあなたに捧げます。
ただあなただけのために生きます。

私のすべての息のうちに、
私が目覚めている間ずっと、
私の人生で、あなたの御心が成されますように。

教会では、その歌をよく歌いました。そして、多分今でも、多くの歌がその祈りを表現しているでしょう。

けれども、その歌を歌っても、私たちは毎日どれほど神様に心を捧げているでしょうか。

カレブの場合、彼は神様にすべてを捧げました。

たとえ周りが反対意見を言っても、カレブは完全に神様を信頼し、神様に従うことを決心しました。

その結果、ほとんどのイスラエル人が砂漠でさまよい、そこで死んでしまったのに、神様はカレブについてこう言われました。

ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。(民数記14:24)

違った心とは、「神様を信じる。神様が何でもできることを信じる」といった心です。

また、「神様が良い方だから、いつも約束を守ると信じる」といった心です。

そして、「このことを信じているから、何が起こっても神様に従う」といった心でもあります。

そのような態度を取れば、心を尽くして神様に従うことができます。それどころか、神様に従い通すことが簡単なことになります。

しかし、もし疑いがあれば、神様に従い通すことは難しいものになります。さらに、神様に心のすべてを捧げることも難しくなるでしょう。むしろ、神様に対して私たちのすべてを出し惜しみするようになるかもしれません。

例えば、将来の経歴やお金、またはミニストリーさえも、心から喜んで捧げられなくなるでしょう。

私はその戦いをよく知っています。なぜなら、心を尽くして神様に従うことについて葛藤することがあるからです。

出し惜しみをするのは簡単です。けれども、そのようにすれば神様を喜ばせることができません。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(11:6)

神様はあなたの心をどれほど持っておられるでしょうか。

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神様を信頼するのを学ぶ

時々私は自分の小さい信仰が信じられません。

例えばお金に関してです。

神様はいつも私と家族のために備えてくださいましたが、私はいつも心配しています。

お金を貯めるのが簡単だった時は心配していませんでした。けれども、今お金を貯めるのが難しくなったので、いつも心配しています。

なぜでしょう。神様は私のために備えてくださることを約束してくださいましたし、今まで備えてくださいました。それなのに、なぜ神様をもっと信頼できないのでしょうか。

イスラエルの民も同じ疑問に直面しました。

彼らは一年ほど砂漠を旅し、ついに神様が約束された土地に入る準備を始めました。

そのとき、神様はこう言われました。

人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。(民数記13:2)

その人々は帰ってきて、「本当に良かった」と言っていたのです。

けれども、彼らはこう言ったのです。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく。。。

私たちはあの民のと ころに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。。。

私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い 者たちだ。。。

私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。(民数記13:28ー33)

その言葉によって、みんなはもうその土地に入りたいと思わなくなってしまいました。

なぜでしょうか。

もちろん、とても難しいことでした。とはいえ、紅海を分けてパロの軍隊を滅ぼすことよりも難しかったでしょうか。

それに、イスラエル人の目の前で神様は何度も素晴らしい奇跡を行われました。

毎日、彼らは雲の柱と火の柱を見て、神様の臨在を感じていました。それなのに、神様に信頼せずに、反抗したのです。

ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目の教訓は、神様を信頼することを学びたいなら、私たち自身や私たちの状況に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てるべきだということです。

イスラエルの民はそうしませんでした。神様が何をできるかを話すのではなく、カナンの人々とその都市の大きさだけについて語りました。また、自分たちの弱さにばかり目を向けていました。

けれども、ヨシュアとカレブは他のイスラエル人とは違いました。

彼らは自分たちや状況に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てていたのです。そして、こう言いました。

私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。

もし、私たちがの御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。

あの地には、乳と蜜とが流れている。

ただ、にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。

彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかしが私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。(民数記14:7ー9)

2つ目の教訓は、神様に信頼することを拒否する人に耳を傾けるべきではないということです。

イスラエルの民は、神様に信頼するヨシュアとカレブの言葉には聞き従わず、神様に信頼しない人々の言葉を信じてしまいました。

その結果、カナンの土地を偵察に行った人々だけではなく、その偵察隊の意見を信頼した人々も、神様が約束された土地を見ることなく死んでしまいました。

彼らは神様の奇跡を見たにもかかわらず、神様を信頼しなかったからです。

私たちもまた、神様を信頼しない人々に従うならば、最終的には失望し、悲しむことになるでしょう。

最後に、神様が私たちのために何をしてくださったかを心に留めておくべきです。

それを思い出すことで、私たちの信仰は強められるからです。

しかし、忘れてしまうと、私たちの信仰は失われてしまいます。

イスラエルの民は10回も神様を試しました。その10回すべてで、神様はご自身が忠実であることを示されました。

それにもかかわらず、イスラエル人はそれを忘れてしまったのです。

神様の言葉は今も私の心の中で響いています。

この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。(民数記14:11)

神様、私がイスラエルの民のようにならないように。

彼らはあなたに信頼しなかったため、あなたの約束された祝福を受け取ることができませんでした。

あなたはいつも私に忠実です。それなのに、イスラエル人のように、私の信仰は揺らぐことがあります。

どうか、私が自分の弱さや状況に焦点を当てないようにしてください。むしろ、私があなたに、そしてあなたのいつくしみに焦点を当てることができますように。

私があなたの御業を絶えず思い起こし続けることができるように助けてください。

これまであなたが私を助けてくださったこと、そして未来においても助けてくださることを信じます。どうか私があなたを信頼できるように導いてください。アーメン。

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妬んでいる

時々、私は自分の性質が違っていたら良かったのにと思います。実際、私はそのように考えることがよくあります。

例えば、私がとてもシャイではなかったらどんなに良いかと思うのです。たくさんの人の前で話すのは全然平気ですけれどね。高校でスピーチクラブに参加していましたから。

でも、新しい人に会うのはどうでしょうか?それはとても難しいです。

パーティーでたくさんの人と一緒にいること?あまり得意ではありません。

めちゃくちゃフレンドリーな人を見ると、少し羨ましく感じます。

「私もそんな性格だったらいいのに。どうして神様は私をこのように創られたのでしょうか」と思ってしまいます。

妬みにはさまざまな種類があります。

そして、特に教会では、妬みが問題を引き起こすことがあります。なぜならば、その結果として人が傷付き、教会が分裂し、ミニストリーが壊れてしまうことがあるからです。

ヨシュアでさえ妬みを抱いていました。

多くの人は自分の役割を他の人に渡したくないと感じます。

民数記11章では、モーセのためにヨシュアがそのように感じました。

それ以前、モーセは神様の御霊に特別なアクセスを持っていました。特に、神様の知恵と力に対してです。他の人々にはそのアクセスがありませんでした。

けれども、ある日モーセは「このリーダーシップの重荷が重すぎる。私はもう耐えられない」と文句を言ったのです。

そこで、神様は答えられました。

イ スラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこ であなたのそばに立たせよ。

わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。

それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あな たはただひとりで負うことがないようになろう。 (民数記11:16ー17)

70人が呼ばれましたが、68人しか来ませんでした。

では、残りの2人はどうして来なかったのでしょうか?私たちには分かりませんが、そのメッセージを聞いていなかったのかもしれません。または、そのメッセージを無視した可能性もあります。忙しすぎたのかもしれません。

いずれにせよ、彼らは来ませんでした。それでも、神様はその68人だけでなく、来ていなかった2人にも御霊を注がれました。

その結果、皆が預言し始めたのです。

ヨシュアはそれを聞くと怒りました。ヨシュアはその2人に対して怒ったのでしょうが、他の68人に対しても怒っていたのでしょうか。私たちには分かりません。

ただ、その2人について聞いたとき、ヨシュアは文句を言いました。おそらくヨシュアはこう考えたのでしょう。

「その2人は私たちの仲間じゃない。最初からここに来ていれば良いのに、来なかった。それなのに、なぜその2人にも神様の御霊が与えられたのだろう。」

この話は、新約聖書の一つの出来事に似ています。

イエス様の名前によって悪霊を追い出している人がいましたが、その人はイエス様の12人の弟子たちの仲間ではありませんでした。そこで、弟子たちは怒り、その人を止めさせたのです。

同じように、ヨシュアもモーセに「その人たちを止めさせてください」と言いました。

しかし、モーセはこう答えたのです。

あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。

の民がみな、預言者となればよいのに。が彼あの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。(民数記11:29)

私たちも、そのような態度を取るべきです。

時々、私たちはミニストリーに参加しますが、他の人も参加したいと思うことがあります。

そのとき、私たちは怒って「これは私のミニストリーだ」と言うことがあります。

けれども、そのような考え方は間違っています。

神様はご自身の目的のためにミニストリーを私たちに与えてくださいました。そのミニストリーは私たちのものではありません。

そして、他の人が参加し始めることを歓迎すべきです。神様がより多くの人に御霊を注がれることを望むべきです。なぜなら、その新しい人々を通して、より多くの人々が祝福されるようになるからです。

教会の中や教会同士の間に妬みの余地はありません。

収穫の主が人々を救うために、さらに多くの働き手を送ってくださるよう祈るべきです。そして、その働き手が私たちよりも優れた方法でミニストリーを行うことができるのなら、感謝すべきです。

なぜなら、神様の国が広がっており、その国の中で私たちはそれぞれの役割を持っているのです。

しかし、もう一つの妬みの形があります。

ミリヤムとアロンにはそのような妬みがありました。その二人はモーセの立場について文句を言いました。そして、彼らはこう言ったのです。

はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。(民数記12:2)

それだけではなく、彼らはモーセのクシュ人との結婚を批判しました。なぜなら、モーセの権威を弱体化させようとしたかったからです。

そのため、神様はその二人を叱られました。

けれども、私たちも時々同じようなことをしてしまいます。

私たちは教会の中で他の人の立場を欲しがり、その人を批判して、「私のほうが上手ですよ」と言ったり、「どうして彼はそのようにするのでしょうか。私なら、違う方法でやりますよ」と言ったりします。

また、彼らのミニストリーを批判できないとき、私たちは他のことを批判します。

しかし、その批判が正しくても正しくなくても、神様は喜ばれません。

神様はご自身の意志によって、それぞれのクリスチャンに霊的な賜物を与えてくださいます。私たちは皆、教会の中でそれぞれの立場があります。

ですから、私たちは神様が与えてくださった賜物に満足し、神様の御心によって仕えるべきです。

たとえ誰かがより高い立場にあったとしても、あるいはミニストリーをうまく進めるために他の人と役割を分けなければならなくても、妬むことなく、喜んでその役割を果たすべきです。

この歌の歌詞を心に留め、その態度を実践しましょう。

あなたの栄光、
あなたの御国、
そしてあなたの名前のために、
私はここにおります。

どうか私を用いてください。

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感謝​を持っている心か不満な心があるでしょうか。

食べ物の中ではチリが大好きです。なぜなら、それしかほとんど料理できないからです。

日本では、私はチリをあまり食べません。最近は、妻が実家に帰るときだけに食べています。私は自分で作るのですが、これは5人前のレシピなので、長い間食べ続けられます。😊

でも、毎日一年中チリを食べ続けるのは無理だと思います。

イスラエル人も、そのような状態に直面しました。彼らはずっと、毎日マナを食べていました。

最初は、本当に感謝していましたが、最終的には飽きてしまいました。

「朝にマナを食べる。昼にマナを食べる。夜もマナを食べる。もう飽きた!他の食べ物が食べたい!肉とか、スイカとか、キュウリとか!」

(なぜキュウリなのか謎ですが。まあまあ好きですが、『本当に食べたい』とは言えません。)

「ニンニクとか玉ねぎとか欲しい!」

(臭い息が好きだったのでしょうか?)

その少し前には、イスラエル人は砂漠での旅について文句を言い、神様に叱られたばかりでした。そのため、神様もモーセも本当に怒っていました。

神様がイスラエル人を奴隷生活から解放し、彼らの必要をすべて備えてくださったにもかかわらず、イスラエルの民はまだ文句を言っていたのです。

そこで、神様は肉を与えてくださいましたが、彼らがそれを食べている間に、神様は疫病をもって人々を討たれ、多くの者が亡くなったのです。

この話から、私たちは何を学べぶことができるでしょうか?

一つ目は、今持っているものに感謝することを覚えておくことです。

イスラエルの民を批判するのは簡単ですが、私たちも同じようなことをどれほどしているでしょうか。

もし第三世界諸国の人たちが私たちが持っているものを手に入れたら、心から喜ぶと思います。食べ物と服と家があれば、本当に満足だと言うでしょう。

それでも私たちは、それらをすべて持っているにもかかわらず、文句を言います。「これが欲しい。あれが欲しい。」と。

もし、私たちが満足を学ぶことができたら、どれほど人生が喜びに満ちるでしょうか。

二つ目は、不満な態度は本当に伝染するということです。

最初に、混じってきた者たちが文句を言い始めましたが、すぐに全員が文句を言い始めました。

同じように、もし私たちの周りの人が常に文句を言っていたら、その態度が私たちに影響を与えないように気をつけなければなりません。

三つ目は、神様が私たちの必要を備える力を持っておられるということです。だから、必要があるときは文句を言わず、神様に祈るべきです。

イエス様はこのように教えられました。

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7:11)

モーセが神様の力を疑ったとき、神様はこう答えられました。

主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。(民数記11:23)

そして、神様は皆のために必要なものを備えてくださいました。

最後に、私たちが満たされると思うものは、結局私たちを満たすことができません。

イスラエルの民は肉さえあれば満足できると思いましたが、結局、多くの人が亡くなりました。

彼らはその場所をキブロテ・ハタアワと名付けました。その意味は「欲望の墓」です。

もし私たちの欲望が私たちを支配するなら、私たちも墓に入ることになります。

アルコールや食べ物、タバコ、麻薬などの欲望によって、どれほど多くの人が命を落としたでしょうか。

私たちの欲望によって、私たちの人間関係や経済がどれほど損なわれたでしょうか。

私たちは、私たちを満たすことのできないものを、もう求めないようにしましょう。

むしろ、私たちを本当に満たすことができる神様を求めましょう。そして、感謝をささげましょう。

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私たちの先に行ってください。私たちの間にいてください。

イスラエルの民がシナイから出発する際に、モーセの言葉はとても心に響きます。モーセはこう言いました。

主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。(民数記10:35)

つまり、「主よ、どうか私たちの先を行ってください。あなたが私たちのリーダーであり、私たちはあなたについて行きます。どうか私たちの道をまっすぐにし、あなたの敵、また私たちの敵を散らしてください。」

イスラエル人が出発するたびに、モーセはこのように祈りました。

私たちも、このように祈るべきです。

聖書には、このように書かれています。

身を慎み、目をさましていなさい。

あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

主の祈りにおいても、イエス様はそのような祈りを教えてくださいました。つまり、

悪からお救いください。(マタイ6:13)

毎日、サタンは神様と戦っています。神様の民である私たちもまた、サタンのターゲットです。

悪霊がすべての岩陰に隠れていると言っているわけではありません。けれども、サタンとその悪霊は、私たちが神様の御心を成就しないように働いています。

ですから、私たちもモーセのように祈るべきです。

主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。

主の雲がとどまるとき、モーセは祈りをささげました。

主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。(36)

つまり、「あなたは私たちを大いなる民にしてくださいました。本当に私たちを祝福してくださいました。しかし、神様の導きによって私たちがここに来たのですから、

どうか私たちの間にいてください。あなたの臨在が決して私たちから遠く離れることのないようにお願いします。」

私たちも、このように祈るべきです。

「神様、あなたは私たちをここまで導いてくださいました。私たちを呼び、あなたの民としてくださったのです。

ですから、私たちから遠く離れないでください。私たちの間にいてください。そして、私たちがあなたの臨在をもっと知ることができるように助けてください。」

神様、あなたがエジプトからイスラエル人を呼び、砂漠で導かれたように、あなたは私をサタンの国から呼び、天国にたどり着くまで導いてくださいます。

ですから、いつも私の先を行ってください。私を攻撃し、破壊しようとする敵から守ってください。

そして、私がどこに行っても、私と共にいてください。私の隣にいてください。私の必要を備えてください。私を導き、守ってください。アーメン。

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あなたを愛しています。あなたを必要としているのです。

「私はあなたを愛しています。」

「私はあなたを必要としているのです。」

私たちが愛している人に、どれくらいこの言葉を伝えるでしょうか。

愛している人がいつもそばにいて、私たちを助けてくれて、私たちを愛してくれるのが当然だと思うのは簡単です。

そのため、無意識のうちに、彼らとの関係が少しずつ離れていくことがあります。

それは結婚の関係でも、家族の関係でも、友達の関係でも同じです。なぜならば、私たちは「あなたは私にとってとても大切な人です」と伝えるのを忘れてしまうからです。

モーセとイスラエル人がシナイを出てカナンに向かうとき、モーセの義理の兄ホバブは自分の国に帰ろうとしていました。

けれども、モーセはこう言いました。

私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。

私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。

主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。(民数記10:29)

しかし、ホバブは答えました。

私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。(30)

それを聞いて、モーセは諦めることもできましたが、それでもなお頼み続けました。

どうか私たちを見捨てないでください。

あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。

私たちといっしょに行ってくだされば、主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。(31ー32)

その言葉によって、モーセはホバブをどれほど愛していて、ホバブが必要であることを伝えました。その結果、ホバブはイスラエルの民と一緒に行くことを選びました。

あなたはどうですか。少し疎遠になっている関係はありますか

。愛している人に、どれほどあなたがその人を愛していて、相手が必要であるかを伝えていますか。

私たちの関係を大切にしましょう。

そして、相手がどれほど大事であるかを伝えましょう。たった2つのシンプルなフレーズで十分です。

「私はあなたを愛しています。」

「私はあなたを必要としているのです。」

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苦しい時、主の前に覚えられている。良い時に、神様を覚えていましょう。

日本では、神社に行くとき、皆は5円ぐらいを捧げ、鈴を鳴らし、手を叩いて神社の神に祈ります。

鈴を鳴らすことと手を叩くことは、その神の注意を引くためだと言われています。

多くの人はこの箇所を読むと、ラッパが同じ機能を持っていると思うかもしれません。

9節には、次のように書かれています。

また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。

あなたがたが、あなたがたの神、主の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。(民数記10:9)

しかし、神様は決して寝ることがないので、起こされる必要はありません。

私たちがここにいて、神様の助けが必要であることを神様に思い出させる必要もありません。

だから、この箇所で、神様はこう言われているのです。

苦しむとき、辛いとき、攻撃されるとき、また神様が遠くに感じられるときでも、神様はあなたのことを忘れてはおられません。

もし神様を呼ぶなら、神様は必ず答えてくださり、助けてくださるのです。

苦しいときに、神様を覚えることは簡単です。しかし、神様は「良いときにも私を覚えていてください」と言われます。

10節にはこのように書かれています。

また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。

今、苦しいときでしょうか。あなたの祈りが壁に響くだけのように感じるでしょうか。

神様があなたを忘れていないことを心に留めてください。もし神様を呼ぶなら、神様はあなたの声を聞いてくださり、助けてくださいます。

今、良いときでしょうか。

神様を忘れないでください。

神様の善意に感謝することを覚えていてください。 そして、良いことが起こったときには、それを必ず書き留めてください。

そうすることで、苦しいときが訪れたとしても、神様の愛と忠実を決して忘れることはないのです。

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神様の方法に従って、神様のタイミングを待つ

私は20代くらいで結婚すると思っていました。

兄は28歳の時に結婚しましたし、姉は26歳の時に結婚しましたから、「27歳くらいで結婚するのかなあ」と思っていました。

けれども、30代まで待たなければなりませんでした。時々フラストレーションを感じることもありましたが、神様のタイミングで、ふさわしい人を与えてくださいました。

結婚に対して、私は神様の基準を決して妥協しませんでしたが、時々誘惑を感じました。

しかし、クリスチャンの友の中には、その誘惑と戦った末に、結局神様の基準を妥協してしまった人もいたのです。

その人たちを責めているわけではありません。その人たちを裁けば、私自身をも裁かなければならないからです。私はその基準を妥協しませんでしたが、時々他のところで妥協してしまいました。

けれども、クリスチャンとして、私たちは神様の方法に従い、神様のタイミングを待つことを学ばなければなりません。

それが9章の教訓です。

9章の最初は過越の祭りについての話です。

神様は全員がその祭りに参加することを命じられましたが、誰かが亡くなり、その親族がその死体によって「身を汚した」のです。

神様の律法によれば、身が汚れた人は過越のいけにえを捧げることができませんでした。そのため、その人たちはモーセにアドバイスを求めました。

モーセは自分の意見を述べることはせず、こう言いました。

待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。(民数記9:8)

神様の答えを聞いた後、その人たちは神様の言葉に従いました。

その後、この箇所には、神様がどのようにイスラエル人を導かれたかが書かれています。

神様の臨在を表す雲が幕屋を覆いました。

そして、

雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。

そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。(17)

雲が離れて上がらない限り、イスラエル人はどこにも行きませんでした。

一年たっても、イスラエル人は雲の先に進みませんでした。むしろ、彼らは神様のタイミングを待ちました。

聖書には、こう書かれています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12)

時々、私たちは何をするべきか知っていると思うことがあります。時々、私たちが神様よりも知っていると思うこともあります。

けれども、私たちが神様の導きを求めなければ、大変な状態になります。

また、神様のタイミングを待てないと思い、自分自身の道を行った場合には、大変な問題が起こるのです。

私たちが神様の道を行き、神様のタイミングを待てば、私たちの人生はうまくいくはずなのに、どうして私たちは自分の道を行ってしまうのでしょうか。

妻や夫を探すときに。もっと良い仕事を探すときに。どんな状況でも、神様の道を行くほうが良いのではないでしょうか。

それでも、多くの場合、私たちは自分の道を行ってしまうのです。

神様を信頼することは難しいです。

時々、私たちは長い時間を待たなければなりません。イスラエル人は一年待っていて、少しせっかちになったかもしれません。

きっと、「いつ神様が約束を守られるのでしょうか。いつカナンに行けるのでしょうか」と思ったことでしょう。

しかし、神様は一番良いことをご存じであり、「私を信頼してください」と言われていました。神様は私たちにも同じメッセージを与えてくださるのです。

神様、時々、私は自分の人生について考えると、がっかりしてしまいます。なぜならば、私の人生は希望通りに進まないからです。

そして、私は時々こう考えます。「神様のために待って、神様の道を歩き続けたほうが良いでしょうか。それとも、もう神様の道を諦めて、自分の道を行ったほうが良いでしょうか。」

神様、私があなたに従うように助けてください。

これまで私はあなたの道を行き、あなたのタイミングを待ったときに、あなたはいつも忠実でした。だから私が疲れたとき、そのことを思い出すことができるように助けてください。

また、私ががっかりして、せっかちなときに、あなたが良い方であることを思い出すように助けてください。

私があなたの道を行き、あなたのタイミングを待つことができるように助けてください。アーメン。

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清められて、神様の前​に立たせられる

金の子牛の事件の時に、レビ人が神様のための情熱を示したため、神様は彼らを仕えるために選ばれました。

しかし、神様に仕える前に、彼らの罪は贖われる必要があり、また体は洗われなければなりませんでした。

その後で、神様の前に立たせられたのです。その全てを経てから、彼らは神様に仕えることができました。

この箇所から、4つのことを学べると思います。

一つ目は、神様に仕えるために、私たちは情熱だけでは足りないということです。神様に仕える前に、イエス様の血によって私たちの罪は清められなければなりません。

神様の一番大切な命令は、私たちが悔い改め、罪の赦しのためにイエス様を信じることです。その命令を拒否した場合、私たちがどのようにして神様に仕えることができるでしょうか。

二つ目は、私たちが神様に仕えたいと願うなら、自分自身を神様に捧げる必要があるということです。

ローマ書12:1には、「私たちはからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と書かれています。

そうしなければ、神様は私たちを十分に用いることができません。

その決断をする際、私たちはこう言います。「私はあなたに仕えるためのものです。私を用いてください。」

そうすることで、神様は自由に私たちを用いることができます。ローマ書6:13にはこのように記されています。

むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

3つ目は、自分の方法で神様に仕えることができません。

レビ人はそのようなことをしませんでした。むしろ、祭司たちに従ったのです。

そのように、私たちは大祭司イエス様に従います。

最後に、神様に仕える人生の順番は、まず私たちが清められてから仕えることです。

多くの人は「神様に仕えたら、また、良いことをたくさんしたら、私が清められる」と考えます。

しかし、もし私たちの罪が清められなければ、神様の目に私たちの働きは汚れた着物のように映るのです。(イザヤ書64:6)

まず清められる必要があります。その後でこそ、神様は私たちの行動を受け入れてくださるのです。

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神様に捧げるときに

「クリスマスの12日」という歌があります。

その歌は、何度も何度も同じ言葉を繰り返します。その歌が終わるまでに、本当に疲れてしまいます。ですから、その歌があまり好きではありません。

この箇所を読むとき、私は同じような感じがします。

イスラエルの12の部族は神様に同じ贈り物を捧げました。ですから、同じ言葉を12回繰り返します。

モーセの五書の中でこれは一番長い章です(89節です)。

どうして「部族の全ては同じ贈り物を捧げた」と記さなかったのでしょうか。その方がもっと早いでしょう。

おそらく、神様が私たちの贈り物を受け取る際、本当に喜ばれるからです。

神様は「はい、はい、はい。分かりました。ありがとうございます。でも、少し忙しいので、もう行ってください。」と言われません。むしろ、神様は私たちの贈り物を見て、それを尊い物とみなされるのです。

各イスラエルの部族には自分の捧げる日がありました。同じ贈り物を捧げても、モーセはそれをきちんと記録しました。

神様は私たちの贈り物をそのように考えてくださいます。

私たちが何を捧げても、十一献金でも、時間でも、私たちの努力でも、神様はそれをご覧になり、記録されます。

それはなぜでしょうか。私たちが神様の尊い子供だからです。そして、私たちは愛によって神様を喜ばせたいと願うなら、神様の心に触れるのです。

「神様にとって私はあまり大事な存在ではない」と考えたことがありますか。

「私はあまり良いものを神様に捧げることができない」と思ったことがありますか。

神様にとって一番大切なのは、あなたの心だと思います。

もし神様があなたの心を持っておられるなら、あなたが何を捧げても大丈夫です。

神様があなたの心を持っておられるなら、あなたとあなたの贈り物を、世界で最も尊いものとみなしてくださるのです。

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祝福の祈り

民数記6:24-27は、聖書の中で大好きな箇所です。

祭司たちはイスラエル人のために、この祝福の祈りを祈りました。

があなたを祝福し、あなたを守られますように。

が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』(民数記6:24ー26)

誰かが私のためにその祈りを祈ってくれたら、私は本当に嬉しいです。

神様の祭司として、私たちは他の人々のために、この祈りを捧げるべきです。

何のために祈るのでしょうか。

1.彼らの上に神様の祝福があるように祈ります。

つまり、彼らがキリストにあってすべての霊的な祝福を持っていることを知るように祈ります。

それは、私たちの罪が赦され、私たちが神様の子供となったことです。

そして、神様が彼らを毎日祝福してくださるように祈ります。具体的には、彼らの仕事、人間関係、そして人生のすべてが祝福されるように祈ります。

2.神様が彼らを守ってくださるように祈ります。

つまり、サタンの攻撃から、また災いから守ってくださるように祈ります。

3.神様が御顔を彼らに照らしてくださるように祈ります。

つまり、神様がご自身を彼らに現し、さらに彼らが神様をもっと深く知ることができるように祈ります。

4.神様が恵みを彼らに注いでくださるように祈ります。

私たちが毎日神様の恵みを必要としているように、他の人々にもその恵みが注がれるよう祈りましょう。

5.神様が彼らに御顔を向けてくださるように祈ります。

彼らの罪を見て、神様が背を向けることがないように祈ります。むしろ、神様が積極的に彼らを追い求め、彼らの人生の中で働き、神様に近づけるように祈ります。

この祈りのイメージは、神様が笑顔で私たちをご覧になっている姿なのです。

6.神様が彼らにキリストからの平安を与えてくださるように祈ります。

すべての理解を超える神の平安が彼らに与えられるように祈ります。

英語の翻訳では、27節にこう書かれています。「私の名を彼らに付けます。」

つまり、この祈りを祈ることで、神様は彼らをご自身の尊いものとして考え、祝福してくださるのです。

だから、これはあなたのための私の祈りです。

主があなたを祝福し、あなたを守ってくださいますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたに恵みを与えてくださいますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えてくださいますように。アーメン。

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民数紀

主のために聖別している

聖書の時代には、人々が時折、自分の人生を一時的に神様に聖別することがありました。その際、ナジルの誓いを立てました。

ナジルとして神様に仕えるために、三つの誓いを守りました。

一つ目は、ぶどう酒を飲まず、ぶどうから作られた食べ物を口にしないことでした。

二つ目は、髪の毛を切らずに伸ばしておくことでした。

三つ目は、死体の近くに近づかないことでした。

聖書の中には、有名なナジルとして知られる人々が何人かいます。例えば、サムソンとバプテスマのヨハネです。

この二人は神様から特別な働きを与えられました。サムソンはイスラエル人をペリシテ人から救い出すために選ばれ、ヨハネはイスラエル人をイエス様に備えるために選ばれました。

では、私たちはそこから何を学べるでしょうか。

ナジルの人々は意識して自分自身を神様に捧げました。

同じように、クリスチャンとして私たちもそのように呼ばれています。パウロはこう書いています。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

つまり、私たちは自分の体を神様が用いることができるものとして捧げるべきです。神様に受け入れられるものとして体を捧げるべきです。

パウロの言葉によれば、その行動は神様への礼拝です。

礼拝とは賛美するだけではありません。

礼拝とは、自分の人生を神様に捧げることなのです。

それならば、私たちも髪の毛を伸ばしておかなければならないとか、ぶどう酒を飲んではいけないとか、死体の近くにいてはいけないのでしょうか。

それも違います。とはいえ、ナジルの誓いから学ぶことができるのです。

一つ目は、神様のために聖別された者として、聖霊様に満たされ、自分の人生を聖霊様の導きに委ねるべきだということです。

パウロはこう書いています。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

ぶどう酒を決して飲んではいけない、という意味ではありません。けれども、ぶどう酒があなたの人生を支配することを許してはいけません。

それだけでなく、他のものがあなたの人生をコントロールすることも許してはいけないのです。

インターネット、ポルノ、仕事、趣味など――何があなたの人生を支配していますか。

それとも、他のものがあなたの人生を支配しているのでしょうか。

何があなたの時間を支配していますか。

何があなたの思いを支配していますか。

神様ですか。

それとも、他のものでしょうか。

二つ目は、私たちが神様のために聖別されたことについて、大胆に伝えるべきだということです。

聖書の時代には、ナジルの髪の毛が周りの人々に「私は神様のものです」と示しました。

人々はナジルの人を見ると、すぐに分かりました。「この人は神様に捧げられた人だ」と。

そのように、周りの人々が私たちを見たとき、私たちがクリスチャンであることを知るべきです。

時々、クリスチャンはこう言います。

「私は静かな証人です。私は多くの良い行いをして、多分、彼は私がクリスチャンだと知っているでしょう。だから、何も言う必要はありませんよね?」と。

けれども、多くの「良い人」がクリスチャンではありません。

もし、私たちが何も言わなければ、彼らは「この人は良いクリスチャンだ」とは考えません。

ただ「この人は良い人だ」と考えるだけです。

もちろん、私たちの行動は重要です。それは、私たちの証しの証拠となるからです。

しかし、行動だけでは不十分です。何かを語らなければならないのです。

三つ目は、私たちは死んだものから離れるべきだということです。

ここで言う「死んだもの」とは、文字通りの死体ではありません。むしろ、死へと導く罪から離れるべきだということです。

パウロはこう書いています。

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、(第2コリント6:17)

以前言ったように、ナジルの人々は一時的に自分の人生を神様に捧げました。

一方で、私たちは命の限り、神様にすべてを捧げるように呼ばれています。

なぜでしょうか。それは、イエス様がご自身の人生を私たちのために捧げてくださったからです。

イエス様は天国を離れ、この世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれました。

だからこそ、神様のあわれみに応えて、私たちは神様に人生を捧げるのです。神様がそのあわれみを私たちの人生に注いでくださったからです。

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民数紀

罪についてのもう3つのポイント

レビ記4ー6章では、罪について五つのポイントを話しました。

この箇所では、罪についてさらに三つのポイントを学べると思います。

一つ目は、人に対して罪を犯すとき、私たちは神様に対しても罪を犯しているということです。

5ー6節で神様は、「人に対して罪を犯したら、私に対しても不信の罪を犯した」と言われました。

たとえば、夫が妻に罪を犯したら、神様に対しても不信の罪を犯しています。両親が娘や息子に罪を犯した場合も同様です。

あなたが隣人、友達、同僚、または知らない人に対して罪を犯したら、それは神様に対しても不信の罪を犯したことになるのです。

ダビデはそのことを理解していました。バテ・シェバと姦淫を犯し、その夫を殺したとき、ナタンがダビデのもとに来て責めました。

ダビデは悔い改めの詩篇にこう記しました。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。(詩篇51:4)

二つ目は、罪を犯したら必ず罰を受けるということです。

罪をどんなに上手に隠しても、いずれ明らかにされます。この世で明らかにされなくても、天国で明らかにされるのです。親しい友達や家族に隠しても、神様からは隠すことはできません。

この箇所の最後の部分で、そのことを学ぶことができます。

夫が妻が姦淫を犯したと思った場合、証拠がなくても祭司のもとに妻を連れて行きました。そして、その妻は苦い飲み物を飲むことになりました。

その後、赤ちゃんができなかったり、流産したりすれば、その妻は有罪とみなされました。けれども、何も起こらなければ、その妻は無罪とみなされました。

この飲み物は魔法ではありませんでした。しかし、神様はイスラエル人のためにこの判断方法を与えられたのです。

そして、神様は心を見通し、有罪の者を罰し、無罪の者を守られました。

三つ目は、誰かが私たちに対して罪を犯したとしても、復讐する権利は私たちにはないということです。

なぜ神様がこの判断方法を与えられたのでしょうか。

それは、夫が罪を犯さないようにするためです。つまり、夫が妬みによって妻を虐待したり、殺したりすることを防ぐためです。

あるいは、妻を離婚することを防ぐためでもあります。神様はこの判断方法についてこう言われました。

夫には咎がなく、その妻がその咎を負うのである。(民数記5:31)

つまり、妻が夫に対して罪を犯したとしても、夫は復讐してはいけませんでした。むしろ、神様に妻を委ねるべきでした。

そのように、私たちも決して復讐をしてはいけません。むしろ、神様にその人を委ねるべきなのです。

ローマ12:19には次のように書かれています。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

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民数紀

神様の前に来られないもの

レビ記で、清いものと汚れたものについて話しましたけど、もう一度そのことに戻ります。

印象に残っているのは民数記5:3です。

男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。

つまり、神様は聖い方でおられるため、神様の前に汚れたものが来ることはできません。

多くの人は神様と天国について誤解をしています。それは、もし彼らの良い行いの数が悪い行いの数より多ければ、神様が彼らを天国に入れることを許してくださると思っていることです。

彼らは天国の門に、はかりがあると考えています。もし良い行動が悪い行動より「重かったら」大丈夫だと考えています。

しかし、天国の門ははかりのようではありません。それよりも、天国の門は空港のセキュリティゲートのようなものです。

空港では、飛行機に乗る前にセキュリティゲートを通過しなければなりません。そして、もし鋏やナイフ、ペットボトルなどがある場合は、ゲートを通過できません。

ちょっと想像してみてください。誰かがセキュリティゲートに来ますが、鋏とペットボトルを持っています。そして、警備員がこう言います。

「通過できません。鋏とペットボトルを捨てなければなりません。」

けれども、その旅行者は文句を言い始めます。

「だって、鞄の中にはたくさん良いものがありますよ。ほら、おばあさんへのお土産もあるし、新しい服もあります。私の鋏とペットボトルはもう気にしないでください。別にいいでしょう?」

警備員はどう答えるでしょうか。

「絶対にだめです。捨てない限り通過できません。」

このように、神様は罪を扱われます。

良いことをしても、それだけでは天国に入ることはできません。あなたの良い行動は天国に入る障害ではありません。

むしろ、あなたの罪が問題なのです。もし心の中に罪を持っているなら、天国の門を通過することはできません。むしろ、天国の外に追い出されます。

イエス様の血だけがあなたの罪を清めてくださいます。

イエス様は十字架であなたの罪のために罰を受けられました。そのため、もしそのイエス様の働きを信じて、神様の赦しを求めて祈るなら、神様がその罪を取り去ってくださいます。そして、神様は天国の門であなたを喜んで迎えてくださいます。

ローマ10:9には次のように書かれています。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

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民数紀

戦う準備ができた。仕える準備ができた。

それでは、民数記を始めましょう。

モーセがイスラエルの民を二度数えたため、この書は「民数記」と呼ばれているのです。

1ー2章には、十一部族の人数を数えたことについて書かれています。その目的は、イスラエル人がカナンに着いたとき、どれほどの人数が戦いに参加できるのかを知るためでした。

その後、各部族がキャンプの中で、自分たちの場所を割り当てられました。

3ー4章はレビの部族について書かれています。その箇所には、レビ人の責任が示されています。

1ー4章では、四つの言葉が繰り返し登場します。それは、「属する」、「進む」、「任命する」と「任務」です。

このことから、二つの重要な点を学べると思います。

一つ目は、神様の民として私たちが戦いの中にいるということです。

エペソ人への手紙6:12には、次のように書かれています。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

だから、私たちは神様の軍隊に属し、それぞれの場所を割り当てられました。

私たちはイエス様の福音を、この死にかけている世界に携え、サタンの国から人々を解放する使命を与えられました。

ですから、どこにいても、どんな仕事をしていても、そこがあなたの戦いの場なのです。近所でも、職場でも、学校でも、私たちはサタンとその悪霊に立ち向かうように呼ばれています。

しかし、レビ人が幕屋で仕えるように呼ばれたように、私たちもキリストの体、つまり教会の中で仕えるように呼ばれています。

それは教会の建物だけを指すのではありません。むしろ、神様から与えられた賜物を用いて、神様の民に仕えることです。

ローマ書12章には次のように書かれています。

一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。ローマ12:4ー8)

軍人として、またしもべとして、私たちがこの世に生きている間、それこそが私たちの召しなのです。

私たちに与えられた立場を受け入れ、その任命された任務を全うしましょう。

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レビ記

私は気が変わった

それでは、これはレビ記の最後の箇所です。思ったほど苦しくありませんでした。😊

実は、本当に興味深いことがたくさんありました。だから、聖書を読み続けることが楽しみです。

この最後の箇所は誓いについてです。これを読んで、神様にとっては、誓いが深刻なことだと分かります。神様は誓いを要求されませんが、私たちが誓ったら、その誓いを守らなくてはなりません。

誓いを守るのが難しくなったら、少し恵みがありました。それは、買い戻すことです。

例えば、サムエルのお母さんのように、誰かが自分の子供を神様に仕えるために捧げましたが、後でその決断を後悔したら、子供を買い戻しても大丈夫でした。そうすれば、その誓いを守ったこととみなされました。

そのように、人でも、動物でも、家でも、土地でも神様に捧げた場合、代価を払えば、そのものを買い戻すことができました。これは27章の律法の意味です。

しかし、神様に誓ったら、守らなくてはなりません。そして、自分の方法で守ってはいけません。神様の方法で守らなくてはなりません。誓ったら、気を変えてはいけませんでした。

私たちにとってはどういう意味でしょうか。神様の前で私たちの言葉に気をつけなくてはなりません。

私がクリスチャンのキャンプに行った時に、私の先生はこう言いました。

「『私のすべてをお捧げします』という賛美歌を私は決して歌いません。なぜならば、この歌を歌ったら、それが神様への祈りであり、神様への約束だからです。私はその言葉が好きだし、約束したいのですが、その約束を守ることができないと思うのです。」

面白いのは、その後で、キャンプのリーダーがワーシップをリードして、その歌を歌いました。けれども、皆は先生の言葉を覚えていたから、その歌を歌うのが不安でした。

歌ったあとで、キャンプのリーダーは言いました。「皆は初めてその歌を聞いたのでしょうか。ほとんど誰も歌っていませんでしたね。」

多分、その後で、私たちの先生はキャンプのリーダーに説明して、その二人は笑ったと思います。

とにかく、私の意見は少し違います。私はそのような歌を歌うときに、こう祈ります。「神様、私はこの言葉を守りたいです。私は弱いし、よく失敗します。でも、この言葉は私の心の願いです。だから、助けてください。」

あなたは神様に約束しますか。そうであれば、その約束を守りますか。そうしないのであれば、約束しないほうがいいです。

イエス様はこう言われました。

さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(マタイ5:33ー37)

もし、もう誓ったけど、その約束を守ることができないなら、どうしたら良いでしょうか。大祭司イエス様に行って、どうしたら良いか聞いたほうがいいです。

モーセの時代に、誰かが子供を買い戻したかったけど、その代価を払えなかったら、その人は祭司に行って、その祭司は代価を変えることができました。

そのように、イエス様は私たちに恵みを与えてくださいます。どのようにその誓いを守るか教えてくださいます。

しかし、イエス様が言われたように、私たちは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言うべきです。

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レビ記

反抗、懲らしめ、恵み

多くの人は神様について考えるとき、罰を与える神様として考えます。多分、このような箇所はそのイメージを強めるかもしれません。けれども、この箇所を読むときに、思い出さなくてはならないことがあります。

神様は、神様を愛している人について話しておられるのではありません。心を尽くして神様に仕えたい人について話しているのではありません。

むしろ、神様に反抗する人について話しておられます。この人たちは「神様に聞かないし」、「掟を拒むし、定めを忌み嫌いし」、「頑固だし、神様に反抗する」という人です。

神様はこのような人について話しておられるのです。もし、私たちが神様に反抗したら、神様はその人を懲らしめます。

しかし、神様の懲らしめについて、二つのことを思い出すべきです。

一つは、神様に反抗するとき、私たちは神様の保護から外れるため、私たちの人生に悪いことが起こることが多いということです。

どれだけの人が、神様の性に関する教えを拒むことで、エイズに苦しんでいるでしょうか。

どれだけの人が、神様に委ねず、自分自身に頼ることで、本来恐れる必要のないことに怯えてしまっているでしょうか。

どれだけの人が、サタンに攻撃されているのに、神様から離れているために無力になっているでしょうか。

けれども、そのような状態になると、私たちは神様を責めてしまいます。

もう一つ思い出さなくてはならないのは、神様がその状態を許される理由があるということです。神様は私たちを破壊されたくありません。

サタンは私たちを破壊したいですが、神様はそうされたくありません。むしろ、神様の望みは私たちが悔い改めることです。

一番暗い時期でも、私たちの人生がめちゃくちゃになっていても、神様は私たちを捨てられません。私たちが忠実でなくても、神様は忠実でいてくださいます。

もし私たちが悔い改めるなら、神様は私たちに恵みを与えてくださいます。イスラエル人を赦し、回復されたように、私たちも赦され、回復されます。懲らしめの目的は、私たちが神様の恵みをもう一度知ることにあります。

だから、毎日そのように生きましょう。つまり、神様の恵みの下に生きましょう。

私たちの一番ベストの日でも、神様の恵みが必要です。神様は罰を与えたくないのです。むしろ、恵みを与えたいのです。

だから、神様を恐れないでください。神様はあなたを愛しておられるからです。むしろ、神様に対して柔らかい心を持ち、神様の恵みに心を開きましょう。

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レビ記

私たちに対しての神様の望み

「神様は私たちから何を望んでおられるでしょうか。」

多くの人がその質問をします。そして、この箇所を読んだら、彼らが答えを見つけると考えます。つまり、神様は私たちの服従を望んでおられます。だから、彼らは神様の律法に焦点を当てて、頑張って従います。

でも、結局、彼らが頑張っても、完全に律法に従わないから、その律法が重すぎる荷物になって、がっかりするようになります。

しかし、この箇所を読むと、私は別の疑問の答えを見つけました。それは、「神様は私たちに対して、何を望んでおられるでしょうか。」

わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、である。

わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。(レビ記26:12-13)

神様は私たちに対して何を望んでおられるでしょうか。一つ目は、私たちと親しい関係を望んでおられます。毎日、私たちの隣に歩みたいのです。私たちが神様の民として神様を愛して仰ぎ、神様が私たちを愛の目で見てくださる関係を望んでおられます。

二つ目は、私たちの自由を望んでおられます。だから、イスラエル人をエジプトから解放してくださったのです。そのように、神様は私たちを罪の鎖とサタンの国から解放してくださったのです。

三つ目は、私たちがまっすぐに立って歩くことを望んでおられます。つまり、私たちが罪からの恥を感じながら歩くことを望んでおられません。神様が私たちを愛し、受け入れてくださるかどうかを思い悩むことを望んでおられないのです。

むしろ、私たちの罪が贖われて、私たちが神様と良い関係にあるから、胸を張って立ち、歩くことを望んでおられます。

これは、神様との関係が始まるところです。神様の命令に頑張って従うことではなくて、むしろ、神様が私たちの人生に触れて、罪の鎖を砕き、その恥を取り去ることから始まります。そして、神様と親しい関係があるから、毎日神様と歩くことができるのです。

神様の民として、神様とともに歩み、従うなら、祝福が訪れます。

神様が私たちの必要を備えてくださる(4ー5節)。

神様の平安を知るようになります。もはや、将来のことを恐れる必要がありません。私たちの将来が神様の手にあることを知っているからです。(6節)

勝利を知るようになります。罪と戦うときに、また、サタンとその悪霊と戦うときに、私たちは圧倒的に勝つのです。(7-8節)

私たちは実を結びます。私たちの家族と仕事とミニストリーの中で、神様の国のためにたくさんの実を結びます。

最後に、私たちの人生に神様の臨在を感じることができます(11-12節)。神様は私たちを決して離れず、また私たちを捨てないと約束してくださったのです。

それが神様の望みです。私たちが神様の望みと神様の働きに焦点を当てたら、神様に従うことはそんなに大変な重荷にはならないでしょう。

罪の鎖を砕くために、神様の命令に従うのではありません。神様の愛を得るために神様の命令に従うのではありません。

むしろ、私たちの鎖がすでに砕かれて、私たちがすでに神様の愛を受け取っているから、神様に従うのです。

そのことに焦点を当てたら、服従は重荷にはならないでしょう。むしろ、服従は喜びになります。

ヨハネが書いたように、

神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(第一ヨハネ5:3)

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自由

アメリカのフィラデルフィアという都市にベルがあります。そのベルの上に、この言葉が書いてあります。「国中のすべての住民に解放を宣言する。」

このベルは自由の鐘です。けれども、私はその言葉がベルの上に書いてあることを知りませんでした。もしかしたら、聞いたことがあったかもしれないけれど、ずっと前に忘れてしまっていました。

この言葉はレビ記25:10から来ます。神様はこう言われました。

あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。

このヨベルとは何でしょうか。それはキリストにある自由の美しい絵です。

七年おきに、イスラエル人は種を蒔かず、刈り入れもしませんでした。むしろ、七年目は、地の全き休みの安息でした。その時には、六年目の収穫から食べました。また、落ち穂から生えたものを売るために刈り入れてはなりませんでしたが、自分の食事のために食べても大丈夫でした。

そして、安息の年を七たび、つまり、49年おきに、贖罪の日に角笛が鳴り響きました。そして、ヨベルの年が始まりました。

その年には、負債を払うために自分自身を奴隷として売った人は自由にされ、家族のもとに戻りました。

また、もし家族の土地を負債を払うために売っていたら、その土地も戻りました。だから、ヨベルの年は自由と祝いの年でした。

ヨベルの年が贖罪の日に始まったことが大切だと思います。贖罪の日には、罪の代価が支払われました。それから、ヨベルが始まりました。自由の年が始まりました。回復の年が始まりました。つまり、人間関係の回復や土地の回復です。

そのように、イエス様が十字架で私たちの罪のために支払ってくださった時、私たちにとっては新しいスタートでした。私たちと神様の関係が回復されました。また、罪で壊れた人間関係も回復されました。

そして、神様からの遺産も回復されました。それは天国だけではありません。それは、神様が私たちのために初めに計画されたことを回復されたのです。アダムとエバが罪を犯した時に失ったことが回復されます。つまり、愛と平和と喜びと満足です。

しかしそれよりも、神様の子供の自由が回復されました。サタンの国からの自由であり、罪で縛られた人生からの自由です。神様の怒りと裁きを恐れずに、神様を自由に愛して仕えることができるのです。イエス様は十字架で、その怒りと罰を受けてくださったからです。

イエス様はこう言われました。

わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。

主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。(ルカ4:18ー19)

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死に導く態度

これはかなりショッキングな話ですが、とても大切なことを学べると思います。

エジプト人のお父さんとイスラエル人のお母さんのいる人がいました。私はちょっと分からないのですが、多分、イスラエル人がエジプトから逃げた時に、そのお母さんは夫をエジプトに残したのでしょう。

ところが、ある日、その息子はケンカしている時に、神様の御名を冒涜して呪いました。

残念なことですが、私たちの時代に、特に英語を話す国で、神様の名前を冒涜して呪うことは珍しいことではありません。しかし十戒で、神様は命じられました。「主の御名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)。

そして、その時代のイスラエル人は皆その罪の罰をよく知っていたので、ほとんどしませんでした。

私たちはもう一つのことを覚えておかなくてはなりません。イエス様はこう言われました。

人の口は、心に満ちているものを話す。(ルーか6:45)

つまり、その人の神様に対する憎しみと背きの言葉は言葉だけではありませんでした。その言葉はその人の心から来ました。

多分、その人はずっとその態度を隠していました。その人はエジプトを出たくなかったかもしれません。それなのに、お母さんは彼を連れて行ったのです。だから、心の中に恨みを感じたかもしれません。そして、その日、その怒りが湧き上がり、神様の名前を冒涜して呪ったのです。

普通のイスラエル人だったら、多分すぐに殺されたと思います。けれども、その人はエジプト人のお父さんがいたので、モーセはどうしようかと思ったかもしれません。

しかし、神様はその人に対しても同じ罰を与えなければならないと言われました。だから、その人はその罪のために殺されました。

私たちは何を学べるでしょうか。死に導く態度があります。物理的な死だけではなく、霊的な死に導くものです。私たちに神様に対する反抗的な心があって、悔い改めないと、神様から永遠に離れることになります。

時々、人は生意気な態度をとって、その反抗的な態度を示します。神様に対して、反抗的な言葉を言い、わざと神様の言葉に逆らいます。

他の人はそのエジプト人のようにその態度を隠します。教会に行って、良いことを言い、良いクリスチャンのように見えます。けれども心の中で、神様の名前を呪います。

しかし隠しても、隠さなくても、いつかその態度は現れます。神様はあなたの心を知っておられるので、神様を騙すことはできません。

あなたは神様に対して、どんな態度を持っていますか。神様を愛し、柔らかい心を持っていますか。もしくは固い心を持って、神様をあなたの主として認めないですか。

パウロはこう書きました。

ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。

忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。 (ローマ2:5-8)

あなたの心を神様に対して固くしないようにしましょう。その道は死に導くからです。むしろ、あなたの心を柔らかくしましょう。そうしたら、本当の命を見つけることができるでしょう。

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神様とその​わざを思い出す

私は記憶力がいいと思います。私はたくさんのことをよく覚えています。でも、時間がたつと、ある思い出はちょっと曖昧になります。私の妻は私たちの関係について私が忘れたことを覚えています。

例えば、妻は私たちがいつ市役所に行って結婚を登録する日を覚えていますが、私はよく覚えていません。私は結婚式の日をよく覚えていますけどね。

神様は私たちがすぐに忘れることをよく知っておられます。多分、そういうわけで、いろんな祭りと特別な日を確立してくださいました。

最初に、神様は安息日について話されました。その日の目的は、イスラエル人たちが神様が創造主であることを思い出すためでした。つまり、神様はすべての物を造られて、七日に休まれました。

私たちもそれを思い出すべきです。つまり、神様は全能の方であり、神様の知恵と愛によってすべての物を造られました。だから、神様は私たちの問題よりも大いなる方です。そして、私たちが神様に向かったら、どんな試練があっても乗り越えられます。

次に、神様は過越のいけにえと種を入れないパンの祭りについて話されました。それは、神様がイスラエル人をエジプトから救い出してくださったことを思い出させるためでした。彼らは奴隷でしたが、神様はイスラエル人を開放してくださいました。

そのように、神様は私たちをサタンの国から救い出してくださいました。私たちが罪の奴隷でしたが、神様は私たちを開放して、今私たちは神様の息子たちと娘たちになりました。

だからこそ、イスラエル人がエジプトからの自由を祝ったように、私たちも神様が与えてくださったキリストにあっての自由を祝うべきです。

次に、収穫の初穂の捧げ物と七週の祭りです。この祭りは収穫の時に祝われました。おそらく、神様がイスラエル人の必要を備えてくださる方であることを思い出させるためだったのでしょう。

そのように、神様が私たちの備え主であるから、心配することなく必要なものを受け取ることができます。(マタイ6:33)

次に、ラッパの祭りです。それは、イスラエル人のお正月でした。その時、彼らは以前の年を振り返りました。どうしてでしょうか。なぜなら、神様が私たちを造られたので、私たちは神様に対して責任があるからです。

裁きの日が来ます。その日、私たちは神様の前に立って、自分のことを申し開きしなくてはなりません。だから、その日の前に私たちは悔い改めなくてはならないのです。イスラエル人はラッパの祭りと次の祭りの間にそうしました。

次の祭りは、贖罪の日でした。

以前、この日について私は書きましたが、贖罪の日はイスラエル人が自分の罪を思い出すための日でした。つまり、罪を赦されるためには、誰かが犠牲にならなければならなかったのです。自分の努力や力では清められなかったのです。

そのように、私たちは贖いの必要を思い出すべきです。二千年前にイエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。イエス様は​私たちの罰を受けてくださったので、私たちの罪がイエス様の血で覆われました。

それが聖餐式の意味です。感謝の心から、キリストの十字架の働きを思い出します。

最後に、仮庵の祭りがありました。それは、約束された土地に住むイスラエル人にどこから来たのかを思い出させるためでした。つまり、神様はイスラエル人を無事に砂漠を通って導かれたのです。

そのように、私たちは神様がどのように私たちを導いてくださったのかを思い出すべきです。試練があるときにどのように神様が導いてくださったのか、神様が私たちの必要をすべて備えてくださったこと、そして、敵の攻撃から救ってくださったことを思い出すべきです。

私たちがそれを忘れたら、どうなるでしょうか。

一つ目は、私たちは高ぶる者になります。神様なしで、この人生を生きることができると思い始めます。神様からすべてをもらったことを忘れて、自分の努力でその物を得たと思い始めます。

二つ目は、私たちは心配し始めます。仕事について心配したり、経済について心配したり、私たちの必要について心配したりします。なぜなら、私たちは神様が私たちの必要を備えてくださる約束を忘れるからです。

三つ目は、私たちは神様に対して責任があることを忘れます。そして、私たちは自分自身のために生き始めます。

けれども、イエス様は十字架で大きな代価を払って私たちを買い取ってくださったので、パウロが言ったように、私たちはもはや自分自身のものではないのです。

だから、毎日、私たちはへりくだりの悔い改める心をもって神様の前に来るべきです。また、感謝の心を持ってイエス様の十字架の御業を思い出さなくてはなりません。

最後に、私たちは落ち込むようになります。辛い時に、神様が私たちの問題よりも大いなる方であることを忘れるし、以前神様が私たちをどのように助けてくださったかを忘れるからです。

神様は私たちの創造主、備え主、裁判官、贖い主、そして羊飼いです。私たちがこの砂漠の人生を歩むとき、そのことを思い出しましょう。

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きよくて、傷のない

この箇所で、祭司たちについてのルールがたくさんありましたが、根本的に2つのルールがありました。祭司が神様に仕えるためには、彼らは清くなければならないし、欠陥があってはならないということです。

だから、普通の祭司たちは近親者以外の死体に触ってはなりませんでした。大祭司の場合は、近親者の死体にも触ってはなりませんでした。そうしたら、汚れるからです。

さらに、祭司たちは売春婦か離婚された人と結婚してはなりませんでした。大祭司の場合は、寡婦と結婚してはなりませんでした。

また、体の欠陥がある場合、幕屋で神様に仕えることはできませんでした。例えば、目が見えない人や足が萎えた人は幕屋で仕えることができませんでした。

なぜでしょうか。それは、多分、彼ら、特に大祭司はキリストのシンボルだったからです。つまり、キリストは完全で、罪のない人でした。

死は罪の結果だから、祭司たちは死から離れなければなりませんでした。だから、大祭司は寡婦と結婚してはなりませんでした。

売春婦と結婚してはならないということは当然だと思います。彼らの人生はとても汚れているからです。そして、離婚された人と結婚することは、神様によれば、姦淫でした。(マタイ5章と19章に書いてあるように)。

しかし、私たちの大祭司イエス・キリストとその時代の祭司たちには大きな違いがありました。

その時代の祭司たちは汚れたものに触ったら、例えば、死体やツァラアト(らい病)の者に触ったら、祭司たち自身が汚れました。そして、彼らは自分自身を清くしなければなりませんでした。

その一方、イエス様がツァラアトの者や死体や売春婦や罪人に触れても、イエス様は汚れませんでした。むしろ、彼らを清くしてくださいました。彼らは完全になり、聖なる者になりました。

そのように、神様は罪深い私たちを受け入れて、私たちに触れてくださいます。そして、神様のタッチによって、私たちは清くなり、完全になり、聖なる者になります。神様はこう言われました。「わたしは彼を聖別する主だからである。」

この箇所で、神様は7回その言葉を繰り返して言われます。私たちは自分自身を聖くすることができません。神様はイエス様の血によって、私たちを聖くしてくださるのです。

キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、  ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25ー27)

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レビ記

ただゲームではない

お正月の時に、多くの人は神社でおみくじを買います。おみくじについて私の生徒たちと話したら、だいたい皆さんはこう言います。「もし、いいことが書いてあれば、信じます。でも、悪いことだったら信じません。」

神戸に住んでいた時に、時々道で占い師を見かけました。また、占星術やタロットカードやウイジャ・ボードに興味がある人を知っています。

たくさんの人はそのことをゲームとして考えます。アメリカでは、おもちゃの会社がウイジャ・ボードを作っています。

アメリカの新聞で星占いがありますが、小さい字で「これはエンターテインメントのため」だと書いてあります。テレビの占いのCMでも、同じ言葉が書いてあります。多分、その人たちは訴えられることを望んでいないのでしょう。

でも、占いはゲームではありません。神様は占いがゲームだとは考えておられません。6節で、神様はこう言われました。

霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行う者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。(レビ記20:6)

また、27節では、神様は言われました。

男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。

霊媒というのは、将来について聞くために死者と連絡する人です。

どうして神様は霊媒に対して大反対なのでしょうか。多分、一番大切なフレーズは「慕って淫行を行う」ということです。

クリスチャンとして、神様は私たちをキリストの花嫁と呼びます。でも、霊媒や占い師や占星家と相談すると、実は悪霊と連絡することになります。それは神様からの霊的な力ではないので、危ないです。

悪霊の世界のドアは取っ手が一つしかありません。その取っ手は私たちの側にあるから、私たちだけが開けられます。私たちがそのドアを開けたら、非常に危険です。

私たちが将来を知りたいなら、悪霊に行かずに神様に行ったほうがいいです。もし神様が私たちが知らないほうがいいと思ったら、神様を信頼して、信仰によって歩いたほうがいいです。箴言3:5-6でこう書いてあるように、

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

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レビ記

傷つけられた時に

人間関係について学びたいなら、だれもレビ記を読もうとは思わないかもしれません。でも、レビ記19章には大切な教えがあります。

一番大切なのは、私たちが周りの人々を尊敬すべきだということです。

神様は目の見えない人と耳の聞こえない人を尊敬すべきだと言われました(14節)。また、老人を尊敬しなさいと言われました(33節)。また、あなたと違う人を尊敬しなさいと言われました(33節)。

でも、その前に、神様は言われました。「あなたの両親を敬いなさい。」

なぜそれが大切なのでしょうか。なぜならば、子供の時に、私たちは他の人よりも両親と時間を過ごします。もし、私たちが両親を尊敬できないなら、他の人を尊敬することが難しくなります。

最近、知り合いと話して、彼のご両親との関係が辛そうでした。私は具体的なことは知らないけど、彼がこう言いました。「私は頑張って仲直りしようとしたけど、結局ダメです。」

彼は傷ついていますが、必ずご両親も傷ついていると思います。

関係の問題は、両方が頑張らなくてはなりません。私たちが頑張って仲直りしようとしても、相手も頑張らないとうまくいきません。

でも、相手の態度をコントロールできなくても、私たちは自分自身の態度をコントロールできます。

17-18節で、神様はこう言われました。

心の中であなたの身内の者を憎んではならない。

あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。

復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。

あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:17-18)

この箇所で、神様は私たちが難しい関係にあるときや、私たちが傷つけられた時に、どのような態度を持つべきかを教えてくださいます。

一つは、憎しみがあなたの心に入ることを許してはいけないということです。どうしてでしょうか。それは、私たちの人生のために神様のみ心に反するからです。

ヨハネはこう書きました。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。

目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えないか神を愛することはできません。

神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(第一ヨハネ4:20ー21)

神様は私たちの人生に愛を注ぎたいし、私たちの人生から愛が流れることを望んでおられます。でも、心の中で憎しみを持ち続けたら、それは無理です。

二つ目は、問題に直面するべきです。問題を避けてはいけません。神様はこう言われました。「あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。」(17節)英語の翻訳では、「率直に戒めなければならない。」と書いてあります。

イエス様はマタイ18章で同じようなことを言われました。もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したら、その人に面と向かって責めるべきです。

もし相手が聞き入れないなら、もう一人か二人を連れて行って、その人と話すべきです。もしその人がまだ聞き入れないなら、教会の人たちと一緒にその人と話すべきです。

もし相手がまだ聞き入れないなら、その人から離れたほうがいいです。なぜでしょうか。それは、その人を憎んでいるからではなく、自分自身を守るためです。そうしないと、もう一度、傷つけられるかもしれません。

もし離れることができないなら、感情的に離れたほうがいいです。その人に対して冷たい態度を取るというわけではありません。

でも、その人と接するときに、心の周りに盾を建ててください。つまり、彼らがあなたの感情を気にしないことを覚えて、自分の心を彼らの言葉と行動に対して準備してください。

自分自身を騙さないでください。彼らが本当に変化したことを証明するまで信頼しないでください。

でも、彼らが変化するかどうかに関わらず、神様は「心の中で苦い感じを持ち続けてはいけません」と言われます。「復讐を求めるな。」と言われます。

つまり、その人を許すべきです。許しは、「私を傷つけてもいいです」という態度を取るわけではありません。

でも、許しは苦さを手放すという意味です。許しはその人が私に負っている考えを手放すという意味です。また許しは復讐を手放すという意味です。

最後に、神様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言われます。(18節)

つまり、イエス様が言われたように、「自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)

相手があなたに対して優しくすることを期待しないようにしましょう。多くの場合、そうしてくれないでしょう。でも、愛と親切さをもらいたいように、愛と親切さを相手に与えましょう。

彼らは変化するかもしれません。変化しないかもしれません。あなたは彼らの行動をコントロールできません。

でも、あなたは自分自身の行動をコントロールできます。だから、自分自身に問いかけるべきなのは、「彼らは変化するでしょうか」ではなく、「私は変化するでしょうか」ということです。

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この世の人と違うようになること

私は神戸に住んでいる日本人の友だちがいます。ある日、同僚は彼にタイに行くように誘いました。彼らのプランは売春婦と遊ぶことでした。

私の友だちは断りましたが、最初は彼らが誘い続けました。けれども、やっと彼らは「彼は本当に行きたくない」と分かるようになりました。そして、彼らは本当にびっくりしました。「どうして行きたくないのですか?」

この世はクリスチャンを見たとき、時々、そのように感じることがあります。私たちの考え方が彼らと違うので、私たちが変だと思います。また、私たちの価値観はまったく違います。しかし、神様は私たちが違う人になるように呼んでおられます。

イスラエル人にこう言われました。

あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。(レビ記18:3)

24ー28節では、神様はその理由を言われました。

あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。

わたしがあなたがたの前から追い 出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地 は、住民を吐き出すことになるからである。

あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の 在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行うことがないためである。

—あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべて忌みきらうべきことを行ったので、その地は汚れた— あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。

自分の方法で生きて、その人々は自分自身を汚し、その地も汚しました。だから、神様は注意されました。もし、あなたがその風習に従ったら、その地はあなたを吐き出します。

この箇所で、神様が特に定められたことは、性的な罪です。つまり、近親相姦、同性愛、獣姦、そして姦淫です。

もう一つ定められたことは、子供の犠牲です。つまり、子供を殺して、モレクという神に捧げることです。

私は信じられませんが、三千年がたっても、同じようなことがまだ起こっています。

その同じような性的な罪がまだあり、子供を殺して、神々に捧げるのをめったに見ませんが、何百万もの子供たちが中絶で「自己中心の神」に捧げられています。

こんな罪は私たちも汚し、私たちの国も汚します。

それだけではなく、この世の人々はそのひどいことが普通だと思っています。ローマ1:32に書かれたことは、この時代についても本当です。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

クリスチャンとして、私たちはこの行動で、文化についていってはなりません。また、神様の言葉に反するところで、この世に従ってはなりません。

私たちを汚すことから逃げましょう。この世の暗闇と調和せず、むしろ、この世に対して光となるようにしましょう。

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血の意味

日本では、だいたい皆さんは自分の血液型を知っています。だから、多くの人は友達に聞きます。「あなたの血液型は何ですか。」

長い間、たくさんの人が私にその質問をしてきましたが、私は「知りません」と答えてきました。

皆さんは驚いて、こう聞きます。 「でも、もし入院して血液が必要になったら、どうするのですか。」

けれども、多分、そんな状態だったら、私はもう意識がない状態だと思うので、その質問は意味がないと思います。

とにかく、やっと私は自分の血液型を知るようになりました。

私はA型です。血液型について考えると、皆さんはその人にいろいろな意味をつけます。

A型なら、責任感が強いけれど、少し頑固なところがあります。O型なら、責任に対して少しルーズな傾向があります。AB型なら、優しいけれど、決断するのに時間がかかることがあります。

しかし、神様は、人の血と動物の血に対して、それぞれ異なる意味をお与えになりました。そしてこの箇所では、犠牲の意味と、それがなぜ必要なのかを教えてくださいます。11節には、こう書かれています。

なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。(レビ記17:11)

神様は血を命と関連づけておられます。罪のための罰は死であるため、罪深い人が赦されるには、無罪の者がその罰を受けなければなりません。その人の血、つまりその人の命は、私たちの命のために捧げられなければならないのです。

旧約聖書の時代には、動物の命が人の命の代わりに捧げられていました。しかし、それは完全な犠牲の象徴にすぎませんでした。つまり、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったことを指し示していたのです。

イエス様の死によって、私たちはもはや動物を犠牲として捧げる必要はなくなりました。イエス様こそ、最後の、完全な犠牲です。

ヘブル人への手紙の作者はこう言いました。

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。。。

しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られ るのです。(ヘブル9:22、26ー28)

私の好きな賛美歌には、次のように書かれています。

あなたの血は私を清めてくださる
あなたの血は私に永遠の命を与えてくださる

あなたの血は贖う犠牲によって
私の罪を取り去ってくださる

その血は私を清めてくださり、
雪よりも私を白くしてくださる
私のイエス様。あなたは神様の尊い犠牲です。

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贖い

毎年一度、イスラエル人は贖罪の日をお祝いしました。その日、皆は罪を告白し、神様は、象徴を通して、本当の贖いがどのように来るかを示されました。

贖罪の日には、いくつか興味深いことがあります。一つは、仕事をしてはいけないことでした。

なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、の前でそのすべての罪からきよめられるのである。(レビ記16:30)

その象徴がはっきりしています。イスラエル人は自分の努力で罪を贖うことができませんでした。むしろ、彼らの贖いがなされたのです。自分の働きによって罪を清めることができず、ただ大祭司の働きによって罪が清められました。

そのように、私たちの働きによって自分の罪を清めることはできません。私たちの努力が私たちを救うことはできず、大祭司イエス・キリストの十字架の働きだけが私たちを救うことができます。

二つ目は、大祭司しかだれも幕屋に入って神様の前に来ることができませんでした。大祭司が皆のために罪を贖う時、他の祭司でも幕屋に入ることができませんでした。

そのように、イエス様が十字架で罪を贖われた時、他の人はその働きをすることができませんでした。使徒でも、祭司でもできませんでした。イエス様だけができたのです。イエス様が言われたように、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

三つ目は、二匹の山羊が選ばれました。一匹は皆の罪のために死にました。そして、大祭司は二匹の山羊の頭の上に手を置いて、皆の罪を告白しました。そのあとで、その山羊を砂漠に連れて行き、解放しました。もはや誰もその山羊を見ませんでした。

これはイエス・キリストの働きの素晴らしい象徴でした。イエス様は十字架で、私たちの罪のために罰を受けてくださいました。その罪を負った時に、私たちからその罪を取り去ってくださいました。

詩篇103:12で、こう書かれています。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

イエス様、あなたの愛を感謝します。あなたは私たちの大祭司として、罪を贖ってくださいました。私たちが自分を救うために何もできない時に、あなたは助けてくださり、ありがとうございます。

私たちの罪を負って、東が西から遠く離れているように私たちの罪を私たちから取り去ってくださったことを感謝します。

あなたの恵みとあわれみを感謝します。今、私があなたの働きによって神様に近づくことができることを感謝します。アーメン。

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清いもの、汚れたもの

速く進んでいますね。4日間で15章を読みました。すごいです!とにかく、この箇所はイスラエル人にとってとても大切なことです。それは清いものと汚れたものの区別についてです。この箇所の鍵はレビ記11:45に書いてあります。

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したであるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

つまり、神様が聖い方ですから、神様はイスラエル人も聖くなるように望まれました。だから、清いものと汚れたものというコンセプトがありました。47節で、神様は言われました。

汚れたものときよいもの。。。とが区別される。

どうして神様はそんなに細かく清いものと汚れたものというルールを作られたのでしょうか。私がすべてを理解しているとは言えません。一般的に、たぶん健康的および衛生的な理由でそのルールがあったかもしれません。

神様が具体的な科学的な説明をされることもできたでしょうが、そうしたら、たぶんイスラエル人は理解できなかったかもしれません。だから、神様はただ「これは清いものだが、これは汚れたものだ」と言われました。

いずれにせよ、この清いものと汚れたものの話から二つのことが学べると思います。

まず第一に、イスラエル人を汚すものがあったということです。そして、神様は言われました。

あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。(レビ記15:31)

つまり、神様との関係のために、イスラエル人は清くならなければなりません。私たちもその通りです。

しかし、神様は食べ物やかび(レビ記13:47のツァラアトというのはかびということです)、皮膚病についてそんなに心配しておられません。むしろ、神様は私たちの心を汚すものについて心配しておられます。それは何でしょうか。イエス様はこう言われました。

人から出るもの、これが、人を汚すのです。

内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、 盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ 7:20ー23)

つまり、神様の目で、私たちの罪は私たちを汚します。だから、神様と親しい関係が欲しいなら、罪から逃げなければなりません。

二つ目は、かびと伝染病のように、気をつけないと私たちの人生に罪が広がります。それに、罪は私たちから広がって他の人に触れます。例えば、子供たちは両親の罪を見て、真似します。また、私たちの罪で他の人を傷つけます。

だから、かびと伝染病のように、私たちは極端な方法で罪を扱わなければなりません。かびが壁に出ていた時に、イスラエル人は壁の部分を取り除きました。もし、その後で、かびがまた出たら、その家を壊してしまいました。

伝染病の場合は、その皮膚病のある人は皆から離れて、一人で住まなければなりませんでした。

そのように、私たちは罪を扱わなければなりません。イエス様はこう言われました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、から だ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、から だ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5:29ー30)

もちろん、イエス様は大げさに言われましたが、その意味は罪を自分の人生から追い出すために、極端に扱うべきだということです。

この箇所のテーマは聖さです。私たちは神様の前に聖いでしょうか。神様はこう言われました。「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」

聖なる者になるために、イエス様は十字架で死なれました。私たちを赦してくださったし、私たちが聖なる者となるために力を与えてくださいました。

ペテロはこう書きました。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(第二ペテロ1:3)

良い知らせは、私たちが自分の力で聖なる者になる必要がないということなのです。神様がその力を与えてくださったのですから、そのように生きていきましょう。

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私たちが神様を聖とみなすこと

それでは、レビ記10章を読みましょう。

6-7章は捧げ物についてのさらなる戒めがありました。8-9章は祭司の聖職授任式についてです。その式の意味をすでに出エジプト記のブログで説明しました。

10章では、もう一つの不快な話があります。アロンの二人の息子たちは香を盛ったときに、神様の命令に従わずに捧げたため、神様がその二人を殺されました。

どうして神様はその二人を殺されたのでしょうか。その二人はそんなに悪かったのでしょうか。私たちは二つのことを思い出さなければなりません。

まず第一に、その二人は祭司でした。以前私が書いたように、祭司たちは普通の人よりも神様に対して責任がありました。

第二に、その二人は無意識に罪を犯したわけではありません。その二人は意識して罪を犯しました。

出エジプト記30:9で、神様が特別な香を使いなさいと命じられたのに、その二人は自分の香を使ったようです。それに、神様がつけた火を使わずに(9章)、祭司たちは自分でつけた火を使ったようです。それも神様の命令に対する不従順でした。

もう一つの可能性は、その二人が酔ったときにその香を盛ったことです。だから、9節で神様は命じられました。

会見の天幕に入って行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたがたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。(レビ記10:9)

この箇所の鍵は3節です。神様は言われました。

わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。(レビ記10:3)

つまり、その祭司たちは、神様の方法でせずに、自分の方法ですることによって、神様が聖なる方であることを忘れました。神様が尊敬されるべき方であることを忘れました。

祭司たちにとっては本当に深刻な問題です。なぜなら、皆は祭司たちから霊的なリーダーシップを求めました。もし、リーダーたちが神様が聖なる方とみなさないと、皆はどうするでしょうか。

私たちはどうですか。神様が聖なる方とみなすでしょうか。

多くの場合、私たちは神様の愛と恵みについて話しますが、神様の聖を忘れます。つまり、神様は罪が大嫌いです。また、神様は聖い方です。そのことを忘れると、私たちは不純なことをします。そして、そのことによって、私たちが祭司たちでも、神様の名前を汚します。

神様はアロンにこう言われました。

それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、また、がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。(10-11)

神様の祭司として、私たちは聖なるものと俗なるものを区別しなくてはなりません。汚れたものと清いものを区別しなくてはなりません。

それに、区別できない人たちに私たちは光になるべきです。しかし、私たちが皆と同じだったら、どのように光になるでしょうか。

もちろん神様は恵みと愛の神なのです。

それでも、私たちは神様が聖なる方であることを思い起こさなくてはなりません。

毎日そのことを心に留めて生きていきましょう。

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罪についての5つのポイント

この箇所で、罪のためのいけにえについてたくさんの興味深いことがあります。そのいけにえを通して、私たちは罪について、さまざまなことを学びます。

誰が罪を犯したかによって、異なる捧げ物が必要でした。

祭司の場合は、雄牛を捧げなければなりませんでした。リーダーの場合は、雄やぎが必要でした。普通の人の場合は、雌やぎか雌子羊か山鳩か家鳩が必要でした。もし、その人が非常に貧しかったら、小麦粉を捧げました。

なぜでしょうか。それは、人の立場が高いほど、また、知識が多いほど、罪のための責任が大きくなるからです。

神様の代表として、祭司は最も大きな責任を負っていました。リーダーは人々の支配者として、大きな責任を負っていましたが、祭司よりは少し小さかったのです。普通の人たちは最も小さな責任を負っていました。イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しか し、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者 は多く要求されます。(ルカ12:47ー48)

二つ目のポイントは、人が自分の罪に気づいていなくても、やはり有罪です。自分の罪が分かるようになったら、罪の償いをしなければなりません。そのように、私たちは自分の罪を無視してはいけません。「私は知らなかったから、仕方がない」とは言えません。

また、「その罪は昔のことだから、もういいです。悔い改める必要がない」とは言えません。

罪は罪です。いつ犯したか、犯したときに気づいたかどうかは関係ありません。私たちは有罪です。だから、罪の償いをしなければなりません。

三つ目のポイントは、罪は悪行だけではなく、罪は正しいことをしないことも含まれます。神様はこう言われました。

人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら—彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに—、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。(レビ記5:1)

この場合、その人は裁判で何かを言わなければなりませんでしたが、黙っていたために、正義が行われませんでした。それも罪です。

ヤコブはこう言いました。

こういうわけで、なずべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)

四つ目のポイントは、あなたが罪を犯すつもりがなかったのに、罪を犯したら、やはり有罪です。

レビ記5:2-5では、うっかり罪を犯す場合、または不用意に罪を犯す場合について述べられています。その人たちはわざと罪を犯していませんでしたが、意図があったかどうかは関係ありませんでした。やはり有罪でした。

最後に、償いをしなければならない罪があります。つまり、「ごめんなさい」と言っても足りない場合があります。

レビ記6章では、人を騙したり、人から何かを盗んだりした場合、「ごめんなさい」と言っても足りません。犠牲を捧げても足りません。罪の償いをしなければなりません。そのように、私たちも誰かを本当に傷つけた場合は、償いをしなければなりません。

ありがたいことに、私たちはもう旧約聖書の捧げ物を捧げなくても良いのです。イエス様は罪のための最後の犠牲でした。しかし、イスラエル人のように、私たちもまだ罪を告白し、悔い改めなければなりません。第一ヨハネ1:9には、こう書かれています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

神様、あなたは私の罪のために代価を払ってくださって感謝します。あなたの前で私の心がいつも清いようにしてください。

私の罪を示し、清めてください。私が意図的な罪を犯さないように。また、私が不用意に罪を犯さないように。私が償いをしなければならない時に、謙遜であるように助けてください。

あなたの恵みと赦しを与えてくださり、感謝します。アーメン。

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神様に近づくこと

それでは、レビ記を始めましょう。

私はレビ記を読むことをとても楽しみだとは言えません。出エジプト記のように、律法や規則、ルールがいっぱいあり、時々とても細かいです。だから、少しつまらないところもありますが、頑張ってみましょう。

今日は捧げ物について話します。

「捧げ物」という言葉は面白いです。「捧げ物」というのはヘブル語で「近づける」という言葉から来ています。つまり、イスラエル人は神様に近づくために捧げ物を捧げたのです。最初の3つの捧げ物を見てみましょう。

最初のは、全焼のいけにえという捧げ物です。私たちは出エジプト記でこの捧げ物について読みました。祭司が神様のために聖別された時に、全焼のいけにえを捧げました。

けれども、レビ記の場合は、皆がその捧げ物を捧げました。

その捧げ物のために、傷のない雄牛を捧げなければなりませんでした。そして、祭司は全部を焼いていました。

この捧げ物には2つの意味がありました。一つは、その捧げ物は罪の贖いのために捧げられました。この捧げ物はイエス様を指していました。つまり、イエス様は完全な神様の子羊として、私たちの罪のために死んでくださいました。

二つ目の意味は、私たちは神様に全てを捧げるということです。何も控えずに全てを捧げるのです。

二つ目の捧げ物は穀物の捧げ物です。これは感謝の捧げ物です。その捧げ物は乳香と一緒に焼かれて、主へのなだめのかおりとなりました。

三つ目の捧げ物は和解のいけにえです。全焼のいけにえのように、「代わり」というシンボリズムがありました。つまり、その動物は人の代わりに罪のために死にました。

しかし、全焼のいけにえと異なり、全部が焼かれたわけではありませんでした。捧げた人はそのいけにえの部分を持って帰り、家族と一緒に食べました。

その捧げ物の意味は、私たちの罪が赦されたことによって、私たちは神様と平和で親しい関係を築くことができるということです。多分、天国の盛大な宴会で食べる日を指しています。

その3つの捧げ物は自発的でした。神様に対する愛によって、皆はこれらの捧げ物を捧げました。

そして、その3つの捧げ物は私たちの神様との関係の絵です。

一つの絵はキリストを通して、私たちは神様と和解することができることです(和解の捧げ物)。ローマ書5:1で、こう書かれています。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

二つ目の絵は私たちが神様にすべてを捧げるということです(全焼のいけにえ)。つまり、私たちの人生のすべては神様のものです。「ローマ書12:1」に、こう書かれています。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

三つ目のは神様に対しての感謝です。つまり、神様は私たちの物理的な必要を備え、私たちの霊的な必要を備えてくださいました。ローマ書8:32で、こう書かれています。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

神様、イエス様の十字架の働きによって私たちがあなたと和解できることを感謝します。その働きによって、私たちはあなたに近づくことができ、親しい関係を築くことができることを感謝します。

全焼のいけにえのように、私があなたに全てを捧げるように助けてください。感謝で満たされた心を与えてください。あなたを愛して、感謝します。アーメン。

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出エジプト記

主が命じられたとおりに

出エジプト記の最後の5章は幕屋の作り方の命令の繰り返しです。

25章から31章までは、モーセがその命令を聞きました。

そして、36章から40章までは、イスラエル人がその命令に従いました。

その箇所の中で、同じフレーズを何度も読みます。

それは、「モーセとイスラエル人は主が命じられた通りに行った。」

例えば、39章にはこう書かれています。

イスラエル人は、すべて、がモーセに命じられたとおりに、そのすべての奉仕を行った。

モーセが、すべての仕事を彼らが、まことにが命じられたとおりに、したのを見たとき、モーセは彼らを祝福した。(出エジプト記39:42ー43)

40章でも、そのフレーズを8回読むことができます。

イスラエル人は主の命令に従うときに近道をしませんでした。

誰も、「この命令は細かすぎます。私のやり方でする。」とは言いませんでした。

むしろ、イスラエル人は主が命じられた通りに全てを行いました。

全てを仕上げた後、34ー38節にはこう書かれています。

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、の栄光が幕屋に満ちていたからである。

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。

雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。

イスラエル全家の者は旅路にある間、昼はの雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

あなたの人生に神様の働きを見たいですか。あなたの人生に神様の導きを求めていますか。

神様のポイントははっきりしていると思います。

神様に従いなさい。

大きいことだけでなく、小さいことでも、神様に従いなさい。

私たちが神様に従うなら、私たちの人生が神様の栄光で満たされ、神様の導きを知るようになります。

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出エジプト記

捧げたい心、仕えたい心

それでは、もうすぐ出エジプト記が終わります。残りは大体幕屋の作り方の命令の繰り返しです。

けれども、この箇所で、私が印象に残っているのは、イスラエル人の心です。

神様はこう言われたのです。

「心に動かされた者、そして心から進んでする者だけが捧げなさい。

心に動かされた者、そして心から進んでする者だけが仕えなさい。」

神様はイスラエル人がいやいやながら捧げることを望まれませんでした。

イスラエル人が強いられて、仕えることを望まれませんでした。

神様はイスラエル人が心から与えて、仕えることを望まれました。

そして、皆はそうしました。結局、皆は有り余るほど捧げたのでモーセが「もういいです。もう十分ありますから、もう捧げないでください。」と言いました。

教会はそのような場所であるべきです。

教会の皆は捧げて仕えるべきです。それは、しなければならないという考え方ではなく、むしろ、神様が心に与えた喜びからするべきです。

パウロはこう書きました。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(第二コリント9:7)

この箇所は与えることについて話していますが、神様に仕えることも同じです。

神様は、私たちがいやいやながら仕えることを望んでおられないのです。

神様は、私たちが心から仕えたいと願って仕えることを望んでおられるのです。

もし、しなければならない気持ちで仕えたり、与えたりしたら、与える喜びと仕える喜びを理解することはできず、神様があなたの供え物を受け入れられません。

あなたはどんな心から与えるでしょうか。どんな心から仕えるでしょうか。

あなたは、皆があなたを見て、「ああ、素晴らしいクリスチャンだね」と言ってほしいでしょうか。

あなたは良いクリスチャンであるためにしなければならないと思って仕えるのでしょうか。

そのような理由で与えるのでしょうか。

それとも、神様があなたに素晴らしい人生を与えてくださっていることに感謝して仕え、与えるのでしょうか。

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出エジプト記

愛の神様、正義の神様

神様はどのようなお方なのでしょうか。

神様の御性質は何なのでしょうか。

神様はご自身をモーセに現わされた時、その質問に答えられました。神様はこう言われました。

主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者。(出エジプト記34:6-7)

旧約聖書の中で、その言葉は何度も何度も繰り返されています。言葉がほとんど変わらずに、5回も書かれています。(出エジプト記34:6ー7;ネヘミヤ記9:17;詩篇86:15;ヨエル書2:13;ヨナ書4:2)

主はあわれみ深いです。

聖書を読むと、たくさんの例が見られます。

荒野で、神様はハガルという人を二度助けられました。

最初はアブラハムと寝て妊娠した時に、サライに追い出されました。

そして、イサクが生まれた時に、ハガルとイシュマエルがもう一度追い出されました。

けれども、神様はハガルと話し、励まされました。そして、ハガルとイシュマエルを世話されました。

神様は情け深いです。

英語の聖書では「恵み深い」という言葉が使われています。

つまり、私たちが値しないのに、神様は多くの良きものを与えてくださるのです。

例えば、ヤコブは神様から与えられたものに値しなかったのです。

ヤコブは詐欺師であり、とても頑固でした。彼はいつも自分の道を行こうとしていました。

けれども、ヤコブが恐れて兄エサウから逃げた時、神様はヤコブに会いに来られたのです。

そして、アブラハムとイサクに与えられた約束をヤコブにも与えてくださったのです。

さらに、神様はエサウの心の中に働かれたので、ヤコブはエサウと和解することができたのです。

神様は怒るのに遅く、恵みとまことに富む方です。

アダムとエバが罪を犯した時、神様は怒りに燃えておられませんでした。むしろ、愛とご自身の忠実さを表されました。つまり、服を備え、救い主を送ることを約束されました。

神様は恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者です。

神様はその恵みをイスラエル人に示されました。何度もイスラエル人が反抗したのに、何度も神様は赦して下さいました。神様はイスラエル人を絶えず愛し続けておられたのです。

皆は神様についてそのような言葉が大好きです。私たちは神様の愛とあわれみと赦しについて聞くのが大好きです。

しかし、それだけでは神様の全体を理解できません。神様はこれも言われました。

罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(7)

以前、私はその言葉の意味を説明しましたが、覚えておかなければならないのは、神様は正義の神だということです。

多くの人々はそのことが好きですが、自分自身も罰を受けなければならないことを聞いたら、文句を言い始めます。

「私はそんなに悪くないよ。私はたくさんのいいことをしています。

私は時々嘘をつくかもしれないけど、みんなもそうするでしょう?

そして、どうして彼女と関係を持つことが悪いのでしょうか。彼女を愛していますよ。

時々妻と子供に対して怒るけど、仕方ないです。このようなことで私は地獄に行かなければならないのでしょうか。」

そうです。人は地獄に行かなければならないのです。神様はすべての罪を必ず罰しなければなりません。

神様は忍耐強いですが、もし私たちが悔い改めなければ、罰を受けることになるのです。

神様に反抗したまま亡くなるなら、神様と共に住むことはできません。永遠に神様から離れ、地獄に行くことになるのです。

しかし、いい知らせがあります。あなたは地獄に行く必要がありません。

イエス様は十字架で死なれて、あなたの罪のために罰を受けてくださいました。

そして、イエス様の働きを信じて、赦しを求めたら、神様があなたの罪を赦してくださいます。

けれども、自分の道を行き続けてはいけません。神様に反抗し続けるなら、「神様は愛の神だから、もちろん私を赦してくださいます」とは言えません。

神様は愛の神です。しかし、神様は正義の神でもあります。

もし、神様の救いの道を拒絶し、つまりイエス様を拒絶したら、神様の正義に直面することになります。

ヘブル人への手紙にはこう書いてあります。

もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(26-31)

だから、私たちはもはや神様に反抗しないようにしましょう。

神様は私たちにあわれみを与えたいのです。私たちが悔い改めるなら、神様は赦してくださるのです。

もしまだしていないなら、今日こそ悔い改めましょう。

第二コリント6章2節に書かれているように、

今は恵みの時、今は救いの日です。

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出エジプト記

神様に​近づく

モーセとヨシュアはどのように独特だったでしょうか。彼らは他のイスラエル人とどのように違ったのでしょうか。どうして神様はその二人を用いることができたのでしょうか。

この箇所で答えが見つけられると思います。

その二人は、神様に近づきたいという強い願いを抱いていたのです。

他のイスラエル人は神様を恐れましたが、モーセとヨシュアは神様を愛し、近づきたかったのです。

他のイスラエル人は神様から距離を保とうとしましたが、モーセは顔と顔を合わせて神様に話しました。

ヨシュアはモーセと一緒に神様に会いに行きませんでしたが、いつも幕屋の近くにいました。

そして、モーセが幕屋を出ても、ヨシュアは幕屋を離れませんでした。なぜなら、神様の近くにいたかったからです。

モーセが神様と話した時、彼の願いは神様を親しく知り、神様の道をよく知りたいということでした。

モーセは祈りました。

今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。(出エジプト記33:13)

モーセの願いは、彼がどこに行っても、神様がモーセと共におられることでした。だから、モーセは祈りました。

もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。

私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。

それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。(15ー16)

しかし、モーセの一番の願いは神様の顔を見ることでした。

「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」と言いました(18節)。

神様の反応は?

わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。。。

あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。

あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。(14、17)

神様が許されなかったことはただ一つでした。神様はこう言われたのです。

あなたはわたしの顔を見ることはできない。

人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。(20)

神様は聖なる方だから、罪深い私たちが神様の顔を見て生きることはできません。

(モーセが顔と顔を合わせて神様に話したということは比喩です。その意味は、モーセと神様が親しい関係にあったということです。)

それでも、神様はモーセにその栄光を少し表されました。なぜなら、モーセが神様をもっと知りたかったからです。

どうして、神様はモーセのためにそうされたのでしょうか。

なぜなら、神様は私たちに近づきたいと願っておられるからです。

私たちが神様に近づきたいかどうかにかかわらず、神様は私たちに近づきたいのです。

神様は私たちの名前を知っておられ、私たちと共に歩み、ご自身を現したいのです。

けれども、私たちは神様に近づきたいのでしょうか。

神様はこう問いかけられたのです。

わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。(エレミヤ書30:21)

その箇所はイエス様について語っています。

当時、イエス様だけが神様に近づくことができたのです。

なぜなら、イエス様だけが父なる神様のように聖なる方であったからです。

しかし、イエス様の血によって私たちの罪が清められたので、今では私たちも神様に近づくことができます。

ヤコブは書いたように、

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)

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出エジプト記

罪を憎むけど、罪人を愛する

罪を憎みつつ、罪人を愛しましょう。そのバランスを見つけるのは難しいのです。

多くの人々は一方の極端に走り、また他の人々は反対の極端に走ります。

「あなたは地獄に行く!」と言う人もいれば、「大丈夫だ。何をしても構わない。神様はあなたの行動を気にされない。むしろ神様はあなたの行動に同意しておられる。」と言う人もいます。

アメリカでは、同性愛者に対するクリスチャンの反応がその極端に現れることがあります。

クリスチャンとして、私たちは悪を善として扱ってはなりません。罪を耐えてはいけません。

それでも、私たちは人々が悔い改めることを望むべきです。誰かが地獄に行ったら、私たちの心は泣くべきです。

正直に言うと、その原則について考えると、この聖書の箇所は少し難しいのです。

この箇所から一つの真理を学ぶことができます。すなわち、故意に罪を犯したり、神様に故意に反抗したりすれば、最終的に罰せられるということです。

その時、多くのイスラエル人は剣によって殺され、他のイスラエル人は疫病によって殺されました。

神様は罪を必ず罰しなくてはなりません。だから、多くの人は地獄に行くのです。

人々はそのメッセージを知らなくてはなりません。そのメッセージを伝えることに反対するものではありません。

とはいえ、時にクリスチャンは喜びを持って「あなたは地獄に行く!」と言うように見えることがあります。まるで、その人々が地獄に行くことを嬉しく感じているかのようです。

けれども、クリスチャンはその人のために泣き、とりなすべきなのです。

モーセはそうしました。彼は皆の罪に対して本当に怒りました。

モーセは皆の行動を見て、十戒の板を投げ捨てて砕きました。その子牛の偶像を火で焼き、その残りを水に撒き散らし、皆にその水を飲ませました。

それでも、あるイスラエル人は罪を犯し続け、乱れてしまいました。

しかしその後、モーセはイスラエル人のためにとりなしました。モーセはイスラエル人を愛し、心配したので、彼は祈ったのです。

今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。

しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(32)

「あなたは地獄に行く!」と言う人々は、どれほどモーセの祈りを祈るのでしょうか。

周りの人々の罪を見て、あなたは怒りますか。それは当然のことだと思います。もし怒りがないなら、あなたの心の態度は間違っているのです。

あなたの周りの人々の多くが地獄に行くことを心配しているでしょうか。その人々のために涙を流しているでしょうか。その人々のためにとりなしているでしょうか。

そうでないなら、あなたの心の態度は間違っているのです。なぜなら、神様はその人々を愛し、イエス様を彼らのために死ぬように送ってくださったからです。

私たちもそのような心を持つ必要があるのではありませんか。

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出エジプト記

してはいけないことをする

それでは、モーセの話に戻りましょう。

ずっと律法や幕屋、そして祭司のことについて読んできましたが、ついにアクションが描かれます。

残念なことに、アロンとイスラエル人は大変に悪いことをしました。

モーセが神様に会うために山に登った40日間の後に、また、イスラエル人が神様と神様の道に従うことを約束した40日後に、彼らは忍耐を失いました。

そして、彼らはアロンにこう言いました。

さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。

私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。(出エジプト記32:1)

アロンはそれを聞いて、どうしたのでしょうか。

この大祭司アロン。このイスラエル人の指導者アロン。この神様に従うアロン。彼はどう答えたのでしょうか。

「はい。分かりました。そうしましょう。」

私は信じられません。

アロンはモーセと一緒にパロに立ち向かい、数々の素晴らしい奇跡を見たのに、皆の前に立って「絶対にだめだ。そんなひどいことをしてはいけない。モーセのために待ちなさい。必ず帰ってくる。」とは言わなかったのです。

むしろ、アロンは「はい、分かりました。そうしましょう。金を集めてください」と言いました。

そして、その金で偶像を作りました。そのあと、アロンはこう言いました。

「これはあなたの神です。」

どうして、そんなひどいことをしたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分、アロンはこう思ったかもしれません。

「私は本当に神様に背を向けてはいません。神様の御名をまだ呼んでいるからです。」

彼はイスラエル人に言いました。

これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。。。

あすは主(つまり、「ヤハウェ」)への祭りである。(4ー5節)

ようするに、アロンが言ったのは「この偶像はヤハウェの象徴です。ヤハウェをほめたたえよう。明日、ヤハウェへの祭りを祝おう。」ということです。

そして、いつも通りに全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えましたが、その偶像をヤハウェと名付けました。

後に、モーセがアロンに面と向かって、「一体何をしたのか」と聞いたときに、アロンは言いました。

「このイスラエル人のせいです。彼らは見える神が欲しかったのです。そして、私が金を火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。まるで魔法のようでした。」(22ー24節)

まるで8歳の子供の言葉のようです。80歳の人の口から出るとは思えません。

けれども、アロンはそう言っていたのです。

アロンを批判するのは簡単です。しかし、神様の祭司として、私たちも同じようなことをどれほどしているのでしょうか。

私たちは仲間からの集団的な圧力に、どれほど負けてしまっているでしょうか。

例えば、上司からの圧力を感じて、経理の記録に嘘を書いてしまう。

あるいは、家族からの圧力を感じて、洗礼を受けないままでいる。

または、友だちからの圧力を感じて、彼らと一緒に悪いことをしてしまう。

そして、私たちは言い訳をします。

アロンのように、私たちは自分自身にこう言います。

「私の行動はそんなに悪くないだろう。私はまだ神様に仕えている。神様は理解してくださるはずだ。私はそうせざるを得なかった。」

あるいは、「私のせいではありません。私は無理やりさせられたのです。」と言います。

そして、私たちは愚かな言い訳をしてしまうかもしれません。

しかし、神様の祭司として、私たちは正しいことのために戦わなくてはなりません。私たちは立ち上がって、「これは絶対にだめだ。私は絶対に参加しない。」と言わなければなりません。

そうしなければ、私の証を壊し、神様の御名を汚してしまいます。ローマ書2:24で、パウロはこう書きました。

神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。

それが私たちについて決して言われることのないように。

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出エジプト記

神様の働きのために選ばれて、満たされた

ベツァルエルについての神様の御言葉が大好きです。

ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。(出エジプト記31:2ー3節)

幕屋のものを作るために、神様はベツァルエルと他の人々を選ばれました。

けれども、神様はベツァルエルを選び、何をすべきか教えるだけでなく、ベツァルエルに御霊を満たしてくださいました。

聖霊はベツァルエルに知恵と英知と知識を与え、神様の働きを成し遂げることができました。

神様に従う人々に対しても、神様は同じことを言われます。神様は私たちに御霊を与え、御霊は私たちに様々な賜物を与えてくださいます。パウロはこう書きました。

しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。(第一コリント12:7)

そして、パウロは賜物のリストを書きました。例えば、知識とか、知恵とか、信仰とか、癒しなどです。そのあとで、パウロはこう記しました。

しかし同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。(第一コリント12:11)

ここで、三つのことに心を留めてみましょう。

一つは、神様は各クリスチャンに賜物を与えてくださいます。賜物のあるクリスチャンと賜物のないクリスチャンがいるわけではありません。クリスチャンはみんな賜物が与えられています。

二つ目は、その賜物は自分に仕えるためではありません。むしろ、その賜物は皆の益となるためです。つまり、私たちはその賜物を通して、人々に仕えなければなりません。

三つ目は、皆それぞれ異なる賜物を持っており、聖霊が誰にどの賜物を与えるかを決めてくださいます。

どの賜物があるかないか心配しないでください。他の人の賜物を見て、妬まないでください。

神様は知恵によって、あなたに賜物を与えてくださったので、満足しましょう。また、その賜物を神様の栄光のために使いましょう。

私は霊的な賜物のために祈るなと言っているわけではありません。

神様は私たちの願いを聞いてくださり、いつも喜んでおられ、もっと賜物を与えてくださるかもしれません。

しかし、神様がもっと与えられないからといって、他の人の賜物について妬まないでください。神様がくださった賜物を通して仕えてください。

私たちが自分自身に問いかけるべきことは、神様がくださった賜物で、私が何をしているのかということです。

ベツァルエルに仕事を与えられたように、神様はあなたにも仕事を与えてくださいました。

ベツァルエルに御霊を満たされたように、神様はあなたにも同じ御霊を満たしてくださいました。

仕事をするためにベツァルエルに知恵と英知と知識を与えられたように、神様はあなたにもそのすべてを与えてくださいました。

その神様がくださったものを、あなたは用いていますか。

あなたは音楽の賜物があるかもしれません。

他の人に教える賜物があるかもしれません。励ましの賜物があるかもしれません。

もてなしの賜物があるかもしれません。

あなたがどの賜物を持っていても、神様は「それを用いなさい」と言われます。

パウロはこう記しました。

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて 預言しなさい。

奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導 し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。(ローマ書12:6ー8)

神様はあなたを選ばれました。

あなたに御霊を満たされました。

神様の働きをするために、あなたに必要なものを全部与えてくださいました。

だから、詩人が言ったように、

喜びをもって主に仕えよ。(詩篇100:2)

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出エジプト記

神様の御前に来る

これは幕屋について、最後の箇所です。私はこれを読んで、私たちの神様との関係について考えます。

例えば、聖所にある壇の上に香を絶えずに炊きました。

聖書の中で、その香の煙は、人々の祈りが神様に上がる象徴でした。(黙示録5:8;8:3ー4)

その象徴を通して、私たちは神様がいつも私たちの祈りを聞いてくださることを思い出します。小さい祈りでも、神様は聞いてくださいます。

しかし、祈る前に、私たちは他のことを思い出さなければならないのです。

一つは、私たちの罪が贖われなければならないことです。つまり、私たちの罪を覆うために、神様はイエス・キリストを通して、代価を払ってくださいました。

イスラエル人は調査の税金を払いました。その税金は贖い金と呼ばれたのです。

各人は、貧しくても、金持ちでも、半シェケルを払わなければなりませんでした。なぜならば、みな神様の目に等しく、みな神様の贖いが必要だったからです。

二つ目は、祭司たちは神様のみ前に来る前に、自分の手と足を洗わなければなりませんでした。

同様に、私たちが神様の前に来る時には、毎日私たちの罪を洗われなければならないのです。私たちの罪は祈りを妨げてしまうからです。

詩篇66:18にこのように書いてあります。

もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。

だから、神様のみ前に来たら、罪を告白しなければなりません。第一ヨハネ1:9にこう書いてあります。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

最後に、祭司たちは油を注がれなければなりませんでした。

聖書では、油は聖霊の象徴です。私たちはクリスチャンになる時に、聖霊が私たちの中に住むように来られます。(ヨハネ16:7)

それに、聖霊は私たちを導いてくださり、私たちのためにとりなしてくださり、神様の計画を成就するように力を与えてくださいます(ヨハネ16:13;ローマ書8:27;使徒の働き1:8)

神様、私があなたの前に来るときに、あなたが私の祈り一つひとつを聞いてくださいましたことを感謝します。ダビデが祈ったように、私も祈ります。

「私の祈りが御前への香として、私が手を上げることが夕べのささげ物として立ち上りますように。」

私はあなたの前に来るたび、あなたが私のために身代金を払ってくださいましたことを思い出して、感謝します。

私の罪を示してください。そして、赦してください。

あなたの御霊で私を満たしてください。

聖霊が私を導いてくださり、私があなたの声を聞くことができるようにしてください。

あなたの御心に従うために、聖霊の力で私を満たしてください。

そして、聖霊が私のためにとりなしてくださるとき、天のお父さんがその声を聞いてくださいますように。アーメン。

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出エジプト記

神様のために選り分けられた

パウロはこう書きました。

あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。(コリント人への手紙第一6:19ー20)

その言葉は大祭司の額の上に置かれた言葉を反映しています。「主への聖なるもの」。

聖なるというのは「選り分けた」という意味です。

神様の祭司として、私は神様のために選り分けられたのです。私たちはもはや自分自身のものではなく、神様のものとなったのです。

祭司たちの聖別式から、私たちは「主への聖なる」の意味を学ぶことができると思います。

一つ目は、私たちは聖なる者になるために代価が必要でした。

アロンとその息子たちを聖別した時に、牡牛が殺されました。牡牛を殺した時に、アロンとその息子たちは手を牡牛の頭の上に置きました。

その意味は、その牡牛は彼らの咎を取り、彼らの罪のために死んだということです。

同様に、私たちはイエス様の血によって買われました。イエス様は私たちの咎を取り、私たちの罪のために死なれました。

4節では、水で祭司たちが洗われたように、イエス様の血によって私たちの罪は洗い去られました。

祭司たちは洗われた後で、祭司の服を着せられました。同様に、私たちもイエス・キリストを着せられました。イエス様はご自身の血によって私たちの罪と咎を覆われるのです。

ゼカリヤ書3:1ー5には、素晴らしい例があります。

その後、全焼のいけにえがありました。その時、雄羊を全部祭壇の上で焼きました。

同様に、私たちは神様の祭司として、私たちの人生のすべてを神様に捧げるべきです。

次に雄羊をもう一匹犠牲にしました。

その血を祭司たちの右の耳たぶと右の手の親指と右の足の親指につけました。なぜなら、祭司たちの耳と手と足が主の働きのために捧げられた象徴だからです。

同様に、私たちは祭司として、主の言葉に聞く耳と神様の命令に従う手と神様についていく足が必要です。

もう一つの興味深いことがあります。

雄羊の脂肪とたねの入れないパンと油を入れた輪型のパンとせんべいを主に向かって揺り動かして、焼きました。

けれども、アロンとその息子たちは雄羊の胸とももを食事として与えられました。

神様はこう語ろうとされたのだと思います。もし、私たちが自分自身を神様に捧げたら、神様も私たちに良い物を与えてくださいます。

私たちは神様にたくさん捧げると思うかもしれませんが、神様は私たちに豊かな人生を与えてくださいます。

私はイエス様に従うためにハワイを出て、日本に来た時に、多くの事を犠牲にしました。しかし、神様からもっと素晴らしいものをもらったので全然後悔はありません。

誰かが神様に従うなら、神様はその人を必ず祝福されます。

この命令をイスラエル人に与えられた後、神様が約束されたのは、神様がイスラエル人に会い、彼らに語り、彼らの間に住まわれることなのです。

同様に、神様は私たちに会い、私たちに語り、私たちの間に住まわれることを約束しておられるのです。

あなたは主への聖なるものでしょうか。あなたがクリスチャンであれば、それは当然です。

あなたは代価を払って買い取られたからです。

今、あなたは主のものなのです。だから、私たちはこのように祈るのが良いのです。

「主よ。私の耳も、私の手も、私の足も、そして私の人生もあなたのものなのです。」

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出エジプト記

私たちの心の中で神様の真理がある

さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。

アロンは絶えず主の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。(出エジプト記28:30)

ウリムとトンミムとは何でしょうか。簡単な答えは、「誰も知らない」です。

ウリムとトンミムの形や使い方について、具体的な情報は聖書には記載されていません。多くの推測がありますが、確かなことは分かりません。

けれども、神様の御心と導きを知るために、大祭司はウリムとトンミムを使ったと考えられています。ウリムとトンミムという言葉を直訳すると、「光と完璧さ」という意味であり、比喩的には「啓示と真理」という意味です。

私はウリムとトンミムについてあまり知らないですが、大祭司アロンが神様の前に来た時に、それらが胸の上にありました。

ウリムとトンミムの意味について考えると、二つのことが思い浮かびます。

聖書の中で、神様の言葉は私たちの人生のために光であると書かれています。また、神様の御言葉と道は完全であるとも書かれています。

詩篇119:105には、こう書いてあります。

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

また、詩篇18:30で、こう書いてあります。

神、その道は完全。のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

神様の御言葉は、神様がご自身と真理を私たちに示される方法の一つなのです。ほかのどの方法よりも、神様は御言葉を通して私たちに語られます。だから、私たちが人生の導きを求めるなら、私たちの心の中に神様の御言葉が必要なのです。

ヨシュアはイスラエル人をカナンに連れていく前に、かなり心配したようです。なぜなら、モーセが亡くなり、モーセのようにリードできるかどうか、自信がなかったからです。神様は三回言われました。

強くあれ。雄々しくあれ。」

多分ヨシュアは自分にはリーダーの資格がないと思ったでしょう。多分、自分の知恵と知識が足りないと思ったかもしれません。けれども、神様は彼にこう言われました。

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。

そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。

そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。(ヨシュア記1:8)

あなたは神様の御心を求めているのでしょうか。神様がどのような方であるかを知りたいのでしょうか。神様の道を知りたいのでしょうか。

そうであれば、聖書を読んでください。その言葉について考えてください。

小説のように聖書を読まないでください。

電車に乗った時に、散歩する時に、家事をする時に、読んだことを考えてください。寝る前に、その言葉を考えてください。

その言葉を暗記してください。

しかし、その全てよりも、その言葉に従ってください。

そうすれば、あなたのすることは繁栄し、また、栄えることができるでしょう。人生でも、仕事でも、人間関係でも、愛の関係でも、何をしても、うまくいくのです。

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出エジプト記

祭司の心

この箇所を読んで、私が印象に残っていることは二つあります。

一つは、エポデ(つまり、祭司の服の部分)の肩当てに二つのしまめのうをつけたことです。

その石の上に、イスラエルの部族の名が刻まれていました。

そして、胸当てには十二の宝石がつけられていました。その宝石の上にもイスラエルの部族の名前が刻まれていました。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ刻まれていました。

つまり、大祭司の肩と胸の上にはイスラエルの部族の名前が書かれていました。

このことによって、神様が二つのことを教えようとされたのだと思われます。

一つ目は、祭司は自分の肩の上に、人に仕える重荷を負うということです。

祭司は仕えられる方ではなく、むしろ、祭司は他の人に仕える方でした。祭司の仕事は人々のために執り成し、神様の道を教えることでした。

二つ目は、祭司は人々を懐に抱かなくてはならないということです。つまり、神様のように祭司は人々を愛し、世話しなくてはならなかったのです。

もちろん、イエス様は完全な大祭司でした。イエス様はこう言われました。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです(マルコ10:45)。

イエス様は全世界の罪を自分の肩に負って、十字架で死なれました。その働きによって、私たちの罪は赦されました。

それに、イエス様は私たちを懐に抱いておられます。私たちの名前がイエス様の心に書かれています。

イエス様は私たちのためにとりなし、教えてくださいます。羊飼いが羊を愛し、世話するように、イエス様は私たちを愛し、世話をしてくださいます。

イエス様はこう言われました。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます(ヨハネ10:11)

でも、私が以前言ったように、あなたがクリスチャンであれば、神様はあなたを祭司として呼んでおられます。

そして、神様の祭司として、私たちの周りの人々の名前が私たちの肩と心の上に書かれているはずです。

イエス様のように、私たちは人々に仕えたり、神様の御言葉を伝えたり、執り成したり、神様の愛を与えたりするべきです。

自己中心になるのは簡単なことです。

私もよく自己中心になります。他の人々の名前が私の肩に書かれていません。私の名前だけが書かれています。私は他の人に仕えず、仕えてほしいです。他の人々の必要を無視して、私の必要と要求を求めます。

でも、それは祭司の心ではありません。そんな心は欲しくありません。

あなたはどうですか。あなたの肩の上には何の名前が書かれていますか。何の名前があなたの心の上に書かれていますか。

ただあなたの名前でしょうか。

それとも、神様があなたに与えられた人々の名前が書かれているのでしょうか。

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出エジプト記

尊厳と名誉を着せられた

この箇所を読んで、心に残ったのは祭司の服についての言葉でした。つまり、その服のデザインは祭司に栄光と美を与えるためのものでした。

英訳では「尊厳と名誉」を与えるためとされています。

もちろん、祭司たちは完ぺきな人ではありませんでした。

大祭司が至聖所に入ったときに、ただイスラエル人のために犠牲の血を捧げるだけでなく、自分自身の罪のためにも犠牲の血を捧げました。

しかし、祭司たちは罪人であったのに、神様は彼らを尊厳と名誉に値する者とみなされました。そして、神様はイスラエル人が祭司たちを尊敬するよう望まれたので、彼らに栄光と美を与える服を着せられました。

この箇所から、私たちは二つのことを学ぶことができると思います。

一つ目は、祭司たちが尊厳と名誉に値するものとみなされたように、私たちは教会で牧師やリーダーを尊厳と栄誉に値する人とみなすべきだということです。

祭司たちのように、私たちの牧師たちは完ぺきな人ではありません。それでも、神様は彼らを私たちに仕えるように呼ばれました。

イエス様の十字架の働きによって、彼らの罪は赦され、イエス様を着せられました。神様は彼らに尊厳と名誉を着せられました。

だから、私たちも彼らをそのようにみなすべきなのです。

ヘブル人への手紙の作者はこう書いています。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。

ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(へブル書13:17)

パウロも書きました。

よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。(第一テモテ5:17)

どれほど多くの教会が、牧師が尊厳と名誉に値する者とみなされずに崩壊してしまったことでしょうか。

そのメンバーたちは牧師を攻撃したり、ゴシップのネタにしたり、文句を言ったりして、尊敬しませんでした。神様は牧師を教会の世話をするために呼ばれたのに。

多くの牧師たちはこのような問題によって、ミニストリーが崩壊しました。けれども、それは神様の御心ではありません。私たちは牧師たちが尊厳と名誉に値する人とみなすべきです。神様はそう考えられますから。

しかし、旧約聖書時代の祭司について考えるとき、私たちはあることを心に留めなければなりません。私たちも祭司として呼ばれたのです。(第一ペテロ2:4、9;黙示録1:6)。

そして、神様の前に来るときに、私たちもイエス様を着せられました。

イエス様の血によって私たちの罪は覆われ、私たちの過去について恥じる必要がありません。私たちは赦され、神様からの尊厳と名誉を与えられました。

多くのクリスチャンは「神様はあなたを神の国のために用いたいのです」と聞きますが、彼らはこう考えます。

「どうやって、神様は私を用いることができるでしょうか。私は価値がない。特別な賜物とか才能がないし。それに、私の過去はすごく悪かった。神様は私のような人を用いることができないでしょう?」

しかし、神様があなたをご覧になるとき、そうは思われません。あなたはイエス様を着せられ、あなたの罪は赦されました。

神様はあなたの罪を見られません。あなたの失敗を見られません。あなたの恥を見られません。むしろ、神様はご自身が尊厳と名誉を着せた人を見られます。

だから、神様はあなたを祭司として呼んでおられます。周りの人に触れるようにあなたを呼んでおられます。

あなたは自分自身をどのように考えていますか。神様が尊厳と名誉を着せられた者として考えていますか。

それとも、ただ自分の恥だけを考えていますか。

神様はあなたが自分自身をそのように考えることを望んでおられないのです。あなたは神様の祭司です。神様からの尊厳と名誉を着ています。だから、そのように生きましょう。

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出エジプト記

罪の問題を扱うこと

私の妻と結婚した直後、そのおじいさんが亡くなり、私たちは通夜と葬式に行きました。おじいさんは仏教徒だったので、仏教の式でした。

通夜の時に、お坊さんは少し興味深いことを語りました。つまり、阿弥陀の愛と恵みによって、人々は天国に行くことができるということです。

キリスト教のメッセージと似ていたので、私の妻は少し驚きました。

私が大学生の時に、私もそう思いました。

その時、私は宗教の授業に出席しました。授業で、教授は阿弥陀の礼拝について語りました。それは、阿弥陀の恵みと愛によって人々が救われるという教えでした。

それを聞いて、私も驚きました。初めて、キリスト教以外にそのようなメッセージを聞いたからです。だから、私は考えました。

「キリスト教とその仏教はどう違うのでしょうか。」

答えはすぐに出ました。阿弥陀の宗教は罪の問題を全然扱っていません。

罪は赦されますが、正義が全くありません。阿弥陀は罪を罰しません。

キリスト教は違います。赦しがありますが、代価があります。正義のために、代価を払わなければなりません。

だから、旧約聖書の時代に、神様は罪のために犠牲を要求されました。

もし、誰かが幕屋の庭に入るなら、一番最初に見るのが犠牲のための祭壇です。

庭に入るには戸口が一つしかなく、祭壇も一つしかありません。なぜならば、神様は皆に何かを伝えたかったからです。それは、神様の前に行く道が一つしかなく、罪を扱うために一つの方法しかないということです。

牡牛か山羊が祭壇に連れて行かれ、殺されて、祭壇の上で焼かれました。

その犠牲を通して、神様が私たちに思い出させたかったのは、二つのことです。

一つ目は、私たちは皆、罪を犯します。そして、罪は深刻な問題なので、その結果はいつも死です。

二つ目は、全世界の罪のためにもっと完全な犠牲を捧げる日を指し示していました。

どうして、イエス様の犠牲はもっと完全だったのでしょうか。

一つ目は、牡牛は死を選択しませんでした。むしろ、祭壇に連れて行かれて死んだのです。

二つ目は、牡牛は正しい行動と悪い行動の違いをよく理解していませんでした。

牡牛は無罪でしたが、罪を犯すかどうかを選択することができませんでした。つまり、選択によって無罪ではなく、無知によって無罪だったのです。

三つ目は、牡牛がどんなに完全であっても、牡牛の命は人間の命とは等しくありません。

しかし、イエス様がこの世界に来られたとき、人間として来られました。人間としては私たちと等しく、神様としては私たちより偉大な方でした。

だから、イエス様はご自身の偉大な命を、私たちの命の代わりに捧げてくださいました。

それに、イエス様は義と罪の意味をよく理解しておられましたが、義の道をいつも選ばれました。イエス様の罪の無さはご自身の選択によるものでした。

最後に、イエス様の犠牲はご自身の選択でした。イエス様は死なないことを選ぶことができましたが、私たちに対する愛のために死んでくださいました。

こういうわけで、イエス様の犠牲はもっと完全でした。そして、イエス様が死んだとき、私たちの罪のために罰を受けてくださいました。

ヘブル10:14には、こう書いてあります。

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

幕屋の庭にある祭壇は罪の問題を思い出させます。

阿弥陀の宗教はその問題を扱いません。他の宗教は罪を扱うためにいろいろな良い行動を要求します。

しかし、神様の庭に入るには一つの戸口しかなかったように、一つの祭壇しかなかったように、罪の問題を扱うには一つの方法しかありません。それはイエス・キリストです。

イエス様だけを通して、罪を扱うことができます。

あなたの罪はどうですか。もう赦されましたか。ローマ書6:23には、こう書いてあります。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

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出エジプト記

一つの道しかない

それでは、幕屋について話しましょう。私にとって一番興味深いのは聖所と至聖所の話です。

聖所の中には供えのパンと燭台と金の香壇がありました。

至聖所の中には契約の箱がありました。

至聖所は神様の住んでおられるところとみなされました。けれども、神様がおられる至聖所に入るには供えのパンと燭台を通り過ぎなくてはなりませんでした。

私たちがもう学んだように、その二つの物はイエス様の象徴でした。

そのように、イエス様は言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 (ヨハネ14:6)

父なる神様との関係を求めるなら、命のパン、また世の光であるイエス様を通して行かなくてはなりません。他の道はありません。

多くの人々はその教えが嫌いです。

どうして、イエス様を通して行かなくてはならないのでしょうか。

なぜ、他の道では神様のもとへ行くことができないのでしょうか。

なぜ、仏陀を通して行くことはできないのでしょうか。

なぜ、モハンマドを通して行くことはできないのでしょうか。

なぜ、ヒンドゥー教や他の宗教ではだめなのでしょうか。

なぜならば、神様は聖なる方ですが、私たちはそうではないからです。

そして、私たちが学んだように私たちのような人々が神様との関係を築くためには、私たちの罪のために贖いが必要です。

それを成し遂げられたのは、ただイエス様おひとりなのです。

イエス様は完全な生涯を送られました。まったく罪を犯されることはありませんでした。

仏陀は完全な人生を生きなかったのです。

モハンマドも完全な人生を生きなかったのです。

イエス様だけが「私は完全だ」と言うことができるのです。

そして、完全で罪のない方だけが、有罪の者の代わりに罰を受けることができるのです。

聖所と至聖所の間には垂れ幕があって、大祭司だけが入ることができました。一年に一回だけ入ることができました。

入る時には、イスラエル人の罪を贖うために、血の供え物を持っていかなければなりませんでした。

しかし、イエス様が死なれた時に、

手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル書9:11-12)

だから、イエス様が死なれた後で、神殿の幕は上から下まで真っ二つに裂けました。(マタイ27:51)

私たちと神様の間に立っていた壁は永遠に降ろされました。だから、私たちは神様との関係を持つことができるようになりました。

仏陀は、私たちの罪のために贖いを成し遂げたのではありません。

モハンマドも、他の宗教の指導者たちも、私たちの罪のために贖いを成し遂げたのではありません。

イエス様だけがそれを成し遂げてくださいました。だから、イエス様だけを通して、私たちは神様の前に行くことができるのです。

神様を知りたいと願っていますか。もしそうなら、イエス様を通して神様のもとへ行かなければなりません。

イエス様は命のパンです。

イエス様は世の光です。

しかし、何よりも大切なのは、イエス様こそ父なる神様の御前に出ることができる唯一の道です。