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イザヤ書のデボーション

死が滅ぼされる時

(この記事は、2011年に父が亡くなってから一年後に記したものです。昨日、母も天に召されたことを受けて、少し手を加え、あらためて共有いたします。)

多くの人々にとって、死は苦しみを伴うものです。

父の最後の週、私は毎晩、父の部屋でそばに寄り添いながら、静かに待っていました。それは、私がそれまで経験した中でも最もつらい時間でした。

そして母が召された今、私は再び同じような痛みを心に感じています。

それでも、やがて来る日には、死そのものが死に、終わりを迎える時が訪れます。

この箇所でイザヤは、イエス様の再臨について語っています。 彼はそのことに関して、次のように述べています。

この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。

神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。(イザヤ書25:7-8)

その日、すべての民が神様にこの賛美を歌います。

見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。

この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。(9)

父が亡くなった時、糖尿病や肺炎を患っていて、すでに目が見えず、足には全く治らない傷がありました。

母も肉体的な問題を抱え、断続的にうつ病と闘っていました。

しかし今、父と母のすべての健康の問題は取り去られ、彼らの苦しみと痛みは勝利に飲み込まれました(第一コリント15:54)。

今、父と母は共に救いの歌を歌い、主の食卓で食事をしています。

だから私は、苦しみの中でも喜ぶのです。

私は、父と母に再び会う日を待ち望んでいます。

There are burdens that I carry every day
私は毎日、重荷を背負って生きています。
Sometimes it makes me want to cry
時に、その重さに心がふさがれて、涙がこぼれそうになります。

In the middle of the darkness in my life
その人生の暗闇の中で
I find the strength to carry on.
私は生き続ける力を見いだします。
I am holding to a promise Jesus made
イエス様がくださった約束にしっかりと握り続けています。
And I know it won’t be long ‘til we’ll be gone.
やがて、私たちがこの世を離れる日が近づいていることを、私は知っています。

In a while, we’ll be gone.
やがて、私たちはこの世を離れる時が来ます。
And we won’t have to cry anymore.
その時、もはや涙を流すことはありません。
All our sorrows left behind.
悲しみはすべて、この世に置いていくのです。

That’s the day that I am waiting for.
その日を待っています。

That’s the day I’m longing for.
その日を願っています。

That’s the day that I am looking for.
その日を待ち望んでいます。

ーー エイミー・グラント

あなたがキリストにある希望を、さらに深く知ることができますように。

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赦され、忘れられた罪

かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。

先のことは思い出されず、心に上ることもない。(イザヤ書65:16ー17)

以前、上のことばを読んだとき、なぜか私はいつも、イザヤが「新しい天と新しい地」で神の御顔を見るときに、私たちがかつての苦難や罪や失敗を忘れる、と言っているのだと思っていました。

今でも、私たちの苦難や罪と失敗が忘れられると信じています。でも、それが神様の意図だとは思いません。

神様が言われたのは、「かつての苦難は忘れられ、わたしの目から隠される」ということです。

だから、「先のことは思い出されず、心に上ることもない」と言われるとき、神様が「先のことは思い出されず、わたしの心に上ることもない」と言っておられるのだと思います。

アダムとエバが初めて罪を犯して以来、私たちはこの世界でどれほどの苦しみを引き起こしてきたのでしょうか。

私たちは、どれほど神様の心を悲しませてきたでしょうか。

今日の箇所では、神様がそのことについて語られます。神様は、ご自身の民の罪と反逆について語り、彼らがどれほど神の心を悲しませたかを示されます。

それでも、神様は言われます。

「わたしはすべてを新しくします。その日、あなたの罪や、あなたがわたしの心を悲しませたすべてのことは忘れられ、わたしの目から隠されます。そのことは思い出されず、わたしの心に上ることもない。」

イエス様の十字架の働きによって、私たちのすべての罪は赦され、忘れられました。

それこそが、不思議な恵みですね。

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私たちをあわれんでくださる神

日曜日はイースターでしたが、この季節に、なぜイエス様が死ななければならなかったのかを思い起こすことは、とても大切だと思います。

今日の箇所は本当に興味深いです。イザヤは、神様が天を裂いて降りて来られ、ご自身をこの世の国民に現してくださるように祈ります。

その一方で、イザヤが悟ったのは、神様が来られるなら、イスラエルの敵だけでなく、イスラエル自身も裁かれるということです。なぜなら、イスラエルの民も神様に背を向けてしまったからです。

だから、イザヤは祈ります。

主よ、どうか激しく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えていないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに、目を留めてください。(イザヤ書64:9)

その祈りは、イエス様が死ななければならなかった理由を明らかにしています。十字架において、イエス様は私たちの代わりに神様の怒りを負ってくださいました。イエス様とその十字架の働きによって、私たちの罪は赦されます。

初代教会が旧約聖書を読む際には、ギリシャ語訳を用いていました。イザヤ書64:4のギリシャ語訳は少し意訳されていて、非常に興味深いものです。

「あわれみを待ち望む者のためにみわざを行われるあなたのほかに、私たちはとこしえから神を耳にしたこともなく、目で見たこともありません。」

神様の最終的な憐れみのみわざは、十字架において成し遂げられました。

パウロもそのように理解していたようです。十字架について語るとき、彼はイザヤ書64:4を意訳して引用しています。

目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、 人の心に思い浮かんだことがないものを、 神は、神を愛する者たちに備えてくださった。(第一コリント2:9)

十字架は、ただの悲劇的な事件ではありませんでした。十字架は、私たちを憐れみ、私たちを救うための、永遠からの神のご計画でした。

それは、なんと素晴らしいことでしょう!

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とりなしをし続けなさい!

シオンのために、わたしは黙っていない。 エルサレムのために沈黙はしない。 その義が明るく光を放ち、 その救いが、たいまつのように燃えるまでは。。。

エルサレムよ、 わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。終日終夜、 彼らは、一時も黙っていてはならない。

思い起こしていただこうと主に求める者たちよ、 休んではならない。主を休ませてはならない。 主がエルサレムを堅く立て、 この地の誉れとするまで。(イザヤ書62:1,6ー7)

1〜2節では、メシアは黙らず、沈黙せず、エルサレムの義が明るく光を放ち、その救いがたいまつのように燃え上がるまで、働き、とりなしをしてくださると約束されています。

それは本当に励ましに満ちたことばです。なぜなら、イエス様はエルサレムのためだけでなく、神の民すべてのためにそうしてくださるからです。

私たちの義が明るく光を放ち、その救いがたいまつのように燃え上がるまで、イエス様は働き、とりなしをしてくださいます(ヘブル7:22〜25)。

でも、6〜7節は私の心を打ちました。

メシアはエルサレムの城壁の上に見張り番を置かれました。そして、メシアは彼らにこう言われます。

「休んではならない。主にご自身の約束を思い起こさせなさい。祈り続けなさい。主がエルサレムを堅く立て、この地の誉れとされるまで、主を休ませてはならない。」

私は日本について考えます。イエス様は私たちを、日本のための見張りとして任命してくださいました。そして、イエス様は私たちにこう言われます。

「日本のためにとりなしをし続けなさい。黙ってはなりません。すべての人をイエス様のもとに引き寄せるという約束を、神様に思い起こさせなさい。(ヨハネ10:16、12:32;黙示録7:9〜10)

神の国が日本に来るように祈りなさい。イエスにある日本の義が明るく光を放ち、その救いがたいまつのように燃え上がるまで、神様が働き続けるように祈りなさい。」

天のお父さん、この国民はあなたを切実に必要としています。あなたの国が日本に来るように。

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祝福されている

「彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。」

私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義(別訳:義)の外套をまとわせ。。。」(イザヤ書61:9-10)

この箇所を読むとき、たいてい1〜3節が私の目に留まります。 なぜなら、イエス様がそのことばを、ご自身に当てはめられたからです(ルカ4:18〜21)。

でも今日、9〜10節が私の目に留まりました。私はどれほど祝福されているかに気づかされました。

私はいつも、自分の欠点や失敗、そして罪ばかりを見てしまいます。でも、恵みによって、神様は私に救いの衣と、キリストの義の外套を着せてくださいました。

天のお父さん、私は本当に祝福されています。あなたにあって楽しみ、あなたにあって喜びます。なぜなら、あなたが私に救いの衣と、キリストの義の外套を着せてくださったからです。

私はその衣を作る必要はありませんでした。私はその外套を買う必要もありませんでした。

イエス様、あなたはご自身の血によってその衣を贖い取ってくださり、私に着せてくださいました。

ただ、「ありがとう」としか申し上げることができません。

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 輝け!

あなたは忘れているかもしれませんが、イザヤ書60章は、もちろん59章の続きです。😀

そして、59章では、この暗い世界の中における、キリストにある私たちの希望が描かれています。

最悪の時、私たちが自分自身を救うことができなかったとき、神様は私たちの救いのためにイエス様を送ってくださいました。

イザヤ書59〜60章では、神様は主にイスラエルの回復について語っておられますが、黙示録においてヨハネは、イザヤのことばを借りて、新しい天と地、特に新しいエルサレムについて語ります。

(イザヤ書60:3/黙示録21:24;イザヤ書60:11/黙示録21:25〜26;イザヤ書60:19〜20/黙示録21:4、23、黙示録22:5)

その新しい天と地こそが、私たちの希望です。

だから、エルサレムとユダヤ人たちに向けられた神のみことばは、私たちにも当てはめることができます。

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。

主の栄光があなたの上に輝く。(イザヤ書60:1)

今朝、神様はそのことばを通して、私に語られました。

「この世の闇を見ても、絶望しないで。この世の悪や、周りの人々の絶望、壊れた人生を見ても、へこたれないで。

起きなさい。この世で輝きなさい。あなたの希望を表しなさい。そうすれば、人々は暗闇から、私の光の中へ入ってくる。」

天のお父さん、どうか私があなたの光を輝かせる者となりますように。

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暗い世界にあっての希望

イザヤのことばを読んだとき、「この世界はあまり変わらないなぁ」と思いました。

今週のニュースを見たとき、私は、暴力や銃殺事件、そしてさまざまな不義を目にしました。

この世では、真理が広場でつまずき、人々は神の真理を拒み、自分の真理を作ろうとしています。

でも、それらは新しい問題ではありません。数千年前、イザヤもそのような問題について語っていました。だから、イザヤの感情がよく理解できます。

私たちは光を待ち望んでいたが、見よ、闇。 輝きを待ち望んでいたが、歩くのは暗闇の中。(イザヤ書59:9)

でも、15ー16節にあるイザヤのことばが大好きです。

主はこれを見て、 公正がないことに心を痛められた。主は人がいないのを見て、 とりなす者がいないことに啞然とされた。

それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、 ご自分の義を支えとされた。(15ー16節)

もちろん、イザヤはイエス様について語っています。

私たちの罪は、私たちと神様との仕切りとなりましたが、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払い、救いをもたらしてくださいました。

しかし、それだけではなく、ある日、イエス様はこの世に戻られ、正義をもたらし、この世を癒してくださいます。(17ー20節)

それが、私たちの希望です。だから、この暗い世界に直面するとき、神のすべての武具を取りましょう。

私たちの思いと心を、失望やサタンの他の攻撃から守るために、救いのかぶとをかぶり、正義の胸当てを着けましょう。

また、平和の福音の備えをはき、希望のない人々に、私たちの救いの希望を伝えましょう。

イザヤのことばを借りれば、

良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。

平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」と シオンに言う人の足は。(イザヤ52:7)

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あなたのような父になるように

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、 その名が聖である方が、こう仰せられる。+

「わたしは、高く聖なる所に住み、 砕かれた人、へりくだった人とともに住む。 へりくだった人たちの霊を生かし、 砕かれた人たちの心を生かすためである。

わたしは、永遠に争うことはなく、 いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊が衰え果てるからだ。わたしが造ったいのちの息が。」(イザヤ書57:15ー16)

天のお父さん、あなたが、私から遠く離れておられる神ではなく、私を気にかけていない神ではなく、むしろ、私のそばにおられ、情け深い神であることを感謝します。

あなたが、いつも私に怒っている父ではなく、私をいつも責めている父ではなく、むしろ、私の弱さを見て、憐れんでくださる父であることを感謝します。

私が、自分の娘にとって、そのような父になることができるようにしてください。

私の娘が、私を見るとき、あなたがどのような父であるかが、わかるようにしてください。

私は、あなたのようになりたいです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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石を巧みに投げる

最近、教会でダビデとゴリアテについてのメッセージを聞きました。

牧師の一つのポイントは、すべての国が、イスラエルが従っている神を知るように、ダビデは石を投げたということです。(第一サムエル17:40、46)

そして、巧みに投げられた石は、神様が望まれた目的を成し遂げました。その石によって、ゴリアテは倒されただけではなく、イスラエル人たちも、周りの国の人々も、主が神であることを知るようになりました。

今日の箇所を読んだとき、そのメッセージを思い出しました。私が巧みに投げたい石は、神の御ことばです。特に、福音です。

私は、周りの人々に、満足を与えられないものではなく、心の穴を満たすことのできる神を求めるように促したいのです。

彼らに、自分の人生を滅ぼしている罪から悔い改めるように促したいのです。

また、彼らには遅すぎるわけではないという良い知らせを伝えたいのです。なぜなら、神様は、悔い改める者を豊かに赦してくださるからです。

そして、神様が約束しておられるのは、ダビデの石のように、神のことばがご自分のもとに空しく帰ることはなく、神様が望まれることを成し遂げるということです。

天のお父さん、私の周りの人々があなたを知り、また、永遠のいのちを知るために、私があなたのことばをよく知り、巧みに用いることができるようにしてください。

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なぜ、あなたは私をそんなにも愛してくださるのですか

イエス様、あなたはこの世に来られたとき、私たち人間のようになられました。あなたは、美男子ではなく、私たちが慕うような見栄えもありませんでした。

あなたは、人々から退けられることも、病をも経験されました。

そして、あなたは刺されました。あなたは砕かれました。十字架にかけられるまでに、あなたの姿は人とは思えないほどに、打たれました。(イザヤ52:14)

そのすべては、私のためでした。私の背きのために、あなたは刺され、打たれました。私の咎のために、あなたは砕かれました。

私が天の父と平和を持つことができる理由は、あなたが私のために罰せられたからです。そして、あなたの打ち傷のゆえに、私の罪によって壊れた人生は癒されました。

私は、さまよった羊のようでした。私は、自分勝手な道に向かって行ったのです。でも、良い羊飼いのように、あなたは私を探し求めてくださいました。

私は、神様に罰せられて当然でしたが、あなたは、私の罰を受け取ってくださいました。

あなたに十字架を強いた者は、誰もいませんでした。あなたは、自ら望んで、自分のいのちを死に明け渡されました。あなたは、私の罪を負ってくださいました。そして、今なお、あなたは私のために、とりなしをしてくださっています。

「父よ、彼をお赦しください。彼は、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

イエス様、あなたが十字架で私の罪を負ってくださったおかげで、私は天の父の御前に立ち、義と認められます。

あなたは、苦しみと死を経験されましたが、よみがえられました。そして、あなたの死によって救われた私たちを見るとき、あなたは満足しておられます。

あなたの恵みに、畏敬の念を抱いています。どうして、あなたは私をそんなにも愛してくださっているのでしょうか。

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私の祈り

わたしの民よ、わたしに心を留めよ。 わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。 おしえはわたしのもとから出て。。。

義を知る者たちよ、わたしに聞け。 心にわたしのおしえを持つ民よ。。。」(イザヤ書51:4、7)

天のお父さん、

私の心を、あなたに導いてください。私の目が覚めるように。祈るとき、私があなたに耳を傾け、あなたの声を聞こうとする態度を持つことができるようにしてください。

あなたから出る教えを、聞きたいのです。私の心に、あなたの教えを宿すことができるようにしてください。

祈るとき、私が口先だけで「あなたのみこころが行われますように」と言うことがないようにしてください。むしろ、聖書の中であなたが何を語られたかを、思い出させてください。

あなたのことばによって、私はあなたのこころを本当に知ることができ、そのこころに従って祈ることができるようになるからです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの主の模範に倣う

神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。

神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず。。。(イザヤ書50:4-5)

いろんな意味で、イエス様は4〜7節にある言葉を成就されました。(マルコ1:35〜38;ルカ9:51;ヨハネ12:23〜33;マタイ26:67;ヨハネ19:1〜3)

けれども、4〜5節にあるイエス様の模範に、私は特に倣いたいのです。今年だけでなく、残りの人生においても倣い続けたいのです。

疲れた者を言葉で励ますために、キリストの弟子の舌を持ちたいです。

しかし、弟子の舌を持つためには、キリストの弟子の耳が必要です。毎朝、私はイエス様に時間をささげ、私への主の言葉を聞かなければなりません。

それだけではなく、キリストの弟子の心が必要です。私は毎日毎日、一瞬一瞬、イエス様を私の主として従わなくてはなりません。

天のお父さん、私にキリストの弟子の耳をお与えください。私へのあなたの言葉を聞きたいのです。

また、私が疲れた者にあなたの命の言葉を与えるために、キリストの弟子の舌をお与えください。

そして、キリストの弟子の心をお与えください。私が毎日毎日、一瞬一瞬、イエス様を私の主として従うように。

イエス様、私はあなたのようになりたいです。アーメン。

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クリスマスの歌

主よ、あなたは私の神。 私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。

あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、 まことに、真実に成し遂げられました。(イザヤ書25:1)

クリスマスがもうすぐなので、今朝、上の歌は私の心に響きました。

神様の遠い昔からの不思議な計画を真実に成し遂げ、御子イエス様をこの世に送られました。

でも、25ー26章では、イザヤはイエス様の初臨ではなく、イエス様の再臨について話しているようです。

イエス様はこの世にもう一度来ると、正義をもって、すべての悪を滅ぼします。その後、イエス様は最後の敵を克服します。その敵は死です。

今、死はベールのようにこの世のおおうけど、神様はそのベールを取り除き、 永久に死を飲み込まれます。

神様は私たちの罪の恥を取り除き、すべての顔から涙をぬぐい取ってくださいます。(イザヤ書25:7ー8)

パウロもヨハネもその事をもっと具体的に話すので、彼らの言葉をどうぞ読んでください。(第一コリント15:20ー28,51ー57;黙示録20:7ー21:4)

とにかく、その日、私たちはイエス様を見て、以下のクリスマスの歌を歌います。

もちろん、今でも私たちは歌うことができるけど、イエス様がもう一度来るとき、私たちはその歌の意味をもっと深く知ることになるでしょう。

見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。 私たちを救ってくださる。

この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。 その御救いを楽しみ喜ぼう。(イザヤ書25:9)

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羊飼いの歌?

今日、アドベントのディボーションを読んでいて、羊飼いの話を思い起こしました。彼らは天使を見たとき、どのように感じたでしょうか。

ルカの福音書によれば、彼らは非常に恐れました。なぜでしょうか。

神様は約400年もの間、ユダヤ人たちに語られませんでした。しかし突然、神様はその沈黙を破られました。なぜでしょうか。彼らを裁くためでしょうか。

違います。良い知らせを告げるためです。

神様の怒りは去り、神様は御子を通して救いをもたらされました。

羊飼いたちが天使の言葉を聞いたとき、イザヤ書12章を思い浮かべたでしょうか。

おそらくそうではなかったでしょう。でも、もし彼らがイザヤの言葉を思い出したなら、きっとその歌を歌ったことでしょう。

主よ、感謝します。 あなたは私に怒られたのに、 あなたの怒りは去り、 私を慰めてくださったからです。」

見よ、神は私の救い。 私は信頼して恐れない。

ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。 私のために救いとなられた。(イザヤ書12:1ー2)

エッサイの根、つまりイエス様は来られました。(イザヤ書11:1〜5、10)

そして、イエス様を見た後、羊飼いたちは周りの人々にその良い知らせを伝えました。(ルカ2:16〜18)

シオンに住む者よ。 大声をあげて喜び歌え。

イスラエルの聖なる方は、 あなたの中におられる大いなる方。(イザヤ書12:6)

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あなたのために

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ書9:6)

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれます。」

この言葉を読んだとき、私は、イエス様が生まれた夜に羊飼いたちに語った御使いの言葉を思い起こしました。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)

御使いが羊飼いたちに良い知らせを伝えたとき、イザヤの言葉を思い浮かべていたでしょうか。私はそう思います。

御使いはただ、「救い主がお生まれになりました」と言うこともできたでしょう。

あるいは、「イスラエル人のために救い主がお生まれになりました」と言うこともできたでしょう。

しかし、御使いはこう言いました。「あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」

それは、勢力のある人のためだけではなく、一般の人々のためです。あなたのためです。

そして御使いは、羊飼いたちを、生まれたばかりの王を見に行くように招きました。

その王は、兵士に守られた宮殿にはおられませんでした。そこにいたのは、王の父親と母親(そして、おそらく家畜)だけでした。だから、羊飼いたちでさえ、その王を訪ねることができたのです。

救い主は、あなたのためにお生まれになりました。

羊飼いたちのように、自分を取るに足りない者だと思うかもしれません。自分にはあまり価値がないと思うかもしれません。

それでも、イエス様はあなたのためにお生まれになりました。

あなたのために。

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恐れではなく信仰を選ぶ

アラムは、エフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企てて、「われわれはユダに上ってこれを脅かし、これに攻め入ってわがものとし、タベアルの子をその王にしよう」と言っているが、神である主はこう言われる。

それは起こらない。それはあり得ない。(イザヤ書7:5-7)

上の言葉を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれだけ、実際には起こらないことを心配しているのだろうか。」

心配で眠れない夜もありました。でも、多くの場合、私が心配していたことは実際には起こりませんでした。

神様を信じるほうが、はるかに良いのです。神様が私とともにおられることを思い出すほうが、はるかに良いのです。

2千年前、神様は「私と共におられる」というしるしを与えてくださいました。そのしるしとは、飼葉おけに寝ておられた赤ちゃんでした。

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。

見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ書7:14)

マタイによれば、「インマヌエル」とは、「神が私たちと共におられる」という意味です。(マタイ1:22〜23)

アハズが神様に信頼することを拒んだことを批判するのは、簡単なことです。でも、私はどれほど神様が与えてくださったしるしを無視して、神様を信頼していないでしょうか。

イエス様、あなたはいつも私と共におられます。あなたこそ、まことのインマヌエルです。ですから、私が心配に引き込まれそうになるとき、あなたに心を向け、信頼することができるように助けてください。

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聖なる神、恵み深い神

これは、聖書の中で私が最も好きな箇所のひとつです。この箇所を読むたびに、私はいつも深く感動します。

今日は、神様の聖さと恵みについて思い巡らしていました。

セラフィム(ある種の天使)は叫びました。

聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。(イザヤ書6:3)

残念なことですが、ウジヤ王はその生涯の後半において、神様の聖なるさを認めることを拒み、神様の目から見て、ひどい罪を犯してしまいました。(歴代誌第二26:16〜21)

その反面、イザヤは神様の聖なるさを認め、叫びました。

ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。 しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。(5)

でも、それと同時に、私たちは神様の恵みも見ることができます。

皮肉なことに、イスラエルに対する神様の裁きの中に、私たちはその恵みを見ることができます。神様はイザヤに、「この人々の心を肥え鈍らせなさい」と言われました。

では、イザヤはどのようにして彼らの心を肥え鈍らせたのでしょうか。彼らが聞きたくない真理を語り続けることによって、イザヤはそうしたのです。

最終的に、イスラエルはバビロンに倒されました。でも、イザヤの言葉によって「切り株」が残されました。

その「切り株」とは、神様に忠実な人々のことでした。たとえば、ダニエル、エゼキエル、ネヘミヤ、エズラは、ずっと神様に忠実に仕えました。

そして、その「切り株」を通して、イエス様は来て、私たちを救ってくださいました。

幻でイザヤが見た王は、王座から下り、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。(ヨハネ12:23〜41)

それがクリスマスの意味です。王は私たちを救うために、ご自分の王座からくだり、この世に来てくださいました。

だから今、イザヤのように、私たちは自分の恥と咎をもってイエス様のみ前に来るとき、イエス様は恵みをもって、私たちに言われます。「あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」

だからこそ、私たちは歌います。

Joy to the world!
世界に喜びを!

The Lord is come!
主がおいでになりました!

Let earth receive her king!
地のすべての民は、その王をお迎えいたしましょう!

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癒しはいつ訪れるのか

天のお父さん、私たちはあなたの家の山が堅く立つ日を待ち望んでいます。

戦争が終わる日を待ち望んでいます。正義をもってすべての悪人が裁かれる日を待ち望んでいます。すべての人々があなたを求める日を待ち望んでいます。(イザヤ書2:2〜4)

癒しはいつ来るのでしょうか。この世とその民は霊的に病んでいます。(イザヤ書1:5〜6)

なぜでしょうか。なぜなら、彼らは自分たちの主を認めないからです。彼らはいのちの源を知らないからです。彼らの心の飢えを満たすことができる方を知らないからです。

むしろ、彼らはあなたを捨て、侮り、あなたに背を向けました。(イザヤ書1:3〜4)

癒しはいつ来るのでしょうか。

私たちのお金や、私たちが誇れるものによって、癒しはもたらされません。(イザヤ書2:7〜18)

私たちの政治家によって癒しは来ません。(イザヤ書2:22)

この世界は、あなたを王、主、神として認めて初めて、癒しを知るのです。

私たちは、形だけではなく、心からあなたを求めて初めて、癒しを知るのです。(イザヤ書1:11〜19)

その日、人々はこう言うでしょう。

さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。(イザヤ書2:3)

でも、あなたの民は、まず最初にそうしなければなりません。私たちは、心からあなたを求めなければなりません。

だから、あなたを求める飢えを、私の心に与えてください。毎日毎日、一瞬一瞬、私があなたを信頼し、あなたに頼るように助けてください。

毎日、私があなたのみ言葉、御心、知恵、力を求めるようにしてください。

この壊れた世界、また、その壊れた人々に、あなたの御国が来ますように。

そのために、私を用いてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。