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コリント人への手紙第二

人々のために神様の最善を願う

この手紙の締めくくりにおいて、私たちはコリントの人々に対するパウロの希望を見ることができます。それは、神様の御心が彼らの人生に成し遂げられることです。

まず、パウロは彼らに挑戦しました。

あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。(コリント人への手紙第二13:5)

私たちが本当にクリスチャンかどうか、どのように分かるでしょうか。使徒ヨハネは、三つの確認方法を示しています。

1.本物のクリスチャンは、イエス様についての真理を信じます。(第一ヨハネ2:22-23)

2.本物のクリスチャンは、イエス様の言葉に従順です。(第一ヨハネ2:3-4)

3.本物のクリスチャンは、神様を愛し、クリスチャンの兄弟姉妹を愛します。(第一ヨハネ4:7-8)

もちろん、私たちの愛とイエス様への従順は決して完全ではありません。しかし、それらは私たちの人生の中で次第に成長するはずです。そして、クリスチャンが失敗したときには、すぐに悔い改めるべきです。

パウロは、コリントの人々がこの三つのテストに合格するように祈りました。特に、パウロは、彼らの悔い改めによって、自分の信仰が本物であることを証明するように願いました。

パウロは彼らにこう言いました。

私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。(7a)

なぜ、パウロはそのように祈ったのでしょうか。

それは、私たちが適格であることを明らかにしたいからではなく(7b)

つまり、パウロの希望は、周囲の人々が「パウロは偉大なリーダーだ。彼の弟子たちを見てごらん」と言うことではありませんでした。

むしろ、

私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたいからです。(7c)

パウロの意図は何だったのでしょうか。

コリントの人々が悔い改めなければ、パウロは彼らを厳しく指導する覚悟がありました。

もちろん、もし彼らが悔い改めるなら、その必要はなかったでしょう。しかし、パウロが厳しく指導しなければ、彼の批判者はこう主張するでしょう。「パウロは甘すぎる。本当のリーダーではない。」

けれども、パウロは批判者の言葉を気にしませんでした。彼が願ったのは、コリントの人々が悔い改めて、善を行うことです。

だから、彼はこう言いました。

私たちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になること、このことも私たちは祈っています。(9)

パウロがコリントの人々を厳しく指導しなかったため、彼の批判者たちは、彼が弱いと考えたかもしれません。けれども、パウロはそのことを気にしませんでした。彼の願いは、コリントの人々が強くなることだったからです。

そこで、パウロは彼らが完全な者となるように祈りました。別の解釈では、パウロは、彼らと神様との関係、そして彼らと自分との関係が修復されるように祈りました。

そして、パウロは彼らにこう言いました。

そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったときに、主が私に授けてくださった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになるためです。

この権威が私に与えられたのは、建てるためであって、倒すためではありません。(10)

言い換えれば、「私は、あなたのために神様の最善を願っています。あなたたちが成長できるように、神様は私を遣わされました。」ということです。

そこで、パウロは彼らにもう一度挑戦しました。

最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。(11a)

なぜでしょうか。

そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。(11b)

そして、パウロはこの手紙を、この言葉で締めくくりました。

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともに。(13)

それは、コリントの人々に対するパウロの希望と祈りでした。そして、それは私たちが周囲の人々に対して抱くべき希望と祈りでもあります。

人々が罪を犯し、特に反抗的な態度を取るとき、私たちは彼らを厳しく指導しなければなりません。それでも、私たちの目的は、彼らの神様との関係を修復することです。なぜなら、私たちは彼らのために神様の最善を願うからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは、ほかの人のために神様の最善を願っていますか。

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コリント人への手紙第二

イエス様がこの世に戻られるとき

この箇所で、パウロはコリントの人々に警告するだけでなく、私たちすべてにも警告を与えています。

パウロはこう言いました。

私があなたがたのところに行くのは、これで三度目です。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。

こう言うのは、キリストが私によって語っておられるという証拠を、あなたがたが求めているからです。

キリストはあなたがたに対して弱い方ではなく、あなたがたの間にあって力ある方です。キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。

私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。(コリント人への手紙第二13:1-4)

以前、コリントに行ったとき、パウロは自らの権威を振るうことなく、コリントの人々の罪深い態度を悲しみました。しかし、彼が彼らのために自らの人生を犠牲にしたにもかかわらず、コリントの人々はパウロを拒絶しました。

それでも、パウロは彼らに警告しました。「私は弱い者として来るのではありません。むしろ、私は神様の力を持ち、神様から受けた権威をもって、あなたたちを裁きます。」

そして、パウロはこう言いました。

以前に罪を犯した人たちとほかの人たち全員に、私は二度目の滞在のとき、前もって言っておきましたが、こうして離れている今も、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦しません。(2)

イエス様は、同じようなことを私たちに語られます。

イエス様は、以前この世に来られたとき、ある意味で弱い方として来られました。貧しい大工として、また巡回説教者として歩まれました。イエス様は、勝利する王としてではなく、十字架につけられた救い主として来られました。

しかし、神様の力によって、イエス様はよみがえられました。

そして、ある日、イエス様は再びこの世に戻られます。そのとき、イエス様は弱い方としてではなく、力を持つ方として戻られます。さらに、イエス様を拒絶する人を、もはや赦されません。むしろ、イエス様は彼らを裁かれます。

多くの人々は、イエス様を私たちを愛しておられる神の御子と見なします。そして、その愛を示すために、イエス様がすべてを犠牲にされたことに思いを巡らせます。もちろん、それは真実です。

しかし、多くの人々は、大切なことを忘れがちです。それは、イエス様がこの世に戻られるとき、すべての人々を裁かれるということです。イエス様は、ご自身を拒む者に対して、もはや憐れみを示されません。

その日、イエス様はすべての人々に明らかにされます。ただ神の羊としてだけでなく、ユダの獅子として、そして永遠にこの世を治める王として認められます。そして、イエス様の正当な統治に逆らう者は、イエス様の怒りを知ることになるのです。(ルカ19:11-27)

だからこそ、私たちは自らに問いかけるべきです。私たちはイエス様の権威に従うでしょうか。それとも、イエス様に逆らい続けるでしょうか。 神様は忍耐深いお方です。しかし、その忍耐は永遠に続くものではありません。

だから、決して神様の忍耐を試してはなりません。むしろ、今のうちに、私たちができる限り神様の恵みと憐れみを受け入れましょう。

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コリント人への手紙第二

真のリーダー(2)

この前、私はリーダーの特徴について話しました。この箇所では、さらにいくつかのリーダーの特徴を見ることができます。

1.真のリーダーは思うべき限度を超えて思い上がらず、自分自身を慎み深く考えるべきです。(ローマ12:3)

言い換えると、リーダーは、自分自身をキリストのしもべとして正しく判断し、謙遜を持って、自分の得手不得手を理解することが大切です。

パウロを批判したリーダーたちについて、パウロはこう言いました。

私は、たとえ取るに足りない者であっても、あの大使徒たちに少しも劣るところはなかったのですから。(コリント人への手紙第二12:11)

パウロは、自分自身をよく理解していました。彼はキリストによって召された使徒でした。彼は、しるしと不思議と力あるわざによって、自身の使徒としての資格を証明しました。

それに、彼は多くの教会を設立しました。そして、印象的な説教者ではなかったにもかかわらず、彼の言葉には神様の力が伴っていました。

それでも、パウロは自分自身を使徒の中で最も小さい者と呼びました。なぜなら、彼はかつて教会を迫害したからです。(第一コリント15:9)

また、彼は自らの弱さを認め、自分の力では何も成し遂げることができないことをも受け入れました。(第二コリント12:7-10)

真のリーダーは、自分自身をそのように捉えるべきです。彼らはキリストにあって、自身が何者であるかを正しく認識しなければなりません。また、人生やミニストリーにおいて、神様の恵みを必要としていることを謙虚に認めるべきです。

2.真のリーダーは、人々を心から愛します。決して人々を利用することはありません。

パウロはこう書きました。

私は、あなたがたのところに三度目の訪問をする準備ができていますが、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなたがたが持っている物ではなく、あなたがた自身なのです。

子が親のために蓄える必要はなく、親が子のために蓄えるべきです。私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう。

私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はますます愛されなくなるのでしょうか。(14-15)

パウロは、コリントの人々の最善を願いました。そして、霊的な親のように、大きな代価を払わなければならなくても、彼らが霊的に成長することを望みました。真のリーダーとは、そのように考えるものです。

3.真のリーダーは、常に誠実に行動します。

しかし、一部のコリントの人々は、パウロが彼らを欺き、搾取していると非難しました。皮肉なことに、その理由は、パウロが自分のミニストリーを支えるために彼らの金銭を受け取らなかったことでした。

なぜ彼らがそのように言ったのかは分かりません。もしかすると、彼らはこう考えたのかもしれません。

「パウロは、自分のミニストリーのために金銭を必要としないと言っていたのに、今はエルサレムの人々のために献金を募っている。それは矛盾しているのではないか。」

けれども、パウロは自身の人生、そしてコリントの人々に送った代表者たちの生き方を示すことで、その誠実さを証明することができました。(17-18)

すべてのリーダーが、そのようにできたら素晴らしいのに。

4.真のリーダーは、教会の人々の罪を悲しみ、その問題に向き合います。

パウロの懸念は、コリントの人々の罪を厳しく扱わなければならないことでした。彼はそれを望んではいませんでしたし、心を痛めましたが、しかし、その責任を果たす覚悟を決めました。(20-21)

真のリーダーは、そうすべきです。彼らは罪を目にすると、それを無視することはできません。

パウロはそのようなリーダーでした。あなたはどうでしょうか。

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コリント人への手紙第二

自立の問題

私の両親は、私が自立できるように育てました。私は親元を離れて数年後、父はこう言いました。「私がうれしいのは、おまえと兄姉が決して私たちにお金をねだらないことだよ。」

親子関係において、自立は良いことだと思います。私たちは皆、成長し、やがて両親から独立しなければなりません。

しかし、神様との関係において、自立は決して良いことではありません。私たちが神様から独立できる瞬間はありません。なぜなら、私たちは常に神様を必要としているからです。

この人生を歩むために、私たちは常に神様の力を必要とします。仕事、人間関係、ミニストリーにおいて、私たちは必ず神様を必要とします。

自立の問題は、私たちの人生の中で神様の力を本当に経験できなくなることです。神様からの独立を求めると、神様の力にアクセスできなくなります。

パウロはこの真理を学び、それをコリントの人々に教えようとしました。

パウロには素晴らしい霊的な経験がありました。彼は天国を見ました。

だから、パウロにとって「私はクリスチャンとしてたどり着いた。もう神様の助けは必要ないでしょう。私は霊的に成熟しているので、自分の力でこの人生を歩むことができるでしょう」と考えるのは容易だったでしょう。

そういうわけで、パウロが高慢にならないように、神様は彼の肉体に「とげ」を与えられました。そのとげが何であったのかについて、パウロは具体的に説明しませんでした。

もちろん、それは文字どおりのとげではありませんでしたが、それは健康上の問題だったかもしれません。(多くの人は、パウロが目の疾患を抱えていたと考えています。)あるいは、それは霊的な試練だったのかもしれません。

いずれにせよ、パウロは三度、主に願いました。「このとげを私から取り去ってください。」

しかし、神様はこう答えられました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(コリント人への手紙第二12:9)

要するに、「この問題を取り去らなくてもよい。なぜなら、あなたは私の恵みを持っているからである。そして、あなたの弱さのうちに、私の力は完全に働く。」

神様が意味されたものは何でしょうか。

私たちは弱いとき、自分の力に頼らず、神様の力に依り頼まなければなりません。私たちが自分の力に頼り続ける限り、神様の力は私たちの人生において完全に働くことができません。

だから、パウロはこう言いました。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(9b-10)

なぜ、パウロは自分の弱さを誇ったのでしょうか。それは、弱さゆえにパウロがさらに神様に依り頼まなければならなかったからです。

その結果、彼は以前にもまして、神様の力を知るようになりました。それだけではなく、パウロと神様との関係はさらに深まったことでしょう。

あなたはどうでしょうか。自分の力だけで人生を歩もうとしていませんか。もしそうであれば、神様の力を経験することも、神様との親しい関係を築くこともできません。

私自身、神様の力と、神様との親しい関係の両方を持ちたいと願っています。

だからこそ、自分の自立を誇るのではなく、毎日、神様の力に依り頼むことを学びましょう。

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コリント人への手紙第二

霊的な経験より重要なもの

おそらく、コリントの偽教師たちが自分の啓示や幻を誇っていたため、パウロは自らの優れた霊的な経験を語り始めました。

彼は天国に行き、神様の御前に立ちました。(それが実際に起こったのか、それとも幻だったのか、パウロ自身は知りませんでした。)

それでも、その経験について話した後、パウロはこう言いました。

しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。(コリント人への手紙第二12:6)

パウロの言葉の意味は何でしょうか。

私たちには皆、それぞれ霊的な経験があります。もちろん、その経験の大切さを疑うことはありません。しかし、その経験によって、自分の霊的な偉大さを誇るべきではありません。

私たちの霊的な成熟は、毎日の言葉や行動によって証明されます。周りの人々は、そのことに気づくはずです。

彼らは私たちの霊的な経験そのものではなく、むしろ神様が私たちを通して話し、働き、人に触れておられることに気づくのです。そしてそれは、私たちの栄光のためではなく、神様の栄光のためなのです。

あなたには、素晴らしい霊的な経験があるでしょうか。それは祝福です。

しかし、本当の霊的な経験は、ただ心を躍らせるためのものではありません。むしろ、その霊的な経験を通して、私たちの日々の言葉や行動が変えられていくはずです。

あなたの霊的な経験は、どのように日々の言葉や行動を変えてきたでしょうか。

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コリント人への手紙第二

真のリーダー

このパウロと偽使徒の話から、私たちは真のリーダーの特徴を学ぶことができます。つまり、真のリーダーは何をすべきか、何を避けるべきかということです。

1. 真のリーダーは、自分自身を誇る必要がありません。

パウロが自らを誇ったのは、コリントの人々の弱さのためでした。彼らは偽使徒の資格に過剰に感動していたのです。

パウロは何度も、自分を誇りたくないと語っていました。それでも、コリントの人々の尊敬を得るために、彼は偽使徒と同じように、自身の資格について語らざるを得ませんでした。

しかし、通常の状況では、真のリーダーはそのような行動をとるべきではありません。

真のリーダーは、自分の才能や賜物、そしてミニストリーのすべてがイエス様から与えられたものであることを認めます。だからこそ、彼らは誇ることなく、謙遜な態度をもって人々を導くのです。

2. 羊が罪を犯したとき、真のリーダーはその羊を厳しく戒めなければならないかもしれません。けれども、そのリーダーは暴力を振るわず、羊の弱さにつけ込むことはありません。

その一方で、偽使徒たちはコリントの人々を「奴隷にして、食い尽くし、強奪し、その頭をたたきました。」(コリント人への手紙第二11:20)

残念ながら、今もなお、あるリーダーたちは自分の立場を乱用しています。しかし、パウロによれば、真のリーダーは自分に反対する人々を柔和に教え導きます。(第二テモテ2:25)

3. 真のリーダーは羊を心から愛しています。(28-29)

だから、リーダーは信仰の弱い人を励まします。私たちの大祭司イエス様のように、リーダーたちは羊の弱さに共感します。(へブル書4:15)

そして、誰かが羊をつまずかせたら、リーダーはイエス様のように憤ります。(マルコ9:42)

4. 真のリーダーはいろいろな苦しみを自ら望んで耐えます。

パウロは豪華な人生や快適な生活を求めませんでした。むしろ、パウロは迫害や様々な困難、眠れぬ夜や飢え渇きを経験しました。(23-27)

これらは真のリーダーの特徴です。

あなたは教会のリーダーでしょうか。牧師でしょうか。日曜学校の先生でしょうか。バイブルスタディーのリーダーでしょうか。

あなたはパウロのようなリーダーでしょうか。

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コリント人への手紙第二

別のイエス、異なる霊、異なる福音

この箇所では、私たちは重要な真理を学びます。それは何でしょうか。

人々が自分をイエス様の代表者だと主張するとき、御霊を持っていると主張するとき、また福音を伝えると主張するとき、私たちはその主張をただ受け入れるべきではありません。

なぜでしょうか。その理由は、パウロがコリントの人々に語った言葉の中に見いだせます。

蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。

実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。(コリント人への手紙第二11:3-4)

パウロの懸念は、コリントの人々がエバのように欺かれ、キリストから離れてしまうことです。どうしてそのようなことが起こり得るのでしょうか。

それは、彼らが別のイエス、異なる霊、異なる福音に惑わされるからです。

あなたはこう思うかもしれません。「ちょっと待って。ただ一つのイエス、ただ一つの聖霊、ただ一つの福音だけだと思っていたけど。」

その通りです。しかし、同時に、偽のイエス、偽の御霊、偽の福音が数多く存在します。人々を欺く働き人、そしてキリストの使徒になりすました偽使徒たちが、その偽の福音を教えているのです。(13)

パウロによれば、私たちはそのことに驚くべきではありません。なぜでしょうか。

サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。

彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。(14-15)

パウロはすでに自身の時代にその現象を目の当たりにしていました。コリントの教会では、一部の人々がパウロの教えに反対し、さらにはパウロ自身にも反対したため、信徒たちは混乱してしまいました。

また、新約聖書の中には、偽教師が誤った教えを広めた例が数多く記されています。

ある者たちは、別のイエスについて教えました。彼らによれば、そのイエスは人間としてこの世に来ていないというのです。(第二ヨハネ1:7)

彼らは異なる霊の力によって教えていたため、ヨハネは教会に警告を発しました。

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(第一ヨハネ4:1)

彼らは異なる福音を宣べ伝えました。彼らによれば、本当のクリスチャンはユダヤ人の律法に従わなければなりません。(ガラテヤ人への手紙を読んでください。)

今もなお、偽のイエスがいます。モルモン教によれば、イエスはサタンの兄弟です。また、モルモン教によれば、イエスは数百万の神々の一人です。

エホバの証人によれば、イエスは実際には御使いのかしらミカエルです。

偽の聖霊も存在します。エホバの証人によれば、聖霊は人格を持たない力です。モルモン教によれば、聖霊はイエスと同じく数百万の神々の一人です。

偽の福音もあります。エホバの証人とモルモン教によれば、救いは信仰と恵みだけではなく、私たちの良い行動に基づくものです。

もちろん、エホバの証人やモルモン教の人々は優しく誠実です。私たちよりも敬虔に見えるかもしれません。

しかし、彼らは別のイエス、異なる霊、異なる福音を伝えているため、自身が偽教師や偽のクリスチャンであることを証明してしまっています。

それでも、彼らの言葉は魅力的に聞こえるため、多くの人々が惑わされてしまいます。

誤解しないでください。彼らは意図的に人々を欺こうとしているわけではありません。むしろ、彼ら自身が欺かれてしまったのです。

けれども、私たちは惑わされないように、「私はイエス様を信じる。福音を信じる」と主張する人の言葉を吟味せずに受け入れてはいけません。

むしろ、私たちは聖書によって彼らの教えを吟味すべきです。なぜなら、聖書こそが真理の基盤だからです。

子供のように考えず、軽々しく騙されないようにしましょう。むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。テサロニケ第一5:21

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コリント人への手紙第二

自分自身と周りの人々をどのように判断するか

この箇所では、パウロは依然として自分を軽蔑するコリントの人々に向き合っています。

彼らはパウロを見て、その外見から判断しました。どうやら、パウロはそれほど容姿端麗ではなく、話し方も特に印象的ではなかったようです。

そのため、あるコリントの人々はパウロについてこう言いました。

「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」(コリント人への手紙第二10:10)

しかし、パウロは彼らに言いました。「あなたたちはうわべのことだけを見ています。」(7)

パウロは、クリスチャンとして、またキリストのしもべとして、立派な人物でした。 それでも、彼らはパウロの外見や話し方にばかり注目しすぎて、その本質を悟ることができなかったのです。 その結果、彼らはパウロとその弱さを軽蔑したのです。

こうして、パウロは彼らに警告を与えました。

そのような人は承知していなさい。私たちは、離れて書く手紙のことばどおりの者として、そちらに行ってもふるまいます。(11)

要するに、「私たちはただ言葉を並べる者ではありません。私たちは自分の言葉に従って行動します。私たちがコリントに行けば、あなたたちがまだ悔い改めていないことを知るでしょう。」

私たちは人を見るとき、外見で判断してはなりません。なぜなら、彼らはその見た目以上に優れた人であるかもしれないからです。そして、神様の力によって、私たちの予想を超えて彼らはさまざまな奉仕をすることができるでしょう。

しかし、もし私たちが彼らの外見にのみ注目し、彼らの弱さを軽蔑するなら、その人の本質を見損なうことになります。

さらに、私たちは神様の似姿として造られた人を軽んじてしまうことになります。そして、神様の目的のために造られた人を軽蔑してしまうことにもなります。神様はそのような態度を軽くは見られません。

また、私たちは自分自身をどのように評価すべきかを考える必要があります。

パウロは自分を批判する者についてこう言いました。

彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。(12)

要するに、自分自身を周りの人々と比べたり、評価したりするのは愚かなことです。なぜでしょうか。それは、私たちが人間的な基準ではなく、神様の基準によって測られるからです。

もし私たちが人間的な基準で自分自身を測るなら、神様が定めた的を大きく外してしまうでしょう。

さらに、当然のことですが、他人の業績を自分の手柄にしてはいけません。自分が成し遂げたことを誇りすぎるのはよくないですが、他人の業績を自分の手柄にするのはなおさら悪いことです。

パウロはそのようなことを一度も行いませんでした。(13−16)

そして、パウロは私たちが誇るべきことについて語ります。

誇る者は主を誇れ。(17)

パウロが意味したものとは何でしょうか。主は預言者エレミヤを通して、次のように語られました。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり(ます)。(エレミヤ書9:24)

要するに、私たちは自分自身や自分の業績に焦点を当ててはいけません。むしろ、神様に目を向け、神様をもっと深く知ることに努めるべきです。

神様を本当に知っている人には誇るべきことがあります。なぜなら、彼らは真に価値あるものに焦点を当てているからです。彼らは周りの人々を喜ばせることを目的とするのではなく、神様を喜ばせることを最優先にしています。

そのような考え方こそが真の知恵です。

だからこそ、パウロはこう言いました。

自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(18)

あなたはどうでしょうか。周りの人々をどのように判断していますか。彼らの外見だけで判断しているでしょうか。

また、自分自身をどのように評価していますか。周りの人々と比べているでしょうか。それとも、人間的な基準ではなく、神様の基準で測っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

要塞を打ち倒す力

私たちはこの世を見れば見るほど、サタンが自らの要塞を私たちの文化の中に築いていることに気づきます。

アメリカでは過去10〜20年の間に道徳観が悪化しつつあります。また、日本では、サタンの強い霊的な要塞の影響により、多くの人々が霊的な暗闇の中で生きています。

あるクリスチャンは、それを見て失望し、あきらめたいと思います。

また、別のクリスチャンは、サタンが私たちの文化の中で行ったことに怒りを感じます。そして、この世の人々のように、彼らは怒りと憎しみを抱き、暴力的な態度で撃退しようとします。

しかし、私たちはそのような戦い方をしてはいけません。それは、サタンの要塞を正しく打ち倒す方法ではありません。

パウロはコリントの教会で、さまざまな要塞に直面しました。偽教師によって築かれた要塞、分裂の要塞、そして神様とパウロに対する反抗的な態度という要塞がありました。

では、パウロはどのように反応したでしょうか。

パウロは柔和さと優しさをもって対応しました。彼に反対する人々を打ち負かそうとはせず、むしろ、柔和な心を持ち続けました。

もちろん、パウロが強気になることもありました。だからこそ、彼はコリントの人々にこう言いました。「あなたがたが悔い改めないなら、私は強く振る舞い、大胆に行動します。」

しかし、それが彼の望みではありませんでした。

大胆に振る舞わなければならない時でさえ、パウロは人々を打ち倒そうとは思いませんでした。むしろ、彼らを建て上げたいと願っていたのです。

そして、パウロはサタンの要塞を攻撃する方法について語りました。彼は言いました。

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。(コリント人への手紙第二10:3)

あるクリスチャンは「毒をもって毒を制す」という態度を取ることがあります。

また、社会の悪化を食い止めるために政治の手段を用いるべきだと考える人もいます。

誤解しないでください。クリスチャンとして、私たちは政治に関与すべきです。政治から手を引くべきではありません。しかし、政治を通じて人の心を変えられると考えるなら、それは誤りです。

クリスチャンの価値観が社会に根付けば、状況は改善されるかもしれません。けれども、政治には人の心を変える力はありません。

もし長期的な変化を望むなら、個々のクリスチャンが周囲の人々と関わるべきです。また、神様が与えてくださった霊的な武器を用いなければなりません。

パウロはこう言いました。

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。(4)

その武器は何でしょうか。基本的に、それは神の御言葉と祈りです。私たちは人々に神の御言葉を伝え、彼らのために祈るべきです。

御霊が私たちの内で、また私たちを通して働かれるとき、私たちは御言葉と祈りの持つ力によって人が変えられるのを目の当たりにします。

御霊を通して、

私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。(5)

最終的に、政治や議論によって人の心を変えることはできません。むしろ、神様こそが人の心を変えることのできる方です。

だから、私は二つの質問を投げかけます。

1.私たちは、サタンの要塞を打ち倒す戦いに参加しているでしょうか。

2.もしそうなら、どんな武器を持って戦っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

人々が神様に栄光を帰すために

前回の記事でこのことに触れましたが、もう少し詳しく話したいと思います。つまり、神様の民の寛大さによって、彼らは神様に栄光を帰すのです。

パウロはこう書きました。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。

この務めが証拠となって、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して、神をあがめるでしょう。

そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。(コリント人への手紙第二9:11-14)

この箇所の重要なテーマの一つは、私たちの寛大さによって、周りの人々が神様に感謝することです。

彼らは、自分の必要が満たされたからだけでなく、神様が私たちを通して働いておられるのを見るゆえに、神様に感謝します。彼らは、私たちの人生に溢れるこの上なく豊かな恵みを目の当たりにし、その恵みが彼らの人生にも広がっていくのを見ます。

残念なことに、多くの人々はクリスチャンを見ると、偽善者のように感じることがあります。また、愛に欠ける人や冷淡な人として映ることもあります。

しかし、イエス様の恵みに触れた寛大なクリスチャンを見ると、彼らは天の父を垣間見るのです。その天の父は、「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。」(マタイ5:45)

だからこそ、私たちの姿を見ると、彼らは神様に栄光を帰し、神様に近づくのです。

イエス様はこう言いました。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)

光を輝かせる最も良い方法の一つは、人々に惜しみなく与えることです。

私たちがそうすると、ノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンも励まされます。

彼らは、神様が決して自分たちを見捨てず、変わらぬ愛を注いでくださることを知るのです。そして、他のクリスチャンが自分の信仰によって生きる姿を見ることで、彼らもまた、自分の信仰によって生きるように励まされます。

そして、パウロのように、彼らは言葉に尽くせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(15)

その賜物によって、人々の心は変えられ、神様から与えられた愛を周りの人々に惜しみなく分かち合い始めます。

あなたはどうでしょうか。あなたの寛大さによって、人々は神様に栄光を帰しているでしょうか。彼らはあなたの人生を通して神様を見て、感謝しているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

恵みが溢れている人生

「恵みが溢れている人生」という記事のタイトルを読んだとき、あなたは何を思い浮かべたでしょうか。

神様から与えられた恵みを考えたでしょうか。もちろん、この記事ではそのことについても書きます。しかし、それだけではありません。

パウロはこう書きました。

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。

あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(コリント人への手紙第二9:8)

私はこの箇所が大好きです。パウロによれば、神様は私たちに溢れるほどの恵みを与え、私たちの必要を満たすことができます。

しかし、その恵みを豊かに与える目的は何でしょうか。それは、私たちがすべての良いわざに満ち溢れるためです。つまり、私たちは受けた恵みによって、周りの人々にも豊かに恵みを与えることができるのです。

そして、パウロは詩篇112篇を引用します。

「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。(9)

どういうわけか分かりませんが、以前にこの言葉を読んだとき、パウロがイエス様について語っているのだと思いました。もしかすると、その箇所でエペソ書4:8を連想したのかもしれません。

けれども、実際には、その詩人は義人の寛大さについて語っています。義人は主に信頼しているので、未来を恐れません。そのため、惜しみなく貧しい人を助け、良いわざに満ち溢れています。

そして、パウロは続けてこう言います。

種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(10-11)

要するに、私たちは神様が私たちの必要を満たしてくださることを確信できます。そして、私たちが周りの人々に惜しみなく与えるようになるほど、神様は私たちの財源をさらに増し加えてくださるのです。

しかし、私たちは自分の経済について本当に神様に信頼しているでしょうか。私はそのことをまだ学んでいる途中です。

私は詩篇112篇に描かれる義人のようになりたいです。私の人生に神様の恵みが溢れるように祈ります。けれども、その恵みを自分のためだけに持ちたいわけではありません。

むしろ、その恵みに溢れ、周りの人々に触れて祝福したいのです。そして、私の人生を通して、彼らが神様に栄光を帰すことを願います。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は恵みに溢れているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

献金の原則

この箇所では、私たちは二つの献金の法則を見ることができます。

パウロはこう言いました。

私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。(コリント人への手紙第二9:6)

もちろん、これは人生のあらゆる事柄に関わる大切な原則です。

例えば、結婚にわずかしか蒔かなければ、刈り入れるものもわずかになります。

つまり、結婚に時間や努力を惜しめば、その結婚から得られるものはほんのわずかであり、やがて枯れ果ててしまうかもしれません。けれども、結婚に豊かに蒔けば、大きな祝福を刈り入れることができます。

子育てにおいても、この原則は非常に重要です。もし、子供に対してわずかしか種を蒔かなければ、彼らが成長しても、あなたとの親しい関係をあまり求めないかもしれません。けれども、子供に豊かに蒔けば、成長した後も親しい関係を築くことができるでしょう。

とはいえ、この箇所でパウロが語っているのは献金についてです。多くのクリスチャンは、「十一献金は新約聖書の教えではないのだから、どうして献げるべきなのだろうか」と考えます。

しかし、教会にわずかしか蒔かなければ、その結果はどうなるでしょうか。

牧師は自分の家族を支えるために、アルバイトをしなければならなくなるかもしれません。そのため、教会の人々に仕える時間は大幅に減ってしまうでしょう。

また、教会は地域の人々に働きかけるための十分な財源を持てないかもしれません。さらに、あなたの家族に仕えるための資源も不足するでしょう。

けれども、あなたが豊かに教会に蒔けば、教会はあなたや家族、そして地域の人々にとって大きな祝福となるでしょう。

もしあなたが「自分の牧師や教会は十分に機能していない」と嘆いているなら、自分自身に問いかけてみてください。「私は豊かに教会に蒔いているだろうか。」

そして、パウロは続けてこう言います。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(7)

献金するとき、「献金しなくてはならない」という義務感を持つべきではありません。また、強いられるような気持ちで献金するのも正しくありません。

むしろ、喜びに満ちた心を持ち、惜しみなく献金するべきです。

「神様、あなたが多くの恵みを与えてくださり、ありがとうございます。あなたはイエス様を送ってくださいました。それは本当に素晴らしい賜物です。ですから、この献金を通して、私の感謝を表したいのです。」

このような心を持って献金することが大切です。

そのような心を持てば、献金の額が多くても少なくても、神様は喜んで受け入れてくださいます。

ルカの福音書21:1-3では、やもめの献金はほんのわずかな額でした。しかし、彼女は心から献げたため、イエス様はその献金を金持ちの多額の献金よりも喜ばれました。

あなたはどうでしょうか。どのような心で献金を捧げていますか。

あなたはわずかに蒔いているでしょうか。それとも、豊かに蒔いているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

私たちが周りの人々に与える影響

私たちは皆、家庭でも教会でも職場でも、周りの人々に影響を与えています。

もしかすると、自分がロールモデルになろうとは思わなかったかもしれません。しかし、実際にはそうした立場を持っていることもあります。もしそうなら、私たちはその役割を果たす責任を、周りの人々に対して、そして神様に対して負っています。

コリントの人々は、エルサレムの人々の苦しみについて聞いたとき、助けたいと願い、その思いをパウロに伝えました。パウロはその知らせを聞いて喜び、さらにマケドニアの人々にそのニュースを伝えました。

そして、マケドニアの人々がそれを聞くと、彼らも助けたいと願いました。こうして、あるマケドニアの人々がパウロとともに、コリントを経由してエルサレムへ行くことになりました。

しかし、パウロの心にはある懸念が浮かびました。「コリントの人々は、もうその献金を整えているだろうか。まさか、まだしていないのだろうか。」

そこで、パウロはこの手紙を書き、彼らが約束通りに献金を整えるよう促しました。そして、彼は彼らにこう書きました。

そうでないと、もしマケドニアの人々が私と一緒に行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。(コリント人への手紙第二9:4)

コリントの人々は予想もしませんでしたが、彼らの熱心によって、マケドニアの人々も献金するように鼓舞されました。もし霊的な先輩であるコリントの人々が献金を準備していなかったとしたら、マケドニアの人々は非常に落胆したことでしょう。

もちろん、私たちは完全な存在ではありません。誰もが失敗することがあります。クリスチャンは、何よりもイエス様ご自身を見習うべきです。

それでも、そうしないクリスチャンもいます。イエス様ご自身も、そのことを認めました。だから、彼はこう言いました。

私を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる方が良いのです。

つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。(マタイ18:6-7)

だからこそ、注意を払いましょう。私たちの行動は、私たちを見上げる人々に影響を与えることを心に留めましょう。

神様の恵みによって、私たちの模範を通して、人々が失望し、神様から離れることがないように。むしろ、私たちの模範によって、彼らが神様に従うように励まされますように。

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コリント人への手紙第二

イエス様の御名を輝かせている?

この箇所で、パウロはエルサレムの貧しい人々のための献金を集める手順について語ります。なぜなら、彼はコリントの人々に、その過程が公正であることを安心してもらいたかったからです。

そこで、パウロは献金を預かる担当者たちについて説明します。

一人はテトスでした。もう一人は、福音を宣べ伝える働きによって知られていました。そして、もう一人は、主への奉仕に熱心なことで知られていました。

彼らについて、パウロはこう語りました。

テトスについて言えば、彼は私の仲間であり、あなたがたのために働く同労者です。

私たちの兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光です。(コリント人への手紙第二8:23)

それは素晴らしい誉め言葉です。その三人はキリストの栄光です。

それはどういう意味でしょうか。彼らは、自分の人生を通してイエス様の御名に栄光をもたらしました。

イエス様への熱心さによって、彼らはイエス様の御名を栄光で満たしました。また、福音を宣べ伝える働きを通して、彼らはイエス様の御名に栄光をもたらしました。さらに、周りの人々への愛と憐れみによって、彼らはイエス様の御名を輝かせました。

この言葉を読むと、私は自分自身に問いかけます。私はキリストの栄光となっているだろうか。

私の言葉と行動を通して、イエス様に栄光をもたらしているだろうか。イエス様への熱心さを持っているだろうか。周りの人々にイエス様の言葉を伝えているだろうか。彼らに対する神様の愛と憐れみは私の心に溢れているだろうか。

私はそう願います。もちろん、私は完全な人間ではありません。しかし、イエス様の御名を汚したくありません。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様の栄光となっているでしょうか。あなたの言葉と行動を通して、イエス様の御名を輝かせているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

恵みの模範

私たちは本当に神様の恵みを理解できているでしょうか。その恵みを深く理解するなら、私たちの態度はどれほど変わるでしょうか。

自分のお金をささげること、自分の時間をささげること、自分の人生をささげることについて、私たちの考え方はどのように変わるでしょうか。

パウロはコリントの人々にこう語りました。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。

すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(コリント人への手紙第二8:9)

恵みとは何でしょうか。それは、神様の祝福に値しない者に祝福を与えることです。イエス様は恵み深い方であり、その恵みに値しない私たちを祝福してくださいました。

イエス様が何をしてくださったのか、考えてみてください。

イエス様は天国において富んでおられました。しかし、「富んでおられる」とは、お金や金銀をたくさん持っていたという意味ではありません。天国では、そうしたものに価値はありません。けれども、イエス様は天の父の栄光を持ち、天使たちから礼拝されていました。

イエス様は天の父の王座の右に座しており、何一つ欠けることがありませんでした。さらに、イエス様はすべてを治め、イエス様にあって万物は成り立っていました。(コロサイ書1:15-18)

それでもなお、イエス様はご自身の栄光を捨て、天国を離れ、人間としてこの世に来られました。

イエス様は王としてではなく、金持ちとしてでもなく、むしろ貧しい大工として来られました。そして、ご自身の奉仕を始められた時、イエス様には枕する所すらありませんでした。(ルカ9:58)

そして、ご自身の人生の終わりには、イエス様は礼拝されるのではなく、むしろ侮辱されました。王座には座らず、十字架につけられました。栄光をもって治めるのではなく、恥を受けて十字架につけられました。

なぜでしょうか。

それは、私たちが豊かにされるためです。イエス様の十字架の御業によって、私たちの罪の負債は支払われました。そのため、私たちはいつか御国でイエス様と共に治めることになります。(ローマ書8:17)

イエス様は惜しみなく恵みを与えてくださいました。

だから、私はもう一度尋ねます。

あなたは本当にその恵みを理解しているでしょうか。

その真理を実感しているでしょうか。もしそうなら、私たちの人生に大きな影響を与えるはずです。

イエス様が惜しみなく私たちを恵まれたように、私たちも周りの人々に惜しみなく恵みを与え始めるでしょう。

正直に言うと、私もこの真理をもっと深く実感する必要があります。

あなたはどうでしょうか。イエス様の恵みを理解しているでしょうか。その恵みは、あなたから周りの人々へと溢れ出しているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

恵みのわざに満ち溢れる

この箇所で、パウロはコリントの人々にこう語ります。

あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。

そのように、この恵みのわざにもあふれるようになってください。(コリント人への手紙第二8:7)

コリントの人々は、霊的な賜物や熱心さ、愛の豊かさで知られていました。

けれども、パウロはこう言います。「信仰や言葉、知識、熱心さだけではなく、恵みのわざに溢れなさい。つまり、人々の必要に応じて惜しみなく与える恵みのわざに満ちなさい。」

多くのクリスチャンは、信仰に溢れたい、キリストのために福音を伝えたい、イエス様についての知識を深めたい、熱心と愛に満ちたいと願います。

しかし、私たちは人々の必要に備える恵みのわざに溢れたいと本当に思っているでしょうか。それを願う人は少ないかもしれません。

神様は私たちにそれを望まれます。神様は、私たちが人々に与え、彼らに寄り添うことを求められます。

それこそがパウロの主な意図です。「この恵みのわざ」とは、エルサレムで苦しんでいるクリスチャンたちに与えることを意味していました。

しかし、神様は私たちがすべての恵みのわざに満ち溢れることを望まれます。

私たちが周りの人々に恵みの言葉を伝えることを望まれます。私たちが親切なわざを行うことを望まれます。私たちが人を許すことを望まれます。また、私たちが苦しんでいる人を憐れむことを望まれます。

私たちは恵みに満ちた人であるべきです。なぜなら、神様は恵みに満ちた方だからです。神様の子供として、私たちは天の父にならうべきです。

あなたはどうでしょうか。あなたは恵みに満ちた人でしょうか。あなたは恵みのわざに溢れているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

始めたことを最後まで成し遂げる

コリント人への手紙第二8:6-12は真理に富んでおり、私はこの箇所についてさらにいくつかの記事を書こうと思います。

パウロはこの箇所を、始めたように終えます。彼は基本的にこう言っています。

「あなたがたが始めたことを、しっかりと成し遂げなさい。」

コリントの人々は、エルサレムにいる貧しいクリスチャンたちのことを聞いた途端、「私たちは彼らを助けたい」と言いました。その模範を見たマケドニアのクリスチャンたちも、助けたいと思うようになりました。

そこで、パウロはコリントの人々に言いました。

「あなたがたが助けたいと思うのは素晴らしいことです。しかし、あなたがたは始めたことを成し遂げなさい。あなたの熱意を忘れず、良い計画を無駄にしないようにしなさい。

自分の約束を守り、献金を集めなさい。そうすれば、私たちが着いた頃には、その献金はすでに整っているはずです。

もしあなたが良い心を持っていれば、献金の金額はそれほど重要ではありません。なぜなら、神様が望まれるのは、あなたの心だからです。」

では、あなたはどうでしょうか。あなたは自分が始めたことを最後まで成し遂げるでしょうか。人々を祝福する計画を完成させるでしょうか。

あるいは、あなたの熱意が冷めてしまい、その計画を忘れてしまうでしょうか。

私たちはそうならないように、むしろ、自分の約束を守り、神様が与えてくださった良い計画を成し遂げましょう。

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コリント人への手紙第二

喜んで与える心

気前のいい心。人に何かを与えること。

正直に言うと、私はまだそのような心を持てるよう努めているところです。もしかしたら、私が末っ子だからかもしれません。あるいは、私の罪深い心のせいかもしれません。どうしてか分かりませんが、人に与えることは私にとって苦手なのです。

それでも、私はそのような心を持つべきだと思います。なぜなら、すべてのクリスチャンがそのような心を持つべきだからです。

マケドニアの人々は、そのような気質を持っていました。パウロによれば、彼らは激しい試練の中にあっても、また貧しい状況にあっても、エルサレムで苦しんでいるクリスチャンたちのために献金させてもらうことを願いました。

おそらく、パウロは彼らにこう言ったでしょう。「大丈夫です。あなたたちの経済も厳しい状況ですし、他の教会の人々も献金しています。それで十分だと思います。」

それでも、マケドニアの人々は「聖徒たちを支える奉仕の恵み」に参加させてもらうことを願いました。彼らはその奉仕を恵みと考えました。

私たちが苦しんでいるとき、自分自身のことに焦点を当てるのは簡単です。試練の中で、ただ自分のことだけを考え、どうすれば困難を乗り越えられるかと思い悩むものです。けれども、マケドニアの人々はそのように考えませんでした。

むしろ、彼らについて、パウロはこう言いました。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。(コリント人への手紙第二8:5)

それが、ささげることの本質です。まず、私たちは自分自身を神様に献げ、そして他の人々のためにも心を委ねることです。

イエス様はこの原則を次のように教えました。

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マタイ22:37)

また、

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(マタイ22:39)

だから、もしあなたがケチな態度を持っているなら、自分自身にこう問いかけるべきです。

「私は、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、主を愛しているだろうか。私は隣人を自分自身のように愛しているだろうか。もしかしたら、神様よりも、また隣人よりも、お金を愛しているのではないだろうか。」

もう一つの大切な問いかけは次のようなものです。

「私は、自分のことしか見ることができないほど、自分の問題に焦点を当てているのだろうか。それとも、マケドニアの人々のように、自分の問題だけでなく、他の人々の必要も見ることができるだろうか。」

あなたの心を見つめたとき、何が見えるでしょうか。

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コリント人への手紙第二

二種類の悲しみ

サタンの名前は「責める方」という意味です。その名の通り、サタンはいつも人を責めます。彼は私たちの罪を指摘し、私たちを惨めな者と呼びます。

実際、サタンの咎めの中には真実が含まれていることもあります。彼は私たちにこう言います。

「お前はだめだ。自分の罪を見てみろ。お前は神様の前では何の価値もない。神様がどうしてお前のような者を愛せるだろうか。」

そして、サタンは罪悪感の重荷で私たちを押し潰そうとします。

しかし、もしあなたが神様の子供なら、その声が神様の声ではないことを理解してください。

もちろん、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちが悲しむことを望まれます。けれども、神のみこころに添った悲しみは、世の悲しみとはまったく異なるものです。パウロはこう書きました。

あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。

あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:8-9)

パウロの言葉によって、コリント人たちは罪悪感を抱きました。その言葉により、彼らは悲しみました。しかし、その悲しみは一時的なものでした。

パウロの意図は、彼らを滅ぼすことではありませんでした。彼はその訓戒によって、彼らが長期的な害を受けることを望んだのではなく、むしろ悔い改めを通じて、彼らと神様との関係、また彼自身との関係が修復されることを願っていました。

だからこそ、パウロは神のみこころに添った悲しみと世の悲しみの違いを明確に区別します。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10)

世の悲しみを持つ人々は、一生後悔し続け、罪の赦しへの希望を失い、さらには将来への希望もなくしてしまいます。そのため、彼らの悲しみと罪悪感は彼らを押し潰します。

しかし、その反面、神のみこころに添った悲しみは悔い改めへと導きます。その人々が知っているのは、どれほど大きな罪を犯していても、神様によって赦されているということです。

だから、彼らは悲しみと後悔を手放し、イエス様の手を取り、神様が整えた未来へと歩み出します。

それはどのような未来でしょうか。それは希望と命に満ち溢れた未来です。

あなたはどうでしょうか。罪を犯したとき、あなたの悲しみは世の悲しみでしょうか。その悲しみによって、罪悪感に押し潰されてはいませんか。

それとも、その悲しみは、あなたをイエス様のみもとへと導いているでしょうか。悔い改めと命へと導いているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

真の愛

私たちは6ー7章を読むと、コリント人たちに対するパウロの愛をもちろん見ることができます。しかし、その愛は、私たちに対する神様の愛をも反映しています。

パウロはコリント人たちに心から願いました。

私たちに対して心を開いてください。(コリント人への手紙第二:7:2)

あるコリント人たちは自分の心をパウロに閉ざしていました。だから、パウロは彼らに「心を開いてください。」と願いました。

同じように、神様も私たちがご自身に心を開くことを望んでおられます。私たちが不信者たちと不釣り合いなくびきをともにせず、神様との親しい関係を持ち、一緒に歩むことを望んでおられます。

なぜ神様はそれを望まれるのでしょうか。それは、私たちが神様の息子と娘だからです。

パウロはコリント人たちに対して、深い愛を持っていました。彼は自分自身を彼らの霊的な父と呼びました。(第一コリント4:15)

だから、霊的な父として、パウロは天の父が私たちに示されるような愛をコリント人たちに与えました。言い換えると、彼は彼らに真の愛を示しました。

では、真の愛とはどのようなものでしょうか。

パウロはこう説明します。

私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。(コリント人への手紙第二8:2b)

すべてのクリスチャンのリーダーたちが、そのように言えるならどんなに良いことでしょう。

つまり、リーダーたちが故意に人を傷つけることがなく、彼らの教えが人々を聖い人生へと導くことです。また、彼らが人々の弱さにつけ込むこともなく、金銭をだまし取ることもないことです。

パウロは、それを自信を持って主張することができました。

そして、パウロは続けてこう言いました。

前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。(3b)

真の愛は、どんな状況でも相手とともに立ちます。たとえ死に直面するときも、真の愛は揺るぐことなく忠実です。

そしてパウロはこう言いました。

私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。(4)

愛は、人々を信じます。コリント人たちとの関係に問題があっても、パウロは彼らのことをテトスに誇りました。彼はテトスにこう言ったようです。

「私はコリント人たちを信じます。彼らが本当に神様の民であることを信じます。だから、たとえ私たちの言葉が厳しく、聞きにくいものであっても、最終的に彼らはその言葉を受け入れ、悔い改めることを信じます。」(14)

だからこそ、パウロは彼らに愛を示し、彼らを訓戒しました。真の愛は必要があれば人を訓戒するものだからです。

けれども、人を訓戒することを避ける人もいます。なぜなら、それが愛のない行為に見えるのではないかと心配するからです。

また、愛を持たずに真理を伝える人もいます。正直さよりも、ただ残酷な言葉を投げかけることに興味があるのです。

しかし、それはパウロの意図ではありませんでした。彼の望みは、コリント人たちが悔い改めることでした。決して彼らを傷つけることを望んでいたわけではなく、むしろ彼らが霊的に成長することを願っていたのです。(9-10)

結局、パウロの願いは叶いました。

時に、私たちが人を訓戒する理由は、相手の心を見抜くことにあります。パウロはこう言いました。

「あなたを訓戒した時、それは単に不正を行った人のためでも、被害者である私のためでもなかったのです。むしろ、あなたの心を見抜きたいと思いました。そして、あなたの悔い改めによって、あなたの心にあるものが明らかになりました。」(11-12)

けれども、それはパウロが彼らを信じていなかったために、試そうとしたということではありません。むしろ、彼は彼らを信じていたので、必ず悔い改めることを信じていました。

それが愛です。パウロのコリント人に対する愛とは、そのようなものでした。そして、神様の私たちに対する愛も、同じようなものです。

だからこそ、私たちもそのような愛を持つべきです。

あなたは、そのような愛を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

くびきを外すこと

この箇所について、最後に二つのことを言いたいと思います。

一つ目は、あなたがノン・クリスチャンと結婚しているなら、私は彼らと離婚しなくてはいけないとは言っていないことです。それでも、あなたが神様の言葉に反してその人と結婚したなら、その反抗的な態度のために神様の赦しを願うべきです。

でも、悔い改めた後、神様はその結婚であなたを用いることが出来ます。コリント人への手紙第一でパウロは言いましたが、もし、配偶者がまだあなたと一緒に住み続けたいと思うなら、そうするべきです。その理由は?

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。

そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。(第一コリント7:14)

その言葉を誤解しないでください。神様は彼らの救いを約束しているわけではありません。でも、その結婚が継続している間、聖霊様はあなたを通して働いて、配偶者と子供たちに触れることができます。もちろん、その場合、彼らが救われる可能性はより高いものです。

簡単に言うと、あなたは彼らに影響を与えることができます。でも、最初に、自分の神様との関係に注意するべきです。

もし神様との関係があなたの罪によって壊れたら、神様はあなたを用いることが出来ません。もしあなたが悔い改めていない罪を持っていると、神様はあなたを通してあまり働くことができません。

でも、あなたはノン・クリスチャンと結婚したことを後悔し始まめも、あきらめないでください。神様はあなたを通して、その状態を変えることが出来ます。

以前の記事で私は言いましたが、不信者とつり合わないくびきをともにするとは、結婚関係に限りません。

もしかしたら、ノン・クリスチャンの友達はあまりにもあなたに影響を与えているかもしれません。

あなたが大人なのに、あなたのご両親たちはあなたにあまりにも影響を与えているかもしれません。

また、あなたの彼氏や、彼女はあなたにあまりにも影響を与えているかもしれません。

そして、その影響によって、あなたの神様との関係はうまくいっていないかもしれません。

どうすれば良いでしょうか。控え目に言っても、それはかなり難しい状態です。でも、柔和な態度をもって行動するべきです。

最初に、彼らに対するあなたの愛をもう一度言い表すべきです。でも、彼らが行っている道があなたのと違って、あなたは神様の道を行かなくてはならないと伝えてください。

そして、その関係によって、あなたは彼らと絶交するか、彼らがあなたに影響を与えられないほどに、距離を保つべきです。

その距離は物質的な距離かもしれない。例えば、あなたは実家を去って、自分のアパートを借りたりしないといけないかもしれません。

または、あなたはただその人とあまり時間を過ごさないことです。

あなたの決断を理解する人もいます。ある人は理解してくれません。でも、彼らがあなたに影響を与えている限り、あなたはちゃんと神様に従うことが出来ません。だから、そのくびきを外してください。イエス様に従い始めてください。

そうすれば、神様が約束した祝福を知ります。

わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。

──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。

そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。(16-18)

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コリント人への手紙第二

不信者との不釣り合いなくびき(3)

次の箇所に進む前に、この箇所に関して多くの人々が教えている応用について触れておきたいと思います。それは、ノン・クリスチャンとの交際や結婚についてです。

ノン・クリスチャンとデートしてはいけないと教える人もいます。

私はそこまで言い切りませんが、多くの場合、ノン・クリスチャンと交際することは良い選択ではなく、罪へと導かれる可能性が高いのです。

クリスチャンがノン・クリスチャンと交際し、良い結果を得たケースもあります。しかし、大多数の場合、その結果は望ましくないものでした。

ノン・クリスチャンと交際するとき、最も大切な問いかけは、「誰が誰に影響を与えているのか」ということです。

あなたの影響によって、その人は神様に近づいているでしょうか。あるいは、相手の影響によって、あなたは徐々にイエス様から離れてしまっているでしょうか。

あなたの影響によって、相手は神様をもっと知りたいと願っているでしょうか。もしかすると、相手の影響によって、あなたは自分の純潔を失ってしまっているのではないでしょうか。

相手とデートするために、礼拝を欠席することがあるでしょうか。

相手と過ごす時間が多すぎて、ほとんど聖書を読まず、祈ることも少なくなっているでしょうか。

あなたは相手との肉体的な誘惑に負けてしまっているでしょうか。

もし「はい」と答えるなら、その人との関係を断つことが最善かもしれません。

それは厳しい勧告でしょう。しかし、なぜクリスチャンにとって、その忠告を受け入れることが難しいのでしょうか。

それは、その関係の問題が、単なる知識の問題ではなく、深い感情的な要素を含んでいるからです。

結婚についてですが、私たちは異性と肉体的に一つとなるように造られただけでなく、感情的にも深く結びつくように造られています。

相手と付き合うことで、その感情的な結びつきが始まります。

「その人が好き!その人も私を好き!」

恋人がいる人は皆、その幸せを知っています。そして、その関係が続くにつれて、その感情はますます強くなります。相手への強い感情を持ちながらも、自分の価値観と信仰を守ることはできるでしょうか。それは非常に難しいことです。

恋人からのプレッシャーに直面したとき、自分の価値観と信仰を貫くことができるクリスチャンは多くありません。

そして、たとえ信仰を強く持っていたとしても、相手との関係を断たなければならないとき、必ず失恋の痛みを経験することになるでしょう。

パウロは本来別の状況について語っていましたが、その言葉をノン・クリスチャンとの交際に適用して考えてみたいと思います。

「ノン・クリスチャンと交際する人々、また、ノン・クリスチャンと結婚する人々は、苦難を身に招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。」(第一コリント7:28)

相手がクリスチャンになる可能性はあるでしょうか。もちろん、その可能性はあります。

けれども、あなたのために命を捧げられたイエス様に対して不忠実になる危険性は非常に高いのです。残念なことですが、私はそうした事例を何度も見てきました。

クリスチャンの女性にとって、ノン・クリスチャンとの交際はさらに難しいものです。聖書によれば、結婚においては男性が導くべき存在とされています。そのため、交際中のカップルも、そのような関係性を育むことが望ましいでしょう。

しかし、クリスチャンの女性がノン・クリスチャンの男性の導きに従うこと、とりわけ霊的な導きに従うことは、不信者とつり合わないくびきをともにすることにつながります。

その一方で、もし女性が彼の導きに従わなければ、その関係が不自然に感じられるかもしれません。なぜなら、神様の御計画において、男性が導く役割を担うからです。

それでもなお、クリスチャンの女性はノン・クリスチャンとの交際において、相手の霊的な導きには決して従うべきではありません。

そして、クリスチャンがノン・クリスチャンと結婚することは、神様の命令に反する行為です。不信者とつり合わないくびきをともにすることになるからです。

そのため、ノン・クリスチャンとの交際を考える際には、慎重である必要があります。その関係が深まるにつれ、相手への感情が強くなり、罪に陥る危険性が高くなるからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは不信者とつり合わないくびきをともにしているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

不信者との不釣り合いなくびき(2)

前回の記事では、不信者とつり合

わないくびきをともにしないことの重要性について考えました。つまり、ノン・クリスチャンの影響によって清い人生を送ることができず、神様に忠実に仕えることが難しくなるなら、その人との関係において少し距離を取ることが必要かもしれません。

では、なぜそれが重要なのでしょうか。パウロはこう述べています。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。

正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。

信者と不信者が何を共有しているでしょう。

神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。(コリント人への手紙第二6:14-16a)

簡単に言えば、不信者と私たちの考え方や価値観には大きな隔たりがあり、その溝を橋で埋めることはできません。その理由は、私たちが異なる存在として属しているからです。

要するに、私たちは生ける神の宮であり、神様が私たちのうちに住んでおられます。

一方で、彼らは偶像の宮です。彼らは仏壇で拝まないかもしれません。それでも、心の王座から神様を追い出し、代わりに別のものをその王座に据えています。例えば、個人の幸せ、お金、持ち物などです。

そして、神様の考え方がその偶像の邪魔になると、彼らは神様を拒み、自分勝手に生きていきます。

もし彼らがそのように生きているのなら、どうして私たちが彼らの影響を受けるべきでしょうか。彼らはサタンの偽りを受け入れました。 「あなたがたが神のようになります。」(創世記3:5)

エバに言ったように、サタンは彼らにもこう語りかけます。

「あなたには神様の勧告など必要ありません。あなたは十分に賢いのです。幸せを得るために、神様のもとへ行く必要はありません。ほかのものによって、あなたは幸せになれるでしょう。神様のためではなく、自分のために生きたほうがよいのです。」

そして、サタンの偽りを信じると、彼らは実際にはサタンのために生きることになり、周囲の人々にもサタンに従うよう促してしまいます。

しかし、神様は私たちを自分の子供となるように呼ばれました。神様は、私たちがこの世の人々とは異なる存在となるように招いておられます。神様は、私たちが聖なる者となるように導いておられます。

だからこそ、パウロはこう語ります。

神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。

そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」(6:16b-18)

そして、パウロはその話を次のようにまとめています。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(コリント人への手紙第二7:1)

私たちは神様との素晴らしい関係を持つように招かれています。しかし、その関係を望むなら、私たちは罪から自分自身を清めるべきです。そのために、時には、私たちに悪い影響を与える人々から距離を保つ必要があるかもしれません。

あなたはどうでしょうか。神様への愛と敬意をもって、清い人生を歩んでいるでしょうか。あなたの人生は神様に仕えるものとなっているでしょうか。

もしかすると、この世に溶け込むあまり、知らず知らずのうちに周囲の人々の影響を受けてしまっているかもしれません。

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コリント人への手紙第二

不信者との不釣り合いなくびき(1)

聖さ。

多くの人々は、「聖い人」と聞くと、神様の栄光に輝いている人物を思い描きます。

しかし、「聖さ」には二つの側面があります。それは、清い人生を送ることと、神様の奉仕のためにこの世の人々から分けられることです。

クリスチャンとして、私たちはそのような生き方をするべきです。私たちは、周囲の人々にとって、私たちがクリスチャンであることが分からないほどに、この世に溶け込んではなりません。

彼らが私たちを見るとき、私たちの態度や行動が彼らと異なっていることが分かるはずなのです。

ところが、多くのクリスチャンがこの世に溶け込んでしまうのです。

その理由の一つは、「神様のためにほかの人々から分けられた者である」というマインドセットを持っていないからです。むしろ、彼らはこの世の人々から影響を受けてしまっています。

だからこそ、パウロはこう言いました。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。(コリント人への手紙第二6:14)

それはどういう意味でしょうか。その描写は申命記から来ています。神様はこう言われました。

牛とろばとを組にして耕してはならない。(申命記22:10)

その律法の前後では、神様は2種類のものを混ぜることを禁じておられます。だから、2種類の種を同じぶどう畑に蒔いてはいけませんでしたし、衣服を作るときも、羊毛と亜麻糸を混ぜてはいけませんでした。

なぜ神様はそのような律法を制定されたのでしょうか。それは、イスラエル人に清さについて教えようとされたからです。この律法を通して、ユダヤ人は、自分が清い者として生きるべきことを学びました。

では、なぜパウロは服や種の描写を用いなかったのでしょうか。おそらく、パウロは清さ以上の応用を見出したのでしょう。

牛とろばが組にされたとき、ろばは牛に大きな影響を与えることができました。牛は前に進もうとしていたかもしれません。しかし、もしろばが頑固で進みたくないと思ったとすれば、牛が進むのは非常に困難になってしまいます。

また、ろばが別の方向へ行きたいと思ったとき、牛には選択肢がありました。牛はろばの導きに従うこともできましたし、あるいは、ろばを強制的に正しい方向へ進ませようとすることもできました。

おそらく、パウロのポイントは、クリスチャンではない人に強く影響を受けるほどに、彼らと深く結びついてはいけないということです。

例えば、クリスチャンの起業家が悪徳商法を行う人物と提携すれば、大変な状況に巻き込まれるかもしれません。

また、私たちがアドバイスを求める際、ノン・クリスチャンの友人から影響を受けることもあります。

もちろん、ノン・クリスチャンの助言が有益な場合もあります。けれども、時にはそのアドバイスが一見良いように聞こえても、聖書の教えに反することがあります。

「彼女と一緒に住めばいいじゃない。彼女を愛しているんでしょう?」

「時には、成功するためにルールを曲げなくてはならないこともある。」

彼らはあなたの最善を願っているかもしれません。それでも、彼らが神様のみ言葉を知らないために、結果としてあなたを罪へと導いてしまう可能性があるのです。

それは避けるべきことです。私たちはノン・クリスチャンに影響を与える存在であるべきであり、彼らから影響を受けるべきではありません。

では、その関係を断つべきでしょうか。もちろん、そうではありません。

しかし、自分の人間関係を振り返るとき、私たちは自分自身にこう問いかける必要があります。

「彼らは私に過度な影響を与えていないだろうか。彼らの影響によって、私は自分の純潔を失いつつあるのではないか。神様のために聖別されているはずなのに、彼らの影響によって、そのように生きていないのではないか。」

もし「はい」と答えるなら、その人との関係において、少し距離を取ることが必要かもしれません。

次の記事で、この話をさらに掘り下げていきます。

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コリント人への手紙第二

何にしがみついているでしょうか

ある聖書学者たちは、この手紙がもともと2通の手紙だったと考えています。この手紙を読むと、彼らの主張の理由が理解できますが、それでも私は、この手紙は常に1通のものだったのではないかと思います。

では、なぜ一部の学者たちは、この手紙を複数の手紙をまとめたものだと考えるのでしょうか。

その理由のひとつは、手紙の前半部分では、パウロとコリントのクリスチャンたちがすでに和解したかのように見えることです。しかし、その後のパウロの言葉を見ると、彼らの関係にはまだ問題が残っているようにも感じられます。

もしかすると、パウロはその教会の多くの人々と和解したものの、一部のコリント人たちはなお彼の使徒としての資格を疑っていたのかもしれません。

彼らはなぜパウロの資格に疑念を抱いたのでしょうか。パウロはこう述べています。

コリントの人たち、私たちはあなたがたに対して率直に話しました。私たちの心は広く開かれています。あなたがたに対する私たちの愛の心は、狭くなってはいません。

むしろ、あなたがたの思いの中で狭くなっているのです。私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。(コリント人への手紙第二6:11-12)

要するに、「私たちは正直であり、あなたたちを愛していました。けれども、あなたたちの愛は抑えられてしまいました。私たちがあなたたちをどのように扱ったかのゆえに、あなたたちは自分の心を閉ざしました。

私たちがあなたたちの中の罪人や偽使徒たちを懲らしめたことで、私たちが厳しすぎると思うかもしれません。私たちがあなたたちに対して心を閉じたと思うかもしれません。

しかし実際には、あなたたちがしがみついているもののせいで、あなたたち自身が心を閉ざしてしまっているのです。

あなたたちは今もなお、自分の罪を持ち続けています。偽使徒との関係を持ち続けています。心の中に偶像を抱え続けています。そして、私たちがそのことのためにあなたたちを懲らしめた時、あなたたちは心を閉ざしました。

あなたたちはそれを手放そうとしないため、自分の心を開くことができないのです。」

あなたはどうでしょうか。何にしがみついているでしょうか。

時に、人々は教会やクリスチャンの交わりから離れることがあります。または、親しい兄弟姉妹との関係が壊れてしまうこともあります。

その理由の一つは、ある人が罪を犯した際に、兄弟や姉妹がその人を訓戒しようとするからです。けれども、その訓戒のゆえに、その人は拒絶されたように感じてしまうのです。

クリスチャンの仲間から訓戒を受けることは、時に難しいものです。残念ながら、訓戒するときに柔和を欠き、厳しすぎる態度を取ってしまうこともあります。(ガラテヤ6:1)

もしかすると、コリントの人々を訓戒した時、パウロも厳しすぎたかもしれません。パウロ自身も罪人であり、ある時、マルコに対して厳しすぎる態度を取ったことがありました。(使徒の働き15:36-39)

彼が厳しすぎたかどうかは定かではありませんが、パウロは確かにコリントの人々を深く愛していました。それでも、彼の訓戒やコリントの人々が執着していた悪いもののために、彼らはパウロの愛を正しく理解することができなかったのです。

その結果、彼らは自らの心をパウロに対して閉ざしてしまったのです。

あなたはどうでしょうか。兄弟姉妹からの訓戒が厳しく感じられても、あなたは自分の罪を認め、それを手放すことができるでしょうか。

それとも、罪への執着があまりに強く、あなたを愛している兄弟姉妹との関係を断ち切ってしまうでしょうか。

要するに、あなたは訓戒を受けた時、どのように反応するでしょうか。

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コリント人への手紙第二

私たちのミニストリーが誹謗されることのないように

私たちは牧師や宣教師ではないかもしれませんが、キリストの奉仕に参加するよう、誰もが呼ばれています。

5章でパウロは、私たち全員がキリストの使節とされていることを語っています。だからこそ、私たちは和解のメッセージを周囲の人々に伝えるべきなのです。

しかし、私たちのミニストリーが誹謗されることは容易に起こり得ます。私たちの行動や言葉によって、私たちの証しを拒絶する人もいます。

そのため、パウロはこう書きました。

私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。(コリント人への手紙第二6:3-4)

周囲の人々に対して、私たちはどのようにつまずきを与えることがあるでしょうか。それは、私たちの生き方によってであり、態度や行動によっても起こり得ます。

だから、どのような状況に直面しても、パウロは忠実にイエス様に仕えました。どんな苦難を経験しても、パウロは、「大いなる忍耐を働かせて、また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛によって」行動しました。(4-6)

パウロの言葉について考えてみてください。苦難の時、私たちはどれほど不平を言い、忍耐を失い、自己中心になり、周囲の人々を愛さなくなるでしょうか。その結果、私たちの証しが誹謗されてしまうことがあるのです。

しかし、パウロは、周囲の人々に称賛されても、誹謗されても、喜びの時も苦しみの時も、常に忠実にイエス様に仕えました。

彼は聖霊の力によって歩み、両手に義の武器を持っていました。片手には神様のみ言葉を、もう片手には信仰の大盾を携えていました。

私たちは同じことを主張することができるでしょうか。

私たちの行動や態度が、私たちのミニストリーを決して傷つけることのないように。むしろ、毎日、真実と愛、純潔と忍耐を持って歩みましょう。そして、聖霊の力と慰めによって歩みましょう。

そうすれば、私たちはこの世に確かな影響を与えることができるでしょう。

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コリント人への手紙第二

和解のメッセージ

さまざまな試練や苦しみに直面するとき、クリスチャンは神様ができるだけ早く天国へと導いてくださるよう願うことがあります。神様はなぜすぐにそうされないときがあるのでしょうか。

いくつかの理由がありますが、最も大きな理由は、私たちがこの世でまだ果たすべき役割があるからです。

16節でパウロは、もはや人間的な基準で人々を見るのではなく、神様の基準で見るべきだと語っています。

では、神様はこの世の人々をどのように見ておられるでしょうか。彼らは神様の似姿として造られているため、神様の目には尊い存在です。

もちろん、私たちも神様の目には尊い存在ですが、それだけではなく、神様は私たちをキリストの使節として見ておられます。

ローマ帝国には2種類の属州がありました。一つはローマ帝国の支配を喜んで受け入れた属州で、これらは元老院の支配下に置かれていました。

一方で、ある属州はローマ帝国の支配に対して敵対的な態度を持っていました。これらの属州は直接カエサルの支配下にありました。そして、平和を保つために、カエサルはその属州に使節を送りました。

それがパウロの例えです。この世のすべての人々は神様の似姿として造られました。しかし、多くの人々は神様に対して敵対的な態度を持ち、反抗します。

では、神様の使節として、私たちはどのようなメッセージを伝えるべきでしょうか。それは敵対的なメッセージでしょうか。いいえ、そうではありません。むしろ、私たちは和解のメッセージを伝えます。

私たちはキリストに代わって願います。

神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5:20-21)

それが福音のメッセージの中心です。

神の御子イエス様はこの世に来られ、完全な人生を歩まれました。決して悪を行わず、悪しき思いを抱かず、神様の命令に逆らうこともありませんでした。天の父が「その良いことをしなさい」と言われると、イエス様はいつも従われました。

それでも、罪をまったく犯されなかったにもかかわらず、イエス様は十字架につけられました。その時、神様は私たちのすべての罪をイエス様に負わせ、イエス様は私たちの罰を身代わりとして受けられました。

イエス様の十字架の御業によって、私たちがイエス様を信じるならば、神様はもはや私たちを罪人と見なされません。むしろ、イエス様の義が私たちを完全に覆い、神様が私たちをご覧になるとき、その義だけを見られます。

パウロの言葉を借りるなら、私たちは義と認められます。神様は私たちに対して、「無罪の者である」と宣言されます。

さらに、神様はイエス様の義の御業を、私たちの義のわざとして認めてくださいます。

では、その和解の賜物を受けるために、私たちはどうすればよいでしょうか。ただ、そのメッセージを信じ、受け入れることです。

これこそが和解のメッセージです。しかし、もう一つ重要な要素があります。それは、そのメッセージの緊急性を理解することです。

パウロによれば、私たちは彼らに懇願するべきです。「今、機会を見逃さないでください。待たないでください。」(コリント人への手紙第二6:1)

神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(6:2)

人々は、自分がいつ亡くなるのかを知ることはできません。悲しいことですが、心を頑なにし、待てば待つほど、そのメッセージを受け入れることが難しくなります。

ある歌は、私たちの願いをこのように伝えています。

Tomorrow.
明日ですか。
Forget about tomorrow.
この決断を明日まで先延ばしにしないで。
Won’t you choose the Lord today.
今日こそ、主を受け入れませんか。
For your tomorrow could very well begin today.
そうすれば、あなたの明日、つまり、あなたの将来は、今日始まるかもしれません。

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コリント人への手紙第二

新しく造られた者

聖書の中で、これは私が最も好きな箇所の一つです。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙第二5:17)

ある英語のスタディー・バイブルの解説をとても気に入っています。そこには、こう書かれています。

「私たちは改心させられたのではない。更生させられたのではない。そして、再教育されたのでもない。むしろ、私たちはキリストと一つになり、新しく造られたのだ。」

残念ながら、多くの人々はその真理を理解していないのです。彼らは、神様が私たちを救われた目的が、単に良い人になることだと思っているのです。

けれども、それは神の目的ではありません。神の目的は、私たちがまったく新しく造られた者となることです。

この世の考え方では、人は自分自身を改心し、更生し、再教育することができるとされています。確かに、ある程度まではそれが可能でしょう。

しかし、人生に本当の変化を望むならば、その変化は人間の努力や知恵によるものではありません。むしろ、神様だけが私たちの心と生き方を根本から変えることができるのです。

聖書を見ると、ユダヤの民は何度も自分自身を正そうとしました。けれども、彼らはいつも罪へと逆戻りしてしまいました。士師記を見ると、そのパターンが繰り返されていることが分かります。

神様は彼らを再教育するために、祭司たち、預言者たち、士師たちを送りました。さらに、世の中で最も賢い人であるソロモンが彼らを治めました。

しかし、ソロモンは自分の知恵によって彼らの心を変えることができなかっただけでなく、彼自身も堕落し、罪に陥ってしまいました。

ユダヤ人たちはエジプトから救い出された後、40年かけて荒野で更生させられました。何百年も後、彼らの罪のゆえに、バビロンで70年ほど再び更生させられなくてはなりませんでした。

結局、物事はほとんど変わりませんでした。もちろん、ある程度までは彼らも変わりました。バビロンの後、彼らは偶像礼拝を捨てました。

それでも、彼らのメシアであるイエス様が来られた時、彼らはイエス様を拒絶し、十字架につけました。今なお、多くのユダヤ人たちはイエス様をメシアとして認めていません。

だから、人々に必要なのは、ただの改心ではありません。ただの再教育ではありません。ただの更生でもありません。むしろ、彼らはまったく新しく造られた者にならなければなりません。

その変化はキリストによってのみもたらされます。キリストによってのみ、人々は神様がもともと計画された通りの人間になります。つまり、神様の似姿を回復するのです。

私は、C・S・ルイスの「朝びらき丸 東の海へ」に登場するユースチスという少年の話がとても好きです。

彼は、自分勝手な態度と貪欲によって竜になってしまいました。竜になった後、ある程度は心を入れ替え、更生しました。しかし、それでも彼は竜の姿のままでした。

そしてある日、彼はアスランというライオンに出会いました。(ナルニアの物語において、アスランはキリストの象徴です。)

アスランは彼に言いました。「その湖へ行き、泳ぎなさい。しかし、その前に裸になりなさい。」

もちろん、ユースチスは竜であり、服を持っていませんでした。しかし、彼は自分の竜の皮膚を剥がそうとしました。その皮膚を剥がしてから湖に入ろうとしましたが、まだ竜の皮膚の層が残っていることに気づきました。

ユースチスはさらに2回、その皮膚を剥がそうとしましたが、それでも皮膚の層が残りました。結局、アスランは彼に言いました。「私がその皮膚を剥がさなくてはなりません。」

アスランがその皮膚を剥がした時、ユースチスはアスランの爪が心臓にまで届いたと思うほどの痛みを感じました。そして、アスランがユースチスを湖に投げ入れ、その直後、ユースチスは自分が再び少年の姿に戻ったことに気づきました。

ユースチスのように、私たちは自分自身を改心し、再教育し、更生しようとすることができます。けれども、所詮、私たちに必要なのは、新しく造られた者となることです。

しかし、ユースチスのように、新しく造られた者となった後、私たちは変わり始めます。

あなたはどうでしょうか。自分の努力で自分自身を変えようとしているでしょうか。

あなたの努力によって、ただの竜よりは少しましな竜にはなれるかもしれません。

しかし、もし神様がもともと計画された通りの人間になりたいのなら、あなたは新しく造られた者にならなければなりません。

何を望むでしょうか

イエス様、私の罪によって、私の人生は乱れてしまいました。鏡をのぞくと、映る自分を好きになれません。私は自分自身を更生しようとしましたが、すべて無駄でした。

だからこそ、私はあなたに向かいます。あなたが私の罪のために死なれたことを信じます。どうか私の罪を赦してください。私を新しく造られた者としてください。私をあなたの似姿へと変えてください。アーメン。

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コリント人への手紙第二

真新しい視点

パウロはクリスチャンになった時、まったく新しい視点を与えられました。

救われる前、彼はクリスチャンたちを迫害していました。その時、彼は自分が神様の御心に従っていると信じていました。しかし、救われた後、彼はすべてを新しく認識しました。

パウロはイエス様の真の姿を目の当たりにし、さらにキリストが彼のために十字架で何をされたのかを理解し始めた時、彼の生きがいが根本的に変わりました。

イエス様を愛するようになったことで、イエス様についての彼の考え方も、周りの人々についての考え方も変化しました。

そのため、彼はこう記しました。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。

かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(コリント人への手紙第二5:16)

クリスチャンになる前、パウロはイエス様を単なる人間と見なしていました。さらに、彼はキリストを神樣を冒涜する者と考え、神樣から呪われた存在だと思っていました。

そして、クリスチャンたちを異端視し、異邦人を部外者と見なしていました。

しかし、クリスチャンになった後、パウロは彼らを新しく認識しました。彼らが神樣に愛される民であることを悟ったのです。

同様に、私たちがクリスチャンになる時、キリストについての考え方だけでなく、周りの人々への見方も変わるはずです。私たちは世の基準で人々を判断してはいけません。

この世は、人を美しさ、知性、富、魅力によって評価します。そして、それらを持たない者を切り捨てます。

けれでも、もし私たちがそのような価値観で人を見てしまうなら、極めて重要なことを見失うことになります。人は皆、神の似姿として造られているからです。

もちろん、彼らを見る時、その似姿が大きく歪んでいるように思えることもあるでしょう。それでも、彼らは神の似姿に造られました。

だからこそ、神樣は彼らを大切にされます。そのため、神樣はあなたのためだけでなく、彼らのためにもイエス様を十字架に送られたのです。

それならば、どうして私たちは彼らを軽蔑することができるでしょうか。

正直に言うと、私にとって、そのような考え方を持つのは難しい時もあります。ある人々は、愛することが容易ではありません。それでも、神樣は彼らを愛しておられます。

もし私が彼らを愛せないなら、それは私の心の問題です。彼らを見る時に、神の似姿を認識できないならば、それは私の霊的な目が曇っているのです。

あなたはどうでしょうか。愛するのが難しいと感じる人を知っていますか。

主よ、あなたにあって私は新しく造られた者です。あなたが誰であるかを知るようになりました。どうか、私が周りの人々が誰であるかを理解できるように、私の目を開いてください。

つまり、彼らをあなたの似姿として造られた者として見ることができるように助けてください。彼らを私の愛に値する者として見ることができるように助けてください。

私の傲慢な態度を赦してください。私の心を変えてください。私に新しい目を与えてください。あなたの目を与えてください。私があなたのように愛することができるように助けてください。アーメン。

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コリント人への手紙第二

キリストの愛に捕らえられた

あなたは何のために生きていますか。そして、なぜそれのために生きているのでしょうか。

パウロにとって、その答えは明白でした。それは、裁きの日が訪れることです。その日、彼だけでなく、すべての人々が裁かれます。(コリント人への手紙第二5:10)

だからこそ、彼はこう書きました。

そのため、主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています。(コリント人への手紙第二5:11a)

神様の前に立つことは、本当に恐ろしいことです。私たちはクリスチャンとして、自分の罪のために裁かれることはないと分かっていますが、それでも裁きの日は畏敬の念を抱かせるものです。

しかし、イエス様を信じない人々にとっては、何百万倍も恐ろしいことです。

だからこそ、パウロはこう言います。「人々がまだ悔い改めることができる間、私たちは彼らを説得しようとしています。」

彼は以前にもこのことを語りましたが、ここでも再び強調します。

「私たちは神様の前に誠心誠意をもって、福音を宣べ伝えます。なぜなら、神様は私たちの行動だけではなく、私たちの動機も裁くからです。」(11b-12)

では、パウロの動機は何だったのでしょうか。迫害されながらも、なぜ彼は福音を伝え続けようとしたのでしょうか。

私たちが正気でないとすれば、それは神のためであり、正気であるとすれば、それはあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕らえているからです。私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(13-15)

パウロによれば、キリストの愛が彼をとらえました。

実は、この「キリストの愛」という表現には、2つの解釈があります。

一つ目は、パウロとこの世の人々に対するキリストの愛です。おそらく、それがパウロの主な意味でしょう。

しかし、もう一つの解釈は、キリストに対するパウロの愛です。この箇所では、両方の概念を見ることができます。

14節では、パウロは「キリストはすべての人のために死なれた」と語っています。

では、なぜイエス様はそのようにされたのでしょうか。なぜ天を離れ、十字架へと向かわれたのでしょうか。それは、私たちに対するイエス様の偉大な愛ゆえです。

そして、その愛に応答するならば、私たちはもはや自分自身のために生きることはありません。むしろ、自分の古い生き方を葬り、イエス様のために生き始めます。

そのために、ヨハネはこう記しました。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)

あなたはどうでしょうか。自分のために生きていますか。それとも、神様のために生きていますか。

もし、神様のために生きているのなら、その理由は何でしょうか。裁きへの恐れからでしょうか。それとも、イエス様があなたを愛してくださるゆえに、あなたもイエス様を愛しているからでしょうか。

あなたの心には、イエス様の愛が満ち溢れ、どうしても周りの人々にその愛を伝えたいと願うほどになっていますか。

あなたは何のために生きていますか。そして、その理由は何でしょうか。

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コリント人への手紙第二

私たちがうめいていても

この箇所で、パウロは、なぜ試練の中でも希望を持ち続けることができたのかをさらに説明します。彼はこう語りました。

たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(コリント人への手紙第二5:1)

4章で、パウロは私たちの体を土の器に例えました。そして、5章では私たちの体を幕屋に例えています。

パウロのポイントは、私たちの体が幕屋のように一時的であり、壊れやすいものであるということです。しかし、たとえ私たちの体が滅びても、私たちは希望を持っています。なぜなら、神様がより丈夫な永遠の住まいを備えてくださるからです。

ここでパウロは第一コリント15章に触れています。つまり、私たちが復活すると、その新しい体は決して病気にならず、死ぬこともないのです。

それでも、パウロはこう語りました。

私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。その幕屋を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。

確かにこの幕屋のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって吞み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。(2-4)

要するに、私たちは死んだ後、ただ霊として存在するのではなく、新しい体を与えられる希望を持っています。

しかし、その日が来るまで、私たちはうめきます。この地上の体を持っている間、私たちは苦しみながら、新しい体を切望します。なぜなら、その新しい体を受けると、私たちの弱さと苦しみが完全になくなるからです。

では、苦しみの中でどのようにして希望を持ち続けることができるでしょうか。それは、神様がその新しい体を約束してくださったからです。

パウロはこう語りました。

そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました。(5)

簡単に言えば、神様は最初から、私たちにキリストにある新しい命を与えることを計画されていました。そして、その約束を保証するために、神様は私たちに御霊を与えてくださいました。

毎日、御霊は私たちに語りかけます。「あなたは神の子供です。」

また、御霊は日々、私たちをイエス様の姿へと変えてくださいます。私たちは、御霊の働きを見て、その声を聞くことで希望を持ち続けるのです。

それゆえ、パウロはこう語りました。

ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。

私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。(6-7)

私たちは今、イエス様から離れているように感じますが、それはほんの短い間です。やがて、私たちはイエス様の御顔を仰ぎ見ることになります。

だから、その希望を心に留めながら、毎日信仰によって歩みましょう。

信仰によって歩むならば、私たちの日常生活は根本から変わります。

そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。(9-10)

やがて私たちはイエス様の御顔を仰ぎ見て、その時、裁きを受けることになります。そして、その日が来ることを知っているからこそ、私たちはどのようにイエス様を喜ばせるかを思い巡らします。

私たちの目的は、自分自身を喜ばせることではなく、イエス様を喜ばせることです。

だから、たとえ試練と苦しみの中でうめいていても、希望を忘れずにいましょう。

やがて、私たちは主とともに歩み、すべてのものが新しくされます。だからこそ、毎日イエス様をどのように喜ばせるかを考えましょう。そうすれば、裁きの日に恥じ入ることはないでしょう。

あなたはどのように生きていますか。目の前の一時的なことだけに焦点を当てていますか。それとも、永遠のことを思い巡らしていますか。

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コリント人への手紙第二

希望を持ち続けるために

パウロは第4章を希望のメッセージで締めくくります。それは希望のメッセージです。

パウロは様々な困難に直面しました。希望を失うことは簡単だったでしょう。彼はあらゆる苦しみの中にあり、外には戦いがあり、内には恐れがありました。(コリント人への手紙第二7:5)

私たちも同じような経験をすることがあるでしょう。ただ試練に直面するだけでなく、自分の感情とも戦わなければなりません。恐れやフラストレーション、悲しみ、そして苦しみと向き合いながら生きているのです。

自分の厳しい状況の中で、パウロは途方に暮れることもありました。

信仰のゆえに、彼は迫害され、石打ちにされることもありました。

さらに、コリントの教会には様々な問題があり、時には、自分の努力が無駄なのではないかと疑問に思うこともありました。

それでも、パウロは希望を持ち続けました。彼は途方に暮れても、神様を求めるならば、脱出の道が備えられていることを知っていました。(第一コリント10:13)

彼は迫害されても、神様に見捨てられないことを確信していました。

また、倒れても、滅びることはないと知っていました。

なぜ、このような厳しい状況の中でも、パウロは希望を持ち続けることができたのでしょうか。

それは、神様が確かな計画を持っておられることを、パウロが確信していたからです。彼は1節にこう言いました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(コリント人への手紙第二4:1)

パウロは、神様が彼にミニストリーを委ねられたことを知っていました。そして、そのミニストリーが無駄ではなく、神様がご自身の目的を果たされると信じていました。

さらに、パウロは、そのミニストリーを託されるに値しないことを自覚していました。なぜなら、以前の彼はイエス様とその教会を憎んでいたからです。

しかし、憐れみによって、神様はパウロに真理を示してくださいました。実際、神様はパウロにこう言われました。「あなたは私の名のために苦しみます。」(使徒の働き9:16)

だからこそ、パウロは、自分の苦しみが神様を驚かせるものではないことを知っていました。神様は決して、「え?そんな大変なことは全然予想していなかった。ごめんね。」とは言われませんでした。

むしろ、神様はパウロが経験するすべての試練をあらかじめ知っておられました。

だからこそ、パウロは確信していました。罪の暗闇の中から彼を救い出し、命の光へと導いた神様の憐れみは、試練の暗闇からも救い出し、栄光の光へと導いてくださるのだと。

それゆえ、パウロはこう語りました。

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。(16-18)

要するに、私たちが苦しんでいても、肉体的にも精神的にも崩れるように感じていても、神様は毎日私たちの人生に働いておられます。

その試練を通して、神様は私たちをイエス様の姿へと変え、私たちは神様の栄光を映し出します。(3:18)

では、試練の中で、どのように希望を保つことができるでしょうか。私たちは自分の困難に焦点を当てるのではなく、目に見えない方に目を向けるべきです。

神様の目的が分からないこともあるかもしれませんが、神様が良い計画を持っておられることを信じるべきです。

また、私たちの試練は永遠に続くものではないことを忘れてはなりません。神様がその試練を乗り越えるよう導いてくださることを信じるべきです。

そして、私たちが諦めずに歩むならば、最終的に神様のうちにも、私たちのうちにも、私たちの状況のうちにも、神様の栄光を見ることができるのです。

パウロはこう語りました。

私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べ物にならないほど、重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。(17)

それを覚えておきましょう。神様はあなたの試練に驚いておられません。神様は確かな計画を持っておられます。

だからこそ、神様に信頼してください。神様がご自身の目的を成し遂げられることを信じてください。そうすれば、希望を持ち続けることができます。

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コリント人への手紙第二

私たちは誰を宣べ伝えるのか

周りの人々は私たちを見て、どのような人物だと思うでしょうか。

多くの場合、私たちは自分の立場や実績によって人々を感動させたいと願います。正直に言うと、私自身もその誘惑と日々戦っています。

誰もが周りの人々に認められたいと願います。しかし、もし人からの栄誉を求めて生きるならば、私たちは神様が与えられた目的を見失ってしまうのです。

パウロはこう書きました。

私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。(コリント人への手紙第二4:5)

パウロは自分自身を売り込もうとはしませんでした。彼は自分の立場や実績によって人々を感動させようとはしませんでした。むしろ、パウロはイエス様のことを宣べ伝え、周りの人々をイエス様のもとへ導きました。

自分自身について、パウロはイエス様が命じられた態度を持っていました。

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17:10)

だから、パウロは自分自身について語る際、基本的にこう言いました。「私は取るに足りない者です。大切なのはイエス様なのです。」

彼はコリントの人々にこう語りました。

私たちは、この宝(つまり、神の栄光を知る知識)を土の器の中に入れています。

それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(コリント人への手紙第二4:7)

つまり、「私たちはただの器にすぎません。しかし、それは宝を宿す器です。さらに、私たちは弱く、壊れやすい存在です。」ということです。

パウロはこう勧めました。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

迫害されますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。

私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。

それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。また、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。(8-11)

要するに、「私たちは弱く、すでに打ち砕かれたはずです。外には戦いがあり、内には恐れがありました(7:5)

私たちは途方に暮れ、迫害され、倒されました。私たちは常に死の危機に瀕しています。

しかし、私たちが今も生きている理由は、私たち自身の偉大さではなく、むしろ、私たちのうちにおられるイエス様の偉大さです。そして、私たちの試練の中で、イエス様のいのちは私たちの弱いからだを通して輝きます。」

これこそが、私たちのための神様の目的です。神様が望まれるのは、イエス様が私たちの人生を通して輝くことです。そして、その光が私たちの周りの人々の心を照らし、彼らが救われることです(6)。

だから、パウロはこう語りました。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。(12)

私たちは自分自身に問いかけるべきです。「私は誰のために、また何のために生きているのか。私の動機は何なのか。」

パウロにとって、その答えは明確でした。

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。(13-14)

パウロは、イエス様が私たちのために死んで、よみがえられたことを確信していました。また、パウロは、神様がパウロだけでなく、そのミニストリーを通して触れた人々も復活させることを確信していました。だからこそ、パウロは福音を宣べ伝えました。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたのために死んで、よみがえられたことを信じますか。あなたは、自分だけでなく、イエス様を信じる家族や友人、知人も復活することを信じますか。

あなたの人生は、あなたが何を信じるかを示します。

私たちは自分自身を売り込もうとしているでしょうか。それとも、人々をイエス様へと導いているでしょうか。私たちは自分の栄光を求めているでしょうか。それとも、神様に栄光を帰そうとしているでしょうか。

日々、パウロの態度を持ちましょう。

すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。(15)

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コリント人への手紙第二

私たちの役割、神様の御業

福音を宣べ伝えるとき、多くの人々は相手の反応を気にします。

それは当然のことです。なぜなら、私たちは彼らの救いを心から願っているからです。さらに、私たちは自分が好かれることも望んでいます。

もちろん、一つ目の願いは非常に大切ですが、二つ目の願いは二次的なものです。だから、その思いが福音の宣言を妨げることがあってはなりません。

パウロはこう書きました。

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。(コリント人への手紙第二4:1)

「落胆することがありません」と言うとき、パウロが意味したのは、「人々が福音を拒絶しても、私は落胆しない」ということだと思われます。

もちろん、人々が福音を拒絶するのは悲しいことです。さらに、人々が福音のために私たちを退けると、落胆するのは容易なことです。

しかし、パウロはこう語ります。

かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。(2)

つまり、「福音を宣べ伝えるとき、私たちは誠実にふるまいます。私たちは人を欺こうとするのではありません。」ということです。

さらに、パウロは「私たちは神のことばを曲げない」と語りました。

「曲げる」という言葉は興味深いものです。本来、この言葉はワインを売る商人が自分の商品を水で薄めることを指していました。

言い換えると、パウロはこう言いました。

「私たちは神様のことばを薄めません。人が福音をもっと簡単に受け入れられるように、福音を変えることは決してしません。むしろ、私たちはその真理を誠実に語ります。」

時に、相手が福音を受け入れやすくするため、また、私たち自身を受け入れてもらうために、福音のメッセージを変えたいという誘惑に駆られることがあります。

しかし、パウロにとって、それは決して許されることではありませんでした。彼は福音をはっきりと伝え、相手にこう語りました。

「これが福音です。あなたはどうしますか。」

神様は、私たちにもそのように語るように召しておられるのです。

人々に信じさせることは私たちの責任ではありません。私たちの責任は真理を正しく語ることなのです。

パウロはこう語ります。

それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。

彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。(3-4)

パウロが意味したのは、もし私たちが誠実に福音を伝えたとしても、相手が真理を理解できない場合、私たちは自分自身を責める必要はないということです。なぜなら、サタン自身が彼らの思いを暗くしているからです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。私たちはその人を神様の御手に委ねるべきです。それが私たちにできる唯一のことなのです。

パウロはこう書きました。

「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。(6)

世界が造られたとき、神様こそが暗闇の中に光を放ち、すべてを照らされました。同じように、神様は暗闇の中にある人の心を照らすことができます。

だから、ある人が福音を拒絶するとき、その人のために祈ってください。それこそが、私たちの役割です。その結果は、神様の御業です。

そのため、相手が福音をもっと簡単に受け入れられるようにするために、決して福音のメッセージを曲げてはいけません。

むしろ、その真理を正しく語り、その人のために祈りましょう。そして、神様が彼らの心の中で働かれることを待ちましょう。

そうすれば、もし神様の御心なら、神様の最善のタイミングで、私たちは実を見ることができるでしょう。

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コリント人への手紙第二

なぜ私たちは決して恥じる必要がないのか

前回の記事でこのトピックに少し触れましたが、今日はもう少し深く考えたいと思います。

モーセがシナイ山から降りて十戒を持ってきたとき、彼の顔は主の栄光に輝いていました。

最初は、イスラエルの民が恐れたため、モーセは自分の顔に覆いをかけました。けれども、その栄光が消え去りつつあっても、モーセは覆いを外しませんでした。

もしかすると、栄光が消え去ることを恥ずかしく感じていたのかもしれません。つまり、その時、自分の罪によって栄光が失われつつあることに気付いたのです。

この出来事を通して、私たちは律法の問題を理解できます。

律法は、神様がどのような方であるか、また私たちに対する神様の御心を示します。けれども、律法には私たちを変える力がありません。私たちはなお罪深く、律法によって裁かれるのです。

しかし、パウロによれば、私たちの状態は変わりました。私たちがイエス様を信じると、モーセの栄光よりもはるかに優れた栄光を見いだします。

どうしてでしょうか。それは、律法が石の板や紙に書き記されているものではないからです。

むしろ、私たちがクリスチャンになると、聖霊様がその律法を私たちの心に書き記し、毎日、私たちをイエス様と同じかたちに変えてくださいます。

私たちは日々、栄光から栄光へと変えられています。私たちの栄光は消え去るものではなく、むしろ、次第に増していくのです。

だから、パウロは私たちにこう語ります。

このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。(コリント人への手紙第二3:12-13)

神様が私たちに賜った栄光が消え去ることを心配する必要はありません。むしろ、私たちがイエス様の姿へと変えられるまで、神様が私たちの内で働かれることを確信することができます。その時、私たちは神様の栄光に輝くのです。

だから、パウロは私たちが自由を持っていると言います。(17)

神様は私たちを罪悪感から解放してくださいました。 神様は私たちを罰への恐れから自由にしてくださいました。 神様は私たちを律法の力から自由にしてくださいました。私たちにはもはや、自分の力で律法を守る必要はありません。

モーセはそのような自由を知りませんでした。彼は律法の支配下にありました。だから、全焼のいけにえを何度もささげても、罪悪感と恥を感じ続けていたのです。(へブル10:2-4)

彼は裁きの苦しみも経験しました。自分の罪のゆえに、神様がイスラエルの民に約束された土地に入ることができませんでした。だからこそ、モーセの顔に律法の栄光が消え去りつつあるとき、彼は覆いを外しませんでした。

しかし、私たちにはその必要はありません。私たちの覆いを取り去り、周りの人々に私たちの顔を見せましょう。私たちがどのような者であるかを明らかにしましょう。私たちは恵みによって救われた者です。

完全ではありませんが、私たちは日々、イエス様の姿へと変えられています。

だから、ペテロの言葉を心に留めて、生きていきましょう。

「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(第一ペテロ2:6)

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コリント人への手紙第二

律法の目的を正しく理解する

多くのクリスチャンは、クリスチャン生活をさまざまなルールを守ることだと考えています。多くのノンクリスチャンも同じように捉えているでしょう。

しかし、クリスチャンとして、私たちの栄光はルールにあるのではありません。なぜでしょうか。

パウロは、律法についてこう書きました。

石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。

そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。

罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。

消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。(コリント人への手紙第二3:7-11)

律法が与えられたことは、本当に栄光に満ちた出来事でした。なぜなら、律法を通して、私たちは神様がどのような方であるか、そして私たちに対する神様の御心を知ることができるからです。

律法が与えられる前、人々はそのことを知りませんでしたが、律法によって、その真理が明らかにされました。

けれども、律法には問題がありました。律法を完全に守ることができる人は誰もいません。そのため、律法は私たちを死に至らせました。だからこそ、その栄光はすぐに消え去りました。モーセの顔に輝いていた栄光も、すぐに消え去りました。

モーセがシナイ山から降り、十戒を持ってきたとき、彼の顔は神様の栄光に輝いていました。イスラエルの民はその輝きを見て恐れたため、モーセは顔に覆いをかけました。

ところが、パウロによれば、その栄光が消え去りつつあっても、モーセはその覆いを外しませんでした。

もしかすると、モーセは恥ずかしさを感じていたのかもしれません。または、こう思っていたかもしれません。

「もし私がもっと聖い人であれば、この栄光は消え去らなかったのではないか。」

もしかしたら、そうだったのかもしれません。

私はもう一度言います。律法の問題は、律法を完全に守ることができる人が誰もいないことです。そのため、律法は誰にもいのちを与えることができません。律法には、私たちをキリストと同じかたちに変える力がありません。

それにもかかわらず、多くの人々は律法を守ることで、神様が彼らを受け入れると考えています。パウロによれば、彼らが律法を読むと、覆いが彼らの心にかけられます。(14-15)

そのため、彼らは律法に関する真理を見ることができません。

つまり、律法の栄光はすでに消え去ったのです。けれども彼らは、まだ律法が栄光に満ちていると思い込み、その律法を通して神様に受け入れられると考えています。だから、彼らは必死に律法を守ろうとします。

しかし実際のところ、律法は彼らの罪を明らかにし、裁きをもたらすのです。

けれども、覆いが取り除けられると、私たちは気づきます。それは、律法の栄光がすでに過ぎ去ったということです。そして、私たちは本当に栄光に満ちたものを探し始めるのです。

それは何でしょうか。それは、御霊の働きです。イエス様の御業によって、聖霊様の務めが始まりました。十字架において、イエス様は私たちの罪の代価を支払われました。

だから、私たちが信仰をもって、自分の罪を悔い改め、イエス様を自分の主とすると、聖霊様は私たちの心を変え始めます。そして、私たちは日々、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられていきます。

「栄光から栄光へと。」

律法の栄光とは異なり、御霊の務めの栄光は決して消え去ることがありません。なぜなら、御霊の務めの栄光は、律法の栄光よりもはるかに優れているからです。

だからこそ、私たちは律法の目的を正しく理解する必要があります。律法によって、私たちは神様がどのような方であるかを知り、神様の御心を理解しました。

しかし、その栄光はすでに過ぎ去りました。もし新しい心を持ちたいと願うなら、律法や自分の努力に頼るのではなく、御霊の導きに委ねて歩みましょう。

むしろ、毎日、聖霊様とともに歩むことを学びましょう。そうすれば、私たちは周りの人々に天の父の栄光を映し出すことができるのです。

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コリント人への手紙第二

キリストの手紙

私は年寄りなのかもしれません。まだ手紙を書くことや受け取ることを覚えているからです。

私は大学生の時にメールを送ったり受け取ったりしていましたが、当時はまだメールがあまり普及していませんでした。そのため、日本に来る際には家族に航空書簡を送りました。

(航空書簡を知っている人はまだいるでしょうか。)

今なお友達からの手紙を持っていますが、最近はまったく手紙をもらっていません。

さて、パウロは私たちを「キリストの手紙」と呼びます。彼はコリント人たちにこう言いました。「私のミニストリーの妥当性を証明するために、あなたたちからの推薦状は必要ありません。」

むしろ、

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。

それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(コリント人への手紙第二3:2-3)

私たちがすべての人に知られ、また読まれているキリストの手紙であるとは、どういう意味でしょうか。

それは、人々が私たちの人生を見ると、イエス様が生きておられ、この世で働いていることが分かるということです。

なぜなら、私たちの歩みを通して、イエス様が私たちの人生の中で働き、私たちを変えていることを人々は見ることができるからです。

モーセの時代、神様は律法を通して、ご自身がどのような方であるかをユダヤ人たちに示されました。特に十戒を通して、神様はご自身の性質を明らかにし、私たちがどのように生きるべきかを示されました。

しかし、その石の板ができることは、それだけでした。つまり、その石の板はユダヤ人たちに(また、私たちにも)心を変える力までは与えることができませんでした。

でも、私たちがクリスチャンになると、神様はご自身の律法を私たちの心に書き記されます。

その律法は、私たちにどのように生きるべきかを教えるだけのものではありません。むしろ、御霊が私たちの心を変えてくださるのです。

毎日、御霊は私たちにささやかれます。「これが道だ。これに歩め。」(イザヤ書30:21)

そして、御霊に従うにつれて、私たちは主の栄光を映し始め、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。(18)

要するに、私たちが少しずつ踏み出すことで、ますますキリストのようになりつつあるのです。次の栄光の段階に到達すると、周りの人々はこう気づきます。

「イエス様は本当に生きておられる。このクリスチャンを通してそれが見える。このクリスチャンを通して、イエス様がどのような方なのか分かる。」

このように、私たちは彼らへのイエス様の招待状となるのです。イエス様は彼らに言われます。「私のもとへ来なさい。そうすれば、このクリスチャンのように、あなたも本当のいのちを知ることができる。」

毎日、イエス様の手紙となりましょう。神様がご自身の言葉を私たちの心に書き記し、周りの人々がその栄光を見て、神様を知るように。

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コリント人への手紙第二

私のような人でも、人々に影響を与えられるだろうか?

時々、私たちは前回の記事のような聖書の箇所を読んで、「私たちはキリストの香り」や「私たちは神様の祭司」といった言葉に出会います。

それを読むと、私たちはこう疑問に思うかもしれません。

「私はどのようにして神様の祭司になれるのだろうか。どうすればキリストの香りを放つことができるのだろうか。私は特別な資格を持っていないし、神学校に通ったこともない。牧師でも宣教師でもない。ただの普通のクリスチャンなのに。」

実際のところ、キリストのために人々に影響を与える資格を持っている人は誰もいません。

たとえ神学校で学び、ミニストリーの豊富な経験を持っていたとしても、その教育や経験が人の心を変える力を与えるわけではありません。

人の心を変えることができるのは、ただ神様だけです。パウロ自身も、そのことを理解していました。

パウロは、私たちが周りの人々にとってキリストの香りであると語った後、こう問いかけました。

このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(コリント人への手紙第二2:2:16b)

その答えは明白です。その務めにふさわしい人は誰もいません。なぜなら、自分の知恵と力だけでは、人々の心を変えることはできないからです。私たちにできることは、ただパウロの模範に従うことだけです。

誠実な者として、また神から遣わされた者として、神の御前でキリストにあって語るのです。(2:17b)

私たちにできることは、それしかありません。神様から与えられた大宣教命令を果たさなくてはなりません。誠実をもって周りの人々に語るべきです。なぜなら、私たちは神様の前で責任を問われるからです。

そして、私たちはその結果を神様の御手に委ねます。私たちが自分の役割を果たせば、神様もご自身の役割を果たされます。

だから、パウロはこう書きました。

私たちはキリストによって、神の御前でこのような確信を抱いています。

何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。

文字は殺し、御霊は生かすからです。(4-6)

パウロは、はっきりと語ります。私たち自身には、人々に影響を与える資格はありません。むしろ、その資格は神様から与えられるものです。

私たちが神様に仕えるとき、神様は私たちに必要な資格を与えてくださいます。

だからこそ、私たちは確信を持つことができるのです。私たちは自分の賜物や能力に頼るのではなく、それらを与えてくださった神にこそ頼るのです。神様だけが、最も頑なな心を変えることができます。

この真理を心に留めましょう。私たちは人の心を変えることはできません。しかし、神様はそれをなされます。

そして、私たちが神様の命じられたことを忠実に行うならば、私たちは人々に影響を与えることができるのです。

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コリント人への手紙第二

死に至らせる香り、いのちに至らせる香り

私たちはクリスチャンであるがゆえに、すべての人々から愛されるということにはならないものです。

イエス様は完全な人だったけど、彼を嫌う人もいました。どうしてでしょうか。

イエス様から出た香りのためです。

この個所では、パウロは興味深いことを言います。

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。

滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。

このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。(コリント人への手紙第二2:14-16)

パウロが描いたのは、ローマの将軍が勝利のパレードで自軍を率いる光景です。その後ろには祭司たちが香り高い香を道路に撒きました。

勝利を祝う人々にとって、その香りは命と勝利の象徴でした。けれども、捕虜たちにとって、それは自分の死を予告する香りでした。

同じように、私たちは祭司として、私たちの将軍であるキリストに従い、その十字架の勝利を祝います。

そして、私たちがキリストを知る知識の香りを放つとき、救われる人々—すなわち、私たちのメッセージを聞いて信じる人々にとって—それは最終的な勝利と命の香りとなります。

ところが、他の人々が私たちのメッセージを聞くと、それは死の香りとなります。なぜでしょうか。それは、私たちが彼らの罪を指摘し、その罪がどこへ導くのかを示すからです。つまり、その罪は地獄へと導くのです。

彼らはそのメッセージを嫌います。なぜなら、自分の罪の悪さを認めたくないからです。また、自分の罪によって裁かれることを聞きたくないのです。

だから、彼らにとって、イエス様は死に至る香りです。そして、イエス様が私たちのうちにおられるので、私たちからも同じ香りが放たれます。

私は、有名な宣教師ジム・エリオットの言葉が大好きです。

天のお父様、私が危機をもたらす人間となるように。つまり、人々が私に出会ったとき、彼らがあなたに関して決断しなくてはならないように。

私がただの一本の道に立つ標識ではなく、選択を迫る分かれ道となるように。

人々が私のうちにキリストと出会うとき、彼らはあなたに近づくか、またはあなたから離れるかの決断をしなくてはならないように。

あなたはどうでしょうか。人々があなたに出会ったとき、キリストの香りを放っているでしょうか。

また、彼らがあなたのうちにおられるイエス様と出会うとき、イエス様に従うか、イエス様を拒むかの選択を迫られるでしょうか。

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コリント人への手紙第二

相手が悔い改めるとき

人々に傷つけられると、恨みを抱くのは容易です。相手が謝罪しても、許したくないと感じることがあります。

または、口では許すと言いながらも、心の中でその恨みを手放すことを拒んでしまうこともあります。その結果、相手は私たちの恨みを感じ続け、私たちと話すときに不安を覚えます。

教会のリーダーたちが罪を犯したメンバーを訓戒するときも、同じようなことが起こるかもしれません。

その人が悔い改めても、リーダーたちや他のメンバーたちは、その人を疑い、距離を置いてしまうことがあります。

もしかすると、彼らはこう考えるかもしれません。「すぐに相手を受け入れてはいけない。もう少し悲しませた方がいい。そして、その人が十分悲しんだと思ったら、受け入れよう。」

しかし、パウロはそのような訓戒の仕方を教えませんでした。むしろ、パウロはこう語りました。

その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、あなたがたは、むしろその人を赦し、慰めてあげなさい。

そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。

そこで私はあなたがたに、その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます。(コリント人への手紙第二2:6-8)

「あの処罰で十分」とは、どういう意味でしょうか。

おそらく、パウロが言いたかったのは、その処罰が目的を果たしたということです。つまり、その人が悔い改めたということです。そして、人が悔い改めたならば、処罰を続ける必要はありません。

むしろ、私たちはその人を許し、慰めるべきです。神様がその人を赦されたことを伝え、私たちも許したことを示すべきです。そして、その人に対して私たちの愛を確認することが大切です。

もちろん、私たちが罪を犯すとき、神様は私たちがその罪を悲しむことを望まれます。

しかし、悲しみには二つの種類があります。悔い改めへと導く悲しみもあれば、死へと導く悲しみもあります。

この「死へと導く悲しみ」とは、パウロが語ったように、絶望や神から離れることを意味します。

その一方、悔い改めへと導く悲しみは良いものです。けれども、もし私たちがその人を赦さないならば、相手は深く悲しみすぎて、霊的な死へと導かれてしまうかもしれません。それは神様の望まれることではなく、むしろサタンの望むことです。

サタンの目的は、盗み、殺し、滅ぼすことです。だから、私たちが相手を許さず、その人が深い悲しみに沈んでしまうならば、私たちは神様と協力するのではなく、むしろサタンの働きを助けていることになります。

あなたはどうでしょうか。誰かがあなたを傷つけたことがありますか。または、教会の中で、誰かが深刻な罪を犯したことがありますか。その人は悔い改めたでしょうか。

もしそうならば、神様と協力して、その人を許し、受け入れましょう。

イエス様の言葉を心に留めましょう。

あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。(ルカ6:36)

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コリント人への手紙第二

兄弟や姉妹と向き合うべきとき

兄弟や姉妹が罪を犯したとき、その人に向き合うことは決して容易ではありません。もしそれを『楽しい』と感じる人がいるなら、その人は向き合わない方が良いでしょう。

しかし、時にはその必要が生じることもあります。そのような状況において、パウロの生き方や言葉から、私たちは大切な原則を学ぶことができます。

パウロはこう記しました。

私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。あなたがたは信仰に堅く立っているのですから。(コリント人への手紙第二1:24)

人と向き合うとき、その態度はとても重要です。相手と話す際、「あなたは私の言葉に従わなくてはならない」という姿勢を持つべきではありません。

むしろ、私たちはこのような姿勢を持つべきです。「あなたを愛しています。あなたがこの罪を乗り越えられるように助けたいのです。あなたが本当の喜びを知り、信仰に固く立つことを願っています。」

しかし、多くの場合、私たちは相手を責める態度をとってしまい、彼らは私たちの中にイエス様の愛を見ることができません。

けれども、パウロの姿勢は違いました。彼はこう語りました。

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。

それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。(コリント人への手紙第二2:2-4)

この言葉には、プライドや傲慢は微塵もありません。むしろ、パウロはコリントの人々に対する深い愛を示しました。

さらに、彼らと向き合うとき、パウロは彼らが悔い改めることへの強い希望を持っていました。

しかし、私たちは時として、人々と向き合う際にその希望を持たず、ただ怒りをぶつけて相手を責めてしまいがちです。

けれども、パウロの姿勢は違いました。彼はこう語りました。

あの手紙を書いたのは、私が訪れるときに、私に喜びをもたらすはずの人たちから、悲しみを受けることがないようにするためでした。

私の喜びがあなたがたすべての喜びであると、私はあなたがたすべてについて確信しています。(3)

つまり、「前回の手紙の目的は、次に会うときに辛い訪問にならないようにすることでした。私はあなたたちを信じているので、そのように書きました。あなたたちが悔い改め、もう一度共に主の喜びを知ることを信じていました。」ということです。

私たちは人と向き合うとき、「あなたらしい」と言うのではなく、「あなたらしくないよ。正しい道に戻りましょう。」という姿勢を持つべきです。

最後に、相手と向き合うべきときもありますが、神様が相手の心の中で働かれるべきときもあります。

パウロが最初にコリントの人々と向き合ったとき、彼らはただ怒っただけでした。パウロはすぐにもう一度向き合おうと思いましたが、最終的に後回しにしました。なぜでしょうか。

私は自分のいのちにかけ、神を証人にお呼びして言います。私がまだコリントへ行かないでいるのは、あなたがたへの思いやりからです。。。

そこで私は、あなたがたを悲しませる訪問は二度としない、と決心しました。

もし私があなたがたを悲しませるなら、私が悲しませているその人以外に、だれが私を喜ばせてくれるでしょう。(コリント人への手紙第二1:23、2:1-2)

だから、彼はコリントに行かず、代わりに手紙を送り、彼らが悔い改めるように願いました。(2:3)

時として、それが最良の方法です。愛を伝えながら、彼らを神様の御手に委ねることです。

だから、人と向き合うとき、そのような姿勢を持ちましょう。そして、神様の恵みによって、彼らの人生に良い実が結ばれるでしょう。

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コリント人への手紙第二

私たちが神様に信頼できる理由

試練のとき、神様に対する信仰を失うのは容易なことがあります。

パウロもそのような経験をしたでしょうか。特に、彼が耐えがたいほどの激しい圧迫を受け、生きる望みさえ失いかけたとき、信仰を失う危機に直面したでしょうか。(コリント人への手紙第二1:8)

最終的に、信仰を失うのではなく、その試練を通して、パウロたちは神様に頼ることを学びました。(9節)

では、彼らはどのようにして信仰を保つことができたのでしょうか。また、私たちはどのようにして自分の信仰を守ることができるでしょうか。

パウロはこう記しました。

神の真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは、「はい」であると同時に「いいえ」である、というようなものではありません。(コリント人の手紙第二1:18)

その言葉の中で、私の心を打つことの一つは、神様が真実な方であるということです。

試練の中で振り返ると、私たちはその真理を実感するはずです。

しかし、自分の人生だけでなく、過去のクリスチャンや現代のクリスチャンの歩みを見ても、神様の真実さがよく分かります。

さらに、神様は私たちの罪のためにイエス様を送られたとき、ご自身の約束を守ることで、その真実さを証明されました。

パウロはこう言いました。「私たちのことばは、『はい』であると同時に『いいえ』である、というようなものではありません。」

要するに、福音は私たちが頼ることのできるものです。そのメッセージは決して変わりません。

神様は私たちに、「イエスを信じれば、あなたは救われる」と約束されたので、天国の門で突然「やっぱりだめです。私の気が変わりました。入ってはいけません」と言われることは決してありません。

人は約束を破ることがあるかもしれませんが、神様の約束は決して変わりません。神様は真実な方だからです。

だから、パウロはこう語りました。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ書3:4)

パウロは続けてこう言います。

私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「はい」と同時に「いいえ」であるような方ではありません。

この方においては「はい」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「はい」となりました。

それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。(コリント人の手紙第二1:19-20)

要するに、この絶えず変わり続ける世界にあっても、イエス様は決して変わりません。言い換えると、「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(ヘブル 13:8)

イエス様にあって、神様の約束はすべて確認されています。

イエス様は良い知らせを宣べ伝え、病を癒し、私たちの罪のために死なれたとき、メシアについての預言を成就されました。そして、やがて来る日には、永遠の国を開始し、残された預言をも成就されるでしょう。

だからこそ、私たちは神様の約束をなおさら信じることができます。

すなわち、試練のとき、神様が私たちと共におられるという約束です。また、この試練がただ一時的なものであるという約束です。そして、私たちは勝利を得て、この試練から精錬された金のようになって出てくるという約束です。

だから、イエス様にあって、私たちは「アーメン。あなたがそれらのことを約束されたので、必ずその約束を守られると信じます。」と言うことができます。

しかし、パウロはさらにこう語ります。

私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。

神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました。(コリント人の手紙第二1:21-22)

神様は私たちに聖霊という油を注がれました。神様はご自身の目的のために私たちを聖別されました。そして、神様の保証の証印を私たちに押されました。

その証印を通して、神様は宣言されます。「この人は私のものです。私のひとり子の血によって、この人を贖いました。」

聖霊様は、神様がすべての約束を守られることの確かな保証です。

だから、どんな試練に直面しても、神様に信頼しましょう。

人は私たちを失望させることがあるかもしれませんが、神様は真実な方です。

あなたはどうでしょうか。神様に信頼しますか。

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コリント人への手紙第二

人々が私たちのことを誤解し、責めるとき

この手紙を読むにつれて、パウロとコリントの人々との関係がいかに困難であったかが、はっきりと分かるようになります。

コリントの人々は、パウロが以前に送った手紙を読んだとき、その言葉に気を悪くしたようです。彼らの中には、パウロを頼りない人物だと考えた者もいました。

さらに、ある人々はパウロが二枚舌を使い、彼らを操ろうとしていると非難しました。その理由の一つは、パウロが以前、彼らを訪れると約束していたにもかかわらず、土壇場でその計画をキャンセルしたことです。

そのため、パウロはなぜその計画を変更したのかを説明する必要がありました。主な理由は、一部のコリントの人々がパウロのリーダーシップに反対していたことです。

多くの聖書学者は、パウロが『コリント人への手紙第一』を書いた後、コリントの教会を訪れたものの、その際にパウロが強い反発を受け、困難な状況に直面したと考えています。

つまり、パウロは自分に反対したコリントの人々と向き合い、彼らの罪を指摘しなければなりませんでした。その結果、パウロとコリントの人々の関係は大きく損なわれてしまったようです。

もしパウロがすぐにコリントの教会に戻っていたら、再び大きな衝突が起こることは明らかでした。なぜなら、以前の問題がまだ解決されていなかったからです。

そのため、パウロは彼らにもう一つの手紙を書き、悔い改めるように勧めました。そして最終的に、多くのコリントの人々は悔い改めました。(コリント人への手紙第二7:6-13)

ところが、一部のコリントの人々は、パウロを頼りない人物とみなし、二枚舌を使う人だと非難し続けました。(1:7;7:2)

私たちは、そのような人々にどのように対応すべきでしょうか。私たちを誤解し、不当な非難を投げかける人々に対して、どのように振る舞うべきでしょうか。

パウロの姿勢を見ると、良い対応の仕方を学ぶことができると思います。パウロはこう語りました。

私たちが誇りとすること、私たちの良心が証ししていることは、私たちがこの世において、特にあなたがたに対して、神から来る純真さと誠実さをもって、肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動してきたということです。(コリント人への手紙第二7:1:12)

一番大切なのは、神様の前に潔白な心を保つことです。自分に反対する人に接するとき、私たちは純真さと誠実さを持っていなくてはなりません。

相手が私たちを責めたり、不当に扱ったりしても、私たちは純真さと誠実さをもって対応するべきです。

私たちがしてはいけないのは、この世の知恵によって反応することです。ヤコブはそのような知恵について説明しています。

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。

そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。(ヤコブの手紙3:14-15)

むしろ、私たちは神様の恵みから流れる知恵によって彼らに対応すべきです。

では、神様の知恵とはどのようなものでしょうか。ヤコブはそれについても定義しました。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。(ヤコブの手紙3:17)

パウロはそのような知恵を実践しました。その結果、多くのコリントの人々はパウロのことを理解しました。

まだパウロを信頼していなかった人々に対して、パウロは自分の言葉に隠された意図や裏の意味はないと主張しました。また、いつか彼らがパウロのことを完全に理解するようになることを願っていると伝えました。(コリント人への手紙第二1:13-14)

しかし、その日が来るまで、パウロは純真さと誠実さ、そして恵みをもって生き続けると言いました。

あなたはどうでしょうか。人々があなたを誤解し、責めるとき、どのように対応しますか。

パウロのように対応しましょう。純真さと誠実さ、そして恵みをもって応答しましょう。

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コリント人への手紙第二

私たちの祈りの大切さ

私たちの祈りは、本当に効果的なものでしょうか。それとも、私たちが祈ろうが祈るまいが、神様はご自身の御心を行われるのでしょうか。

この疑問について、パウロは明確な意見を持っていました。彼はこう語りました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。

私たちはこの神に希望を置いています。あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。(コリント人への手紙第二1:10-11)

パウロは、コリントの人々の祈りの効果を信じていたので、彼らに祈るように願いました。彼は彼らを励まし、「あなたの祈りには本当に効果があります」と語りました。

なぜ神様は私たちの祈りを求められるのでしょうか。なぜ、多くの場合、神様は行動される前に私たちの祈りを待っておられるのでしょうか。

おそらく、一番大切な理由は、神様が私たちとの関係を望んでおられるからです。さらに、神様は私たちが神とともに働く者となることを望んでおられます。

私たちが祈り始めると、特に他の人々のために祈り始めると、何が起こるでしょうか。

1.私たちは自分自身だけに焦点を当てず、周囲の人々の必要に目を向け始めます。

それを神様は喜ばれます。なぜなら、私たちは神様のようになりつつあるからです。

では、私たちの祈りによって、神様が人々の人生に働かれる可能性は高くなるでしょうか。聖書は、そのように教えているようです。

例えば、ヤコブはこう書きました。

あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。

熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。

自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。(ヤコブの手紙4:2)

イエス様自身はこう言われました。

今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。

求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。(ヨハネ16:24)

2.神様が私たちに何を望んでおられるのかが分かるようになります。

私たちが祈るにつれて、神様は私たちの心にどのように周囲の人々に触れることができるかをささやかれます。

大変な一日が終わるころ、イエス様の弟子たちはこう言いました。「群衆を帰らせてください。もう遅いですし、彼らはお腹が空いているでしょう。」

おそらく、彼らは群衆の必要を深く考えていなかったでしょう。彼らは一日中、群衆に仕えていたため、ただ休みたいと思っていたのかもしれません。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」(マタイ14:16)

彼らはパンと魚を持っている少年を見つけ、その食べ物をイエス様のもとへ持って行きました。そして、イエス様は驚くべき奇跡を行われました。

同じように、私たちが人々の必要を見て祈り始めると、イエス様は私たちにどのようにイエス様の働きに参加できるかを教えてくださいます。

3.神様はその祈りに応えられるとき、私たちは神様の良さをより深く知るようになります。

その結果、私たちはさらに祈るように励まされます。

4.あなただけでなく、他の人も神様の良さを見て励まされます。

パウロはこう語りました。

そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。(コリント人への手紙第二1:11b)

だからこそ、祈りの大切さを信じてください。そして、神様の働きに加わり、周囲の人々のために祈りましょう。

神様は、あなたに誰のために祈ることを望んでおられるでしょうか。

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コリント人への手紙第二

自分のことに焦点を当てないこと

この箇所を読むと、私はパウロがキリストの模範に従っていたことに気づきました。

もし、イエス様がただ快適な生活を送ることに関心があったなら、この世には来られなかったでしょう。

飼葉おけに寝ることもなかったでしょう。貧しい大工の家で成長することもなかったでしょう。枕する所のない日々を経験することもなかったでしょう。そして、十字架へと向かうこともなかったでしょう。

しかし、イエス様はそれらすべてを経験されました。なぜでしょうか。

それは、私たちの慰めと救いのためです。

私たちは罪のゆえに、また、この世の悪のために、惨めな存在でした。さらに、破滅へと向かう道を歩んでいました。イエス様はその状況をご覧になり、天国の安楽な生活を捨てて、私たちのために苦しみを選ばれました。

パウロはイエス様の模範を見て、従いました。

コリントの人々や他の人々のために、彼は遭難や投獄、飢えや迫害を経験しました。なぜでしょうか。それは、彼が自分の楽な人生に焦点を当てず、むしろ周囲の人々の苦しみと必要に目を向けていたからです。

また、パウロが慰めを受けたときも、彼はただ自分自身に焦点を当てることはありませんでした。

彼の願いは、コリントの人々が彼の経験を見ることで励まされることでした。

つまり、彼らがこの世の試練はつらくても、一時的なものであることを理解することです。なぜなら、彼らは、パウロ自身も試練の中で神様の平安と喜びを知ったことを見たからです。

だからこそ、コリントの人々は、自分たちの試練の中で、最終的に慰めを受けるという希望を持つことができたでしょう。そして、その希望が彼らに耐える勇気を与えたのです。

自己中心になることは簡単です。神様の愛をスポンジのように吸収し、ただ楽な人生を望むことは簡単です。

しかし、神様は私たちがそのような態度を取ることを望んでおられません。むしろ、神様は私たちがイエス様の模範に従い、たとえ苦しみが伴うとしても、自分の快適な生活を手放し、周囲の人々の救いのために働くことを望んでおられます。

とはいえ、イエス様の視点を持たなければ、私たちは決してそのように生きることはできないでしょう。

イエス様は周囲の人々の苦しみをご覧になりました。だからこそ、十字架へと進んで行かれたのです。

あなたはイエス様の視点を持っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

祝福のパイプラインになるように召される

クリスチャンになると、得られる祝福のひとつは、試練の中における神様の慰めです。

けれども、スポンジのようになってしまうのは容易なことです。つまり、私たちは神様からの愛と慰めを吸収してしまうのです。

もちろん、私たちには神様の愛と慰めが必要なときがあります。それでも、神様は私たちがただ受け取るだけの存在になることを望んでおられません。

むしろ、神様は私たちが周囲の人々に対して祝福のパイプラインとなることを望んでおられます。

パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。(コリント人への手紙第二1:3-4)

神様が私たちを慰める目的のひとつは、私たちが受けた慰めを周囲の苦しんでいる人々に分かち合うことです。

だから、パウロはこう語りました。

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(5)

ある意味、イエス様の苦しみは私たちの人生に注がれています。

もちろん、私たちは自分の罪の代価を支払っているわけではありません。イエス様がすでにその代価を支払われたからです。

それでも、私たちがイエス様のために苦しむこともあります。迫害を受けることもあります。試練に直面することもあります。

けれども、その苦しみや試練を通して、神様は御国を広げ、私たちの性格を形作ってくださいます。

だから、ペテロはこう語りました。

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(第一ペテロ1:7)

だから、イエス様の苦しみが私たちの人生に注がれるかもしれませんが、同時にイエス様の慰めも私たちの人生に注がれます。そして、その慰めは私たちの人生から周囲の人々へと溢れ出していきます。

神様は、私たちを慰めで満たすだけではなく、その慰めが私たちを通して苦しんでいる人々へと流れることを望んでおられます。

残念ながら、多くの人は神様からの愛と慰めを受け取るだけで、周囲の人々の必要には目を向けようとしません。

しかし、よく見渡してみると、私たちと同じような苦しみを経験している人がいることに気づきます。そして、神様は私たちが自身の経験を彼らと分かち合い、希望を与えることを望んでおられます。私たちは彼らにこう言えるでしょう。

「私には分かります。私も同じ経験をしました。神様はきっとあなたを助けてくださいます。」

こうして、私たちは神様の愛と慰めを彼らの人生に注ぎます。

あなたはどうでしょうか。ただ神様の愛を受け取るだけの存在ですか。それとも、神様の祝福を周囲の人々へと流すパイプラインとなっているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

試練の中の慰め

これは、聖書の中で私が最も好きな箇所のひとつです。パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(コリント人への手紙第二1:3-5)

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様が本当に私たちを愛しているのか疑問に思うことがあります。しかし、パウロによれば、神様は「あわれみ深い父」です。

つまり、神様は私たちの苦しみを見ても無関心ではありません。むしろ、憐れみに満ちた心をもって、深く私たちを思っておられます。

イエス様も、苦しむイスラエルの人々を見たとき、同じ心を持っておられました。福音書の著者たちは何度も「イエスは深くあわれみ…」と記しています。

この点において、イエス様は天の父の性格を完全に映し出しておられます。

さらに、パウロはもう一つのことを語っています。彼によれば、神様は「あらゆる慰めに満ちた神」です。

神様は私たちに対して憐れみを感じるだけでなく、御手を伸ばして私たちに触れてくださいます。

ある日、ツァラアトを患う人がイエス様のもとにやって来ました。(マタイ8章)

イエス様は深く憐れみ、手を伸ばしてその人に触れました。おそらく、その人は何年もの間、誰にも触れられていなかったでしょう。なぜなら、周囲の人々はその病気にかかることを恐れていたからです。

しかし、イエス様が触れたことで、その人は慰められ、癒されました。

そして、パウロによれば、私たちが苦難に満ちているように、キリストによって私たちの慰めも豊かに与えられています(5)。

パウロは自身の経験をもとに語りました。彼は、自分の力では耐えられないほどの深い苦しみを経験しました。

私たちはよく耳にします。「神様は私たちに耐えられない試練を許しません。」

ある程度まではその言葉は正しいですが、実は完全ではありません。

神様は私たちが自分の力では耐えられない試練を許されます。私たちは「耐えられないほどの圧迫を受ける」ときがあるかもしれません。

さらに、「生きる望みさえ失うほどの圧迫を受ける」こともあるかもしれません。(8)

なぜ、神様はそのような試練を許されるのでしょうか。

パウロはその理由を説明しています。

それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。(9)

要するに、神様は私たちが自分の力だけではこの人生を歩むことができないことを学ぶために、こうした試練を許されるのです。

しかし、私たちが神様に頼るなら、神様が死者をよみがえらせるほどに力強い方であることを知るようになります。

そして、神様はその恵みによって、私たちを絶望の深い穴から引き上げ、新しい希望と命を与えてくださいます。

神様はパウロにこう言われました。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(第二コリント12:9)

だから、私たちは試練を通過した後、振り返ると、神様が常に私たちと共におられたことに気づきます。だから、未来の試練に直面するとき、私たちはその同じ神がもう一度私たちを救ってくださるという希望を持つことができます。

パウロはこのことを学び、確信を持ってこう語りました。

神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。(10)

あなたはどうでしょうか。果てしない試練に直面しているのでしょうか。もう耐えられないと感じているかもしれません。

しかし、神様はあなたを愛しておられ、決して見捨てることはありません。そのことを心に留めておきましょう。だからこそ、自分の力に頼るのではなく、神様の力に頼りましょう。

そうすれば、神様の恵みによって、あなたはその試練を乗り越えることができます。