この手紙の締めくくりにおいて、私たちはコリントの人々に対するパウロの希望を見ることができます。それは、神様の御心が彼らの人生に成し遂げられることです。
まず、パウロは彼らに挑戦しました。
あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。(コリント人への手紙第二13:5)
私たちが本当にクリスチャンかどうか、どのように分かるでしょうか。使徒ヨハネは、三つの確認方法を示しています。
1.本物のクリスチャンは、イエス様についての真理を信じます。(第一ヨハネ2:22-23)
2.本物のクリスチャンは、イエス様の言葉に従順です。(第一ヨハネ2:3-4)
3.本物のクリスチャンは、神様を愛し、クリスチャンの兄弟姉妹を愛します。(第一ヨハネ4:7-8)
もちろん、私たちの愛とイエス様への従順は決して完全ではありません。しかし、それらは私たちの人生の中で次第に成長するはずです。そして、クリスチャンが失敗したときには、すぐに悔い改めるべきです。
パウロは、コリントの人々がこの三つのテストに合格するように祈りました。特に、パウロは、彼らの悔い改めによって、自分の信仰が本物であることを証明するように願いました。
パウロは彼らにこう言いました。
私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。(7a)
なぜ、パウロはそのように祈ったのでしょうか。
それは、私たちが適格であることを明らかにしたいからではなく(7b)
つまり、パウロの希望は、周囲の人々が「パウロは偉大なリーダーだ。彼の弟子たちを見てごらん」と言うことではありませんでした。
むしろ、
私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたいからです。(7c)
パウロの意図は何だったのでしょうか。
コリントの人々が悔い改めなければ、パウロは彼らを厳しく指導する覚悟がありました。
もちろん、もし彼らが悔い改めるなら、その必要はなかったでしょう。しかし、パウロが厳しく指導しなければ、彼の批判者はこう主張するでしょう。「パウロは甘すぎる。本当のリーダーではない。」
けれども、パウロは批判者の言葉を気にしませんでした。彼が願ったのは、コリントの人々が悔い改めて、善を行うことです。
だから、彼はこう言いました。
私たちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になること、このことも私たちは祈っています。(9)
パウロがコリントの人々を厳しく指導しなかったため、彼の批判者たちは、彼が弱いと考えたかもしれません。けれども、パウロはそのことを気にしませんでした。彼の願いは、コリントの人々が強くなることだったからです。
そこで、パウロは彼らが完全な者となるように祈りました。別の解釈では、パウロは、彼らと神様との関係、そして彼らと自分との関係が修復されるように祈りました。
そして、パウロは彼らにこう言いました。
そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったときに、主が私に授けてくださった権威を用いて、厳しい処置をとらなくてもすむようになるためです。
この権威が私に与えられたのは、建てるためであって、倒すためではありません。(10)
言い換えれば、「私は、あなたのために神様の最善を願っています。あなたたちが成長できるように、神様は私を遣わされました。」ということです。
そこで、パウロは彼らにもう一度挑戦しました。
最後に兄弟たち、喜びなさい。完全になりなさい。慰めを受けなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。(11a)
なぜでしょうか。
そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。(11b)
そして、パウロはこの手紙を、この言葉で締めくくりました。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともに。(13)
それは、コリントの人々に対するパウロの希望と祈りでした。そして、それは私たちが周囲の人々に対して抱くべき希望と祈りでもあります。
人々が罪を犯し、特に反抗的な態度を取るとき、私たちは彼らを厳しく指導しなければなりません。それでも、私たちの目的は、彼らの神様との関係を修復することです。なぜなら、私たちは彼らのために神様の最善を願うからです。
あなたはどうでしょうか。あなたは、ほかの人のために神様の最善を願っていますか。
