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人々の良い点を思い出すのを選ぶ

今日は第一サムエル記のブログを締めくくります。その前に、少しブログに関するお知らせがあります。

このブログでは、基本的に年代順に聖書の出来事をお話ししたいと考えています。そのため、最近は時折、第一サムエル記について書きながら、詩篇についても取り上げてきました。

これからは、時々特定の箇所をまとめて扱う予定です。例えば、第一サムエル記31章と歴代誌第一10章は同じ出来事について書かれているため、今日はその二つの箇所を一緒にまとめます。

さて、今日はサウルの話が終わります。それは、本当に悲惨な話です。戦争の中で、もうすぐ殺されると悟ったサウルは、自ら命を絶ちました。

ペリシテ人はサウルの首を切り、その頭をある宮にさらし、別の宮には彼の武具をさらしました。また、彼の遺体をペリシテ人の一つの都市の城壁にさらし、さらにはサウルの息子たちの遺体もその城壁にさらしました。

どうして、このようなことが起こったのでしょうか。歴代誌の著者はその答えを示しています。

このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、

主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。(歴代誌第一10:13-14)

確かにサウルは悪い王でした。とはいえ、ある人々は、サウルの良い点を忘れずに覚えていました。それは、ヤベシュ・ギルアデの人々です。

何年か前、サウルはサムエルにイスラエルの王として油を注がれたものの、それでもなお自分の農場で働き続けていました。

けれども、ヤベシュ・ギルアデが攻撃されたと聞くや否や、サウルはイスラエル人を集め、その人々を助けに向かったのです。

そのため、ヤベシュ・ギルアデの人々は、その出来事を決して忘れることはありませんでした。そして、彼らがサウルとその息子たちの遺体について聞いた時、彼らは勇気を持ってその遺体を引き取り、葬りました。

ヤベシュ・ギルアデの人々は、サウルが悪い王であったことを知っていたはずです。サウルは正当な理由がないにもかかわらず、ダビデを殺したいと思い、ダビデを追いかける間、時折イスラエルを適切に守ることを怠りました。

また、ノブの祭司たちがダビデを助けたため、サウルは彼らを殺害しました。ヤベシュ・ギルアデの人々は、それらすべての出来事を知っていたに違いありません。

それでも、彼らはサウルの悪い行いを思い出すことを選ばず、むしろサウルの良い行いを思い出すことを選びました。その結果、彼らは生命を危険にさらし、サウルとその息子たちの遺体を取り戻して葬ったのです。

その話を読むと、私はこう考えます。

「私は周囲の人々についてどのように考えるだろうか。彼らの悪い点ばかりに心を留め続けるだろうか。それとも、彼らの良い点を忘れずに心に留め続けるだろうか。」

普通は良い点について考え続けますが、時々悪い点についても考えてしまうことがあります。それは、まだ私の心の中に苦々しい根が残っているからです。そのため、今でも私の彼らに対する態度に影響を与えています。

おそらく、ヤベシュ・ギルアデの人々は、サウルに対して全く苦々しい思いを抱いていなかったのでしょう。彼らはサウルの悪い行いについては耳にしていたはずですが、サウルが彼らに害を及ぼすことはありませんでした。

しかし、ある人々は私を傷つけました。私はある程度まで彼らを許しましたが、それでも心の中には苦々しい根が残っており、彼らのことを考えると、悪いことを思い出してしまいます。

とはいえ、よく考えてみると、彼らにも良い点がありました。時には、彼らは他の人々や私自身を助けてくれたこともありました。

そのため、この箇所を読むと、私はこう思います。「このようなことを思い出さなくてはならない。悪いことではなく、良いことについて考えるべきだ。」

それでもなお、時にはそれが難しいと感じます。

良いことを思い出すことは、悪いことをすべて忘れるという意味ではありません。また、それが彼らに再び私を傷つけることを許すということでもありません。

ダビデはその良い例です。サウルが亡くなった時、ダビデは泣きました。そして、サウルを讃える歌も書きました。

しかし、サウルが生きている間、ダビデはサウルから逃げ続けました。なぜなら、サウルは危険な人だったからです。

ダビデは、サウルの良い点に目を向け続けることを選びました。そして、サウルの罪を赦すことを決断されました。けれども、それと同時に、ご自身を守ることも忘れませんでした。私たちも、このようなバランスを持つ必要があります。

あなたを傷つける人がいるでしょうか。それはお父さんでしょうか。それともお母さんでしょうか。同僚でしょうか。それとも教会の人々でしょうか。

彼らについて、あなたはどのように考えられるでしょうか。悪いことにばかり焦点を当てるでしょうか。それとも、彼らの良い点に目を向けるでしょうか。

神様は、私たちをどのようにご覧になるでしょうか。私たちの悪い点に目を向けることもできますが、そうはされません。

イエス様が私たちの罪のために命を捨て、その血が私たちの罪を覆ってくださるからです。その結果、神様は私たちの良い点を思い起こしてくださいます。

私たちを傷つけた人々について考える時、そのようなあわれみを示しましょう。

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辛い時に、私たちの反応は?

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

ヤコブ2章1節でそのように書かれています。

とはいえ、その言葉を口にすることよりも、従うことの方が難しいのです。辛い時を楽しむ人を、私はまったく知りません。それでも、辛い時にどのように反応すべきでしょうか。

ダビデとその民は、決断を迫られる状況に直面しました。ペリシテ人の軍隊と一緒に戦うことを許されなかったため、自分たちの町に戻りました。

けれども、戻ってみると、彼らの町は焼き払われ、所有物は奪われ、子供たちと妻たちは虜にされていました。ダビデとその民はそれを目にし、泣き疲れるまで泣きました。

ダビデの民はどのように反応したでしょうか。彼らは苦々しい思いを抱き、怒りを感じました。その結果、ダビデを責め、彼を殺そうとさえしました。

では、ダビデはどのように反応したでしょうか。

ダビデは彼の神、によって奮い立った。(サムエル記第一30:6)

もしダビデが沈んでいたなら、それは普通の反応だと言えるでしょう。もし彼が怒り、苦々しい思いを抱いていたとしても、私たちにはその気持ちが理解できると思います。

しかし、ダビデはそうしませんでした。むしろ、彼は神様によって奮い立ちました。辛い時に、ダビデは神様に背を向けることはせず、神様とその知恵を求めました。

そして、神様の導きに従い、その攻撃者を見つけ出し、戦い、最終的には彼らを征服しました。そしてすべてを取り戻したのです。

辛い時、あなたはどのように反応するでしょうか。苦々しい思いを抱くでしょうか。神様や他の人々に怒りを向けるでしょうか。相手を責めるでしょうか。それとも、神様によって奮い立つでしょうか。

神様とその知恵を求め、神様の導きに従うでしょうか。それとも、自己憐憫に陥るでしょうか。

ダビデのように、私たちは怒りや苦々しい思い、失望に負けてはいけません。

むしろ、知恵と導きを得るために神様に向かい、その導きに従って行動しましょう。そうするなら、私たちの試練はこの上もない喜びとなるでしょう。

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私たちが背くときに

サウルの没落は、非常に早く進行しました。この箇所では、サウルが最も低い地点に達したことを見ることができます。

サウルは、預言者や祭司、また夢を通して神様の御声を聞くことができなかったため、霊媒を通して助けを求めました。その霊媒を通じて、サムエルの霊と話したいと願ったのです。

けれども、聖書学者たちの間では、その霊が本当にサムエルだったのか、それとも悪霊だったのかについて議論が分かれます。

私個人の意見ですが、この時、神様は霊媒の働きを止め、ご自身の許可によってサムエルの霊を送られたのだと思います。

つまり、霊媒の力でサムエルが現れたのではなく、神様の御心によるものだったのです。

しかし、その時、神様はサウルを祝福されませんでした。むしろ、神様はサウルを裁かれたのです。神様は霊媒や占いを全く認められないからです。

この箇所を読むと、意図的な背きの結果について思い起こさせられます。

一つ目は、神様が私たちにもう話されなくなることです。

なぜでしょうか。それは私たち自身が自分の耳を閉じてしまうからです。その結果、神様は私たちにもう語られません。

サウルは何度も神様の声と命令を無視しました。だから、最終的に神様はこう言われたのです。「もういい。私に聞きたくないのであれば、私はもう語らない。」

二つ目は、私たちが恐れ始めることです。

どうしてでしょうか。私たちが神様の知恵に頼らずに、自分の知恵に頼り始めるからです。けれども、すぐに私たちの知恵が足りないことに気付きます。特に、私たちの状況がコントロールできなくなる時です。

サウルもそのような状態でした。神様の命令を無視した後、サウルは自分ではコントロールできない問題に直面しました。神様の助言が必要でしたが、神様から何も聞くことができませんでした。

三つ目は、罪が罪を生み出すことです。

サウルの場合、必死になりながらも、占いが悪であることを知っていたにもかかわらず、霊媒に相談しました。

しかし、神様から何も言われなかったため、占いを神様が裁かれることを知っていても、その人に助けを求めました。

最後の点は、背きは死に導くということです。

ローマ6:23で次のように書かれています。

罪から来る報酬は死です。

だから、その次の日、サウルは命を落としました。

サウルのようになることを避けるにはどうしたら良いでしょうか。

神様に対して柔らかい心を保つことです。神様が私たちに最善を望んでおられることを信じましょう。そして、神様の言葉に従いましょう。

さらに、もし罪を犯してしまったなら、すぐに悔い改めましょう。自分の罪を告白し、神様の言葉に従う助けを求めて祈りましょう。

ヨハネは次のように書いています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

不思議なことですが、ダビデの罪(つまり、姦淫と殺人)とサウルの罪を比較すると、サウルの罪の方がそれほど悪いようには見えません。

その違いは何でしょうか。それはサウルが決して悔い改めなかったため、死に至ったことです。その一方、ダビデは悔い改めたことで、神様に赦されました。

あなた自身はどうでしょうか。罪を犯した時、どのように対応しますか。

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でも、良い目的のためですよ

サウルがずっとダビデを追いかけていたため、ダビデは疲れてしまい、ペリシテに戻り、その王アキシュに自分を受け入れるよう願いました。

多分、アキシュはダビデとサウルのトラブルについて聞いており、ダビデを信頼するようになったのかもしれません。そこで、彼はダビデとその民に住む土地を与えました。

その間に、ダビデとその民はイスラエルの他の敵を攻撃し始めました。けれども、アキシュがその戦いについてダビデに尋ねると、ダビデは嘘をつきました。「私はイスラエルを攻撃しました。」と言ったのです。

どうしてダビデは嘘をついたのでしょうか。多分、アキシュの信頼と好意を得るためだったと思います。

また、ダビデはこう考えたのかもしれません。「これは良い目的のためです。イスラエルの敵を攻撃して、イスラエル人を助けるのだから。」

確かにイスラエルを助けていたかもしれませんが、ダビデは嘘をつきました。そして結局、その嘘が原因で、ダビデは困難に陥りました。アキシュはダビデの嘘を信じたために、彼に頼み事をしました。

あなたと、あなたの部下は、私といっしょに出陣することになっているのを、よく承知していてもらいたい。(サムエル記第一28:1)

ダビデは、それを聞いて、本当に困りました。何を言うことができたでしょうか。

以前、嘘をついてしまったため、「イスラエル人を攻撃したくありません。彼らは私の民だからです。」と全く言えませんでした。

そこで、ダビデはこう言いました。

よろしゅうございます。このしもべが、どうするか、おわかりになるでしょう。(2節)

しかし、神様の恵みと御業によって、結局ダビデはイスラエルを攻撃する必要がありませんでした。ペリシテ人の首長たちは文句を言い、ダビデが彼らと一緒に戦うことを許しませんでした。

どれほど私たちは、「良い目的」のために罪を犯してしまうでしょうか。どれほど、そのような言い訳をしてしまうでしょうか。

神様の目には、罪はいつも悪であり、避けるべきものであることを心に留めておきましょう。そうしないと、ダビデのように、さまざまな問題が生じることになります。

あなたの人生において、罪を正当化するような言い訳をしていないでしょうか。

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それにしても、あなたの人生に悪がないように

「だって、彼は先に私を殴ったよ。」

どれほど多くの子供たちが喧嘩の後で、このように言うでしょうか。

けれども、許さない態度や復讐については、大人もまた同じような言葉を口にします。

「どうして私が許さなければならないのですか。彼はまだ謝っていないのに。」

また、

「もちろん、私は苦々しい思いをしています。彼の行動のせいで、私にはその感情を持つ権利があります。」

さらには、

「私はこの喧嘩を始めていませんが、この喧嘩を終わらせるのは私です。彼に復讐をすれば、きっと自分の行動を後悔させるでしょう。」

しかし、アビガイルの言葉を通して、私たちは違う考え方を学ぶことができます。

アビガイルがダビデに、夫を赦すことを願った時に、こう言いました。

どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。

ご主人さまはの戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。

たとい、人があなたを追って、あなたのいのちをねらおうとしても、ご主人さまのいのちは、あなたの神、によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。(サムエル記第一25:28-29)

英語の翻訳は少し異なります。28節の最後の部分に、次のように書いてあります。

一生の間、あなたの中に悪(つまり、罪)がないように。(NIVの英訳)

もし29節を読めば、ダビデの状況が本当につらいものであったことが分かります。なぜなら、サウルがダビデを追いかけ、命を奪おうとしていたからです。

それにしても、ナバルのダビデに対する態度においても、アビガイルはこう言いました。「一生の間、あなたの中に悪がないように。」

それを読んで、私は考えました。「どのような状況でも、どれほど誰かがあなたを悪く扱ったとしても、神様はあなたの中に悪がないことを望んでおられる。」

ダビデの場合、この言葉は「ナバルがあなたを悪く扱ったとしても、また、サウルがあなたを殺そうとしたとしても、それにしても、一生の間、あなたの人生に悪がないように」という意味でした。

では、私たちの場合はどうでしょうか。

誰かがあなたを傷つけたとしても、あなたの人生に悪がないように。

誰かがあなたを悪く扱ったとしても、あなたの心に苦い根が育たないように。

誰かが悪いことに値したとしても、復讐の思いがあなたの心に浮かばないように。

むしろ、パウロが言ったように、

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:31-32)

多分、神様がダビデにそのことを思い出させるために、アビガイルを送られたのだと思います。そして、もう一度ダビデがサウルを殺す機会が訪れた時に、その言葉はダビデの心に響いたことでしょう。

ダビデにとって、怒りに任せてこう考えるのは簡単なことでした。

「以前、あなたを殺さなかったのに、まだあなたは私を追いかけているのですか。もう許せません。私があなたの敵だと思い続けているのですか。ならば、私はあなたの敵になります。あなたを殺します。」

けれども、ダビデはむしろアビガイルの言葉を思い出しました。「誰かがあなたを殺したくても、あなたの人生に悪がないように。」

そして、ダビデは再びサウルを許して彼を離しました。

あなたはどうでしょうか。

心の中に苦しみや苦さを抱える言い訳をしていないでしょうか。復讐の思いがある言い訳をしていないでしょうか。相手を許さない理由を探していないでしょうか。

アビガイルの言葉を思い出してください。

「それにしても、あなたの人生に悪がないように。」

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賢明な人と愚か者の違い

この箇所から、たくさんのことを学べると思います。

例えば、大きな罪だけでなく、小さな罪も許すべきであることです。(少し驚くかもしれませんが、どうしてダビデはサウルに命を狙われながらも彼を許したのに、ただ侮辱された人を許せなかったのでしょうか。)

また、相手の怒りをどのように扱うかということです。(つまり、アビガイルの柔らかな言葉と如才ない態度。ところで、アビガイルがダビデに願った際に、石投げの比喩を使ったことに気づきましたか。)

けれども、一番印象に残るのは、ダビデとナバルの違いです。

ダビデとその民は長い間ナバルの民を守り、祝いの日のために食べ物などを願いました。しかし、ナバルはその願いを聞き入れず、拒絶しました。

ナバルのしもべたちは彼の気を変えようとしましたが、ナバルはそのアドバイスを無視しました。

そこで、しもべたちはアビガイルのところに行き、こう言いました。

わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。(サムエル記第一25:17)

アビガイルはそれを聞くと、すぐにダビデとその民のために、さまざまな食べ物やワインを準備するように命じました。そして、彼女自身でダビデに会いに行きました。

アビガイルがダビデに許しを願うと、ダビデはその言葉に耳を傾け、怒りを収めてこう言いました。

安心して、あなたの家へ上って行きなさい。ご覧なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。(35節)

もちろん、賢明な人と愚か者にはさまざまな違いがありますが、その中の一つは、賢明な人は相手の話に耳を傾けるのに対し、愚か者はそれを聞きません。

特に、賢明な人は叱責を素直に受け入れる一方で、愚か者は全く聞こうとしないため、最終的には苦しむことになります。

ダビデは、叱責を常に受け入れていたので、神様に祝福されました。一方、ナバルはそれを拒絶したため、苦しみを味わいました。

あなたはどのような人でしょうか。

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神様は本当にそう言われただろうか

私たちは、神様の声を聞くことが難しいと感じることがよくあります。けれども、神様はさまざまな方法で私たちに語り、導いてくださいます。

時には、人々のアドバイスを通して私たちに語られることもあります。

時には、私たちの状況を通して神様は語りかけてくださり、良い機会を与えてくださることもあります。

例えば、ある日偶然、私は友達の会話を耳にしました。

彼が仕事を辞めてオーストラリアに引っ越す予定だと聞いた時、神様が「良い機会だよ。彼のポジションは空いているので、応募してみたらどうですか。」と言われました。

その結果、私は新しい仕事に就くことができました。

また、時にはポッドキャストや本を通して、神様が私たちに語られることもあります。

そして、時には神様がご自身の思いを私たちの心に与えてくださることもあります。

とはいえ、主に神様は聖書を通して私たちに語られるのです。

だから、もしあなたが神様が別の方法であなたに語られていると思うなら、必ずそのメッセージを聖書によって確認するべきです。神様のメッセージは聖書の言葉と矛盾することがないからです。

もし、あなたが聞いたメッセージが神のみ言葉と矛盾しているなら、そのメッセージは神様からのものではありません。

この箇所で、ダビデはそのような状況に直面しました。

ダビデとその民は洞穴に隠れ、恐れていました。そして、彼らはサウルとその民が洞穴の外にいるのを見て、おそらく「やばい。もうだめだ。私たちは死ぬ。どうしよう?」と思ったことでしょう。

けれども、サウルだけがその洞穴に近づいてきました。そして、サウルが用を足した時、ダビデとその民は驚いて、少し笑ったのではないかと思います。

その場面を見ながら、ダビデの民はこう言いました。

今こそ、があなたに、「見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ」と言われた、その時です。(サムエル記第一24:4)

ダビデの民はいったい何を言っていたのでしょうか。神様は本当にダビデにそのようなことを言われたのでしょうか。聖書にはそのような言葉は記されていません。

ダビデの民は、サムエルによるダビデが王になる予言を聞いていたため、ダビデがサウルを殺しても良いと考えていたのかもしれません。

また、ダビデの民が言いたかったのは、「この状況を通して、神様は『サウルをあなたの良いと思うようにしなさい』と言っている」ということかもしれません。

つまり、「これは神様からの機会です。殺したらどうですか。」という提案だった可能性があります。

その瞬間、ダビデは一体何を考えていたのでしょうか。

「そうですね。これはきっと神様からの機会です。サウルが何も知らずに私に近づいた。この大変な状況を終わらせる。」とダビデは思ったかもしれません。

そこで、ダビデは静かにサウルに近づきました。しかし、その途中で、ダビデの良心が痛み始めました。そこで、サウルを殺さずに、ダビデはサウルの上着の裾をこっそり切り取ったのです。

それでもなお、ダビデの良心は痛みました。

その後、ダビデは民のもとに戻り、こう言いました。

私が、主に逆らって、に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、の前に絶対にできないことだ。彼はに油そそがれた方だから。(6節)

だから、ダビデはサウルを殺しませんでした。

ダビデの民は、神様が状況を通してサウルを殺すようにダビデを導いておられるように感じました。彼らは「これは神様からの機会ですよ」と言ったのです。

けれども、ダビデはそれを拒絶しました。なぜでしょうか。その行動が神様の命令に反していたからです。実は二つの命令に反していました。

一つ目は、「殺してはならない」という神様の戒めです。

二つ目は、サウルが主に注がれた王であるため、ダビデが彼を尊敬すべきであるということです。

私たちはどれほど、自分の考えと神様の御心を間違えることがあるでしょうか。

また、私たちは自分の状況を見て、神様が私たちにある行動を望んでおられると思うことがありますが、それが間違っていることもあるのです。

どうして私たちは、そのようなミスをするのでしょうか。それは、私たちが聖書に記された神様の既に語られた御言葉を知らないからです。

神様の御心を知りたいと思いますか。神様があなたを導いておられると感じることがありますか。

その導きが本当に神様からのものかどうかを確かめるために、必ず聖書にある神様の御言葉と比べなくてはなりません。もし一致しているなら、その導きに従ってください。

しかし、もし一致していないなら、それは神様の導きではありません。

それは、むしろ、あなた自身の感情、また誰かの意見、あるいは偶然に過ぎない状況である可能性があります。

また、神様は、あなたが神様の御言葉に従うかどうかを見ておられるのかもしれません。

だからこそ、私たちはダビデのようにこう問いかけるべきです。「神様は本当にそう言われたのだろうか。」

また、パウロが言ったように、

すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5:21)

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サムエル記第一 詩篇

この世界があなたに反対していると思う時

「すべての人々は私に反対している。」

それが多分本当ではありませんが、時々、私たちはそのように感じます。ダビデも、そのように感じたかもしれません。

ダビデがジフ人たちに何も悪いことをしていなくても、彼らはサウルに言いました。

「ダビデは私たちのところに隠れているではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。

王さま。今、あなたが下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちは彼を王の手に渡します。(サムエル記第一23:19-20)

だからダビデはかなり厳しい状況にいました。ダビデは山の一方の側を進みながら、サウルは他の側を進みました。

そして、サウルがダビデを捕えようとしたその時、サウルの使者が来て、「急いで来てください。ペリシテ人がイスラエルに突入してきました。私たちを守ってください。」と言いました。

だから、サウルは、たぶんダビデが視界にいたにもかかわらず、諦めて、ペリシテ人と戦うために向かいました。

その後で、ダビデはこの詩篇を書きました。彼は歌いました。

神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください。

神よ。私の祈りを聞いてください。私の口のことばに、耳を傾けてください。

見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横暴な者たちが私のいのちを求めます。彼らは自分の前に神を置いていないからです。セラ。(詩篇54:1-3)

つまり、「神様!助けてください。すべての人々は私に反対している。見知らぬ人でさえ私を殺そうとしているかのようです。」

しかし、ダビデはこれも書きました。

まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。(4節)

多分、ダビデは、どれぐらいサウルが近かったか考えながら、その言葉を書いたかもしれません。

だから、彼が分かりました。「たとえこの世界が私に反対しているように見えても、神様は私に反対しておられません。神様は私の味方であり、私を決して捨てておられません。」

そして、ダビデは歌いました。

私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。よ。いつくしみ深いあなたの御名に感謝します。

神は、すべての苦難から私を救い出し、私の目が私の敵をながめるようになったからです。(6-7節)

この世界があなたに反対していると思うでしょうか。パニックにならないでください。心配しないでください。むしろ、主に仰ぎましょう。主は、あなたの命を支えてくださる方です。

そして、主があなたを救われたら(必ず救われますよ)、ダビデのように主の名を賛美することを覚えておきましょう。

また、神様があなたのためにしてくださったことを覚えておきましょう。なぜなら、以前あなたを助けてくださった神様が、もう一度あなたを助けてくださるからです。

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必要な時に、励ます言葉を与える

本当の友達は神様からのギフトです。この箇所で、ダビデはそのことを本当に理解するようになったと思います。

もう一度、サウル王がダビデを追っていると聞いて、おそらくダビデは非常に疲れていたと思います。ダビデは砂漠を越えたり、洞穴に隠れたりしましたが、サウルは諦めませんでした。

ダビデは、「神様は、本当に私と共におられるでしょうか。サムエルは私がイスラエルの王になると言われたけど、どうだろう。もし、私が死んだら、それは無理だろう?」と思ったかもしれません。

しかし、この時にヨナタンはダビデを探しに行きました。

どうやって見つけたのでしょうか。ヨナタンはサウルとその軍隊と一緒にいながら、静かに出てダビデを見つけたのかもしれません。

もしくは、サウルがヨナタンがダビデを愛していることを知っていたので、ヨナタンを宮殿に残したのかもしれません。

私には分かりませんが、サウルができなかったことをヨナタンができました。つまり、ダビデを見つけたのです。

ヨナタンがダビデを見つけた時、ダビデが疲れ、落胆し、恐れていることが分かりました。だから、

ヨナタンは。。。神の御名によってダビデを力づけた。(サムエル記第一23:15)

ヨナタンはダビデにこう言いました。

恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。

あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。(17節)

ヨナタンがダビデのためにしたことと同じように、私たちにも友達にしてほしいと神様はのぞんでおられます。エペソ4:29には、このように書いてあります。

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

「人の徳を養うのに役立つ言葉を話しなさい。」

私たちの言葉は人々の徳を養うでしょうか。それとも、私たちの言葉は人々を崩すでしょうか。

私たちはよく友だちをからかいますが、大抵は相手が傷つきません。それでも時々、その言葉が人の心を深く刺すことがあります。だからこそ、私たちが励ます言葉を使うべきだと思いませんか。

「必要な時に。」

その時、ダビデは本当にヨナタンの言葉が必要でした。私たちもヨナタンのように、他の人々を助けるべきです。

相手のニーズを見極め、神様に「この人には何を聞くことが必要でしょうか。あなたはこの人に何を言いたいと望んでおられるでしょうか」と祈るべきです。

「聞く人に恵みを与えなさい。」

あなたの言葉は人々に恵みを与えているでしょうか。あなたの言葉は、彼らを神様に近づけるギフトでしょうか。あなたの言葉によって、彼らは神様の恵みと働きを見ることができるでしょうか。

ヨナタンの言葉は、まさにそのようにダビデを励ましました。

人の徳を養うのに役立つ言葉。必要な時に。聞く人に恵みを与える言葉。あなたの口からは、どのような言葉が出るでしょうか。

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裏切り

聖書で裏切りの話を考えるとき、多くの人はこの話を思い出さないでしょう。つまり、ケイラという町の人々がダビデを裏切ったことです。なぜなら、最終的にダビデは逃げ延びて助かったからです。

けれども、もし逃げていなかったら、ダビデはサウルに殺されていたかもしれません。

それでも、おそらくダビデとその民は傷ついたでしょう。

ペリシテ人からケイラ人を救うために命を危険にさらしたにもかかわらず、ケイラ人はダビデを助けませんでした。それどころか、サウルと戦うことを避け、ダビデをサウルに引き渡そうと決めたのです。

ダビデはこのことを知ると、すぐに彼とその民はケイラを離れました。その結果、サウルは諦めました。

裏切りに直面したとき、ダビデの例から何を学べるでしょうか。

一つ目は許しと理解です。理解によって私たちは許すことができます。

ダビデにはケイラ人に怒る権利がありました。彼とその民が命を危険にさらしてケイラ人を助けたにもかかわらず、ケイラ人はダビデとその民を助けませんでした。

それでも、ダビデは自分の怒りによってケイラ人に対して行動することはありませんでした。ダビデはケイラ人を責めず、むしろ彼らの状況を理解し、許しました。

ダビデは彼らがどうしてそのように反応したかを理解していました。つまり、ケイラ人は自分自身を守る力がありませんでした。

だから、ペリシテ人が攻めたときにはダビデの助けが必要でしたし、サウルとその軍隊が来たときには恐れ、結果としてダビデを裏切る決断をしたのです。

ある話を聞いたことがあります。ある人は子供の頃、父から虐待を受けていました。そのため、ずっと父を許すことができませんでした。

けれども、その人にとっての転機は、父もまた虐待を受けていたことを知ったときでした。父の傷を理解するようになったとき、その人は父を許すことができるようになったのです。

もしあなたが裏切られ、許すことができないのであれば、大切なことは「理解」を得られるよう祈ることです。

なぜなら、イエス様が祈られたように、私たちを傷つけた多くの人々は、実際に何をしたのか、また、どうしてそれをしたのかを知らないからです。

でも、二つ目に重要なことは、相手を理解し許すべきではあるけれど、危険な環境にとどまる必要はないということです。つまり、相手があなたを傷つけ続けるならば、距離を置くことも許されるということです。

ダビデはケイラ人の弱さを理解しました。そして彼らを許しました。それでも、彼らの裏切りを知ったとき、ダビデはすぐに逃げました。

時として、人々は許しについて誤解を抱きます。許しとは、相手が自分を傷つけることを許可することだと考える人もいます。

しかし、それは間違いです。許すべきですが、相手が悔い改めない場合や、さらに危険が伴う場合には、逃げることも選択肢に含まれます。

だからこそ、ダビデはケイラから、またサウルから逃げたのです。

あなたは裏切られたことがありますか。

神様は私たちに相手を理解しなさいと言われます。そして、相手を許しなさいとも言われます。

しかし、神様は相手の手による苦しみに耐え続けることを求められるわけではありません。

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周りの苦しんでいる人々に影響を与える

ダビデは窮地に陥っていても、彼はまだ周りの人々に影響を与えました。1サムエル記22章2節にはこう書かれています。

また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。

これはダビデの最初の軍隊でした。悩んでいる人々、困っている人々、そして魂が不満な人々です。

どうして、このような人々がダビデのもとに集まったのでしょうか。ダビデも彼らと同じように悩んでいたからでしょうか。それとも、他に理由があったのでしょうか。

おそらく、彼らが見たのは、ダビデが自分たちが持っていないものを持っていたということです。

確かにダビデも悩んでいました。確かにダビデも恐れていました。けれども、ダビデは生きている神様との関係を持っていました。

彼らが目にしたのは、ダビデが何をするにも神様の導きを求めていたことです。そして、どんなに困難な時でも、ダビデは自己中心的にならず、自分のことだけを考えることはありませんでした。

そのため、ペリシテ人がイスラエルの町ケイラを攻めた時、ダビデはペリシテ人と戦いました。しかし、ダビデの民は恐れを抱き、こう言いました。

ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ、恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。(サムエル記第一23:3)

けれども、神様がダビデを励まし、「私はあなたと共にいる」と言われたとき、人々はダビデの勇気と決意を見ました。

そして、ダビデが神様の戒めに従い、神様が大勝利を与えられたことも目撃しました。

私たちも皆、辛い時を経験します。そのような時に、私たちは周りの人々に本当に大きな影響を与えることができます。

すべてが順調な時に信仰を持つことは簡単です。しかし、困難な時に、私たちはどのように反応するのでしょうか。

周りの人々はあなたを見ています。特に困難な時に、彼らはあなたの反応に注目しています。

あなたはダビデのように反応するでしょうか。あなたの問題にもかかわらず、周りの人々に影響を与えるでしょうか。

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サムエル記第一 詩篇

神様に信頼する

アメリカでは、ドル札と硬貨の上に、こう書いてあります。「神様に信頼する。」

ちょっと皮肉だけど、今、多くのアメリカ人は神様よりもお金に信頼しています。もし、お金を儲けるよりも、その言葉を見て従ったら、彼らの優先順位がもっと良くなるでしょう。

ダビデは時々失敗しましたが、大体彼は神様に信頼しました。サウルから逃げて、ダビデはイスラエル人の敵ペリシテ人の所に行きました。

けれども、ペリシテ人はダビデのことを忘れていませんでした。つまり、ダビデがペリシテ人の戦士ゴリアテを殺したことをよく覚えていたのです。

それに、彼がイスラエルの将軍として何回もペリシテ人の軍隊と戦ったこともよく覚えていました。

だから、彼らはダビデを見つけた時に、彼を捕まえて王の前に連れてきました。ダビデは牢に入った時に、この詩篇を書いたかもしれません。

すぐに死ぬかどうかわからない時に、彼は書きました。

恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。

神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。(詩篇56:3-4)

どうして、ダビデは、それが言えたのでしょうか。多分、いろんな理由があったのでしょう。

最初の理由は、怖がって、彼には神様に信頼する選択しかありませんでした。

しかし、振り返った時に、彼は神様が彼を救ってくださったことを思い出しました。つまり、クマとライオンとゴリアテと戦った時に、神様は彼を助けてくださいました。

ダビデがもう一つ思い出したのは、自分の人生が神様の御手にあったことです。

サムエルを通して、神様がダビデのために良い計画を持っておられることを知っていました。だから、もし、彼が神様に信頼し続けたら、神様が彼を守ってくださることを知っていました。

それに、ダビデが死んでも、つまり、ペリシテ人かサウルが彼を殺しても、彼らがダビデの魂を滅ぼすことはできないことを知っていました。

だから、試練の中で、彼は歌いました「神様に信頼する。」

あなたはどのような試練の中にいるでしょうか。どのような苦しみや悲しみを感じるでしょうか。希望を失わないでください。勇気を持ちましょう。

神様が過去にあなたのために何をしてくださったか思い出しましょう。神様の慈しみを思い出しましょう。神様があなたのために良い計画を持っておられることを思い出しましょう。

そして、何が起こっても、生きても、死んでも、あなたの人生が神様の御手にあることを思い出しましょう。

I will trust you, Lord, when I don’t know why.
たとえ、なぜ自分がこのような状態にあるのか分からなくても、私はあなたを信じます。
I will trust you Lord, ‘til the day I die.
私は死ぬまで、あなたを信頼します。
I wil trust you Lord, when ‘m blind with pain.
本当に苦しんで、私の心が見えなくても、あなたを信頼する。
You were God before and you’ll never change.
あなたは過去に神様だったし、あなたは全然変わらない。
I will trust you.
あなたを信頼する。
I wil trust you.
あなたを信頼する。
I will trust you, Lord.
主よ。あなたを信頼する。

ーートワイラ・パリス

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サムエル記第一

私は嘘が嫌いです。

英語では「白い嘘」という表現があります。これは「悪意がない嘘」という意味です。例えば、友達が「このドレスを買ったのよ、素敵でしょ?」と言ったとします。

実はそのドレスが嫌いだけど、こう答えるかもしれません。「そうですね、素敵なドレスですね。」

これがいわゆる「悪意がない嘘」です。

けれども、私は悪意のない嘘も嫌いです。基本的に、私は嘘を避けます。

もちろん、真実が相手を傷つけると分かっている場合には気を付けます。

例えば、「本当に酷いドレスね。なぜそのドレスを買ったの?」とは絶対に言いません。

むしろ、「ああ、新しいドレスを買ったの?良かったねえ。」と答えるかもしれません。

それが少しあいまいな返事です。私にとって、その意味は「そのドレスは素敵です」ということではなく、「あなたが新しいドレスを買って嬉しいことは良かったです」ということです。

私はできるだけ嘘を避けるようにしています。

なぜ、嘘をつくことがそんなに悪いのでしょうか。このダビデとサウル、そしてノブの祭司の話から、二つの理由を学ぶことができます。

一つは、嘘をつく時、相手を傷つける意図がなくても、結果的に私たちはそうしてしまうことがあるということです。

おそらく、ダビデはサウルがノブの祭司たちを殺すとは思いませんでした。ダビデはこう考えたのかもしれません。

「彼らは祭司たちだ。サウルが私を助けたことを知っても、彼らが『ダビデがあなたから逃げているとは知らなかった』と説明すれば、必ず信じるだろう。」

けれども、サウルは彼らを信じなかったので、彼らを殺しました。そして、ダビデには85人の祭司の死の責任がありました。

私たちは自分の嘘が悪い結果をもたらさないと思うかもしれませんが、意図しない結果が出ることもあります。

何年か前、私はある会社で働いていました。しかし、その会社は経済的な問題を抱えていて、最終的に倒産しました。

ある月、私の給料は遅れて支払われました。本来なら金曜日に振り込まれるはずでしたが、月曜日になってから支払われたのです。私は金曜日に銀行に行かなかったため、月曜日までそのことを知りませんでした。

その日、学校で説明する文書を読んで給料遅延を知りました。

とにかく、家に帰ったとき、妻が「仕事はどうだった?」と尋ねました。そのとき私はこう考えました。「この給料のことを伝えるべきだろうか。結局、給料は来たし、妻を心配させたくない。」

けれども、結局私はこう思いました。「伝えた方がいい。」

伝えた後、妻はこう答えました。「そうそう!昨日、教会で、だれだれさんがそう言っていたわ。」

私の教会の友達もその会社で働いていたので、「ブルースは大丈夫でしょうか。金曜日に会社が払ってくれなかった」と言っていたそうです。

妻がそう言った時、私はこう思いました。「真理を言って良かった!」

その日、私が学んだことは、相手が真理を知らないと思っていても、実際には知っている可能性があるということです。そして、もし私が真理を言わない場合、それが私たちの関係を傷つけることにつながる可能性もあるということです。

もし、私が真理を言わなかったら、妻は何を思ったでしょうか。そして、真理が後に明らかになった時、どう感じたでしょうか。

二つ目の理由は、時々、私たちは自分自身の嘘を信じ始めてしまうということです。

サウルはまさにその典型でした。サウルには、ダビデが自分に反対したり、自分を殺そうとしたりすることを信じる理由はありませんでした。

しかし、サウルは何度も他の人々にそう言い続けた結果、最終的に彼自身もそれを信じるようになってしまったのです。

そして、ヨナタンやノブの祭司たちが真理を伝えたとき、サウルはその真理を認めることができませんでした。そのため、サウルはノブの祭司たちを殺し、さらにはヨナタンさえも殺そうとしました。

あなたは真理を語りますか。それとも、嫌な状況や困難な状態を避けるために嘘をつくでしょうか。自分の行動を正当化するために、自分自身や他の人々に嘘をつくでしょうか。

たとえ小さな嘘でも、結果的にあなたや他の人々を傷つけることにつながるかもしれません。

パウロはこう書きました。

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、

新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロサイ3:9-10)

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サムエル記第一

無償の愛

聖書の中で、ヨナタンがダビデに示した愛は、おそらく最も素晴らしい例の一つです。

第一コリント13章には、「愛は妬みません」、また「愛は自分の利益を求めません」と記されています。

ヨナタンはまさにそのようにダビデを愛しました。

ヨナタンはサウル王の息子であり、本来ならイスラエルの次の王となるはずでした。けれども、ヨナタンは神様がダビデを次の王として選ばれたことを知っていました。

それが分かっても、ヨナタンはそれを気にすることなく、ダビデの成功を妬むこともありませんでした。ダビデのための神様のプランを知っても、ヨナタンはダビデを恐れませんでした。

むしろ、

ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していた(サムエル記第一20:17)

ヨナタンは、自分自身の代価を気にすることなく、ダビデの最善を望みました。だから、ダビデが生きながら王になることができないと分かっていても、ヨナタンはダビデをサウルから守りました。

ヨナタンはサウルとダビデについて言い争いをしました。けれども、その父を説得できなかったため、ヨナタンはダビデに「逃げなさい」と警告しました。

あなたはどうでしょうか。

自分自身よりも他の人々を愛することができるでしょうか。周りの人々のための神様の計画を喜ぶことができるでしょうか。周りの人々が成功する時に、喜ぶことができるでしょうか。

それとも、神様が他の人々をあなたよりも祝福する時に怒るでしょうか。私たちが自分自身を他の人々と比べて妬むのは簡単です。他の人々の祝福を望みながら憤慨するのも簡単です。

しかし、本当の愛は無償です。他の人々が喜ぶ時に、その愛は共に喜びます。他の人々が悲しむ時には、その愛は共に悲しみます。

あなたはどのような愛を持っているでしょうか。

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サムエル記第一 詩篇

神様の慈しみを思い起こす

「どうして、こんなことが起こっているの?神様、私を愛していないの?あなたはどこ?」

悪いことが起こったら、私たちはよくそのように反応します。もし、誰かがそのようなことを言う権利があれば、その人はダビデでした。彼は何も悪いことをしていなかったのに、サウルは彼を殺そうとしていました。

その状態の中で、ダビデはこの詩篇を書きました。

サウルが槍でダビデを殺そうとしたあとで、ダビデは逃げましたが、サウルはダビデの家にダビデを見張らせ殺すために、使者を遣わしました。けれども、ダビデの妻ミカルはダビデに警告して、彼が逃げることを助けました。

逃げながら、ダビデは詩篇59篇を書きました。

わが神。私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください。

不法を行う者どもから、私を救い出してください。血を流す者どもから、私を救ってください。

今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています。主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。

私には、咎がないのに、彼らは走り回り、身を構えているのです。どうか目をさまして、私を助けてください。どうか、見てください。(詩篇59:1-4)

つまり、「助けてください!」

けれども、ダビデは、これも書きました。

私の力、あなたは私を、見守ります。神は私のとりでです。

私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。神は、私の敵の敗北を見せてくださる。(詩篇59:9-10)

また、

しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。

私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。神は私のとりで、私の恵みの神であられます。(詩篇59:16-17)

私にとって、印象に残っている言葉は、「私の恵みの神」ということです。英語では、「My loving God」、つまり、「私を愛している神」。

ダビデは大変な状態の中で、神様の愛と恵みを全然疑っていませんでした。むしろ、皆がダビデに反対する時に、ダビデは神様の愛に隠れて、安心しました。

問題に焦点を当てずに、ダビデは神様に焦点を当てていました。自分の状況について文句を言わずに、神様を礼拝しました。

そして、ヨナタンとミカルとサムエルを通して、神様はダビデを救い出してくださいました。

あなたはどうですか。全てが悪い時に、あなたはどうするでしょうか。神様の愛を疑いますか。神様の慈しみを疑うでしょうか。

もしくは、ダビデのように、神様のために待ち望むでしょうか。神様の愛に隠れて、礼拝するでしょうか。

神様が恵みの神であることと、神様があなたの先に行って導くことと、神様があなたを救ってくださることを心に留めておきましょう。

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サムエル記第一

私たちが愛してる人々が間違っているとき

「私は人に面と向かうのは苦手です。」

それは、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のジョージ・マクフライのセリフです。マーティがジョージに「どうしてビフがあなたをいじめるのを許すのか」と聞くと、ジョージはそう答えました。

私たちはそのセリフを笑うかもしれませんが、多くの人々(私も含めて)がその気持ちを理解できるかもしれません。

相手が間違っているときに、その人と話すのは非常に難しいものです。特に、その人のことを私たちが愛している場合は、さらに難しくなります。

ヨナタンも、そのような問題に直面しました。サウルはヨナタンに「ダビデを殺せ」と命じましたが、ダビデはヨナタンの親しい友人だったのです。

私たちが愛している人が間違っていたら、どうすれば良いでしょうか。時々、私たちは何もせずに、彼らがいつか自然に変わることを期待してしまいます。

また、時々私たちは彼らを無視したり、避けたりします。そしてこう考えます。「彼らは好きにすればいい。私は彼らに対処したくない。」

さらに時々、私たちは何も言わないまま怒りをため込み、最終的に感情が爆発してしまうことがあります。

けれども、そのような反応は適切ではありません。では、ヨナタンはどうしたのでしょうか。彼は父サウルと真正面から向き合ったのです。聖書にはこう書いてあります。

王よ。あなたのしもべダビデについて罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。かえって、彼のしたことは、あなたにとって非常な益となっています。

彼が自分のいのちをかけて、ペリシテ人を打ったので、主は大勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て、喜ばれました。

なぜ何の理由もなくダビデを殺し、罪のない者の血を流して、罪を犯そうとされるのですか。(サムエル記第一19:4-5)

ヨナタンがサウルと話したとき、彼は謙遜な態度を持ち、優しい言葉を使いました。私たちもそのようにするべきです。両親や子供、友人、同僚、上司と話す際には、ヨナタンの例に従うのが良いでしょう。

もちろん、親が子供を扱うときには、時に厳しい態度を取らなければならないこともあります。それでも、怒りではなく、愛を持った態度を取るべきです。

パウロは言いました。「真理を語りなさい。」

その責任から逃れることはできません。

とはいえ、「愛を持って、真理を語るべきです」(エペソ人への手紙4:15)。

ヨナタンは、そのように行動しました。

それでも、真理を伝えた後、人を無理やりその真理に従わせることはできません。

親としてはある程度それが可能かもしれませんが、他の場合にはそれは不可能です。最終的に、人々は自分自身で決断を下さなければならないのです。

最初、サウルはヨナタンの言葉に従いましたが、結局もう一度ダビデを殺そうとしました。そのため、ダビデは逃げざるを得ませんでした。

そのような場合、私たちにできることは祈ることだけです。神様だけがその人の心を変えることができるのです。

そして、もし彼らの行動があなたを傷つけるのであれば、自分自身を守らなければなりませんし、脅かされている人々も守る責任があります。

ヨナタンもそのようにしました。彼はダビデに警告し、父の手から守ったのです。

しかし、沈黙してはいけません。真理を語らなければなりません。愛を持ち、また謙遜な態度であっても、真理を語ることを避けてはならないのです。

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サムエル記第一

神様の懲らしめに反応する

懲らしめは決して楽しいものではありません。

私が若い頃、父は私の嘘を見抜き、こう言いました。「お前は、もう信頼できない。もし私に信頼してほしいなら、時間がかかるし、お前が本当のことを言わなくてはならない。」

それは辛い言葉でした。今でもその言葉をはっきりと覚えています。けれども、その言葉のおかげで私は変わり、最終的に父が私を信頼できるようになりました。

残念なことですが、サウルの神様の懲らしめに対する反応は良くありませんでした。

この箇所を読んだとき、私は祭司エリについても考えました。

神様は以前、エリも懲らしめました。それは、彼の息子たちが様々な悪事を行っていたにもかかわらず、エリが何もしなかったからです。

祭司として、そして父として、エリは自分の息子たちを懲らしめるべきでしたが、何もしませんでした。

そのため、神様は裁いてこう言われました。「あなたの息子たちは死ぬし、あなたの子孫が私の前で祭司として仕えない日が来る。」

エリは、それを聞いたとき怒りませんでした。神様に「あなたは不公平だ」と叫ぶこともありませんでした。むしろ、彼はこう言いました。

「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。(第一サムエル3:18)

それに、エリは子育てに失敗しましたが、サムエルをしっかりと教え育てました。

サムエルが神様から聞いたことを見たとき、エリは妬むことはありませんでした。神様がサムエルを祝福されたことを見ても、エリはサムエルを迫害することはありませんでした。むしろ、エリはサムエルにどうやって神様に応答するかを教えました。

そして、サムエルに責任をもって神様の言葉をしっかりと伝えることを教えました。神様の言葉が辛くても、サムエルに正直であり、また忠実にその言葉を伝えることを教えたのです。

サムエルはその教えを学び、立派な預言者となりました。

それでも、神様はエリを懲らしめました。そして、神様が言われた通り、ソロモンがエリの子孫を主の祭司の職から罷免しました。(列王記第二2:27)

それでも、エリは神様の懲らしめを受け入れ、出来る限り神様に仕え続けました。

サウルの反応は全く違いました。サウルは、神様の霊が自分を去り、ダビデと共にいることを見ました。そして、イスラエル人がサウルよりもダビデをほめたことや、ダビデが次の王になることを知ったのです。

その結果、サウルは恐れてダビデを殺そうとしました。自分の手、さらにはペリシテ人の手を使ってダビデを殺そうとしたのです。

けれども、結局殺すことができなかったため、サウルはさらに恐れるようになりました。

サウルは神様の懲らしめを受け入れなかったため、彼の人生は惨めなものとなりました。

サウルは悔い改めることもなく、できる限り神様に仕え続けることもしませんでした。むしろ、サウルは神様の決断に反抗し、持っているものを手放すことなく守り続けようとしました。

しかし、もしサウルがダビデを受け入れていたら、どうなっていたでしょうか。もしサウルが神様の決断に反抗せず、ダビデにこう言ったとしたら。

「私は失敗しました。だから、神様はあなたを選ばれたのです。私のミスから学んでください。」

そうしていたら、サウルの人生はどう変わっていたでしょうか。

おそらく、神様はもう一度サウルにサムエルを送られたでしょう。そして、サムエルは再びサウルと共に働いたかもしれません。神様が再びサウルと話し、働き続けられたかもしれません。

しかし、サウルは神様の懲らしめに反抗し続けたため、神様からさらに遠く離れてしまいました。

たとえ神様の懲らしめを受け入れたとしても、神様の決断が変わることはなかったかもしれません。けれども、神様ともっと親しい関係が築けていた可能性があります。

残念ながら、サウルはそれを選ばなかったため、惨めな人生を送ることとなったのです。

あなたはどうでしょうか。神様の懲らしめに対して、どのように反応するでしょうか。その懲らしめに反抗しますか。それとも、それを受け入れて、神様があなたを変えてくださることを許しますか。

神様が私たちを嫌いだから懲らしめられるのではないことを覚えていてください。むしろ、神様は私たちを愛し、私たちのベストを望んでおられるからこそ懲らしめてくださるのです。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。

また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。(ヘブル12:5-13)

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サムエル記第一

信仰のある人、恐れている人々

聖書の中で、これは最も有名な話の一つです。私はおそらく100回以上読んだことがあります。けれども、今回印象に残ったことは、信仰のある人と恐れる人の違いです。

再び、ペリシテ人はイスラエル人と戦う準備をしていました。

そして、一人のペリシテ人であるゴリアテが、イスラエルの軍隊に一対一の戦いを挑みました。

もしイスラエル人の一人がゴリアテと戦って彼を殺せば、ペリシテ人全員がイスラエルの奴隷になる。

けれども、ゴリアテがイスラエル人の代表を殺した場合、イスラエル人全員がペリシテ人の奴隷になるというものでした。

この条件を聞いたとき、サウルとその民は恐れました。

しかし、そこに信仰のある人が現れました。それはダビデです。

恐れる人々が信仰のある人を見たとき、彼らがどのように反応したかは興味深いです。

1.怒り。

ダビデはゴリアテのチャレンジを聞くと、こう言いました。

このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。

この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。(サムエル記第一17:26)

ダビデの兄エリアブは、その言葉を聞くと、こう答えました。

いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。

私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。(28節)

どうしてエリアブはそんなに怒ったのでしょうか。多分、ダビデの言葉がエリアブの恐れを表したからです。

エリアブは、「私は戦った方がいい」と思ったかもしれませんが、彼の恐れによって行動に移しませんでした。だから、彼の弟が来たときに、エリアブはその信仰深い言葉を聞いて恥を感じたのでしょう。

私たちもどれほど、そのように反応するでしょうか。困難な状況に直面して信仰を持たずに恐れます。そして、信仰のある人を見たときに怒り、その人を攻撃してしまうのです。

2.失望。

サウルは、誰かがゴリアテと戦いたいと言ったと聞いたとき、おそらく喜んだでしょう。

おそらく、イスラエル人全員がサウルがゴリアテと戦うことを期待していたでしょう。なぜなら、イスラエル人の中でサウルは最も背が高かったからです。

ところが、サウル自身も恐れていました。そのため、その知らせを聞いたとき、彼はすぐにダビデを呼びました。

けれども、サウルがダビデを見たとき、おそらくとてもがっかりしたことでしょう。「この若者が……この若者がゴリアテと戦えるのだろうか。」

サウルは失望し、ダビデをがっかりさせようと思ったのです。そして、彼はこう言いました。

あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。(33節)

どれほど私たちはサウルのように反応するでしょうか。あなたは自分の恐れによってがっかりし、他の人々が信仰によって歩むのをやめるように説得しようとするでしょうか。

しかし、ダビデはどのように反応したのでしょうか。兄の怒りとサウルの恐れがダビデに影響を与えることを許しませんでした。むしろ、彼は神様に100%信頼しました。

どうして彼は神様に信頼することができたのでしょうか。それは、神様が過去に何をしてくださったかを思い出したからです。熊と獅子がダビデの羊を攻撃したとき、神様がダビデを助けてくださったことを思い出したのです。

それゆえ、ダビデはこう言いました。

獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。(37節)

ダビデは状況をあまり気にしませんでした。なぜなら、神様がその状況よりも大きいと知っていたからです。そして、神様の助けによって、ダビデはゴリアテを殺し、イスラエルに勝利を与えました。

残念なことに、サウルはそれを決して学びませんでした。それは13章でも見られます。サウルの民の恐れがサウルに影響を与え、彼はパニックに陥り、罪を犯してしまったのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは信仰のある人ですか、それとも恐れる人ですか。

困難な時に直面したとき、どのように反応しますか。信仰によって反応しますか、それとも恐れによって反応しますか。

ただ問題に焦点を当て、恐れに支配されるサウルやエリアブのようにならないようにしましょう。

むしろ、ダビデのように、私たちは神様に焦点を当てましょう。神様は私たちの問題よりも大きいからです。

神様が過去に私たちを救ってくださったことを思い出し、将来も私たちを助け続けてくださることを知って、神様に信頼しましょう。

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サムエル記第一

一時的な解決

サウルが神様に背を向けた後、神様もサウルに背を向けられました。14節には、神様がサウルをおびえさせるために災いの霊を送られたことが書かれています。

これは少し理解しにくい箇所です。どうして良い神様がそのようなことをされるのでしょうか。

けれども、私たちが理解しなくてはならないことがあります。それは、神様の望みが、私たち皆にご自身を求めてほしいということです。

しかし、私たちがあまりにも頑固であるとき、神様は私たちの注意を引くために、ご自身の手を私たちの人生から離され、サタンが私たちを攻撃することを許されることがあります。

第一コリント5章には、そのようなことが書かれています。パウロは悔い改めたくないクリスチャンについて、次のように言いました。

このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(第一コリント5:5)

その希望は、その人が惨めになり、主をもう一度求めて、罪から救われることです。そのコリント人の人は、そうしたようです。(第二コリント2:5-10)。

けれども、サウルの場合、彼は全く悔い改めませんでした。むしろ、彼は一時的な解決を求めました。そして、サウルの家来が彼に勧めました。

わが君。どうか御前にはべるこの家来どもに命じて、じょうずに立琴をひく者を捜させてください。

わざわいをもたらす、神の霊があなたに臨むとき、その者が琴をひけば、あなたは良くなられるでしょう。(サムエル記第一16:16)

だから、ダビデはサウルを慰めるために、立琴を弾き始めました。サウルがダビデを気に入ったので、ダビデはサウルの道具持ちになりました。

そして、災いの霊が来てサウルを苦しめたときに、ダビデが来て立琴を弾いてあげました。そうすると、サウルは再び元気になりました。

しかし、その平安はすぐになくなりました。なぜでしょうか。それは、サウルが問題の根本を全く扱わなかったからです。つまり、彼は神様に従わない心を持っていたのです。

現在でも、多くの人々が神様に背を向けるので、神様はトラブルを送られます。そして、その希望は、彼らがもう一度神様を求めることにあります。けれども、彼らはそうせず、一時的な解決を求めます。

ある人にとっては音楽です。ある人にとっては麻薬やアルコールです。ある人にとっては教会に行くことです。彼らは教会に行き、愛情深い人々から励まされます。そして、音楽とメッセージによって励まされるのです。

しかし、教会を楽しんでも、彼らは問題の根本を扱いません。つまり、月曜日から土曜日まで、彼らは神様に従わないのです。だから、すぐにまた惨めになってしまいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪によってトラブルが来るとき、どのように反応しますか。

神様に向かうでしょうか。それとも、一時的な解決を求めるでしょうか。

その一時的な解決を求めることはしないでください。むしろ、本当の平和と満足を与えてくださる神様に向かいましょう。

ダビデはこう書きました。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。

私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(詩篇32:1-5)

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サムエル記第一

神様が何をご覧になる?

時々、神様が人々を判断される方法と、私たちが人々を判断する方法は全く異なります。

イスラエルの新しい王を探すために、神様はサムエルをエッサイという人の元に送られました。エッサイの長男を見たとき、サムエルは感動しました。けれども、神様はこう言われました。

彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。

人はうわべを見るが、主は心を見る。(サムエル記第一16:7)

エッサイはすでに六人の息子たちをサムエルに紹介しましたが、神様は彼らを拒絶されました。

エッサイは末っ子のダビデを取るに足りない人物だと思い、彼を紹介しようとは全く考えませんでした。

おそらく、エッサイはこう考えたのでしょう。「ダビデは末っ子ですし、とても若い。ただの羊飼いにすぎない。」

けれども、サムエルは尋ねました。「もう一人、いないでしょうか。」

エッサイは答えました。「はい、いますよ。末っ子のダビデがいます。でも、別に特別な子ではありません。ただの羊飼いです。本当にお会いになりたいのですか?」

そして、ダビデがそこに来たとき、神様はこう言われました。

さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。(12節)

人間として、私たちは人々の外見によって判断します。どんなにハンサムか、どんなに美しいかによって判断します。また、どんなに賢いか、どんなに金持ちか、そしてどれほど才能があるかによっても判断します。

しかし、神様はそのような基準では判断されません。神様は私たちの心をご覧になります。私が以前言ったように、すべての他のものよりも、神様は私たちの心を求めておられます。

あなたの外見、賢さ、またはお金が周りの人々を感動させるかもしれません。

でも、神様はそれらに心を留められることはありません。むしろ、神様はあなたをご覧になり、こう尋ねられるでしょう。「私はあなたの心を持っているでしょうか。」

もし神様があなたの心を持っておられるなら、あなたの外見や才能、あるいはお金は問題にはなりません。

神様はご自身の王国のためにあなたを用いることができ、あなたを通して素晴らしい業を行ってくださいます。

ダビデの家族は彼をずっと見落としていましたが、神様は素晴らしいことを行うために彼を用いられました。ただの羊飼いであったにもかかわらずです。同じように、神様はあなたをも用いることができます。

神様があなたをご覧になるとき、何をご覧になるでしょうか。神様に属する心をご覧になるのでしょうか。

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サムエル記第一

口だけで神様に仕える?

サウルの没落はさらに続いています。

サムエルを通して、神様はサウルにアマレク人を全滅させるよう命じられました。モーセの時代、イスラエル人が砂漠を旅している間に、アマレク人は彼らを攻撃しました。

そして、サムエルの時代でもアマレク人は依然として存在し、イスラエル人や他の民を攻撃し続けていました。

そのため、神様は「彼らをすべて滅ぼしなさい」と命じられました。誰にも容赦してはならず、動物でさえもすべて殺すべきだったのです。

これは厳しすぎると思うかもしれませんが、アマレク人には悔い改めのための時間が与えられていました。それでも、彼らはその恵みを拒み、さらに悪い行いに走り続けました。そのため、神様は彼らを裁かれました。

同じように、いつの日か、神様はすべての人々を裁かれます。ある人々は永遠の命を受け取り、他の人々は滅びるのです。

いずれにせよ、サウルは神様の命令に従いませんでした。彼はアマレクの王を容赦し、最も良い羊や家畜を殺さずに残しました。おそらく「もったいない」と思ったのかもしれません。

そのため、神様はサムエルに次のように言われました。

わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。(サムエル記第一15:11)

サムエルはサウルの所に行きましたが、最初、サウルは自分の罪を認めませんでした。むしろ、サウルはこう言いました。

主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。(13)

サウルは、サムエルが羊や家畜、その他の動物について知らないと思っていたのかもしれません。けれども、サムエルがそのことについて質問した時、彼は答えました。

「ああ、そうそう。それはね。いけにえを捧げたかった。だから、私の民はその動物を殺したくなかった。」

しかし、サムエルはこう答えました。

主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。

見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。

あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。(22-23節)

そして、サウルはようやく自分の罪を認めましたが、自分の民を責めました。

私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。(24節)

サウルの問題は、今でも多くの人々に見られるものです。口では神様に仕えると言いながら、心の中では自分自身に仕えていたのです。

その前に、サムエルがサウルを探していた時、サウルは自分を祝うために山に登り、記念碑を立てていました。サウルは「いけにえを捧げたかった」と言いましたが、それは本当だったのでしょうか。

また、私が以前に言ったように、彼の謝罪はあまり誠実ではなかったように思われます。自分の行動に責任を取るのではなく、他の人々を責める態度を見せました。

さらに、彼の礼拝も心から捧げられたものではなく、うわべだけのものでした。サムエルが去ろうとした時、サウルは願いました。

どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。(35節)

神様の前でも民の前でも、サウルは自分の評判を気にしていました。

そのため、神様はサウルをイスラエルの王として拒絶されました。

あなたはどうでしょうか。口先だけで神様に仕えているでしょうか。他の人々を感動させるためだけに、宗教的なことを言ったり行動したりしているでしょうか。

それとも、神様はあなたの心を持っておられるでしょうか。

神様はあなたの言葉や行動よりも、あなたの心そのものに興味を持っておられます。もし、あなたの心が神様に捧げられていなければ、神様にとって、あなたの行動や言葉は無駄なものとなってしまいます。

サウルは神様に自分の心を捧げませんでしたが、次の王であるダビデは、自分の心を神様に捧げました。

神様はあなたの心を持っておられるでしょうか。それとも、あなたの言葉だけを持っておられるのでしょうか。

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サムエル記第一

悪いリーダーシップ

私たちはサムエルの生き方を通して、良いリーダーの姿をはっきりと知ることができました。

残念なことに、サウルについては同じことが言えません。悪いリーダーがどのようなものかを知りたいなら、サウルの行動を見ればよく分かります。

では、どうしてサウルは悪いリーダーだったのでしょうか。

1.神様の知恵に頼らず、自分の知恵に頼りました。

ペリシテ人が少し混乱している時、サウルは祭司を通して神様の言葉を求めました。

けれども、ペリシテ人たちがさらに混乱して本当にパニック状態になると、サウルは祭司に「もういい」と言い、主を求めるのをやめ、ペリシテ人を攻撃しました。

結果として、サウルは自分の知恵に頼ったことで、すぐに大きな失敗をしてしまいました。

2.サウルは無謀な決断をしました。

最初の戦いの間に、彼はこう言いました。

夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる (サムエル記第一14:24)

その結果、イスラエル人たちはすぐに疲れ果ててしまいました。確かに大勝利ではありましたが、もしサウルがそのような誓いをしていなければ、さらに大きな勝利を収められたことでしょう。

さらに、イスラエル人は空腹に耐えきれず、血の入っている肉を食べ始めてしまいました。しかし、それは罪でした。なぜなら、神様が「血の入っている肉を食べてはならない」と明確に命じておられたからです。

このようにして、サウルの行動が原因で、イスラエル人は罪を犯すことになりました。

その後、サウルはもう一度ペリシテ人と戦おうとしましたが、神様に相談するのを忘れていました。そのため、祭司がサウルに「神様を求めたほうがいいですよ」と思い出させました。(サウルは再び自分の知恵に頼ろうとしていたのです)。

そして、ようやく神様に相談したところ、神様は沈黙されていました。その時、サウルはこう言いました。

民のかしらたちはみな、ここに寄って来なさい。きょう、どうしてこのような罪が起こったかを確かめてみなさい。

まことに、イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それが私の子ヨナタンであっても、彼は必ず死ななければならない。(38-39節)

結局、サウルはヨナタンの行動が原因で神様が沈黙されたことに気づきました。(なぜなら、ヨナタンはサウルの不合理な誓いを守らなかったからです。)

その結果、サウルはヨナタンを殺そうとしましたが、他のイスラエル人たちがそれを止めました。

3.サウルは神様と他の人々よりも、自分自身に仕えました。

サウルがその不合理な誓いを立てた理由は、彼の自己中心的な態度によるものでした。彼は民の利益よりも自分の復讐心だけを優先しました。

そのため、すべてが混乱し、台無しになってしまったのです。

4.サウルの最大の問題はプライドでした。

最初、サウルは謙遜な人であり、国を治める自信すらありませんでした。もし彼がその謙遜な態度を保ち続け、神様の知恵を求め続けていたならば、彼の王国はもっと長く続いていたかもしれません。

ところが、彼は自分の知恵に頼り、自分自身をイスラエルの民よりも優先し、間違いを犯しても頑固にその道を貫きました。その結果として、彼の王国は失われてしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分のプライドに支配されているリーダーでしょうか。それとも、神様の知恵に支配されているリーダーでしょうか。

ヤコブは次のように書いています。

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

ですから、神に従いなさい。。。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:6-7;10)

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サムエル記第一

共に信仰によって立つ

サウルの信仰は弱かったですが、その息子ヨナタンの信仰は非常に強かったです。ペリシテ人との戦いの際、ヨナタンはその信仰を行動で示しました。

サウルには何も伝えずに、ヨナタンはペリシテ人の前線の陣地へと向かいました。おそらく出発した時点では、ペリシテ人と戦う計画はなかったでしょう。けれども、到着すると戦う決意を固めたのです。

普通であれば、それは非常に無謀な考えに思えるかもしれませんが、ヨナタンの考え方には納得できるところがあります。

彼はこう言いました。

大人数によるのであっても、少人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。(サムエル記第一14:6)

ヨナタンに対する忠誠心なのか、自分自身の信仰なのか、またはその両方の組み合わせなのかは分かりませんが、その武器持ちの若者はこう答えました。

何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。(7節)

けれども、行く前に計画を立てました。主が彼らと共におられるならば、勝利を収めることができると信じていました。そのため、神様が彼らを助けてくださるかどうか確認したかったのです。

そこで、ヨナタンはこう言いました。

もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。

もし彼らが、『おれたちのところに上って来い』と言えば、われわれは上って行こう。主が彼らをわれわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」(9-10節)

ペリシテ人たちは彼らを見つけた時、こう言いました。

おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。(12)

だから、信仰をたっぷりと持って、ヨナタンとその武器持ちの若者は崖を上り、素晴らしい勝利を収めました。

この話から、二つのことを学ぶことができると思います。

一つ目は、勝利が不可能に思える状況でも、信仰によって立つならば、神様はあなたを通して素晴らしいことを成し遂げてくださるということです。

二つ目は、もしあなたが他の人々と一緒に信仰を持って立つならば、さらに大きな素晴らしいことを成し遂げることができるということです。

クリスチャンが一人で立つことは、神様の理想ではありません。神様は私たちが共に立つことを望んでおられます。

ある人はこう思うかもしれません。「私には教会は必要ない。私は一人で十分です。」

確かに、それは一理あるかもしれません。しかし、一人で働くことでは、他の人々と共に働くほど、神様の国のために多くのことを成し遂げることはできません。

だからこそ、問いかけるべき疑問は「私は一人で十分でしょうか」ではなく、「他の人々と共に信仰によって立つことで、神様の国のためにどれほどのことを成し遂げることができるのだろうか」ということです。

どうか決して忘れないでください。

信仰によって立つと、神様はあなたを通して素晴らしいことを成し遂げてくださいます。そして、他の人々と共に信仰によって立つならば、さらに大きな素晴らしいことを成し遂げることができるのです。

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サムエル記第一

神様を待ち望む心

私はサウルの気持ちがよく分かります。彼の軍隊は3000人の兵士から600人の兵士に減ってしまい、その敵が迫っており、さらにサムエルが遅れていました。

サウルとイスラエルのための祈りが必要でしたが、サムエルはまだ来ておらず、いつ来るのかサウルには分かりませんでした。

その厳しい状況の中で、サウルはパニックに陥り、全焼のいけにえを捧げてしまいました。けれども、一つ問題がありました。神様の命令により、サウルはその行為をしてはいけないとされていました。

どうしてサウルがそのようにしたのかは理解できます。正直なところ、私がその状況に置かれたらどうするかわかりません。もしかしたら、サウルのようにしてしまうかもしれません。

しかし、この話を通じて、サウルの根本的な問題が明らかになります。彼は心を尽くして神様を信頼することができませんでした。

そのため、困難な時に神様を待たず、神様の助けを求めず、サウルは自分の力と知恵に頼って行動しました。その結果、神様の命令に従わず、罪を犯してしまいました。

次のイスラエルの王であるダビデと比較すると、まったく違いました。ダビデは本当に神様の心にかなう人物でした。

ダビデは次のように書きました。

たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。 (詩篇27章3)

また、

ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったなら―

待ち望め、主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め、主を。(詩篇27:13-14)

ダビデにとって、それはただの良い言葉ではありませんでした。彼はその言葉を本当に信じ、そのように生きたのです。ダビデは完全な人ではありませんでした。ダビデは大きな失敗をしたことがありました。

とはいえ、サウルが彼を殺そうとした時にも、またダビデの息子アブサロムがダビデを殺そうとした時にも、ダビデはサウルの過ちを繰り返しませんでした。

ダビデはパニックに陥ることなく、自分の知恵や力に頼らず、忠実に正しいことを行い続けたのです。

では、なぜダビデはそのようにできたのでしょうか。それは、彼が神様を信頼したからです。神様が彼を救ってくださることを本当に信じていました。

だからこそ、神様は何度もダビデを救い出してくださったのです。

あなたはどうでしょうか。困難な時、あなたはどのように反応するでしょうか。パニックに陥るでしょうか。それとも、自分の力に頼って行動するでしょうか。

あるいは、ダビデのように、神様の道を歩み続けるでしょうか。神様に信頼し続け、神様の救いを待ち望むでしょうか。

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サムエル記第一

良いリーダーとは

サムエルは完全な人ではありませんでした。それでも、彼は良いリーダーでした。この箇所から、それがよくわかります。サムエルはどのようなリーダーだったのでしょうか。

1.彼は正直でした。

彼はイスラエルの民にこう言いました。

さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。

私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。

もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。 (サムエル記第一12:3)

けれども、イスラエルの民はサムエルの正直さを認めました。

すべてのアメリカ人が「正直な政治家」と聞けば、思わず笑ってしまうかもしれません。なぜなら、多くの人が政治家を信じておらず、すべての政治家は嘘をつくと思っているからです。

しかし、サムエルは本当に正直な士師でした。

2.人々が罪を犯すと、サムエルはすぐにそのことについて話しました。彼は恐れず、彼らに面と向かいました。

イスラエルの民が周りの国々のようになりたいと思い、王を求めました。けれども、実際には神様が彼らの王であるため、人間の王を求めることは、神様を王として拒絶することを意味しました。

サムエルはそのことをイスラエルの民に説明しました。サムエルは、「まあ、まあ、大丈夫です」とは言わず、正直に「あなたたちは悪かった。罪を犯しました」と言いました。

3.サムエルはイスラエルの民に神様に従うことを励まし、また戒めました。

サムエルは次のように言いました。

恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。(20節)

つまり、「あなたたちは失敗しました。あなたたちは罪を犯しました。それでも、がっかりしないでください。神様はあなたを諦めておられません。神様はあなたをまだ愛しておられます。

ですから、神様に従い続けてください。神様に仕え続けてください。」

クリスチャン・リーダーも、このように行動するべきです。誰かが罪を犯したなら、その人に正直に向き合うべきです。

しかし、悔い改めたならば、彼らがクリスチャンとして歩み続けるよう励ましを与えるべきです。また、過去を振り返るのをやめて、未来に焦点を当てるように励ますべきです。

4.良いリーダーは従う人々のために祈ります。

サムエルは次のように言いました。

私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。(23a)

サムエルは興味深いことを言いました。もし彼がイスラエルの民のために祈らなければ、神様の目にはそれが罪となります。

私たちが罪について考えるとき、多くの場合、ただ悪い行動について考えます。けれども、しなければならないことをしない場合、それもまた罪なのです。良いリーダーは従う人々のために祈ります。

5.良いリーダーは人々に神様の言葉を教えます。

サムエルは次のように言いました。

私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。(23b)

良いリーダーは神様の言葉をよく知り、従う人々にその言葉を教えることができる人です。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは誰を導いているでしょうか。教会の人々でしょうか。家族でしょうか。あなたの妻でしょうか。あなたの子供でしょうか。それとも、あなたの同僚でしょうか。

神様は、この五つのことをあなたに求めておられます。

あなたは良いリーダーでしょうか。

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サムエル記第一

私たちがしなければならないこと

サウルは最終的には失敗してしまいましたが、彼は良いスタートを切っていました。あるイスラエルの都市が攻撃された時、その知らせを聞いた人々はただ泣いていました。

サウルはその人々を見た時、彼は尋ねました。「なぜあなたたちは泣いているのですか。」

その理由を聞くと、彼は非常に怒りを覚えました。なぜでしょうか。おそらく、二つの理由がありました。

一つ目は、彼が愛していた人々が攻撃されたことです。

二つ目は、誰も何の行動も起こさなかったことです。

そこでサウルは責任を引き受け、人々を集め、その敵と戦い、神様の助けによって大きな勝利を収めました。

二年前、教会のリーダーズ・ミーティングに参加しました。その時、私たちは重大な問題について話しました。それは、何年経っても日本のクリスチャンの数がほとんど変わっていないという事実です。ずっと1%ほどのままです。

日本では、多くの人々がこの状況に涙を流しています。

しかし、泣くだけでは十分ではありません。私たちは何かをしなければなりません。

イスラエル人は、多くの兄弟たちが殺されたことについて涙を流しましたが、何かをしようとはしませんでした。

私たちはどれほど迷っている人々のために涙を流しているのでしょうか。それでも、何も行動を起こさないことがあるのではないでしょうか。

なぜ、周りの人々が死んで地獄に向かっているにもかかわらず、私たちは何もしないのでしょうか。

サウルのように、私たちは共に働き、この世界を変えましょう。この死にゆく世界を救うために、私たちがしなければならない事を果たしましょう。

私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:8)

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サムエル記第一

私たちの力はどこから来るか。

では、サウルの話を始めましょう。彼の背景を考えると、驚くべき話です。彼の部族は罪のためにほとんど一掃されてしまいました(士師記20-21章)。

その結果、その部族はイスラエルの中で最も小さい部族となりました。

サウルは自分自身を取るに足りない者だと考えていました。そのため、サムエルが神様のサウルのための計画を伝えたとき、サウルはこう答えました。

私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。

どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。(サムエル記第一9:21)

しかし、神様は、人々が取るに足りない者やつまらない存在だと考えることを全く気にされません。だからこそ、サムエルはこう言いました。

主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。

このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。(10:6-7)

あなたはどうですか。自分をつまらない存在だと思っていますか。あるいは、取るに足りない者だと思っていますか。神様があなたを用いることはできないと考えていますか。

もしあなたがクリスチャンであるならば、サウルのように、神様の霊があなたの上に激しく下ってくださるでしょう。そして、今、神様はあなたの中で力強く働いておられ、あなたを変え続けてくださっています。

あなたがしなければならないことは、神様と協力し、神様が示してくださった事を行うことです。そうすれば、神様はあなたと共にいてくださり、あなたを通して素晴らしいことを行ってくださるでしょう。

イエス様は弟子たちに次のように言われました。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

神様がご自身の働きを行われるためにサウルに力を与えてくださったように、また、イエス様の弟子たちに力を与えてくださったように、神様はあなたにも力を与えてくださいます。

私たちは自分の力で神様の働きをする必要はありません。私たちの力は神様から与えられます。

私たちは弱いですが、神様は強いです。そして、神様はこの世を変えるために私たちを用いてくださいます。

私たちがしなければならないことはたった一つです。それは、神様に「イエス」と答えることです。あなたはその答えをするでしょうか。

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サムエル記第一

誰の手本を模倣しようとしているでしょうか。

「皆持っているよ。」 「皆しているよ。」

子供たちは何か欲しいとき、または何かをしたいときに、こういった言葉を理由としてよく使います。

どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。(サムエル記第一8:5)

そして、サムエルは神様からの警告をイスラエルに告げました。それは、王を持つことで何が起こるかという警告でした。

それにもかかわらず、イスラエル人はこう言いました。

いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。

私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。 (19-20)

だから、神様は彼らに王を与えました。けれども、イスラエル人は後にその決断を後悔したかもしれません。

時々、彼らには良い王がいましたが、ほとんどの場合、悪い王がいました。たとえ良い王であっても(例えばダビデ)、その王が時々悪い行いをしてイスラエルを傷つけました。

彼らは他の国々の手本に従うのではなく、神様に従った方が良かったのです。彼らはそうしなかったため、大きな代価を払うことになりました。

あなたは誰の手本を模倣しようとしていますか。

周りの人々の手本を模倣していますか。タレントや有名人の手本を模倣していますか。あなたの隣人や友達の手本を模倣していますか。それとも、あなたは神様に従っていますか。

ロールモデルを持つことは悪いことなのでしょうか。そうではありません。誰もがロールモデルを必要とします。しかし、二つのことに気をつけなければなりません。

一つ目は、私たちのロールモデルが神様に従っていることであるということです。

私たちのロールモデルはイエス様の手本を模倣しているでしょうか。もし彼らがそうしていないなら、私たちは彼らの過ちを模倣してしまうかもしれません。

二つ目のポイントは、どんなに素晴らしいロールモデルでも、その人が完全ではないということです。彼らも失敗しますし、悪いことをすることもあります。

だからこそ、私たちは彼らの人生の中で何を模倣するかを慎重に選ばなければなりません。

パウロはそのことを理解していたので、このように書きました。

私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。(第一コリント11:1)

つまり、「私が神様に従う限り、私の手本を模倣しなさい。」

私たちは誰の人生を模倣していますか。イスラエル人は周りの国々を模倣していました。けれども、その国々が神様に従っていなかったために、イスラエル人は罪に落ちて、ついには亡命することになりました。

私たちも気をつけなければなりません。他の人々の手本に従うことで、罪に陥るかもしれませんし、神様から遠ざかることになるかもしれません。

だからこそ、私たちを愛してくださる神様に従うべきではないでしょうか。パウロはこのように書きました。

ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。

また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ5:1-2)

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サムエル記第一

神様の前に誰が立つことができるでしょうか

主の箱がイスラエルに戻されたとき、彼らは喜びに溢れ、主にいけにえを捧げました。

ところが、その喜びの中には悲しみもありました。なぜなら、70人の人々が主の箱の中を覗き見たことで、神様が彼らを打たれたからです。

なぜ神様はそのようにされたのでしょうか。それは、彼らが聖なるものを普通の物のように扱ったからです。

実際、この行動は彼らの態度を映し出していました。イスラエル人は長い間、聖なる神様を普通の存在のように扱ってきたのです。

その日、イスラエル人は叫びました。

だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。(サムエル記第一6:20)

実際のところ、彼らの中には神様の前に立つことができる者は一人もいませんでした。

なぜでしょうか。それは彼らが自分の目に正しいと思うことだけを行っていたからです。そのため、サムエルは彼らに語りました。

もし、あなたがたが心を尽くして主に帰り、あなたがたの間から外国の神々やアシュタロテを取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるなら、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出されます。(7:3)

つまり、「あなたはやっと真剣に神様に従うでしょうか。では、自分の道を歩むのをもうやめなさい。偽りの神々に従うことをやめ、神様に心から従いなさい。」

その日、彼らがついに悔い改めたので、神様は彼らをペリシテ人の手から救い出し始めました。

ダビデは次のように書きました。

だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。

手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。

その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。

これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。(詩篇24:3-6)

その日、イスラエル人は重要な教訓を学びました。

口先だけで神様に仕えることでは不十分です。いけにえを捧げることも完全ではありません。宗教的な行動もまた不十分です。

もし神様の前に立ちたいのであれば、全く新しい心が必要です。清い心が必要です。そして、神様だけに自分自身を捧げる心が必要なのです。

さらに、正しいことを行うための清い手が必要です。私たちの物理的な人生と霊的な人生を切り離すことはできません。それらは互いに影響を与え合うからです。

しかし、清い手と清い心があるならば、私たちは神様からの祝福を受けることができます。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は清いでしょうか。心のすべてを神様に捧げていますか。あなたの罪は清められているでしょうか。

実際、私たちは皆、罪と戦っています。誰も完全に清いわけではありません。ローマ3:10に、こう書かれています。

義人はいない。ひとりもいない。

この理由により、イエス様はこの世に来られました。そして、十字架で死ぬことによって、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

ただイエス様の流された血によって、私たちは神様の前に清められることができました。また、イエス様の血によって、私たちは大胆に神様の前に立つことができるのです。

けれども、私たちは真剣に神様との関係を考えなければなりません。悔い改めるべきです。そして、イエス様を私たちの主とする必要があります。

そうするなら、私たちは神様の前に立つことができます。しかし、もしそうしなければ、私たちは決して神様の前に立つことはできないのです。

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サムエル記第一

すべてのひざがかがめる

これは少し可笑しい話ですが、ペリシテ人にとってはまったく可笑しくありませんでした。彼らは主の箱を奪った後、自分たちの神であるダゴンの宮に持ち込み、その偶像の隣に置きました。

翌日、ダゴンは主の箱の前で地にうつ伏せになって倒れていました。彼らはダゴンを元の場所に戻しましたが、次の日、もう一度ダゴンは倒れていました。そして、ダゴンの頭と腕は切り離されてしまったのです。

さらに、すべてのペリシテ人は腫物に打たれ、恐怖に襲われました。

彼らはその主の箱を別の都市に移しましたが、どこに運んでも腫物と死が続きました。

最終的に、リーダーたちは祭司や占い師と相談しました。祭司たちはこう答えました。

「パロのようにならないでください。頑固になってはいけません。その箱をイスラエル人に戻しましょう。そうしなければ、私たちはエジプト人のように滅ぼされます。」

この話のポイントは何でしょうか?その答えはイザヤ書に記されています。神様はこう言われました。

わたしが自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い(ます)。(イザヤ書45:3)

新約聖書には、パウロはその言葉をイエス様に適用しました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)

いつか、すべての人々は神様の前に跪きます。そして、すべての人々が「あなたは神様です」と認めるでしょう。しかし、その日、あなたの心と態度はどうでしょうか。

あなたは、私たちを贖った救い主を愛を持って仰ぐでしょうか。それとも、手を握りしめ、歯を食いしばりながら「イエス・キリストは主です」と認めることになるでしょうか。

私はあなたを怖がらせるつもりはありません。神様はすべての人々を救いたいと望んでおられます。神様はあなたが神様を知り、神様と親しい関係を築くことを望んでおられます。そして、あなたが愛によって神様に従うことを願っています。

ただし、神様はあなたに従うことを強制されません。もしあなたが従うことを望まないなら、その決断を一時的に許されるでしょう。

しかし、従いたいと思っても、従いたくないと思っても、いつか、あなたは神様の前に跪いて「イエス様は主です」と認める日が来ます。

その日、あなたの心と態度はどうでしょうか。

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サムエル記第一

外見は敬虔であっても

イスラエル人を見ると、彼らの一番の問題は、外見は敬虔な人のようであったけれど、彼らの心は神様のものでなかったことです。

この箇所では、イスラエル人がペリシテ人と戦いましたが、敗北しました。落胆した彼らは、こう問いかけました。

なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。(サムエル記第一4:3)

本当の問題は、彼らが心から神様に従わなかったことです。ただ、自分の目に正しいと思うことを行っていました。士師記でこのように書かれています。

自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師記21:25)

だから、彼らは次の戦いに、主の契約の箱を持って来ました。彼らは多分こう考えたのでしょう。

「ほら、神様。私たちはあなたを連れて行きます。だから、勝利を与えてくださるでしょう?」

けれども、神様を「連れて来てあげても」、彼らは心から神様に従っていませんでした。彼らは敬虔な人のように見えましたが、実際はそうではありませんでした。

彼らは主の契約の箱をただのお守りのように扱い、神様の戒めも守りませんでした。

つまり、一年に一度だけ、大祭司が至聖所(主の契約の箱がある場所)に入ることを許されていました。その時、大祭司はイスラエル人の罪の贖いのために犠牲となった動物の血を神様に捧げました。

しかし、神様がイスラエル人に勝利を与えるために、その大祭司の息子たちは至聖所に入って主の契約の箱を取り、それを戦いに持って行きました。

結果はどうだったでしょうか?再びペリシテ人に打ち負かされ、その契約の箱も奪われてしまいました。

エリはその知らせを聞いたとき、自分の席から落ちて死にました。

エリの息子ピネハスの妊娠していた妻は、夫と義父が死に、さらに神の箱が奪われたことを聞いて陣痛が始まりました。

彼女は子どもを産んだ後、すぐに亡くなりました。けれども、その前に彼女は息子を「イ・カボデ」と名づけました。その名前の意味は「栄光がない」、または、「栄光はどこか」ということです。

彼女は言いました。

栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから。(サムエル記第一4:22)

しかし、神様はイスラエルを決してお捨てになりませんでした。それに対して、イスラエルは神様を捨てていました。

外見は敬虔に見えたとしても、彼らの心は神様のものでありませんでした。

パウロはそのような人々についてテモテに書いています。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。

そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。

こういう人々を避けなさい。(第二テモテ3:1ー5)

イスラエル人は、そのような人々でした。それは士師記においてよく描かれています。

残念なことですが、今日でも多くのクリスチャンが、そのような人々と同じです。日曜日には本当に敬虔な人に見えるかもしれませんが、他の日には全く敬虔な人生を歩んでいないのです。

その結果、彼らはいつも打ち負かされたような人生を送りながらも、その理由を理解していません。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は本当に神様のものでしょうか。それとも、自分の目に正しいと思うことをして、自分自身のために生きているのでしょうか。

あなたは他の人々を騙すことはできるかもしれませんし、自分自身を騙すこともできるかもしれません。けれども、神様を騙すことは決してできません。そして、神様を操ることもできません。

イスラエル人は神の箱を持ち出してそれを試みましたが、失敗しました。同様に、あなたも自分の敬虔な行動をもって神様を操ることはできません。

あなたはただ敬虔なふりをしているのでしょうか。それとも、あなたの心は本当に神様のものでしょうか。

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サムエル記第一

神様から聞く

私は神様の声をよく聞くし、はっきりと聞くと言いたいですが、言うことができません。多くの場合、私は昔のイスラエル人のように感じます。つまり、

そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。(サムエル記第一3:1)

私は幻を見たことがありません。時々、神様からの夢を見たのではないかと思うことがありますが、確信が持てません。

確信を持って、神様が私に話してくださったことがあると言えますが、そのような経験をもっと欲しいと思います。

時々、私は「神様がサムエルと話してくださったように、私とも話してくださればよいのに」と思います。けれども、もし神様が私に話してくださるなら、私はそれをちゃんと聞くでしょうか。

サムエルの時代、多分神様はイスラエル人に語りかけたいと思われましたが、誰も聞きたがらなかったのかもしれません。それとも、彼らは無関心だったのでしょうか。

多くの場合、彼らはすでに命じられたことに従わなかったので、そのような人々には神様は多くを語られませんでした。

私はどうでしょうか。私は無関心なのでしょうか。神様がすでに言われたことに従わないのでしょうか。

私はサムエルのようになりたいです。神様がサムエルを呼ばれたとき、サムエルは応えました。

お話ください。しもべは聞いております (10)。

私が神様から聞いたなら、そのメッセージが相手にとって聞きづらいものであっても、サムエルのように忠実に伝えたいと思います。

サムエルのように、神様の言葉を聞いて、周囲の人々に伝える際に、その言葉が地に落ちることがないようにと祈ります。

サムエルが神様の言葉を伝えたとき、その言葉は決してむなしくなることがありませんでした。神様がサムエルに「これとこれが起こる」と言われたとき、いつもその通りに起こりました。

そのように、神様の言葉が私の人生においてむなしいものにならないように祈ります。神様の言葉が力をもって私の人生に入り、それによって私だけでなく、周囲の人々をも変えることを願います。

しかし、それを期待するならば、私は無関心な態度を捨てなくてはなりません。

サムエルのように、私は神様を求めるべきです。神様が辛いことを言われても、私は聞く耳を持たなくてはなりません。神様の言葉に従いたくなくても、神様が語られることに従うべきです。

そうしなければ、イスラエルのようになり、神様の声をめったに聞かなくなります。

神様、私があなたの声を聞くことを教えてください。

私は何度も、自分の心をあなたの声に対して硬くしてしまいました。私はしばしば自分の耳をあなたの声に対して閉じてしまいました。私はよく無関心で、あなたを心から求めませんでした。

どうかお赦しください。私を変えてください。

私の心の中に、あなたの言葉が地に落ちないようにしてください。むしろ、私を変えてくださり、私を通して私の周りの世界を変えてください。アーメン。

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サムエル記第一

神様を敬うこと、神様をさげすむこと

これは二つのタイプの人々についての話です。二人は神様を敬いました(ハンナとサムエル)。三人は神様を侮りました(エリとその息子たち)。

この箇所の初めで、ハンナは神様をその御業のために賛美しました。その歌の中で、ハンナは神様が謙遜な人々を助け、神様に従う人々を支えてくださることについて歌いました。そして、ハンナはこう歌いました。

主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。(サムエル記第一2:2)

けれども、ハンナはこれも歌いました。

高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。(3)

エリの息子たちは本当に高慢でした。彼らは神様から盗むような行為をしていました。つまり、いけにえを捧げる際に、本来脂肪を神様に捧げなければならないにもかかわらず、人々がそれをしようとした時に彼らを脅したのです。

それだけではなく、彼らは天幕で働いている女たちと関係を持ち、自分自身をもその女たちをも汚しました。

彼らは、神様がその行動を知らないと思っていたのかもしれません。

しかし、彼らはおそらく神様を全く気にしていませんでした。彼らは神様を聖なる方として認めず、敬意を払おうとしませんでした。

それにもかかわらず、神様は彼らのすべての行動を知っておられ、それを正しく計り、彼らを裁かれました。

エリの問題は、彼がその息子たちを神様より重んじていたことです。エリは息子たちの行動をよく知っていましたが、弱いしつけしか行わず、彼らの行動を止めませんでした。

なぜ彼がそうしたのか、私には分かりません。エリは息子たちの祭司としての立場を取り上げるべきでした。けれども、エリがそれをしなかったため、神様はエリ自身も裁かれました。

一方で、サムエルは神様を敬い、神様と周囲の人々から称賛を受けました。26節にはこのように記されています。

一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。

私たちはこの話から何を学べるでしょうか。

神様は聖なる方であり、正しい方です。もし私たちがそれを認めず、神様について考えずに、自分の欲望のままに生きるならば、私たちは神様を侮ることになります。

神様はそのような生き方を永遠に認めることはありません。神様は必ずそれを裁かれます。

しかし、もし私たちが神様を敬うならば、神様も私たちを尊んでくださいます。ある預言者がエリにこのように言いました。

わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。(30)

あなたはどうですか。あなたの言葉だけでなく、あなたの行動によって神様を敬うでしょうか。神様の言葉を聞き、それに従うでしょうか。

それとも、あなたは神様が何も知らないかのように生きるでしょうか。

あなたは他の人や物を神様よりも重んじるでしょうか。

神様はあなたの態度と行動を見て、正しく計り、いつか裁かれます。

神様はあなたをご覧になるとき、何をご覧になるでしょうか。神様を敬う方をご覧になるでしょうか。それとも、神様を侮る方をご覧になるでしょうか。

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サムエル記第一

私たちを聞いてくださる神

聖書では、名前は本当に大事です。

神様はアブラムを「アブラハム」と名づけられました。なぜなら、「アブラハム」というのは「多くの人々の父」という意味であり、アブラハムが本当に大きな国の父となったからです。

神様はヤコブを「イスラエル」と名づけられました。「イスラエル」という名前には二つの意味があります。「神様と戦う」と「神様と共にいる王子」という意味です。

この新しい名前は、ヤコブの神様との関係がどのように変わったかを反映しています。ヤコブはまず神様と戦いましたが、最終的に神様が彼を祝福し、高めてくださったため、今では皆がヤコブを尊敬しています。

この箇所では、ある男の子が「サムエル」と名づけられました。「サムエル」という名前は「神様が聞いた」という意味です。

ハンナという女性は子供がいなくて、本当に惨めな思いをしていました。その時代、子供がいないことは恥ずべきこととされていました。

私は詳細は分かりませんが、多分そのためにハンナの夫には二人の妻がいたのかもしれません。その夫は、まだハンナを本当に愛していましたが、もう一人の妻が常にハンナをからかい、彼女の恥を思い起こさせていました。

そこで、ある日、ハンナは主の宮に行き、神様の前で泣きながら祈り、誓いを立てました。

万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますならば、私はその子の一生を主におささげします。(サムエル記第一1:11)

神様はその祈りを聞き、息子を与えられました。その息子を通して、神様はハンナの恥を取り除き、言葉では表せない喜びを与えてくださいました。

とはいえ、ちょっと考えてみてください。おそらく、ずっと前からハンナとその夫は息子のために祈っていたかもしれません。神様はその祈りを聞いていたけれど、ご自身の目的のために「イエス」とは言われなかったのです。

時々、私たちは祈りながら、神様が本当に私たちの祈りを聞いてくださっているのかどうか疑問を持ちます。

私たちは、神様が私たちに夫や妻を与えてくださるように祈ります。新しい仕事のために祈ります。癒しのためにも祈ります。

それでも、何も起こらない時があります。そうなると、私たちはこう尋ねるかもしれません。「神様は本当に聞いておられるのだろうか。私を本当に愛しておられるのだろうか」と。

もちろん、神様は私たちの祈りを聞き、私たちを愛しておられます。神様は私たちの涙のすべてをご覧になり、呻きのすべてを聞いておられます。

しかし、時々、神様は「待ちなさい」と言われることがあります。そして、もっと辛いかもしれませんが、時には神様は「ノー」と言われることもあります。

けれども、私たちが自分自身に問いかけなくてはならないのは、「神様がどのように応えられても、私は信頼し続けるだろうか。」ということです。

ある友だちはずっと子供のために祈っていますが、妊娠できない状況にあります。なぜそうなのか分かりません。おそらく、それを考えること自体が本当に苦しいでしょう。それでも、その友達は神様に信頼し続け、神様の慈しみを信じています。

彼女がいつか子供を授かるかどうか、私には分かりません。神様が「待ちなさい」と言われているのかもしれませんし、神様が「ノー」と言われているのかもしれません。

けれども、私が知っているのは、神様がその友だちの祈りを聞いておられることです。

そして、神様は彼女を本当に愛しておられます。また、神様は彼女のために良い計画を持ち、祝福してくださることです。なぜなら、どのような状況が起こっても、彼女が神様に従う決意を固めているからです。

神様、あなたが私たちの祈りをいつも聞いてくださることを感謝します。そして、あなたが私たちを決して無視されないことにも感謝します。

時にはあなたのために待つことは辛いです。また、あなたの「ノー」という答えも、本当に辛いことです。

それでも、私があなたに信頼し続けることができるように助けてください。私があなたに従い続けることができるように助けてください。

そして、あなたが私を愛し、良い計画を持っておられることを信じる信仰を与えてください。アーメン。