主のことばがサムエルに臨んだ。「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。」(サムエル記第一15:10ー11)
「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」(29節)
主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。(35節)
今日、私は上の言葉を反芻しました。
「悔やむ」という言葉は、「気が変わる」と訳すことができます。
神様は悔やむことがないのに、どうして著者は、神様がサウルのことを悔やんだと言うのでしょうか。
また、神様は気が変わることがあるでしょうか。神様は気まぐれな方でしょうか。
たぶん、鍵は29節にあります。
「主は人間ではないので、悔やむことがない。」
別訳では、「主は人間ではないので、気が変わりません。」
ある意味、私たちは神様が悔やむ、あるいは神様の気が変わると言えるかもしれませんが、神様は人間のようにそうするのではありません。
人間の知識には限界があります。そのため、私たちは多くのミスをしてしまいます。また、出来心で愚かな決断をしてしまう時もあります。さらに、私たちは気まぐれで、急に気が変わることもあります。
でも、神様はそのような方ではありません。
神様はすべてのことをご存知です。過去のこと、現在のこと、未来のことの全部を知っておられます。だから、神様はサウルが何をするかをご存知でした。
サウルが罪を犯した時、神様は「私は失敗した。サウルがそのような王になるとは知らなかった」とは言われませんでした。
また、神様は「私は愚かだった。サウルの性格をよく知っていたのに、どうして彼を選んだのだろうか」とは言われませんでした。
むしろ、神様は何が起こるかをよく知っておられました。さらに、神様のなさることにはすべて目的があります。
それでも、神様は感情を持っておられます。神様はサウルが何をするのかをよく知っておられましたが、サウルが実際に罪を犯した時、神様は悲しまれました。
いったいどうして、神様はサウルを選ばれたのでしょうか。
私にはわかりません。
もしかしたら、イスラエル人たちは神様のタイミングを待たずに、「今、王が欲しいです」と言ったからかもしれません。
彼らがもう少し待っていたら、神様の心にかなうダビデを彼らに与えてくださったでしょう。
もしかしたら、イスラエル人たちは、「ほかのすべての国民のよう」な王がどんな人であるかを学ばなくてはならなかったからかもしれません。
神様は彼らに、なぜその要望が悪いのかを教えなくてはなりませんでした。
とにかく、神様がサウルを選ばれた理由があり、その理由は良いものでした。でも、サウルの罪と反抗的な態度を見た時、神様は悲しまれました。神様は「悔やみました」。
それは、神様が失敗したからでも、急に悪い決断をしたことに気づいたからでもありませんでした。むしろ、神様は「こうあらねばならないが、辛い」と言われたのです。
「神様は人間のように気が変わるというわけではありません。」
それは心強い言葉です。
神様は気まぐれな方ではありません。神様の性格は首尾一貫しています。
例えば、神様は罪を裁かれますが、悔い改める罪人には憐れみを喜んで与えてくださいます。(エゼキエル33:10ー16)
聖書には、そのような話が何度も記されています。(列王記第一21:17ー28;列王記第二22:15ー20;歴代誌第二12:5ー8;33:1ー13;ヨナ3章)
また、その憐れみによって、自分の民が他の人のためにとりなすと、神様は裁きをよく先延ばしにしてくださいます。(出エジプト記32:9ー14)
しかし、神様は正義の方なので、最終的にはこう言われます。「もう時間です。この人々が悔い改めようとしないから、私は裁きます。」(エレミヤ7:16;11:14;14:11)
残念なことですが、今日の話では、サウルは心から悔い改めませんでした。むしろ、彼は言い訳をしました。
彼は最後には悔い改めましたが、それは自分の罪を悲しんだからではなく、自分の王位を失うことを恐れたからです。
だから、神様はサウルを裁かれ、イスラエルの王位から退けられました。
では、要約すると、
1.神様の性格は首尾一貫しています。神様は忍耐深く、憐れみ深い方なので、悔い改める人を赦し、改める時間を与えてくださいます。けれども、神様は正義の方なので、最終的には悔い改めようとしない罪人を裁かれます。
2.神様は何をなさっても、良い理由があります。神様は驚かれることがありません。それでも、罪を見ると神様はいつも悲しまれます。そういう意味で、神様は「悔やみます」。
しかし、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます」(ローマ8:28)。