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サムエル記第一のデボーション

忘れないで

ヤベシュ・ギルアデの住民は、ペリシテ人がサウルに行った仕打ちを聞いた。

そこで勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行き、サウルの死体と息子たちの死体をベテ・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに帰って来て、そこでそれらを焼いた。 (サムエル記第一31:11~12)

ヤベシュ・ギルアデの住民であることを忘れるのは容易なことでしょう。なぜ彼らはそのような行動を行ったのでしょうか。

それは、サウルが彼らの都市を救ってくれたからです。(サムエル記第一11章)

彼らはそれを決して忘れることはありませんでした。

同じように、私はイエス様が十字架でしてくださったことを決して忘れたくありません。むしろ、いつも感謝の心を保ち、イエス様に仕えたいと願っています。

今朝、たまたま、詩篇86篇も読みましたが、ヤベシュ・ギルアデの住民の話のゆえに、ダビデの言葉は私の心に深く響いたのです。

わが神主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し
とこしえまでもあなたの御名をあがめます。

あなたの恵みは私の上に大きく
あなたが私のたましいを
よみの深みから救い出してくださるからです。(詩篇86:12~13)

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サムエル記第一のデボーション

弱虫ではなく、勇士

しかし、ダビデは自分の神、【主】によって奮い立った。(サムエル記第一30:6)

ダビデの行動を考えるとき、私はパウロの言葉を思い起こしました。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ人への手紙6:10)

苦しむとき、私は弱虫ではなく、勇士でありたいです。

私は「かわいそうパーティー」を開きたくありません。

また、苦々しい思いやフラストレーションや怒りに支配されたくありません。

正直に言うと、時には私はそのように反応してしまいます。

私はそれをもうしたくないのです。

ダビデのように、私は神の大能の力によって強められ、神の武具を身に付け、敵であるサタンに立ち向かおうとします。

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サムエル記第一のデボーション

敬うべき神

サウルは言った。「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。。。」

サムエルは言った。。。「あなたが【主】の御声に聞き従わ(なかったからだ。」(サムエル記第一28:15、18)

天のお父さん、あなたは私の願いをかなえる単なるジーニーではありません。

あなたは私に操られる神ではありません。

あなたは敬い、従うべき神なのです。

サウルはその真理を決して学びませんでした。 むしろ、彼は自分の耳、さらに心をあなたに閉じてしまったのです。

だから最終的に、あなたは彼に語られなくなったのです。

どうか、私がそのようにならないように。 私がいつも柔らかい心と、あなたに傾いている耳を保つことができるようにしてください。

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怒りに流されて

あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。。。

主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、

理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。(サムエル記第一25:28、30~31)

アビガイルの言葉は私の心を打ちました。

ある英訳では、「あなたのうちには、一生の間、悪が見出されないように」とあります。

それが私の願いです。

私は自分の誤った選択によって、後悔や痛む良心を抱えて苦しみたくありません。

しかし、私の感情、特に怒りに流されるとき、それは起こりがちです。

ダビデもまた、その怒りによって危うく流されてしまうところでした。

私はもちろん人を殺すほど怒ったことはありませんが、愚かなことを言ったり、行ったりした経験は思い出すことができます。

私はそのようなことをもうしたくありません。

天のお父さん、どうか私の心を守ってください。特に怒りから守ってください。

怒りに流されるのは容易ですが、それは私にあなたの望まれる人生をもたらすものではありません。

どうか私のうちに、一生の間、悪が見出されないようにしてください。むしろ、この口と心にあるものがあなたの御目にかないますように。私の主よ、私の岩、私のあがない主、私の良い神よ。

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サムエル記第一のデボーション

些細なこと?

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記24:5)

サウルの上着の裾を切り取ったことで、ダビデの心がどれほど痛んだかに私は驚きました。

その代わりに、ダビデはサウルを殺すこともできたのです。それと比べると、ダビデがしたことは些細な罪ではないでしょうか。

それでも、その「些細な罪」でさえ、ダビデの心を痛めました。

それを読んで、私は自問しました。

「些細な罪のために自分の良心が痛むとき、私はダビデと同じように反応するだろうか。」

私には、些細な罪のために言い訳をするのは容易なことです。

しかし、神様の心にかなう人とは、大きなことだけではなく、小さなことにおいても神様を喜ばせることを意味します。

私の人生の隅々まですべてを神様の支配下に置き、神様に捧げていないものは何一つあってはなりません。

それが、私の祈りです。

主よ、私の人生にあなたの御国が来ますように。御心が天で行われるように、私の人生の隅々までにも行われますように。

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希望の灯台

そして、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。約四百人の者が彼とともにいるようになった。(サムエル記第一22:2)

今日、なぜ人々がダビデのもとに集まっていたのかを思い巡らしました。

実際、ダビデは彼ら以上に大きな問題を抱えていました。彼らにとって、ダビデと共にいることは、自分たちで暮らすよりも危険だったでしょう。

しかし、なぜかダビデは彼らに希望を湧かせました。

ダビデは確かに完全な指導者ではありませんでした。彼の嘘によって、85人の祭司とその家族がサウルに殺されました。

それでも、人々は自分たちにない希望と信仰をダビデに見ました。それによって、自分たちの内にも希望と信仰が湧いてきました。

私はそのような人になりたいと願っています。私の妻、娘、同僚、友人、そして周囲の人々すべてに希望と信仰を湧かせたいと願っています。

正直に言うと、今週、それほどよくできなかったと思います。 それでも、それが私の願いです。

天のお父さん、私が希望の灯台となるように。私を通して周囲の人々があなたに引き寄せられるように。

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サムエル記第一のデボーション

愛するものからの傷

サムエル記第一19〜20章を読んだとき、私はサウルがどのように感じたかを思い巡らしていました。

おそらく、サウルは自分の子供たちに裏切られたと感じたでしょう。なぜなら、彼らはサウルの見方ではなく、ダビデの見方だったからです。そのことによって、サウルは深く傷ついたのです。

しかし、悪かったのは彼らではなく、サウル自身でした。

ヨナタンの言葉はサウルの心を刺しましたが、もしその言葉に耳を傾けていたなら、サウルは癒しを知ることができたでしょう。でも、残念ながら、彼は破滅に至る道を歩み続けました。

私はサウルほどではないと思っていますが、頑なになることがあります。それでも、そのような態度を避けたいのです。

むしろ、忠実な友人の言葉に心を開いたままでいたいと願います。たとえその言葉が痛くても、受け入れたいのです。(箴言27:5〜6)

特に、イエス様の言葉に心を開き続けたいです。なぜなら、イエス様は私のもっとも忠実な友だからです。

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サムエル記第一のデボーション

やめよ。知れ。わたしこそ神。

サムエル記第一19章を読んだとき、私は詩篇第46篇との関係に気付きました。

サウルから逃げたとき、ダビデは詩篇46篇の詩人の言葉の真実さを、身をもって学びました。

神はわれらの避け所また力。
苦しむときそこにある強き助け。(詩篇46:1)

その一方で、神様はサウルに何を思い知らせようとされたのでしょうか。もしかすると、神様はこう語ろうとされたのかもしれません。

[わたしと戦うことを]やめよ。知れ。
わたしこそ神。

わたしは国々の間であがめられ
地の上であがめられる。(詩篇46:10)

その日、神様はサウルを低くされました。それでも、サウルは神様と戦い続けていました。

もしサウルがその戦いをやめていたなら、神様の平和を知っていたでしょう。神様がまことに私たちの避け所また力であることを、彼も知るようになっていたでしょう。

けれでも、彼は、神様と戦い続け、恐れに囚われたまま生きていました。そのため、彼は酷い罪を犯し、最終的に滅びてしまったのです。

サウルの話を読んだとき、私はヤコブの話を思い出しました。ヤコブも、神様と戦ったことがありました。(創世記32:24~31)

しかし、サウルとは異なり、ヤコブはその戦いをやめ、神様に従おうとしました。その結果、彼は平安を見出しました。

あなたはどうですか。あなたはまだ神様と戦い、自分の道を歩んでいるでしょうか。

それとも、神様を見上げて、こう言いますか。「あなたは私の神です。私の良い王です。あなたを信頼します。」

そうすれば、あなたはダビデと詩人とともに学びます。

万軍の【主】はわれらとともにおられる。
ヤコブの神はわれらの砦である。(詩篇46:11)

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サムエル記第一のデボーション

信仰を周囲の人に注射する

すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。

ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、【主】が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは【主】の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(サムエル記第一17:46~47)

ダビデの言葉は私の心を打ちました。

彼の願いは、すべての国々が、ダビデが仕えた神を知ることでした。つまり、神様がダビデを通して行われるみわざを見るとき、彼らが神様のすばらしさを見ることができるようにと願っていたのです。

同時に、ダビデはイスラエルの民にも信仰を注射したいと願っていました。ゴリアテとペリシテ人の軍勢に直面したとき、彼らは勇気を失っていました。だからこそ、ダビデはその信仰を回復させたいと願ったのです。

私も、同じことをしたいと願います。つまり、神様を知らない周囲の人々が、私の中にある神のみわざを見て、神様が存在しておられることを知るようになることです。

彼らが神様のすばらしさと力強さ、そして良さを知り、神様を知りたいと願うようになることを祈ります。

それだけではなく、私は周囲のクリスチャンたちにも信仰を注射したいと願っています。彼らが絶望するとき、私の中にある神の働きを見て、「確かに、神様はここにおられる。希望がある。」と実感するように祈ります。

天のお父さん、私が周囲の人々に信仰と希望を注射するように導いてください。

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むなしい礼拝、真の礼拝

「どうか今、私の罪を見逃してください。そして、私が【主】を礼拝することができるように、一緒に帰ってください。」

サムエルはサウルに言った。「私はあなたと一緒に帰りません。あなたは【主】のことばを退け、【主】があなたをイスラエルの王位から退けられたからです。」(サムエル記第一15:25~26)

「どうか一緒に帰ってください。私はあなたの神、【主】を礼拝します。」

サムエルはサウルについて帰り、サウルは【主】を礼拝した。(サムエル記第一15:30~31)

天のお父さん、サウルはあなたを礼拝しようとする態度を示しましたが、礼拝の本質をまったく理解していませんでした。

真の礼拝とは、あなたが私たちの心を持っておられることです。それは心の一部ではなく、心のすべてをあなたに捧げることです。

ダビデはそのことをよく理解していました。

まことに私が供えても
あなたはいけにえを喜ばれず
全焼のささげ物を望まれません。

神へのいけにえは砕かれた霊。
打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:16~17)

しかし、サウルは、その真理を決して理解することがありませんでした。

あなたがサウルの心を持っておられなかったため、彼の礼拝はむなしいものでした。

主よ、あなたは私の心を持っておられるでしょうか。

私の心のすべてを支配してください。

私の礼拝が、サウルの礼拝のようにむなしいものにならないように。

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自分が良いと思う通りに生きる?

すると兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」(サムエル記第一14:36)

そのことばを読んだとき、昨日の説教を思い出しました。

私の牧師は、すべてのことを神様の支配下に置くことの大切さを語っていました。つまり、好き勝手に行動するのではなく、神様を求め、御心に従うことです。

サウルはそうしなかったため、最終的に彼の統治は崩れてしまいました。

しかし、自分が良いと思う通りに行動してしまうのは自然なことです。好き勝手に時間やお金を費やすのは簡単ですし、自分の目に良く見えることをすぐに選んでしまいます。

けれども、それは神様の支配下に生きている姿ではありません。

だからこそ、神様は私にこう語っておられると思います。「決断するときに、わたしのこころをもっと求めなさい。」

特に、経済のことをもっと考えなければなりません。献金だけでなく、私の経済全体を神様の支配下に置くべきです。自分が良いと思う通りにお金を使うのではなく、神様の御心に従って用いるべきです。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

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本当に、良しとされるのですか?

主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。(サムエル記第一12:22)

天のお父さん、どうして私が不実で、大失敗し、あなたを裏切るにもかかわらず、あなたは私を捨て去られないのでしょうか。

それどころか、あなたは私をご自身の者、ご自身の子とすることを良しとされるのです。

それは本当に驚くべきことです。あなたはそれを良しとされるとは、なんと不思議なことでしょう。

だからこそ、お父さん、私があなたを恐れ、心を尽くして、誠実に仕えるように導いてください。

あなたがどれほど大いなることをしてくださったかを心に留めておくように助けてください。特に、私がイエス様の十字架の働きを決して当たり前のものだと思わないようにしてください。

私へのあなたのすばらしい恵みといつくしみに、心から感謝します。

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御霊を消してしまうのか?

サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。

彼らがそこからギブアに行くと、見よ、預言者の一団が彼の方にやって来た。すると、神の霊が彼の上に激しく下り、彼も彼らの間で預言した。(サムエル記第一10:9~10)

御霊はサウルのために素晴らしいことをしてくださいました。

でも、私の心に打たれたのは、サウルの反応です。彼は御霊を消してしまいました。(テサロニケ人への手紙5:19)

彼は文字通り、家に帰って隠れました。

なぜでしょうか。

もしかすると、預言者との霊的な経験によって、サウルは恐れを感じたのかもしれません。

あるいは、周囲の人々が彼をあざ笑ったとき、彼は恥じ入ったのかもしれません。

いずれにせよ、その結果として、サウルは自分の人生における御霊の働きを消してしまいました。

私はそうしたくありません。

むしろ、ペテロと他の使徒たちの模範に倣いたいです。使徒の働き第2章では、御霊は彼らの上に激しく下り、満たしてくださいました。

しかし、サウルとは異なり、使徒たちは大胆に神様のために生き、その導きに従いました。

聖霊様、私はあなたを消してしまうことがあるでしょうか。

あなたが私の心を動かしてくださるとき、それを無視しないように導いてください。むしろ、私の心にあなたが付けてくださった火花を炎に燃え立たせるように、勇気と願いを与えてください。

そして、私が毎日毎日、一瞬一瞬、あなたの導きに従うことができますように。

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だれに希望を寄せる?

全イスラエルの思いは、だれに向けられているのでしょう。あなたと、あなたの父の全家にではありませんか。(サムエル記第一9:20)

今朝、私はそのことばを思いめぐらせました。

イスラエルの民は、不完全な王、不完全な救い主に希望を寄せていました。

完全な王、完全な救い主がすでにおられたのに、どうして彼らは別の者に思いを向けていたのでしょうか。

でも、そうするのは容易なことです。私たちはしばしば神様の代わりに別のものに希望を寄せてしまうでしょう。

私はそうしたくありません。

むしろ、私の良い王の支配下にとどまり、すべてよりもイエス様に思いを向けることを選びます。

主よ、今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39:7)

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あなたが私の人生を治めてくださるために

主はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。

なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。(サムエル記第一8:7)

それを言われたとき、神様はどう感じておられたでしょうか。

神様は怒っておられたでしょうか。

そうだったかもしれません。

しかし、イスラエルの民がイエス様を王として拒んだとき、彼は怒っておられたのではなく、悲しんでおられました。

その悲しみは、ご自身が傷ついたからではなく、むしろ、イエス様がイスラエルの民の選択がどの道に導かれるかをよくご存じだったからです(マタイ23:37〜39;ルカ19:41〜45)。

今日、私はこう考えていました。「自分の王がどれほど私を愛しておられるか、本当に理解しているだろうか。」

イスラエルの民はそれを理解していなかったため、神様を王として拒んでしまいました。

私はそれをしたくありません。

けれでも、私はもう一度自問します。

「自分の王がどれほど私を愛しておられるか、本当に理解しているだろうか。」

私の良い王よ、自分に対するあなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるのかを理解するようにしてください。

それは、私が喜んであなたにすべてを明け渡し、あなたが私の人生のすべてにおいて治められるためであるように。

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だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう?

ベテ・シェメシュの人たちは言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。(サムエル記第一6:20)

今日の箇所では、イスラエルの民もペリシテ人も、大切な真理を思い知らされました。

それは、神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていないということです。

ペリシテ人の神ダゴンは立つことができず、ペリシテ人たち自身も立つことができませんでした。だから、さばきが下ったとき、彼らは領主たちに主の箱を戻すように叫びました。

しかし、イスラエルの民もまた、神様の前に立つことはできませんでした。

何百年も前に、モーセは彼らにこう警告していました。

「レビ人だけが主の箱を運ぶことを許されている。しかし彼らでさえ、その箱を見たり触れたりすることは許されていない。」(民数記4:15~20)

ところが、イスラエルの民はその指示を無視し、箱をすぐに覆わず、さらに勝手にその箱を開けてしまったため、さばきが彼らにも下りました。そこで、彼らは叫びました。「だれが、この聖なる神の前に立つことができるだろう。」

その答えは明らかです。神様の前に立つにふさわしい者は、誰一人としていません。なぜなら、神様は聖なる方であり、私たちは罪によって汚れた者だからです。

私たちは皆、罪を犯しており、神の栄光を受けることができません。(ローマ書3:23)

だから、私たちがふさわしいことは、神の裁きだけです。

しかし、イエス様を通して、今や私たちはこの聖なる神の前に立つことができます。

パウロはこう記しました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ書5:1~2)

どうして、私たちは神様の前に立つことができるのでしょうか。それは、イエス様の十字架のみわざによって、私たちが神様との平和を持っているからです。

十字架の上で、私たちの罪によって汚れた衣はイエス様に置かれました。そして、私たちがイエス様を信じると、神様はイエス様の義と聖さをもって、私たちを着せてくださいます。

だからこそ、私たちは自由に神様の前に進み出ることができるのです。

もちろん、自分が義人であることを感じないときもあります。とくに、罪を犯すとき、私たちは汚れていて、神の愛にふさわしくないと感じます。

それでも、私たちは希望を持っています。それは、

キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だからこそ、私たちは神様の栄光を見るとき、恐れる必要はありません。むしろ、私たちは喜びます。なぜなら、イエス・キリストによって、神様は私たちをすでに受け入れてくださっているからです。

そして、いつかの日、私たちは神様の栄光を身にまとうことになります。

だから、パウロはこう記しました。

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

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なんと偉大なお方、私たちの神よ

ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。

アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。

次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。(サムエル記第一5:1~4)

この物語を読むたびに、私はいつも笑ってしまいます。

ペリシテ人たちは、主をただの神々の一つだと思っていました。しかも、彼らは先ほどイスラエルの民を打ち倒したばかりだったので、自分たちの神ダゴンのほうが主よりも偉大だと考えました。

でも、彼らはすぐに、自分たちが間違っていたことを思い知らされました。

ダゴンが主の箱の前で、地にうつぶせになって倒れている場面を思い浮かべるとき、私はいつもイザヤ書45章にある神のことばを思い出します。

神様はこの出来事の何百年も後にそのことばを語られましたが、それはまさに、あの日ペリシテ人たちに語っておられたのと同じメッセージでした。それは、

わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、 わたしをおいて、ほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、 決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、 すべての舌は誓い。。。(イザヤ書45:21~23)

今日、その言葉を思い巡らしています。それを読んで、私は叫ばずにはいられません。「なんと偉大なお方、私たちの神よ。」

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栄光がどこにあるのですか

前回の記事では、私は士師の時代に、イスラエルの民が神様に従わず、自分勝手に生きていたことを述べました。

でも、この箇所では、彼らはさらにひどいことをしました。彼らは神様を、飼いならされたジニーのように扱い、ペリシテ人を打つために用いようとしたのです。

ところが、第一サムエル記の著者は、「神様がケルビムという天使の上に座しておられる万軍の主である」と強く主張します。

通常、「ケルビムに座しておられる万軍の主」という表現は、神様の契約の箱を指しています。なぜなら、神様がモーセや大祭司と語られた時、契約の箱の上の雲の中に現れたからです(レビ記16:2)。

しかし、この箇所では、その雲はまったく現れませんでした。

ですから、この場合、著者は契約の箱そのものではなく、その箱が象徴する天国の現実について語っているのではないでしょうか。つまり、天国では、天使たちが神様に栄光を帰しています。なぜなら、神様はその栄光にふさわしい方だからです。

その一方で、イスラエルの民は神様にまったく栄光を帰しませんでした。

この物語の最後では、エリの義理の娘が出産し、その息子をイ・カボデと名づけました。その名前は、「栄光はどこか」という意味です。

彼女が意味したのはこうです。「神の栄光はどこですか。神様は私たちを見捨てられました。ここには、栄光がもうありません。」

しかし、もしかしたら、神様はイスラエルの民に同じ質問を投げかけておられたのかもしれません。今でも、神様は私たちに同じ質問を投げかけておられるのかもしれません。

特に、神様にふさわしい栄光と誉れは、今どこにあるのでしょうか。天使たちは、その栄光と誉れを神様に帰しています。でも、私たちはどうでしょうか。

教会、職場、家庭、そして私たちの人生において、本当に栄光と誉れを神様に帰しているでしょうか。

それとも、神様が私たちをご覧になる時、「栄光はどこにあるのでしょうか」と言われているのでしょうか。

天のお父さん、あなたは、操られる神ではありません。

あなたはケルビムの上に座しておられる万軍の主です。あなたは、すべてを治めておられる方です。

その「すべて」には、私自身も含まれています。あなたは、私の王です。

ですから、私はいつもあなたを王として敬うように導いてください。

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聞こえない耳、見えない目

時々、聖書には、私たちに痛烈な皮肉が示されることがあります。この箇所でも、そのような皮肉を見ることができます。

サムエル記第一3章一節には、こう書かれています。

そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。(サムエル記第一3:1)

これは士師記の時代でした。その時代はどのようなときだったでしょうか。

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。 (士師記21:25)

第一サムエル2章によれば、祭司たちも神様に従わず、勝手に振る舞っていました。だから、神様はイスラエル人に語ることを拒まれました。

そして、3章2節では、私たちは皮肉なことを見ることができます。大祭司エリの目はかすんできて、見えなくなっていました。ところが、エリの霊的な目もかすんで、見えなくなっていたのです。

どうしてでしょうか。なぜなら、エリは神様を敬わなかったからです。むしろ、彼は自分の息子たちを神様よりも敬っていたのです。

エリの息子たちは、神様とイスラエル人に対して故意に罪を犯していたのに、エリは彼らを祭司として退けませんでした。だから、神様ご自身がエリとその息子たちを祭司として退けられました。(2:29-36;3:11-14)

しかし、その一方でサムエルがいました。

この箇所では、もうひとつ皮肉なことが描かれています。盲目のエリが、霊的なことの見方をサムエルに教えたのです。

神様がサムエルを呼ぼうとしておられると理解したとき、エリはこう言いました。

主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」(第一サムエル3:9)

そして、主がサムエルのそばに立ち、呼ばれたとき、サムエルはその声を聞き、エリの助言に従ってこう答えました。 「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」

主が私たちのそばに立ち、呼ばれるとき、私たちは主に対して目と耳を閉ざしているため、どれほど主がおられることに気づかないでしょうか。

イエス様はこう言われました。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。

それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。(マタイ13:15)

神様があなたを呼ばれるとき、あなたはどうしますか。エリのように、自分の罪を握り、主の声を聞くことを拒むでしょうか。そうすれば、あなたの霊的な目と耳は不自由になってしまいます。

そうするのではなく、サムエルのように答えましょう。

「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」

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私たちの忠実な祭司

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(サムエル記第一2:25)

今朝、私はその言葉に思いを巡らせていました。

神様に対して罪を犯すとき、私たちのために仲裁に立ってくださる方がおられます。

神様はイエス様を、私たちの忠実な祭司として起こしてくださいました。さらに、イエス様はとこしえに私たちの祭司です。(サムエル記第一2:35;ヘブル書2:17~18;7:23~25)

私の罪によって神様をどれほど悲しませたかを振り返ると、その真理は本当に不思議なことだと思います。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8:34)

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私たちを解放し、賜物を与えてくださる

ダビデは、アマレクが奪い取ったものをすべて取り戻した。ダビデは、二人の妻も救い出した。

子どもも大人も、息子たちも娘たちも、分捕られた物も、彼らが奪われたものは、何一つ失われなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。。。

ダビデはツィクラグに帰って来て、友人であるユダの長老たちに戦勝品の一部を送って言った。

「これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの戦勝品の一部です。」

その送り先は。。。ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった。(サムエル第一30:18-19,26-27,31)

その言葉を読んだとき、私はイエス様についてのパウロの言葉を思い起こしました。

そのため、こう言われています。 「彼はいと高き所に上ったとき、 捕虜を連れて行き、 人々に贈り物を与えられた。」(エペソ4:8)

ダビデが捕虜を敵から解放し、人々に贈り物を与えたように、イエス様もサタンの捕虜である私たちを解放し、贈り物を与えてくださいました。

イエス様は永遠の命を与えてくださいました。

御霊をも与えてくださいました。

教会をも与えてくださいました。

さらに、神の民を強め、他のサタンの捕虜をも解放するために、霊的な賜物を与えてくださいました。

ですから、このクリスマスの季節に、パウロと共に叫び、喜びましょう。

ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)

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真っ直ぐな人だろうか 

そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。」(サムエル記第一29:6)

聖書の中のこのアキシュの言葉は、最も皮肉な言葉の一つです。

アキシュはダビデに言いました。「私はあなたが仕えている神の名によって誓って、真実を言います。あなたは真っ直ぐな人です。」

ところが、アキシュが知らなかったのは、ダビデが一年以上もアキシュに嘘をついていたということです。

そして、アキシュがそれを言った直後、ダビデはもう一度嘘をついて、自分がアキシュに忠実に仕えているしもべであるかのように話しました。

聖書には、その時の神様の思いやダビデの思いは記されていません。

けれども、アキシュの言葉を振り返ったとき、ダビデはこのように祈ったのではないでしょうか。

「主よ。私は大失敗しました。赦してください。私は真っ直ぐな人のように振る舞っていなかったのです。でも、これから、そのような人になりたいです。」

主よ、ダビデと同じように、私はいつも真っ直ぐな人ではありません。私の行為によって、あなたの御名を汚してしまいました。どうか赦してください。

私のすべての言葉、行為、思いが、あなたの目にかなうものとなりますように。

私が立っているあなたの恵みに感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

ほかに道はない。。。本当に?

ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。(サムエル記第一27:1)

それは本当だったでしょうか。ダビデは本当に他の道がなかったのでしょうか。

もし、以前と同じようにダビデが神様に相談していたら、神様はより良い道を示してくださったかもしれません。

確かに、ダビデはその決断によって、一時的にサウルから逃れることができました。

しかし、そうするために、ダビデはアキシュを欺かなければなりませんでした。その結果、第二十八章で、ダビデがペリシテ人の軍隊と一緒にイスラエルと戦うように頼まれることになりました。(二十八章一節)

時々、私たちは道徳的に問題があることをしなければならないと思ってしまいます。そして、その決断によって、私たちの問題が一時的に解決されることもあるかもしれません。

けれども、ダビデの決断と同じように、私たちの決断はさらに多くの問題や、道徳的に問題がある選択へとつながることがあります。

主よ、私は決して「ほかに道はない」と考えながら決断しないようにしてください。

むしろ、正しい道を教えてください。あなたに喜ばれる道を教えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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サムエル記第一のデボーション

傷つけられたとき、どうすればよいか

ダビデがサウルと話すのは、これが最後のときでした。

彼らは和やかに離れましたが、サウルと一緒に帰るほどにダビデがサウルを信頼していなかったことは明らかです。

なぜなら、サウルは何度も自分の約束が頼りないものであることを証明していたからです。

それでも、ダビデはサウルのいのちを尊び、彼を許しました。

虐待のパターンがあるとき、私たちは大切なことを覚えていなくてはなりません。私たちは復讐を求めずに、その人を許すべきです。

しかし、神様は私たちが危険な状況に入ることを求めてはおられません。

つまり、その人が本当に心を入れ替えたことを証明するまで、その人から距離を置いてもよいということです。人が自分が本当に変わったことを示すには時間がかかります。

残念ながら、多くの場合、その時は決して来ません。サウルの場合は、その時は決して来なかったのです。

だから、ダビデから学びましょう。

あなたの虐待者を許しましょう。けれども、その人からの虐待を許してはいけません。

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サムエル記第一のデボーション

健全な良心を保つ

後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。(サムエル記第一24:5)

私たちの良心によって心が痛むとき、私たちはどうするでしょうか。

神様のみ前に柔らかい心を保つため、良心は罪に対して私たちの防衛最前線です。

しかし、良心を無視すると、その良心は麻痺してしまう恐れがあります。(第一テモテ四:二)

私たちの良心が麻痺してしまった兆候は何でしょうか。以前、ある罪を犯したときには心を痛めたけれど、今はもう気にしなくなることです。

何年か後に、ダビデの良心が麻痺してしまい、預言者ナタンはダビデに面と向かって責めなくてはなりませんでした。そのとき初めて、ダビデは悔い改めて、柔らかい心を取り戻しました。(第二サムエル記11-12章)

私たちが健全な良心を保つように努めましょう。そして、ダビデと一緒に歌いましょう。

だれが 自分の過ちを悟ることができるでしょう。

どうか、隠れた罪から私を解き放ってください。

あなたのしもべを 傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。

そのとき私は、大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう。

私の口のことばと、私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ、わが岩 わが贖い主よ。(詩篇19:12ー14」

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サムエル記第一のデボーション

弱さに対する忍耐

ケイラの人たちを批判するのは簡単なことでしょう。なぜなら、ダビデが彼らをペリシテ人たちから救ったのに、彼らはサウルの手に引き渡そうと考えていたからです。

しかし、ジフ人とは違って、ケイラの人たちがサウルに連絡したという証拠はありません。

彼らはそうしていたかもしれませんが、何も言わなくても、サウルは自分の家来たちから、ダビデがケイラの人たちをペリシテ人たちから救ったことを聞いていたでしょう。

おそらく、ケイラの人たちは、サウルがダビデを捕らえるために来るという噂を耳にしたのでしょう。そして、ダビデと周囲の人々の会話を聞いたかもしれません。

「どうしたらいいでしょうか。私たちはダビデをサウルに引き渡してはいけないでしょう。ダビデは最近、私たちを助けてくれたのです。」

「でも、サウル王がノブで何をしたか聞いた?祭司アヒメレクがダビデを助けたことで、サウルは約八十人の祭司たちを殺したそうです。祭司たちですよ。」

「そうでしょう。さらに、私たちは自分自身をペリシテ人たちから守れなかった。どうすれば私たちはダビデをサウルから守ることができるでしょうか。」

たぶん、そのような話を聞いて、ダビデは神様に相談しました。「ケイラの者たちは、私をサウルの手に引き渡すでしょうか。」

神様が「彼らは引き渡す」と言われると、ダビデはケイラの人たちに怒りませんでした。彼らが自分を助けてくれるように要求しませんでした。

むしろ、ダビデはひっそりとケイラを出ました。ダビデは彼らの弱さを理解して、彼らを許しました。

時々、人々は私たちをがっかりさせます。彼らは弱いものだからです。

でも、私たちも弱いものです。それでも、イエス様は毎日、私たちに恵みを与えてくださいます。

だから、パウロの言葉を心に留めておきましょう。

ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。(コロサイ3:12ー13)

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見捨てられたように感じるとき

「おまえたちのだれも、私のことを思って心を痛めてくれない」(第一サムエル22:8)

これは、サウルが自分の家来たちに語った言葉でした。だれもサウルに謀反を企てていないのに、彼はそう思い込んでいました。

同じ頃、洞窟の中で、ダビデも似たようなことを語りました。

ご覧ください。私の右に目を注いでください。私には、顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って、私のいのちを気にかける人もいないのです。(詩篇142:4)

もちろん、サウルはダビデを殺そうとしていました。けれども、ダビデの言葉も正確ではありませんでした。

ヨナタンはダビデをかばい、彼を守ってくれました。

妻ミカルは命がけで、ダビデをサウルから逃がすように助けました。モアブの王も、ダビデの家族の世話をしてくれました。

さらに、四百人の者たちがダビデとともにいました。

それでも、ダビデは逃走中であり、洞窟に隠れていたため、彼の言葉は誇張された反応のように見えます。

しかし、サウルとは違って、ダビデは主に信頼を寄せました。彼は自分の心を神に注ぎ出し、自分の弱さを認めました。それでも、ダビデはこのように言いました。

私の霊がわたしのうちで衰えはてた時にも、あなたは、私の道をよく知っておられます。(詩篇142:3)

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生けるもの地でもの、私の受ける分。」(詩篇142:5)

正しい人たちは私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。(詩篇142:7)

だれもあなたのことを気にかけてくれないと思うでしょうか。ちょっと考え直してみましょう。自分が思っている以上に、人々はあなたを愛しているのです。

さらに、すべての人々があなたを見捨てても、神様は決してそうされません。

神様は私たちの道を知っておられます。神様は私たちの避け所です。神様は私たちに良くしてくださいます。

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神様を拒む者への裁き

サムエル記第一16〜19章では、私たちは三回このような言葉を読みます。「主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた」(16:14、23;18:10;19:9)。

正直に言うと、これらは難しい言葉です。神様は災いの霊を、災いをもたらすために送ることがあるのでしょうか。どうして、良い神、また愛の神がそのようなことをなさることができるのでしょうか。

厳しい答えですが、それは神様の正当な裁きです。サウルは神様をあえて拒んだからです。

けれども、聖書はこの裁きが、悔い改めの最後のチャンスを与えるものであることを示唆しています。

第一列王記22章では、神様はアハブ王に破滅をもたらすために偽りの霊を送りました。それでも、それと同時に、神様はアハブに警告するために預言者を遣わし、悔い改めのチャンスを与えました。

けれども、以前の話と違って(列王記第一21:27〜29)、アハブは悔い改めようとしませんでした(列王記第一22:17〜28)。

新約聖書でも、同じようなことが見られます。パウロは、悔い改めようとしない罪人に関して、こう語っています。

そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(第一コリント5:5)

黙示録では、神様はいろいろな災害を送られます。悪霊によってもたらされる災害もあるようです。

多くの人々が死にますが、それ以上に多くの人々が生き残っていて、悔い改めのチャンスがあります。しかし、彼らは悔い改めようとしません(黙示録9:20〜21)。

そして、第二テサロニケでは、パウロは終わりの日について語っています。人々が騙されて滅びるために、神様は反キリストをこの世に放たれます。

なぜでしょうか。その理由は明確です。

彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。

それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。(第二テサロニケ2:10ー12)

つまり、反キリストとその惑わす力は、人々が真理を愛することを拒否したことに対する神の罰なのです。

神様がサウルやアハブを裁かれたように、終わりの日には、神様は悔い改めることを拒む人々を裁かれるのです。

あなたはどうでしょうか。神様を愛しているでしょうか。真理を愛しているでしょうか。正義を喜んでいるでしょうか。

あなたは、神様にどのように反応するでしょうか。

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力ある神

信じられませんが、もうそろそろクリスマスですね。

このところ、イザヤ書9:6に思いを巡らしています。その箇所では、メシアは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれています。

特に、「力ある神」という名前について考えていました。

この言葉は、メシアを強い勇士として描写しています。

ユダヤ人たちがしばしばメシアを「ダビデの子」と呼んだので(マタイ21:9)、ダビデ自身が強い勇士であったことはふさわしいことです。

イスラエル人たちが脅かされ、絶望した時、ダビデは彼らのために戦って、勝利しました。

同じように、私たちが自分の問題に打ちのめされ、絶望している時、私たちのメシアであるイエス様は私たちのために戦って、勝利してくださいます。

だから、どんな苦しみがあっても、私たちの力ある神に望みを託しましょう。

なぜなら、イエス様はあなたを見て、「私はあなたのために戦っている」と言われているからです。

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心をご覧になる神

人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。(サムエル記第一16:7)

第一サムエル記の中で、あるいは聖書全体の中で、これは最も有名な言葉の一つです。

ダビデの家族でさえ、彼を正当に評価しませんでした。サムエルがエッサイの息子たちに会いたいと言った時、エッサイはダビデのことをすっかり忘れていました。

しかし、人間と違って、神様は私たちの外見ではなく、心をご覧になります。

神様はダビデの心の中に何を見ておられたのでしょうか。神様はそれを直接教えてはくださいませんが、ダビデの生涯を見ると、私たちは彼の心を少し垣間見ることができます。

ダビデは神様を愛する心を持っていました。

ダビデは神様に信頼する心を持っていました。

ダビデは神様に対して柔らかい心を持っていました。

ダビデは時々罪を犯しました。実際、彼は非常に深刻な罪を犯してしまいました。けれども、彼は最終的に悔い改め、再び神様に喜ばれたいという態度を持っていました。

主よ、私がダビデのような心を持つことができますように。あなたを愛する心。あなたに信頼する心。あなたに対して柔らかい心。

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サムエル記第一のデボーション

神様は悔やむことがあるのか?

主のことばがサムエルに臨んだ。「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。」(サムエル記第一15:10ー11)

「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔やむこともない。この方は人間ではないので、悔やむことがない。」(29節)

主も、サウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。(35節)

今日、私は上の言葉を反芻しました。

「悔やむ」という言葉は、「気が変わる」と訳すことができます。

神様は悔やむことがないのに、どうして著者は、神様がサウルのことを悔やんだと言うのでしょうか。

また、神様は気が変わることがあるでしょうか。神様は気まぐれな方でしょうか。

たぶん、鍵は29節にあります。

「主は人間ではないので、悔やむことがない。」

別訳では、「主は人間ではないので、気が変わりません。」

ある意味、私たちは神様が悔やむ、あるいは神様の気が変わると言えるかもしれませんが、神様は人間のようにそうするのではありません。

人間の知識には限界があります。そのため、私たちは多くのミスをしてしまいます。また、出来心で愚かな決断をしてしまう時もあります。さらに、私たちは気まぐれで、急に気が変わることもあります。

でも、神様はそのような方ではありません。

神様はすべてのことをご存知です。過去のこと、現在のこと、未来のことの全部を知っておられます。だから、神様はサウルが何をするかをご存知でした。

サウルが罪を犯した時、神様は「私は失敗した。サウルがそのような王になるとは知らなかった」とは言われませんでした。

また、神様は「私は愚かだった。サウルの性格をよく知っていたのに、どうして彼を選んだのだろうか」とは言われませんでした。

むしろ、神様は何が起こるかをよく知っておられました。さらに、神様のなさることにはすべて目的があります。

それでも、神様は感情を持っておられます。神様はサウルが何をするのかをよく知っておられましたが、サウルが実際に罪を犯した時、神様は悲しまれました。

いったいどうして、神様はサウルを選ばれたのでしょうか。

私にはわかりません。

もしかしたら、イスラエル人たちは神様のタイミングを待たずに、「今、王が欲しいです」と言ったからかもしれません。

彼らがもう少し待っていたら、神様の心にかなうダビデを彼らに与えてくださったでしょう。

もしかしたら、イスラエル人たちは、「ほかのすべての国民のよう」な王がどんな人であるかを学ばなくてはならなかったからかもしれません。

神様は彼らに、なぜその要望が悪いのかを教えなくてはなりませんでした。

とにかく、神様がサウルを選ばれた理由があり、その理由は良いものでした。でも、サウルの罪と反抗的な態度を見た時、神様は悲しまれました。神様は「悔やみました」。

それは、神様が失敗したからでも、急に悪い決断をしたことに気づいたからでもありませんでした。むしろ、神様は「こうあらねばならないが、辛い」と言われたのです。

「神様は人間のように気が変わるというわけではありません。」

それは心強い言葉です。

神様は気まぐれな方ではありません。神様の性格は首尾一貫しています。

例えば、神様は罪を裁かれますが、悔い改める罪人には憐れみを喜んで与えてくださいます。(エゼキエル33:10ー16)

聖書には、そのような話が何度も記されています。(列王記第一21:17ー28;列王記第二22:15ー20;歴代誌第二12:5ー8;33:1ー13;ヨナ3章)

また、その憐れみによって、自分の民が他の人のためにとりなすと、神様は裁きをよく先延ばしにしてくださいます。(出エジプト記32:9ー14)

しかし、神様は正義の方なので、最終的にはこう言われます。「もう時間です。この人々が悔い改めようとしないから、私は裁きます。」(エレミヤ7:16;11:14;14:11)

残念なことですが、今日の話では、サウルは心から悔い改めませんでした。むしろ、彼は言い訳をしました。

彼は最後には悔い改めましたが、それは自分の罪を悲しんだからではなく、自分の王位を失うことを恐れたからです。

だから、神様はサウルを裁かれ、イスラエルの王位から退けられました。

では、要約すると、

1.神様の性格は首尾一貫しています。神様は忍耐深く、憐れみ深い方なので、悔い改める人を赦し、改める時間を与えてくださいます。けれども、神様は正義の方なので、最終的には悔い改めようとしない罪人を裁かれます。

2.神様は何をなさっても、良い理由があります。神様は驚かれることがありません。それでも、罪を見ると神様はいつも悲しまれます。そういう意味で、神様は「悔やみます」。

しかし、「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます」(ローマ8:28)。

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サムエル記第一のデボーション

神様を求めているのか

すると、兵は言った。「あなたが良いと思うようにしてください。」

しかし、祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう」(サムエル記第一14:36)

兵の言葉は、士師記の時代のイスラエルの態度に似ていました。その時代、「王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていました」。(士師記21:25)

しかし、サウルは王となり、神様を求める者であるはずでした。(申命記17:18-20)

それなのに、イスラエル人たちはサウルにこう言いました。「あなたが良いと思うようにしてください」。

このことは、サウルの生涯を通じて現れた最大の問題でした。彼は口では「神様を求めたい」と言いましたが、神様を求めることを忘れた時もありました。(36)

また、神様を求め始めたものの、すぐにあきらめてしまった時もありました。(19)

さらに、エフタのように(士師記11:30-31)、神様を求める代わりに、神様を操ろうとして愚かな誓いを立てました。

この話を読んで、私は考えました。「神に対する私の態度はどうなのか?」

決断の時、私は本当に神様を求めているでしょうか。それとも、ただ自分が良いと思うことを行っているだけでしょうか。

私の願いをかなえていただくために、神様を操ろうとしているのでしょうか。

それとも、私は本当に神様に仕え、神様の心に従いたいと願っているのでしょうか。

サウルの何年か後、神様は別の王にこう言われました。

主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々御力を現してくださるのです。(歴代誌第二16:9)

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プレッシャーがかかる時に

サウルは答えた。「兵たちが私から離れて散って行こうとしていて、また、ペリシテ人がミクマスに集まっていたのに、あなたが毎年の例祭に来ていないのを見たからです。

今、ペリシテ人がギルガルにいる私に向かって下って来ようとしているのに、まだ私は主に嘆願していないと考え、あえて、全焼のささげ物を献げたのです。」

サムエルはサウルに言った。「愚かなことをしたものだ。あなたは、あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。」(サムエル記第一13:11ー13)

私たちの人生がうまくいく時、神様に従うのは簡単なことです。でも、大変な時はどうでしょうか。

試練によって、私たちの心の状態がよく現れます。

私は本当に神様に信頼しているのでしょうか。神様の道が最も良い道だと思っているでしょうか。大変なときに神様に従うことが、私たちの最初の本能となるほどに、それを信じているでしょうか。

それとも、私たちは愚かにも自分の道を行くのでしょうか。

サウルの試練によって、サウルの心が現れました。

私たちの試練によって、私たちの心には何が現れるでしょうか。

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諦めないで

サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕えなさい。

役にも立たず、救い出すこともできない、空しいものを追う道へ外れてはならない。それらは、空しいものだ。

主は、ご自分の大いなる御名のために、ご自分の民を捨て去りはしない。主は、あなたがたをご自分の民とすることを良しとされたからだ。(サムエル記第一12:20-22)

時々、私たちは自分の罪と失敗を見て、クリスチャンとして落胆してしまいます。どうして神様が私たちを受け入れることができるのかと疑問に思います。

でも、サムエルの言葉によって、希望を持ちましょう。罪に落ちても、失敗しても、主に従う道から外れず、心を尽くして主に仕え続けましょう。

どうしてでしょうか。なぜなら、主はご自分の民を捨て去りはしないからです。

私たちが素晴らしい者だからではなく、むしろ、神様が素晴らしい方だからです。そして、主は、私たちをご自分の民とすることを良しとされました。

さらに、サムエルがイスラエル人たちのために祈り、正しい道を教えたように、イエス様、そして聖霊様も、私たちのために同じことをしてくださいます。(ローマ8:26〜27、34;ヨハネ14:26;16:13;第一ヨハネ2:27)

だから、諦めないでください。むしろ、サムエルの言葉を心に留めておきましょう。

ただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。

主がどれほど大いなることをあなたがたになさったかを、よく見なさい。(24節)

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私の祈り

「主の霊があなたの上に激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。

これらのしるしがあなたに起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたとともにおられるのですから。」

。。。サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。(サムエル記第一10:6ー7、9)

天のお父様、あなたが短い間、一人の人のためにしてくださったことを、今やあなたの教会全体のためにしてくださいました。つまり、あなたが私たちに御霊を与えてくださったことです。(使徒の働き1:8;2:1〜18)

サウルが真実ではなかったので、結局、あなたの御霊は彼から離れ去りました。(第一サムエル16:14)

でも、あなたは真実であり、あなたの恵みによって、私たちを見捨てないと約束してくださいました。(第二テモテ2:13;ヘブル13:5)

だから聖霊様、あなたの民に激しく下り、私たちを新しい人に変えてください。私たちに新しい心を与えてください。私たちを導いてください。この国に触れて救うために、私たちを用いてください。

今日、私たちの愛する人々、同僚、隣人、私たちの周りのすべての人に、あなたの愛で触れるように助けてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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私の議題、神の議題

サウルのサムエルとの出会いについて読んだとき、私はこう考えました。「どれだけ、神様に祈るとき、私は自分の課題ばかりを持っているだろうか。」

私はよく、自分にとって大きいと思える問題について祈ります。でも、神様の御前に来ると、神様には、より大きな課題があります。

もちろん、神様は私の問題を心にかけてくださり、喜んで助けてくださいます。

でも、私はしばしば、自分の問題にとらわれて、神様のより大きなご計画を見損なってしまいます。

サウルのように、自分が取るに足りない者だと思っていても、実際には、私は神様のご計画の中で大切な役割を担っています。

つまり、神様は私を用いて、周りの人々に触れたいと願っておられるのです。神様は、ご自分の御国のために、私を用いたいと願っておられます。

主よ。私が自分の小さな世界に集中しすぎないように助けてください。私が自分の問題だけでなく、私の周りであなたが何をなさっているかを見ることができますように。

私は、あなたのご計画に参加したいと願っています。どうか、毎日、あなたが私にしてほしいことを教えてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ここまで主が私たちを助けてくださった

サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った。(サムエル記第一7:12)

「ここまで主が私たちを助けてくださった。」

振り返ると、神様はいつも困難の中にある私を助けてくださいました。

その問題の中で、神様はいつも私と共に歩んでくださいました。

そういうわけで、この世の問題や不安があっても、私は希望を持っています。なぜなら、神様がご自分が良い方であることを証明してくださったからです。

そして、将来の試練に直面するとき、「ここまで私を助けてくださった主」が、もう一度助けてくださるという確信を持っています。

あなたはどうでしょうか。その確信を持っているでしょうか。

少し時間を取って、これまで神様がどのようにあなたを助けてくださったかを考えてみましょう。そして、その思い出を、家族や友人、スモールグループの仲間たちと分かち合いましょう。

そして、一緒に喜びを持って叫びましょう。「ここまで主が私たちを助けてくださった。」

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神様を聖なる方とする

だれが、この聖なる神、主の前に立つことができるだろう。(ササムエル記第一6:20)

私たちはしばしば神様の愛と恵みについて話すので、つい、神様との関係を軽んじてしまうことがあります。

そうすると、私たちは大切なことを忘れてしまいます。神様は聖なる方です。だから、私たちは神様を聖なる方としなくてはいけません。

私たちは、神様を魔法のランプの妖精のジーニーのように考えてはいけません。イスラエル人たちが主の契約の箱を戦場に運んだとき、そのような考え方がありました。(4章)

ペリシテ人たちとは違って、私たちは神様をこの世の偽の神々と同じように考えてはいけません。(5章)

そして、神様を軽んじてはいけません。イスラエル人たちは神様を軽んじて、ただの好奇心から契約の箱を開けて、その中を見ました。(6章)

神様は聖なる方であり、私たちの畏れにふさわしい方です。だから、私たちは神様を聖なる方としなくてはいけません。(レビ記22:32〜33、第一ペテロ3:15)

神様は愛の神ですが、天使たちが神様を褒め称えるとき、「愛の神、愛の神、愛の神」とは歌いません。

むしろ、天使たちは「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者」と歌います。(イザヤ書6:3;黙示録4:8)

あなたは、どのように神様を考えているでしょうか。神様を聖なる方としているでしょうか。それとも、神様を軽んじているでしょうか。

ペテロの言葉を心に留めておきましょう。

むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。

「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」と書いてあるからです。

また、人をそれぞれのわざにしたがって公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、この世に寄留している時を、恐れつつ過ごしなさい。(第一ぺテロ1:15ー17)

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主よ、お話しください

主よ、私たちは、あなたのことばがまれにしかなく、幻も示されない国に住んでいます。そして、エリの目がかすんできて、見えなくなったように、多くの人々の霊的な目もかすんできて、見えなくなりました。

でも、サムエルのように、私は言います。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

あなたのことばによって、私にご自分を現してください。そして、私を通して、私の周りの人々に語ってください。

相手にとって聞きがたいことでも、私が恐れずにあなたのことばを伝えるように助けてください。私が何も隠さずに、すべてのことを彼らに知らせるように助けてください。

でも、私が語るとき、相手が私の愛を見ることができるように。そして、私を通して、彼らがあなたの愛を見ることができるように。

私の家族や友人や同僚や生徒たちに、あなたの命のことばを伝えるために、私を用いてください。そして、私が見つけた恵みと救いを、彼らも見つけることができるようにしてください。

私の人生でも、彼らの人生でも、あなたのことばが一つも地に空しく落ちることなく、あなたが望まれることを成し遂げるようにしてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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見ておられる神、裁かれる神

神様のことを考えると、私たちがあまり考えたくないことの一つは、神様がいつか全世界を裁くということです。つまり、神様が私たちを裁くということです。

でも、神様は私たちの裁判官であり、ある日、私たちを裁かれます。

ハンナはこう歌いました。

主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。(サムエル記第一2:3,口語訳)

また、

主は地の果ての果てまで裁かれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。(10節)

イエス様が神に油注がれた王として、つまり、メシアとしてこの世に来られると、ハンナの言葉は成就します。

そして、裁きの日に、神様はご自分を重んじる者を重んじ、ご自分を蔑む者を軽んじられます。(30節)

エリとその息子たちの人生において、また、サムエルとその母の人生において、それを見ることができます。神様はエリとその息子たちを裁かれましたが、サムエルとその母を重んじられました。

実のところ、私たち皆は裁かれるのが当然なのです。なぜなら、私たち皆が神様に対して罪を犯したからです。

エリはこう言いました。

人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪をおかすなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。(25節)

でも、良い知らせは、この世に来られた時、イエス様が神であるだけでなく、人間でもあったということです。そして、神であり人間として、イエス様は天のお父さんの前で、私たちのためにとりなしてくださいます。

私たちの、いつも生きておられる忠実な大祭司として、イエス様は私たちのためにとりなしをしておられます。

そういうわけで、イエス様は、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことができます。(へブル7:24〜25)

だから、恐れ、喜びましょう。

神様を恐れ、聖なる方としましょう。なぜなら、神様は私たちの行いを量り、裁かれるからです。

でも、それと同時に、喜びましょう。なぜなら、イエス様は、神様を愛してあがめる人々のためにとりなしてくださっているからです。

だから、私たちは喜びと確信をもって、こう言えます。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

 

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サムエル記第一のデボーション

私たちの心を知っておられる方

今日の箇所を読んだとき、私が気づいたのは、ハンナの夫はハンナの心、特にハンナの痛みが分からなかったということです。(サムエル記第一1:8〜9)

また、祭司エリも誤解して、ハンナが酔っぱらっていると思いました。(13〜14節)

でも、神様はハンナの心をよく知っておられました。ハンナが声を出さなくても、神様は彼女の心をよく知っておられました。そして、神様はハンナの祈りを聞き、彼女のために行動してくださいました。(19〜20節)

人々は、私たちを誤解するかもしれません。彼らは、私たちのことを全然分かってくれないかもしれません。

でも、神様は私たちの心をよく知っておられます。そして、言葉を使っても、使わなくても、私たちの心を神様に注ぎ出すと、神様は聞き、私たちのために行動してくださいます。

パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(ローマ8:26ー27)