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ルカの福音書 ルカ24章 使徒の働き

世界を変える力

それでは、福音書に関する最後の記事です。そして今日から、使徒の働きについてお話しします。

以前気づいていたかどうかわかりませんが、おそらく使徒の働き1:4で、ルカはルカの福音書24:49を参照しているでしょう。その箇所では、イエス様は弟子たちに「聖霊様が来るまで、エルサレムで待ちなさい」と命じられました。

その後、およそ40日が経ち、イエス様は弟子たちをベタニヤ、つまりオリーブ山へ連れて行かれました。

オリーブ山に立っていた時、弟子たちはゼカリヤの預言を覚えていたかもしれません。ゼカリヤの預言によれば、国々がイスラエルを征服した後、主はオリーブ山に降り立ち、その国々と戦って、世の王となられます。(ゼカリヤ書14章)

もしかすると、彼らはその預言を思い出し、それを確かめるためにイエス様に尋ねたのかもしれません。

主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。(使徒の働き1:6)

しかし、イエス様はこのように答えられました。

いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威を持って、定めておられることです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:7-8)

多くの人々はイエス様がいつ戻られるのかを気にします。もちろん、イエス様の再臨のしるしに注意を払うことは重要ですが、それ以上に、イエス様が戻られるまでの間に私たちはイエス様から受けた使命に目を向けなければなりません。

それは何でしょうか。それは、福音を宣べ伝えることです。私たちはイエス様の証人となるべきです。

では、イエス様の証人になるとはどういうことでしょうか。

基本的に、それは私たちが見たこと、聞いたこと、そして知っていることを伝えることです。

イエス様があなたの人生にどのように働かれたかを伝えるべきです。あなたが教会で学んだことや、聖書から得た教えを周りの人々に分かち合うべきです。そうすれば、私たちはこの世を変えることができます。

とはいえ、私たち自身の中には世を変える力はありません。私たちの言葉だけでは、人の心を変えることはできません。

むしろ、私たちの内に住んでおられる聖霊様こそが、ご自身の力によってこの世を変えることができます。私たちの力では何も成し遂げることはできません。

だからこそ、イエス様は弟子たちに「あなたたちはすべてのことを知っているから、行きなさい。この世を変えなさい」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らにこう言われました。「聖霊様が来るのを待ちなさい。聖霊によるバプテスマを受ける時、あなたがたは力を受けます。その後、行きなさい。」

私たちはしばしば、自分の力と知恵によってミニストリーをしようとします。そうすると、多くのことを成し遂げるかもしれません。

けれども、本当にこの世界を変えたいと願うなら、聖霊によるバプテスマが必要です。私たちは聖霊様の力に満たされるべきです。なぜなら、人間の力や知恵には限界があるからです。

一方で、神様には限界がありません。

聖霊様、どうか私を満たしてください。 私はしばしば、自分の知恵と力によってミニストリーをしようとしてしまいます。けれども、あなたから離れては私は何もすることができません。

私はもう、自分の力や知恵に頼ることに疲れました。だから、聖霊様、私を満たしてください。あなたのためにこの世に影響を与えるために、力を与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

満たされて、遣わされた

イエス様が復活された日曜日、11人の弟子たちの間では混乱や不信が広がっていたようです。

彼らが集まったとき、マリアやほかの女性たち、エマオへ行ってきた弟子たち、そしてペテロが「主を見た」と強く主張しました。それでも、ほかの弟子たちはその話を信じませんでした。

すると、イエス様が突然彼らの前に現れました。当然、弟子たちは驚き、最初は幽霊を見たのだと思いました。

けれども、イエス様は「平安があなたがたにあるように」と言われました。

この言葉を聞いて、「弟子たちが怖がっていたので、イエス様は彼らを慰めようとされたのだ」と思うかもしれません。

しかし、実は当時の文化において、この言葉は「こんにちは」のようなごく普通の挨拶でした。

もしかすると、イエス様は最初、カジュアルな態度で通常の挨拶としてこの言葉をかけられたのかもしれません。けれども、弟子たちが恐れていたため、イエス様はより真剣な口調で「安心しなさい。わたしだよ」と言い、彼らを励まされました。

そして、イエス様はご自身の手と足を示し、魚を食べられました。おそらく、弟子たちはイエス様の傷跡に触れたことで確信を得たのでしょう。その後、彼らは納得し、喜びに満たされました。

さらに、イエス様は彼らに、預言者たちがイエス様の死と復活について語っていたことを教えられました。また、イエス様ご自身が以前言われたことを彼らに思い出させました。

その後、イエス様は彼らにこう言われました。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネ20:21)

また、

あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。

あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。ルカ24:48-49)

そして、イエス様は彼らに息を吹きかけ、こう言われました。

聖霊を受けなさい。あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。(ヨハネ20:22-23)

それを読むと、私は別の聖書の場面を思い出します。エデンで神様がアダムに息を吹きかけ、アダムは物質的な命を受けました。

一方、この箇所では、弟子たちは霊的な命を受けたのです。

聖霊様は、救いのしるしとして彼らに入りました。そして、イエス様が以前約束されたように、聖霊様は彼らにさまざまなことを教え、彼らがどこへ行っても、聖霊様は共におられました。

さらに、聖霊様は、彼らがイエス様から受けた使命を果たすために力を与えてくださいました。だからその後、彼らはあらゆる場所へ福音を広げていきました。

同じように、私たちがイエス様を救い主、そして主として受け入れる時、イエス様は私たちに息を吹きかけ、霊的な命を与えてくださいます。

聖霊様も、私たちの内に入り、私たちを導いてくださいます。さらに、聖霊様は私たちに力を与えてくださるので、イエス様から与えられた使命を果たすことができます。

だから、私たちは決して独りぼっちではありません。私たちは自分の力や努力によって神様を喜ばせたり、神様の目的を果たしたりするわけではありません。

むしろ、神様ご自身が私たちに住んでおられる聖霊様を通して、私たちを満たし、命と敬虔をもたらすすべてのものを与えてくださいます。(第二ペテロ1:3)

私たちの主な務めは、福音を広げることです。私たちは、悔い改めてイエス様を受け入れる人に、「あなたの罪は赦された」と宣言することができます。しかし、神様の救いを受け入れない人には、私たちは将来の裁きについて警告します。

神様は御国の鍵を私たちに与えてくださいました。私たちが福音を伝えることで、御国の門が開かれ、周りの人々はそこへ入る機会を得るのです。

だから、聖霊に満たされて進みましょう。死にかけている世に、御国の門を開きましょう。

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ルカの福音書 ルカ24章

鈍い心

いつイエス様がペテロにご自身を現されたのかによりますが、この話では、私たちはイエス様の復活後の三度目か四度目の現れを見ることになります。

この話では、二人の弟子たち(十二人の弟子には含まれていない)が、エマオという村へ向かっていました。もしかすると、エマオは彼らの故郷だったのかもしれません。

彼らは歩きながら、女性たちの証言や、ペテロとヨハネの報告について語り合っていました。けれども、彼らはまだイエス様の復活を信じていなかったようです。

すると、イエス様が突然現れました。しかし、彼らはイエス様を認識することができませんでした。聖書によれば、彼らの目は遮られていたのです(16節)。

つまり、彼らはイエス様を見ることができたものの、イエス様は彼らがご自身を認識することを許されませんでした。

もしかすると、イエス様は墓の外でマリアに現れた際も、同じことをされたのかもしれません。

その後、イエス様は彼らに尋ねられました。

歩きながら語り合っているその話は何のことですか。(ルカの福音書24:17)

おそらく、その二人はとても驚いたでしょう。「知らないのですか?あなたはエルサレムにいたのではないのですか?何が起こったか、ご存じでしょう?」

けれども、イエス様は何も知らないふりをして答えられました。

「どんなことですか?」(19節)

すると、その二人は自分たちの混乱と悲しみを打ち明けました。つまり、彼らはイエス様がメシアであり、ユダヤ人をローマ帝国から解放してくださると信じていました。

しかし、イエス様は十字架で死なれました。それに、彼らはイエス様がよみがえられたという話を聞いたものの、それが本当に信じられるかどうかわかりませんでした。

それを聞いて、イエス様は彼らを叱責されました。

ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。

キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。(25-26)

そして、イエス様は、苦しむメシアが私たちの罪のために死なれ、よみがえられたという、最初の説教を語られました。

彼らがエマオに着くと、イエス様はさらに先へ行かれる様子でした。けれども、彼らの心は揺さぶられ、イエス様に熱心にお願いしました。

一緒にお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています。(29)

そして、イエス様が彼らと食卓に着かれると、パンを取り、神様をほめたたえ、それを裂いて渡されました。(30)

もしかすると、その光景を見たとき、彼らはイエス様が5000人にパンと魚を与えられた出来事を思い出したのかもしれません。そして、彼らの目が開かれ、イエス様を認識しました。

ところが、その瞬間、イエス様の姿は見えなくなりました。

すると、彼らは話し合いました。

道々お話しくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心はうちで燃えていたではないか。(32)

そして、彼らは11人の弟子たちのもとへ行き、イエス様が復活されたことを伝え、女性たちとペテロの証言を確かめました。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれほど神様の言葉に対して鈍い心を持っているでしょうか。

私たちは、イエス様が私たちの罪のために死なれ、よみがえられたことを信じているかもしれません。しかし、イエス様のほかの言葉を本当に信じているでしょうか。

なぜ私たちの心は鈍くなってしまうのでしょうか。

もしかすると、あの二人の弟子のように、過去の経験を振り返ることで失望するのかもしれません。あるいは、私たちの人生が思い描いた通りに進んでいないのかもしれません。

そうすると、私たちは神様に問いかけます。 「あなたの言葉は真実なのでしょうか。あなたは本当に私とともにおられるのでしょうか。私の必要を本当に満たしてくださるのでしょうか。あなたは私を本当に愛しているのでしょうか。」

私もそうした疑いを抱いたことがあります。

もしかすると、私たちは神様の道を疑い、自分の道を選びたいと思うのかもしれません。神様の道は意味がないと思ってしまうからです。

私はノンクリスチャンと結婚するクリスチャンを何人も知っています。彼らの理由は、良いクリスチャンの伴侶を見つけられなかったことでした。けれども、多くの場合、後になってその決断を後悔しました。

私たちがイエス様の言葉を信じないなら、あの二人の弟子たちのように、失望と悲しみに満ちた人生を歩むことになります。

しかし、良い知らせがあります。イエス様は決して私たちを見捨てません。イエス様は今も私たちとともに歩んでおられます。

もし、私たちが心を開き、すべてを打ち明けるなら、イエス様はご自身の言葉を私たちの心に注ぎ、私たちを癒し、新しい希望を与えてくださいます。

だから、鈍くなった心を捨てましょう。心を開き、イエス様を信じましょう。

聖書はこう言っています。「この方(イエス様)に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)

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マタイの福音書 マタイ28章 マルコの福音書 マルコ16章 ヨハネの福音書 ヨハネ20章 ルカの福音書 ルカ24章

いつも私たちと共におられる方

イエス様の復活について、二つの注意事項をお伝えしたいと思います。

一つ目は、マルコ16:9-20を省略することです。なぜなら、多くの聖書学者によれば、マルコはこの部分を書いていなかったと考えられているからです。

では、なぜマルコは具体的にイエス様の復活について語らなかったのでしょうか。私は三つの説を聞いたことがあります。

1つ目は、マルコが福音書を完成させる前に亡くなったという説です。

2つ目は、元々の結末が何らかの理由で失われたという説です。

3つ目は、使徒の時代には、教会で牧師がマルコの福音書を朗読した後に、イエス様の復活を目撃した人々が自分の証を語っていた可能性があるという説です。

いずれにせよ、マルコが亡くなった後、現在の結末が加えられたと考えられています。

二つ目の注意事項は、福音書間でイエス様の復活の記録を統合するのが非常に難しいということです。できる限り、復活の出来事の順番を整理しようと思いますが、これはあくまで私の考えです。

とはいえ、どの福音書を読んでも、基本的な事実は一致しています。

女性たちがイエス様の墓に着いたとき、その墓はすでに空っぽでした。そして、天使たちが現れ、イエス様の復活を彼女たちに知らせました。

その後、イエス様はマリアやほかの女性たちにご自身を現され、彼女たちは弟子たちにイエス様の復活を伝えました。

現代の弁護士によれば、法廷では証人の証言に多少の違いがあったとしても、これらの四つの事実は十分に認められるでしょう。

では、簡単にですが、復活の出来事の順番を説明します。

1.女性たちはイエス様の墓に行ったが、イエス様の遺体はありませんでした。

2.マリアが墓に入り、イエス様の遺体がないと分かると、すぐに弟子たちに知らせるために戻りました。

3.ほかの女性たちはその場に残り、おそらく何が起こったのか疑問に思ったでしょう。そして、二人の天使が現れ、そのうちの一人がイエス様の復活の良い知らせを伝えました。

4.そこで、女性たちは弟子たちに伝えるために急いで戻りました。彼女たちは急いでいたため、誰とも話しませんでした。(マタイ28:5-8;マルコ16:1-8;ルカ24:1-10)

5.その間に、マリアは弟子たちにイエス様の遺体がなくなったことを伝えました。(ヨハネ20:2)そこで、ペテロと(おそらく)ヨハネは墓を調べに行きました。マリアは彼らと共に墓に戻りました。

彼らが家を出た後、ほかの女性たちは家に来て、残っていた弟子たちに天使のメッセージを伝えました。(ルカ24:9-11)

6.ペテロとヨハネは墓に着き、マリアの話を確認しました。ヨハネはイエス様が復活されたと信じたようですが、ペテロはまだ疑っていたようです。おそらく、彼らは戻る途中でそのことを話し合ったでしょう。(ルカ24:12;ヨハネ20:3-9)

7.ペテロとヨハネが墓へ向かう際、走ったため、もしかするとマリアは遅れて着いたかもしれません。そのため、マリアがようやく墓に着いたとき、ペテロとヨハネがまだそこにいたかどうかは分かりません。

そして、イエス様はマリアの前に現れ、彼女を慰められました。その後、彼女はすぐに弟子たちのもとへ戻りました。(ヨハネ20:12-18)

8.マリアが戻っている間に、イエス様はほかの女性たちの前に現れました。彼女たちは道中だったのかもしれません。また、弟子たちが彼女たちの言葉を信じなかったため、多少の失望を感じていたかもしれません。

けれども、イエス様が彼女たちを励まされたので、彼女たちはもう一度弟子たちのもとへ向かいました。

その頃、マリアも戻ってきたため、弟子たちはマリアと女性たちの話を聞きました。(マタイ28:9-10)

その順番が正しいかどうかは分かりませんが、これが私の推測です。

さて、マリアのことを少し考えてみましょう。私がこの場面を想像すると、イエス様の墓の外で、マリアが深い悲しみに沈み、絶望している姿が浮かびます。

もし私の考えが正しければ、彼女はまだほかの女性たちの天使の経験を聞いていません。マリアが知っているのは、ただイエス様の遺体がなくなったという事実だけです。

そして、マリアが墓に入ると、二人の天使がいました。ところが、ほかの女性たちの話をまだ聞いていなかったため、マリアは彼らが天使であることを認識しませんでした。

すると、天使たちは「なぜあなたは泣いているのですか」と尋ねました。

マリアはただこう答えました。「誰かが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」

もしかすると、天使たちがイエス様の復活を伝えようとしたその瞬間、イエス様が現れたのかもしれません。

最初、マリアはイエス様を認識しませんでした。しかし、イエス様が彼女の名前を呼ばれました。

「マリア。」

その瞬間、マリアの悲しみの涙は、一気に大きな喜びへと変わりました。

私たちはどれほどマリアのようでしょうか。苦しみに沈み、神様が遠く感じることがあります。

祈っても、まるでその祈りが天井にぶつかり、神様に届かないかのように感じることもあります。

神様を求めても、見つけられないことがあります。まるで神様が沈黙し、いなくなったかのように思えることもあります。

けれども、実際には神様は私たちとともにおられます。マリアのように、私たちは神様を見ていないだけかもしれません。しかし、神様は確かにそこにおられます。そして、最もふさわしい時に、ご自身を現してくださいます。

だから、諦めないでください。誰もが悲しみの時を経験します。誰もが、神様が遠く感じる時を通ることがあります。けれども、神様はインマヌエルです。すなわち、「神様は私たちとともにおられる」ということです。

そして、イエス様を復活させたのと同じ力で、神様は私たちの悲しみを喜びへと変えてくださいます。

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聖書が成就するため

この箇所を読むと明らかなのは、イエス様の死が偶然ではなかったということです。また、イエス様の死は神様の間違いでもありませんでした。むしろ、神様はこの時が始まる前から、私たちの救いを計画しておられたのです。

皮肉なことに、祭司長たちがイエス様がメシアであるしるしを求めたとき、イエス様は確かにそのしるしを与えられました。けれども、彼らはそのしるしを認識することができませんでした。

彼らはイエス様に十字架から降りるように挑戦しましたが、イエス様は預言の成就を示されました。

そして、イエス様は叫ばれたのです。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

祭司長たちは、イエス様がエリヤという預言者を呼ばれているのだと思いました。しかし、実際にはイエス様は彼らに詩篇22篇を指しておられたのです。なぜでしょうか。それは十字架の上でイエス様がダビデによって書かれた言葉を成就されたからです。

十字架の上で、イエス様は侮辱され、軽蔑されました。驚くべきことに、祭司長たちは知らず知らずのうちにダビデの詩篇を引用していたのです。詩篇22篇において、ダビデの敵はこう語りました。

主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。(詩篇22:8)

祭司長たちはイエス様について、こう言いました。

彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。「わたしは神の子だ」と言っているのだから。(マタイ27:43)

ダビデの時代には、十字架という刑罰はまだ存在していませんでした。それにもかかわらず、ダビデは十字架による死を生々しく描写しました。ダビデはこう語りました。

水のように 私は注ぎ出され、
骨はみな外れました。(詩篇22:14a)

実際には、十字架にかけられた人々の骨の関節がしばしば外れたとされています。

そして、ダビデはこう語りました。

心はろうのように
私のうちで溶けました。(詩篇22:14b)

ヨハネによれば、兵士がイエス様の脇腹を槍で突き刺したとき、血と水が流れ出ました。現代の医師によれば、その血と水が流れる現象は、心不全の兆候である可能性があるとされています。

さらに、ダビデはイエス様が喉が渇くことについても預言していました。

舌は上あごに貼り付いています。(詩篇22:15)

さらに、ダビデはイエス様の手と足が刺されることについても預言しました。(ダビデは釘ではなく、犬の歯や、場合によってはライオンの歯のような描写を使用しています。詳細については詩篇22篇の13節をご覧ください。)

犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。(詩篇22:16)

さらに、十字架にかけられた人々は、自分の胸郭を見ることができたとされています。

ダビデはそのような状況についても詩篇の中で描写しました。

私は自分の骨をみな数えることができます。(紙片22:17)

さらに、ダビデは兵士たちがイエス様の服をめぐって賭けをすることについても預言されました。

彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。(詩篇22:18)

それらの預言はイエス様を指していました。祭司長たちは聖書をよく知っていましたが、それを認識することができませんでした。

ヨハネは他の聖書の箇所も参考にしています。詩篇34篇と69篇、またゼカリヤ書12章もイエス様のことを指しています。

さらに、イザヤ書53章は特に具体的にイエス様のことを指しています。

イエス様は私たちの背きのために刺されました。また、イエス様は私たちの罪のために砕かれました。(5節)

証人たちがイエス様に言いがかりをつけたにもかかわらず、イエス様は何も言われませんでした。(7節)

イエス様は自分の敵のためにとりなしをされました。(12節)

イエス様は悪者たちと一緒に葬られるはずでしたが、最終的にお金持ちの人のお墓に葬られました。(9節)

そして、イエス様はよみがえられました。(10-11節)

だから、私はもう一度言います。イエス様の死は偶然ではありませんでした。時間が始まる前に、天の父はイエス様の死、そして私たちの救いを計画しておられたのです。

ですから、イエス様の十字架の御業を当たり前のものだと決して思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちの救いのため、またイエス様が支払われた代価のために、天の父をほめたたえましょう。

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全額が支払われた

私が大嫌いなことの一つは、税金を払うことです。毎年、私は税務署に行き、確定申告を提出します。その後、一か月ほどして税務署が少しお金を返してくれます。しかし、その直後には市民税や県民税を支払わなくてはなりません。

私はいつも一括払いで税金を支払います。もちろん分割払いも選択できますが、一括払いの方が自分には合っていると思います。そうすれば、次の年まで税金のことを考えなくても済むからです。

十字架の上で、イエス様の最後の言葉は、まるでその税金を支払うイメージを描写しているようでした。

12時になると、暗闇が全地を覆いました。そして15時ごろまで、その暗闇は続きました。おそらくその間に、神様は私たちの罪をすべてイエス様に負わせたのではないでしょうか。

その暗闇は罪の象徴だったのでしょう。罪によって霊的な暗闇がこの世にもたらされましたが、天の父はその罪をイエス様に負わせられました。

そして、15時ごろ、イエス様は叫ばれました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

その瞬間、おそらく天の父は、私たちの罪をイエス様に負わせ、イエス様に背を向けられたのではないでしょうか。それにより、天の父とイエス様との関係は初めて壊れてしまったのでしょう。

そしてイエス様は私たちが本来受けるべき罰を経験されました。つまり、イエス様は天の父から離れられたのです。

イエス様は完全な愛の源、喜びの源、そして命の源から離れられました。

そのような状態はまさに地獄そのものです。イエス様は実際に地獄に行かれたわけではありませんが、ある意味で地獄を経験されたのです。イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

そして、死を迎える直前、イエス様は天を仰ぎ、祈られました。

完了した。父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。(ルカ23:46;ヨハネ19:30)

「完了した。」

イエス様の時代、ユダヤ人たちが税金を支払うと、ローマ人はその言葉を請求書に捺印しました。その意味は、「全額が支払われた」ということです。

イエス様の死によって、私たちの罪のためのすべての負債が支払われました。

その結果はどうでしょうか。私たちは神様との新しい関係を持つことができるようになりました。神様は至聖所と聖所の間にかかっていた神殿の幕を、上から下まで真っ二つに裂かれました。(マルコ15:38)

その理由は何でしょうか。

その行為を通して、神様は私たちにこう語られたのです。「私たちの間にあった障害は破られた。イエス様を通して、あなたは私に近づくことができる。」

イスラエル人が経験したように(出エジプト記20:18-21)、私たちはもはや神様から遠くに立つ必要はありません。

むしろ、私たちは神様に近づくことが許されています。

だから、神様に近づきましょう。

へブル人への手紙の著者はこう述べています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19-22)

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神様をののしること。神様の前にへりくだること。

これは、十字架にまつわる有名な話の一つです。イエス様の隣には、二人の犯罪人も十字架につけられました。そして、ルカはその二人についてこう記しています。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え、」と言った。(ルカ23:39)

「ののしり」という言葉が私の心に強く響きました。それを思い、こう考えました。「どれほどの人々が自分の罪による苦しみの中で、神様をののしるだろうか。」

この犯罪人は悪事を働いたために罰を受けていましたが、悔い改めることなく、その罰について不満を述べていました。

もしかすると、彼は自分の行為が正しいと思い込み、イエス様にこう叫んだのかもしれません。「あなたは本当にキリストなのですか。私はこの罰に値しない。私を救いなさい。」

他の福音書によれば、最初はもう一人の犯罪人もイエス様をののしっていました。しかし、おそらくイエス様は答えることなく、情け深く彼らを見つめられたのでしょう。

だからこそ、二人目の犯罪人は次第に静まっていったのかもしれません。彼が悟ったのは、ローマ人がイエス様の尊厳を奪おうとしていたにもかかわらず、イエス様がその尊厳を保ち続けておられたということでした。

さらに、彼はイエス様が敵に対して情けと愛と赦しの心を持っておられるのを目にしました。

もしかすると、その犯罪人は以前にイエス様の奇跡を目の当たりにしたことがあり、イエス様の教えを聞いたことがあったのかもしれません。

そして、彼は自分自身を見つめ直し、初めてこう認めたのでしょう。「やはり私は悪かったのだ。いろいろと言い訳をしたが、それはただの言い訳にすぎなかった。私は確かにこの罰に値する。」

だからこそ、もう一人の犯罪人がイエス様をののしり続けると、彼はこう言いました。

おまえは神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。

おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(40-41)

そして、彼はイエス様に向き直り、こう願いました。

イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(42)

私のただの想像にすぎませんが、たぶんイエス様は十字架の上で初めて微笑まれたのかもしれません。そしてイエス様はこう答えられました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。(43)

その瞬間、その犯罪人は救われました。彼は死にかけていながらも、命を見いだしたのです。

私は前にも述べましたが、多くの人々は一人目の犯罪人のような態度を取ります。彼らは悪事を行いますが、罰を受けて苦しむと、自分の悪さを認めることなく神様をののしるのです。

多くの人々が、なぜ神様が地獄で人々を永遠に罰するのか疑問を持ちます。

その理由の一つとして、地獄では誰も悔い改めないからかもしれません。むしろ、彼らは永遠に神様をののしり続けます。

彼らは自分の行為が正しかったと主張し続けます。彼らの心では、自分の悪さを理解していながらも、自分の罰について不平を言い続けるのです。

地獄では、人々は自分の罪深さを認識し、その罰に値することも理解していますが、それを決して認めることはありません。

しかし、自分の罪を認め、へりくだって悔い改める人は、二人目の犯罪人のように赦され、命を見いだすのです。

そのための時間は「今」しかありません。死んでからでは、すでに手遅れなのです。だからこそ、パウロはこう書きました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

あなたはどうでしょうか。イエス様の前にへりくだって来ることができるでしょうか。そして、イエス様からの救いを受け入れるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ23章

彼らをお赦しください

多くの人々にとって、相手を許すことは非常に難しいことです。それは、私たちの心に深い傷があるからです。そして、その傷が深ければ深いほど、癒しにはより長い時間がかかります。

もし指を針で刺されたなら、癒しは早いでしょう。けれども、誰かが意図的にあなたの背中をナイフで刺したなら、その傷が癒えるには非常に長い時間を要するでしょう。

だからこそ、敵に対するイエス様の反応は本当に驚くべきものです。十字架の上で、イエス様はこう言われました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカの福音書23:34)

イエス様の言葉について、少し考えてみてください。

もし相手が自分が何をしているのか分かっていなかったなら、その人を許すことは比較的簡単なことでしょう。多くの場合、彼らが自分の行為に気づくとすぐに謝罪し、それを許しやすく感じることが多いからです。

しかし、もし相手が意図的にあなたを傷つけたのであれば、それを許すのは非常に難しいことです。

では、パリサイ人たちや祭司長たちの場合はどうでしょうか。彼らはイエス様にこう言ったでしょうか。

「あれ?イエス様、私たちの行為によって、あなたが十字架につけられているのですか。ごめんなさい。今すぐあなたを助けます。」

そうではありません。彼らは最初から意図的にイエス様を殺そうと計画していました。

彼らは代価を支払ってユダにイエス様を裏切らせました。最高法院での裁判のために偽りの証人を集め、さらにピラトやヘロデのもとでイエス様について数々の嘘をつきました。

彼らの影響力によって、ユダヤ人たちは「十字架につけろ!」と叫びました。それだけではなく、イエス様が十字架にかかっている間も、彼らはイエス様を侮辱し、からかいました。

では、イエス様は本当に「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言うことができたのでしょうか。彼らはすべてを理解していたように見えます。

それでも、彼らは実際には知りませんでした。彼らは自分の嫉妬によって目が曇らされていました。彼らのプライドや罪がその視野を曇らせていたのです。さらに、サタン自身が彼らの思いを暗くしたのです。

実は、私たち全員が、かつて霊的に盲目でした。

たとえ人々が意図的にあなたを傷つけたとしても、その理由は彼ら自身も霊的に盲目であるからかもしれません。

もしかすると、彼らはあなたにどれほどのダメージを与えたか気づいていないかもしれません。 もしくは、彼らは神様の目にはあなたが価値ある存在であることを知らないのかもしれません。

あるいは、彼ら自身が深い傷を抱えているため、思わずあなたを傷つけてしまうことがあるかもしれません。そして、自分の行為について自覚していない場合もあるでしょう。

例えば、ある男性は長年、家族を虐待していた父親を許せませんでした。けれども、神様はその男性に、その父親自身も子供の頃に虐待を受けていたことを明らかにされました。癒されていない傷が原因で、その父親は大人になってから自分の家族を傷つけてしまったのです。

その息子が父親の傷を理解したとき、父親に対する共感が生まれ、許すことができるようになりました。

私たちが相手を許せないときには、次のことのために祈るべきです。つまり、私たちが自分の傷から目をそらし、私たちを傷つけた人の心を理解できるように祈るのです。

イエス様は十字架の上でまさにそれをなさいました。イエス様はご自身の傷ではなく、イエス様を憎む人々のニーズに目を向けられました。その人々は決して悔い改めることはありませんでしたが、それでもイエス様は彼らを赦してくださいました。

神様の助けによって、あなたも相手の傷を理解することができるようになります。それでも、相手は悔い改めないかもしれません。

けれども、あなたが相手のことを理解することができたなら、あなた自身が変わります。あなたは自分の傷ではなく、相手の傷に焦点を当てるようになります。

そして、神様があなたの心にその人への愛と憐れみを注いでくださり、彼らを赦すことができるようになるのです。

許せない人がいるでしょうか。その人を理解できるように祈ってください。その人の傷を知ることができるように祈りましょう。そして、イエス様のように祈りましょう。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。

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神様が書かれたこと

ピラトと祭司長たちのやり取りは非常に興味深いものです。ピラトは十字架の上にイエス様の罪状書きを掲げました。その「犯罪」とは?

「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。

祭司長たちはすぐにピラトのもとへ行き、抗議しました。彼らはこう言いました。「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この者はユダヤ人の王と自称した』と書いてください。」

けれども、ピラトは答えました。「私が書いたものは、そのままにしておけ。」(ヨハネ19:21-22)

今もなお、多くの人々はユダヤ人たちのような態度を取っています。彼らはイエス様を王として認めようとしません。彼らはイエス様が神の子であると認めたくありません。また、イエス様だけが神様への道であると認めたくありません。

そのため、彼らはクリスチャンたちに不平を言います。

「イエス様がご自身を王や神の子や神様への道だと自称したかもしれませんが、私はそうは信じません。」

しかし、私たちはピラトとは違い、私たち自身よりも遥かに優れた権威を持つ方を指すことができます。私たちは彼らにこう言うことができます。

「神様が書かれたものは定められています。あなたはその言葉を変えることはできません。あなたは神様の御心を変えることもできません。神様の言葉は永遠に立ちます。あなたの不信が、神様の言葉を変えることはありません。」

人々はこのような言葉を聞きたくないでしょう。祭司長たちもピラトの言葉を聞いて激怒したはずです。けれども、相手がその言葉を好むかどうかは問題ではありません。なぜなら、神様の言葉は正しいのです。

だからこそ、人々は選択を迫られます。

彼らは自分の心をその真理に合わせるでしょうか。それとも、彼らが信じたいと思うものに真理を曲げようとするでしょうか。

しかし、もし彼らが真理を曲げようとするならば、最終的に彼らの人生は砕かれてしまいます。

イエス様はご自身について、こう言われました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。

「家を建てる者たち(つまり、祭司長たちや、ほかの宗教的なリーダーたち)が捨てた石(つまり、イエス様)、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」。。。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42,44)

祭司長たちがイエス様を拒絶した結果、彼らの世界は崩壊しました。エルサレムは滅び、神殿は破壊されました。そして、裁きの日には彼らは自分の罪によって裁きを受けることになるのです。

イエス様を拒絶するすべての人々にも同じことが起こります。なぜなら、神様が書かれたことは定められているからです。

その言葉を聞いて、あなたはどう応えるでしょうか。

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イエス様の心

イエス様の心を見て、私はいつも驚かされます。

この箇所では、私たちはイエス様を十字架へと導いた、憐れみ深い御心を見ることができます。

イエス様が丘を登られたとき、泣いている女性たちをご覧になり、こう言われました。

エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。

なぜなら人々が、「不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来るのですから。

そのとき、人々は山々に向かって「私たちの上に崩れ落ちよ」と言い、丘に向かって「私たちをおおえ」と言い始めます。

生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。(ルカの福音書23:28-31)

イエス様はご自身の境遇を顧みることなく、ユダヤ人たちがイエス様を拒絶した結果について預言されました。

つまり、「私が神様のいのちで満ち溢れているのに、ローマ人たちが私にこのようなことをするなら、彼らは霊的に枯れた人々に対してどうするでしょうか。

ローマ人たちはあなたたちを迫害し、あなたたちは死を望むようになります。その時、子供のいない人々をねたむほど絶望するでしょう。」

35~40年後に、イエス様の言葉は成就しました。ローマの軍隊はエルサレムを破壊したのです。

しかし、私の心に響いたのは、イエス様がそのことを決して望んでおられなかったことです。ユダヤ人たちがイエス様を憎んだにもかかわらず、イエス様は彼らの破壊を望まれることはありませんでした。むしろ、イエス様は彼らの救いを望まれました。

そして、イエス様は私たちの救いも望んでおられるのです。

そのため、イエス様は十字架へと向かわれました。イエス様はご自身だけでなく、私たちと私たちの必要を見てくださったのです。

このことを思い巡らしていると、一つの讃美歌が心に浮かびます。

And can it be that I should gain an interest in the Savior’s blood?
どうして、救い主の血によって、私が益を得ることができたのでしょうか。
Died He for me, who caused His pain—
私がイエス様の苦しみを引き起こしたのに、イエス様は私のために死んでくださいました。
For me, who Him to death pursued?
私がイエス様を死に追いやったのに、イエス様は私を愛しておられました。

Amazing love! How can it be,
なんという驚くべき愛でしょうか。そんなことが本当にあり得るでしょうか。
That Thou, my God, shouldst die for me?
私の神であるあなたが、どうして私のために死んでくださったのでしょうか。

ーーチャールズ・ウェズリー

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もし私たちがイエス様の十字架を背負わなければならなかったら

クレネのシモンについて、私たちはほとんど知りません。マルコによれば、彼はルフォスという人の父でした。

ローマ書16:13では、パウロがルフォスという人に挨拶していることから、ある聖書学者たちはマルコの福音書のルフォスが同一人物だと考えています。

シモンは、おそらく北アフリカ出身のユダヤ人で、過ぎ越しの祭りを祝うために初めてエルサレムを訪れた巡礼者だったのでしょう。

ところが、エルサレムに到着した彼は、自分が思い描いていた以上の出来事を目撃することになりました。シモンは、まことの過ぎ越しの子羊が自分の罪のために犠牲となる瞬間を目の当たりにしたのです。(第一コリント5:7)

しかしその前に、シモンはイエス様の十字架を背負わなくてはなりませんでした。

最初はイエス様がご自身の十字架を背負われました。けれども、肉体的な苦しみ(イエス様はむち打たれ、大量の血を流され、兵士たちの拳で殴られました)や精神的な苦しみ(イエス様が愛された者たちに裏切られ、捨てられました)のため、その十字架の重さに耐えきれず、倒れてしまわれたのです。

イエス様はその十字架を背負い続けることができなくなられました。そこでシモンが代わりにその十字架を背負うこととなりました。

その出来事を読んで私はこう考えました。

もしイエス様がゴルゴタで「もういいです。私はもうこの苦しみに耐えられません。あなたがこの十字架を背負いなさい。あなたがこの十字架で死になさい。あなたはこの十字架に値するでしょう?私は罪を犯したことがありません。罪を犯したのはあなたです。」と言われたら、私たちはどうなっていたでしょうか。

ある意味で、シモンはそれを少し経験しました。イエス様が十字架を背負うことができなくなられたため、シモンは自分の十字架を背負わなければなりませんでした。

ですが、実際にはそれは本当はイエス様の十字架ではありませんでした。それはシモン自身の十字架だったのです。なぜなら、イエス様は罪を犯しておられませんでしたが、シモンは多くの罪を犯していたからです。

後になって、シモンはその真実を理解したのでしょうか。

「私は実際にはイエス様を助けていませんでした。本当にその十字架に値していたのは私自身でした。

実は、その十字架を背負ったとき、イエス様は私を助けようとしてくださっていました。私はその十字架で死ぬことに値していたのですが、イエス様が私の代わりに十字架で死んでくださったおかげで、私は罪から救われたのです。

でも、もしイエス様が十字架をもう耐えられなくなっていたら、私はどうなっていたでしょうか。私は今どこにいただろうか。」

その答えは?地獄です。なぜなら、私たち皆が地獄に値するからです。

しかし、イエス様は十字架を背負ってくださいました。イエス様は、私たちが値する罰を十字架の上で受けてくださるほど、私たちを愛してくださいました。

だからこそ、私たちの罪は赦され、真の命を得ることができるのです。それは、私たちを深く愛しておられる神様との関係を持つ人生です。

ですから、十字架を当たり前のものだと考えてはいけません。むしろ感謝の心を持って、私たちのために十字架で死んでくださったイエス様を仰ぎ見ましょう。

Jesus Christ,
イエス・キリスト
Praise your name,
あなたの御なをほめたたえます。
Lord I sing without shame.
主よ、私は恥じることなく歌います。

You bore the cross.
あなたは十字架を背負ってくださいました。
So much love.
こんなにも大きな愛で。
All my life, all I need is you.
私の一生、私が必要とするのは、あなたただ一人です。

ーージェームズ・ガブリエル

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ルカの福音書 ルカ23章

イエス様が答えてくださらない人

この箇所では、私たちはイエス様に対するヘロデの反応を見ることができます。

しかし、より正確に言えば、私たちはヘロデに対するイエス様の反応を見ることができるのです。

このヘロデは、バプテスマのヨハネを殺害しました。そして、彼がイエス様のことを初めて聞いた時、イエス様が実はよみがえったヨハネではないかと疑問に思いました。(マタイ14:12; ルカ9:7-9)

そのため、ヘロデはイエス様に会いたいと思いました。一方で、パリサイ人によれば、ヘロデはイエス様を捕まえたいとも考えていました。(ルカ13:31-33)

しかし、この物語では、ついにヘロデはイエス様に会うことができました。彼はイエス様に奇跡を行うよう頼んだり、さまざまな質問を投げかけたりしましたが、イエス様は何もお答えになりませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、イエス様はヘロデが何を聞いても、イエス様を信じず、従わないことを知っていたからでしょう。

ヘロデは、かつて何度もバプテスマのヨハネの言葉を聞き、「非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」にもかかわらず、悔い改めることはありませんでした。(マルコ6:20)

ヘロデはイエス様に対しても同じ態度を取りました。ヘロデにとって、イエス様は興味深い存在であったかもしれません。もしかしたら、イエス様が何か奇跡を披露してくれると期待していたのかもしれません。

けれども、ヘロデはイエス様を重んじることはなく、イエス様に従う意思も全くありませんでした。そのため、イエス様は何もお答えになりませんでした。

この物語は私たちへの警告です。もし私たちがイエス様に対して頑なな心を持っているならば、イエス様は私たちに語りかけることをおやめになるかもしれません。

イエス様は、私たちの願望を叶えるためだけの存在ではありません。私たちは、イエス様を軽んじてはなりません。

イエス様は私たちの神です。

イエス様は私たちの王です。

イエス様は私たちの主です。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様をどのように考えますか。

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私たちには、基礎がないと

前にも言いましたが、この福音の箇所を統合するのは少し難しいです。 以下は私の個人的な意見ですが、どうぞ福音書を読んで、自分なりの結論を導いてください。

  • 祭司長たちや最高法院の代表たちは、イエス様をピラトの前に連れて行き、最初の告発をしました。(ルカ 23:1-2; ヨハネ 18:29-31)
  • ピラトは初めてイエス様と対話しました。(ヨハネ 18:33-38では、その話の詳しい内容が記されていますが、ほかの福音書では簡潔に要約されています。)
  • ピラトはイエス様が無実であると宣告しましたが、ユダヤ人のリーダーたちがその判断に抗議したため、ピラトはイエス様をヘロデのもとに送りました。(マルコ 15:3-5; ルカ 23:4-12)
  • ヘロデがイエス様をピラトに送り返し、ピラトはもう一度イエス様が無実であると宣告しました。(ルカ 23:13-17)
  • その後、ピラトはユダヤ人たちに「私はイエス様かバラバ(犯罪者)を釈放しようと思っているが、どちらを釈放すべきだと思うか」と尋ねました。けれども、ユダヤ人たちはバラバの釈放を望みました。(これはすべての福音書に記されています。)
  • ピラトはバラバを釈放しましたが、イエス様を殺すのではなく、むち打つように命じました。(マルコ 15:16-20; ルカ 23:21; ヨハネ 19:1-7)
  • ピラトはもう一度ユダヤ人たちを説得しようとしましたが、最終的にイエス様が十字架にかけられるよう命令しました。(ヨハネ 19:7-14)

その背景を踏まえて、今後数日にわたって、私はすべての主人公について話そうと思います。

今日はピラトについてお話したいと思います。

歴史書にはピラトに関する記述がありますが、私は聖書の物語だけを参考にしたいと思います。

この話を読むと、私はピラトに関してこう感じます。

「難しい決断をしなければならない時や、自分の人生の在り方を考える時、ピラトには強い基盤がなかった。」

ピラトが初めてイエス様を尋問した時、彼はまずイエス様が本当に反逆者かどうかを見極めたいと思いました。そのため彼は直接こう尋ねました。「お前は王なのか。」

イエス様はご自身が王であると主張されましたが、「私の国はこの世のものではありません」と語られたため、ピラトはイエス様がローマ帝国に対する脅威ではないと判断しました。ピラトにとって、それが最も重要なことでした。

しかし、イエス様は続けてピラトの世界観に異議を唱えられました。イエス様はこう言われました。

わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。(ヨハネ18:37b)

要するに、「ピラト、あなたは真理の味方でしょうか。 あなたは真理を愛しているでしょうか。 真理はあなたの基礎でしょうか。

もしそうであるならば、あなたは私の言葉を聞き、従わなくてはなりません。」

私たち皆もイエス様の質問と向き合わなければなりません。 私たちの人生の基礎は何でしょうか。その基礎は真理でしょうか。 イエス様が真理であることを信じるでしょうか。

ピラトもその疑問と向き合いました。彼の反応はどうだったでしょうか?

真理とは何なのか。(ヨハネ18:38)

私はピラトの声を本当に聞いてみたいです。

彼は怒ってこう言ったのかもしれません。 「あなたは自分が誰だと思うのか?すべての人々よりも、あなたは真理をよく知っていると思うのか。」

あるいは、皮肉っぽい声でこう言いたかったのかもしれません。 「真理?本当の真理なんてない。真理とは、力を持つ者が語るものだ。」

または、絶望を感じながらこう言ったのかもしれません。 「真理が本当に存在するのだろうか。たとえ真理が存在するとしても、私はそれを見つけられるだろうか。」

ピラトが本当に意味したものは私には分かりませんが、結局彼は真理の存在を拒絶しました。そしてイエス様を真理の源として拒絶しました。その結果はどうだったでしょうか?

彼が決断を下したとき、確固とした基盤を持っていませんでした。むしろ、彼は周囲の人々の言葉やプレッシャーに影響を受けました。

彼は暴動の脅威に直面しました。(マタイ27:24)

また、ユダヤ人の指導者たちはピラトの行為をカエサルに伝えると脅しました。(ヨハネ19:12)

そのプレッシャーを感じたピラトは、自分の恐れに負けて悪い決断をしました。彼自身がその決断が間違いであると十分に分かっていたにもかかわらず、それを選びました。

私たちにも同じようなことが起こるかもしれません。もし私たちが真理を基盤としなければ、もし私たちがイエス様を基盤としなければ、私たちは周囲の人々の意見や自分自身の恐れに左右されて決断します。そして、悪い決断をしてしまうのです。

あなたはどうでしょうか?決断を下すとき、あなたの基盤は何ですか?あなたの人生の基盤は何ですか?神様の知恵を求めていますか?神様の言葉が真理であることを信じていますか?

ヤコブはこう語っています。

あなたがたのうちに、知恵にかけている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱くもので、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。(ヤコブ1:5-8)

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最も大切な質問

イエス様の裁判はいろいろな意味で本当にひどいものでした。

その最大の理由は、祭司たちと最高法院がイエス様が無実であることを十分に理解していたことです。 それにもかかわらず、彼らはイエス様を妬み、憎んでいたため、必死にイエス様を殺す理由を探し続けました。

神様の律法によれば、人を告発するには、二人の証人の証言が一致しなければなりませんでした。 けれども、彼らは証人たちを何人も尋問しましたが、証言が一致する二人の証人を見つけることができませんでした。

ようやく彼らは証言が一致していると思われる二人の証人を見つけたかのように思いました。その証人たちによれば、イエス様は「神殿を壊し、新しい神殿を建てる」と宣言されたというのです。

しかし、実際にイエス様が意味していたのは、「あなた方がこの神殿を壊しても、私はそれをよみがえらせる」ということでした。そして、イエス様がお話しされた神殿はヘロデの神殿ではなく、ご自身の死と復活に関するものでした。(ヨハネ2:19-21)

それにもかかわらず、大祭司がその証人たちを詳しく尋問すると、彼らの証言の中に矛盾があることが明らかになり、その証言は無効となりました。

フラストレーションを感じた大祭司は、イエス様を直接尋問することにしました。けれども、イエス様が沈黙を守り続けられたため、大祭司は叫びました。

私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。(マタイ26:63)

それは最も重要な質問です。 イエス様とは誰でしょうか。 イエス様は本当に神の子でしょうか。 イエス様は本当にキリストでしょうか。

ちなみに、「キリスト」というのは名前ではなく肩書です。簡単に説明すると、「キリスト」とは、「神様が約束された王」を意味します。

だからこそ、もしイエス様がキリストであるなら、私たちは自分の人生をイエス様に捧げるべきです。さらに、いつかイエス様は私たちを裁かれるお方です。だからこそ、イエス様は彼らに警告を与えられたのです。

あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。(マタイ26:64)

イエス様はダニエル書7章を参照されました。ダニエルによれば、すべての力と権威と栄光がメシアに与えられ、メシアに立ち向かう者たちは裁きを受けるということです。

祭司たちと最高法院はそれを聞いた時、どのように反応したでしょうか。 彼らはイエス様とその言葉を拒絶しました。イエス様が彼らのメシアであり、神の子であることを信じることを拒みました。

その代わりに、彼らはイエス様を神への冒涜で告発し、死刑を宣告しました。

多くの人々は同じように反応します。彼らは福音を聞き、イエス様の主張を理解します。 それにもかかわらず、イエス様を拒絶します。

むしろ、彼らは十字架で自分のために死んでくださった方を踏みつけます。 そのため、へブル人への手紙の著者によれば、彼らはいつか裁かれるのです。(へブル 10:28-30)

しかし、イエス様を信じて受け入れる人は、神の子どもとなる特権を与えられます。(ヨハネ 1:12)

あなたはどうしますか。 イエス様を拒絶しますか。それともイエス様を受け入れますか。

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自分の心を見極める

イエス様の裁判を見る前に、少しペテロの話を振り返りたいと思います。

この話については、福音書を統合するのが少し難しいです。 けれども、この話をよく理解すると、ペテロは実際にイエス様を知ることを4回否定したものの、証人たちの前では3回否定したようです。

ペテロの最初の否定は、大祭司の家の中庭で起こりました。

もう一人の弟子(もしかするとヨハネか、あるいは12弟子の外から来た弟子かもしれません)が大祭司をよく知っていたため、中庭に入りました。

そしてその弟子がペテロのことを保証したため、ペテロも中庭に入ることができました。(ヨハネ 18:15-16)

この話に、一人のしつこい女性が登場します。彼女は門番として働いていたので、ペテロが中庭に入った際にこう尋ねました。

あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね。(ヨハネ18:17)

ペテロは「違う」と答えました。

そして、彼女から逃れたものの、ペテロが火に当たっていると、彼女は彼を追い、じっと見つめながら言いました。

あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。(マルコ14:67)

そして、大声で、彼女はその場の全員に向かって叫びました。

この人も、イエスと一緒にいました。(ルカ22:56)

それを聞いて、彼らはペテロに訊きました。

あなたもあの人の弟子ではないだろうね。(ヨハネ18:25)

ペテロはこのように答えました。

弟子ではない。何を言っているのか分からない。理解できない。(ヨハネ18:25b;マルコ14:68)

そして、ペテロはすぐに前庭の方に向かいました。 けれども、間もなく、その同じ女性がほかのしもべと共にペテロと対峙しました。

もしかすると、その友人は以前にペテロとイエス様を見たことがあったのかもしれません。 その時、門番はペテロを指して言いました。

「この人はあの人たちの仲間です。」(マルコ 14:69)

さらに、その友人も皆の前でこう言いました。

この人はあの人たちの仲間です。(マタイ26:71)

その中庭にいた一人がそれを聞き、ペテロをじっと見ました。 彼もペテロを認識し、大声で叫びました。

あなたも彼らの仲間だ。(ルカ22:58)

ペテロはそれを聞いて、誓いました。 「いや、違う。そんな人は知らない。」(マタイ 26:72;ルカ 22:58b)

その言葉を聞いて、たぶん皆は一瞬静まったかもしれません。 けれども、1時間後、別の大祭司のしもべが通りかかり、ペテロを見ました。

そのうえ、彼はペテロに耳を切り落とされた人の親類でした。 それで彼はこう言いました。

あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。(ヨハネ18:26)

ペテロがそれを否定しようとした時、別の人が大声で叫びました。

確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。ことばのなまりで分かる。(マタイ26:73;マルコ14:70)

それを聞いて、ペテロはパニックになり、もし自分が嘘をついているなら呪われてもよいと誓い始めました。そして叫びました。「そんな人は知らない。」(マタイ 26:74)

すると、鶏が鳴きました。

その瞬間、ペテロは大騒ぎの音を聞き、イエス様がピラトの元へ連れて行かれるところを見ました。そしてイエス様は振り向いてペテロをじっと見つめられました。ペテロは自分が何をしたのかを悟り、外に出て激しく泣きました。

これが私が福音書を統合して描いた話です。(もしかすると少し間違いが含まれているかもしれません。)

とにかく、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

ペテロを批判するのは簡単です。彼の臆病さや偽善を非難することもできるでしょう。しかし、そうする前に、私たちは自分自身の心をまず振り返るべきではないでしょうか。

実は、もし私がペテロだったなら、もっと勇気を持てたかどうか自信がありません。

私自身、十代の時に似たような経験をしました。友人に「君はクリスチャンか?」と尋ねられた時、その質問を避けようとしました。「はい」と正直に答えることができなかったのです。

今でもそのことを思い返すたびに恥ずかしい気持ちになります。

さらに、私は他のクリスチャンが様々な罪に陥るのを見たことがあります。特に性的な誘惑に負けることが多いです。

私自身もそのような誘惑に頻繁に直面します。そして、気をつけなければ私もその罪に陥るかもしれません。私は弱い存在です。神様の恵みによってのみ、私は立つことができています。

私たちが他の人が罪に陥るのを目撃する時、忘れてはならないことがあります。それは、私たち全員が弱いものであるということです。そして誰もが罪に陥る可能性があるのです。

ですから、他人を裁く前にその人を憐れみ、その人の回復のために祈りましょう。

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。

また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(ガラテヤ人への手紙6:1)

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力と権威、憐れみと恵み

この箇所では、イエス様の中に三つのことを見ることができます。

1.イエス様の力と権威。 イエス様は敵に取り囲まれていましたが、それでも状況を支配しておられました。

イエス様が立ち上がり、敵と向き合われた時、「誰を捜しているのか」と問いかけられました。 彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は「わたしがそれだ」と言われました。(ヨハネ 18:4-5)

日本語では分かりづらいですが、実はイエス様はこの時、神様の御名を使われました。(出エジプト 3:13-14;ヨハネ 8:58)

すると、イエス様の敵はその言葉を聞いた瞬間、地に倒れました。どれほどの恐怖を感じたことでしょうか。

そこで、イエス様は再び問いかけられました。「誰を捜しているのか。」(ヨハネ 18:6-7)

彼らはすっかり自信を失い、おどおどしながら答えました。「ナザレ人イエスを。。。」

彼らがイエス様の返事を待つ間、再び地に倒れる覚悟をしたかもしれません。けれども、イエス様は静かに答えられました。

わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。(ヨハネ18:8)

イエス様を捕らえに来たとしても、彼らは誰が本当の力を持っているのかを思い知らされました。 それは彼ら自身ではなく、イエス様でした。

2.イエス様の憐れみ。 敵はまだおどおどしていたため、弟子たちはその恐れにつけ込んで攻撃しようと思ったかもしれません。 すると、弟子の一人が叫びました。

主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

イエス様の答えを待たずに、ペテロは敵の一人を攻撃し、右の耳を切り落としました。 (もしかしたら、ペテロはその人の頭を斬ろうとしたものの、誤って耳だけを切り落としてしまったのかもしれません。)

けれども、イエス様は彼を叱責されました。

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。(マタイ26:53)

昔の讃美歌には、こんな歌詞があります。

イエス様は、ご自身を解放するため、またこの世界を滅ぼすために、一万人の天使を呼ぶことができたでしょう。

実は、その作詞家は誤解していました。12軍団とは、約4万8千人から7万2千人ほどの規模を指します。

とにかく、イエス様はその敵だけでなく、世界のすべての人々を滅ぼすこともできました。 しかし、イエス様は彼らを憐れんでくださいました。イエス様は彼らを殺さず、むしろ彼らの命の代わりに、ご自身の命を捧げられました。

3.イエス様の恵み。 憐れみとは、相手が受けるべき罰を与えないことです。 恵みとは、相手が受ける資格のないものを与えることです。

この出来事では、イエス様は大祭司のしもべに恵みを示されました。 イエス様は彼の耳を癒してくださいました。(ルカ 22:51)

それはイエス様の最後の癒しの御業でした。 より正確に言うと、それはイエス様の最後の肉体的な癒しの御業でした。

十字架の御業を通して、イエス様は私たちに霊的な癒しをもたらしてくださいました。 イエス様の恵みによって、私たちの罪は赦され、私たちは永遠の命を得ることができます。

私たちがしなければならないことはただ一つだけです。それは、イエス様を信じることです。

力と権威。憐れみと恵み。私たちの主を描写するより優れた言葉があるでしょうか。

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私の心と神様の心が違うとき

時に、私たちは試練と苦しみに直面します。例えば、重い病気にかかったり、信仰のために家族の問題が生じたり、ミニストリーで困難があったりする時、私たちは神様の助けを願います。

時に、神様は私たちの祈りに応えてくださり、素晴らしい方法で状況を変えてくださいます。

しかし、神様が私たちの祈りに応えないこともあります。この箇所では、そのような答えを見ます。

イエス様は同じことを三度祈られました。最初にイエス様はこう祈られました。

わが父よ、できることなら、この「十字架の苦しみの」杯をわたしから過ぎ去らせてください。

しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(マタイ26:39)

イエス様はこの祈りを静かに言われたのではありませんでした。イエス様は地面にひれ伏し、切に祈られました。(マルコ 14:35)

さらに、イエス様は大きな苦しみを感じ、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

私たちがイエス様を思い描く時、穏やかなイエス様を想像することが多いでしょう。けれども、この時のイエス様はまったく落ち着いていませんでした。

天の父はイエス様の深い感情をよくご存じでした。天の父はイエス様を心から愛しておられました。それでもイエス様の祈りに応えられませんでした。

イエス様はそれを悟られ、こう祈られました。

わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。(マタイ26:42)

それでも、イエス様は別の方法を求め続けたかもしれません。しかし、天の父はその祈りに応えられませんでした。

私たちはこの出来事から何を学ぶことができるでしょうか。

あるクリスチャンたちはこう言います。「もしあなたが十分な信仰を持っていれば、神様はあなたの祈りを必ず叶えなくてはならない。」

けれども、それが真実ならば、私たちはイエス様の信仰が足りなかったと言わなければなりません。私たちは神の子を責めるでしょうか。

実は、私たちの心が神様の心と異なることもあります。神様は魔人ではありません。私たちは自分の願いに神様の心を無理に合わせることはできません。むしろ、私たちが自分の心を神様の心に合わせなければならないのです。

イエス様はその模範を示されました。イエス様は天の父が願いを叶えるよう強く主張されることはありませんでした。むしろ、イエス様は自分の心を天の父の心に合わせられました。私たちもそのようにすべきです。

そして、もし天の父が私たちの祈りに応えられない時、イエス様のように、私たちは立ち上がり、天の父の御心に従うべきです。

とはいえ、自分の力だけで神様の御心に従う必要はありません。あなたは、一人で試練に直面する必要はないのです。

イエス様も一人で試練に向かわれたわけではありません。イエス様の苦しみと痛みの中で、天の父はイエス様を励まし強めるために天使を送られました。天の父はあなたのためにも同じことをしてくださいます。

それだけではなく、御霊を通して、神様は直接私たちを慰めてくださいます。御霊は私たちの助け主であり、苦しむ時に私たちを支えてくださいます。(ヨハネ 14:16)

だから、パウロはこう言いました。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:26-28)

では、もし神様が私たちの祈りに応えられない時、私たちはどうすべきでしょうか。

私たちは神様を信頼すべきです。神様の方法が私たちの方法よりもはるかに優れていることを信じるべきです。

私たちが試練に直面している間も、神様が私たちを助けてくださることを信じるべきです。

そして、立ち上がり、神様の御心に従い続けるべきです。

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弱い

サタンが優しい存在だと言う人は誰もいません。サタンは私たちの肉体的な弱さや精神的な弱さを見つけると、すぐに攻撃してきます。

この箇所では、それがはっきりと分かります。イエス様と弟子たちがゲツセマネに着いたとき、イエス様は彼らに警告されました。

誘惑に陥らないように祈っていなさい。(ルカ22:40)

その時、弟子たちはすでに精神的に疲れ果てていました。彼らはまだイエス様の言葉を理解しようとしていました。つまり、イエス様が裏切られること、そしてイエス様が彼らのもとを去っていくことを、受け入れられなかったのです。

そのため、彼らは肉体的に、精神的に、そして霊的に弱くなりました。(ルカ 22:45)

だからこそ、イエス様が「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」と言われたのに、彼らは眠ってしまいました。イエス様は何度も彼らに警告し、願われましたが、彼らは1度だけではなく、3度も眠ってしまいました。

その結果どうなったのでしょうか?イスカリオテのユダとユダヤ人の指導者たちがやって来ると、彼らは逃げ去ってしまいました。

しかし、イエス様はさらに過酷な試練に直面されました。イエス様は十字架を背負い、すべての人々の罪を担われました。その時、天の父はイエス様に背を向けられました。

この箇所では、イエス様の祈りをほんのわずかしか見ることができません。けれども、イエス様の最初の祈りは約1時間続き、その後さらに2度祈られました。

イエス様が祈るとき、その苦しみはあまりにも深く、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ 22:44)

さらに、その時、弟子たちは眠っていたため、イエス様には精神的な支えがありませんでした。

けれども、イエス様が弱さの中におられた時、天の父はイエス様を力づけてくださいました。

そして、天の父はイエス様を支えるために天使を遣わされたのです。(ルカ22章43節)

だから、捕らえられた時、イエス様は冷静に、最後の試練に直面する覚悟を決められました。

では、なぜ弟子たちは目を覚まして祈ることができなかったのに、イエス様はできたのでしょうか。

おそらく、イエス様は生前、毎朝目を覚まして祈ることを習慣としていたからです。 それは朝だけでなく、夜にも行われました。(マルコ 1:35、マタイ 14:23)

そのため、イエス様は最も弱い時に、日々の訓練によって培われたように自然に反応されたのです。

けれども、弟子たちはその訓練を積んでいなかったため、弱さの中で失敗してしまいました。

あるアメリカの有名なアメリカンフットボールの監督は、自分の選手たちと試合のビデオを見る際、相手チームの選手について語りました。 そのチームのある選手は、何度も同じミスを繰り返していました。そこで、その監督はこう言いました。

「その選手は練習の時、自分の技術について、きちんと気をつけなかったのだろう。 たぶん、彼はこう思ったのかもしれない。「正しいやり方はもうよく知っている。だから、今は気をつけなくても、試合の時にはちゃんとできるだろう」”

けれども、疲れ果てた時、人はただ反応するだけだ。 そして、その反応は、自分が普段どのように訓練してきたかによって決まるのだ。」

霊的な世界においても、これは同じです。

もし、あなたが 「私は困った時、何をすべきかよく知っている。だから、その時が来たらちゃんと祈るだろう」 と思っていたとしても、 毎日その訓練をしていなければ、肉体的に、そして精神的に疲れた時に、 あなたは本当に祈ることができるでしょうか。

そして、試練が訪れた時、弟子たちのようにあなたも自分の弱さに負けてしまうかもしれません。

しかし、もしイエス様のように、毎日神様を求め、目を覚まして神様と語るならば、 試練に直面した時、あなたは迷うことなく、すべきことを行い、固く立つことができるのです。

あなたはどうでしょうか? あなたは、毎日目を覚まして神様と語っていますか?

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マルコ14:38)

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敵対的な世に直面するとき

イエス様と弟子たちが二階の大広間を出られると、イエス様は彼らにこう尋ねられました。

わたしがあなたがたを財布も袋も履物も持たせずに遣わしたとき、何か足りないものがありましたか。(ルカの福音書22:35)

その以前、イエス様は弟子たちをイスラエル各地に福音を述べ伝えるために二度遣わされました。(ルカ 9ー10章)

その際、イエス様は、彼らに何も持たず、訪れる町の人々のもてなしに頼るよう命じられました。

イエス様の人気が最高潮に達していたころ、人々は弟子たちの必要を満たしてくれました。時には弟子たちが敵対的な人々に出会うこともありましたが、彼らを歓迎する者もいました。(ルカ 22:35b)

ところが、状況は変わりました。イエス様は「不法な者たちとともに数えられた」ため、彼らに敵対する者が増えていったのです。(37ー38)

かつて弟子たちを歓迎していた人々は、もはや彼らを迎え入れませんでした。そこで、イエス様は弟子たちに警告を与えられました。

しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。(ルカの福音書22:36)

つまり、「これから、私についていくことは非常に危険です。だから、十分に用心しなさい。」ということです。

弟子たちは答えました。

主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります。(38)

要するに、「心配しないでください。誰かが私たちを攻撃したら、私たちは反撃できます。」ということです。

実際、ゲツセマネでペテロはそれを実行しようとしました。

けれども、イエス様はこのよいに答えられました。

それで十分。(38)

私は確かではありませんが、もしかすると、イエス様がそれを言われたとき、少し憤りを感じられたかもしれません。なぜなら、イエス様の意図は、暴力に暴力で対抗することではなかったからです。

むしろ、イエス様の本当のメッセージは、「敵対する人に出会うとき、自分の心を整えなさい」ということでした。

イエス様は、私たちにも同じことを語られます。

後にヨハネの福音書で私たちは読むことになりますが、イエス様は弟子たち(また私たち)に警告されました。

「私のために、人々はあなたを憎みます。彼らはあなたを迫害します。そのとき、驚いてはいけません。」

もちろん、私たちはノンクリスチャンを愛し、福音を伝えるべきです。とはいえ、同時に私たちは警戒しなければなりません。

イエス様のために、私たちを憎む人もいます。私たちを裏切る人もいます。私たちを傷つける人もいます。そして、私たちが愛している者でさえ、そうするかもしれません。

だからこそ、イエス様の言葉を心に刻みましょう。

いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。

ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。人々には用心しなさい。(マタイ10:16-17)

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私たちの弱さを知り、それでも受け入れてくださる神

イエス様が弟子たちに、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません」と言われたとき、彼らは当然戸惑いました。イエス様は彼らの師であり、彼らはイエス様がそばにおられない人生を想像することができませんでした。

そこで、いつものようにペテロは、皆が考えていたことを口にしました。

主よ。なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちを捨てます。(ヨハネ13:36-37)

イエス様の答えを聞いて、ペテロとほかの弟子たちは衝撃を受けました。

わたしのためにいのちを捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。(ヨハネ13:38)

そして、イエス様はペテロにこう言われました。

シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。

ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:31-32)

それでも、ペテロは再び言いました。

主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカ22:33)

ところが、イエス様は再び繰り返されました。

ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたし知らないと言います。」(ルカ22:34)

もしかすると、ほかの弟子たちはそれを聞いて、「まさかペテロが裏切り者なのだろうか。さっきイエス様は、私たちの中に裏切り者がいると言われたが、それはペテロのことなのだろうか」と思ったかもしれません。

ペテロ自身も、そう疑問に思ったかもしれません。

そこで、イエス様は続けて言われました。

あなたがたはみな、つまずきます。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる」と書いてあるからです。

しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ14:27-28)

それでも、ペテロはなおも主張し続けました

たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。(マタイ26:33)

そこで、イエス様はさらに具体的に、そしてより力強く宣言されました。

まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。(マルコ14:30)

それでも、ペテロはイエス様の言葉を信じませんでした。そして、ペテロとほかの弟子たちは、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い張りました。(マルコ 14:31)

しかし、最終的には、イエス様が預言された通りに、彼らは皆つまずきました。イエス様が捕らえられたとき、彼らは逃げ去り、ペテロは三度イエス様を知らないと言いました。

この話のポイントは何でしょうか。私たちが自分自身を理解しているよりも、イエス様は私たちのことを深く知っておられます。私たちが気づかなくても、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。それでも、イエス様は私たちを受け入れられます。

それこそが、この話の最も驚くべき点です。イエス様は決してペテロを責められませんでした。むしろ、イエス様はペテロを励まされました。

「わたしはあなたのために祈っているよ。あなたはつまずくけれど、あなたはきっと立ち上がる。だから、立ち上がったら、ほかの弟子たちを励ましなさい。」

このように、イエス様は私たちの弱さをよく知っておられます。しかし、イエス様は私たちを責めるのではなく、大祭司として、毎日私たちのために祈ってくださいます。

私たちが転んだとき、イエス様は私たちを引き上げてくださいます。そして、私たちを引き上げると、「他のつまずいた人を憐れんで、励ましなさい」と言われます。

だから、私たちが失敗しても、弱くても、この言葉を心に留めておきましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)

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裏切り

福音書を統合すると、一つの疑問が浮かびます。それは、ユダが最初の聖餐式に参加していたかどうか、ということです。

ルカは、ユダが参加したことを暗示しているようですが、他の著者の記述を見ると、ユダは参加しなかったように思われます。

私の考えでは、ユダは恐らく聖餐式に参加していたのではないでしょうか。おそらく、他の著者は最後の晩餐の出来事を年代順には記録していなかったのだと思います。

いずれにせよ、この箇所では、イエス様が裏切り者であるユダをどのように扱われたのかが描かれています。この話には、興味深い点がいくつかあります。

ヨハネは(「イエス様が愛しておられた弟子」はヨハネのことだと考えられます)、イエス様の隣に座っていたようです。けれども、ユダもイエス様の隣に座っていた可能性があります。

私がそう考えるのは、弟子たちがユダに対するイエス様の言葉をすべて聞いていたわけではないからです。もし彼らが、イエス様がユダを裏切り者としてはっきり指摘されるのを聞いていたなら、きっとユダを責めていたことでしょう。

多くの最後の晩餐の絵画とは異なり、この場面では誰も椅子に座っていなかったと考えられます。彼らは低いカウチに座り、横になって左肘で体を支えていました。そのため、彼らの頭は隣の人の胸の近くにあるような状態でした。

したがって、おそらくイエス様の右側にはヨハネが座り、左側にはユダが座っていたのでしょう。

以前述べたように、イエス様の隣に座ることは大変光栄なことと考えられていました。そのため、イエス様はユダを左側に座らせることで、ユダに特別な光栄を与えられたのです。

それでも、イエス様はユダの心をよくご存じでした。

そして、イエス様はこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。(ヨハネ13:21)

弟子たちはそれを聞いて、衝撃を受けました。そして、一人一人がイエス様に尋ねました。「まさか私ではないでしょうか。」

ユダ自身もイエス様に同じように尋ねました。

もしかすると、ユダはイエス様を完全に欺いたと思っていたのかもしれません。しかし、イエス様は答えられました。「はい。あなたですよ。」

ユダのショックを想像してください。彼の秘密は明るみに出ました。もしかすると、彼はイエス様が皆の前で彼を暴露し、その結果、自分が殺されるのではないかと恐れたかもしれません。

おそらくその頃、ペテロはヨハネに尋ねたでしょう。「イエス様が誰について話しているのか、聞いてみてくれ。」(ヨハネ13:24)

イエス様はヨハネに答えられました。

わたしがパン切れを浸して与える者が、そのひとです。(ヨハネ13:26)

実は、その時代において、パン切れを浸して与えることは、もう一つの光栄を示す方法でした。

そのため、イエス様がパンを浸してユダに与えたとき、おそらくヨハネ以外の弟子たちは「すごいな。私たちが思っていたより、ユダは偉いのかもしれない。」と思ったでしょう。

ユダ自身も驚いたことでしょう。一瞬、彼はイエス様の言葉の意味を誤解したかもしれません。

けれども、イエス様は彼に言われました。

あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。(ヨハネ13:27)

ユダはそれを聞いて、イエス様が彼の心をよく知っておられたことを悟りました。そして、彼はその家を出て、イエス様を裏切るためにイエス様の敵のもとへ向かいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、私たちを裏切る人もいるということです。彼らは意図的に私たちを傷つけることがあります。そのようなとき、私たちが苦々しい思いを抱き、彼らを軽蔑するのは簡単です。

しかし、イエス様がユダを神によって造られた人間として尊重されたように、私たちも裏切り者を神によって造られた人間として尊重すべきです。

それでも、私たちは彼らの性格をよく理解している必要があります。彼らの本質について、私たちは自分自身を欺いてはいけません。そして、可能な限り、私たちは自分を守るべきです。

イエス様の生涯を見ると、イエス様もそのような姿勢を取られました。人々がイエス様を殺そうとしたとき、イエス様はすぐに身を避けられました。

ユダの場合だけは、イエス様は逃げませんでした。なぜなら、ついにイエス様の時が来たからです。イエス様がこの世に来られた目的は、私たちの罪のために死ぬことでした。

とはいえ、神様は一般的に、私たちが虐待を甘んじて受けることを求めているわけではありません。そのため、できる限り、その人から距離を取りましょう。

もし、どうしてもその人を避けられないのであれば、あなたの盾を常に持っていてください。つまり、彼らがいるときには、警戒しなければなりません。

もし相手の性格をよく理解し、彼らの言動によって自分の心の備えができていれば、自己防衛することができます。

それでも、私たちは相手を許すべきです。そしてさらに、彼らを神によって造られた人間として尊重すべきです。

ペテロはこう記しました。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(第一ペテロ3:9)

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主のために部屋を整える

この時から、イエス様はもう群衆の前に現れることはありませんでした。人々の前で教えたり、奇跡を行ったりすることもなくなりました。イエス様は、ご自身がまもなく十字架で死なれることをよく理解しておられました。

けれども、その前に弟子たちと最後の食事を共にしようと考えられました。

この出来事には不思議な点があります。イエス様は奇跡的に、都市で水がめを運ぶ男性がいることを知っておられたのでしょうか。(当時、そのようなことをするのは女性だけでした。)

それとも、イエス様はあらかじめマルコの父と相談し、前もってこの合図を決めていたのでしょうか。(このマルコとは、後に福音書を記したマルコのことです。)

はっきりとは分かりませんが、結果として弟子たちがその家に入った時、その家の二階の大広間にはすでに席が用意されていました。

興味深いことに、イエス様が生まれたときは宿屋に場所がありませんでした。しかし、イエス様が十字架にかかられる前には、イエス様のために用意された部屋があったのです。

あなたの心の状態はどうでしょうか。あなたの心はイエス様のために用意されていますか?

それとも、あなたの心の中には罪や自己中心的な欲望が散らかり、イエス様があなたを用いることができない状態でしょうか。

イエス様、私の心の中には、あなたのためのスペースが常にありますように。私の罪を清め、私を通してあなたの目的を成し遂げてください。私の人生をあなたの栄光のために用いてください。アーメン。

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いつも整えた心を持つ?

多くのクリスチャンは、イエス様がいつ戻られるかに関心を寄せています。そのため、イエス様が戻られる時期を予測しようとするクリスチャンも少なくありません。

私が高校生だった頃、ある本が出版されました。そのタイトルは「1988年にイエス様がきっとこの世に戻る88の兆候」でした。

もちろん、イエス様は1988年に戻られることはありませんでした。それでも、その著者はがっかりすることなく、さらに別の本を書き、再びイエス様の戻りを予測しました。

なぜでしょうか。その著者を含め、多くのクリスチャンはイエス様のお言葉を無視しているように思えます。

ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。(マルコ13:32)

神様はご自身の計画を立てられました。しかし神様は、私たちにイエス様がいつ戻られるかを教えてはくださいませんでした。

とはいえ、イエス様はご自身の戻りに関するしるしを示されました。そして私たちに対し、「目を覚ましなさい。自分の心を整えなさい」と警告されました。イエス様は次のように語られました。

気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。

それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに、仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じます。

ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。

主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。

わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33-37)

残念なことですが、多くのクリスチャンはその言葉を無視しているようです。

前回の記事でも述べましたが、イエス様はこの箇所で同じことを四回繰り返されていますので、私も繰り返すべきだと感じます。

多くのクリスチャンは、イエス様がクリスチャンたちを集め、天国に連れていく時期を議論します。大きな患難の前にイエス様は私たちを集められるでしょうか。その患難の途中で集められるでしょうか。それとも、その患難の後に集められるのでしょうか。

私はその疑問が重要でないとは言いません。イエス様が戻られる時期を問うよりも、戻られた時に私たちの心が整えられているかどうかを問う方が重要です。もし、あなたの心が常に整えられているなら、イエス様がいつ戻られても驚くことはありません。

これがイエス様のポイントです。そのため、イエス様の戻りに関する細かい議論をする前に、自分自身に次の質問を投げかけてください。

「もしイエス様が今日戻られたなら、私の心は整えられているだろうか。私はイエス様の御心に従っているだろうか。もしイエス様が今日戻られたなら、イエス様は私に何を言われるだろうか。」

これこそが最も重要な質問です。

では、あなたの心はすでに整えられているでしょうか。

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主が戻られるまで

この箇所では、イエス様はご自身が戻られるまでにどのような出来事が起こるかを説明されています。そしてイエス様のお言葉によれば、この世界は次第に悪化の一途をたどります。最終的には非常に厳しい状況になるでしょう。

戦争が起こり、地震や様々な災害が発生します。その混乱の中で、偽預言者たちが現れ、希望を語るメッセージを伝えるものの、多くの人々を欺きます。

さらに、反キリストも登場します。

その結果として、迫害が生じます。特にユダヤ人やイエス様に従う人々が迫害されるため、多くの人々が信仰を捨ててしまうのです。

現在、多くの人々は自分をクリスチャンだと主張しますが、イエス様に従わず自分の道を歩んでいます。しかし、迫害の時代が訪れると、このような「クリスチャン」はいなくなるでしょう。迫害を受ける前に、自らの「信仰」を捨てると考えられます。

また、周囲の邪悪さのため、多くの人の愛が冷えていきます。信頼は薄れ、人々は互いに、特にクリスチャンたちを裏切るようになります。そしてさらに災害が続くことで、人々の恐怖は増していきます。

ところが、この災厄が頂点に達するとき、イエス様が現れて、邪悪なものを終わらせ、ついに神の国が来るのです。

これらの言葉の後、イエス様は私たちを励ますと同時に警告もされています。

イエス様の最初の警告は、偽のキリストが現れるということです。

イエス様がこの世に戻られるとき、雲の中から偉大な力と栄光を伴って現れ、全世界が一斉にイエス様を目にするでしょう。だから、噂を信じてはなりません。

しるしや不思議を行う偽のキリストも現れますが、そのような人物を信じてはなりません。なぜなら、反キリストもまたしるしや不思議を行い、多くの人々を欺くからです。(第二テサロニケ2:3-9)

さらに、イエス様は私たちが厳しい試練に直面しても希望を失わず、イエス様を待ち望み、神様の御心に従い続けるよう励まされています。イエス様は次のように言われました。

これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。(ルカ21:28)

要するに、迫害や災害などが起こっても、思い悩まないでください。絶望しないでください。なぜなら、その出来事はイエス様の戻りのしるしだから。

でもイエス様は私たちに警告します。

あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。(ルカ21:34)

その試練が訪れるとき、周囲の不正を目にして絶望に陥ることは容易です。だからこそ、イエス様は私たちが絶望に陥らないよう注意を促されています。

また、邪悪なものを見る際には皮肉的な心を持たないよう気をつけなければなりません。「イエス様はもう戻ってこられないのではないか」と思い始めてはいけません。

むしろ、イエス様を待ち望み続け、イエス様に仕え続けましょう。そうすれば、あなたは報いを受けることができます。しかし、そうしない場合、あなたは懲らしめを受けることになります。(マタイ24:46-51)

もしかすると、「この話は私には関係ない」と思うかもしれません。なぜなら、その試練が訪れる前、反キリストが現れる前に、あなたがすでにイエス様とともにいると思っているからです。

以前にも述べたように、私もそれを信じたいと願っています。けれども、もし反キリストを目にして、自分が誤っていたことに気づいたなら、そのときは、私が述べたことを思い出してください。

そして、どのような試練に直面しても、どれほどの苦しみを経験しても、主が戻られるまで、イエス様を待ち望み、忠実に仕え続けましょう。

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将来を現すしるし

前回の記事では、この箇所が非常に難解であると述べました。その理由の一つは、マタイ、マルコ、そしてルカが同じ話を伝えているものの、それらを統合するのが難しいという点です。

イエス様が神殿が破壊されると言われた際、弟子たちは大変な衝撃を受け、いつそのことが起こるのかを尋ねました。また、世の終わりのしるしがどのようなものなのかも尋ねました。

彼らの視点を考えてみてください。

その質問をした時点では、彼らはまだイエス様が十字架にかかり、死を迎え、そして復活しなければならないことを理解していませんでした。

さらに、復活された後にイエス様が天国へ帰られる必要があることについても全く分かっていませんでした。

そのため、彼らがイエス様の到来について尋ねた際、その質問はイエス様が天国から戻って来られる時期を指しているのではありませんでした。おそらく、彼らが意味していたのは、イエス様が自身の王国を築くのはいつなのかということだったのでしょう。

彼らは子供の頃から「主の日」について何度も聞いてきた経験がありました。その日は、主が国々を裁き、イスラエルを再び王国として確立される日とされています。

しかし、イエス様は彼らに、神殿が破壊されることを告げられました。それが起こる前に、確かに「主の日」は来ないでしょう。

加えて、その週の初めにイエス様と弟子たちがエルサレムに到着した際、多くの人々が「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」と叫びました。

この出来事を踏まえて、弟子たちは非常に混乱していたのです。

とにかく、ルカによれば、イエス様は将来、偽のキリストが現れたり、戦争や様々な災害が起こったりするだろうと言われました。

けれども、それが起こる前に、イエス様は弟子たちに、彼らが迫害され、殺されることもあると警告されました。『使徒の働き』を読めば、そのことを目の当たりにすることができます。

また、彼らが捕まえられた時、イエス様が約束されたように、聖霊様が彼らに何を言うべきかを教えられたので、彼らの敵はその証言に対してどのように反論すべきか分からず困惑しました。

さらに、イエス様は彼らに、「軍隊がエルサレムを包囲するのを見たら、すぐに逃げなさい」と警告されました。エルサレムが破壊され、その住民が捕虜になる日が来るからです。イエス様は、妊娠中の女性たちにとってその日は特に困難でひどい時になると語られました。

西暦70年に、イエス様の預言は成就しました。その時、多くのクリスチャンはイエス様の警告を覚えていて逃げ延びましたが、他のユダヤ人たちはエルサレムに留まりました。彼らはエルサレムが最も安全な場所だと信じていたからです。

ところが、イエス様が言われた通り、彼らは殺されるか、捕虜として連れ去られました。

また、マタイとマルコは「荒らす忌まわしいもの」について言及しています。

ダニエルもその出来事を預言しており、アンティオコス4世エピファネスによってその預言が一度成就しました。彼はゼウスの偶像を神殿に立て、祭壇で豚を捧げました(豚は神様の律法によれば汚れたものとされています)。

西暦70年には、そのような具体的な出来事は起こりませんでしたが、一部の聖書学者たちは、ローマ人たちが神殿に入った際、別の方法で神殿を汚し、それがイエス様の預言の成就だったと考えています。私もその意見に同意します。

イエス様はこれらの出来事に関して、次のように語られました。

それらの日には、神が創造された被造世界のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起こるからです。(マルコ13:19)

最近まで、私はイエス様が西暦70年の出来事について語っておられないと思っていました。なぜなら、反キリストが来るとき、クリスチャンたちはさらに大きな苦しみに直面すると考えていたからです。

けれども、今ではその確信は揺らいでいます。なぜなら、歴史を振り返ると、エルサレムが倒れた際にユダヤ人たちが味わった苦しみは本当に深刻だったからです。

それでも、おそらく2000年前の出来事は将来のしるしだと思います。実際には、その出来事は現代の状況にも関連していると感じます。

今でも私たちは戦争や戦争のうわさを耳にします。飢饉や地震、様々な災害を目の当たりにします。偽のキリストが現れることもあります。そして、クリスチャンに対する迫害が続いているのです。

さらに、イエス様がこの世に戻られるまで、これらの出来事は続くでしょう。しかし、イエス様が戻られると、天に現れて、全世界がイエス様を見るでしょう。その時、イエス様はご自身の民を呼び集められるのです。(マタイ24:30-31)

多くのクリスチャンたちは、反キリストが現れる前にイエス様がご自身の民を召し、彼らが反キリストを決して目撃しないと信じています。

私もそれを信じたいのですが、その考え方は誤りだと思います。

ただし、その考えについて何を信じるにしても、次の一点を覚えていてください。

エルサレムに関するイエス様の預言はすべて成就しました。そして、イエス様のその他の預言も今なお成就しつつあります。ですから、イエス様は必ずこの世に戻られるでしょう。イエス様はそのように約束されたからです。

イエス様は次のように言われました。

天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。(ルカ21:33)

だから、私たちがどれほどの苦しみを経験しても、私たちの心を整え、希望を持ってイエス様の御再臨を待ち望みましょう。

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マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ21章

神様が何を求めておられるか

パリサイ人たちを厳しく責めた後、イエス様は少し座り、神殿で献金箱を通り過ぎる人々をそっと見ておられました。

金持ちたちもやってきて、とても目立つ方法で大金をその献金箱に入れました。

その様子を見ると、もしかするとイエス様の顔は渋くなったかもしれません。人々が次々とその献金箱にお金を入れていく間に、イエス様の表情はだんだんと暗くなったのでしょう。

けれども次に、一人の貧しいやもめがその献金箱の隣に来て、他の人々と違い、レプタという硬貨を二枚入れました。

レプタはほとんど価値がない硬貨でした。おそらく、二枚のレプタで小麦粉を少し買い、小さなパンを焼くことができたでしょう。それでも彼女は、そのレプタを献金箱に捧げました。

もしかすると、彼女は他の人々が多くの献金をしているのを見て、自分が献金したとき、少し恥ずかしさを感じたかもしれません。それでも、彼女は神様への愛と感謝の心を込めて、そのお金を捧げました。

その姿を見たイエス様の表情は、明るくなったに違いありません。そして、イエス様は彼女を指し示し、弟子たちにこう言われました。

まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。(マルコ12:43)

弟子たちはそれを聞いて驚いたに違いありません。おそらく、彼らはイエス様にこう言ったでしょう。「どういうことでしょうか、イエス様。彼女はほんの少ししかお金を入れなかったのに。」

しかし、イエス様はこう言われました。

皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(マルコ12:44)

パリサイ人たちと律法学者たちを批判された後に、イエス様がそのやもめを褒められたことは偶然ではなかったと思います。イエス様は彼らを偽善者と呼ばれました。なぜなら、彼らの行為は周囲の人々を感動させるためのものであったからです。

だからこそ、イエス様はそのやもめをご覧になったとき、弟子たちにこう言われました。「見なさい。神様はこのような人を探しておられるのです。」

では、神様はどのような人を探しておられるのでしょうか。神様に属する心を探しておられるのです。

彼女は、周囲の人々が自分についてどう思っているか全く気にしていませんでした。また、彼女は自分の持ち物に執着していませんでした。

むしろ、彼女は神様にこう申し上げたのです。「私はあなたのしもべです。私にはほんの少ししかありませんが、それをあなたにお捧げします。」

あなたはどうでしょうか。あなたはそのような心を持っているでしょうか。イエス様があなたをご覧になったとき、「この人の心は神様に属している」と言われるでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ23章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

リーダーシップに関する間違った考え方

リーダーシップとは何でしょうか。

イエス様は、パリサイ人たちと律法の専門家を厳しく批判された時、本当のリーダーシップを定義されました。

まず、イエス様は弟子たちと群衆に警告されました。

律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。

しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで事項しないからです。(マタイ23:1-2)

この箇所で、イエス様が彼らに教えられたのは、そのリーダーたちの権威ある立場を尊重する必要があるけれど、彼らの行動を模倣してはならないということです。なぜなら、彼らの言葉と行動が一致していなかったからです。

もちろん、彼らは律法の細かなルールや、さまざまな宗教的な伝統を守っていました。けれども、最も重要なこと、つまり正義、憐れみ、そして誠実を忘れていたのです。

その態度は、神様や周囲の人々に対する彼らの姿勢に悪影響を与えてしまいました。

さらに、その態度は彼らのリーダーシップに関する考え方にも影響を与えました。彼らは人々に仕えるのではなく、命令したいという考えを持っていました。

イエス様は彼らについてこう言われました。

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイ23:4)

彼らは多くの律法やルールを人々に課しました。けれども、その人々がそのルールを守れず、罪悪感の重さで苦しみ始めると、パリサイ人たちや律法学者たちは彼らを励ますことも、彼らのために祈ることもせず、助けるどころかむしろ彼らを責めました。

さらに、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の立場を誇示していました。

彼らの聖句を入れる小箱は大きく、衣の房(その房にも神様の言葉が書かれていました)は長く、周りの人々は彼らを見た時に本当に感心しました。「その人は本当に霊的な人だ」と思ったのです。

また、彼らはお金を儲けるために自分の立場を利用しました。イエス様は「彼らはやもめたちの家を食い尽くします」と言われました。おそらくそれは、パリサイ人たちがやもめの歓心を買い、彼女たちのお金を搾取したということを意味しているのでしょう。

さらに、彼らは周りの人々に「先生」や「父」と呼ばれることを好みました。なぜなら、それは彼らの高い立場を示す印だったからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。

あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。

また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。(マタイ23:8-10)

リーダーたちはそのことを心に留めていなければなりません。肩書を持つこと自体は良いことですが、実際には私たち全員が対等なのです。神様だけが私たちに対して優れた方です。

それでも、神様はしもべとしてこの世に来られました。イエス様は病気の人々を癒し、困難にある人々に良い知らせを伝え、十字架で私たちの罪のための罰を受けて下さいました。リーダーたちはそのような態度を取るべきです。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたのうちで、一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:11-12)

本当のリーダーたちはしもべです。彼らは敬意、栄誉、またはお金を求めるのではなく、周りの人々に仕えるために全てをささげます。

さて、あなたはどのようなリーダーなのでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ22章 マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ20章

ダビデの子。神の子。

多分、イエス様はパリサイ人たちやサドカイ人たちの偽善的な態度に嫌気が差していたので、彼らを黙らせるためにこの質問を投げかけられたのでしょう。

あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。(マタイ22:42a)

パリサイ人たちや律法の専門家にとって、それは非常に簡単な質問でした。そのため、彼は即座に答えました。

ダビデの子です。(マタイ22:42b)

そして、イエス様は彼らの「キリスト」(または「メシア」)に対する考え方に異議を唱えられました。イエス様は次のように尋ねられました。

それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、「主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」」と言っているのですか。

ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:43-45)

その答えは簡単です。イエス様は人の子(つまりダビデの子)であるだけでなく、神の子でもあります。

人間として、イエス様はダビデの子孫でした。しかし、神の子として、イエス様はダビデの主でした。

けれども、パリサイ人たちや律法の専門家はそのことを理解することができませんでした。もしかすると、彼らは心の中でそのことを理解したくないと思っていたのかもしれません。

今なお、多くの人々はパリサイ人たちや律法の専門家のように考えています。彼らはイエス様を人間として認めます。そして、イエス様が良い方であることを認めます。もしかすると、イエス様を素晴らしい先生として認めることもあるかもしれません。

しかし、彼らはどうしてもイエス様が神の子であるとは認めようとしません。

イエス様は人の子だけではなく、神の子でもあります。だからこそ、イエス様は私たちの愛、信頼、そして服従にふさわしい方です。さらに、イエス様だけが天の父への道です。

さて、あなたはイエス様をどのように考えるでしょうか。彼は一体誰だと思いますか。

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聖書と神様の力を理解しないと

ある英語の子どもの歌は、サドカイ人たちをこのように描写しています。

I don’t want to be a Sadduccee.
(サドカイ人になりたくないよ。)
‘Cause, a Sadduccee is sad, you see.
(だって、サドカイ人たちは悲しい人たちだから。)

それは少しくだらないだじゃれですが、どこかに真実が含まれています。

最終的に、サドカイ人たちは希望を持たない人々でした。なぜなら、彼らは復活を信じていなかったからです。彼らは死を迎えると命が終わると考えていました。

その考え方は、神様に対する彼らの思いや、自分の人生観、そして聖書に対する理解に影響を与えてしまいました。

彼らは神様の力を理解しておらず、神様の愛も知りませんでした。また、神様が私たちと永遠に共に生きたいと望んでおられるという概念を全く持っていませんでした。

彼らは墓に入ると命が終わると考えていたため、この世のもの、つまり力とお金に執着していました。

このような考え方は、彼らの聖書の理解にも影響を与えました。彼らは聖書の最初の5冊(創世記から申命記まで)だけを神様の言葉として受け入れていました。預言者の書や詩篇などは神様の言葉として受け入れなかったのです。

そこで、彼らはイエス様のところに行き、パリサイ人たちを困らせた質問をイエス様に尋ねました。それはくだらない質問でしたが、その時代のユダヤ人たちの文化では、万が一(もしくは、億が一と言えるでしょうか)その話が現実になる可能性があると考えられていました。

サドカイ人たちはこう尋ねました。

先生。モーセは、「もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない」と言いました。

ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。

では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。(マタイ22:24-28)

それは非常にくだらない疑問に思えるでしょう。それは非現実的であり得ないと思われます。

ともかく、イエス様は彼らに対して非常に厳しく答えられました。

あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マタイ22:29-30)

そして、イエス様は出エジプト記の箇所を引用されました。

サドカイ人たちはその箇所をよく知っていたはずですが、彼らはその言葉を決して深く考えたことがなかったでしょう。だからこそ、イエス様の言葉は彼らに強い衝撃を与えたに違いありません。イエス様はこう言われました。

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(31-32)

神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とは言われませんでした。神様はこう言われました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。今なお、わたしは彼らの神である。」

要するに、アブラハムやイサクやヤコブの魂は今も生きています。だから、イエス様はサドカイ人たちが受け入れていた聖書の箇所を用いて復活を証明し、彼らの議論を完全に打ち砕かれました。

それでは、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様を私たちが作った箱に閉じ込めることはできません。

しかし、サドカイ人たちは神様をそのような箱に閉じ込めてしまいました。彼らは神様の力を理解せず、神様が人々を復活させる力を持つことを信じなかったのです。

なぜ彼らは神様の力を理解できなかったのでしょうか。それは、彼らが聖書を正しく理解していなかったからです。

だからこそ、私たちはサドカイ人たちのようにならないように注意する必要があります。聖書を学び、その真意を理解するために努力しましょう。

もし聖書が神様についての私たちの考えに反することを語っているなら、サドカイ人たちのようにその言葉を拒否するのではなく、むしろ受け入れるようにしましょう。

そうすることで、私たちは神様をさらに深く知り、神様との親しい関係を築くことができるのです。

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神様の物を返す

私は税金を支払うのが大嫌いです。毎年3月に確定申告を書くのはとても大変です。その時に少し返金はされるものの、6月になると税金の負担が非常に大きくなります。

私はマンションを購入したため、毎年その税金を支払わなければならない上に、市民税や県民税も負担しなければなりません。

税金を支払うのが好きな人などいないでしょう。でも、イエス様の時代ではユダヤ人たちは特に支払いたがりませんでした。それは、彼らがイスラエルを征服していたローマ帝国に税を納めなければならなかったからです。

そこで、パリサイ人たちとヘロデ党の者たちは、イエス様を罠に陥れるための完璧な質問を思いついたのです。

彼らはこう尋ねました。

先生。私たちは、あなたがお話になること、教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。

ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。(ルカ20:21-22)

もしイエス様が「税金を払わなくてよい」と言えば、ヘロデ党の者たちはその言葉をローマ帝国に伝え、イエス様は反逆者として捕らえられたでしょう。

一方で、イエス様が「税金を払うべきだ」と言えば、ユダヤ人の間でイエス様の人気は失われてしまったかもしれません。

ところが、イエス様は彼らの意図をよく知っておられました。そこで、イエス様は再び彼らの質問に別の質問で答えられたのです。

まず、イエス様は彼らに税金を支払うための銀貨を見せてくれるよう頼みました。そして、イエス様は彼らにこう尋ねられました。

だれの肖像と銘がありますか。(ルカ20:24)

彼らは、「カエサルのものです」と答えました。

すると、イエス様はこう言われました。

では、カエサルのものはカエサルに、神のものは、神に返しなさい。(ルカ20:25)

イエス様が意味されたのは何だったでしょうか。

「あなたたちはカエサルのお金を使っていますね。そのお金を使うということは、そのお金がカエサルに属するものだという証拠ではありませんか?だから、カエサルに属するものはカエサルに返しなさい。」

けれども、イエス様は続けてこう言われました。

「でも、あなたたちは、もっと大切なことを覚えていなくてはいけません。神様に属するものは神様に返しなさい。」

この言葉を通して、イエス様はローマ帝国の主張を巧みに論破すると同時に、ユダヤ人たちに重要な教訓を教えられました。

ローマ帝国は、カエサルが神であると主張していました。実際、その銀貨にはそのような言葉が刻まれていました。しかし、イエス様はカエサルと神様を明確に区別されました。

「カエサルという一人の人間には、彼に属するものを返しなさい。けれども、真の神には、神に属するものを返しなさい。」

私はイエス様のこの2つ目のポイントについてお話ししたいと思います。ローマ帝国の銀貨にカエサルの肖像と銘が刻まれていたように、私たちにも神様の肖像と銘が刻まれています。

聖書によれば、神様は人を神のかたちとして創造されました。(創世記1:26-27)

そして、パウロはこう言っています。

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(第二コリント3:3-4)

神様はご自身の名前を私たちの心に記し、私たちが神様に属していることを明確にしてくださいました。時には、私たちに刻まれた神様の肖像が、私たちの罪によって歪んでしまうことがありますが、パウロはこう書いています。

私たちはみな。。。鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられています。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

それでは、私が言おうとしているのは何でしょうか。

私たちは神様に属しています。だから、私たちは神様に属するものをお返ししなければなりません。それは単なるお金ではありません。それは私たちの命そのものです。

あなたは神様に属するものを、神様にお返ししますか。

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悪い小作人のたとえ話:イエスを拒絶すると

イエス様はユダヤ人のリーダーたちに不信を責めた後、彼らが悔い改めない場合にどうなるかを警告されました。

このたとえ話はイザヤ書5章に似ています。イザヤ書の箇所では、神様がご自分の造られたぶどう園について話されています。そのぶどう園は北イスラエル王国とユダ王国を象徴しています。

その話でも、イエス様の話でも、その主人は受け取るべきぶどうを受け取れませんでした。けれども、イエス様の話では、特に農夫たちを責めておられます。

もちろん、その農夫たちは、預言者たちやイエス様を拒絶したユダヤ人のリーダーたちを表しています。彼らはイスラエル人の霊的な健康を守る責任を持っていました。

リーダーたちがその責務を果たしていれば、イスラエルは霊的な実を結んでいたでしょう。ところが、彼らは堕落し、その責任を果たしませんでした。

なぜでしょうか。それは、神様を重んじず、自分自身のために生きたからです。彼らはお金や権力、人々からの栄誉に執着していました。

だからこそ、イスラエルの民が実を結ばなかったのは当然のことでした。

そこで、神様は彼らにしもべを送りました。イスラエルの歴史の中で、神様は何度も預言者たちを遣わされました。預言者たちはイスラエル人たちに警告し、訓戒しました。

しかし、そのリーダーたちは幾度となく預言者たちを拒絶し、迫害しました。さらには、預言者たちを殺してしまうことさえありました。

最後に、神様は御自身のひとり子を送ってくださいました。けれども、そのリーダーたちは御子を殺そうと計画していたのです。

だから、イエス様がユダヤ人たちに「主人がその農夫たちをどうすると思いますか?」と尋ねられると、彼らはこう答えました。

その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば、収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。(マタイ21:41)

それでも、ユダヤ人たちはそんな悪者が存在することに驚きました。そこで彼らは「そんなことが起こってはなりません。」と言いました。(ルカ20:16)

ところが、イエス様は次のように答えられました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には、不思議なことだ。」

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42-44)

イエス様が意味されたのは何でしょうか。イエス様はすべてのものの基礎です。イエス様は要の石です。

要の石とは、建物の最初に据えられる石を指します。その建物は要の石の周りに建てられます。この石は非常に重要であり、この石が少しでも歪むと、建物全体が歪んでしまいます。

同じように、神の御国、そして私たちの人生もイエス様の周りに建てられなければなりません。そうしないと、すべては歪んでしまいます。

しかし、ユダヤ人のリーダーたちはイエス様を拒絶したため、神の国は彼らが軽蔑していた人々に与えられました。つまり、収税人や売春婦、異邦人に与えられたのです。なぜなら、彼らはイエス様を救い主として受け入れたからです。

一方で、そのリーダーたちは裁かれ、すべてを失ってしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は何の上に建てられているでしょうか。お金でしょうか。財産でしょうか。力でしょうか。この世のものでしょうか。それともイエス様でしょうか。イエス様はあなたの要の石でしょうか。

神様はあなたに命を与えてくださいました。あなた自身も、あなたが持つものすべても神様に属しています。そして、神様はその御国のために、あなたに霊的な実を求めておられます。

しかし、自分のためだけに生きているなら、その実を結ぶことはできません。そして、ユダヤ人のリーダーたちのように要の石を拒絶すれば、裁きを受け、すべてを失ってしまいます。

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

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あなたの間違った考え方を認めないと

私たちの考え方が間違っていると分かる時、時にはそれを認めるのが難しいものです。私自身もそれを認めたくないことがあります。どうしてでしょうか。

それは、プライドがあるからです。「私は間違っていた」と言うのは簡単ではなく、謙虚な態度が求められます。

けれども、もし私たちが神様との関係や人々との関係を守りたいと思うなら、その謙虚な態度が不可欠です。

イエス様の時代の宗教的なリーダーたちは、このような態度を持っていませんでした。イエス様は何度も彼らの間違った考え方を指摘されましたが、彼らはどうしてもそれを認めようとはしませんでした。特にイエス様の最後の週(つまり、十字架にかかる前)に、その姿が明らかになります。

イエス様が神殿から商人たちと両替人を追い出された後、祭司長たちや民の長老たちがイエス様のところに来て、こう尋ねました。

何の権威によって、これらのことをしてるのですか。だれがあなたにその何の権威を授けたのですか。(マタイ21:23)

いつものように、イエス様は彼らの質問に対して別の質問で答えられました。

ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。(マタイ21:25)

それを聞かれた時、彼らは板挟みになってしまいました。

もし彼らが「天から」と答えたなら、イエス様は「では、どうしてヨハネの言葉を信じなかったのでしょうか。ヨハネは私がメシアであることを語りました。もしその言葉を受け入れるなら、私の権威がどこから来るのかが理解できるはずです。」と言われたでしょう。

その一方で、彼らが「人から」と答えたなら、周りの群衆は彼らに怒りを向けたでしょう。なぜなら、群衆はヨハネが本当の預言者であると信じていたからです。

そこで彼らは「分かりません」と答えました。

すると、イエス様は「もし私の質問に答えないなら、私もあなたの質問に答えません。」と仰いました。

その後、イエス様は彼らにたとえ話を語られました。その話では、あるお父さんに二人の息子がいました。お父さんが長男に何かを頼んだ時、最初はその息子が「それをしたくありません」と答えましたが、最終的にはその仕事をしました。

一方で、次男は頼まれた時に「はい、します。」と言いましたが、結局その仕事をしませんでした。

このたとえ話を通して、イエス様は宗教的なリーダーたちを、かつて罪を犯していた罪人たちと比較されました。

宗教的なリーダーたちは正しい人たちに見えましたが、心の中では神様に背いていました。

彼らがバプテスマのヨハネを見た時、彼が頭がおかしいと思いました。しかしすぐに分かったのは、ヨハネのミニストリーを通して多くの人々の人生が変わったということです。神様がヨハネを通して働かれていることは明らかでした。それでも、彼らはプライドのゆえにヨハネを拒絶しました。

さらに、彼らはイエス様をも見ていました。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、イエス様の教えを聞きましたが、それでもイエス様を拒絶しました。

イエス様が彼らの間違った考え方を暴露し、彼らがイエス様の議論に反論することができなくても、彼らは自分の考えに固執しました。

一方で、このリーダーたちに見下されていた罪人たちは、かつて神様に背き、人々をだましたり、自分の体を売ったりしましたが、ヨハネやイエス様の言葉を聞くと、謙虚に自分の罪を認め、悔い改めました。

そこで、イエス様は宗教的なリーダーたちにこう言われました。

まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。(マタイ21:31)

あなたはどうでしょうか。自分が間違った時、それを認めることができるでしょうか。プライドは人間関係を壊します。けれども、さらに深刻なのは、プライドが神様との関係を壊してしまうことです。

だからこそ、謙虚な心を保ちましょう。相手から訓戒された時は、その言葉を素直に受け入れましょう。そして、自分が間違ったと気づいた時には、すぐにそれを認めましょう。

そうしなければ、あの宗教的リーダーたちのように、私たちは周りの人々から距離を置かれ、さらには神様からも離れてしまうかもしれません。

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実のない木

多くの人々はこの話を読むと、イエス様の行為に疑問を抱きます。いちじくのなる季節ではなかったのに、どうしてイエス様は実を結ばない木を呪われたのでしょうか。

聖書学者たちにはさまざまな意見があります。

その中の一つの意見によれば、過ぎ越しの祭りの時期には、普通のいちじくの木は食べられる芽を実らせることがあります。もしかしたら、イエス様はそのような芽を探しておられたのかもしれません。けれども、木にそのような芽がなければ、おそらくいちじくの実がなる季節が来ても、その木は実を結ばないでしょう。

その意見が正しいかどうかはわかりませんが、筋の通った説明のように思えます。

いずれにせよ、マルコの福音書によれば、イエス様はいちじくの木を呪われた後、エルサレムに入って神殿を清め、エルサレムを離れる途中で弟子たちがその木が枯れていることに気づきました。

ですから、イエス様はこのいちじくの木を通して、弟子たちに何かを教えたかったのだと思われます。それは何でしょうか。

いちじくの木が実を結ばなかったために裁かれたように、イスラエルが霊的な実を結ばないために裁かれることです。このことは神殿の出来事において明らかにされています。

イエス様のミニストリーの初めにも、イエス様は神殿を清められました。イエス様は牛や羊を売っている人々を追い出し、両替人たちも追い出されました。それは、そこが外国人たちが入って礼拝できる場所だったからです。

彼らが神殿のさらに近い場所に行くことは禁止されていましたが、祭司たちはその場所を市場として使いました。それに加え、多くの人々がその業者や両替人によってだまされていました。

神殿であるべきその場所を、市場にしてしまったのです。祭司たちはそのような行為を許していました。

だから、彼らの修行や宗教的な熱心が堕落していたことは明らかでした。

さらに、彼らはイエス様をメシアとして拒絶するだけでなく、イエス様を殺そうともしていました。そのため、イスラエルは裁きを受けました。

ローマ帝国の将軍タイタスは、その神殿を破壊しました。そして今なお、その神殿は再建されていません。なぜでしょうか。それは、神様が長い間イスラエルに愛と恵みを注いでくださったにもかかわらず、彼らが霊的な実を結ばなかったからです。

一方で、神様の働きは実を結ばないわけではありません。ユダヤ人たちがイエス様を拒絶したことで、福音が世界中に広がりました。そして、ある日、ユダヤ人もイエス様を信じるようになるでしょう。(ローマ書11章)

とはいえ、私たちは自分自身に問いかける必要があります。私たちの人生はどのような実を結んでいるでしょうか。私たちの体は神様の宮です。その宮は霊的な実を結んでいるでしょうか。

私たちは周りの人々に良い影響を与えているでしょうか。もしかすると、この世のものに執着し、私たちの宮は汚されてしまっているかもしれません。

ユダヤ人の祭司たちのように、私たちはお金に執着しているでしょうか。または、他の世のものに心を奪われているでしょうか。もしそうなら、霊的な実を結ばないことによって、裁きの日に私たちの功績は焼き尽くされてしまうでしょう。

私たちが実を結ばない木のようにならないために、霊的な実を結びましょう。聖霊に満たされ、私たちの周りの人々に神様の愛を分かち合いましょう。

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私たちに平和を与えるもの

この箇所で、イエス様はついにエルサレムに到着されました。そして、四つの福音書を読むと、ユダヤ人たちの興奮がよく伝わってきます。彼らは叫び声をあげていました。

「ホサナ、ダビデの子に。」

「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」

「ホサナ、いと高き所に。」(マタイ21:9)

また、

「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に」(マルコ11:9)

そして、

「天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」(ルカ19:38)

そして最後に、

「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

大騒ぎのため、多くの人々が「一体これは何の騒ぎだ?この人は誰だ」と尋ねました。そして、ほかの人々が「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。(マタイ21:10-11)

ヨハネによれば、その大騒ぎの理由の一つは、多くの人々がまだラザロの復活について語り続けていたことでした。(ヨハネ12:17-18)

最初に、パリサイ人たちはイエス様にこう言いました。

先生、あなたの弟子たちを叱ってください。(ルカ19:39)

イエス様がその願いを拒まれると、彼らは不満を漏らしました。

見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。(ヨハネ12:19)

それでも、イエス様がエルサレムに近づき、その都市をご覧になった時、喧噪の中で、イエス様は涙を流しながらこう言われました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。

彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。

それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカ19:42-44)

西暦70年、聖書に書かれている出来事が実際に起こりました。ローマの将軍タイタスは、エルサレムとその神殿を破壊しました。

なぜ神様はそれを許されたのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神の訪れの時を認識しなかったからです。彼らは神様の平和を逃しました。心の平安を失い、さらに神様との平和をも失いました。

同じように、神様は私たち一人ひとりに訪れます。ローマ人への手紙1章によれば、神様のことを聞いたことがない人であっても、すべての人が神様の存在を知っています。

彼らが星空を見たり自然の美しさを見たりするとき、聖霊様が彼らの心にこう語るかもしれません。「これは偶然ではありません。これはデザインされたものです。あなたが作った偶像はこれを作ることができません。真の創造者を求めなさい。」

また、教会でイエス様について聞くことがあるかもしれません。あるいは、友達がイエス様について教えてくれることがあるでしょう。

その時、彼らは分岐点に立たされます。彼らはどう選択するでしょうか。神様の言葉を聞いて従うでしょうか。それとも、その言葉を拒絶するでしょうか。

神様に従うなら、彼らは神様との平和と永遠の命を知ることができます。しかし、その言葉を拒絶すれば、裁かれます。

あなたはどうでしょうか。神様は今、あなたを呼んでおられます。今日は救いの日です。今、イエス様を受け入れませんか。

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主がお入り用なのです。

私たちはついに、イエス様の人生の最後の週にたどり着きました。

この箇所では、一つのフレーズが私の心を深く打ちました。イエス様は弟子たちに次のように言われました。

向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。

もし「どうして、ぼくのか」とだれかが尋ねたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。(ルカ19:30-31)

弟子たちがイエス様の言葉に従うと、その持ち主たちは彼らに問いかけました。

どうして、子ろばをほどくのか。(33)

弟子たちはイエス様の指示に従い答えました。その結果、持ち主たちはその子ろばを貸してくれました。

それを読んで、私は心の中で問いかけました。「主が私に、『私はこれが必要だ』と言う時、私はどう反応するだろうか。」

例えば、イエス様が「その人を助けるために、私はあなたのお金が必要です。その人は経済的に苦しんでいるから」と言ったら、私はすぐに「はい、どうぞ」と答えるでしょうか。

または、私がどこかに向かっている途中で誰かにばったり会った際に、イエス様が「私はあなたの時間が必要です。その人と話しなさい」と言ったら、私はどうするでしょうか。

または、イエス様が「あなたが西宮を去る時が来ました。私に仕えるために別の場所へ行きなさい」と言ったら、私は「はい、行きます」と答えるでしょうか。

それとも、私が自分の持っているものにしがみついてしまうのでしょうか。

実際には、自分自身で確信を持てません。過去を振り返ると、何度もイエス様が「こうしなさい。私はあなたからこれが必要だ」と言われたにもかかわらず、私は拒んでしまったことがあります。

「忙しい。」

または、

「私はそのお金が必要だ。別の物を買いたいから。」

弟子たちはそのろばをイエス様の元に連れて行き、イエス様をそのろばに座らせて、王としてあがめました。

私たちも同じようにするべきです。イエス様が私たちに「これが必要だ」と言われた時、私たちはその物をイエス様にささげ、イエス様を私たちの王としてあがめるべきです。

私はそうできるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。

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本当の聖さ

前回の記事では、王を拒絶する人々についてのたとえ話を読みました。今日の記事では、イエス様が指された人々について見ていきます。

イエス様がエルサレムに近づいておられ、多くの人々が過ぎ越しの祭りを祝うためにすでに集まっていました。そして、彼らは互いに訊き合いました。

どう思うか。あの方(つまり、イエス様)は祭りに来られないのだろうか。」(ヨハネ11:56)

なぜ彼らはそのように訊いたのでしょうか。

祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。(ヨハネ11:57)

実は、それは本当に皮肉なことでした。なぜでしょうか。

過ぎ越しの祭りを祝う前に、ユダヤ人たちは自分自身を清める必要がありました。つまり、儀式的に清められる必要があったのです。(ヨハネ11:55)

しかし、祭司たちやパリサイ人たちは儀式的には清められていたものの、心の中ではイエス様を殺そうと考えていました。

私たちはこの話から何を学ぶべきでしょうか。それは、聖さが単なる儀式的なものではないということです。聖さとは、教会に行くことや聖書を読むこと、献金をささげることだけではありません。

本当の聖さは、イエス様を王として受け入れることから始まります。

「イエス様、私は自分自身を清めることができません。儀式や自分の努力では清められません。イエス様、助けてください。私を清めてください。私の罪を赦してください。」

ヨハネは次のように書いています。

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

私たちが神様に受け入れられることを願うのであれば、それ以外の方法はありません。私たちはキリストの十字架のもとへ行き、イエス様の救いの御業を信じる必要があります。

そうすることで、私たちは神様の目に清められるのです。

あなたはどうでしょうか。本当に清められているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ19章

キリストを拒絶することを主張すると

このたとえ話には、もう一つ重要なポイントがあります。

イエス様はこう言われました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。。。

一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、「この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません。」と伝えた。

さて、彼は王位を授か[りました]。(ルカの福音書19:12,14-15)

実は、このたとえ話は実際の出来事を基にしています。

ヘロデ大王が亡くなったとき、彼の息子ヘロデス・アルケラオスは王位を授かるためにローマへ行きました。(なぜなら、ローマ皇帝がイスラエルの本当の支配者だったからです)。

けれども、ユダヤ人たちは大使を皇帝アウグストゥスに送り、「ヘロデス・アルケラオスが私たちの王になることを、私たちは望んでいません」と訴えました。

最終的に、ヘロデス・アルケラオスはユダヤを支配することはできましたが、王位を授かることはできませんでした。

このように、イエス様は天の父から王位を授かるのを待っておられます。しかし今なお、多くの人々はイエス様を憎み、「この方が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません」と言います。

けれどもヘロデス・アルケラオスの場合とは異なり、彼らが望もうが望むまいが、イエス様は王となられるのです。

そして、彼らがイエス様に反対し続けるなら、たとえ話の中の人々のように裁きを受けることになります。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様をあなたの王として受け入れているでしょうか。望もうが望むまいが、イエス様は王となられます。それゆえ、イエス様に反対して裁かれるよりも、イエス様にあなたの人生を捧げる方が良いでしょう。

私は地獄の話で恐怖を煽ることを望んでいません。神様の愛と恵みこそが、はるかに幸せな物語です。そして、神様はあなたを心から愛しておられます。

神様との和解を可能にするため、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。そして、私たちの罪のために、イエス様は十字架で死んでくださいました。

しかし、もし神様の賜物を拒絶し、イエス様をあなたの王として受け入れないなら、あなたは裁きを受けることになるでしょう。

ヨハネは次のように書いています。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神様のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:18)

あなたは選択する必要があります。どう決断するのでしょうか。

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ミナのたとえ話:私たちが待っているうちに

ルカによれば、イエス様がこのたとえ話を教えられた理由は、「イエス様がエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたから」です(ルカの福音書19:11)。

つまり、イエス様は彼らの間違った考えを正すと同時に、正しい考えを彼らの心に植え付けたいと思われたのです。それで、イエス様はこう言われました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。

彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。(12-13)

イエス様は、どのような間違った考えを覆したいと思われたのでしょうか。それは、神の国がすぐに来るという考えです。

王としての地位につく前に、イエス様は罪の問題を解決するために十字架で死ななければなりませんでした。

イエス様は死なれ、復活された後、天に帰って天の父の右に座られました。そして、聖書によれば、現在イエス様は「敵がご自分の足台とされるのを待っておられます」(へブル人への手紙10:13)。

ですから、私たちはいまだにイエス様の帰りを待っています。

では、イエス様が帰られるまで、私たちは何をすべきでしょうか。私たちはイエス様に忠実に仕えるべきです。

イエス様は弟子たちの心にその考えを植え付けたいと思われました。神の国のために、まだたくさんの仕事をしなければなりません。

このたとえ話では、王は十人のしもべに同じ金額を与えました。そして、王は彼らに、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と命じられました。

そのお金は何を象徴しているのでしょうか。おそらく、それは私たちの救いです。しもべたちはそのお金を得るために働いたのではありません。王はそのお金を彼らに預け、彼らはそれを投資しなければなりませんでした。

同じように、私たちは働いて救いを得たのではありません。神様の恵みによって救いが与えられました。しかし、私たちはその救いを用いて、神様の国のために働かなければなりません。

パウロは次のように言いました。

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。【ピリピ2:12-13)

私たちが与えられた救いを投資するとは、どういう意味なのでしょうか。それは、私たちが受けた救いを用いて、周りの人々に投資することを意味します。

私たちは自分の救いを喜ぶだけではなく、その救いを周りの人々と分かち合う心が必要です。彼らのために祈り、彼らに仕えましょう。

そして、私たちは彼らに対して、イエス様の目、口、耳、手となるべきです。イエス様が帰られるまで、私たちはそうし続けなければなりません。

そのように行動するなら、私たちは報いを受けるでしょう。どんな報いでしょうか。それは、神様の国のためにさらに大きな責任が与えられることです。

多くのクリスチャンは神様のために素晴らしいことをしたいと思っています。しかし、もし彼らが受けた救いを周りの人々と分かち合わないのであれば、神様がさらに大きな責任を彼らに委ねられるでしょうか。

さらに、最後のしもべのように、神様の国のために投資をしないのであれば、イエス様が帰られるとき、その人々は叱責されることになるでしょう。

パウロはそのような人々について次のように語っています。

その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:15)

あなたはどうでしょうか。あなたが受けた救いで、何をしているのでしょうか。

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私たちのせいで

これはとても有名な聖書の話ですが、今日この個所を読んでみると、今まで読み過ごしていた箇所が心に強く響きました。

[ザアカイ]はイエス様がどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。(ルカの福音書19:3)

ザアカイは取税人でした。現代でも、多くの人々は税務署を嫌うかもしれませんが、イエス様の時代では、ユダヤ人たちは取税人を非常に憎んでいました。

以前にも私は述べましたが、取税人はユダヤ人たちが嫌うローマ帝国に協力し、自分の民をだましていたため、ユダヤ人の間では全く人気がありませんでした。

それでも、ザアカイはどうしてもイエス様を見たいと思っていました。なぜでしょうか。

おそらく、彼は多くのお金を持っていましたが、彼の心はまだ空虚でした。けれども、ザアカイがイエス様を見ると、イエス様の中に他の人とは違う何かを見ました。つまり、命と希望を見たのです。

ところが、群衆のせいで、ザアカイにはイエス様が見えませんでした。

おそらく、その群衆の中には信心深い人々が多くいたでしょう。彼らは神様を愛していたかもしれません。それでも、彼らの存在がザアカイにとって障害となり、イエス様を見ることを妨げました。

ザアカイは背が低い人でした。そして、大勢の人々がいました。もしザアカイが無理にイエス様のところへ行こうとしたら、群衆の反応を予想することができたでしょう。彼らがザアカイを認めたとしても、きっと彼を通らせなかったでしょう。

そのため、ザアカイは木に登りました。そしてザアカイを見て、イエス様はこう言われました。

ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。(5)

もしザアカイが、人々が彼に抱いている意見について疑いを持っていたなら、彼らの反応によってその疑いは完全に吹き飛ばされたでしょう。彼らは不満を言い立てました。

[イエス様]は罪人のいところに行って客となった。(7)

しかし、ザアカイがイエス様の愛に触れたことで、彼の心は大きく変わりました。そして、彼はこう言いました。

主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。(8)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれほど群衆のようにふるまうことがあるでしょうか。神様を愛していると言うかもしれませんし、イエス様に従うと言うかもしれません。それでも、私たちのせいで周りの人々がイエス様を見られないことはないでしょうか。

私たちは彼らにイエス様のことを伝えているでしょうか。それとも、彼らを見下したり、追い出したりしているでしょうか。

ザアカイに対するイエス様の反応を覚えていましょう。イエス様は、すべての人々との関係を望まれます。そのため、イエス様は十字架にかかられました。イエス様は私たちだけのために死なれたのではなく、彼らのためにも命を捧げてくださいました。

イエス様は軽蔑されている人々のためにも命を捧げられました。だから、人々を軽蔑してはいけません。

また、人々がイエス様のもとに来ようとするとき、その道を妨げることのないようにしましょう。むしろ、イエス様の言葉を心に刻みましょう。

人の子は、失われたものを探して救うために来たのです。(10)

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周りの人々のニーズに目を向ける?

私がバルティマイとその友達の話を読むと、イエス様の愛と憐れみ深い心は、私にとても印象的です。

イエス様はもうすぐ十字架に行くし、そのことを親友たちにはっきりと伝えたのに、彼らは理解してくれませんでした。そんな状況で、イエス様が自分の思いや、フラストレーションや、心配で思い詰めていたなら、びっくりすることではなかったでしょう。

でも、その道を歩いているうちに、イエス様は前に何回も聞いていた願いをもう一度聞きました。

主よ。ダビデの子よ。私たちを憐れんでください(マタイ20:30)

大勢の人がイエス様を取り巻いており、イエス様がその声を見逃すのは簡単だったかもしれません。

また、その声を無視するのも簡単だったでしょう。なぜなら、多くの人がその二人に「黙れ」と言ったからです。

しかし、イエス様は立ち止まり、「その二人を呼んできなさい」とおっしゃいました。

そして、彼らが来ると、イエス様は彼らに尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのですか。」

彼らは答えました。「主よ、目を開けていただきたいのです。」

マタイによると、イエス様は深く憐れみ、彼らの目に触れて癒されました。

イエス様はご自身のフラストレーションや困難に思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に目を向けられました。

私たちはどうでしょうか。どのくらい私たちはイエス様の模範に従い、自分自身のことで思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に気づいているでしょうか。

また、どれだけ自分自身の必要やフラストレーションに思い詰めることで、神様の愛を周りの人々に伝える機会を逃しているでしょうか。

おそらく、私もそのような機会を逃してきたことが多いでしょう。

私たちはイエス様のようになることを学びましょう。私たちの苦しみや心配にとらわれることなく、周りの人々のニーズや痛みに目を向けましょう。そして、イエス様のように、彼らに手を差し伸べ、神様の力で彼らを癒しましょう。

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明確に語られたことを理解していない?

この話では、ルカの言葉が私の心に深く響きます。

弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカ18:34)

もちろん、「これらのこと」や「このことば」というのは、イエス様の死と復活を示しています。

ルカの言葉が私の心に深く響く理由は、イエス様が自分の死と復活について明確に語られたことです。弟子たちはその言葉を理解できたはずですが、それでも彼らは理解できませんでした。それはなぜでしょうか。

もしかすると、彼らはまだ霊的に成熟していなかったのかもしれません。多くの若いクリスチャンが聖書を読むとき、理解できないところが多いでしょう。けれども、私たちの信仰と知識が成長するにつれて、さらに理解が深まるでしょう。

あるいは、弟子たちには霊的成熟の問題だけではなく、イエス様の言葉を受け入れたくないという心の壁があったのかもしれません。イエス様がすぐに死ぬという現実を信じたくない彼らは、自分の耳を閉じてしまいました。

もう一つの理由は、彼らが神様の御心よりも自分たちの望みを優先していたことです。次の話の中でヤコブとヨハネの願いを見れば、彼らの自己中心的な姿勢が見えてきます。

しかし、どれほど私たち自身も同じような態度を取ってしまうでしょうか。聖書では神様の言葉がわかりやすく、神様が私たちの心にはっきりと語りかけてくださるにも関わらず、私たちはそのメッセージを見逃してしまうことがあります。

例えば、振り返ると、私がハワイに住んでいたとき、神様は私を日本に行くように呼ばれていました。何度も、「あなたは事務などの仕事には向いていない。ミニストリーをした方がいい」と言われました。

ある人々は率直に、「あなたは宣教師として日本に行くべきだ」と直接言われました。

けれども、当時の私はハワイを離れる気も、日本に行く気も全くありませんでした。

そのため、神様の言葉を受け入れることができませんでした。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という言葉を聞いても、「それは私のためではない」と思い込んでいました。

それでも神様は私の心に働き続け、数年後、日本に導かれました。そして、神様に従う喜びや、神様の言葉に従う喜びを経験することができました。

もし、あなたが心を神様に開けば、あなたもその喜びを知ることができるでしょう。

あなたの心は今、どんな状態でしょうか。神様があなたに語りかけておられるのに、その言葉を退けてはいませんか。それとも、その言葉に心を開いているでしょうか。

私たちはいつもこう祈りましょう。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

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イエス様に従い甲斐がある?

イエス様に従うことは本当に甲斐があるのでしょうか。裕福な役人はその疑問に直面しなければなりませんでした。残念ながら、彼はイエス様に従うことに甲斐がないと感じてしまいました。

ペテロもまた、自分自身に同じ問いを投げかけました。「イエス様のために、私はすべてを捨ててきましたが、それは本当に価値あることなのでしょうか。」

そこで彼はイエス様に尋ねました。

ご覧ください。私たちはすべとを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

イエス様はこのように答えられました。

まことに、あなたがたに言います。

私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。(マルコ10:29-31)

ここには、二つの重要な注意事項があります。

1.イエス様は、私たちがイエス様に従うなら報いを得ると教えてくださいました。報いは天国で得るだけではなく、この世でも得られます。それだけではなく、イエス様は私たちが豊かに祝福されると語られました。

もちろん、私たち全員が金持ちになるわけではありません。それでも、私たちの人生の終わりに振り返るとき、「私は祝福された。イエス様に従った甲斐があった」と心から言えるでしょう。

2.マルコの福音書にのみ記されているこの言葉は特に目立つものです。イエス様は報いについて語るだけではなく、警告もしてくださいました。「あなたは迫害を受けるでしょう。私に従えば必ず迫害されるでしょう。」

つまり、クリスチャンとしての生活はいつも楽しいものではありません。もちろん、喜びの瞬間はありますし、神様が私たちに祝福を注いでくださることもあります。

しかし、イエス様に従うならば、あなたを憎む人々がいるでしょう。イエス様は完全な神の子であったにもかかわらず、人々は彼を憎んだのです。

そして、イエス様はこう語られました。

しもべは主人にまさるものではない。。。人々が、私を迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ15:20)

だから、イエス様に従っている間に迫害を受けることがあっても驚かないでください。むしろ、永遠の報いに目を向けましょう。なぜなら、どんな苦しみがあっても、最終的にはイエス様に従う価値があるからです。

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救いの不可能性

私が大学生の時、宗教学の教授がキリスト教について話した際にこの話を取り上げました。彼の主張は何だったでしょうか。キリスト教によれば、天国に行きたいと思うなら、自分の持ち物をすべて売らなくてはならない、ということでした。

実は、私の教授の言葉は、私たち全員に全く別の教訓を教えています。それは、文脈を正しく理解しないと、聖書が教えていることを完全に誤解してしまう、ということです。

いずれにせよ、この箇所を総合的に比較してみると、イエス様と対話した人物について興味深い点が明らかになります。

彼は金持ちであり(全ての福音書の著者がそう記述しています)、若者であり(マタイ19:22)、さらに役人でもありました(ルカ18:18)。

そして彼はイエス様にこう尋ねました。

「良い先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16;マルコ10:17)

イエス様はこう答えられました。

なぜ、私を「良い」と言うのですか。また、なぜ、良いことについて、私に訊ねるのですか。良い方は神おひとりのほか、誰もいません。(マタイ19:17;マルコ10:18)

この箇所では、イエス様はご自身についての誤解の一つを明確にされます。それは、「イエス様は良い方だったが、神ではなかった」というものです。

イエス様はその人にこう言われました。

「あなたが私を神と呼ぶなら、それは正しいことです。 けれども、それを信じないなら、私をただの人間と呼ぶべきです。

とはいえ、もし私がただの人間であるなら、私を良い方と呼んではいけません。 なぜなら、唯一の神だけが良い方だからです。」

そして、イエス様は彼にこう言われました。

「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」(マタイ19:17)

その言葉だけを読むと、イエス様が私たちの良い行動によって天国に入れると言っていると思うかもしれません。しかし、この役人の反応を見てください。

私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。(20)

多くの人々には同じ問題があります。彼らは一生懸命神様の戒めを守ろうとします。そして、頑張って正しいことをしようとします。その役人のように、自分はその戒めをちゃんと守ったと思う人もいるでしょう。

それでも、心の中では何かが欠けていることを感じています。それはなぜでしょうか。

なぜなら、私たちは周りの人々をだますこともできるし、自分自身をだますこともできます。しかし、神様の基準を完全に満たすことができる人は誰一人としていないからです。

パウロは次のように書きました。

全ての人は罪を犯し「ます」。(ローマ3:23)

もし、私たちが自分の心を探るなら、そのことが明らかになるでしょう。

それでは、イエス様が永遠の命への道について語られた時に、どうして神様の戒めを指されたのでしょうか。もしかすると、パウロがその答えを示してくれるかもしれません。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては、神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ3:20)

ちょっと考えてみてください。鏡には私たちの顔を洗う力があるでしょうか。そんな力はありません。むしろ、鏡は私たちの汚い顔を映し出します。

同じように、律法には私たちの罪を清める力はありませんが、私たちの罪を指摘することができます。

とはいえ、その「鏡」の反映が時々ピンぼけになることもあるかもしれません。

もちろん、神様の律法の言葉は明確です。けれども、私たちがその律法の意味を正しく理解できないときもあります。また、その律法の意味を理解していても、自分の罪がまだ見えないこともあるでしょう。

この役人には、その問題がありました。彼は自分が律法を完全に守ったと思っていました。そこで、イエス様はその人の「鏡」を拭いて、反映をはっきりと見えるようにしてくださいました。イエス様はこう言われました。

完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、私に従って来なさい。(21)

どうして、イエス様はそう言われたのでしょうか。それは、その役人自身が言ったように、彼にはまだ何かが欠けていたからです。

彼は神様を愛するよりも、お金に執着していました。その結果、実際には彼は十戒の最初の戒めを破り、お金を自分の神としてしまいました。

その役人がイエス様の言葉を聞いたとき、自分の罪をはっきりと見ることができました。それでも残念ながら、彼はこう言うことはありませんでした。

「イエス様、私を助けてください。私は罪人です。私を憐れんでください。」

むしろ、彼は悲しみながら立ち去ってしまいました。

だからイエス様はこう言われました。

富を持つものが神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。(マルコ10:23)

弟子たちはそれを聞いて衝撃を受けました。それは、彼らが金持ちは神様に恵まれた人だと信じていたからです。しかし、イエス様はその同じ教えを繰り返されました。

子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。(マルコ10:24-25)

どうしてでしょうか。それは、この世のものを持ちながら、神様からのものを持つことは不可能だからです。金持ちは普通の人よりも多く、この世のものを所有しています。そのため、彼らが手放さなければならないものは、普通の人よりも多いのです。

そこで、弟子たちはこう尋ねました。

それでは、だれが救われることができるでしょう。(マルコ10:26)

次に記されたイエス様の言葉こそ、この箇所の核心を示しています。

それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。(マルコ10:27)

神様から離れている状態では、救いを得ることは不可能です。私たちは不完全な存在であるため、自分の努力だけで自分自身を救うことはできません。

イエス様はその教訓を役人に伝えたいと望まれました。

けれども、イエス様の十字架の御業と神様の御業によって、救いは可能になります。私たちがすべきことはただ一つ、イエス様を信じることだけです。

ヨハネは次のように書きました。

神は、実に、そのひとり子を与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

今日あなたは、神様の救いの賜物を受けないでしょうか。

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子供のように

イエス様が弟子たちを子供たちを追い出そうとしたことで責められたとき、イエス様はこう言われました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。

まことに、あなたがたに言います。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。(マルコ10:14-15)

子供のように神の国を受け入れるとは、どういう意味でしょうか。子供の性格はどんなものでしょうか。

1.彼らは人を全面的に信頼します。年月が経ち、さまざまな傷や嘘、裏切りを経験し、その心が固くなってしまうまで、彼らは人の言葉を信じ、疑うことを知りません。私たちはそのような純粋な心を持つべきです。

罪とは、基本的に神様に対する信頼の欠如と言えます。つまり、私たちは神様にこう言うのです。「あなたの言葉を信じません。あなたが私の最善を望んでいることを信じません。だから、自分の道を行きます。」

しかし、そのような態度でいるならば、私たちは決して神の国に入ることができません。

2.彼らは完全に大人に依存します。そして、そのことを素直に認めます。彼らは自分で料理を用意することも、服やその他必要なものを買うこともできません。彼らはそれらを受け取るために、両親に依存しています。

同じように、私たちがどれほど神様に依存しなければならないかを理解できなければ、私たちは決して神の国に入ることができません。

なぜなら、私たちには救いを買う力がないからです。そしてまた、私たちは救いのために働くこともできません。むしろ、神様の恵みとイエス・キリストの十字架の御業に完全に依存する必要があります。

その真理は非常に単純であるため、多くの人々にとって受け入れるのが難しいものです。また彼らは、その真理を信じることを拒むかもしれません。

自分の救いを買えると思いたいのです。または、自分の救いのために働くことができると思いたいのです。彼らは、自分には何もできないという事実を認めるのを嫌うのです。

けれども、私が以前に述べたように、彼らは子供のように神様を全面的に信頼することを学ばなければなりません。

イエス様はこう言われました。

神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神の御業です。(ヨハネ6:29)

あなたはどうですか。神様の前に子供のような心で来ているでしょうか。

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取るに足りない者の神

父親として、私は自分の娘が大好きです。それでも、彼女がうっとうしい時もあります。特に、私が大切な仕事をしているとき(別に大切じゃないことをしている時でも)、彼女は必死に私の注意を引こうとします。

私が仕事を続けながら、彼女を見ずに「はい、はい」と適当に応えるのは、とても簡単です。もし特に参っている時には、「後で。今忙しいよ。」と言ってしまうかもしれません。

この箇所では、イエス様の弟子たちはまさにそのように反応しました。

お母さんたちが自分の赤ちゃん(きっと泣いている赤ちゃんもいたと思います)、また幼い子供たち(おそらく乱暴な子供もいたでしょう)をイエス様のもとに連れて行ったとき、弟子たちは参ってしまい、「もう帰りなさい。イエス様はこの子供たちのために時間がないよ。」と言いました。

しかし、イエス様はすぐに弟子たちの言葉に反応されました。

イエス様はそれを見て、憤っ[た]。(マルコ10:14a)

そして、イエス様は彼らにこう言われました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。(マルコ10:14b)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの子供たちや他の人々を、弟子たちがしたように扱ってはいけません。彼らを取るに足りない人として扱ってはいけません。重要ではない人として扱ってはいけません。私たちの時間に値しない人として考えるべきではありません。

なぜなら、そうすればイエス様はとても憤られるからです。彼らはイエス様の大切な創造物であり、イエス様は彼らのために死ぬほどまでに彼らを愛しておられました。

あなたもまた、同じように愛されています。自分が取るに足りない人間だと思うかもしれません。のけ者だと感じるかもしれません。

それでも、人々があなたをそのように扱うとき、イエス様は憤られます。イエス様はあなたを憐れんでおられます。そして、あなたを愛しておられます。イエス様は決してあなたを見捨てることはありません。

だから、イエス様に近づいてください。イエス様の目には、あなたはとても大切な存在です。あなたは貴い者です。そしてイエス様は、あなたとの関係を何よりも望んでおられます。

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パリサイ人と取税人のたとえ話:恵みの必要を心に留める

まず、少しアナウンスがあります。最近、新改訳2017を購入したので、これからその翻訳から引用を始めます。そのため、あなたの聖書と比較すると、少し違うところがあるかもしれません。

それはさておき、不思議なことですが、何千年経っても人間の本質はあまり変わりません。この箇所を読むと、それがよくわかります。

ルカはこう書きました。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエス様はこのようなたとえを話された。(ルカの福音書18:9)

その時代、特にパリサイ人たちはそのような態度を持っていました。彼らは一生懸命に、一番細かい律法にさえ従おうとしました。しかし、それは彼らのプライドへとつながりました。

イエス様のたとえ話の中で、あるパリサイ人が大きな声でこう祈りました。(もしくは、祈りというより独り言を言ったのでしょうか)。

神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。(11-12)

ようするに、「神様、あなたの国に私のような人がいて良かったですね。私はいい人ですよね?逆に、この収税人は。。。」ということです。

残念なことですが、今でもそんな態度を取るクリスチャンがいます。彼らは神様の恵みによって救われたと認めていますが、彼らの態度は違うことを示しています。

恵みによって生きる人には二つのことがはっきり見えます。彼らの罪深い心が見えますし、どれほど神様が必要かが見えます。

この収税人には、その二つのことがはっきり見えていました。

その時代、ユダヤ人たちは収税人を憎んでいました。なぜなら、収税人はユダヤ人でありながらイスラエルを征服したローマ帝国と協力していたからです。

それに加えて、収税人たちはイスラエル人を騙して、ローマ帝国が要求した額よりも多く税を取り立てていました。

けれども、この収税人は自分の胸を叩きながら、こう祈りました。

神様、罪人の私をあわれんでください。(13)

イエス様はその人について、こう言われました。

あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。

誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。(14)

あなたはどうですか。あなたは神様の恵みによって生きているでしょうか。自分の罪深い心が見えていますか。そして、どれほど神様が必要かが分かっていますか。

そのような人とは、どのような人でしょうか。

彼らはへりくだり、神様が何をしてくださったのかを感謝します。彼らの心にはプライドの余裕がありません。つまり、自分の義や、自分のたまものに関するプライドがないのです。

彼らは、自分が永遠の死にしか値しない者であることを理解しています。それでも、神様が彼らに恵みを注いでくださったため、毎日感謝で心が満ちています。

たとえ他人が彼らを正当に評価しないときでも、彼らは苦々しい思いを抱きません。また、自分の功績を誇ることもありません。むしろ、感謝に満ちた心を持っています。

もう一つの特徴は、彼らが受けた恵みを周りの人々に与えることです。彼らは偉そうな態度を取ることはありません。むしろ、自分自身が神様の恵みを必要としていたように、周りの人々もその同じ恵みを必要としていることを理解しています。

自分の罪深い心がわかるならば、他人を軽蔑することはできません。自分がどれほど赦されたかを理解していると、他人を裁くこともできません。

むしろ、心が恵みと憐れみに満ち、その恵みと憐れみで周りの人々に触れるようになります。

あなたはどうですか。神様の恵みがどれほど必要か、あなたには分かっていますか。

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ルカの福音書 ルカ18章

やもめと裁判官のたとえ話:試練に直面するとき、信仰を貫く

一節だけ読むと、イエス様のポイントは「神様がすぐに祈りに応えないときでも、祈り続けるべきである」ということだと思うかもしれません。

もちろん、それも正しいのですが、実際には、イエス様は特定の種類の祈りについて話されています。

この箇所では、イエス様はまだこの世の最後の日について話しています。その日は、悩みの日であり、試練に満ちた日です。

イエス様は私たちが自分の罪のために裁かれないことを約束されましたが、試練や苦しみを経験しないとは約束されませんでした。

時には、私たちは不正義を経験します。特に、反キリストが現れてこの世を支配する時には、クリスチャンたちは大いに苦しむことでしょう。

この箇所でイエス様は、そうしたクリスチャンたちについて語られています。聖書によれば、すべてのクリスチャンが迫害を受けるとされています。

そのような時には、「神様はどこにおられるのだろうか。神様は私を見捨てたのだろうか。まだ私を愛しておられるだろうか。正義はいつ実現するのだろうか」と疑問に思うかもしれません。

だからこそ、イエス様はこのたとえ話をされたのです。この話では、ある女性が不正義を経験したため、裁判官のもとへ行き、正義を求めました。

けれども、その裁判官は彼女の願いを何度も断りました。それでも彼女はあきらめず、何度も裁判官のもとへ行き、お願いを続けました。最終的に、裁判官はこう言いました。

私は神を恐れ ず、人を人と思わ ない が、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよ う。

そうでないと、ひっきりなしに やって来 て、私は疲れ果ててしまう。(ルカの福音書18:4-5)

イエス様の意味されたことは何でしょうか。神様がその裁判官のように、私たちに正義を与えたくないために、毎日祈りで神様を困らせないと応えてくださらないということでしょうか。それは違います。

実際には、イエス様はその正反対のことを言われています。この不正な裁判官でさえ、その女性のしつこい願いに応じて正義を与えたのです。まして、あなたを愛する公正な神様が、喜んであなたに正義を与えてくださらないことがあるでしょうか。

黙示録6:9-11には、似たような場面が描かれています。その箇所では、聖徒たちはイエス様のために迫害を受けましたが、この世では正義を受けることはありませんでした。

それでも神様は彼らを励まし、「正義は必ず来る」と約束されました。

しかし、苦しんでいるときに正義を待つことは非常に辛いものです。だからこそ、イエス様は私たちにこう問いかけておられるのです。

だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(8)

もしかすると、あなたはこう考えるかもしれません。

「大丈夫です。私はひどい苦難(マタイ24:21-22)に直面しない。イエス様はその前にクリスチャンたちのすべてを天国に連れて行ってくださるから、心配しなくていい。反キリストを見ることは決してないだろう。」

正直に言えば、私はその確信は持てません。もしかすると、私たちはそのひどい苦難を経験し、反キリストに直面するかもしれません。

とはいえ、仮にそれを避けられるとしても、あなたの信仰はどれほど強いでしょうか。

辛い時、あなたは神様とその正義を疑い始めるでしょうか。「神様、どこにおられるのですか。私を愛しておられるでしょうか。どうして私はこんなに苦しむのでしょうか。」と問いかけるでしょうか。

それとも、信仰を貫いて、こう言うでしょうか。

「神様、私はまだあなたを信じます。たとえ苦しんでいても、あなたを捨てません。私は、最終的にあなたが私に正義を与えてくださると信じます。この世ではその正義を見ないかもしれませんが、後に必ずあなたの正義を知ることになると信じます。」

イエス様があなたをご覧になるとき、揺らぐ信仰をご覧になるでしょうか。それとも、動じない信仰をご覧になるでしょうか。

へブル人への手紙の著者の言葉を心に留めましょう。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(へブル12:12)

そして、私たちの忠実な神様への信仰を貫き続けましょう。

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ルカの福音書 ルカ17章

急な裁き、確実な裁き

パリサイ人たちに神の国について語られた後、イエス様は弟子たちに警告されました。それは、非常に困難な時が訪れるということです。

その時、彼らはイエス様の再臨を切に願い、イエス様が帰られたという噂を聞けば、それを信じてしまうかもしれません。けれども、イエス様はご自身の再臨について、いくつかの重要なことをはっきりと教えられました。

第一に、イエス様が帰って来られるとき、それを誰も見逃すことはできないということです。イエス様はこう言われました。

いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。(ルカの福音書17:324)

第二に、イエス様は突然現れます。

その日は、普段と変わらない一日として始まります。人々はいつものように、食べたり、飲んだり、結婚したり、買ったり、売ったり、植えたり、建てたりするでしょう。ところが、突如としてイエス様が来られ、裁きが始まるのです。

第三に、義人は死に至る裁きを経験することはありません。イエス様はこう言われました。

ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。(29-30)

注目してください。ロトがソドムを出て行ったとき、裁きが訪れました。同じように、イエス様が来られるとき、義人が悪者から分けられたあとで、裁きが下ります。

第四のポイントは、イエス様が来られるとき、もしあなたが神様との関係を持っていなければ、あなたは裁かれるということです。あなたの友人や、妻、夫、親族が素晴らしいクリスチャンであったとしても、その関係があなたを救うことはできません。

だから、イエス様はこう言われました。

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。(34-35)

最後のポイントは、裁きが確実であるということです。イエス様はこの教えを次の言葉で締めくくられました。

死体のある所、そこに、はげたかも集まります。(37)

死体があれば、はげたかが集まるのは確かです。同じように、霊的に死んだ者がいれば、裁きが下るのは確実です。

だから、あなたは自分自身に問いかけなければなりません。あなたは準備ができていますか。あなたの心は整っていますか。あなたはこの世のものに執着していますか。それとも、神様を愛しているでしょうか。

裁きの日には、あなたの心の隠されたものが明らかになります。

イエス様が来られると、イエス様を愛している人々は喜んで迎えます。

しかし、この世のものに執着する人々は、持ち物を失うことを恐れるでしょう。

だからこそ、イエス様は弟子たちに警告されました。

ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(32-33)

神様がソドムを裁かれたとき、ロトの妻はソドムでの生活に執着し、後ろを振り返りました。結果として、彼女も裁かれることになりました。

もしあなたがこの世のものに執着するなら、イエス様が来られるとき、あなたも裁かれることになるでしょう。

あなたの心のあり方はどうでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

神様の御国を見るため

この箇所で、パリサイ人たちはイエス様に、神の国がいつ来るのかを尋ねました。

もしかすると、彼らの意図は、「あなたは本当にメシアなのですか?もしそうなら、私たちにしるしを示してください」ということだったのかもしれません。

しかし、いつものように、イエス様は批判者に対してしるしを与えることを拒まれました。むしろ、イエス様はこう答えられました。

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。

いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカの福音書17:320-21)

イエス様は何を意味されたのでしょうか。「あなたたちは神の国のしるしを求めすぎて、その到来をすでに目の前で見ながらも認識できていません。」

つまり、「あなたの王はすでに来ています。その王はあなたがたの間で御国の業を行っています。それを目の当たりにしているのに、なぜなおもしるしを求めるのですか。」ということです。

パリサイ人たちは、神様が何をしているのかを見ることができませんでした。とはいえ、あなたはどうでしょうか。

神様はあなたの周りの人々の心の中で働いています。神様は彼らの人生を変えたいと願っておられます。そして、神様はあなたを通して彼らに触れたいと願っておられます。

けれども、あなたは自分の人生に気を取られすぎて、神様が何をしているのか気づけていないでしょうか。

あるいは、聖書に書かれた預言に強い関心を持ち、イエス様がいつ再臨されるのかばかりを気にしすぎるあまり、神様があなたの周囲でどのように働いておられるのかを見失ってはいないでしょうか。

もちろん、聖書の預言は重要です。けれども、もし神様の働きを見失っているなら、私たちの視点はゆがんでおり、神様は私たちを御国の働きのために用いることができません。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りで神様がどのように働いておられるのかを見ているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

感謝

この箇所では、10人のツァラアトに冒された人々は一緒にイエス様の所に行きます。

もちろんツァラアトはつらい病気でしたけど、一つの良い点がありました。ツァラアトに冒された人々の間では、普段存在する壁は崩れました。

普通は、ユダヤ人とサマリヤ人は互いに憎み合いました。でも、その十人は病気のせいで、自分の民の間でのけ者になりました。だから、彼らがわっかったのは、彼ら皆がただの人間で、ユダヤ人とサマリヤ人には大差がないことです。

私たちもそのことを学ぶべきです。つまり、パウロはこう教えました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

私たちにどんな宗教的な背景があっても、どんな文化的な背景があっても、私たち皆は同じです。つまり、私たち皆は罪人です。そして、イエス様が私たちに触れてくれないと、私たちは死ぬとき永遠に神様から離れます。私たちの罪のせいで、私たちはのけ者になりましたから。

おまけに、その10人のように、私たちは自分自身を救うために何もできません。

その時代、ツァラアトの治療がなかったので、ツァラアトに冒された人は、何もできませんでした。

そのツァラアトに冒される人のように、私たちは一つのことしかできません。それは、神様様の憐れみを願うことです。

その十人はイエス様にこう叫びました。

イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。(ルカの福音書17:13)

イエス様は彼らを憐れんで、癒してくださいました。でも、彼らは信仰が必要でした。イエス様はその場で彼らを癒してくださいませんでした。むしろ、イエス様は彼らにこう言いました。

行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。(14)

そして、彼らは行く途中で癒されました。

このように、私たちがイエス様に信仰を置くときにのみ、私たちの罪は清められるのです。

彼らは自分が癒されたことを知ると、大喜びしました。ところが、サマリヤ人だけがイエス様のもとへ戻り、イエス様に感謝を捧げました。

イエス様はそれをご覧になり、こう尋ねられました。

十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。(17-18)

イエス様は、私たちについてどれほど同じことを言われるでしょうか。私たちの罪を清めるために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様の恵みによって、私たちは永遠の死から救われました。

しかし、私たちはその救いをどれほど当たり前のものとして受け止めているでしょうか。

私はただ感謝の言葉について話しているのではありません。私たちの行動は、どれほどイエス様への感謝を表しているでしょうか。

イエス様は愛と恵みを私たちの人生に注いでくださいましたが、私たちはそれをただ享受しているだけでしょうか。それとも、その愛と恵みが私たちを通して周囲の人々に届いているでしょうか。私たちの人生は神様に栄光を帰しているでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生はイエス様への感謝を映し出しているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

私たちの奉仕の姿勢

私たちは皆、褒められるのが好きです。誰かが「よくできたね」と言ってくれると、私たちはとても嬉しくなります。

しかし、それが私たちが奉仕する理由でしょうか。私たちは人からの称賛を求めているのでしょうか。それとも、神様の称賛を求めているのでしょうか。

もし人から称賛を得られなかったとき、私たちは正当に評価されていないと感じるでしょうか。怒りを覚えるでしょうか。

イエス様は、このことについて、とても興味深い描写を与えてくださいます。

ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。

かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。

しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。

あなたがたもそのとおりです。

自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。(ルカの福音書17:37-10)

イエス様の意味されたことは何でしょうか。神様は私たちの努力を正当に評価されないのでしょうか。神様は私たちに報いを与えてくださらないのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

聖書のほかの箇所によれば、神様は私たちの働きと努力を評価し、やがて報いを与えてくださいます。

とはいえ、私たちが覚えておくべき重要なことが二つあります。

一つ目は、私たちがこの世に生きている限り、果たすべき使命があるということです。自分の成功を祝って怠ける余裕はありません。さらに、人からの称賛を求める余裕もありません。むしろ、神様から委ねられた働きを忠実に続けなければなりません。

二つ目は、私たちがどんな役割を持っていようとも、神の国でどんな立場にあろうとも、私たちはただ神様の恵みによって仕えるのだということです。

私たちは神様から報いを受けるに値しません。もちろん、救いにも値しません。

実際には、私たちの欠点や弱さ、失敗にかかわらず、神様が私たちを用いてくださることこそが恵みなのです。

さらに、私たちが仕えることができるように、神様はいろいろな才能や賜物を与えてくださいます。神様は私たちに力と知恵を授けてくださいます。

それなら、それらの賜物をすべて受け取ったとき、私たちは誇ることができるでしょうか。

パウロはこう書きました。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント4:7)

だから、私たちが生きている限り、神様から委ねられた働きを続けましょう。謙遜に、忠実に。

そして、仕えるときには、なぜ私たちが仕えることができるのかを覚えておきましょう。つまり、神様の恵みを心に留めておきましょう。

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ルカの福音書 ルカ17章

赦し

この箇所で、イエス様は赦しについて語られています。けれども、その言葉は非常に厳しいものです。イエス様はこう言われました。

もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。(ルカの福音書17:3)

相手があなたを傷つけたとしても、いつまでも怒りを抱いていてはいけません。イエス様は私たちに「その人と直接話し合いなさい」と命じられました。

もちろん、感情を整理するために、少し時間を置くことは必要かもしれません。それでも、怒りを長く溜め込むのはよくありません。そしてイエス様は、「相手が悔い改めれば、赦しなさい」と教えられました。

しかし、イエス様はさらに語られます。

かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます」と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。(4)

これは単なる助言ではありません。イエス様は、「もし相手が謝るなら、赦すことを少し考えた方がいいかもしれない」と言われたのではありません。

イエス様は私たちに命じられました。「赦しなさい。」

弟子たちはどのように反応したでしょうか。

私たちの信仰を増してください。(5)

私たちの多くは、そのように考えるでしょう。

「主よ。私の傷はとても深いのです。私が赦せるかどうかわかりません。私たちが相手を赦せるように、私の信仰を増してください。」

イエス様は弟子たちに、また私たちにこう答えられました。

もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、「根こそぎ海の中に植われ」と言えば、言いつけどおりになるのです。(6)

つまり、どれほど深い傷を抱えていても、その根は引き抜くことができるのです。そして、たくさんの信仰を持つ必要はありません。

あなたがどれくらいの信仰を持っているかは、それほど重要ではありません。

本当に大切なのは、あなたが誰を信じるかということです。イエス様は偉大な癒し主です。どんな傷を負っていたとしても、イエス様はあなたを癒すことができます。

だから、自分を変えようとする強い意志があるかどうかは問題ではありません。

実は、神様の戒め自体に、私たちを変える力はありません。私たちは自分の心を変える力を持っていないのです。自分の力だけで、完全な人間になることはできません。

しかし、イエス様は私たちを変えることができます。

だから、自分の力に頼って、「頑張ろう。相手を許そう。」と思うのではなく、むしろ、イエス様に向かって、イエス様の癒しと助けを求めましょう。

そして、イエス様を信じるなら、あなたは奇跡を目にするでしょう。

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ルカの福音書 ルカ17章

人々につまずきを与えている?

この箇所では、イエス様はこう言われます。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。

この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(ルカの福音書17:2)

それは非常に厳しい言葉ですが、イエス様は続けてこう語られました。

気をつけていなさい。(3)

つまり、「私はあなたに語っている。あなたに警告している。気を付けていなさい。」ということです。

それを読んだとき、私は少し恐れを感じます。私には9歳の娘がいます。彼女はまだ幼い存在です。私はどんな父親なのだろうか。私は懸命に努力していますが、決して完璧な父親ではありません。

彼女は私を見ています。私は彼女にとって良い模範となっているでしょうか。それとも、私の言動によって娘につまずきを与えてしまっているでしょうか。

そのことを思うとき、私はこう祈ります。 「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」

しかし、私はほかの人々にもつまずきを与えているでしょうか。私は、妻や同僚、教会の人々に対して、私の行動や悪い態度を通して、知らず知らずのうちに傷つけているでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたは周りの人々にどのような影響を与えているでしょうか。

あなたの生き方を通して、彼らはイエス様に近づいているでしょうか。それとも、あなたが彼らにつまずきを与えているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ16章

金持ちとラザロ:地獄の現実さ

地獄。それは決して楽しい話題ではありません。

けれども、イエス様は地獄について教えられました。この箇所では、イエス様は地獄の存在を示し、それがどのような場所であるかを説明されています。

第一のポイントは、地獄が苦しみの場所であるということです。そこでは、人々は意識のある状態で苦しんでいます。

多くの人は、死んだら意識がなくなると考えます。しかし、それは誤った認識です。地獄では、人々は自分の状況をはっきりと理解し、苦しみ続けます。

第二のポイントは、悪者と義人の間に大きな淵があることです。そして、その淵を渡ることはできません。一度地獄に入ると、そこから抜け出すことはできません。もはや悔い改める機会は失われているのです。

さらに、地獄にいる人々は、おそらく悔い改めたいとは思っていないでしょう。この話では、金持ちは苦しみながら憐れみを求めましたが、悔い改めることはありませんでした。

第三のポイントは、地獄に行きたいと思う人などいないということです。また、地獄にいる人々は、自分の愛する者が地獄に来ることを望みません。

時々、人々はこう言います。「私はクリスチャンになりたくありません。なぜなら、私の両親や祖父母がすでに亡くなっているからです。もし彼らが天国に行けなかったのなら、私も行きたくありません。」

けれども、この金持ちの言葉に耳を傾けてみてください。

父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。(ルカの福音書16:27-28)

アブラハムは、「それは無理だ」と答えました。なぜなら、たとえ神様がそれを許されたとしても、その金持ちの兄弟たちはすでに神様のみ言葉を拒絶しているため、たとえ誰かが復活して彼らに警告したとしても、彼らは信じないでしょう。

皮肉なことに、別のラザロがイエス様の力によって復活しました。イエス様はこれによって、自分が神の子であることを証明されました。

ところが、イエス様の敵はその出来事を目の当たりにしてもイエス様を拒絶し、さらにはイエス様とラザロを殺そうと企てたのです。

とはいえ、私がここで強調したいのは、その金持ちは自分の家族が地獄に来ることを望まなかったという点です。

もしあなたが、家族や友人が地獄にいるかもしれないと考え、それゆえにイエス様の救いを拒んでいるのなら、その金持ちの言葉を覚えていてください。あなたの家族や友人は、あなたが地獄に行くことを望んでいません。

では、私たちはどうすれば地獄を避けることができるのでしょうか。

それには、イエス様を信じることが必要です。イエス様があなたの罪のために死なれ、そしてよみがえられたことを信じる必要があります。さらに、イエス様を主と救い主として受け入れなくてはなりません。

「神様が愛なら、どうして人々を地獄に送るのか」と疑問に思う人がいるかもしれません。

しかし、神様から離れた人生そのものが地獄なのです。もしあなたが命、愛、喜び、平和の源から遠ざかるなら、それこそが地獄ではないでしょうか。

神様が人々を地獄に送るのではなく、人々自身が地獄への道を選んでいるのです。

つまり、彼らは命の意味を与える方に背を向けているのです。その結果、彼らの心には絶望しか残りません。それこそが地獄なのです。

あなたはどうしますか。命の源へと向かうでしょうか。それとも、命の源に背を向けるでしょうか。それはあなた自身の選択です。

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ルカの福音書 ルカ16章

永遠のために準備しないと

この箇所で、イエス様は地獄について語られます。その描写は非常に生々しいものです。なぜなら、イエス様はある人物の経験を詳細に描写されているからです。

ある学者たちは、イエス様が実在の人物について話していると考えています。なぜなら、この話の中で、イエス様は登場人物の名前を明かされているからです。

私は、この出来事が本当に起こったかどうかは分かりません。とはいえ、この話を通して、イエス様は私たちに対し、永遠のために備えるべきだと明確に警告されています。

だからこそ、16章では、最初の話(ずる賢い管理人)と最後の話が深く結びついているのです。

この話では、イエス様は贅沢に暮らしていた金持ちについて語られます。彼はあらゆる欲求を満たし、必要なものをすべて持っていたため、自分の未来を気にすることはありませんでした。

さらに、彼は周囲の人々のことを気にも留めていませんでした。

彼は毎日、ラザロという乞食の前を通り過ぎていました。ラザロについて詳しくは分かりませんが、もしかすると彼は身体が不自由であり、物乞いをする以外に生きる術がなかったのかもしれません。

ラザロは、金持ちの食卓から落ちる物を食べたいと願いましたが、金持ちは彼に全く気づきませんでした。

こうして、彼らは何年もの間、このような生活を送りました。

けれども、彼らが死ぬと、ラザロはアブラハムのふところへと導かれ、慰めを受けました。一方、金持ちはハデス(地獄のような場所)で苦しみました。そして、彼が助けと憐れみを求めると、アブラハムはこう答えました。

子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。

しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。(ルカの福音書16:25)

アブラハムの言葉の意味は何でしょうか。

この金持ちは、ずっとこの世の人生を楽しんでいました。彼は富を蓄え、快楽を求め、気ままに暮らしていました。しかし、彼は永遠のための準備をまったくしていませんでした。

一方、ラザロはこの世に何も所有していませんでした。彼の生涯は本当に苦しみに満ちていました。それでも、彼は永遠のために備えていました。

そのため、二人が死んだとき、ラザロは慰められましたが、金持ちは苦しみました。

金持ちの問題は、お金そのものではありませんでした。彼の問題は、未来に備えなかったことです。イエス様の教えに従わず、彼が自分の財産を正しく用いなかったため、永遠の住まいで彼を迎える人が誰もいませんでした。(16:9)

この金持ちの生き方に倣うことがないようにしましょう。私たちの命は非常に短いものです。そのことを覚え、永遠のために準備しましょう。そうしなければ、金持ちのように永遠に苦しむことになります。

あなたはどうでしょうか。永遠のために備えていますか。

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ルカの福音書 ルカ16章

人の前で義を装う自分を正しいとする?

パリサイ人の大きな問題の一つは、独善的な態度でした。

彼らは細かい規則に従っていましたが、自分の明白な罪を認識することができませんでした。そして、イエス様がその罪を指摘されたとき、彼らはそれを否定しました。「私たちは正しい人だ」と言い張ったのです。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。

人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。(ルカの福音書16:15)

この話の中で、イエス様は彼らのお金への執着を裁かれました。

けれども、パリサイ人たちはこう考えました。 「でも、私の財産は神様の祝福のしるしのはずだ。イエス様は何を言っているのだろう?」

ところが、彼らの心の中では、お金が偶像となっていました。彼らは神様よりもお金を愛していたのです。

あるいは、彼らはお金以上に、ただ一つのものを愛していたかもしれません。それは、周囲の人々からの称賛です。だからこそ、彼らは施しをするとき、人々に見てもらえるように確認しました。

多くの人々はお金や世間からの称賛を求めますが、神様の目にはそれらは忌み嫌われるものです。

もちろん、お金や称賛そのものが悪いわけではありません。しかし、それらが人生の目的となり、さらにそれらが私たちの神となってしまうなら、神様との関係を妨げる障害となります。

パリサイ人たちは、人前で正しい行いを示すだけでなく、ほかにも多くのことをしていました。彼らは過剰な規則を強制しながら、自ら抜け道を見つけ、それを正当化して自分自身を誇りました。

例えば、イエス様は彼らの姦淫に関する考えを非難されました。あるパリサイ人は、その律法を回避するために、自分の妻たちと離婚し、すぐに別の女性と再婚しました。

けれども、イエス様は彼らにこう言われました。

だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。(18)

しかし、最も問題なのは、彼らが罪人と関わることなく、ただ裁いたことです。彼らは律法を利用して人々を裁きましたが、罪人の救いを望んでいませんでした。むしろ、彼らは「人々から天の御国を遮っていました。」(マタイ23:13)

それでも、ある人々はパリサイ人の妨害を乗り越え、神の国へ入っていました。

つまり、パリサイ人たちが拒絶した人々こそがイエス様に触れられ、彼らの余計な規則を押し切り、神の国へと導かれていたのです。(ルカ16:16)

あなたはどうでしょうか。あなたの心には何があるでしょうか。外側は清く見えても、あなたの心は汚れていないでしょうか。

あなたは独善的な態度を持ち、自分の罪を認識できないでいるでしょうか。

私たちがパリサイ人のようにならないように。むしろ、イエス様が私たちの罪を明らかにし、神様との関係を阻む私たちのプライドの壁を打ち砕いてくださるように祈りましょう。

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ルカの福音書 ルカ16章

何に、誰に仕えているか?

私たちの社会では、「お金」という神が非常に人気です。多くの人々がお金を慕い求め、それを追いかけます。彼らはお金のために働き、時にはそのために命を落とします。(例えば、過労死です。)

しかし、イエス様はこう言われました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカの福音書16:13)

私は以前も言いましたが、私にとってこの教えはとても厳しいものです。特に、お金を使って人に仕えることは難しいと感じます。だからこそ、私は自分自身に問いかけるべきです。私は誰に仕えているのでしょうか。

私はお金に仕えているのでしょうか。懸命に働き、手にした財産をできる限り手放さずに守ろうとしているだろうか。それとも、その財産を神様に仕えるための道具と考えているだろうか。神様は、私の財産にいつでも、どこでもアクセスできるだろうか。

もしそうでないなら、私は神様ではなく、お金に仕えていることになります。それは偶像礼拝です。

これはパリサイ人たちの問題でもありました。彼らはイエス様の言葉を聞いたとき、あざ笑いました。

その時代、人々は富を神様の祝福のしるしだと考えていました。

「神様は義人だけを祝福されるはずだ。私は多くの財産を持っているのだから、私は義人に違いない。」

それだけではなく、彼らは貧しい人々を見下しました。そして、イエス様までも侮りました。つまり、彼らは偶像礼拝の罪を犯しただけでなく、プライドという罪も犯したのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分の持ち物を誇っているでしょうか。あなたの持ち物が、あなたの神になってはいないでしょうか。あなたはお金に仕えているために、神様の国のために周りの人々に触れることができないでしょうか。

あなたは何に仕えているでしょうか。誰に仕えているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ16章

不正な管理人のたとえ話:忠実さ

前回の記事では、私たちはずる賢い管理人の話を読みました。その管理人は自分の未来のために準備していたため、イエス様は彼を褒められました。

しかし同時に、イエス様は彼を戒められました。そして、イエス様はこう言われました。

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(ルカの福音書16:10)

要するに、誰を信頼するかを慎重に考えなさい。どんな人にも、いきなり大きな責任を任せるのではなく、まずその人をよく見極めるべきです。

まずは小さな責任を与え、その人が誠実に果たせるかどうかを確認しなさい。その人が忠実に仕えるなら、さらに大きな責任を任せなさい。けれども、小さな責任すら果たせないなら、その人を信頼してはならないということです。

とはいえ、私たちは他者を評価するだけではなく、自分自身も省みなければなりません。イエス様は続けてこう言われました。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。(11-12)

神様は私たちに財産やさまざまな資源を与えてくださいました。あなたはそれらを忠実に活用しているでしょうか。

あなたの財産が、実は神様のものであることを理解しているでしょうか。神様はあなたに才能と健康を授けてくださいました。そのため、あなたは働き、お金を得ることができます。

そういうわけで、あなたの財産は本来、あなたのものではなく、神様のものであり、あなたはそれを管理しているにすぎません。

もしあなたが忠実に神様の財産を管理していないなら、神様があなたにさらなる責任を委ねると思うでしょうか。特に、神様はあなたにミニストリーの責任を託されるでしょうか。

私は教会の働きについてだけ話しているのではありません。

あなたの学校や職場、近所にも、神様を必要としている人々がたくさんいます。神の国の一員として、私たちはその人々に触れ、影響を与えるように召されています。そして、それに忠実に応じるなら、天国で報いを得るのです。

しかし、もしあなたがこの世の物に対して不忠実であるなら、神様は永遠のものをあなたに委ねることができるでしょうか。

あなたは、神様があなたに託されたものに忠実でしょうか。神様はあなたを信頼できるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ16章

不正な管理人のたとえ話:私たちの未来を確保する

私たち皆は安定した未来を望みます。けれども、果たして十分な準備をしているでしょうか。そして、未来を考えるとき、永遠のもののためにも備えているでしょうか。

このイエス様のたとえ話は、少し変わったものでした。なぜなら、イエス様は私たちにどのように生きるべきかを教える際に、悪い人の行動を模範として用いられたからです。

この話では、ある管理人が雇い主の財産を乱費しました。もしかすると、彼はその財産を横領していたのかもしれません。雇い主はその事実を知ると、彼を解雇しました。

けれども、その前に管理人は会計報告を提出しなければなりませんでした。そのため、その報告を完成させるまでは、まだ雇われた状態にありました。

報告を作成する間、管理人は自分の未来をどのように確保するかを考えました。

彼は肉体労働をしたくなかったし、雇い主が推薦状を与えてくれないため、別の人の管理人として働くことも難しいでしょう。もちろん、彼は乞食になりたくはありませんでした。

そこで、彼は計画を立てました。彼は雇い主の債務者たちのもとへ行き、その借りを減額してあげました。なぜなら、彼はこう考えたからです。

こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。(ルカの福音書16:4)

そこまでは、そのたとえ話は特に変わったものではありませんでした。ところが、雇い主がその管理人の行動を知ったとき、その反応は驚くべきものでした。

主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。(8b)

どうしてでしょうか。その管理人は自分の未来を確保したからです。(それでも、きっと管理人を褒めた後、雇い主は「出て行け!」と叫んだことでしょう。)

そして、イエス様はこう言われました。

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないもの[です」。(8a)

要するに、この世の人々は、自分の財産や立場を賢く活用し、人との関係を巧みに築くことで、未来を確保します。

世の人々がそうするのなら、ましてクリスチャンはなおさらです。

とはいえ、クリスチャンとして、この世の人生だけでなく、永遠に目を向けなくてはなりません。

たとえ話では、管理人は自分の立場を利用し、人生の次の段階に入ったとき、友人たちが彼を迎え入れました。

では、この話は私たちとどのような関係があるのでしょうか。イエス様はこう言われました。

そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。(9)

イエス様が意味されたことは何でしょうか。それは、私たちが人々を神の国へ導くために、与えられた資源を活用することです。例えば、宣教師たちに献金すること、教会にささげること、また誰かと共に食事をしながら福音を伝えることなどです。

そうすれば、天国にたどり着いたとき、あなたの財産は消えてしまいますが、福音によって触れられた人々があなたを歓迎してくれるでしょう。さらに、イエス様ご自身があなたを迎え、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言われます。

しかし、もし自分の財産を自分だけのために使うなら、あなたを迎える人は誰もいないでしょう。そして、イエス様の前に立つとき、自分の財産の使い方について申し開きをしなくてはなりません。

そのとき、あなたが誇りに思っていた達成はどうなるでしょうか。

パウロはこう言いました。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。

というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:12-15)

あなたはどうでしょうか。あなたの未来は確保できていますか。

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ルカの福音書 ルカ15章

放蕩息子:恵みの贅沢さ

多分、これはイエス様が話された中でも最も有名なたとえ話でしょう。

とはいえ、パリサイ人たちはその話を聞いて、本当にあきれたかもしれません。なぜなら、パリサイ人にとって、この話の主人公は非常に嫌な人物だったからです。

ある若い息子は父親に背を向け、「父さんが死ねばいいのに」と思っていました。(なぜなら、父親が亡くなれば遺産をもらえるからです。)

そして、息子はその遺産を受け取り、ぜいたくな暮らしを始めました。彼は欲張りで、わがままな性格であり、道徳的にも歪んだ人物でした。

彼はすぐに遺産を浪費してしまい、その直後に大飢饉が起こりました。

さらに彼の所持金が尽きると、友人たちも彼を見捨てて去っていきました。彼は貧しくなり、みじめな状況に陥りました。

助けてくれる人は誰もいなかったため、彼は本当に情けない仕事をするしかありませんでした。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物でしたが、彼はその豚の世話をする仕事をせざるを得なかったのです。彼は飢えすぎて豚の餌を食べたいと思うほどでした。

これが罪の欺きです。罪は一時的に喜びを与えることがありますが、最終的には死へと導きます。

ついに彼は自分の罪に気づきました。彼はこう言いました。

「父のしもべとしての生活は、今の私の状況よりもはるかに良い。きっと父は私を息子としては受け入れてくれないだろう。私はあまりに悪すぎる。それでも、もしかすると、父は私をしもべとして雇ってくれるかもしれない。」

こうして彼は家に向かって歩き始めました。

歩いている間、彼は父親に言う言葉を何度も練習していました。

お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。(ルカの福音書15:18-19)

多分、パリサイ人たちは息子の思いを聞いたら、二つの反応を示したことでしょう。

「もし彼が土下座して、お父さんの許しを懇願するなら、お父さんは彼を許すかもしれない。しかし、それでもお父さんが許さない可能性もある。」

または、こう思ったかもしれません。「まさか、あの息子が許されるなんてあり得ない。彼はあまりにもひどいことをした。お父さんは絶対に許さないだろう。」

そのため、彼らがイエス様の次の言葉を聞いたとき、きっと驚き、あきれてしまったことでしょう。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(20)

その時代、威厳のあるユダヤ人の父親がすたこらと走ることは絶対にありませんでした。だからこそ、パリサイ人たちはこの話を聞いて、お父さんがそのような息子のために走ったことが信じられなかったでしょう。

けれども、そのお父さんはそうされたのです。彼は息子を抱きしめ、口づけしました。

その息子は汚れており、ひどい臭いがして、服もボロボロだったことでしょう。それでも、お父さんは全く気にされませんでした。

そして、息子が自分の練習したセリフを言い始めると、お父さんは途中でそれを遮り、しもべを呼んでこう言いました。

急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。

食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。(22-24)

それこそが、神様の恵みと愛のぜいたくさです。

パリサイ人たちはそのような神様を思い描くことができませんでした。そのため、彼らは罪人を見ると軽蔑しました。

神様は罪人がご自身に立ち返ることを望んでおられるとイエス様は教えられました。そして、その罪人が戻ってきたとき、神様はその人を侮ることなく、むしろ抱きしめ、祝福されます。

あなたが神様を思い描くとき、どのようなイメージを持っていますか。厳格な父親でしょうか。それとも、常に責め続ける神様でしょうか。私たちの罪を絶えず覚えている神様でしょうか。

イエス様はそのような神様を教えられませんでした。ですから、周囲の人々を見るとき、パリサイ人の性格を真似るのではなく、天の父なる神様の性格を模範にしましょう。

そして、もしあなたが「神様は私のことを愛し、受け入れてくださるだろうか」と疑問に思うなら、神様が確実にあなたを愛し、受け入れてくださることを心に留めましょう。

神様の愛と恵みは非常に豊かです。そして、悔い改めさえすれば、神様はその愛と恵みを惜しみなくあなたに注いでくださいます。

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ルカの福音書 ルカ15章

見失った羊と無くした銀貨のたとえ話:失われた人を捜して救う

この箇所では、イエス様とパリサイ人たちの間の大きな違いが明らかになります。 それは、パリサイ人たちが失われた人々を裁いたのに対して、イエス様はその人々を探し、救おうとされたことです。

残念ながら、今もなお、多くのいわゆるクリスチャンの態度は神様の御心とは全く異なります。

一方で、イエス様はいつも失われた人々を探し求め、救おうとされました。

イエス様はパリサイ人たちと時間を過ごした直後、「罪びとたち」と時間を過ごされました。実際、イエス様は普段から罪人たちとともに時間を過ごされていました。

ところが、パリサイ人たちはそれを見たとき、イエス様を非難しました。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」(2)

パリサイ人たちは「罪びとたち」に触れると自分が汚れると考え、彼らを避けました。

パリサイ人たちは決して罪人たちを食事に招待することはなく、罪人の家を訪れることは想像すらできませんでした。仕事をする上でも、罪人と関わりを持たないように努めていました。

そのため、イエス様が罪人たちを歓迎されたとき、パリサイ人たちは衝撃を受けました。

そこで、イエス様は三つのたとえ話を語られました。今日は、そのうち二つのたとえ話についてお話しします。

一つ目は迷子の羊のたとえ話です。羊飼いはその羊を愛していたため、必死に探しました。そして、羊を見つけたとき、羊飼いは友人や近所の人々を呼び集めてこう言いました。

いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。(ルカの福音書15:6)

そして、イエス様はパリサイ人たちにこう語られました。

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(7)

パリサイ人たちについて少し考えてみてください。もし彼らが羊飼いだったとしたら、彼らは羊を責めたでしょう。「なんて愚かな羊なんだ。あいつが死んでも自業自得だ。」

けれども、イエス様はそのようには決して考えられませんでした。むしろ、命を捨てるほどまでに羊を愛し、羊を救おうと思われました。

パリサイ人たちの考え方はそれとは全く異なっていました。

とはいえ、彼らも本来イエス様のような態度を持つべきだったはずです。

おそらく、彼らは預言者たちの書を何度も読んでいたでしょう。そして、もしそれを正しく記憶し、理解していたなら、神様がそのように考えるお方であることを知るべきだったのです。実際、それこそがホセア書の中心的なメッセージです。

続けて、イエス様は銀貨を一枚なくした女性についての話をされました。それはおそらく結婚した女性の頭飾りだったのでしょう。頭飾りは10枚の銀貨で作られたアクセサリーで、現代の結婚指輪に似たものです。

もしあなたが結婚指輪をなくしたとしたら、どう感じるでしょう。その女性もきっと同じ気持ちだったに違いありません。

だからこそ、彼女は懸命に家を掃き、銀貨を見つけるまで細かく探しました。

それと同じように、神様は全地を見渡し、失われた人々を念入りに探し、救おうと思われます。

そして、イエス様はこう言われました。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)

これが神様の態度です。あなたはどうでしょうか。「罪びと」を見たとき、その人を裁くでしょうか。それとも、神様の愛をもって接し、その人々の救いのために働くでしょうか。

パリサイ人のように人々を裁くのではなく、むしろ、私たちを救ってくださったイエス様のようになりましょう。

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ルカの福音書 ルカ14章

代価を計算する?

大勢の群衆がイエス様についていったとき、イエス様は彼らの心を探り、その動機を見抜こうとされたのではないでしょうか。

彼らはイエス様の奇跡を見るためについていったのでしょうか。それとも、イエス様の素晴らしい教えを聞くためについていったのでしょうか。または、彼らは本当にイエス様がメシアであることを信じたからこそ、ついていったのでしょうか。

おそらく、そのような理由でイエス様は彼らに挑戦されたのです。

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカの福音書14:26-27)

要するに、「あなたは本当に私の弟子になりたいと思っていますか。その代価は高いです。家族を失うことになるかもしれませんし、自分の命さえ失うかもしれません。」ということです。

イエス様は弟子たちに楽な人生を約束されることは決してありませんでした。むしろ、その逆を約束されたのです。

十字架を負うことは決して楽なことではありませんでした。そして、人々が十字架を地面に置いた後、その十字架で苦しみ、ひどい死を経験しました。

けれども、十字架を負うことを拒み、つまりイエス様のために試練を受けることを拒むなら、イエス様は「弟子になることはできない」と言われました。

それは受け入れやすい言葉でしょうか。決してそうではありません。

それでもイエス様は私たちに挑戦されます。「私についていきたいと思うなら、まず費用を計算しなさい。」

イエス様はその決断を塔を築くことに例えられました。ある人が前もって費用を計算せずに塔を建て始め、完成できなかったなら、周囲の人々にあざ笑われるでしょう。

同じように、もしあなたがイエス様についていき始めても、試練のせいで諦めてしまったら、あなたは恥をかくことになります。

とはいえ、もう一つ費用を計算しなければなりません。それは、イエス様についていかない場合の代価です。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。

もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。(31-32)

あなたには神様との平和があるでしょうか。それとも、神様と戦っているのでしょうか。

あなたは神様と戦っていないと思うかもしれません。しかし、もしイエス様をあなたの主として拒絶しているなら、実際には神様に反抗しているのです。

少し考えてみてください。聖書によれば、神様は私たちと和解をもたらすためにイエス様をこの世に送りました。それでは、なぜ私たちには神様との和解が必要なのでしょうか。それは、私たちが神様と戦っているからです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されました。「あなたが神様と戦っているなら、その代価を計算しなさい。たとえば、ある王がほかの王と戦おうとするなら、まず勝利できる可能性を考えます。もし勝利できないと思えば、平和を求めるでしょう。」

私たちもそのようにすべきです。実際には、神様はすでに私たちに手を差し伸べておられます。

けれども、神様との平和を望むなら、神様の条件を受け入れる必要があります。それは、イエス様の十字架の御業を信じ、イエス様を主として受け入れることです。

そうすることで、私たちは本当の命を知ることができます。しかし、もしイエス様を拒絶したまま亡くなるなら、神様との戦いがどれほど深刻なものであったかを知ることになります。

ですから、まだ時間がある間に神様との平和を求めましょう。

神様は私たちにこの世の塩となるよう呼びかけておられます。神様の光と愛を通じて、この世に影響を与えるよう求めておられるのです。役立たない塩にならないようにしましょう。

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ルカの福音書 ルカ14章

言い訳

イエス様はパリサイ人たちに、神の国に入ることができると仮定しないように警告された後、いつものように例え話を語られました。

その話では、ある人が大勢の人々を宴会に招きました。

その時代、時計を持っている人はいませんでしたので、招待された人々は宴会の日付を知っていましたが、何時に始まるかまでは分かりませんでした。そこで主人は、彼らの家にしもべを送り、「宴会の準備が整いました。どうぞお越しください」と伝えました。

ところが、その日に多くの人々が招待を断りました。彼らはさまざまな言い訳をしましたが、どれも許されない言い訳でした。

ある人はこう言いました。「畑を買ったので、どうしても見に行かなければなりません。申し訳ありませんが、お断りいたします。」(彼はその畑をまだ見ずに購入したのでしょうか。)

別の人はこう言いました。「五頭の牛を買ったので、それを試しに行くところです。申し訳ありませんが、お断りいたします。」(つまり、新しい「おもちゃ」を買ったので、宴会に行けないのです。)

さらにもう一人はこう言いました。「結婚したので、伺うことができません。」

もちろん、彼が最近結婚したのは良いことでしたが、それは宴会に行かない理由にはなりませんでした。おそらく、その奥さんと一緒に出席することもできたはずです。

しかし、聖霊様が人々の心の扉を叩かれるとき、どれほどの人々が言い訳をするのでしょうか。

「私は忙しすぎる。他に予定があります。」

または、彼らはこの世の物事やお金、財産に夢中になり、「私はそれを楽しみたいのです。後でイエス様を慕うかもしれません。」と言うかもしれません。

さらに、彼らの家族が障害となる場合もあります。「クリスチャンになると、夫が何を言うだろう。両親はどう思うだろう。家族との関係が複雑になってしまうかもしれない。」

けれども、神様はそのような言い訳を受け入れられません。

そして、そこには危険が伴います。神様は何度も招き続けてくださるかもしれませんが、今あなたが受け取った招待が、あなたにとって最後のものかもしれません。

明日交通事故に遭い、命を落とすことだってあり得ます。誰も自分がいつ亡くなるのかを知ることはできません。ですから、言い訳をしないでください。神様の招待を受け入れましょう。

だからこそ、パウロはこう記しました。

確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第一コリント6:2)

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ルカの福音書 ルカ14章

イエス様を拒絶すると

この直前の箇所では、義人の復活の際に、神様が気前の良い人々に報いを与えることをイエス様が教えられました。

それを聞いた食卓の客の一人はこう言いました。

神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。(ルカの福音書14:15)

ユダヤ人たちは、メシアが来て自分たちの国を確立する際、大宴会を開くと信じていました。そのため、その人がその言葉を口にした後、おそらく食卓の皆は「アーメン」と言ったことでしょう。彼らは、メシアの宴会にきっと招かれると思っていたからです。

皮肉なことに、その時、彼らはメシアであるイエス様と共に食事をしていました。それにもかかわらず、彼らはイエス様をメシアとして認識せず、さらに拒絶しました。最終的には、彼らはイエス様を十字架につけてしまったのです。

だからこそ、神の国が来る時、彼らはその中に入ることができません。一方で、彼らが見下した人々、つまり貧しい者、身体の不自由な者、盲人、足の不自由な者たちが天国に入ります。

さらに、パリサイ人たちが救いに値しないと判断した罪人や異邦人も神の国に入ります。ところが、パリサイ人たち自身は拒絶されるのです。

多くの人々は天国に行きたいと願いますが、パリサイ人たちのようにイエス様を拒絶します。彼らは自分なりの道徳的なルールを作り、それに従おうとしますが、そのルールに従わない人々を批判します。

けれども、パリサイ人たちと同様に、彼らが天国の門に到達しても、その中に入ることはできません。そして、彼らが軽蔑した人々は天国に歓迎されるのです。

あなたはどうでしょうか。イエス様を拒絶しながら、天国に入れると思いますか。

イエス様こそ天国への唯一の門です。イエス様とその十字架の御業を信じる者だけが天国に入ることができます。ですから、自分の誇りを捨て、イエス様のもとに来てください。

イエス様はこう言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)


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ルカの福音書 ルカ14章

人に与えるとき

イエス様はその部屋にいる人々をご覧になったとき、どのような人々を見られたのでしょうか。

そのパリサイ人はさまざまな人を招待しましたが、おそらくイエス様以外の招待客は裕福な人々だったのではないでしょうか。少なくとも、彼らは仕事が順調で社会的に成功しているように見えたかもしれません。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴を催す場合には、

むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。(ルカの福音書14:12-14)

このパリサイ人は施しをしていたことでしょう。しかし、おそらく貧しい人を食事に誘うことは決してなかったのではないでしょうか。もしかすると、そのような考えさえ彼の心に浮かばなかったのかもしれません。

その理由は何でしょうか。彼は友人や社会的に地位の高い人々に感心されたいと思っていたからでしょう。苦しんでいる人々を助けるよりも、友人と楽しむことや自分の評判を築くことに興味があったのかもしれません。

多くのクリスチャンは十一献金を捧げますが、残りの収入は自分自身のために使っていることが多いです。私たちは十一献金を捧げたことで、神様への義務を果たしたと感じるかもしれません。

けれども、神様は私たちに気前の良い人になることを求めておられます。それは教会だけでなく、私たちの日常生活においても同様です。そして、私たちが誰かのニーズを満たすとき、神様は私たちに祝福を与えてくださいます。

もう一つ考えるべきことがあります。それは、私たちが与えるときに、恩返しを期待するかどうかということです。恩返しを期待せず、神様が私たちに与えてくださったものを惜しみなく周囲に分け与えられるでしょうか。

イエス様はそのような与える姿勢を神様が祝福されることを教えられました。

私自身、与えることが難しいと感じることがあります。しかし、もしイエス様のようになりたいのであれば、私たちはイエス様のように与えることを学ぶべきです。恩返しを期待せず、犠牲的に与え、苦しんでいる人々を助けるべきです。

あなたはそのように周囲の人々に与えることができるでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ14章

謙遜

この箇所では、私たちは興味深い文化的な状況を目の当たりにします。

イエス様がパリサイ人の家で食事をされる中で気付かれたのは、招かれた人々が一番良い席を求めて座ろうとしていることでした。

その文化では、一番偉い人は主人の右側に座りました。そして、その席が埋まっている場合、人々は主人の左側に座ろうとしました。それでも座れなければ、できるだけ主人の近くの席に座ろうとしました。

けれども、イエス様はこう言われました。

「一番良い席を求めてはいけません。もし主人が『この人に席を譲りなさい』と言うなら、あなたは恥ずかしい思いをすることになります。むしろ、末席に座りなさい。そうすれば、主人が『どうぞもっと上席にお進みください』と言い、周囲の人々から尊敬を受けるかもしれません。」

日本ではこのような状況に直面することはあまりないかもしれません。しかし、教会では、多くの人々がより高い立場を求めることがあります。たとえば、牧師やワーシップリーダーのように、尊敬される立場になりたいと思う人もいるでしょう。

ですが、そのような立場を求めるのではなく、むしろ謙遜な態度を取り、小さな仕事でも忠実に仕えましょう。たとえば、礼拝のために椅子をセットしたり、人々を迎えて入口で挨拶したりすることです。

忠実に仕える中で、心が準備できたときには、神様のタイミングでイエス様があなたにもっと大きな仕事を与えられるかもしれません。

けれども、もしあなたが周囲の人々を批判し、「私の方があの人よりもその仕事が上手にできるのに」と言ってばかりいるなら、結局のところ恥ずかしい思いをすることになります。

イエス様がこの世におられた時、謙遜な態度を取られました。イエス様はユダヤ人の王として高い地位につこうとはされませんでした。

神様でありながら最上のものを求められることはなく、むしろしもべの姿勢を取り、十字架にまで行き、私たちの罪のために死んでくださいました。

だからこそ、パウロはこう記しました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピりピ2:9-11)

だからイエス様のようになりましょう。謙遜な態度を取って、できるだけ周りの人々に仕えましょう。そして、神様のタイミングであなたは高くしてくださいます。

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ルカの福音書 ルカ14章

議論を通して、人を救う?

イエス様は優れた教師であるだけでなく、優れた論者でもありました。この個所では、イエス様は再びパリサイ人たちと、安息日に人を癒すことが合法的かどうか議論されています。

パリサイ人たちの反応は少し興味深いものです。イエス様が彼らに対して、安息日に癒すことが正しいか、そうでないかを問われたとき、彼らは黙ってしまいました。そこで、イエス様は水腫を患っている人を癒されました。

その後、イエス様はパリサイ人たちにこう問いかけられました。

自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。(ルカの福音書14:5)

彼らの答えは?

彼らは答えることができなかった。(6)

もしかすると、彼らはこのことわざを思い浮かべたのかもしれません

「あなたが黙っていて、周囲の人々に馬鹿者だと思われる方が、あなたの言葉によって、周囲の人々が馬鹿者だと明確に理解するよりも良い。」

けれども、ここで再び重要な真理が明らかになります。

パリサイ人たちは何度もイエス様と議論を試みました。そして最終的に、彼らはイエス様の議論に対して何も答えることができませんでした。イエス様はその議論に勝利されました。

では、パリサイ人たちはイエス様の教えを信じるようになったでしょうか。安息日に人を癒すのが正しいことだと認めたでしょうか。

残念ながら、そうではありません。むしろ、彼らはイエス様を殺そうと企むようになりました。

つまり、単なる議論によって人々をイエス様に信じるよう導くことはできません。あなたが議論を通じて、イエス様を信じるべき理由や聖書を信じるべき理由、そしてキリスト教が正しい理由を説明することは可能です。

あなたはその議論に勝つことがあるかもしれません。相手がパリサイ人たちのように黙るかもしれません。それでも、どれだけ議論をし、証拠を示しても、イエス様を拒絶する人は必ずいます。

かつてラジオ番組で、あるクリスチャンが哲学者と議論を交わしました。その哲学者はこう言いました。

「クリスチャンたちは聖書の真実性を証明しようとするとき、いつも聖書を引用します。それは循環論法ですよ。証明したいことを最初から仮定してはいけません。」

そのクリスチャンはこう反論しました。

「あなたはなぜ聖書が一冊の本だと思うのですか。実際には聖書は66冊で構成されています。さらに、著者は40人以上に及び、1000年以上をかけて書かれました。

ですから、一人の著者の言葉を使って別の著者の言葉を検証することは循環論法ではありません。全く異なる出所を利用しているのです。」

哲学者は「違う、違う、違う」と言い続けました。

そして、クリスチャンはこう尋ねました。「なぜ違うと言うのですか。私の議論に答えることができますか。それとも単に信じないだけですか。」

哲学者は「私はそれを信じない」と断言しました。

その哲学者は答えることができませんでした。彼はパリサイ人たちのように沈黙しました。とはいえ、おそらく彼は他のクリスチャンたちと話すときでも、同じ議論を繰り返していたことでしょう。

では、私たちはノン・クリスチャンと議論を交わすべきではないのでしょうか。彼らの疑問に答えない方が良いのでしょうか。そうではありません。

ペテロはこう記しました。

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(第一ペテロ3:15)

答えを心から求めている人もいるでしょう。そして、もしあなたがその答えを与えるなら、彼らはクリスチャンになるかもしれません。しかし、単なる議論によっては、誰も神の国に入ることはできません。

人々の心を開くことができるのは聖霊様だけです。ですから、人々と話すとき、彼らの質問に答えるだけでなく、彼らのために祈りましょう。

そうすることで、聖霊様が彼らの心を変え、彼らは救われるかもしれません。

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ルカの福音書 ルカ13章

神様の望み、されないこと、できないこと

これは、本当に胸が痛む箇所です。パリサイ人との対話の後、イエス様はこう言われました。

ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。

「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。(ルカの福音書13:34-35)

イスラエルの歴史において、その指導者たちは主の言葉と、それを伝えた預言者たちを拒絶しました。だからこそ、イエス様は裁きの日が迫っていることを警告されたのです。

エルサレムの神殿は再び滅ぼされ(西暦70年に実際に起こりました)、ユダヤ人たちは各地に逃れなければならず、その結果、20世紀までイスラエルという国家は存在しませんでした。

そして、イスラエルの民がイエス様をキリストとして受け入れる時が来るまで、イエス様は再臨されません。

とはいえ、この箇所は私たちにとってどのような意義を持つでしょうか。この箇所を通して、私たちは神様が何を望み、何をされず、また何ができないのかを知ることができます。

神様の望みとは何でしょうか。神様は私たちとの親しい関係を望まれます。そして、その愛によって、私たちが平和、喜び、そして満足を見いだすことを願っておられます。

では、神様は何をされないのでしょうか。神様は私たちに神様を受け入れるよう強制されることはありません。

イエス様はユダヤ人の指導者たちにこう言われました。「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」

もし私たちがユダヤ人の指導者たちのように神様を拒絶するなら、神様は私たちの決断を受け入れられます。

では、神様には何ができないのでしょうか。もし私たちが神様から離れるなら、神様は私たちに喜びや平和や満足を与えることができません。

それは、神様が与えたくないのではなく、与えることができないのです。

なぜなら、私たちは神様との関係のために創造されたからです。だからこそ、神様から離れると、私たちの心には常に空虚さが残ります。

私たちはその空虚を、お金や所有物、仕事や人間関係で満たそうとするかもしれません。けれども、それらでは決して満たされません。結果として、私たちの人生はむなしさに包まれてしまいます。

神様抜きの人生とはそのようなものです。なぜなら、本当の愛、本当の平和、本当の喜びは神様から来るものだからです。神様から離れるということは、愛と平和と喜びから離れてしまうことなのです。

あなたが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言うことができるようになるまで、あなたは真の愛と平和と喜びを得ることはできません。

あなたはどうでしょうか。イエス様を救い主として受け入れていますか?

もしかすると、神様から離れたまま、平和と喜びと愛を求めているのではないでしょうか?

そのような人生は最終的にむなしさに終わります。イエス様こそが唯一、本当の満足をもたらしてくださるのです。

今日、イエス様を受け入れてみませんか?

イエス様、私はこれまであなたに背を向けて生きてきました。あなたから離れ、自分の力で生きようとしていましたが、私の人生はむなしさに包まれました。

どうか赦してください。あなたが私の罪のために死んでくださり、よみがえられたことを信じます。私はあなたを私の主、そして救い主として受け入れます。

どうか私をあなたへと引き寄せてください。あなたとの親しい関係を望みます。アーメン。

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ルカの福音書 ルカ13章

どうしても恐れに負けない?

相手に「恐れるな」と言うのは簡単ですが、自分自身が恐れに打ち勝つことは時に難しいものです。

とはいえ、イエス様は決して恐れに屈されることはありませんでした。

ある日、パリサイ人たちがイエス様のもとに来て、こう言いました。

ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。(ルカの福音書13:31)

このパリサイ人たちは本当にイエス様のことを心配していたのでしょうか。そうかもしれません。

パリサイ人の一人、ニコデモはイエス様を信じたようです。イエス様を信じたほかのパリサイ人たちもいたかもしれません。

それでも、私はこのパリサイ人たちの動機を疑います。

その時点では、ヘロデはイエス様を殺そうという意図を公にしていませんでした。

ヘロデが初めてイエス様について聞いたとき、バプテスマのヨハネがよみがえったのだと思ったようです。そのため、ヘロデはイエス様に会ってみたいと思いましたが、イエス様を殺そうとは考えていませんでした。(ルカ9:7-9)

そして、ついにイエス様と対面したとき、ヘロデはイエス様が奇跡を行うのを見せてほしいと願いました。(ルカ23:8)

もちろん、ヘロデがまったく危険ではないというわけではありません。

とはいえ、おそらくパリサイ人たちは彼の危険性を誇張したのではないでしょうか。なぜなら、彼らはイエス様に恐れを抱かせたかったからです。

そこで、イエス様はこう答えられました。

行って、あの狐にこう言いなさい。「よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。

だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」(32-33)

簡単に言えば、「出ていけ。私は逃げない。」

なぜイエス様はヘロデを狐と呼ばれたのでしょうか。狐は狡猾であり、危険な動物だからです。また、ユダヤ人にとって、狐は価値のない者を象徴していました。

イエス様は御自身の教えに従われました。イエス様は蛇のように賢明な方でした。(マタイ10:16)

もちろん、イエス様は世の危険を軽視されたわけではありません。イエス様はその危険を十分に理解し、注意を払われました。

しかし同時に、人々を恐れることはありませんでした。彼らはイエス様の体を殺すことはできても、魂を滅ぼすことはできなかったからです。

それに、イエス様が死なれる時はまだ来ていませんでした。だからこそ、イエス様は天の父の御心に従うことを決断されたのです。

私たちもそのようにすべきです。神様に仕えようとするとき、私たちに敵対する者がいるかもしれません。その人は狡猾であり、危険な存在かもしれません。

そのような人には警戒しなければなりません。そうしなければ、私たちは傷つけられる可能性があります。

それでも、私たちは彼らを恐れるべきではありません。彼らに拒絶されることを恐れるべきではありません。彼らが私たちに何をするかを心配してはいけません。

むしろ、私たちは神様が命じられたことを忠実に行い続けましょう。

へブル人への手紙の著者はこう記しました。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:2-3)

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ルカの福音書 ルカ13章

手遅れになる前

地獄について考えることを好む人はほとんどいないでしょう。また、私たちは誰かが地獄に行くとは思いたくないものです。むしろ、私たちは麻原彰晃やヒトラーのような例外を除けば、すべての人々が天国に行くものと思いたいのです。

おそらく、イエス様の時代にも、多くの人々がそのように考えていたでしょう。だから、ある人がイエス様のもとに来て、こう尋ねました。

主よ。救われる者は少ないのですか。(ルカの福音書13:23)

もしかすると、その人の真意は、「天国へ行く方法をもっと簡単にできないでしょうか。もっと多くの人々が天国に入れるようになればいいのに。」ということだったのかもしれません。

その人の言葉について少し考えてみましょう。その人はユダヤ人でした。おそらく、彼は異邦人の救いについて深く考えたことはなかったでしょう。

彼はユダヤ人として、天国に入ることがどれほど難しいかを思い巡らしていたかもしれません。なぜなら、彼は自分自身を周囲の人々と比べていたからです。

パリサイ人たちや律法学者たちは律法を熱心に学び、神様の定めた規則だけでなく、人間が作り出した宗教的な戒律にも従おうとしていました。

だからこそ、その人がパリサイ人や律法学者たちを見たとき、こう思ったのかもしれません。

「これは到底無理だ。パリサイ人のように生きることはできない。それに加え、イエス様は、私たちの義がパリサイ人の義に勝らなければならないと教えられた。」(マタイ5:20)

イエス様の次の言葉は、その人にとって慰めにはならなかったでしょう。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

要するに、「はい。救われる人は少ないのです。」ということです。

そして、イエス様は私たちに警告されます。

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、「ご主人さま。あけてください」と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、「あなたがたがどこの者か、私は知らない」と答えるでしょう。

つまり、その狭い門に入るには、期限が限られています。もし私たちがその門を通る前に死んでしまえば、もう手遅れなのです。

では、その門とは何でしょうか。

イエス様はこう言われました。

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。(ヨハネ10:9)

天国に入るためには、イエス様との関係が必要です。イエス様と、その十字架における御業を信じなければなりません。そうすれば、私たちは救われるのです。

そして、イエス様はユダヤ人たちに警告されました。

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。

人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。(28-30)

多くのユダヤ人たちは、「私はユダヤ人だ。神様が私たちを御自分の民として選ばれたのだから、私は問題ない」と考えていました。

また、あるユダヤ人たちは、律法を守れば救われると思っていました。

けれども、イエス様が教えられたのは、イエス様を救い主として受け入れた者は救われるが、イエス様を拒絶する者は救われないということです。

そのため、多くのユダヤ人は天国で先頭に立つと考えていましたが、結局彼らは天国に入ることができませんでした。

そして、今でも多くの人々がユダヤ人たちと同じように考えています。

彼らはクリスチャンホームに生まれたから、自分がクリスチャンだと思い込んでいます。または、彼らは教会に通い、さまざまな良い行いをしているので、救われると考えているかもしれません。

しかし、そのような人々が天国に行くとは限りません。イエス様こそが門なのです。イエス様以外に、天国への門はありません。

手遅れになる前に、その門に入りますか。

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ルカの福音書 ルカ13章

目を覚ます必要

マタイの福音書では、私たちはこの個所と同じイエス様のたとえを見ます。(多分、これは別の時ですけど)。

でも、この個所を読んだ時、私は前回このたとえを正しく解釈したかどうと疑問に思いました。

もしかしたら、イエス様は、同じたとえでいろんなことを教えていたかもしれません。(例えば、マタイ5:23-26ルカ12:54-59。)

とにかく、このたとえの別の解釈について話そうと思います。イエス様はこう言いました。

神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。(ルカの福音書13:20-21)

旧約聖書では、パン種は罪と不潔の描写でした。

例えば、過越の祭の食事を食べたとき、イスラエル人たちはパン種が入っていないパンを食べなくてはなりませんでした。彼らはそのパンを裂いて食べました。そして、そのパンは、彼らの体に命を与えました。

どうして彼らはパン種のないパンを食べたでしょうか。

一つの理由は、彼らがエジプトから逃れたとき、速く行かなくてはならなかったことです。そしてイスラエル人たちはパン種のないパンをすぐに焼くことができました。

でも、もう一つの理由がありました。イエス様は、自分自身を「命のパン」だと呼びました。そして最後の晩餐で、イエス様は過越の祭のパンを取り、裂いて、弟子たちにこう言いました。

これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。(ルカ22:19)

イエス様は、自分の罪のために十字架で死にませんでした。そのパンのように、イエス様の心にはパン種、つまり、罪や不潔がありませんでした。

でも私たちの罪のためにイエス様の体は裂かれました。イエス様は私たちの罪の罰を受けてくださいました。

そして、私たちがその命のパンを食べると、つまり、イエス様とその十字架の働きを信じて、受け入れると、イエス様は私たちに永遠の命を与えてくださいます。

でも私の要点に戻りましょう。パン種は普通、罪と不潔の描写です。でもこのたとえ話で、イエス様は、神の国をパンに広がっているパン種と比べます。どうしてでしょうか。

答えはちょっと怖いものです。神様の民の中で堕落が広がる可能性があるということですから。

アメリカの教会を見ると、それがすぐにわかると思います。例えば、監督教会と長老教会はゲイの結婚を認め始めました。

それは道徳的な堕落です。

でも、教会の歴史で、私たちはキリストに関する教えの堕落をも見ることができます。

だから教会では、多くの人々は処女懐胎(つまり、イエス様の父はヨセフではなく、神でした)や、イエス様の復活や、イエス様が神であることを否定します。それでも、彼は「私はクリスチャンだ」と言い張ります。

どうして、彼らはそう言えるでしょうか。彼らは聖書をも否定するから。もしクリスチャンたちが聖書を否定するなら、堕落は簡単に教会に入ることができます。

イエス様はそのことについて警告しました。

サタンは麦の中に毒麦を蒔きます。その毒麦の一つの種類は聖書に反対する教えです。私たちが注意しないと、そんな教えは教会の中に広がってしまいます。(マタイ13:24-30、36-43)。

だからイエス様は私たちに警告します。たくさんの人々は「イエス様を知っている」と主張するけど、実はイエス様を全然知りません。(24-28)

だからイエス様はこう言いました。

努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。(24)

私の要点は何でしょうか。目を覚ましましょう。

あなたの牧師の教えに注意を払いましょう。ポッドキャストで聞く説教に慎重になりましょう。クリスチャンの本を読むときも、注意深く判断しましょう。

もしその教えが聖書に合うなら、その教えを受け入れ、従いましょう。しかし、その教えが聖書に合わないなら、その教えを捨てなければなりません。

そうしなければ、堕落はあなたの心に容易に入り込んでしまいます。

だから、パウロはこう記しました。

しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5:21)

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ルカの福音書 ルカ13章

人々を解放するのに

根付いた伝統や考え方を捨てるのは容易ではありません。

ユダヤ人の指導者たちは、イエス様の教えと力によって、安息日に人を癒すことが悪いことではないと理解できたはずです。何度も彼らはイエス様と議論しようとしましたが、イエス様の答えに何度も言葉を失いました。

しかし、この箇所を読んだとき、ある言葉が私の心に深く響きました。それは、イエス様のミニストリーの目的を示しています。

その言葉は「解放」です。

イエス様はある女性を見たとき、こう言われました。

あなたの病気はいやされました(ルカの福音書13:12)

新改訳では「あなたは癒された」と翻訳されていますが、原文ではイエス様は「あなたは病気から解放された」、または「あなたは病気から自由にされた」と言われました。(12)

そして、イエス様が御自身の行動について会堂管理者に説明されたとき、こう言われました。

この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。

安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。(16)

私たちはこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。宗教的なルールを守ることよりも、イエス様は人々を解放することを望まれます。

サタンが18年間、その女性を縛っていたために、彼女の人生は本当にみじめでした。

その18年の間、その会堂管理者は彼女に対してほとんど情けを示さなかったようです。もし彼が本当に彼女を愛していたなら、彼女が癒されることを喜んだはずです。

ところが、逆に彼はイエス様が規則を破ったとして責めてしまいました。

その反面、イエス様は彼女を見た瞬間、彼女に深く共感されました。イエス様はサタンがどのように彼女を長年苦しめたかを見て、彼女を解放しようと思われたのです。そして、イエス様は彼女を癒されました。

あなたはどうでしょうか。ルールを守ることに集中しすぎて、周囲の束縛されている人々に目を向けることができていないのではないでしょうか。

束縛されている人々を見ても、心を動かされないでしょうか。神様の愛と力によって、彼らに触れ、解放へ導こうとは思いませんか。

そうしなければ、あなたはその会堂管理者のようです。そして、その会堂管理者のように、いつかイエス様の前に立ち、恥じ入ることになるでしょう。

日々、私たちが愛をもって、彼らに触れ、解放へ導くことができますように。

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ルカの福音書 ルカ13章

実のならないいちじくの木のたとえ話:自分の心を見抜くこと

イエス様が皆に、裁きの日が来る前に神様との和解を求めるよう警告された直後のことです。おそらく群衆の一人は、少し前に起こった事件を思い出したのでしょう。

どうやら、ガリラヤ人たちがいけにえをささげていたとき、ローマの総督ピラトが彼らを殺すよう命じたようです。そして、その兵士たちはガリラヤ人たちの血を、ささげられた動物の血と混ぜました。

その話をイエス様に伝えた人は、こう考えたのかもしれません。

「イエス様、あなたが話しているのはこういう人々のことですか?彼らは非常に罪深かったに違いありません。なぜなら、神様が彼らをこのように裁かれたからです。」

けれども、イエス様はこう答えられました。

そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカの福音書13:2-3)

そして、イエス様は別の災難について語られました。

また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。

わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(4-5)

イエス様は何を伝えようとされたのでしょうか。

災害が発生したとき、なぜ神様はそのようなことが起こることを許されたのか、と議論されることがよくあります。

しかし結局、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。

「私たちは皆、いつか必ず死ぬ。私は事故で亡くなるかもしれない。誰かに殺されるかもしれない。高齢になり、自然に亡くなるかもしれない。

いつ亡くなるかは誰にもわからない。時間がまだたくさんあると思うかもしれないが、明日突然亡くなるかもしれない。そのとき、私は死ぬ準備ができていると言えるだろうか。」

ルカ12章のイエス様のたとえ話では、金持ちは準備ができていませんでした。

ピラトに殺された人々も、準備していなかったかもしれません。

シロアムの塔の事故で亡くなった人々も、準備していなかったかもしれません。彼らにとっては、すでに手遅れでした。

あなたはどうでしょうか。自分の死の準備をしているでしょうか。

イエス様はさらに別のたとえ話を語られました。その話の中で、ある人がいちじくの木を植えました。けれども、3年が経っても、その木は実を結びませんでした。そこで彼は、その木を切り倒そうと思いました。

しかし、番人はこう言いました。

ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。

木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。(8-9)

この話から、私たちは二つのことを学ぶことができます。それは、神様の裁きと憐れみです。

神様は私たちに実を結ぶことを求められます。つまり、救いの実を求められます。なぜなら、イエス様は御自身の血によって、その救いを買い取られたからです。

神様は、実を結ばない木をすぐに切り倒すこともできます。けれども、忍耐強く、その人の心の中で救いのために働かれます。

それでも、最終的には裁きの日が訪れます。もしあなたが準備していないなら、つまり、救いの実を結ばないなら、あなたは永遠に滅びの道へと進むことになります。

だから、「どうしてこの残虐な犯罪が起こったのか」「どうしてこの災害が発生したのか」と心配するよりも、いつ自分が亡くなるかわからないという現実を覚えていてください。

そして、自分自身にこう問いかけましょう。「私は裁きの日のために準備ができているだろうか。」

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ルカの福音書 ルカ12章

神様との和解

福音書に記されたイエス様の教えは、とても興味深いものです。なぜなら、以前述べたように、イエス様は同じたとえや教えを繰り返されることがあるものの、異なる適用を示されるからです。

山上の垂訓において、イエス様は私たちに、できるだけ早く相手と和解しなければならないと教えられました。そうしなければ、彼らがあなたを裁判官のもとへ連れて行き、あなたは裁かれることになります。そして、裁判官があなたを裁いた後では、もはや手遅れです。(マタイ5:26-27)

この個所では、イエス様は同じたとえを用いられますが、人々との和解について語っているのではありません。むしろ、神様との和解について語られています。

まず、イエス様は群衆を責められました。なぜなら、彼らは空の現象を通じて天気を予測できたにもかかわらず、神様からの明らかなしるしを見極めることができなかったからです。そのしるしとは、イエス様御自身です。

イエス様はすでに来られていたにもかかわらず、彼らはメシアとして認めようとしませんでした。それに加えて、彼らはイエス様の教えに反対し、結果として神様に反抗していたため、裁かれる危険がありました。

だから、イエス様は彼らに警告を与えられたのです。

あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。

裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。

あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。(ルカの福音書12:58-59)

要するに、神様との和解を求めなさい。そうしなければ、あなたは必ず裁かれることになります、ということです。

あなたはどうでしょうか。神様との平和を持っていますか。その答えは一つしかありません。それは、イエス様との関係です。

イエス様は十字架上で、私たちの罪の罰を身代わりとして受けてくださいました。もし、イエス様とその御業を信じるなら、私たちは神様と和解できるのです。

だからこそ、パウロはこう言いましました。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(第二コリント5:20-21)

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福音の炎

炎は時に恐ろしいものです。特に森林火災は危険であり、一瞬にして広がり、大規模な被害を引き起こします。それでも、その一方で、炎は森林にとって良い影響をもたらすこともあります。

炎は地面に積もった落ち葉や折れた枝を燃やし、その結果、土壌が日光を受けて活性化し、栄養が供給されます。

また、下生えが焼かれることで、周囲の木々は土壌の栄養をより多く吸収できるようになり、さらに強く成長します。

それに加え、炎は木々に害を及ぼす虫を駆除する働きもあります。

要するに、炎は森林を清め、新たな命をもたらすことができるのです。

そして、イエス様は弟子たちにこう言われました。

わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。(ルカの福音書12:49)

その火とは何でしょうか。聖書学者たちの間にはさまざまな意見がありますが、私はその火が福音であると考えます。

では、イエス様はどのようにしてその火をともされたのでしょうか。

そして、イエス様はこう言われました。

しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(50)

この話において、「バプテスマ」という言葉は、イエス様の死を指しています。別の場面で、イエス様はヤコブとヨハネにこの「バプテスマ」について語られました。(マルコ10:38)

イエス様が十字架で死なれ、よみがえられた後、福音の火がともされました。そして森林火災のように、その火は広がり、人々の魂を清め、永遠の命をもたらしました。彼らの罪は赦され、神様との関係は回復されたのです。

とはいえ、火は時に痛みの原因ともなります。だから、イエス様は弟子たちにもう一度警告を与えられました。

あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。

今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。(51-53)

魂を清める炎に触れることは痛みを伴います。そのため、多くの人はその痛みを経験したくないと考えます。

福音を聞いたとき、彼らの良心はその火によって軽いやけどを負い、ためらいを覚えます。その火による清めを望まないがゆえに、彼らはその火から逃げてしまうのです。

または、その火をもたらす人と争い、時には自分の家族とさえ対立することもあります。

この個所では、イエス様はこのことについて語られています。

けれども、私たちが福音のために家族や友人から拒絶され、苦しむとき、イエス様が十字架の上でさらに大きな苦しみを経験されたことを思い起こしてください。

だから、へブル人への手紙の著者はこう記しています。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(へブル12:3)

だからこそ、福音の炎を携えましょう。そうすれば、その火が周りの人々に触れ、彼らを清め、新しい命をもたらします。

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イエス様の再臨に向けて準備できている?

イエス様は、偽善や貪欲、この世のものを慕うことに関して警告された後、もう一つの重要なことについて弟子たちに訓戒を与えられました。それは、イエス様の再臨に備えて、彼らがしっかりと準備をしておく必要があるということです。

そして、イエス様はこう言われました。

腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。(ルカの福音書12:35-37)

つまり、イエス様の再臨が訪れても、私たちは驚くべきではありません。私たちは常にイエス様を待ち望んでいるはずです。そのため、イエス様が来られたとき、私たちはすぐにその声に応えるべきです。

とはいえ、私は準備ができていないことが多いと認めなければなりません。なぜなら、ときにこの世のものに心を奪われてしまうことがあるからです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告を与えられるのです。

ところが、もし、そのしもべが、「主人の帰りはまだだ」と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。

そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。(45-46)

私たちは「イエス様はいつでも戻られるかもしれない」とよく言いますが、その言葉を本当に信じているでしょうか。

私たちは「イエス様は今日戻られない」と明言することはないかもしれません。けれども、私たちがどれほどイエス様が決して再臨されないかのように生きているでしょうか。

だから、私たちは兄弟姉妹を傷つけたり、悪口を言ったりするのでしょうか。または、この世のものに心を奪われ、のめりこんでしまうのでしょうか。そのように生きるなら、私たちは裁かれるのです。

そして、イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(47-48)

要するに、あなたが知識を持てば持つほど、その責任も大きくなります。

とはいえ、「私は知らなかった」と言ったとしても、それは言い訳にはなりません。あなたは知るべきだったのです。神様の御心を積極的に求めるべきでした。そうしなければ、あなたは罰せられるのです。

これは非常に厳しい警告ですが、イエス様は希望に満ちた言葉も語られました。

では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な賢い管理人とは、いったいだれでしょう。

主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。(42-44)

もし私たちが忠実に神様に仕えるなら、イエス様の再臨の際に報いを受けることができます。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたにさまざまな責任を委ねられましたが、その務めを誠実に果たしているでしょうか。あなたは忠実に仕えているでしょうか。

イエス様の再臨に向けて準備できているでしょうか。

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人生の意義

この人生の意義とは何でしょうか。

多くの人々はその答えを知らず、迷い続けています。彼らは、お金や財産の中に人生の意義を見いだせると信じ、それらを追い求めます。

だからこそ、この話の中で、その男性はイエス様に家族の遺産を公平に分けるよう願ったのです。

けれども、イエス様は彼にこう言われました。

いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない。(ルカの福音書12:15)

そして、イエス様は周囲の人々にこう言われました。

だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。

いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。(22-23)

どうしてイエス様はこのことを言われたのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、食べ物や服、お金で買えるものよりも、私たちの命がはるかに大切だからです。これらのものは一時的なものであり、瞬く間に存在し、瞬く間に消えてしまいます。

この世のものを手に入れることで、一時的に心や体が満たされるかもしれません。しかし、最終的にはもっと多くを求めるようになり、決して満足することはありません。むしろ、ますます飢え渇くようになります。

二つ目は、神様が私たちを深く愛しておられるからです。神様は私たちの必要をすべてご存知であり、もし私たちが神様を最優先に求めるなら、神様はその必要を満たしてくださいます。

それならば、私たちは他のものを優先するべきではないでしょうか。

では、私たちは何を最優先にするべきでしょうか。それは、神様の国です。

神様の国とは何でしょうか。それは「人々」です。イエス様は彼らのために命を捧げられました。神様は彼らとの関係を強く望んでおられます。だから、私たちは彼らを優先するべきです。

もし誰かが助けを必要としているなら、可能な限りその必要を満たすように努めましょう。お金を愛するのではなく、人々を愛し、惜しみなく与えましょう。なぜなら、神様は惜しみなく私たちに多くのものを与えてくださったからです。

私たちがこのように与えるなら、「自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げるのです。」(ルカ12:33)

とはいえ、彼らの物質的な必要を満たすだけではなく、彼らの霊的な必要にも目を向け、イエス様の愛によって彼らに触れるべきです。

神様は私たちに素晴らしい国を与えてくださいました。私たちの罪を赦すために、神様はイエス様を送ってくださいました。そして、神様は私たちを養子として迎えてくださいました。

だから、一時的なものに心を奪われたり、時間を浪費したりしないようにしましょう。むしろ、永遠に価値のあるものを追い求めましょう。

私たちを愛してくださる神様を求め、その愛をもって周りの人々に触れましょう。そうすれば、彼らも神様を知るようになるでしょう。

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ルカの福音書 ルカ12章

愚かな金持ちのたとえ話:私たちの時間が来るとき

私たちの命は非常にもろいものです。一瞬で、それが奪われることもあります。交通事故や地震などの災害が起これば、私たちは突然亡くなるかもしれません。

その日、私たちが神様の御前に立ったとき、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

今日の箇所では、一人の男性がイエス様に、家族の遺産を分けるよう求めました。どうやら、彼の兄が遺産を公平に分けていなかったようです。

ところが、おそらくイエス様の目には、さらに大きな問題があったのでしょう。つまり、その男性はお金に心を奪われすぎていたのです。

彼の父親は裕福であり、彼は長い間、その遺産を受け取ることを夢見ていたのかもしれません。けれども、父親が亡くなったとき、彼は期待していたほどの遺産を受け取ることができず、その夢は崩れ去りました。

そこで、彼はイエス様に助けを求めました。

しかし、イエス様はその願いをきっぱりと断られました。

いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。(ルカの福音書12:14)

簡単に言えば、「絶対にだめだ」ということです。

そして、イエス様は彼に警告を与えられました。

それ以前、イエス様は弟子たちに偽善について警告されましたが、その男性の願いを聞いた後、イエス様は彼と弟子たちに対して貪欲について警告されました。

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(15)

イエス様は、その男性と弟子たちに何を伝えたかったのでしょうか。

それは、私たちの人生において、この世のものが最も大切なものではないということです。快適な生活や豪華なライフスタイルは、本質的にはそれほど重要ではありません。

そして、イエス様はたとえ話をされました。その話の中に、一人の金持ちが登場します。彼は多くの財産を持ち、贅沢な暮らしをしていました。

そして、ある年、彼の畑は豊作となりました。彼はどのようにしようかと考えました。

彼は貧しい人々に食べ物を分け与えることもできましたし、財産を使って多くの人を助けることもできました。けれども、彼はそうせず、自分自身のことだけを考えました。そして、彼はこう言いました。

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(18-19)

多くの人々はそのような夢を抱いています。彼らは早く引退し、自分のためだけに生きたいと願っています。

「安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

ところが、神様はその人にこう言われました。

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(20)

そして、イエス様はこのたとえ話を次のように締めくくられました。

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(21)

では、私の元の質問に戻りましょう。もし私たちがこの世を去り、神様の御前に立つとき、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

神様はこう言われるでしょうか。 「愚か者よ。あなたは人生の中で無駄なものを追い求め、自分の人生を無意味なものにしてしまった。」

それとも、神様はこう言われるでしょうか。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたに多くのものを任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ。」(マタイ25:23 )

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ルカの福音書 ルカ12章

隠れクリスチャン

私が子供の頃、「Undercover Christian」(隠れクリスチャン)というスキットを聞いたことがあります。そのスキットでは、あるクリスチャンがレポーターにインタビューされたとき、こう言いました。

「私の信仰は個人的なものですので、周りの人々には話しません。」

しかし、イエス様は「隠れクリスチャン」に対して、別の呼び方をされます。それは「偽善者」または「役者」です。

(実は、「偽善者」という言葉の元の意味は「役者」ということでした。)

その人はクリスチャンの世界で歩むとき、クリスチャンのように話し、ふるまいます。けれども、教会を出ると、まるでイエス様を知らないかのようにふるまいます。

そして、この箇所で、イエス様は「最終的にあなたの秘密は明らかになる」と警告されました。

私は、実際にそのようなクリスチャンの話を聞いたことがあります。彼はイエス様を自分の主として受け入れましたが、両親の反応を恐れていました。そのため、仏壇で祈り続け、線香をあげ続けました。そして彼はこう言いました。

「私は両親に愛を示したいから。」

ところが、結局その秘密は明らかになりました。その時、彼の父親は激怒しました。

「お前はクリスチャンなのに、仏教の儀式をし続けていたのか?お前は一体どんなクリスチャンなのか?」

彼は「両親に対する愛を示したい」と言っていましたが、最終的には自分の証を損なってしまいました。

イエス様はこう言われました。

だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。

しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカの福音書12:8-9)

では、私たちは、人の前で「イエス様を知らない」と言ったことがあるなら、救いを失ってしまったのでしょうか。

必ずしもそうとは限りません。ペテロも弱さの中で、「イエス様を知らない」と三度言いました。

私自身も、中学生のとき、そして高校生のときに、自分の信仰を友達から隠していました。友達に「あなたはクリスチャンですか」と聞かれても、私はその質問に対して曖昧に答えていました。

しかし、もし私たちが一貫して人の前で「イエス様を知らない」と言い続けるなら、自分がクリスチャンであることを公にすることはできません。

もしあなたがクリスチャンであるなら、そのことを明確に伝えなければなりません。

洗礼式には一つの重要な目的があります。それは、「私はクリスチャンである」ということを宣言することです。あなたは世界に向かって、自分の主を公に表します。

もしあなたが洗礼を受けることを拒むなら、あなたは本当にクリスチャンであると言えるでしょうか。

私たちは隠れクリスチャンにならないようにしましょう。私たちのために死んでくださり、よみがえられたイエス様を大胆に宣言しましょう。

私たちの信仰を拒む人もいるでしょう。けれども、私たちが見つけた喜びを見出す人もいるでしょう。

あなたはどうしますか。

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ルカの福音書 ルカ12章

恐れなさい。恐れるな。

この箇所でのイエス様の言葉は、私の心に深く響きます。

「恐れてはいけません。」

そして、「恐れなさい。」

イエス様はこう言われました。

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカの福音書12:4-5)

要するに、「人ではなく、神様を恐れなさい。」ということです。

人々はあなたの身体を殺すことができるかもしれません。しかし、神様はあなたを地獄に投げ込む権威を持っておられます。一瞬のうちに身体は死ぬかもしれませんが、霊的な死は永遠に続くのです。

では、私たちは恐れながら生きるべきなのでしょうか。

神様はじっと私たちを見つめ、私たちの失敗を待っておられるのでしょうか。そして、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちを稲妻で打たれるのでしょうか。神様は人々を地獄に投げ込むことを喜んでおられるのでしょうか。

決してそうではありません。

イエス様はこのことも語られました。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。

それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(6-7)

私たちが神様の御性質を考えるとき、二つのことを覚えていなければなりません。それは、神様の聖さと神様の愛です。その二つの概念のバランスを保つことが重要です。

多くの人々は神様の愛に焦点を当てる一方で、神様の聖さを忘れがちです。

けれども、聖書において、人々が神様の栄光を目の当たりにすると、まず神様の聖さに気づきます。そして、神様の聖さを見たとき、自分の汚れを認識するのです。

その結果として生じるものは何でしょうか。

それは、恐れです。

なぜなら、彼らは神様の裁きを受けるに値することを理解し、自分が死ぬべき存在であると悟るからです。

ところが、その後、彼らは神様の愛を知ります。聖書には何度も、神様の最初の言葉として「恐れるな」と記されています。

この箇所においても、イエス様は私たちに同じことを教えられました。

まず、イエス様は「神様を恐れなければならない」と言われました。なぜなら、神様は聖なる方だからです。神様の聖さゆえに、罪は必ず裁かれなければなりません。

もしこの世に生きている間に、あなたが神様のもとに行かず、罪の赦しを得なければ、その罪は地獄で裁かれることになります。

しかし、それは神様の望みではありません。神様は私たちを深く愛しておられ、私たちの最善を願っておられます。

神様の目には、私たちは取るに足りない存在ではありません。それどころか、神様は私たちの名前を知り、私たちの人生の細部に至るまでご存知なのです。

神様は、あなたの罪を背負うためにイエス様をこの世に送られました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。もしあなただけが罪を犯していたとしても、神様はイエス様を送られたことでしょう。

私たちがこのことを実感するとき、私たちの最初の恐れは、神様への圧倒的な愛へと変えられます。

私たちはもはや神様を恐れる必要はなく、また、その他の何かを恐れる必要もありません。もし私たちが神様に信頼するなら、この世で何が起ころうとも、私たちには天国における確かな希望があるのです。

だからこそ、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。

それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。

恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)

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ルカの福音書 ルカ12章

偽善

時々、イエス様は一つのたとえを用いて、さまざまな教訓を示されました。この箇所では、その一例を見て取ることができます。

以前、イエス様が弟子たちを宣教の旅へ遣わされたとき、こう言われました。

おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。(マタイ10:26)

つまり、イエス様は弟子たちに多くのことを教えられましたが、他の人々はまだその教えを聞いていなかったのです。けれども、弟子たちが福音を伝えるとき、彼らはイエス様のすべての教えを人々に伝えなければなりませんでした。

また、イエス様が彼らにささやかれたことを、彼らは屋上で大胆に宣べ伝えなければなりませんでした。(マタイ10:27)

この箇所では、イエス様はほぼ同じたとえを用いながらも、全く異なる教訓を示されました。イエス様は弟子たちにこう言われました。

パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。(ルカの福音書12:1)

そして、イエス様はこう言われました。

「あなたは心の中で様々なものを隠しているかもしれません。けれども、結局それらは明らかになります。あなたが暗闇で語ったことは、光の中で聞かれます。また、あなたがささやいた秘密は屋根の上から宣べ伝えられるのです。」

要するに、あなたは良いクリスチャンのふりをすることができるかもしれません。しかし、もしあなたが偽善者であり、行動が言葉と矛盾しているなら、あなたの偽善は最終的に明るみに出ます。

この世では隠せるかもしれませんが、天国では隠すことはできません。

だからこそ、私たちは偽善者にならないように気をつけなければなりません。私たちは神様と人々の前で正直な人生を歩みましょう。

そうしなければ、私たちに関する真実は、いつか必ず明らかになるのです。

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ルカの福音書 ルカ11章

私たちの行動は私たちの言葉に反対するとき

律法学者たちとパリサイ人たちは、旧約聖書の預言者たちを称賛していました。彼らは預言者たちのために墓を建て、こう言いました。

「この預言者たちは本当に偉大だった。もし私たちが先祖だったなら、決して彼らを迫害しなかっただろう。」

ところが、もう一人の預言者が現れました。いや、ただの預言者ではなく、神様が約束された、長く待ち望まれていたメシアがついに来たのです。

それでも、パリサイ人たちと律法学者たちはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様とその弟子たちを殺そうとさえしました。

その行動は彼らの心を示していました。もし彼らが本当に預言者たちを信じ、尊敬していたなら、イエス様をも信じ、尊敬したはずです。しかし、彼らはイエス様に激しく反対しました。

そして、彼らがイエス様に反対したとき、知識の鍵を奪い去りました。彼らは自分たちが神の国に受け入れられると思っていましたが、イエス様は彼らが拒絶されると語られました。

さらに深刻なのは、彼らがイエス様を拒絶したことで、他のユダヤ人たちも天国に入ることができなかったことです。なぜなら、ユダヤ人たちはパリサイ人たちと律法学者たちが真理を知っていると考え、彼らの模範に従ったからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様に従うと主張していますか。あなたの行動は、あなたの言葉を証明していますか。

それとも、あなたの行動は、あなたがキリストを軽んじていることを証明しているでしょうか。いや、むしろ、あなたの行動はあなたがキリストを拒絶していることを証明しているでしょうか。

正しいことを言うだけでは足りません。あなたの行動は、言葉と一致しなければなりません。

あなたの心には、何が入っていますか。

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ルカの福音書 ルカ11章

律法主義という問題

イエス様はパリサイ人たちを批判された後、律法学者たちにも言及されました。

イエス様はこう言われました。

おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。(ルカの福音書11:46)

この箇所では、私たちは律法主義がなぜそんなに悪いのかを学びます。

第一の理由は、律法主義が人々に耐えられないほどの重荷を負わせ、その重荷を取り除く希望が全くないことです。つまり、律法学者たちは神様の律法に多くの余計な規則を加えたのです。

例えば、律法では安息日に仕事をすることが禁じられていましたが、律法学者たちは「仕事」の定義を極めて細かく設定していました。

例えば、安息日に女性はアクセサリーを付けてはいけませんでした。なぜなら、もし彼女たちがアクセサリーを外そうとすると、それを手に持たなければならず、それが「重荷」とみなされるため、安息日の律法を破ることになってしまいます。

また、安息日に歩く距離にも制限がありました。もし 2.5キロメートル 以上歩いてしまうと、安息日の律法に違反することになってしまいます。

このような余計な規則は何百もありました。そして、これらの規則を破ると、律法学者たちから責められることになりました。

律法学者の規則は今では存在しませんが、今日のクリスチャンたちはどれほど他のクリスチャンに余計な規則を押し付けているでしょうか。聖書には記されていないにもかかわらず、それを守るべきだと考えるのです。

例えば、「酔ってはならない」という戒めではなく、「一切お酒を飲んではならない」と言います。

または、「映画を見てはならない。」

または、「踊ってはならない。」

こうした規則は、もう一つの問題につながります。それは、人を裁く態度です。

つまり、「あなたはその規則を守らないから、良いクリスチャンではない。」という考え方です。

さらに、「私は規則を守っている」と思うことで、プライドを感じます。

しかし、たとえ規則を守ったとしても、パリサイ人のように公義と神への愛と憐れみを忘れてしまいます。彼らは自分を正しい人間だと思いますが、神様の目にはパリサイ人や律法学者たちと変わりません。

けれども、律法主義の最も恐ろしい問題は、律法が正しいことと悪いことを教える一方で、正しいことを行う力を与えないことです。むしろ、人が失敗すると、律法は彼らを裁くばかりです。そのため、人々は何度も失敗し、やがて絶望してしまうのです。

イエス様の時代、多くの人々がそのように感じていました。彼らは律法学者の規則を守ろうとしましたが、できませんでした。

そして、彼らが律法学者に「どうすればよいでしょうか」と尋ねると、「もっと努力しなさい」と言われました。

つまり、律法学者たちは彼らを決して助けようとはしなかったのです。

たとえあなたが余計な規則を捨て、モーセの律法だけを守ろうとしても、その律法にはあなたを救う力はありません。最終的に、あなたはパウロのようにこう叫ぶでしょう。

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)

しかし、イエス様の時代の人々とは異なり、パウロは希望を持っていました。

私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。(ローマ7:25)

律法主義はあなたを救うことができません。律法はあなたを救うことができません。

でもイエス様は、十字架の働きを通して、あなたを救うことができます。イエス様は十字架で私の罰を受けたから。だから、パウロはこう言いました。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(8:1)

だから、律法主義を捨てましょう。プライドと絶望も捨てましょう。むしろ、イエス様とその十字架に向かいましょう。

そうすれば、私たちは赦され、神様を喜ばせる力を受けるのです。

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ルカの福音書 ルカ11章

心にあるもの

この箇所では、イエス様はパリサイ人を厳しく批判されます。なぜなら、彼らの心は汚れていたからです。

パリサイ人の外見はとても清く見えました。彼らは律法を細かく守っていました。しかし、実際には彼らは偽善者でした。

例えば、彼らの心は貪欲に満ちていました。彼らは十一献金をささげましたが、貧しい人を見ても助けずに通り過ぎました。彼らは、人よりもお金を愛していたからです。

また、彼らは神様の愛と知恵を持たずに、周囲の人々をすぐに裁いていました。そのため、イエス様が安息日に人々を癒された時、彼らはイエス様だけでなく、癒された人々さえも批判しました。(ヨハネ 9章)

彼らは預言者ミカの言葉を完全に忘れていました。

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。

全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。

私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。

主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。

それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6:6-8)

だから、イエス様は彼らを批判されました。

さらに、イエス様は彼らのプライドも指摘されました。彼らがリーダーになろうとした理由は、人々に仕えることではなく、尊敬されるためだったのです。

そのため、イエス様はこう言われました。

おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。(ルカの福音書11:44)

どうしてイエス様はそう言われたのでしょうか。神様の律法によれば、墓は不潔なものとされていました。その墓に触れると、儀式的に不潔になってしまいます。

つまり、イエス様が意味されたことは、「あなたたちは汚れており、あなたと関わる人も汚れてしまう。それに、彼らはあなたを聖いと思っているため、あなたに触れたとき、自分が汚れたことにまったく気づかない。」ということです。

厳しい言葉ですね。

しかし、真理は時に厳しいものです。そして、パリサイ人はその真理を理解しなければなりませんでした。

彼らは周囲の人々を欺いたかもしれませんが、神様を欺くことはできませんでした。悔い改めなければ、彼らは裁かれるでしょう。残念なことに、多くのパリサイ人たちは決して悔い改めませんでした。

あなたはどうでしょうか。外見は清くても、心は汚れていませんか。

宗教的な行いだけでは不十分です。ただ教会に行くだけでは十分ではありません。十一献金をささげることも十分ではありません。

もし心の中にプライドや貪欲があるなら、その行動は意味を成しません。もし愛がなければ、あなたの良い行動は無意味なのです。

あなたには、神様への愛が必要です。そして、周りの人々への愛も必要です。

神様はあなたの心を見抜かれます。神様は、ご自身の御心に適う者を探されています。

あなたの心には何が入っていますか。

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ルカの福音書 ルカ10章

イエス様が望まれること

私はこの話が大好きです。なぜなら、この教えはとても重要なのに、忘れてしまいやすいからです。

マルタはイエス様を自分の家に招きましたが、イエス様が来られても、マルタはイエス様とほとんど時間を過ごすことができませんでした。どうしてでしょうか。それは皮肉なことに、彼女がイエス様に仕えようとしていたからです。

一方で、マルタの妹マリヤは何も手伝わず、イエス様の足元に座ってその言葉に聞き入っていました。その姿を見て、マルタは非常に苛立ちを感じました。

何分、あるいは何時間が経ったのか分かりませんが、ついにイエス様が教え続けている最中に、マルタは我慢できずに口を挟み、大きな声で言いました。

主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。(ルカの福音書10:40)

多分、皆がそれを聞いた時、場には気まずい沈黙が漂ったでしょう。

もしかすると、マリヤは頭を垂れて顔を赤らめたかもしれません。また、多分ほかのお客さんたちは、最初にマルタを見て、次にマリヤを見て、最後にはイエス様に視線を向けて、その反応を待ったことでしょう。

ある人は、イエス様がマリヤを叱責すると思ったかもしれません。なぜなら、彼女はマルタを手伝うべきだったからです。それに、当時の文化では、女性がイエス様のような先生から学ぶことはあり得ないと思われていました。

(とはいえ、イエス様はそのようなことを度々許されました。)

もしかすると、別の人は、イエス様がマルタを叱責するのではないかと思ったでしょう。なぜなら、その時代、女性が偉大な先生が話している間に口を挟むのは不適切とされていたからです。

でも、イエス様はおそらく愛と慈しみを持って、マルタにこう言われました。

マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。

マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。(41-42)

「肝心なことは一つだけです。」という表現はとても興味深いです。その一つのことが必要だったのは誰でしょうか。イエス様でしょうか、それともマルタでしょうか。

おそらくイエス様とマルタの両方に、そのことが必要だったのだと思います。

マルタにはイエス様との時間が必要でした。少しの休憩が必要でした。イエス様の言葉を聞く時間が必要でした。そして何より、イエス様がどれほど自分を愛しているかを知る必要がありました。

一方で、マリヤはその「一つのこと」を選び、イエス様はその選びを喜んでマリヤに与えられました。

その反面、イエス様にはマルタが準備していた料理は必要ありませんでした。ぴかぴかな家も必要ではありませんでした。

実際のところ、イエス様にはマルタとの時間さえ必要ではありませんでした。それでも、イエス様はどんなことよりもマルタとの時間を望んでおられました。

マルタはイエス様に仕えようと忙しくし過ぎてしまい、イエス様と全く時間を過ごせませんでした。多分挨拶をした後は、イエス様とほとんど話さなかったでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたの心の戸をイエス様に開いているでしょうか。それとも、イエス様があなたの心の居間にいるまま、忙しくして別のことをしているのでしょうか。

もしかすると、毎日あなたはイエス様と時間を過ごしているでしょうか。イエス様から学び、イエス様と話しているでしょうか。

何よりも、イエス様はそう望んでおられます。イエス様はあなたと親しい関係を持つために十字架で命を捧げられました。

「My Heart, Christ’s Home」(私の心、イエス様の住まい)という短編フィクションの本があります。その本の中で、イエス様はある人にこう言われました。

「あなたの問題はこうです。あなたは、聖書を読む時間、また私に祈る時間を自分の霊的な成長の修行として考えました。でも、私はこの時間をとても大切にしています。

私があなたのことを愛していることを忘れないでください。私は高い代価を払って、あなたを贖いました。あなたとの時間を私の宝と見なしています。だから、どうか私のためにこの時間を忘れないでください。

あなたは私との時間がどうでもいいと思うかもしれませんが、私はあなたとの時間を切に望んでいます。」

イエス様の望みを心に留めましょう。

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ルカの福音書 ルカ10章

知識をもって、行動する?

この箇所を読む時、もう一つの考えが心に浮かびました。

この話の中には、神様の言葉をよく知っている三人が登場します。

もちろん、律法の専門家は実在した人物ですが、残りの二人(祭司とレビ人)はフィクションの登場人物です。とはいえ、そのフィクションの登場人物にも、律法の専門家と同じ問題がありました。

この三人は神様の律法を熟知しており、もしイエス様が律法に関する質問をしたなら、彼らは即座に答えることができたでしょう。

しかし、彼らの心の中で、その律法の意味を本当に理解していたわけではありませんでした。そのため、たとえ話の中で、祭司とレビ人は怪我をした人を助けることがありませんでした。

彼らは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神を愛すること」と「隣人を愛すること」の本質を理解していなかったのです。むしろ、自分の愛の欠如に対して言い訳をしていたのです。

律法の専門家も同様でした。律法を読んで自分の弱さを見た時、彼は「イエス様、どうすればよいでしょうか。私は神様の基準を満たすことができません」とは言いませんでした。

代わりに、彼は自分の正しさを証明しようとしました。イエス様は彼の心の状態を示そうとされましたが、律法の専門家は律法の意味を議論したいと考えていました。

その結果、彼はイエス様にこう尋ねました。「では、私の隣人とは、誰のことですか。」

だから、イエス様はたとえ話を通して律法の専門家に自分の質問に答えさせました。そしてイエス様はこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」

そのあと、律法の専門家はどうしたのでしょうか。私たちにはわかりません。

おそらくルカは、私たち自身が自分の心を探ることを望んだのだと思います。私たちはイエス様の言葉を聞いて、どう応答するでしょうか。

聖書の知識を持つだけでは足りません。聖書の言葉を引用するだけでも足りません。その言葉に従い、その言葉を心に受け入れて、私たちの内面を変えていく必要があります。

もう一つのことを考えましょう。

このたとえ話では、サマリヤ人は祭司とレビ人の行動を目撃したでしょうか。もし目撃していたとしたら、彼らを見てどう感じたでしょうか。

周囲の人々は私たちを見る時、何を見るでしょうか。彼らはこう言うかもしれません。

「どうしてこの人は愛にこんなに満ち溢れているのだろう。どうしてこの人はこんなにも憐れみ深いのだろう。私もそのようになりたい。」

あるいは、彼らはこう言うかもしれません。「これがクリスチャンですか?私の方がずっと良い人間だと思いますけど。」

私たちは知識だけを持つことのないようにしましょう。むしろ、神様の言葉を心に受け入れ、その言葉に従いましょう。

日曜日に教会に行って宗教的な活動をするだけではなく、憐れみ深く、恵み深い人生を送りましょう。

そうすれば、私たちを見る時、周りの人々はイエス様を見ることができ、イエス様についてもっと知りたいと思うようになります。

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ルカの福音書 ルカ10章

行動と真実をもって愛するか

この話を読むたびに、ヨハネの言葉が心に浮かびます。

子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(第一ヨハネ3:18)

このたとえ話を通して、私たちはその深い意味を見いだすことができると思います。このサマリヤ人はどのようにして行動と誠実さをもって愛を示したのでしょうか。

まず一つ目に、彼は自分の文化における偏見を捨てました。

おそらくユダヤ人たちはこの話を聞いた時、非常に驚いたことでしょう。なぜなら、ユダヤ人の泥棒が旅行者を襲い、ユダヤ人の祭司とレビ人(神殿で働く人)がその人を助けなかったからです。

そしてその後、サマリヤ人が登場します。サマリヤ人たちは混血の人々であり(ユダヤ人と異邦人)、本当の神様への礼拝と偽物の神々への礼拝を混ぜたため、ユダヤ人たちから軽蔑されていました。その結果、サマリヤ人たちもユダヤ人を憎んでいたのです。

しかし、この物語の中で、サマリヤ人は怪我をしたユダヤ人を見た時にその人を憐れみました。

しかも、そのサマリヤ人は憐れむだけでなく、具体的な助けを提供しました。もちろん、怪我をした人を憐れむことは良いことですが、助けなければそれは意味を持ちません。

では、そのサマリヤ人は何をしたのでしょうか?

彼はユダヤ人に近寄りました。(34a)

彼はその人の痛みを和らげました。(34b)

彼はその人を宿屋に連れて行き、介抱しました。(34c)

さらに、このサマリヤ人は自分のお金を使ってその人の世話をしました。(35)

そして、イエス様が律法の専門家に言われたように、イエス様は私たちにもこう言われます。

「あなたも行って同じようにしなさい。周りの人々を見て、彼らが必要としているなら、その人を助けなさい。」

とはいえ、言い訳をするのはとても簡単です。

「私は忙しすぎる。」 「助けたいけれど、何もできない。」 「もっと大切なことをしなくてはならない。」

おそらく、祭司とレビ人もそのように考えたのでしょう。もしかしたら、彼らはその人がすでに死んでいると思い、その遺体に触れることで儀式的に不潔になることを恐れたのかもしれません。

(神様の律法では、儀式的に不潔な人は神殿に入ることが許されていませんでした。)

そのため、彼らは自分の義務をその人に対する愛よりも優先させました。

また、彼らはこう思ったかもしれません。「私は医者ではない。これは私の責任ではない。何もできない。」

どのように考えたとしても、彼らは神様の言葉を忘れてしまいました。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。(ホセア書6:6)

あなたはどうでしょうか。周りの人々のニーズを見る時、その人を無視するでしょうか。もしかすると、祈るだけで実際に助けることはしないでしょうか。それとも、ただ言い訳をしてしまうでしょうか。

憐れみ深い心を持って生きましょう。なぜなら、神様はそのような心を望んでおられるからです。言葉や口先だけで愛するのではなく、行動と真実をもって愛を示しましょう。

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ルカの福音書 ルカ10章

祈りなさい。行きなさい。

この箇所では、イエス様は12人の弟子たちだけでなく、さらに72人を派遣されました。そして彼らに以前と同じ指示を与えられました。

2~3節は私の心に深く響きます。

イエス様は以前言われた言葉を繰り返されました。

実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(ルカの福音書10:2)

要するに、多くの人々の心は福音を受け入れる準備が整っています。もし私たちが彼らに福音を伝えるなら、彼らはすぐにそのメッセージを受け入れるでしょう。

だからこそ、イエス様はこう言われます。「働き手のために祈りなさい。神様が彼らを送るように祈りなさい。」

けれども、それだけでは終わりません。イエス様は命じられます。「行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わす。。。」(3節)

イエス様は今でも私たちに同じことを言われます。

もちろん、イエス様は私たちが働き手のために祈ることを望んでおられます。

とはいえ、イエス様はあなた自身をも遣わそうと望んでおられるのです。イエス様は、あなたがその召しを聞き、周りの人々に触れていくことを望んでおられます。

時として、私たちは拒絶されることを恐れることがあります。しかし、イエス様は私たちにこう言われます

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。(16)

要するに、人々があなたを拒絶しても、実際には彼らはイエス様を拒絶しているのです。ですから、失望しないでください。なぜなら、必ず福音を受け入れ、救われる人がいるからです。

このようにして、イエス様は私たちを励ましてくださいます。

あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。

あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。

また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。(23-24)

長い間、モーセやダビデ、ダニエルなどは、神様の御国が力をもって到来することを願ってきました。けれども、キリストが来られたことにより、私たちはその御国が人々の人生に訪れるのを目の当たりにすることができます。

それでも、私たちが行動しなければ、その力を見ることはできません。しかし、私たちが行動すると、神様の御国が訪れ、力をもって人々の人生を変える様子を目の当たりにすることができます。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章 ルカの福音書 ルカ9章

裁きの時間。憐れみの時間。

前回の記事でも書きましたが、私たちが真理を伝えると、私たちを憎む人もいます。

とはいえ、真理を伝えると同時に、私たちの態度と言葉遣いに注意しなくてはなりません。

この箇所では、その理由をはっきり見ることができます。

仮庵祭りのため、イエス様の兄弟たちは先にエルサレムへ向かいましたが、イエス様はしばらくとどまられました。どのくらい待たれたのかは分かりませんが、結局イエス様もエルサレムへ向かわれました。

この時から、イエス様のミニストリーのほとんどはユダヤとエルサレムで行われました。そして、十字架で死なれるまで、あと6っか月ほどの時間しか残されていませんでした。

けれでも、エルサレムへ向かう前に、イエス様は再びサマリヤを通ることを選ばれました。イエス様は以前に一度サマリヤを訪れ、そのとき多くのサマリヤ人がイエス様を受け入れ、信じました。(ヨハネ4章)

ところが、今回は、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。その理由は、イエス様がエルサレムへ向かっていたからです。

サマリヤ人とユダヤ人の間にはまだ深い敵意が残っていました。サマリヤ人たちはユダヤ人の祭りで歓迎されることがなかったため、イエス様がその祭りへ向かうと知ると、彼らはイエス様を拒絶したのです。

イエス様の弟子たちは、このサマリヤ人たちの反応を見て激怒しました。サマリヤ人たちはイエス様から何も受けるに値しないのにもかかわらず、イエス様は彼らを訪ねようとされました。それにもかかわらず、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶したのです。

他の町に住むサマリヤ人たちがイエス様を受け入れたことで、弟子たちは彼らに対して寛容な態度を取るようになりました。

けれども、この町の人々がイエス様を拒絶したとき、ヤコブとヨハネはイエス様にこう申し出ました。

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカの福音書9:54)

おそらく、彼らはエリヤの話を思い浮かべていたのでしょう。エリヤが軽蔑されたとき、天から火を呼び下し、その人々を滅ぼしたという出来事です。(列王記第二1章)

しかし、イエス様は彼らを叱責されました。

なぜでしょうか。おそらく、裁きの時はまだ来ていなかったからです。イエス様は人々を救うために来られました。(ヨハネ3:17)

私たちは、イエス様の心を持つべきです。もちろん、イエス様を拒絶する人々に対して、いつか裁きの日が来ます。

とはいえ、その日はまだ来ていません。その日が来るまで、私たちは彼らの救いのために祈り、働く必要があります。そして、愛をもってイエス様が与えてくださった真理を伝えなければなりません。そのとき、神様の恵みによって人々は救われるのです。

周囲の人々の罪がどれほど酷くても、彼らが滅びることを私たちは喜ぶべきではありません。

イエス様もそのようなことを喜ばれません。彼らが永遠の命を得るために、イエス様は十字架で命を捧げられたのです。

罪人に対して、私たちはイエス様の心を持っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ8章 ルカの福音書 ルカ9章

イエス様に従う?

イエス様に従うとはどういう意味でしょうか。

この話では、三人の人々が「弟子であることの意味」を知りました。

律法学者がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。(マタイ8:19)

この人物は、他の律法学者たちとは異なっていました。多くの律法学者はイエス様に反対しましたが、この人は熱心にイエス様に従おうとしました。

もちろん、熱心であることは良いことです。けれども、イエス様は彼に警告されました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)

要するに、イエス様はこう言われました。

「私は楽な人生を約束しません。私に従うことは時に困難です。あなたが家を離れれば、戻る機会は限られるでしょう。もしかすると、一度も結婚しないかもしれません。それでも、あなたはまだ私に従いたいのですか。」

そして、イエス様は別の人にもこう言われました。

「わたしについて来なさい。」

しかし、その人はこう答えました。

まず行って、私の父を葬ることを許してください。(ルカ9:59)

おそらく、その人の父親はまだ生きていたでしょう。イエス様が「私について来なさい」と言われたのは、葬儀の最中ではなかったはずです。

もしかすると、その父親は病気で死にかけていたのかもしれません。いずれにせよ、あるいはとても元気ではあるものの、年老いていたのかもしれません。いずれにせよ、その人は父親が亡くなるまで待ちたいと考えました。

さらに、その父親がイエス様に反対していたため、その人がイエス様に従うならば、父親に拒絶される可能性もあったのです。

そこで、イエス様はこう言われました。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。(ルカ9:60)

おそらく、イエス様が意味されたことは、「霊的に死んでいる者たちが霊的に死んでいる者たちを葬らせなさい」ということだったのでしょう。

時に、人々はこう考えます。「私はクリスチャンになりたくありません。なぜなら、私の両親はすでに亡くなっており、もし私がクリスチャンになるなら、彼らが地獄に行ったと認めなければならないからです。」

しかし、イエス様が伝えたかったのは、あなたにそのことを決定する権限はないということです。霊的に死んでいる者たちがあなたの霊的な運命を決めることを許してはなりません。

また、霊的に死んでいる者のために、神様の働きを避けるべきではありません。なぜなら、あなたが他の霊的な死人に福音を伝えれば、その人は救われる可能性があるからです。

けれども、もしあなたが家族の意見を恐れて福音を伝えないなら、その人々も地獄へ行ってしまうかもしれません。

そのとき、もう一人の人がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。(ルカ9:61)

でも、イエス様はその人にこう言われました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。(ルカ9:62)

なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。おそらく、イエス様はその人の心を見抜いておられたからでしょう。

つまり、彼は家族への愛ゆえに、心を尽くしてイエス様に従うことができませんでした。そのため、たとえイエス様について行っても、すぐに家へ戻ってしまうでしょう。

もし私たちがいつも過去を振り返ってばかりいるならば、イエス様に従うことは非常に困難になります。イエス様は私たちの心のすべてを求めておられます。一部分だけを望まれるのではありません。

そのため、時には良いことであっても手放さなければならないことがあります。なぜなら、私たちはより優れたものを求めているからです。

その三人の人々がイエス様の言葉にどのように反応したのか、私たちには分かりません。おそらく、福音書の著者たちは、私たち自身が心を探るように意図したのでしょう。

たとえ困難でも、あなたはイエス様に従うでしょうか。

家族や友人がイエス様に従うことを拒んだとしても、それでもイエス様に従うでしょうか。

イエス様に従うために、すべてを捨てるでしょうか。

もしイエス様が「わたしについて来なさい。」と言われたなら、あなたはどうするでしょうか。

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マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

ミニストリーに関するプライド

イエス様が弟子たちに「神の国でどのように偉くなるのか」を教えられたとき、おそらく彼らは少し違和感を覚えたことでしょう。なぜなら、彼らは誰が一番偉いのかを巡って言い争いをし、さらに自分たちのグループの外にいる人々を軽んじていたからです。

そのため、ヨハネは少し緊張しながら、こう尋ねました。

先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。(マルコ9:38)

イエス様はこう答えられました。

やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(39-41)

教会の問題の一つは、人々が自分のミニストリーを守ろうとすることです。つまり、彼らはこう考えます。 「これは私の役割であり、私のミニストリーだ。他の人が参加するべきではない。」

弟子たちも同じような態度を取りました。 ある人物が悪霊を追い出しましたが、その人は弟子たちの仲間ではありませんでした。 そのため、弟子たちは彼に「やめなさい」と命じました。

けれども、イエス様は彼らにはっきりとこう言われました。

「これは競争ではありません。その人は私を愛し、仕えたいと思ったのです。だから、彼にやらせなさい。私は彼にその力を与えたのだから。」

私たちも同じような態度を取るべきです。たとえ相手が私たちよりも優れた働きをしていても、喜んで彼らをミニストリーに迎え入れるべきです。なぜなら、私たちはミニストリーをする際に自分の栄光を求めてはならないからです。

むしろ、私たちは神様に栄光を帰そうとすべきです。そして、誰かが神様からの賜物を用いるとき、そのことを喜ぶべきです。

残念ながら、教会の中でも競争が生じることがあります。人々は「どの教会のほうが大きいか」「どのミニストリーのほうが優れているか」を考えます。

さらに、相手の方法が自分と異なれば、批判を始めることもあります。しかし、それはイエス様の望まれることではありません。それはむしろサタンの望むことです。もし教会の人々が互いに争えば、サタンとの戦いに費やすべき時間が失われてしまうからです。

だからこそ、教会として、また教会のメンバーとして争うことをやめましょう。そして、むしろ協力し合いましょう。なぜなら、私たちは同じチームに属し、同じ目標を持っているのだから。

私たちが分裂するなら、神様の名を汚してしまいます。しかし、一致し、協力するなら、神様の御名に栄光を帰すことができます。

そのような人々になりましょう。

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マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

最も偉い人

時々、私はクリスチャンとしてどれほど成長しなければならないかを見て、落胆してしまいます。けれども、弟子たちに対するイエス様の忍耐を思うと、私は励まされます。

弟子たちがカペナウムへ向かう途中、彼らは「誰が一番偉いか」について議論していました。おそらく、イエス様はそのやり取りを聞きながら、静かに歩みを進めておられたのでしょう。そして、彼らが家に着いたとき、イエス様はこう尋ねられました。

道で何を論じ合っていたのですか。(マルコ9:33)

多分、弟子たちは恥ずかしくて、何について話していたのかを認めることができず、黙っていました。そこで、イエス様は彼らにこう語られました。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコ9:35)

おそらく、弟子たちはそれを聞いて混乱し、イエス様に尋ねました。

それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。(マタイ18:1)

おそらく、弟子たちは「私たちの中で、一番偉いのは誰でしょうか」と尋ねたかったのでしょう。

すると、イエス様は小さな子供を腕に抱き寄せ、こう答えられました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4)

イエス様が意味されたことは何でしょうか。

まず一つ目は、小さな子供のようにならなければ、誰も天国に入ることができないということです。

小さな子供の特徴は何でしょうか。彼らは謙遜であり、すべてを知っているとは思いません。そのため、いつも両親に質問をし、何事にも両親を頼りにします。

私たちが天国に入りたいのなら、そのような態度を持たなければなりません。神様の前で謙遜になり、自分がすべてを知っているわけではないと認め、神様の知恵と導きを求める必要があります。

また、神様に頼ることを学ばなければなりません。もちろん、救いのために神様に頼ることは不可欠です。けれども、それだけではなく、日々の生活の中で神様の知恵と力に頼ることを学ぶ必要があります。

しかし、多くの人々はそのように生きません。彼らは、自分の力と知恵が十分であると考え、それに頼って生きています。けれども、そのように考え、生きるなら、彼らは決して神様の国に入ることはできません。

クリスチャンの中にも、自分の知恵と力に頼り続ける人がいます。私自身もそのようになりがちです。しかし、私も少しずつ、自分の弱さを理解し、どれほど神様が必要なのかを実感するようになっています。

イエス様の二つ目のポイントは、偉さとは、何人の人があなたに仕えるかによって測られるものではないということです。むしろ、一番偉い人は周囲の人々に仕える者です。だから、イエス様はこう言われました。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

偉大なリーダーたちについて考えてみてください。彼らは無理やり人々を従わせる必要はありませんでした。むしろ、人々はそのリーダーに喜んで従いました。そして、彼ら自身も周囲の人々に仕えるために生きました。

そのため、たとえ相手から何の利益も得なくても、真のリーダーは人々に仕えるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。

また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。(マルコ9:37)

子供に仕えても、大きな利益があるわけではありません。なぜなら、彼らはあなたに多くを与えることができないからです。しかし、子供に仕えることは、実はイエス様に仕えることなのです。

さらに、イエス様への愛ゆえに、あなたが誰かに仕えるとき、実はイエス様に仕えているのです。イエス様の目には、そのような人こそ偉大な存在です。

あなたは偉い人になりたいでしょうか。

子供のようになりましょう。謙遜でいましょう。他者に仕えましょう。相手が偉い人であっても、そうでなくても、彼らのニーズを優先しましょう。

あなたはどうしますか。

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マタイの福音書 マタイ17章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

訊くのを恐れる?

この箇所で、イエス様は再び弟子たちに、エルサレムで何が起こるのかを説明されました。彼は非常に明確に語られました。

このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。(マタイ17:22-23;ルカ9:44)

弟子たちはどのように反応したのでしょうか。

しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。(ルカ9:45)

多くの私たちにとって、弟子たちがイエス様の言葉を理解できなかった理由はわかりにくいかもしれません。

イエス様は曖昧な表現をされたわけではなく、率直に語られました。それにもかかわらず、なぜ弟子たちはイエス様の言葉を理解できなかったのでしょうか。

ルカはその理由を私たちに示しています。「このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。」

では、なぜその言葉は彼らから隠されていたのでしょうか。おそらく、彼らの心はその言葉を理解できるほど十分に準備されていなかったからです。彼らはまだ、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、新しい王国を築かれることを望んでいました。

けれども、その希望にあまりに集中しすぎたため、イエス様の明確な言葉を理解することができませんでした。さらに、彼らはイエス様にその言葉の意味を尋ねることを恐れました。

なぜ彼らは恐れたのでしょうか。私は、彼らがイエス様の叱責を恐れたとは思いません。むしろ、彼らはイエス様の言葉が比喩ではなく、現実のものだと気づくことを恐れたのではないでしょうか。

彼らはイエス様が殺されるという事実に意識を向けすぎて、イエス様がよみがえられるという約束を聞き逃してしまいました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

時として、私たちは自分の考えに固執しすぎるあまり、イエス様が明確に語られても、その言葉を正しく理解できないことがあります。「イエス様はこう言っているように聞こえるけれど、きっと本当の意味は違うはずだ」と思い込んでしまうのです。

それでも、私たちはイエス様に尋ねることを避けたくなることがあります。なぜなら、もしイエス様が本気でそう言われたのなら、私たちは自分の考え方や生き方を変えなければならないからです。そして、変えることは時に恐ろしく感じられます。

たとえば、パウロはこう言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(第二コリント6:14)

つまり、もし相手があなたを神様とその道から遠ざけるのであれば、その人から離れたほうが良いということです。

しかし、クリスチャンではない人と交際しているクリスチャンにとって、またクリスチャンではない人と婚約しているクリスチャンにとって、この言葉は受け入れがたいものかもしれません。

「これは、彼氏と別れるべきだという意味なのだろうか?」

そう思いながらも、彼らは神様に尋ねたくありません。なぜなら、神様に尋ねれば、答えは明確であり、その人と別れるべきだと示されるかもしれないからです。

また、パウロはこうも言っています。「不品行を避けなさい。」(第一コリント6:18)

すると、あるクリスチャンはこう考えるかもしれません。「この言葉の意味は、私が彼氏と関係を持つべきではないということなのだろうか?」

けれども、その人は神様に尋ねたくありません。なぜなら、すでに関係を持ってしまっているからです。

正直に言うと、真理を聞くことは時に痛みを伴うものです。自分の考え方や行動を変えることもまた、大きな痛みを伴うことがあります。

しかし、その苦しみに意識を向けすぎるあまり、私たちはその先にある祝福や希望を見落としてしまうことがあるのです。

たとえば、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」と書かれている箇所には、次のような言葉もあります。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。(第二コリント6:17-18)

さらに、「不品行を避けなさい。」と書かれている箇所には、次のような言葉があります。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であることを知らないのですか。」(第一コリント6:19)

私たちは、この真理についてもっと深く考えるべきです。

だから、聖書について疑問があるなら、積極的に尋ねるべきです。そして、その言葉を心に抱き、日々の歩みにおいて生きるべきです。

最初は痛みを伴うかもしれませんが、やがて私たちは神様からの祝福を知ることになるでしょう。

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マタイの福音書 マタイ17章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

私たちの信仰はどこでしょうか

私の信仰はどこにあるのだろうか。

時々、私は自分自身にそう問いかけます。「どうして私は神様をもっと信頼できないのだろうか。」

けれども、時には少し違う質問をします。「私は何を信頼しているのだろうか。」

この箇所では、その二つの問いが浮かび上がります。

イエス様、ヨハネ、ヤコブ、そしてペテロが山から戻ったとき、他の弟子たちは律法学者と論じ合っていました。彼らが何について議論していたのかは定かではありませんが、おそらく律法学者はこう言ったのかもしれません。

「あなたの先生は神様から来たのではありません。ほら、あなたたちはこの男の子から悪霊を追い出せなかったではありませんか。」

いずれにせよ、イエス様が彼らに「何について話していたのか」と尋ねられると、その男の子の父親はこう言いました。

先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。

それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。(マルコ9:17-18)

そして、そのお父さんは必死に願いました。

もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。(マルコ9:22)

イエス様はこう答えました。

できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(マルコ9:23)

私はその父親に共感できます。彼はこう言いました。

信じます。不信仰な私をお助けください。(9:24)

どのように、その父親はその言葉を口にしたのでしょうか。もしかすると、彼の希望はほとんど失われていて、信じることが難しかったのかもしれません。しかし、彼はイエス様が救えないなら、誰も救えないということを理解していました。

そこで、イエス様の目を見つめながら、その父親は涙を流し、自らの不信仰を認めました。

「イエス様、私は信じたいのですが、この問題は長い間続いてきました。あなたを信じることは、とても難しいのです。けれども、あなたが助けてくださらないなら、私は希望を失います。どうか、私が不信仰を克服できるよう助けてください。」

イエス様は、その父親の願いを聞かれると、悪霊を追い出されました。

私はこの話から希望を受け取ります。私もよく不信仰と戦います。私の信仰の小さな滴は、不信仰の大波に圧倒されることがあります。

その父親も同じように感じたことでしょう。しかし、彼が不信仰であったにもかかわらず、イエス様は憐れみと恵みを示し、その息子を癒してくださいました。

時々、私も神様の良さを疑うことがあります。けれども、私が叫ぶとき、イエス様は答えてくださいます。神様は私に憐れみと恵みを与えてくださり、私はもう一度神様の恵みと憐れみを思い出します。

いずれにせよ、この話の中で、弟子たちはイエス様に尋ねました。

なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。(マタイ17:19)

そして、イエス様は彼らに信仰について教えられます。

あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。

もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

でも、イエス様はもう一つのことを言われました。

この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。(9:29)

覚えていてください。その出来事の前に、弟子たちはイスラエルの中で多くの人々から悪霊を追い出しました。けれども、時が経つにつれ、彼らはその力の源を忘れてしまったかもしれません。

そのため、彼らは神様を信頼せず、自分の力と方法に頼り始めたのかもしれません。そして、祈ることを忘れてしまい、悪霊を追い出すことができませんでした。

私はこの話を読むたびに、自分自身に問いかけます。「私は何を信じているのだろうか。自分の能力や賜物に頼っているのか。自分の知恵に頼っているのか。それとも、神様に頼っているのか。」

神様を信頼するなら、たとえからし種ほどの信仰しかなくても、何でも可能になります。しかし、自分自身に頼るなら、私は何もできません。

毎日、このことについて考えなければなりません。私はよく失敗します。もしあなたも不信仰との戦いをしているなら、一緒に祈りませんか。

イエス様、私の信仰はどこにあるのでしょうか。私の状況を見るとき、私はしばしばパニックになり、あなたが私を助けてくださるかどうかを疑ってしまいます。

私の不信仰をお赦しください。すべてのことにおいて、あなたを信じることができるよう助けてください。私の心と状況の中で働いて、私に平和と喜びを与えてください。

私は何を信頼しているのでしょうか。私はしばしば自分自身に頼り、それによって失敗します。どうかお赦しください。あなたの声を聞き取れるように助けてください。そして、私が毎日あなたを信頼できるよう導いてください。アーメン。

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聞きなさい

福音書の中で、これは最も興味深い話の一つだと思います。また、この出来事のタイミングも印象的です。

イエス様は、メシアに関する弟子たちのイメージを打ち砕いたばかりでした。

さらに、弟子たちはイエス様が死んでよみがえるという話をまったく理解できませんでした。だから、イエス様が十字架で死ぬまで、彼らはその話を脇に置き、それについて深く考えないよう努めました。

弟子たちは、「イエス様はただのたとえ話をしているのだろう。もしかすると、イエス様は間違えているのかもしれない」と考えた可能性があります。いずれにせよ、彼らは心の中でイエス様の言葉に真剣に向き合っていませんでした。

そこで、一週間ほど後、イエス様は最も親しい弟子である三人に、このことを理解させようとされました。

ところで、マタイとマルコは「それから六日たって」と記していますが、ルカは「これらの教えがあってから八日ほどして」と述べています。どちらの記述が正しいのでしょうか。ルカは誤っていたのでしょうか。

実は、「八日ほど」というギリシャ語の表現は、当時広く使われた熟語でした。その意味は「およそ一週間」ということです。

もう一つの可能性として、当時のユダヤ人たちは、一日の一部(一時間でも)を一日と数える習慣がありました。(これはイエス様の復活に関する記述でも見られる考え方です。)

そのため、ルカの言葉の意味は、メシアに関する会話が最初の日に始まり、山での出来事が最後の日に起こり、その間に六日間が経過した、ということかもしれません。

いずれにせよ、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山へ連れて行かれました。そして、イエス様が祈っておられる間、彼らは眠ってしまったようです。したがって、おそらく次の出来事をほとんど見逃してしまいました。

イエス様は輝き、エリヤとモーセと話しておられました。そして弟子たちが目を覚まし、イエス様とエリヤ、モーセの会話を聞いたとき、モーセとエリヤは、イエス様の死と復活について語っていました。(ルカ9:30ー31)

弟子たちはそれを目の当たりにし、完全に目を覚ました後、いつものようにペテロが真っ先に話し始めました。

先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。(マタイ17:4)

ところが、光り輝く雲が弟子たちを包み込み、その雲の中から声が響き渡りました。

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5)

その声を聞くと、彼らは恐れ、ひれ伏しました。けれども、すぐに彼らは別の声を耳にしました。それは、彼らが愛するイエス様の声でした。

起きなさい。こわがることはない。(マタイ17:7)

彼らが目を上げると、イエス様は元の姿に戻っていました。彼はもう輝いておらず、モーセとエリヤの姿もすでに消えていました。

そして、彼らが山を降りた時、イエス様は彼らに警告されました。

人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。(マタイ17:9)

どうしてイエス様は彼らにその幻を見せられたのでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らがイエス様の使命を理解するためです。

けれども、イエス様はもう一つのことを教えようとされました。それは、死は終わりではないということです。

彼らはモーセとエリヤを目にしました。モーセは山で死にましたが、エリヤは死なずに天国へと引き上げられました。それでも、彼らはなお生きており、イエス様と語り合っていました。

それでも、その三人の弟子たちはまだ理解していませんでした。そこで、彼らが山を降りている時、「死人の中からよみがえる」と言われたことの意味について論じ合いました。(マルコ9:10)

ただし、私にとって最も印象に残ったのは、天の父の言葉です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

時には、イエス様の弟子たちのように、私たちもイエス様の言葉を完全には理解できないことがあります。そして、後になって弟子たちと同じように、その言葉の意味を悟ることができるようになるでしょう。

しかし、その意味がわかっても、わからなくても、イエス様は私たちの主です。天の父がイエス様を送られたのですから、私たちはイエス様の言葉を聞き、従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様の言葉を理解できなくても、イエス様を信頼し、その言葉に従うことができますか。

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最も大切なもの

あなたは何のために生きているでしょうか。何を求めているでしょうか。

楽な人生でしょうか。富でしょうか。この世の物でしょうか。

この箇所で、イエス様は私たちに自分の優先順位を見直すように挑戦されています。イエス様は弟子たちに、そして私たちに、本当に難しいことを語られました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:23)

イエス様は私たちにそう要求されましたが、ご自身もそのように生きておられました。

イエス様は自分自身を捨てられました。

イエス様は天国に留まり、私たちをそのまま放置し、地獄へ向かわせることもできました。けれども、イエス様は天国を離れ、栄光を捨て、天使の礼拝を後にしてこの世に来られ、人間となられました。

この世において、イエス様はご自身のニーズを優先せず、周囲の人々の必要を満たすことを選ばれました。

イエス様は十字架を背負われました。

イエス様は打たれ、血を流されながらも、自らの十字架を死刑の場まで運ばれました。そして、十字架上で激しく苦しまれ、死なれました。なぜでしょうか。

天の父の計画を成し遂げるためです。私たちの救いのために死なれました。

イエス様がご自身を捨てられたように、私たちも自分自身を捨てるべきです。とはいえ、それは人生を楽しんではいけないという意味ではありません。イエス様もご自身の人生を楽しまれました。

ただし、神様の計画を果たすために、時には自分のニーズや願いを手放す必要があるのです。

時には、私たちは苦しまなければならないことがあります。私たちの家族は、私たちの信仰のゆえに私たちを拒絶するかもしれません。日曜日に働かないことで、職を失うかもしれません。イエス様に従うがゆえに、迫害を受けるかもしれません。

それでも、私たちは苦しみの中にあっても、イエス様に従うべきです。

なぜでしょうか。それは、イエス様にあって、私たちが最も大切なものを見出すからです。それは、イエス様との関係であり、また私たちのために備えられたイエス様の計画を成し遂げることです。

しかし、ある人々は、自分が欲しいもののために、イエス様とその計画を捨てます。彼らは自分の欲望を手放さず、代わりにイエス様を手放してしまいます。

イエス様は彼らにこう言われます

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。(ルカ9:25-27)

時に厳しい現実ですが、もし私たちがイエス様を捨て、自分の欲望を持ち続けるなら、最終的にすべてを失ってしまうのです。

けれども、逆に自分の願いを手放し、イエス様に従うなら、真の満足と平安を見出すことができます。なぜなら、裁きの日に、イエス様は私たちに報いを与えてくださるからです。

この世においても、私たちはその栄光を垣間見ることができます。

そのため、イエス様は弟子たちにこう約束されました。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。(マルコ9:1)

弟子たちはイエス様のために苦しみましたが、彼らは神の国が力強く到来するのを目の当たりにしました。神様は彼らを通して奇跡を行われ、福音によって多くの人々の人生が変えられました。

また、彼らはイエス様のために殉教しましたが、神の国に着いたとき、素晴らしい報いを受けました。

あなたはどうでしょうか。一番大切なものを得るために、自分の欲するものを手放すことができるでしょうか。

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イエス様の邪魔するもの

私たちはよく、他のクリスチャンにつまずきや妨げとなるものを置かないよう、注意するように教えられます。

また、キリストを信じない人々に対して、イエス様が「つまずきの石」や「妨げの岩」であるということをよく聞きます。

しかし、私たちはどれほどイエス様の働きを妨げる存在になってしまうことがあるでしょうか。この箇所を読んだとき、そのことを考えさせられました。

イエス様は弟子たちに、神様の計画を成し遂げるために、ご自身が死ななければならないと語られました。

弟子たちはその言葉を聞いて驚きました。彼らは初めてこの話を聞いたし、それは彼らが思い描いていたメシア像とはかけ離れたものでした。

彼らは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、イスラエルを解放されると信じていました。そして、彼ら自身がイエス様の大臣になると思い込んでいました。そのため、イエス様の言葉に深く戸惑ったのです。

けれども、いつものように、ペテロは真っ先に自分の思いを表現しました。

主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。(マタイ16:22)

「神の御恵みがありますように」という言葉は直訳するとそのようになりますが、その本当の意味は「まさか!」という驚きの表現です。

つまり、ペテロはイエス様の言葉に対して強く反対しました。

私たちはどれほどイエス様を「主」と呼びながらも、イエス様の言葉に逆らうことがあるでしょうか。ペテロもそうしました。

そのため、イエス様は彼を厳しく叱責されました。

下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(23)

もしイエス様に「サタン」と呼ばれたら、あなたはどう感じるでしょうか。イエス様はペテロを「サタン」と呼ばれました。なぜなら、ペテロの口から出た言葉は、サタンの考えそのものだったからです。

イエス様は、私たちの罪のために十字架で死ぬことをすでに決断されていました。しかし、ペテロはイエス様の計画に強く反対しました。だからこそ、イエス様の敵がイエス様を逮捕しようとしたとき、ペテロは下手ながらも彼らを攻撃しました。

ところが、その態度によって、彼はイエス様とその計画を妨げる者となってしまいました。ペテロは、自分の思いをイエス様の思いに合わせようとはしませんでした。むしろ、イエス様の思いを自分の思いに合わせようとしたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生において、あなたは神の御心を考えていますか?それとも、人の考えにばかりとらわれていますか?

あなたは自分の計画を神様の計画に合わせているでしょうか?それとも、神様の計画を自分の計画に合わせようとしているでしょうか?

あなたは神様の御心に従っているでしょうか?それとも、神様の名前を自分の計画に利用しようとしているでしょうか?

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最も大切な質問

イエス様がミニストリーの半ばに差し掛かった頃、十字架のことを考え始められました。それゆえ、イエス様は弟子たちが自分についてどう思っているかを知りたいと願われました。

彼らはイエス様をただの預言者だと考えていたでしょうか。ただの良い教師だと思っていたでしょうか。

そこで、イエス様は弟子たちにこう尋ねられました。「人々は私のことをだれだと言っていますか。」

弟子たちは様々に答えました。その後、イエス様はさらに問われました。「では、あなたがたは、私をだれだと言いますか。」

この問いは、あの時代の人々のためだけでなく、すべての世代の人々のためのものです。今もなお、イエス様は私たちに尋ねられます。「あなたは私をだれだと言いますか。」

イエス様を預言者だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は預言者でした。イエス様を通して、私たちは神様の言葉を聞くことができます。

では、イエス様を良い人だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は良い人です。彼は一切罪を犯されませんでした。

とはいえ、イエス様はただの預言者なのでしょうか。ただの良い人なのでしょうか。

ペテロはそうは考えませんでした。彼はこう言いました。

あなたは、生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16)

ペテロがそう言ったとき、ユダヤ人たちは「メシア」、つまり「キリスト」という言葉の本当の意味を十分に理解していませんでした。(「メシア」と「キリスト」は同じ意味です。)

弟子たちも、その意味を完全には理解していませんでした。そのため、イエス様はご自身がキリストであることを誰にも言ってはならないと、弟子たちを戒められました。

もしある概念を理解できていなければ、それを他の人々に正しく説明することは難しいでしょう。

彼らは、メシアが人々の罪のために死ななければならないことを理解していませんでした。彼らが理解していたのは、「いつかメシアがイスラエルを治める」ということでした。

そのため、「キリスト」や「メシア」という言葉を聞くと、そのイメージがまず浮かびました。

あなたはどうでしょうか。イエス様がメシアであることを信じていますか?つまり、イエス様があなたの罪のために死なれたことを信じていますか?そして、イエス様はあなたの王ですか?あなたの人生をイエス様に捧げていますか?

イエス様は、ただの預言者ではありません。イエス様は、ただの良い人でもありません。イエス様は神です。

ユダヤ人たちは、イエス様の主張を正しく理解していました。確かに、ある意味では私たちすべてが神の子供です。なぜなら、神様が私たちを創造されたからです。

けれども、イエス様は「神様が自分を造られた」という意味ではなく、「自分は永遠から本当に神の子である」と主張されました。

そのような主張は、実際には「自分が神である」という宣言です。

その主張のために、ユダヤ人たちはイエス様を十字架につけて殺しました。(ヨハネ5:18、マタイ26:63ー66)

もしイエス様があなたの神であり、王であるなら、イエス様はあなたの礼拝と奉仕に値します。しかし、あなたは本当にそう信じていますか? ペテロのように、あなたは言うことができますか?「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

もしあなたがそのことを信じているけれど、まだ告白していないのなら、今、祈りませんか。

イエス様、私はあなたをただの良い人だとは思いません。私はあなたをただの預言者だとも思いません。

あなたが神であることを信じます。 私は、あなたが十字架で私の罪のために死なれたことを信じます。また、あなたが三日目によみがえられたことを信じます。 それを心から感謝します。

どうか私の神になってください。私の王になってください。 これから、私はあなたに従いたいです。どう生きるべきかを教えてください。アーメン。

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私たちがあまり持っていなくても

私はこの話を一億回読んだかのように感じています。(もちろん、少し大げさですが。)

それでも、今回は新しいことに気づきました。

イエス様の弟子たちは、宣教の旅から戻ったばかりで、きっと疲れ果てていたことでしょう。そんな中、マルコの福音書には、こう記されています。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。(マルコ6:31)

とはいえ、おそらくもう一つの理由として、イエス様が弟子たちと一緒に寂しい所へ行きたがったのではないでしょうか。

イエスはこのこと(つまり、バプテスマのヨハネが殺されること)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。(マタイ14:13)

おそらく、イエス様はその出来事を聞かれた後、自分の安全を考えて寂しい場所に行かれたのだと思います。なぜなら、ヘロデ王がイエス様のことを耳にすると、イエス様を探し始めたからです。(ルカ9:9)

しかし、なぜイエス様は弟子たちだけと一緒に行きたがられたのでしょうか。

多くの場合、この点について深く考えることはありませんが、イエス様は100%神であると同時に、100%人間でもありました。

イエス様とヨハネがどれほど親しかったのかは分かりません。ただ、彼らが従兄弟であったことは確かです。もしかすると、子供の頃、一緒に遊んでいたこともあったかもしれません。

さらに、イエス様のミニストリーが始まった際、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けられました。また、ヨハネが牢に入れられ、ひどく気落ちしていた時には、イエス様は彼を励まされました。

だからこそ、イエス様が「まあね。大丈夫。ヨハネは天国にいるからね。」とあっさり言われることはなかったのではないでしょうか。

むしろ、イエス様はヨハネの死を嘆きたかったのだと思います。さらにもう一つ覚えておいてください。イエス様の弟子たちの中には、もともとヨハネの弟子であった者が二人いたのです。(ヨハネ1:37)

おそらく、彼らもヨハネの死を嘆きたかったのではないでしょうか。

残念なことに、彼らにはそんな時間がありませんでした。大勢の人々がイエス様と弟子たちについて行き、イエス様とその弟子たちの疲れや悲しみを知らず、イエス様に自分たちの必要を満たすよう求めました。

もし私がイエス様だったなら、それを見て怒ったかもしれません。「出て行きなさい。私の友人の死を悼んでいることが分からないのか?」

せめて私はこう言ったかもしれません。「ごめんなさい。あなたと時間を過ごしたいけれど、今日は難しいです。明日来ていただけますか?」

しかし、イエス様は彼らを歓迎されました。(ルカ9:11)

それだけではなく、イエス様は一日中彼らと共におられました。

やがて日が暮れ始めた頃、弟子たちはイエス様のもとに来てこう言いました。「先生、もう遅いので、食事をするために、皆を帰らせた方が良いのではないでしょうか。」

これは、その群衆を帰らせる絶好の言い訳でした。けれども、イエス様はそうされませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい。」(マタイ14:16)

弟子たちは答えました。「でも、この人たちは多すぎます。私たちには到底無理です。」

そこでイエス様は尋ねられました。「あなたがたは何を持っていますか。」

弟子たちは言いました。「少ししかありません。」

イエス様は仰いました。「それを私に持ってきなさい。」

そして、イエス様はそのパンと魚を取り、祝福して、驚くべき奇跡を行われました。弟子たちだけでなく、その群衆も満腹するほど食べることができました。

それだけではなく、食べ物は多く余りました。

私は「新しいことに気づいた」と言いましたが、それは何でしょうか。

時々、私たちは疲れ果てたり傷ついているため、「自分には人々に与えるものが何もない」と考えることがあります。

けれども、神様が私たちにそのように行動するよう求められるなら、神様は相手の必要を満たすために私たちに必要なものを与えるだけではなく、私たち自身の必要も満たしてくださいます。そしてその満たしは限界ぎりぎりではなく、豊かに溢れるほどに与えられるのです。

ここでのキーフレーズは、「神様があなたに求められるとき」です。

神様は私たちにすべての人々の必要を満たすことを要求されるわけではありません。もし私たちがそれをしようとすれば、燃え尽きてしまうでしょう。

そのため、私たちはこう問いかけるべきです。「自分にはほとんど与えるものがないように思えるけれど、神様は私にその人たちに対して情け深い心を与えてくださっているだろうか?神様は私にその人たちに仕えるよう求めておられるだろうか?

それとも、ただ『これは私の義務だ。私はその人に触れなければならない』と感じているだけなのだろうか?」

もし、神様が情け深い心を与えておられず、あなたの心に語りかけておられないなら、あなたはその人を別の誰かに任せた方が良いかもしれません。

しかし、神様が「行きなさい」と語られるなら、神様はあなたの持っているものを取り、祝福し、相手の必要を満たすだけでなく、あなたの必要も豊かに満たしてくださるでしょう。

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あなたを尊敬するけど。。。

この箇所では、ヘロデ王の行動が非常に謎めいているように思えます。ヘロデが自分の兄弟の妻を奪い結婚したとき、バプテスマのヨハネはヘロデを厳しく責めました。

もちろん、ヘロデはそれを聞いて不快に感じましたが、もしその妻ヘロデヤの影響がなかったなら、彼は何もしなかったかもしれません。ヘロデヤはヨハネの死を望んでいましたが、ヘロデはそこまでしませんでした。

最初、彼もヨハネを殺したいと思ったかもしれませんが、最終的にはヨハネを逮捕し、牢に閉じ込めました。

では、なぜヘロデはヨハネを殺すことをためらったのでしょうか。ひとつ目の理由は、ヘロデがユダヤ人の反応を恐れていたからです。(マタイ14:5)

もうひとつの理由として、時間が経つにつれてヘロデはヨハネを尊敬するようになっていた可能性があります。ヨハネが王に「あなたが悪い」と勇敢に告げたことに対し、ヘロデは感服していたのかもしれません。

マルコの福音書によれば、ヘロデはヨハネが他の人々とは異なることを認識していました。つまり、ヨハネが正しく、聖なる人であることを理解していたのです。

そして、ヨハネが何度もヘロデを責め、その言葉に当惑させられたにもかかわらず、ヘロデは「喜んで耳を傾けていた。」(マルコ6:20)

それでも、ヘロデは決して悔い改めることはありませんでした。

ヘロデの誕生日パーティーでは、その娘が皆の前で踊りを披露しました。ヘロデはその踊りを見て喜び、こう言いました。

おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。(マルコ6:23)

ヘロデの娘はお母さんに相談し、バプテスマのヨハネの首を要求しました。

ヘロデはそれを聞いて心を痛めました。けれども、自分のプライドのため、人々の前で誓いを取り消すことができず、ヨハネを殺してしまいました。

おそらく、ヘロデはその前にヨハネと会話する機会がなかったかもしれません。とはいえ、私の想像では、もしもヨハネと話していたなら、ヘロデはこう言ったかもしれません。

「ごめんなさい。私はあなたのことを嫌っているわけではありません。実は、あなたを心から尊敬しています。けれども、娘があなたの首を望んだのです。」

私たちがヘロデの態度を非難するのは簡単かもしれません。しかし、どれほど私たち自身が、イエス様に似たようなことを言ってしまうでしょうか。

私たちがイエス様の言葉を聞くと、心の深いところが揺さぶられます。それでも、その言葉に従わず、自分のプライド、家族、または他の優先事項を理由に、イエス様とその言葉に背を向けてしまうことがあります。

あなたはどうでしょうか。教会の説教を聞くとき、このブログを読むとき、また聖書を読むとき、その言葉が心に染み込み、心が温かくなるのを感じることがあるでしょう。あなたは「この方を尊敬します。本当に素晴らしい方です」と思うかもしれません。

しかし、そこで立ち止まり、「けれども…」と言って、神様の御言葉に背を向けてしまうこともあるかもしれません。

神様が送られた人を尊敬すること、それ自体は十分ではありません。また、彼らが敬虔な人だと認めることも、十分ではありません。

もし彼らが神様の言葉を正しく伝えているなら、それに応じて行動しなくてはなりません。そして、悔い改める必要があります。なぜなら、神様はいつかあなたが聞いたその言葉によって、あなたを裁かれるからです。

あなたはどう応じますか。

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弟子づくり、霊的な教え、実用的な教え

イエス様が弟子を育てる際には、霊的な指示だけでなく、実用的な指示も教えられました。

まず、イエス様は弟子たちに霊的な真理を教え続けました。例えば、山上の垂訓や平地の説教を説かれました。また、数々のたとえ話を用いて教えられました。

けれども、弟子たちを奉仕に送り出す際には、実用的な指示も与えられました。

例えば、弟子たちはサマリヤ人や異邦人のところへ行かず、ユダヤ人の町だけを訪れるべきだと教えられました。それはなぜでしょうか。パウロが語ったように、福音は最初にユダヤ人に届けられるべきものだったからです。(ローマ1:16)

もちろん、イエス様は時々異邦人やサマリヤ人を癒し、教えることもされましたが、彼らに福音を伝える時期はまだ来ていなかったのです。

イエス様はさらに具体的な指示を弟子たちに与えられました。

イエス様は、弟子たちが何を持つべきか、持たないべきかを教えられました(マタイ10:9-10)。

また、彼らがどこに泊まるべきかを教えられました(マタイ10:11-13)。

さらに、彼らが拒絶される場合や迫害される場合の対処方法についても教えられました(マタイ10:14,23)。

そして、イエス様は弟子たちに厳しく警告されました。「信頼できない人もいるので注意しなさい。もちろん、悪を行うことは避けなさい。それでも、相手を賢く扱うように。」(マタイ10:16-17)

このように、イエス様は霊的な教えも並行して教え続けられました。

例えば、神様はスズメの必要を日々備えておられるので、弟子たちの必要も必ず備え、彼らを守られるということです。なぜなら、神様はスズメ以上に彼らを愛し、大切にしてくださるからです。そのため、彼らは神様を全面的に信頼すべきでした(マタイ10:9-10;29-31)。

また、彼らは神様を何よりも愛するべきだと教えられました。イエス様は弟子たちにこう語られました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37-39)

私が伝えたいのはこれです。私たちが人々を奉仕のために訓練する際には、霊的なことと実用的なことの両方を教えるべきだということです。

もちろん、彼らはミニストリーや日常生活における霊的な原則を学ぶ必要があります。

しかし、それと同時に、彼らにどのようにミニストリーを行うべきかという実践的な側面も教える必要があります。

イエス様もそのようにされました。まず、弟子たちはイエス様がどのようにミニストリーを行うかを目の当たりにしました。そして、イエス様は必要な指示を簡潔に与え、弟子たちを送り出されました。

弟子たちが戻ると、イエス様は彼らの報告を聞き、必要に応じてフィードバックを与えられました。私たちも、同じようにして人々を訓練するべきではないでしょうか。

もちろん、彼らが私たちと全く同じようにミニストリーを行う必要はありません。私たちが基本的なことを教えた後は、その基礎の上に彼らが神様の導きに従って、自分のミニストリーを築いていくべきです。

けれども、残念なことに、多くの場合、訓練はどちらか片方に偏りがちです。

例えば、霊的な訓練だけを与える一方で、ミニストリーに関する実用的な訓練を与えない場合、その弟子は大きな失敗をし、そのミニストリーは早々に崩れてしまうことがあります。

逆に、ミニストリーに関する実用的な指導だけを与えると、最初は順調に見えても、弟子自身がプライド、罪、その他の霊的な落とし穴に陥り、結果的にそのミニストリーも崩壊してしまうことがあります。

ですから、弟子たちを訓練する際には、このような失敗を避けるべきです。霊的な訓練と実用的な訓練の両方を与えましょう。そうすることで、神様は彼らと私たちを用いて、神の国を成長させてくださるでしょう。

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畑になる毒草

この箇所を読むと、なぜかユダに目が向きます。

この箇所では、イエス様は弟子たちを呼び、イスラエル人に奉仕するために送り出されました。イエス様は彼らに、悪霊を追い出し、あらゆる病気と患いを癒す力を与えられました。けれども、彼らの最も重要な使命は福音を伝えることでした。

マタイは弟子たちの名前を挙げる際、最後にこう記します。「そして、イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」(マタイ10:4)

考えてみてください。ユダも悪霊を追い出しました。ユダも病人を癒しました。ユダも福音を伝えました。それなのに、最終的に彼はイエス様を裏切ったのです。

なぜユダは、これほど多くの素晴らしい働きをしながらも、イエス様を裏切ることになったのでしょうか。その理由を完全に理解するのは難しいです。

けれども、ユダはイエス様が語られた「畑にある毒麦」のたとえ話を象徴しているように思えます。(マタイ13:24-30; 36-42)

実際、毒麦と麦は見た目が非常によく似ています。そのため、農夫が毒麦を引き抜こうとすれば、誤って麦も引き抜いてしまう可能性がありました。そこで、農夫は収穫の時まで待つことにしました。その時になって初めて、麦と毒麦を分けました。

同じように、ユダは信者のように見えました。彼は他の弟子たちと共に学び、また他の弟子たちと同じように、悪霊を追い出し、人々を癒し、福音を伝えました。

それでも、彼は決して自分の心をイエス様に捧げることはありませんでした。

私のただの推測にすぎませんが、もしかすると、ユダは自分の利益のためにイエス様を利用しようと考えていたのかもしれません。

しかし、彼の目的とイエス様のビジョンが全く異なっていることに気づき、イエス様を利用できないと悟ったとき、彼はイエス様を裏切る道を選んだのです。

現代においても、教会の中にはそのような人々がいます。彼らはクリスチャンのように見え、クリスチャンのように聞こえます。中には奉仕をする人もいます。それでも、彼らの心は本当にイエス様に捧げられてはいません。

あなた自身はどうでしょうか。あなたの心はイエス様に捧げられていますか。あなたの人生は本当にイエス様のものでしょうか。それとも、ユダのように、あなたは畑の毒麦でしょうか。

表面的に信者のふりをすることはしないでください。牧師や教会の他のメンバーを欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことはできません。そして、裁きの日には、あなたの本当の姿が明らかにされるでしょう。

その毒麦とならないように。あなたの心をイエス様に捧げましょう。信者のふりをして生きても、あなたの人生は虚しくなり、最終的には裁きを受けることになるのです。

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人々を清め、命を与えてくださる神

旧約聖書を読んでいると、「清いもの」と「汚れたもの」についての記述が頻繁に出てきます。ユダヤ人たちにとっては、触れても良いものと触れてはならないものが多くありました。

例えば、死骸は汚れたものとされていました。また、生理中の女性たちも汚れたものとみなされていました。もしそのような者に触れると、自分自身も汚れたものとされてしまいました。

以前にも述べたように、不思議なのは、イエス様が汚れた人々に触れた時、イエス様自身が汚れたものとならず、むしろその汚れた人々が清い者とされたことです。

この箇所では、まさにそのような場面を見ることができます。

一人の女性が、十二年もの間、長血の病に悩まされていました。これはおそらく、生理的な問題だったかもしれません。

彼女は一か月に一度だけではなく、常に汚れたものとみなされていました。彼女は多くの医者に診てもらいましたが、全く治りませんでした。

そこで彼女は必死にイエス様の服に触れようとしました。彼女は「この服に触れさえすれば、必ず治る」と信じていたからです。

では、なぜ彼女はイエス様に直接お願いしなかったのでしょうか。おそらく彼女は、自分の病のために深く恥じていたからではないでしょうか。

また、「汚れたもの」としてみなされていたため、イエス様に拒絶されるかもしれないと思っていた可能性もあります。

しかし、彼女がイエス様の服に触れた瞬間、病が癒された時、イエス様はこう尋ねられました。

だれがわたしの着物にさわったのですか。(マルコ5:30)

そして、彼女が自分の行動を認めるまで、イエス様は待っておられました。なぜイエス様が彼女の返事を求められたのでしょうか。おそらく二つの理由があったのだと思います。

一つ目は、彼女が完全に癒されたことを確信させたかったからです。つまり、その病気がもう二度と再発しないことを伝えるためでした。

二つ目は、イエス様が周りの人々にこの癒しについて知らせたかったからです。12年間、彼らはその女性を除け者にしていました。けれども彼女が清いものとなったことを公に知らせたいとイエス様は思われたのでしょう。

その後、イエス様は会堂管理者であるヤイロの家へ行かれました。彼の娘が瀕死の状態だったからです。ところが、その家に着く前に、ヤイロの家から人々が来て、「あなたのお嬢さんは亡くなりました」と伝えました。

それにもかかわらず、イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。

そして、イエス様はその少女のそばに行かれ、愛を持ってこう言われました。「少女よ、あなたに言う。起きなさい。」

その言葉が告げられた瞬間、彼女は起き上がりました。

この話から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

私たちの罪によって、私たちは皆「汚れたもの」となってしまいました。「自分はあまりにも汚れていて、もうきよめられることはない」と感じているかもしれません。あるいは、「神様はもう私を赦してくださらない」と思っているかもしれません。

罪のために、希望を失っていると感じているかもしれません。結婚や家計が壊れてしまい、将来への展望がないと思っているかもしれません。

けれども、その女性を癒された神、またその少女を復活させられた神は、今も生きておられます。神様はあなたを清め、新しい命を与えることができます。

神様は、一つの言葉、一つの手で、あなたを癒すことができます。

もしあなたがイエス様に向かい、イエス様とその十字架の働きを信じるならば、イエス様はあなたを癒してくださいます。

ですから、あなたのために私はパウロのように祈ります。

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)

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解放された

これは実に不思議な話だと思います。

嵐の後、イエス様とその弟子たちは湖の向こう側に到着します。そこで彼らは、二人の悪霊につかれた男性に出会います。

(マルコとルカの福音書では、悪霊につかれた一人の男性についてのみ記述されていますが、その理由は分かりません。もしかすると、一人だけがイエス様を信じたのかもしれません。ただし、それは推測にすぎません。)

おそらく、イエス様と弟子たちが浜辺へ漕ぎ寄せる途中で、奇妙な叫び声を耳にしたことでしょう。そして突然、裸の二人の男性が駆け寄ってきます。彼らは腕や足に壊れた鎖をつけていたかもしれません。

そして、弟子たちがよく見ると、彼らの体に多くの傷があることに気づきます。彼らは何度も自分自身を傷つけていたからです。

あなたがその二人を見たら、どのように感じるでしょうか。おそらく私は非常に恐怖を感じたでしょう。

それでも、イエス様は冷静に振る舞い、悪霊たちにその二人から出ていくよう命じられました。

悪霊たちは最初は従わずに叫びます。

神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。

神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。(マタイ8:29;マルコ5:7)

けれども、イエス様がもう一度「出て行け」と命じられると、その悪霊たちはイエス様に懇願します。

もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。(マタイ8:31)

イエス様が「行け」と命じられると、悪霊たちは豚の中に入りました。そして、その豚の群れは湖へ駆け降り、水に溺れて死んでしまいました。

その二人の人々は解放されましたが、町の人々はその光景を見ても喜ぶどころか、逆に恐怖を抱きました。

そのため、彼らはイエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と懇願しました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

まず第一に、悪霊は実在するということです。そして、悪霊は非常に危険な存在です。

一部の人々は、タロットカードやウィジャ板を使いながら「これはただの遊びだ」と考えるかもしれません。しかし、それらを使うことで私たちは悪霊の影響を受けやすくなります。

ある牧師がこう言っています。「悪霊の世界に通じるドアがあるが、そのドアには取っ手が一つしかありません。それは私たちの側にあります。私たち自身がそのドアを開けるとき、悪霊が私たちの人生に入ることができるのです。」

タロットカードやウィジャ板、占い師などはそのようなドアを表しています。

さらに、悪霊は私たちの益を全く望んでいません。時には光の天使のように装いますが、彼らの本当の目的は私たちを破滅に導くことです。

この箇所では、悪霊がその二人の人々や豚たちにどのように影響を与えたかをよく見ることができます。それは悪霊の意図を明確に示しています。

タロットカードやウィジャ板、占いは一見楽しそうに見えるかもしれませんが、それらの背後には悪霊が潜み、私たちを滅ぼそうとしています。

良い知らせは、私たちはその悪霊を恐れる必要がないということです。悪霊は確かに力を持っていますが、イエス様は彼らをはるかに超えた力を持っておられます。また、悪霊に対して、イエス様は完全な権威をお持ちです。

それでも、オカルトからは距離を置いてください。いつかイエス様と弟子たちのように、あなたも悪霊と向き合うことになるかもしれませんが、悪霊を求めることは決してしないでください。

さらに、この話から私たちが学べるもう一つの教訓があります。

最初、罪は魅力的に見えるかもしれませんが、最終的にその罪はあなたを支配するようになります。

どうして悪霊がその二人に入ったのかは分かりませんが、確かなのは、彼らが神様を求めていなかったということです。

そして、彼らが悪霊にドアを開けてしまった結果、悪霊が彼らに入り込み、彼らは自分自身をコントロールできなくなりました。その代わりに、悪霊が彼らを支配し始めたのです。

そのように、私たちは最初は罪を選んでしまうかもしれませんが、最終的にその罪に支配されることになります。そして、この話にあるように、私たちは自分自身を傷つけてしまいます。

神様が私たちに恵みを与えず、私たちが決して悔い改めないなら、私たちは最終的に滅びてしまうでしょう。

しかし、イエス様は私たちを解放する力を持っておられます。もし私たちが心から悔い改めるなら、イエス様は私たちを赦し、罪に打ち勝つことができるよう助けてくださいます。

ただ、私たちの変化を周りの人々が見たとき、必ずしも喜んでくれるわけではありません。

この話では、町中の人々は喜びませんでした。それどころか、イエス様に「どうかこの地方を立ち去ってください」と願ったのです。

悪霊につかれていた人々は恐ろしい存在でしたが、町の人々はむしろ彼らが解放されなかったほうが良かったと思っていたかのようです。

あなたの周りの人々も、あなたの変化を見たとき、同じように感じるかもしれません。

それでも、イエス様は私たちをその人々のもとに送り出されます。そして、イエス様が彼らに言われたように、私たちにもこう言われます。

家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。(ルカ8:39)

イエス様はあなたを解放してくださいました。神様があなたにしてくださったことを周りの人々に伝えてみませんか。そうすることで、彼らも解放される可能性があります。

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私たちの信仰

イエス様の言葉、「信仰の薄い者たちだ」を読むとき、私はこう思います。「もし、イエス様が私を見ると、イエス様に同じ言葉を言われるかなあ。「ブルース、どうしてあなたの信仰はそんなに薄いか。」」

イエス様の弟子たちの状況についてちょっと考えてみてください。

イエス様が言った通りに、彼らは湖を渡ろうとしました。最初は、湖は静かだったけど、急に大暴風が起こりました。その船は大波にぶつかったし、どう漕いでも、進めることができませんでした。

そして、彼らは思い出しました。「イエス様はここにおられる。どうして、イエス様は何もしてくださらないだろうか。」

彼らはイエス様を見たけど、イエス様は寝ていました。「私たちはすぐに死んでしまうのに、イエス様は寝ているのか。」

だから、彼らはイエス様を起こして、叫びました。「先生。私たちはおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。助けてください。」

その時点で、弟子たちはイエス様から何を期待したのでしょうか。この話の最後で、彼らはイエス様の力に本当に驚きました。だから、何を期待していたでしょうか。

多分、彼らは全然何も期待していませんでした。彼らはイエス様に頼んだけど、「多分イエス様には何もできない」、と思ったでしょう。

でも、彼らが分かったのは、彼らを助ける力を持つ人は、イエス様しかいないということです。だから、彼らの反応には、信仰と不信が入っていました。

どのぐらい、私たちもそのように反応するでしょうか。私たちは自分の問題におぼれているし、私たちはずっと頑張ったけど、最終的に希望がなくなりました。

だから、やっと私たちはイエス様に叫ぶけど、実は、私たちはイエス様が私たちを助けられないと思っているけれど、もうほかの解決が見えないのだと思います。

私たちは信仰をもつ心から叫べずに、恐れから叫びます。

私たちは「イエス様は寝ているの?私たちのことを本当に愛しているだろうか」、と思います。

でも、恵みによって、イエス様は私たちを助けて、優しく叱責します。「どうして、そんなに怖がっているのでしょうか。まだ信仰がないのですか。」

だから、この記事の元の質問に戻ります。どのぐらいイエス様はそのことを私に言うでしょうか。どうして、私はイエス様の愛を疑うでしょうか。イエス様が何回も自分の力を現したのに、どうして私はその力を疑うでしょうか。でも、私はそうします。

私がイエス様を心から信頼できたら、なんと素晴らしいことでしょう。

自分の状況をコントロールできないとき(そもそも私たちにコントロールできることが本当にあるのでしょうか)、私はパニックにならずに、イエス様に信頼して歩むことを願っています。

さらに、信仰をもって、イエス様が私を愛し、私の必要を備えてくださることを信じて生きることを願っています。

あなたはどうですか。それがあなたの願いなのですか。

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パン種のたとえ話:変えられた

私はパン屋ではありませんが、おそらく誰でもこの個所のたとえ話を理解できるでしょう。イエス様は再び神の国について語られています。

パン職人がパンを焼くとき、生地にパン種を入れます。そのパン種は何をするでしょうか。

まず、パン種は生地全体に広がり、次に、生地の性質を変えます。もしパン種が入らなければ、そのパンは平たく、固いものになります。しかし、パン種のおかげでパンはふんわりと膨らみ、おいしくなります。

神の国も同じようなものです。

まず、私たちは福音の種を人々の心に蒔きます。そして、ある人々は信仰によって福音を受け入れます。福音は彼らの魂の中に広がり、やがて彼らは全く新しい人へと変えられます。

彼らの考え方が変わり、行動も変わり、彼らのすべてが新しくなります。

だから、パウロはこう記しました。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (第二コリント5:17)

神の国とは、そのようなものです。

私たちは、この世界を政治的な方法によって変えることはできません。新しい法律が制定されたとしても、世界そのものは変わりません。

誤解しないでください。もちろん、民主的な社会において、私たちは自分の権利を行使し、変化のために戦うべきです。

しかし、新しい法律によって人々の心を変えられると考えるなら、それは私たちが自分自身を欺いていることになります。

たとえば、同性愛に反対する法律が制定されても、人々の振る舞いは変わりません。中絶を禁止する法律ができても、中絶する人がいなくなるわけではありません。

神の国は、一瞬にしてこの世に現れるものではありません。聖霊様は人々を一人ずつ変えていかれます。

まず、聖霊様は私たちの心を変えてくださいます。そして、私たちを通して、聖霊様はほかの人々に触れ、彼らを変えていかれます。こうして、少しずつ神の国は広がり、やがて国々も変わり始めます。

だからこそ、私たちは自分自身に問いかけるべきです。私たちは福音をもって、何をしているでしょうか。あなたは福音を受け入れ、その結果、あなたの人生は変えられているでしょうか。

そして、あなたは周囲の人々に福音を伝えているでしょうか。そうすることで、聖霊様は彼らの心にも働き始めてくださいます。

だから、毎日祈りましょう。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

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からし種のたとえ話:小さいものから始まること

私は、イエス様が御自身の説教で用いられた生き生きとした描写が大好きです。

この話では、イエス様は神の国をからし種に例えられました。その種はとても小さいものですが、やがて大きな木に成長し、鳥はその枝に巣を作ります。

イエス様の要点は何でしょうか。たいていの場合、神の国は最初から大きなものとして始まるのではなく、むしろ小さなものとして始まります。

特に、多くの場合、神様は御自身の国を建てるために、世の目には取るに足りないと思われる人々を選ばれます。

例えば、マリアは貧しい十代の女性でした。ヨセフはただの大工でした。

そして、イエス様が来られたとき、大軍を率いる王としてではなく、父ヨセフと同じく大工として来られました。

イエス様が弟子たちを選ばれたとき、漁師、ローマ帝国と協力する収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者を選ばれました。

キリスト教が始まったとき、それは世の基準では取るに足りない都市で始まりました。当時の世界にはエルサレムよりも重要な都市がいくつもありましたが、神様はエルサレムを選ばれました。

それでも、その取るに足りない都市から、クリスチャンたちは世界中に行き、福音を宣べ伝えました。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

あなたは自分を取るに足りない人間だと思うかもしれません。神様が天の国のためにあなたを用いることはできないと思うかもしれません。

けれども、世の目には取るに足りないと思われるからこそ、神様は喜んであなたを用いられます。神の国には、たくさんの「取るに足りない人」がいるのです。

そして、あなたのような人を通して、神の国は広がり、この世の人々に触れていきます。

だからこそ、パウロはこう記しました。

兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(第一コリント1:26-29)

心に留めておきましょう。神様の目には、あなたは取るに足りない人ではありません。むしろ、神様は小さな者を通して偉大な御業を行われます。

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種まきのたとえ話:種を蒔こう

前回、この箇所についてお話ししましたが、今日は同じ箇所から別の視点についてお話ししたいと思います。

この話を見ると、農夫がイエス様を象徴していると考えることがよくあります。それも確かにそうかもしれませんが、イエス様が農夫について語られたとき、私たちのことを考えていた可能性もあります。

イエス様がこの世におられた時間は非常に短いものでした。その間に、イエス様は神様の御言葉を人々の心に蒔きましたが、今や私たちがその種を蒔く役割を担っているのです。

このたとえ話から、本当に重要なことを学ばなければならないと私は思います。

私たちが神様の御言葉を蒔くとき、その種が固い心に落ちることがあります。相手がその言葉を聞いても理解せず、また理解しようともしないため、サタンがその言葉を奪ってしまいます。

また、別の人々はその言葉を聞き、喜んで受け入れ、自分の信仰を宣言します。その姿に私たちは大変喜びます。けれども、困難や迫害が訪れると、彼らはその信仰を簡単に捨ててしまいます。

ある人々は、その言葉を信じ、クリスチャンとして成長し始めます。しかし、彼らの仕事や生活の忙しさが、神様との関係を妨げてしまうことがあります。

おそらく彼らは、お金や物を優先しすぎるのかもしれません。教会には通っているかもしれませんが、それ以上の霊的な成長は見られず、霊的な実を結ぶこともありません。

けれども、他の人々はその言葉を聞き、神様の国のために豊かな実を結び始めます。

私のポイントは何でしょうか。その結果は私たちの責任ではありません。私たちは相手の心を変えることはできません。では、私たちにできることは何でしょうか。

私たちは、種を蒔くことができます。そして、水を注ぐことができます。さらに、祈ることができます。パウロはこう言いました。「植える人もいるし、水を注ぐ人もいるけど、成長させたのは神です。」(第一コリント3:6-7)

蒔いた種が成長せず、実を結ばないとき、がっかりした経験があるでしょうか。その結果をコントロールすることはできません。

私たちにできることは、ただ種を蒔き、水を注ぐことです。その後、その人を神様に委ねるしかありません。

あなた自身はどうでしょうか。その種を周りの人々に蒔いていますか?

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種まきのたとえ話:私たちの心の状態

以前、イエス様はさまざまなたとえを用いられましたが、これはイエス様の最初の本格的なたとえ話です。

このたとえ話では、農夫が多くの種をあちらこちらに蒔きました。おそらく、もっと効率的な方法があったかもしれませんが、その時代の農夫たちはこのようにして種を蒔いていました。

道に落ちた種もありましたが、鳥が来てその種を食べてしまいました。イエス様によれば、その道は、神様のみ言葉を聞く人を象徴しています。けれども、残念ながら、その人はその言葉を理解できず、理解しようとも思いませんでした。

私は前に述べたように、たとえ話は本当に学びたいと思った人と、ただエンターテインメントを求める人とを区別しました。

イエス様の弟子たちのように学びたい人々は、イエス様にそのたとえ話の意味を尋ねました。一方で他の人々は意味が分からないまま帰りました。

彼らはイエス様の話を楽しんだかもしれませんが、そのたとえ話の意味を理解せず、理解しようとも思わなかったのです。その結果、サタンがその言葉を奪い、彼らはその言葉をすぐに忘れてしまいました。

また、他の種は岩地に落ちました。岩地とは、石灰岩の上に薄い層の土がある場所です。その土は浅かったため、種はすぐに芽を出しましたが、日が昇ると、根がないためにすぐに枯れてしまいました。

このような人々について、イエス様は次のように言われました。「み言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れます。しかし、み言葉のために困難や迫害が起こると、彼らはすぐにつまずいてしまいます。」(マルコ4:16-17)

彼らはそもそもクリスチャンだったのでしょうか。おそらくそうではないと思います。なぜなら、彼らには根がなかったからです。

もしかすると、彼らには一時的な感情的経験だけがあったのかもしれません。けれども、その感情がなくなり、「信仰」のために迫害が訪れたとき、彼らはすぐにキリストに背を向けてしまいました。

また、他の種はいばらの中に落ちました。ところが、「いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。」(マルコ4:7)

このような人々について、イエス様はこう言われました。「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」(マルコ4:19)

多くのクリスチャンがそのような生き方をしています。この世を愛しすぎるあまり、イエス様に対する愛を忘れてしまうのです。

最後に、ある種は良い地に落ち、たくさんの実を結びました。このような人々は、神様の言葉を聞き、理解し、受け入れ、そしてずっとその言葉を覚え続けます。そのため、彼らは神様の国のために豊かな実を結びます。

あなたの心はどのような状態でしょうか。

神様の言葉がわからないとき、あなたはその言葉をただ置いておくだけでしょうか。それとも、その意味を求めるでしょうか。誰かに尋ねるでしょうか。

私たちは質問することで成長します。けれども、もし私たちが尋ねないままでいるなら、全く成長することはありません。そして、サタンが神様の蒔いた種を盗んでしまいます。

教会に行くとき、ただ感情的な経験だけを求めていませんか。感情は移り変わるものです。もし感情に基づいて信仰を築こうとするなら、その信仰はすぐに崩れてしまいます。むしろ、あなたの信仰はイエス様とそのみ言葉に基づいて築かなければなりません。

あなたは毎日、何を求めているでしょうか。

すべてに優先して、神様を求めていますか。それとも、お金、快楽、持ち物を求めるあまり、神様のために時間がなくなってしまっていますか。また、あなたはもう神様の御心と御国を求めることを忘れてしまっていませんか。

それとも、あなたは神様のみ言葉を聞き、その意味を理解しようとしていますか。その言葉を受け入れ、信じ、心に刻んでいることで、豊かな実を結んでいますか。

あなたの心の状態は、今どのようなものですか。

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イエスのたとえ話:真理を求める目と耳

イエス様の口癖の一つは、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉です。

福音書においても、イエス様はその言葉を語られ、黙示録においても同じ言葉を語られました。

では、イエス様が意味されたことは何だったのでしょうか。

ある日、イエス様がたとえ話を語られた後、弟子たちはこう尋ねました。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」

イエス様は次のように答えられました。

あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。

というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。

わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。

それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。」(マタイ13:11-15)

「あなた方に天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」という言葉は、一見すると少し不公平に感じられるかもしれません。

なぜイエス様はそのようなことを言われたのでしょうか。少し考えてみましょう。

イエス様のたとえ話は、だれでも聞くことができました。そのたとえ話の意味は、漠然としていたかもしれませんが、イエス様はその意味がいつか明らかになるよう意図されました。そして最終的に、それらのたとえ話は真理を照らします。

イエス様は次のように言われました

隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。(ルカ8:17)

だから、弟子たちがイエス様のたとえ話の意味を求めると、イエス様はその意味を説明されました。そして、最終的に彼らは教会の人々にその意味を伝えました。

とはいえ、すべての人々が真理を本当に知りたいと思うでしょうか。彼らは答えを求めているでしょうか。それとも、彼らはただのエンターテインメントを求めているだけでしょうか。

イエス様のたとえ話は、神様の真理を求める人々とエンターテインメントを求める人々を区別しました。

現代の教会が抱える問題の一つは、多くの人々が神様の真理を求めるよりも、エンターテインメントを求めていることです。

そのため、彼らは賛美を歌ったり、牧師のメッセージを聞いたりするかもしれませんが、それでもその言葉が彼らの心を貫くことはありません。

そして、万が一その言葉が心を貫き、違和感を覚えるとしたら、彼らはその言葉を聞くことをやめて、別のことを考え始めます。

残念ながら、彼らがその状態を続けるなら、最終的に彼らは神様の声を聞くことができなくなります。マタイが引用したイザヤの預言は彼らに実現します。

彼らは見ても、本当に見ることはありません。聞いても、本当に聞くことはありません。むしろ、彼らは自分の目と耳を神様の真理に対して閉ざしてしまうのです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されます。

「神様の真理を聞くとき、あなたの聞き方に注意しなさい。そして、その言葉にきちんと思いを巡らしなさい。もしその言葉を正しく聞いて従うなら、神様はさらに多くを教えてくださいます。

けれども、そうしないなら、学んだことを忘れ、ついには神様がもうあなたに語りかけてくださらなくなるのです。(マルコ4:24;ルカ8:18)

そして、イエス様は弟子たちにこう言われました。

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17)

あなたはどうでしょうか。あなたには真理を見極める目と神様の言葉に耳を傾ける耳があるでしょうか。

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祝福を得るため

私たち皆、神様の祝福を知りたいと願っています。でも、その祝福をどのようにして得ることができるでしょうか。

イエス様が群衆に語られた時、ある女性がこう叫びました。

あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。(ルカの福音書11:27)

しかし、イエス様はこう答えられました。

いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。(28)

クリスチャンたちにとっても、「従順」という言葉は、あまり人気のある言葉ではありません。多くのクリスチャンは従順よりも、神様の恵みについて語ることを好みます。

もちろん、神様の恵みがなければ、だれも神様の祝福を受けることはできません。なぜなら、私たちは神様の祝福に値しないからです。

とはいえ、神様の祝福を受ける鍵は、信仰による従順な心です。

私たちは「神様を信じる。神様のみ言葉を信じる」と言うかもしれません。

けれども、従順な心を持たなければ、その言葉は意味をなしません。

もし私たちが本当に神様に信頼するなら、また、本当にそのみ言葉を信じるなら、私たちは神様の言葉に従うでしょう。

だから、一番大切な質問は、「あなたは本当に神様を信頼していますか。」ということです。あなたは、その言葉に従うなら、祝福されると信じていますか。

例えば、結婚する日まで、婚前交渉を控えるなら、あなたの結婚はより祝福されると信じていますか。

あなたが献金をささげるなら、あなたの経済が悪化することなく、祝福されると信じていますか。

あなたが主に従うように、自分の夫に従うなら、または、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたが自分の妻を愛するなら、あなたの結婚が祝福されると信じていますか。

もしくは、あなたはその言葉が理想的すぎると考えていますか。

もし、本当の祝福を見つけたいなら、神様に信頼することを学ぶ必要があります。 あなたは神様の道が最善であると信じる必要があります。

そして、その言葉に従うことが求められます。

それは簡単でしょうか。いいえ、そうではありません。

しかし、心に留めてきましょう。神様の恵みによって、私たちは神様を信じ始めました。同じように、神様の恵みによって、私たちは神様の言葉に従う力を持つことができます。

私たちが神様に頼みさえすれば、神様は私たちにその力を与えてくださいます。 イエス様はこう言われました。

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

あなたはどうでしょうか。神様に信頼し、従っていますか。

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私たちは御霊を歓迎しないと

パリサイ人たちは、「イエス様が悪魔の力によって悪霊を追い出している」と言いました。

そのため、イエス様は彼らの不信を責められました。そこで、彼らはイエス様にしるしを求めました。

しかし、たとえイエス様がしるしを示されたとしても、彼らはそれでも信じなかったでしょう。だからこそ、イエス様は彼らの要求を拒まれました。

では、なぜ私は「彼らはしるしを見ても信じなかっただろう」と思うのでしょうか。それは、イエス様がすでにヨナのしるしを彼らに示されたからです。

つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた後、その魚から出たように、イエス様も三日三晩、地の中にいた後、お墓から出られました。ところが、イエス様がよみがえられた時、パリサイ人たちはそれでもイエス様を信じませんでした。

そのため、イエス様はもう一度彼らの固い心を責められました。具体的には、イエス様は「ニネベの人々と南の女王(つまり、シェバの女王)が彼らを裁く」と言われました。

なぜなら、彼らはヨナやソロモン王のメッセージを聞いた時、悔い改めたからです。

一方で、イエス様がソロモンやヨナよりも優れた方であるにもかかわらず、パリサイ人たちは信じようとしませんでした。

そのため、イエス様は彼らに例えを示されました。その例えを通して、イエス様は「彼らがイエス様を信じないこと、また、聖霊を拒絶することの結果」について教えられました。

イエス様はこの世に来られた時、地獄の力を克服されました。例えば、その時、イエス様は多くの悪霊を人々から追い出されました。けれども、イエス様はイスラエルの民とパリサイ人たちに警告されました。

「私は悪霊を追い出し、地獄の力を克服し、私の賜物、つまり御霊を与える。ところが、もしあなたたちが御霊を拒絶するなら、地獄の力が戻り、あなたの状態は以前よりも悪くなる。」

なぜでしょうか。それは、あなたが神様の力を味わい、あなたを救うことのできる方に触れられたにもかかわらず、その方を拒絶したからです。

そして、イエス様は山上の垂訓の例えをもう一度語られました。それは、「体のあかりは、あなたの目である」ということです。もちろん、これは物理的な真理ですが、同時に霊的な真理でもあります。

イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたは何を見ていますか。神様が語られるとき、その真理を見えますか。私を見るとき、私が誰であるか分かりますか。」

もし私たちが正しく見ることができるなら、私たちの人生は光に満ちるでしょう。しかし、正しく見えなければ、私たちの人生は暗闇に満ちてしまいます。そのため、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)

あなたはどうでしょうか。イエス様をあなたの主と救い主として受け入れていますか。御霊をあなたの人生に歓迎していますか。

もしあなたが心を神様に対して固くしてしまうなら、サタンの破壊的な働きを受けやすくなります。

しかし、もしあなたが心を御霊に開くなら、命を見いだすのです。

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自分の心を固くする危険性

この箇所では、イエス様は再びパリサイ人たちに出くわします。

その時、目が見えず、口がきけない人がイエス様のもとに連れて来られました。この場合、その原因は悪霊でした。そこで、イエス様がその悪霊を追い出された後、その人は目が見えるようになり、話せるようになりました。

周りの人々は驚きましたが、パリサイ人たちは、この奇跡がベルゼブル(つまり、サタン)の力によって行われたものだと言いました。

ここで注目すべきなのは、パリサイ人たちはイエス様の奇跡を否定しなかったことです。彼らはただ、イエス様の力がどこから来たのかを疑ったのです。

現代の人々だけが、イエス様が奇跡を行われたかどうかを疑います。なぜなら、2000年前に起こったことは疑いやすいものだからです。けれども、目の前で起こった出来事は否定しにくいものです。

それこそがパリサイ人たちの問題でした。彼らはイエス様のことが嫌いでしたが、イエス様の奇跡を否定することはできませんでした。

このパリサイ人たちの態度は、重要なポイントを示しています。

以前にも述べましたが、どんな証拠を見ても、意図的に信じない人がいるものです。彼らは「信じられない」のではなく、「信じたくない」のです。そのため、彼らは心を固くし、神様の存在を否定するために、できる限り神様の御業を歪めようとします。

その結果、パリサイ人たちは「イエス様は汚れた霊に取り憑かれている」「サタンの力によって悪霊を追い出している」と言いました。

しかし、イエス様は彼らに二つのことを言われました。

1.もしサタンが自分自身と戦うなら、その国は立ち行かなくなります。

2.イエス様が悪霊を追い出されたことは、イエス様がサタンの味方ではないことの証明です。イエス様はサタンの国を攻撃され、その悪霊は逃げ去りました。そして、イエス様はサタンを縛り、人々を自由にされました。

そして、イエス様はパリサイ人たちに警告されます。

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。

しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31-32)

マルコはイエス様の言葉を解釈しました。

このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。(マルコ3:30)

つまり、パリサイ人たちは自分の心をあまりにも固くしたため、神様が何をされていたのかが分からなくなりました。さらに、彼らは神様の御業をサタンのものだと言いました。

これが、心を固くすることの危険性です。それを続ければ、最終的に聖霊の声が聞こえなくなり、神様の御業を見ても、それを認識できなくなります。そして、もしそうなってしまったら、救いの希望はなくなってしまいます。

そのため、イエス様はこの態度を「赦されない罪」と呼ばれました。彼らの心があまりにも固くなりすぎたため、彼らには救いの希望がなくなったのです。

モーセの時代、パロも同じ罪を犯しました。そのため、彼は滅びました。

では、人はいつその境界線に至るのでしょうか。それは神様だけがご存知です。ある人々の心は、救われるには固すぎるように見えるかもしれませんが、彼らが最終的に救われる可能性もあります。使徒パウロは、そのような例の一つです。

時々、クリスチャンは「私は赦されない罪を犯してしまったのではないか」と心配します。

けれども、もしそのように心配しているなら、たぶんその罪を犯していません。自分の罪を認識し、神様に対して柔らかい心を持って悔い改めるなら、心配する必要はありません。

本当に注意すべきなのは、自分の心を固くしてしまっている人たちです。

では、どのように柔らかい心を保つことができるでしょうか。それは、謙遜な態度を持ち、罪を犯したならすぐに悔い改めることです。そして、毎日、イエス様のように天の父の心を求め、従うことです。

あなたはどうでしょうか。どのような心を持っていますか。

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家族よりも親しい関係

私たちが愛する人々に自分のことを理解してもらえないのは、本当に苦しいことです。イエス様も、12歳の時に神殿でそのように感じられました。その時、イエス様の両親は彼のことを理解できなかったからです。

この箇所でも、イエス様の家族は彼のことを理解していませんでした。イエス様は神様の働きを一生懸命にしておられたので、食事をする時間すらありませんでした。そのため、イエス様の家族は、「イエスは気が狂ったのではないか」と思ったのです。

それで、彼らはイエス様を連れ戻しに出て来ました。ただ、イエス様の兄弟たちだけでなく、母マリヤも一緒に来ました。おそらくマリヤは、イエス様が気が狂ったとは考えなかったものの、彼の健康を心配していたのでしょう。

とにかく、大勢の人々が群がっており、イエス様の家族は彼のもとに直接行くことができなかったため、伝言を送りました。

イエス様は彼らの意図を理解されましたが、彼らのもとに行くことはされませんでした。その代わりに、彼はこう言われました。

わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」

それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。

「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイ12:48-50)

また、

わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行なう人たちです。(ルカ8:21)

時々、あなたが愛する人々は、あなたが神様の御心に従わないように説得しようとすることがあります。時には、彼らはあなたが気が狂ったと思うかもしれませんし、やりすぎていると感じることもあるでしょう。

しかし、覚えていてください。私たちは、彼らを喜ばせるために生きるのではなく、神様を喜ばせるために生きています。私たちは、神様の声に耳を傾け、神様の御心に従うべきです。

もちろん、私たちはバランスを取る必要があります。私たちは家族を愛し、敬うべきです。

また、神様が私たちに求めておられる以上のことをしてはいけません。なぜなら、それでは私たち自身が燃え尽きてしまうからです。

それでも、私たちは家族よりも神様を愛さなければなりません。神様の私たちに対するご計画と希望は、家族の希望よりも大切だからです。

あなたは神様をすべてよりも大切にしているでしょうか。それとも、あなたの家族があなたを神様の御心から引き離しているでしょうか。

そういうわけで、クリスチャンと結婚することが重要なのです。なぜなら、そうしないと、神様のご希望が配偶者の希望と対立する時に、大きな問題を引き起こす可能性があるからです。

また、たとえ配偶者が「私はクリスチャンだ」と言っていても、神様と共に歩んでおらず、神様の御心に従わないのであれば、それもまた大きな問題となります。

ですから、自分の心を神様にささげている人と結婚しましょう。そして、私たちのために死んで復活された方に、私たちの心と思いと力をささげましょう。

あなたの心は誰のものでしょうか。

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祝福されて、周りの人々を祝福する

この箇所は、とても短いですが、私たちが大切なことを学ぶことができると思います。

この話では、イエス様はあちらこちらに行かれて、福音を述べ伝えられました。

もちろん弟子たちはイエス様と一緒に行きましたが、三人の女性たちも同行しました。それは、マグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデ王の執事の妻ヨハンナ、そしてスザンナという人です。

私たちは、その三人についてあまり詳しくは知りませんが、彼女たちはイエス様に触れられました。

イエス様はマリヤから七つの悪霊を追い出されましたし、ヨハンナとスザンナの病気を癒されたか、彼女たちから悪霊を追い出されたのです。要するに、その三人はイエス様によって祝福を受けたのです。

だから、彼女たちは感謝の心を持って、イエス様について行き始めました。それだけではなく、彼女たちは経済的にイエス様のミニストリーを支援し始めたのです。

私たちは、この話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たち皆はイエス様によって祝福を受けています。もちろん、一番大きな祝福は、イエス様が私たちの罪のために死んでくださったことです。

とはいえ、もしかすると、イエス様があなたの結婚や家族を修復されたり、あなたの過去の傷を癒されたりしたかもしれません。

確かに、祝福を受けるのは素晴らしいことです。けれども、あなたは周りの人々を祝福しているでしょうか。

それとも、祝福を受けるだけで終わっていませんか。あなたは周りの人々に祝福を分かち合っていますか。

あるクリスチャンはこう考えるかもしれません。「どうして十一献金をささげるべきなのでしょうか。それは新約聖書の教えではありません。」

確かにそうかもしれません。しかし、クリスチャンとして、私たちは気前の良い人になるように召されています。(第二コリント8:7)

なぜでしょうか。それは、神様が単に私たちを恵みで満ちた器として望んでおられるだけではないからです。

神様は、私たちが恵みのパイプラインとなり、その恵みが私たちを通して流れ、周りの人々に触れることを望んでおられるのです。

もちろん、それには教会を経済的にサポートすることも含まれますが、それだけではありません。私たちは、自分の人生を神様にささげ、周りの人々に仕えるべきです。

あなた自身はどうでしょうか。あなたは単なる恵みで満たされた器でしょうか。それとも、恵みのパイプラインでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ7章

あなたの愛はどこでしょうか

この箇所を読むと、私はこう感じます。「私はどれほどイエス様を愛しているのだろうか。」

この話には二人の人物が登場します。

一人は罪深い女性です。私たちは彼女の具体的な罪については知らないものの、周囲の人々は彼女の罪をよく知っていたようです。もしかすると彼女は売春婦だったかもしれません。ただ、それは単なる推測にすぎません。

一方、もう一人はシモンというパリサイ人です。彼は「正しい人」として知られていました。彼の言動は正しく、人生は順調に進んでいました。

そんな中で、シモンは食事にイエス様を招きました。食事の最中、その女性は泣きながらシモンの家に入りました。彼女の涙がイエス様の足にこぼれたため、彼女は自分の髪の毛でその足を拭い、香油を塗ったのです。

これに対するシモンの反応はどうだったでしょうか。それは軽蔑でした。彼女に対する軽蔑であり、イエス様に対する軽蔑でもありました。

そして、シモンはこう考えました。

この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。(ルカの福音書7:39)

けれでも、イエス様はシモンに向かってたとえ話を語られました。

その話では、一人は少額のお金を借り、もう一人は多額のお金を借りましたが、結局、二人ともそのお金を返すことができませんでした。そこで、金貸しは二人の借金を赦しました。

そして、イエス様はシモンにこう問いかけられました。

では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。(42)

多分シモンはこう考えたかもしれません。「イエス様のポイントは何だろうか。これは落とし穴のある質問なのだろうか。」

けれども、最終的に、彼は次のように答えました。

よけいに赦してもらったほうだと思います。(43)

そして、イエス様はこう言われました。「あなたの判断は正しいです。」

ところが、その次のイエス様の言葉は、シモンの心をナイフのように刺しました。

「実は、これは普通のユダヤ人のマナーですが、お客さんが来たとき、良い主人は足を洗う水を提供し、口づけで挨拶し、そのお客さんの頭に油を塗ります。

けれども、あなたは私のために何もしてくれませんでした。一方で、この女性は私が来たとき、私の足を涙で洗い、私の足に口づけし、高価な香油で私の足を塗りました。」

要するに、「シモン、あなたの愛はどこにあるのでしょうか。

この女性は私を深く愛しています。彼女は自分の行動を通して、神様の赦しに対する感謝を示しました。彼女はどれほど赦されたかを理解しているため、その愛は非常に深いです。

その一方、あなたは自分がどれほど赦しを必要としているかを理解していないため、あなたの愛はほとんどありません。さらに、あなたは私を軽んじ、いや、私に対して軽蔑的な態度を取ってしまいました。」

そして、イエス様はその女性に向かってこう言われました。

あなたの罪は赦されています。(48)

多分、周りにいた人々はその言葉を聞いて面食らったことでしょう。なぜなら、罪を赦すことができるのは神様だけだからです。

しかし、イエス様はさらに続けて言われました。

あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(50)

あなたはどうでしょうか。あなたの愛の深さはどれほどでしょうか。

あなたは、シモンのように、自分の罪の深さを理解していないため、また、どれほど自分が赦されたかを知らないために、イエス様やその十字架の働きを軽んじてしまうのでしょうか。

私たちが神様の赦しを理解していない状態でいると、次の二つの結果が生じます。

1.私たちは独善的な態度を取り、周りの人々を軽蔑し、裁くようになります。

2.私たちの神様への愛は極端に薄くなります。

しかし、私たちが神様の愛をしっかりと理解すれば、私たちの心は神様への愛と感謝で満たされます。そして、その愛と憐れみを周りの人々にも分け与え始めます。

あなたは、どのような心を持っているでしょうか。

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すべての人々を喜ばせようと思う?

英語には、こんなことわざがあります。「You can please some of the people some of the time, but you can’t please all of the people all of the time.」

つまり、「あなたは、たまにある人々を喜ばせることができるかもしれません。しかし、いつもすべての人々を喜ばせることはできません。」ということです。

このことわざは、イエス様に対しても当てはまりました。イエス様は完全な方でした。イエス様のすべての行動は完全でしたし、イエス様は完全に人々を愛しておられました。

それでも、イエス様はすべての人々を喜ばせたわけではありません。そして、イエス様ご自身も、すべての人々を喜ばせようとは全く思われていませんでした。

むしろ、イエス様は批判者たちの偽善を指摘されました。そして、彼はこう言われました。

この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、こう言うのです。

「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。」

ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言います。

でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。(マタイ11:16-19)

要するに、バプテスマのヨハネが来て禁欲生活を送ったとき、パリサイ人たちや律法学者たちはこう言いました。「その人の言うことを聞くな。彼は頭がおかしい。」

しかし、イエス様が来られたとき、イエス様は罪人と共に食べたり飲んだりされたため、彼らはこう言いました。「その人の言うことを聞くな。彼は食いしん坊で大酒飲みだ。」(もちろん、イエス様が食いしん坊で大酒飲みだったわけではありません。)

このことからわかるのは、パリサイ人たちがヨハネとイエス様を拒絶したのは、彼らの生活スタイルのためではなかったということです。実際のところ、彼らはヨハネとイエス様が伝えたメッセージそのものを受け入れなかったのです。

多くの人々も、そのパリサイ人たちのようです。私たちがイエス様の言葉を伝えるとき、彼らはそのメッセージによって心地悪さを感じることがあります。

すると、彼らはそのメッセージを汚すため、メッセンジャーの評判を傷つけようとします。そして、批判できる点を探し出そうとします。そんな人々を喜ばせることは、絶対にできません。

ここで私が言いたい要点は何でしょうか。そんな人々を喜ばせようとしないでください。

賢い人は、すべての人々を喜ばせようとはしません。賢い人は、ただ一人、神様を喜ばせようとします。そして、その結果として、彼らは神様のために実を結ぶのです。

イエス様はこう言われました。

知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。(ルカ7:35)

それはどういう意味でしょうか。相手があなたを批判しても、あなたが結んだ実を通して、あなたの知恵の正しさが証明されるのです。

だから、すべての人々を喜ばせようとする必要はありません。イエス様でさえそれをされませんでした。私たちも同じです。ですから、私たちを召された方を喜ばせることに集中しましょう。

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私たちのための神の目的を拒否する

私たち皆は偶然ではなく、神様の目的のために造られた存在です。

その目的は何でしょうか。

それは、私たちが神様との関係を持つために造られたことです。

そして、私たちは人間関係のために造られました。私たちは周りの人々に触れることができるように、そして私たち自身も周りの人々に触れられることができるように造られたのです。

さらに、私たちは神様から授かった才能や賜物を通して神様の心を実践するように造られています。

残念ながら、多くの人々はその目的を知らずに生活を続けてしまいます。なぜでしょうか。彼らは神様が与えてくださった目的を拒絶し、自分自身のためだけに生きているからです。

このように、パリサイ人たちと律法学者たちはそのような生き方をしていました。イエス様はバプテスマのヨハネの働きが神様からのものであることを認められましたが、ルカによれば、パリサイ人たちと律法学者たちについてこう書かれています。

。。。パリサイ人、律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、神の自分たちに対するみこころを拒みました。(ルカ7:30)

ヨハネのメッセージは次の通りでした。

1.悔い改めなさい。その悔い改めのしるしはバプテスマです。

2.メシア(救い主、または王)はすぐに来ます。自分の心を整えなさい。

しかし、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の義を誇りに思い、自分が悔い改める必要があるとは認めませんでした。

さらに、神様がご自身を現された時、つまりイエス様が来られた時、彼らはイエス様を拒絶しました。それだけではなく、彼らはイエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。

だから、マタイはこう記しています。

バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12)

バプテスマのヨハネの時代に、王であるイエス様が来られたにもかかわらず、パリサイ人たちと律法学者たちは、その王国に激しく敵対しました。

彼らは神の王国を守っていると思っていたのに、実際には神様の王国を攻撃してしまったのです。その結果、彼らは神様が彼らに対して持っていた御心を逃してしまいました。

しかし、ルカは他の人々についてこう記しています。

ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです。(7:29)

その人々はへりくだり、神様の道が正しいことを認め、悔い改め、最終的にイエス様を王として受け入れたため、神様の王国に入ることができました。また、彼らは神様が彼らのために持っていた目的に立ち返ったのです。

あなた自身はどうでしょうか。神様があなたに与えてくださった目的に従っていますか。

最初のステップは悔い改めです。自分の最善を知らないことを認め、神様の道を受け入れる態度を取ることが必要です。特に、イエス様が真理であり、道であり、命であることを認めなくてはなりません。

言い換えると、イエス様をあなたの主として受け入れるべきなのです。

今、そうしませんか。

主よ、私は長い間、自分自身の道を歩み続け、あなたが私に示してくださった目的を逃してしまいました。私を赦してください。

私の罪のために十字架で死んでくださり、そして三日目によみがえられたイエス様を信じます。どうか私の主となってください。

これからは、あなたに従いたいです。あなたの御心に従いたいです。私をあなたに近づけてください。そして、あなたの御心を私に示してください。イエス様のみ名によってお祈りします。アーメン。

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疑いと戦う

聖書に登場する英雄たちも、疑いや恐れと戦っていたことを知ると、私はなんだか安心します。なぜなら、私が独りぼっちではないことが分かるからです。

バプテスマのヨハネも、自分の疑いや恐れと戦いました。彼は神様のために、とても重要な使命を果たしました。彼は人々に悔い改めを呼びかけ、イエス様の道を準備しました。ところが、突然その働きは終わってしまいました。

ヘロデ王は、自分の弟の妻と結婚しました。そのことをヨハネが責めると、ヘロデ王は怒り、ヨハネを捕えて牢に入れました。

おそらく、ヨハネは最初、確信をもって喜びながらこう宣言したでしょう。 「メシアは来た!イエス様は、この世の王や私たちの敵から救い出してくださる!」

けれども、時間が経っても、イエス様はさまざまな驚くべきことをされたものの、政治的なことにはまったく関心がないようでした。ヘロデ王は依然としてガリラヤを統治し、ローマ帝国も存続していました。そして、ヨハネはなお牢の中にいました。

時が経つにつれ、ヨハネの確信は次第に揺らいでいったかもしれません。ある日、彼の信念は完全に消え去ったのではないでしょうか。

「イエス様は本当にメシアなのだろうか?私は間違っていたのだろうか?私は本当に神様の声を聞いたのだろうか?」

ある日、ヨハネの弟子たちが彼のもとへやってきて、おそらくイエス様のことを語ったでしょう。その話をすべて聞き終えたヨハネは、静かに座りました。そして弟子たちにこう頼みました。

「イエス様に伝えてください。『おいでになるはずの方はあなたですか?それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか?』」

弟子たちはイエス様に近づいたとき、どのように感じたでしょうか。ヨハネの失望を目の当たりにし、彼らも疑い始めたのでしょうか。それとも、自分たちの師の問いをしっかりと受け止めたでしょうか。

いずれにせよ、彼らはヨハネの言葉をイエス様に伝えました。

イエス様はどのように反応されたでしょうか。彼は怒ることはありませんでした。ヨハネの弱い信仰を責めることもありませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちを優しく見つめられました。そして、周りにいる病に苦しむ人々を見渡されました。

イエス様は癒し始めました。目の見えない人、耳の聞こえない人、足の不自由な人、病に苦しむ人、イエス様は彼らすべてを癒されたのです。

そしてイエス様は、もう一度ヨハネの弟子たちに向かって、こう言われました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:4-6)

時々、ヨハネのように、私たちは疑いと戦います。「イエス様は本当におられるのだろうか」と問いかけることがあります。

私たちは自分の状況を見渡し、この世界を見つめます。そして、こう思うことがあります。

「私の信仰は本物なのだろうか。イエス様は私の信仰に値する方なのだろうか。もしかすると、私の信仰は無意味なのではないか。イエス様に従うことは本当に価値のないことなのだろうか。」

ありがたいことに、イエス様は私たちの疑いを責めることはありません。むしろ、こう語りかけてくださいます。

「私のしてきたことを覚えていなさい。私はあなたを助けてきただろう。私はあなたを癒してきただろう。私は今もここにいる。私は今もあなたの人生の中で働いている。」

しかし、それだけではなく、十字架を心に留めておきましょう。その十字架こそがイエス様の愛の証だからです。そして、イエス様の復活によって、私たちはイエス様が私たちを救う力を持っていることを確信できるのです。

あなたが決してイエス様につまずくことのないように。むしろ、イエス様こそが私たちの立つべき土台となるように。その土台は、私たちの足元で決して崩れることはありません。

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恵みと信仰

この二つの箇所をまとめると、私たちはこの話全体を見渡すことができます。

ルカの福音書によると、百人隊長がイエス様の助けを求めた際、実際には百人隊長の代わりにユダヤの長老たちがイエス様に願い出てくれました。彼らはこう言いました

この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。(ルカ7:4-5)

長老たちは、百人隊長について「この人はイエス様の助けをいただく資格があります」と言いました。

けれども、百人隊長自身はこう言いました。

あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。(ルカ7:6-7)

時々、私たちは救いをいただくために、あるいは神様から何かをいただくために、自分には「資格」が必要だと思い込むことがあります。

しかし、恵みはそうした条件とは無縁のものです。恵みとは、「あなたに資格がないにもかかわらず、私はあなたに永遠の命や、その他の必要なものを与えます。あなたがしなくてはならないのは、ただ私に頼むことだけです。」ということです。

だからこそ、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は神様に祈り、信頼する信仰を持っているだろうか。」

時に、私たちは信仰を失い、皮肉っぽくなることがあります。私自身もそう感じることがあります。なぜなら、祈りが必ずしも神様の期待通りに答えられるとは限らないからです。

そんな時、私たちは疑問を抱きます。「祈りには本当に意味があるのだろうか。神様は本当に私の祈りに答えてくださるだろうか。神様には私を助ける力があるのだろうか。神様は私を本当に愛してくださるだろうか。」

けれども、信仰はこう答えます。「神様の良さを信じ続けます。神様は私の最善をよくご存じです。それに、神様には私を助ける力があります。だから、私は祈り続けます。」

百人隊長はそのような信仰を持っていました。彼はこう考えました。

「私はローマ人であり、ユダヤ人は普通ローマ人を嫌っています。だから、私はイエス様の助けをいただく資格がないと思う。

とはいえ、きっとイエス様には私を助ける力があり、さらにイエス様が喜んで私を助けてくださると思う。だからこそ、頼んでみよう。」

その結果、彼のしもべは癒やされました。

イエス様が驚かれることは非常に珍しい出来事です。聖書の中でその記述は二回だけあります。一つは、イエス様の地元の人々がイエス様を信じなかった時(マルコ6:6)です。

そしてこの話では、イエス様はこのローマ人の信仰を見て驚かれました。イエス様は、彼についてこう言われました。

まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ8:10-12)

この箇所から、もう一つの重要なポイントを学ぶことができると思います。

この百人隊長のように、恵みが必要であると認め、イエス様を信じる人は神の国に入ることができます。私たちは家系の資格によって神の国に入ることはできません。また、私たちの良い行いによって入ることもできません。

むしろ、私たちはこう認めなくてはならないのです。

「私には、あなたから何かをいただく資格はありません。でも、私はあなたを信じます。私はあなたの十字架の働きを信じます。そして、私はあなたが三日目によみがえられたことを信じます。だから、どうか私を救ってください。」

パウロはこう言いました。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)

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マタイの福音書 マタイ7章 ルカの福音書 ルカ6章

山上の説教:何の土台に私たちの人生を建設するか

今日で、山上の垂訓と平地の説教についての話が終わります。

どちらも同じように終わります。つまり、イエス様はその聞き手に挑戦を投げかけておられるのです。イエス様は彼らに問いかけます。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

要するに、「あなたが私を『主』と呼んでも、私の言葉に従わないなら、私は本当にあなたの主でしょうか。」

ある人はこのように要約しました。「イエス様があなたの人生のすべての主でないなら、イエス様はまったくあなたの主ではないのです。」

その通りです。イエス様があなたの主であるかどうか。可能性は二つしかありません。イエス様はあなたの主であるか、そうでないか、どちらかです。

そして、イエス様は非常に有名なたとえを語られます。それは、「岩の上に強い土台を持つ建てられた家」と「土台なしで砂の上に建てられた家」です。

もし私たちがイエス様の言葉を聞き、それに従うなら、私たちは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています」。

その安定した土台のおかげで、人生の嵐が来ても、私たちの家はびくともしません。

その一方、私たちがイエス様の言葉を聞きながら従わないなら、私たちの人生は砂の上に建てられています。

砂とはどのようなものでしょうか。砂は常に移り変わるものです。

この世の価値観も砂のように移り変わります。道徳的な価値観も常に変化しています。

50年前に悪いと見なされていたことが、今では良いと見なされることがあります。また、良いとされていたものが、今では時代遅れの考え方とされてしまうこともあります。

しかし、もし私たちが移り変わる砂の上に人生を建てるなら、その土台は不安定であり、人生の嵐が襲ってきたとき、私たちの人生は崩れてしまいます。

あなたはどうでしょうか。岩の上にあなたの人生を建てていますか。

イエス様の言葉を聞くだけではなく、その言葉に従っていますか。それとも、この世と調子を合わせて、移り変わる砂の上に人生を建てているでしょうか。

簡単に言うと、イエス様はあなたの主でしょうか。

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ルカの福音書 ルカ6章

あなたの心にあるもの

聖書を読むと、イエス様がしばしば同じたとえを用いながらも、異なる応用を教えておられることに気づきます。

例えば、マタイの福音書では、イエス様が良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木について語る際、そのたとえを偽預言者に当てはめています。つまり、私たちは預言者(あるいは牧師やクリスチャンの著者)の「実」(彼らの教えや行動)を見極める必要があるのです。

一方で、ルカの福音書では、イエス様はそのたとえを用いて、私たち自身の心を探るように挑戦しておられます。

この箇所では、たとえを語る前に、イエス様は裁き、人を責めること、そして人を許すことについて教えておられます。

そのことについて語られた後、イエス様はこう言われました。

悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。

いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。(ルカの福音書6:43-45)

イエス様は何を教えておられるのでしょうか。

それは、私たちがどのような木であるかを自問するよう促しておられるのです。私たちの心の中には何が満ちていますか。相手を裁くことでしょうか。それとも、相手を責めることでしょうか。もしくは、相手を許すことでしょうか。

私たちの心にあるものを見分ける方法は何でしょうか。それは、自分の口から出る言葉を見ることです。なぜなら、私たちの口は心に満ちているものを語るからです。

もし心の中で、私たちが相手を裁き、責めているなら、そのような言葉が私たちの口から出るでしょう。逆に、私たちの心に恵みと許しが満ちているなら、それに応じた言葉が私たちの口から出るでしょう。

イエス様の言葉に注目してください。悪い木は、相手を裁き、責める心を象徴しています。しかし、恵み深く、相手を許す心は良い木を表しています。

だから、私たちは自分自身にこう尋ねるべきです。「私たちの口からどんな言葉が出ているだろうか。」

私たちはいつも相手を批判し、責めていますか。それとも、私たちの言葉は恵みに満ちていますか。私たちの言葉は、私たち自身がどのような木であるかを映し出すのです。

あなたはどのような木でしょうか。

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山上の説教:罪を避けるだけではなく、良いことをする?

マタイの福音書における「黄金律」の箇所は、少し不思議だと感じます。特に、「それで」という言葉で始まるためです。

一般的に、「それで」という言葉は前の内容を指していますが、私にはその関連性が明確には見えません。1-6節との関係があるようには感じますが、7-10節との関係は少しわかりづらいです。

一方、ルカの福音書における「黄金律」の箇所は、もっと自然だと感じます。

その箇所では、イエス様が「敵を愛しなさい。あなたのことを憎む人に親切にしなさい。あなたを呪う人を祝福しなさい。あなたを傷つける人のために祈りなさい。侮辱されても、相手を侮辱するな。自由に相手に与えなさい。」と語られた直後に、話をまとめてこう言われました。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。(ルカ6:31)

ほかの文化にも、同じようなことわざがあります。例えば、孔子はこう言っています。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」

では、そのことわざと黄金律の違いは何でしょうか。

実は、イエス様の言葉に従う方がはるかに難しいのです。それは、積極的に相手に親切にしなければならないからです。

相手を傷つけないようにするのは、それほど難しくありません。もし、相手と全く接しないなら、彼らを傷つけることは避けられるでしょう。

けれども、相手と接することが全くなければ、彼らに親切にすることもできません。私たちは積極的に何かをしなくてはなりません。たとえ相手があなたを憎んでも、侮辱しても、利用しても、私たちは彼らに親切にすべきなのです。

それは難しいことですが、それこそが神様の望みなのです。

神様の子供として、私たちは罪を避けるだけでは十分ではありません。積極的に良いことを行うべきです。

私たちは山の上にある隠れることのできない町となるべきです。私たちは、この世を味付けする塩となるべきです。もし憎む人を愛するなら、私たちはその町であり、またその塩となるのです。

なぜなら、この世はそのような愛を理解できず、それを行う力もないからです。

しかし、イエス様に繋がっているクリスチャンはそれができます。それは、イエス様の愛が彼らの心に注がれ、溢れているからです。そして、その愛が自然と相手に流れていくのです。

あなたはどうですか。ただ罪を避けているだけでしょうか。それとも、イエス様の愛で心が満たされ、その愛を通して周りの人々に触れていますか。

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山上の説教:惜しげなく良いものを与える天の父

アメリカでは、ある牧師や伝道師がこう教えています。「もし、あなたが何かを欲しがっているなら、あなたがイエス様のみ名によって願うと、神様はその祈りをかなえなくてはならなくなるのです。」

彼らにとって、神様はまるでアラジンの魔人のような存在です。しかし、神様は魔人ではありません。神様には私たちの願いをかなえる必要などありません。

ここで注意すべき言葉の一つは「良いもの」です。つまり、神様は求める者たちに「良いもの」を与えてくださいます。(マタイ7:11)

けれども、時には、私たちが神様に何かを祈っても、その願いが良くないことを神様はご存じです。

例えば、私たちはパンを願っていると思っていても、実際には石を求めているかもしれません。

また、私たちは魚を願っていると思っていても、実際には蛇を求めているかもしれません。

その場合、神様は石を与えてくださるでしょうか?蛇を与えてくださるでしょうか?きっとそのようなものは与えられません。なぜなら、神様は良いお父さんだからです。

そのため、私たちは大胆に神様に祈ることができます。もし私たちが良いものを祈るなら、神様は最も良いタイミングでその祈りをかなえてくださいます。しかし、もし私たちが悪いものを求めるなら、神様はその祈りを断られます。

このようにして、イエス様はこう教えられました。

わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカ11:9-10)

多くの場合、神様から与えられない理由は、私たちが求めないのです。

時々、私たちはこう考えます。「これは自分勝手な祈りではないだろうか。他のものを祈るべきではないか。もっと大切なことを祈るべきではないか。」

このような時に覚えておくべきことが二つあります。

1.私たちの想像以上に、神様は気前の良い方です。神様は私たちを愛しておられ、良いものを私たちに与えてくださいます。

ルカの福音書では、イエス様が少しユーモラスな話をされます。ある人が寝ようとしていたところ、隣人がしつこくその人をたたき起こして「パンをちょうだい」と頼み続けました。最終的に、その人は「しつこいなあ」と思いながらも隣人にパンを与えました。

イエス様は神様がそのようにイライラされると言っているのではありません。むしろ、イエス様はこう言われます。

「その人が疲れて隣人のしつこさにイライラしていても、相手にパンを与えるなら、なおさら、あなたを愛しておられる天の父が喜んであなたの祈りに答えないことがあるでしょうか。」

2.神様は私たちがご自分をもっとよく知ることを望んでおられます。また、私たちが神様をより信頼することを望んでおられます。そして、私たちが神様の良さを体験し、知ることを望んでおられます。

祈りは、この神様を知るプロセスの重要な部分です。私たちは祈れば祈るほど、神様の御心をより深く理解できるようになります。何が「良いもの」であり、何が「悪いもの」であるかを区別できるようになります。

そして、かなえられた祈りと断られた祈りを通して、私たちは神様の判断と知恵を信頼する方法を学びます。

けれども、私たちが求めなければ、そのような学びや成長は決して得ることができません。

だからこそ、求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。そうするなら、あなたが期待する以上に多くのドアが開かれるでしょう。そして、神様のことをもっと知り、その御心を理解することで、神様とのより親しい関係が築かれるでしょう。

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山上の説教:偽善的な裁き

子供の頃、私は「Isaac Air Freight」というクリスチャンのコメディーグループが大好きでした。彼らはたくさんのパロディーを制作しており、その中には「60 Minutes」というアメリカの有名なニュース番組のパロディーもありました。

その時、リポーターは「木こりさん」という夫婦をインタビューしました。彼らはクリスチャンでしたが、非常に珍しい「特徴」がありました。なんと、彼らの目から丸太が出ていたのです。

そのため、彼らはいつも周りのものを倒してしまい、他の人々について文句を言ったり、裁いたりしていました。

インタビュー中、丸太が何度もリポーターに当たりそうになる場面がありました。ところが、リポーターがその丸太について尋ねた時、彼らはこう答えました。「へ?丸太って?」

それでもリポーターは言い張りました。「あなたの目にでかい丸太がありますよ。あなたはいつも周りのものを倒してしまっているんですよ。」

すると、彼らは答えました。「そうなの?全然気づかなかったけど。」

多くのクリスチャンがその木こりさんたちのようです。自分の欠点には気づかず、他人を批判してしまうのです。

しかし、イエス様は私たちにこう言われます。「あなたは批判によって相手を助けていると思っているけれど、あなた自身の欠点にはまったく気づいていません。

相手の問題はただのちりですが、あなたの問題は梁です。あなたは盲人であり、そのことを知りません。もし盲人のあなたが他の盲人を導こうとするなら、あなたたちは穴に落ち込むでしょう。

あなたは、愚かな人々を賢くするための教師だと思っています。けれども、生徒たちはあなたの欠点を学び、結果的にあなたのような者になってしまうのです。それでもなお、あなたは自分の欠点にまったく気づいていないのです。

イエス様はこの話をこのように締めくくられました。

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。(ルカ6:42)

イエス様の要点は何でしょうか。それは、謙遜だと思います。

多くの人々は、自分の目にプライドという梁を持っています。

誤解しないでください。時には、私たちは兄弟や姉妹に彼らの罪について話す必要があります。それはイエス様の命令です(マタイ18:15)。また、使徒たちもその命令を繰り返しました(ガラテヤ6:1)。

とはいえ、そのようなとき、私たちはどのような態度を取るべきでしょうか。プライドに満ちた態度を取るべきでしょうか。「私はあなたより優れたクリスチャンだ」という態度でしょうか。

そうではありません。

へりくだった態度を取るべきです。自分自身にも神様の恵みと憐れみが必要だという謙虚さを持つべきです。

だから、相手を責める前に、まず神様にこう尋ねるべきです。

「神様、私の罪は何でしょうか。私の目にどんな梁が入っていますか。私はプライドを持っているでしょうか。私は相手を許せていないでしょうか。私は相手を責めていますが、同じ欠点を持っているのでしょうか。」

もし、神様があなたの欠点を示されたなら、すぐに悔い改めてください。

自分の弱さを知らないうちに、また、自分がどれだけ神様の憐れみを必要としているかを理解できていないうちに、相手と話すのを急がない方がよいかもしれません。

そうしないと、相手が自分の罪を悔い改めたとしても、あなたからさらに悪いこと、特にプライドや偽善を学んでしまうかもしれません。

イエス様はこう言われました。

弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカ6:40)

あなたの目には、どのような梁が入っていますか。

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山上の説教:相手を裁くと

相手の欠点を見て裁くのは簡単なことです。つまり、相手の性格や行動を裁くのは容易いことです。特に、私が傷ついた時、相手を裁くことはさらに簡単になります。

ルカの箇所では、イエス様はこの教えを敵を愛し、憐れむことについて語られた後に言われました。そのため、私たちを侮辱する人、そして私たちを呪う人に関して、イエス様はこう言われました。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(ルカ6:36)

その直後、イエス様は相手を裁くことについて語られます。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。

赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ7:37)

つまり、相手があなたを傷つけても、その人を裁いてはいけません。なぜなら、それはあなたの責任ではなく、神様の責任だからです。むしろ、イエス様は「相手を許しなさい」と言われます。

実は、相手を許すことは、相手のためというよりも、あなた自身のためなのです。なぜなら、私が以前言ったように、相手を許さないことで、あなたは過去の傷に縛られ続けてしまうからです。そして、神様が望んでおられる未来に進むことができなくなります。

だから、神様は「その傷を手放し、許しなさい」と言われます。そうすれば、相手が変わることもあるかもしれませんが、それは神様の約束ではありません。

(イエス様が十字架の上でパリサイ人とサドカイ人の赦しのために祈られましたが、彼らの多くは決して悔い改めませんでした。)

さらに、私たちは主の祈りを思い出すべきです。すなわち、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

もしそうしないなら、もし私たちが受けた傷のために相手に裁きを注ぐのであれば、イエス様はこう警告されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6:38)

多くの人々は、この箇所を読むとき、イエス様が献金について話していると考えます。けれども、イエス様は献金について全く話していません。この箇所の前後は裁きと憐れみについて語られているのです。

イエス様のたとえは、農家が袋に穀物を入れる様子を描写しています。私たちはその光景をすぐに想像するのが難しいかもしれません。そこで、別の例えを考えてみましょう。

ごみ袋を思い浮かべてみてください。ごみの日に、どのようにごみを袋に入れるでしょうか。

まず、ごみを袋に入れます。けれども、袋が少し一杯になったらどうするでしょうか?袋を軽く揺らすと、ごみが下に詰まり、さらにごみを入れられるようになります。

しかし、袋がいっぱいになった後は、揺すってもごみが下に詰まりません。そこで、袋の上から手で押して、もう少しごみを入れます。けれども、袋の限界に達すると、ごみが袋から溢れます。

イエス様が言われたのはこのようなことです。

「もしあなたが相手に裁きを注ぐなら、神様は裁きをあなたに注がれるでしょう。そして、あなたにさらに裁きを注ぐために、神様はすでに注いだ裁きを揺すり、押されます。そして、裁きが溢れるまで、神様はあなたの人生に裁きを注がれます。

しかしその反対に、もしあなたが相手に憐れみと許しを注ぐなら、神様は憐れみと赦しをあなたの人生に溢れるほど注がれるのです。」

あなたはご自身に何を注がれることを望みますか?

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山上の説教:心配

私はこの箇所の意味を頭では理解していますが、この真理を本当に実感できているかはわかりません。

今はあまり心配していません。けれども、5年前、私は仕事や家計についてよく悩んでいました。

そのとき、この箇所を読んでこう思いました。「これは理にかなっている。神様は鳥を養い、花を美しく保っておられる。だから、神様はきっと私のことも世話してくださるだろう。」

それでも、私は心配し続けました。「どうやって、お金を節約できるだろうか。もっといい仕事が見つかるだろうか。」

振り返ってみると、神様の忠実さと良さを見て取ることができます。だからこそ、私はこれから心配する必要はないはずです。

とはいえ、将来トラブルが起こったとき、私はどう反応するでしょうか。

時々、私がある程度コントロールできる問題に直面します。でも、まったくコントロールできない問題に直面することもあります。

そのとき、私の心はこう言います。「もう、自分にできることはやったでしょう?もう心配せずに、そのことを神様の手に委ねよう。」

それでも、心の別の部分では、なおも心配し続けます。

私は、イエス様の言葉を想像できます。

「信仰の薄いブルース。この世の人々は、こういったものを求めている。しかし、あなたの天の父があなたを愛しておられることを知らないのか。あなたのことを養ってくださることを知らないのか。

だから、この世のことから目を離し、天の父に焦点を当てなさい。天の父にあなたの悩みを委ねなさい。そうすれば、すべてよりも神の御国を第一に求めるならば、天の父は必ずあなたを養ってくださる。」

天のお父さん。あなたは私を愛してくださると約束されました。それを信じています。でも、私の信仰を強めてください。

私は信仰が薄いため、よく心配してしまいます。しかし、あなたはこれまで私にあなたの忠実さを示してくださいました。私には、あなたを疑う理由が何もありません。それなのに、どうして疑ってしまうことがあるのでしょうか。

私が自分の心配を手放せるように助けてください。あなたの光によって、私の問題が力のない影のようになるように。

私があなたに焦点を当てられるように助けてください。あなたを信頼できるように助けてください。アーメン。

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山上の説教:私たちはどこに照準を合わせるのか?

前回の記事で私が述べたのは、私たちがいつも「この罪を避けなきゃ、この罪を避けなきゃ」と考えると、多くの場合、かえってその罪に落ちてしまうということです。それよりも、もっと良い方法は、神様に焦点を当てて従うことです。

ただし、この態度は誘惑に対する場合だけでなく、すべてのことに対して持つべきだと思います。この箇所では、イエス様が私たちが何に照準を合わせるべきかについて語られます。

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:19-21)

そして、イエス様はこう言われました。

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(24)

私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は何に照準を合わせているだろうか。」

多くの人々は、一時的なものに照準を合わせます。例えば、お金や持ち物などを得ることに焦点を当てています。

しかし、イエス様はこう言われます。「そんなものは結局なくなります。あなたは永遠のものに照準を合わせるべきです。」

では、永遠のものとは何でしょうか。

永遠のものは二つしかありません。神様との関係と、ほかのイエス様を信じる人々との関係です。

私たちは天国に、この地からほかのものを持っていくことはできません。だからこそ、この世に生きている間に、その二つのものに焦点を当てるべきです。

私たちは神様との関係をより深めるために努力するべきです。また、イエス様を知らない人々に福音を伝えるべきです。そして、クリスチャンの兄弟姉妹との関係を強めるために働くべきです。

そうするなら、私たちは天国に宝を蓄えることができます。神様との関係と、私たちが愛する人々との関係よりも、もっと素晴らしい宝があるでしょうか。

しかし、多くの人々、たとえクリスチャンであっても、お金を儲けることやこの世のものを獲得することに焦点を当てています。けれども、イエス様は「あなたはそれができない」と警告されます。

神様はあなたの心の半分だけを望まれるのではありません。もし神様があなたの心の半分しか持たないなら、あなたの奉仕は受け入れられません。私たちはお金に仕えることもできるかもしれませんし、神様に仕えることもできます。両方に仕えることはできません。

そこで、イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたはどんな目を持っていますか?物の本当の価値が見えていますか?何が本当に大切かわかっていますか?

もしそうなら、あなたの全身も明るいでしょう。あなたは生きがいのある人生を送り、神様が意図された人生を知るでしょう。それは、神様との関係と人間関係を中心とした人生です。」

けれども、もしそれが見えないなら、あなたは暗闇に満ちた人生を送ります。あなたはいつも不満を感じますが、その理由を決して理解することはありません。お金や他のものを追い求めても、最終的にあなたの心は空っぽのままです。

そのため、イエス様はこう言われます。

もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイ6:23)

また、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11;35)

どうでしょうか。あなたは何に照準を合わせていますか。

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山上の説教:日常の霊的な戦い

毎日、私たちは霊的な戦いに直面しています。そのため、イエス様は私たちにこのように祈るべきだと教えられました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(マタイ6:13)

私たちは邪な世界に生きています。この世界はサタンの住まいであり、彼は私たちに対して悪意を持っています。どうしても私たちを倒したいと思っているのです。

つまり、サタンは私たちの心の中で働き、私たちを誘惑して、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に負けさせようとします。(第一ヨハネ2:16)

だから、私たちは神様の導きを祈るべきです。具体的には、罪に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てるように祈るべきです。

私たちには誰しも誘惑に負けやすい弱点があります。その弱点を正しく認識し、できる限りその誘惑から逃げるべきです。しかし、してはいけないことに過剰に注目しすぎると、その誘惑がますます強くなってしまうこともあります。

一方で、もし私たちが神様に焦点を当てるなら、自然と誘惑から離れることができます。ただ罪を避けるだけでは十分ではなく、神様に従うことが必要なのです。

さらに、サタンは私たちを誘惑するだけでなく、私たちを滅ぼしたがっています。サタンは人々を通して私たちを攻撃することもあります。

また、サタンは私たちに嘘をつくことがあります。「あなたはもうダメだ。神様があなたを愛するはずがない。あなたは失敗しすぎたから、神様はもうあなたを赦さない。」

だからこそ、イエス様は私たちに「悪からお救いください」と祈るよう教えられます。(もう一つの翻訳では「悪者から、つまり悪魔からお救いください」となっています。)

私たちは、私たちを憎むサタンと戦っています。だから、ペテロもこう言いました。

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

神様がサタンの私たちに対する影響を制限してくださるように祈りましょう。

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山上の説教:私たちのニーズのために祈る

私にとって驚くべきことは、この宇宙を支配される神様が、私を愛してくださることです。また、私が些細なことについて祈る時でさえ、神様は私の祈りをしっかりと聞いてくださいます。

イエス様もそのことを教えてくださいました。彼はこう言われました。

だから、こう祈りなさい。。。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6:9,11)

イエス様がこの説教の後半で「心配」について話される時、神様が私たちのニーズをどれほど気にかけてくださるかを教えられます。

つまり、イエス様によれば、神様は私たちが食料や衣類、寝る場所を持っているかどうかを気にかけておられるのです。

もちろん、こういったものを手に入れるためにはお金が必要であり、さらにお金を得るには仕事が必要です。

私たちは、そういったことをよく心配します。

しかし、神様は「そんなことについて心配するな」と言われます。このような心配が私たちの心を支配してはいけません。むしろ神様は、天の父が私たちを愛しておられ、私たちのニーズに備えてくださることを信じるように望まれているのです。

だからこそ、私たちはそのニーズについて祈った後は、神様の手に委ねるべきです。

とはいえ、私たちはどれほど祈ることなく心配してしまうでしょうか。私自身も、そうする時があります。

私たちはこう自問すべきです。「私の天のお父さんが本当に私を愛しておられると信じているだろうか。私の天のお父さんが本当に私のニーズに備えてくださると信じているだろうか。」

もし、そのことを本当に信じるならば、私たちの心配はすぐになくなるでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたはただ心配しているでしょうか。それとも、祈っているでしょうか。

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山上の説教:神の御国。神の御心。

私は、英語のブログでこの箇所について書いたのは4年前でした。その記事を読み返すと、本当に懐かしい気持ちになり、振り返ってみると、神様の良さを見ることができます。

その当時、私は強いフラストレーションを感じていました。家計は悪くはありませんでしたが、理想的な状態ではありませんでした。

また、より良い仕事の機会がありましたが、その面接の日が平日だったため、休暇を取る必要がありました。けれども、なぜか私が勤めていた派遣会社はその休暇のリクエストを断りました。そのため、私は「どうすればいいのだろう」と悩みました。

最終的に、神様の恵みによってその面接に行くことができました。派遣されていた中学校の教頭先生が助けてくださり、派遣会社を説得して私が面接に行けるようにしてくださいました。

その面接に合格し、今ではより良い学校で働いています。

では、この話とこの箇所がどのように関係しているのでしょうか。この箇所で私たちはこう祈ります。

御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6:10)

正直に言うと、その朝、私は本当にストレスを感じていました。派遣会社が不公平だと思ったからです。(その以前、英語のブログ記事で、不公平な世界について書いたことがあったのに。)

以前も言った通り、私は自分の状況をコントロールすることはできませんでした。ただ、私の態度をコントロールすることだけはできました。とはいえ、それは非常に難しいことでした。

最終的に私はこう祈りました。「主よ、あなたの御心が天で行われるように地でも行われますように。天ではあなたの御心が完全に行われています。この地上でも、とりわけこの状況の中で、あなたの御心が完全に行われますように。

もし私がこの仕事を得ることがあなたの御心なら、それは素晴らしいことです。もしそうでないなら、私がそのことを受け入れられるように助けてください。」

さらに私は「御国が来ますように」という祈りも捧げました。

私にとってその仕事を得ることは非常に重要でした。しかし、それ以上に神様の御国は断然重要でした。

その時私が考えていたのは、「この仕事を得れば、もちろん給料が上がるけれど、一番大切なことは、時間が増えて、神の御国のためにもっと何かできるようになることです。」ということでした。

その日、私はこの箇所を読みましたが、6章の終わりまで読み続けました。なぜなら、この箇所でイエス様は「自分の命のことを心配したりしてはいけません」と言われたからです。

その日、私は本当にその言葉が必要でした。そして、この箇所の終わりでイエス様はこう言われました。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

今、振り返ると、イエス様はその約束を確かに守ってくださいました。

それにもかかわらず、私は今でも時々物事を心配してしまうことがあります。

それでも、神様の恵みによって、私は次のように祈ります。「私の人生において、またこの地上で、あなたの御国が来ますように。あなたの御心が行われますように。」

4年前、私はこう祈りました。

主よ。あなたは私のストレスをすべてご存じです。私の心配もすべてご存じです。でも、あなたはこの全地の主です。

あなたは私の雇い主の主です。そして、もっと大切なのは、あなたが私自身の主であるということです。

どうかあなたの御心が行われますように。私の仕事の状況で、あなたの御心が行われますように。私の将来においても、あなたの御心が行われますように。

私が何よりもあなたの御国に焦点を当てられるよう助けてください。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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山上の説教:私たちの誉れにふさわしい方

多くの人々は、この祈りを「主の祈り」と呼びます。しかし、実は「弟子の祈り」と呼ぶ方が適切だと思います。なぜなら、この祈りを祈るのはイエス様ご自身ではなく、イエス様の弟子たちだからです。

とにかく、イエス様は、こう言われました。

だから、こう祈りなさい。。。御名があがめられますように。(マタイ6:9)

この箇所では、新改訳聖書の翻訳者は「あがめる」という言葉を使いました。このギリシャ語には確かにその意味があります。

とはいえ、この言葉にはもう一つのニュアンスがあります。それは「聖い」という概念を含んでいます。

そのため、マタイ23:17では「聖いものにする」と翻訳され、ローマ15:16では「聖なるものとされた」と訳されています。さらに、第一テモテ4:5では「聖められる」と訳されています。

つまり、「御名があがめられますように」という祈りの意味は「御名が聖なるものと見なされますように」または「御名が聖なるものとしてあがめられますように」ということです。

もう一つ重要な点があります。聖書時代の文化では、人の名前がその人の性格や本質を表していました。

したがって、「御名が聖なるものとしてあがめられますように」と祈るとき、その意味は「神様ご自身が聖なる方としてあがめられますように」ということになります。

では、私たちが「神様は聖なる方だ」と言うとき、それはどういう意味でしょうか。

基本的には、神様が完全であり、欠点が全くない方だという意味です。神様は全く聖い存在であり、何一つ欠けるところがありません。

その一方で、私たち人間は不完全であり、私たちの性格は全く聖いものではありません。

だから、私たちは神様の完全さと聖さを見ると、神様に畏敬の念を抱くことはふさわしいことです。また、神様の完全さと聖さを見るとき、神様をあがめるのは当然のことです。

けれども、神様をあがめるだけでは十分ではありません。神様を見るとき、私たちは天のお父さんのようになりたいという思いが湧くべきです。つまり、私たちは天のお父さんを喜ばせたいと願い、自分の霊的な不潔と欠点を嘆くのです。

もし、「御名が聖なるものとして、あがめられますように」と祈るなら、罪深い生活を送る余地はありません。「まあ、神様が私を赦してくれるので、罪を犯してもいい」と言うことは全くできません。

もしあなたが本当に神様の子供であるなら、「御名が聖なるものとして、あがめられますように」と祈るとき、その祈りの意味は「神様、私はあなたに畏敬の念を抱きます。あなたを愛しているので、あなたのようになりたいです。どうか私を助けてください」ということです。

そのように祈るなら、神様はその祈りにきっと答えてくださいます。神様はご自身の子供が神様を模倣することを見ると、本当に喜ばれるのです。

そして、もし私たちが罪の泥に落ちるなら、神様は私たちを助けてくださり、イエス様の血によって私たちを清め、導き続けてくださいます。

また、神様は私たちに、神様のように聖い人生を送る力を与え、どのようにそのような生活を送るかを教えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様に畏敬の念を抱いているでしょうか。そして、天のお父さんのようになりたいと願っているでしょうか。

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山上の説教:私たちのお父さん

一つの記事で主の祈りについて話そうかなあと思ったけれど、結局少しずつ話した方が良いと思いました。

この箇所では、イエス様は神様をどのように呼ぶべきか教えてくださいます。

マタイの福音書では、イエス様は「天にいます私たちの父よ」と祈ります。

ルカの福音書では、イエス様はもっと簡単な表現で「父よ」と祈ります。

実際、日本では、主の祈り以外で「天にいます私たちの父よ」や「父よ」と祈る人はほとんどいないように感じます。

むしろ、私の教会では「天のお父様」と祈る人が多いです。

その理由は正確には分かりません。私の個人的な意見ですが、クリスチャンがこのような呼び方を使うと、少し神様との距離を感じさせるように思います。

もし、「天のお父さん」や「お父さん」と祈れば、イエス様が意図された意味により近づくのではないでしょうか。

なぜなら、イエス様は私たちが神様に親しみを持ち、近づくべきだと教えることを望まれたのだと思います。

もちろん「主よ」と祈ることも良いことです。神様はまさに私たちの主であり、その呼び方はふさわしいものです。ペテロもそのように祈りました。(使徒4:24)

けれども、依然と言ったように、その呼び方は、神様と私たちの間に距離があることを暗示します。もちろん、王様としもべには関係がありますが、親しい関係ではありません。そのしもべは、いつでも王様と話すことができるわけではありません。

しかし、王様の子供は、いつでもそのお父さんと話すことができます。その子は、王に仕えるしもべにはないアクセスを持っています。それに、その子は、父の愛を確信しています。

私たちの天のお父さんは、大いなる王です。神様は、この世界、この宇宙を支配されています。それでも、神様はいつでもあなたのために時間を割いてくださいます。なぜなら、神様はあなたの王だけではなく、あなたのお父さんでもあるからです。

残念なことに、多くの人々は「天のお父さん」と祈っても、その言葉の意味を深く理解していません。なぜなら、彼らの実のお父さんが不完全だったからです。

そのお父さんは、彼らの話を聞いてくれず、愛してくれず、養ってくれなかったかもしれません。また、中にはお父さんから虐待を受けた人もいます。

だから彼らは、その否定的なイメージを天のお父さんに投影してしまいます。

しかし、神様はそのようなお父さんではありません。たとえあなたの実のお父さんが欠点を抱えていたとしても、神様にはそのような欠点はありません。

神様は、あなたを愛してくださいます。神様は、あなたの祈りを聞いてくださいます。神様は、あなたのニーズに備えてくださいます。そして、神様は、決してあなたを捨てられることはありません。

あなたが「天のお父様」と祈るとき、どんなイメージを持っていますか。

もし否定的なイメージを持っているなら、神様があなたの実のお父さんとは異なる存在であることを心に留めてください。そして、次のように祈ることをおすすめします。

神様が、あなたの実のお父さんによって受けた傷を癒してくださるように。あなたが実のお父さんを赦せるように。そして、神様があなたの「天のお父さん」へのゆがんだイメージを正してくださるように祈りましょう。

神様は完全なお父さんです。あなたが天のお父さんを本当に知ることができますように。

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山上の説教:迫害

迫害を好む人はいません。誰もが嫌われることを望んではいません。理想的なのは、すべての人々があなたを愛してくれる世界です。

しかし、ここは理想的な世界ではありません。この世界は罪によって堕落しました。そのため、多くの人々の心はゆがみ、善と悪を見分けることができなくなっています。たとえ善悪が分かっていても、多くの場合、彼らは悪を選びます。

ヨハネはこう言いました。

(イエス様を通して)光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3:19)

だから、イエス様は弟子たちに警告されました。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

少し考えてみてください。イエス様は完全な方でした。彼は一切罪を犯されませんでした。イエス様は愛そのものでした。それにもかかわらず、人々は彼を憎み、十字架で殺しました。

もしイエス様が完全であるにもかかわらず迫害されたのであれば、私たちは何を期待すればよいでしょうか。

しかし、イエス様はこう言われます。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:10)

つまり、私たちがイエス様に従うがゆえに迫害されるなら、私たちは祝福されるのです。

それは少し奇妙に聞こえる言葉かもしれません。迫害が祝福なのでしょうか。正直なところ、私自身も迫害されたいとは思いません。

迫害そのものが祝福であるというわけではありません。ただ、私たちが迫害されるとき、それは主の足跡に従っている証拠となるのです。

要するに、私たちが愛しているイエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるのです。それは私たちに与えられた特権であり、またその迫害は決して無意味なものではありません。裁きの日に、神様は私たちの忠実さに報いてくださいます。

ですから、イエス様のために迫害されても、決して絶望しないでください。友人や家族から拒絶されるときも、あきらめないでください。

あなたはいつも周りの人々を喜ばせることはできません。イエス様ですらそれができませんでした。だからこそ、神様を喜ばせることに焦点を当ててください。

そうすることで、本当の祝福を体験することができます。

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自己満足の問題

イエス様は、貧しい者たちへの神様からの祝福について話された後、金持ちと自己満足な人々に焦点を当てられました。

しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。

いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。

いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。

みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。(ルカの福音書6:24-26)

それらは、本当に厳しい言葉でした。けれども、イエス様の祝福がすべての貧しい者たちに向けられていたわけではなかったように、この厳しい言葉もすべての金持ちに向けられたものではありませんでした。

むしろ、この言葉は自己満足している人々に向けられたものでした。彼らは気楽に過ごしすぎて、神様のことを必要としていないと感じ、神様とその御国についてほとんど考えていなかったからです。

しかしある日、彼らは自分の富、食べ物、快楽、そして快適な人生が一時的なものであることを理解する時が訪れるでしょう。

その日、彼らは何も持たずに神様の前に立つことになります。そして、神様はこう尋ねられるでしょう。「あなたは私の一人子について聞いたとき、どのように応答しましたか。」

もし彼らがイエス様を拒絶していたのであれば、最終的に彼らは永遠に地獄で過ごすことになるでしょう。

あなたも、同じです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様を必要としていないと思うでしょうか。あなたの人生が幸せで、他には何も必要がないと思っているでしょうか。

多くの人々が大体70〜80年ほど生きることを心に留めてください。その後、彼らは永遠に向かいます。あなたも、永遠に神様と共にいるか、永遠に地獄で過ごすかのどちらかです。

もしあなたが神様を拒絶するなら、この世で楽しんでいたすべてのことは無意味になります。

この世で神様を拒絶するなら、永遠の時代において神様もあなたを拒絶されるでしょう。

けれども、もしあなたが心の王座を神様に譲るなら、あなたはいつか神の国に住むだけではなく、この人生も充実したものになるでしょう。

そしてイエス様のためにこの世で苦しんだとしても、いつか振り返り、「それは素晴らしい人生だった」と言えるでしょう。

イエス様はこう言われました

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)

あなたは何によって満足するのでしょうか。自分自身でしょうか。あなたの持ち物でしょうか。それとも、あなたを愛し、十字架であなたのために死んでくださった方によって満足するのでしょうか。

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良い知らせ

聖書の学者たちは、マタイの福音書にある山上の垂訓とルカの福音書にある平地の説教が、実際に同じメッセージかどうかを議論しています。

ある学者たちは、イエス様が山を登り、その山の平らな場所で教えたと考えています。

私の推測では、多分イエス様は、その二つのメッセージを別の時に伝えたのではないかと思います。なぜなら、イエス様がいつも全く違う説教を伝えていたとは限らないからです。

イエス様は様々な町で同じテーマを教え、しかしその町の人々のニーズに応じてメッセージを少しずつ調整されたのではないでしょうか。

このルカの箇所では、恐らくイエス様は多くの貧しい人々に語られたのだと思います。彼らはお金をほとんど持っておらず、将来性も厳しい状況だったのでしょう。

未亡人や足の不自由な人がいたかもしれません。また、外国からの移民もいたかもしれません。そうであれば、イエス様は彼らのためにメッセージを調整された可能性があります。

このようにして、イエス様は預言者イザヤの予言を成就されたのです。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年。。。を告げ[る]。(イザヤ6:1-2)

だから、イエス様は彼らにこう言われました。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。

いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。

いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。(ルカの福音書6:20-21)

もちろん、これは、すべての貧しいものと泣く者が、祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためです。

もちろん、これは、すべての貧しい者と泣く者が祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためのものです。

もし、イエス様があなたの主であるなら、たとえ貧しく、飢え、泣いていたとしても、希望の日がやってきます。この暗い世界の中で、それは本当に良い知らせです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は苦しい状況にあるでしょうか。その状況によって、心が押しつぶされそうになっているでしょうか。

あなたには希望があります。もっと良い日が訪れます。ただし、まずイエス様をあなたの主として受け入れる必要があります。

パウロはこう書きました

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

あなたはイエス様をすべてよりも愛しているでしょうか。神様の目的のために生きているでしょうか。それとも、自分自身の目的のために生きているでしょうか。

誰のために生きているのでしょうか。

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イエス様と一緒にいるように呼ばれた。出て行って、この世に触れるように呼ばれた。

この箇所では、私たちはイエス様の高まる人気を目にすることができます。おそらく、増え続ける群衆とその必要のために、イエス様は12人の弟子たちを選び、訓練を始められました。

人間としてのイエス様は、ある瞬間には一つの場所にしかおられることができませんでした。そのため、多くの人々に触れるには助けが必要でした。

とはいえ、イエス様が選ばれたのは、本当に多種多様なグループでした。

漁師たち、ローマ帝国と協力していた元収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者もいました。

また、彼らはそれぞれ異なる性格を持っていました。大胆なペテロ、懐疑的なバルトロマイ(つまり、ナタナエル)やトマス、そして短気なヤコブとヨハネもいました。

イエス様は、このように様々な背景や性格を持つ人々を選ばれました。そしてイエス様は、彼らに3つのことを求められました。

そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコ3:14-15)

一つ目は(そして一番大切なのは)、彼らがイエス様の近くにいることです。彼らはイエス様と時間を過ごし、イエス様から学びました。

そして今もなお、イエス様はそのような人を求めておられます。イエス様は、私たちがイエス様の生活に参加し、イエス様をもっと知り、そしてもっとイエス様のようになることを望んでおられます。

二つ目は、彼らがイエス様から学んだメッセージを周りの人々に伝えることです。

多くのクリスチャンは聖書を読み、神様との関係において成長します。けれども、それだけでは足りません。

神様は、私たちが聖書のメッセージを周りの人々に伝えることを望んでおられます。なぜなら、私たちがそれをしなければ、彼らは神様からの喜びを決して知ることができないからです。

三つ目は、彼らが霊的な戦いに参加することです。あなたは悪霊を追い出す経験がないかもしれませんが、毎日私たちは霊的な力と戦っています。パウロはこう書きました

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

イエス様は、私たちが人と戦うのではなく、サタンと悪霊と戦うように召されています。彼らは人々を欺き、地獄に行かせようと働いているからです。そのため、私たちはその魂のために戦わなければなりません。

毎日、多くの人々が死にかけていて、地獄へと向かっています。しかし、神様はそのようなことを望んでおられません。神様は私たちに彼らのために立ち上がり、戦うことを望んでおられるのです。私たちがその使命を果たせば、その人たちは救われるかもしれません。

それがキリストの弟子の姿です。私たちがイエス様と共にいること、福音を伝えるために出ていくこと、そして霊的な戦いに参加することです。

あなたはどうでしょうか。キリストの弟子として、あなたはそのように歩んでいるでしょうか。

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イエス様を悲しませる?

私たちがこの三つの箇所をまとめると、この話全体を理解することができると思います。

イエス様は会堂におられ、片手のなえた人をご覧になりました。同時に、イエス様はパリサイ人たちと律法学者たちの存在にも気づかれました。そして彼らは、イエス様がその人を安息日に癒やすかどうかをじっと見守っていました。(マルコ3:1-2)

イエス様は、彼らの思いをよく知っておられました。そのため、イエス様は片手のなえた人を呼ばれました。その時、そのリーダーたちはイエス様にこう尋ねました。

安息日にいやすのは正しいことでしょうか。(マタイ12:10)

イエス様は、いつものように、質問で答えられました。

あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。(ルカ6:9)

もちろん、そのリーダーたちはその質問に答えることができませんでした。

もし彼らが「安息日に善を行うのはだめです」または「命を救うのはだめです」と答えたなら、彼らは愚か者と見なされたでしょう。

しかし、もし彼らが「善を行ってもよいです。命を救ってもよいです。」と答えたなら、イエス様は「よし、この人を癒やします」と言われたことでしょう。

さらに、彼らはもちろん「悪を行うのは良いです」または「命を失うのは良いです」と全く言えませんでした。

そのため、彼らはずっと沈黙を守り続けました。英語のことわざには真理があると思います。「Better to remain silent and be thought a fool than to speak and to remove all doubt.」

つまり、「黙っていることで周りの人々に愚か者だと思われる方が、言葉によってそれがはっきり知られるよりも良いです。」ということです。

ルカはイエス様が彼らの答えを待っていたと記していますが、マルコはさらに詳しい情報を教えてくれます。

イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆き[ました。] (マルコ3:5)

だから、イエス様は、彼らにもう一つの質問を投げかけられました。

あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。(マタイ12:11-12)

つまり、「あなたは自分の羊を助けるでしょう。どちらの方が大切でしょうか。羊でしょうか、人間でしょうか。もし、人間の方が大切であるなら、どうして私が安息日に人を癒やすと、あなたたちは私を責めるのでしょうか。」

こうして、イエス様はご自身の疑問に答えられました。

それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(マタイ12:12b)

そして、イエス様はその人を癒やされました。

この話には皮肉な点があります。イエス様は彼らに「安息日にしてよいのは、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と尋ねられました。

そのリーダーたちは、この出来事の後、イエスをどのようにして殺すかを相談し始めました。彼らは安息日にそのことを考え始めたのです。(マルコ3:6)

けれども、もう一つのことが私の心に深く響きます。

イエス様は彼らの頑なな心をご覧になり、嘆かれました。彼らの伝統と律法主義的な考え方によって心が固くなりすぎていたため、神様の言葉と真理がその心を貫くことはできませんでした。

彼らは心の中で、自分たちが間違っていることに気づいて、沈黙しました。それでも、自分たちの間違いを認めることはありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様に対して頑なな心を持っていませんか。

もしかすると、あなたの行動や思いが間違っているために、神様が語りかけておられるのかもしれません。そして、その言葉を通して、自分の誤りに気づき、変わらなければならないと示されることもあります。

それでもなお、自分の間違った考えや罪にしがみついてしまうでしょうか。もしそうなら、あなたは神様を悲しませてしまうことになります。

なぜなら、神様はあなたの最善を望んでおられるからです。けれども、罪によってあなたは神様だけでなく、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいます。

だから、あなたの心を開いてください。神様のみ言葉を受け入れてください。そして、私たちのために死なれたイエス様を悲しませることのないようにしましょう。むしろ、イエス様を喜ばせましょう。

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罪のない者たちを罪に定めはする?

以前の記事では、私たちは宗教的なリーダーたちが、イエス様が安息日を破ったと責めたことを見ました。しかし実際には、イエス様は神様の安息日に関する律法を破ったわけではありません。イエス様が破ったのは、彼らが作った余計なルールでした。

この箇所でも、イエス様は宗教的なリーダーたちと安息日について議論されます。イエス様とその弟子たちが麦畑を通っていた時、弟子たちはお腹が空いたため、穂を摘んで食べ始めました。

(その時代、それは合法的な行為でした。申命記23:25に記されています。)

けれども、パリサイ人の目には、穂を摘む行為は仕事と見なされました。そして、律法では安息日に仕事をしてはならないとされていました。

それに対して、イエス様は二つの理由を挙げてその考え方を否定されました。

一つ目は、祭司たちが安息日に働いていても、それが罪とは見なされなかったことです。

二つ目は、ある律法はほかの律法よりも優先されるべきだということです。つまり、命を守ることは安息日の律法よりも重要だということです。この点については、パリサイ人もある程度同意していました。

例えば、誰かが死にかけている場合、お医者さんはその人が次の日まで生き延びられるように治療を行い、その後、その人を完全に治療しました。

そして、もう一度、イエス様は預言者ホセアの言葉を引用されます。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

多くの人々は、神様の目にはルールを守ることが最も重要なことであると思っています。そして、彼らは神様が私たちを罰する機会を待っていると考えています。

けれども、実際には神様はルールを守ることよりも、人々自身を大切にされます。

パリサイ人はこのことを理解しておらず、神様の律法を守るために、たくさんの余計なルールを作り出しました。そして、その余計なルールを守らない人を見ると、パリサイ人はその人を責めました。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)

神様が立てられたルールはすべて正しいものです。それらのルールは、私たちの利益のために存在しています。

私たちはそのルールのために造られたのではありません。神様は、私たちを支配するためではなく、私たちを祝福するためにそのルールを作られました。

その原則を理解すれば、ルールの目的を正しく把握し、それを私たちの人生に適切に当てはめることができます。

、その原則を理解しなければ、パリサイ人のようにルールの本質が分からず、間違った方法で当てはめてしまうでしょう。それだけでなく、私たちは神様の目に無実の人を責めることになりかねません。

あなたはどうでしょうか。神様のルールをどのように考えているでしょうか。それらを余計なルールだと思っているでしょうか。

あるいは、それらのルールがあなたの利益のためだと理解しているでしょうか。そして、そのルールの背後にある理由を正しく理解しているでしょうか。

そのように理解すれば、無実の人を責めることはなくなるでしょう。

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神様があなたを用いるために

ユダヤ人の宗教的なリーダーたちは、しばしばバプテスマのヨハネをイエス様と比較し、ヨハネの弟子たちに嫉妬心を抱かせようとしました。そして、ヨハネの弟子たちは、たびたびその罠にかかってしまいました。

ヨハネ3章では、あるユダヤ人(おそらくユダヤ人のリーダー)がヨハネの弟子たちにこう言いました。「イエス様があなたたちよりも多くの人々にバプテスマを授けていることを知っていますか。」

この箇所では、宗教的なリーダーたちの言葉によって、ヨハネの弟子たちはイエス様に「どうして断食しないのですか」と質問します。

なぜパリサイ人や他の宗教的なリーダーたちは、いつもバプテスマのヨハネとイエス様を比べたのでしょうか。それは、ヨハネがイエス様の証人だったからかもしれません。

ヨハネはイエス様のために道を整えましたが、もしヨハネとその弟子たちがイエス様を批判し始めるなら、その証言は台無しになってしまったでしょう。

イエス様が結婚式の比喩を用いられたのは偶然ではないと思います。なぜなら、ヨハネ3章でバプテスマのヨハネも同じ比喩を用いたからです。その時、ヨハネは自分自身を花婿の友人と比較し、イエス様を花婿と比べました。

そのため、イエス様はヨハネの弟子たちにヨハネの言葉を思い起こさせようとされたのかもしれません。

その時、ヨハネは牢に入っていました。彼の役目は終わっていたのです。それでも、なぜかヨハネの弟子たちはイエス様に従おうとしませんでした。彼らはアンデレの模範に従うべきだったのです。(ヨハネ1:35-40)

イエス様は彼らにこう言われました。

「ヨハネは、あなたたちに私が花婿だと語りました。花婿と共にいる時に、どうして周りの人々が断食したり悲しんだりする必要があるでしょうか。花婿が取り去られる時には断食するのが良いでしょう。

とはいえ、その時はまだ来ていません。私はまだここにいるのです。私が去る時が来たなら、その時、断食し、祈りなさい。」

そして、イエス様はたとえ話を語られました。イエス様は皮袋と衣服の継ぎについて話されました。その時代の人々には、このたとえがよく理解されていましたが、現代の私たちには少し分かりにくいかもしれません。

少し考えてみてください。もし古いジーンズに穴が開いたなら、新しいデニムの継ぎでそのジーンズを修繕しますか?それではうまくいきません。そのジーンズを洗うと継ぎが縮んでしまい、ジーンズ全体が裂けてしまうからです。

現代では、私たちはワインをビンに保存します。けれども、その時代の人々はワインをヤギの皮袋に入れていました。そのワインが発酵すると皮袋は膨らみます。しかし、新しいワインを古い膨らんだ皮袋に入れると、その皮袋はすぐに裂けてしまうのです。

では、イエス様はヨハネの弟子たちに何を教えようとされたのでしょうか。

「神様は新しいことを始めています。私は神の子としてここに来ました。罪によって滅びかけている人々に手を差し伸べています。私は永遠の御国を築いています。

けれども、あなたたちは古い皮袋のようです。あなたたちが自分の伝統や古い方法を愛しすぎるために、神様はあなたたちを用いることができません。」

パリサイ人は律法を愛しました。彼らにとって最も重要なのは人を救うことではなく、律法を守ることでした。彼らは人々を救うよりも、いけにえを捧げたり宗教的な儀式を行うことに関心がありました。

ヨハネの弟子たちは自分の師をあまりにも愛しすぎて、ヨハネの目的を忘れてしまいました。

その目的は単に人々にバプテスマを授けることではありませんでした。その目的は単に悔い改めのメッセージを伝えることでもありませんでした。その目的は人々の心をイエス様のために準備することだったのです。

しかしヨハネが牢に入れられた時、彼らはイエス様の元へ行かず、神様が彼らに与えた目的を逸れてしまいました。

神様はイエス様のミニストリーを通して、新しいぶどう酒(つまり、聖霊の働き)を人々に注いでおられました。それでも、ヨハネの弟子たちはヨハネの教えと伝統的な修行に固執して、「古い物の方が良い」と言ったのです。(ルカ5:39)

あなたはどうでしょうか。あなたの人生に聖霊の働きを歓迎していますか。

それとも、伝統にしがみついているでしょうか。律法主義にしがみついているでしょうか。それとも、古い方法に固執しているでしょうか。その方法が以前は効果的だったかもしれませんが、今はそうではないかもしれません。

もし神様があなたを用いることを望んでいるなら、神様が何をしているのかを見て、その働きに参加する必要があります。そして、あなたの伝統や古い方法を手放す必要があるかもしれません。

あなたは古い皮袋でしょうか。それとも新しい皮袋でしょうか。

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憐れみを与える人

この箇所では、イエス様とその時代の宗教的なリーダーたちの大きな違いが見えてきます。

イエス様がマタイを選ばれたことで、マタイは本当に嬉しくなり、イエス様を宴会に招待しました。マタイは自分の友人たちも招きました。

もちろん、マタイがイスラエルでのけ者だったため、彼の友人たちは皆、のけ者でした。その友人たちには取税人や「罪人」と呼ばれる人々が含まれていました。

それでも、イエス様はためらうことなく宴会に来られ、マタイやその友人たちと一緒に食事をされました。

私たちはどれほどそのようなことをするでしょうか。どれほど、宗教的な人たちが拒絶した人々と付き合おうとするでしょうか。

もしかすると、マタイは悔い改めていたかもしれませんが、その友人たちはまだ悔い改めていなかったかもしれません。それでも、イエス様は彼らと時間を過ごされました。さらに、イエス様はその時間を心から楽しまれました。

では、宗教的なリーダーたちはどう反応したでしょうか。彼らは驚きました。

少し想像してみてください。もし有名な牧師がゲイの人たちと一緒に食事をし、飲んでいたら、ほかの牧師たちはどう反応するでしょうか。日本では分かりませんが、アメリカでは、おそらくその牧師を批判するでしょう。

パリサイ人も同じように反応しました。「いったいどうしてそんな人たちと遊ぶことができるのだろうか。彼らは最低な罪人なのに。」

しかし、イエス様はこう言われました。

医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)

つまり、私たちはこのような人たちとも関わらなくてはなりません。彼らは自分では気づいていないかもしれませんが、霊的に病んでいます。彼らにはお医者さんが必要なのです。

もし私たちが彼らを避けたら、彼らは自分の罪のゆえに滅びてしまうでしょう。

マタイがその場にいたため、彼はマルコやルカが記録していない一つのことを私たちに伝えてくれました。イエス様は、さらにもう一つのことを言われ、マタイはその言葉を一生忘れませんでした。

イエス様は、その宗教的なリーダーたちにこう言われたのです。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。(マタイ9:13)

つまり、「あなたたちは律法や自分たちの伝統に非常に熱心です。律法の細かい部分を守り、さまざまないけにえを捧げるために一生懸命努力しています。けれども、神様にとって、それが最も大切なことではありません。

神様が望んでおられるのは、あなたたちが憐れみを与える人になることです。

神様は、罪に縛られた人々を助ける人を求めておられるのです。あなたたちは、そのような人たちと時間を過ごすべきです。そのような人たちに福音を伝えるべきです。

しかし、あなたたちが彼らを避けている限り、彼らは救いの希望がないのです。

あなたはどうでしょうか。罪人を避けているでしょうか。彼らの罪のゆえに、彼らを見下しているでしょうか。

それとも、イエス様の態度を見習い、彼らを医者を必要とする病める人々とみなし、救い主を必要としている人々だと考えるでしょうか。

毎日、私たちは周りの人々に憐れみを示しましょう。神様はそのような人々を望んでおられるからです。

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救われる希望がない?

私はこの箇所が大好きです。なぜなら、この箇所から私たちは重要なことを学べるからです。つまり、たとえ私たちがどんなに堕落していても、神様は私たちを救おうとしてくださるのです。

ある日、イエス様は収税所に近づき、マタイという取税人をご覧になりました。マタイがイエス様を見たとき、彼は心の中で何を考えたのでしょうか。

私には分かりませんが、多分、彼は深い後悔の念を抱いていたことでしょう。彼は数年前、自分の魂を売るような選択をしてしまったからです。

イスラエル人は取税人を非常に嫌っていました。収税人はローマ帝国のために税金を徴収していたため、彼らは敵に協力する者と見なされていました。

さらに、彼らはローマ帝国が要求する税額以上のお金をイスラエル人同士から取り上げ、その余分な金を自分のポケットに入れていました。

どうしてマタイがその道を選んだのかは分かりません。しかし、多分、時間が経つにつれて、そのお金の価値は彼の中で失われていったのでしょう。つまり、彼が何を買っても満足できず、ますます惨めになったのです。

マタイはイエス様を見ると、多分イエス様について行った群衆を羨ましいと思ったかもしれません。彼もまた、イエス様について行きたかったのではないでしょうか。

彼はイエス様の教えを耳にし、イエス様が行われた奇跡についても聞いていました。そして、イエス様に従えば、その惨めな人生から救われると思ったのかもしれません。

けれども、多分彼はこうも考えたでしょう。「それは無理だ。私はもうだめだ。イエス様は決して私のような者を弟子として受け入れないだろう。」

ところが、突然イエス様は、マタイが座っている収税所の前で立ち止まられました。そして、イエス様はマタイに目を留められました。マタイがイエス様の目を見ると、多分、自分の心のすべてが見透かされたと感じて恥ずかしくなり、頭をうなだれたことでしょう。

でも、イエス様は「マタイ」と名前を呼ばれました。

マタイが再びイエス様の目を見ると、その中に叱責は見えませんでした。むしろ、慈悲がありました。赦しがありました。

そして、イエス様はこう言われました。「私について来なさい。」

それはとても単純な言葉です。「私について来なさい。」

でも、その言葉には、深い意味がありました。「あなたにとって、遅すぎることはありません。私はあなたを赦します。あなたには希望があります。救いがあります。私について来なさい。」

だから、マタイはすべてを捨てて、イエス様について行きました。もちろん、彼の心の中にはまだ罪が残っていました。けれども、その日、彼は新しい人生に踏み出しました。

あなたはどうでしょうか。あなたに救われる希望はないと思いますか。自分がもうだめだから、神様があなたをあきらめたと思いますか。

神様は決してあなたをあきらめていません。神様は今でもあなたを愛しておられます。神様は慈悲深い目であなたを見ておられます。そして、赦しと哀れみをあなたに与えてくださいます。

あなたが神様に従うことを決心し、踏み出すなら、神様はあなたを受け入れてくださいます。

もちろん、人生が急にすべて変わるわけではありません。それは時間が必要です。

マタイのように、あなたが一晩で完璧になることはありません。時には罪と戦い、時には失敗することもあるでしょう。

しかし、あなたが「イエス様、あなたに従いたいです。私の主になってください」と祈るなら、イエス様はあなたに新しい心を与えてくださいます。そして、イエス様があなたの心を変え始め、やがてあなたの行動も変わり始めます。

あなたは、その新しい人生に踏み出す決心をしませんか。

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赦しの権威

イエス様は誰でしょうか。ただの偉い宗教的なリーダーだったのでしょうか。ただの良い人だったのでしょうか。それとも、奇跡を行う人だったのでしょうか。いや、イエス様はそれらをはるかに超えたお方だったのです。

この箇所を通して、私たちはイエス様がそうしたお方であることを理解できます。イエス様はカペナウムに戻られました。(その頃、イエス様の家はカペナウムにありました。(マタイ4:13))

この話では、イエス様がその日ご自分の家におられたかは定かではありませんが、イエス様がおられた家は人々でいっぱいでした。おそらく、窓の外からも大勢の人が覗き込み、イエス様の言葉を聞こうとしたのでしょう。

そして、四人の人たちが足が不自由な友達をその家に連れて行き、癒しを求めました。けれども、人があまりにも多く、家の中に入ることができませんでした。

そこで彼らは工夫して、クリエイティブな方法を考えました。彼らは屋根をはがし、穴を開け、その穴から友達を寝かせたまま床に吊り下ろしました。

そのシーンを想像してみてください。イエス様が教えている最中、突然屋根から奇妙な音がし始めます。

そして、急に屋根の破片が落ちてきて、人々は逃げようとしましたが、家が人でいっぱいだったため、逃げるのが難しい状況でした。

結局、人々は家から出て、スペースを空けました。当然ながら、イエス様の説教は中断されました。そして、皆は何が起こるのか気になり、じっと見守っていました。

やがて、足が不自由なその人がイエス様の足下に運ばれてきました。多分、皆はイエス様がその人をすぐに癒やすと期待していたでしょう。ところが、イエス様は意外なことを言われました。

子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。(マタイ9:2)

多分、その落ちた屋根の破片よりも、その言葉がさらに強い衝撃を与えたことでしょう。皆は静まり返りました。そして、パリサイ人と律法の学者が、皆の心に浮かんだ思いを代弁しました。

神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。(ルカ5:21)

つまり、「イエス様には罪を赦す権威がないでしょう。神様だけが罪を赦すことができます。」

彼らの言うことの半分は確かに正しいことでした。

もちろん、罪を赦すことができるのは神様だけです。傷つけられた方だけが、相手を赦すことができるのです。

しかし、彼らが理解していなかったのは、神様ご自身が彼らの間に立っておられたということです。イエス様は神なので、罪を赦す権威をお持ちです。

そして、イエス様はその人の癒やしを通して、その赦す権威を明確に示されました。

イエス様は、ただの宗教的なリーダーではありません。ただの良い人でもありません。また、ただの奇跡を行う人でもありません。イエス様において、神様は人間となられたのです。

イエス様はこの世に来られ、私たちと共におられました。そしてその後、私たちの罪のために十字架で死なれました。その御業を通して、神様は私たちの罪を赦すことができるのです。

イエス様は、その人を赦し救われたように、あなたをも赦し救ってくださいます。あなたがイエス様に祈るなら、必ず応えてくださいます。

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イエス様について行くように呼ばれた

しばらく聖書の部分を飛ばしてしまっていたので、今日はその箇所に戻りたいと思います。実は、これは非常に重要な箇所です。この箇所では、イエス様が初めて弟子たちを招かれました。

以前にもお話ししましたが、福音の出来事を年代順に進めようとしています。とはいえ、時にはその順番を推測しなくてはならない場合があります。

おそらく、このルカの箇所の出来事が最初に起こり、その2~3日後にマルコとマタイの出来事が起こったのだと思われます。

ある日、イエス様は群衆を教えようとされました。けれども、群衆がイエス様に押し迫ってきたため、イエス様はペテロとその仲間の船をご覧になり、すぐにその船に乗られ、彼らに陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。そしてイエス様は、その船から群衆に教えられました。

ペテロとその仲間たちが進んでイエス様を助けたかどうかは分かりません。彼らは徹夜で漁をしていましたが、何も獲れませんでした。イエス様が彼らを呼ばれたとき、彼らは網を洗っているところでした。

おそらく彼らは、網を洗い終えたら帰ってすぐに眠ろうと思っていたのではないでしょうか。それでも彼らはイエス様を助けました。

その後、イエス様が教え終えられると、ペテロとその仲間に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。

ペテロにとってそれは限界でした。彼は疲れ果てており、これ以上漁をしたいとは思っていませんでした。さらに、経験豊富な漁師である彼にとって、大工であるイエス様からの漁についての指示を受けるのは気が進まなかったのではないでしょうか。

それでも、ペテロはこう答えました。

先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。(ルカ5:5)

おそらく、イエス様はその言葉を聞いた時、何も言われずに、ただペテロをじっと見つめて待っておられたのでしょう。そうしている間に、結局ペテロは口ごもりながら言いました。

でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。(ルカ5:5)

だから、ペテロとその仲間たちは恥ずかしさを感じながら漁に出ました。なぜ彼らが恥ずかしかったのでしょうか。それは、誰も昼間に漁をすることがなかったからです。魚がいるはずがないと考えられていたためです。

おそらく、他の船に乗っている友人たちは笑ったかもしれません。「ペテロは愚かだね。なぜその大工の言葉に従うんだろう」と思った可能性もあります。

しかし、ペテロたちが網を下ろした時、大量の魚が網にかかりました。魚が多すぎたため、ペテロは他の船の友人たちを呼んで助けを求めました。それでも魚はあまりにも多く、二つの船が沈みそうになりました。

最初のうち、ペテロは大いに興奮したことでしょう。けれども、すぐに彼は自分たちの目の前で何が起こったのかを実感しました。そして、イエス様が普通の先生ではないことを悟りました。だから、ペテロはイエス様の足もとにひれ伏し、大声で言いました。

主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。(ルカ5:8)

でも、イエス様はこのように答えられました。

こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。(10)

これはあくまで私の推測ですが、もしかすると、ルカは話を少し簡潔にまとめたのかもしれません。そしてその後、皆が自宅に戻った可能性があります。

おそらく、イエス様は彼らにその日体験したことやご自分の言葉を深く考えてほしいと思われたのではないでしょうか。

そして翌朝、ペテロとアンデレが漁をしているのを見られた時、またヤコブとヨハネが網を繕っているのを見られた時、イエス様は改めて彼らを招かれました。

わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。(マタイ4:19)

その時、彼らはすべてを捨てて、イエス様に従い始めました。

この話から、私たちはどんな教訓を学べるでしょうか。

まず第一に、イエス様の恵みがペテロの失敗と罪を覆ったように、その恵みは私たちの失敗と罪も覆います。イエス様はペテロの罪を責めることはせず、むしろ新しい人生を始めるようにペテロを招かれました。

第二に、イエス様に従うために特別な資格は必要ありません。神学校に行く必要もありません。ペテロとその仲間たちは特別な教育を受けていませんでした。それでも、イエス様は彼らを弟子として招かれました。

第三に、最も重要なのは、イエス様を信頼し、イエス様の言葉に従うことです。たとえイエス様の言葉を完全に理解できなくても、「あなたがお命じになるので、私は従います」という信仰と従順の態度を取るべきです。

また、イエス様に従うために、私たちが愛するものを喜んで手放す態度を持つべきです。

最後に、イエス様の弟子として、イエス様の働きに参加する姿勢を持つべきです。つまり、人々を神様の御国へ導くことです。

あなたはペテロとその仲間たちの模範に従いますか。イエス様からの召しに応えますか。

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私たちを清める方

この箇所を読むと、イエス様の慈悲深さに私は感動します。ツァラアトに冒された人がイエス様のもとに来て、こう願い求めました。

主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。(マタイ8:2)

その時代、ツァラアトに冒された人々は社会から完全に疎外されていました。彼らは自分の家を出て、他の人々から距離を置かなければなりませんでした。

もし誰かが近づいてきた場合、その人は「私は不潔です。近づいてはならない」と叫ばなければならなかったのです。

彼らの人生は、本当に孤独で惨めでした。交わることができる相手は、他のツァラアトに冒された人々だけでした。

しかし、この男性はイエス様のことを聞いたとき、再び希望を感じました。彼はイエス様に近づいて、癒しを願い求めました。

おそらくイエス様は、彼が期待した以上のことを行われました。イエス様は遠くから癒すのではなく、直接彼に触れて癒されたのです。

ユダヤ人の律法によれば、ツァラアトに冒された人に触れると、触れた者も一時的に「不潔」とされました。それに加えて、その病気に感染する可能性もありました。

この男性にとって、数年ぶりに誰かが自分に触れた瞬間だったかもしれません。それは彼にとって、驚きと深い感動をもたらしたことでしょう。

私はその感覚を少し理解することができます。日本人は、アメリカ人ほどハグをしません。私は日本に住んで20年以上経つので、友達にハグされると、今でも少し驚いてしまいます。

そのように、人々はツァラアトに冒された人に触れるのを恐れました。不潔になることを避けたかったからです。

けれども、イエス様がその人に触れたとき、イエス様ご自身は不潔とはならず、むしろ相手を清められました。

同じように、イエス様が私たちを見るとき、私たちの罪によって不潔な状態を見ておられることでしょう。私たちは罪の泥から抜け出すことができず、自己救済も不可能でした。

だからこそ、ツァラアトに冒された人のように、「主よ、お心一つで私をきよくしてください」と願うしかありません。

その願いに応えて、イエス様は手を差し伸べてくださり、私たちに触れ、癒してくださいます。

イエス様がその人の病を癒されたのであれば、私たちの魂を癒してくださらないということがあるでしょうか。

あなたは自分の罪に縛られているでしょうか。あなたは不潔な状態で、自己救済できないでしょうか。

イエス様のみ前に進んでください。イエス様の助けと赦しを心から願い求めてください。そうすれば、あなたは癒されるでしょう。

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英気を養い、焦点を合わせ直す

イエス様は、ミニストリーを始めたとき、可能な限り多くの人々に触れ、天の父の心に従って歩まれました。

それでも、イエス様は決して燃え尽きることはありませんでした。

私自身、燃え尽きた経験がありますが、それは決して楽しいものではありませんでした。けれども、イエス様は一度もそのような状態にはなられませんでした。

群衆に触れ続け、自分の弟子たちを訓練される中で、燃え尽きるのは容易であったはずなのに、イエス様が燃え尽きることがなかったのはなぜでしょうか。

その答えは、この箇所に隠されていると思います。

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

イエス様は神でしたが、ご自身の力と知恵に頼られることはありませんでした。むしろ、イエス様は完全に天の父に頼られました。

また、イエス様が群衆から離れたとき、彼は英気を養い、自分の焦点を新たにされました。けれども、それは具体的にどういう意味なのでしょうか。

そのとき、イエス様は天の父がご自身を愛しておられることを思い出されました。また、天の父がご自身に何を望んでおられるのかを思い起こされたのです。

多くの人々は、しばしばイエス様の時間を取ろうとしました。ルカはこう記しています。

朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。(ルカ4:42)

でも、イエス様が彼らの要求に譲らない時もありました。むしろ、イエス様は天の父の御声に聞き従いました。だから、イエス様は群衆にこう言われました:

ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。(43)

私の経験では、ミニストリーで燃え尽きる原因は二つあると思います。

一つ目は、その人がいつも他の人々に与えるばかりで、何も受け取らないことです。特に、彼らは天の父から何も受け取っていません。

しかし、それは天の父が自分の愛を与えたくないからではありません。むしろ、彼らが神様を十分に求めず、神様との時間を過ごしていないことが原因です。

結果として、彼らの心は神様の愛で満たされることなく、ほとんど空のガスタンクで走ろうとしています。

だからこそ、ミニストリーが困難に直面する時(どんなミニストリーでも、そんな時は必ず訪れるでしょう)、彼らは尽き果ててしまいます。なぜなら、彼らは神様からではなく、ミニストリーそのものからエネルギーを得ようとするからです。

そのミニストリーが必要なエネルギーを与えない場合、彼らは燃え尽きてしまいます。

二つ目の原因は、神様が彼らに求める以上のことをしようとすることです。つまり、周りの人々から頼まれたことを断ることができず、神様が求めていない重荷を背負ってしまう場合です。

彼らは「誰かがその重荷を担わなくてはならない」と考え、その結果、その重荷に押しつぶされてしまいます。

だからこそ、毎日神様との時間を過ごすことが本当に重要です。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直す必要があります。

具体的には、神様につながり、神様から必要な愛とエネルギーを受け取ることが大切です。

また、他者からの要求を慎重に評価し、その要求が神様の御心に沿っているかを判断することも必要です。

さらに、周りの人々のニーズに気づいても、それが自分が満たさなければならないニーズであるかどうかを識別することが重要です。

これらを怠ると、燃え尽きてしまう可能性が高くなります。

あなた自身はどうでしょうか。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直していますか。

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私たちを癒やしてくださる方

この箇所では、私たちはイエス様の癒やしの働きを垣間見ることができます。

イエス様がペテロの家を訪ねられた際、ペテロの義理のお母さんを癒してくださいました。おそらくイエス様は初めて安息日に人を癒されましたが、人前では行わなかったため、非難を受けませんでした。

さて、ここでひとつの質問が思い浮かびます。

前回の話では、イエス様が安息日に悪霊をある人から追い出されました。もしその会堂にパリサイ人たちがいたら、イエス様を責めたでしょうか。もしかしたら彼らは、「おい、それはだめだ。別の日に悪霊を追い出しなさい」と言ったかもしれません。

いずれにせよ、この日はイエス様が責められることはありませんでした。安息日が終わると、多くの人が癒しを求めてペテロの家を訪ねてきました。そして、イエス様は皆を癒してくださいました。

マタイはその癒やしについて、こう記しています。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)

少し注意が必要です。マタイによれば、イエス様はこの世にいる間、その預言を成就されました。しかし、現在では癒やしの約束はありません。

もちろん、イエス様は今でも人々を癒やすことがおできになりますが、私たちを必ず癒やしてくださるという保証はありません。

さて、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、イエス様の哀れみについてです。イエス様は群衆を愛されましたが、たった一人の女性に対しても愛を示されました。私たちはペテロの義理のお母さんの名前を知りません。それでもイエス様は彼女を癒してくださいました。

あなたはこの世でごく普通の人かもしれません。周りの人々があなたの名前を知らないかもしれません。けれども、イエス様はあなたの名前をよくご存じです。そして、あなたが苦しんでいるとき、イエス様はあなたを見て、あなたを愛してくださいます。

以前も言ったように、神様は私たちを癒やすことを約束されていません。時には神様の見えない計画の一環として、私たちは癒されないこともあります。それでも、イエス様は「私に祈り、頼みなさい」と言われるので、祈り求めるべきです。

とはいえ、もしあなたが感情的な傷を持っているなら、イエス様はその傷をきっと癒してくださると思います。

イエス様が肉体的な病気を通して神様の栄光を現されることはあるでしょう。

しかし、神様はあなたが感情的な重荷を持ち続けることを望んでおられません。だからこそ、その重荷をイエス様の足元に置いてください。そうすれば、癒やしを体験することができます。

この箇所から、もう一つ心に響くことがあります。それは、ペテロの義理のお母さんが癒やされた後、すぐにイエス様に仕えることを始められたことです。

私たちもそのようにするべきです。もしイエス様が私たちを病気や感情的な傷、罪からの傷から癒してくださるなら、私たちが愛と感謝を持ってイエス様に仕えることはふさわしいでしょう。それは義務ではなく、愛に満ちた心からの奉仕です。

多くの場合、神様は私たちが経験した困難を持つ人々を私たちのもとへ導いてくださいます。

イエス様が私たちを癒してくださる理由の一つは、その癒しを周りの人々にも分かち合うためです。

さて、あなた自身はどうでしょうか。その癒しをあなたの周りの人々に分かち合っていますか。

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権威

イエス様はほかの宗教を始めたリーダーたちとどう違うでしょうか。もちろん多くの違いがありますが、一番重要な違いは、イエス様が神であり、ご自身の復活によってそのことを証明されたということです。

ほかの偉大なリーダーたちはすでに死んでしまいました。だからこそ、彼らが神ではないことは明白です。

けれども、この箇所では、私たちはさらにもう一つの違いを見ることができます。それは、イエス様が真の権威を持っておられるということです。

ユダヤ人たちはイエス様の教えを聞いたとき、そのことをすぐに理解しました。

ほかの教師たちが聖書について教えるとき、彼らはいつもこう言いました。「誰々先生はこの箇所についてこう言っています。」また、「誰々先生によれば、この言葉はこういう意味です。」

イエス様は決してそのような言い方はされませんでした。むしろ、イエス様はいつもこう言われました。「まことに、まことに、私はあなたがたに告げます。」

ユダヤ人たちはそれを聞いて驚きました。「この方は権威を持っているかのように話されます。彼は教えられることについて、本当に自信を持っているようです。」

聖書を教える者として、私も驚いたことでしょう。もちろん、私は懸命に学び、神様に知恵を求めて祈りますが、イエス様の権威のほんの一部しか持っていません。イエス様の教えを直接聞くことは、素晴らしい経験だったに違いありません。

そして、会堂でイエス様はある人から悪霊を追い出し、その権威を証明されました。その結果、イスラエル全土でイエス様に関する噂がまるで山火事のように広がりました。

では、この話は私たちとどう関係があるのでしょうか。

私たちは自分自身にこのような質問をしなければなりません。「イエス様は本当に特別な権威を持って話されたのだろうか。それとも、彼の意見と私の意見は同じ権威を持っているのだろうか。」

多くのクリスチャンは口ではイエス様の権威を認めていますが、その言葉には従いません。イエス様の言葉は理想的だと認めながらも、イエス様は実生活について理解していなかったと思う人もいます。

また、イエス様の言葉に従いたくないクリスチャンもいます。彼らは自分の道を選びたいと思っているからです。

しかし、もし私たちがイエス様を「主」と呼ぶのなら、そうした考え方を捨てなければなりません。また、そのような生き方をも捨てる必要があります。

イエス様はこう言われました。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

「主よ、それをしたくない。」という言葉は、矛盾した言葉です。

あなたはどうでしょうか。本当にイエス様の権威を受け入れますか。

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イエス様を受け入れる人には

この箇所を読むと、私はヨハネ1:11-12を思い起こします。

この方(つまり、イエス様)はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

このルカの箇所では、イエス様は出身地であるナザレに帰り、長く知り合いだった人々に会われました。彼らはイエス様とその家族をよく知っていました。イエス様はきっとその町の会堂に何度も通われていたことでしょう。

ところが、イエス様が彼らに教えられたとき、彼らはイエス様を受け入れませんでした。むしろ、イエス様を拒絶して、殺そうとしました。

それでも、イエス様の教えは明確です。イエス様を受け入れる者は、神の子供とされる特権を受けます。

イエス様が引用された箇所(イザヤ書61章)には、イスラエル人の敵に対する神様の復讐について書かれています。それにもかかわらず、神様の恵みは神様を信じるすべての人のためのものです。

だからこそ、イエス様は、異邦人サレプタのやもめ女と、シリヤ人ナアマンがどのようにして恵みを受けたかを語られました。

さらに、イエス様は信じる者たちに良い知らせを伝えられました。特に、貧しい者や弱い者にも良い知らせを伝えられました。

ただし、イエス様が語られたのはお金のない人や病気の人だけではありませんでした。心の貧しい者や、神様との関係が必要であることに気付いた人々にも、良い知らせを伝えられました。

その良い知らせとは、恵みによって私たちが神様との関係を築けるということです。

また、イエス様は罪の鎖に縛られた人々を解放し、赦されます。それに、イエス様は過去の傷の鎖に縛られた人々を解放し、癒してくださいます。

イエス様は盲人を癒されただけではなく、サタンによって思いを暗くされた人々の霊的な目を開かれました。それにより、彼らは福音の光と希望を見ることができるようになりました。

さらに、イエス様は悪霊によって抑圧された人々を解放し、イエス様の血による大いなる勝利を与えてくださいます。

それに、イエス様は今、主の恵みを伝えておられます。

この箇所では、イエス様はおそらくヨベルの年を参照されたのでしょう。その年、奴隷は解放され、負債は許され、負債を支払うために売った土地は元の地主に戻りました。つまり、人々は新しいスタートを与えられたのです。

イエス様はそのためにこの世に来られました。私たちに新しいスタートを与えるために来られたのです。また、新しい神様との関係を与えるために来られました。

さらに、ヨハネが言ったように、その賜物は信じる人々すべてのためのものです。

あなたはどうですか。イエス様に信頼を寄せてみませんか。

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暗闇の中の光

前回の記事で、私はこう問いかけました。「どうして神様はバプテスマのヨハネが牢に閉じ込められることを許されたのでしょうか。」

私には分かりませんが、ひょっとすると一つの理由は、イスラエル人がヨハネではなく、イエス様に焦点を当てるためだったのかもしれません。

ヨハネが牢に閉じ込められた後、イエス様はガリラヤに戻り、そのミニストリーを始められました。マタイによれば、イエス様はこのイザヤの予言を成就されました。

ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。

暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:15-16)

パリサイ人がこの箇所を忘れ、イエス様の背景を侮るとは、私には信じられません。(ヨハネ7:52)

この箇所では、私たちはイエス様の目的の一つを知ることができます。私たちは暗闇の中にいました。つまり、私たちは自分の罪のために神様から離れ、死刑囚だったのです。

しかし、イエス様によって光が上がりました。イエス様は天の父への道を示してくださったので、希望が現れました。イエス様はこう宣言されました。

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

それは私たちへのメッセージです。王が来ました。神の王国は近づいています。今、イエス様は信者の心の中で働いておられます。そして、将来、イエス様はご自身の物理的な王国をこの世に設立されます。

だから、私たちは悔い改める必要があります。というのは、私たちは神様の道に戻らなくてはなりません。私たちの考え方を変えなくてはなりません。自分のために生きるのではなく、神様のために生きなくてはなりません。

また、私たちの神様に対する不信を捨てて、心から神様を信頼する必要があります。

もちろん、一番大切なのは、イエス様に関する良い知らせを信じる必要があるということです。つまり、神様は私たちのように人間になられました。そして、イエス様は十字架で私たちのために死なれ、三日目によみがえられました。

そして、私たちがイエス様を私たちの救い主と主として信じるなら、私たちは地獄から救われます。

それがイエス様が伝えられたメッセージです。

だから、この二つの質問について考えてみてましょう。

1.あなたはイエス様を信じるようになりましたか。

2.あなたがクリスチャンなら、そのメッセージを周りの人々に伝えていますか。

あなたはどう答えますか。