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ルカの福音書 ルカ17章

急な裁き、確実な裁き

パリサイ人たちに神の国について語られた後、イエス様は弟子たちに警告されました。それは、非常に困難な時が訪れるということです。

その時、彼らはイエス様の再臨を切に願い、イエス様が帰られたという噂を聞けば、それを信じてしまうかもしれません。けれども、イエス様はご自身の再臨について、いくつかの重要なことをはっきりと教えられました。

第一に、イエス様が帰って来られるとき、それを誰も見逃すことはできないということです。イエス様はこう言われました。

いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。(ルカの福音書17:324)

第二に、イエス様は突然現れます。

その日は、普段と変わらない一日として始まります。人々はいつものように、食べたり、飲んだり、結婚したり、買ったり、売ったり、植えたり、建てたりするでしょう。ところが、突如としてイエス様が来られ、裁きが始まるのです。

第三に、義人は死に至る裁きを経験することはありません。イエス様はこう言われました。

ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。(29-30)

注目してください。ロトがソドムを出て行ったとき、裁きが訪れました。同じように、イエス様が来られるとき、義人が悪者から分けられたあとで、裁きが下ります。

第四のポイントは、イエス様が来られるとき、もしあなたが神様との関係を持っていなければ、あなたは裁かれるということです。あなたの友人や、妻、夫、親族が素晴らしいクリスチャンであったとしても、その関係があなたを救うことはできません。

だから、イエス様はこう言われました。

あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。

女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。(34-35)

最後のポイントは、裁きが確実であるということです。イエス様はこの教えを次の言葉で締めくくられました。

死体のある所、そこに、はげたかも集まります。(37)

死体があれば、はげたかが集まるのは確かです。同じように、霊的に死んだ者がいれば、裁きが下るのは確実です。

だから、あなたは自分自身に問いかけなければなりません。あなたは準備ができていますか。あなたの心は整っていますか。あなたはこの世のものに執着していますか。それとも、神様を愛しているでしょうか。

裁きの日には、あなたの心の隠されたものが明らかになります。

イエス様が来られると、イエス様を愛している人々は喜んで迎えます。

しかし、この世のものに執着する人々は、持ち物を失うことを恐れるでしょう。

だからこそ、イエス様は弟子たちに警告されました。

ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(32-33)

神様がソドムを裁かれたとき、ロトの妻はソドムでの生活に執着し、後ろを振り返りました。結果として、彼女も裁かれることになりました。

もしあなたがこの世のものに執着するなら、イエス様が来られるとき、あなたも裁かれることになるでしょう。

あなたの心のあり方はどうでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

神様の御国を見るため

この箇所で、パリサイ人たちはイエス様に、神の国がいつ来るのかを尋ねました。

もしかすると、彼らの意図は、「あなたは本当にメシアなのですか?もしそうなら、私たちにしるしを示してください」ということだったのかもしれません。

しかし、いつものように、イエス様は批判者に対してしるしを与えることを拒まれました。むしろ、イエス様はこう答えられました。

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。

いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカの福音書17:320-21)

イエス様は何を意味されたのでしょうか。「あなたたちは神の国のしるしを求めすぎて、その到来をすでに目の前で見ながらも認識できていません。」

つまり、「あなたの王はすでに来ています。その王はあなたがたの間で御国の業を行っています。それを目の当たりにしているのに、なぜなおもしるしを求めるのですか。」ということです。

パリサイ人たちは、神様が何をしているのかを見ることができませんでした。とはいえ、あなたはどうでしょうか。

神様はあなたの周りの人々の心の中で働いています。神様は彼らの人生を変えたいと願っておられます。そして、神様はあなたを通して彼らに触れたいと願っておられます。

けれども、あなたは自分の人生に気を取られすぎて、神様が何をしているのか気づけていないでしょうか。

あるいは、聖書に書かれた預言に強い関心を持ち、イエス様がいつ再臨されるのかばかりを気にしすぎるあまり、神様があなたの周囲でどのように働いておられるのかを見失ってはいないでしょうか。

もちろん、聖書の預言は重要です。けれども、もし神様の働きを見失っているなら、私たちの視点はゆがんでおり、神様は私たちを御国の働きのために用いることができません。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りで神様がどのように働いておられるのかを見ているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

感謝

この箇所では、10人のツァラアトに冒された人々は一緒にイエス様の所に行きます。

もちろんツァラアトはつらい病気でしたけど、一つの良い点がありました。ツァラアトに冒された人々の間では、普段存在する壁は崩れました。

普通は、ユダヤ人とサマリヤ人は互いに憎み合いました。でも、その十人は病気のせいで、自分の民の間でのけ者になりました。だから、彼らがわっかったのは、彼ら皆がただの人間で、ユダヤ人とサマリヤ人には大差がないことです。

私たちもそのことを学ぶべきです。つまり、パウロはこう教えました。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず。。。(ローマ3:23)

私たちにどんな宗教的な背景があっても、どんな文化的な背景があっても、私たち皆は同じです。つまり、私たち皆は罪人です。そして、イエス様が私たちに触れてくれないと、私たちは死ぬとき永遠に神様から離れます。私たちの罪のせいで、私たちはのけ者になりましたから。

おまけに、その10人のように、私たちは自分自身を救うために何もできません。

その時代、ツァラアトの治療がなかったので、ツァラアトに冒された人は、何もできませんでした。

そのツァラアトに冒される人のように、私たちは一つのことしかできません。それは、神様様の憐れみを願うことです。

その十人はイエス様にこう叫びました。

イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。(ルカの福音書17:13)

イエス様は彼らを憐れんで、癒してくださいました。でも、彼らは信仰が必要でした。イエス様はその場で彼らを癒してくださいませんでした。むしろ、イエス様は彼らにこう言いました。

行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。(14)

そして、彼らは行く途中で癒されました。

このように、私たちがイエス様に信仰を置くときにのみ、私たちの罪は清められるのです。

彼らは自分が癒されたことを知ると、大喜びしました。ところが、サマリヤ人だけがイエス様のもとへ戻り、イエス様に感謝を捧げました。

イエス様はそれをご覧になり、こう尋ねられました。

十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。(17-18)

イエス様は、私たちについてどれほど同じことを言われるでしょうか。私たちの罪を清めるために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様の恵みによって、私たちは永遠の死から救われました。

しかし、私たちはその救いをどれほど当たり前のものとして受け止めているでしょうか。

私はただ感謝の言葉について話しているのではありません。私たちの行動は、どれほどイエス様への感謝を表しているでしょうか。

イエス様は愛と恵みを私たちの人生に注いでくださいましたが、私たちはそれをただ享受しているだけでしょうか。それとも、その愛と恵みが私たちを通して周囲の人々に届いているでしょうか。私たちの人生は神様に栄光を帰しているでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生はイエス様への感謝を映し出しているでしょうか。

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ルカの福音書 ルカ17章

私たちの奉仕の姿勢

私たちは皆、褒められるのが好きです。誰かが「よくできたね」と言ってくれると、私たちはとても嬉しくなります。

しかし、それが私たちが奉仕する理由でしょうか。私たちは人からの称賛を求めているのでしょうか。それとも、神様の称賛を求めているのでしょうか。

もし人から称賛を得られなかったとき、私たちは正当に評価されていないと感じるでしょうか。怒りを覚えるでしょうか。

イエス様は、このことについて、とても興味深い描写を与えてくださいます。

ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。

かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。

しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。

あなたがたもそのとおりです。

自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。(ルカの福音書17:37-10)

イエス様の意味されたことは何でしょうか。神様は私たちの努力を正当に評価されないのでしょうか。神様は私たちに報いを与えてくださらないのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

聖書のほかの箇所によれば、神様は私たちの働きと努力を評価し、やがて報いを与えてくださいます。

とはいえ、私たちが覚えておくべき重要なことが二つあります。

一つ目は、私たちがこの世に生きている限り、果たすべき使命があるということです。自分の成功を祝って怠ける余裕はありません。さらに、人からの称賛を求める余裕もありません。むしろ、神様から委ねられた働きを忠実に続けなければなりません。

二つ目は、私たちがどんな役割を持っていようとも、神の国でどんな立場にあろうとも、私たちはただ神様の恵みによって仕えるのだということです。

私たちは神様から報いを受けるに値しません。もちろん、救いにも値しません。

実際には、私たちの欠点や弱さ、失敗にかかわらず、神様が私たちを用いてくださることこそが恵みなのです。

さらに、私たちが仕えることができるように、神様はいろいろな才能や賜物を与えてくださいます。神様は私たちに力と知恵を授けてくださいます。

それなら、それらの賜物をすべて受け取ったとき、私たちは誇ることができるでしょうか。

パウロはこう書きました。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(第一コリント4:7)

だから、私たちが生きている限り、神様から委ねられた働きを続けましょう。謙遜に、忠実に。

そして、仕えるときには、なぜ私たちが仕えることができるのかを覚えておきましょう。つまり、神様の恵みを心に留めておきましょう。

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ルカの福音書 ルカ17章

赦し

この箇所で、イエス様は赦しについて語られています。けれども、その言葉は非常に厳しいものです。イエス様はこう言われました。

もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。(ルカの福音書17:3)

相手があなたを傷つけたとしても、いつまでも怒りを抱いていてはいけません。イエス様は私たちに「その人と直接話し合いなさい」と命じられました。

もちろん、感情を整理するために、少し時間を置くことは必要かもしれません。それでも、怒りを長く溜め込むのはよくありません。そしてイエス様は、「相手が悔い改めれば、赦しなさい」と教えられました。

しかし、イエス様はさらに語られます。

かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます」と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。(4)

これは単なる助言ではありません。イエス様は、「もし相手が謝るなら、赦すことを少し考えた方がいいかもしれない」と言われたのではありません。

イエス様は私たちに命じられました。「赦しなさい。」

弟子たちはどのように反応したでしょうか。

私たちの信仰を増してください。(5)

私たちの多くは、そのように考えるでしょう。

「主よ。私の傷はとても深いのです。私が赦せるかどうかわかりません。私たちが相手を赦せるように、私の信仰を増してください。」

イエス様は弟子たちに、また私たちにこう答えられました。

もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、「根こそぎ海の中に植われ」と言えば、言いつけどおりになるのです。(6)

つまり、どれほど深い傷を抱えていても、その根は引き抜くことができるのです。そして、たくさんの信仰を持つ必要はありません。

あなたがどれくらいの信仰を持っているかは、それほど重要ではありません。

本当に大切なのは、あなたが誰を信じるかということです。イエス様は偉大な癒し主です。どんな傷を負っていたとしても、イエス様はあなたを癒すことができます。

だから、自分を変えようとする強い意志があるかどうかは問題ではありません。

実は、神様の戒め自体に、私たちを変える力はありません。私たちは自分の心を変える力を持っていないのです。自分の力だけで、完全な人間になることはできません。

しかし、イエス様は私たちを変えることができます。

だから、自分の力に頼って、「頑張ろう。相手を許そう。」と思うのではなく、むしろ、イエス様に向かって、イエス様の癒しと助けを求めましょう。

そして、イエス様を信じるなら、あなたは奇跡を目にするでしょう。

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ルカの福音書 ルカ17章

人々につまずきを与えている?

この箇所では、イエス様はこう言われます。

つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。

この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(ルカの福音書17:2)

それは非常に厳しい言葉ですが、イエス様は続けてこう語られました。

気をつけていなさい。(3)

つまり、「私はあなたに語っている。あなたに警告している。気を付けていなさい。」ということです。

それを読んだとき、私は少し恐れを感じます。私には9歳の娘がいます。彼女はまだ幼い存在です。私はどんな父親なのだろうか。私は懸命に努力していますが、決して完璧な父親ではありません。

彼女は私を見ています。私は彼女にとって良い模範となっているでしょうか。それとも、私の言動によって娘につまずきを与えてしまっているでしょうか。

そのことを思うとき、私はこう祈ります。 「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」

しかし、私はほかの人々にもつまずきを与えているでしょうか。私は、妻や同僚、教会の人々に対して、私の行動や悪い態度を通して、知らず知らずのうちに傷つけているでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたは周りの人々にどのような影響を与えているでしょうか。

あなたの生き方を通して、彼らはイエス様に近づいているでしょうか。それとも、あなたが彼らにつまずきを与えているでしょうか。

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疑いと戦う

聖書に登場する英雄たちも、疑いや恐れと戦っていたことを知ると、私はなんだか安心します。なぜなら、私が独りぼっちではないことが分かるからです。

バプテスマのヨハネも、自分の疑いや恐れと戦いました。彼は神様のために、とても重要な使命を果たしました。彼は人々に悔い改めを呼びかけ、イエス様の道を準備しました。ところが、突然その働きは終わってしまいました。

ヘロデ王は、自分の弟の妻と結婚しました。そのことをヨハネが責めると、ヘロデ王は怒り、ヨハネを捕えて牢に入れました。

おそらく、ヨハネは最初、確信をもって喜びながらこう宣言したでしょう。 「メシアは来た!イエス様は、この世の王や私たちの敵から救い出してくださる!」

けれども、時間が経っても、イエス様はさまざまな驚くべきことをされたものの、政治的なことにはまったく関心がないようでした。ヘロデ王は依然としてガリラヤを統治し、ローマ帝国も存続していました。そして、ヨハネはなお牢の中にいました。

時が経つにつれ、ヨハネの確信は次第に揺らいでいったかもしれません。ある日、彼の信念は完全に消え去ったのではないでしょうか。

「イエス様は本当にメシアなのだろうか?私は間違っていたのだろうか?私は本当に神様の声を聞いたのだろうか?」

ある日、ヨハネの弟子たちが彼のもとへやってきて、おそらくイエス様のことを語ったでしょう。その話をすべて聞き終えたヨハネは、静かに座りました。そして弟子たちにこう頼みました。

「イエス様に伝えてください。『おいでになるはずの方はあなたですか?それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか?』」

弟子たちはイエス様に近づいたとき、どのように感じたでしょうか。ヨハネの失望を目の当たりにし、彼らも疑い始めたのでしょうか。それとも、自分たちの師の問いをしっかりと受け止めたでしょうか。

いずれにせよ、彼らはヨハネの言葉をイエス様に伝えました。

イエス様はどのように反応されたでしょうか。彼は怒ることはありませんでした。ヨハネの弱い信仰を責めることもありませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちを優しく見つめられました。そして、周りにいる病に苦しむ人々を見渡されました。

イエス様は癒し始めました。目の見えない人、耳の聞こえない人、足の不自由な人、病に苦しむ人、イエス様は彼らすべてを癒されたのです。

そしてイエス様は、もう一度ヨハネの弟子たちに向かって、こう言われました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。(マタイ11:4-6)

時々、ヨハネのように、私たちは疑いと戦います。「イエス様は本当におられるのだろうか」と問いかけることがあります。

私たちは自分の状況を見渡し、この世界を見つめます。そして、こう思うことがあります。

「私の信仰は本物なのだろうか。イエス様は私の信仰に値する方なのだろうか。もしかすると、私の信仰は無意味なのではないか。イエス様に従うことは本当に価値のないことなのだろうか。」

ありがたいことに、イエス様は私たちの疑いを責めることはありません。むしろ、こう語りかけてくださいます。

「私のしてきたことを覚えていなさい。私はあなたを助けてきただろう。私はあなたを癒してきただろう。私は今もここにいる。私は今もあなたの人生の中で働いている。」

しかし、それだけではなく、十字架を心に留めておきましょう。その十字架こそがイエス様の愛の証だからです。そして、イエス様の復活によって、私たちはイエス様が私たちを救う力を持っていることを確信できるのです。

あなたが決してイエス様につまずくことのないように。むしろ、イエス様こそが私たちの立つべき土台となるように。その土台は、私たちの足元で決して崩れることはありません。