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ローマ人への手紙

私たちを堅く立たせることができる方

これは、ローマ人への手紙に関する私の最後の記事です。この手紙について書くことは、本当に喜びでした。

そして、パウロはこの手紙の始めと同じように、その締めくくりを迎えます。彼は、救いが最終的に神様の働きであることを私たちに思い出させてくれます。

パウロは次のように記しています。

私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって、隠されていた億着の啓示によってーー永遠の神の命令に従い、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた億着の啓示によって、あなたがたを強くすることが出来る方(別訳:あなたがたを堅く立たせることができる方)、知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(ローマ人への手紙16:25-27)

この箇所を通して、私たちは福音の神秘を見ることができます。

イエス様がこの世に来られる何百年も前に、神様は預言者たちを通して将来に起こることの片鱗を示されました。

預言者たちの言葉は長い間、完全には理解されていませんでしたが、イエス様にあって、その意味が明らかになりました。こうして、今やすべての国の人々がイエス様を信じ、従うことができるのです。

しかし、この福音は私たちの行いによるものではありません。むしろ、この福音は神様の恵みによるものです。神様は私たちを信仰と救いの上に立たせてくださいました。

時の始まる前から、神様は私たちを選び、御子のかたちに似た者としてあらかじめ定めてくださいました。

イエス様を通して、神様は私たちの罪の代価を支払ってくださいました。そして、私たちが天国でイエス様を見る日まで、神様は日々、聖霊によって私たちを清めてくださいます。

それは救いの不思議さです。

私たちは救いに値しないのです。私たちは救いのために働かなかったのです。

でも、恵みによって、神様が私たちの上に愛を注いだので、私たちはイエス様を信じました。そしてある日、私たちはイエス様のようになります。

だから、パウロはこの手紙をこのようにまとめました。

知恵に富む唯一の神にイエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。(27)

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ローマ人への手紙

純朴な人にならないように

この手紙を締めくくる前に、パウロはローマのクリスチャンたちに警告を与えます。

兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。(ローマ人への手紙16:17)

パウロは何について話しているでしょうか。パウロは、偽教師とその教えについて話しているのです。

パウロの時代の教会でも、偽教師は大問題だったし、現代の教会でも、偽教師は大問題です。だからパウロは、「そんな人に注意しなさい」と警告します。

でも多くの場合、そんな人を認識するのは難しいです。なぜなら、彼らの教えは良いことに聞こえるから。パウロはこう書きました。

彼らは、滑らかな言葉、へつらいの言葉をもって、純朴な人たちの心をだましています。(18b)

でも実は、

そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。(18a)

だから、パウロはこう言います。

。。。なお私が願うのは、あなたがが善にはさとく、悪にはうとくあることです。(19b)

私たちは、どのように偽の教師とその教えが認識することが出来るでしょうか。そのカギは17節に書いてあります。彼らの教えは私たちの学んだ教えに背きます。

もちろん、私の前提はあなたがキリストに関する本当の教えを学んだ事があることです。

もしその教えを知らないなら、あなたは善にさとくないし、悪にうとくないのです。むしろあなたは狼の純朴な獲物になります。

でも、ローマ人のクリスチャンたちは神様のみ言葉に踏まえたので、パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいます。。。

平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。(19-20)

だからこそ、神様の言葉にしっかり立ち、神様の真理を求め続けてください。そうすれば、あなたは決して惑わされることはありません。

銀行員は偽札を識別するために、偽札そのものを学ぶのではありません。むしろ、彼らは常に本物の紙幣に触れることで、偽札に触れたときに違和感を覚えるのです。

同じように、神様の言葉を深く知っているなら、偽りに惑わされることはありません。

だから、神様の真理を熱心に学びましょう。そして、

平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みがあなたがたとともにありますように。(20)

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ローマ人への手紙

非常に苦労している人。試され、認められた人。

ローマ人への手紙16章で、パウロは多くの人々に挨拶を送っています。彼は彼らを心から評価し、感謝していました。

ある人々はパウロを経済的に支え、ほかの人々は彼とともに働きました。また、福音のためにパウロとともに牢に入れられた者もいました。

けれども、特に二つのことが私の心に深く響きました。

一つ目は、パウロが、特に苦労していたマリヤとペルシスについて言及していることです。

二つ目は、彼がアペレという人物について語ったことです。パウロはアペレを 「キリストにあって認められた者」 だと述べました。

「認められる」という言葉のニュアンスには 「試され、その中で認められる」 という意味が含まれています。

人々が私を見るとき、そう言われるような生き方をしたいと思います。

私は、神様のために苦労し、与えられた働きを忠実に果たしていた者だと言われたいのです。そして、さまざまな試練に直面しても、キリストにあって試され、認められた者であると語られたいのです。

しかし、私の最も願うことは、天に迎えられたときに、神様が私に「よくやった。忠実なしもべよ」と言ってくださることです。

人からの誉れの言葉はもちろん嬉しいものですが、それ以上に、神様からの誉れの言葉こそが大切なのです。

あなたはどうでしょうか。神様と、あなたの周りの人々は、あなたについて何と言うでしょうか。

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ローマ人への手紙

前線に立つ人々を支える

時として、私たちは霊的な戦いの真っただ中にいることを忘れてしまいがちです。しかし、私たちは確かに戦争の中にあります。

そして、多くの人々が最前線で福音を述べ伝えています。ある人々は自分の地域で、またある人々は海外でその使命を果たしています。どこでイエス様に仕えているとしても、彼らには私たちの祈りが必要です。

パウロ自身もそのことをよく理解していました。もし、ほかのクリスチャンの祈りを必要としない人がいるとすれば、それはパウロのような人物かもしれません。それでも、パウロはそのようには考えませんでした。

彼は、自分の力だけでは神様の働きを成し遂げることはできないと認めていました。だから、彼はローマの教会に次のように記しています。

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。

私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように。。。(ローマ人への手紙15:30-31)

「私とともに力を尽くす」という表現は興味深いものです。別の訳では、「私とともに戦う」という意味になります。

牧師や宣教師について考えるとき、私たちはしばしば彼らを特別な存在のように見てしまいがちです。けれども、彼らは超人ではありません。彼らも私たちと同じ人間であり、霊的な戦いの只中にいます。

だからこそ、その戦いに加わり、彼らのために祈りましょう。

あなたの牧師のために祈りましょう。前回の記事では、牧師を経済的に支えることについて話しましたが、彼らは霊的な支えも必要としています。だから、彼らのために祈りましょう。

また、あなたが知っている宣教師のために祈りましょう。彼らもあなたの祈りを必要としています。

霊的な前線に立つ人々を決して忘れないようにしましょう。

もちろん、私たちは皆、神様の働きに参加するべきです。その御国の働きに加わるとき、サタンや悪霊は私たちを攻撃しようとします。

そして特に、最前線にいる人々を狙って攻撃します。だからこそ、彼らのために祈りましょう。

さらに、彼らを励まし、支えましょう。神様が私たちを祝福してくださる限り、彼らを経済的にも助けましょう。

前線は時に孤独な場所です。だから、そこにいる人々を励まし、支えましょう。

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ローマ人への手紙

霊的な祝福を与えてくれる人に祝福を返す

お金の話は、いつも少し気まずいものです。特に教会では、十一献金について語ることが難しく感じられます。

多くのクリスチャンは、十一献金が新約聖書の教えではないと考えています。私も、ある程度その意見に同意できます。

とはいえ、聖書が明確に教えていることは、私たちを霊的に祝福してくれる人を経済的に支えるべきだということです。この箇所に、その原則を見ることができます。

もちろん、この箇所でパウロは十一献金について語っているわけではありません。彼が話しているのは、貧しいクリスチャンを助けるために、マケドニヤとアカヤからの経済的支援をエルサレムに届ける計画についてです。

それでも、パウロは非常に興味深いことを語っています。

彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。

異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。(ローマ人への手紙15:27)

二つの点に注目してください。

一つ目は、マケドニヤ人とアカヤ人が自ら進んでユダヤ人のクリスチャンたちに与えたことです。

二つ目は、パウロによれば、彼らにはユダヤ人のクリスチャンたちを助ける義務があったということです。なぜなら、イエス様が言われたように、「救いはユダヤ人から出る」からです。(ヨハネ 4:22)

つまり、神様はユダヤ人を通してイエス様をこの世に送られました。そして、ペテロ、パウロ、バルナバ、そして他のユダヤ人たちが異邦人に福音を伝えたことで、多くの異邦人が救われたのです。

だから、パウロはこう語っています。「異邦人はユダヤ人から多くの霊的な祝福を受けたのだから、彼らはユダヤ人に物質的な祝福を返すべきです。」

同じように、私たちも自分の牧師を支えるべきだと思います。

牧師たちは私たちに多くの霊的な祝福を与えてくれました。私たちが神様を知ることができるように、彼らは自分のいのちを神様にささげました。

だから、彼らが自分の家族を支えることができるように、私たちは彼らを経済的に支えるべきです。

とはいえ、ただ義務感から与えるのではなく、心から喜んで捧げるべきです。別の書簡で、パウロはこう記しています。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。

神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(第二コリント9:7)

だから、いやいやながら与えることはしないようにしましょう。もしそのような態度を持っているなら、むしろ与えない方がよいでしょう。

しかし、もしお金に執着し、あなたを霊的に支えてくれる人を経済的に支えたくないと感じるなら、その点で成長する必要があります。

なぜなら、イエス様こそ与える方だからです。イエス様は私たちのために天を離れ、さらに私たちのためにご自身のいのちをささげられました。

私たちが本当にイエス様を愛しているなら、そのような心を持つべきではないでしょうか。

あなたはどうでしょうか。あなたは人々に惜しみなく与える者でしょうか。

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人々が見るようになり、悟るようになるため

パウロのような人物について読むとき、または自分の牧師を見るとき、特別な人だけが奉仕する資格があると思ってしまうのは自然なことかもしれません。

確かに、パウロは異邦人に福音を伝える恵みを受けました。そして、彼の働きを通して、多くの人々が福音を聞き、理解するようになりました。パウロによって、私たちのようなユダヤ人ではない人々もクリスチャンとなりました。

しかし、私たち全員が奉仕するように召されています。私たちは皆、福音を伝える祭司としての務めを与えられています。私たちを通して、御霊が人々を清め、彼らを神に受け入れられる供え物とされます。(ローマ人への手紙15:16)

もしかすると、こう思うかもしれません。 「私にはそんなことはできない。私は奉仕することができない。なぜなら、人を変える力を持っていないから。」

もちろん、あなたはそのような力を持っていません。けれども、イエス様はその力を持っておられます。

パウロは決して自分の業績を誇りませんでした。それは、人々がクリスチャンになったのは彼自身の力や知恵によるものではなかったからです。

むしろ、パウロは次のように語りました。

ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。(ローマ人への手紙15:17)

また、

私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。(18)

言い換えれば、キリストこそが、御霊の力によって人々を変えてくださいます。そして、神様はその恵みによって、私たちを用い、その働きを成し遂げてくださいます。

多くの人々は聖書を読まないため、彼らにとっては、私たちの人生が聖書そのものとなります。私たちを通してのみ、彼らはイエス様を見ることができるのです。

だから、神様が与えられた祭司としての務めを果たしましょう。福音を周りの人々に伝えましょう。それが神様の御心です。

彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。(21)

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人々を受け入れる

おそらく、私たちは皆、人々を変える力を求めることがあるでしょう。自分の思い通りに操る力が欲しくなるかもしれません。あるいは、彼らの悪い習慣を改めさせたい、あるいは欠点を直したいと思うこともあるでしょう。

残念ながら、私たちにはそのような力はありません。ときには、相手を責めたり、罪悪感を抱かせようとしたり、変わるべきだと遠回しに伝えたりするかもしれません。

それでも、パウロは私たちにこう語ります。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。(ローマ人への手紙15:1)

私が以前述べたように、パウロは傷つきやすい良心を持つ人々について語っています。彼らは、神様が定めていない規則にも従わなければならないと考えてしまいます。

とはいえ、パウロの言葉には、もう一つの重要な適用があると思います。

相手がさまざまな悪い習慣や欠点を持っているため、私たちは彼らを弱い人と見なすかもしれません。さらに、私たち自身がそのような悪い習慣や欠点を持っていないので、自分は強いクリスチャンだと思うことがあるかもしれません。

そのため、私たちは彼らを変えようとします。けれども、それは本当に彼らの益のためではなく、自分自身の益のためになってしまうことがあります。つまり、私たちの本当の望みが、彼らが私たちを喜ばせることであるからです。

だからこそ、パウロは私たちに、「力のない人々の弱さを担うべきだ」と語っています。

多くの人々は、自分の悪い習慣や欠点を変える力を持っていません。彼らは変わるべきだと理解していても、それは大きな戦いです。

だから、神様がその恵みと力を与えてくださるまで、私たちは彼らを操るべきではありません。彼らにプレッシャーをかけるべきではありません。

むしろ、パウロは私たちにこう語ります。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(7)

イエス様はどのように私たちを受け入れられるのでしょうか。私たちがまだ弱さを抱えているときでも、イエス様は私たちを受け入れてくださいます。イエス様は私たちのすべての弱さや欠点をよくご存知です。

そして、私たちがそれらをすぐに克服することを求められるのではなく、忍耐をもって愛と憐れみを注いでくださいます。

さらに、イエス様はどのように変わるべきかを教えられるだけではなく、その変わる力をも与えてくださいます。

私たちは、相手に変わるべきことを示すことができ、助言を与えるかもしれません。けれども、彼らを変える力を与えることはできません。イエス様だけが、その力を与えることができるのです。

だからこそ、忍耐をもって相手に愛と憐れみを示し、彼らをイエス様に委ねましょう。

そうすることで、神様は栄光を受けられます。

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私たちが希望を持つため

私たちが聖書を読むとき、なぜ神様が特定の物語や情報を記録されたのか疑問に思うことがあるでしょう。

例えば、なぜ出エジプト記とレビ記には、神様がさまざまな律法を記録されたのでしょうか。ある律法は私たちに関係がありますが、ある律法は、私たちにはまったく関係がないように思えます。

また、なぜ聖書には、レイプや殺害に関する記述が含まれているのでしょうか。

しかし、パウロは興味深いことを記しています。

かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。

それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。(ローマ人への手紙15:4)

つまり、聖書に書かれているすべてのことには、神様の目的があります。例えば、律法を通して、私たちは神様の聖さ、正義、そして憐れみを見ることができます。

辛い物語を通して、私たちは人間の罪の深さを知ることができます。人々が神様から離れると、どれほどその人生が混乱し、破滅へ向かうのかが分かります。

しかし、そのような物語の中にも、神様がどのように働かれ、苦しみの中から良いことをもたらされるかを見ることができます。

神様の民が迫害されたとき、神様はしばしば彼らを救われました。たとえ彼らが死んだとしても、神様が彼らに平安を与えられたことが分かります。

神様の民が苦しんでいたとき、また、彼らが神様に見捨てられたと感じたときも、私たちは神様が働かれ、彼らを慰めてくださることを見ることができます。

この世の災いを目にするとき、また私たちが迫害や苦しみを経験するとき、私たちは忍耐する希望を持つことができます。

私たちは歩み続ける勇気を受け取り、そして気づくのです—2000年前に人々を救われた神様は、今も生きておられ、私たちの人生の中で働いておられることを。

だから、どんな試練に直面しても、人生が順調であってもそうでなくても、聖書を読みましょう。神様は今も生きておられ、私たちの人生の中で働いておられることを覚えておきましょう。

そして、パウロの祈りを心に留めましょう。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(13)

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一致を持って、歩むこと

この箇所では、パウロは14章の教えをまとめています。まず、彼は次のように語ります。

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。

私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。(ローマ人への手紙15:1-2)

14章によれば、「力のない人」とは、クリスチャンが許されていることを行うとき(例えば、お酒を飲むこと)、自分の良心に反してしまう人です。また、義務ではないこと(例えば宗教的な祝日を祝うこと)を、やらなくてはならないと考えてしまう人を指します。

「力のある者」とは、そのような規則を守る必要はないと理解している人です。

しかし、パウロは「力のある者たち」が「力のない人たち」を責めてはならないと語っています。むしろ、「力のある者たち」は「力のない人たち」の益を求め、その人を支えるべきです。

イエス様は私たちの模範です。イエス様は力ある方でありながら、私たちの弱さを担ってくださいました。

弟子たちは、喧嘩をしたり、誇ったり、わがままになったり、混乱した人生を歩んだりしました。それでも、イエス様は彼らを愛し、彼らの足を洗うほどに仕えました。(ヨハネ13章)

さらに、人々がイエス様を憎み、侮辱し、十字架につけたとしても、イエス様は彼らのために祈られました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)

そして、イエス様は彼らの罰を負い、彼らのために命を捧げられました。

しかし、イエス様は私たちのためにも死なれたので、私たち全員に希望があります。

だから、パウロは次のように語っています。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(ローマ人への手紙15:7)

そして、パウロはこのように祈りました。

どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。

そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。(5-6)

神様は、私たちが一致をもって歩むように召されています。その鍵は、互いの失敗や弱さに焦点を当てるのではなく、むしろイエス様に目を向けて従うことです。

私たちが他のクリスチャンを見るとき、互いに引き裂き合うのではなく、励まし合うべきです。

もし私たちが互いに争ったり、傷つけ合ったりするなら、神様はどれほど悲しまれるでしょう。

そうではなく、イエス様のように生きることを目指しましょう。私たちは互いの弱さを担い合い、愛し合い、受け入れ合い、仕え合いましょう。

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良心に反すること

この箇所を終えて15章へ進む前に、私はもう一つの重要なことについて触れたいと思います。それは、私たちの動機です。私たちの行動の根底にある動機とは何でしょうか。

パウロは、私たちがどのような動機を持つべきかについて明確に教えています。彼はこう語りました。

特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。

食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。

ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(ローマ人への手紙14:6-9)

つまり、私たちは自分のためではなく、イエス様のために生きるべきです。

したがって、ある日を尊ぶのであれば、その理由が単なる伝統であってはなりません。むしろ、イエス様への愛ゆえに、その日を尊ぶべきです。

また、食べたり飲んだりするとき、自分の満足だけを考えるのではなく、神様への感謝の心を持つべきです。

要するに、私たちは何をするにも、神様のために行うべきです。別の箇所で、パウロは次のように語っています。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(第一コリント10:31)

私たちがそのような心を持たなければ、それは罪となります。偶像に捧げられた肉について、パウロは次のように語っています。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ人への手紙14:23)

この箇所では、パウロは偶像に捧げられた肉を食べることを気にする人々について語っています。彼らはその肉を食べながら、それが偶像に捧げられたものであることを忘れることができませんでした。

そのため、彼らは肉を食べる際に神様への感謝の心を持つことができず、むしろ心の中でこう思い続けていました。

「これはいけない。この肉は偶像に捧げられたものだ。これを食べれば、私は罪を犯してしまう。」

したがって、彼らにとって、その肉を食べることは罪となりました。なぜなら、自分たちがそれを悪いことだと考えながら、それでも食べてしまったからです。そのような態度は神様を決して喜ばせません。

では、このことから何が学べるでしょうか。 私たちは決して自分の良心に反して行動してはならないということです。

もし自分の良心が痛むなら、その行為を避けるべきです。たとえ他のクリスチャンがその行為を問題ないと考えていたとしても、自分自身の良心に従い、行わないようにすべきです。

何をするにも、私たちはその行動が神様を喜ばせるものであると確信を持たなくてはなりません。

しかし、注意が必要です。確信を持っていても、それが本当に神様を喜ばせているとは限りません。

だからこそ、私たちは聖書を学び続ける必要があります。聖書の教えに基づいて確信を持つことができます。

ただし、白黒はっきりしない問題について考えるときは、自分の良心に従うべきです。そして、神様が私たちの良心をより正しく形成し続けてくださるように祈りましょう。

そうすれば、私たちは本当に神様を喜ばせることができるのです。

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互いに愛し合う

ローマ13章で、パウロはこう語りました。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。(ローマ人への手紙13:8)

また、

愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(13:10)

14章では、この教えの重要な実践的な応用を見ることができます。

以前の記事で触れたように、あるローマのクリスチャンたちは偶像に捧げられた肉を食べることを気にしていました。それだけでなく、ほかのクリスチャンたちはぶどう酒を飲むことを良くないと考えていたようです。

現代では、私たちは偶像に捧げられた食べ物を食べることについて意識する機会が少ないかもしれません。けれども、飲酒が罪だと考えるクリスチャンは今も存在します。

もちろん、聖書によれば、酔うことは罪です。とはいえ、聖書は禁酒を義務づけているわけではありません。

それにもかかわらず、一部のクリスチャンはお酒を飲む人を裁きます。その一方で、お酒を飲むクリスチャンが、飲まないクリスチャンを律法主義的だと考え、責めることもあります。

だからこそ、パウロは明確にこう語ります。これらの問題について、互いに裁き合ってはなりません。その裁きは神様に委ねるべきです。

彼らはあなたのしもべではなく、神様のしもべなのです。彼らが責任を問われるのは、あなたではなく神様なのです。

それでも、パウロは次のように語ります。

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。

キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(ローマ人への手紙14:15)

また、

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(13)

また、

ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。

すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。

肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。(19-21)

要するに、クリスチャンとして、私たちは自分勝手に生きてはいけません。私たちは、神様の前で責任を問われることを常に覚えているべきです。そして、神様は私たちに、兄弟姉妹を愛するように命じられました。

けれども、もしあなたの行動によって兄弟姉妹が心を痛めているなら、あなたは愛に従って歩んでいるとは言えません。さらに、あなたの行いによって、彼らが自分の良心に反し、罪に陥るかもしれません。

パウロは次のように語っています。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(23)

次の記事では、パウロの言葉をより具体的に説明しますが、その要点は、私たちが他者の良心に反する行動を強いるべきではないということです。

ハワイにいたとき、私が通っていた教会で、ある話を聞きました。ある日、数人のクリスチャンの友人たちが集まり、一緒にビールを飲んでいました。けれども、彼らが知らなかったのは、その中の一人がアルコール依存症だったということです。

その人はアルコールを断っていましたが、友人たちが飲み始めると、彼も飲み始めてしまいました。しかし、ほかの友人たちと違い、一度飲み始めると止めることができず、酔ってしまいました。

もちろん、彼らは故意にその兄弟をつまずかせたわけではありません。とはういえ、相手を考えずに自分の自由を行使すれば、そのような問題が生じる可能性があります。

だからこそ、自分勝手な考え方を捨てましょう。

もし私たちの行動によって彼らが心を痛めているなら、彼らの前ではその行動を控えましょう。私たちは彼らの弱さを思いやり、愛をもって接するべきです。なぜなら、イエス様は彼らのためにも命を捧げられたからです。

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兄弟たちと姉妹たちを裁く?

教会における大きな問題の一つは、兄弟姉妹が互いに裁き合うことです。

ただし、誤解しないでください。私は明確に善悪が分かれる問題について話しているのではありません。

クリスチャンが意図的に罪を犯すとき、パウロはためらわずにその行為を裁きました。コリント人への手紙 第一 5章では、その具体的な例が示されています。

けれども、ある問題については、聖書の著者たちが何も言及していない場合があります。また、彼らが判断を個々のクリスチャンに委ねることもあります。

今日の箇所では、パウロはそうした個々のクリスチャンに委ねられる問題の一つについて語っています。

パウロの時代、クリスチャンたちは肉を食べることについて議論していました。なぜなら、ローマ帝国において、多くの肉が市場で売られる前に、偶像に捧げられていたからです。

他のクリスチャンたちは宗教的な祝日について議論しました。特に、ユダヤ人ではないクリスチャンたちがユダヤ教の祝日を祝うべきかどうかを議論しました。また、異邦人のクリスチャンたちが安息日を祝うべきかどうかについても議論がありました。

パウロにとって、その議論は白黒をつけるものではありませんでした。そのため、パウロは彼らに対し、そのようなことについて裁いてはならないと語りました。(1)

パウロによれば、彼らはそのことについて自分の良心に従うべきでした。

したがって、ユダヤ人たちがユダヤ教の祝日や安息日を祝うべきだと考えるならば、そうすべきです。なぜなら、彼らにとって急にその祝日や安息日を祝うのをやめることは、神様を侮る行為に等しいからです。

一方で、異邦人たちはユダヤ教の祝日は自分たちとは関係がないと考えました。

この議論について、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちも異邦人のクリスチャンたちも責めることはありませんでした。むしろ、パウロはこう語りました。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。

食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ人への手紙14:5-6)

つまり、あなたの信仰によってユダヤ教の祝日が大切だと思うなら、それを祝うべきです。神様はあなたの心を見て、喜ばれるでしょう。けれども、もしあなたがすべての日を同じように考えるなら、それでも問題ありません。

偶像に捧げられた肉について心配する人々に、パウロはこう語りました。

私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。(14)

つまり、「私の考えでは、偶像に捧げられた肉を食べても問題ありません。けれども、もしあなたがそのことを本当に気にするなら、食べないほうがよいでしょう。」

さらに、パウロは次のようにも語っています。

食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。(3-4)

また、

自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。次のように書かれています。

「わたしは生きている──主のことば──。

すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」

ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。

いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(10-13)

私は、パウロの言葉に何かを付け加える必要はないと思います。彼の言葉だけで十分に明確だからです。

パウロの要点は、神様こそが私たちの主であるということです。そして、私たちすべてが神様の裁きの座の前に立つことになります。

だから、白黒はっきりしない問題について、私たちは互いに裁き合うべきではありません。その裁きを神様に委ねることが求められています。

私は十代の頃、ほかのクリスチャンの高校生たちとともに働き、バイブル・クラブで子供たちに教えました。その前には合宿があり、どのようにクラブを運営するかについて学びました。

休憩時間、ある人はトランプをしていました。当然ながら、彼らはギャンブルをしていたわけではありません。

けれども、一人の人はそのことをとても気にしました。なぜなら、彼女のご両親は「トランプをすることは良くない」と教えていたからです。

ほかのクリスチャンたちはそれを聞くと、「そんなの馬鹿げている。律法主義的な考え方だ」と言いました。

しかし、もう一人のクリスチャンはこう答えました。 「いや、私たちは彼女の良心を重んじるべきです。」

そのため、私たちは合宿の間、トランプをやめることにしました。

私たちは彼女を裁くことなく、彼女もまた自分の意見を述べましたが、私たちを裁くことはありませんでした。こうして、私たちは平和を保ち、神様のために素晴らしい伝道の働きをすることができました。

これこそが、パウロのポイントです。私たちは常に完全に同意できるわけではありません。だから、白黒はっきりしない問題については、互いに受け入れ合うべきです。

そうすれば、キリストのために、この世に大きな影響を与えることができるのです。

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イエス様の再臨を待ち望む

イエス様が天へ帰られたとき、使徒たちは空を見上げていました。そのとき、天使が現れ、こう告げました。

ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

彼らはそれを聞いて、喜びとともにエルサレムへ戻り、いつも宮にいて神様を礼拝しました。(ルカ24:52-53)

そして、彼らは聖霊様が来られるのを待ちました。(使徒の働き 2章)

聖霊様が降られると、彼らはこの世界を根本から変え始めました。

それから何年か後、パウロはその出来事を思い起こし、こう語りました。

さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。

夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。(ローマ人への手紙13:11-12)

要するに、イエス様はすぐにこの世に戻られるので、私たちは目を覚まし、備えているべきです。

夜は深まり、昼は近づいて来ました。(12a)

言い換えれば、サタンの支配は終わりに近づいており、イエス様が戻られる日も間もなく訪れます。

そして、パウロはさらに夜と昼の比喩を用いて、その真理を伝えます。

ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。(12b)

つまり、私たちはサタンの国に属する行為を捨て、イエス様の国にふさわしい行いをするべきだということです。

では、「闇のわざ」とは何でしょうか。13節でパウロはそれについて説明しています。

遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。(13)

多くの人々は悪しき行いをするとき、夜を待ちます。しかし、パウロが語ったのは、私たちは光の中を歩むべきだということです。

私たちは、世の民が私たちを見ているかのように振る舞うべきです。それ以上に、神様が私たちを見ておられることを意識して行動すべきです。なぜなら、神様はあなたのすべての行動を見ておられるからです。

また、もう一つ心に留めるべきことがあります。サタンの時は過ぎ去り、十字架によってすでに敗北しました。それにもかかわらず、彼はなお戦い続けています。

だから、私たちはその戦いに備え、光の武具を身に着けるべきです。

私たちの足には平和の福音の備えを履きましょう。そして、信仰の盾、救いのかぶと、御霊の剣を持つことが必要です。(エペソ人への手紙6:14-17)

パウロはこの教えを次のようにまとめています。

主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。(ローマ人への手紙13:14)

私たちはイエス様を着るべきです。毎日、イエス様の力と品性を身に着けることで、罪に陥ることを防ぐことができます。

イエス様が間もなく戻られることを知っている私たちは、イエス様の十二弟子のように、日々喜びを持ち、聖霊様に満たされて、イエス様のためにこの世に影響を与えましょう。そして、そのようにして、イエス様の再臨の日を待ち望みましょう。

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律法の要求を 満たすため

他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。(ローマ人への手紙13:8)

私はいつもその言葉を少し不思議に思っていました。

なぜなら、律法の要求を満たすのであれば、他の人だけでなく、神様も愛すべきではないでしょうか。イエス様が最も重要な戒めについて語られたとき、こう言われました。

「「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

これが、重要な第一の戒めです。

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(マタイ22:37-39)

パウロは必ずイエス様の言葉を知っていたはずなのに、なぜ「他の人を愛する」という戒めだけについて語ったのでしょうか。

私には確かな答えはありませんが、おそらく神様を愛することと他の人を愛することは切り離せないものだからでしょう。

私たちが本当に神様を愛しているなら、他の人も愛さなくてはなりません。もし他の人を愛さないなら、私たちが本当に神様を愛しているとは言えないのです。

ヨハネも自身の書簡の中でそのように語っています。

この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。(第一ヨハネ3:17)

また、

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。(第一ヨハネ4:20-21)

ヨハネの議論に反論するのは非常に難しいと思います。もし私たちが目に見える人を憎むなら、どうして目に見えない神様を愛していると主張できるでしょうか。

あなたはどうですか。あなたは神様を愛していると主張するでしょうか。

あなたは周りの人々をどのように扱っていますか。彼らを見下していますか。彼らを軽蔑していますか。

もしそうしているなら、あなたは本当に神様を愛しているかどうかを考えるべきです。

だから、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(第一ヨハネ3:18)

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返済することができない負債

私はパウロのこの言葉が大好きです。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。(ローマ人への手紙13:8)

「借り」とは何でしょうか。それは、私たちが返済しなければならないものです。私たちは、その金額を返済する義務を負っています。

この箇所で、パウロは「愛」を「借り」と比較しています。つまり、パウロの言葉を言い換えれば、私たちは人を愛する義務を負っているのです。

パウロの言葉について少し考えてみましょう。もし誰かが、「私を愛しなさい。あなたにはその義務がある」と言ったら、あなたはどう反応するでしょうか。

私なら、「いやだ。あなたを愛する義務なんてないよ」と答えるかもしれません。

しかし、パウロは、私たちがその義務を持っていると言います。なぜでしょうか。

第一の理由は、私たちが皆、神様の似姿として造られたことです。だからこそ、私たちは彼らを愛すべきなのです。

第二の理由は、神様が彼らを愛しておられることです。もし神様が彼らを愛しておられるなら、私たちも彼らを愛するに値すると見なすべきです。

それでも、多くの場合、私たちは相手を愛するに値する存在だと見なしていません。なぜでしょうか。

時には、彼らが私たちとは異なる存在だからです。つまり、彼らの身分や性格が私たちと違うのです。

また、時には、彼らの行動にあきれることもあります。

しかし、私たちが決して忘れてはならないのは、神様が彼らを造り、愛しておられることです。だからこそ、彼らは私たちの愛に値する存在なのです。

もし私たちがその愛を与えることを拒むなら、基本的にこう言っているのと同じです。 「神様、あなたは価値のないものを造られました。どうしてあの人を愛しておられるのですか?」

そして、第三の理由があります。神様が私たちを愛しておられるゆえに、イエス様をこの世に送られたのです。

私たちを救うために、イエス様は十字架の上で計り知れない代価を支払われました。私たちには、その負債を返済することは決してできません。

それにもかかわらず、私たちは値しない愛と恵みを受けました。そのため、神様に対して負債を負っているのです。それは、私たちが受けた恵みと愛を、周りの人々に惜しみなく与えることです。

たとえ相手がその愛と恵みに値しないと感じたとしても、私たちはなお、その愛と恵みを与えるべきなのです。

イエス様はこう語られました。

あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)

あなたはどうですか。あなたは、無償で受けた愛を周りの人々に無償で与えているでしょうか。

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たとえ支配者が悪くても

この箇所で、パウロはクリスチャンと政治の関係について語ります。基本的に、彼は私たちが政府の権威に従うべきだと教えています。

なぜでしょうか。それは、最終的に神様がその人々に権威を与えられたからです。したがって、彼らに反抗することは、実は神様に逆らうことになるのです。

さらに、もう一つの理由があります。神様は社会の益のために権威を確立されました。もし権威がなければ、私たちは無政府状態になり、それは本当に恐ろしい社会となるでしょう。

そして、パウロはこう語ります。

彼(つまり、権を持つ人)はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。(ローマ人への手紙13:4)

多くの場合、権威を持つ人のおかげで、社会は安定し、平和が保たれています。したがって、私たちが正しいことを行うなら、問題が生じるはずはありません。

私は列王記第18章に登場するオバデヤについて考えます。(彼は預言者オバデヤではありません)。彼はアハブ王に仕えていました。

アハブは、イスラエル史上最も悪しき王の一人でした。それにしても、オバデヤが忠実なしもべであったため、アハブは彼に王宮の管理を任せました。

それでも、オバデヤは神様を畏れ、正しいことを行いました。

彼の模範から、私たちは重要な教訓を学びます。時に、正しいことが権威を持つ者の命令と矛盾する場合があります。 そのような場合、私たちは真に正しいことを選択すべきです。

そのため、アハブの妻イゼベルが神様の預言者たちを殺害するよう命じたとき、オバデヤは彼らを救い出しました。

預言者ダニエルとその友人たちも、正しいことを行いました。神様の律法に反する命令を受けたとき、彼らは神様の戒めに従いました。(ダニエル書 1-3章)

また、ユダヤ人の指導者たちがペテロと他の使徒たちにイエス様のことを語るのをやめるよう命じたとき、ペテロたちはそれを拒みました。(使徒の働き 4-5章)

こうして、神様はオバデヤ、ダニエルたち、ペテロたちを守り、祝福してくださいました。そして、ダニエルたちの場合、最終的に支配者たちは彼らに栄誉を与えました。

そして、パウロはこう語ります。

支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。

権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。(ローマ人への手紙13:3)

特に、私たちが正しいことを行うなら、神様を恐れる必要はありません。むしろ、神様は私たちを称賛してくださいます。

したがって、この世の支配者の命令が神様の言葉に反する場合、私たちは神様に従うべきです。なぜなら、私たちの最も高い権威は神様だからです。

しかし、たとえ支配者の命令を拒んだとしても、私たちは彼らを尊敬すべきです。

パウロはこう語りました。

すべての人に対して義務を果たしなさい。。。恐れるべき人を恐れ、敬うべき人を敬いなさい。(7)

オバデヤ、ダニエルたち、ペテロたちは、そのように行動しました。だから、私たちは彼らの模範に従うべきです。

そして、ペテロはパウロの言葉を次のようにまとめます。

もしあなたがたが良いことに対して熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。

たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。

人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。

そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。(第一ペテロ3:13-16)

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人々が私たちを憎むとき

最初のクリスチャンたちは、この世の憎しみや迫害に直面しました。2000年後の今も、クリスチャンは同じ問題に向き合っています。

だから、パウロの言葉は今もなおクリスチャンにとって重要なのです。パウロはこう語りました。

あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。(ローマ人への手紙12:14)

イエス様は、山上の垂訓で同じような教えを語られました。

自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

イエス様はご自身の言葉を実践されました。十字架の上で、イエス様はご自身の敵のために祈られました。

父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)

私たちはイエス様の模範に従うべきです。もし私たちが苦々しい思いを持ち続けるなら、その思いは私たちの心を蝕み、やがて私たち自身を滅ぼしてしまいます。

だから、パウロは私たちに語ります。「その苦々しい思いや恨みを手放しなさい。むしろ、相手のために祈りなさい。」

そして、パウロはさらにこう語ります。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。(ローマ人への手紙12:17)

もちろん、パウロは私たちに対して、神様の律法に反する世の道徳に従うべきだとは言いません。

むしろ、パウロが語ったのは、たとえ迫害されても、世の考え方が神様の律法に反しない限り、すべての人が良いと認めることを行いなさいということです。

だから、私たちは苦々しい思いや怒り、報復の心を捨て去るべきです。

そして、パウロはさらにこう語ります。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(18)

時には、私たちは相手の意見に同意できないことがあります。しかし、そのようなときこそ、謙遜な態度を持つべきです。

時には、私たちは相手があまりにも傷つきやすいと感じることがあります。それでも、もし私たちの言葉や行為によって相手を傷つけてしまったなら、その人に誠実に謝るべきです。

また、神様の言葉を守りながらも、私たちは妥協点を見つける知恵を持つべきです。

例えば、私のクリスチャンの友人たちは家族の仏教の葬儀には参加しませんが、その前後でできる限り家族に仕えます。

そして、最後にパウロはこう語ります。

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。

「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。

次のようにも書かれています。

「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」(19-20)

簡単に言えば、最終的な正義は私たちの責任ではなく、神様の責任です。神様はすべての人々とその行いを正しく裁かれます。

だから、悪に悪で報いることなく、苦々しい思いを抱え続けないでください。そのような思いは、やがてあなた自身を蝕んでしまいます。

むしろ、イエス様の模範に倣い、イエス様の愛を彼らに示しましょう。

もしかすると、あなたの反応によって、彼らはクリスチャンになるかもしれません。ステパノの祈りはどのようにパウロに影響を与えたでしょうか。(使徒の働き 7:60)

そして、パウロはこの教えを次のようにまとめます。

悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(21)

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他のクリスチャンと共に歩んでいる?

この箇所を読むとき、自分自身のクリスチャン生活について考えるのは容易なことです。

しかし、私たちが注目すべきなのは、パウロが個々のクリスチャンに向かって語っているのではなく、キリストのからだ全体に語りかけているという点です。

パウロはまずこう語ります。

愛には偽りがあってはなりません。(ローマ人への手紙12:9)

私は、ある英語の翻訳が気に入っています。

相手を愛するふりをせず、心から愛しなさい。

例えば、私たちはどれほど相手の話を聞いているふりをしながら、実は全く別のことを考えているでしょうか。

そうではなく、私たちは本当に相手の話に関心を持つべきです。

そして、パウロは教会にこう語ります。

悪を憎み、善から離れないようにしなさい。(9b)

教会として、私たちはこの世の悪を憎み、戦うべきです。同時に、善にしっかりとしがみつくべきです。しかし、まずは教会の中でそれを実践することが大切です。

もし苦々しい思いや、相手を許さない心を目にしたとき、私たちはその態度と向き合い、それと戦うでしょうか。それとも、許し合う姿勢を求めるでしょうか。

教会の中で争いや分裂があるなら、和解をもたらすために努力するでしょうか。私たちは教会の一致を心から求めるでしょうか。

プライドや差別を見たとき、それを教会から取り除き、互いに受け入れ合うでしょうか。(ローマ人への手紙12:10,16)

人が故意に罪を犯し、悔い改めない場合、その問題に正しく向き合い、適切に対処するでしょうか。(第一コリント5章)

誰かが罪に陥ったとき、私たちは柔和な心を持って、その人を正しく導くでしょうか。(ガラテヤ6:1)

そして、パウロは続けてこう言います。

望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。(ローマ人への手紙12:12)

試練に苦しんでいる人がいるとき、私たちはその人を支え、励ますでしょうか。その人のために心から祈るでしょうか。

また、私たちは「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣く」でしょうか。(ローマ人への手紙12:15)

私たちは教会の仲間たちに仕えるでしょうか。パウロはこう語りました。

聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。(13)

それこそが、本来あるべきクリスチャンの歩みです。果たして、私たちはそのように生きているでしょうか。

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この世の人々も祝福すべきではないでしょうか

もしかしたら、前回の記事を読んで異議を持った人がいたかもしれません。なぜなら、私はこのように述べたからです。

「私たちがクリスチャンの交わりを必要とする理由の一つは、互いに必要な存在だからです。キリストのからだの中で、私たちはそれぞれに役目を持っています。だからこそ、神様から与えられた賜物を用いて、互いに仕え合う必要があります。」

とはいえ、ある人はこう言うかもしれません。 「教会の人々を祝福するだけでなく、この世の人々も祝福すべきではないでしょうか。」

もちろん、その通りです。それでも、忘れないでください。私たちが受けた賜物の多くは、まず教会のために与えられています。

例えば、エペソ人への手紙で、パウロはこう語りました。

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。(エペソ4:11)

イエス様はなぜそのようにされたのでしょうか。

それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。

私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(エペソ4:12-13)

伝道者の役割について少し考えてみましょう。彼らの使命は、特に教会の外にいる人々に向けられているはずです。

しかし、パウロの言葉に注目してください。伝道者の働きの目的は、聖徒たち(つまりクリスチャン)を整え、奉仕の働きへと導くことにあります。

伝道者はもちろん福音を宣べ伝えますが、それだけでなく、他のクリスチャンが福音を伝えられるよう励ます役割も担っています。

他のクリスチャンは、伝道者がこの世に与える影響を見て勇気づけられ、自らの友人に福音を述べ伝えようと決意するでしょう。そのうえ、伝道者は彼らに福音を伝える方法を教えることもあるかもしれません。

そして、パウロが挙げた人々がそれぞれの使命を果たすと、キリストのからだは建て上げられていきます。

もしかすると、あなたはこう思うかもしれません。 「でも、私は使徒や預言者、伝道者、牧師、教師ではありません。」

それは関係ありません。なぜなら、パウロはこう語りました。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(エペソ4:15-16)

私はもう一度、パウロの強調するポイントに目を向けます。

キリストのからだが完全に成長するまで、私たちはそれぞれの役割を果たし、互いに築き上げていくべきです。

だから、別の箇所でパウロはこう語りました。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(ガラテヤ人への手紙6:10)

だから、私たちは賜物を用いて、この世の人々に仕えるべきです。とはいえ、同時に教会の兄弟姉妹にも仕えることが求められています。

イエス様の言葉を心に留めておきましょう。

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:34-35)

イエス様の言葉に目を向けてみましょう。

この世の人々は、どのようにして私たちがイエス様の弟子であることを知るのでしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことによってです。私たちが互いに愛し、仕え合うなら、人々はその姿を見て、キリストに惹かれるでしょう。

ところが、もし私たちが争ったり、自分勝手に振る舞ったり、プライドを持ったりするなら、彼らは問いかけます。 「クリスチャンは私たちとどう違うのか。結局、彼らは私たちと同じではないか。」

あなたはどうでしょうか。神様の民を愛しているでしょうか。それとも、避けているでしょうか。神様の民に仕えているでしょうか。もしかすると、あなたが受けた賜物を無駄にしているのではないでしょうか。

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クリスチャンの交わりを壊すもの

クリスチャン生活を単なる個人的なものと考えてしまうのは容易なことです。もしかすると、特に欧米諸国では、そのように捉える人が多いのかもしれません。

けれども、クリスチャン生活は一人で送るものではなく、私たちが他のクリスチャンと共に歩むことこそが、神様の御心です。

それにもかかわらず、多くのクリスチャンが教会に行かなくなっています。なぜでしょうか。理由はさまざまありますが、この箇所でパウロは一つの理由を挙げています。

パウロはこう書きました。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。

むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。(ローマ人への手紙12:3)

また、

互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。(16)

クリスチャンの交わりを壊す要因の一つはプライドです。

「私には、ほかのクリスチャンは必要ない。一人でクリスチャン生活を送ることができる」と考えるプライド。

「私は彼らよりも優れたクリスチャンだから、彼らとの交わりは不要だ」と思うプライド。

「私は彼らと異なる立場にあり、共通点がない」と決めつけるプライド。

「この人も、あの人も私を傷つけた。彼らが謝るまで、私はもう教会に行かない」と意固地になるプライド。

しかし、パウロは私たちに大切なことを思い出させます。

一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。(4-5)

この箇所では、私たちは非常に重要な真理を目の当たりにします。すべてのクリスチャンはキリストのからだの器官です。

したがって、私たちはもはや自分自身だけに属しているのではありません。まずキリストに属し、さらに私たちクリスチャンは互いに属し合っています。

なぜでしょうか。それは、私たち一人ひとりがキリストのからだの中で異なる機能を持っており、からだ全体が私たちの役割の働きに依存しているからです。

だから、パウロはこう語りました。

私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。(6-8)

あなたは、ほかのクリスチャンを必要としないと思うかもしれません。けれども、たとえあなたが彼らを必要としなくても、彼らはあなたを必要としています。

神様は、あなたを通して彼らを祝福するために、霊的な賜物を与えてくださいました。そして、私たちがほかのクリスチャンに仕えるとき、それは神様に仕えることでもあるのです。

だから、パウロは私たちに重要な教訓を示しています。

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(11)

もし私たちがプライドによって賜物を用いず、教会に仕えることをしないなら、いつか神様は私たちにその責任を問われるでしょう。

ですから、忘れないでください。私たちは他のクリスチャンに属し、また彼らも私たちに属しています。私たちは互いに必要な存在なのです。

だから、兄弟たちとの交わりを断つプライドを捨てましょう。そして、むしろパウロの言葉に従いましょう。

兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。(10)

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神様の思いを知ること

新改訳では、ローマ人への手紙12:2は次のように訳されています。

この世と調子を合わせてはいけません。(ローマ人への手紙12:2)

けれども、私はある英語訳も気に入っています。

この時代と調子を合わせてはいけません。

私たちはよく、「この時代」や「時代の変化」について話します。

もちろん、世界は日々変化しています。

私は1995年に日本に引っ越しましたが、当時はインターネットやメールがまだ新しいものでした。そのため、アメリカにいる家族と連絡を取る際は、航空便を送ったり、固定電話で電話をかけたりしていました。

時には、公衆電話とテレフォンカードを使うこともありました。(おそらく若い人には何のことかわからないかもしれません。)

けれども、テクノロジーの進歩だけでなく、人々の考え方も変化しました。特に道徳観念は大きく変わりつつあります。何が恥ずべき行為であり、何が悪い行為なのかという価値観は、今なお変化しています。

さらに、日本については確信がありませんが、欧米諸国では、人々が「寛容の時代」を生きていることが顕著に見受けられます。

私の言葉を誤解しないでください。もちろん、寛容そのものは良いことです。

「寛容」を正しく定義すると、その意味は 「私はあなたの意見に同意できないが、それでもあなたを尊重する」 ということです。そして、人々はその寛容を持って共に働き、互いに丁寧に接し、友好的な関係を築くことができます。

とはいえ、現代では「寛容」の意味が変化しています。それは 「すべての意見が正しい」 という考え方です。

つまり、もし二人が意見の対立をしても、「一方の意見が正しく、もう一方が間違っている」とは言えないことになっています。たとえ両者の意見が相反していても、どちらも「正しい」とされるのです。

そのため、「あなたの意見は間違っている」と発言すると、その人は「偏狭で悪い人」と見なされてしまいます。

ところが最近、特に欧米諸国では、クリスチャンの価値観に対して、多くの人々がこの「寛容な態度」を放棄しているのが現状です。

その結果、皮肉なことに、彼らはクリスチャンに対し 「あなたは間違っている。考え方を改めなければならない」 と迫るようになっています。

けれども、私たちが神様の思いを本当に知りたいと願うなら、この時代の人々の考え方に流されてはいけません。なぜなら、人々の価値観は変わり続けていますが、神様の考え方は決して変わらないからです。

とはいえ、この世の流れに同調するよう求められる圧力は、至るところからやってきます。社会からも、家族からも、友人からも影響を受けます。どこへ行っても、そのプレッシャーを感じるものです。

特に日本では、「和」という価値観が非常に重要視されています。そのため、私たちは調和を保つことへの圧力を感じます。

もちろん、可能な限り平和を守ることは大切です。パウロはこう語りました。

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ書12:18)

しかし、私たちが神様の御言葉に逆らうよう求められる圧力を感じることもあります。

そのようなときこそ、私たちはこの世の流れに迎合してはいけません。なぜなら、それは滅びへと導く道だからです。そして、私たちは神様を悲しませるだけでなく、人々を傷つけ、自分自身をも傷つけてしまいます。

だからこそ、この世の流れに流されることなく、パウロの言葉に従いましょう。

むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。(2b)

どのようにして私たちは心を新たにすることができるでしょうか。それは、神様の言葉によって可能になります。私たちは聖書を読み、深く味わい、聖霊の力によってその言葉に従います。

そうすることで、私たちは真の命を知ることができます。なぜなら、心の変化だけでなく、人生そのものが変えられるからです。

私たちは神様の計画のもとに生き始めます。私たちの結婚は祝福され、困難の中でも平安を知ることができます。死の影の谷を歩む時でさえ、私たちは喜びを見出すことができます。

簡単に言えば、私たちは神様の御心を知り、何が善であり、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるのです。

あなたはどうですか。あなたの思いはこの世の価値観に流されているでしょうか。それとも、神様の御言葉によって新たにされつつあるでしょうか。

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ローマ人への手紙

生きたささげ物

これは、聖書の中で最も有名な箇所の一つです。パウロはこう語りました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。

あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙12:1)

「ですから」などの接続詞を見たときは、それ以前の言葉を読むのがよいでしょう。パウロはこう語りました。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ人への手紙11:36)

「すべてのもの」という言葉について少し考えてみてください。この表現には、私たち自身も含まれています。

私たちは神様の計画によって造られました。神様の力によって形作られ、神様の栄光のために造られたのです。そして、最終的には神様の御前に立ち、裁きを受けます。

多くの人々はこう言います。

「これは私の人生だ。自分の思うままに生きる権利がある。」

けれども、それは真実の半分に過ぎません。もちろん、神様は私たちに自由意志を与えてくださいました。だから、その意味では、私たちは自分の選択によって生きる権利を持っています。

とはいえ、私たちの人生は本当に私たち自身のものなのでしょうか。

私たちは神様の力によって造られ、神様の目的のために存在しています。

だから、パウロはこう語ります。

「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」

それこそが、私たちにふさわしい礼拝なのです。

要するに、私たちは神様の力によって造られ、神様の目的のために造られたのだから、神様に自分のからだを生きた捧げものとしてささげるのは当然のことです。

では、「生きた捧げもの」とはどういう意味でしょうか。私たちは神様のために死ぬべきなのでしょうか。

確かに神様のために命を捧げる人もいますが、それはパウロの言うところではありません。パウロは、私たちが「生きた捧げもの」になるべきだと語っています。

「生きた捧げもの」について話すとき、私はよく結婚の比喩を使います。

結婚では、夫と妻が互いに自分自身を相手に捧げ合います。もちろん、私の妻は私が彼女のために喜んで命を捧げると聞けば嬉しいでしょう。

けれども、それ以上に、彼女は私が生き続けることを望むはずです。つまり、私が自分自身をほかの女性に捧げず、彼女だけに捧げることを望むのです。

さらに、妻は私が彼女を喜ばせたいと思うほどに、私が彼女を愛することを望みます。当然、私も妻から同じことを望みます。

そして、夫と妻が互いに生きたささげものとして自分自身を捧げ合うと、その結婚はうまくいきます。

同じように、もし私たちが喜んで神様のために命を捧げたいと思うなら、神様は喜ばれるでしょう。それでも、それ以上に、神様は生きたささげものを望まれます。

神様は、私たちが毎日すべてを捧げることを望んでおられます。また、私たちが神様を喜ばせたいと思うほどに、神様を愛することを望んでおられます。

では、なぜ私たちは自分自身を神様に生きた捧げものとしてささげたいと思うのでしょうか。それは、神様が私たちを憐れんでくださったからです。

神様は人間となられ、十字架で私たちのために死んでくださいました。私たちがまだ罪人であり、神様に反抗していたにもかかわらず、イエス様は私たちの罪のために命を捧げるほどに愛してくださいました。

そして、イエス様の死によって、私たちは神様との和解ができるのです。

私たちは神様の愛を知り、神様を愛しているのだから、自分自身を生きた捧げものとしてささげるのは当然のことでしょう。だから、私たちは毎日、神様を喜ばせたいと願います。

これこそが、生きた捧げものです。

あなたはどうですか。あなたは生きた捧げものとして歩んでいるでしょうか。

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私たちよりも優れた神

神様と議論する機会があれば、神様を言い負かすことができると思う人がいます。けれども、それは非常に愚かな考えです。

それでも、多くの無神論者はこう言います。

「もし神様が実在するなら、私は神様に対して、自分が神様の存在を信じなかった理由を説明できる。だから、神様を言い負かすことができるはずだ。」

けれども、この箇所でパウロは、そのような考えの虚しさを示しています。

ローマ書10~11章では、パウロは、神様がどのようにユダヤ人の不従順を用いて異邦人を救われたかを説明します。そして、異邦人の救いがどのようにユダヤ人の救いへとつながるのかを解説します。

パウロは、神様の計画を次のようにまとめます。

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。

それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。

神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。(ローマ人への手紙11:30-32)

この話を通して、私たちは神様の予知と予定説の関係を見ることができます。

神様は、ユダヤ人がイエス様をどのように扱うかをあらかじめ知っておられ、異邦人を救う計画を立てられました。とはいえ、神様は異邦人の救いによってユダヤ人が神様との関係を切望することも知っておられました。

そのため、神様は異邦人を救う計画を通して、あるユダヤ人がイエス様を受け入れ、救われることをも確かに知っておられました。

簡単に言うと、この宇宙のチェスボードにおいて、神様はどのようにご自身の目的を達成されるかを完全に理解されています。

神様はすでに私たちの選択を知っておられ、その選択にどのように応じるかもご存知です。

だから、私たちが何をしようとも、神様の御心は必ず成就します。そのように、人々は自由意志を持ちますが、神様もご自身の自由意志を持っておられます。

このことを考えたとき、パウロは圧倒されました。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。(ローマ人への手紙11:33-34)

要するに、神様の知識と知恵に匹敵する者は誰もいません。なぜなら、神様はすべての知識と知恵を持っておられるからです。その一方で、私たちはただの人間であり、私たちの知恵と知識には限界があります。

だからこそ、もし神様がご自身の計画を明かされなければ、私たちはその計画を理解することができません。そして、たとえ神様がご自身の計画を示されたとしても、その計画の深さを完全に把握することはできないのです。

例えば、多くの人はこう言います。

「もし神様が本当に良い方なら、どうしてこの世には悪が存在するのですか。」

けれども、彼らの議論は自身の無知から来ています。彼らは神様が知っておられることを知らないのです。そのため、彼らの議論は無意味となってしまいます。

それにしても、彼らはまるですべてを知っているかのように議論します。まるで神様が彼らの議論を論破できないかのように、自信満々に語るのです。

しかし、彼らが神様の御前に立つとき、神様は彼らの動機を明らかにされます。神様は彼らが知っていたことも、知っていたはずのこともすべて示されます。そして、神様は彼らの誤った考え方や仮定を暴き、真実を明らかにされます。

そのとき、すべての口は閉ざされ、全世界が神のさばきに服するのです。(ローマ書3:19)

神様を驚かせて、「私は知らなかった」と言わせるような言葉は、私たちには何一つありません。

また、私たちは神様にこう言うことはできません。

「私の行いを見てください。私は天国に入る資格があります。」

パウロの言葉は、まさに正しいのです。

だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。(35-36a)

私たちの持ち物のすべては神様から来ました。すべてのものは神様から発し、すべてのものは神様に帰されます。やがて、私たちも神様の御前に立ち、裁かれるのです。

だから、私たちには二つの選択があります。パウロのように、私たちはこう言うことができます。

この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(36b)

それとも、私たちは裁きの日まで神様に反抗し続けることができます。

ところが、その日が来ると、私たちの口は閉ざされ、神様の前で裁きを受けることになります。

あなたはどうしますか。あなたはどの道を選びますか。

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プライドの余裕がない

ほとんどのクリスチャンは、今では反ユダヤ主義的な態度を持っていません。けれども、過去にはそのようなクリスチャンもいました。

私には、そのような態度が決して理解できませんでした。なぜなら、今日の聖書の箇所で、パウロはそのような考え方を完全に否定したからです。

おそらく、反ユダヤ主義的な態度の根本にはプライドがあるのでしょう。この箇所で、パウロは私たちのプライドの根拠さえも打ち砕きます。

実は、イスラエルに対して不満を述べたとき、預言者エリヤもそのようなプライドを持っていました。エリヤはこう言いました。

私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエル子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。

ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。(列王記第一19:10)

要するに、「神様、私を見てください。私はあなたのために熱心を持っています。私の行為を見てください。けれども、ほかのイスラエル人はもう救いようのないのです。」ということです。

ところが、神様はエリヤにこう言われました。

わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。(列王記第一19:18)

だから、パウロはこう言いました。

「エリヤの時代と同じように、この時代にも、ユダヤ人の中には、神様に忠実であり、メシアであるイエス様に仕える残された信じる者たちがいます。

そして、私たちと同じように、そのユダヤ人たちも恵みによって選ばれました。」(ローマ人への手紙11:5)

そして、パウロは私たちに思い出させます。

恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。(6)

エリヤのように、多くのクリスチャンは、自分の行為によって救われると思っています。つまり、頭では恵みによって救われたことを理解しているかもしれませんが、心の奥では、他の人よりも優れているから救われたのだと思ってしまうのです。

けれども、パウロによれば、そのような考え方は間違っています。救いは恵みに値しない者に与えられるものです。

エリヤもまた、神様の恵みに値しませんでした。それでも、その恵みを受けました。

イゼベルに脅かされたとき、エリヤは神様に怒り、苦々しい思いを抱き、最終的に落ち込んでしまいました。それにもかかわらず、神様は手を伸ばしてエリヤを励まし、強めてくださいました。

私たちも、神様の恵みに値しません。けれども、神様は私たちに手を伸ばし、救ってくださいました。

だから、私たちはユダヤ人を見下すことはできません。私たち全員が、恵みによって救われたのです。

それで、パウロはユダヤ人を折られたオリーブの木の枝に例え、私たちを接ぎ木された枝に例えました。

けれども、パウロはこう言います。

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。

思い上がることなく、むしろ恐れなさい。もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。

ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。

倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。

ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。(18-22)

もう一度、パウロのポイントは、私たち全員が恵みによって救われたことを述べています。私たちの行いによって救われたのではなく、イエス様の十字架の御業によって救われたのです。私たちにできたことは、その御業を信じることだけです。

だからこそ、私たちにはプライドの余裕などありません。

だから、イエス様を信じないユダヤ人を批判する人は、自分自身を振り返るべきです。彼らは自らにこう問うべきです。

「私は信仰と恵みによって立っているのか。それとも、自分の行いに頼っているのか。もし自分の行いによって立っているなら、私は破滅へと向かっている。しかし、恵みによって立つなら、そこにプライドの余裕はまったくない。」

あなたはユダヤ人を見下さないかもしれません。けれども、ほかの人々を見下してはいないでしょうか。自分は彼らよりも優れていると思ってはいないでしょうか。

そのような考え方は誤っています。もしあなたが他の人よりも優れているなら、恵みはもはや恵みではなく、あなたの救いは当然の報酬になってしまうでしょう。

だから、謙遜な態度を持ち、神様に感謝してください。神様の国では、私たちにはプライドの余裕などないのです。

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信じることを拒否すると

以前の記事で、私は救いの逆説について述べました。つまり、救いの道は簡単でありながら、同時に難しいのです。

私たちがただ神様を信じ、イエス様の十字架の働きを信じるなら、救われます。それでも、多くの人々はそうしません。ユダヤ人はその代表的な例です。

そこで、パウロはこう語りました。

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。(ローマ人への手紙10:16)

それはユダヤ人だけの問題ではありません。この世の多くの人々も同じ問題を抱えています。今なお、パウロの言葉は世の人々に当てはめることができます。

「主よ、私たちが聞いたことを、誰が信じたでしょうか。」

そして、パウロは重要な真理を語ります。

ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。(ローマ人への手紙10:17)

要するに、人々が救われるためには、二つのことが必要です。人々は福音を聞かなければならず、また、そのメッセージを信じなければなりません。

では、なぜユダヤ人や他の人々は信じないのでしょうか。イエス様は彼らに語られなかったのでしょうか。それとも、彼らは聞かなかったのでしょうか。そうではありません。

パウロはこう書きました。

では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、

むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。(18)

パウロは詩篇19:4を引用しました。その詩篇では、詩人が「天は神の栄光を語り告げる」と歌っています。

パウロはこの詩篇を福音に当てはめ、福音が世界の果てまで届いたことを示します。

そして、パウロは問いかけます。

では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。(19)

彼らは知っているはずでしたが、結局、神様の言葉を理解できなかったようです。

そして、パウロは救いの皮肉について語ります。神様はまずユダヤ人にご自身を現されましたが、彼らは神様に背を向けました。そこで、神様は異邦人のもとへ行かれ、異邦人は信じたのです。

だから、パウロはイザヤの言葉を引用します。

わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。(20)

この箇所では、神様は異邦人について語られました。異邦人はそれぞれ自分の道を歩み、神様を全く求めていませんでした。

それにもかかわらず、神様はご自身を彼らに現されました。その結果、異邦人は神様を信じるようになったのです。

とはいえ、ある意味では、この箇所をユダヤ人にも当てはめることができます。彼らも神様を求めてはいませんでした。彼らはエジプトで奴隷であった時、偶像を礼拝していました(ヨシュア24:14)。

それでもなお、神様はご自身を彼らに現されました。では、彼らの反応はどうだったでしょうか。

神様は彼らについて、こう言われました。

わたしは終日、手を差し伸べ た。不従順で反抗する民に対して。(21)

では、なぜ彼らは信じなかったのでしょうか。

彼らはいくつもの奇跡を目の当たりにしました。神様はエジプトに数々の災害を送り、紅海を分け、砂漠でマナを与えられました。ユダヤ人には信じる理由が十分にあったのです。

そして、イエス様が来られました。イエス様も多くの奇跡を行い、悪霊を追い出し、卓越した知恵を教えられました。けれども、彼らはイエス様を拒絶しました。

なぜでしょうか。

ほかの者たち(つまり、神様を信じないユダヤ人たち)は頑なにされたのです。

「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」と書いてあるとおりです。(11:7-8)

パウロはイザヤ書29章を引用しました。私はこの箇所についてさらに説明しますが、その要点は、ユダヤ人が先に自分の目を閉じたことにあります。そこで、神様は彼らにこう言われました。

「あなたは見たくないのですか。では、あなたは霊的な盲人になれ。」

ユダヤ人は何百年もの間、神様の御業を目の当たりにし、み言葉を聞いてきました。ところが、どうしても信じることができませんでした。そのため、神様は彼らを自らの不信へと引き渡されました。

福音を聞く者は、この危険に直面します。もし私たちがずっと心を頑なにし続けるなら、神様は私たちにこう言われるかもしれません。

「信じたくないなら、信じるな。」

そして、私たちは不信の結果を受けることになります。それは、死です。

だから、救いのメッセージに対して心を閉ざさないでください。そうしなければ、霊的な目が見えなくなり、やがて永遠の死へと向かうことになるでしょう。

むしろ、心を開きましょう。イエス様とその福音だけが、あなたを救うのです。

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神様の取り消されることのない召命

救いの神秘の一つは、救いが神様の召命を通して与えられるものであり、その召命は決して取り消されることのないものだということです。

パウロはイスラエルの例を用いて、この真理を描写しています。神様がさまざまな奇跡を行い、恵みを与えられたにもかかわらず、イスラエル人は心を頑なにし、神様に背を向けました。

そして、パウロはこう言いました。

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。(ローマ人への手紙10:1a)

パウロの答えは何でしょうか。

決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。(2b)

要するに、「私はユダヤ人ですが、救われました。だから、神様がすべてのユダヤ人を退けたとは言えません。」

そして、パウロは非常に興味深いことを語ります。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。(2)

では、パウロのポイントは何でしょうか。

神様はあらかじめユダヤ人がご自身に対して心を頑なにすることを知っていたにもかかわらず、彼らを選ばれました。ユダヤ人が神様を拒絶し、イエス様を十字架につけたとき、神様は決して驚かれませんでした。

したがって、ユダヤ人の行為によって、神様が突然彼らを退けることを決めたわけではありません。

むしろ、神様はあるユダヤ人がイエス様を拒絶することを知っておられましたが、他のユダヤ人がイエス様を信じることも知っておられました。

どうしてそう知っていたのでしょうか。それは、神様が世界を創造される前から、彼らを救いのために選ばれていたからです。

だから、預言者エリヤが神様に「私だけがあなたに従っている」と訴えたとき、神様はこう答えられました。

「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」(4)

だから、パウロは自分の時代のユダヤ人について、こう語りました。

ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(5)

そして、パウロは神様の救いの計画を明らかにします。神様はこの世が造られる前から、その計画を立てられました。その計画とは何でしょうか。

ユダヤ人が自分のメシアを拒絶したことによって、福音は全世界に広がり、多くの異邦人(ユダヤ人ではない人々)が救われ、神様の子供となりました。

そして、ユダヤ人はその神様との関係に憧れ、神様が彼らをその関係へと召されたことを思い出します。だから、彼らは自らの愚かさを認識し、悔い改めて救われます。

最終的に、すべてのユダヤ人がイエス様を認め、救われるようです(26ー27)。

そして、パウロはこう語りました。

彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。(28)

要するに、ユダヤ人はクリスチャンを迫害していました。それでも、神様はなおもユダヤ人を愛し、彼らを救おうとされました。

なぜでしょうか。彼らが善良な人々だったからでしょうか。違います。神様はアブラハム、イサク、ヤコブのゆえに彼らを愛されているのです。

さらに、神様はこの三人に約束をされ、その約束を決して取り消されません。

だから、パウロはこう語りました。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(29)

その言葉は私たちにも当てはめられます。神様の賜物と召命は決して取り消されることがありません。

私たちが生まれる前から、神様はすでに私たちを知っておられました。神様は私たちの疑いをも、失敗をも知っておられました。それでもなお、神様は私たちを選ばれたのです。

だからこそ、私たちが疑うときや失敗するときに、神様が私たちを見捨てるのではないかと恐れる必要はありません。なぜなら、神様の賜物と召命は決して取り消されないからです。

そして、パウロが言ったように、神様が始められたことを必ず完成されます。(ピリピ人への手紙1:6)

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私たちが福音を宣べ伝える必要

私が前に述べたのは、この世が造られる前に、神様がご自分の子供として私たちを選ばれたということです。

あるクリスチャンたちはこの考えを信じますが、こう言うことがあります。「もし神様が誰を救うかをすでに選んでいるのなら、私たちには福音を伝える必要がないのではないか。」

それは極端な考えです。そのように言う人々は重要なことを見逃しています。神様は私たちに福音を伝えるよう命じておられるのです。

もちろん、神様には私たちの助けは必要ありません。それでも、神様は福音を伝えるために、私たちを用いることを選ばれます。

神様は私たちに御国の鍵を与えてくださいました。けれども、私たちがその鍵を用いなければ、救われる人は誰もいないでしょう。

だから、パウロはこう言います。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。

聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。

宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(ローマ人への手紙10:14)

そのすべての答えは同じであり、明確です。つまり、その答えは「それは不可能だ」ということです。

信じたことのない人は主を呼び求めません。聞いたことのない方は、信じることができません。福音を宣べ伝える人がいなければ、それを聞く人は誰もいないのです。

だからこそ、パウロはこう言います。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(15)

答えはもう一度、「それは不可能だ」です。

しかし、ここで重要な点があります。神様は私たち信者全員を、行って福音を伝えるように召されました。

イエス様は弟子たちに語られましたが、それは私たちにも向けられた言葉です。

父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。(ヨハネの福音書20:21)

また、

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け(ます)。(マタイの福音書28:19)

私たちはイエス様からの召しを待つ必要はありません。イエス様はすでに私たちを呼ばれました。

だから、パウロは福音を宣べ伝える人についてこう言います。

「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。(ローマ人への手紙10:15)

あなたはどうでしょうか。神様から御国の鍵を授けられています。あなたはそれをどのように用いるでしょうか。

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私たちがしなければならないこと

ある意味では、救いの道は矛盾しているものです。つまり、その道はとても簡単だけど、それと同時に難しいのです。

パウロはこう書きました。

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、「だれが天に上るのか』と言ってはならない。」

それはキリストを」とは、引き降ろすことです。

また、「「だれが深みに下るのか」と言ってはならない。」

それはキリストを死者の中から引き上げることです。(ローマ人への手紙10:6-7)

つまり、救いを得るために、私たちがイエス様を天から引き下ろす必要はありません。また、イエス様を墓から掘り出す必要もありません。

イエス様はすでに天から来られ、私たちの罪のために死に、そして復活してくださったのです。

では、私たちに残されているものは何でしょうか。

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」

これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ人への手紙10:9-10)

簡単に言うと、私たちは心の中にイエス様を主として認め、イエス様が十字架で行った働きを認めることです。

「イエスは主」と言うと、私たちは実は何と言っているのでしょうか。パウロはこう説明します。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。(11-13)

その最後の部分で、パウロはヨエル書2:32を引用しました。そして、「主」という言葉は、ヘブル語では、「ヤハウェ」です。

「ヤハウェ」とは、神様の名前です。だから、私たちはこの箇所をこのように翻訳することができます。「ヤハウェの御名を呼び求める者はみな救われる。」

パウロはこの箇所をイエス様に当てはめます。だからパウロが言ったのは、イエス様はヤハウェだということです。要するに、イエス様ご自身が神です。

パウロはピリピ人への手紙2章で、似たことを説明します。その箇所では、パウロはイザヤ書45:23を引用します。イザヤ書45:23で、ヤハウェはこう言います。

すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い。。。

そして、パウロはその言葉をイエス様に当てはめます。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。)「ピリピ2:10-11)

だから、私たちが救われたいと思うなら、私たちはイエス様を主と神として認めなくてはなりません。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きを認めなくてはなりません。つまり、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んで、復活したことを信じなくてはならないことです。

でもそのことを信じるだけでは足りません。私たちは主を呼び求めなくてはなりません。

悪霊たちはイエス様が主であることを知っています。悪霊たちは、イエス様が罪のために死んで、復活したことを知っています。でも、彼らは救われていません。

ただの知識では足りないのです。私たちはイエス様に「私を救ってください」と願わなくてはなりません。そうすれば、イエス様は必ず私たちを救ってくださいます。

だから救いはとても簡単なことです。でもそれと同時に、救いは難しいです。なぜ救いは難しいのでしょうか。なぜなら、多くの人々はそう信じたくないからです。

多くの人々は「私は信じることができません。」と主張します。

でも、神様は私たちに十分な証拠を与えてくださいました。私たちには言い訳がありません。すべての人々は信じることができるけど、あえて信じないことを選びます。

自分のプライドのために信じない人もいます。

「その救いの方法は簡単すぎる。自分自身を救うために、私はもっと難しいことをするべきはずです。」

または、

「神様を必要としない。私はもう大丈夫です。霊的な松葉杖が要らない。」

または、

「私は知的な人だから、もう神様を信じない。」

他の人は、自分の罪に執着しすぎます。だから、その罪が彼らを滅ぼしているのに、彼らはその罪を手放し、神様に従いたくないのです。

あなたはどうですか。あなたはどうするのですか。

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どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか(2)

前回の記事で、私は「なぜ神様への道はイエス様だけなのか」という疑問について話しました。今日の記事では、この疑問をさらに深く掘り下げたいと思います。

前回の記事でも述べたように、パウロは特にユダヤ人について語っています。とはいえ、彼の言葉はすべての宗教的な人々にも当てはまると思います。

パウロはこう言いました。

兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。

私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。(ローマ人への手紙10:1-2)

パウロは非常に重要なポイントを教えています。

多くのユダヤ人や宗教的な人々は神様に対して熱意を持っています。もちろん、それは良いことです。しかし、知識に基づかない熱意は必ずしも良いものではありません。

特に、彼らは神様が最も望んでいるのは信仰であるということを理解していません。

さらに、パウロはこう言います。

彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。(3)

これは宗教的な人々が抱えるもう一つの問題です。彼らは本当の義を知らないため、「義」を勝手に定義してしまいました。

つまり、何が良いことであり、何が罪であるのかを、自分たちの基準で決めてしまったのです。彼らは、神様が何を望んでおられるかを想像し、その想像に基づいて独自のルールを作り上げました。

そのため、彼らが本当の義、つまりイエスを信じる信仰による神の義を知ったとしても、その義を拒絶してしまいます。むしろ、彼らは自分で作り上げた道を歩み続けます。

しかし、もしあなたがどれほど熱意を持っていたとしても、神様の基準に反する基準を築いてしまっているなら、神様はそれを喜ばれません。

実際、たとえ神様が人間的な基準を許されたとしても、人々は自ら定めた基準を完全に満たすことができません。

だから、パウロはこう言いました。

モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。(5)

もちろん、パウロはユダヤ人とモーセの律法について語っていました。

しかし、少し考えてみてください。日本では、誰が日本のルールや法律を完全に守ることができるでしょうか。

完全にルールや法律を守る人は誰もいません。それでも、多くの人は、ルールを守ることによって神様を喜ばせようとします。

だからこそ、自分の宗教的なルールを築くとき、二つの意味で彼らは失敗してしまいます。

第一に、彼らの基準が神様の基準ではないことです。

第二に、彼らは自ら定めた基準を完全に満たすことができないということです。

では、なぜ彼らは、神様が自分たちを受け入れてくださると考えるのでしょうか。特に、神様が最も望んでおられるのは、彼らが神様に信頼することですが、彼らはそうしないのです。

それではいけません。

だからこそ、パウロはこう言います。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(4)

簡単に言えば、私たちは自分の基準や宗教を手放す必要があります。なぜなら、それらによって神様を喜ばせることはできないからです。だからこそ、イエス様に心を向けましょう。

キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(第一コリント1:30)

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どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか

多くの人々のキリスト教に関する一つの疑問は、「どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか。どうしてほかの道で救われることができないだろうか。」ということです。

この箇所では、パウロは一つの答えを教えます。パウロは特にユダヤ人たちについて話しているけど、その言葉がこの世界のすべての宗教的な人に当てはめられると思います。

パウロはこう言いました。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。

しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。(ローマ人への手紙9:30-31)

パウロの言葉をちょっと言い換えて、この世の人々に当てはめましょう。

それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかったクリスチャンたちが義を、すなわち、信仰による義を得ました。

しかし、ほかの宗教を信じる人は、自分の宗教の義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。

どうして私たちはそのようなことを言えるでしょうか。その人々が頑張って自分の宗教の律法に従っても、どうして私たちは彼らの努力が足りないと主張するでしょうか。

パウロはこう言いました。

なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。(32)

要するに、彼らが神様に義と認められる方法かわからないことです。彼らの考え方は全く違います。

私たちは自分の良い行為によって、義と認められません。むしろ信仰だけによって、私たちは義と認められます。

この例をちょっと考えてみてください。

愛を伝える5つの方法」という有名な本がありますす。

その著者が言ったのは、一人一人は、違う方法で愛を感じるということです。

例えば、相手がプレゼントをくれるときに愛されると感じる人もいれば、何かをしてもらうときに愛されると感じる人もいます。また、褒められることで愛されると感じる人もいます。

とにかく、夫がどのように妻に愛を伝えるべきか知らないなら、または、妻がどのように夫に愛を伝えるべきか知らないなら、結婚の中で問題が出てきます。

例えば、夫は妻のためにたくさんのプレゼントを買うけど、彼の予想通りに妻が反応してくれないので、夫はフラストレーションを感じます。

もしかしたら、彼の場合、妻がプレゼントをくれるとき、彼はとても愛される感じがするかもしれません。でも、彼が知らないのは、妻がプレゼントよりも夫との時間を望むことです。

だから、彼はたくさんのプレゼントを買っても、彼女は彼の愛を特に感じません。

そのように、人々は、神様に受け入れられるのに、彼らは頑張ってたくさんの良い行為をしなくてはならないと思います。

でも、彼らがわからないのは、もちろん神様が良い行為を見て喜ばれるけれど、それよりも、神様は私たちの信仰を望まれているということです。つまり、私たちが神様に信頼する態度を望むのです。

アダムとエバの話を通して、神様の望みを知ることができます。神様は彼らにこう語られました。

「私に信頼しなさい。その木の実を食べてはならない。その実を食べると、あなたは必ず死ぬ。」

しかし、彼らは神様を信じずにその実を食べたため、神様との関係は壊れてしまいました。

聖書を読むと、このパターンが繰り返されるのを何度も目にします。神様は人々に「私に信頼しなさい」と語られましたが、彼らは神様を信じることなく、神様に背を向けてしまいました。

今もなお、このパターンは続いています。神様は人々にこう語られます。「私に信頼しなさい。イエスを信じなさい。イエスはあなたのために救いの働きをすべて成し遂げたのだから。」

けれども、人々は神様を信じず、自分の努力によって義と救いを得ようとします。

だから、パウロはこう言います。

彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。(32-33)

あなたはどうでしょうか。自分の努力と良い行いで神様を喜ばせようと思っているでしょうか。

それは無駄なことです。神様はあなたの努力を求めておられるのではありません。むしろ、神様はあなたの信仰を望まれています。

あなたは神様に信頼しているでしょうか。イエス様に信頼しているでしょうか。そうしなければ、あなたはつまずいてしまいます。

しかし、神様に信頼すると、神様があなたを受け入れてくださるので、決して失望させられることはありません。

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神様の選びの神秘(5)

予定説に関するもう一つの疑問についてお話ししたいと思います。

以前にも述べたように、もし神様が人の心の中で働かれなければ、誰も救われることはありません。それなら、なぜ神様はすべての人々の心の中で働かれ、すべての人々を救われないのでしょうか。

正直に言うと、私にはわかりません。おそらく、私が理解できない要素があるのでしょう。さらに、聖書には神様がその理由を説明されていません。

しかし、私たちは二つのことを心に留めるべきです。

第一に、神様は人の信仰を非常に大切にされます。そして、信仰とは、目には見えなくても神様に信頼することです。

けれども、ある人々にとって、神様を信じる前に自分の目で神様を見たいと願うことがあります。彼らは基本的にこう言います。

「神様の存在を証明する証拠があることは認める。それでも、自分の目で見ない限り、私は神様を信じない。」

でも、それは信仰の姿勢ではありません。さらに、多くの場合、その言葉は反抗的な心から生じています。そのため、神様はその願いを叶えられないことが多いのです。

では、もう一つのことを考えてみましょう。

神様が人々の人生の中で働かれるとき、多くの場合、クリスチャンを通して働かれます。

そして、神様は私たちにこの世の人々に福音を述べ伝える責任を与えられました。神様は天の御国の鍵を私たちに与えてくださいました。それを使わずに福音を伝えないなら、私たちは神様に問われることになります。(エゼキエル書33:7~9)

それでも、神様は私たちにその鍵を使うことを強制されません。

だから、神様が人々の人生の中で働かれるとき、二つの方法を用いることができます。

第一に、神様は直接働かれることができます。つまり、神様はご自身を直接現されることができるのです。とはいえ、神様は信仰を望まれるため、その方法をほとんど用いられません。

もう一つの方法は、神様が人々を通して他の人々に触れられることです。ただし、神様はクリスチャンたちに福音を伝えることを強制されません。

そのため、多くの人々が救われないままとなります。

では、神様の考え方は正しいのでしょうか。神様は私たちの創造主であり、すべてのことを知っておられます。

一方、私たちはただの人間であり、限られたことしか理解できません。そのため、神様の判断を批判することはできないでしょう。

だから、予定説について考えるとき、最終的にアブラハムのように私たちはこう言うべきなのです。

全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。(創世記18:25)

結局、私はそう思います。そして、神様が公正を行われることを信じます。

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神様の選びの神秘(4)

予定説について話す際によく出る質問は次のようなものです。

「あなたは、神様が誰を天国へ導くかをあらかじめ定めると主張します。ということは、神様は誰が地獄に行くかも、あらかじめ定めているのではないでしょうか。」

前回の記事で、この疑問についてある程度触れました。

ある意味では、神様は誰が地獄に行くかをあらかじめ定めておられます。しかし、誤解しないでください。神様は決して、こう言われることはありません。

「あなたは地獄に行け。たとえ悔い改めようとも、イエス様を信じようとしてもかまわない。私はすでにあなたの運命を決めているのだから。」

むしろ、神様はこう語られます。「私の計画は、あなたの罪のためにあなたを罰することです。私は正義を執行しなくてはなりません。」

それでも、神様はその宣告を猶予され、その人が純粋に自分の意志で悔い改めるかどうかを待っておられます。その人が自らの意志のみで神様を求め始めるかどうかを待っておられます。

悲しいことに、自分の意志だけで神様を求める者は誰もいません。

だからこそ、私はこう信じます。人々は自らの自由意志によって地獄に行きます。しかし、神様の選びによって、人々は天国に行きます。

神様は人々に自由意志を与えてくださいました。私たちは皆、神様に従うかどうかを選ぶことができます。

ところが、もし神様が私たちの心の中で働かれず、私たちをそのままにされていたなら、私たちは皆、神様に反抗し、自分の道を進んでいくでしょう。例外は一切ありません。それが人類の歴史なのです。

そのため、神様は決断をしなくてはなりませんでした。神様が人間をそのままにされ、すべての人が滅びることを許されることもできました。あるいは、神様が働かれ、ある人々を救われることもできました。

そして、神様は最終的に、ある人々を救うことを選ばれました。

それゆえ、パウロはこう語りました。

また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。

「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」(ローマ人への手紙9:29)

ソドムとゴモラの人々は、自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。神様は彼らを憐れむことを選ばれず、彼らが値する裁きを与えられました。つまり、彼らは裁かれて死にました。

同様に、イスラエル人たちも自らの自由意志で神様に反抗することを選びました。しかし、神様は彼らを憐れまれ、彼らが値しないものを与えてくださいました。それは、命に至る恵みです。

では、ソドムとゴモラの人々とイスラエル人たちは何が違ったのでしょうか。イスラエル人たちはソドムとゴモラの人々よりも優れた者だったのでしょうか。

いいえ、そうではありません。違いはただ一つ、神様の選びです。

神様はイスラエル人を選ばれました。一方で、神様はソドムとゴモラの人々を選ばれませんでした。

もう一度言います。それこそが、恵みの不思議さです。私たちは、他の人々より優れた者ではありません。それでも、神様は私たちを救うことを選ばれました。

それゆえ、私たちは神様の選びによって救われたのです。その一方、人々が地獄に行くのだとすれば、それは自らの選択によるものです。

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神様の選びの神秘(3)

前回の記事で私たちが見たのは、神様が人々を裁くことを決められる一方で、その裁きを猶予されるということです。その間、神様は彼らにこう語られます。

「私はあなたを裁こうと思っている。それでも、私の判断が誤っていることを証明する機会をあなたに与えよう。もし私が間違っているなら、それを証明しなさい。あなたが滅びに値しないことを示しなさい。」

そして神様は忍耐をもって、彼らの応答を待っておられます。

エゼキエル書にも、神様の考え方が示されています。神様はエゼキエルにこう語られました。

わたしは生きている──神である主のことば──。

わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。

イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

また、

わたしが悪しき者に「あなたは必ず死ぬ」と言っても、もし彼が自分の罪から立ち返り、公正と義を行い、その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。

彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公正と義を行った彼は必ず生きる。(エゼキエル書33:14-16)

とはいえ、以前にも述べたように、問題は人々が悔い改めることなく、ますます悪くなってしまうことです。ファラオはその典型的な例の一つです。

神様はまずファラオに警告されました。その後、神様は彼を裁かれました。

それでも、ファラオは自分の心を柔らかくすることはありませんでした。彼は悔い改めませんでした。むしろ、彼は意図的に、自分の心を頑なにしたのです。

出エジプト記7:13、7:22、8:15、8:19、8:32、9:7において、そのパターンを見ることができます。

そして、その後、私たちは初めてこの言葉を目にします。

主はファラオの心を頑なにされた。(出エジプト記9:12)

ファラオが何度も自らの心を頑なにした後、神様は彼にこう語られました。

このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:16;ローマ9:17)

ファラオはそれを聞き、さらにもう一つの奇跡を見た後、一時的に心を柔らかくしました。ところが、すぐに再び自らの心を頑なにしてしまいました。(出エジプト記9:34)

その後、神様ご自身がファラオの心を積極的に頑なにされました。神様は基本的にファラオにこう語られました。

「あなたは自らの心を頑なにしたいのか。それならば、私はそのプロセスを速めよう。」

神様は、ファラオの心を変えるために、さらに何かをすることができたでしょうか。神様は、ファラオが悔い改めるまで憐れみを示すことができたでしょうか。

確かに、そうだったかもしれません。それでも、神様にはそのような義務があったわけではありません。むしろ、神様には罪を罰する義務がありました。そして、神様はその義務を果たされたのです。

恵みの不思議さはこうです。

私たちはファラオ同然でした。私たちは自らの心を頑なにしましたが、それでも神様は私たちを罪の状態のままにはされませんでした。

さらに、神様は私たちに値する罰を与えられませんでした。むしろ、私たちがようやく神様を信じ、愛するまで、神様は私たちを憐れんでくださいました。

だからこそ、ファラオのような話を読むとき、私たちはファラオや他の裁かれた人々を見下すことなどできません。

むしろ、パウロはこう語ります。

しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。(ローマ人への手紙9:23)

つまり、私たちがこのような話を読むとき、自分たちが裁かれた人々と同然であるにもかかわらず、神様が私たちを選び、救ってくださったことに驚くはずです。

私たちはかつて神様の民ではありませんでした。それでも、神様は私たちをご自身の子供として迎え入れられました。

私たちは神様の愛に値しなかったのに、神様はその愛を私たちに惜しみなく注がれました。(9章24~27節)

それこそが、恵みの不思議さです。

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神様の選びの神秘(2)

前回の記事の最後で、私はこう問いかけました。「もし私たちの救いが神様の選びによるのなら、神様はみだりに誰を救い、誰を地獄に送ることを決めているのでしょうか。」

もちろん、神様はみだりに選ばれることはありません。神様は確固とした計画を持っており、すべての決断はその計画に基づいています。

私たちの問題は、神様がその計画を私たちに完全に明らかにされていないということです。また、神様はご自身の決断の理由をすべて示されているわけではありません。特に、なぜある人々を救い、ある人々を救われないのかについては説明されていません。

そのため、この疑問をどのように考えても、私たちは完全に理解することはできません。神様はすべてをまだ明らかにされていないからです。

だから、多くの人々は、神様の選びが不公平に思えるのです。

神様は、「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ」と言われました。(15節)

そして、パウロはこう記しています。「ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。」(18節)

すると、人々はこう叫びます。

「不公平だ。どうして神様はある人を憐れむのに、ある人を憐れまないのか。

もし神様がある人々を憐れまず、その心を頑なにされるのであれば、どうして神様は彼らを地獄に送るのか。

それは彼らのせいではない。だって、誰が神の意図に逆らえるのですか。」(19節)

パウロは、二つの答えを示します。

人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。(ローマ人への手紙9:20-21)

要するに、神様は創造主です。神様はご自身が造られたものを、思うままに扱う権利を持っておられます。また、神様はご自身の目的を果たすために、その造られたものを自由に用いる権利も持っておられます。

とはいえ、そのように述べた後で、パウロは興味深いことを語ります。

それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、どうですか。(22)

パウロは何を伝えたいのでしょうか。たぶん、パウロのポイントはこうです。神様はご自身の計画を立てられましたが、滅びるべき怒りの対象となる人々にこう問いかけられました。

「あなたは私の判断が間違っていると思うのか。では、私の判断が誤っていることを証明しなさい。あなたが救いに値することを証明してみなさい。」

そして、神様は待っておられました。そして、さらに待っておられました。そして、さらに待っておられました。ところが、神様が待てば待つほど、人々はますます悪くなりました。

カナン人は、その例の一つです。アブラハムが初めてカナンに到着した時、神様は彼にこう語られました。

そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。(創世記15:16)

要するに、神様はアモリ人たちを裁くことを決められましたが、すぐにその裁きを実行されたわけではありません。むしろ、神様は彼らが滅びに値しないことを証明する機会を与えられました。

それでも、日々彼らが証明したのは、まさに自分たちがその裁きに値するということでした。そして、神様がイスラエル人をエジプトからカナンに導かれた時、イスラエル人を通してその裁きを実行されたのです。

大洪水の前にも、神様は同じようなことをされました。ノアは長い間、周囲の人々に警告しました。「神様はあなたたちを裁くことを決断された。あなたが悔い改めなければ、必ず滅びるでしょう。」

ノアが箱舟を造っている間、彼は彼らに繰り返し警告していました。そのため、彼らには悔い改める機会が十分に与えられていました。

彼らは神様の判断が誤っていることを証明する機会を持っていました。彼らがそれほど悪い人間ではないことを証明する機会も与えられていました。

けれども、結局彼らが証明したのは、自分たちがその裁きに値するということでした。

だから、心に留めておきましょう。人々が本当に神様を求め、従いたいと願うのに、神様がみだりに彼らを地獄に送ることはありません。

彼らが「神様、私は悔い改めます。赦してください。」と言うのに、神様が「残念だが、私はあなたを選んでいないので、君は地獄に行かなくてはならない」と答えることは決してありません。

むしろ、人々が神様に背を向けることを選び、神様がどれほど悔い改めの時間を与えられても、彼らは自分が滅びに値することを証明してしまいます。

だから、パウロはこう語ります。

ですから、これ(つまり、神様の選び)は人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(16節)

もし、神様の選びが私たちの願いや努力によるものなら、救われる人は誰もいないでしょう。なぜなら、神様が彼らを放っておかれたら、神様に従おうとする人は誰もいないからです。

だからこそ、神様の選びはただご自身の恵みと憐れみによるのです。

次の記事で、そのことをさらに詳しく説明します。

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神様の選びの神秘(1)

聖書の中で最も難しい概念の一つは、神様の選びです。つまり、神様が人々を聖徒として選ばれることです。

神様の選びを考えると、人間の自由意志という概念と矛盾するように思えます。また、神様の選びは、神様がすべての人々を愛しておられるという考え方とも矛盾しているように感じられます。

私の意見を述べる前に、まず言わなければならないことは、神様の選び、また予定説について、私たちの知識は不完全であるということです。どのように考えても、私たちはこの概念を完全に理解することはできません。

今日の箇所で、パウロはユダヤ人に対する自分の悩みを表現しています。なぜパウロは悩んでいたのでしょうか。それは、神様がご自身をユダヤ人たちに現されたにもかかわらず、多くのユダヤ人がイエス様をメシアとして拒絶したからです。

パウロ自身がユダヤ人であったため、特に深く悲しんでいました。

それでも、パウロは、アブラハムの子孫への神様の約束が無効になったわけではないと語ります。そして、パウロはその理由を二つ示します。

一つの理由は、11章に書かれています。もう一つの理由は、この箇所に記されています。

パウロの最初の答えは、単なる血統によって「私はユダヤ人だ」と主張することはできないということです。このことを説明するために、パウロはイサクとイシュマエルの例を挙げます。

パウロは「肉の子供」と「約束の子供」を対比します。

「肉の子供」とは、自然に生まれた子供のことです。イシュマエルは肉の子でした。アブラハムはハガルという若い女性と関係を持ち、その結果イシュマエルが生まれました。

一方で、イサクは「約束の子」でした。アブラハムの妻サラは長年、不妊の状態でしたが、神様は「サラは息子を産む」と約束されました。そして、彼女が90歳になった時、イサクを生みました。

彼女は神様の約束と力によってのみ、イサクを生むことができたのです。

このように、アブラハムの子孫となることは、自然のプロセスによるものではありません。それは血統によるものではなく、むしろ神様の恵みと約束によってのみ、私たちはアブラハムの霊的な子孫となるのです。

そして、パウロは重要なポイントを教えます。その約束は、私たちの行動に基づいているのではありません。

エサウとヤコブの話を通して、パウロはこの真理を説明します。

その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。(ローマ人への手紙9:11-12)

パウロのポイントは何でしょうか。神様がヤコブを選んだ理由は、ヤコブがエサウよりも優れた人だったからではありません。ヤコブが品行方正だったから、神様が彼を選ばれたわけでもありません。

むしろ、神様は恵みによってご自身の目的を果たすために、ヤコブを選び、約束をされたのです。

多くの人々は神様の選びを次のように説明しようとします。

「神様はご自身の予知によって人々を選ばれました。神様は誰が良い人になるか、悪い人になるかをあらかじめ知っておられました。また、神様は誰が神様を選ぶか、選ばないかをあらかじめ知っておられました。だから、神様はその予知によって人々を選ばれたのです。」

しかし、もし神様がそのように人々を選ばれるのであれば、11節にあるパウロのポイントは意味を持たないことになります。

この考え方によれば、人々の選びは彼らの行為によるものではなく、彼らが将来何をするかという神様の知識によって決定されることになります。

けれども、パウロによれば、神様の選びは人々の過去の行いにも将来の行いにも左右されないのです。

むしろ、パウロは「行いによるのではなく(過去の行いでも、将来の行いでも)、召してくださる方によって」と語っています。

そして、パウロは預言者マラキの言葉を引用します。

わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。(13)

私はその言葉をこの記事でさらに詳しく説明しましたが、簡単に言えば、神様のポイントは、ヤコブの行いによるのではなく、神様の恵みと目的によってヤコブを選ばれたということです。

けれども、それは不公平ではないでしょうか。神様は、誰を救い、誰を地獄に送るのかを、みだりに選ばれるのでしょうか。

次の記事で、その疑問について詳しく考察します。

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私たちが苦しんでも

今日の箇所では、パウロは15-18節の話をまとめています。

15-16節では、パウロは私たちが神様とどのような関係を持っているのかを教えています。私たちは神様を恐れずに、神様の御前に来て「アバ、お父さん」と呼ぶ権利を持っています。

そして、17-18節では、パウロは私たちがこの世界で苦しむこともあると警告しています。

時には、私たちはイエス様に従うゆえに苦しみます。時には、ただこの壊れた世に住んでいることで苦しむのです。

けれども、35節では、パウロは私たちにとても大切なことを思い出させます。私たちは苦しむとき、この言葉を心に留めるべきです。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」(ローマ人への手紙8:35-36)

もちろん、その答えは、私たちをキリストの愛から引き離せるものは何もないということです。

私たちが直面する苦難、迫害、災害、飢えなどは、私たちをその愛から引き離すことはできません。たとえ私たちが死んでも、神様の愛から離れることはありません。

けれども、パウロはさらに語ります。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(38-39)

だから、霊的な力や、私たちの不安や将来への恐れ、この世のどんな力も、私たちをイエス様の愛から引き離すことはできません。

たとえあなたが海底にいようとも、宇宙にいようとも、どこにいようとも、神様の愛はあなたに届くのです。

だから、パウロはこう言うことができるのです。

これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(ローマ人への手紙8:37)

要するに、イエス様は十字架で勝利を得られたので、最終的に私たちも勝利を得るのです。十字架でイエス様はサタンを打ち破り、その計画を覆されました。

だから、サタンが私たちを誘惑したり、責めたり、苦しめたりしても、神様は変わらず私たちを愛しておられるので、私たちには希望があります。そして、私たちをその愛から引き離せるものは何もありません。

だから、苦しむとき、その愛によって安心しましょう。その愛の慰めを受けましょう。なぜなら、神様の愛は決して私たちを手放さないからです。

そして、どんな試練に直面しても、その愛によって私たちは乗り越えるのです。

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神様が私たちの味方ならば。。。

クリスチャンであっても、罪悪感に苦しみ、神様に責められているように感じることがあります。

私たちの誤った決断によって物事が崩れてしまい、「どうして私はいつも失敗してしまうのだろう」と嘆くことがあります。

あるいは、誘惑と戦いながら、「私は長い間クリスチャンなのに、どうして今もこの罪に引き寄せられてしまうのだろう」と悩みます。

また、聖書で御霊の実について読むと、自分自身を責めてしまうことがあります。

「愛?いや、私にはその実が十分に育っていない。寛容?いや、まるで足りない。柔和?いや、それも欠けている。」

そして、私たちは自分自身に問いかけます。

「どうして私はその実を持っていないのだろう。どうして私は変われないのだろう。私はやっぱりだめなのだろうか。」

しかし、前回の記事で私が言ったことを心に留めておきましょう。

神様はこの世を創造される前から、あなたのことを深く知っておられました。神様は、あなたがどのような人になるかをすべてご存じでした。

神様は、あなたがどのような罪と戦うことになるかを知っておられました。神様は、あなたの人生において、どの御霊の実が現れるまでに長い時間がかかるかを理解しておられました。

そして、神様はあなたが御子のように変えられるまでに、どれほどの年月が必要かも知っておられました。

それでも、神様はあなたを選ばれました。そして、神様はあなたを召されました。そのあと、神様はあなたを義と認められました。そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。

その日、私たちはキリストに似た者となります。なぜなら、私たちはキリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)

だから、パウロはこう語ります。

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ人への手紙8:31)

神様は私たちの味方です。神様はあなたを選ばれるほどに、愛しておられました。だから、誰があなたに反対できるでしょうか。

パウロはその概念をさらに深く説明します。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(32)

要するに、神様が私たちにとって最も重要な必要、つまり私たちの罪の赦しを備えてくださったのなら、他の必要にも必ず備えてくださるのではないでしょうか。

だから、イエス様はこう語られました。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。

あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:31-33)

そして、パウロは私たちを神様の法廷へと導き、こう問いかけます。

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。(ローマ人への手紙8:33)

つまり、神様の法廷では、神様はあなたを訴えてはいません。むしろ、神様はあなたを義と認めておられるのです。

そして、パウロは問いかけます。

だれが、私たちを罪ありとするのですか。

死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(34)

キリストはあなたを責めていません。私たちが裁かれないように、イエス様は十字架で命を捧げられました。

さらに、イエス様は裁判官の右の座に着き、あなたのためにとりなしをしてくださいます。

その判決はすでに決まっています。裁判官も検事もあなたの味方なのです。

それなら、どうして私たちはいつも自分自身を責めてしまうのでしょうか。裁判官も検事もそうしないのです。だから、私たちが自分自身を責める必要はありません。

だから、罪悪感に苦しみ、裁かれているように感じるとき、また、神様の恵みに値しないと思うとき、この聖書の言葉を心に留めてください。

神様はあなたの味方です。あなたが生まれる前から、神様はあなたの味方でした。そして、永遠に至るまで、神様はあなたの味方なのです。

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私たちの希望の理由(2)

この箇所では、私たちが苦しみの中で希望を持つ理由をもう一つ見いだすことができます。それは、神様が永遠の昔から私たちのために計画を持っておられたことです。

パウロはこう記しました。

神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。

神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ人への手紙8:29-30)

多くの人々は、自由意志や予定説(すなわち、神様があらかじめすべてを定めておられること)という概念について考えると混乱します。

他の記事で私はこのテーマについて触れましたし、また9章について書くときに、改めてこのことを論じる予定です。

しかし、まずはクリスチャンにとってのパウロの言葉の意味を考えてみましょう。

あなたが生まれる前から、神様はあなたのことを深く知っておられました。

エペソ人への手紙1章で、パウロはこう述べています。神様はこの世を創造される前から、すでにあなたを知っておられました。

神様はあなたの良い面も、弱さも、すべてをご存じです。神様はあなたの得意なことも不得意なことも理解しておられます。

そして、あなたがどのような善を行い、どのような過ちを犯すかも、すべてをご存じです。

それでも、神様はあなたを選ばれました。そして、あなたのために良い計画を立てておられます。その計画とは、あなたが神様の御子のかたちに変えられることです。

神様は、あなたが罪深く、弱く、反抗的になってしまうことをすべてご存じでした。それでもなお、神様は恵みを与え、あなたを栄光に満ちた存在へと変えることを計画されたのです。

その計画を成就するために、神様はあなたを召されました。あなたが神様を求めていなかったとしても、神様はあなたを召されました。

そして、あなたが信仰を持って神様に向かうと、神様はあなたを義と認められました。イエス様が十字架の上であなたの罪の代価を支払われたので、神様はあなたに関して「無罪」と宣言することがおできになります。

そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。イエス様と同じような栄光の体を授けてくださいます。その体は決して朽ちることなく、罪に汚れることもありません。それは、真に栄光に満ちたものなのです。

それは、神様があなたのために立てられた計画です。そして、その計画は確実なものです。結局のところ、神様の計画を変えられるものは何一つ存在しません。

神様は永遠の昔からすべてを知っておられるので、私たちを見てこう言うことは決してありません。

「あれ?彼を選んだけれど、ダメになってしまった。彼の人生はめちゃくちゃだ。もうどうしようもない。私でさえ彼を救うことができない。」

神様は、決してそんなことを言われることはありません。神様は、そもそもあなたのすべてを知っておられた上で、あなたを選ばれたのです。

そして、パウロは私たちへの神様の賜物について、こう記しています。

神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。(ローマ人への手紙11:29)

あなたは、自分自身を見つめたとき、気が重くなることはありますか。クリスチャンとして思うように成長していないと感じ、失望してしまうことはあるでしょうか。

神様はあなたに失望されることはありません。神様は、はるか昔からあなたを知っておられます。神様はそもそも、あなたがイエス様のかたちに変えられるまでにどれだけの時間がかかるかを完全に理解しておられます。

だからこそ、神様は決してあなたを見放されることはありません。

そして、どんな試練に直面しても、その試練が神様の計画を狂わせることは決してありません。神様が驚かれることはなく、すでにあなたをどのように助けるかを知っておられます。

だから、苦しみの中でも絶望せず、パウロの言葉を心に留めてください。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

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私たちの希望の理由

聖書の中で、これは私が最も好きな箇所の一つです。実は、26節から8章の最後までの言葉が大好きです。なぜでしょうか。この箇所は、私たちの希望の根拠を示しているからです。

多くの人々は28節を引用します。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

けれども、神を愛する人々のために、なぜすべてのことが共に働いて益となるのでしょうか。26-27節において、パウロはその理由を説明しています。

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。

私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。(26-27)

祈りの時に、私たちはしばしば何のために祈るべきか、またどのように祈るべきか分からなくなります

。言葉が出ず、祈れない時もあります。また、時には間違ったことのために祈ってしまうこともあります。

イエス様のたとえを用いるなら、私たちはパンを求めているつもりでも、実は石を求めてしまっていることがあるのです。

しかし、良い知らせがあります。それは、神様が私たちの弱さや、誤った祈りに制限されることはないということです。

神様が最も望んでおられるのは、私たちが神様と交わり、語り合うことです。

私たちが祈るとき、聖霊様は私たちのためにとりなしをしてくださいます。聖霊様は、私たちのうめきや言葉にならない祈り、誤った祈りを取り、神様の御心にかなう祈りへと変えてくださいます。

だから、パウロはこう語ります。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8:28)

私にとって、この言葉はとても心強いものです。

私の娘が赤ちゃんだった頃、私と妻は時々フラストレーションを感じました。なぜなら、娘が泣いたときに、なぜ泣いているのか分からないことがあったからです。彼女の泣き声や叫びは、私たちに彼女のニーズを正確に伝えてはくれませんでした。

そのため、私たちは彼女のニーズを推測するしかありませんでした。当たりだったこともあれば、まったく的外れだったこともありました。

その一方、私たちがうめいたり、言葉を使わずに祈るときでも、聖霊様は私たちのニーズを完全に理解しておられます。だからこそ、聖霊様は正しくとりなし、私たちを助けてくださいます。

あなたは今、どんな試練に直面していますか。祈るときにフラストレーションを感じることはあるでしょうか。あなたの祈りが天井にぶつかり、届かないように思えることはありますか。

希望があります。今もなお、聖霊様はあなたのためにとりなしてくださいます。そして、その祈りは神様の御心にかなっています。

だから、安心しましょう。神様はあなたの試練を用いて、良いことをもたらしてくださいます。

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どうして私は苦しまなくてはならないだろうか

ローマ書8:16-17節の言葉は、本当に心強いものです。

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。

すべてのクリスチャンはそれを読み、励まされることでしょう。私たちは神様の愛する子供です。そして、私たちは神様の相続人なのです。

ところが、パウロはさらに語り続けます。

私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(ローマ人への手紙8:17b)

苦難?誰も苦難を望みません。では、パウロはどのような苦難について語っているのでしょうか。

35節で、パウロはいくつかの例を挙げています。「迫害」、「飢え」、「裸」、「危険」、「剣」です。

私たち全員が苦しみを経験することがあります。この世において、苦しみを完全に避けることはできません。

それは、ノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンも同じです。なぜなら、キリストに従うことによって、時にはそのゆえに人々から憎まれることがあるからです。

けれども、なぜ私たちは苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜ神様は単にその苦しみを取り除かないのでしょうか。そもそも、なぜ神様は苦しみを許されるのでしょうか。

それは難しい疑問です。パウロは、その答えの一部を説明しています。

被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。(20-22)

どうして地震や津波、その他の天災が起こるのでしょうか。どうして先天的障害や病気、そして死があるのでしょうか。神様はそれらを取り除くことができるでしょう。

もちろん、神様にはそれが可能です。それなのに、神様はそれらを許されます。なぜでしょうか。

そんなものが存在しない世界を想像してみましょう。確かに、私たちの人生は楽になるでしょう。それでも、人々は罪を犯し続けるでしょう。

彼らは神様のことを考えずに罪を犯し、それを気にしない態度を持つでしょう。自分の罪の悪さに気づかないまま、生きるでしょう。結果として、この世の状態はさらに悪化するかもしれません。

しかし、この世の苦難を通して、人々は自分の死ぬべき運命に向き合わなければなりません。

さらに、彼らは罪の悪さを直視する機会を持つのです。そして、人々は目を覚まし、神様を求め、救いへと導かれます。

だからこそ、神様はこのような苦難を許されるのです。神様の望みは、人々が神様に向き、本当の喜びを知ることです。そして、神様の救いの計画が成就すると、イエス様はこの世に戻り、すべてを新しくされます。

とはいえ、パウロによれば、その日が来るまで、この世は産みの苦しみを経験し続けます。それは死に至る痛みではなく、新しい命へとつながる痛みです。

そして、この世の苦難を通して、多くの人々が神様へと向かい、神様の子供となり、神様の国が広がります。

それでも、この世の産みの苦しみは本当に大変なものです。

クリスチャンたちの苦しみもまた、決して軽いものではありません。

そして、パウロはこう語ります。

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(23)

私たちは苦しみのゆえに、うめきます。私たちは自分の罪と戦いながら、うめきます。そして、この世の罪や苦しみから解放される日を待ち望んでいます。

けれども、待ち望む間にも、私たちには希望があります。それは、私たちがキリストとともに苦難を経験しているとしても、やがてイエス様の栄光を受けるということです。

また、その栄光と比べると、今の苦しみは取るに足りないものです。(18)

さらに、私たちには、いつかすべてが新しくされるという希望があります。それは、今は目に見えない希望です。パウロによれば、「目に見える望みは望みではありません。」(24)

そして、パウロはさらにこう語りました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:5)

では、待ち望んでいる間に、私たちはどうすべきでしょうか。

忍耐しながら希望を持ち続けましょう。必ずその希望は現実となるからです。

あなたはどうでしょうか。今、苦しみの中にいるでしょうか。希望を持ち、待ち望んでいるでしょうか。

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全く違う関係に導かれた

もしかすると、パウロは、自分が6章で書いた言葉を振り返り、その意味をさらに説明する必要があると感じたのかもしれません。

6章では、パウロは、私たちはかつて罪の奴隷だったが、今は神様の奴隷であると記しました。

「神様の奴隷」という言葉は、少し不思議に聞こえるかもしれません。おそらく、パウロの意図は、私たちが完全に神様のものとなったことを強調することだったのでしょう。

しかし、「奴隷」という言葉を聞くと、「自由がない」とか「罰の恐れ」といったイメージを思い浮かべる人もいるかもしれません。

だから、パウロは、その誤解を解こうと考えたのかもしれません。

そして、パウロはこう語りました。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。

この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(15-17)

つまり、聖霊様は私たちを導かれますが、決して厳しい主人ではありません。

私たちが罪を犯したり、失敗したりしても、聖霊様は鞭で私たちを罰することはありません。また、「あなたは価値のない人だ。天の父は決してあなたを受け入れることはできない」と言われることもありません。

むしろ、私たちが自分の失敗を見て絶望するとき、また、放蕩息子のように神様を「お父さん」と呼ぶ資格がないと思うとき、聖霊様は私たちの心にささやかれます。

「ちょっと待ってください。あなたはまだ神様の子供です。天の父は今もあなたを愛しておられます。神様を『お父さん』と呼んでもよいのです。天の父はそれを聞いて、心から喜ばれます。」

そして、私たちが試練に直面し、苦しむとき、聖霊様は私たちに希望があることを思い出させてくださいます。私たちは神様の相続人だからです。そして、私たちの苦しみは永遠に続くものではありません。

簡単に言うと、私たちは単なる奴隷ではありません。私たちは神様の愛される子供です。そのことを決して忘れないでください。

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私たちがイエス様に属すると

5-8節を読むと、私は、パウロがクリスチャンについて話しているのかどうか疑問に思いました。

つまり、パウロは、神様をまったく知らず、自分の罪深い心に従う人について話しているのでしょうか。

それとも、パウロは、かつての罪深い心の残された影響に従い続けるクリスチャンについて話しているのでしょうか。

けれども、9節を読むと、パウロがノンクリスチャンについて話していることが明らかになります。

パウロはこう語りました。

しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。

もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。(ローマ人への手紙8:9)

5ー8節では、パウロが語っているのは、罪深い心を持つ人(つまり、「肉のうちにある人」)は、神様を喜ばせることができないということです。実際、その人は神様に敵対しており、その行く道は死へと導かれます。

けれども、9節では、パウロは御霊を持っている私たちを、そのような人と対比しています。

パウロが語っているのは、御霊を持っていないなら、あなたはキリストのものではないということです。要するに、あなたは本当にクリスチャンではありません。

しかし、聖霊様があなたのうちにおられるなら、聖霊様はあなたの心の中で働き、イエス様と同じかたちにあなたを変えてくださいます。あなたはもはや罪深い心の奴隷ではありません。

そして、パウロはこう語ります。

キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。(10)

パウロによれば、私たちは罪のゆえに皆、やがて死を迎えます。それでも、イエス様は私たちのうちにおられ、ご自身の義を私たちに与えてくださいます。

だから、私たちの体が死んでも、私たちの魂は生き続けます。

けれでも、心に留めてください。神様は私たちについて「無罪」と宣言されるだけでなく、私たちを真の義人へと変えてくださいます。

そして、パウロは続けてこう言います。

イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。(11)

私たちは二つの希望を持っています。

第一の希望は、私たちのうちにおられる御霊のゆえに、私たちの体が死んでも、新しく朽ちることのない体を受けることです。

しかし、今もなお、聖霊様は私たちに命を与えてくださっています。聖霊様は私たちをイエス様と同じかたちへと変えてくださいます。私たちの性格は変わりつつあり、神様の御計画のとおりに歩み始めます。

それでは、私たちはこの箇所から何を学ぶことができるでしょうか。

そして、パウロはこう語ります。

ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。

しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。(12-14)

つまり、私たちは、死んだものに対して何の義務も負っていません。私たちは、かつての罪深い心を拝んではなりません。かつて、その罪深い心は私たちを死へと導いていました。

けれども、今や、聖霊様の力と導きによって、私たちはその罪深い影響を滅ぼし、真の命を知ることができます。パウロによれば、神様の子供たちは皆、そのように歩みます。

あなたはどうでしょうか。あなたは、罪深い心に義務があるかのように生きているでしょうか。それとも、聖霊様の導きによって、神様の子供として歩んでいるでしょうか。

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私たちを責める言葉が一つもない

映画の中で、私が最も好きな作品のひとつは「ア・フュー・グッドメン」です。

特に印象的なシーンは、軍事裁判所で二人の被告が判決を聞く場面です。その直前、海兵隊の大佐は、自らが海兵隊員たちに別の隊員を「しつける」よう命じたことを認めました。

けれども、その命令によって、彼らはその隊員を誤って死に至らしめてしまいました。

当然、その大佐は逮捕されましたが、その後も陪審員たちは二人の海兵隊員についての判断を下さなければなりませんでした。

陪審員が評決を決めた後、裁判官がその結果を読み上げます。

「殺害の容疑に関して、陪審は被告人たちに無罪の判決を下します。」

「殺害を謀った容疑に関して、陪審は被告人たちに無罪の判決を下します。」

その言葉を聞いて、多くの人は二人がまったく罰を受けないと思ったかもしれません。

ところが、裁判官は続けました。

「米国海兵隊員としてふさわしくない行為の容疑に関して、陪審は被告人たちに有罪の判決を下します。」

そして、裁判官はその刑を宣告しました。

けれども、その裁判官とは違い、パウロは私たちについてまったく異なることを語ります。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ人への手紙8:1)

ある聖書学者は、この箇所を次のように言い換えました。「神様は私たちを責める言葉を一つも言われません。」

映画の裁判官とは違い、神様は「この容疑について、あなたに無罪の判決を与える。この容疑についても、あなたに無罪の判決を与える。けれども、この容疑については、有罪の判決を下す」とは言われません。

むしろ、神様は私たちに「すべての容疑について、あなたに無罪の判決を与える。」と言われます。

どうしてでしょうか。

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを開放したからです。(2)(「原理」は別訳です。聖書の脚注を見てください。)

罪と死の原理とは何でしょうか。それは、「罪を犯すと、あなたは死ぬ」という原理です。

もし神様の律法に違反すれば、あなたは裁かれることになります。そして、私たちは皆、罪を犯したので、すでに裁きを受けています。

けれども、御霊の原理は私たちを罪と死の原理から解放します。

では、御霊の原理とは何でしょうか。それは、神様の恵みによって、私たちが義と認められることです。御霊が私たちのうちに住んでおられるので、私たちは新しい命を受けました。

そして、パウロは続けてこう言います。

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪の清めのために遣わし、肉において罪を処罰されました。

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに律法の要求が満たされるためなのです。(3-4)

律法には、何ができないのでしょうか。律法は私たちを義とすることができませんでした。なぜでしょうか。

それは、律法が何が善で何が悪かを示すことしかできなかったからです。けれども、私たちは罪深い心を持ち、神様に逆らっていたため、その律法に従おうとはしませんでした。

神様はそれをご覧になり、何をされたでしょうか。神様は私たちの罪に対処するために、イエス様を遣わしてくださいました。

イエス様は罪を犯すことなく、完全に律法に従われました。そして、十字架において、天の父はイエス様に私たちの罪を置かれました。私たちの代わりに、イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

律法によれば、すべての罪は罰せられなくてはなりません。イエス様が十字架で死なれたとき、私たちのすべての罪は罰されました。だからこそ、イエス様を通して、律法の要求が満たされたのです。

ところが、それだけではありません。私たちがクリスチャンになるとき、神様は聖霊様を遣わされ、聖霊様は私たちのうちに住まわれます。そして、聖霊様の導きによって、私たちは義人として歩み始めます。

私たちは、かつての罪深い心の影響を感じることがあるかもしれません。しかし、聖霊様が罪に対する勝利を与えてくださり、私たちは神様の御計画のとおりに生き始めるのです。

そして、私たちが裁かれているかのように感じるとき、また、神様の愛と恵みにふさわしくないと感じるとき、聖霊様は私たちの心にささやかれます。

「あなたは神様の子供です。あなたは神様に属する者です。あなたはもう裁かれていません。」

あなたはどうでしょうか。「神様は、私が安心したころを見計らって、突然私を罰する」と思っているでしょうか。

神様は決してそのようなことをされません。あなたが神様に属するなら、神様はあなたを責めることはありません。

だからこそ、パウロはこう言うのです。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。

この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。(ローマ人への手紙8:15)

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希望

前回の記事で、私たちには罪に打ち勝つ希望があると述べました。

それにもかかわらず、多くのクリスチャンは絶望してしまうことがあります。彼らは問いかけます。

「私は本当にクリスチャンなのだろうか?何度も罪を犯してしまうが、本物のクリスチャンがそんなことをするはずがないだろう。私は正しいことをしたいと思っているのに、何度も失敗してしまう。」

けれども、ここでパウロの言葉を見てみましょう。

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。。。

私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(ローマ人への手紙7:15-16,19-20)

この箇所のテーマは何でしょうか。それは「戦い」です。

神様の恵みに触れていないノンクリスチャンは罪と戦うことはありません。多くの場合、彼らは自分の罪の問題に気づくことすらありません。

一方で、クリスチャンはその問題を認識し、戦うのです。

もし、「私はクリスチャンだ」と言い張る人が、神様が罪について何を語ったかを知っていながら、意図的に罪を犯し、なおかつ「私が罪を犯しているって?そんなことはないよ。」と言うなら、私はその人の「私はクリスチャンだ」という主張を疑うでしょう。

もしかすると、彼らは本当はクリスチャンではないのかもしれません。あるいは、彼らはクリスチャンだけれど、心を頑なにしてしまい、神様の声が聞こえなくなってしまったのかもしれません。

(もちろん、神様の言葉をあまり知らない若いクリスチャンもいます。その人たちの信仰を疑うわけではありません。とはいえ、私たちはその人たちにしっかりと教える責任があります。)

しかし、私は罪と戦っているクリスチャンの信仰を疑いません。むしろ、私は神様がその人の心の中で働いていることを確信しています。

そして、もし神様がその人の心の中で働いているなら、神様は必ずその働きを完成してくださいます。

パウロはこう言いました。

あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り。。。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信してます。【ピリピ1:4,6)

もし神様があなたの罪を指摘しているなら、神様があなたを見捨てて豚小屋に置き去りにすることはないと信じ、安心してください。神様はあなたに勝利を与えてくださいます。これが、私たちの希望です。

だから、パウロは「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24節)」と叫びました。

けれども、すぐに「神に感謝します。それは、私たちの主イエス・キリストによるのです。」とも叫ぶことができました。(これは25節の別訳です。その脚注を参照してください。)

私たちは、自分の力で自分自身をより良い人にすることはできません。私たちには、自分自身を変える力がありません。しかし、神様にはその力があります。これも、私たちの希望です。

では、私たちはどのように変わることができるのでしょうか。それは、私たちの内に住んでおられる聖霊様を通してです。

この点については、別の記事で詳しく扱います。どうぞお楽しみに。

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どうして私たちはまだ罪と戦うでしょうか。

前回の記事でも述べたように、聖書学者たちはこの箇所について議論を続けています。つまり、パウロが罪との戦いについて語る際、クリスチャンとして話しているのでしょうか?それとも、ノンクリスチャンとして話しているのでしょうか?

ひとまず、パウロがクリスチャンとして話していると仮定しましょう。

パウロはこう言いました。

。。。私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。(ローマ人への手紙7:14)

また、彼はこう言いました。

。。。この私は。。。肉では罪の律法に仕えているのです。(25)

その言葉を読むと、当然生じる疑問があります。もしパウロがクリスチャンとして話しているのなら、神様が彼を贖い、罪から解放したはずです。

それなのに、どうしてパウロは「私は売り渡されて罪の下にあるものです」と言ったのでしょうか。

さらに、パウロはこう言いました。

私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。(18)

もしパウロがクリスチャンとして話しているのなら、聖霊の力によって、彼は自分の「善を行いたい」という願いを実行できるはずではないでしょうか?

それは非常に重要な問いです。私たちはこの疑問に向き合い、答えを見いださなければなりません。

しかし、もしあなたがパウロがノンクリスチャンとして話していると考えるなら、さらに難しい問題が生じます。

最も難解な箇所は17節です。

ですから、今それ(つまり、罪)を行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。(17)

そして、20節で、パウロは同じようなことを言います。

私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(20)

ノンクリスチャンは、どうして「もはや私は罪を犯さない」と言えるのでしょうか。彼らは生まれつき罪深い心を持ち、神様に反抗しています。

以前の記事で述べたように、その罪深い心こそがノンクリスチャンを定義します。そして、彼らは罪深い心と「結婚」しているため、最終的に死に至る実しか結ぶことができません。

では、どうして彼らは「罪を犯しているのに、それが私の本当の姿ではない」と言えるのでしょうか。

けれども、クリスチャンはそのことを言うことができます。だから私は、パウロがこの言葉をクリスチャンとして語っているのだと思います。

以前の記事で見たように、クリスチャンになると、神様に反抗する私たちの罪深い心は十字架につけられ、死にました。つまり、私たちの「元夫」は死んだのです。もはや、その罪深い心が私たちに影響を与えることはできません。

それでも、私たちの体や思考、心は、生まれてからクリスチャンになるまでの間、罪深い心の影響を受け続けていました。その傷—つまり、罪深い行動のパターン—は今も私たちの内に残り、私たちはその影響を感じ続けています。

要するに、罪深い心は死にましたが、その影響はまだ生きています。そして、私たちはこの世に生きている限り、その傷が残る中で、罪の影響のもとにある者なのです。

このように考えると、パウロの言葉がより理解しやすくなるのではないでしょうか。

本当の私は、もはや罪を犯したくはありません。神様に反抗する罪深い心はすでに死んだからです。だからこそ、今、心の中では正しいことを行いたい、神様を喜ばせたいと願っています。

それでも、罪の傷はまだ残っています。罪を犯す傾向が根強く残っているのです。罪深い心は死にましたが、その影響はまだ私たちに残っています。そのため、善を行いたいと願いながらも、それを実行できないのです。

私は相手を許したいと思っているのに、どうしてもできません。自分の子供に対して忍耐を持ちたいと願っているのに、うまくいきません。

では、私は何を伝えたいのでしょうか。この世に生きている限り、希望はないのでしょうか。私たちは、生きている限り、罪との戦いに敗北し続けるのでしょうか。

決して、そうではありません。次回の記事で、このことについてさらに深くお話しします。

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私たちの罪深い心が本当に死んでいるだろうか

ローマ書6章と7章を読んだとき、私は自分自身にさまざまな疑問を問いかけました。その中の一つが、「私たちの罪深い心は本当に死んでいるのだろうか?」という問いです。

この問いにどう答えるかによって、ローマ書7章の解釈が変わります。特に、14節から25節の理解に大きな影響を及ぼします。

この箇所でパウロは、律法に出会ったとき、自分が律法に従うことができないと気づいたことを告白しています。

では、彼はノンクリスチャンだった頃の経験について話しているのでしょうか。それとも、クリスチャンとしての葛藤を認め、罪との戦いについて述べているのでしょうか。

だから、この箇所を考察する前に、私たちと罪深い心の関係について整理しておきたいと思います。私たちはまだ罪深い心を持っているのでしょうか。

この点については、聖書学者たちの間でも議論が続いています。

私の意見が正しいかどうかはわかりませんが、ひとまずここで述べておきます。(もしかすると、10年後には意見が変わっているかもしれません。)

私が以前言ったように、「罪深い心」と言うと、私は神様に反抗する生まれつきの態度について話します。

私たちは生まれたときからその態度を持っていて、年を重ねるごとに、その態度は私たちの考えや行動に浸透していきます。そして、最終的にその態度が私たちを定義することになりました。

悪い伝染とゾンビの話を覚えていますか?ゾンビウイルスが人に感染すると、やがてそのウイルスがその人のアイデンティティを支配し、最終的にその人はゾンビになってしまいます。

同じように、私たちが無垢な赤ちゃんのときに罪深い心は私たちに伝染し、やがて本格的な罪人になっていきます。

けれども、私たちが救われたとき、何が起こったのでしょうか?その罪深い心は十字架につけられ、死にました。そして今、私たちはイエス様と「結婚」しています。それでも罪が残した影響を見ることができます。

考えてみてください。ある女性が夫に虐待されました。そのため、彼女は肉体的な傷や精神的な傷を持っています。そして、その夫が亡くなります。彼はもう積極的に彼女を傷つけることはできません。

それにしても、彼の過去の行為は今でも彼女に影響を与えています。彼女の肉体的な傷や精神的な傷がまだ残っているからです。

さまざまな意味で、その夫とその行為はその妻の人生を形作りました。だから、将来別の男性と関係を築こうとする時、彼女は元夫の悪い影響を感じるでしょう。

例えば、虐待する人と関係を持ってしまうかもしれません。

または、誠実な男性に出会ったとしても、彼女はその人を完全には信頼できないかもしれません。その結果、彼の愛に心から応じることができなくなるでしょう。

けれども、時間と癒し主の働きによって、彼女はその悪い影響から解放され、癒されるのです。

同じように、私たちの死んだ罪深い心も私たちに深い影響を残します。

その罪深い心が生きている間、神様に信頼せず、反抗していました。そして、それは私たちにそのような態度を持つように根付かせました。

そのため、私たちの思考や肉体には罪の傾向が刻まれました。その罪深い心が、かつての私たちの本質を定義していたのです。

しかし、私たちがクリスチャンになった時、その罪深い心は消え去りました。それでも、その影響はまだ私たちの中に残っています。私たちは人生を通じて、その残された影響と戦い続けていくのです。

だから、私たちクリスチャンは、自分の罪深い心が死んだと言うことができます。つまり、私たちはもはや意図的に神様に反抗せず、むしろ神様に従いたいと願うようになりました。

それでもなお、罪深い心の残された影響を感じることがあります。それらの影響は今も私たちの中に存在しています。

とはいえ、罪深い心はすでに死んだため、もはや私たちを支配したり、悪い影響を及ぼしたりすることはできません。そして、私たちの偉大な癒し主—イエス様が、私たちを完全に癒してくださいます。

これから数日間にわたって、このことについてさらに深く考えていきましょう。

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罪の悪さ

ローマ人への手紙7:5で、パウロは「私たちが罪深い心と結びついている間、律法によって罪の欲情がかき立てられた」と述べています。

ここで当然生じる疑問は、「では、律法は悪いものなのか。律法は罪なのか」ということです。

「なぜなら、律法によって私たちの罪の欲情がかき立てられるのだから、律法のせいで私は罪を犯してしまうのではないか?」

しかし、パウロはこの問いにこう答えます。

決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。

実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。(ローマ人への手紙7:7)

要するに、律法は良いものです。律法は罪ではありません。むしろ、律法を通して、私たちは罪を認識することができます。その知識によって、私たちは罪を避けることができるのです。

では、問題は何でしょうか。

しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。(8a)

この箇所で、パウロは罪を擬人化しています。このたとえにおいて、罪は律法を見ると、こう言います。「ああ、神様はこんな行為を嫌っておられるのか?」

そして、罪は私たちの罪深い心にささやきます。「神様の律法に違反しよう。」

私たちの罪深い心には、すでに神様に反抗する傾向があるため、喜んで律法に違反します。

次に、パウロはこう言います。

律法がなければ、罪は死んだものです。(8b)

それは非常に重要な真理です。私たちは存在しない律法に違反することはできません。たとえ悪いことをしてしまうとしても、律法がなければ、神様はその違反に対して私たちを裁くことはできません。

律法がなかった時代、神様はただ一つの理由で人を裁かれました。それは、彼らが神様に背を向け、自分の道を歩もうとしたことです。実は、その態度こそが、すべての罪の根源なのです。

けれども、そのあと、神様はモーセを通して、私たちに律法を示してくださいました。

そして、その律法を通して、神様は人々に命への道を示されました。つまり、彼らは神様がどのようなお方なのかを知り、また、神様が人間をどのように造られたのかを理解することができました。

では、神様がイスラエルの民に律法を与えられたとき、彼らはどのように反応したでしょうか。「これは命への道なのか。良かった。それに従おう」と言ったでしょうか。

いいえ、そうではありません。パウロはこう述べています。

私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。

それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。(9-10)

なぜでしょうか。

罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。(11)

要するに、戒めが与えられると、戒めに違反する可能性が生まれました。そして、罪は生き、私たちを欺いたため、私たちはその戒めに違反しました。だから、私たちは裁かれました。

以前述べたように、この話ではパウロは罪を擬人化しています。とはいえ、罪は実際には人ではありません。

また、パウロが「罪」と言うとき、サタンについて触れているわけではないと思います。(もっとも、もちろんサタンは私たちを誘惑しようとします。)

パウロの要点は、神様が律法を示されたとき、律法に違反する機会も生じたということです。そして、私たち全員が罪深い心を持っているため、その機会を見たとき、罪を犯してしまいました。

その結果は何でしょうか。それは死です。

パウロはこの話を次のようにまとめています。

ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。(12)

簡単に言えば、「律法が問題なのではありません。律法は良いものです。問題はあなたにあります。あなたは律法に違反したため、死に値するのです。」ということです。

そして、パウロはこう問いかけます。

それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。(13a)

つまり、「パウロ、あなたは律法が良いものだと言うけれど、その律法によって私は裁かれ、死ななければならないのなら、それは本当に良いことなのだろうか?」という疑問です。

パウロはこのように答えます。

決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。

罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。

罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。(13b)

パウロは何を伝えようとしているのでしょうか。彼はこう言っています。

「今になってようやく、あなたは罪がどれほど悪いかを理解するのです。罪は良いものを歪め、悪い結果をもたらします。律法はいのちへの道を示しますが、罪は律法を通して人々を滅ぼしました。」

考えてみれば、罪は常に良いものを歪めます。

例えば、セックスは本来とても良いものです。セックスを通して夫婦は互いに愛を表し合い、子供を授かることができます。

けれども、罪がセックスを歪めたため、私たちの社会には、レイプや姦淫、ポルノが存在するのです。

律法の重要な役割の一つは、私たちに罪の本質的な悪さを理解させることです。それを理解できなければ、人々は自分に救い主が必要であることを決して悟ることができません。

だからこそ、私たちは律法を必要とするのです。

あなたはどうでしょうか。罪の本当の恐ろしさを理解しているでしょうか。

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イエス様と結びついていること

以前述べたように、パウロは結婚の比喩を用いて、二つのポイントを描写しようとしました。

私たちはすでに最初のポイントを見ました。それは、私たちがイエス様と共に死ぬと、律法は私たちに対する力を失うということです。同様に、死によって、結婚の律法は夫婦に対する効力を失います。

前回の記事で私は、パウロがこのポイントを描写する際、私たちを死んだ夫と比べるのが自然な流れであると述べました。

つまり、夫が亡くなると、律法は彼に対する効力を失います。同じように、私たちはキリストと共に死んだので、律法は私たちに対する効力を失ったのです。

けれども、実際には、パウロは夫の死がどのようにして妻を結婚の律法の支配から解放するかについて、詳しく語っています。

そのため、この比喩は少し分かりにくくなります。パウロは、私たちを死んだ夫とは比較せず、まだ生きている妻と比較しています。

しかし、彼が結婚の比喩をこのように用いることによって、パウロは第二のポイントを説明することができました。そのポイントとは何でしょうか。

それは、私たちがクリスチャンになる前、別の夫と結婚していたということです。けれども今、私たちはイエス様と結びつけられています。

このポイントを描写するために、パウロはイエス様を新しい夫として描き、私たちを妻として描いています。では、この比喩において、私たちはかつて誰と結婚していたのでしょうか。その死んだ夫とは誰でしょうか。

私は以前述べましたが、死んだ夫は律法ではありません。なぜなら、パウロは律法が廃されるとは教えていないからです。今でも、律法は重要な役割を持っています。律法は私たちに、何が善で何が罪かを示します。(ローマ人への手紙7:7)

では、私たちは誰と結びついていたのでしょうか。おそらく、パウロは私たちの罪深い心を指しているのでしょう。

私たちがクリスチャンになる前、私たちの心は神様に反抗し、自分の道を歩みたいと願っていました。生まれたときから、私たちはその心と結びついていました。

そして、その「結びつき」によって、私たちはどのような実を結んでいたでしょうか。私たちは、死に至る実を結んでいたのです。(ローマ人への手紙7:5)

さらに、私たちが罪深い心と結びついている限り、私たちはイエス様と結びつくことができませんでした。

しかし、神様が私たちを救ってくださったとき、神様は私たちの罪深い心を十字架につけ、死に渡されました。

では、罪深い心が死んだことによって、何が起こったのでしょうか。

第一に、律法が私たちに対する力を失ったことです。夫が亡くなると結婚の律法が妻に対する効力を失うように、私たちの罪深い心が死ぬと、神様の律法は私たちに対する力を失います。

第二に、私たちの罪深い心が死んだことによって、私たちはイエス様と結びつくことができるようになったのです。

そして、私たちはイエス様との結びつきによって、もはや死に至る実を結びません。むしろ、永遠の命に至る実を結びます。

だからこそ、救いの道はイエス様だけなのです。

神様に反抗する心と結びついている限り、私たちは永遠の命に至る実を結ぶことができません。罪深い心が私たちに植え付ける種は死へと向かいます。

それに対して、イエス様が私たちに植え付ける種は永遠の命へと至ります。

あなたは誰と結びついているでしょうか。

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恵みの管轄

前回の記事で、私は、この箇所でパウロが結婚の比喩を使っているが、その使い方が少しちぐはぐだと述べました。彼はこの比喩を通して、「死によって律法が人に対する力を失う」という真理を描写しています。

パウロの比喩では、夫の死によって、結婚の律法はその妻に対する効力を失いました。

そして、パウロは「私たちが死んだので、律法は私たちに対する効力を失った」と言います。

しかし、パウロは私たちを比喩に登場する夫ではなく、まだ生きている妻と比べています。

なぜでしょうか。

考えてみてください。夫が死んだとき、律法はその夫婦に対する力を失いました。けれども、どちらの方がより影響を受けたでしょうか。夫でしょうか。違います。妻の方が影響を受けました。

夫が死ぬ前、律法によって彼女は夫と結ばれていました。彼女に対して、律法は権限を持っていました。

けれども、夫が亡くなると、律法は彼女に対する権限を失いました。その法律はもはや彼女には関係がありませんでした。

言い換えると、夫が亡くなったとき、彼女も別の意味で死んだのです。彼女は結婚の律法の権限に対して死にました。だから、彼女は別の人と結婚してもよいのです。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがクリスチャンになる前、神様の律法は私たちに対して権限を持っていました。その律法は私たちにこう命じました。

「神様の戒めに従いなさい。そうしないと、あなたは死にます。」

しかし、大きな問題がありました。完全に戒めを守ることができる人は、誰ひとりいませんでした。そのため、私たちは皆、処刑を宣告されていたのです。

けれども、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。そして、イエス様は私たちにはできないことを成し遂げてくださいました。イエス様は神様の律法を完全に守り、十字架の上で私たちの罪の罰を身代わりとして受けてくださいました。

だから今、神様は私たちを受け入れてくださいます。なぜでしょうか。私たちが律法を守るからでしょうか。違います。私たちがイエス様とその十字架の働きを信じるからです。

今や、私たちは律法の管轄下にありません。私たちは恵みの管轄下にあります。私たちは律法には関係がありません。なぜなら、私たちは律法に対して死んだからです。

したがって、私たちは律法に従うことに焦点を当てません。むしろ、イエス様と結びつき、私たちは毎日、聖霊に導かれています。

その結果は何でしょうか。私たちは永遠の命に至る義の実を結びます。律法の下では、私たちはそのような実を結ぶことができませんでした。

私たちはその真理を本当に理解できているでしょうか。

多くのクリスチャンは恵みの管轄下にあるにもかかわらず、まるで律法の管轄下にあるかのように生きています。

彼らは、神様に受け入れられるためには、完全に律法を守らなくてはならないと思っています。律法を守らなければ罰せられると恐れるあまり、彼らはいつも神様を怖れています。

しかし、心に留めておきましょう。私たちはもう律法の管轄下にありません。私たちは、私たちを愛し受け入れてくださるイエス様と結びつけられています。

だから、神様を恐れずに生きましょう。神様の基準を満たせるかどうかを心配するのではなく、むしろ、イエス様の愛を喜び、その愛をイエス様にお返ししましょう。それが恵みによる生活です。

あなたはどうでしょうか。あなたは恵みの管轄下にあるでしょうか。それとも、律法の管轄下にあるかのように生きているでしょうか。

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破れた力

この箇所を初めて読んだとき、私は本当に混乱しました。というのも、パウロは自分のポイントを説明するために、結婚の比喩を用いました。けれども、パウロは結婚の比喩をちぐはぐな形で用いています。

つまり、パウロは私たちと律法との関係や、私たちと神様との関係について語る際に、結婚の比喩を用いたのです。

その比喩では、ある男性が亡くなったことで、結婚の律法は妻に対してもはや効力を持たなくなりました。

つまり、その律法によれば、夫が生きている間、彼女は別の人と結婚することができませんでした。しかし、彼が亡くなると、彼女は別の人と結婚することができたのです。

そこで、私はこう考えました。

「この比喩では、夫は誰なのか。妻は誰なのか。

パウロによれば、私たちは律法に対して死にました。ということは、私たちが夫で律法が妻なのだろうか。

いや、違う。なぜなら、この比喩では、夫が死ぬと妻は別の人(つまりキリスト)と結婚できる。

もしそうなら、律法がキリストと結婚することになるのか?それはナンセンスです。

さらに、パウロが言っているのは、私たちがキリストと結婚するということなのです。

では、律法が夫で、私たちは妻なのでしょうか。いや、違います。パウロは律法が死ぬとは言っていません。むしろ、私たちが死んだと言いました。」

最終的に、私たちはパウロの比喩の使い方にあまり拘りすぎない方がよいでしょう。

パウロはあるポイントを伝えたいと思っていました。たとえその比喩の使い方がちぐはぐであったとしても、私たちはその比喩そのものに拘るのではなく、パウロの伝えたかった要点を理解しようとすべきです。

では、パウロの要点とは何でしょうか。

「死によって、人に対する律法の力が破られます。」

つまり、結婚の場合、夫の死によって、その妻に対する結婚の律法の力は無効になります。

私が以前言ったように、夫が生きている間は、律法によって、彼女は別の人と結婚することができませんでした。けれども、夫が亡くなると、その律法は彼女に適用されなくなり、彼女は別の人と結婚することができるのです。

私たちの場合、私たちは別の律法の下にありました。それは神様の律法です。

その律法は、何が善で何が悪かを示していました。そして、その律法のもとで私たちは罪を犯すと裁かれました。

さらに、私たちの罪によって、神様から離れてしまい、神様との関係を持つことができませんでした。

しかし、キリストにあって、私たちは死にました。ローマ書6章に、私たちはそのことを読みました。

イエス様が十字架で死んだとき、私たちはイエス様と共に死にました。そして、イエス様は私たちを新しい人として復活させてくださいました。(6:3-7)

バプテスマはこの真理を象徴するものです。水はお墓を象徴しています。そして、私たちが水に沈むとき、それは霊的な真理を表します。

私たちの古い人生—つまり、自分のために生きる私たち、また、神様に反抗する私たちは死にました。そして、私たちは新しい人として復活するのです。

私たちは神様に従いたいのです。そして、これから神様のために生きたいのです。

それでもなお、もっと大切なのは、聖霊様を通して神様が私たちのうちに住んでおられることです。神様は私たちに、御自分を喜ばせたいという望みを与え、さらにその望みを実現する力を与えてくださいます。

では、パウロのポイントに戻りましょう。

私たちはイエス様と共に死んだので、神様の律法はもはや私たちに対して力を持ちません。

私たちと神様との関係は、私たちが律法を守ることに基づくものではなく、神様の恵みとイエス様の十字架の働きに基づいています。

律法は、もはや私たちを裁くことができません。なぜなら、イエス様が私たちの罪の罰を、すでに身代わりとして受けてくださったからです。

たとえ私たちが罪を犯しても、律法はもはや私たちを神様から引き離すことはできません。むしろ、イエス様にあって、私たちは神様との関係を持っています。

イエス様と教会の関係が、新郎と新婦の関係として描写されているのは、偶然ではないと思います。

教会の一員として、私たちはイエス様と結びつけられています。そして、私たちはイエス様のために実を結びます。

もちろん、これは文字通りの子どもを生むという意味ではありません。

けれども、私たちが霊的な実を結ぶことによって、つまり、神様の愛と福音を分かち合うことによって、神様の国は広がっていきます。

この真理に思いを巡らし、喜びましょう。

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本当の自由

どうして多くの人々は神様に従わずに、逃げるのでしょうか。もしかしたら、彼らは「自由」を求めているのかもしれません。

しかし、彼らにとって「自由」とはどういう意味でしょうか。おそらく、彼らは好き勝手に生きたいと思っているのでしょう。

彼らはこのように考えます。

「神様に従うと、好き勝手に生きることができない。むしろ、私はいろいろなルールに従わなくてはならないのだろう」

おそらく、パウロの時代でも、多くの人々は同じように考えたでしょう。だからこそ、彼らはこう問いかけました。

「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」

あるいは、「私たちは律法の下ではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯してもよいのではないでしょうか。」

けれども、本当の自由とは、好き勝手に生きることなのでしょうか。それとも、本当の自由には、まったく異なる意味があるのでしょうか。

私は、本当の自由には、まったく異なる意味があると思います。

少し考えてみてください。

日本に住んでいるアメリカ人として、私にとっての課題の一つは、電化製品を購入する際、その説明書が日本語で書かれていることです。なぜなら、私には日本語の読み書きがとても難しいからです。

だから、このブログの記事を掲載する前に、私の妻はいつも編集してくれます。(本当に感謝しています。)

とにかく、4年前、私はブルーレイ・プレイヤーを購入し、テレビやケーブルモデムに接続しようと思いましたが、日本語の説明書がよく理解できませんでした。だから、私は混乱し、正しく接続するのに何時間もかかりました。

けれども、私が説明書を使わなかった言い訳がありました。それは、その説明書の漢字や専門用語が理解しにくかったからです。

その一方、多くの日本人(特に男性たち)は、ブルーレイ・プレイヤーやコンピューターをセットする際、「説明書は要らない。私は何とかできる」と思います。

その結果、私と同じようにフラストレーションを感じることになります。それは本当の自由なのでしょうか。

神様は私たちにこう言われます。「私はこのように人間を創造しました。このように生きるなら、あなたの人生はうまくいくでしょう。私に信頼するならば、あなたは祝福されます。」

しかし、多くの人々はこう答えます。「いや、あなたの言葉は必要ありません。私は自分の方法に従っても、すべて何とかなるでしょう。」

けれども、彼らが自分の道に従うと、結婚や親子関係、その他の人間関係を壊し、自分の健康や人生をめちゃくちゃにしてしまい、最終的にフラストレーションを感じることになります。

彼らが求める幸せを手に入れることはできません。それは本当の自由なのでしょうか。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。

ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(ローマ人への手紙6:20-21)

つまり、神様から離れたとき、好き勝手に生きる自由を持ちましたが、その自由はどこへ導いたでしょうか。それは恥へと至りました。そして、その自由はあなたを滅ぼしてしまいました。

しかし、私たちの人生を神様に委ね、神様の導きに従うならば、どうなるのでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

つまり、私たちの人生は完全なものとなります。永遠の命は天国で始まるのではなく、この地上で始まります。

神様に従うならば、私たちは豊かな人生を歩み始めます。なぜなら、神様は私たちをどのように創造されたかをご存じであり、私たちはその創造の意図に従うからです。

それこそが、本当の自由なのです。

では、自由の鍵は何でしょうか。それは、神様に信頼することです。

私たちは、神様が最も良い生き方をご存じであると信じます。また、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じます。

だからこそ、私たちは毎日、自分の人生を神様にささげます。そうすることで、本当の自由を見つけるのです。

あなたはどうでしょうか。本当の自由を見つけたのでしょうか。

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惨めな人生に本当に戻りたいの?

パウロがこの言葉を書いたとき、彼は出エジプトの物語を思い起こしていたことでしょう。

第一コリント10章では、パウロはこの話に言及し、イスラエル人が紅海を渡る出来事をバプテスマになぞらえました。

この箇所でも、さまざまな意味でパウロの言葉は、イスラエル人がエジプトから救い出された経験を反映しています。彼らはエジプトで死の危機に瀕していました。彼らは奴隷として惨めな人生を送っていたのです。

イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼ら叫びは神に届いた。(出エジプト記2:23)

そして、神様は彼らを救い出してくださいました。けれども、荒野を旅する中で、彼らはいくつもの試練に直面し、不満を言い始めました。

エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。(出エジプト記16:3)

その後、神様が彼らに与えると約束された地に入る直前、彼らの信仰は揺らぎました。そして、「エジプトの方がいいです。新しいリーダーを選んで、エジプトに帰りましょう。」と言ったのです。(民数記14:3-4)

この箇所では、パウロも同じような状況に直面しました。

彼は、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」と言いました。

けれども、パウロの経験では、このようなことを語ると、ある質問が必ず出てきました。だからこそ、彼はこう言ったのです。

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。(ローマ人への手紙6:1)

彼の答えは?

決してそんなことはありません。(2)

その後、パウロは、クリスチャンたちが律法の下ではなく、恵みの下にあると言いました。だからこそ、もう一度パウロは、よく聞かれる質問を取り上げます。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。(15)

もう一度、パウロは答えました。

決してそんなことはありません。(15b)

なぜでしょうか。パウロはこのように説明しました。

罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。

それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(2-4)

つまり、私たちは以前は罪の中に生きていました。しかし、クリスチャンになると、そのような生き方に対して死んだのです。

むしろ、今や私たちは新しい人となり、より良い人生を歩んでいます。今や私たちは神様との関係を持っています。(10)

それならば、なぜ古い人生に戻りたいのでしょうか。

それでも、多くのクリスチャンたちはイスラエル人のようです。彼らは紅海を渡ったとき、奴隷の人生に対して死にました。彼らは新しい人となりました。新しい人生を歩む自由を持っていました。勝利のある人生を歩む自由を持っていました。

それにもかかわらず、彼らは「古き良き時代」を懐かしみ始めました。彼らはエジプトのおいしい食べ物を思い出しました。そして、彼らは奴隷としての惨めな人生を忘れ、「エジプトに帰りましょう」と思ったのです。

罪は本当に欺瞞的なものです。私たちはすぐに罪の快楽を思い出しますが、罪がもたらす惨めさを忘れてしまいます。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。

今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(20-21)

つまり、「あなたは罪に支配される人生に戻りたいのですか。そんな人生の惨めさをもう忘れてしまったのでしょうか。そのような人生は恥に至り、さらには死に至りました。本当にそんな人生に戻りたいのですか。」

だから、パウロはこう言いました。

また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。

むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。(13)

なぜ、私たちはそのようにすべきなのでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

私たちの命を神様にささげると、私たちの人生は聖なるものになります。言い換えると、私たちは神様の計画通りに生き始めます。私たちの人生は健全なものとなり、私たちは真の命を得るのです。

けれども、最も素晴らしいことは、この賜物が無償であるということです。その賜物の価値を正しく理解するならば、私たちは決して死に至る人生に戻ることはないでしょう。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(23)

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満ち溢れる恵み

この箇所は二つの真理を示しています。

第一の真理は律法の限界、第二の真理は恵みの力です。

パウロはこう言いました。

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。(ローマ人への手紙5:20)

それは少し奇妙に聞こえるかもしれません。人の罪を増やすことが神の律法の目的なのでしょうか。

けれども、13節を読むと、パウロの意図がより明確になります。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪として認めらないのです。(13)

律法が存在する前に、人々は悪いことをしました。しかし、人々が神様の基準を知らないかぎり、その基準によって裁かれることはありません。それでも、神様に背を向けたため、そのことによって彼らは裁かれました。

さらに、自分の良心や律法に反したため、彼らの良心や律法が神様の基準に一致しているかぎり、彼らは裁かれました。(ローマ2:14-15)

けれども、彼らの良心や律法は不完全でした。それらは汚れた鏡のようでした。

だから、神様はご自身の律法を人々に与えてくださいました。その律法によって、人々は何が良いことであり、何が悪いことなのかをはっきりと知るようになりました。

ところが、人々がその律法を知るにつれて、罪は増えました。なぜなら、彼らは意図的に神様の律法に違反し始めたからです。

これこそが律法の限界です。律法は私たちを良い人に変えることはできません。むしろ、私たちは罪を知ることで、責任が増します。

それに、私たちは罪人の心を持ち、神様に逆らうため、その律法を見ると、罪をさらに犯したくなるのです。

その結果は何でしょうか。死です。

けれども、良い知らせがあります。

しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。

それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。(20b-21)

ある人々はこう思うかもしれません。

「どうして神様は律法を与えられたのでしょうか。私たちの責任が増えれば増えるほど、私たちの罰は厳しくなります。

それを知っていても、神様の律法は私たちに与えられました。それは厳しすぎるのではないでしょうか。神様はただ罰したいのでしょうか。」

パウロはそのように考えませんでした。なぜなら、どんなに罪が増えても、イエス様を救い主として受け入れる人に対して、恵みは満ち溢れるからです。神様の恵みが覆うことのできない罪は、何ひとつないのです。

さらに、人がどんなに悪くても、神様の恵みはその人を変えることができます。パウロは、「恵みもまた義によって支配する」と言いました。

もちろん、恵みによって神様が私たちを見てくだされば、「この人は無罪だ」と言われます。

しかし、それだけではなく、神様の恵みによって私たちは新しい心を受けます。その新しい心を受けることで、私たちは自然に良いことを行い始めます。私たちの考え方、行い、言葉は神様を喜ばせます。

言い換えると、私たちは神様の目には義人として認められるだけでなく、実際に義人とされるのです。究極的に、神様が私たちの内に働かれることによる結果は、永遠のいのちです。

だからこそ、恵みは驚くべきものです。どんなに悪い状態でも、神様の恵みはあなたを変えることができます。あなたがすべきことは、ただその恵みを受けることです。

あなたはどうでしょうか。神様の恵みを本当に知っていますか。

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良い伝染

「良い伝染」という表現を作ったと言いたいところですが、実はC.S.ルイスがこの表現を生み出しました。

(もし、ルイスの『キリスト教の精髄』をまだ読んでいないなら、ぜひおすすめします。)

さて、昨日私たちは「悪い伝染」について話しました。つまり、アダムを通して私たち皆に罪が伝染しました。

私たちは自分の罪によって罪人になるのではなく、罪人として生まれたために罪を犯すのです。

けれども、イエス様を通して良い伝染がもたらされます。パウロはこう書きました。

しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。

もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。

また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。

さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。

もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。

こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。

すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。(ローマ人への手紙5:15-19)

要するに、アダムを通して罪が伝染したため、多くの人々が死にました。しかし、イエス様を通して恵みと義が伝染したため、イエス様を受け入れた人々は永遠の命を受けます。

言い換えると、アダムを通して罪が私たちに伝染し、私たちが裁かれたように、イエス様を通して義が私たちに伝染したため、私たちは義と認められました。

さらに、その良い伝染を通して、私たちはまったく別の人になりました。

けれども、幸いなことに私たちはゾンビにはなりません。むしろ、私たちは新しい本性を受けます。つまり、私たちは義人の本性を受けるのです。

だからクリスチャンは、自分の良い行いによって義人になるわけではありません。むしろ、イエス様にあって私たちが義人とされたため、自然に良いことをし始めます。

だから、パウロはこう書きました。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

要するに、イエス様にあって、私たちは真に生き始めます。

私たちを通して、周りの人々にも神様の義が伝染するように。そうすれば、彼らも真に生き始めます。

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悪い伝染

私はこの箇所の要点はおおよそ理解できますが、パウロの言葉を完全に把握するのは少し難しいです。

最も分かりにくいのは、私たちの罪との関係です。つまり、次の問いかけに向き合うことになります。

「私たちは罪を犯してから罪人となるのでしょうか。それとも、もともと罪人だからこそ罪を犯すのでしょうか。

また、私たちは罪を犯すゆえに裁かれるのでしょうか。それとも、私たちの罪深い本性のゆえに裁かれるのでしょうか。」ということです。

パウロによれば、私たち皆はもともと罪人であるため罪を犯し、また私たちの罪深い本性のゆえに裁きに値します。

パウロはこう言います。

こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった。。。(ローマ人への手紙5:12)

この箇所の内容は分かりやすいです。パウロによれば、エデンでアダムが罪を犯すと、罪が世界に入りました。そして、その罪によって死がこの世界に入りました。

アダムは死に、エバも死にました。彼らの子孫はすべて死にました。今なお、すべての人々は最終的に死に至ります。

この箇所の最後の部分は少し分かりにくいです。パウロは、「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と言いました。

それを読むと、多くの人々はこう考えます。「では、人は自分の犯した罪のために死ぬのだろうか。」

その説明はある程度正しいですが、完全ではありません。もちろん、長く生きる人は皆罪を犯し、その罪のゆえに裁かれます。私たち全員が死ぬことに値します。

けれども、赤ちゃんが死んだら、何の罪のために死んだのでしょうか。死産児はどうでしょうか。彼らには良心もなく、善悪の意識もありません。彼らは自分の犯した罪のために死んだのでしょうか。

パウロは、間接的にこのことについて語ります。

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。

けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪と犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。(13-14)

つまり、アダムの時代からモーセの時代までは、神様からの律法は存在しませんでした。神様はアダムに戒めを与えられましたが、その子孫には戒めを与えられませんでした。

そのため、神様は人々に「あなたは私の律法に違反した」と言われることはできませんでした。それでも人々は死にました。なぜでしょうか。

それは、アダムの罪が私たち皆の心の中にあるからです。その罪とは何でしょうか。私たち皆は神様に逆らい、それぞれ自分の道を歩みます。そして、それは生まれつきの性質なのです。

だからこそ、パウロが「すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がった」と言ったとき、彼はアダムが罪を犯した結果、私たち皆が罪人となったことに触れています。私たちにはアダムの罪深い本性が受け継がれています。

少し異なる表現を使うなら、罪は伝染病のようなものです。アダムの罪は私たち皆に伝染しました。

では、どのようにしてアダムの罪が私たちに伝染したのでしょうか。それは分かりません。けれども、人類の歴史を見れば、その真理が明確に示されています。

イエス様以外に、完全に罪のない人は誰もいません。私たち皆は罪を犯します。

私たちは罪を犯してから罪人になったのではなく、罪人だからこそ罪を犯すのです。罪人は自然に罪を犯します。私たち皆は罪人であり、死ぬことに値します。

それは非常に憂鬱な真理ですが、次の記事で良い知らせが語られます。

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神様は私を罰しておられるでしょうか

前回の記事で、私は6-8節について話しましたが、その箇所を文脈に戻した方がよいと思います。そうすることで、私たちはパウロの主張をより明確に理解できるでしょう。

パウロが言ったのは、私たちは苦難さえも喜ぶということです。なぜなら、その苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、その品性は希望を生み出すからです。

しかし、多くのクリスチャンは苦難に直面すると、喜びません。むしろ、苦々しい思いを抱きます。忍耐を持たずにあきらめ、希望を持たずに絶望してしまいます。

なぜでしょうか。

多くの人々は、神様が彼らを罰していると思っているからです。彼らが失敗したために、神様が怒り、彼らを苦しませているのだと考えています。

さらに、時々彼らはそう感じますが、なぜ神様が彼らを罰しておられるのか分かりません。だから、その罰が不公平だと感じるのです。

では、パウロは何と言っているのでしょうか。

「神様があなたを罰しておられるという考え方を捨てなさい。」

パウロはこう説明します。

「少し考えてみてください。あなたがクリスチャンになる前、あなたは神様に背を向け、数多くの罪を犯しました。それでもイエス様はあなたのために死んでくださいました。

イエス様は、あなたの悔い改めを待っておられませんでした。あなたが自分自身を清めるのを待っておられませんでした。

あなたがイエス様を求める前に、イエス様はすでにあなたをお探しになり、手を伸ばしておられました。

ルールにこだわる人のために命を捨てる人はほとんどいないでしょう。優しい人のために命を捨てる人はいるかもしれません。

しかし、あなたが神様のルールに背き、神様や周りの人々を傷つけたにもかかわらず、神様はあなたを愛してくださいました。

神様はあなたのために御子を送り、イエス様があなたのために死なれました。

神様がこれほどのことをしてくださったのに、どうして神様があなたを罰しておられると思うのでしょうか。」

パウロはこう言いました。

ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方(つまり、イエス様)によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。

敵であった私たちが、御子の死によって、神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが御子のいのちによって、救われるのは、なおいっそう確かなことです。(ローマ人への手紙5:10-11)

つまり、神様の目には、私たちはすでに義と認められています。では、どうして「神様は私を罰している」と思うのでしょうか。私たちはすでに神様の怒りから救われています。

そして、私たちが神様の敵であった時に神様が御手を伸ばしてくださったのなら、今私たちが神様の友である時に、なおさら御手を伸ばしてくださらないでしょうか。

だからこそ、苦難に直面しても、私たちは喜ぶことができます。神様は私たちを罰しておられません。神様は私たちの試練を無視しておられません。

むしろ、神様が私たちを罪から救われたように、試練からも救ってくださいます。

だから、パウロはこう言います。

それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。(11)

あなたは苦難に直面しているでしょうか。神様があなたを罰しておられるのか疑問に思っているでしょうか。

心に留めておきましょう。神様はあなたを罰しておられません。

もし神様に信頼するなら、火の中を歩いても、あなたは焼かれることはありません。むしろ、その火を通して、神様はあなたを清め、強めてくださいます。

だから、諦めないでください。絶望しないでください。むしろ、神様に信頼し続けましょう。

神様はこう言われました。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(5)

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恵みとは

私は高校生のときにこの箇所を暗記しました。それは何年も前のことですが、今でもよく覚えていて、英語で暗唱することができます。(日本語では難しいですが。)

実にキリストは私たちがまだ弱かったころ、定められたときに、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。

正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5:6-8)

私が高校生のときも、今も、その言葉は私の心を打ち続けています。

神様は、私たちができることをしてくださったのではありません。

私たちは自分自身を救うことができませんでした。罪の中で溺れていたのです。私たちは救命浮輪を持たず、船もまったくありませんでした。自分を救う力もなく、それでも神様を求めず、誰かの助けさえ求めませんでした。

それにもかかわらず、私たちが神様に背を向けたのに、神様はイエス様をこの世に送られました。十字架でイエス様は私たちの罪のために死なれ、私たちの罰を受けてくださいました。だからこそ、私たちは神様と和解することができるのです。

パリサイ人のような「正しい人」のために命を捨てる人は、ほとんどいません。 なぜなら、彼らはルールを守っていたかもしれませんが、いつも人を責めていたからです。

しかし、優しい人のために命を捨てる人は、いるかもしれません。

けれども、私たちはルールを守らず、それほど優しい者でもありませんでした。 私たちは神様に反抗し、背を向け、自分の道を歩んでいました。

その結果、神様だけでなく、周りの人々や自分自身をも傷つけました。それでも、神様は私たちに背を向けて捨てることはされませんでした。

むしろ、神様は人間となり、私たちの代わりに死んでくださり、三日目によみがえられました。

これこそが恵みです。私たちは、神様から良いものを受けるに値しませんでした。それどころか、私たちは刑に値する者でした。それでも、神様は私たちを愛し、救われました。

神様を信じる私たちは、その恵みを受けました。私たちは有罪であり、その愛に値しない者でした。罪にまみれ、惨めな者でした。それでも、神様は私たちを救われました。それは、本当に驚くべき恵みです。

Amazing grace,
驚くべき恵み。
How sweet the sound,
その響きはなんと美しいことでしょう。
That saved a wretch like me,
この恵みが、惨めな私を救いました。。
I once was lost,
かつて私は迷っていました。
But now I’m found.
しかし今、神様が私を見つけてくださいました。
Was blind but now I see.
盲目であった私が、今は見ることができます。

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火を通過するとき

時々、聖書を読むと、私は少し首をひねることがあります。この箇所もその一例です。

パウロはこう書きました。

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:3-5)

この箇所はよく知られた部分で、私も何度も読んだことがあります。けれども、今回改めて読んでみると、ある疑問が浮かびました。

「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す」ということは理解できますが、どうして練られた品性が希望を生み出すのでしょうか。その関係は何でしょうか。

実は、新改訳は英訳よりも明確です。英訳では単に「忍耐が品性を生み出す」と書かれています。

しかし、原語では「品性」という言葉には、試された人というニュアンスがあります。彼らは試練に直面し、それを乗り越えたことで、神様に認められています。

彼らの信仰は単なる知識ではなく、実際に神様の忠実さや愛を経験したものです。

だからこそ、彼らの信仰は強まり、品性も強められました。どんなに困難な試練に直面しても、神様の愛と忠実さに対する確信を持つことで、希望を抱くのです。

だからパウロは、「この希望は失望に終わることがありません」と言えたのです。私たちの希望は、自分自身の身分や品性に基づくものではありません。

むしろ、私たちの希望は二つの確固たる事実によるものです。それらは、神様が私たちを愛し、私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して私たちと共におられるということです。

旧約聖書のヨブの話を考えてみましょう。彼は大きな試練に直面しました。彼の財産や子供たちは奪われ、さらに友人たちにも責められました。

それでも、彼は忍耐を持ち続けました。そして、火を通過した後、神様の愛と忠実さをより深く理解し、希望を知ったのです。

あなたはどうでしょうか。どんな試練に直面していますか。その試練のゆえに、神様から逃げないようにしましょう。むしろ、神様に近づきましょう。

そうすれば、あなたは神様の愛と忠実さを経験し、希望を知ることができます。

そして、パウロが言ったように、「この希望は失望に終わることがありません。」

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私たちが今立っている恵み

私はこの箇所を何度も読んだことがあるので、素早く読み通してしまうのは簡単です。けれども、今回は少しゆっくりと、この箇所の言葉をじっくりと考え、噛み締めたいと思います。

パウロはこう言いました。

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

このキリストによって私たちは信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。

そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。(ローマ人への手紙5:1-2)

神との平和。

私は自分の家庭について考えます。時々、妻と喧嘩すると、雰囲気がとても緊張します。けれども、仲直りすると、平和が訪れます。気まずい沈黙はなくなり、むしろ微笑んだり、笑ったり、会話を楽しんだりすることができます。

イエス様によって、私たちは神様と同じような関係を持つことができます。

神様のみ前で緊張する必要はありません。「神様は私のことをどう思っているだろう」と不安に思う必要はないのです。

むしろ、神様が私たちを受け入れ、愛してくださっていることを知り、神様との交わりを楽しむことができます。

恵みに立つ。

かつて、私たちは神様の裁判所に立ち、神様の裁きを受ける立場にありました。天の父が刑を宣告されるはずでしたが、そのときイエス様が介入し、私たちを別の場所へ導いてくださいました。

今、私たちは恵みに立っています。私たちの罪はすべて赦されました。

それだけではなく、天の父は私たちに好意を持って私たちを見ておられます。私たちは神様の恵みに値しませんが、天の父は私たちを見て微笑み、喜んで良い賜物を与えてくださいます。

だからこそ、私たちが失敗するとき、恐れるとき、必要を抱えるとき、私たちの立場を思い出すべきです。それは恵みです。裁きではなく、恵みです。

だからこそ、私たちは喜びます。私たちは望みを持っています。

なぜなら、イエス様が十字架で私たちの罪のために死なれたからです。イエス様は、私たちが立っている恵みにアクセスできる道を開いてくださいました。

そして、それは私たちだけではなく、イエス様を信じるすべての人に与えられています。

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確固とした確信を持っている?

私は聖書を何度も読んだことがあるので、新しい発見があると、本当にうれしく感じます。

とくに16-17節は、私の心に深く響きました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。

こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。

アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。

彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。(ローマ人への手紙4:16-17)

「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神。」

この言葉を深く考えてみると、救いの本質を表していることが分かります。

神様が私たちを救う前、私たちは霊的に死んでいました。罪のために裁かれたのです。しかし、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったことによって、私たちは永遠の命を与えられました。

「無いものを有るものとして召される神。」

この言葉は創造を示しているようです。つまり、神様の思いによって、この世界のすべてが存在するようになったということです。

けれども、アブラハムの物語を読むと、私たちはこの「無いものを有るものとして召される神」という概念をより深く理解できます。神様はアブラハムにこう約束されました。

「あなたは多くの国民の父となる。」 「地のすべての国民はあなたによって祝福される。」

驚くべきことに、神様がその約束をされたとき、アブラハムはすでに75歳であり、妻サラは65歳でした。

それでも、神様はその約束を守られました。神様のご計画の中には、アブラハムのための素晴らしい未来があり、その計画は実現しました。

そして、アブラハムは決して神様がご自身の約束を守るかどうかを疑いませんでした。

時には、神様の計画の詳細を理解できず、愚かな行動を取ることもありました。(だから、ハガルの問題が起こりました。)

けれども、アブラハムは決して「神様はうそをついた」と考えることはありませんでした。

だから、パウロはこう言いました。

彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。(ローマ人への手紙4:19-22)

そして、パウロはこう言いました。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。

すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23ー24)

この箇所で、パウロは「義と認められる」ということについて語ります。

私が以前述べたように、この概念を理解するのは少し難しいです。どうして神様は罪人を義人と見なすことができるのでしょうか。彼らが何度も罪を犯すのに、どうして義と認められるのでしょうか。

その答えは17節にあります。神様は「無いものを有るものとして召します。」

新改訳第三版では、このように翻訳されています。「(神様は)無いものを有るもののようにお呼びになります。

これは「義と認められる」という概念を表しています。神様は義のない者を義のある者のようにお呼びになります。

どうしてでしょうか?それは、神様のご計画の中で、私たちはすでに義人とされているからです。神様は現在の私たちだけでなく、将来の私たちの姿を見ておられます。

神様が宇宙を造られたとき、神様の思いにはすでにどんな宇宙になるかが見えており、一言で、すべてが造られました。

神様がアブラハムに約束されたとき、その思いにはイサク、イスラエル、そしてイエス様の姿があり、一言ですべてが成就しました。

神様が私たちを見るとき、その思いには私たちがどのような人になるかが見えています。そして、神様の力によって、私たちはイエス様のかたちに変えられていきます。

毎日、私たちは少しずつ変わりつつあり、天国に行くと、そのプロセスは完成します。だからこそ、神様は私たちを見ると、義人と呼ぶことができるのです。

けれども、アブラハムのように、私たちはしばしば目の前の現実を見ます。つまり、私たちは弱く、罪を犯し続けてしまいます。

だから、アブラハムのように確固たる信仰を持ち、神様の約束を信じましょう。

神様がご自身の約束を実行する力を持っておられることを確信しましょう。神様は私たちを変え、私たちを本当に義人とされます。それは神様の思いの中だけでなく、現実となるのです。(第二コリント 3:18、第一ヨハネ 3:2)

このことを心に留め、信仰を強め、神に栄光を帰しましょう。それは私たちの行いによるものではなく、イエス様の行われたことによるものです。

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(25)

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救い:賜物?当然支払われるべきもの?(2)

多くの人々にとって、救いが本当に賜物というコンセプトを受け入れるのは難しいので、もうちょっとそのことについて話したいと思います。

イエス様の時代でも、多くの人々はそのコンセプトが把握することができませんでした。

福音書では、私たちはある若い金持ちについて読みます。彼はイエス様にこう訊きました。

先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。(マタイ19:16)

その人の質問を見ると、私たちはその人の仮定を見ます。それは、救いが神様の義務です。つまり、私たちがこれとこれとこれをするなら、神様は私たちに永遠の命を与えなくてはいけないことです。

最初は、イエス様はその人の仮定に反ばくせずに、「神様の戒めに従いなさい。」と答えました。

その人は答えました。「私はそれらすべてを守ってきました。」

だからイエス様は言いました。「本当ですか。では、あなたの服従を試してみましょう。あなたの財産を売り払って、貧しい者たちに与えなさい。そして私に従って来なさい。」

もし、その人が本当に心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神を愛していて、また、隣人を彼自身のように愛していたら、(その二つの戒めは律法の土台でした)、彼はすぐにイエス様の戒めに従ったでしょう。

でも、彼は自分のお金に執着しすぎました。彼は神様や隣人よりも、自分のお金に執着しました。

だから、神様の律法はその人を正当化せずに、裁いてしまいました。だから、神様の義務は、ただその人を裁くことです。

嘆かわしいことだけど、その人はイエス様が教えようとすることの半分だけが分かるようになりました。つまり、彼が救いを自分の努力で得ることができなかったことです。

彼は、「私はそれができません。私は神様の戒めに完全に従うことができると思ったけど、それは無理です。どうしたらいいでしょうか。」と言えば、よかったのに。

そう言っていたら、イエス様は微笑んで、こう答えたでしょう。

それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。(マタイ19:26)

でも、イエス様の助けを求めずに、その人は悲しく立ち去ってしまいました。

別の時、イエス様はたとえ話を通して、同じことを教えました。

そのたとえ話では、あるパリサイ人は自分の義を誇りました。彼は神様に基本的にこう言いました。「私は本当にいい人です。だから、あなたは私に永遠の命を与えなくてはなりません。」

でも、ある取税人(その時代、取税人はとても堕落していた人で、イスラエル人に嫌われる職業でした)は神様にこう祈りました。

神様、罪人のわたしをあわれんでください。(ルカ18:13)

イエス様はこう尋ねられました。

「神様の前で義と認められたのは誰でしょうか。パリサイ人ではありません。彼が自分の義を誇っても、神様の義と比べると、その義は不完全なものです。だから彼は裁かれるのです。それは彼自身の努力の『報』なのでした。」

その一方、収税人は神様の前で義と認められました。なぜでしょうか?彼はいろいろな良い行いをしたからですか?

いいえ、違います。彼は恵みによって赦されたのです。彼が神様の憐れみを願い求めたため、神様は賜物として彼に永遠の命を与えてくださいました。

最後に、十字架の出来事について考えてみてください。イエス様の隣で十字架につけられた罪人も、死刑に処されました。

彼は救いに値しませんでした。むしろ、自分の行いのゆえに、彼は死に値しました。けれども、彼がイエス様を信じると、イエス様は彼にこう言われました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)

その罪人は救いのために働いたのではなく、むしろ賜物として救いを受けました。

福音書の中で、私たちはこのテーマを何度も目にします。

私たちの努力によって得るものは何でしょうか。それは裁きです。しかし、救いは賜物です。その真理は決して変わることはありません。

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救い:賜物?当然支払われるべきもの?

この個所では、パウロはとても大切な疑問について話します。

救いや永遠の命は神様からの賜物でしょうか。もしかしたら、それらは、当然支払われるべきものでしょうか。

パウロははっきりと答えます。

働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。

しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(ローマ人への手紙4:4-5)

従業員が働くと、給料日に上司は「あなたの給料を振り込みました。私はとても気前がいいですね。」とは決して言わないでしょう。

もし上司がそんなことを言えば、従業員は心の中でこう思うはずです。

「どういうことなんだ?気前がいいだって?私たちには契約があるはずだ。私はきちんと働いたのだから、会社は当然給料を払うべきだろう。」

しかし、私たちは神様に対してこのようなことを言うことはできません。

私たちが赦され、永遠の命を得る理由は、私たちが完全に律法を守ったからではありません。律法を守ることによって神様の子供になったわけでもありません。

むしろ、パウロはこう言います。

実際、律法は御怒りを招くものです。(15)

要するに、どんなに頑張っても、私たちは失敗してしまいます。

私はこう思うかもしれません。「前回は失敗したけれど、これからは努力して律法を完全に守ります。」

しかし、結局私たちは律法に違反し、神様の怒りを招いてしまいます。

旧約聖書の時代、ユダヤ人たちはその真理を深く学びました。そこで、神様は彼らにこう言われました。

「この律法に基づいた契約はうまくいっていない。

もちろん、律法は良いものだが、あなたがたは罪人であり、その律法を完全に守ることはできない。

だから私は新しい契約を与える。その契約はあなたがたの行為によるものではなく、私の行為によるものだ。」

エレミヤ書31:31ー34には、その新しい契約が記されています。

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。

彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。

わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

要するに、「あなたがたはもはや自分自身を変える必要はありません。私があなたがたの心を変えるので、あなたがたは善を行うことができるようになります。

また、私とあなたがたの間に、もはや仲介者としての祭司は必要ありません。あなたがたは私と直接関係を持ち、私はあなたがたの罪をすべて赦します。」ということです。

この新しい契約は何に基づいているのでしょうか。最後の晩餐の時、イエス様は弟子たちにこう言われました。

また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。

「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの(新しい)契約の血です。」(マタイ26:26-28;ルカ22:19-20)

だから、私たちの救いと神様との関係は、私たちの行為に基づいているのではありません。むしろ、私たちの行為によって、神様の怒りを受けるに値します。しかし、救いは、イエス様の十字架の働きに基づいた賜物です。

律法が与えられる前に、神様はアブラハムにその賜物を与えてくださいました。そして、神様は同じ賜物を私たちにも与えてくださいます。

アブラハムは信仰によって受け入れられ、その賜物を受けました。同じように、私たちも信仰によって受け入れられ、その賜物を受けるのです。

だから、パウロはこう言われました。

そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。

こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。(ローマ人への手紙4:16)

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信仰による義:新しい概念?

旧約聖書を読むと、「信仰によって義と認められる」という教えは比較的新しい概念のように思えるかもしれません。そのため、多くの人は、パウロや他の使徒たちがこの考えを生み出したと思っています。

けれども、実はパウロの時代、多くのユダヤ人はこの概念に疑問を抱きました。

「信仰によって私たちが神様に義と認められるという教えは、どこから来たのだろうか。聖書の中で見たことがないけれど。」

そこで、パウロは4章において、復活後にイエス様が何を教えられたのかを説明しています。(ルカ 24:27、44-47、ガラテヤ1:11-12)

また、1章ではパウロは預言者ハバククを引用しました。

しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク書1:4)

そして、4章では、パウロは、モーセが創世記でアブラハムについて何を述べたのかを記しました。(ちなみに、モーセは創世記の著者です。)

ユダヤ人にとって、アブラハムは非常に重要な人物でした。なぜなら、彼はイスラエルの父だからです。さらに、彼らはアブラハムをユダヤ人の模範と見なしていました。

だから、パウロはこう書きました。

それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。

もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。

聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。(ローマ人への手紙4:1-3)

そして、パウロは尋ねます。

どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。

割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。(10)

パウロの結論は何だったのでしょうか?

彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。

それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。(11-12)

また、パウロは詩篇32篇を引用し、ダビデの言葉を参考にしました。

「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」(7-8)

どうして神様はダビデの罪を赦してくださったのでしょうか。ダビデは、多くの善行を積んだからでしょうか。いいえ、違います。ダビデはただ神様の憐れみを求め、神様に信頼しました。(詩篇 32:5,10)

こうして、パウロは自分の議論をまとめます。

しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。

すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23-24)

これは、すべてのクリスチャンにとって素晴らしい知らせです。私たちは、自分の力で正しい人になろうとする必要はありません。自分の努力で自分自身を清めるのではありません。

むしろ、私たちが神様を信じ、イエス様の十字架の働きを信じるなら、神様は私たちを受け入れてくださいます。

この真理こそが、キリスト教と他の宗教との大きな違いです。この真理によって、私たちは恐れることなく、神様との関係を持つことができます。

あなたはどうでしょうか。そのような関係を持っていますか?もしかすると、心の中で疑いを抱いているかもしれません。「神様は本当に私を受け入れてくださるのだろうか?」

あなたが神様の恵みを深く知ることができますように。

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律法を捨ててしまう?

多くの人が3章を読むと、次のように尋ねるかもしれません。

「もし律法によって私たちが神様に義と認められないのなら、律法を捨ててしまってもよいでしょう。結局、律法には意味がないのだから。」

けれども、パウロはこのように答えました。

それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。(ローマ人への手紙3:31)

「律法を確立する」とはどういう意味でしょうか。

言い換えれば、私たちが律法には、私たちを救いへと導く役割があることを認めるということです。

ガラテヤ人への手紙で、パウロは律法を私たちの「養育係」と呼びました。

では、律法は私たちに何を教えたのでしょうか。律法は神様の聖さを示しました。さらに、律法は私たちの罪を明らかにしました。

だから、パウロはこう書きました。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ人への手紙3:20)

そして、律法が私たちの罪を明らかにすることで、私たちは救い主の必要性を理解するようになりました。

もし私たちの罪が明らかにならなかったら、救い主の必要性を感じなかったでしょう。なぜなら、「私たちはすでに十分に善良であり、神様がきっと私たちを受け入れてくださる」と思い込んでしまうからです。

そう考えるなら、私たちは、イエス様がなぜ私たちのために死ななければならなかったのかを理解できないでしょう。

しかし、律法は私たちの罪を明らかにすることはできても、その罪を取り除くことはできません。

少し考えてみてください。

鏡は男性のひげを映し出すことができます。けれども、鏡自体はそのひげを剃ることはできません。ひげを剃ることができるのは、髭剃りだけです。

同様に、律法は私たちの罪を映し出すことができますが、その罪を取り除く力は持っていません。しかし、神様の恵みは髭剃りのように私たちの罪を取り去ることができます。

さらに考えてみてください。確かに、鏡は私たちのひげを剃ることはできません。とはいえ、だからといって鏡が不要になるでしょうか?そうではありません。鏡は、私たちが剃るべき部分を映し出してくれるのです。

同様に、律法は私たちの罪や不完全な部分を明らかにします。そして、私たちがそれを認識すると、聖霊様が私たちを導き始めてくださるのです。

例えば、聖霊様は男性たちにこう語りかけるかもしれません。「『あなたの妻を愛しなさい』と書いてあるでしょう。では、今日どのように奥さんを愛するべきか教えます。」

または、「『許しなさい』と書いてあるでしょう。では、あなたはまだ〇〇さんを許していないでしょう。あなたの傷は深いかもしれません。それでも、私があなたを癒すので、相手を許しなさい。」

覚えておきましょう。律法は私たちに「自分の力だけでこのルールに従いなさい」と求めているわけではありません。

むしろ、神様は律法を通して私たちの目を開いてくださいます。そして、私たちは神様が私たちの人生の中で何をなさりたいのかを理解するようになります。

鏡を見ると、ただ自分の姿が映るだけではなく、私たちの天の父を見ることができます。そして、天の父は愛をもって、その恵みの髭剃りで私たちの罪を取り除き始めてくださいます。

私たちはその髭剃りを見て、少し怖いと感じるかもしれません。けれども、私たちが信仰をもって神様に「はい」と応じるなら、神様は私たちの罪を少しずつ取り去ってくださいます。

あなたはどうでしょうか。鏡を見ると、自分の罪や失敗だけが目に入るでしょうか。

それとも、あなたの天の父を見るでしょうか。天の父はきっとあなたの人生に働き、あなたを癒してくださいます。

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誇りの余地がない

この箇所では、私たちはパウロの最も重要な結論の一つを読むことになります。

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。

いいえ、信仰の律法によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。

それでも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。

そうです。異邦人の神でもあります。神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。(ローマ人への手紙3:27-30)

簡単に言えば、恵みに関しては、人々には誇る余地が全くないということです。

人々が完全に律法を守ることによって、神様は彼らを受け入れるのではありません。(なぜなら、完全に律法を守る人は誰もいないからです。)

また、神様は人種によって人々を受け入れるのではありません。(ユダヤ人はそう思っていましたが。)神様は、私たちがイエス様の十字架の働きを信じたからこそ、私たちを受け入れてくださるのです。

この真理を理解していないクリスチャンが多いため、二つの誤解が生じます。

あるクリスチャンたちは尋ねます。「私が何度失敗しても、どうして神様は私を受け入れてくださるのだろうか。」

なぜ彼らはそのように疑うのでしょうか。それは、彼らが心の中で「神様の受け入れを得るためには、自分が努力しなければならない」と考えているからです。

そして、彼らはいつも自分の努力が足りないと感じ、「私は神様の愛に値しない」と思ってしまうのです。

しかし、それこそがパウロのポイントです。恵みとは、私たちが神様の愛や受け入れに値しないにもかかわらず、神様が私たちを愛し、受け入れてくださることです。

誰も神様の前に立って、「私はあなたの子供で、あなたは幸運ですね。私は善良で、あなたの国に貢献できます。」と言える人はいません。

むしろ、私たちは皆、霊的に貧しい者として、何も持たずに神様の前に来るのです。ある賛美歌には、次のような言葉があります。

Nothing in my hand I bring,
何も持たずに、
Simply to the cross I cling;
ただ私は十字架にすがりつきます。
Naked, come to thee for dress;
私は裸で、衣を得るためにあなたのもとへ行きます。
Helpless, look to thee for grace.
私は心細く、あなたを仰ぎ見て、恵みを願います。

その一方で、あるクリスチャンたちは「私は良いクリスチャンだ」と思い、「それほど良くないクリスチャン」を見下します。彼らはパリサイ人のように人々を裁きますが、自分自身の失敗や罪には気づかないため、恵みの必要性を理解できません。

その結果、人々に恵みを示さず、批判ばかりしてしまいます。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生に神様の恵みが見えているでしょうか。もしかすると、神様があなたを受け入れてくださらないと思い、いつも気が沈んでいるかもしれません。

あるいは、人々を見下して、恵みを示すことを拒んでしまっているでしょうか。

「恵み」という言葉を聞いたとき、あなたはどのように感じるでしょうか。その言葉はあなたの心に響くでしょうか。それとも、何も感じないでしょうか。

恵みという言葉があなたの心に深く響きますように。そして、ただ響くだけでなく、恵みがあなたの心を支配し、導くものとなりますように。

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神様の忍耐と義

この箇所でパウロは、イエス様の十字架の働きの前に生きていた人々について、とても興味深いことを語っています。

パウロはこう言いました。

神はこの方(つまり、イエス様)を信仰によって受けるべき、血による宥めのささげものとして公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。

神は、忍耐を持って、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。

すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。(ローマ人への手紙3:25-26)

この箇所でパウロは、神様の義について語っています。パウロが伝えているのは、イエス様が十字架で死ぬ前に、神様が人々の罪を見逃すことで、ご自身の義を明らかにされた、ということです。

それはどういう意味でしょうか。イエス様が十字架で死ぬ前に、すべての人々は救われたのでしょうか。

違います。パウロは何度もはっきりと教えています。人々は信仰によって救われるのです。パウロは28節でそう語っています。

人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは教えているからです。(28)

そして、4章でパウロはアブラハムを指して、「アブラハムも信仰によって救われた」と語っています。

すなわち、神様を信じない人々は救われず、むしろ裁かれました。

けれども、アブラハム、モーセ、ダビデ、そしてその他の旧約聖書の信者たちには問題がありました。彼らは犠牲を捧げましたが、その犠牲には本当に罪を清める力はありませんでした。むしろ、それらの犠牲は、イエス様の将来の犠牲を象徴していました。

(へブル人への手紙を解説するときに、私はさらに具体的に説明します。)

彼らは神様を信じていましたが、イエス様がまだ彼らの罪のために死んでいなかったため、神様が彼らを罰することは不公平だったでしょう。

彼らは神様がメシア(救い主)を送ることを信じました。そのため、神様はその信仰を受け入れ、彼らを義人と見なし、彼らが受けるべき罰を猶予されました。

そして、イエス様が十字架にかけられたとき、神様はアブラハム、ダビデ、そしてその他の旧約聖書の信者たちの罪をイエス様の上に置かれました。その時、イエス様は彼らの罰を受けました。

その結果、彼らの罪は赦され、イエス様がよみがえられた後、彼らはイエス様と共に天国に行ったのです。

神様は私たちに対しても、忍耐と義を示されています。

私たちは皆、罪を犯しました。神様はすぐに私たちを滅ぼす権利を持っていましたが、むしろ忍耐を示されました。

神様は私たちの心に働きかけ、私たちの心をイエス様のために整えてくださいました。そして、私たちが神様を信じたとき、神様は私たちの罪を清めてくださいました。

とはいえ、神様の赦しを誤解しないでください。神様はただ、「あなたが悪いことをしたけれど、私は優しいからその罪を赦してあげる」と言ったわけではありません。

むしろ、神様はこう言われました。「あなたの罪は深刻なものでした。その罪のために、代価が支払われなければなりませんでした。正義が行われなければなりません。

しかし、イエスがその代価を支払ったので、正義は成し遂げられました。そして、あなたがその十字架の働きを信じたので、その信仰によって、あなたは救われました。」

もし、あなたがまだクリスチャンでないなら、覚えていてください。神様は忍耐強い神です。けれども、神様は義の神でもあります。神様は忍耐を示し、あなたの反応を待っています。それでも、神様は永遠に待つわけではありません。

もし神様の恵みを受け入れないなら、あなたは神様の義の裁きを受けることになります。だから、ためらわないでください。まだ時間がある間に、その恵みを受けてください。

パウロはこう言いました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

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神様に受け入れられるのに

感じるときも、感じないときも、私たちの最も大切な必要は、神様に受け入れられることです。

私たちが神様に受け入れられることを理解すると、人生は完全に変わります。私たちは満足、平和、喜びを見つけます。さらに、本当のいのちを見つけます。

では、どのようにすれば私たちは神様に受け入れられるのでしょうか。パウロがはっきりと教えているのは、律法に従うことによって神様に受け入れられる人は誰もいないということです。

全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ(ない)。(ローマ人への手紙3:23)

「罪」という言葉の原語は興味深いものです。それはアーチェリーの専門用語であり、「的を逸れる」という意味を持っています。

しかし、その意味は単に的の中心を逸れるだけではなく、むしろ的にまったく当たらないことを指します。

要するに、私たちは完全な人ではありません。神様と比べれば、私たちは決して聖い存在ではありません。

少し考えてみてください。

仮に一日に三回、悪いことを考えたり、言ったり、行ったりするとします。他の人々と比べれば、それほど悪いとは感じないかもしれません。

けれども、その三つの罪を365倍してみてください。一年間で約1000の罪になります。そして、その1000の罪をあなたの年齢に掛けると、どうなるでしょうか。それは何万という罪になります。

裁きの日に、あなたの罪について話すのに、何時間かかるでしょうか。もし、毎日三回以上罪を犯していれば、さらに多くの時間が必要になるでしょう。

したがって、私たち全員がすでに裁かれているのです。神様の前で、「私は、あなたに受け入れられるのにふさわしい者です。私は完全にあなたの律法に従いました。」と言える人は誰もいません。

けれども、良い知らせがあります。パウロはこう言いました。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証さて、神の義が示されました。(21)

どのようにすれば、私たちはその義を得ることができるのでしょうか。パウロは続けてこう言います。

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。

そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。

神は、この方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(22-25)

パウロは何を言いたいのでしょうか。この箇所には、さまざまなキリスト教の専門用語が出てきます。パウロは「贖い」について語ります。「贖い」とは何を意味するのでしょうか。

「贖い」とは、奴隷の自由を買い取ることです。私たちは皆、罪の奴隷であり、またサタンの国の奴隷でした。しかし、イエス様は私たちの自由を買い取ってくださいました。それが「贖い」の意味です。

では、イエス様はどのようにして私たちの自由を買われたのでしょうか。十字架でイエス様が流された血によって、私たちは自由とされたのです。

パウロは「宥めのささげ物」という言葉を使います。

この言葉の意味は、十字架でイエス様が私たちの罪に対する神様の怒りを受け入れ、その怒りが静められたということです。イエス様の血によって私たちの罪は覆われ、赦されました。

その結果、私たちは神様に近づくことができるのです。

したがって、私たちの良い行いによって神様が私たちを受け入れるのではなく、神様はイエス様の十字架の御業によって私たちを受け入れてくださいます。

言い換えれば、イエス様の死によって、私たちは神様に義と認められるのです。なぜなら、イエス様が私たちの罪の代価を支払われたので、神様は私たちを罪人として見なされないからです。まるで、私たちが罪を犯したことがないかのように見なされます。

今、私たちは恵みによって神様に受け入れられています。

「恵み」とは、私たちが値しないものを受けることを意味します。

本来なら、私たちは神様に背を向けたため、神様の怒りに値していました。けれども、今、神様は私たちを息子たちや娘たちとして受け入れてくださいます。

私たちに求められているのは、ただイエス様とその十字架の働きを信じて受け入れることなのです。

あなたはそれを受け入れましたか。

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でも、ちょっと言い過ぎているでしょう。

多くの人々がパウロの言葉を読むと、このように反応するかもしれません。

「パウロは少し言い過ぎではないでしょうか。『神を求める者は誰もいない?』って。

私の知り合いには、神様を求めている人がたくさんいます。

また、『善を行う者は誰もいない?』って。

毎日、善を行う人を見かけます。」

この二つの異議について少し考えてみましょう。

では、パウロが「神を求める者はいない」と言ったとき、どういう意味なのでしょうか。

ローマ人への手紙1章をもう一度読んでください。その箇所によれば、人々は神様に関する知識を拒絶しました。神様は、ご自身を被造物や人々の良心、神様の律法を通して現してくださいました。

しかし、人々は神様に関する真理を偽りと取り替えました。彼らは「神様を求めている」と言いながらも、神様ではないものを礼拝していました。(1:25)

多くの場合、彼らは偶像を礼拝しました。ほかの人々は聖書の教えを曲げて、違うイエス様や違う福音、違う聖霊に従いました。(第二コリント11:4)

あなたはこう言うかもしれません。「でも、私はクリスチャンです。私はカルトや別の宗教に所属しません。私が神様を求めたので、神様は私を救ってくださいました。」

ある程度、それは正しいかもしれません。とはいえ、その理解は少し不完全です。つまり、あなたがイエス様を選ぶ前に、イエス様はあなたを選んでくださいました。(ヨハネ15:16)

また、あなたが神様を求める前に、神様はあなたを探していました。(ルカ19:10)

神様が先にあなたを愛し、探してくださったので、あなたは神様を求め始めたのです。神様があなたの目隠しを取り除いたので、あなたは神様を必要としていると分かり、神様を求め始めました。

もし神様があなたをそのままにしていたら、あなたは決して神様を求め始めなかったでしょう。

神様が触れる前に、神様を求める人は誰もいません。もし振り返れば、神様がどのようにあなたに触れ、あなたの人生に働きかけたかが分かるでしょう。

そして、パウロが「善を行う人はいない」と言ったとき、どういう意味なのでしょうか。

少し想像してみてください。ケーキを作るとき、あなたは砂糖ではなく、わざと塩を入れます。焼いたら、そのケーキは見た目は美味しそうかもしれません。

けれども、人々はそのケーキを食べられるでしょうか。全く食べられないでしょう。そのケーキは捨てるしかないでしょう。

そのように、私たちが神様に背を向けると、私たちの良い行いは神様にとって受け入れがたいものとなります。

私たちは良い行いをするかもしれませんが、それらの行いには神様への反抗的な態度という味がついてしまいます。だから、神様にとっては、あなたの良い行いは無意味なのです。

たとえ良い行いをしても、神様は反抗的な態度を受け入れません。

預言者イザヤはこう言いました。

私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。(イザヤ64:6)

要するに、自分の良い行動によって救われる人は誰もいません。また、「私の心がそもそも他の人々の心よりも優れたものなので、私は神様に従った」と自慢できる人は誰もいません。

私たちは皆は、神様の恵みだけによって救われることができます。

私たちはローマ人への手紙を読めば、読むほど、私たちはその真理を分かって来るでしょう。

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でも私は、そんなに悪くないでしょう?

多くの人々は次のように疑問を抱きます。

「たとえ善良な人であっても、多くの人がイエス様を信じていない。どうして神様は彼らを拒絶されるのか。

永遠の命を求めるならば、クリスチャンにならなければならないのか。

例えば、ガンジーはとても善良な人だった。殺人や暴行を犯した者が地獄に行くのは理解できるが、なぜガンジーも地獄に行かなければならないのか。」

あるクリスチャンの中にも、このことを疑問に思う人がいるかもしれません。

しかし、この考え方の問題は、私たちの「良い」という概念が歪んでいることにあります。

私たちは自分の都合で「良い」を定義することはできません。

また、「良い」という基準は神様の外にあるものではありません。

神様は「私は『良い』という基準に従わなければならない」と考えられることは決してありません。

神様ご自身が「良い」の基準なのです。

だからこそ、何が本当に良いのかを知りたいと思うならば、私たちは神様を見つめなければなりません。「良い」という定義は、神様の御性格から生じるものだからです。

そして、どのような行いが善であり、悪であるかを知りたいならば、神様が人間をどのように造られたかを見る必要があります。

それこそが神様の律法の目的です。律法を通して、私たちは神様がどのようなお方かを知ることができ、また、私たちがどのように生きるべきかを理解することができるのです。

したがって、私たちの「善」を測る際に、自分自身を周りの人々と比較することは適切ではありません。なぜなら、彼らの人生が「良い」の基準ではないからです。

また、私たちの文化の価値観を基準にすることも適切ではありません。私たちは神様に目を向け、神様の御性格によって自分を測らなければならないのです。

けれども、そのようにすると、「良い」という基準を満たす人は誰もいません。だからこそ、パウロはこう語りました。

私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。次のように書いてあるとおりです。

「義人はいない。一人もいない。

悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。

善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ人への手紙3:9-12)

パウロは何を言いたいのでしょうか。

神様の前に、自分の義を誇ることができる人が誰もいないことです。神様は彼らの義を認めません。

なぜでしょうか。彼らは「義」という言葉の意味さえ、正しく理解していないからです。

では、なぜ彼らは「義」ということがわからないのでしょうか。 それは、彼らが神様を求めず、むしろ神様に背を向けているからです。

そして、神様に背を向けることは、一番ひどい罪です。レイプだはなく、殺害ではなく、神様に背を向けるのは一番ひどい罪です。なぜでしょうか。

なぜなら、私が以前言ったように、「良い」という定義は、神様の性格から流れるから。神様は「善」の源です。

人々が善の源に背を向けるとは、「悪」の定義ではないでしょうか。

善の源に背を向けると、どうなるでしょうか。あなたの心から悪が流れて、あなたは悪いことを言ったり、悪いことをしたりします。

あなたは、何回ぐらい嘘をついたでしょうか。あなたは、何回ぐらい人の悪口を言ったでしょうか。何回ぐらい苦い言葉があなたの口から流れたでしょうか。何回ぐらいあなたの言葉で相手を傷つけたでしょうか。

そのような言葉は良い心から流れるでしょうか。

これまでに、自分の誤った決断によって、あなたの人生はどれほど混乱したでしょうか。

これまでに、どれほどあなたは自分の行いによって人々を傷つけたでしょうか。

これまでに、どれほどあなたは「神様のみ言葉を知っていながら、私は自分の道を進む」と言ったでしょうか。

もしあなたが正直であるなら、これまでに挙げたことをすべて自分が行ったと認めるでしょう。

だからこそ、パウロはこう語ったのです。

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(19-20)

ガンジーが神様の前に立ち、神様が彼を裁かれると、ガンジーは何も言えなくなるでしょう。なぜなら、神様がガンジーの罪をすべて明らかにされ、ガンジーはその罪を認めるからです。

それだけでなく、ガンジーは「私はその罪を犯した瞬間に、自分が悪かったと知っていました」と認めるでしょう。

ガンジーは一切の言い訳を持ちません。なぜなら、彼が聖書をすべて知らなかったとしても、彼自身の良心が彼を裁いたからです。

しかし、ガンジーは、きっと少しでも聖書を読んだことがあったでしょう。

(どうしてクリスチャンにならないのかと聞かれた際、ガンジーはこう言いました。 「あなたのキリストは好きです。けれども、クリスチャンのことは好きではありません。なぜなら、クリスチャンたちはキリストとは全然違うからです。」)

とにかく、彼が聖書を読んだとき、彼の責任は増しました。なぜなら、聖書は鏡のようにガンジーに自分の罪を映し出したからです。

同じように、もしあなたがイエス様を拒絶するならば、裁きの日には言い訳を持つことはできません。そして、神様に裁かれることになるのです。

だから、自分自身を欺かないでください。「私はそんなに悪くはない」と主張しないでください。

私たち全員が罪人であり、神様の恵みを必要としています。

裁きの日にそれを認めるよりも、今認めた方がよいのです。

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嘘も方便でしょう?

昨日、私たちは、神様の裁きへの間違った態度について話しました。パウロの時代でも現代でも、人々は同じようなことを言います。とはいえ、当然ながらその適用には少し違いがあります。

例えば、パウロの時代には、ある人々がこう言いました。

善をもたらすために悪を行おう。(ローマ人への手紙3:8)

パウロの時代には、次のような考え方がありました。

「もし私たちが悪を行えば、周囲の人々は人間と神様の違いをより明確に理解し、神様の良さが際立つ。それならば、悪いことをすべきだ。」

これは極めて歪んだ考え方であり、パウロはその人々を厳しく叱責しました。

しかし、現代においても似たような思考が見られます。つまり、「嘘も方便」という考え方や、「目的は手段を正当化する」という論理です。

要するに、「私は悪いことをしていると認識しているが、その動機は善である」という思考です。

例えば、「ノンクリスチャンと結婚してはいけないことは理解しているが、結婚すれば、その人がクリスチャンになるかもしれない。」という考え方です。

また、「嘘をついてはいけないことは理解しているが、真実を話せば相手を傷つけてしまう。」

最近、アメリカの大学で大きなスキャンダルが発生しました。子供を大学に入学させるために、33人が賄賂を使い、子供の試験結果を不正に操作しました。

彼らの言い訳は、「私たちは子供を愛しており、彼らの最善を望んでいます。」というものです。

けれども、神様はそのような考え方を裁かれます。神様は結果だけでなく、その過程にも目を向けられます。もし私たちが手段を軽視しようとすれば、その選択はやがて深刻な結果を招くでしょう。

ユダヤ人と他のアラブ人の問題について少し考えてみてください。なぜこのような対立が生じているのでしょうか。何千年も前、アブラハムは「目的は手段を正当化する」と考えました。

神様はアブラハムに約束されました。「私はあなたに子を与えます。その子を通して、全世界は祝福されます。」

しかし、何年経ってもアブラハムにはまだ子供がいませんでした。そこで、彼は神様を助けようと考えました。彼は妻サライの女奴隷と関係を持ち、子供が生まれました。

実は、それはサライの勧めでした。また、その時代の文化において、この行為は特に異例なものではありませんでした。むしろ、多くの人がアブラハムの決断に賛同したことでしょう。

ところが、それは神様の御心ではありませんでした。そして、現在に至るまで、ハガルの子孫(アラブ人)はサライの子孫(ユダヤ人)と争い続けています。

もしアブラハムがこの誤った決断をしなかったならば、何千年にもわたるこの問題は存在しなかったかもしれません。

あなたはどうでしょうか。あなたは信仰によって生きていますか。神様の道を歩み、神様があなたを祝福されることを信じていますか。

それとも、「良い目的」のために悪いことをしても構わないと考え、言い訳をしてしまうでしょうか。

神様の目には、たとえ善意の動機であっても、不正な手段が許されることはありません。

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呪われた考え方

この箇所では、私たちは神様に対する呪われた考え方を目にします。このような考え方を持つならば、人は確実に滅びへと向かうことでしょう。

正直に言えば、そのような考え方を持つ人がいることが信じられません。彼らはこう言いました。

「私が罪を犯すことで、むしろ神様は喜ぶべきではないでしょうか。なぜなら、私の悪によって、神様の善がより明らかになるからです。

神様はご自身の良さを示したいと思っているはずです。もしそうならば、なぜ神様は私を裁かれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙3:5-8)

このような考え方はあまりにも愚かであるため、パウロはすぐに反論しました。

「いったい何を言っているのですか。神様は決して罪を喜ばれることはありません。もし神様が罪を喜ばれるのであれば、どうしてこの罪深い世界を裁くことができるでしょうか。」(6)

また、別の人々はこう言いました。

「私が罪を犯すことで、善がもたらされるのではないでしょうか。私の罪によって神様の良さがさらに明らかになり、神様の栄光が現れるのです。ならば、私はもっと罪を犯したほうが良いでしょう。」

パウロの答えは極めて簡潔であり、率直でした。

そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。(8)

もちろん、そのように考える人は、もはや誰もいないと思います。けれども、今なお似たことを口にする人はいます。今日は一つの議論を取り上げ、明日はもう一つの議論を考察します。

ある人はこう言います。「神が御怒りを下すのは不義ではないでしょうか。」(5)

現代の人々は、パウロの時代の人々とは異なる方法でこの議論を用います。彼らはこう言います。

「もし誰かが福音を聞いたことがないなら、どうして神様はその人を罰するのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

しかし、パウロはこの手紙の第一章で、この議論に反論しました。つまり、福音を直接聞いていない人であっても、神様の存在を示す証拠を持っているということです。

その証拠とは、被造物、彼らの内なる律法、そして彼らの良心です。それでも、彼らはそれらの証拠を持っていても、神様を求めようとはしません。

彼らは、自分が知らないことによって裁かれるのではなく、自分が知っていることによって裁かれるのです。したがって、彼らへの裁きは公平なものなのです。

また、多くの人々はこう言います。「神様はご自身を拒む人々を地獄へ行かせることがあるのでしょうか。彼らは本当に永遠に苦しまなければならないのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

どのようにその疑問に答えることができるでしょうか。

第一に、人々が地獄へ行く場合、実は神様は彼らの願いを叶えておられるのです。つまり、神様を拒絶する人は、なるべく神様から遠く離れ、自分の思うままに生きたいと願っています。

彼らは神様を信頼せず、神様が良い方であり、彼らを愛しておられることを信じないゆえに、神様を王として受け入れたくないのです。

彼らは自分の道を歩むことで真の幸せを見いだすと思っています。

けれども、真理は、神様こそが愛、喜び、命、そしてすべての良いものの源であるということです。

したがって、神様から完全に離れた存在とは、すべての良いものからも離れた存在となるのです。それが何を意味するでしょうか。それこそが地獄なのです。

二つ目は、人々が地獄へ行く必要がないように、神様がイエス様をこの世に送られたことです。イエス様は十字架で私たちの罪のために死なれました。そして、救いの働きを完全に成し遂げられました。

私たちに求められることは、その働きを信じ、永遠のいのちという賜物を受け取ることだけです。

では、どのようにしてその賜物を受け取ることができるでしょうか。神様にこう祈るなら、その賜物を受けることができます。

天のお父様、今まで私は自分の道を歩み、人生を混乱させてきました。どうか私を赦してください。

イエス様が私の罪のために死に、よみがえられたことを信じます。だからこそ、これから私はあなたに信頼します。どうか私の王となってください。

私の心の中で働いてくださり、毎日私がイエス様のようになれるよう助けてください。

この選択をすれば、私たちは真のいのちを知ることができます。救いの道は決して難しいものではありません。難しいのは自分の道を捨てることなのです。

C.S.ルイスはこう述べています。

最終的に、人は神様に向かって「あなたの御心が行われるように」と言うか、それとも神様が彼らに向かって「あなたの心が行われるように」と言われるかのどちらかである。

あなたはどう選択するでしょうか。

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神様の真実な性格

ユダヤ人たちが2章だけを読むと、パウロはユダヤ人であることや割礼を受けることに価値がないと教えているように思われるかもしれません。

しかし、3章では、パウロはユダヤ人であることや割礼を受けることに価値があるとはっきりと教えています。彼はこう語りました。

それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。

あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。(ローマ人への手紙3:1-2)

要するに、ユダヤ人であることの一つの利点は、神様が彼らに直接ご自身を現されたことです。そのため、彼らは神様の御名を知り、神様がどのような方であるかを理解しました。

他の国々の人々も、被造物を通して神様の存在を知ることができました。けれども、それ以上のことは分かりませんでした。

しかし、以前も述べたように、そのような知識を持つことにはマイナス面もあります。つまり、より多くの知識を持っている人は、神様からより厳しい裁きを受けることになるのです。

そして、残念なことに、ユダヤ人たちの歴史を振り返ると、彼らは神様を知っていながらも背を向け、異なる神々に従っていました。

では、神様はユダヤ人たちを見捨てられたのでしょうか。一部の聖書学者たちは、そのように考えています。彼らの主張によれば、クリスチャンこそが「新しいイスラエル」です。

ある意味では、それは正しいとも言えます。後の箇所で見るように、私たちは神様の家族の一員とされたのです。

とはいえ、「神様はユダヤ人たちを完全に見放された」と断言するのは行き過ぎた解釈かもしれません。パウロは、ユダヤ人について次のように語っています。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。決してそんなことはありません。

たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。(3-4)

あるユダヤ人たちは神様に背を向けたかもしれません。それでも、神様はユダヤ人たちを決して見捨てることはありませんでした。彼らの不真実は、ユダヤ人たちに対する神様の真実を無にすることはなかったのです。

人は自分の約束を破ることがあるかもしれませんが、神様は常にご自身の約束を守られます。だから、神様の裁きが不公平だと言える人は誰もいません。

このような理由から、いつかすべてのユダヤ人がイエス様こそメシアであると信じるようになるでしょう。

しかし、ユダヤ人ではない人も、この箇所から励ましを受けることができるでしょう。なぜなら、私たちもユダヤ人たちと同じように、しばしば不真実であるからです。

私たちは、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じず、時には神様が私たちの最善を知らないかのように思うことすらあります。そのため、私たちは神様とその言葉を捨てて、自分の道を歩もうとします。

それでも、神様は決して私たちをあきらめることはありません。神様は私たちを追い求め続けてくださいます。

だから、時に神様は私たちを懲らしめられます。けれども、その懲らしめの中にも、神様の愛と最善を望む御心があるのです。そして、たとえ何度失敗しても、神様が私たちを見放されたのではないかと心配する必要はありません。

パウロは別の手紙の中で、次のように語っています。

私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

だから、私たちが失敗するときも、つまずくときも、神様の真実な御性格を心に留めておきましょう。そして、神様の約束を心に刻み続けましょう。

わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。(へブル13:5)

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本当の割礼

パウロの時代、ユダヤ人たちは神様に関して大きな誤解を抱えていました。彼らは、神様が人の外見よりも心を重視されることを忘れていたのです。

特に、割礼を受ければ神様に義と認められると考えていましたが、心の中にある罪には目を向けていませんでした。

神様は、旧約聖書の預言者たちを通して、この問題について警告されました。預言者エレミヤを通して、神様はこう語られました。

見よ、その時代が来るーー主のことばーー。

そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを切り上げているすべてのものを罰する。

すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。(エレミヤ9:25-26)

つまり、ユダヤ人たちが肉体的な割礼を受けることよりも、神様は彼らの心を求めておられました。もし彼らの心が神様に属していないなら、その割礼は神様にとって無意味なのです。

だから、パウロはこう語りました。

もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。

ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。

からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の体の割礼が無割礼ではないからです。

かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。(ローマ人への手紙2:25-29)

パウロは仮定的な状況について語っているようです。

もし誰かが律法を完全に守ることができたなら、その人は割礼を受けていなくても、神様に受け入れられるでしょう。その一方、誰かが律法に違反するなら、たとえ割礼を受けていても、神様はその人を律法の違反者として裁かれます。

さらに、律法に従う者は、割礼を受けている人を裁くことができるでしょう。

とはいえ、当然のことながら、割礼を受けている人も受けていない人も、律法を完全に守ることができる人は誰もいません。

だからこそ、パウロはユダヤ人たちに語ります。「割礼を受けても、あなたが本当のユダヤ人と呼ばれるとは限りません。割礼を受けても、あなたが神の民とされるとは限りません。割礼とは、単なる肉体的な儀式ではなく、心に関わることです。

御霊による心の割礼を受ける者こそが、神様の民であり、神様に受け入れられるのです。」

では、心の割礼とはどういう意味なのでしょうか。パウロはこう語りました。

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉の体を脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。(ローマ人への手紙2:11)

肉の体とは、「罪深い性質」を意味します。

言い換えれば、私たちは罪の鎖に縛られていました。しかし、キリストを信じて歩み始めると、イエス様はその罪の鎖を断ち切ってくださいました。それ以前の私たちは、罪深い性質に引き寄せられ、その欲望に従っていました。

けれども、聖霊がその性質を割礼されたことによって、私たちは神様に属する者となりました。さらに、罪の鎖が断ち切られたことで、神様に従う自由が与えられ、正しい人生を歩む力を授けてくださいました。

ただし、この心の割礼は、私たちの努力によるものではありません。むしろ、私たちは信仰をもってイエス様に心を捧げ、こう祈ります。

イエス様、あなたを必要とします。私は自分自身を救うことができません。どうか私を救ってください。私はあなたを信頼し、あなたの十字架の働きを信じます。だからこそ、私の罪を赦してください。私があなたのものとなるように。

このように祈るなら、あなたは神様の子供とされ、その瞬間、神様に義と認められるのです。

あなたはどうでしょうか。自分の心を神様に捧げていますか。心の割礼を受けた者となっていますか。

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自分自身を見るとき

この箇所で、パウロはユダヤ人たちに語っています。そして、彼のポイントはこうです。

律法によって神様の前で義と認められたいのなら、ただ律法を知っているだけでは不十分です。あなたはその律法に完全に従わなければなりません。

だから、パウロはこう語ります。

あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。

盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。

律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。(ローマ人への手紙2:17-23)

つまり、あなたたちは律法を知っていて、誇り高く思っています。神様の律法を与えられ、神様の民と呼ばれることを誇っています。

あなたたちは、すべてを理解していると思い、もし誰かが神様とその道を知りたいなら、自分たちのもとに来るべきだと考えています。

しかし、あなたたちは自分が教える律法に本当に従っているでしょうか。もしかすると、神様の言葉を伝えた後で、その言葉に反する行動をしてはいないでしょうか。

そして、パウロは彼らにこう語りました。

「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。(24)

正直に言えば、聖書を教える者として、この箇所は非常に厳しく感じます。私は、自分の行動のせいで神様の御名が友人や同僚の間で汚されることを望みません。偽善者にはなりたくないのです。

それでも、私はしばしば失敗してしまいます。時には、偽善的な行動をとってしまうこともあります。正しいことを行うのが難しい時もありますし、自分が説いていることに従うのが難しい時もあります。

説教する時や、このブログを書く時、私は多くの場合、自分自身に向かって語っているのです。

結局、私はただ、神様の御座の前にひれ伏し、憐れみを請うことしかできません。

実は、それこそがパウロのポイントです。私たちは皆、神様の恵みを必要としています。もし、律法によって自分が義と認められたいと主張するなら、その律法に完全に従わなければなりません。けれども、それができる人は誰もいません。

あなたはどうでしょうか。あなたはどれほど神様の恵みを必要としているか、理解していますか。

もし、「私はまあまあ良い人だ。ほかの人よりも、私はましだと思う」と考えているなら、自分自身をもっと見つめる必要があるかもしれません。なぜなら、私たちは自分が思うほど良い人ではないからです。

その真理を理解しない限り、私たちはどれほど神様を必要としているのかを正しく知ることはできません。

鏡を眺めると、あなたは何を見るでしょうか。

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福音を聞いたことない人は、どうなるの?

多くの人々は、キリスト教のメッセージを聞いたときに、こう尋ねます。「もし、ある人々が聖書のことを聞いたことがないなら、どうして神様は彼らを裁かれるのでしょうか。それは不公平ではないでしょうか。」

この箇所で、パウロはその疑問に答えます。パウロはこう言います。

「悪を行うすべての人が裁かれます。ユダヤ人たちは先に裁かれますが、その後、異邦人(つまりユダヤ人ではない人々)も裁かれます。

その反面、善を行うすべての人は報いを受けます。ユダヤ人たちは先に報いを受けますが、その後、異邦人たちも報いを受けます。」

では、なぜその順番が決まっているのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神様から直接律法を授かったからです。したがって、彼らの責任はより重いのです。

イエス様はこのことを次のように説明されました。

主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。

しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。

多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。(ルカ12:47-48)

パウロは、その概念をより具体的に説明しています。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。(ローマ2:12)

簡単に言えば、人々は自分が持っている知識に基づいて裁かれます。しかし、持っていない知識によって裁かれることはありません。

もし、ユダヤ人が神様から与えられた律法を知っているなら、その律法によって裁かれます。けれども、その律法を知らない人々は、異なる基準で裁かれることになります。

では、彼らはどのような基準で裁かれるのでしょうか。

自分の律法が神様の律法に適合する限り、彼らはその律法によって裁かれます。パウロはこのことを説明しています。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。

彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。(ローマ人への手紙2:14-15)

つまり、どの国でも、どんな文化でも、すべての国民の律法には、神様の律法と一致する部分があります。

もちろん、それらの律法が神様の律法に完全に一致するわけではありません。しかし、律法が神様の律法と一致する限り、人々はその律法によって裁かれます。

例えば、文化によって盗難の定義は異なるかもしれません。けれども、もしある人がその国の盗難に関する律法を破れば、その人は神様に裁かれます。

さらに、神様はもう一つの基準で人々を裁かれます。それは良心です。

例えば、自分の文化では、結婚前に恋人と肉体的な関係を持つことは許されているかもしれません。それでも、もし誰かが自分の良心に反してその行為をするなら、その人は神様に裁かれます。

なぜでしょうか。それは、罪悪感が心の中で「その行為は悪い」と認識させているからです。

もちろん、私たちの良心は神様の律法を完全に反映するわけではありません。とはいえ、良心が神様の律法と一致する限り、人々は裁かれます。

そして、パウロはさらにこう語ります。

なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです。(13)

パウロのポイントは、律法を完全に守れる人がいるわけではない、ということです。また、パウロは、律法によって義と認められる人が存在すると言っているわけではありません。

パウロのポイントは、律法を知っているだけでは十分ではない、ということです。もし律法によって義と認められたいなら、あなたは完全にその律法に従わなければなりません。

けれども、問題があります。律法を完全に守れる人は、一人もいません。この厳しい現実については、別の記事で詳しく話します。

それでも、今日の要点は、神様は公平な方だということです。神様は、あなたが持っていない知識によって、あなたを裁くことはありません。むしろ、あなたが持っている知識によって、神様はあなたを裁かれます。

だから、自分自身に問いかけてください。「自分が持っている知識のもとで、私はどのように生きているだろうか。」

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プライドを持ち、恵みを軽んじる?

神様の恵みは、何にも代えがたいほど素晴らしいものです。しかし、私たちは恵みに対して、決して取るべきではない二つの態度があります。この箇所で、その二つの態度が示されています。

一つ目の態度は、プライドです。つまり、人々はこう思います。「私は神様の恵みなんて必要ない。私はすでに良い人だから。その一方、私の周りの人たちは…」

パウロは、このような態度について、こう語っています。

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。

そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。

そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。(ローマ人への手紙2:1-3)

ある人々は、いつも周りの人々を裁き、相手を悪い人と決めつけます。しかし同時に、自分自身の罪や欠点には目を向けようとしません。

彼らはプライドを持ち、「あいつは絶対にダメな人だけど、私は大丈夫だ」と思います。

けれども、パウロは彼らにこう言います。「あなたも同じことをしている。どうしてあなたは相手を裁くのですか。」

例えば、私たちは相手のことを頑固だと思います。しかし、実際に彼らと話すと、私たち自身も頑固になっていることに気づくかもしれません。

また、ニュース番組で私たちは殺人犯を見て、恐ろしいと思います。だから、彼らが厳しく罰されることを願います。

しかし、もし友達や知り合いが私たちを傷つけたらどうでしょうか。私たちは縁を切り、心の中で彼らを「殺してしまう」のです。(マタイ5:21-22)

だから、パウロは私たちにこう言います。

「あなたは相手を裁く権利を持っていません。あなたも同じことをしているのだから。あなたも神様の恵みを必要としています。その恵みを受けなければ、あなたは裁かれることになるのです。」

けれども、パウロはもう一つの問題についても語ります。ある人々は、神様の恵みを軽んじます。つまり、彼らはこう考えます。

「神様は私を赦してくれるのだから、私は好き勝手にして、あとで神様に謝ればいい。」

パウロはそのような人々にこう言います。

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。(ローマ人への手紙2:4)

つまり、神様の恵みの目的は、私たちが罪にふけることではありません。その目的は、私たちが罪を悔い改め、その罪を捨てることです。

けれども、多くの人々は恵みを軽んじ、自分の罪にふけり、結果として神様や周りの人々を傷つけてしまいます。

だから、パウロはプライドを持つ人や、恵みを軽んじる人にこう語ります。

あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。

忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。

悪を行うすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです。(5-11)

つまり、そのような態度を持てば、あなたも必ず裁かれることになります。

もし、プライドを持ち、「神様の恵みなんて必要ない」と思い、周りの人々を裁くなら、私たちの罪は暴かれ、私たち自身が裁かれてしまいます。

また、神様の恵みを軽んじ、罪にふけるなら、私たちは裁きを受けることになります。

あなたはどうでしょうか。

神様の恵みは必要ないと思いますか。

それとも、神様の恵みを軽んじていますか。

そのような態度は裁きにつながります。だからこそ、謙遜を持ち、私たちが恵みを必要としていることを認め、神様の愛と恵みに目を向け、驚きましょう。

神の国には、プライドや恵みを軽んじる余地はありません。

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罪という問題

クリスチャンとして、私たちは救いについてよく語ります。けれども、私たちは何から救われたのでしょうか。なぜ、私たちには救いが必要なのでしょうか。

この箇所では、その答えが示されています。この箇所は、聖書の中でも特に暗い部分の一つです。それは、私たちの状況がどれほど切迫しているかを理解するからです。

パウロは、こう語り始めます。

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ人への手紙1:18)

「神様の怒り。」

この言葉を考えると、恐れを感じるかもしれません。私たちは皆、神様の愛について語るのが好きです。しかし、神様の怒りについて話したがる人はほとんどいません。

では、なぜ神様の怒りは人々に注がれているのでしょうか。

理由は二つあります。それは、不敬虔と不義です。「不敬虔」と「不義」とは、どういう意味でしょうか。

「不敬虔」とは、神様に背を向けることを意味します。

この箇所で、パウロは、神様がご自身をすべての人々に示されたと語っています。神様は、ご自身をユダヤ人や限られた特別な人々だけに示されたわけではありません。神様はすべての人々にご自身を示されました。

では、どのようにして神様はご自身を現されたのでしょうか。神様は被造物を通して、ご自身を示してくださいました。創造された世界のすべてが、知的な創造者がおられることを証ししています。

その真理を拒絶する人でさえ、「この世界を見ると、知的な創造者がおられるという考え方は理解できる」と認めます。(もちろん、それを認めた後、すぐに自分の議論や理論によってその真理を覆い隠してしまいますが。)

とにかく、パウロのポイントは、被造物は創造者を指し示しているということです。

被造物を通して、私たちは神様の力や神性を見ることができます。被造物を通して、神様の偉大さが分かります。また、私たちは神様のみ心を見ることができます。

神様の想像力を見ることができます。神様の美しさや善さを見ることができます。神様は被造物を通して、それらすべてを示してくださっています。

それでも、人々はどう反応するでしょうか。自分の不義によって、その真理を抑え込んでしまいます。

神様の存在を否定する人々の動機を見ると、多くの場合、彼らは神様に裁かれることを認めたくないのだと分かります。

つまり、もし神様が本当におられるなら、彼らは自分の思うままに生きることができなくなります。なぜなら、いつか彼らは自分の行いについて神様の前で申し開きをしなければならないからです。

では、人々が神様に背を向けたとき、その結果はどうなるのでしょうか。

(彼らの)思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり(ます)。(21-22)

偶像礼拝をする人々を見ると、このことがよく分かります。彼らは自分の手で偶像を造ります。つまり、彼らはその偶像の創造者です。しかし、彼らは自ら造った偶像の前で拝み始めるのです。

とはいえ、人々はさまざまな「偶像」を持っています。彼らは自分の知恵や、お金、情欲に従います。けれども、それらの偶像に目がくらみ、支配されてしまいます。

特に、彼らは何が善で何が悪か分からなくなります。また、自分が崇拝する偶像が、実は自分を滅ぼしていることに気づくことができません。

そして、最も恐ろしいのは、彼らが神様に背を向けると、神様も彼らに背を向けられるということです。神様は彼らに言われます。

「あなたは私の心に従わないのですか。では、あなたの心のままにさせましょう。」

その結果は何でしょうか。ローマ1章24〜31節を読んでください。

その結果は、単に人間の不敬虔さだけではなく、私たちの不義も露わになることです。人々は互いに傷つけ合います。

私は24〜31節にある罪のリストを詳しく説明する必要はないでしょう。この世界を見れば、人々が神様に背を向けたときに何が起こるのか、すぐに分かるはずです。

そして、ローマ1:32もまた、私たちの世界の現実を正確に描写しています。

彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(32)

人々の心の中では、彼らは自分の罪のために罰されるに値することを理解しています。それでも、彼らはその罪を続け、さらに他の人々が同じ罪を犯すと、その人々を応援します。

アメリカのメディアを見れば、そのことがよく分かります。人々が堂々と神様の律法に背くと、メディアはそれを祝います。神様の言葉に反する法案が可決されると、メディアはそれを歓迎します。

彼らは、「聖書は時代遅れだ。私たちは聖書の著者たちよりもよく知っている」と主張します。

だから、彼らはすでに裁かれています。

それが罪の問題です。だからこそ、私たち全員が救いを必要としているのです。

あなたはどうでしょうか。この世界が救いを必要としていることを理解していますか。

しかし、もっと大切なのは、あなた自身が救いを必要としていることを理解しているかどうかです。

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ローマ人への手紙

福音

この箇所で、パウロは、これまで福音を述べ伝えてきたように、ローマでも同じように宣べ伝えたいという願いを表しています。

もちろん、ローマのクリスチャンたちはすでに福音を知っていました。しかし、私たちは皆、何度も福音を思い起こさせられる必要があります。

さらに、私たちは福音により深く根ざし、その意味が心に深く刻まれる必要があります。

それこそが、この手紙の目的です。私たちが福音により深く根ざすようになることです。

ローマ1:14-15節の言葉は、私の心を打ちました。パウロはこう言いました。

私は、ギリシア人にも未開の人にも、知識のある人にも知識のない人にも、負い目のあるものです。ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(ローマ人への手紙1:14-15)

もちろん、キリストに呼ばれた使徒として、パウロは福音を述べ伝える義務を持っていました。とはいえ、パウロにとって、その召しは単なる義務ではありませんでした。彼は惜しみなく福音を宣べ伝えました。

私たちも同じ姿勢を持つべきです。私たちは喜びをもって福音を伝えるべきです。なぜでしょうか。私たちはどのような態度を持つべきでしょうか。

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ人への手紙1:16)

「福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神様の力です。」

私たちは、その言葉の意味を本当に理解しているでしょうか。福音は人を救う神様の力です。

しかし、神様の望みは、ただ人々が天国へ行くことだけではありません。

救いとは、神様がこの世で人々を癒すことです。罪によって彼らの人生は壊れてしまいましたが、神様の力によって彼らは完全な者となることができます。

壊れた心が癒されます。壊れた結婚や人間関係も癒されます。しかし、最も重要なのは、壊れた神様との関係が癒されることです。

それこそが救いです。福音はその救いをもたらす神様の力です。

そして、この素晴らしい知らせはすべての人のためのものです。

神様はユダヤ人たちを特別な民として選ばれたため、福音はまず彼らに伝えられました。とはいえ、イエス様が十字架で死に、復活された後、すべての人が神様に近づくことができるようになりました。

イエス様を信じるすべての人は、神様の子供として受け入れられるのです。

なぜ、神様は私たちを受け入れてくださるのでしょうか。

福音には、神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りです。(17)

「義」という言葉は、聖書の中でさまざまなニュアンスを持っています。しかし、この箇所での「義」とは、神様との和解を意味します。

私たちの罪によって、神様との関係は壊れていましたが、信仰によって、私たちは神様と和解しました。

少し考えてみると、この概念は理解しやすいものです。

どのようにして私たちの神様との関係が壊れたのでしょうか。私たちは神様に信頼しませんでした。神様が私たちの最善を願っておられることを信じませんでした。神様の意図を疑いました。

そのため、私たちは神様に背を向け、自分の道を歩み始めました。

では、その関係はどのようにして回復されるのでしょうか。私たちは神様に向かい、「これから、私はあなたに信頼します」と言うのです。

まず、私たちはイエス様の十字架での働きを信じなくてはなりません。それを信じなければ、私たちは神様に受け入れられません。そのため、私たちは次のように祈ります。

「イエス様、あなたが十字架で死なれたとき、私の罪のための罰を受けてくださったことを信じます。これから、私の主になってください。」

そうすると、神様は私たちを赦し、新しい心を与えてくださいます。その新しい心によって、私たちは救いのことだけではなく、人生のすべてのことについて、神様を信じるようになります。

そして、私たちが神様を信じれば信じるほど、神様の声に従うようになります。さらに、神様はご自身の声に従う力を私たちに与えてくださいます。そのため、私たちの行動は変わり始め、ますますイエス様のようになっていきます。

その結果は?私たちは変えられ、完全な者となります。それこそが救いです。

あなたはその救いを本当に知っているでしょうか。また、周りの人々にその救いを伝えたいと思うほど、その救いを深く感じているでしょうか。

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神様に愛され、呼ばれている

それでは、今日から、私たちは新約聖書の中で最も大切な書のひとつを読み始めます。

なぜ、ローマ人への手紙がそれほど重要なのでしょうか。それは、この手紙の中で、パウロが福音を明確に説明しているからです。

パウロがこの手紙を書いたとき、彼はまだローマに行ったことがありませんでした。だから、ほかのパウロの手紙と違い、ローマの教会の具体的な問題については触れませんでした。

むしろ、パウロは福音を詳しく説明しました。なぜなら、神様が彼を福音を述べ伝える者として召したからです。それこそが、パウロの使命でした。

この手紙の冒頭で、パウロは、神様が彼を使徒として召したことについて説明しています。特に、彼の使命は、異邦人に福音を述べ伝えることでした。

パウロがプライドを持って、「神様は私を選ばれた」と誇ることは容易だったでしょう。

しかし、パウロはこう言いました。

「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。あなたがたは神に愛され、召された聖徒たちです。」(ローマ人への手紙1:6-7)

「あなたがたも。」

私は、この言葉が大好きです。

「あなたがたも。」

パウロはローマのクリスチャンたちに語りました。「あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました。私たちユダヤ人だけではありません。私たち『特別な人』だけではありません。

あなたがたも特別な人たちなのです。あなたがたも神様に愛されているのです。あなたがたも、召された聖徒たちなのです。」

時々、私たちは「どうして神様は私を愛してくださるのだろうか」と疑問に思うことがあります。

私たちは時々こう思います。「私は全然特別じゃない。いったいどうして、神様は私のことを考えてくださるのだろうか。」

けれども、時間が始まる前から、神様は私たちを知っていて、「あなたを愛している。あなたを選ぶ。」と言われました。

神様は私たちの過ちや罪、弱さをすべて見たうえで、それでも「あなたを私のために選ぶ」と言われました。

それが「聖徒」の意味です。「聖徒」とは、「神様に選ばれた人、そして神様のために選ばれた人」という意味なのです。

私たちの多くは「聖徒」という言葉を見ると、「え?私は聖徒なの?そんなはずがない。」と言います。

なぜなら、「聖徒」という言葉を聞くと、私たちは「完全な人」というイメージを抱くからです。

しかし、あなたが「聖徒」と呼ばれるのは、あなたが他の人よりも聖いからではありません。むしろ、神様があなたを愛し、選ばれたからこそ、あなたは「聖徒」と呼ばれるのです。

それは恵みです。私たちがその愛にふさわしくないのに、私たちが他の人よりも優れているわけではないのに、神様はその愛を私たちの上に注いでくださいます。

そして、私たちは恵みによって愛を受けたからこそ、神様との平和を持っています。

神様が私たちを本当に受け入れてくださるかどうかを疑う必要はありません。もし、私たちが神様の受け入れを得るために努力しなければならないのだとしたら、不安を抱くことでしょう。

けれども、神様は恵みによって私たちを受け入れてくださいます。

この世界が造られる前から、神様はすでにあなたを選び、受け入れてくださっていました。もし私たちがそのことを悟るなら、私たちの人生はどのように変わるのでしょうか。

もはや神様の愛と受け入れを得ようと必死になる必要はなく、ただその中で安らぐことができるのです。