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使徒の働き

続いていく物語

今日、私たちは「使徒の働き」の最後の話を読みます。それだけでなく、これは聖書の最後の歴史書でもあります。残っているのは、使徒たちからの手紙と黙示録です。

この書には少し不思議な終わり方があります。実は、この書には明確なエンディングがありません。

今日の箇所では、パウロはついにローマに到着し、そこにいるユダヤ人たちに福音を述べ伝え始めました。いつものように、福音を信じる人もいれば、信じない人もいました。

そして、あるユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶すると、パウロは異邦人のもとへ行き、彼らに福音を述べ伝え始めました。

ルカは、この話をまとめると、こう言いました。

パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を述べ伝え、

主イエス・キリストのことを教えた。(使徒の働き28:30-31)

あなたは、パウロがカエサルの前に立ったとき、何を言ったのか知りたいと思わないでしょうか。また、パウロの最後の日について聞きたいと思わないでしょうか。

私は聞きたいです。

けれども、ルカはそれらのことについて何も語りません。

むしろ、最後の場面では、パウロは人々に福音を述べ伝えています。

おしまい。

なぜ、ルカはこの書をそのように終えたのでしょうか。私には分かりません。

もしかすると、ルカはこう言いたかったのかもしれません。

「この話はまだ終わっていません。今なお、福音はこの世に広がり続けているのです。」

ある人々は、パウロの時代のユダヤ人たちのように、自らの目を閉じ、耳を塞ぎ、福音を拒絶します。

しかし、迫害があっても、外からの教会への攻撃があっても、内側からの教会への攻撃があっても、神様は教会を守り、福音は今なおこの世に広がり続けています。

そして、今、私たちはその物語の一部となっています。私たちは福音を聞き、信じるようになりました。

それだけでなく、パウロのように、私たちも自らの教会から遣わされ、聖霊様に満たされて、すべての国民に福音を述べ伝えるように呼ばれています。

あなたはどうでしょうか。

あなたは聖霊様に満たされているでしょうか。

聖霊様に満たされなければ、私たちは神様が命じたように福音を述べ伝える力を持つことはできません。

日本語では、この書は「使徒の働き」と呼ばれています。

けれども、この書の最初から最後まで、実際には聖霊様の働きについて描かれています。聖霊様はご自身の民を通して働いておられました。

だから、もう一度イエス様の言葉を読みましょう。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全地、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

私たちは聖霊様に満たされ、この世へ出て、2000年前に始まった物語を受け継ぎましょう。

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使徒の働き

御霊に満たされるなら

私が子供のころ、あるアクションドラマには「一人の人でも、この世を変えられる」というテーマがありました。

この箇所では、その真理を見ることができます。けれども、そのモットーを少し変えたほうがいいかもしれません。それは、「御霊に満たされれば、一人の人でもこの世を変えることができる」ということです。

パウロたちはマルタという島に到着し、寒さをしのぐために火を焚きました。けれども、パウロが枯れ枝を集めたとき、まむしが彼の手に噛みつきました。しかも、そのまむしはパウロの手にぶら下がっていました。

島の人々はそれを見て、こう言いました。

この人はきっと人殺しだ。海からは救われたが、正義の女神はこの人を生かしておかないのだ。(使徒の働き28:4)

しかし、パウロがそれでも生きていたため、彼らは「この人は神だ」と思い始めました。

もちろん、パウロは彼らの誤った考えを正し、真の神について教え始めました。

その後、パウロは島の長官プブリウスの家を訪問し、プブリウスの病気の父のために祈りました。その父が癒されたので、多くの人々がパウロのもとへ訪れました。そして、パウロは彼らの病気を癒しました。

その結果は?

マルタはキリスト教を信じる国となり、今なお、キリスト教はマルタの主要な宗教です。

私のポイントは?

聖霊が私たちのうちに働くなら、私たちはこの世を変えることができます。

私たちはまむしを手から振り落とすことはないかもしれませんし、人を癒すことはできないかもしれません。けれども、聖霊が私たちのうちで働くなら、周囲の人々はそれに気づき、聖霊の働きによって変えられます。

だから、毎日、御霊に満たされましょう。(エペソ人5章18節)

そうすれば、周囲の人々は私たちを通して神を知るようになります。

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使徒の働き

嵐の中の光

イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」と命じました。(マタイ5:16)

この箇所では、私たちはパウロが自らの光を輝かせる姿を見ることができます。

激しい嵐の中、船に乗っていた人々は絶望していました。けれども、パウロは彼らに希望を与えました。彼はこう言いました。

しかし今、あなたがたに進めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです。

昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。

「恐れることはありません。パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、皆あなたに与えておられます。」

ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。(使徒の働き27:22-25)

その後、空はまだ暗く、皆が失望していたとき、パウロは彼らにこう言いました。

今日で十四日、あなたがたはひたすら待ち続け、何も口に入れず、食べることなく過ごしてきました。

ですから、食事をするよう勧めます。これで、あなたがたは助かります。頭から髪の毛一本失われることはありません。(33-34)

そして、パウロはパンを取り、皆の前で神様に感謝の祈りをささげ、食べ始めました。それを見て、他の人々の希望が戻り、彼らも食べ始めました。

これは、自らの光を輝かせることのひとつの意味です。私たちは希望のない人に希望を与えるのです。

この世界では、多くの人々が自らの境遇のために希望を失っています。しかし、イエス様は私たちの希望の源です。そして、イエス様が私たちを通して光を輝かせると、周囲の人々は希望を見つけます。

さらに、パウロはもうひとつの方法で光を輝かせました。彼は自らの言葉と行動によって、周囲の人々が正しいことをするように励ましました。

ある船員たちは、船からこっそり逃げ、囚人たちを見捨て、彼らを死なせようとしました。

パウロはそれを見て、警告しました。

あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助かりません。(31)

そこで彼らは小舟の綱を切り、そのまま流れさせました。

そして、船が座礁したとき、兵士たちは囚人たちを殺そうとしました。なぜなら、囚人たちが逃げた場合、兵士たちは罰せられるからです。けれども、百人隊長はパウロの光を見ていたため、兵士たちを制止しました。その結果、誰も命を落としませんでした。

このように、私たちは自らの言葉や行動を通して光を輝かせるべきです。私たちは他の人々にどのように生きるべきかを示し、私たちの模範を見ることで、彼らもそのように生きるよう励まされます。

あなたはどうでしょうか。あなたは周囲の人々にとっての光でしょうか。

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使徒の働き

大多数の意見に従う?

大多数の意見に従うのは、とても簡単なことです。特に、私たちがその意見に賛同しているなら、それに従うのはなおさら簡単です。

とはいえ、大多数の意見に従うことが常に正しいとは限りません。この箇所では、パウロと他の囚人たちを管理していた百人隊長が、そのことを学びました。

悪天候のため、彼らのローマへの旅は予想以上に遅れました。けれども、パウロはさらに悪化することを知っていました。そこで彼は、百人隊長に警告しました。

皆さん。私の見るところでは、この航海は積み荷や、船体だけでなく、私たちのいのちにも危害と大きな損失をもたらすでしょう。(使徒の働き27:10)

神様がパウロにそう告げたのか、それともパウロ自身の経験からそう判断したのか、私は分かりません。いずえにせよ、とにかく、百人隊長は待ちたくなかったようです。そこで彼は船長や船主と相談し、彼らは航海を続け、別の港で冬を過ごそうと決めました。

なぜ彼らはパウロの助言を聞かなかったのでしょうか。ひとつの理由は、パウロが船員ではなかったからかもしれません。そのため、彼らは自分自身の判断に頼りました。

もうひとつの理由は、彼らがもう待ちたくなかったことです。彼らは旅の遅れを取り戻したいと考えていました。

しかし、大多数の意見に従った結果、彼らは命を失いかねない状況に陥ってしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の言葉に従いますか。それとも、大多数の意見に従いますか。

周囲の人々が悪いことをするとき、あなたもそれに加わるでしょうか。

また、日本の文化が神の国の文化と対立するとき、あなたはどちらに従いますか。日本の文化でしょうか、それとも神の国の文化でしょうか。

いつも大多数の意見に従っていると、神様の言葉に背いてしまうこともあります。そして、それによって困難な状況に陥ることがあるかもしれませんし、神様を悲しませることにもなります。

パウロはこう言いました。

神の御霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ人への手紙4:30)

あなたは誰に従っているでしょうか。

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使徒の働き

捉えられた?

この箇所では、3つの福音に対する反応を見ることができます。

1つ目は、迫害です。ユダヤ人たちは福音のゆえにパウロを迫害しました。

2つ目は、人々が私たちを狂気じみていると思うことです。フェストゥスはパウロの話を聞いたとき、そう考えました。

3つ目は、人々が私たちや福音を軽んじることです。アグリッパはパウロの話を聞いたとき、パウロを素朴な人間だと思ったようです。

それでも、パウロは福音を宣言し続けました。なぜでしょうか。

第二コリント5章で、パウロはその理由を説明しました。

私たちが正気でないとすれば(フェストゥスはそう思った)、それは神のためであり、正気であるとすれば(パウロはそう主張した)、それはあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを捕えているからです。

私たちはこう考えました。一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。(第二コリント5:13-14)

どうしてパウロは福音を述べ伝え続けたのでしょうか。なぜなら、パウロは、キリストが私たちを愛し、私たちの罪のために十字架で死んでくださったことを固く信じていたからです。

キリストの愛は彼の心を捉え、人々が彼を狂気じみていると思っても、パウロは福音を伝えなければならないと確信していました。

私たちも同じ態度を持つべきです。イエス様が私たちのために死んでくださったことを信じ、本当にキリストの愛に触れられるなら、私たちは福音を周囲の人々に伝えるべきです。

私たちを迫害する人もいます。私たちを狂気じみていると思う人もいます。私たちを素朴な者だと思う人もいます。しかし、イエス様を信じ、救われる人もいます。

あなたはどうでしょうか。イエス様の愛に捉えられているなら、福音を周囲の人々に伝えるでしょうか。

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神様からの召しに従う

この箇所では、パウロはフェストゥスとアグリッパ王の前に立ちました。このアグリッパ王は、ヤコブを殺し、ペテロを殺そうとしたヘロデの息子でした。

ユダヤ人たちは再び、フェストゥスに対してパウロをエルサレムへ送るよう願いました。フェストゥスはそこでパウロに裁判を受けさせようと考えましたが、実はユダヤ人たちはパウロがエルサレムへ向かう途中で彼を暗殺しようと企んでいました。

パウロはその陰謀を十分に理解していたため、フェストゥスがエルサレム行きを説得しようとしたとき、パウロは「カエサルに上訴します」と宣言しました。

フェストゥスはその願いを受け入れましたが、ここで問題が生じました。パウロの「罪」とされていたものはユダヤ教の法律に関する問題でした。したがって、フェストゥスはどのようにこの「罪」をカエサルへ説明すべきか分かりませんでした。

つまり、フェストゥスはユダヤ教の問題を十分に理解しておらず、おそらくカエサルもユダヤ教について詳しく知らなかったということです。

そのため、アグリッパ王が到着すると、フェストゥスは彼と相談しました。するとアグリッパ王は、「パウロの弁明を聞こう」と述べました。

こうして、パウロはもう一度自らの証しを語りました。パウロはこれまで何度も証しを語っており、そのたびに私たちは新しい詳細を知ることができます。

アグリッパと話した際、パウロはイエスから与えられた使命について説明しました。

イエス様は、パウロにこう語られました

わたしは、あなたを。。。[ユダヤ人たちや異邦人たち]のところに遣わす。

それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかるためである。(使徒の働き26:17-18)

イエス様は私たちに同じ使命を与えてくださいます。

私たちは周囲の人々に福音を伝えるべきです。その目的は何でしょうか。それは、彼らが自分の罪の鎖や心の暗闇に気づくことです。

そして、彼らがサタンの支配から解放され、神様の国に入ること、さらに罪が赦されること、そしてイエス様を信じる信仰によって神様の子供となることです。

その召しについて、パウロはアグリッパ王とフェストゥスにこう語りました。

私は天からの幻に背か(なかった。)(19)

あなたはどうでしょうか。あなたはその使命を果たしているでしょうか。あなたは周囲の人々に福音を伝えているでしょうか。

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高潔な人

フェリクスは神様の裁きについて聞くと恐れましたが、それでも何度もパウロを呼び、話しました。なぜでしょうか。

フェリクスにはパウロから金をもらいたい下心があったので、何度もパウロを呼べ出して語り合った。(使徒の働き24:26)

フェリクスはパウロに何と言ったでしょうか。

「ずっと牢にいるのは大変だろう。あなたは自分の宗教に夢中だが、牢から出たくはないのか?福音を伝えたいだろう?あなたの神もきっとそう望んでおられるはずだ。」

または、

「教会の人々はあなたのことを心配しているだろう。ところで、多くのクリスチャンがいるのか?財源はどのようになっているのか?確かに、彼らはあなたを助けたいと思っているはずだ。」

パウロは賢い人物でした。彼はフェリクスの意図をよく理解していたでしょう。しかし、パウロはどうしても自分の良心に反することはできませんでした。

フェリクスは約二年間にわたりパウロと話しましたが、最終的に総督の座はフェストゥスという人物に引き継がれました。

パウロが賄賂を使い、牢から出ることは簡単だったでしょう。さまざまな「正当な理由」を挙げることもできたでしょう。それでも、パウロは決してそうしませんでした。なぜでしょうか。

第一の理由は、パウロが神様を愛していたことです。彼は神様のタイミングで釈放されることを信じていました。

たとえ釈放されなくても、神様の計画が最善であると信じていたのです。そして、パウロはイエス様を悲しませたくありませんでした。

第二の理由は、賄賂を使うことがパウロ自身の証しを損なうことになるからです。考えてみてください。パウロはフェリクスに正義・節制・来るべき裁きについて語っていました。もし彼が賄賂を使っていたら、フェリクスはどう思ったでしょうか。

「やはり、パウロはその教えを本気で信じていないのだろう。もし彼が神様の裁きを恐れているなら、この賄賂を受け取るはずがない。」

しかし、パウロは決して賄賂を使いませんでした。その結果、彼の証しは揺るぎないものとなりました。

あなたはどうでしょうか。不便な状況でも、あなたは良心に従うことができるでしょうか?

決して自分の良心に反してはいけません。もっと大切なのは、神様の言葉に反しないことです。神様を信頼し続けてください。

神様が「この場合、悪いことをしても構わない」とは決して言わないのです。

だからこそ、神様の道を歩むことを決断してください。

もしそうしなければ、あなたは神様を悲しませることになり、あなた自身の証しを損ねてしまうでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは高潔な人ですか?

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神様のご計画のすべてを伝えている?

パウロはエペソの人々にこう語りました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。

私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(使徒の働き20:26-27)

「神のご計画のすべて」とは、一体どういうことでしょうか。

この箇所では、パウロの言葉の意味を知ることができます。パウロはローマの総督フェリクスの前に立ち、ユダヤ人たちの言いがかりを否定しました。

その日、フェリクスは何も決断しませんでした。けれども、その後、彼は何度もパウロと話しました。その時、パウロは自らの信仰について語りました。

もちろん、パウロは神様の愛やイエス様の十字架の働き、そして信仰による救いについて話したことでしょう。しかし、パウロはもう一つの重要なことについても語りました。

パウロが正義と節制と来るべきさばきについて論じた。。。(使徒の働き24:25a)

つまり、パウロはこう語りました。「神様の目にあなたは罪人です。悔い改めなければ、あなたは必ず裁かれます。」

フェリクスはどのように反応したでしょうか。

フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする。」と言った。(25b)

福音とは、ただ「神様はあなたを愛している」というメッセージではありません。

福音は次のようにも語ります。

「深刻な問題があります。あなたは罪を犯しました。そのため、神様はあなたを裁かれます。だから、イエス様に向かって悔い改めなさい。まだ時間があるうちに、イエス様とその十字架の御業を信じなさい。」

もし私たちがこのことを伝えないなら、神様の計画のすべてを知らせていないことになります。そして、彼らが地獄へ行ってしまったなら、その血に対する責任は私たちにあるのです。

もちろん、私たちの目的はただ彼らを怖がらせることではありません。

福音は「良い知らせ」です。つまり、イエス様が十字架で私たちの罰を受けられたため、イエス様を受け入れるなら、私たちは地獄に行く必要はありません。

それだけではなく、イエス様は私たちに豊かな人生を与えてくださり、神様の喜びと平和を知ることができます。

地獄の恐れよりも、私たちはこの素晴らしい恵みにフォーカスすべきだと思います。

それでも、私たちは彼らに警告するべきです。「もしイエス様を拒絶するなら、あなたは必ず裁かれます。」

フェリクスのように、それを聞いて恐れてしまう人もいるでしょう。彼らは「今はそのことについて話したくない」と言うかもしれません。しかし、彼らの反応は私たちの責任ではありません。

私たちができることは、忠実に神様のメッセージを伝えることだけです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の計画のすべてを人々に伝えていますか。

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神の妨げられない計画

前の記事で書きましたが、神様はご自身の計画を私たちの人生において成し遂げてくださいます。そして、どんな力もその計画を妨げることはできません。

この箇所では、その真理の一つの例を見ることができます。あるユダヤ人たちは、パウロを殺すまでは食べたり飲んだりしないと呪いをかけて誓いました。そこで、彼らは祭司長たちの協力を求めました。

彼らは誰に誓ったのでしょうか。それは神様への誓いだったのでしょうか。それは、なんとも皮肉な誓いです。

「神様。私たちは人を殺してはならないという戒めを破り、パウロを殺害することを誓います。」

確かに彼らは別の言葉を使ったかもしれませんが、本質的には、それが彼らの誓いでした。さらに、祭司長たちはその誓いが正しいと考え、ユダヤ人たちと協力しました。

けれども、彼らは神様の計画を妨げることはできませんでした。

神様の導きによって、パウロの甥はユダヤ人たちの計画を知ることができました。そして、神様が千人隊長の心の中で働かれ、その千人隊長がパウロを守ったため、パウロは無事に裁判に進むことができました。

その結果、ユダヤ人たちの陰謀は無駄になりました。

私はこの話を読むと励まされます。私たちが神様の御心に従おうとするとき、この世が私たちに反対することがあります。事実、私たちが神様に従うと、この世が反対することもあります。

しかし最終的には、誰も、またどんな力も神様の計画を妨げることはできません。

だから、紅海でのモーセの言葉を心に刻みましょう

恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。(出エジプト記14:13)

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使徒の働き

私たちのそばに立ってくださる神

時々、聖書を読むと、私たちは使徒たちやほかの聖書の登場人物をスーパーヒーローのように見なします。例えば、彼らは勇気を持ち、恐れることなく死に直面します。

もちろん、そのような話もあります。シャデラク、メシャク、そしてアベデ・ネゴは、まさにそのような勇気を持っていたようです。(ダニエル書3章)

とはいえ、神様を信じた人々が常にそんな勇気を持っていたのかどうかは、私にはわかりません。結局、彼らもただの人間だからです。

そのため、今日の箇所を読むと、パウロの心の中に何があったのか、私は考えずにはいられません。

最高法院の人々の論争が激しくなり、千人隊長はパウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと恐れました。そこで、兵士たちはパウロを最高法院の人々の中から救い出し、兵営へと連れて行きました。

その夜、パウロは眠りにつくとき、何を考えていたでしょうか。彼は恐れていたでしょうか。彼は、神様からの使命を全うできるのか疑っていたでしょうか。

パウロが何を考えていたか、私にはわかりません。しかし、イエス様はパウロを励まされました。

その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。
(使徒の働き23:11)

二つのことが、私の心を打ちました。

一つ目は、イエス様がパウロのそばに立たれたことです。

私たちが最も暗い時、試練の中にいる時、恐れや疑いにさいなまれる時、イエス様はいつも私たちのそばに立ってくださいます。

二つ目は、イエス様がパウロに「勇気を出しなさい。」と言われたことです。

もしパウロがすでに勇気を持っていたなら、なぜイエス様は 「勇気を出しなさい」と言われたのでしょうか。

もしかすると、パウロの境遇のために、彼の心は少し揺れていたのかもしれませんが、イエス様は彼を安心させ、「勇気を出しなさい」と励まされました。

時々、私たちの信仰も揺らぐことがあります。神様の道を歩んでいるとき、本当に正しい道を進んでいるのかどうかを疑うことがあります。

けれども、イエス様はパウロに言われたように、私たちにも語られます。「勇気を出しなさい。」

では、どうすれば私たちは勇気を持つことができるのでしょうか。それは、神様が私たちの人生においてご自身の計画を成し遂げられるからです。そして、サタンやこの世のどんな力も神様の計画を妨げることはできません。

イエス様はパウロにこう言われました。

あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。(11)

要するに、「あなたの敵について心配するな。あなたは私の目的を果たす。だから、しっかりして、私に信頼しなさい。」

あなたはどうですか。あなたの境遇のため、信仰をだんだん失いかけているでしょうか。相手があなたに反対しているので、恐れているでしょうか。

勇気を出しましょう。イエス様があなたのそばに立ってくださっていることを覚えておきましょう。そして、イエス様に信頼し続け、従い続けましょう。イエス様がご自身の計画を成し遂げられることを確信しましょう。

そして、パウロの言葉を心に刻みましょう。

主は近いのです。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4:5-7)

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蛇のように賢い?

イエス様は弟子たちに「蛇のように賢く生きなさい」と命じられました(マタイ10:16)。この箇所では、パウロはまさにそのように行動しました。

パウロが「狼」に取り囲まれたとき、彼の賢い言葉によって、最高法院は二つに割れました。パウロは何と言ったのでしょうか。

兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。(使徒の働き23:6)

パウロは本当のことを言いました。パウロはイエス様の復活を信じていたため、裁きを受けていました。

もちろん、パウロはイエス様の名前を直接口にしませんでした。しかし、その言葉によって、復活を信じる人々(つまり、パリサイ人たち)と復活を信じない人々(サドカイ人たち)の間で対立が生じました。

結果として、パリサイ人たちはパウロをかばい始めました。

もしかすると、その言葉をきっかけにイエス様を信じるようになったパリサイ人もいたかもしれません。それが本当に起こったかどうかはわかりませんが、あるパリサイ人たちはこう叫び始めました。

この人には何の悪い点も見られない。もしかしたら、霊か御使いが彼に語りかけたのかもしれない。(使徒の働き23:9)

では、私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

誰と話しているかをよく理解するべきです。

あなたは、福音に強く反対する人に出会うかもしれません。けれども、その人をよく知り、特に彼らの考え方を理解しているなら、神様はあなたにどのように彼らを説得できるかを教えてくださるかもしれません。

そして、あなたの賢い言葉によって、福音の種が彼らの心に蒔かれるかもしれません。

だから、イエス様の言葉を心に刻みましょう。

わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。

ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。(マタイ10:16)

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偏見にとらわれている?

この箇所では、パウロは偏見にとらわれていた二つのグループに直面しました。

ユダヤ人たちは、自分たちを神の民と見なしていたため、神様が異邦人の罪人を救いたいと望まれていることに気づけませんでした。

彼らは、異邦人が救われるためにはユダヤ人のようにならなければならないと考えていました。たとえ神様が異邦人を受け入れられたとしても、異邦人はユダヤ人より劣っていると見なしていたのです。

そのため、パウロが「神様は私を異邦人のもとへ遣わされた」と語ったとき、ユダヤ人たちはその考えをまったく受け入れませんでした。

一方、ローマ人たちはユダヤ人を見下していました。彼らは、ユダヤ人がローマ市民になることなどあり得ないと考えていました。

そのため、本来は裁判の前にローマ市民をむちで打つことが違法であったにもかかわらず、パウロに鞭打ちの刑を科そうとしました。

パウロが千人隊長に「私はローマ市民です」と伝えたとき、千人隊長は最初は信じませんでした。

けれども、自分の誤りに気づくと、深い恐れを感じました。なぜなら、ローマ市民をむち打つことは違法であり、それを行えば千人隊長自身が罰せられるからです。

では、私のポイントは何でしょうか。偏見にとらわれてしまうと、私たちはさまざまな問題に直面します。

もちろん、周りの人々を怒らせることもあるでしょう。しかし、それだけではなく、神様はそのような態度をもつ私たちを裁かれます。

神様はすべての人々を愛しておられます。そのため、イエス様は特定の民族のためではなく、すべての民族のために命を捧げられました。

そして、私たちがクリスチャンになると、神様は私たちを等しくご自身の子供として愛してくださいます。

パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。

あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ3:28)

だからこそ、私たちは偏見を捨て、人々をありのままに受け入れましょう。彼らは神様のかたちに創造され、神様に愛され、救い主を必要としているのです。

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誤解された

この話の興味深い点は、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解を解こうとしたものの、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちとの間に新たな誤解を生んでしまったことです。

クリスチャンのユダヤ人とノン・クリスチャンのユダヤ人の両方が、パウロの教えを誤解しました。彼らは、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちに対して、モーセの律法を完全に捨てるように教えていると思ったのです。

そのため、ヤコブと他の長老たちは、パウロにモーセの律法に従って、四人のユダヤ人クリスチャンたちとともに清めの儀式に参加するよう説得しました。

さらに、神様への誓願を守るために、その四人の費用をパウロが負担しました。(彼らはナジルの誓願を立てていたかもしれません。)

パウロはその考えに同意しました。しかし、ある聖書学者たちは、彼が誤った判断をしたと考えています。つまり、パウロは その儀式に参加すべきではなかったということです。

私の考えでは、パウロの選択は正しかったと思います。彼はユダヤ人を救うために、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったのです。(第一コリント9:19-23)

それでも、ユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解は解けたものの、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちは依然としてパウロがモーセの律法に反対していると思っていました。

さらに、彼らは パウロが異邦人を神殿に連れ込んだと誤解しました。(ユダヤ人の律法では、それは禁止されており、神殿を汚す行為とされていました。)

では、私のポイントは何でしょうか。イエス様に従い、その言葉に忠実であっても周りの人々に誤解される可能性があるということです。

教会の人々だけでなく、この世の人々もあなたを誤解するかもしれません。誤解を解こうと努力しても、あなたのことを理解できない人もいるでしょう。

では、私たちはどうすればいいのでしょうか。イエス様に従い続けるしかありません。神様が私たちに語られたことに従わなくてはなりません。それが唯一の道です。人々の反応を神様に委ねるべきです。

もちろん、私たちは自分の行動を振り返る必要があります。彼らの批判が完全に誤っていることもあります。ところが、時には彼らの指摘が部分的に正しいこともあるかもしれません。

だからこそ、自分の行動と動機を慎重に見極めてください。そして、神様の御心がわかる限り、神様に従いましょう。パウロのような態度を取ることが大切です。

しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。

それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。

ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。

主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:3-5)

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代価がどんなに高くても

この箇所の解釈は少し難しいかもしれません。

なぜ神様はその預言をパウロに示されたのでしょうか。神様は、パウロがエルサレムに行かないように警告されたかったのでしょうか。それとも、パウロが試練に備えることを望まれたのでしょうか。

私の考えですが、おそらく神様はパウロが試練に備えるために、あらかじめ警告されたのだと思います。

イエス様が初めてパウロに現れたときから、すでにパウロがユダヤ人や異邦人に福音を述べ伝える中で苦しむことを警告されていました。(使徒の働き9:15-16)

だからこそ、他のクリスチャンたちがパウロに「エルサレムへ行かないでほしい」と願ったとき、パウロはこう答えたのではないでしょうか。

あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。(使徒の働き21:13)

つまり、どれほど代価が高くても、パウロはイエス様に従おうと努めました。だからこそ、周囲の人々が何を言っても、彼の決意は揺るぎませんでした。

あなたはどうでしょうか。

神様は決して、私たちが順調な人生を送ることを約束されたわけではありません。また、神様に従うことですべての人々が私たちを愛してくれるとも約束されませんでした。

むしろ、神様はその正反対のことを約束されました。(ヨハネ16:33;第二テモテ3:12)

あなたはすでにそのことを知っているかもしれません。しかし、試練に直面したとき、あなたはどうするでしょうか。

その試練が訪れるとき、神様が恵みと勇気を与えてくださるように願います。

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使徒の働き

走るべき道のりを走り尽くす

エペソの指導者たちに対するパウロの最後の言葉には、いくつかの点で私の心を打つものがありました。

聖霊様はパウロに、多くの試練に直面することを警告されました。それでも、パウロはこう言いました。

けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き20:24)

パウロにとって、福音を述べ伝えることは最も重要な使命でした。彼は忠実にそれを果たしたので、こう言うことができました。

ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。

私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。(26-27)

しかし、パウロはエペソの指導者たちにも、自らの走るべき道のりを走り尽くすように励ましました。つまり、神様が彼らに託された教会の世話をすることです。パウロは彼らにこう言いました。

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。

私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。

また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。(28-31)

パウロがはっきりと語ったのは、サタンが私たちが走るべき道のりを走り尽くさないように攻撃するということです。

その一つの方法は外からの攻撃、つまり迫害です。

けれども、もう一つの方法があります。それは教会内部からの攻撃 です。つまり、真理をねじ曲げる者が教会に入ってくるということです。

彼らはクリスチャンのように見えますが、実際にはサタンの偽りを教えます。もし彼らに従ってしまえば、私たちは誤った道に進むことになります。

だからこそ、パウロはエペソの人々に言いました。「注意しなさい。迫害も、偽のクリスチャン・リーダーも、必ずやってきます。」

私たちも注意しなければなりません。私たちの信仰のために、親しい家族や友人の間でも私たちを迫害する者がいるかもしれません。

また、もし神様の言葉を十分に知らなければ、ネット、本、さらには私たちの教会の中でも、サタンの偽りに触れ、騙されてしまうことがあります。

それを聞いて不安を感じたり、「どうすればいいのか?」と迷ったりするかもしれません。しかし、パウロはこう言いました。

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。

みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(32)

つまり、最終的に、神様とその恵みだけが私たちを最後まで守ってくださいます。神様の恵みは私たちを救い、守ってくださいます。

子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、神様が与えてくださった恵みによって走りましょう。

私たちは一人で走る必要も、自分の力で走る必要もありません。神様の恵みによって、私たちは走るべき道のりを走り尽くすことができます。

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手で造った神々に仕える?

この箇所では、手で造られた神々への礼拝、つまり偶像礼拝のために暴動が起こりました。とはいえ、実際には、銀細工人であるデメテリオにとって本当の神は偶像ではなく、お金でした。

彼がパウロに反対した理由を説明したとき、最初に述べたのは、エペソ人がクリスチャンになると自分や同業者の評判が悪くなり、売り上げが下がるということでした。これが彼の最大の懸念でした。

そしてその後、彼は「ところで、偉大な女神アルテミスは自分の威光を失います。」と付け加えました。

結局、彼はこの二つの”神”を礼拝するがゆえに群衆を扇動しました。幸いにも、町の書記官が人々を落ち着かせました。

もしそうしていなかったら、パウロは殺され、多くの人が負傷し、エペソ人たちはローマ帝国によって厳しく罰せられたでしょう。

今でも、人々の人生は手で造られた神々によってめちゃくちゃになっています。

お金に対する愛のせいで、結婚や人間関係が壊れ、教会や政府で多くのスキャンダルが発生しています。さらに、お金への執着が麻薬取引を大問題にし、毎年多くの人々が命を落としています。

さらに、お金、偶像、そして偽の神々への愛が、人々を神様から遠ざけ、死に至る道へと導いています。もし彼らが悔い改めなければ、命の源から引き離され、永遠に地獄で苦しむことになります。

あなたはどうでしょうか。あなたは手で造られた神々に仕えて いますか、それとも本当の唯一の神に従っていますか?

偶像を礼拝するならば、あなたは永遠に滅びてしまいます。

唯一の神だけが命を与えることができるのです。

あなたは誰に仕えているでしょうか?

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罪を捨てる

私たちがクリスチャンになると、神様は新しいスタートを与えてくださいます。それは本当に素晴らしい知らせですね。

この箇所では、神様はエペソの人々にも新しいスタートを与えられました。多くの人々はクリスチャンになったことで、罪の道から離れ始めました。

例えば、魔術を行っていた人々は、その書物を焼き捨てました。その書物は非常に高価なものでしたが、彼らはちゅうちょせずに焼き捨てました。

さらに、彼らが皆の前でそうしたことで、周りの人々は彼らの決断を目の当たりにしました。

この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

もし私たちの心が本当に変えられたならば、私たちの行動も変わるはずです。私たちが本当にイエス様を信じるなら、たとえ痛みを伴うとしても、罪を捨てるべきです。

例えば、あなたの会社の業績が良かったとしても、もし悪徳商法を行っているならば、神様は私たちのやり方が変わることを望まれます。

あるいは、あなたが恋人と肉体関係を持っているかもしれません。相手があなたと絶交する可能性があったとしても、私たちは純潔を守るべきです。

とはいえ、そのような選択をする際には、自分の動機を明確に伝える必要があります。単に心を入れ替えたいからではなく、神様への感謝を持って、私たちは違う道を歩んでいるのだと示すべきです。

つまり、イエス様の十字架の働きによって私たちは赦され、新しいスタートを与えられました。そして、私たちの人生は、神様の愛、喜び、平和で満たされています。

私たちが神様の道を歩むと、私たちに怒りを向ける人もいるかもしれません。あざ笑う人もいるかもしれません。けれども、私たちを通してキリストの愛に触れ、イエス様を見つける人もいるのです。

エペソにもそのような人々がいました。エペソにいるクリスチャンを通して、神様は多くの人の心に働かれました。だから、

主のことばは力強く広がり、勢いを得て行った。(20)

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに、どの罪を捨てるように命じられているでしょうか。

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本当の関係を持っている?

イエス様は十字架にかけられる前に、弟子たちにこのように語られました。

わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。(ヨハネ14:12)

この箇所では、そのようなことを見ることができます。ルカはこのように書きました。

(パウロ)が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出ていくほどであった。(使徒の働き19:12)

ある祭司長の息子たちはそれを見て、イエス様の名前によって人から悪霊を追い出そうとしました。ところが、悪霊は答えました。

イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ。(15)

すると、その悪霊につかれていた人が彼らに飛びかかり、押さえつけ、打ち負かしました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちには、神様との個人的な関係が必要です。

たとえあなたのご両親、兄弟、親友がクリスチャンであっても、それがあなた自身がクリスチャンであることを意味するわけではありません。あなたは自分自身の神様との関係を持たなくてはなりません。

その関係を持たなければ、サタンはあなたを神の子供として認めません。しかし、もっと重要なのは、神様があなたをご自身の子供として認めてくださらないということです。

もしかしたら、裁きの日に、あなたは神様にこう言うかもしれません。

「え?私を知らないのですか?毎週日曜日に私は教会に行っていましたよ。私の父も母もあなたを知っていますし、私の友人たちもあなたを知っています。」

ところが、神様はこう言われます。「おまえの父も母も知っているし、おまえの友人もよく知っている。しかし、おまえは何者だ?」

そして、あなたは神様から永遠に離れてしまいます。

あなたはどうでしょうか。神様との関係を本当に持っていますか?神様を本当に知っていますか?

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いつ人を神様に委ねるべきか

愛する人々が福音を拒絶するのを見るのは、非常につらいことです。けれども、私たちが諦め、その人を神様に委ねるべき日が来るかもしれません。では、いつそうすべきなのでしょうか。

今日の箇所では、その答えを見つけることができます。

エペソにいたとき、パウロはいつも通りユダヤ人の会堂に行き、イエス様について教えました。パウロは約三か月間そうしましたが、最終的にユダヤ人たちは心を頑なにし、聞き入れず、「道のこと」(つまり福音)を悪く言いました。(使徒の働き19:9)

パウロの反応はどうだったでしょうか。

パウロは彼らから離れ、別の場所へ行き、福音を受け入れる人々に伝えました。

福音を伝えるとき、相手がもっと聞きたいという気持ちを持っていると感じることがあります。そのような心を持っている人には、福音を伝え続けるべきです。

しかし、相手が心を固くし、敵対的な態度を取るならば、私たちは彼らを神様の手に委ね、別の人々に福音を伝え始めるべきです。

頑なな心を持つ人に福音を伝え続けることは無駄であり、むしろ相手の心をさらに固くしてしまうかもしれません。

私たちは誰かを信じさせることはできません。人の心を変えられるのは聖霊様だけです。

パウロが言ったように、私たちは福音の種を植え、水を注ぐことができます。しかし、成長させるのは神様だけです。(第一コリント3:6-7)

だからこそ、もし相手が私たちの言葉を拒絶するならば、私たちは身を引き、彼らの心を変えられる方に委ねましょう。

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悔い改めることだけではく

この箇所では、私たちはバプテスマのヨハネの弟子たちに出会います。ある意味では彼らはアポロに似ていましたが、ある意味ではアポロとは異なっていました。

アポロのように、彼らはバプテスマのヨハネに従いました。しかし、アポロと違い、ヨハネが誰を指していたのかを理解していませんでした。

ヨハネは彼らにバプテスマを授けましたが、もしかしたらヨハネがイエス様をメシアとして宣言する前に、彼らは別の場所へ移ったのかもしれません。つまり、彼らは罪を悔い改めましたが、イエス様に従ってはいませんでした。

そこで、パウロは彼らにイエス様について教えました。その後、彼らはイエス様を信じ、イエス様の名前によって洗礼を受け、聖霊を受けました。

今日の要点は何でしょうか。罪を悔い改めるだけでは、十分ではありません。

「神様に従いたい」と言っても、それだけでは足りません。

あなたはイエス様を信じなければなりません。

イエス様は、神様への道のひとつではありません。唯一の道なのです。イエス様との関係を持たなければ、どれほど多くのものを持っていても、それは無意味です。

あなたはどうでしょうか。イエス様を信じていますか。すでにイエス様を受け入れましたか。

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素直な心

私たちが「もう知っている」という態度を取るのは、簡単なことです。

例えば、日曜日に牧師のメッセージを聞くとき、「もう知っている」と思ってしまうことがあります。

長い間、教会に通っている人にとって、そのような態度を取るのは特に簡単です。

正直に言うと、私自身もそのような態度を取ったことがあります。今でも、そのような姿勢に注意しなければなりません。

たとえ神様や聖書について多くのことを正しく理解していても、私たちはまだまだ学ぶべきことがたくさんあります。

この箇所では、アポロという人物がイエス様について深い知識を持っており、その理解はある程度正しかったものの、不完全でした。

そこで、プリスキラとアキラというクリスチャン夫婦は、アポロに「神の道をもっと正確に説明しました」(使徒の働き18:26)。

最も重要なのは、アポロが素直な心を持っていたということです。彼は「私はもう知っている」と言って彼らの教えを拒んだわけではありません。

むしろ、常に学ぶ姿勢を保っていたため、彼のミニストリーはさらに力強くなりました。その態度によって、彼は神の国のためにさらに豊かな実を結びました。

あなたはどうでしょうか。あなたは成熟したクリスチャンで、聖書について深く知っているかもしれません。しかし、今でも素直な心を持ち、学ぶ姿勢を取っていますか。

謙遜な態度を持ち、まだ知らないことが多くあると認められるでしょうか。

そのような心を持ち続けることによってこそ、私たちはクリスチャンとして成長し、神様のために豊かな実を結び続けることができるのです。

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私たの責任を果たす

パウロが常に行ったことは、福音を述べ伝えることでした。どこへ行っても、パウロはイエス様がキリストであることを伝えました。

(覚えておいてください。「キリスト」とは名前ではなく、肩書です。ユダヤ人にとって、「キリスト」とは「救い主」や「王」を意味します。)

なぜ、パウロは福音を述べ伝えたのでしょうか。その理由の一つは、イエス様がパウロにそう命じられたことです。そして、イエス様は一度だけ命じたのではありません。パウロが救われたとき、イエス様は彼に使命を与えられました。(使徒の働き9:15)

そして、この箇所でも、イエス様はもう一度パウロにこう言われました。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(使徒の働き18:9)

しかし、パウロには、福音を伝える理由がもう一つありました。彼は、預言者エゼキエルに対する神様の言葉を覚えていました。

わたしが、悪いものに「あなたは必ず死ぬ」と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。

もしあなたが悪い者に警告を与えても、彼がその悪と悪の道から立ち返ることがないなら、彼は自分の不義のゆえに死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。(エゼキエル書3:18-19)

そのため、コリントでユダヤ人たちがパウロのメッセージを拒絶したとき、パウロはこう言いました。

あなたがたの血は、あなたがたの頭上に降りかかれ。私には責任がない。(使徒の働き18:6)

その後、パウロはエペソの長老たちに、似たことを語りました。(使徒の働き20:26-27)

私のポイントは?

私たちは、知っている人に福音を述べ伝える責任を持っています。

彼らの反応は私たちの責任ではありませんが、私たちは彼らに真理を伝える使命があります。そうしないと、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます。

イエス様は、かつてパウロに語られたように、私たちにも語られます。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。(使徒の働き18:9)

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もう一つのクリスマス

2000年前、人々は最初のクリスマスを祝いました。

けれども、私たちクリスチャンは、もう一つのクリスマスを待っています。

最初のクリスマスの日、イエス様は赤ちゃんとしてこの世に来られました。そして、イエス様の目的は、十字架で私たちの罪のために死ぬことでした。イエス様が私たちの罰を受けてくださったので、今は天の父が私たちを赦してくださいます。

しかし、パウロによれば、イエス様はもう一度来られます。今度は、この世を裁くために来られます。

パウロはこう言いました。

なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義を持ってこの世界をさばこうとしておられるからです。

神はこの方(イエス)を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。(使徒の働き17:31)

イエス様を拒絶したすべての人々は、永遠に罰を受けます。

しかし、イエス様を受け入れたすべての人々は、この砕かれた世界から救い出され、新しくされます。

へブル人への手紙の著者はこう言いました。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(へブル人への手紙9:27-28)

あなたは、イエス様の再臨に向けて準備ができていますか。どのように備えるべきでしょうか。

パウロはアテネの人々に語りかけ、私たちにもこう言います。

。。。今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。(30)

「悔い改め」とは、これまで歩んできた方向から正反対の道へと進むことを意味します。つまり、自分の道ではなく、神様の道を歩み始めることです。自分自身を頼るのではなく、イエス様に信頼し始めることです。

そうすれば、「次のクリスマス」が来たとき、あなたは準備万端です。

あなたは、すでに準備ができていますか。

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遠く離れない神

私の一番好きな歌は、このように始まります。

As little children, we would dream of Christmas morn,
私たちが幼い頃、クリスマスの朝を夢見ていました。
Of all the gifts and toys we knew we’d find.
つまり、きっと見つけることのできるプレゼントやおもちゃのことを思い描いていました。
But we never realized a baby born one blessed night,
しかし、私たちは気づいていませんでした。ある祝福された夜に生まれた赤ちゃんが、
Gave us the greatest gift of our lives.
私たちの人生にとって最も素晴らしい贈り物であることを。

その夜、目に見えない神が、目に見える存在となりました。また、知られていない神が現れ、私たちに近づかれました。

パウロは、その真理をアテネの人々に伝えようとしました。彼らは「知られていない神」のために祭壇を設けていました。

そこで、パウロは彼らにこう言いました。「その神は、今や知られるようになりました。神ご自身が私たちにご自身を現してくださいました。その神はすべての神々の中の一つではなく、唯一の神です。

そして、その神は、この世界とその中にあるすべてのものを創造されました。

神は天地の主であり、命を与えるお方です。

また、神はご自身の計画に従って、すべてを成し遂げられました。その目的は何でしょうか。

それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。(使徒の働き17:27a)

そして、神様を求める人々にとって、良い知らせがあります。

確かに、神は私たちに一人ひとりから遠く離れてはおられません。(27b)

イエス様のもう一つの名前は「インマヌエル」です。

クリスマスの良い知らせとは、神様が私たちに近づいてくださり、神様を知ることができるようになったことです。

イエス様を通して、私たちは神様と親しい関係を持つことができます。

神様は私たちに近づいてくださいました。だからこそ、私たちも毎日神様に近づいていきましょう。

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悪を見て見ぬふりをする?

私たちはこの世の悪を目にすると、次第に気にならなくなってしまうことがあります。最初はそれを見て心を痛めたかもしれません。けれども、時間が経つにつれて、その悪に慣れ、やがて気づかなくなってしまうのです。

パウロはそうではありませんでした。彼がアテネに行ったとき、数多くの偶像を目にしました。そのとき、彼はどう反応したでしょうか。

パウロは。。。町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを覚えた。(使徒の働き17:16)

「憤り」という言葉の原語は、新約聖書の中で、もう一つの箇所にしか現れません。皮肉なことに、そのほかの箇所では、パウロは「愛は苛立たず」と語っています。

しかし、今日の箇所では、パウロは憤りを覚えました。なぜでしょうか。それは、この偶像のせいで多くの人々が地獄へ向かっていたからです。サタンは彼らを欺き、苦しめていました。

そのため、パウロは彼らが救われるように、大胆に福音を述べ伝えました。

あなたはどうでしょうか。

周囲の悪を目にすると、あなたは憤りを覚えるでしょうか。

不正を見たとき、憤りを覚えるでしょうか。

人々が悪を「良いこと」と呼ぶとき、あなたは怒りを感じるでしょうか。

サタンが人々の命を滅ぼしているとき、あなたは正義の怒りを覚えるでしょうか。

もし何も感じないなら、あなたの心の中で何かが正しくありません。御霊があなたの心に住んでおられるなら、悪を目にしても無関心ではいられないはずです。

私たちは御霊に導かれ、この世に塩と光として生きるべきです。

イエス様はこう言われました。

あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。

もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。

あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。

また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。(マタイ5:13-15)

あなたはこの世の悪に慣れすぎて、塩気を失った塩になってしまっていないでしょうか。悪に対する無関心な態度のせいで、隠された光になっていないでしょうか。

私たちはそのような者にならないように気をつけましょう。むしろ、周りの人々に触れるほど、悪に対する憤りを覚える者となりましょう。

沈黙するのではなく、悪を見て見ぬふりせず、神様の光としてこの世に出て、人々に影響を与えましょう。

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私たちが聞くことを吟味する?

現代では、私たちはさまざまな情報を簡単に得ることができます。特に、インターネットを通じて、多様なニュースや意見に触れることができます。

信仰に関しても同じです。牧師だけでなく、一般のクリスチャンも神様や聖書について語り、多くの人が彼らの教えに従っています。

けれども、私たちはどれほど彼らの言葉を吟味しているでしょうか。もし吟味しなければ、信頼に値しない人の意見に流されてしまいます。

テサロニケ人やベレア人の多くは、まさにそのような人々でした。福音の敵は簡単に彼らを扇動し、パウロとシラスに対する大騒ぎを引き起こしました。

なぜでしょうか。それは、彼らがパウロの敵の言葉を吟味せず、すぐにその嘘を信じてしまったからです。

しかし、パウロの言葉を信じた人々の中にも、聞いたことを十分に吟味しない者がいました。ルカはテサロニケ人とベレア人を比較して、こう記しました。

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(使徒の働き17:11)

よく考えてみてください。パウロは偉大な使徒でした。けれども、御霊はルカを通してベレア人を称賛しました。

なぜでしょうか。それは、彼らが簡単にパウロの言葉を受け入れたのではなく、むしろ聖書に照らして吟味したからです。

もしベレア人がパウロの言葉を吟味したことが良いことであるなら、私たちも牧師の言葉を吟味すべきではないでしょうか。有名な牧師やクリスチャン作家の言葉も、慎重に検証すべきではないでしょうか。

しかし、多くの人々は聞くことを吟味しません。もし話の内容が正しく聞こえたり、心を動かされたりすると、すぐに受け入れてしまいます。

その結果どうなるでしょうか。神様の道から離れ、偽りの教えの風に吹き回されるのです。(エペソ4:14)

そうならないようにしましょう。私たちが聞くことを吟味しなければ、神様の道を見逃してしまいます。

むしろ、パウロの言葉を心に留め、それに従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(第一テサロニケ5:21-22)

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解放された

この箇所のテーマの一つは、「解放」です。

ルデヤとその家族は罪から救われました。もしかすると、彼女たちはユダヤ人の律法の要求からも自由にされたのかもしれません。

ある女性は、悪霊の力から解放されました。

看守は、(もしかすると他の囚人も)自分の罪から救われました。

そして、パウロとシラスは牢の鎖から解放されました。

さまざまな意味において、パウロとシラスの経験はこのテーマを象徴していると言えるでしょう。

彼らは牢に座り、鞭による傷の痛みに苦しんでいたはずです。それにもかかわらず、彼らは祈り、賛美の歌を歌いました。

おそらく、最初は他の囚人たちはパウロとシラスを不思議な人物だと思ったでしょう。けれども、彼らの祈りと賛美を聞くうちに、囚人たちはパウロとシラスの信仰の真実さを理解し始めました。

もしかすると、彼らは神様の臨在を感じ、パウロとシラスに神様について尋ねたかもしれません。

看守はその様子を見て、皆がおかしいと思い、自室に戻って眠りにつきました。ところが、突然地震が起こりました。そして、

たちまち扉が全部開いてすべての囚人の鎖が外れてしまった。(使徒の働き16:26)

その言葉は私の心を打ちました。なぜなら、私たちが自分自身を神様にささげると、霊的な牢の扉が開き、囚人の鎖が外れるからです。

もちろん、そのようなことは私たちの人生にも起こりますが、私たちが触れる人々の人生にも起こるのです。

パウロが囚人たちに「逃げないでください」と願ったとき、神様の愛が彼らの心にすでに触れていたので、誰一人として逃げる者はいませんでした。

その様子を見た看守は、叫びました。

先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。(30)

それ以前、サタンは看守とその家族を長い間縛っていました。しかし、パウロから流れた愛と憐れみによって、彼らはサタンの鎖から解放されました。だから彼らは喜びに満ちました。

神様は、あなたの周りの人々を自由にしたいと望んでおられます。そのために、2000年前、天の父はイエス様を送ってくださいました。

だからこそ、神様の愛を彼らに示しましょう。また、パウロが伝えた福音のメッセージを語りましょう。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒の働き16:31)

その言葉を信じるなら、あなたの周りの人々も救われるでしょう。

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神の御名のもとに自分の計画成し遂げようとする?

この箇所はとても興味深いです。パウロと他の宣教師は各地へ行こうとしましたが、御霊に「行ってはならない」と言われました。

そのため、おそらく数日間、あるいは数週間の間、パウロたちは少しフラストレーションを感じていたでしょう。しかし、ある日、パウロは幻を見ました。その幻の中で、一人のマケドニア人がこう言いました。

マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください。(使徒の働き16:9)

だから、パウロたちはすぐにマケドニアへ向かいました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちは神様の御心に従っているつもりで、あちこちへ行くことが簡単にできます。しかし、何度も障害にぶつかり、フラストレーションを感じてしまうことがあります。

私たちの問題は何でしょうか。多くの場合、私たちは実際には神様の御心に従っていないのです。むしろ、私たちは神様の名のもとに、自分の計画を成し遂げようとしているのです。

ですから、ミニストリーをしていてフラストレーションを感じるときは、少し静まりましょう。そして、神様を求めましょう。

「神様、私の計画を祝福してください」と祈るのではなく、「神様、あなたが何をなさっているのか教えてください。私がどのようにあなたの働きに加わることができるのか教えてください」と祈りましょう。

そうすれば、神様は御心をあなたに示してくださいます。

あなたはどうでしょうか。あなたは本当に神様の御心に従っているでしょうか。それとも、もしかすると、自分の計画に神様の名前を付けているだけでしょうか。

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すべての人に、すべてのものとなる

この箇所では、私たちは少し不思議な出来事を目にします。パウロは各地を巡り、クリスチャンたちに異邦人に関する教会の決定を伝えました。つまり、異邦人は割礼を受ける必要がないということです。

それにもかかわらず、パウロはテモテに割礼を受けさせました。なぜでしょうか。

おそらく、テモテが純血のギリシャ人であれば、パウロは彼に割礼を受けさせなかったでしょう。

実際、テトスという人物は純血のギリシャ人であり、パウロは彼に割礼を受けさせませんでした(ガラテヤ2:3)。さらに、テトスの働きの対象は主に異邦人でした。

けれども、テモテの場合、彼の母がユダヤ人であり、彼自身もユダヤ人たちに福音を伝えたいと願っていました。そして、もしテモテが割礼を受けていなかったならば、ユダヤ人たちは彼の言葉に決して耳を傾けることはなかったでしょう。

そのため、テモテがユダヤ人に仕えたいと願うのであれば、割礼を受ける必要がありました。

パウロはその真理を次のように説明しました。

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。

律法の下にある人たちにはーー私自身は律法の下にはいませんがーー律法の下にあるもののようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。。。

すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。(第一コリント9:20,22)

では、パウロの模範から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

できる限り、あなたが仕える人々に共感するべきです。そうしなければ、彼らはあなたの言葉に耳を傾けてくれないでしょう。

日本の宣教師として、私は日本人の言語や文化、考え方を学ぶべきです。

とはいえ、あなたが自分の国に住んでいる場合でも、周りの人々の考え方や生活、楽しんでいることを知るべきです。そして、できる限り相手のことを理解し、共感するよう努めるべきです。

例えば、あなたは社交的な人かもしれませんが、相手は内気な人かもしれません。

その場合、最初から大きな教会に彼らを紹介するのではなく、一対一で時間を過ごす方がよいかもしれません。また、もう一人か二人のクリスチャンの友人を紹介するのもよいでしょう。

もしかしたら、あなたはスポーツがあまり好きではないかもしれません。それでも、相手から誘われたなら、一緒に行く方がよいでしょう。

簡単に言うと、できる限り相手のことを理解し、共感しましょう。テモテもパウロもそうしました。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたの人生にどのような人を置かれたでしょうか。彼らが救われるために、どのように彼らをもっと知り、共感できるでしょうか。

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もう一つのチャンスを与える?

この箇所では、私たちはパウロとバルナバが別れる場面を目にします。

その理由は、マルコという若い男性です。マルコはバルナバのいとこであり、パウロとバルナバが最初の宣教旅行に出発する際、彼も同行しました。けれども、なぜか途中で帰ってしまいました。

私たちはその理由を知りません。もしかしたら、彼はホームシックだったのかもしれません。あるいは、福音の敵と対峙したときに恐れを感じたのかもしれません。

いずれにせよ、どうやらパウロはマルコの決断を受け入れられなかったようです。

そのため、パウロとバルナバが再び宣教旅行に行こうとしたとき、バルナバがマルコを同行させようと提案すると、パウロは強く反対しました。

バルナバはそのことで怒り、マルコとともにキプロスへ渡り、宣教の働きを続けました。一方、パウロはシラスという人物とともに別の地へ赴きました。

私はパウロの気持ちがよく分かります。信頼できない人と働くのは、とても難しいことです。とはいえ、この場面では、パウロは自分が説いていた教えを忘れてしまいました。それは「恵み」です。

その後、パウロはそのことを理解するようになりました。マルコはもう一度チャンスを与えられ、バルナバとともに忠実に仕えました。その後、彼はペテロとともに忠実に仕えました。

そして最終的には、彼はパウロとともに忠実に仕えました。パウロはマルコについて、テモテにこう言いました。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(第二テモテ4:11)

実は、パウロとマルコは互いに恵みを与え合わなければなりませんでした。

パウロはマルコの過去の失敗を許さなければなりませんでした。けれども、マルコもまた、パウロの以前の態度を許さなければなりませんでした。互いに許し合ったことで、二人は祝福されました。

あなたはどうでしょうか。あなたをがっかりさせた人がいるでしょうか。あなたを傷つけた人がいるでしょうか。

神様は何度も私たちにチャンスを与えてくださるので、私たちも周りの人々にそのようなチャンスを与えるべきです。

もちろん、すぐに相手を完全に信頼しなければならないわけではありません。それでも、信頼を得る機会を与えるべきです。

そして、彼らが私たちの信頼に値することを示せば示すほど、もう一度彼らを信頼しましょう。

天のお父様は、もう一度チャンスを与える方です。神様の子どもとして、私たちもそうすべきです。

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使徒の働き

恵みだけ

この箇所では、私たちは使徒の時代における最も重要な議論の一つを目にします。

パウロとバルナバは異邦人たちに福音を述べ伝えました。けれども、あるクリスチャンたちはパウロとバルナバの教えに反対しました。

つまり、パウロとバルナバはこう教えました。

ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。

また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについてこの方によって、信じる者はみな義と認められるのです。(使徒の働き13:38-39)

ところが、あるユダヤ人の信者たち、特にパリサイ派に所属している信者たちは、それを受け入れませんでした。

もちろん、彼らはイエス様への信仰によって人々が赦されることを信じていました。しかし、それに加えてもう一つの要求をしました。

つまり、異邦人たちは割礼を受けなければならず、さらにモーセの律法を守らなければならない、ということです。

だから、

パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じた。。。(使徒の働き15:2)

だから、彼らは皆、エルサレムに行き、使徒たちと長老たちとその問題について話し合いました。

まず、パウロとバルナバは、異邦人の間での神様の働きについて語りました。けれども、そのあと、パリサイ派の人々が立ち上がり、こう言いました。

「それはいいけれど、彼らはまだ割礼を受け、モーセの律法を守らなければならない。」

こうして、激しい議論が始まりました。

私はペテロの思いを想像できます。

ペテロは幼い頃からユダヤ人として育ち、ずっとモーセの律法に従ってきました。彼にとって、異邦人に対する神様の恵みの言葉を受け入れることは、まだ少し難しかったかもしれません。

そのため、彼はパリサイ派の人々の意見に共感を覚えたかもしれません。

それでも、コルネリウスの家に行ったとき、ペテロ自身がそのメッセージを異邦人に伝えました。

そのため、この議論を聞きながら、ペテロは神様からの幻をもう一度思い出していたことでしょう。(使徒の働き10:11-16)

そして、彼は再びその幻の教訓について思い悩んだかもしれません。

けれども、最終的にペテロは、神様がユダヤ人と異邦人を区別しないことを悟り、皆にこう言いました。

。。。人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証をされました。

私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神を試みるのですか。(8-10)

それを聞いて、皆は静かになりました。バルナバやパウロの異邦人との経験よりも、ペテロの言葉が彼らの心を打ったようです。

そして、ヤコブは聖書によってペテロの言葉を確認したため、すべての異議がなくなりました。

では、この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

恵みだけによって、私たちは救われるのです。

私たちはキリストの御業に、自分の努力を足すことはありません。

私たちが頑張ったからといって、神様がその報いとして私たちに恵みを与えてくださるわけではありません。

私たちの努力を神様の恵みに足して救われるのではなく、私たちはキリストの十字架の御業だけによって救われました。

けれども、ペテロのように、私たちの多くにとってこの真理を受け入れることは容易ではありません。そのため、「私はやっぱりだめだ」と思い、神様が本当に私たちを受け入れてくださるのか疑問に思うことがあります。

あるいは、周りの人々を裁いて、「あの人はだめだ」と考えてしまうこともあるかもしれません。

しかし、事実として、救いに値する人は誰もいません。だからこそ、私たちには恵みが必要なのです。

私たちは救いに値しませんが、イエス様が十字架で血を流されたことによって、私たちは義と認められました。神様はすでに私たちを受け入れています。だから、神様が私たちを受け入れてくださるかどうか、悩む必要はないのです。

それを本当に信じていますか?

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2:8-9)

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使徒の働き

苦難があっても

控えめに言っても、パウロとバルナバの宣教旅行は決して退屈なものではありませんでした。

彼らは数々の成功を経験しましたが、同時に多くの試練にも直面しました。あるとき、パウロは石打ちの刑に遭い、死の危機に瀕しました。そのため、彼らが失望し、諦めてしまうことは容易だったでしょう。

けれども、彼らはそうしませんでした。むしろ、迫害された場所にまで戻ったのです。なぜでしょうか。それは、そこにいる信者たちを励まし、信仰に堅く立つように勧めるためでした。

彼らは何を語ったのでしょうか。

私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない。(使徒の働き14:22)

もし私たちがそのクリスチャンたちの立場だったなら、きっと試練ではなく、神様の祝福について聞きたかったことでしょう。

しかし、パウロは、新しいクリスチャンたちが試練に直面することを理解していました。もし、パウロとバルナバが訪れた都市の人々が彼らを迫害するなら、新しいクリスチャンたちも同じように迫害される可能性が高いのです。

だからこそ、パウロはその試練の現実を隠そうとはしませんでした。彼は、「あなたがたは確かに苦しみを経ることになる」と語ったのです。

それでも、良い知らせもありました。それは、彼らがその苦しみに一人で直面する必要はなかったことです。神様がパウロとバルナバとともにおられたように、神様は新しいクリスチャンたちともともにおられるのです。

さらに、アンティオキアのクリスチャンたちが、パウロとバルナバを神様の恵みに委ねて送り出したように、パウロとバルナバも新しいクリスチャンたちを主に委ねました(23,26)。

パウロとバルナバが確信していたのは、新しいクリスチャンたちが試練に直面しても、神様の恵みが彼らを支えるということです。

同じように、あなたがどんな試練や苦難に直面しても、神様はいつもあなたとともにおられ、その恵みによって、あなたはその試練を乗り越えることができます。

パウロとバルナバとともにおられた神は、今もあなたとともにおられます。だから、どんな苦難があっても、あきらめないようにしましょう。絶望しないようにしましょう。

Through many dangers, toils and snares
I have already come;
さまざまな危険や苦難、罠を乗り越え、私はすでにここまでたどり着きました。

‘Tis Grace that brought me safe thus far
恵みは私を安全に導き、ここまで守ってくださいました。

and Grace will lead me home.
さらに、恵みは私を主の家へと導いてくださいます。

ーージョン・ニュートン

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使徒の働き

ただの人間

この箇所を読むと、罪に陥った多くの有名な牧師の名前が思い浮かびます。かつて多くの人々が彼らを尊敬していましたが、やがてその尊敬を失ってしまいました。

そのとき、クリスチャンたちは、彼らがただの人間であることを改めて思い知らされたのです。

それでも、私たちが牧師を特別な存在として見なすのは容易なことです。おそらく、神様の姿を直接見ることができないため、牧師を模範とし、彼らに目を向け、従おうとしてしまうのでしょう。

けれども、最終的に彼らもただの人間なのです。

あなたがリーダーであっても、ただの教会のメンバーであっても、私たち皆はこのことを常に心に留めておかなければなりません。

パウロはそのことを深く認識していました。

パウロとバルナバがリステラを訪れたとき、彼らはイエス様のみ名によってある人を癒しました。リステラの群衆はその奇跡を目にすると、パウロとバルナバを神々として礼拝しようとしました。

なぜでしょうか。

それは、彼らの神話によれば、かつてゼウスとヘルメスが人間の姿で人々の間に現れたものの、多くの者が彼らを歓迎せず、その結果、神々の怒りによって罰せられたからです。しかし、一組の夫婦が彼らを受け入れ、その善意によって祝福されたという伝承がありました。

リステラの人々はこの話を覚えており、パウロとバルナバにいけにえを捧げたいと思いました。けれども、それを見たパウロとバルナバは、叫びました。

皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。

そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。(使徒の働き14:15)

それでも、パウロとバルナバは、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせました。

パウロはコリントの教会でも、似た問題に直面しました。そこでは、コリントのクリスチャンたちが、どのリーダーが最も偉大なのかを議論していました。しかし、パウロは彼らにこう問いかけました。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(第一コリント1:13)

また、

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(第一コリント3:5-7)

たとえ最も敬虔な人であっても、祭り上げることは危険です。なぜなら、彼らもまた、ただの人間だからです。

人間は失敗することがあります。

人間は私たちを落胆させることがあります。

もし私たちの信仰の基盤が神様ではなく、一人の人間に置かれているなら、その人が私たちを失望させたとき、私たちの信仰はどうなるでしょうか。

パウロはその危険を私たちに警告しています。

しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(第一コリント3:10-11)

あなたの信仰の基盤は何でしょうか。あなたの牧師でしょうか。有名な著者や牧師でしょうか。それとも、イエス様でしょうか。

イエス様だけが、私たちが真に信頼できる揺るぎない基盤です。イエス様に信頼するなら、あなたは決して失望することがありません。(イザヤ書28:16;第一ペテロ1:6)

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使徒の働き

対立

この箇所を読むと、「対立」という言葉が思い浮かびます。

パウロとバルナバが福音を述べ伝えたとき、エリマという人物やユダヤ人たちは彼らに反対しました。

エリマは霊的な理由から彼らに対立しました。

ユダヤ人たちが反発した理由は、嫉妬と罪から生じました。(とはいえ、結局のところ、福音に反対する人々すべてには霊的な理由があります。)

では、パウロとバルナバはどのように反応したのでしょうか。

サタンがエリマを通して直接攻撃したとき、彼らは御霊の力によって戦いました。霊的な戦いにおいて、私たちは自分の力だけでは戦えません。なぜなら、サタンと悪霊は私たちよりも強力だからです。

しかし、ヨハネはこう書きました。

あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。(第一ヨハネ4:4)

だから、聖霊様の力によって、パウロとバルナバはエリマに勝利し、セルギウス・パウルスとその家族が救われました。

プライドを持つ嫉妬深い人々と対立したとき、パウロとバルナバは大胆に福音を述べ伝え続けました。

そして、ユダヤ人たちの心が固くなると、パウロとバルナバはその都市の異邦人たちに福音を伝え始めました。その後、彼らは別の場所へ行き、そこでの人々にも福音を述べ伝え続けました。

このように、自分勝手な理由で私たちと対立する人もいます。

また、私たちが何を言っても、イエス様をどうしても信じようとしない人もいます。そのため、最終的に私たちは彼らを神様にゆだねるしかありません。神様が彼らを裁かれるのです。

私たちは強制的に相手にイエス様を信じさせることはできません。ただ福音を伝えることしかできません。その結果は、相手と神様の責任です。

だから、人々が福音を拒絶しても、落胆しないでください。大胆に福音を伝え続けましょう。

私たちは皆、対立と向き合うことになります。しかし、そのときこそ、パウロの言葉を覚えていましょう。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ人への手紙6:9)

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使徒の働き

神様の働きのために聖別される

私は、宣教師になることについて初めて考えたときのことをよく覚えています。

友達と話していると、なぜか宣教の働きについての話題になりました。そのとき、私はこう言いました。 「神様は私を宣教師として召されていないと思う。」

すると、友達は答えました。 「どうしてそんなに確信があるの?神様にもう尋ねたの?」

「えっと。。。」

その夜(もしかしたら翌晩)、祈っているときにこの会話を思い出しました。

だから、私は神様にこう言いました。

「トニーさんに、あなたに宣教師になるよう導かれているかどうか尋ねるべきだと言われました。」

それを口にした瞬間、ある考えが心に浮かびました。きっと私自身の考えではないでしょう。なぜなら、宣教師になる意図がまったくなかったからです。

すると、神様がこう言われました。 「そうです。私に尋ねなさい。」

私の反応は?

「私は尋ねたくない。あなたが『はい』と答えるなら、本当に困ります。」

そして、いろいろと言い訳をしましたが、神様は何も答えず、結局すべてが無駄だと気付きました。

だから、私は尋ねました。 「では、私に宣教師になってほしいのですか?」

その晩、神様は答えませんでした。それでも、その日がターニングポイントとなりました。心が少し柔らかくなったからです。

それから2~3年後、進路について祈りました。そして、友人たちはこう言いました。 「神様の導きを求めているなら、すべてを神様に捧げなくてはならない。」

帰る途中、神様は再び私の心に語りかけました。 「ブルース、あなたの心には『絶対に日本へ行かない』という思いがあるよ。」

その言葉を聞いて、神様の意味が分かりました。

前年、短い宣教旅行で日本に訪れていました。けれども、その後、こう思いました。 「やっぱり私は日本向きじゃないだろう。」

意識的に「日本には絶対戻らない」と口にしたわけではありませんが、心の中ではそう決めていました。

だから、その夜、もう一度心のすべてを神様に捧げました。

日本で宣教師になったのは、それから24年前のことです。

なぜ、私はこの話をしているのでしょうか。

それは、私の経験がサウロとバルナバの経験に似ているからです。

クリスチャンたちが神様の御心を求めていたとき、神様は彼らに言われました。 「行きなさい。私の目的のために、あなたたちを聖別しています。」

この箇所では、御霊の人格を見ることができます。なぜなら、御霊ご自身が彼らに語られたからです。

さあ、わたしのためにバルナバとサウロ聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい。(使徒の働き13:2)

だから、クリスチャンたちがさらに祈り、断食した後、サウロとバルナバは御霊の導きに従いました。

今でも、神様がなぜ私を呼ばれたのかを考えています。多くの良いことをしてきたと思いますが、これからどのように導かれるのかは分かりません。だから、私の祈りはこうです。 「次の段階は何でしょうか。」

しかし、神様は宣教師や牧師だけを呼ばれるのではありません。あなたも呼ばれています。神様はご自身の目的のために、あなたを聖別されました。

あなたは、その目的をご存知ですか? 神様が望まれることをしていますか?

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使徒の働き

破滅に至る高慢

ソロモンはこの言葉を書きました。

高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。(箴言16:18)

ヘロデ・アグリッパの人生で、私たちはその真理を見ることができます。

ちょっとややこしいですけど、聖書の中にはたくさんのヘロデがいます。

バプテスマのヨハネを殺して、イエス様の裁判に参加するヘロデはヘロデ・アグリッパとは違う人でした。それは、ヘロデ・アンティパスという人でした。アンティパスはヘロデ大王の息子でした。

そして、ヘロデ・アグリッパはヘロデ大王の孫で、アンティパスの甥でした。イエス様が小さい子どものころに、ヘロデ大王はイエス様を殺したいと思いました。

ヘロデ大王のように、ヘロデ・アグリッパは暴力的な人でした。彼はヤコブを殺したし、ペテロをも殺そうとしました。神様がペテロを救い出した後、アグリッパはペテロの番兵たちを殺しました。

ヘロデは権力者で、高慢な人でした。だから、ヘロデがツロとシドンの人たちに怒ったとき、彼らは謙遜にヘロデのところに行って、和解を願いました。

ヘロデの演説を聞いた時、彼らは叫んだ。

神の声だ。人間の声ではない。(使徒の働き12:22)

ヘロデは神様を認めず、その言葉を受け入れなかったため、天使によって打たれ、命を落としました。

神様が最も嫌われるものの一つはプライドです。なぜなら、プライドは神様との間に壁を築き、私たちを神様から遠ざけるからです。そのプライドによって、私たちは神様を必要としないと考え、神様抜きで生きようとします。

プライドは、他の人々との関係にも壁を作ります。プライドのせいで、どれほど友人関係、家族、結婚、そしてその他の人間関係が壊されてきたでしょうか。

さらに、ヘロデのように、悔い改めないなら、プライドは私たちを破滅へと導きます。もしプライドを持ち続け、「神様、あなたを必要としない」と言い続けるなら、神様は最終的に私たちの願いを叶えます。

つまり、永遠に神様から離れたまま生きることになります。しかし、神様から離れるなら、私たちは命、愛、喜び、平和からも遠ざかります。なぜなら、それらの源は神様だからです。

ヘロデは、最後にこの真理を思い知らされました。

あなたはどうでしょうか。あなたのプライドは、友人、妻、夫、同僚、そして教会の人々との間に壁を作っていませんか。あなたのプライドは、神様との間に壁を作っていませんか。

ペテロはこう書きました。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。

ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。(第一ペテロ5:5-6)

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使徒の働き

神様の応答、私たちの信仰

この話は多くの意味で非常に面白い場面です。

特に面白いのは、天使がペテロを牢から救い出し、ペテロがマリアの家に行ってノックをしたとき、召使いのロデがあまりにも興奮しすぎて、ペテロを外に立たせたまま、他のクリスチャンたちに良い知らせを伝えた場面です。

けれども、この話を読んで、私はこう思いました。

「どうして神様はペテロを助けたのに、ヤコブを救ってくださらなかったのだろうか。」

その答えを私たちは知りません。

クリスチャンたちはヤコブのためにも祈っていたはずです。そして、ペテロのために祈ったとき、彼らの信仰がより強かったから神様が答えてくださったわけではありません。

なぜなら、ロデがペテロが外にいると伝えたとき、彼らはロデの言葉を信じませんでした。もし彼らに強い信仰があったなら、すぐに扉を開けていたでしょう。それでも彼らはそうせず、ロデが正気かどうかを疑い続けました。

私たちはクリスチャンたちの不信仰を批判できないと思います。なぜなら、彼らはヤコブのために祈ったのに、ヤコブは殺されてしまったからです。

彼らがヤコブのために祈ったとき、おそらく彼らの信仰は非常に強かったはずです。なぜなら、それ以前に神様は使徒たちを敵から救い出してくださったからです。(使徒の働き5章)

それでも、神様はヤコブを救い出さずに、ペテロを救い出してくださいました。

この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

1.私たちがどれほど強い信仰を持っていたとしても、神様は私たちの祈りに応えてくださらないことがあります。

時に、私たちの願いは神様の御心と一致していないため、神様は私たちの願いを退け、ご自身の計画を成し遂げられます。

その時、私たちはどう反応するでしょうか。

失望しても、なお神様に信頼し続けるでしょうか。

神様の方法が最善であることを信じ続けるでしょうか。

また、失望の中でも祈り続けるでしょうか。

この話のクリスチャンたちはそうしました。彼らは失望しても、信仰をあきらめませんでした。神様に対して苦々しい思いを抱くこともありませんでした。

むしろ、次の試練が訪れたとき、彼らはすぐに祈り始めました。そして、彼らの信仰が弱かったにもかかわらず、神様の恵みによってペテロは救われました。

これが私の次のポイントです。

2.私たちの信仰や不信仰は神様を制限しません。

もちろん、神様は私たちの信仰を望まれます。けれども、私たちの信仰が弱いときでも、神様はその不信仰によって制限されることはありません。神様は恵みに満ちた方であり、私たちに値しないものさえも与えてくださいます。

だから、私たちは神様のもとへ行き続け、神様が良い方であることを信じ続け、また、神様が最善を知り、それを行われることを信じ続けなければなりません。

神様はいつも私たちの願いを叶えられるわけではありません。しかし、神様はそのような信仰をいつも祝福されます。なぜなら、その信仰こそが神様を喜ばせるからです。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)

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使徒の働き

聖霊と信仰に満ちている人

バルナバはとても素晴らしい人でした。使徒の働き4章では、彼は自分の土地を売り、その代金を教会に捧げて貧しい人々を助けました。

そして、9章では、使徒たちや他のクリスチャンたちがサウロを疑い、恐れていたとき、バルナバは彼を支持しました。

さらに、この箇所では、バルナバは異邦人たちに働きかけ始めました。クリスチャンたちが異邦人の間で実を結び始めると、使徒たちはバルナバを彼らのもとへ遣わしました。

そして、23節にはこう書かれています。

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。(使徒の働き11:23)

その後、バルナバはサウロを呼び、アンティオキアの信者たちに仕えました。(その場所で、信者たちは初めて「クリスチャン」と呼ばれました。)

そして、大飢饉が起こるという預言を聞くと、バルナバとサウロはアンティオキアで救援物資を募り、それをエルサレムへ持ち帰り、そこで苦しんでいるクリスチャンたちを助けました。

しかし、24節の言葉は私の心に深く響きます。

(バルナバ)は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(24)

私もそんな人になりたいと思います。立派な人になりたいです。

前にも言いましたが、「バルナバ」とは彼のニックネームでした。本名はヨセフでした。けれども、彼は皆に愛され、「バルナバ」、つまり「慰めの子」と呼ばれるようになりました。

なぜバルナバはそのような生き方をしたのでしょうか。それは、彼が聖霊と信仰に満ちていた人だったからです。

彼は聖霊に満たされ、豊かな実を結びました。彼の心から愛が溢れました。

他の人々がある人を信じなくても、バルナバはその人を信じました。彼は惜しみなく自分の財産や時間を人々に与えました。さらに、彼の言葉によって、多くの人々が励まされました。

バルナバの信仰は、ただイエス様を信じるだけではありませんでした。その信仰は彼の人生のすべてに浸透し、周りの人々にも影響を与えました。

その結果は?

こうして、大勢の人たちが主に導かれた。(24b)

私はそのことを強く望みます。人々が私の人生を見て、イエス様に魅了されるほどに、私は聖霊と信仰に満ちた人になりたいと思います。

「私の信仰は個人的なものだから、あまり話さない」と言う人もいます。

ある人は、聖霊に満ちることをただ自分の益のためだと考えています。彼らは祝福を受けたいと思っているのです。

しかし、もし私たちが本当に聖霊と信仰に満ちているなら、私たちの人生は完全に変わります。

私たちの考え方が変わります。

私たちの生き方が変わります。

神様の愛が私たちを通して流れ、人々に触れることで、彼らは神様に魅了されます。

あなたはどうでしょうか。あなたは聖霊と信仰に満ちているでしょうか。

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使徒の働き

神様の働きを妨げる?

ペテロがコルネリウスの家から帰ると、教会の大騒ぎに直面しました。なぜなら、彼は教会のリーダーでありながら、異邦人をもてなし、異邦人の家を訪れたからです。さらに、その異邦人はローマの百人隊長でした。

そこで、ペテロが家に入ると、人々は彼を囲み、責め始めました。

あなたは、割礼を受けなていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした。(使徒の働き11:3)

そのユダヤ人たちにとって、ペテロの行為は許しがたいものでした。なぜなら、彼はわざわざ異邦人と関わり、自らを汚したからです。

けれども、ペテロは何が起こったのかを説明しました。彼は神様からの幻や、コルネリウスへの天使の命令、そして御霊がどのように異邦人たちを満たしたかを語りました。

そして、ペテロは彼らにこう言いました。

ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じた時に、私たちにくださったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。(17)

「どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」

私たちはどれほど神様の働きを妨げているでしょうか。

もしかすると、私たちの偏見のせいで神様の働きを阻んでしまうかもしれません。

また、神様が新しい方法で働かれても、私たちはその新しい方法に慣れていないために、その働きを妨げてしまうことがあります。

さらに、神様の働きが私たちの伝統に反するかもしれません。

あるいは、私たちのプライドや固くなった心のせいで、その働きを妨げてしまうかもしれません。

「私の考え方が間違っている」と認めることは、とても難しいものです。

また、「神様はあの人を用いることができる」と認めることが難しい時もあります。

しかし、もし私たちが謙遜な態度を持たないなら、神様の働きを妨げてしまうことになるかもしれません。

最終的に、私たちはパウロの戒めに従うべきです。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。あらゆる形の悪から離れなさい。(テサロニケ人への手紙第一5:21-22)

もちろん、新しいものが神様から来るかどうかを吟味しなくてはなりません。けれども、私たちは自分の心も試すべきです。私たちの考え方も試すべきです。私たちのプライドも試すべきです。

エルサレムにいたユダヤ人のクリスチャンたちも、そうしなければなりませんでした。

そして、彼らが出した結論は?

人々はこれを聞いて沈黙した。そして、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(使徒の働き11:18)

そして、彼は神様の働きを妨げることなく、その務めに加わり始めました。(19-26)

あなたはどうでしょうか。神様の働きを妨げているでしょうか。それとも、神様の働きを目にし、喜んでその務めに加わるのでしょうか。

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隔ての壁を打ち壊す

ユダヤ人が異邦人に福音を伝えるために、神様は大きな壁を打ち壊さなければなりませんでした。

皮肉なことですが、その壁の一つは神様の律法から来ていました。それは、清いものと汚れたものに関する律法でした。

レビ記を読むと、こうした原則が何度も出てきます。

「このものに触れてはならない。それに触れると、不潔になる。しかし、この儀式を行えば、清められる。」

また、

「この動物を食べてはならない。あなたにとって、それは汚れたものである。しかし、あの動物は清いので食べてもよい。」

この律法の目的は何だったのでしょうか。その目的は、ユダヤ人に重要なことを教えるためでした。それは、神様が聖なる方であるということです。そのため、もし神様との関係を求めるなら、あなた自身も清くなければなりません。

けれども、ユダヤ人のクリスチャンたちは、大切なことを理解していませんでした。それは、汚れたものや清いものに関する律法(また、すべての儀式的な律法)が、彼らの神様との関係を象徴するものであることです。

さらに、イエス様がすでに来られたので、彼らはその象徴を必要としなくなりました。なぜなら、イエス様にあって、本体が来たからです。

とにかく、教会が誕生した後、クリスチャンたちの間ではこの議論がありました。ユダヤ人の儀式的な規則に従うべきだと主張する人もいれば、その規則に従う必要はないと主張する人もいました。

コルネリウスに出会う前、ペテロと他のユダヤ人たちは、まだその規則に従うべきだと考えていました。

けれども、神様はその壁を強く打ち壊しました。神様はペテロに幻を示されました。その幻の中で、ペテロはいろいろな汚れた動物を見ました。そして、神様はペテロにこう言われました。

「立ち上がり、屠って食べなさい。」

ペテロは驚きました。もしかすると、神様が彼の忠実さを試していると思ったのかもしれません。そこで、ペテロはこう答えました。

主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。(使徒の働き10:14)

ところが、神様はペテロを厳しく叱責されました。

神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。(15)

ペテロがその重要なポイントを正しく理解するために、神様はその幻を三回繰り返されました。

その後、コルネリウスのしもべたちがやって来て、神様はペテロにこう言われました。

見なさい。三人の人があなたがを訪ねて来ています。さあ、下に降りていき、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。(19-20)

もしペテロがその幻を見ていなかったら、彼はコルネリウスのしもべたちと同行することを拒んでいたでしょう。なぜなら、異邦人の家に入って共に食事をすると、彼は汚れた者になってしまうと考えていたからです。

けれども、ペテロはその幻を覚えていたので、彼らと一緒に行きました。

ペテロがコルネリウスの話を聞き、さらに御霊がコルネリウスとその家族を満たすのを見たとき、教会は大きく変わりました。それは教会の転換点となる出来事でした。

では、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

コルネリウスに対するペテロの言葉を覚えていてください。

神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか、汚れた者であることが言ってはならないことを、示してくださいました。(28)

もちろん、現代では、私たちはユダヤ人の儀式に従うべきかどうかを議論しません。

しかし、私たちはどれほど他の人を見下しているでしょうか。

どれほど私たちは、「その人は救いに値しない」と考えてしまうでしょうか。

さらに、彼らの人種や身分によって、どれほど私たちは人を軽蔑しているでしょうか。

また、過去の傷のために、どれほど私たちは「彼らは神様の赦しに値しない」と思ってしまうでしょうか。

けれども、イエス様は彼らのためにも死んでくださいました。だから、私たちには「あの人は汚れたものだ」と言う権利はありません。

もちろん、コルネリウスのように、その人は罪によって汚れています。しかし、イエス様はどんな人でも清めることができます。

私たちがその人に福音を伝えると、ペテロのように驚くかもしれません。なぜなら、御霊はその人をも満たすかもしれないからです。

あなたはどんな偏見を持っているでしょうか。どんな人に対して苦々しい思いを抱いているでしょうか。

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使徒の働き

イエス様を知らない人はどうなる?

クリスチャンが「天国への道はただ一つしかありません。それはイエス様です。」と言うと、多くの人々はこう尋ねます。

「では、イエス様のことを聞いたことがない人はどうなるのですか?彼らは地獄に行くのでしょうか?」

そのため、多くのクリスチャンは、別の道があるのではないかと疑問に思います。しかし、聖書によれば、救いへの道は他にありません。この話にも、その真理が示されています。

エチオピアの高官(使徒の働き8章)のように、コルネリウスという百人隊長は神様を畏れていました。

コルネリウスは貧しい人々を助け、本当の神に祈っていました。おそらく、彼はイエス様のことを聞いたことがあったでしょう。それでも、イエス様が唯一の救いの道であることはまだ知らなかったようです。

だから、神様はコルネリウスに天使を遣わしました。当然、コルネリウスは恐れました。「なぜこの天使が来たのだろう?私の罪のために、私を裁くのだろうか?」と思ったかもしれません。

ところが、天使はこう言いました。

「あなたの祈りと施しは神の御前に上がり、覚えられています。さあ、あなたはもう救われました。神様との平和を持っています。だから安心してください。」

天使は本当にこのように言ったのでしょうか。福音を聞いていない人が、もし他の方法で救われるのなら、天使はそのように語ったはずです。

けれども、天使はそう言いませんでした。むしろ、コルネリウスの祈りと施しについて語った後、天使はこう言いました。

さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。その人は、シモンという皮なめし職人のところに泊まっています。その家は海辺にあります。(使徒の働き10:5-6)

なぜ天使はコルネリウスにそのことを命じたのでしょうか。それは、コルネリウスが福音を聞いて、救われるためです。

そこで、コルネリウスはその命令に従い、使者を遣わしてペテロを招きました。

ペテロが来て、コルネリウスの話を聞くと、こう言いました。

これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。(34-35)

そして、ペテロはコルネリウスを祝福して帰ったのでしょうか。

本当にそうしたのでしょうか。

違います。ペテロは福音を宣べ伝えました。そして、コルネリウスとその家族は福音を信じ、御霊に満たされました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

天国への道はただ一つしかありません。それは福音を聞き、信じることです。神様はこの話を通して、そのことを明らかにされています。

しかし、福音を聞いたことがない人はどうなるのでしょうか。

彼らが神様に示されたことに応じるなら、神様は彼らに答えてくださいます。

コルネリウスはユダヤ人から神様について聞き、その真理に応じました。エチオピアの高官も同じように応じました。

だから、もし福音が届いていない国で、ある人が神様の創造を見て、創造者が存在することを認め、「創造者よ、自分自身を私に現してください」と願うなら、神様はその願いに応えてくださいます。

神様は正義の方だから。そして、神様は忠実な方だからです。

神様はどのようにしてご自身をその人に現されるのでしょうか。神様は天使を遣わすかもしれません。あるいは、人を送るかもしれません。この話では、神様はその両方を行われました。

私は宣教師のニュースレターで、このような話を読みました。ある人は「いと高き神」を信じていましたが、その神について何も知りませんでした。そこで彼は二十年間、毎日祈りました。

「神様、あなたのことを知る人を私に遣わしてください。」

そして、宣教師が来ると、彼はすぐに信じました。

神様は正義の方です。誰かが本当に神様を求めるなら、神様は必ずその人に福音を聞く機会を与えてくださいます。

だからこそ、「別の方法がある」という考え方を捨てましょう。他の道はありません。だから、主の命令に従い、福音を地の果てまで届けましょう。

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使徒の働き

人を癒し、人を復活させる神

この箇所では、私たちは二つの素晴らしい話を読みます。アイネアとタビタに対するペテロの言葉は特に印象的です。

アイネアは八年間床についていました。彼は回復する希望を完全に失っていたかもしれません。ところが、ペテロは彼にこう言いました。

アイネア、イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。(使徒の働き9:34)

彼は瞬く間に癒され、立ち上がりました。

タビタはすでに亡くなっていましたが、ペテロは彼女にこう言いました。

タビタ、起きなさい。(40)

彼女は目を覚まし、復活しました。

ペテロの言葉はとてもシンプルでした。しかし、現代においても、人々はその言葉を聞く必要があります。

イエス・キリストがあなたを癒してくださいます。

もちろん、イエス様は身体の問題を癒すことができます。けれども、多くの人々は感情的な問題や霊的な問題を抱えています。彼らの心には過去の傷もあり、現在の傷もあります。

だから、彼らは「イエス・キリストがあなたを癒してくださいます」という言葉を聞く必要があるのです。

アイネアを癒してくださったイエス様は、彼らをも癒すことができます。

起きなさい。復活しなさい。

多くの人々は、自分の人生を振り返ると、失われた希望しか見えません。

彼らは離婚を考えています。彼らの未来には光がないように思えます。だから、彼らはイエス様が死んだものを復活させることができると知る必要があります。

彼らは、イエス様が彼らの結婚、未来、希望を回復させることができると知る必要があります。だからこそ、私たちは彼らに伝えなくてはなりません。

「起きなさい。神様に向かうなら、神様はあなたを新しくしてくださいます。」

人々はこの二つのメッセージを聞く必要があります。この世で希望を失いかけている人々に、このメッセージを届けましょう。

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使徒の働き

人々を信じる?

前回のように、この話を読んだとき、私はサウロがクリスチャンになった後、エルサレムのクリスチャンたちが彼にどう反応したかを想像しました。彼らはサウロに会ったとき、どう感じたでしょうか。

というのも、彼らが前回サウロを見たとき、彼はユダヤ人たちがステパノを殺すことに賛成し、自らも多くのクリスチャンを迫害していたのです。

サウロはエルサレムに戻ったとき、まずひそかにクリスチャンたちと話そうとしたのでしょうか。あるいは、神殿に行き、使徒たちに会って「こんにちは。私はクリスチャンになったよ」と言ったのでしょうか。

何年か前、私はアメリカの有名な牧師、ラウル・リースさんの証を聞きました。

クリスチャンになる前、彼は非常に暴力的な人でした。彼は奥さんをたびたび虐待し、ついに彼女は離婚を決意しました。その日、彼は普段より早く帰宅し、奥さんが荷物をまとめているのを見ました。

彼女はクリスチャンで、その時は教会にいましたが、帰宅後すぐに家を離れるつもりでした。

荷物を見たリースさんは、奥さんと子供たちを殺そうと考えました。そして、その後自ら命を絶とうとも思っていました。けれども、待っている間にテレビをつけると、ある牧師が神様の愛について語っていました。

その話を聞いた彼は、涙を流しながらイエス様を主として受け入れました。喜びに満たされ、すぐに家を出て、奥さんを探しに行きました。

しかし、彼は奥さんを見つけられなかったため、家へ戻りました。すると、奥さんが泣いている声が聞こえました。

(そのクリスチャンの番組を見る前、リースさんはいろいろな物や家具をあちこちに投げてしまっていました。)

ドアの鍵がかかっていたため、リースさんはノックしました。ドアチェーンをつけたまま、奥さんはドアを少し開けて「何が欲しいの」と尋ねました。

彼は答えました。「私はクリスチャンになったよ。」

彼女の反応は?

彼女はそのドアを勢いよく閉めました。

けれども、最終的に、彼女はリースさんを家へ入れることを許しました。1〜2年ほどかかりましたが、彼女はずっと彼を見ていて、次第にリースさんが本当に変わったことを信じるようになりました。

これは、サウロに対する使徒たちの反応と同じでした。サウロが「私はクリスチャンになったよ」と言ったとき、彼らは彼を信じようとしませんでした。むしろ、彼らはドアを勢いよく閉めたのです。

しかし、リースさんの奥さんがドアを開けたように、バルナバもそのドアを開きました。

もしかすると、それ以前にバルナバはダマスコでサウロに会っていたかもしれません。あるいは、バルナバにはダマスコに友人がいて、その友人がサウロの話を確認した可能性もあります。

そこで、バルナバはサウロを擁護し、使徒たちに「私はサウロの話を信じる。彼は本当に変わった」と言いました。

おそらく、使徒たちがサウロを本当に受け入れるには時間がかかったでしょう。けれども、彼らは彼を見続ける中で、神様がサウロの人生に働かれていることを理解し始めました。最終的に、彼らもサウロのことを信じるようになりました。

私の要点は何でしょうか。どんなに罪深い人でも、キリストに出会うと変わることができます。だからこそ、私たちは彼らに自分の変化を証明する機会を与えなければなりません。

あなたを傷つけた人がいるかもしれません。彼らはクリスチャンになり、「私は新しい人になった」と言うかもしれません。

それでも、あなたは相手を信じず、距離を取り続けるでしょう。その気持ちはよく理解できます。

けれども、バルナバのように私たちも彼らにチャンスを与えなくてはなりません。

最初から相手を完全に信じる必要はありません。自分の心を守りながら、時間をかけて彼らを見守ることが大切です。そして、神様が彼らの人生に働かれるのを見ながら、少しずつ心を開いていってください。

なぜなら、神様は恵みによって、あなたに何度もチャンスを与えてくださったからです。神様の子どもとして、私たちも周りの人々にそのチャンスを与えるべきなのです。

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使徒の働き

イエス様があなたの人生を変えてくださると

この箇所を読んだとき、私はダマスコの人々がサウロにどう反応したかを想像しました。

サウロがクリスチャンになった後、諸会堂に行き、説教するように頼まれました。

おそらく、諸会堂の指導者たちは、彼がクリスチャンを非難するメッセージを語ると思っていたでしょう。なぜなら、サウロがダマスコに来た目的はクリスチャンたちを捕らえることだったからです。

ところが、彼がイエス様は神の子であり、メシアであると教え始めたとき、諸会堂の指導者たちはどれほど驚いたことでしょう。

彼らは何を考えたでしょうか。最初は戸惑い、サウロがそんなことを教えるとは信じられなかったかもしれません。

もしかすると、「サウロはクリスチャンになったふりをして、彼らを欺こうとしているのではないか。本当に自分が言っていることを信じているのだろうか」と疑っていたかもしれません。

そこで、彼らはサウロと少し議論し始めました。もしかすると、彼らはサウロが弱い議論しかできないと思っていたかもしれません。

けれども、逆に、サウロは彼らを論破してしまいました。そして最終的に、彼らは「サウロは本当にイエス様のことを信じるようになった」と理解するようになりました。

彼らの反応はどうだったでしょうか。彼らはサウロを殺そうとしました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちがイエス様に従い始めると、私たちの家族や親しい人の中には喜ばない人もいます。彼らは私たちの変化した人生を見ると、最初は驚き、何も言わないかもしれません。「ただ一時的なものだ」と言うかもしれません。

しかし、私たちがイエス様に従い続けると、彼らは私たちに反対し始めるかもしれません。

そんなことが必ず起こるとは言えませんが、その可能性はあります。それでも、家族や友人があなたの信仰に反対するなら、それは本当に苦しいことです。

だからこそ、イエス様は私たちに警告されました。

世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。

もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。

しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対してに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。(ヨハネ15:18-21)

イエス様は、私たちがイエス様に従ったとき、すべての人々が私たちを愛するとは決して約束されませんでした。イエス様が約束されたのは、いつも私たちを愛し、私たちと共におられることです。(ヨハネ14:21,23)

さらに、もし家族や友人が私たちを拒絶したとしても、イエス様は私たちがイエス様にある新しい兄弟姉妹を見つけることを約束されました。

だから、失望しないでください。むしろ、この言葉を心に留めてください。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル人への手紙12:2-3)

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使徒の働き

福音を伝えるように選ばれました

昨日、私は「使徒の働き」の三つの話を通して、神様の選び、人間の選択、そして私たちが行って福音を伝える責任が、どのようにともに働くのかを説明しました。

この話は、その二つ目の例です。

あるパリサイ人、サウロは、キリストに対して頑なな心を持ち、キリスト教を根絶しようとしていました。

もし神様がサウロをそのまま放置されていたなら、彼は滅びに至っていたでしょう。しかし、神様はサウロの人生に介入されました。

なぜでしょうか?それは、神様がサウロを救うことを選ばれたからです。神様がアナニアに語られたとき、私たちは神様の選びをはっきりと見ることができます。

神様がアナニアに「サウロのもとへ行き、助けなさい」と命じられたとき、アナニアは驚いて答えました。

「え?本当に?あの男はクリスチャンたちを迫害しようとしているのに。」

神様の答えは?

行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。(使徒の働き9:15)

神様の答えは、すでに救いのために人々を選ばれているなら、私たちは福音を伝えなくてもよいという考えを否定するものです。(昨日の記事でも、同じ点に言及しました)。

アナニアがそのようなことを神様に言うところを、想像できますか。

「では、あなたがすでにサウロを選ばれたのなら、私は彼のもとへ行く必要はないでしょう?」

もしアナニアがそんな愚かなことを言っていたら、神様はどのように答えられたでしょうか。きっと、神様はアナニアに対して非常に厳しく怒られたでしょう。なぜでしょうか。神様はアナニアに「行きなさい」と命じられたからです。

同じように、神様は私たちに「行きなさい」と命じられます。

もちろん、神様は私たちの助けを必要とされません。それでも、多くの場合、神様は私たちを通して人々を救うことを選ばれます。

神様は私たちに御国の鍵を渡されました。もし私たちが行かず、福音を伝えないなら、天国の門は人々に対して閉ざされたままとなるでしょう。

この話ともう一つの話を読む際に、一つ注意してください。イエス様はサウロに直接語られ、天使は百人隊長コルネリウスに直接現れました。それでも、神様はご自身の民を遣わし、その二人に語らせました。

そのように、神様は私たちが行き、福音を伝えることを求めておられます。

ピリポは、神様によってエチオピア人のもとへ遣わされました。

アナニアは、神様によってサウロのもとへ遣わされました。

そしてサウロは、ユダヤ人や異邦人のもとへ行き、福音を伝えるように選ばれました。

あなたも、この世の民のもとへ行き、福音を伝えるように選ばれています。

ある人がかつてこう問いかけました。

「God」という言葉の最初の二文字は何でしょうか。「Go」。

「Satan」という名前の最初の三文字は何でしょうか。「Sat」。

私たちはただ座っているのではなく、この世の民のもとへ行き、福音を伝えましょう。

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使徒の働き

私たちが行かないと

使徒の働きの三つの話では、神様が人を救うことを選ばれること、その人自身の選択、そして私たちが神様の証人として福音を伝える責任が、互いに働き合う様子を見ます。

多くの人々は、神様の選びと人間の選択がどのように関係しているのか疑問に思います。つまり、もし人々が神様の選びによってのみ救われるのであれば、神様が選ばれなかった人が裁かれるのはなぜでしょうか。

また、もし神様がすでにある人を選ばれているのなら、なぜ私たちはその人に福音を伝える必要があるのでしょうか。

私はすべての疑問に答えることはできません。しかし、この三つのことが真実であることは確かです。

この話の登場人物のひとりに、エチオピアの高官がいました。彼はイスラエルの神について聞き及び、神様を礼拝するためにエルサレムを訪れていました。

注意すべき点があります。ルカによれば、その人物は神様を信じて礼拝していました。けれども、神様は「彼はイエスのことを知らないが、それでも問題ない。私のことを知り、一生懸命に礼拝しているのだから、それで十分だ」とは言われませんでした。

むしろ、神様はピリポに天使を遣わされました。その天使はピリポに行くべき場所を示しました。そして、ピリポがそのエチオピア人を見たとき、聖霊様は「彼のもとへ行きなさい」と命じられました。

すると、ピリポはそのエチオピア人がイザヤ書53章を読んでいるのを耳にしました。特に、彼はイエス様についての預言を読んでいました。そこで、ピリポは彼に尋ねました。

「あなたは、読んでいることを理解していますか。」(使徒の働き8:30)

そのエチオピア人の答えは、私の心を深く打ちました。

導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか。(使徒の働き8:31)

それを読んだとき、私はパウロの言葉を思い起こしました。

しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。

聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。

宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(ローマ書10:14)

その答えはどうでしょうか?人々は聞くことも、信じることも、呼び求めることもできないのです。もちろん、そのエチオピア人にもできませんでした。そこで、彼はピリポを馬車に招きました。そして、旅の途中でピリポは福音を説明しました。

福音を聞いたそのエチオピア人は、イエス様を信じて洗礼を受けました。そして、彼は福音のメッセージをエチオピアへ持ち帰りました。

実際、現代のエチオピアのクリスチャンたちの起源は、このひとりのエチオピアの高官にまで遡ります。

ここで、三つの重要なポイントがあります。

1.救われるためには、人々は福音を聞き、信じる必要があります。もし神様を畏れる人が福音を聞く必要がないのであれば、神様はわざわざピリポをそのエチオピア人に遣わさなかったでしょう。

パウロも、この問いを投げかけました。

遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。(ローマ10:15)

答えは前と同じです。彼らは宣べ伝えることができません。しかし、神様がピリポを遣わされたように、神様は私たちをも周りの人々のもとへ遣わしてくださいます。

2.神様は確かにそのエチオピア人を救うことを選ばれました。

ピリポが来るまで、彼は福音を聞く機会がなかったため、滅びの道を歩んでいました。けれども、神様は働かれ、福音を聞く機会を与えてくださいました。

もし神様がそうされなかったなら、彼は滅びていたでしょう。

3.その人は福音を信じることを選ばなくてはなりませんでした。彼が信じたからこそ、救われたのです。

では、この三つのことはどのようにともに働くのでしょうか。どのようにしてこの三つのことのバランスを取るのでしょうか。私には分かりません。しかし、神様はすべてをよくご存じです。だから私は、それを神様に委ねます。

では、私の要点は何でしょうか。

行きなさい。

そのエチオピア人と同じように、多くの人々は滅びの道を歩んでいます。そのエチオピア人と同じように、多くの人々はイエス様について聞く必要があります。そして、神様がピリポを遣わされたように、神様は私たちも遣わされます。

だから、イエス様の言葉を心に留めましょう。

ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)

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使徒の働き

賜物

多くの人々がキリスト教について理解していないことのひとつは、私たちが持っているすべてのものが神様からの賜物であるということです。私たちの持ち物だけでなく、命さえも神様からの賜物です。

しかし、私たちにとって最も素晴らしい賜物は、救いです。神様は私たちを罪の刑罰とその力から救い、聖霊様を通して私たちのうちに住んでおられます。

私たちがこの受けた恵みを実感すると、人生は完全に変わります。どんな状況に置かれていても、神様の愛を知り、自分がどれほど祝福されているかを理解することができます。

残念なことに、今日の話に登場するシモンという人物は、その教訓を決して学びませんでした。

ピリポが来る前、シモンは権力と名声を持っていました。彼は奇跡のような業を行っていましたが、その力は神様からのものではありませんでした。それでも、彼はその力を持っていたために、自分を偉大な人物だと誇り、サマリアの人々も彼をそう信じていました。

ところが、ある日ピリポがやって来ました。彼は一般の人でしたが、聖霊様に満たされていました。そして、シモンの業と比べると、ピリポの奇跡のほうがはるかに偉大なものでした。

そのため、サマリアの人々はシモンから離れ、ピリポの言葉に耳を傾け、最終的に主を信じるようになりました。

シモン自身もイエス様を信じるようになりました。とはいえ、彼が本当にクリスチャンになったのかどうかは分かりません。もしかすると、彼は本当にクリスチャンになったのかもしれませんが、彼の態度と行動を見ると、そうとは言い切れません。

控えめに言っても、彼は恵みについてまったく理解していませんでした。つまり、私たちは神様の恵みを得るために何かをすることはできません。ただ感謝をもって、その恵みを受け取ることができるだけなのです。

そのため、シモンはペテロとヨハネが手を置くことで御霊が人々に与えられるのを見たとき、自分もその力を求め、ペテロとヨハネに対してその力を買いたいと申し出ました。

しかし、ペテロは彼にこう答えました。

おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。おまえが金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ。おまえは、このことに何の関係もないし、あずかることもできない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。

だから、この悪事を悔い改めて、主に祈れ。もしかしたら、心に抱いた思いが赦されるかもしれない。おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ。(使徒の働き8:20-23)

私たちが神様の恵みを正しく理解できなければ、どうなるでしょうか。

1.私たちは傲慢になります。神様から受けたものは自分にふさわしいと考え始めます。そして、他のクリスチャンが自分にないものを持っていると、私たちは羨ましく思い、苦々しい気持ちを抱くようになります。

シモンはまさにそのような人物でした。ピリポが来る前、彼は有名人でした。けれども、ピリポやペテロ、ヨハネと比べると、彼は決して特別な存在ではありませんでした。

彼は再び名声を得たいと願い、名声を失ったことで苦々しい思いを抱き、ペテロ、ヨハネ、ピリポを妬むようになりました。そこで彼は、神様の賜物を買おうとしました。それは神様の栄光のためではなく、自分の栄光のためでした。

一部のクリスチャンも、シモンと同じ問題を抱えています。その一方、別のクリスチャンたちは正反対の問題を抱えています。

2.私たちは、自分に価値がないと思ってしまいます。自分の罪が深すぎるために、神様でさえ私たちを救うことができないと考えてしまうのです。また、神様の賜物を受けるに値しないと感じてしまいます。

もしシモンが本当にクリスチャンだったなら、ペテロに叱責された後、正反対の問題に陥っていたかもしれません。

ペテロの厳しい叱責を受けたことで、彼は直接神様のもとへ行き、赦しを願うことができないと感じたかもしれません。そのため、彼はペテロに「私のために祈ってください」と頼みました。

しかし、へブル人への手紙の著者はこう言いました。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(へブル4:15-16)

神様の恵みに値する人は、誰もいません。だから、神様から受けた賜物によって誇ることなく、周りの人の賜物を妬まないようにしましょう。

けれども、同時に、私たちは神様の賜物を受けるに値しないにもかかわらず、神様は喜んで良い賜物を自分の子どもたちに与えてくださることを覚えておきましょう。

これから、恵みの意味を深く学んでいきましょう。

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使徒の働き

喜びを分かち合う?

この箇所では、クリスチャンたちはエルサレムを離れ、キリストによる喜びを広げ始めました。とはいえ、彼らはエルサレムから押し出される必要がありました。

ステパノが殺された後、サウロというパリサイ人がクリスチャンたちを迫害し始めました。

皮肉なことに、サウロはキリスト教を根絶しようとしましたが、その迫害によってキリスト教はかえって広まり、多くの新しい教会が生まれました。

その後、クリスチャンになったサウロは宣教者として教会を訪れて強め、さらに多くの新しい教会を設立しました。その結果、キリスト教はローマ帝国全体に広がっていきました。

けれども、もし使徒たちが初めから使命を忠実に果たしていたなら、神様はこの迫害を許されたでしょうか。イエス様は彼らに命じられました。

あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)

そして、イエス様は天に帰られる直前に、弟子たちにこう言われました。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

それでも、御霊が彼らの上に臨んだ後も、使徒たちはエルサレムにとどまり続けました。

もしイエス様の命令通りに彼らがエルサレムを離れていたなら、教会は迫害を受けたでしょうか。また、使徒たちは隠れなければならなかったでしょうか。

そうかもしれません。けれども、もしかすると彼らはその困難を避けることができたかもしれません。

迫害が始まっても、使徒たちはなおエルサレムにとどまり続けました。なぜだったのでしょうか。それははっきりとは分かりません。

彼らは教会の人々に自らの勇気を示したいと思ったのかもしれません。しかし、主の命令への不従順は続いていました。

一方、ほかのクリスチャンたちはエルサレムを離れました。

執事のひとりであるピリポは、サマリアへ行きました。イエス様はかつてサマリアを訪れましたが、多くのユダヤ人はサマリアを避けていました。彼らはサマリア人を軽蔑していたからです。

けれども、ピリポはイエス様の模範に従い、サマリアで福音を述べ伝え、奇跡を行いました。その結果はどうだったでしょうか。

その町には、大きな喜びがあった。(使徒の働き8:8)

自己中心になるのは簡単なことです。自分のことだけを考えるのは、誰にとっても容易なことです。しかし、イエス様が望まれるのは、私たちが受けた喜びを周りの人々と分かち合うことです。

多くの人々が苦しんでおり、イエス様を必要としています。だからこそ、私たちは毎日御霊に満ち溢れるべきです。そうするならば、私たちが周りの人々に触れるとき、彼らは御霊に触れられ、変えられるのです。

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使徒の働き

神様を拒絶するパターン

この箇所では、私たちは教会の最初の殉教者を見ることができます。それはステパノでした。

6章では、使徒たちがやもめの世話をするために7人の執事を任命しました。ステパノはその執事の一人でした。

しかし、彼がイエス様の言葉を述べ伝えたとき、宗教的指導者たちは彼と対立しました。ステパノは逮捕され、最高法院の前に立たなくてはなりませんでした。そこで、多くの証人が彼に偽りの告発をしました。

ステパノが自ら弁解するとき、彼はイスラエルの歴史を詳しく語りました。その中心的なポイントは、ユダヤ人たちが何度も、彼らを救うために神様が遣わした人々を拒絶してきたことです。

ヨセフの兄弟たちはヨセフを奴隷として売りましたが、何年か後、飢饉の際にヨセフは彼らを救いました。

イスラエルの民もまたモーセを拒絶しました。彼が王子であったとき、彼らはモーセを受け入れず、エジプトを脱出した後も彼に反抗しました。

彼らが神様の約束の地に入った後も、そのパターンは続きました。彼らは預言者たちの言葉を拒絶し、偶像を礼拝しました。

そして、彼らはイエス様を拒絶し、殺しました。

それでも、彼らはなお「私たちは神様の民だ」と言い張りました。なぜなら、彼らは神殿で神を礼拝していたからです。

ところが、ステパノは彼らにこう言いました。

しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っているとおりです。

「天はわたしの王座、地はわたしの足台。あなたがたは、わたしのためにどのような家を建てようとするのか。 ーー主の言葉ーー 私の安息の場は、いったいどこにあるのか。わたしの手が造ったものではないか。」(使徒の働き7:48-50)

要するに、「もしあなたが、あなたを救うために神様が遣わした方を拒絶するなら、あなたが神殿で礼拝しても、それは無意味です。」ということです。

最高法院の人々の反応はどうだったでしょうか。彼らは先祖のパターンに従いました。彼らはステパノを殺しました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生のパターンは何でしょうか。あなたは宗教的な人かもしれません。毎週教会に行き、良い行いをしているかもしれません。

それでも、もしあなたがイエス様を主と神として拒絶し、福音を伝える人々を拒絶するなら、あなたの良い行いは神様の目には無意

味です。むしろ、かつて神様とそのメッセンジャーを拒絶した者たちと同じように、あなたは裁かれることになります。

救いへの道はただ一つ、それはイエス様です。今日、あなたはイエス様を受け入れませんか。

天のお父様、私は罪を犯しました。私は自分の道を歩み、あなたが遣わされたイエス様を拒絶してきました。どうか赦してください。

イエス様、あなたが私の罪のために死んでくださったことを感謝します。私はあなたを主と救い主として受け入れます。

あなたの御霊で私を満たしてください。毎日どのように生きるべきかを教えてください。あなたの名前によって祈ります。アーメン。

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使徒の働き

牧師たちやリーダーたちができないこと

最初の教会は、成長の過程で多くの困難に直面しました。この箇所では、その一例を見ることができます。

教会の重要な役割の一つは、貧しいメンバーのニーズに応えることでした。けれども、教会が次第に大きくなるにつれて、その働きの責任も大幅に増えていきました。

初めのころ、使徒たちは寄付を集め、食糧を配給していました。そのため、バルナバとアナニアは自分の畑を売り、その代金を使徒たちに渡しました。

しかし、クリスチャンの数が急増し、使徒たちはこの働きを適切に管理できなくなっていきました。

さらに、ヘブル語を話すユダヤ人のやもめたちは食糧を受け取れていましたが、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちは十分な配給を受けていませんでした。

なぜでしょうか。使徒たちが意図的にギリシア語を話すやもめを差別したとは考えにくいですが、おそらく彼らは忙しすぎて、その働きを十分に行うことができなかったのでしょう。

では、彼らが取った解決策とは何だったのでしょうか。

私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。

その人たちにこの務めを任せることにして、私たちは祈りと、みことばの奉仕に専門します。(使徒の働き6:2-4)

彼らがそのように行動したことで、神様の言葉はさらに広まり、教会は急速に成長し続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。一つの重要な教訓があります。

牧師やリーダーだけでは、教会のすべての役割を果たすことはできません。

多くの場合、私たちはミニストリーの働きをすべて専門の人々に任せてしまいます。けれども、私たちは皆キリストの体です。私たち一人ひとりが自分の役割を果たすべきです。

その役割を果たすために、私たちは聖霊に満たされなくてはなりません。

教会の働きが十分に機能していないと、多くの人が不満を抱き、リーダーを批判することがあります。しかし、私たちが日々聖霊に満たされ、自分の役割を忠実に果たすなら、リーダーの負担を軽減することができます。

その結果、彼らは神様から与えられた使命に集中し、より良くその働きを進めることができるのです。

私たち自身は、自分に与えられた役割を果たしているでしょうか。

もう一つ大切なポイントがあります。牧師たちは自分自身に問いかけるべきです。「神様は、私に何を求めておられるのだろうか?」と。

そして、その使命を果たすために、どの役割を手放さなくてはならないかを考えなくてはなりません。

さらに、彼らは聖霊に満たされた人々を育てる必要があります。そうすれば、そのメンバーたちは、牧師やリーダーが果たしきれない役割を担うことができるのです。

牧師やリーダーだけでは、すべてのミニストリーの役割を担うことはできません。

私たち一人ひとりが(牧師であれ、一番新しいクリスチャンであれ)そのことを学ぶなら、神様の教会は成長していきます。ところが、それを学ばなければ、神の国の広がりは止まってしまいます。

あなたはどうでしょうか。自分に与えられた役割を果たしていますか。

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使徒の働き

止められない

この箇所を読むとき、「止められない」という言葉が思い浮かびます。使徒の働きではなく、聖霊様の働きは決して止められません。

使徒たちはさまざまな奇跡を行い、福音を述べ伝えました。その結果、神の国に入る人々はますます増えました。

祭司長たちはそれを見て、使徒たちに妬みを抱きました。もしかすると、彼らはこう思っていたかもしれません。

「私たちは祭司長であり、神様の代表者なのに、どうして神様は私たちではなく、イエス様の弟子たちを通して働いておられるのだろうか。」

しかし、おそらく彼らは心の中で、その答えをすでに知っていたでしょう。使徒たちを責めたとき、彼らはこう言いました。

おまえたちはエルサレム中に自分たちの教えを広めてしまった。そして、あの人(つまり、イエス様)の血の責任をわれわれに負わせようとしている。(使徒の働き5:28)

彼らはイエス様の死の責任を逃れたいと思いました。なぜでしょうか。

おそらく、復活の後、彼らは「私たちは間違っていたのだろうか?まさかイエス様が本当にメシアだったのだろうか。」と思ったことでしょう。

もちろん、多くの祭司長たちやパリサイ人たちの考えは変わりませんでした。それでも、7節によれば、イエス様がメシアであることを信じるようになった祭司たちもいたのです。

とにかく、最高法院の人々はもう一度使徒たちを逮捕し、彼らを責めました。使徒たちは、すでにイエス様の名によって教えないように命じられていたにもかかわらず、教え続けたからです。

ペテロの答えは驚くべきものでした。

人に従うより、神に従うべきです。

私たちの父祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスを、よみがえらせました。神は、イスラエルを悔い改めさせ、罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に上げられました。

私たちはこれらのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊も証人です。(29-32)

21世紀のクリスチャンにとって、その言葉は特に不思議なものではありません。

けれども、その言葉に祭司たちとサドカイ人たちは面食らったことでしょう。彼らは宗教的な指導者でありながら、復活を信じていませんでした。

さらに、ペテロは、復活したイエス様を通して、神様がイスラエルに悔い改めを促し、罪の赦しを与えると語りました。

そして彼らは、聖霊様の働きこそが、自分たちの言葉の真実を証明するものだと述べました。

バプテスマのヨハネが現れるまでの400年間、誰も聖霊様の働きを目にすることはありませんでした。しかし、使徒たちによれば、聖霊様は預言者や祭司だけではなく、イエス様を信じるすべての人の上に注がれています。

さらに、使徒たちは、聖霊様に満たされているはずの祭司たちにそのことを告げました。

そのため、祭司たちや最高法院の人々は、その言葉を受け入れることができませんでした。彼らは使徒たちを殺そうと考えましたが、ガマリエルというパリサイ人が立ち上がり、こう言いました。

この者たちから手を引き、放っておきなさい。もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう。

しかし、もしそれが神から出たものなら、彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすると、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。(38-39)

私は前にも言いましたが、祭司長たちは自分が間違っていたのかどうか疑い始めていたでしょう。ガマリエルの言葉に対する彼らの反応は、その疑いを示しています。

もし彼らがイエス様を偽のメシアだと確信していたなら、使徒の働きが神様から出た可能性を認めることはできなかったでしょう。

けれども、彼らにはその疑いがあったため、使徒たちを釈放しました。そして使徒たちは、イエス様がメシアであることを教え続けました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。神様の民が聖霊様に満たされるなら、その働きは決して止められません。

社会の状況を見れば、絶望するかもしれません。迫害を受ければ、私たちは大きな苦しみを味わうかもしれません。しかし、たとえ敵が私たちを苦しめても、私たちが聖霊様に満たされるなら、神様は私たちを用い、神様の国を広げてくださいます。

だからこそ、失望しないでください。むしろ、聖霊様の力によって、大胆に神様からの使命を果たしましょう。

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使徒の働き

罪の深刻さ

使徒の働きの中でも、これは最も衝撃的な出来事かもしれません。けれども、この話は罪の深刻さを明らかにしています。

バルナバという人物は、自分の畑を売り、その代金を使徒たちに渡しました。そのお金は貧しいクリスチャンたちを助けるためのものでした。

おそらく、使徒たちや他のクリスチャンたちはその姿を見て、バルナバを称賛したことでしょう。

(実は、バルナバの本名はヨセフでした。ヨセフがその代金を捧げた後、クリスチャンたちは彼をバルナバ、つまり「慰めの子」と呼び始めたのかもしれません。)

アナニアとサッピラというクリスチャンたちは、皆の反応を見て、自分たちも土地を売り、その代金の一部を使徒たちに渡しました。ところが、そこには問題がありました。彼らは気前の良い人に見えましたが、その動機は不純だったのです。

問題は、彼らが代金の一部だけを捧げたことではありませんでした。ペテロによれば、それは彼らの自由な選択だったのです。

もし50%を捧げても、それは問題ではなかったでしょう。もし10%しか捧げなくても、それでも問題はなかったでしょう。

後に、パウロは献金についてこう書きました。

一人ひとり、いやいやながちでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(第二コリント9:7)

簡単に言えば、神様は私たちがどれほどの額を献げるかを気にされるのではなく、私たちの心がどれほど神様に属しているかを見ておられます。

アナニアとサッピラの心がどれほど神様に属していたかは分かりませんが、確かに100%ではありませんでした。彼らはお金に執着し、また、人々の称賛を求めました。

そのため、彼らは嘘をつきました。ただペテロに対して嘘をついたのではありません。教会の人々だけを欺いたのでもありません。彼らは神様に対して嘘をついたのです。

もしかすると、それは単なる嘘ではなかったかもしれません。彼らはモーセの律法に従い、誓いを立ててその代金を捧げた可能性があります。(レビ記27:28)

その場合、もし彼らがその代金の一部を自分のために取っておいたなら、彼らはその誓いを破ることになります。神様はその罪を深刻に捉え、アナニアとサッピラを打ち滅ぼされました。

この刑罰は厳しいものだと思われるかもしれません。確かに、それは厳しい刑罰でした。

とはいえ、心に留めておきましょう。私たちはある罪を小さいと思うかもしれませんが、神様にとっては、その罪は非常に深刻なものです。

もしかすると、アナニアとサッピラは、「これはほんの小さな嘘だ。誰も傷つかない」と思っていたかもしれません。

けれども、小さな罪は私たちの心の状態を表します。アナニアとサッピラの罪は、彼らの偽善、貪欲、嫉妬、そしてプライドを明らかにしました。

さらに、私たちにとっては、小さな嘘をつくのは些細なことのように思えるかもしれません。しかし、イエス様がその罪のために死ななければならなかったほど、それは深刻なものだったのです。

あなたは「些細な」罪を犯しているでしょうか。

神様の目には、その罪は決して些細なものではありません。だからこそ、自分の心を探ってください。

その罪は、あなたの心の状態について何を示しているでしょうか。

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使徒の働き

一致、力、と恵み

教会はどのような存在であるべきでしょうか。この箇所では、私たちは良い模範を見ることができます。

一致

さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。(使徒の働き4:32)

現代の教会は同じことを言えるでしょうか。2000年前のクリスチャンたちは、心と思いを一つにしました。彼らは、自分が所有しているものを自分のものだとは考えませんでした。むしろ、それらは主のものであると見なしました。

だから、兄弟姉妹に必要があれば、彼らはそのニーズに応えました。その結果、クリスチャンの間には、飢える人がいませんでした。

しかし、今は多くのクリスチャンがそのように考えていません。十一献金についてのメッセージを聞くと、「でも、それは私のお金だ」と言います。「十一献金は旧約聖書の時代のものだった。それは私には関係ない。」

正直に言えば、十一献金は確かに旧約聖書の時代の制度でした。

それでも、「あなたのお金」は、実際にはあなた自身のものではありません。神様があなたに才能や健康な身体を与えてくださったから、あなたはお金を稼ぐことができるのです。つまり、そのお金は神様のものです。

使徒の働きの時代、クリスチャンたちはその真理を認め、神様からいただいたものを惜しみなく分かち合いました。その結果は。。。

恵み

大きな恵みが彼ら全員の上にあった。(33b)

もちろん、神様は直接私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちを赦し、多くの祝福を与えてくださいます。しかし、神様は私たちがその恵みのパイプラインとなることを望んでおられます。

私たちは、自分が受けた恵みを周りの人々と分かち合うべきです。けれども、もし私たちが自己中心的になり、その恵みを分かち合うことを拒むなら、そのパイプラインは詰まり、流れが滞るようになります。

一方で、私たちが自分自身から目を離し、周りの人々を愛するなら、教会の中で恵みは豊かに溢れます。

使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし(ました)。(33a)

その力によって、彼らはいろいろな奇跡を行い、彼らの証しが世界を大きく変えました。

同じ御霊は、現代においてもその働きをなすことができます。だからこそ、私たちはそのために祈るべきです。癒しの奇跡だけではなく、変えられた人生という奇跡のためにも祈るべきです。

つまり、聖書を伝える人が話すとき、私たちは、聖霊様が彼らを通して力強く働くように祈るべきです。

聖霊様の力が伴わなければ、牧師のメッセージは意味を失ってしまいます。そのため、私たちは聖霊様が私たちの牧師たちを満たし、彼らを通して語られるように祈りましょう。

それだけではなく、聖霊様が私たち自身を満たし、私たちを通して働かれるように祈りましょう。なぜなら、私たちも神様の祭司だからです。

一致、恵み、そして力。

2000年前の教会のように、現代の教会もこの三つのことで満たされますように。

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使徒の働き

御霊に満たされ続く

この箇所を読むと、二つのことに気づきました。

第一に、御霊に満たされることは一度きりの経験ではありません。むしろ、神様の民は何度も御霊に満たされました。この箇所でそのことが分かりますし、使徒の働きの中でも何度も確認できます。

第二に、御霊に満たされることには特別な目的があります。この箇所では、その目的が二つ示されています。つまり、大胆さと力です。

ルカは最高法院の人々について、こう記しています。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

少し考えてみてください。ペテロとヨハネは逮捕され、一晩中拘束されました。 そのため、彼らが最高法院の前に引き出されたとき、宗教的な指導者たちは彼らが恐れるだろうと予想しました。

ところが、ペテロとヨハネは大胆にイエス様のことを伝え、聖書を引用しました。さらに、彼らは驚くべき言葉を語ったのです。

この方(イエス様)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(12)

彼らは世間一般の漁師でした。特別な宗教的な教育を受けたわけではありませんでした。それでも、彼らは力と大胆さをもって、そのことを語りました。

さらに、宗教的な指導者たちがどれほど彼らを迫害しても、ペテロとヨハネを黙らせることはできませんでした。

また、宗教的な指導者たちは、イエス様の空っぽのお墓を説明できず、癒された足の不自由な人の奇跡を否定することもできなかったため、ペテロとヨハネの言葉に反論することができませんでした。

そこで彼らは協議を重ねた後、ペテロとヨハネを再び脅し、イエス様の名によって語ることも教えることも禁止しました。

しかし、ペテロとヨハネは再び大胆に答えました。

神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。

私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。(19-20)

宗教的な指導者たちはそれを聞くと、さらに二人を脅しましたが、結局は彼らを釈放しました。

ペテロとヨハネは、仲間のクリスチャンたちと再会すると、共に祈りました。特に、すべての人々がイエス様こそメシアであることを知るために、神様がクリスチャンたちに大胆さと力を与えてくださるように祈りました。

そのあと、

集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。(31)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

第一に、イエス様のためにこの世に影響を与えたいと思うなら、私たちの中に聖霊の臨在が必要です。

私たちはただの一般人かもしれませんが、聖霊を通して大胆さと力を持つことができ、神様は私たちを通して素晴らしい働きをされます。

しかし、私たちはどれほどその大胆さと力を欠いているでしょうか。私はその感覚がよく分かります。自分の欠点と弱さを知って、自信を持てないことも多くあります。

だからこそ、私たちは皆、聖霊に満たされ続けなければなりません。

私たちは御霊の器ですが、そこには多くのひびが入っています。私たちは疲れることもあります。世のものに心を奪われてしまうこともあります。絶望することもあります。

だから毎日、さらに毎秒、神様の働きをするために聖霊様に満たされなければなりません。

聖霊様、私はあなたを必要とします。どうか毎日私を満たしてください。この世の民はあなたを本当に必要としています。だから、あなたの働きをするために、私を力と大胆さで満たしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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使徒の働き

祝福を受けることができる前

多くの人々は、神様からの祝福を願います。

実際、神様は、自分の子どもに贈り物を与える愛に満ちた父です。神様の子どもとして、私たちは祝福を期待することができます。

けれども、その祝福を受ける前に、私たちがすべきことがあります。ペテロはユダヤ人たちにこう言いました。

ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。。。

モーセはこう言いました。

「あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。

彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。その預言者に聞き従わない者は誰でも、自分の民から断ち切られる」。。。

神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなた方一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。(使徒の働き3:19-20、22-23、26)

つまり、ペテロはこう語っていたのです。

「モーセ自身が、『モーセのような一人の預言者が来る』と言いました。そして、モーセは『あなたがたはその預言者に聞き従わなければならない。そうしなければ、あなたがたは自分の民から断ち切られる』とも語りました。

その預言者はすでに来られました。イエス様こそ、その預言者です。だから、イエス様の言葉を聞いて悔い改めなさい。

あなたを祝福するために、神様はイエス様を遣わしてくださいました。しかし、まずあなたがたが悔い改めなければなりません。そうすれば、イエス様があなたがたの罪をぬぐい去り、回復の時、そして祝福の時が訪れます。」

ペテロはこの言葉をユダヤ人たちに語りましたが、この言葉は私たちにも当てはまります。

神様はまずイエス様をユダヤ人たちのために遣わしましたが、同時に、神様は私たちのためにもイエス様を遣わしてくださいました。そして、イエス様がユダヤ人たちを祝福されたように、私たちも祝福してくださいます。

けれども、その前に、私たちは悔い改めなければなりません。自分の道を歩み続けることはできません。私たちはイエス様に聞き従わなければならないのです。

そうしなければ、決して神様からの祝福を知ることはできません。それどころか、神様の民から断ち切られ、神様の国に入ることもできません。

多くの人々は神様からの祝福を望みますが、自分の道を歩み続けたいと思います。自分勝手な条件でその祝福を望みます。しかし、本当に祝福を望むなら、自分勝手な条件ではなく、神様の条件に従う必要があります。

もちろん、救いも同じです。自分勝手な条件では、救いを得ることはできません。つまり、良い行いによって救いを得ることはできないのです。むしろ、イエス様とその十字架の働きを信じることが必要です。

ただイエス様への信仰によって、あなたは神様に義と認められます。

そして、救いを得た後も、私たちは同じ原則に従って生き続けます。もし、自分の道を歩むなら、神様からの祝福を期待することはできません。私たちは神様の道を歩まなければならないのです。

では、私たちは何とかしてその祝福を得るために努力しなければならないのでしょうか。違います。私たちは決してそんなことはできません。

とはいえ、神様は私たちの信仰を求めておられます。私たちは神様に従うほどに、神様を信じるでしょうか。それなら、私たちはその祝福を知ることができます。

ノアが箱舟を作ったとき、その教訓を学びました。

アブラハムがカナンに行ったとき、その教訓を学びました。

ダニエルが王の食べ物を拒絶したとき、その教訓を学びました。

聖書の時代でも、現代でも、多くの人々がその教訓を学びました。

あなたは神様からの祝福を求めていますか。

あなたはどれほど神様を信じていますか。自分の道をやめて、神様の道を歩むほどに、神様を信じていますか。

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使徒の働き

私たちじゃない

ペテロとヨハネに癒された乞食が歩き始め、跳びはね、大きな声で神様を賛美すると、周りの人々は驚きました。なぜなら、その人は約40年間、歩くことができなかったからです。ところがすぐに、人々はペテロとヨハネをぽかんと見つめ始めました。

すると、ペテロは彼らにこう言いました。

イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や、敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。。。

このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。

イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。(使徒の働き3:12,16)

ペテロの言葉の中に、私たちは本当に大切なことを見いだします。

私たち自身は、自分の人生の中心ではありません。大切なのは私たちではなく、私たちができることでもありません。

大切なのは、イエス様です。大切なのは、イエス様が十字架で成し遂げられた御業です。そして、大切なのは、今イエス様が行っておられることです。

ペテロが高慢な態度で、「私たちを見てみなさい。すごいでしょう?神様は私たちに素晴らしい力を与えてくださった。私たちは本当に恵まれているでしょう?」と自慢するのは、簡単だったでしょう。

しかし、ペテロはそうせず、イエス様を示しました。ペテロとヨハネではなく、イエス様がその人を癒されたと指摘しました。

また、ペテロが強調したのは、その奇跡を見た人々がペテロとヨハネを信じて褒めるのではなく、イエス様を信じ、イエス様を褒めたたえるべきだということです。なぜなら、イエス様は彼らのために死なれたからです。

さらに、モーセと他の預言者たちは、イエス様を指して「イエス様に聞きなさい」と語りました。

けれども、多くのクリスチャンはイエス様に焦点を当てず、自分自身に目を向けてしまいます。自分の霊的な賜物に注目し、自分ができることに意識を向け、自分が得た誉れに心を奪われてしまうのです。

その結果、自分のいのちの目的を見失ってしまいます。

それは、イエス様を知り、周りの人々にイエス様を指し示すことです。

もし自分自身にばかり焦点を当てるなら、私たちは神様が私たちに与えようとしているいのちや喜びを理解することができません。

あなたはどうでしょうか。何に焦点を当てていますか。何のために生きていますか。誰のために生きていますか。

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使徒の働き

神様の働きに加わる?

正直に言うと、神様は私に人に触れる機会を何度も与えてくださるのに、私はその機会を何度も逃してしまいます。なぜでしょうか。それは、私が自分の予定に集中しすぎてしまうからです。

例えば、私は買い物に行って誰かに出会っても、挨拶だけしてすぐに買い物に戻ってしまいます。時には本当に時間がないかもしれません。

とはいえ、なぜ私はその人と約束をしなかったのでしょうか。むしろ、多くの場合、私は心の中で言い訳をし、すぐに立ち去ってしまいます。

今日の箇所では、乞食の前を通り過ぎるとき、ペテロとヨハネが同じように言い訳をするのは簡単だったでしょう。なぜなら、彼らはちょうど神殿へ向かっている途中でした。彼らには神様を礼拝する予定がありました。だから、乞食と話す時間がなかったはずです。さらに、彼らにはお金が全くありませんでした。

そのため、乞食を無視するのは本当に簡単なことだったでしょう。

また、「ごめん、お金がない」と言って、そのまま立ち去ることも簡単だったでしょう。

けれども、彼らはそうしませんでした。彼らは立ち止まり、その人を見つめました。

そして、自分たちができないこと(つまり、お金を渡すこと)を気にせず、聖霊様ができることを示しました。

ペテロはこう言いました。

金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい。(使徒の働き3:6)

そして、ペテロはその乞食の手を取って立たせました。すると、その乞食は突然歩き始め、跳びはね、神様を賛美し始めたので、皆は驚きました。

あなたはどうでしょうか。自分の予定に集中しすぎて、聖霊様が何をしたいのかを見逃してはいないでしょうか。

自分の限界に意識を向けすぎて、聖霊様が何をすることができるのかを見落としてはいないでしょうか。

毎日、聖霊様の導きに従って歩みましょう。聖霊様がどのように働かれるのかを見て、その導きに従い、その働きに加わりましょう。

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使徒の働き

ひとつになって、ひとつにする

今日、私はこの箇所を締めくくろうと思いますが、44節と46節の「一つになって」と「心を一つにして」という言葉は、私の心を打ちました。

この言葉は、42節と関係があると思います。つまり、クリスチャンたちは交わりに専念していました。

彼らは他のクリスチャンとの関係を大切にしていたので、積極的に共に時間を過ごそうと努めました。けれども、ただ宮に集まっただけではなく、彼らは自分の家にも集まりました。そして、週に一度ではなく、毎日集まりました。

さらに、彼らは本当に互いに愛し合いました。だから、貧しい兄弟姉妹を常に助けました。

そして、彼らは心を一つにしました。

では、彼らは決して喧嘩しなかったのでしょうか。それは違うと思います。

彼らはいつも意見が一致していたのでしょうか。おそらく、そうではなかったでしょう。

けれども、最終的に彼らは、相手の違いを受け入れ、兄弟姉妹として見なすことができました。彼らは互いに必要であると認め、さらにその関係に専念しました。

クリスチャンが新しい夫婦にアドバイスを与えるとき、しばしばこう言います。

「困難な時にも、この関係を守ろうと努めなさい。相手に対するコミットメントはとても大切です。だから、喧嘩するときも、傷つけられるときも、努力してその関係を守りなさい。」

もちろん、その通りです。

しかし、どれほど多くのクリスチャンが他のクリスチャンと喧嘩し、その関係を捨ててしまうでしょうか。

神様は私たちにこう言われます。

「兄弟姉妹との関係を守りなさい。私はあなたにそのようなコミットメントを望んでいます。」

それにもかかわらず、私たちはこのことをほとんど考えようとしません。辛いときも、喧嘩するときも、傷ついたときも、神様は私たちに忠実なコミットメントを求めておられます。

結婚と同じように、クリスチャンの交わりにはコミットメントが必要です。そして、苦労も伴います。けれども、そのコミットメントを持てば、素晴らしい報いがあります。

そのようなコミットメントがあれば、私たちは祝福されます。さらに、この世の人々は、私たちの互いの愛を見て、イエス様に惹かれるでしょう。使徒の時代にも、そのようなことが起こりました。

神様の民の愛と一致、そして彼らの間で働かれる神様の力によって、教会は成長しました。ルカはこう記しています。

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(使徒の働き2:47)

確かに、教会の中にはさまざまな問題があります。教会が人間によって成り立っている限り、問題があるのは当然です。

なぜなら、イエス様は完全な人々のために来られたのではなく、霊的に病んでいる人々のために、また、傷ついた人々のために来られたからです。

牧師や他のリーダーたちが失敗することもあります。教会では、人が人を傷つけることもあるでしょう。

それでも、その関係にコミットメントを持ち続けますか。あなたのプライドを脇へ置き、困難の中でも人間関係の問題に向き合うでしょうか。イエス様のためにそうしませんか。

主の言葉を心に留めておきましょう。

私はあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34-35)

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使徒の働き

共に祈ることに専念する?

正直に言うと、最近の記事を振り返ったとき、私は教会をやめた人に対して厳しすぎたのではないかと思いました。私には、はっきりと分かりません。

誰かに傷つけられて教会をやめた人がいることは、よく知っています。だから、ある程度まで、私は彼らに共感できます。

とはいえ、教会をやめることは、良い解決策ではありません。

相手を許すことは、大変であり、とても難しいことです。しかし、もし私たちが本当にイエス様を愛し、従いたいと思うなら、その教訓を学ばなければなりません。なぜでしょうか。

一つ目の理由は、苦々しい思いや怒りを抱いて相手を許さないことが、聖霊様を本当に悲しませるからです。(エペソ4:29-32)

もちろん、もしあなたが聖霊様を悲しませるなら、天の父とイエス様も悲しまれるでしょう。

二つ目の理由は、私たちが許さないなら、この世の人々にどんなメッセージを伝えているでしょうか。結局、私たちは彼らと全く変わりません。

とにかく、傷ついた人には多少共感できますが、私は神様のみ言葉に対して頑なな心を持つ人に全く同意できません。

また、キリストのからだ(つまり、教会)が不要だと思う人にも、私は全く同意できません。

パウロの言葉を借りるなら、彼らは手や足に向かって「私はあなたを必要としない」と言っているのです。(第一コリント12章21節)

けれども、パウロでさえ、そのようなことを主張することはありませんでした。

少し考えてみてください。

パウロはローマ帝国内で神様のために働き、福音を述べ伝えました。だから、パウロは毎週同じ教会に行くことができませんでした。彼は一つの教会について「これは私の教会だ」と言うことはできませんでした。

それでも、パウロはクリスチャンとの交わりを大切にしていました。彼は常に他のクリスチャンたちと時間を過ごしたいと願っていました。(ローマ1:10-12;第二コリント1:15-16;ピリピ1:8)

なぜでしょうか。パウロは彼らを祝福したいと願ったからです。(ローマ1:11;第二コリント1:15)

パウロは、彼らが自分を必要としたと認めました。

さらに、パウロ自身が彼らを必要としたと認めました。

特に、パウロは彼らの祈りが必要でした(エペソ6:19-20;コロサイ4:3;第一テサロニケ5:21;第二テサロニケ3:1-2)。

また、パウロは彼らの励ましが必要でした。(ローマ1:12)

「私は、教会を必要としない」と言う人は、とてもわがままだし、高ぶっています。

どうして私は彼らを「高ぶる」と呼ぶでしょうか。私たちはお互いを必要としますから。

どうして私は彼らを「わがまま」と呼ぶでしょうか。仮に、彼らが私たちを必要としないと思っても、私たちは彼らを必要としますから。私たち皆は、キリストの体に役割を持ちます。

とにかく、使徒の働きの箇所に戻りましょう。この箇所によれば、そのクリスチャンたちは祈りに専念しました。

でも、この箇所によれば、彼らは自分の部屋で、一人で祈っていたわけではありません。もちろん彼らはそうしましたけど、ルカのポイントは、彼らが一緒に祈っていたことです。

(ところで、ルカは使徒の働きを書いたでしょう。(ルカの福音書1:1-4;使徒の働き1:1-2))

なぜ、他のクリスチャンと共に祈ることが大切なのでしょうか。

一番の理由は、そうすることで、私たちは自分の心を神様の御心に調和させるだけでなく、相手の心にも調和させることができるからです。イエス様は、私たちが一つになるように祈られました。(ヨハネ17:20-21)

共に祈ることで、私たちは一つになります。

教会の初期から、共に祈ることはクリスチャンの習慣でした。(使徒の働き1:14)

クリスチャンが一致すると、神様の国のために素晴らしい働きができます。

けれども、もし私たちが喧嘩し、「あなたを必要としない」と言ってしまえば、私たちは弱くなり、何もできなくなります。サタンはそれを見て、きっと喜ぶでしょう。

だから、そのような考え方を捨てましょう。キリストの教会として、一致を求めましょう。

全てのことに同意する必要はありません。

私たちのミニストリーの方法が異なるかもしれません。それでも構いません。

しかし、私たちの愛を伝えましょう。そして、「あなたを必要としている」と伝えましょう。

そうすれば、サタンの国は崩れ、私たちの人生においてイエス様がほめられます。また、天の父もほめたたえられます。

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使徒の働き

主の体を軽んじる?

教会をやめた人について考えると(前回の記事を読んでください)、私はもう一つのことを思い出しました。それは聖餐式のことです。

残念なことですが、多くのクリスチャンは聖餐式が何を意味するのか、何を象徴するのかについて深く考えません。

使徒の働き2:42では、ルカは使徒の時代のクリスチャンについて次のように書きました。

彼らはいつも。。。パンを裂き「ました」。

もしかすると、ルカは、彼らがただ一緒に食事をしたことを意味していたのかもしれません。しかし、第一コリント11章によれば、教会では、しばしば聖餐式がその食事の時間の一部でした。

聖餐式とは何でしょうか。それは十字架のことを思い出すことです。その前の晩、弟子たちと食事をしたとき、イエス様はパンを裂いて、こう言いました。

これはあなたあたのための、わたしのからだです。私を覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:24)

そして、イエス様は杯を取って、こう言われました。

この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。(第一コリント11:25)

一つのことに注意してください。聖餐式は、クリスチャンが共に行うものです。私たちはパンを裂き、分け合います。なぜでしょうか。

理由の一つは、私たち全員がキリストの体に属しているからです。イエス様を信じるすべての人のために、イエス様は十字架で死なれました。イエス様は、あなたが好きなクリスチャンだけのために死なれたわけではありません。

少し考えてみてください。最初の聖餐式のその瞬間、弟子たちは本当に互いに愛し合っていたでしょうか。

その直前、彼らは「誰が一番偉いか」について議論していました。弟子たちの間で、誰も皆の足を洗おうとしなかったため、イエス様は自らその役目を担われました。

さらに、彼らの人格について考えてみてください。

例えば、「熱心党員」と呼ばれていたシモンとマタイのことを思い出してください。イエス様に出会う前、シモンはローマ帝国に反抗しようとしていました。けれども、同じくイエス様に出会う前、マタイはローマ帝国のために働いていました。

彼らは本当に親友だったでしょうか。

そんな難しい関係があったので、イエス様は彼らに命じなければならなかったでしょう。「互いに愛し合いなさい。」

もし彼ら全員がとても親しい関係を持っていたら、イエス様はそのことを言う必要がなかったでしょう。

しかし、聖餐式を共にするとき、彼らは思い出しました。「私たち全員はイエス様に属しています。私たち全員は、イエス様にあって、一つです。」

だから、パウロはコリントの人々に怒りました。彼らはいつも喧嘩し、どのリーダーが一番偉いかを議論していました。

それに、彼ら全員はキリストの体に属していたのに、金持ちは貧しい人々を見下しました。ところが、彼らを見下すことで、実は金持ちはイエス様の教会を軽んじていました。(第一コリント11:22)

だから、パウロはこう言いました。

したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(第一コリント11:27)

主のからだと血に対して罪を犯すとは、どういう意味でしょうか。その人々は、イエス様が捧げられた血とからだを軽んじ、罪を犯しました。

彼らは基本的にこう言いました。「イエス様、あなたがその人のために死んでくださったことは知っています。でも私は、それを気にしません。私自身は、その人とは全く関係がありません。」

そのような態度を持つなら、あなたは主のからだ、つまり主の教会に罪を犯すことになります。なぜなら、そのクリスチャンが好きでも嫌いでも、その人はイエス様のからだに属しているからです。

だから、相手に怒るとき、相手が嫌いなとき、相手と争うとき、聖餐式に参加するなら、あなたの相手に対する態度を改めなければなりません。

だから、パウロはこう言いました。

だれでも、自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい。(第一コリント11:28)

この箇所の文脈に従えば、それは、あなたが兄弟姉妹との関係を吟味しなければならない、という意味です。

残念なことですが、教会をやめる人々はそうしません。もし彼らがまだ聖餐式に参加するなら、彼らは好きな人とだけ一緒に行います。

彼らは悪い人間関係を全く吟味せず、相手と和解を求めません。むしろ、彼らはその人を避けます。しかし、そうするなら、彼らはキリストのからだと血を軽んじてしまいます。

もしあなたが「私はまだクリスチャンだけれど、教会をやめた」と言うなら、自分自身にこの質問をしてみてください。

「一対一で、私がやめた教会の人々と聖餐式を行う機会があれば、私はその機会を活かすだろうか。そのとき、私たちはこう言えるでしょうか。

『イエス様と天の父が一つであるように、私たちは一つです。私たちの一致によって、この世は、天の父がイエス様を遣わしたことを理解するでしょう。』」(ヨハネ17:21-23)

あなたがまだ教会に行っているとして、どのように聖餐式を行っているでしょうか。兄弟姉妹との関係は良好でしょうか。もしくは、あなたはイエス様のからだと血を軽んじているでしょうか。

心に留めておきましょう。イエス様はあなただけのためではなく、あなたが軽蔑しているクリスチャンのためにも死なれました。だから、その関係を吟味し、その人に対するあなたの態度を改めるべきです。

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クリスチャンの交わりに専念する?

この記事は前回の記事の続きです。前回の記事では、私は教会をやめる人について話しました。

彼らの一つの不満は、教会で訓戒されることに飽きたということです。また、彼らは「もう知っている」という態度を持っていました。

今日は、さらに重要な問題について話したいと思います。おそらく、多くの人々が教会をやめる理由は、説教ではなく人間関係にあるでしょう。つまり、リーダーやほかの教会のメンバーたちと気が合わないということです。

私の友人が掲載した記事を読んだとき、私は少し混乱しました。その記事でインタビューされたクリスチャンの一人はこう言いました。

「人間関係の問題のせいで、私は教会をやめるわけではありません。私はかっとして急にやめたわけではありませんでした。私は、教会をやめる決断をじっくり考えました。」

けれども、その記事には、その人が教会をやめた理由が書かれていません。

その人は、人間関係の問題を控えめに語っています。しかし、記事(とコメント欄)を読むと、多くの場合、人間関係の問題こそが教会をやめる根本的な理由であることが明らかになります。

ある人々は、教会の方向性について、リーダーたちに賛成できませんでした。

ある人々は、リーダーたちの行動を批判しました。

ある人々は、教会に愛が欠けていると不満を述べました。

そのため、彼らは教会をやめてしまいました。

けれども、使徒の時代のクリスチャンたちは、そのようにはしませんでした。

新改訳では、翻訳者たちは「守り」(別訳:「専念」)という言葉を使徒たちの教えだけに結び付けています。

しかし、ほとんどの英訳では、「専念」という言葉を「使徒たちの教え」だけではなく、交わり、パンを裂くこと、祈りにも結び付けています。

したがって、この箇所を次のように翻訳できます。「彼らはいつも。。。(クリスチャンの)交わりに専念していました。」

つまり、彼らはクリスチャンの交わりに熱心でした。

私の友人の一人は、その記事を読んでこう言いました。

「まあ、私はもう教会に行かないけれど、クリスチャンの友人がいて、私たちは霊的な成長や個人的な成長のために、互いに励まし合っていますよ。」

彼らが本当にそうしているのなら、それは素晴らしいことだと思います。とはいえ、具体的に彼らは何を意味しているのでしょうか。一週間に一度くらい電話をするのでしょうか。一か月に一度?一年に一度?

彼らはその友人と時間を過ごし、互いに話し合い、励まし合い、もし必要があれば訓戒し合っているでしょうか。彼らにとって、それをすることは優先度が高いのでしょうか。

彼らは一緒に祈ることに専念しているでしょうか。

彼らは一緒にパンを裂いているでしょうか。

もしかすると、彼らはまず仕事や家族、学校を優先し、時間があればほかのクリスチャンとの時間を割いているのでしょうか。

しかし、使徒の時代のクリスチャンたちは交わりを優先していました。

信者となった人々はみな一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。

そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし(ました)。。。(使徒の働き2:44-46)

彼らは交わりに熱心だったので、毎日宮に集まりました。彼らは家々で時間を過ごしました。そして、他のクリスチャンたちのニーズを満たしました。

その結果は?

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(47)

教会はなぜ成長したのでしょうか。イエス様はその理由を私たちに説明されました。イエス様は弟子たちにこう言いました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:35)

少し注意してください。イエス様は「あなたがたがすべての人々に対する愛があるなら、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」とは言いませんでした。

イエス様は「互いの間に愛があるなら…」と言われました。

もちろん、私たちは教会の外の人々を愛するべきです。また、私たちは教会の人々だけを愛することに焦点を当てるべきではありません。私たちは教会の外にいる人々と関わるべきです。

とはいえ、この世の人々が私たちを見るとき、私たちが喧嘩し、怒り合い、許し合わず、苦々しい思いを持っているのを見たなら、彼らはどう思うでしょうか。

次のような会話を想像してみてください。あなたが友人にイエス様のことをずっと伝えていたとします。そして、彼らが「じゃあ、あなたの教会に行きたいと思うけど」と言います。

けれども、あなたは「実は、私はもう教会に行っていない」と答えます。

彼らが「どうして?」と訊いたら、あなたはどう答えるでしょうか。

「まあ、人間関係の問題があって。。。」

「少しリーダーたちと教会の方向性について言い争いをしてしまったので。。。」

相手はそれを聞いて、どう反応するでしょうか。イエス様が教会を愛し、その教会のために死なれたのに、あなたがその教会の悪口を言ったら、彼らはクリスチャンになりたいと思うでしょうか。

第一ヨハネ4:20を少し言い直すと、あなたの心に強く響くかもしれません。

「神を愛すると言いながら兄弟との交わりを拒むなら、その人は偽り者です。見える兄弟との関係を断つ者に、目に見えない神を愛することはできません。」

もし、教会の兄弟姉妹との交わりを拒むなら、あなたは神様を愛していると主張できるでしょうか。もしその関係を断つなら、あなたは本当に神様を愛していると言えるでしょうか。

友人を愛することは簡単です。

兄弟姉妹に欠点があっても、あなたは彼らを愛するでしょうか。

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み言葉に専念する?

数年前、私の友人はFacebookで記事を掲載しました。そのタイトルは「教会をやめた人」でした。

その記事には、ある敬虔なクリスチャン—つまり、聖書をよく学び、惜しげもなく献金をささげ、熱心に人々を導いていたクリスチャンが、教会をやめてしまったという話が書かれていました。

その人は信仰を捨てたわけではなかったようです。それでも、教会を去りました。その人は「教会の中で、私は最も積極的な人の一人だったし、最も忠実な人の一人だった」と言っていたにもかかわらず、教会をやめました。

その人はいくつかの理由を挙げていたので、私は今後数日にわたり、そのことについて話したいと思います。

正直に言えば、私の愛する人々がその著者の意見に同意すると聞くと、本当に悲しくなります。

その著者の最初の理由は、「私は牧師のメッセージを何百回も聞いたので、もうわかっているし、訓戒されるのはもう嫌だ」ということでした。

けれども、この箇所では、教会の模範、またクリスチャンの生活の模範が示されています。

今日は、一つのことに焦点を当てたいと思います。

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り[ました]。(使徒の働き2:42)

新改訳では、「使徒たちの教えを守る」と書かれていますが、「守る」と訳された言葉にはさまざまな意味があります。

そのため、翻訳者は使徒の働き1:14で、その言葉を「専念する」と訳しました(これは第3版です)。

また、使徒の働き6:4では、その言葉を「励む」(第3版)、または「専念する」(第4版)と訳しています。

要するに、この箇所を次のように訳すことができます。「彼らはいつも使徒たちの教えに専念しました。」

多くの英語の聖書では、42節はこのように翻訳されています。

とにかく、初期のクリスチャンたちは神様の言葉に熱心でした。彼らはその言葉を知りたいと願いました。彼らはその言葉に従いたいと思いました。

だから、「訓戒されるのはもう嫌だ」と言う人に、私はこう訊きたいと思います。

「あなたはみ言葉にどれだけ専念しているでしょうか。聖書が本当に神様のみ言葉であると信じていますか?使徒の働きの時代のクリスチャンのように、あなたはみ言葉に対する強い熱心を持っていますか?

それとも、聖書の教えはもう古臭いと感じていますか?その教えはあなたの人生に関係ないと思いますか?」

もちろん、説教する際に人を見下す牧師もいます。彼らは「すでに到達した」という態度を示すかもしれません。その場合、私は教会をやめた人の言い分を理解できます。

とはいえ、それは本当の問題でしょうか。

少し自分自身に、次の質問をしてみてください。

「私が聖書を読んで、聞きたくないことを目にしたとき、私は訓戒されていると感じるだろうか。」

残念ながら、多くのクリスチャンは聖書を読むとき、好きな箇所だけを選び、聞きたくない言葉が含まれる箇所を避けてしまいます。

その結果、教会に行くと「私は訓戒されている」と感じてしまうのです。

しかし、私たちがクリスチャンなら、み言葉に専念しなければなりません。励ましや慰めの言葉であれ、挑戦や訓戒の言葉であれ、私たちはそのすべてに専念すべきです。

「何百ものメッセージを聞いたし、もうわかっている」という言い分に関して、私たちは自分自身に同じような質問をするべきだと思います。

聖書を読むとき、私はもう何も学ぶことがないのでしょうか。すでにすべてを読んだから、すべてを知っているのでしょうか。それとも、神様は今もなお、その言葉を通して私に語り続けておられるのでしょうか。

正直に言うと、「もう全部読んだことがあるし、メッセージの内容を聞いたことがある」という感覚はよくわかります。それでも、二つのことを伝えたいと思います。

一つ目は、私が40年来のクリスチャンですが、今でも学び続けているということです。聖書を読むときや、日曜日のメッセージを聞くとき、神様が私に新しいことを示してくださることもあります。その時、私は本当に興奮します。

二つ目は、あなたは同じことを何回も聞いたことがあるかもしれません。けれども、その言葉に従っていますか?その言葉は、あなたの頭から心へと移動したでしょうか。

例えば、あなたは許しのメッセージを何回も聞いたことがあるでしょう。でも、あなたを傷つけた人をすでに許してあげましたか?

また、怒りや苦々しい思いを手放すことの大切さについて聞いたことがあるでしょう。その怒りと苦々しい思いを、もう手放しましたか?

要するに、あなたの人生の中で、神様の言葉は生きていて、力を持ち、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を分けるほどに刺し貫き、あなたの心の思いや計画を見分けていますか。(へブル4:12)

それとも、その言葉はあなたの左の耳に入り、右の耳から抜けていくのでしょうか。

もちろん、私はあなたの経験をよく知りませんし、教会をやめた人の経験も知りません。

もし、あなたの牧師がいつも皆さんを見下しながら説教しているのなら、別の教会に行った方がいいかもしれません。

しかし、それが本当の問題でしょうか。

あるいは、問題は神様のみ言葉に対するあなたの態度にあるのでしょうか。

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福音のメッセージ

この箇所では、私たちは最初の本格的な福音の説教を読むことになります。

それ以前、すべての説教はイエス様の死と復活の前に伝えられました。したがって、それらの説教はまだ不完全でした。

しかし、ペテロがこの説教をしたとき、イエス様はすでに旧約聖書にある救いに関する預言をすべて成就されていました。だから、ペテロは群衆に宣言しました。

神が今や主ともキリストともされたこのイエスをあなたがたは十字架につけたのです。(使徒の働き2:36)

それを聞いて、心を刺され、群衆は答えました。

「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」(37)

ペテロは彼らに言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして、遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

簡単に言えば、それは福音のメッセージです。

まず、私たちは罪を悔い改めなければなりません。もう自分の道を歩むのではなく、神様の道を歩み始めなければなりません。

私たちは自分の道を歩んできたために、神様や周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいました。そのことを認めなければなりません。

「主よ、私は自分の道を歩むことにもう飽きました。その道の中で、私は本当に苦しみました。けれども、あなたは私を愛してくださり、十字架で私の罰を受けてくださいました。だから、これから私はあなたに従いたいと思います。私はあなたを信頼し、従います。」

バプテスマは、その決断のしるしです。バプテスマを通して、あなたはこう言います。

「私の古い生活に対して死にます。「私の道」に対して死にます。そして、私は新しい人としてよみがえります。イエス様の血によって、私の罪は清められ、聖霊の力によって、私はこの新しい人生を歩みます。」

御霊という約束は、最も素晴らしい賜物です。なぜなら、聖霊様は神であり、私たちのうちに住んでおられるからです。私たちはもはや神様から離れていません。今や、神様と親しい関係の中に生きています。

そして、私たちが神様と共に歩めば歩むほど、聖霊様は私たちの傷を癒し、私たちを新しくしてくださいます。神様は、私たちのために計画された人生を示してくださいます。実は、神様は私たちを造られる前から、そのプランをすでに考えておられました。

永遠の命は、天国では始まりません。永遠の命は今から始まります。

それは福音のメッセージです。そのメッセージを信じ、受け入れましたか。もし、上記の祈りを初めて祈ったなら、ぜひコメント欄で教えてください。

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この同じ御霊

私にとって、聖霊様が来て、教会を力で満たされた日のことを想像するのは少し難しいです。激しい風のような響きが聞こえ、炎のような舌が一人ひとりの上に留まる光景は、非常に不思議で神秘的なものでした。

そして、御霊に満たされ、彼らはエルサレムの道に出て、学んだことのない言語で神様を賛美しました。

周りの国々から来たユダヤ教の改宗者たちは、その賛美を自分の言語で聞き、とても驚きました。私が彼らの立場なら、私も驚いたことでしょう。「不思議だな。これは何なのだろう?」

しかし、ペテロはこう言いました。

これは、預言者ヨエルによって語られたことです。

「神は言われる。終わりの日に、わたしは、すべての人にわたしの霊を注ぐ。

あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。

その日わたしは、私のしもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ。すると彼らは預言する。。。」(使徒:16-18)

そしてペテロが福音を伝え、その日に3000人の人々が救われました。

そんな話を読んで、多くのクリスチャンは問いかけます。「どうして現代ではそんなことが起こらないのだろうか。どうして現代に聖霊様はそのように働かないのだろうか。」

しかし、聖霊様は現代でもそのように働くと私は思います。ペテロはこう言いました。

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(38-39)

ペテロによれば、聖霊という賜物はペテロの世代だけのためではありません。ペテロは、彼らの子孫にも聖霊様が与えられると言いました。

それだけではなく、聖霊様はすべての国民に与えられるとも言いました。つまり、主が召してくださったすべての人々は聖霊様を受けます。

例えば、14年前、私の牧師の人生が混乱していたとき、神様は彼に夢を見させました。その夢によって、私たちの教会は始まりました。

振り返ると、神様は何度も私の周りの人々を通して私に語りかけてくださいました。

私が人生のために神様の御心を求めていたとき、ある日、私の祈りを知らない私の友人が突然こう言いました。

「ブルース、なぜか私はあなたが事務職をすることが想像できません。あなたはミニストリー向きだと思います。」

さらに、神様が私に直接語りかけたり、私の人生にさまざまなことをなさったので、私は快適なハワイの生活を捨てて、日本に引っ越しました。

私は確信をもって、聖霊様のおかげで日本に来たと言えます。

実は、私は聖霊様の導きをもっともっと必要としています。

正直に言えば、私はよく自分の力と知恵によってミニストリーを行っています。けれども、そのように生きることはもう望んでいません。2000年前にクリスチャンたちが聖霊様に満たされたように、私も聖霊様に満たされたいのです。

あなたはどうですか。

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使徒の働き

私たちの心を知っておられる神

この箇所では、マッティアが使徒として選ばれ、ユダの務めを引き継ぎました。

ある人々は、ペテロや他の弟子たちが勝手にマッティアを任命したと考えています。つまり、神様はマッティアではなくパウロを選びたかったのだ、と主張するのです。

その人々によれば、イエス様がパウロに現れて彼を使者として任命したとき、実はパウロがユダの務めを引き継いだのだそうです。

私もかつてはそう考えていましたが、今はそう思いません。なぜなら、第一コリント15:5で、パウロはマッティアを12人の使徒の一人として認めていたからです。

イエス様が復活された後、ユダに現れることはなかったため、この文脈ではパウロがマッティアについて言及していたのでしょう。

それに、パウロが使徒として任命されたにもかかわらず、彼はこう言いました。「私は使徒の中で最も小さい者です。私は使徒と呼ばれるに値しない者です。」(第一コリント15:9)

もう一つ注意すべき点があります。それはユダの死です。マタイの福音書27章によれば、祭司長はユダが返した銀貨を受け取り、畑を購入しました。そしてユダは出て行って首を吊りました。

しかし、使徒の働きによれば、ユダ自身が地所を購入し、真っ逆さまに落ちて、体が真っ二つに裂けたと記されています。どうやって、その2つの話を調和できるでしょうか。

アケルダマ(その畑の名前)はベン・ヒノムの谷にあります。たぶん、ユダは崖の上で首を吊ったでしょう。そして、ユダの死体が腐敗し始めている間に、その綱は切れたかもしれません。だから、その死体は谷に落ちて、その畑に着地しました。

それを聞いて、祭司長たちはユダの代わりに、その畑を買ったでしょう。なぜなら、彼らは「そのお金は血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない」と言ったからです。(マタイ27:6)

でも、それは今日の要点ではありません。

興味深いのは、使徒たちがユダに彼らと同じ務めを割り当てられていたと認めたことです。つまり、ユダは他の弟子たちと共に二度の宣教旅行に行き、福音を述べ伝えたり、悪霊を追い出したり、病人を癒したりしました。(ルカ9-10章)

とはいえ、イエス様はユダの心をよくご存じでした。ユダがさまざまな素晴らしい働きをしても、彼の心は真にイエス様のものではありませんでした。そのため、彼は最終的に暴露され、追い出されました。

その後、神様に属する心を持つ者がユダの務めを受け継ぎました。

私は何を言いたいのでしょうか。

私たちがミニストリーに携わっているなら、毎日自分の心を探らなければなりません。私たちの動機を吟味しなければなりません。私たちの心が本当に神様のものかどうか、試さなければなりません。

私たちはイエス様の御名によってさまざまな良いことを行うことができます。私たちのミニストリーを通して人々が救われるかもしれません。

しかし、神様は私たちの心を見抜かれます。もし私たちの心が神様の目にかなわないなら、最終的に神様は私たちの務めを取り去り、別の人に与えます。

そして、もっと恐ろしい可能性もあります。

もしかしたら、私たちはイエス様にこう言うことになるかもしれません。

主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡をおこなったではありませんか。(マタイ7:22)

ところが、イエス様は私たちにこのように答えられます。

わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。(マタイ7:23)

あなたの心はどうですか。あなたは本当に自分の心をイエス様に捧げたでしょうか。

もしかしたら、良いクリスチャンのふりをしているかもしれません。もしそうなら、結局あなたの務めは取り去られ、ほかの人に与えられるでしょう。

あなたの心は、誰のものでしょうか。

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使徒の働き

イエス様の再臨を待つ

イエス様が天に上っていくのを目にするのは、本当に驚くべき光景だったでしょう。だから私は、弟子たちが口をぽかんと開けて、イエス様が見えなくなるまで空を見つめていたことがよく理解できます。もし私がその場にいたなら、同じことをしていたでしょう。

しかし、そのとき二人の天使が現れて、彼らにこう言いました。

ガラリヤの人たち、どうして天を見上げて、立っているのですか。

あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒の働き1:11)

その言葉から、私たちは二つのことを学ぶことができます。

一つ目は、私たちの希望の理由です。この世は混乱し、ますます悪化しているように見えますが、イエス様は必ずこの世に戻られます。その日、イエス様はすべてを新しくされます。

二つ目は、イエス様が戻られるまで、私たちには果たすべき重要な使命があるということです。

おそらく、天使たちが伝えたかったのは、「ここにただ立ち尽くしているのではなく、イエス様の言葉に従いなさい」ということだったのでしょう。

弟子たちはまずエルサレムに行き、御霊を待つ必要がありました。もし私たちがミニストリーを志すなら、まず同じように、御霊を待つことから始めるべきです。

前回の記事で述べたように、私たち自身の力には限界があります。しかし、聖霊に満たされた人は、この世を変えることができます。

だから、この世を見渡すとき、ただ不平不満を言うだけではなく、ただ天を仰ぎながらイエス様の再臨を待つだけでもなく、むしろ、聖霊に満たされて、神様の言葉に従いましょう。

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ルカの福音書 ルカ24章 使徒の働き

世界を変える力

それでは、福音書に関する最後の記事です。そして今日から、使徒の働きについてお話しします。

以前気づいていたかどうかわかりませんが、おそらく使徒の働き1:4で、ルカはルカの福音書24:49を参照しているでしょう。その箇所では、イエス様は弟子たちに「聖霊様が来るまで、エルサレムで待ちなさい」と命じられました。

その後、およそ40日が経ち、イエス様は弟子たちをベタニヤ、つまりオリーブ山へ連れて行かれました。

オリーブ山に立っていた時、弟子たちはゼカリヤの預言を覚えていたかもしれません。ゼカリヤの預言によれば、国々がイスラエルを征服した後、主はオリーブ山に降り立ち、その国々と戦って、世の王となられます。(ゼカリヤ書14章)

もしかすると、彼らはその預言を思い出し、それを確かめるためにイエス様に尋ねたのかもしれません。

主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。(使徒の働き1:6)

しかし、イエス様はこのように答えられました。

いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威を持って、定めておられることです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:7-8)

多くの人々はイエス様がいつ戻られるのかを気にします。もちろん、イエス様の再臨のしるしに注意を払うことは重要ですが、それ以上に、イエス様が戻られるまでの間に私たちはイエス様から受けた使命に目を向けなければなりません。

それは何でしょうか。それは、福音を宣べ伝えることです。私たちはイエス様の証人となるべきです。

では、イエス様の証人になるとはどういうことでしょうか。

基本的に、それは私たちが見たこと、聞いたこと、そして知っていることを伝えることです。

イエス様があなたの人生にどのように働かれたかを伝えるべきです。あなたが教会で学んだことや、聖書から得た教えを周りの人々に分かち合うべきです。そうすれば、私たちはこの世を変えることができます。

とはいえ、私たち自身の中には世を変える力はありません。私たちの言葉だけでは、人の心を変えることはできません。

むしろ、私たちの内に住んでおられる聖霊様こそが、ご自身の力によってこの世を変えることができます。私たちの力では何も成し遂げることはできません。

だからこそ、イエス様は弟子たちに「あなたたちはすべてのことを知っているから、行きなさい。この世を変えなさい」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らにこう言われました。「聖霊様が来るのを待ちなさい。聖霊によるバプテスマを受ける時、あなたがたは力を受けます。その後、行きなさい。」

私たちはしばしば、自分の力と知恵によってミニストリーをしようとします。そうすると、多くのことを成し遂げるかもしれません。

けれども、本当にこの世界を変えたいと願うなら、聖霊によるバプテスマが必要です。私たちは聖霊様の力に満たされるべきです。なぜなら、人間の力や知恵には限界があるからです。

一方で、神様には限界がありません。

聖霊様、どうか私を満たしてください。 私はしばしば、自分の知恵と力によってミニストリーをしようとしてしまいます。けれども、あなたから離れては私は何もすることができません。

私はもう、自分の力や知恵に頼ることに疲れました。だから、聖霊様、私を満たしてください。あなたのためにこの世に影響を与えるために、力を与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。