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列王記第一 歴代誌第一4

私たちの目的を達成する

これはダビデについての最後の脚注です。すこし驚くべきことですが、パウロはこの脚注を私たちに与えました。

その時、ピシデヤのアンテオケで、パウロはユダヤ人たちにイエス様の死と復活について話していました。そのメッセージの中で、パウロはダビデについて語っていたのです。

ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死ん「だ」。(使途の働き13:36)

もし私が亡くなったら、皆にそのようなことを私について言ってほしい。

ブルースはその生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んだ。

私たちはダビデの人生について読み、ダビデの良い時も、悪い時も、ダビデの成功も、失敗も見てきました。また、ダビデの神様に対する深い愛や、ダビデの酷い罪をも目にしてきました。

けれども、結局のところ、パウロはダビデについてこう語りました。

ダビデは神様のみこころに仕えた。

私はもう。。。歳です。もし神様の御心なら、私にはまだたくさんの年が残されているでしょう。

私は良い時もあれば、悪い時もありました。成功した時も、失敗した時もありました。神様を心を尽くして愛した時も、罪に陥った時もありました。

それらの経験は、私が死ぬまで続くはずです。

しかし、天国で神様にやっとお会いできたとき、何よりも欲しいものが一つあります。それは、神様が私にこう言われることです。

「よくやったよ。あなたは忠実なしもべでしたよ。私が頼んだことのすべてをあなたはしてくれました。」

神様が私たち皆にそう言ってくださることを願っています。

私はこの世を去るとき、
私の人生について、
私の周りの人々は結局何を思い出すでしょうか。

彼らは私が家族を愛したと言うでしょうか。
私が忠実な友達だったと言うでしょうか。
私が神様の御子について伝えるために生きたと言うでしょうか。
私の人生が終わる時。

彼らは私がイエス様の帰りを待ち望んだと言うでしょうか。 私が救い主の顔とその微笑みを見て、
「よくやった」と聞きたかったと言うでしょうか。
私の人生が終わる時。

ーージェフ·ムーア

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歴代誌第一4

すべての物はどこから来たか

ある日、私はスポーツのドキュメンタリーを見ました。アメリカン・フットボールの選手ランダル・カニングハムについてでした。彼はクリスチャンですが、本当にその信仰が試されました。

彼は引退した後、牧師になりました。そして、自分の家の裏庭にはプールとスパがありました。カニングハムのスパの中で、多くの人々が洗礼を受けました。

けれども、ある日、カニングハムとその妻が出かけている間、彼らの友達がカニングハムの二歳の息子と留守番をしていました。

カニングハムが帰宅すると、その息子がスパで溺れて亡くなっていたことを知りました。

ドキュメンタリーの中で、カニングハムは興味深いことを語りました。

彼はこう言いました。

「私の息子の人生は神様からの賜物でした。神様は一時的に私たちに与えましたが、神様の目的と理由で彼を取り戻されました。」

この箇所を読むと、そのドキュメンタリーとカニングハムの言葉を思い出しました。

ダビデの言葉は、カニングハムの言葉に似ていました。

ダビデとイスラエル人は神様の宮を建てるために、自分たちの物を捧げました。その物について、ダビデはこう言いました。

まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。

すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。。。

私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。(歴代誌第一29:14,16)

ダビデとカニングハムは同じことを認めました。私たちの持ち物のすべては神様から来るものです。私たちが受け取ったすべての良いものは神様から来たのです。

だからこそ、ダビデは喜んでそれらを神様に返しました。なぜなら、それらのものはもともと神様のものであったからです。

彼にとって、お金や宝物は一時的なものでした。

それに加えて、彼は自分の人生さえも一時的なものであると認めました。

15節で、ダビデはこう言いました。

 私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、「ずっとこの世界に住む」望みもありません。

時々、人々は「どうして献金を捧げるべきでしょうか。神様はそれを必要としていないでしょう?」と訊きます。

もちろん、神様は私たちのお金を必要としておられるわけではありません。

神様が私たちのお金そのものを欲しておられるのではないのです。神様が望んでおられるのは私たちの心です。

神様は私たちの優先順位を知りたいのです。

私たちにとって、お金が一番大切なものなのでしょうか。

それとも、神様こそが私たちにとって一番なのでしょうか。

ダビデはこのように祈りました。

私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。

私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。

今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。(17)

神様は私たちが与えることを求めるとき、私たちの心を試しておられます。

私たちが与えても与えなくても、神様は私たちの動機を試されます。

私たちは喜んで与えるでしょうか。私たちの持つものが神様から来たものであることを理解するでしょうか。

もし与えないとすれば、それはなぜでしょうか。あるいは、この世の物を愛しすぎているからなのでしょうか。

カニングハムの信仰は本当に素晴らしいと思います。

今でも、その同じスパで人々が洗礼を受けています。

ドキュメンタリーで、ナレーターはこう語りました。

「彼の息子が亡くなったスパで、人々は生まれ変わっています。」

カニングハムの信仰は試されました。

お金を持つことは彼にとって試練ではありませんでした。

むしろ、自分の息子を持つことこそが、彼にとっての試練だったのです。

多くの人々はその状況で「なぜ」と問いかけ、苦々しい思いを抱きます。 けれども、カニングハムはそうはしませんでした。

むしろ、この人生は神様からの賜物であると認めました。それは儚く、一時的な賜物なのです。

だからこそ、苦々しい思いをせずに感謝の心をもって、神様にその息子を返したのです。

あなたはどうですか。自分の物がどこから来たか理解していますか。

そして、あなたの人生における神様の主権を認めるでしょうか。

ダビデは歌いました。

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。

天にあるもの地にあるものはみなそうです。

主よ。王国もあなたのものです。

あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。

富と誉れは御前から出ます。

あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。(歴代誌第一29:11-12)

そして、彼はこう歌いました。

今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。(13)

そのような忠実で感謝の心を持つことができますように。

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歴代誌第一4

自分の模範によってリードする

「私の手本に従わずに、私の言葉に従いなさい。」

私の両親がそのようなことを一度も言わなかったことに感謝しています。なぜなら、それは本当に偽善的な表現だからです。

リーダーたちは、そのようなことを言ってはいけません。

一方、ダビデは自らの模範によって民を導いていました。

この箇所では、惜しみない態度をもってイスラエル人を導いたのです。彼は神様のために宮を建てることに情熱を注ぎ、自らの金や銀、そして宝石を捧げました。

そして、彼はイスラエルの指導者たちに挑戦したのです。

きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか。(歴代誌第一29:5)

つまり、「私は主に捧げたから、あなたもどうですか。」

それを聞いたリーダーたちは、宮を建てるために喜んで自分たちの物を捧げました。

その結果は?

こうして、民は自分たちみずから進んでささげた物について喜んだ。

彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。(9)

イスラエル人はそのリーダーたちの行動を見て、きっとリーダーたちをもっと信じるようになったでしょう。

なぜでしょうか。リーダーたちは、ただ何をするべきか言うだけではありませんでした。リーダーたちは、ただ「神様に仕えなさい」と言うだけではありませんでした。

むしろ、リーダーたちは自分が言ったことを実行していたのです。

私もそのような人々に従いたいと願い、またそのようなリーダーとなりたいと願います。

あなたはどうですか。自分の手本でリードできるでしょうか。

子供たちに「私の手本に従ってください」と言えるでしょうか。

自分の教会や会社の後輩に「私の手本に従ってください」と言えるでしょうか。

それとも、そのように言うと恥ずかしく感じるでしょうか。

言葉だけではなく、私たちの手本によってリードしましょう。

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歴代誌第一4

神様の宮となる

この箇所では、ダビデがソロモンとイスラエルの指導者たちに語った場面が描かれています。

ダビデの言葉を見るとき、神様が私たちに何を語っておられるかについて思いを巡らせます。つまり、私たちが神様の宮となることに関して、神様が何を語っておられるかを考えるのです。

まず、神様は、私たちが宮となるために選んでくださったと語っておられます。

ダビデは、神様がどのようにダビデをイスラエルの王として選んでくださったかを語りました。

具体的には、イスラエルの部族の中からユダの部族を選び、ユダ部族の中からダビデの家族を選び、最後にダビデの兄弟たちの中から神様がダビデを選んでくださったのです。

そして、6節で、ダビデは神様の言葉を思い出しました。

あなたの子ソロモンが、わたしの家とわたしの庭を建てる。わたしが彼をわたしの子として選び、わたしが彼の父となるからだ。(歴代誌第一28:6)

そのように、時間が始まる前に、神様は私たちを神様の子供となるために選んでくださいました。

それだけではなく、神様の宮を建てるために私たちを選んでくださったのです。つまり、神様は私たちの人生が神様の宮となるように選んでくださいました。

パウロはこのように記しています。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人1:4-6)

この歴代誌の箇所を読むと、もう一つのことに気づきます。それは、神様が宮のために具体的な計画を持っておられたということです。

ダビデは言いました。

これらすべては、私に与えられた主の手による書き物にある。彼は、この仕様書のすべての仕事を賢く行う。(歴代誌第一28:19)

そのように、神様は私たちのために計画を持っておられます。ダビデはこう書いています。

あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。

私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩編139:6)

ダビデが与えられた宮の計画とは異なり、私たちには自分の人生のための具体的な計画が与えられていません。

例えば、誰と結婚するのか、どこに住むのか、私たちには分からないのです。

しかし、聖書を通して、私たちのための神様の御心を一般的に知ることはできます。

そして、私たちが神様を求め、その言葉に従うなら、神様はさらに具体的に私たちを導いてくださいます。

そのため、ダビデはソロモンにこう言いました。

今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。

主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。

もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。(歴代誌第一28:9)

そして、ダビデがソロモンに言ったように、神様も私たちに語っておられます。

強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから―。

主は、宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。(20)

パウロは、このように言いました。

そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。(ピリピ2:12-13)

私が以前言ったように、神様の宮を建てるのは、私たち自身の力で行うべきではありません。

私たちが神様の宮となるために、神様は私たちに必要なすべてのものを与えてくださいました。

つまり、神様は私たちに聖霊を送ってくださいました。聖霊は私たちを導いてくださいます。また、聖霊は私たちを変える力を与え、私たちが神様のようになるように、私たちの内で働いておられるのです。

ですから、強く、雄々しく生きましょう。

失敗してしまった時も、がっかりしないでください。

神様はあなたの心を探っておられます。そして、あなたが神様の宮となりたいと願っていることを知っておられます。

神様は必ずあなたを助けてくださいます。

だからこそ、神様を求め続けましょう。

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歴代誌第一4

キリストにあって、私たちの役割

歴代誌の著者は名前のリストを書くことがとても好きなようです。この箇所では、私たちは多くのリストを見ることができます。

この箇所は、神様の宮を建てる人々の役割について述べています。けれども、これを読むと、私たちが学べることがあると感じます。

23章では、レビ人の役割が変わりました。

砂漠を越えた時、彼らの役割は幕屋とその中の物を運ぶことでした。しかし、その必要がなくなったため、彼らは祭司たちを助け始めました。

おそらく砂漠の時代にも祭司たちを助けていたでしょうが、この箇所では彼らの責任がより具体的に記されています。

時にはその責任が小さなものに見えたかもしれませんが、彼らは忠実にそれを果たしました。

同じように、私たち全員には神様の国の中で役割があります。

私たち全員が牧師ではありませんし、全員が賛美のリーダーでもありません。それでも、それぞれに神様から与えられた才能と賜物があります。

神様の器として、また神様の宮として、私たちはその才能と賜物を使わなければなりません。

時に私たちの役割は変わることがありますし、私たちの責任が小さいと感じることもあるかもしれません。それでも忠実に主に仕えましょう。

24章は祭司たちについて述べています。彼らは宮で主と民に仕えるべき存在でした。

同じように、私たちも祭司たちです。(第一ペテロ2:5;黙示録1:6)

私たちは神様の祭司として、神様と周りの人々に仕えるべきです。

25章はミュージシャンと歌手について述べています。

主に仕える一つの方法は礼拝です。

私たちは礼拝する時に、神様を祝福します。

古い英語の聖歌に「私たちの心が礼拝を始めると、私たちは祝福される」と記されています。

これはまことに真実ですが、私はよくその歌詞を変えて歌います。

「私たちの心が礼拝を始めると、あなたが祝福されるのです。」

なぜなら、それが賛美の本来の目的だからです。私たちが祝福されるためではなく、むしろ神様を祝福するためです。

さらに、私たちの礼拝を通して、他の人々を祝福することもできます。

3節で、エドトンという人は賛美しながら預言しました。

同じように、私たちが歌う時、その言葉は周りの人々に影響を与えることができます。また、その曲によって、周りの人々は神様の臨在を感じることができるのです。

26章は門衛について述べています。

歴代誌第一9:17-33によると、彼らにはさまざまな責任がありました。

一つの責任は門を守ることでした。つまり、「汚れたもの」が入らないようにチェックすることでした。

同じように、私たちも、汚れたものが入らないように、自分の心を守らなければなりません。

それに、門衛たちは宝物倉を泥棒から守らなければなりませんでした。

同じように、サタンは私たちのイエス様にある喜びと祝福を盗もうとします。だからこそ、私たちは自分の心を守らなければなりません。

27章は、宮のあるエルサレムを守る軍隊について述べています。

この箇所を読むと、私たちが霊的な戦いのただ中にいることを思い起こすべきです。

そのため、誰かが神様の国に対して戦いを挑むなら、私たちはその国を守らなければならず、また、サタンの国を攻撃しなければなりません。

つまり、私たちは福音を伝えなければならないのです。それによって、サタンの囚人を解放することができるのです。

しもべ、祭司、歌手とミュージシャン、門衛、そして兵士。

それだけではなく、私たちは神様の宮でもあります。

キリストにあって、私たちはこれらすべてを担っているのです。

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歴代誌第一4

神様のために宮を建てる

ダビデは自分のために宮殿を建てた後、神様がまだ幕屋に住んでおられることを思い浮かべました。

(もちろん、神様が本当に幕屋に住んでおられたわけではありませんが、幕屋は神様の臨在を象徴していました。)

そこで、ダビデは神様のために宮を建てる計画を立て始めました。しかし、神様はダビデを止めて言われました。

「あなたの息子がその宮を建てます。」

数年後、ダビデは亡くなる前にその準備を始めました。彼自身が宮を建てることはありませんでしたが、その宮を建てるために必要な材料をすべて集めようとしました。

この箇所から、私たちが覚えるべきことがあります。それは、神様の宮はもはや建物ではないということです。私たちこそ神様の宮であり、神様は私たちの内に住んでおられるのです。第一コリント6:19に、こう書いてあります。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

私たちはそのことを思いながら、神様の宮を建てること、つまり、生ける宮となることについて、覚えておかなくてはならないことがあります。

まず初めに、ダビデはソロモンに語りました。

主のために建てる宮は、全地の名となり栄えるように大いなるものとしなければならない。(歴代誌第一22:5)

そのように、神様は私たちが素晴らしい存在となることを望んでおられます。なぜなら、周りの人々が私たちを見ると、心を動かされ、「きっと、神様はその人の内に本当に住んでおられる。その人は他の人とは本当に違う」と言うようになるからです。

そして、私たちを通して、人々は神様の栄光と素晴らしさを見ることができ、神様に近づきたいと考えるようになるのです。

二つ目に覚えておくべきことは、宮を建てたいなら、心を尽くして神様に従わなければならないということです。

ダビデはソロモンにこう語りました。

ただ、主があなたに思慮と分別を与えて、あなたをイスラエルの上に任命し、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように。

主がイスラエルについてモーセに命じれらたおきてと定めをあなたが守り行うなら、あなたは栄える。

強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。(歴代誌第一22:12-13)

三つ目に覚えておくべきことは、時として私たちが罪と戦う中で、落胆してしまうことがあるということです。

または、サタンが私たちを攻撃し、それによって私たちは失望してしまうことがあります。

そして、「もう神様の宮になることは無理だ」と思い、諦めようとするかもしれません。

しかし、ダビデはソロモンに言いました。

強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。(13b)

どうすれば強くなり、雄々しくなることができるでしょうか。そして、どうすれば恐れや失望と戦うことができるでしょうか。

二つのことを覚えておく必要があります。

一つ目は、私たちが神様の宮となるために、神様が必要なものを私たちに与えてくださるということです。

ダビデが困難の中で主の宮のために材料を集めたように、イエス様もご自身の困難を通して、私たちが神様の宮となるために必要なものを与えてくださいました。つまり、イエス様は十字架で、私たちの罰を代わりに受けてくださいました。

そのため、ペテロはこう言いました。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。

それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロ1:3-4)

つまり、私たち自身の力で神様の宮を建てるべきではありません。むしろ、神様が私たちの内で働いてくださり、聖なる人生を生きるための力を与えてくださいます。

二つ目に覚えておくべきことは、神様が私たちを助けるために人々を与えてくださったということです。彼らはその宮を建てることを助けます。

ダビデがイスラエルのリーダーたちにソロモンを助けるように命じたように、神様は私たちにも互いに助け合うように命じられました。

ヘブル人への手紙の著者はこう書いています。

また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(へブル10:24-25)

私たちは神様の宮です。私たちが国々に神様の栄光を示す存在となるように。

特に、私たちが周りの人々に神様の栄光を映し出し、現すことができるように。

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サムエル記第二 歴代誌第一4

罪の結果

この箇所は少し難解です。

第二サムエル記24章と歴代誌第一21章を比較すると、違いが見られます。

歴代誌第一21章には、こう書かれています:

サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。(歴代誌第一21:1)

けれども、第二サムエル記24章によると、

さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。

主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。(サムエル記第二24:1)

どのようにしてその二つの箇所を説明できるでしょうか。確かに矛盾しているように見えます。私自身も完全には理解していません。

とはいえ、列王記第一22章19-22を読むことで、何らかのヒントが得られるかもしれません。

その箇所には、イスラエルの歴史の中で最も悪い王の一人が登場します。その王はアハブという人物でした。

そして、神様の御心はアハブが死ぬことでした。そのため、神様はこう問いかけられました。

だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないのか。(列王記第一22:20)

そして、ある霊(たぶん悪霊)はこう答えました。

私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。(列王記第一22:22)

だから、神様はその霊に許可を与えたため、結果的にアハブは死にました。

もしかすると、このダビデの話でも、同じようなことが起こったのかもしれません。

イスラエル人が罪を犯したために、神様は彼らを罰したいと望まれました。そのため、神様はサタンにダビデを誘惑する許可を与えました。

そして、ダビデは自分のプライドに負けて、イスラエルの人口を数えるという罪を犯しました。

この罪、そしてほかのイスラエル人たちの罪を通して、神様は彼らを罰されました。

これは本当に理解が難しい箇所です。

一見すると、神様が不公平であるように感じられます。なぜなら、神様がダビデに罪を犯させたかのように見えるからです。

けれども、その考え方は誤りです。

神様はダビデに罪を犯させたのではありません。神様はサタンにダビデを誘惑する許可を与えましたが、ダビデ自身が罪を犯すかどうかを選択する責任がありました。

そして、ダビデは罪を犯す道を選びました。

ヤコブはこう書きました。

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。

神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:13-15)

つまり、私たちは自分の心の中にある悪によって誘惑されます。

私たちが善良な存在だったのに神様が私たちに悪を植え付けたというわけではありません。

私たちの心には悪があり、それが誘惑によって引き出されるのです。

しかし、忘れてはならないのは、悪が現れるのは私たち自身の選択によるということです。

サタンがダビデを誘惑する前から、ダビデの心の中にはプライドが存在していました。サタンはただそのプライドを引き出したに過ぎません。

そのプライドは罪を生み、そして罪が熟すと死を生みました。罪の結果は死だからです。

悲しいことですが、死と破壊は罪の避けられない結果なのです。

神様にとって罪は本当に深刻なものです。神様は罪を必ず罰しなければなりません。

しかし、素晴らしい知らせがあります。それは、神様がその代価をすでに払ってくださったことです。

ダビデは、自分の罪のためにいけにえをささげる際、必要なもの(土地と牛)を所有者から購入しようとしました。

けれども、その所有者はこう言いました。「すべてを王に差し上げます。」

(おそらく、剣を持つ天使を見て恐怖を感じ、それを言ったのかもしれません。)(歴代誌第一21:20、27)

それに対して、ダビデはこう答えました。

いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。(第二サムエル記24:24)

神様は同じようなことを語られました。「私は費用をかけずにいけにえを捧げない。代価が必要です。」

そのため、神様は人間としてこの世に来られ、私たちの罪のために命を捧げてくださいました。その死によって、神様は罪の結果に対する代価を永遠に払ってくださいました。

そして、死の剣がさやに納められ、神様はすべての人に永遠の命を提供してくださいます。

ローマ6:23には、このように書かれています。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

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サムエル記第二 歴代誌第一4

私たちが心を頑なにすると

今日は、ダビデの最も低い状態について考えます。

アメリカでは、ノン・クリスチャンがダビデを思い浮かべるとき、二つの出来事を連想します。ゴリアテとの戦い、そしてバテ・シェバとの不倫です。

一つはダビデの最大の勝利であり、もう一つはダビデの最大の失敗です。

いったいどうして、神様の心にかなうと言われたこの人物が、そんな最悪の事態に陥ってしまったのでしょうか。それは、彼が自分の心を頑なにしてしまったからです。

以前言ったように、この罪の種は、その前に蒔かれていました。

神様がイスラエルの王たちに与えられた命令は、「多くの女性を妻にしてはならない」というものでした。

けれども、ダビデはその戒めを無視して、複数の女性を妻にしたのです。

その態度が原因となり、この箇所の問題が生じました。

少し想像してみてください。もしダビデが若い時から神様の戒めに従っていたらどうなっていたでしょうか。

罪を犯すこと自体はあり得たかもしれません。しかし、若い時に誘惑と戦い続けていたなら、つまりずっと情欲と戦っていたなら、バテ・シェバを見た時に誘惑から逃れられた可能性があるのではないでしょうか。

けれども、ダビデには他にも失敗がありました。

第二サムエル記と歴代誌第一によると、王たちが出陣するころ、ダビデはエルサレムに留まっていました。ダビデの軍隊とその将軍が出陣したのに対し、彼自身は自分の家にとどまっていたのです。

つまり、ダビデは自分の国を守ることもせず、また神様が「取りなさい」と命じられた土地を取ることもしないまま、自宅で寛いでいたのです。

英語のことわざに、「怠け者の頭は悪魔の仕事場」というものがありますが、ダビデの場合、このことわざがまさに当てはまりました。

私たちも、するべきことを放棄してずっと寛ぐならば、誘惑に対して脆弱になってしまいます。

特にインターネット上のポルノに関して、多くの男性はこの真理を理解できるのではないでしょうか。

私たちは退屈を感じ、何気なくインターネットを始めた結果、罪に陥ってしまうことがあるのです。

ダビデはさらに大きな過ちを犯しました。

彼は屋上からバテ・シェバが体を洗っているのを目にしましたが、すぐに自分の部屋に戻ることはせず、その場に立ち続けて彼女を見続けました。

その後、バテ・シェバについて尋ねました。

ダビデがすぐに知ったのは、彼女がダビデの30人の勇士の一人の娘であり、さらにダビデの議官アヒトフェルの孫であるということでした(第二サムエル記23:34)。

そして、彼女は30人の勇士の一人、ウリヤの妻でもあったのです。

それでも、ダビデは自分の心を頑なにし、バテ・シェバを呼び寄せて彼女と関係を持ってしまったのです。

その結果、バテ・シェバが妊娠すると、ダビデは自分の罪を認めることをせず、それを隠そうとしました。

彼はウリヤを呼び戻し、戦争がうまくいっているかどうか尋ねました。その後、ダビデはこう言いました。

「では、どうぞ家に帰ってください。疲れているでしょう?リラックスしてください。」

もちろん、ダビデの真の意図は、ウリヤがバテ・シェバと寝ることで、自分の罪を隠そうとすることでした。

ところが、ウリヤは家には帰りませんでした。

ダビデが「どうして帰らないのか」と尋ねると、ウリヤは答えました。

神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。

それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。

あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。(第二サムエル記11:11)

ダビデはそれを聞いたとき、その心が刺されたかもしれません。

ウリヤがダビデに本当に忠実であったにもかかわらず、ダビデはウリヤの妻と関係を持ち、そのことについて彼を欺こうとしたのです。

その後、ダビデはウリヤを欺くことができなかったため、ウリヤを殺し、バテ・シェバと結婚しました。

将軍ヨアブがダビデにウリヤの死を伝える場面を見ると、私たちはダビデの心の状態をよく理解することができます。ダビデはこう言いました。

このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。(第二サムエル気11:25)

ダビデの心は本当に冷たかったです。

どうやって神様の民は罪に落ちるのでしょうか。

それは、私たちが心を頑なにするときです。心が硬くなれば硬くなるほど、心は冷たくなります。

そして、心が冷たくなればなるほど、罪はますます深く、悪くなっていくのです。

あなたの心はどうですか。心を罪に対して頑なにしていますか。

そのようにすれば、ダビデのように罪に落ちます。

ダビデはおそらく、そのような罪を決して犯さないと思ったかもしれません。あなたもそのように思うかもしれません。

しかし、私たちが心を硬くするなら、私たちもダビデのようになるかもしれません。本当に酷い罪を犯すかもしれません。

どれくらい、クリスチャンのリーダーが罪に落ちたという話を聞いたことがあるでしょうか。

もし彼らが失敗するなら、私たちも失敗する可能性があります。

ですから、心を守り、神様に対して柔らかくあり続けるようにしましょう。

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サムエル記第二 歴代誌第一4

私たちが弱い時

この箇所では、興味深く学ぶべき点がたくさんあります。

一つ目は、誰に助言を求めるか注意した方が良いということです。

アモン人の王が亡くなった際、その息子ハヌンは悪いアドバイスを受けました。具体的には、ダビデがその父を悔やむために家来を派遣した際、ハヌンのアドバイザーがこう言ったのです。

ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。

この町を調べ、探り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来をよこしたのではありませんか。(サムエル記第二10:3)

そこで、ハヌンはダビデの家来に恥をかかせて追い出しました。その侮辱が原因で戦争が始まりました。

二つ目の学びとして、アラム人はアモン人と一緒にイスラエル人と戦った際、一度打ち負かされても再び団結し、戦い続けたということです。

同じように、私たちがサタンと戦う時、サタンが一度敗北しても決して諦めることはありません。むしろ、後になって再び攻撃してくるので、私たちは常に警戒しなければなりません。

けれども、一番印象に残るポイントは、ヨアブとその弟の軍隊が敵に囲まれる状況を理解した際、彼らが二つのグループに分かれ、ヨアブがこう言ったことです。

もし、アラムが私より強ければ、おまえが私を救ってくれ。もし、アモン人がおまえより強かったら、私がおまえを救いに行こう。(第二サムエル記10:11)

時々、私たちは霊的な攻撃に直面します。それはサタンからの誘惑かもしれませんし、試練かもしれません。そして、その時、私たちは自分が弱く、倒れそうだと感じることがあります。

もちろん、私たちは神様に頼るべきです。しかし、神様の御心は、私たちが力を得るために互いに助け合うことでもあります。

パウロはこう言いました。

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい(ガラテヤ6:2)

あなたは弱さを感じていますか。倒れてしまいそうだと思っていますか。

そんな時は、互いに重荷を負い合い、一緒に祈り合い、支え合いましょう。

そうすることで、ヨアブとダビデが得たような勝利を私たちも得ることができるのです。

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サムエル記第二 歴代誌第一4

勝利を得るため

この箇所を見ると、ダビデの勝利によって、初めてカナンに入ったイスラエル人が「勝利できない」と言ったのは、ただの言い訳であったことが分かります。

士師記には繰り返しこのような話が登場します。つまり、イスラエル人の敵が鉄の馬車などを持っていたため、イスラエル人はカナン人を追い払うことができなかったというものです。

けれども、ダビデの敵はさらに優れた武器を持っていたにもかかわらず、ダビデは勝利を収めました。なぜでしょうか。それはダビデが神様に信頼したからです。一方、その時代のイスラエル人はそうしませんでした。

神様は私たちに勝利を与えたいと望んでおられます。それにもかかわらず、私たちはしばしば自分自身を説得して「勝利できない」と思い込んでしまいます。

例えば、良い仕事を探す時、良い妻や夫を見つけようとする時、また罪と戦う時に、よくこう思うのです。「私は勝てない。」

「この仕事には絶対に就けないから、面接に挑戦するのはやめておこう。」

「その人とデートをしても、どうせ最後には捨てられるだろう。」

「この罪と何度も戦ってきたけれど、いつも負けている。もう戦い続ける意味があるのだろうか。」

しかし、私たちが自分自身に問いかけるべき質問があります。

「神様は本当に私と共にいてくださるでしょうか。神様は本当に私の味方でいてくださるでしょうか。神様は私のために良いことを望んでおられるでしょうか。」

もしそう信じなければ、私たちは信仰によって踏み出すことができません。むしろ、恐れによって立ち止まったままになります。

あなたはどうでしょうか。今、勝利を得ていると感じていますか。

私は正直に言います。多くの場合、恐れが私の前進を妨げています。「やっぱり、私はできない」と思ってしまうのです。

私はもっと神様に信頼し、信仰によって歩む必要があります。

だから、これを書きながら、自分自身に語りかけているのです。

主よ、私の人生において、勝利が欲しいです。けれども、「私はダメだ」と思ってしまうことが多いのです。また、過去の失敗を思い出して「無理だ」と感じてしまいます。

どうか、私が初期のイスラエル人のようにはならないようにしてください。むしろ、ダビデのように信仰によって踏み出し、勝利を得られるよう助けてください。 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。 アーメン。

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サムエル記第二 歴代誌第一4

神様は私のことを考えておられる

きれいな夜に星空を見上げたことがありますか。日本に来てから、私はそれをあまり見ません。時々、星が見えることもありますが、ほんの少しだけです。

けれども、ハワイの山にいた時、その星空は本当に素晴らしいものでした。その時、私は自分の小ささを感じました。そして、こう思いました。

「この宇宙がこんなに大きいのに、神様は私を愛しておられるのでしょうか。私の名前を知っておられるのでしょうか。私のために計画を持っておられるのでしょうか。信じられない。それは本当に素晴らしいことです。」

ダビデも、同じように感じたのです。新しい宮殿で王座に座りながら、彼はこう思いました。「私はこの素晴らしいところに住んでいるのに、神様は天幕にしかおられないのですか。」

そこで、ダビデは神様のために素晴らしい宮を建てる計画を立て始めました。

ところが、神様はダビデの計画を止められました。なぜでしょうか。第一の理由は、神様には宮が必要なかったからです。なぜなら、神様は霊であり、物理的な場所を必要とされなかったからです。

第二の理由は、ダビデが戦争で多くの人々を殺してきたことです。そのため、神様はそのような人が宮を建てることを望まれなかったのです。

おそらくダビデにとって、神様の言葉は少し辛いものであったかもしれません。けれども、神様はすぐにダビデを励まされました。神様はこう言われました。

「あなたは私のために家を建てたいと思いましたが、実際には私はあなたのために家を建てます。そして、あなたの王国と家を永遠に堅く立てます。」(第二サムエル記7:11-16)

イエス様は神の子でありながら、人間としてはダビデの子孫です。そのため、イエス様がこの世界に戻られる時、その預言を成就して、この世界を永遠に支配されます。

では、ダビデの反応はどのようなものだったのでしょうか。

神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。

神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足らない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。

神、主よ。これが人の定めでしょうか。(第二サムエル記7:18-19)

「私はいったい何者でしょうか。」

ダビデが理解したのは、自分が決して重要な人ではなかったということです。けれども、神様はダビデを粗末な場所からこの素晴らしいところまで導かれました。それはダビデ自身の栄光のためではなく、神様の栄光のためでした。

私たちは埃のように取るに足らない存在です。宇宙の中では小さな一点に過ぎません。しかし、神様は私たちに目を留め、私たちを愛しておられます。

それだけではありません。神様の手は私たちの上にあり、私たちを支え続けてくださいます。

ダビデはそれを理解し、こう記しました。

そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。(詩編139:6)

あなたは、自分が愛されていないと感じることがありますか。必要とされていないと思うことがありますか。自分は取るに足らない存在だと思ってしまうことがありますか。

そんなときは、このことを思い出してください。

「神様は私のことをいつも心に留めておられます。

この広大な宇宙の中で、また、この世界で数え切れないほどの出来事が起きている中で、神様は私のことを考えておられるのです。神様は私を知っておられます。

そして、神様は私のために計画を持っておられます。」

私は一体何者なのでしょうか。
世界でただ一人の主が、
私の名前を覚えていてくださるとは。
私が悩んでいるときに、
神様が同情してくださるとは。

私は一体何者なのでしょうか。
明るく輝く明けの明星が、
迷い続ける心のために、
道を照らしてくださるとは。

私だからという理由ではなく、
あなたの行いによって、
私が何かをしたからではなく、
あなたの性格が素晴らしいからです。

私はすぐにしぼんでしまう花、
今日はあっても明日には消える存在、
海に打ちつけられる波、
風の中に漂う霧のようです。

それでもあなたは、
私が呼ぶときに耳を傾け、
倒れそうなときに助けてくださいます。
そして、あなたは私に、
「あなたは私のものだ」と教えてくださいました。

私は誰を恐れるでしょうか。
なぜなら、私はあなたのものだからです。

ーージョン・マーク・ホール