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詩篇のデボーション

神の恩寵

まことに、御怒りは束の間、
いのちは恩寵のうちにある。(詩篇30:5)

今朝、その言葉が私の心に深く響きました。

神様が恩寵を与えてくださるとき、私たちはいのちを得ます。

そして2000年前、ベツレヘムで、神様は恵みの手を伸ばしてくださいました。

ヨハネはこのように記しています。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのち得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4:9ー10)

神様の愛と恵みによって、私たちは神の御心にかなう者とされます。

それは本当に驚くべきことです。

だから、み使いたちと共に歌いましょう。

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が
みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

メリークリスマス!

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聞かれた

ほむべきかな【主】。
主は私の願いの声を聞かれた。(詩篇28:6)

クリスマスの季節なので、先週の土曜日にルカの福音書にあるゼカリヤの物語を読んでいました。

そしてダビデの言葉を読んだとき、ゼカリヤに語られたガブリエルの言葉を思い出しました

恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。(ルカの福音書1:13)

正直に言うと、神様が私の祈りに聞き届けてくださらないように見えるとき、失望するのは容易なことです。

けれども、神様が思い起こさせてくださいました。

「わたしはあなたの祈りを聞いています。たとえ『ノー』と答える時でも、あなたの願いを確かに聞いています。あなたを無視しているのではありません。あなたを愛しているのです。」

だから、私はダビデと共に歌います。

【主】は私の力、私の盾。
私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。

私の心は喜び躍り
私は歌をもって主に感謝しよう。(詩篇26:7)

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私が信じていなかったなら──

もしも私が
生ける者の地で【主】のいつくしみを見ると
信じていなかったなら──。(詩篇27:13)

私が多くのことをコントロールできないこの乱れた世の中で、 もし神様が良い方であり、私を深く愛しておられると信じていなかったら、どうなるでしょうか。

私は失望してしまうでしょう。

私は苦々しい心を抱くでしょう。

私はいつも怒っているでしょう。

私は恐れているでしょう。

イエス様を信頼し、従い続けることは難しくなるでしょう。

しかし、私は信じます。

だからこそ、自分の心を導き、ダビデと共に歌うことを選びます。

待ち望め【主】を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め【主】を。(詩篇27:14)

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私たちの動機

あなたの恵みは私の目の前にあり
あなたの真理のうちを私は歩み続けました。(詩篇26:3)

今日、いくつかの英訳を読み比べました。最も大きな違いは、「真理」と訳されている語が「忠実」とも訳せるという点です。

そのため、ある英訳では次のように訳されています。

あなたの誠実な愛は私の目にあり、
あなたの忠実さによって、私は歩み続けます。

別の訳では、こう表現されています。

あなたの誠実な愛を心に留め、
あなたの忠実さに頼って歩みます。

しかし、この意訳が私の心に特に響きました。

あなたの誠実さを心に留め、
あなたの忠実さは私の心を動かします。

神様の目が私たちの心を探っておられることは、少し恐ろしく感じられるかもしれません。時には、私たちを精錬する過程は痛みを伴います。

けれども、私の動機は恐れではなく、神の誠実な愛と忠実さです。

だから、私は毎日、喜んで自分の心を神様にさらけ出すことを選びます。

あなたはどうでしょうか。

あなたは神の誠実な愛と忠実さを知っていますか。

あなたの動機は何でしょうか。

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主は恵みとまことに満ちておられるから

【主】よあなたの道を私に知らせ
あなたの進む道を私に教えてください。

あなたの真理に私を導き教えてください。
あなたこそ私の救いの神
私はあなたを一日中待ち望みます。(詩篇25:4~5)

この詩篇を読むたびに、上の言葉はいつも私の心に響きます。

私はダビデのような心を持ちたいのです。

神様に教えられたい心。

神様を信頼する心。

しかし今日、なぜダビデがそのように願ったのか、わかってきました。

【主】の道はみな恵みとまことです。(詩篇25:10)

ダビデは心からそう信じ、自分の主のようになりたいと願ったのです。

私も、イエス様のようになりたいのです。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。。。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:14、16~17)

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あなたがあインマンヌエルであるゆえに

たとえ死の陰の谷を歩むとしても
私はわざわいを恐れません。
あなたがともにおられますから。(詩篇23:4)

イエス様、これは本当に乱れた世の中です。

けれども、あなたがインマヌエルであるゆえに、この世の民が恐れることを、私は恐れません。(イザヤ書8:12)

この世の民が心配することを、私は心配しません。(マタイ6:25~34)

この世の民は怒りに駆られるかもしれませんが、私はそうしません。(ヤコブ1:19~20)

むしろ、私の良い羊飼いよ、あなたを信頼し、待ち望むことを選びます。(イザヤ書8:17)

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何を求めているでしょうか

ある者は戦車を、ある者は馬を求める。
しかし私たちは
私たちの神【主】の御名を呼び求める。(詩篇20:7)

その言葉は私の心に響きました。

私は何を求めているでしょうか。特に安心感を得るために、何を追い求めているでしょうか。

ダビデの時代、王たちは軍隊の戦車や馬によって安心感を持っていました。

私たちの多くにとって、お金はその安心感を与えます。

しかし、ダビデにとって、その安心感は神様から与えられたのです。だからこそ、彼は毎日神様を追い求めました。

私はそのような心を持ちたいと願っています。神様を追い求める心を願っているのです。

あなたはどうですか。何を求めているでしょうか。

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神様がだれであるからこそ

私の口のことばと私の心の思いとが
御前に受け入れられますように。
【主】よわが岩わが贖い主よ。(詩篇19:14)

その言葉は、私にとって馴染み深いものです。私は何度もその言葉を読み、歌ってきました。 けれども今日、その最初の一部を思い巡らしました。

私にとって、神様はだれでしょうか。

神様は「ヤハウェ」です。つまり、神様は永遠の方です。 ただひとりの神であり、他の神々に勝る偉大な方、創造のすべての主です。

それでも、神様は私から遠く離れている方ではありません。 神様はインマヌエルであり、私たちとともにおられる神です。 私の岩。私の基盤。嵐の中の私の砦です。

さらに、神様は私のあがない主です。 イエス様は十字架で血潮を流し、サタンの国の奴隷生活から私を救い出し、 ご自身のご支配の中に移してくださいました。

だからこそ、私は神様を愛し、喜ばせたいと願います。

そのような心をもって、私は今日、ダビデとともに歌います。

私の口のことばと私の心の思いとが
御前に受け入れられますように。

あなたにとって、神様はどのような方でしょうか。

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神の謙虚

あなたは御救いの盾を私に下さいます。
あなたの右の手は私を支え
あなたの謙遜は私を大きくします。(詩篇18:35)

もうすぐクリスマスだからこそ、その言葉が私の心に響いているのでしょう。

「あなたの謙虚は私を大きくします。」

私は取るに足りない者なのに、神様はご自身を低くし、人となり、しもべの姿をとってくださいました。

そして、神であるイエス様は十字架で私の罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:7~8)

だから今や、そのみわざによって、取るに足りない私は神の子とされました。

なんとすばらしいことでしょう。

【主】は生きておられる。
ほむべきかなわが岩。
あがむべきかなわが救いの神。(詩篇18:46)

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イエス樣を「主」と呼ぶ喜び

私は【主】に申し上げます。
「あなたこそ私の主。
私の幸いはあなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)

今朝、ダビデの言葉を思いめぐらしました。そして、この考えが心に浮かびました。

「イエス様を『主』と呼ぶことには、喜びがあります。」

けれども、イエス様が良い方であり、私たちを深く愛してくださることを信じないなら、その喜びを知ることはできません。

その確信を持たないなら、イエス様を『主』と呼ぶことは、むしろ恐ろしいことになります。

ダビデは、神様を『主』と呼ぶ喜びを確かに味わいました。この詩篇を読むと、その喜びがはっきりと示されています。

私もその喜びを味わったことがあります。

けれども、私は毎日その喜びを満喫したいと願っています。

あなたはどうでしょうか。

イエス様を『主』と呼ぶ喜びをご存じですか。

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私が愚か者のように振る舞うことがある?

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。(詩篇14:1)

天のお父さん、あなたがおられることを認めます。

それでも、私は、あなたがおられないように振る舞うことがあるでしょうか。

私があなたを脇へ置くときがあるでしょうか。

また、私の恐れ、心配、さらに私の罪深い欲求が治めるときがあるでしょうか。

私の予定にこだわりすぎて、あなたがしておられることを見逃すことがあるでしょうか。

イエス様、私は愚か者のように振る舞いたくはありません。

あなたがインマヌエル、私とともにおられる神であることを心にいつも留めさせてください。

あなたを毎日毎日、一瞬一瞬、求める心を与えてください。

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私に良くしてくださる神

私は【主】に歌を歌います。
主が私に良くしてくださいましたから。(詩篇13:6)

今朝、ダビデの言葉は私の目に留まりました。

私の問題をくよくよするとき、神様がどこにおられるかを考えるのは、容易なことです。

けれども、私はいつも神様がどれほど良くしてくださったかを思い起こしたいです。

私がまだ罪人であったとき、キリストは私のために死んでくださいました。

私が神様をまったく求めずに自分の道を歩んだとき、神様は私を追い求めてくださいました。

そのときに神様が私に良くしてくださったのなら、神様は今、ご自分の子にしてくださった私を見捨てられるでしょうか。それはあり得ないでしょう。

だから今日、神様がどれほど私に良くしてくださったかをもっと思い巡らしたいのです。

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この壊れた世界を見るとき

拠り所が壊されたら
正しい者に何ができるだろうか。(詩篇11:3)

ニュースやSNSを見るたび、私は自分の心を導くことを思い起こさなければなりません。

この世のよこしまを見るとき、思い悩むのは容易です。

けれども、王はまだみ座におられます。 立ち去られないのです。

イエス様はすべてをご覧になります。 そして、この世に帰ってこられると、すべての人を裁かれるのです。(4~6)

その日、この世は癒され、私は私の王の御顔を見るのです。(7)

その間、私は自分の恐れや怒りや心配を脇へ置くことを選びます。

そして、私の良い王に信頼することを選ぶのです。

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あなたが遠く感じられるときに

主よ、なぜ、あなたは遠く離れて立ち、苦しみのときに、身を隠されるのですか。(詩篇10:1)

天のお父さん、あなたが遠く離れて立ち、身を隠されているように感じられるときがあります。特に、苦しんでいるとき、私はそのように感じることが多いのです。

でも、真理は、あなたが私の良い王であり、永遠に治めておられるということです。(16節)

真理は、あなたが私の叫びを無視しておられるのではなく、耳を傾けてくださるということです。(17節)

そして、いつかの日に、あなたは正義をもたらし、すべてを癒してくださいます。(18節)

だから、私の良い王、あなたが遠く離れて感じられるとき、私は自分の感情ではなく、あなたを信じることができるように助けてください。

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計り知れない恵み

人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。(詩篇8:4)

今朝、上の言葉を思いめぐらせました。

私たちのすべては、罪の肥溜めに落ちて、その汚れにまみれてしまいました。それでも、イエス様は、御使いよりわずかに欠けがあるものとし、その肥溜めに入り、救い出してくださるほど、私たちを心に留めてくださいました。

しかし、本当に驚くべきことは、イエス様は私たちをご覧になるたびに、肥溜めから救い出された「物」として見なしておられるわけではないということです。私たちがその汚れにまみれていた状態という記憶は、まったく残っていないのです。

むしろ、ご自身の義に着せられ、栄光と誉れの冠をかぶらせている者としてご覧になります。

私たちへのイエス様の恵みと愛は、本当に測り知れないものです。

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正義の裁判官を待ち望む

あなたはさばきを定められました。(詩篇7:6)

今日、その言葉私の心に響きました。

この世のよこしまと不正をニュースで見るとき、怒るのは簡単なことです。

しかし、この詩篇を通して、神様は私に思い起こさせてくださいました。「わたしはそのよこしまと不正を無視しているわけではありません。」

神様は裁きを定められました。そして、その日に、神様は正義をもってすべての人々を裁かれます。

神様は人の行動だけでなく、彼らの心の深みをも調べておられます。そして、彼らが悔い改めようとしないなら、最終的に神様の正義と向き合うことになります。

だから、ニュースを読むとき、怒りを脇へおいて、ダビデとともに賛美することを選びます。

私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。いと高き方 主の御名をほめ歌います。(詩篇7:17)

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私たちが悲しむとき

私たちの人生は、いつも楽というわけではありません。ダビデはそれをよく知っていたので、哀歌を多く書きました。

でも、私たちがこの壊れた世界で悲しむとき、このことを心に留めておきましょう。

1.神様は私たちの神であり、私たちの王です。(詩篇5:2)。ですから、私たちは神様を敬い、神様に従うべきです。

多くのクリスチャンは、神様をお父さんとして、また友だちとして考えたいと思います。もちろん、神様は私たちのお父さんであり、友だちです。

でも、文句を言うとき、神様が私たちの神であり王であることを忘れてはなりません。神様は、私たちの敬いと従順にふさわしい方です。

2.神様は良い方です。

時々、私たちは周りの悪を見ると、神様のご性質を疑い始めます。神様が本当に良い方であるかどうか、疑い始めるのです。

でも、私たちはこの真理を心に留めておかなくてはなりません。神様が悪に取り組むのが遅く感じられるかもしれませんが、最終的に正義をもたらしてくださるのです。(第二ペテロ3:8〜10)

その日、すべての人々はダビデの言葉が正しいと知るようになります。

あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいは、あなたとともに住まないからです。(詩篇5:4)

だから、どんな悪を見ても、神様の良いご性質を疑わないようにしましょう。

3.私たちも、ただ恵みによって神様に近づくことができます。

私たちは周囲の悪人を見て怒るかもしれませんが、謙遜な態度を持って、神様の恵みがなければ、私たちも裁かれていたことを覚えておきましょう。

4.私たちが試練に直面するときこそ、神様の導きと助けが必要です。

だから、ダビデと一緒に祈りましょう。

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、(または、私には大変な問題があるので)あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。(8節)

最後に、主にあって喜び、主のことを誇りましょう。(11節)

私たちにトラブルがあるとき、文句を言うのは簡単なことです。そうせずに、神様に身を避けて、主を喜びましょう。

そうすれば、あなたの視点は完全に変わります。そして、神様の偉大さと比べると、あなたの問題は小さく見えるでしょう。

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神に特別に扱われている

知れ。主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。(詩篇4:3)

今朝、その言葉は私の心に響きました。

神様は私を特別に扱ってくださいます。

神様は私を責めるのではなく、恵みによって義と認めてくださいます。(1節)

私が呼ぶとき、神様は聞いてくださいます。(3節)

私が御顔を仰ぐとき、神様は怒っておられるのでも、がっかりしておられるのでもなく、その光を私の上に照らしてくださいます。(6節)

だからこそ、「だれがわれわれに良い目を見させてくれるのか」と叫ぶ世界に、私は答えます。

「私の神こそがそうしてくださいます。」

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神様の答えが遅く感じられるとき

私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)

日曜日に、教会で「やもめと不正な裁判官のたとえ話」についてのメッセージを聞きました。

そのたとえ話の中で、やもめは裁判官が願いを聞き届けてくれるという確信を、どれほど持っていたでしょうか。彼が彼女のことをまったく気にかけていないことを、よく知っていたはずです。

それでも、彼女の願いを聞いてくれるのはその裁判官しかいなかったので、彼に願い続けるしかありませんでした。

一方、ダビデは、神様が自分を愛しておられるという確信を持っていました。だからこそ、神様に祈るとき、聞き届けてくださるという確信も持っていたのです。

今、私はこう思います。「神様の答えが遅く感じられるとき、私は神様が聞いてくださるという確信を、どれほど持っているだろうか。」

私は、ダビデのような信仰が欲しいです。

私は声をあげて主を呼び求める。 すると 主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4)

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イエス様は治めておられる

「わたしが わたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山 シオンに。」

「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。 『あなたはわたしの子。 わたしが今日 あなたを生んだ。』」(詩篇2:6~7)

私はこの乱れた世の中を思うとき、この言葉に心強さを覚えます。

イエス様は治めておられます。

ユダヤ人の指導者たちやローマ帝国はイエス様を十字架につけましたが、その真理を変えることはできませんでした。(使徒の働き4:25~28)

サタンもその真理を変えることはできませんでした。(黙示録12章)

イエス様を王座から追い出すことができる者も力も、何ひとつ存在しません。

そして、いつかの日、神様はすべてのものをイエス様の足台としてくださいます。(詩篇2:8~9、ヘブル書1:5~13)

だからこそ、私はニュースでこの世の悪を見るとき、また、自分の問題を心配するとき、この真理を握ることにします。

イエス様はこの世を治めておられます。そして、このイエス様は良い方です。

幸いなことよ、すべて主に身を避ける人は。(詩篇2:12)

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誰のために、栄える木が実を結ぶのか

幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。

主のおしえを喜びとし 、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。

その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び  その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。(詩篇1:1-3)

詩篇1篇では、詩人は、神様のみ言葉に思いを巡らす人について書いています。彼によれば、その人は栄えて実を結ぶ木のようになります。

でも、私たちが誰のために実を結ぶのか、考えたことがあるでしょうか。私たちが栄えるとき、誰がその益を受けるのか、考えたことがあるでしょうか。

果樹は、自分に栄養や祝福を与えるために実を結ぶわけではありません。むしろ、その木は周囲の人々を祝福し、栄養を与えるために実を結びます。

私たちは、そのような人であるべきです。

多くのクリスチャンは、この箇所を読むとき、このように考えます。「聖書を読んで、その言葉に思いを巡らすと、私は祝福されます。」

もちろん、それが間違っているわけではありません。しかし、もっと大切なのは、私たちが実を結び、神様がその実を通して周囲の人々を祝福してくださることです。

私たち皆がそのような木であり、神様の恵みのパイプラインとなって、周囲の人々に触れるように。

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誠実に歩んで

毎日、聖書通読プランと共に、私はいつも詩篇も読みます。

今日、たまたま26篇を読みました。それを読んで、ダビデの態度とサムソンの態度の違いに気づかざるを得ませんでした。

ダビデの言葉を祈り、それに従っていたら、サムソンの人生がどれほど違っていたかを想像してみてください。

主よ、私を弁護してください。私は誠実に歩み、よろめくことなく、主を信頼しています。

主よ、私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。

あなたの恵みは、私の目の前にあり、あなたの真理のうちを私は歩み続けました。

私は不信実な人とともに座らず、偽善者とともに行きません。悪を行う者の集まりを憎み、悪しき者とともに座りません。

手を洗い、自らの潔白を示します。主よ、私はあなたの祭壇の周りを歩きます。

感謝の声を響き渡らせて、語り告げます。
あなたの奇しいみわざのすべてを。(詩篇26:1-7)

私はダビデの言葉を祈り、それに従いたいです。

それがあなたの願いでしょうか。

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神様を神様として認める

知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。(詩篇100:3)

最近、私はヨブ記についての説教を準備していました。

多分、そのせいで私は神様と時間を過ごしていて、詩篇100篇を読んだとき、ヨブのことを連想しました。ヨブの試練の後、彼が詩篇100篇のような歌を歌うことを想像できました。

なぜなら、ヨブは上の真理を学んだからです。

神様は神様です。私たちは神様ではありません。

神様は私たちを造られました。私たちは神の民です。私たちは神の羊です。

そして、それは幸いなことです。

なぜでしょうか。

なぜなら、最終的に、神様は良い方で、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るからです。(5節)

この世には、私たちが理解できないことがたくさんあります。ですから、私たちが神様を疑い始めることは簡単なことです。

私たちは、神様が良い方であるかどうか疑い始めます。私たちへの神様の愛も疑い始めます。

でも、試練の中で喜びを知ることができる鍵は、主を神様として認めることです。つまり、神様は賢明な方であり、全能の方であるということです。でも、最も大切なことは、神様は私たちを深く愛してくださっているということです。

だから、確信をもってその真理を信じ、主に向かって喜びの声をあげましょう。(1節)

喜びをもって主に仕え、喜び歌いつつ、御前に行きましょう。(2節)

感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入りましょう。主に感謝し、御名をほめたたえましょう。(4節)

なぜなら、主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至るからです。(5節)

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自分の心を礼拝へ導く

わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。

わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:1ー2)

今日、この箇所を読んだとき、私は「どれだけ私は主をほめたたえるように自分の心を導くだろうか」と考えました。

「おい!自分よ。今日、主をほめたたえよ!主が良くしてくださったことを忘れるな。あなたへの主のいつくしみを忘れるな。」

もちろん、悪いときも、私たちはそうするべきです。ダビデが落ち込んだとき、彼はこう言いました。「おい!自分よ。どうしてあなたはそんなに落ち込んでいるの?主をほめたたえよ!」(詩篇42〜43篇)

でも、良いときにも、主をほめたたえることを覚えていることは大切です。私たちの祝福がどこから来たのか、自分に思い起こさせるべきです。(申命記6:10〜12)

この詩篇では、ダビデはそうしました。

私のただの意見ですが、おそらく、神様がダビデのバテ・シェバとの罪を赦し、ダビデの息子アブサロムの反乱の後に、神様がイスラエル王国をダビデに返されたときに、ダビデはこの詩篇を書いたのではないでしょうか。(第二サムエル記11〜19章)

あなたはどうでしょうか。主をほめたたえるように、毎日、自分の心を導いているでしょうか。

主のみこころを行い、主に仕える者たちよ。主をほめたたえよ、すべて造られたものたちよ。 主が治められるすべてのところで。

わがたましいよ 主をほめたたえよ。(21ー22)

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主をほめたたえよう!

先週末、かつて私が通っていたハワイの教会は、「懐かしい賛美ナイト」を開催しました。彼らは、25〜30年前の賛美の歌ばかりを歌いました。

それだけではなく、その当時の賛美のリーダーたちも、私の友達も戻って来ました。彼らの多くは、神様の導きによって何年も前に別の教会に通い始めましたが、そのイベントのために戻って来ました。

私も行きたかったのですが、残念ながら日本にいるので、参加できませんでした。私は、写真や録画を見ることしかできませんでした。

でも、それを見て、私が初めてイエス様を愛するようになった日のことを思い起こしました。

興味深いことに、彼らが歌った歌の一つは、この詩篇から来たものでした。そして、この詩篇は、そのイベントの意味をよく表しています。それは、「賛美」です。

「ほめたたえる」という言葉は、13回も出てきます。(「ハレルヤ」とは、「主をほめたたえる」という意味です。)

この世界は、さまざまなトラブルに満ちています。そして、私たちはそのトラブルに思い悩むのは、簡単なことです。

でも、もしかしたら、私たちがそのトラブルから目を離して、イエス様に向かうべき時なのかもしれません。

そして、イエス様に向かう良い方法の一つは、イエス様を賛美することです。

イエス様の大能のみわざのゆえに、また、その比類なき偉大さのゆえに、賛美しましょう。

特に、このイースターの季節に、私たちの贖いを買い取ってくださったイエス様の死と復活のゆえに、賛美しましょう。

歌や、フルートや、ギターで賛美しましょう。

そうすれば、私たちの周りのトラブルは、イエス様の光によって、取るに足りない影のように見えるようになります。

だから、どんなトラブルに遭遇していても、そのものから目を離し、イエス様に向かいましょう。そして、イエス様をほめたたえましょう。

ほめたたえましょう!

ほめたたえましょう!

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喜びの理由

あなたがたは君主を頼みとしてはならない。 救いのない人間の子を。(詩篇146:3)

今日、その言葉は私の目に留まりました。特に、その最後の部分です。

「救いのない人間の子を頼みとしてはならない。」

でも、私たちクリスチャンは、救いのために人の子を信頼します。つまり、私たちはイエス様に信頼を寄せるということです。

なぜでしょうか。

なぜなら、イエス様は単なる人の子ではないからです。

むしろ、イエス様は、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって、力ある神の子として公に示された方です(ローマ1:4)。

単なる人間の子と違って、イエス様が死なれたとき、御自身の計画は滅び失せませんでした(4)。

むしろ、イエス様は復活して、永遠に生きておられる方です。

この世におられた時、イエス様は、飢えている者たちにパンを与え、目の見えない者たちの目を開け、かがんでいる者たちを起こされました。

そして、今、イエス様の十字架と復活によって、私たち霊的な囚人たちは解放されました。

また、ある日、イエス様はもう一度この世に来て、正義をもたらし、永遠に治められます。

だから、それを覚えていて、賛美しましょう。

ハレルヤ。

わがたましいよ、主をほめたたえよ。

私は生きているかぎり、 主をほめたたえる。

いのちのあるかぎり、 私の神にほめ歌を歌う。(1ー2節)

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神様に祝福され、神様をほめたたえる

私の神、王よ、私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなくほめたたえます。

日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。(詩篇145:1-2)

今朝、私はその言葉に心打たれました。特に、2節に心打たれました。

日ごとにあなたをほめたたえ。。。(2節)

「ほめたたえ」という言葉は、興味深い言葉です。多くの場合、この言葉は「祝福」と訳されます。

神様が私たちを祝福されるとき、それは神様が私たちの満たせないニーズを備えてくださるという意味合いがあります(例えば、8–9節、14–16節、18–20節)。

しかし、ある意味で、私たちも神様を祝福します。

けれども、私たちが神様を祝福する方法は、神様が私たちを祝福される方法とはまったく異なります。

神様には、まったくニーズがありません。

神様は、私たちの愛を必要としておられるわけではありません。

神様は、私たちの礼拝を必要としておられるわけではありません。

それでも、神様は私たちを造り、愛しておられるので、私たちの愛と礼拝を大いに喜ばれます。そういう意味で、神様は私たちに祝福されるのです。

だからこそ、いつも「神様、私を祝福してください」と祈るだけではなく、むしろ、神様に対して感謝と愛をもって、このように祈りましょう。

主よ、今日、私をご覧になるとき、私の言葉を聞き、私の思いや行為をご覧になるとき、あなたが祝福されますように。

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一日の良いスタートを切るため

私は花見が大好きです。

最近、花見に行って、この詩篇を思い出しました。

私は昔の日々を思い起こし、あなたのすべてのみわざに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。(詩篇143:5)

どれだけ、一日の始まりに、私たちはそのことを考えるでしょうか。

ダビデがこの詩篇を書いたとき、彼はいろいろなトラブルを抱えていました。もしかしたら、彼はサウルかアブサロムから逃走中だったかもしれません。

でも、絶望の時、彼はこう言いました。「私は思い起こし、思いを巡らし、静かに考えています。」

ダビデは何を思い起こしたのでしょうか。彼は、昔の話を思い起こしました。つまり、神様がどれだけご自分の民を助けてくださったかを思い起こしたのです。

たぶん、ダビデは、ノアの話やアブラハムの話やヤコブの話やヨセフの話やモーセの話やデボラの話やギデオンの話やサムソンの話を思い起こしたでしょう。

ダビデは何に思いを巡らしたのでしょうか。彼は、神様のみわざに思いを巡らしました。神様がダビデの先人を助けてくださったことにも、自分を助けてくださったことにも思いを巡らしました(例えば、第一サムエル記17:34–37)。

ダビデは何を静かに考えていたのでしょうか。

彼は、神様の御手の御業を考えていました。ダビデは、天や動植物やすべての創造物を静かに考えていました。

そのすべてを思い起こし、思いを巡らし、静かに考えていたとき、ダビデは、神様の力とご自分の民に対する憐れみを思い出しました。

ダビデの反応は?

それは、神様に頼る心です。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。。。

あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が平らな地に私を導いてくださいますように。(8-10節)

一日の始まりに、私たち皆がそんな心を持っていますように。

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一人ぼっちではない

私たち皆には、一人ぼっちだと感じるときがあります。ダビデも、そう感じたことがありました(詩篇142:4)。

ダビデの言葉は、私の心を打ちました。

声をあげて、私は。。。叫びます。 

声をあげて、私は。。。あわれみを乞います。

私は。。。自分の嘆きを注ぎ出し。。。 

私の苦しみを。。。言い表します。

誰にダビデはそうしていたのでしょうか。もちろん、主にそうしていたのです。

ダビデが一人ぼっちだと感じたのに、主はダビデと共におられました。そういうわけで、ダビデはこう言えました。

私の霊が私のうちで衰え果てたときにも、あなたは私の道をよく知っておられます。(3節)

また、

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生ける者の地での私の受ける分。」(5節)

あなたは自分が一人ぼっちだと思いますか。自分が捨てられたと感じていますか。

イエス様も、その感じがよく分かっておられました(マタイ27:46)。

しかし、神様はイエス様を、よみの牢に捨て置かれませんでした(使徒の働き2:25–32)。

神様は、あなたをも見捨てられません。

だから、主に声をあげましょう。主にあわれみを乞いましょう。

主に、自分の嘆きを注ぎ出しましょう。主に、自分の苦しみを言い表しましょう。

神様は、あなたの声に耳を傾けてくださいます。

そして、神様は、あなたを復活させてくださいます。

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自分の言葉を慎む

ヤコブによれば、舌を制することができる人は誰もいません(ヤコブ3:8)。

正直に言うと、私がいつも反省するのは、自分の言葉です。でも、ただ口で言うことだけではなく、SNSで書くことも考えます。「神様はその言葉を見て、喜ばれたのだろうか。」

140篇で、ダビデは、よこしまな人の言葉が蛇のように鋭く、まむしの毒のようだと言います(詩篇140:3)。

でも、141篇では、ダビデはこのように祈ります。

主よ、私の口に見張りを置き、私の唇の戸を守ってください。(詩篇141:3)

それを読んで、今日、私もそのように祈りました。

主よ。私の口に見張りを置いてください。私の唇の戸を守ってください。

私を探り、私の心を知ってください(詩篇139:23)。

私の言葉があなたを悲しませるとき、教えてください。

私の口のことばと、私の心の思いとが御前に受け入れられますように(詩篇19:14)。

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心を神様に開く

自分の物の見方によって、詩篇139篇は心強いものかもしれませんし、もしかしたら、怖いものかもしれません。

なぜなら、この詩篇によれば、神様は私たちのことを隅々まで知っておられるからです。神様は、私たちの思いや言葉や行為のすべてを知っておられます。

もし、私たちを本当に愛してくださる神のイメージを持っていたら、それは本当に心強いことでしょう。

でも、私たちをストーキングする怪しい神のイメージを持っていたら、それは本当に怖いことでしょう。

しかし、この詩篇では、ダビデが神様をどのような方だと思っていたかが明らかです。つまり、ダビデは、自分に対する神の愛を確信していたということです。

そういうわけで、ダビデは自分の心を神様の探っておられる目に向けて開きました。

ダビデは、自分の良い心を確信していたのではありません。むしろ、ダビデは、神様の慈しみを確信していました。

その確信をもって、ダビデはこのように祈りました。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ 私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

あなたはどうでしょうか。神様をどのような方だと思いますか。

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主の恵みとまことのゆえに

主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。 主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。(詩篇138:8)

ある英訳では、上の言葉はこのように翻訳されています。

「主は私に関するすべてのことを完成させてくださいます。」

その翻訳が大好きです。私はそれを読んで、パウロの言葉を連想しました。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。(ピリピ1:6)

どうして、ダビデとパウロはその確信を持っていたのでしょうか。自分の良い行いと忠実さによって、その確信を持っていたのでしょうか。

違います。

彼らは、主の恵みがとこしえにあることを信じたからこそ、その確信を持つことができました。

だから、ダビデと一緒に歌いましょう。

心を尽くして 私はあなたに感謝をささげます。御使いたちの前で、あなたをほめ歌います。

私は、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、恵みとまことのゆえに、御名に感謝します(1ー2節)

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主の恵みを省みる

詩篇136篇では、詩人は、イスラエルに対する神様の慈しみと恵みを省みます。 この詩篇の初めから、彼はその憐れみと恵みについて歌っています。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
主の恵みはとこしえまで。(詩篇136:1)

どれだけ私たちに対する神様の慈しみと恵みを省みるでしょうか。

たぶん、私はあまりしていないように思います。

でも今日、詩篇136篇を自分なりに書いてみました。

その詩は以下のとおりです。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。 主の恵みはとこしえまで。

私が生まれる前に、主は私の両親をご自分のもとに引き寄せてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が7才の時、主は私をご自分のもとに引き寄せてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が教会に興味を失ったとき、主はご自身を私に現してくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

主は子どもへの奉仕活動に導いてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が子どもへの奉仕活動から燃え尽きたとき、 主の恵みはとこしえまで。

また、私が霊的な砂漠を渡っていたとき、 主の恵みはとこしえまで。

主は私をその砂漠から導いて、私の魂を生き返らせてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

主は私を日本に導いてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私に妻を与えてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私に娘も与えてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

私が失業したとき、 主の恵みはとこしえまで。

経済的に苦しんだとき、 主の恵みはとこしえまで。

主は私のすべてのニーズに備えてくださいました。 主の恵みはとこしえまで。

神様の導きによって、私は25年ほど日本で宣教師として働いてきました。 主の恵みはとこしえまで。

私の弱さや頑固さや失敗にもかかわらず、 主の恵みはとこしえまで。

私は天の神に感謝します。 主の恵みはとこしえまで。

それは、私の物語の一部分です。あなたの物語は何ですか。その物語を書きましょう。

神様の慈しみを心に留めておきましょう。

あなたに対する神様の恵みを覚えておきましょう。

そして、その話をご主人や奥さんや子どもや友達に伝えましょう。そうすれば、彼らも神様の慈しみと恵みを見ることができます。

主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
主の恵みはとこしえまで。(1)

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主に仕える人を励ます

さあ、主をほめたたえよ。 主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。

聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。(詩篇134:1ー2)

エルサレムにたどり着くと、巡礼者たちは神殿で仕える人たちに上の言葉を歌いました。

それを聞いて、その神殿で仕える人たちは巡礼者たちを祝福しました。(3)

神殿で仕える人たちに、手を上げて主をほめたたえるように促すことは、ちょっと不思議だと思わないでしょうか。それは彼らの仕事ではないでしょうか。

でも、主に仕える人たちには、危険があります。それは、彼らが心を主に向かって礼拝することを忘れるほど、奉仕に集中してしまうことです。

だから、あなたが教会のリーダーなら、もちろん心を尽くして主に仕えてください。でも、それと同時に、主に向かって礼拝することを忘れないように注意してください。

そして、あなたが主に仕える人からよく祝福を受けるなら、その人を励ましてください。

もちろん、彼らに「ありがとうございます!」というべきです。でも、それよりも、彼らに主に向かって礼拝するように促しましょう。

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クリスマスの意義

今や私たちは、エフラテでそれを聞き、ヤアルの野でそれを見出した。

さあ、主の住まいに行き、主の足台のもとにひれ伏そう。(詩篇132:6-7)

旧約聖書の時代、主の契約の箱は神様の臨在の象徴でした。

でも、イスラエル人たちが神様に背を向けたとき、その箱はペリシテ人たちに奪われました。ペリシテ人たちはその契約の箱を返しても、イスラエル人たちはずっと契約の箱を無視しました。(第一サムエル4-7章;歴代誌第一13:3)

でも、この詩篇では、詩人は、ダビデが契約の箱をキルヤテ・エアリムというところからエルサレムまで運んだことを祝います。(歴代誌第一15章)

また、詩人はダビデに対する神様の約束を思い出します。つまり、神様がダビデの王朝を永遠に守るということです。

旧約聖書では、二つのエフラテがあります。一つ目は、キルヤテ・エアリムにあります。

でも興味深いことは、別のエフラテ、つまり、ベツレヘムでイエス様がお生まれになって、神様はダビデに対する約束を守ってくださったということです。(ミカ5:2;マタイ2:5)

そして、イエス様がお生まれになった後、東の方から博士たちはこう言いました。

ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。(マタイ2:2)

さらに、イエス様の十字架によって、神様の祭司たちとして、私たちに救いをまとわせて、喜び歌います。(16)

そして、ある日、神様はイエス様のすべての敵をイエス様の足の下に置かれます。(第一コリント15:24-27)

その日、イエス様の王冠が光り輝きます。(18)

だから、心に留めておきましょう。クリスマスの意義は、イエス様が2000年前に来られたということだけではありません。クリスマスの意義は、イエス様がもう一度この世に来られるということです。

その日、私たち皆は歌います。

この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。(黙示録11:15)

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豊かな贖い

イスラエルよ、主を待て。

主には恵みがあり、豊かな贖いがある。 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(詩篇130:7ー8)

その言葉を読んで、ヨセフに対する天使の言葉を連想しました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私たちは罪によって壊れた世界に住んでいます。

あなたの人生は自分の罪や失敗によって壊れたかもしれません。

もし神様が私たちの罪に目を留められていたら、私たちは神様の御前に立つことができないでしょう。(3)

でも、主を待ち望みましょう。

主には恵みがあります。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実です。(第二テモテ2:13)

そして、イエス様の血によって、私たちは贖いを得ています。でも、ただの贖いではなく、豊かな贖いを得ているのです。

私たちはみな、(キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:16ー17)

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イエス様が苦しんでおられたから

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。」 さあ イスラエルは言え。

「彼らは 私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし 彼らは私に勝てなかった。耕す者たちは私の背に鋤をあて、長いあぜを作ったが。」

主は正しくあられ 悪しき者の綱を断ち切られた。」(詩篇129:1ー4)

この詩篇では、詩人は自分の苦しみを嘆きます。でも、最終的に主が自分を救い、自分の敵を呪うという希望を持っていました。

数百年後、イエス様も苦しんでおられました。

イエス様は、見下されることを深くご存じでした。イエス様は、苦しみを深く味わっておられました。ローマの兵隊は鞭でイエス様の背に鋤をあて、長いあぜを作りました。さらに、イエス様は十字架の恥と痛みをよくご存じでした。

しかし、神様はイエス様を復活させて、よみから救い出してくださいました。

でも、最も大切なのは、イエス様の苦しみによって、私たちが神様との平和を持っているということです。(イザヤ書53:4ー5)

そういうわけで、イエス様がお生まれになったとき、天使たちは私たちを呪いませんでした。

むしろ、天使たちは神様を賛美し、私たちに対する神様の祝福を宣言しました。

いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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感謝する理由

詩篇100篇のタイトルは「感謝する賛歌」です。

この詩篇を反芻しているとき、私が思ったのは、旧約聖書の時代の詩人がこの詩篇を書いたけれど、新約聖書の時代の詩人の言葉のように聞こえるということです。

どうして私はそう思うのでしょうか。

なぜなら、その詩人は、ユダヤ人だけではなく、すべての人々に神様を礼拝するように促しているからです。

イエス様が十字架で死なれる前に、神様を礼拝する理由を持っていた人々は、ユダヤ人たちでした。

神様に近づく特権を持っていた人々は、ユダヤ人たちでした。なぜなら、神様は特に彼らを御自分の民、また、御自分の羊として選ばれたからです。

でも、十字架の後、イエス様を信じるすべての人々は、ユダヤ人でもユダヤ人でなくても、神様に近づくことができます。私たち皆は、「私は神の民です。私は神の羊です」と言う権利を持っています。

だから、喜びをもって主に仕えましょう。喜び歌いつつ神様の御前に進みましょう。

大胆に神様に近づいて、主に感謝し、ほめたたえましょう。そして、詩人と一緒に歌いましょう。

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100:5)

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主の家にたどり着くとき

これは、もう一つの都上りの歌です。ユダヤ人たちはエルサレムに巡礼する時、この歌を歌っていました。

詩篇126篇では、彼らはバビロンからの追放の後、エルサレムに戻ってきたときの喜びを思い起こしています。

でも、彼らはもう一度祈ります。

私たちを元どおりにしてください。(詩篇126:4)

そして、彼らは、自分の涙が喜びに変わる日を心待ちにしています。

私は以前にも言いましたが、私たちも巡礼している途中です。私たちは新しいエルサレムに巡礼しているのです。

そして、黙示録で、ヨハネはこの詩篇と同じような描写をしています。ヨハネの幻の中で、この世でキリストのために苦しんでいたクリスチャンたちは、喜びを持ってこう歌いました。

救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。(黙示録7:10)

そして、長老の一人は彼らについてこう言いました。

彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。

御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。

彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。

御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(黙示録7:15-17)

詩人が言ったように、私たちは涙とともに種を蒔くかもしれませんが、主の家についにたどり着くと、私たちは喜び叫びながら刈り取ります。そして、その喜びを私たちから奪い去る者はありません。(詩篇126:5、ヨハネ16:22)

 

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もしも、 主が私たちの味方でなかったなら

もしも、 主が私たちの味方でなかったなら。」

さあ イスラエルは言え。

「もしも、主が私たちの味方でなかったなら。。。(詩篇124:1ー2a)

それを読んだとき、私は牧師の最近のメッセージを思い出しました。

「もしも、主が私の味方でなかったなら、もしも、主が私を救ってくださらなかったら、私は今、どこでどうしていただろうか。」

どうでしょうか。

私の父は若い頃、とても短気な人だったので、私はいつも父を怖がっていました。でも、神様が父の心に働いてくださったので、私の父との関係は癒されました。さらに、その経験によって、私はより良い夫とパパになることができました。

でも、私自身もいろんな弱さや罪を持っています。もし神様が私の心に働いてくださらなかったら、その弱さや罪によって、私の人生はとてもめちゃくちゃになっていたと思います。

でも、何よりもまず、主が私の味方でなかったなら、私はまだ自分の罪の中にいて、地獄への道を歩んでいたと思うのです。

神様は、私をそのすべてから救ってくださいました。だから、私は歌います。

ほむべきかな 主。。。

鳥のように 私たちのたましいは 仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ 私たちは助け出された。

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(6ー8)

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ただのしもべではない

まことに、しもべたちの目が主人の手に向けられ、仕える女の目が女主人の手に向けられるように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。(詩篇123:2a)

その言葉を読むとき、「私たちは神様のしもべです。私たちはいつも神様に向かい、神様が私たちに何をしてほしいか考えるべきです。」と考えるのは自然な反応だと思います。

もちろん、神様のしもべとして、私たちはそうするべきです。

だから、私はその次の言葉を読んだとき、ちょっとびっくりしました。

主が私たちをあわれんでくださるまで。 (2b)

そして、詩人は叫びます。

あわれんでください、主よ、あわれんでください。私たちは蔑みでいっぱいです。(3)

私たちの神様との関係で驚くべきことは、神様が私たちをただのしもべと見なしておられないことです。

むしろ神様の目には、私たちは尊い存在です。神様は私たちを心から愛しておられます。

だから、私たちが神様に叫ぶと、神様は私たちの声を聞き、祈りに答え、私たちをあわれんでくださるという確信を持つことができます。

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神の民と共に感謝を選ぶ

神のおきてに従って、
イスラエル中の主の民がここに集まり、
主を礼拝し、感謝と賛美をささげるのです。(詩篇122:3ー4、リビング・バイブル)

私はその言葉を読んだとき、本当に印象に残りました。

イスラエル人たちは一年に三回、特別な祭りのためにエルサレムに行き、神様に感謝を捧げるように命じられました。

もちろん、クリスチャンとして私たちには、その祭りを祝う必要はありません。でも、私たちは主にあって喜び、主に感謝を捧げるように命じられています。(第一テサロニケ5:16ー18)

特に私たちは、主の民と共に集まり、そうするべきです。(エペソ5:18ー20)

どうして、感謝の心を持つことがそれほど大切なのでしょうか。ローマ人への手紙1章には、一つの答えが記されています。

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。(ローマ1:21)

自分の問題に集中するのは簡単なことです。でも、そうすると、私たちはすぐに絶望し、苦々しい思いを抱き、神様を疑い、この世の考え方に従い始めてしまいます。そして、私たちの心は鈍くなり、暗くなってしまいます。

私たちがその罠に陥らないように祈りましょう。むしろ、神様から受けた祝福を思い起こし、喜ぶことを選びましょう。

そして、どんな問題があっても、クリスチャンの交わりを避けないようにしましょう。

むしろ、ダビデと共に歌いましょう。

「さあ 主の家に行こう。」 人々が私にそう言ったとき、私は喜んだ。(詩篇122:1)

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主と共に歩む巡礼

詩篇121篇のタイトル(実は、121篇から134篇までのタイトル)は、「都上りの歌」です。

ユダヤ人たちはエルサレムに巡礼したとき、この歌を歌いました。

でも、私たちも巡礼の旅の途中にいます。私たちは新しいエルサレムに向かって巡礼しています。(黙示録21:2)

この巡礼は長い旅です。私たちがクリスチャンになった瞬間に、神様に天国へ連れていかれたわけではありません。

この旅は時に辛く、私たちは苦しむこともあります。でも、この詩篇は、私たちの助けがどこから来るのかを思い出させます。

天地を造られたお方が、私たちと共におられるのです。(2)

また、神様はまどろむこともなく、眠ることもありません。(4)

ですから、何が起こっても、神様の御手は毎日、私たちの上に置かれているのです。

この詩篇を読むとき、イエス様の言葉を思い出します。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。(ヨハネ14:18)

また、イエス様が弟子たちのために、そして私たちのために祈られたことは、この詩篇の内容を反映しています。

わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。

聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。。。

わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:11、15)

もちろん、私たちが決して苦しまないというわけではありません。イエス様の弟子たちの多くが自分の信仰のために殺されました。

でも、神様はいつも私たちと共に歩んでおられます。神様が私たちを見捨てることはありません。

そして、最終的に、神様は私たちを主の家に導いてくださいます。

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神の恵みを求めて

詩篇119篇を読むとき、私はいつも神様とそのみ言葉に対するダビデの熱意に感動します。彼は本当に神様を愛し、神様を喜ばせたいと思いました。

それでも、ダビデは、自分が神様の恵みを必要とするのが分かりました。

彼はこう叫びました。

どうか、私の道が堅くされますように。あなたのおきてを守るために。(詩篇119:5)

でも、彼は自分の弱さを認めました。

私は、滅びる羊のようにさまよっています。(176)

だから、彼は何度も神様の恵みを願いました。

神様が彼に教えてくださるようにと、何度も祈ったのです。(12、29、33、66、68、108、124)

神様が彼の霊的な目を開くように願いました。(18)

神様が彼に悟らせるように願いました。(27、34、73、125、144、169)

神様の御言葉に従うために、彼は神様の導きを願いました。(35)

彼は、神様とそのみ言葉に傾いている心を願いました。(36)

彼がむなしいものを見ないように、神様が彼の目をそらせるように願いました。(37)

そして、神様があわれみと恵みによって、彼を取り扱ってくださるように願いました。(58、124)

完全な人は誰もいません。私たち皆は、神様の恵みを必要とします。だから毎日、この詩篇にあるダビデの祈りを祈りましょう。

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私の門、私の義

天のお父様、あなたは私のために義の門を開けてくださいました。

イエス様は私の門です。(ヨハネ10:9)

イエス様は私の義です。(第一コリント1:30)

イエス様によって、私はあなたに近づくことができます。(へブル10:19ー22)

だから今、私はあなたの御前に立って、あなたを感謝します。なぜなら、あなたは私に答え、私の救いとなられましたから。(詩篇118:19ー21)

家を建てる者たちが捨てて、十字架にかけた石は、あなたの教会の要の石となりました。(詩篇118:22、使徒の働き4:10ー12、エペソ2:19ー22)

天のお父様、これはあなたがなさったことです。私たちの目には不思議なことです。これはあなたが設けられた日です。この日を楽しみ喜びます。(詩篇118:23ー24)

主よ。あなたはまことにいつくしみ深い方です。その恵みはとこしえまでです。(詩篇118:1)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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 神の恵みとまこと

最近、ヤコブの人生の後半に関するメッセージをしました。ヤコブにとって、そのときは本当に辛いものでした。彼の妻と父が亡くなり、彼の一番愛していた息子であるヨセフも死んだと思いました。

そのとき、苦々しい思いをもって、皮肉っぽくこう言えたかもしれません。

私たちの神は 天におられ、その望むところをことごとく行われる。(詩篇115:3)

でも、ヤコブの晩年、彼が分かってきたのは「神様は気まぐれな方ではありません。神様は、いつも計画を持っておられます。そして、その計画は良いものです。神様は良い方です。」ということです。

この詩篇は、ヤコブが亡くなってから数百年後に書かれたけど、私は、ヤコブがこの歌を歌うのを想像できます。

イスラエルよ、主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。(9節)

たぶん、長い間ヤコブは、自分が神様に見捨てられたと思っていました。でも、人生の終わりに、彼はこう歌うことができました。

主は私たちをみこころに留め 祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し。。。

主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も、大いなる者も。(12ー13節)

だから、あなたの人生が辛くて、神様に見捨てられたと思うなら、ヤコブの話を覚えていてください。そして信仰をもって、こう歌いましょう。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。 あなたの恵みとまことのゆえに。(1節)

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祈り

主よ、あなたは私たちの岩を打ちました。つまり、十字架で、あなたはイエス様を打ちました。そういうわけで、イエス様を通して、私たちは生ける水を受けています。

私たちの霊的な乾きを癒してください。(第一コリント10:4; 出エジプト記17:6; 民数記20:7ー11; ヨハネ4:10、7:37ー39)

私たちはかつてサタンの国に属し、罪の奴隷でしたが、あなたは私たちを救い出してくださいました。(コロサイ1:13)

だから、今、私たちがあなたの聖所となるように。私たちがあなたの王国となるように。(エペソ2:16ー22; 黙示録1:5ー6)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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ご自身を低くされた神

過ぎ越しの祭りの際、ユダヤ人たちは普段、詩篇113ー118篇を歌っていました。

最後の晩餐で、イエス様とその弟子たちが歌ったとき、たぶんその詩篇を歌ったのでしょう。(マタイ26:30)

だから、4ー6節は私の心を打ちました。

主はすべての国々の上に高くおられ その栄光は天の上にある。

だれが私たちの神、主のようであろうか。

主は高い御位に座し、身を低くして 天と地をご覧になる。(詩篇113:4ー6)

でも、神様はただご覧になったわけではありません。むしろ、神様はご自身の栄光を置いておいて、人間になり、私たちの罪のために死んでくださいました。(ピリピ2:5ー8)

イエス様の十字架の働きのおかげで、私たちはちりから起こされ、罪のあくたから引き上げられました。

さらに、神様は私たちを王の子供たちとして、イエス様と共に天上に座らせてくださいました。(詩篇113:7ー8、エペソ2:1ー7)

それを覚えていて、詩人と共に歌いましょう。

ハレルヤ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。 主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで 主の御名がほめられるように。

日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1ー3)

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キリストの性格に生きる

1節では、詩人はこのように語っています。

幸いなことよ、主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。(詩篇112:1)

でも、主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は、どのような人でしょうか。

パリサイ人たちは、主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶと主張しました。ある意味で、彼らは義によって特徴づけられていました。それでも、彼らは情け深く、あわれみ深い人ではありませんでした。

主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は、情けやあわれみ、そして神様の義によって特徴づけられています。

イエス様は、そのような方でした。

多くのクリスチャンたちは、神様の戒めを抱きながら、情けやあわれみを忘れてしまいます。

その一方で、あるクリスチャンたちは、情けやあわれみを大切にしながら、神様の義を手放してしまうことがあります。

そのため、彼らはこう言います。「その戒めは私たちのためではありません。神様は、私たちがそのように生きることを望んでおられません。」

でも、私たちクリスチャンは、情けやあわれみ、そして神様の義によって特徴づけられるはずです。

私たち皆が、キリストの性格によって特徴づけられるように。

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王なる祭司への祈り

イエス様、あなたはダビデの主でした。あなたは、私の主です。(マタイ22:41ー45)

あなたは、天の父の右の座に着いておられます。あなたは、すべてを治めておられます。(へブル人への手紙1:3、8:1、10:12、12:2)

さらに、あなたは永遠に私の祭司でした。あなたは、いつも生きていて、私のためにとりなしをしておられるので、私を完全に救うことができます。(へブル人への手紙7:24ー25)

そういうわけで、この霊的な戦いにおいて、私は喜んであなたに仕えます。

私たちは人間と戦うのではなく、霊的な力と戦っています。その霊的な力は、人々を滅ぼそうとしています。(エペソ人への手紙6:12)

だから、私の周りの人々に、あなたの愛で触れるために、私を用いてください。

ここに私がおります。私を遣わしてください。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの望み、私たちの喜び

最近、私はヨハネ14章から16章をよく読んでいます。だから、この詩篇を読んだとき、私はこう思いました。

「この詩篇を歌ったとき、イエス様の弟子たちの心には、ヨハネ14章から16章にあるイエス様の言葉がどれほど思い浮かんだでしょうか。」

その時、イエス様はまもなく十字架にかかられることをご存じだったので、弟子たちに、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言われました。

ぺテロはその言葉を受け入れず、いつものように自信満々で、イエス様に「あなたのために、私は命を捨てます」と言いました。

しかし、イエス様は彼に、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と言われました。

それを聞いて、ぺテロと他の弟子たちは本当に悲しみました。(ヨハネ13章33〜38節)

だから、イエス様は彼らに語られました。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14:1)

イエス様が復活されたあと、弟子たちがこの詩篇を歌った時、イエス様の言葉は彼らの心に深く響いたでしょう。つまり、

神よ、私の心は揺るぎません。 私は歌い ほめ歌います。 私の心の底も。(詩編108:1)

ダビデのように、彼らは、自分の力ではなく、むしろ神様の忠実さに信頼することを学びました。

イエス様が彼らに「わたしは去って行く」と言われた時、弟子たちはダビデのようにこう考えていたでしょう。

神よ、あなたは私たちを拒まれるのですか。 神よ、あなたはもはや、私たちとともに出陣なさらないのですか。(詩篇108:11)

しかし、イエス様は彼らを励まされました。

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。(ヨハネ14:18ー19)

数年後、聖霊に満たされた弟子たちは、ダビデの言葉をどれほど勝利に満ちて歌ったでしょうか。つまり、

神にあって私たちは力ある働きをします。 神こそが、私たちの敵を踏みつけてくださいます。(詩篇108:13)

その言葉を歌った時、彼らはあの晩に語られたイエス様の最後の言葉を思い起こしたでしょうか。

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。

しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)

そして、彼らが復活された主を思い出した時、彼らの心はどれほどダビデの言葉を歌ったでしょうか。

主よ、私は諸国の民の間で あなたに感謝し、もろもろの国民の間で あなたをほめ歌います。

あなたの恵みは大きく、天の上に及び あなたのまことは雲にまで及ぶからです。

神よ、あなたが天で、あなたの栄光が全地であがめられますように。(詩篇108:3ー5)

イエス様の弟子たちのように、私たちは生きておられる救い主に仕えています。だからこそ、彼らのように、イエス様にある望みを喜びましょう。

 

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主に贖われた者は、そう言え。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

主に贖われた者は、そう言え。(詩篇107:1ー2)

その最後の言葉は私の目に留まりました。

主に贖われた者は、そう言え。

私たちは何を言うべきでしょうか。

主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

私たちの人生が順調な時、それを口にするのはたやすいことでしょう。

しかし、人生が思うように進まない時はどうでしょうか。

主が良いお方だと感じられない時もあります。

主の愛が途絶えたように思える時もあります。

けれども、その真理は私たちの感情によって左右されるものではありません。

だからこそ、その言葉の真実さを感じられない時こそ、私たちは意識的に自分自身に思い起こさせる必要があります。

「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

私たちはすぐに物事を忘れてしまいます。 特に、主が私たちのためにどんな良いことをしてくださったかを、すぐに忘れてしまいます。

イスラエルの民も、しばしばそのように失敗しました。(詩篇106篇)

私たちは、彼らの模範に倣わないようにしましょう。

あなたは今、苦しみの中にいるでしょうか。

少し時間を取って、神様があなたのためにしてくださった良いことを思い起こしましょう。 過去に神様がどのようにあなたの人生に働かれたかを思い起こしましょう。 そして、神様に感謝をささげましょう。

しかし、何よりもまず、この信仰の言葉を告白することを選びましょう。

主はまことにいつくしみ深い。 その恵みはとこしえまで。

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弟子の祈り

味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。(詩篇34:8)

主よ。私は慈しみを味わったことがあります。でも、あなたの慈しみをもっともっと味わいたいと思います。

聖書を読むとき、私があなたの慈しみを味わうように。

私が祈って、あなたの御声を聞くとき、私があなたの慈しみを味わうように。

あなたが私の祈りに応えてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私がもう一度失敗して、罪に落ちるとき、あなたの赦しの甘さを知って、あなたの慈しみを味わうように。

試練に直面して苦しむとき、私の弱さと力不足を見るとき、私があなたの恵みは私に十分であり、あなたの力が弱さのうちに完全に現れることが分かるにつれて、あなたの慈しみを味わうように。

私が社会に出て、周りの人々に触れるにつれて、彼らがあなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の家族があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、私の友人や同僚や隣人があなたの慈しみを味わうように。

私を通して、あなたの民があなたの慈しみを味わうように。

そして、不完全な神の子供である私を通してあなたが人々に触れてくださるにつれて、私があなたの慈しみを味わうように。

私が毎日、何かとあなたの慈しみを味わうように。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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神様の恵みを当然と思い、神様ご自身を軽んじる?

私たちの先祖はエジプトであなたの奇しいみわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず。。。(詩篇106:7)

どれだけ、その言葉は、イスラエル人の先祖だけではなく、私たちにも該当するでしょうか。

私たちは神様の救いの奇しいみわざの意義を悟らず、十字架で現れた神様の豊かな恵みを思い出しません。

むしろ、私たちは、神様が私たちのためにしてくださったことを忘れてしまいます。(13a)

私たちは主のさとしを求めず、自分の知恵に従います。(13b)

私たちの古い罪深い生活のものを慕います。(14a)

私たちは神様を試み、神様が本当に私たちと供におられるかどうか疑います。(14b)

神様が備えてくださった良いものを軽んじて、神様の約束を疑います。(24)

私たちは不平を言って、神様の御声を聞きません。(25)

私たちの文化の道を行き、神様の道を捨ててしまいます。(35)

私たちの文化が礼拝する神々が私たちに対して罠になって、私たちはその神々に仕えます。(36)

私たちは自分の行為によって自分を汚し、神様に対して霊的な姦淫を犯してしまいます。(39)

そのすべてをそうするのに、私たちが悔い改めると、神様は私たちに恵みを豊かに与えてくださいます。

モーセや祭司ピネハスが神様の御前に立ち、イスラエル人のためにとりなしたように、イエス様は天の父の御前に立ち、私たちのためにとりなしてくださいます。(23ー30)

私たちが神様の恵みを当たり前のものだと決して思わないように。私たちがイエス様とその十字架での苦しみを決して軽んじないように。

むしろ、感謝と賛美に満ちた心を持って、こう歌いましょう。

ほむべきかな イスラエルの神 主。 とこしえから とこしえまで。(48)

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絶えず神様を慕い求める

主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(詩篇105:4)

詩人は、「絶えず御顔を慕い求めよ」と言いましたね。

「ただ自分が困るときに御顔を慕い求めよ」と言いませんでした。

「ただ自分が圧倒されると感じるときに御顔を慕い求めよ」と言いませんでした。

むしろ、「絶えず御顔を慕い求めよ」と言いました。

でも、どれだけ私たちは自分の知恵と力に頼るでしょうか。私もよくそうします。

私たちは神様に言います。「私は大丈夫だよ。あっちに座って、リラックスしてください。」

そして、私たちは倒れてしまいます。

多くの場合、大きな勝利の後、私たちはそんな態度を取って、失敗してしまいます。

ヨシュアとイスラエル人たちは約束の地に入った時、二回そうしてしまいました。(ヨシュア記7、9)

アサ王もそうしてしまいました。(歴代次第に16章)

私たちがその罠に陥れられないように。

むしろ、

主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。(4節)

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神の慈しみと配剤

今日の詩篇を読むと、山上の説教にあるイエス様の御言葉を連想しました。

ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。

いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。

あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。(マタイ6:25ー26)

私は分からないけど、もしかしたら、イエス様はその言葉を言われたとき、この詩篇を考えておられたかもしれません。

この詩篇では、詩人は何回も、神様が動物に食べ物や、水や、住まいを備えてくださることについて話します。

もし神様が動物のことを心配してくださるなら、神様が私たちのことを心配してくださることはなおさらでしょう。

でも、どれだけ私たちは自分の心配事をくよくよとするでしょうか。

そうせずに、詩人の祈りを歌った方がいいと思います。

私はいのちの限り、主に歌い、生きるかぎり、私の神をほめ歌います。

私の心の思いが みこころにかないますように。

私は主を喜びます。(詩篇104:33ー34)

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神様が天から見下ろされたとき

主は、その聖なるいと高き所から見下ろし、天から地の上に目を注がれました。

捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者たちを解き放つために。

人々が主の御名をシオンで主の誉れをエルサレムで語り告げるために。

諸国の民や王国が 一つに集められて、主に仕えるために。(詩篇102:19-22)

その言葉を読んで、出エジプト記の話を連想しました。

イスラエル人たちはうめいて、死に定められた奴隷たちでした。でも神様は天から見下ろし、イスラエル人たちのうめきを聞き、彼らを解き放ってくださいました。(出エジプト記2:23-25,3:7-10)

そういうわけで、彼らは主の誉れを語り告げ、主に仕えました。

そのように、私たちは自分の罪のために死に定められた人々でした。でも、神様は天から見下ろし、私たちのうめきを聞いてくださいました。そして、神様の恵みによって、私たちは救われました。

それだけではなく、ある日、すべての国民、部族、民族、言語からの人々はいつまでも神様の御前に賛美し、神様に仕えます。(黙示録7:9-17)

だから、私たちは弱いとき、神様に叫ぶとき、神様がどれだけ素晴らしい神であるかを覚えていましょう。

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イエス様のようになる

主よ、あなたをほめたたえます。なぜなら、あなたは恵み深い神であり、あなたのさばきはいつも正しいからです。(詩篇第101:1)

私はあなたのようになりたいです。

皆の前だけでなく、私の家でも、全き心で生活したいです。(2)

主よ、この世の空しいものが私の考え方に影響を与えないようにしてください。むしろ、あなたの御言葉だけが私の考え方を形成するようにしてください。

私はこの世にいますが、この世のものではありません。だから、この世の罪が私にまとわりつかないようにしてください。(詩篇101:3–4)

むしろ、あなたの光が私を通して輝くようにしてください。

天のお父さん、私のところに来てください。イエス様、私のところに来てください。私とともに住んでください。(2、ヨハネ14:23)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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天国にいるかのように、今を生きる

詩篇100篇を読むと、私に思い浮かんだのは、天国で私たちがそのような人生を送るということです。

イエス様にある私たちの勝利のゆえに、私たちは主に向かって喜びの声をあげます。(詩篇100:1)

私たちは喜びを持って主に仕えます。私たちは主の御前に来て、喜びの歌を歌います。(2節)

私たちは主のものであることを認め、喜びます。(3節)

私たちは感謝と賛美に満ちた心を持って主の御前に来ます。私たちは主の御名をほめたたえます。(4節)

なぜなら、主はいつくしみ深く、その恵みは永遠まで、その真実は代々に至るからです。(5節)

それは素晴らしい天国の描写ですね。

でも、私たちが天国にいるまで待つ必要はありません。毎日、そのような人生を送りましょう。

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神の祭司、神の子供

詩篇99篇を読んだとき、私に思い浮かんだのは、モーセやアロン、サムエルと同じように、私たちも神様の祭司であるということです。(第一ペテロ2:9)

それは本当に驚くべきことですね。

私たちが神様を呼ぶと、神様は答えてくださいます。神様はご自身を私たちに現し、私たちに語り、ご自身の道を教えてくださいます。

主は雲の柱から私たちに語られませんが、私たちはさらに良いものを持っています。つまり、聖霊様が私たちのうちに住んでおられるのです。

私たちが失敗するとき、神様は私たちを赦してくださいますが、私たちの罪を無視されるわけではありません。むしろ、神様は私たちを懲らしめ、訓練されます。

でも、最も驚くべきことは、この偉大な神、この聖なる神がご自身を低くして人間となられたことです。そして、十字架で私たちの罪を背負ってくださいました。

だからこそ、私たちは神様の祭司として、また愛されている子どもとして、神様の御前に立つことができるのです。

それらは本当に驚くべきことではありませんか。

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悪を憎み、喜びを選ぶ

今朝、二つの聖句が私の目に留まりました。その言葉のゆえに、私は自分の心を探りました。

主を愛する者たちよ。悪を憎め。(詩篇97:10)

主を愛する人が悪を愛することはあり得ないことです。でも、私はどれだけ悪を憎むでしょうか。

特に、私は自分の罪をどれだけ憎むでしょうか。私には抱いている罪があるでしょうか。もしかしたら、その罪を抱いていないかもしれませんが、私はいつもその罪のために言い訳をしているでしょうか。

主よ、私が自分の罪を憎むように。

正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。(12節)

私はいろんなことについてぼやくことができます。でも、私たちは主にあって喜ぶために召されています。私たちは主に感謝するべきです。

もし私が毎日、喜ぶことと感謝することを選び続けたなら、私の態度はどれほど変わるでしょうか。

だからこそ、私は自分の救いを喜ぶべきです。神様の愛に感謝すべきです。神様の慈しみを喜ぶべきです。そして、神様が与えてくださった祝福に感謝すべきです。

主よ、毎日、あなたにあって喜ぶ心を与えてください。感謝の心を与えてください。

今日、あなたを喜び、感謝の心を保つことを選びます。

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主こそ王です

主こそ王です。。。

あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、
あなたは、とこしえからおられます。(詩篇93:12)

このトラブルに満ちて苦しんでいる世界には、それは心強い言葉でしょう。

主こそ王です。主はすべてのものを治めておられる方です。

主は、始めからこの世の王でした。

なぜなら、この世が造られる前に、神様はすでに存在しておられたからです。

そしてコロナや他の問題が発生するときも、神様はまったく心配しておられません。なぜなら、神様はその問題よりも力強い方だからです。

だから、こんな大変なとき、その真理に思いを巡らしましょう。

主こそ王です。

主こそ王です!!!

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喜びの理由

主よ。私は暗い世にいます。私の回りでは、人々の道徳観念は曲がって来たし、彼らは希望のない人生を送っています。

でも、私はあなたにあって喜ぶために召されています。私は新しい歌を歌うために召されています。なぜなら、あなたは私に喜びの理由を与えてくださったからです。(詩篇96:1-2)

あなたは私を救い、私の罪を赦し、私に新しい命を与えてくださいました。

だから、私はあなたに日から日へと御救いの良い知らせを告げるために召されています。また、私はあなたの栄光や奇しい救いのみわざを死にかけている人々に伝えるために召されています。(3節)

主よ。彼らは力のない偽りの神々に従っています。でも、私たちはあなたを礼拝します。あなたは大いなる方、大いに賛美される方です。

あなたは王です。そして、ある日、あなたは正義と真実をもって、この世の民を裁かれます。(4-5,10,13節)

主よ、私はその日を楽しみにしています。

でも、私の回りにいる、たくさんの人々はあなたをまだ知りません。あなたの慈しみを知らないし、あなたの救いを知らないのです。

彼らが私の中にあるあなたの喜びを見るようにしてください。そして、あなたの奇しい救いのみわざを彼らに伝える機会を与えてください。

また、あなたの福音を伝える勇気を私に与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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救いの岩への祈り

主よ。あなたは、私の救いの岩です。マサとメリバで、岩が打たれて、命を与える水が出たように、あなたは十字架で打たれて、私に永遠の命を与えてくださいました。(出エジプト記17:1ー7、第一コリント10:4;ヨハネ4:10ー14、7:37ー39)

あなたがサタンや罪や死に勝ったので、私はあなたにあって大喜びます。あなたが私に与えてくださった恵みを本当に感謝します。(詩篇95:1ー2)

あなたは大いなる神です。あなたはすべての「神々」にまさって、大いなる王であります。

あなたはすべてのものを創造されました。(3ー5節)

そういうわけで、私はあなたの御前に来て、ひれ伏し、膝をかがめます。私はあなたの御前にひざまずきます。なぜなら、あなたは私の神だからです。また、あなたは私の羊飼いです。私はあなたの羊です。私はあなたのものです。(6ー7)

私がいつもその真理を覚えていられるように助けてください。

試練に直面して苦しんでいるとき、私があなたを疑わないように助けてください。私が「あなたは私と共におられないのか」という反抗的な態度を決して持たないようにしてください。(出エジプト記17:7)

あなたはすでに私に対するご自身の愛と慈しみを証明してくださいました。

ですから、私があなたに信頼するように助けてください。私に何が起こっても、私があなたの安息に入り、毎日あなたにあって喜ぶように助けてください。

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正しい物の見方を保つ

今朝、詩人の言葉は私の心を打ちました。

主に感謝することは良いことです。いと高き 方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。朝に、あなたの恵みを夜ごとにあなたの真実を告げることは。(詩篇92:1-2)

正直に言うと、私はその言葉にもっと従うべきです。

多くの場合、朝に私が起きるとき、私が最初に聞くのはニュースです。でも、そうすると、全然、神様を賛美する気になりません。逆に、多くの場合、ニュースは私の態度に悪い影響を与えてしまいます。

また、寝る前に、私は神様の真実をあまり考えません。

もし、毎朝、私が神様の恵みを喜び、また、毎晩、私が神様の真実を告げるなら、どれだけ、私の態度は変わるでしょうか。起きる時と寝る時だけではなく、私の態度は一日中どれだけ変わるでしょうか。

 

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恐れはない

詩篇91篇を読むとき、私は「この詩篇は約束しすぎるんじゃないかなぁ」とよく考えます。

「私たちが神様に信頼を寄せれば、私たちの問題のすべてはなくなるのだろうか。」

実は、イエス様を誘惑したとき、サタンはこの詩篇を曲げました。「神殿の屋上から下に身を投げなさい。この詩篇によれば、御使いたちはあなたを守るでしょう?」

そして、あるクリスチャンによれば、私たちは決して病気にならないはずだし、問題のない人生を送るはずです。

でも、今日この箇所を読んだとき、私はイスラエル人たちのエジプトの経験を考えました。

エジプト人たちは神様の裁きを受けました。つまり、彼らは疫病や荒らす滅びに苦しんだということです。また、夜襲の恐怖を経験して、彼らの長男たちは亡くなりました。

でも、神様がイスラエル人たちを守ってくださったので、彼らはその恐ろしい裁きから逃れました。

聖書では、そんなパターンを何回も見ることができます。神様に反抗する人たちは裁かれるけど、神様の民はその裁きから逃れます。(エゼキエル書9章、第2ペテロ2:4ー10;黙示録7:1ー3、9:1ー21)

そのように、ある日、神様はこの世を裁かれます。でも、私たちが神様に属し、私たちが神様に自分の隠れ家として信頼を寄せれば、私たちは神様の裁きを恐れなくていいのです。だから、ヨハネはこう言いました。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。

この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。(第一ヨハネ4:16ー18)

だから、もし神様があなたを罰しておられるかどうか疑問に思っているなら、大切な真理を覚えていましょう。それは、イエス様が十字架で私たちの罰をすでに受けてくださったということです。神様はあなたを罰しておられるわけではありません。

でも、私たちは神様の裁きだけではなく、サタンの攻撃をも恐れる必要がありません。聖書では、サタンは蛇やライオンに見立てています。(創世記3章、第一ペテロ5:8)

興味深いことですが、サタンはイエス様を誘惑するとき、この詩篇の11ー12節を引用したけど、13節を飛ばしました。

あなたは 獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじる。(詩篇91:13)

もしかしたら、サタンはその聖句を考えると、違和感を持っていたでしょう。なぜなら、神様は将来の救い主について蛇にこう言われたからです。

彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。(創世記3:15)

サタンが私たちを打つときもあります。でも、イエス様の傷のように、私たちの傷は致命傷ではありません。

サタンは私たちの体を殺すことができるけど、私たちの魂を滅ぼすことができません。そういうわけで、ある日、私たちは天国で喜び、神様を賛美します。(黙示録7:9ー17)

だから、神様の裁きやサタンの攻撃を恐れずに、神様の約束を心に留めておきましょう。

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。

彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。

わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与える。

わたしは、彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。(詩篇91:14ー16)

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神様の御言葉に思いを巡らす

神様の裁きに関するモーセの歌の言葉を考えて、ペテロはそのテーマを膨らませました。(詩篇90:3〜8)

そして、ペテロはモーセの言葉を引用しました。ちょっと考えてみてください。ペテロはモーセの祈りにどのように反応したでしょうか。つまり、モーセはこう祈りました。

「主よ、帰ってください。私たちはいつまでこの壊れた世界に住まなくてはならないのでしょうか。」(4、13節)

ペテロによれば、なぜ神様はこんなに長く待っておられるのでしょうか。神様は何のために待っておられるのでしょうか。

また、ペテロによれば、主はどのようにモーセの願いに答えられるのでしょうか。(14〜17節)

そして、イエス様がこの世に来られるまで、私たちが神様を恐れ、知恵をもって生活するとは、どういう意味でしょうか。(10〜12節)

ペテロは、自分の手紙の中で、そのすべてのことを考えました。だから、私たちもそうしましょう。でも、今日の聖句だけではなく、毎日そのように聖書を読みましょう。

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私たちの希望の理由

多分、詩篇88篇は最も暗い詩篇でしょう。でも、この詩篇では、私たちはイエス様の経験を見ることができます。

私は、イエス様がゲツセマネで、この言葉を祈ることを想像できます。

主よ、私の救いの神よ、昼私は叫びます。夜もあなたのみそばで。私の祈りをあなたの御前にささげます。どうか私の叫びに耳を傾けてください。(詩篇88:1-2)

そして、十字架で友達に見捨てられた時、死が近づいていた時、神様の怒りのすべてがイエス様の上に注がれたとき、イエス様がこの言葉を祈ることが想像できます。

私のたましいは、苦しみに満ち、私のいのちは、よみに触れていますから。私は穴に下る者たちとともに数えられ。。。

あなたの憤りが私の上にとどまり、あなたのすべての波で あなたは私を苦しめておられます。

あなたは、私の親友を私から遠ざけ、私を彼らの忌み嫌う者とされました。

私は閉じ込められて、出て行くことができません。。。

主よ、なぜあなたは私のたましいを退け、私に御顔を隠されるのですか。。。

あなたの燃える怒りが私の上を越えて行き、あなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました。(3-4、7-8,14,16)

そして、イエス様の死体がお墓にあったとき、イエス様の霊はこう歌ったかもしれません。

私は穴に下る者たちとともに数えられ、力の失せた者のようになっています。

私は、死人たちの間に放り出され、墓に横たわる、刺し殺された者たちのようです。

あなたはもはや彼らを覚えてはおられません。彼らは、あなたの御手から断ち切られています。

あなたは私を最も深い穴に置かれました。暗い所に、深い淵に。(4-6)

でも驚いたのは、詩人の最も暗い疑問がイエス様にあって答えられました。

あなたは死人のために、奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がり、あなたをほめたたえるでしょうか。

あなたの恵みが墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実が滅びの淵で。

あなたの奇しいみわざが闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地で。(詩篇88:10~12)

詩人にとって、その問いの答えは「いいえ」でした。

しかし、イエス様において、その問いの答えは「はい」です。

天の父は死人のために奇しいみわざを行われ、イエス様をよみがえらせました。しかも、イエス様の霊だけでなく、イエス様の御体も起き上がり、天の父をほめたたえました。

イエス様のゆえに、空のお墓で、み使いたちは神様の恵みと真実を宣言しました。さらに、イエス様のゆえに、罪と死によって暗くなった地に、神様の奇しいみわざと義が宣言されたのです。

そういうわけで、私たちは希望を持っています。たとえ物事がどんなに大変になっても、神様は忠実なお方であり、その憐れみは決して尽きません。だからこそ、エレミヤはこう言いました。

「私は待ち望む。主の恵みを。」

実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。

「あなたの真実は偉大です。」(哀歌3:21-23)

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神に属する者たち

旧約聖書の時代、神様がユダヤ人たちをご自身の民として召されたとき、エルサレムは「神の都市」と呼ばれました。

しかし、詩篇87篇では、詩人は将来のエルサレム、すなわち天上のエルサレムを思い描いています。(ヘブル12:22〜23)

おそらく、ユダヤ人たちはこの詩篇を初めて読んだとき、驚いたことでしょう。なぜなら、彼らが最も憎んでいた敵さえも神様の民と呼ばれていたからです。

ラハブ(すなわちエジプト)やバビロン、ペリシテの民が神様の民と呼ばれました。また、ツロやクシュ(すなわちエチオピア)の民も神様の民と呼ばれました。

神様は彼らについてこう言われました。「彼らは部外者ではない。彼らは真の市民である。なぜなら、彼らは私の都市に生まれたからだ。」(詩篇87:5〜6節)

黙示録において、ヨハネはそのことについて書いています。

その後、私は見た。すると見よ。

すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。

彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」(黙示録7:9ー10)

だから、私たちが誰であるかを忘れずにいましょう。

私たちは誰でしょうか。

私たちは神様に属する者です。

あなたが日本人であっても、韓国人、中国人、アメリカ人、オーストラリア人などであっても、イエス様を信じたとたん、あなたは神の国に生まれました。

パウロはこの真理を次のように説明しました。

(あなたがたは部外者であったとき)、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。。。

また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。

このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペソ2:12ー13、17ー19)

だから、私たちが誰であるかを覚え、神の民のすべての者たちとともに喜び歌いましょう。

私の泉はみな、あなたにあります。(詩篇87:7)

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詩篇のデボーション

一つの心

主よ、あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。

私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。

わが神、主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめます。

あなたの恵みは私の上に大きく、あなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださるからです。(詩篇86:11ー13)

どれだけ、私の心は分かれているものだろうか。

どれだけ、心配事や恐れのゆえに、私は気もそぞろなのだろうか。

どれだけ、私の心は罪やこの世のものに惹かれるのだろうか。

主よ。あなたの恵みは私の上に大きく、あなたは私の魂を死や地獄から救い出してくださいました。

私は真実ではなくても、あなたは常に真実でおられます。

だから、私の心を一つにしてください。私のすべての思いを取り押さえてください。私のすべての心配事や罪深い思いや愛着が、あなたの支配下にあるようにしてください。

私の心のすべてがあなたのものとなり、毎日、私のすべての行為において、私があなたを礼拝し、あなたの御名をあがめますように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの叫びに答えてくださる方

もしかすると、詩篇85篇は、ユダヤ人たちがバビロンの追放から帰還した後に書かれたものかもしれません。エズラ記やネヘミヤ記によれば、ユダヤ人たちはイスラエルに戻ったものの、なお多くの困難に直面していました。

そういうわけで、詩人は、ユダヤ人への神様のあわれみを認めたうえで(1〜3節)、神様に向かって叫びました。

帰って来てください。私たちのところに。私たちの救いの神。

私たちへの御怒りをやめてください。あなたは、とこしえに私たちに対して怒られるのですか。代々に至るまで御怒りを引き延ばされるのですか。

あなたは、帰って来て、私たちを生かしてくださらないのですか。あなたの民があなたにあって喜ぶために。

主よ、私たちにお示しください。あなたの恵みを。私たちにお与えください。あなたの救いを。(詩篇85:4〜7)

詩人の痛みから、多くの疑問が生まれたことでしょう。しかし、その疑問には最終的にイエス様によって答えが与えられました。

イエス様が十字架で天の父の御怒りを背負われたゆえに、神様は私たちに永遠に怒るわけではありません。私たちが神様にあって喜ぶために、神様は私たちを生かしてくださいます。

イエス様のゆえに、神様は私たちに恵みと救いを与えてくださいます。

イエス様のゆえに、神様は私たちに平和を告げられます。(ルカ2:14;エペソ2:17)

イエス様にあって、神様の恵みとまことは共に会います。(ヨハネ1:14、17)

イエス様にあって、平和と義は口づけします。(ヘブル6:20〜7:3)

神様が私たちから遠く離れていると感じるとき、また神様の愛を疑うとき——それらのときこそが、私たちの希望を思い出す機会です。

イエス様こそ私たちの希望です。だから、私たちが疑いや叫び声に満ちた困難な時にあるときでも、魂の錨であるイエス様にしがみつきましょう。(ヘブル6:18〜20)

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天の父がイエス様の御顔に目を留めるゆえに

私は詩篇84篇が大好きです。いろんなことについて書くことができますが、今日、8〜9節が私の目に留まりました。

万軍の神、主よ、私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。 セラ 。

神よ、われらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。(詩篇84:8ー9)

9節では、詩人は神様がイスラエルの盾や油注がれた者に目を留めるように祈りました。

「盾」も「油注がれた者」も、当時のイスラエルの王を指します。しかし、最終的に、これらの言葉はイエス様を指しています。

(ちなみに、「キリスト」と「メシア」は「油注がれた者」、つまり「神様に油を注がれた王」を意味します。)

では、神様が私たちの祈りを聞いてくださる理由を疑問に思ったことはあるでしょうか。

私たちが神様の恵みや好意に値するわけではありません。

むしろ、その理由は、天の父が私たちの盾をご覧になっているからです。天の父は、ご自身が油を注いだ者に目を留めておられます。そして天の父は、イエス様の十字架の御業をご覧になっています。

イエス様のゆえに、天の父は私たちに好意を持ち、恵みを与えてくださいます。

イエス様のゆえに、私たちは天の父の御前に近づくことができます。

イエス様のゆえに、私たちは涙の谷を通るとき、力から力へと進みます。

イエス様のゆえに、私たちはいつか永遠の住まいに辿り着きます。

だから、神様の素晴らしい恵みを覚えて、感謝しましょう。

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神に逆らう世界のために祈る

私たちは神様に対して敵対的な世界に生きています。つまり、人々は、自分が神様の支配下にあり、神様に対して説明責任を持っていることを認めたくないのです。

アサフはそのことをよく理解していました。だからこそ、アサフは、イスラエルに対する周辺の国々の憎しみを見たとき、その憎しみの根本的な理由が分かりました。つまり、彼らは先に神様を憎んでいたからです。

イエス様もその真理をよく理解し、それをご自身と弟子たちに当てはめられました(ヨハネ15:18ー25)。

しかし、ある日すべての人々が膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白します(ピリピ2:10ー11)。

ある人々は、愛と感謝をもって告白します。けれども、他の人々は神様に対する憎しみをもって、渋々それを告白します。

今日の詩篇には、その真理が示されています。

ある日、すべての人々は神様の主権を認めるようになります。彼らは、すべての人々が(自分を含めて)神様の支配下にあることを認めるようになります(詩篇83:18節)。

ある人々は、自分の罪のゆえに恥を負い、正当に裁かれて滅びます。ですから、悔い改めようとしない人々に関して、私たちは神様が正義を実行されるように祈ります。なぜなら、正義を決して実行しない神は、良い神ではないからです。

しかし、それ以上に、私たちは人々が自分の恥の中で悔い改め、神様の御顔を求めるように祈ります(16節)。

なぜでしょうか。それは、神様がご自身の恵みによって、私たちを憐れんでくださったからです。神様は、人々が滅びることなく、救われることを望まれます(エゼキエル書33:11;第一テモテ2:3ー4)。

ですから、神様に敵対するこの世界のために祈りましょう。世の人々が神様の御顔を求め、神様の恵みによって神様を見出すように祈りましょう。

こうして彼らが知りますように。その名が主であるあなただけが全地の上におられる、いと高き方であることを。(詩篇83:18)

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喜ぶように命じられた

私にとって、詩篇81篇4〜5節は興味深い箇所です。1〜3節でアサフは、「神様に喜び歌え」、「喜び叫べ」、「ほめ歌を歌え」と語っています。

そして、4〜5節でアサフはその理由を示します。神様への賛美は、神様からのおきて、定め、さとしなのです。

神様はイスラエル人をエジプトから救い出されたとき、神様にあって喜ぶように命じられました。

では、なぜ神様はそのように命じられたのでしょうか。それは、イスラエル人が、神様がどのように彼らを救ってくださったかを思い出すためです。

神様は彼らの重荷を除き、奴隷の生活から自由にし、荒野を通って約束の地へと導かれました。

神様は私たちにも喜ぶように命じておられます。なぜなら、神様は私たちの罪の重荷を除き、サタンの国における奴隷の生活から自由にしてくださったからです。

また、神様が私たちと共におられ、私たちを神の永遠の御国に導いてくださっていることを、私たちは喜ぶのです。

それを覚えていることが、なぜ大切なのでしょうか。それは、私たちが神様を信頼し、喜んで従うようになるためです。そして、私たちは神の御言葉に口を大きく開けるようになります。(10節、また、エレミヤ書15:16、エゼキエル書3:1〜3)

私たちはそれをするにつれて、神様の祝福を受けます。(16)

もし、神様が私たちを愛し、祝福したいと願っておられることを覚えていたら、今よりもどれほど私たちは神様を信頼し、従うでしょうか。

もし、神様の救いの御業を思い起こして喜ぶなら、今よりもどれほど私たちは神様の慈しみを覚えているでしょうか。

そういうわけで、聖餐式はとても大切なのです。聖餐式を行うとき、私たちは神様の救いの御業を思い起こし、喜びます。

このコロナのシーズン、多くの教会が聖餐式を行えない状況ですが、私はもう一度、聖餐式によって神様の民と共に、神様の救いの御業を思い起こして喜ぶことを楽しみにしています。

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私たちを元に戻してくださる方

詩篇80篇では、ほぼ同じ祈りが三度繰り返されています。

神よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(詩篇80:3)

万軍の神よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(7)

万軍の神、主よ、私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。(19)

私たちの唯一の救いの希望は、神様が私たちの心を変え、私たちを元に戻してくださることです。

最終的に、神様は十字架でその御業を成し遂げられました。その十字架によって、17節は成就しました。

天の父の右の座に着いておられる人の子、イエス様は、十字架で私たちの罪のために苦しみ、死んでくださいました。 イエス様がその使命を果たすために、天の父の御手はイエス様の上にあり、イエス様を強くしてくださいました。

だから今、イエス様の働きゆえに、天の父はご自身の御顔を私たちに照り輝かせてくださいます。さらに、天の父は私たちを元に戻し、私たちを救ってくださいます。

毎日、私たちが受けたこの素晴らしい恵みを喜びつつ歩むことができますように。

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次の世代へ信仰を伝えるために

詩篇78篇、特に最初の7節によって、私は親として挑戦されています。

私は自分にこの質問を訊いています。

どれだけ私は自分の娘に、神様が私の人生になさった素晴らしいことについて話しているだろうか。(詩篇78:4)

私は、どれだけ忠実に自分の娘に、聖書にある神の教えを伝えているだろうか。(5-6節)

私の言動によって、私は自分の娘に、神様を信頼し、従うように教えているだろうか。(7節)

娘が私の失敗を避けるように、私はどれだけその失敗について娘に話しているだろうか。(8節)

主よ、私の娘があなたを知り、あなたを愛し、あなたに従うために、上記のことを伝えることができるよう、どうか助けてください。

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神様を見ることができないとき

 あなたの道は 海の中。その通り道は大水の中。あなたの足跡を見た者はいませんでした。

あなたは モーセとアロンの手によって、ご自分の民を羊の群れのように導かれました。(詩篇77:19ー20)

この詩篇では、アサフの苦しみの中で、神様が沈黙されたので、アサフは悲しんでいました。 そういうわけで、19-20節は印象に残るものです。

紅海で神様はご自分の民のために救いの道を整えられました。でも、彼らは神様を見ることができませんでした。彼らは神様の足跡さえも見ることができませんでした。(出エジプト記14章)

それでも、神様は彼らを導いてくださいました。神様は彼らを見捨てられませんでした。

神様が私たちを見捨てられたと思うときがあるかもしれません。私たちの苦しみの中で神様が沈黙される時もあります。

でも、神様を見ることができなくても、神様の足跡を見ることができなくても、神様は今も私たちを導いておられます。また、神様は私たちのために道を整えておられます。

だから、神様を待ち望み、歌いましょう。

神よ、あなたの道は聖です。私たちの神のように大いなる神がいるでしょうか。あなたは奇しいみわざを行われる神。(13ー14)

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裁きの杯を飲まれた方

まことに神こそさばき主。 ある者を低くし、ある者を高く上げられる。

主の御手には杯があり、混ぜ合わされた泡立つぶどう酒が満ちている。主がこれを注ぎ出されると、実にすべて地の悪者どもは、それを飲み、かすまで飲み干す。(詩篇75:7ー8)

その言葉を読むと、私は黙示録14章を連想します。その箇所にも、私たちは同じテーマを見ることができます。つまり、神様が国々を裁くこと。

その箇所にも、神様の御怒りに満ちた杯というイメージが描かれています。そして、神様に背く者たちは、その杯から混ぜ物なしに注がれた、神様の憤りのぶどう酒を飲まなくてはなりません。(黙示録14:9–11)

その日は必ず来ます。

しかし、他の日にも、神様の御怒りは杯から注がれていました。二千年前、十字架の上で、その御怒りが注がれたのです。

イエス様は、その杯を飲みたくはありませんでしたが、私たちのために飲んでくださいました。十字架の上で、イエス様は混ぜ物なしに注がれた、神様の憤りのぶどう酒を飲まれたのです。イエス様のおかげで、私たちはその杯を飲む必要がなくなりました。

だから今、私たちは詩人と一緒に歌うことができます。

私たちはあなたに感謝します。 神よ、私たちは感謝します。 あなたの御名は近くにありあなたの奇しいみわざが 語り告げられています。(詩篇75:1)

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神の視点を取り戻す

私たちの考え方が歪んでしまうのは、簡単なことです。そのような時、私たちは真理を見失ってしまいます。

詩篇73篇では、アサフは三回「まことに」と言います。

アサフはその言葉を二回は正しく使います。

「まことに 神はいつくしみ深い。 イスラエルに 心の清らかな人たちに。」(詩篇73:1)

また、

「まことにあなた(悪者)]を滑りやすい所に置き 彼らを滅びに突き落とされます。」(18)

でも、その言葉の間、アサフはもう一度「まことに」と言います。新改訳では、その「まことに」は訳されていませんが、アサフは実にこう言いました。

「まことに、空しく私は自分の心を清め、手を洗って、自分を汚れなしとした。」(13)

それは、1節の言葉と正反対ですね。

しかし、アサフが悪者の繁栄を見るとき、彼の考え方は曲がってしまいました。そのため、彼の心は苦みに満ちて、彼は愚か者のように考え始めました。(21〜22)

私たちも、その罠に陥ってしまうことがどれほどあるでしょうか。この世界にある悪を見たり、自分のトラブルに目を向けたりすると、私たちの心の中で真理が曲がってしまいます。

その結果は?

私たちの心は苦みに満ちてしまいます。私たちは愚か者のように考え始めます。

では、私たちはどうすれば、正しい物の見方を取り戻すことができるでしょうか。

17節に、その答えがあります。

神の聖所に入りましょう。神様の御前に行って、神様を仰ぎましょう。神様の御声に耳を傾けましょう。神様を礼拝しましょう。

そうすると、私たちの考え方は、もう一度正しくなります。

日曜日まで待つ必要はありません。なぜなら、私たち自身が神の聖所だからです。神様は私たちのうちに住んでおられます。

だから、私たちがどこにいても、自分の心を静めましょう。神様の御前に行きましょう。

スマホを消しましょう。テレビも消しましょう。開いた聖書と開かれた心を持って、神様の御前に跪きましょう。

提案ですが、まず、21〜28節を読んで、思い巡らしましょう。その言葉を祈りましょう。そして、神様に私たちの考え方を変えていただきましょう。

まことに、神様は慈しみ深い方です。まことに、神様は良い方です。

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私たちの望みを託す王 

たぶん、私たち皆は良いリーダーたちを望みます。

正義をもたらすリーダーたちを望みます。

弱い人を助けるリーダーたちを望みます。

正しい者たちが栄える社会をもたらすリーダーたちを望みます。

詩篇72篇で、ソロモンは、自分がそのようなリーダーになるように祈りました。

ある点では、彼は良いリーダーでしたが、他の点では悪いリーダーでした。(列王記第一11:4〜8、12:4)

最終的に、ソロモンの祈りは、自分や他の王やリーダーによっては成就しませんでした。

イエス様だけによって、その祈りは成就します。ある日、イエス様はこの世に戻り、ご自身の国を確立されます。

その時、イエス様は「海から海に至るまで、川から地の果てに至るまで統べ治めます。」(詩篇72:8)

人々はイエス様によって祝福され、すべての国々はイエス様をほめたたえます。そして、神様の栄光が全地に満ちあふれます。(詩篇72:17、19)

だからニュースを読んだり聞いたりして、政治家たちの行為によってフラストレーションを感じるとき、彼らのために祈りましょう。

でも、覚えておきましょう。私たちは自分の望みを彼らに託しません。

むしろ、私たちは奇しいみわざを行われる方に望みを託します。(18節)

イエス様は「私はすぐに来る」と約束されました。(黙示録22:20)

だから、毎日、希望をもってイエス様を仰ぎ、祈りましょう。「アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20b)

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神様が苦しみを許されるとき

あなたは私を多くの苦難とわざわいとにあわせられました。。。(詩篇71:20)

それは酷いと思いませんか。

神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときがあるのでしょうか。

はい、あります。

誤解しないでください。神様が積極的に私たちをバットで打つわけではありません。

多くの場合、私たちのトラブルは自分のせいです。他の時、周りの人々のせいで、私たちは苦しみます。また、この壊れた世界のせいで、私たちは時に試練に直面します。

もちろん、神様はそのトラブルを阻止することができます。神様の恵みによって、時には神様がそうしてくださいます。

たぶん、私たちが気づかずに、神様は私たちをたくさんのトラブルから守ってくださったのでしょう。

でも、神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときもあります。

どうしてでしょうか。神様は私たちを憎んでいるのでしょうか。神様が酷い方なのでしょうか。

違います。

むしろ、ダビデはこう歌います。

私を再び生き返らせ、地の深みから再び引き上げてくださいます。(21b)

苦しむとき、私たちは神様の腕に抱かれて、神様に頼ることを学びます。(6)

また、私たちは神様を待ち望むことを学びます。(14)

そして、神様が私たちを引き上げてくださるとき、私たちは、神様がやっぱり良い方であることを学びます。(16〜17)

私たちは神様を畏れ、ダビデと一緒に叫びます。

神よ、あなたの義は天にまで届きます。

あなたは大いなることをなさいました。

神よ、だれがあなたのようでしょう。(19)

でも、試練が来るとき、大切なことを覚えておきましょう。それは、イエス様も苦しみを知っておられるということです。

へブル人への手紙の著者はこう書きました。

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。。。

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。

それで民の罪の宥めがなされたのです。(へブル書2:10,17)

神様が私たちに苦難とわざわいとに合わせられるときがあります。

でも、その前に、天の父は御子を苦難とわざわいとに合わせられました。

そういうわけで、へブル人への手紙の著者はこう言います。

イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(へブル書2:18)

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毎日毎日

日々、私たちの重荷を担われる方。(詩篇68:19)

どれだけ私たちはそれを考えるでしょうか。

どれだけ神様が私たちを支えてくださっているのに、私たちは全然気づかないのでしょうか。

むしろ、苦しむとき、私たちは神様に見捨てられたと感じてしまいます。

でも、神様は決して私たちを見捨てることはありません。

毎日毎日、神様は私たちの重荷を担ってくださいます。

さらに、十字架でイエス様は、私たちの最も重い重荷を担ってくださいました。

だから、一番暗いとき、この世の重さに押し潰されそうになるとき、私たちはダビデと一緒に叫びましょう。

ほむべきかな主。 日々、私たちの重荷を担われる方。 この神こそ、私たちの救い。(19)

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新しいシーズンに臨むにつれて

私たちが新しいシーズンに臨むにつれて、神様の祝福を求めて祈ることは自然なことだと思います。

ダビデもそうしました。この詩篇では、ダビデは民数記6:24〜27にある祝福の祈りを歌い、神様の祝福を求めて祈りました。

私も新しいシーズンに臨んでいます。来月、7年ぶりに私は中学校で教え始めます。だから、私も神様の祝福を求めて祈っています。

でも、覚えておいてください。神様の祝福を祈り求めるとき、自己中心の態度を取ってはいけません。むしろ、私たちが神様の祝福を願う理由は—

あなたの道が地の上で 御救いがすべての国々の間で知られるために。(詩篇67:2)

つまり、私たちが望むのは、周りの人々が、神様の手が私たちの上にあることを見て、神様を知りたくなるということです。

私たちの祈りは、彼らが神様を畏れ、賛美することです。また、私たちは、彼らが神様の救いと祝福を知ることを願っています。

だから、新しいシーズンに臨むにつれて、ただ神様の祝福を求めて祈るだけではなく、むしろ、あなたを通して、あなたの周りの人々が神様の道と救いを知るように祈りましょう。